曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その5)
明くれば、七年丁未、春より、米穀の價(あたい)、登躍(とうやく)して、はじめは、錢百文に白米六合を換ふと聞えしが、五合に至り、四合に至り、五、六月に及びては三合になるものから、それすら買はんとほりするもの、容易くは得がたかりき。
[やぶちゃん注:「天明六年丁未」前回の終りで注したが、天明七年元旦は、天明六年に閏十月があったため、グレゴリオ暦では一七八七年二月十八日であった。]
米穀、かくのごとくなれば、麥・大豆・小豆・粟・黍・稗の類まで、これに稱(かな)うて[やぶちゃん注:釣り合うようにして。]、其價、甚(はなはだ)、貴し[やぶちゃん注:「甚」は「馬琴雑記」で補訂した。]。
ことのもとを原(タヅヌ)るに、三年癸卯の秋、淺間山、燒けて、關東に焦土を降らせしとき、上野・下野・信濃・美濱・武藏【武藏は北の兩三郡。】・下總【上におなじ。】の國々に、熱湯・砂石を推し流して、田畑、これが爲に荒土(かうど)となりし處、少からず。この年、奧の仙臺・南部・津輕・出羽の果まで、五穀、登(ミノ)らず。餓莩(がへう)、相食(あひくら)ひし事、後に聞くすら、駭嘆(がいたん)したり。この他も、
「五穀不熟にして、稻毛(いなげ)、みつがひとつ。」
と、いへり。
[やぶちゃん注:「三年癸卯」(きばう(きぼう)/みずのとう)「の秋、淺間山、燒けて、關東に焦土を降らせし」浅間山の「天明の大噴火」である。天明三年七月八日(一七八三年八月五日)に発生した。詳しくは「譚海 卷之四 同年信州淺間山火出て燒る事」の私の注を参照されたい。
「武藏【武藏は北の兩三郡。】」北多摩郡・南多摩郡・西多摩郡の、所謂「三多摩郡」。
「下總【上におなじ。】」葛飾郡・結城郡・岡田郡か。
「稻毛」地名にもある通り、「毛」は「禾」(か)で「食料」を意味し、「稲」を冠して主食作物として強調する意とされる。しかし、「馬琴雑記」では『損毛(そんまう)』で、これだと、「農作物が被害を受けること」を指し、個人的には「五穀」と言っていることからも後者が正しいかと思う。]
四年甲辰の秋のみいりぞ、去歲(コゾ)に、いさゝか、ましたれども、なほ豐作といふに、足らず。この歲七月【六月十四日、十五日[やぶちゃん注:底本は「十四日」のみ。「馬琴雑記」で補った。]。】なゐ(地震[やぶちゃん注:漢字ルビ。])ふること、兩度【「消夏自適」には、この大地震、天明二寅年七月十四日丑の刻、翌十五日兩度とあり。予がおぼえ、たがへたるにやあらむ。】[やぶちゃん注:『頭書』とある。]、にして、朱門高厦も、柱、傾(かたむ)き、瓦[やぶちゃん注:底本は「甍」。「馬琴雑記」を採った。]、落ちざる處、少からず。只、人々の恙なきを祝するのみ。幸ひにして元祿癸未の凶變に似ざりしを、自他おしなべて、よろこびにき。
[やぶちゃん注:「消夏自適」宇多龍斎なる人物の記した随筆らしい。詳細データ不詳。なお、この地震の発生の日時は、馬琴の負け。天明期の大地震は「天明小田原地震」が知られ、ウィキの「小田原地震」の「天明小田原地震」によれば、相模国西部を震源とし、推定規模はマグニチュード7.0或いは7.3程度。天明二年七月十五日(一七八二年八月二十三日)発生したが、月初めから前触れの小さな揺れがあったというから、十四日もあったと考えてよいだろう。『被害は大きく、小田原城の櫓、石垣に被害が出』、『民家は約一千戸が倒壊し、江戸でも死者』が出ており、『箱根山、大山、富士山で』も『山崩れが発生し』、また、『熱海で津波が有ったとの記録がある』とある。但し、研究者によっては、『震源は足柄平野にあり』、歴史的な一連の『小田原地震には該当しないとの見解もある』とし、『一方』では、『震源域は海底下まで伸びていたと』する研究者もいる。
