曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 藪に香の物の世諺
[やぶちゃん注:中井乾斎による「藪に香の物」の考証談。後で馬琴の言うように、「巾幗之贈」(きんくわくのざう(きんかくのざう)の故事が元ともされるものか。「巾幗」は女性が飾りとして髪を覆うもの、或いは、髪飾り(一説には喪中に被る頭巾とも)で、馬琴が補注する通り、三国時代の蜀の諸葛亮が魏を攻めた際、魏の司馬懿は城に立て籠もって戦おうとしなかった。そこで、葛亮はこれを懿に贈って、臆病にして女々しい態度を辱めたという故事から転じて、意気地なしで臆病なことをはずかしめる言葉としての成句が生まれたが、馬琴が引くように、それに怒った懿が「豈知野夫有功者也」(「豈に知らんや、野夫(やぶ)にも、功の者、有るなり」)の「やぶにこうのもの」を転訛したと、馬琴は言っている。但し、サイト「塩風土記」の「萱津神社 香の物祭」によれば、以下の乾斎の指示する場所の直近にある、萱津(かやづ)神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に由来するというのが一般的なようだ。引用すると、『萱津(かやづ)神社は、愛知県あま市に位置する日本で唯一の漬物を祭る神社だ。祭神は鹿屋野比売神(かやぬひめ)である』。『古伝によれば、その昔土地の人々は神前に初なりのウリやナスなどを供えていたという。当時はこのあたりは海浜であったので、海水からつくった塩も供えるようになり、これらの野菜と塩を一緒にカメに入れて供えたところ、程よい塩漬けとなった。人々は雨露に当たっても変わらないその味を不思議に思い、神からの賜りものとして万病を治すお守りとし、遠近を問わず頂きに集まるようになったという。これが、日本の漬物の始まりであるといわれている』。毎年八月二十一日には、『「香の物祭」が行われ、漬け込み神事を行い、漬物の生産と家業繁栄・諸病免除を祈る。各地から漬物業者が集うこの祭は、全国で唯一の漬物の祭礼として、あま市無形民俗文化財に指定されている』。『香の物とは「漬物」のこと。漬物を香の物と呼ぶのは、日本武尊が東征の道すがら』、この『萱津神社にご参拝になった際、村人たちが献上した漬物を喜ばれ「藪に神のもの(やぶにこうのもの)」と仰られた、という故事にちなんでいるという』とある。馬琴の説は不完全な発音の語呂合わせでしかなく、親和性がなく、信じ難い。]
○藪に香の物の世諺
尾州公御領分、尾張名古屋を過ぎ、「琵琶の市」といふ處、每朝、靑物市、立ち、名古屋の町へ出づる橋あり。琵琶橋と云ふ。是より少し行きて、津島海道土手を右へ壱丁半程に、「逢手(アハデ)の森」・「反魂香の森」あり。弐ケ處ともに名所なり。此處を左りへ下りて、角に、藪あり。此藪の中に、妙心山正法寺といふ曹洞宗の禪院あり。熱田明神の幽跡の寺と云ふ。此藪の中にあり。此處に、四石入の甁[やぶちゃん注:「かめ」。]あり。然るに、此甁、地中に埋り、此中に瓜・茄子、二つ、三つづゝ、前の川にて、洗ひ、彼甁に入れて、通る。瓜・茄子、荷ふもの、直に通る時は、荷、重くして、上らず。依りて彼商人に、所のもの、此明神の望み給ふ由を告げて、前の川にて洗はせ、甁へ、なげ入れさせて通すに、荷は、かろくなりぬ。鹽を荷ふものも、かくの如し。「年によりて、瓜・茄子、多く、鹽の少き時も有りといヘども、鹽かげん、いつも替ること、なし。誠に奇怪なるべし。」と云ふ。世の諺に、「藪にも香の物」とは、是より云ひ初めたり。扨、此香の物は、每年六月四日、此甁の口を明け、五日の朝、熱田大明神の神膳に具へて、五日の朝、御膳、過ぎて、尾州公へも獻じ、尾州公より、江戸將軍家へ獻上のよし、なり。此香の物の在所は、海道郡蜂須賀村と云ふ。香の物の瓜・茄子の多少によらず、鹽壱斗、有之。瓜・茄子、千計有りても、瓜・茄子、百、弐百位に、鹽、五合、三合にても、其風味・鹽かげんは少しも替らず。是亦、奇事といふべし。
文政八乙酉九月朔 中井乾齋誌
[やぶちゃん注:「琵琶の市」次注の☞部分を参照。
「琵琶橋」現在の庄内川に架かる枇杷島橋(びわじまばし)の旧枇杷島橋。当該ウィキによれば、元和八(一六二二)年、『尾張藩主徳川義直によって初めて架けられ、川の中島』(昭和三三(一九五八)年に浚渫撤去された)『を間に東の大橋と西の小橋があった。美濃路として人々が行き来したことで』(☞)『橋の両側に市場が開かれた。中島には萩が、堤防には桜が植えられ、特に檜材の』二『橋は、「結構の善美、人の目を驚かせり(尾張名所図会)」と書かれた』とある。「今昔マップ」のこちらの明治後期との対比地図で、往時の枇杷島橋の様子が判る。これを見るに、現在の枇杷島橋よりも、名鉄の鉄道架橋の方に近く、架かり方もそれに酷似することが判る。
「津島海道」現在の枇杷島橋を右岸に渡って、「美濃路」を西に進んで、新川を渡ると、その南に概ね並行して「津島街道」が確認出来る。
