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2021/10/30

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その8・目次では同じく著作堂発表で「消夏自適天明荒凶記附錄」とする) / 丙午丁未~了 / 「兎園小説」第十一集~了

 

[やぶちゃん注:以下の二段落は、底本では全体が二字下げ。]

 

 右校編數萬言、楮數(ちよすう)二十有五頁、所臨寫印本五頁、亦在其中矣。

 著作堂云、「丙戊春正月下浣、關潢南の通家(つうか/つうけ)宇多氏【名、良直、號、鱗齋。】の隨筆「消夏自適」を閱せしに、その編末に、「天明荒凶」の一編あり。こゝに抄錄して、もて、比較に充つること、左の如し。」

[やぶちゃん注:「楮數」紙の枚数。

「丙戊」この発会の翌年文政九年丙戌(一八二六年)。従って、以下は補筆したもの。

「關潢南」は「せきこうなん」と読み、江戸後期の常陸土浦の藩儒で書家であった関克明(せき こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)の号。彼は「兎園会」の元締である滝澤馬琴とも親しく、息子の関思亮は、既に何度も発表している海棠庵で「兎園会」のメンバーであった。この第十一集分も関家で発会しており、異例の一日発会でない、この十月二十三日は、当主である関克明南陽の誕生日でもあったことは、前回分の最後に注してある。

「通家」昔から親しく交わってきた家。或いは、姻戚関係にある家。

『宇多氏【名、良直、號、鱗齋。】の隨筆「消夏自適」』「寛政重修諸家譜」に名があるので武家で旗本或いは御家人である(後の本文中で嘗つて小普請組に所属していたと述べている)ことは判ったが、調べる気にならない。「消夏自適」も彼の著作にあることは判ったが、詳細は不詳。本篇の「(その5)」で既注済み。以下の地震もそちらを見られたい。]

 龍齋云、

「予が犬馬(けんば)の年つもるうちに、天明の頃ほど、凶年の繁きこと、なし。先、天明二寅年七月十四日の夜、丑の刻にもやあらん、當地の地震、おびたゞし。翌十五日夜戌刻、前夜の地震よりも甚しく、老人子供など、足よわなるは、步まんとしては、倒れたり。わかきものとても、氣力の弱きは目くるめきて、漸(やうや)く[やぶちゃん注:「漸」に踊り字「く」の判読の誤りの可能性もある。なれば「やうやう」であろう。その方が躓かない気がする。]に這ひ出で、行燈などは、みな、ゆりこぼし、山林に響き震ふ音、物すごく、予が幼き頃なりしが、外に戶板をならべて、家内、打ちこぞりて、夜を明しゝなり。翌朝に至るまで、ふるふこと、十五、六度に及べり。とりわけ、相州小田原邊、殊に甚しく、箱根山、及、城中、石垣、崩れ、民家、多く破損し、人馬のそこなふもの、多し。

「大山にては、三、四間、又は、七、八間もあるべき岩石、崩れ落ちて、人々膽を冷せり。」

と、いへり。八月四日に、江戶海邊に津浪の變あり。

[やぶちゃん注:「犬馬(けんば)の年」「犬や馬が無駄に年をとるように、なすこともなく、年齢を重ねる」の意で、自分の年齢を遜って言う語。

 以下は底本でも改行。]

 天明三卯年[やぶちゃん注:一七八三年。]、早春より四月頃に至るまで、當地はいふに及ばず、諸州諸所に、大小うちまぜて、火災、また、おほし。三、四月頃、京都及五畿内、時候の寒きこと、冬のごとく、時雨、降りて、晴・曇、久しく定らず。

 六月十七日、關東筋其外、諸州、洪水、北國、西國に、海上、大風にて、通船、破損、多し。大抵、米相場も引き上りて、上方より、かけて、一石に百二十目ぐらゐなりき。當地に至りては、六、七十兩迄にも至りしなり。