「元祿癸未の凶變」元禄十六年十一月二十三日(一七〇三年十二月三十一日)深夜午前二時頃、関東地方を襲った巨大地震「元禄地震」。当該ウィキによれば、『震源は相模トラフ沿いの』地下と『推定され、房総半島南端の千葉県の野島崎』及び海中地下『付近にあたる。マグニチュード』『は7.9』から『8.5と推定されている』。被害発生は関東諸国(武蔵・相模・下総・上総・安房)に及んだ。『江戸城の大手門付近の堀の水が溢れるほどであったと記録され』、離れた『名古屋において』も『長い地震動があり、余震があったことが記されている。『また、公卿近衛基熙』(もとひろ)の日記「基煕公記」には、『「折々ひかり物、白気夜半に相見へ申候」と記され、夜中に発光現象があったことが記されている』。『更に、甲府徳川家に仕えていた新井白石は』、「折りたく柴の記」の中で、『「我初湯島に住みし比、元禄十六癸未の年十一月廿二日の夜半過る程に地おびたゞしく震ひ』」『と地震の体験談を記している』(なお、『本地震の約』二『時間後、同日午前』四時頃には、『豊後国由布院付近を震央とするM6.5程度の地震が発生した(元禄豊後地震)。震源は浅く、最大震度』六『程度。府内領で潰家、落石直撃により死者』一名であった)。『江戸では比較的被害が軽微で、江戸城諸門や番所、各藩の藩邸や長屋、町屋などでは』、『建物倒壊による被害が出た。平塚と品川で液状化現象が起こり、朝起きたら』、『一面』、『泥水が溜っていたなどの記録がある。相模灘沿いや房総半島南部で被害が大きく、相模国(神奈川県)の小田原城下では地震後に大火が発生し、小田原城の天守も焼失する壊滅的被害を及ぼし、小田原領内の倒壊家屋約』八千戸・死者約二千三百名に達し、『東海道の諸宿場でも家屋が倒壊』、『川崎宿から小田原宿までの被害が顕著であった。元禄地震では、地震動は箱根を境に東国で甚だしく西側は緩くなり、宝永地震では逆に箱根を境に西側で甚だしく関東は緩かったという』。また、『上総国をはじめ、関東全体で』十二『か所から出火、被災者』は約三万七千人と『推定される』。また、悪いことに、この地震の七日後の十一月二十九日の酉の下刻(午後六時から七時頃)、『小石川の水戸宰相御殿屋敷内長屋より出火、初めは西南の風により本郷の方が焼け、西北の風に変わり本所まで焼失した』。『この火災は地震後の悪環境下における二次災害とみられないこともないとされる』とある。『この地震で』は三浦半島突端が一・七メートル、房総半島突端が三・四メートルも『隆起した。また、震源地から離れた甲斐国東部の郡内地方や甲府城下町、信濃国松代でも被害が記録されている』。『各藩の幕府への被害報告の合計では死者約』六千七百名で、潰家・流家は約二万八千軒となったという。別な記録では、震災後の十一月二十九日の『火災による被災者も併せて、地震火事による死者は』二十一万千七百十三名と『公儀之御帳に記されたとあり』、『他に地震火事による犠牲者数として』は、二十二万六千人・二十六万三千七百人という風聞があるとする。]
予が東西をおぼえしより、震(なへ)の甚しかりしは、この甲辰の七月兩度と、文化壬申十一月四日とのみ、しかれども、甲辰は、壬申よりも、猶、甚しかりしなり。
[やぶちゃん注:「文化壬申十一月四日」文化九年。グレゴリオ暦一八一二年十二月七日。この日の地震は、それほど有名でないが、「神奈川地震」と呼ばれるもので、「東京大学地震研究所 研究ハイライト」の「アウトリーチ推進室」発行の「第 860 回地震研究所談話会(2008 年 4 月 25 日開催)」の郡司嘉宣の発表レジュメ「文化 9 年(1812)11 月 4 日神奈川地震について」(PDF)によれば(文中の発生月にミスがあるので注意)、
《引用開始》
■震度 6 強と考えられる場所の記録
[やぶちゃん注:前略。]東海道の宿場があった神奈川宿、保土ヶ谷宿、戸塚宿についての史料を見ると、どうも震度 6 強と考えられます。神奈川宿では、大名が泊まる本陣をはじめ家の過半数が倒れて、かなり死者があったという記録が出てきます。神奈川宿の中にある東光寺という寺の記録には、この地震で全壊したとあります。