「土手を右へ壱丁半程」「右」というのは不審。現在の五条川とは流路が異なるか。
「逢手(アハデ)の森」この名は現在地名としては不詳だが、冒頭注に出した、萱津(かやづ)神社の直近と思われる。
「反魂香の森」森ではなく、樹木は生えていない河原であるが、愛知県あま市上萱津反魂香の地名が現認出来る。
「妙心山正法寺といふ曹洞宗の禪院」ここ。
「幽跡」古い神聖な謂れを持つ秘跡の意か。
「此藪の中にあり」正法寺のサイド・パネルの写真を見ても境内にそれらしいものは見えないが、試みに、ストリートビューを見てみると、明らかな正法寺の五条川沿いの部分に、有意な竹藪を見ることが出来る。恐らくはここにあったものと私は考える。
「海道郡蜂須賀村」「海東郡」が正しい。現在のあま市蜂須賀(はちすか)。正法寺からは東へ六キロメートル以上離れる。
以下は底本では全体が一字下げ。]
解云、この藪の香の物の事は、享和中、予、目擊して「簑笠雨談」に誌したり。この說と、頗、異なり。宜しく參考すべし。
[やぶちゃん注:「享和中」以下の著作の冒頭で、この時の京阪に向かった旅の年を「享和壬戌」としているので、享和二(一八〇二)年であり、同書当該話の頭では、「六月中旬、尾陽にあそびて」と始まるので、馬琴が実見した時期が、そこまで特定出来る。
「簑笠雨談」(さりふ(さりつ)うだん)は享和四年に刊行された、上記の旅での実見対象を随筆にしたもの。板行直後に「著作堂一夕話」(ちょさくどういっせきわ)と改題され、現在はそちらの方が流布している。当該部は巻上の「○西念寺の古鐘(こしよう)幷藪に香(かう)の物」の後半である。幸いにして、『日本古典籍データセット』(国文研等所蔵)(提供:人文学オープンデータ共同利用センター)に享和四年版(既に「著作堂一夕話」となっている)が画像としてあり、画像使用も許諾されているので、当該箇所(後半本文はここの左丁五行目から)を視認して電子化し、二色刷りの挿絵も添えておく(見開き画像をダウン・ロード出来ないので、画面のプリント・スキャンをしてトリミングした)。読みは一部に留めたが、読みの一部は送りがなに出して読みやすくした。
[やぶちゃん注:キャプションは、雲形の中に、
弁慶が
七道具(なゝつたうぐ)
の
なた
まめは
日本一(につほんいち)
の
かうの
もの
かな
はせを
とあり、右丁の藪の手前の漬物槽の前に、
「やぶにこうの物」
とあり、左丁の手前の拝殿の下方、樹木の繁るところに、
「あはでの森」
とし、奥の神殿の上に、
「神明の社」
とある。しかし、前のそれは狂歌であり、およそ芭蕉の作ではない。聴いたことがない恐ろしく下らないものである。「なたまめ」は薙刀のことか。薙刀の刀身部やそれに被せる鞘はナタマメ(マメ目マメ科マメ亜科ナタマメ属ナタマメ Canavalia gladiata に似ている。]
この日、「阿波手(あはで)の森」・「藪に香の物」、見にゆけり【甚目寺[やぶちゃん注:ここ。正法寺との位置関係が判るように右端に「正法寺東」の地名が出るようにトリミングしてある。]より八町計東也。】この辺、川あり、橋あり、木だちのさま、大和路に肖(に)たるところ、多し。堤(つゝみ)のもとに華表(とりゐ)ありて、このうち、すなはち、「阿波手の森」なり。華表を潛りて半町ばかりゆけば、前靣(むかひ)に叢祠(ほこら)あり【諾尊[やぶちゃん注:伊耶那岐尊。]を祭るよし。】」祠(やしろ)のまへに、あやしき神樂堂[やぶちゃん注:「かぐらだう」。]あり。この右のかたに、大竹、數(す)十竿(かん)茂れり。藪のうちに、五斗ばかりも入るべき桶一ツあり、桶のまへにも小祠(ほこら)あり。桶に蓋(ふた)して、大なる石をのせたり。葢も、破れて、うちには、何もなきがごとく、みゆ。傍らに札をたてゝ、「香の物頂戴の人は寺へまいらるべし」と記したり。寺を正法寺と號す【曹洞宗。】。この寺、萱(かや)津村のうちにあり。古老、傳(つた)ていふ[やぶちゃん注:ママ。「つたへて、言ふ」。]。「いにしへは近村の農民、畊作(こうさく)のついでに、瓜・大根の類ひを、この桶の中に投け入れて、通りぬ。こゝをもて、竹藪中、おのづから、香の物、熟せし。」といふ。又、一說に、「こうのものは『神(かふ)の物』の義にして、熱田の神供(しんきやう)、元、この所より調進す。神饌のうち、野菜あり、すなはち、是なり。」といふ。「三國志」、諸葛亮、衆軍(しゆぐん)を渭南に率きいて、戰ひを挑むに、司馬懿(しばい)出ず。因りて、懿に巾幗(きんあく)[やぶちゃん注:「あく」はママ。]を贈る。婦人の飾り也。懿、怒(いか)つて、表(ひやう)をもて[やぶちゃん注:正面から向かい合って。]、戰ひを决せんと請ふ條下に、懿が云ク、「豈知野夫有二功者一也云云」[やぶちゃん注:底本に従って訓読すると、「豈に知らんや野夫(やふ)にも功者(こうしや)有り云云(しかじか)」となる。]。「やぶにこうのもの」ゝ俗語、これより出たりといへれど、尾張人は、これを否(なみ)して、「この香の物より、はじまる。」といふ。いづれが是(ぜ)なるや。