 七月朔日より、八、九日に至りて、北國・東國、及、京都・大坂・江戶・伏見。大津等、山谷、鳴動す。

 同四日より、上州・信州の地、夥しく震動して、雷鳴のごとく、砂石、降り下ること、雨の如し。六日夜に至りて殊に甚しく、七日は白晝、闇夜の如く、岩石を飛ばし、其近國諸國、熱灰を降らしぬ。此時、淺間山、及、草津山等、燃え出でゝ、烈火、散亂す。八日未の刻[やぶちゃん注:午後二時。]、熱沙熱泥を涌出し、利根川の水上に溢れ、其近國の諸村を漂沒し、民家を破損なし、人民、及、牛馬・鳥獸・魚鼈、死亡し、或は、水火の爲に死せしもの、四萬餘人といへり。

 七日夜より、九日に至りて、江戶表も、一天、くもりて、日の光を見ず。灰、降ること、雪の如し。

 廿四日、北國・西國の海上、大風あり。

 冬御切米百俵、「四十六兩」の張紙なりき。

 十月二日、北國・九州の洋中、大風。

 同じく十一日、大坂、雷鳴、甚しく[やぶちゃん注:底本は右に『(脱アラン)』と傍注する。]、同所大手御門、雷火にて、燒失す。

 此後冬中、大小の火災、度々なりき。

[やぶちゃん注:底本でも以下は改行。]

 天明四辰年、正月より、未申[やぶちゃん注:南西。]の方に、彗星、あらはる。

 米價、甚しく、春、御借米「百俵四拾八兩」の張紙、出(いで)、夏、御借米も四拾八兩なり。町相場なるものは、上米に至りては、六拾兩以上なり。公(おほやけ)より、米を出だして、貧民に賜ふ。

 世の人、「橫田火事」といへるも、十二月廿六日、鍛冶橋御門内、橫田筑後守より、出火にて、殊に大火なり。

[やぶちゃん注:年月日が合わないが、西田幸夫氏の論文「江戸東京の火災被害に関する研究」PDF)によれば、天明七(一七八七)年一月十日に八代洲河岸横田筑後守屋敷内長屋が出火元で(午前零時頃)六千六百十二平方メートルが焼損している。「古地図 with MapFan」で調べると、「鍛冶橋」は現在の東京駅の南端に当たる。]

 此年は奧州南部・仙臺・津輕・八戶領等、大に飢饉なりき。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行。]

 天明五巳年も、米價、百俵に五十兩前後なり。

 八月十二日、五畿内、及、東海道筋、洪水。

[やぶちゃん注:同前。]

 同六丙午年正月朔日、目蝕、皆既。大小の諸星、東方にあらはに、白晝、くらきこと、黃昏にも過ぎたり。此春中、火災、繁きこと、其數を、しらず。其中に、正月廿二日、湯島よりの出火、殊更、おびたゞし。

[やぶちゃん注:やはり年月日及び場所も合わないが、西田幸夫氏の論文「江戸東京の火災被害に関する研究」PDF)によれば、天明六(一七八七)年一月十九日に桜田伏見町(善右衛門町とも)が出火元で(午後十二時半から一時頃)一万千九百一平方メートルが焼損している。但し、出火元は現在の新橋附近である。]

 五月頃より、天氣、甚、不順にして、土用見舞に、綿入をかさね、老人のともがらは、

「猶、寒さに、たへず。」

と、いへり。されば、いやしき口ずさびにも、

 春は火事夏はすゞしく秋出水冬は飢饉とかねてしるべし

 七月十二日より、大雨、篠をつくがごとく、一向に止みなく、十四日には、當地、洪水にて、目白下、大※(トヒ)[やぶちゃん注:「扌」+「見」。上水道の樋であろう。]、崩れ、牛天神下・小石川邊、滿水、其深きこと、五、六尺に及べり。御茶水・昌平橋・淺草御門・柳橋邊、一面に大水にて、往來も、とゞまりぬ。又、上野・下野・秩父等の山、水、俄に發し、烏川・神川・戶田川・利根川等、大水、漲ること、數丈なり。同十七日曉に、「熊谷の土手、裂けて、栗橋・古河・關宿・越谷・杉戶・千住・大橋・小橋・小塚原・淺草邊、本所・隅田川・向嶋・秋葉・三圍・牛島邊は、偏(ひとへ)に海の如し。」