保土ヶ谷宿では、本陣が 1 軒、脇本陣が 3 軒、一般の旅宿 92 軒が倒れたという記録があります。一方で、地名辞書などを調べると、天保年間の保土ヶ谷宿には、本陣が 1 つ、脇本陣が 3 つ、旅宿が 69 あった、となっています。その数より多く倒れている。時代による差なのか、数え方の差なのかはよく分かりませんが、保土ヶ谷宿にあったほとんどすべての宿が倒れたことになります。現在の尺度でいえば震度 7 になるのかもしれませんが、死者が記録されていないということで、震度 6 強とみなしています。
戸塚宿では、元町橋の20軒くらいが倒壊したという記録があります。戸塚宿の中にある宝蔵院からは、この地震で寺が全潰したという記録から出てきました。そのほか、川崎宿では2軒が倒壊、多摩川の近くで45軒倒壊しています。これも、震度6弱くらいです。
農村部の最戸[やぶちゃん注:「さいど」。]村、現在の横浜市港南区最戸では、22 軒の家が倒壊したという記録が出てきます。天明 8年(1788)、地震が起きた 30 年くらい前の家の数は 21 軒であることが分かっていますから、すべて倒壊してしまった。ここでは震度 6 強から 7 に近いゆれがあったことが分かります。
■震度 6 弱と考えられる場所の記録
その時代に江戸で起きた出来事を記した『北窓雑話』によれば、「世田谷、稲毛は江戸よりはなはだ強くして、大地ところどころ破裂し、神社仏閣が転倒し」とあります。稲毛は、現在の神奈川県川崎市高津区坂戸[やぶちゃん注:「さかど」。]です。『新編 武蔵国風土記稿』では、小机の妙楽院について「本堂は地震のために破壊して、いまだ再建せず」とあります。現在の神奈川県横浜市港北区小机に、妙楽院はありません。この地震で消滅してしまったのです。現存する寺に残る史料だけを調べていたのでは、出てこない記録です。
また、狸ばやしで有名な千葉県木更津市の誠証寺の記録には、「本堂回廊、一時に破砕。仏具、本堂みじんに破損」とあります。
これらの記録から、現在の川崎市高津区坂戸、横浜市港北区小机、木更津市では、震度 6 弱だったと考えられます。
■震度 5 弱と考えられる場所の記録
現在の埼玉県さいたま市岩槻にあった屋敷について、「玉垣 3 か所崩れ、石灯籠揺り崩れ、石塔 14 か所転倒」という記録があります。
また、江戸川区東葛西にある正円寺の記録には、「正円寺之 宝塔・九輪落、近寺の石塔多く転倒す」とあります。宝塔とは、丸い石をいくつか重ねた灯篭です[やぶちゃん注:これは少し違う。円筒形或いは円錐形の塔身(下方に四角な台座と飾りを有するものもある)に方形の屋根を架けて、頂上に相輪を立てた形式の一重の塔である。]。北品川の東海寺では、「大地震山中所々破損」と記されています。山中とは、寺の敷地のことです。建物は倒れなかったけれども、敷地内のあちこちが破損したということです。
神奈川県厚木市岡田の長徳寺の記録には、「本堂大破損。石口六、七寸南へ揺り出す。壁残らず落ちる」とあります。
神奈川県横浜市金沢八景の金竜院では、「飛石飛石、文化中の地震に転倒す」とあります。
それらの場所では、震度 5 強と考えられます。[やぶちゃん注:中略。ここに以上の記録に基づく「神奈川県地震の震度分布」の地図が載る。リンク先参照。因みに私の家も震度五に入っている。]
■震度 5 弱と考えられる場所の記録
震度 5 弱の範囲は広く、多くの記録がありますが、一つだけ紹介します。[やぶちゃん注:中略。]高橋景保の書翰には、「当地は人家倒壊はまれにて、土蔵壁落ち、家作建て付け損。当役所などは無事。土蔵鉢巻き落」とあります。この記録から震度 5 弱だと考えられますが、「当地」「当役所」とは、いったいどこなのでしょうか。
高橋景保は江戸幕府の天文方の長官です。当地は、江戸幕府直轄であった浅草天文台を指します。現在の台東区、蔵前通りと江戸通りの交点にありました。浅草天文台の位置は、北緯 35 度 41 分 54 秒、東経 139 度 47 分 32秒だと分かっていますから、緯度経度までピンポイントで震度を推定することもできるのです。
津軽藩や加賀藩、高鍋藩の藩邸などに関する古文書も調べました。[やぶちゃん注:中略。]このように古文書を集めて約 20 か所について一つ一つ解釈していった結果、江戸市中の震度分布は図 2[やぶちゃん注:「神奈川県地震の江戸市中の震度分布」の図。リンク先参照。] のように分かってきました。
■地震規模の推定
図 3 [やぶちゃん注:「神奈川地震の広域震度分布」の図。リンク先参照。]は、神奈川地震の広域震度分布です。山梨県甲府から千葉県勝浦まで、半径 65kmくらいの範囲で震度 4 でした。震度 4 の範囲から見積もると、マグニチュード(M)6.3となります。震度 5 の範囲は半径 35km くらいで、そこから見積もると M6.8 となります。また、震度 6 の範囲は 15km で、そこから M7.0 と見積もることができます。
震源が深く、マグニチュードが大きいと、震度 4 の範囲が大きくなります。しかし、神奈川地震では小さい。一方、震度 5 の範囲が大きくなっています。震度の範囲から推定した地震規模によれば、神奈川地震は震源が浅かったらしいと考えられます。[やぶちゃん注:後略。]
《引用終了》
後略の頭の部分では郡司氏は『古文書の解析から、安政の江戸地震より少し小さいですが、それに匹敵する規模の地震が、神奈川県のど真ん中で起きていることが明らかになりました』と述べておられる。大変、勉強になった。郡司氏に御礼申し上げるものである。因みに、「安政の江戸地震」は、安政二年十月二日(一八五五年十一月十一日)午後十時頃、関東地方南部で発生したマグニチュード七クラスの地震で、死者は町方において十月六日の初回の幕府による公式調査では四千三百九十四人、同月中旬の二回目の調査では四千七百四十一人で、倒壊家屋一万四千三百四十六戸とされている。詳しくはウィキの「安政江戸地震」を見られたい。]
かゝるに六年丙午の火災、水損は、既に上にしるすが如し。
かう、荒凶(こうきやう)のうちつゞきて、四、五年を歷(へ)しことなれば、米價(べいか)のたかき、ことわりながら、商賈(しやうこ)は、なほ、利を射(い)ん爲に、あちこちの米粟(べいぞく)を、いちはやく、買ひとり、藏(おさ)めて、蠹《ムシバ》み、朽つるまで、出ださず。中買・小賣の商人までも、おのもおのも、彼(かれ)に倣(なら)ひて、且、利の上に利を見ざれば、あれども、
「なし。」
とて、賣らざりけり。この故に、貧士・賤民、露命(ろめい)を繫ぐに、由なくして、ことのよしを、奉行所へ訴出でつゝ、あはれ、
「米商人等が、隱しもてる米を出だして、賣らしめ給ヘ。」
と願ひまうせしも、ありしとぞ。
これより先に、
「良賤、なべて、粥を、たうべよ。」
と徇(おほ)させ給へり。
このときの町奉行は、曲淵甲州と、山村信州なりしが、信州は、新役にて、甲州は故﨟(こらふ)なり。
[やぶちゃん注:「曲淵甲州」旗本で町奉行曲淵景漸(まがりぶちかげつぐ 享保一〇(一七二五)年~寛政一二(一八〇〇)年)。武田信玄に仕え、武功を挙げた曲淵吉景の後裔。当該ウィキによれば(かなり長く引くのは、本篇の後述部を裏付けるものだからである)、寛延元(一七四八)年に『小姓組番士となり、小十人頭、目付と昇進』、明和二(一七六五)年、四十一歳で『大坂西町奉行に抜擢され、甲斐守に叙任され』、さらに明和六(一七六九)年には、『江戸北町奉行に就任し、約』十八『年間に渡って奉行職を務めて江戸の統治に尽力した』。『在職中に起こった田沼意知刃傷事件を裁定し、犯人である佐野政言を取り押さえなかった若年寄や目付らに出仕停止などの処分を下した。政言の介錯を務めたのは景漸配下の同心であったという。経済にも精通しており、大坂から江戸への米穀回送などに尽力した』。『当時の江戸市中において曲淵景漸は、根岸鎮衛と伯仲する名奉行として庶民の人気が高』く、明和八(一七七一)年三月四日、『小塚原の刑場において罪人の腑分け(解剖)を行った際、その前日に「明日、小塚原で刑死人の腑分けをするから見分したければ来い」という通知を江戸の医師達に伝令した。この通達により』、『「解体新書」などで名高い杉田玄白と前野良沢・中川淳庵らは刑死人の内臓を実見することができ、オランダ語医学書』「ターヘル・アナトミア」(初版はドイツ人医師ヨーハン・アーダム・クルムス(Johann Adam Kulmus 一六八九年~一七四五年)の著書‘Anatomische Tabellen ’のオランダ語訳版‘Ontleedkundige tafelen ’)に載る『解剖図と比較することで日本の医学の遅れを痛感することにな』った。しかし、この天明六(一七八六)年、『天明の大飢饉と凶作によって米価が高騰して深刻な米不足が起こ』り、翌天明七年に『かけて』、『景漸ら町奉行所は様々な対策を打ち出すも、商人や幕府役人の癒着構造、そもそもの品不足などもあり、これを好転させる成果は出せなかった。俗に言われる説では、景漸が食料不足の対処に当たっていた折、米穀支給を望んで景漸を頼って押しかけてきた町人達と問答している内に激昂してしまい、その請願を一蹴した上で「昔は米が払底していた時は犬を食った。犬』一『匹なら』七『貫文程度で買える。米がないなら』、『犬を食え」「町人は米を喰わずに麦を喰え」などと放言し、その舌禍が町人の怒りの導火線に火を付け、群衆により』、『複数の米問屋などが襲撃され、江戸市中が一時』、『無秩序状態になるほどの大規模な』「打ちこわし」に『発展していたとされる。近年の研究に拠れば、実際の発言内容は不明であり、食糧事情に不安と不満を持つ大衆の間に、奉行はこう言った、という形で真偽不詳の風説が流布したものと考えられている』とある。『拡大するこの事態に』、『江戸城中では』、『寺社奉行と勘定奉行と町奉行の、いわゆる三奉行が対応を協議したが』「なぜ、町奉行所が現場に出向かないのか」と『批判されると、北町奉行の曲淵景漸は「この程度のことでは出向かない」と回答した。この曲淵の発言に対し、勘定奉行の久世広民』(くぜひろたみ)『は「いつもは少し火が出ただけでも出て行くのに、今回のような非常事態に町奉行が現場に出向かないというのはどういうことだ」と、厳しく批判した。結局、景漸ら町奉行所勢は』、「打ちこわし」の『鎮静化を図るために現場に出向くことになったが、町奉行や捕縛をする役人たちは』、「打ちこわし」勢から、『「普段は奉行のことを敬いもする、しかしこのような事態となっては何を恐れ憚ることがあろうか、近寄ってみろ、打ち殺してやる」「今、江戸中の人々は皆同じように苦しんでいる、しかし公儀からは全く援助の手が差し伸べらず』、『見殺しにされている、まことにむごく不仁な御政道でございますなあ」などの罵声を浴び、町奉行側も』彼らを『片っ端から捕縛するようなことはせず、基本的に』「打ちこわし」の際に、『盗みを行う者を捕まえるのみに留まった。このように鎮圧に消極的ながらも尽力したものの、町奉行所の手勢の数のみでは対応できず、逆に同心らが襲撃されるような状態』が発生した。『そもそも町奉行所の権限では』、『前述のような、癒着構造や物価高騰・品不足などを抜本から解決できるわけではなかった。この状況を重く見た幕府は』、五月二十三日(七月八日)、鬼平『長谷川平蔵ら先手組頭』十『名に』、『市中取り締まりを命じ、騒動を起こしている者を捕縛して町奉行に引き渡し、状況によっては切り捨てても構わないと』通達した。『しかし実際に』「打ちこわし」勢を捕縛した先手組はたった二『組に過ぎず、残りの』八『組は』、『江戸町中を巡回しているだけであった』。五月二十四日(七月九日)に『町奉行所から、騒動を起こした場所にいる者は』、『見物人』も含めて総て『捕らえること、米の小売の督励と』、『米の隠匿を禁じる町触が出た。同時に各町内の木戸が』、『常時』、『閉められ、竹槍、鳶口などで武装した番人が警備を行い、木戸の無い町では』、『急遽』、『竹矢来を設置するなどして』「打ちこわし」『勢の侵入を防ぐ手立てが講じられるようになった。また』、五月二十二日(七月七日)には、『幕府は困窮者に対する「お救い」の実施を決定し、勝手係老中の水野忠友は町奉行に対し』、『支援を要する人数の確認を指示した。町奉行は支援対象者を』三十六万二千人と『見積もり、一人につき』、『米一升の支援を要するとした。町奉行からの報告を受けた水野忠友は』翌二十三日、『勘定奉行に対して二万両を限度として支援対象者一人当たり銀三匁二分を支給するよう指示し』、二日後の五月二十五日(七月十日)には、『実際にお救い金として町方に引き渡された。また』、前日の五月二十四日からは、『米の最高騰時の約半額で』、『米の割り当て販売を開始し、困窮した庶民たちは』、『給付されたお救い金で米を購入することができるようになった』。『これらの諸政策により』、五月二十五日の時点で、「江戸打ちこわし」は『ほぼ沈静化した』が、同年、「打ちこわし」の発生及び『対応の遅さの責を被る形で奉行を罷免され』、六月十日、『石河政武が後任の北町奉行となり、景漸は西ノ丸留守居に降格させられた。景漸は民衆に同情していたためか、更なる暴動を防ぐためか、「市民と米屋とのただの喧嘩」などの名目で』、「打ちこわし」に『与した町人達への処罰を極力』、『寛容なものに留めている。また』、南町・北町『両行所の与力の総責任者である年番与力に対し』ても、ともに「江戸追放」・「お家断絶」の『処分が下された。この』「打ちこわし」による『幕府役人側の処分者は、景漸を含め』、『この三名のみである』。また、『正式な処分ではないが、権勢を誇った老中田沼意次の失脚と、次世代政権で政治の清廉を追求した老中松平定信の台頭は』、この「打ちこわし」が契機であった『ともされる』とある
「山村信州」旗本で勘定奉行・江戸南町奉行などを歴任した山村良旺(たかあきら 享保一四(一七二九)年~寛政九(一七九七)年)。寛延二(一七四九)年に小姓組、宝暦三(一七五三)年に西の丸小納戸、宝暦八年には本丸小納戸として仕えた。明和五(一七六八)年に目付となり、安永二(一七七三)年に前任者の急逝に伴い、後任として京都西町奉行となり、同時に従五位・信濃守に叙任された。在任中は禁裏の不正を摘発する(「安永の御所騒動」)などで活躍した。安永七(一七七八)年に勘定奉行、天明四(一七八四)年に江戸南町奉行となり、後の寛政元(一七八九)年には、御三卿清水家の付家老となり、寛政六年に致仕した(以上は当該ウィキに拠った)。]
この夏、五月の頃にや、ありけん、甲州、件(くだん)のねがひ人等(ら)を、よびのぼして、
「汝等が願ひにより、米商人等(ら)を穿鑿したれど、彼等に、『米は、なし。』と、いへり。げに、あき人の事なるに、ある米ならば、賣るべきに、賣らぬは、なきが、まことなるべし。かう、嗛(アキタ)らぬ折(をり)からは、糧(かて)を食ふに、ますこと、なし。われ、一方を誨(おもは)んか。味噌豆(みそまめ)をよく熬(いり)て、升の底もて、推(お)すときは、碎けて、ふたつにならぬは、なし。扨(さて)、其豆に、麥まれ、稗まれ、野菜まれ、多く加へて、炊きて、たうべよ。そは、腹もちのよきものなれば、一食(いつしよく)にても、足らんず。」
と、ねもごろにいはれしを、誰(たれ)とて、承伏するもの、なく、稠人(てうじん)の後邊(あとべ)にをりて、遠く隔りたるものは、なかなかに憚らず、惡口(あくこう)しつるも、少からねど、多人數(たにんず)の事なれば、召[やぶちゃん注:底本は『アビ』でママ注記。「召」の崩し字の誤判読である。「馬琴雑記」で訂した。]捕ふるに得およばで、ひとしく追ひ立てられし、となん。
これぞ、この人氣(じんき)の苛立(いらだつ)はじめなるべし。
このあはひ、舂米屋(つきこめや)等、相謀(あひかはら)ひて、
「舂米を買はん。」
とて、來る人別に[やぶちゃん注:人ごとに。読み不詳。「ひとべつに」「ひとごとに」か。]、百文、或は、二百文と定めて、その外を、賣り與ヘず、それすら、黎明(しののめ)[やぶちゃん注:サイト「曆のページ」でこの天明六、七年の日の出を見るに、東雲(しののめ)は午前四時過ぎである。]より巳の時[やぶちゃん注:午前十時。]まで、或は巳の時より正午《マヒル》までなんど、時刻を定めて賣りしかば、
「買ひ後れじ。」
とて、立ちつどふ老若男女、囂々(ごうごう)しく[やぶちゃん注:「々」は底本にはない。「馬琴雑記」で補った。]罵るもあり、推さるゝもあり、果は、突き倒し、𤔩(つか)みあうて、泣き叫ぶも、少からず。それも、後には、札を出だして、何處の米屋も、賣らずなりぬ。
この故に、麥を買はんと、ほりすれども、麥を得がたく、野菜を求めんと、ほりすれども、その價(あたひ)、廉(れん)ならず。
こゝをもて、せんかたも、つき[やぶちゃん注:「馬琴雑記」では『せんかたなき』で下の「寒民」を形容する。]、寒民は昆布《ヒロメ》・海帶《アラメ》・鹿尾菜《ヒジキ》などを食として、一兩月を凌ぐもあり。
[やぶちゃん注:「昆布《ヒロメ》」「ひろめ」は「こんぶ」の異名。「昆布」は不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科 Laminariaceae に属する多数のコンブ類の総称。私の「大和本草卷之八 草之四 昆布 (コンブ類)」や、「日本山海名産図会 第五巻 昆布」を参照されたい。
「海帶《アラメ》」私の「大和本草卷之八 草之四 海藻類 始動 / 海帶 (アラメ)」を参照。
「鹿尾菜《ヒジキ》」私の「大和本草卷之八 草之四 鹿尾菜(ヒジキ)」を参照。なお、以上の三種の海藻を一ページで見たければ、私の古い仕儀(二〇〇八年公開)だが、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」(サイト版)もある。]
又、「豪家」と唱へらるゝ三井・越後の吳服店(ごいふくだな)・糸店(いとだな)・兩替店(りやうがへだな)、ともに、琉球芋(りうきういも)[やぶちゃん注:サツマイモの異名。]を多く蒸して、半切(はんきり)の桶に入れ、店の四隅、便宜の處にすゑ置きて、十五歲以下の小厮(こもの)[やぶちゃん注:小僧。丁稚。]の走り𢌞りするものに、恣(ほしいまま)にとり啖(くは)せしかば、日每に穀(こく)をはぶきしこと、大かたならず、と聞えたり。
又、兵法をもて、世わたりとせし、某氏(なにがし)あり。こは、
「避穀(ひこく)の方(はふ)をもて、夫婦共に、穀を啖(くは)はざること、十五日にして、恙なかりし。」
と、いへり。そは、何の方を用ひたるか、しらねども、救餓避穀(きうがひこく)の方は、少からず。只、予は、いまだ經驗せざるのみ。こゝに、その二、三をいはゞ、
[やぶちゃん注:底本もここで改行している。]
一方に云(いはく)、『白茅根《(しろ)チガヤ》[やぶちゃん注:「馬琴雑記」はルビで『はくほうこん』とする。]を洗ひ淨(きよ)め、細かにして、或は、石の上に晒(さら)し乾(かはか)し、搗きて、粉として、水をもて、壱匁を服すれば、穀を避けて、暫(しばらく)[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は「暫」の代わりに『數日』とある。]、不餓(うゑず)。』といふ。又、一方に、『赤小豆一升・大豆一升、各(おのおの)その半(なかば)を炊(たき)て[やぶちゃん注:「馬琴雑記」は「炊て」の代わりに『炒(いり)て』とある。]、共に搗きて、粉(こ)となして、一合を、新水もて、服すること、日々に三度、その三升を用ひ盡すときは、十一ケ日を經て不ㇾ餓。』といふ。
[やぶちゃん注:「白茅根」単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica (花期は初夏(五~六月)で、葉が伸びないうちに葉の間から花茎を伸ばして、赤褐色の花穂を出す。穂は細長い円柱形で、葉よりも花穂は高く伸び上がり、花茎の上部に葉は少なく、ほぼまっすぐに立つ。小穂は基部に白い毛がある。花は小さく、銀白色の絹糸のような長毛に包まれて花穂に群がり咲かせ、褐色の雄しべがよく目立つ)の根茎を漢方薬で「白茅根(はくぼうこん)」と呼び、止血・利尿・発汗の効がある。
以下も底本で改行。]
一說に、小豆をくらへば、津液(しんえき)、小便より、去りて、人をして、虛瘦せしむる、とも見えたり。
[やぶちゃん注:「津液」漢方医学で、体内に存在する水分の内、血液以外の総ての体液の総称。しかしこの一条は穀を避けて食事をする方法ではなく、小豆はダメという話である。
以下も底本で改行。]
又、一方に、松樹の「あまはた」[やぶちゃん注:「馬琴雑記」では『あまはだ』。]【日に晒して細末。】壱斤・人參一兩[やぶちゃん注:三十七・五グラム。]・白米五合・右三種を粉となして、よき程に、丸(ぐわん)し、蒸籠(せいろう)もて、むして、軍兵十五人に配分すれば、一劑をもて三日づゝたもつもの、とぞ。こは、「竹中半兵衞が救餓の方なり」といふ。これらは、ちか比(ごろ)、水府の醫官原氏が「砦草(とりでぐさ)」にも見えたり。又、「原氏の家方なり」とて、同書に載せたるは、
[やぶちゃん注:底本で改行。字下げも再現した。]
白蠟(はくろう)一斤[やぶちゃん注:六百グラム。]、南天燭子(なんてんしよくし)・氷砂糖、各、半斤、
右、蕎麥粉(そばこ)の粥(かゆ)もて、桃の實の大さに丸し、日々、一枚を服すれば、不ㇾ餓。戰陣に臨みて、嚼(か)みくだき、水にて服すれば、氣、不ㇾ乏(とぼしからず)。もし、飯を食(くは)んと、ほりせば、鹽湯(しほゆ)をもて、解(げ)すべし。こは、その先人の傳方なり、といへり。この他、「救荒本草」を考ふべし。さのみは、錄し盡さゞるのみ。
[やぶちゃん注:「あまはた」はやはり「あまはだ」で「甘肌」。樹木を包んでいる薄い皮。或いは、その甘皮を砕いたもの。ヒノキなどを使用し、舟や桶の漏水を防ぐのに用いることで知られる。
「水府の醫官原氏」原南陽(宝暦三(千七百五十三)年~文政三(千八百二十)年)。常陸国水戸の生まれで、水戸藩藩医の家に生まれた。名は昌克、南陽は号。京都に出て、山脇東洋に師事し、別に賀川流の産科を修めた。江戸に赴いたが、窮乏を極め、按摩や鍼(はり)で糊口を凌いでいたが、やがて、技量を認められ、水戸侯の侍医となった。
「砦草(とりでぐさ)」は原の書いた、軍陣衛生や飲食・飲水についての諸注意及び救急法などを内容とする日本の軍陣医学書の最初の作品とされるもの。
「救荒本草」明の太祖の第五子周定王朱橚(しゅしゅく 一三六一年~一四二五年)の撰になる本草書。飢饉の際の救荒食物として利用出来る植物を解説している。全二巻、一四〇六年刊で、収載品目は四百余種に及び、その形態を文章と図で示し、簡単な料理法を記しているが、画期的なのは、その総てを実際に園圃に植えて育て、実地に観察して描いている点である。植物図は他の本草書に比べても遙かに正確であり、明代に利用されていた薬草の実態を知る上で重要な文献とされる。一六三九年に出版された徐光啓の「農政全書」の「荒政」の部分は、この「救荒本草」に徐光啓の附語を加筆したものである(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。私はブログ・カテゴリ『「大和本草」の水族の部』で親しんだ優れた書物で、享保元(一七一六)年版の訓点附きが、国立国会図書館デジタルコレクションで全巻視認出来る。なんと言っても、絵が素敵!!!]
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