と、いへり。大橋、永代橋、流れ落ち、其外、小橋の類(たぐひ)は、しるすに、いとまあらず。兩國橋は數百人の人夫をもて、漸(やうやう)に防ぎ留めたり。淺草・並木・駒形・御藏前・八町・天王橋邊、船にて、往來す。同所、觀音堂、他所よりも、高し。諸人、此堂舍に登りて、水を避けしもの、多し、となん。又、此頃、東海道は、酒勾・馬入・六鄕等の川々、往來、なし。鶴見橋も已に流落し、神奈川新町・藤澤の宿々、滿水にて、往來、止め、十八、九日に至りて、諸方の水勢、漸く、滅ず。此時分、愛宕山切通の土手・山王山・三田春日山・麻布狸穴等の土手、又、崩れて、人、多く、死せり。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行。]

 此秋の洪水に溺死せしもの、萬をもて、算ふべし。濁水に乘じて、蛇・蝮の類ひ、幾千となく、漂ひ來りて、人身につくこと、甚しく、誠にあはれなること、いふばかりなし。

[やぶちゃん注:同前。]

 此年のはやり唄に、

〽天竺のあまの川に白小桶が流れた

と、うたひしが、天に、口、なし。人をもて、いはしむるならひに、果して、其しるし、むなしからずして、洪水の變ありき。いにしへ、孔子も童謠にて、考ありしこと、「家語(けご)」等にも見ゆ。浮きたることには、あらじ。

[やぶちゃん注:庵点は私が附した。

『孔子も童謠にて、考ありしこと、「家語」等にも見ゆ』「孔子家語」(「論語」に漏れた孔子一門の説話を蒐集したとされる古書。全十巻。但し、一部に非常に古い引用も求められるが、全体は宋代に作られた偽書とされる)。「孔子家語」を見ると、前半が見当たらないので、「説苑」(せいえん)の「辨物」にあるものを以下に示す。

   *

 楚昭王渡江、有物大如斗、直觸王舟、止於舟中、昭王大怪之、使聘問孔子。孔子曰、「此名萍實。剖而食之。惟霸者能獲之、此吉祥也。」。其後齊有飛鳥一足來下、止於殿前、舒翅而跳、齊侯大怪之、又使聘問孔子。孔子曰、「此名商羊、急告民趣治溝渠、天將大雨。」。於是如之、天果大雨、諸國皆水、齊獨以安。孔子歸、弟子請問、孔子曰、「異時小兒謠曰、『楚王渡江得萍實、大如拳、赤如日、剖而食之、美如蜜。』。此楚之應也。兒又有兩兩相牽、屈一足而跳、曰、『天將大雨、商羊起舞。』。今齊獲之、亦其應也。夫謠之後、未嘗不有應隨者也、故聖人非獨守道而已也、睹物記也、卽得其應矣。」。

   *

自力で訓読してみる。

   *

 楚の昭王、江を渡るに、物、有り、大なること、斗のごとし。直(ぢき)に王の舟に觸(さは)り、舟に中(あた)りて、止むる。王、大いに之れを怪しみ、使ひして、聘(へい)し、孔子に問ふ。孔子曰はく、

「此れ、萍實(へうじつ)と名づく。剖(さ)きて之れを食(しよく)すべし。惟(これ)、覇者のみ、能く獲るなり。此れ、吉祥なり。」

と。

 其の後(のち)、齊(せい)に、飛鳥の一足なる有りて、來り下り、殿前に止(と)まる。舒(おもむ)ろに翅(はばた)きて、跳(おど)る。齊侯、大いに、之れを怪しみ、又、使ひして聘して、孔子に問ふ。孔子曰はく、

「此れ、商羊(しやうやう)と名づく。急ぎ、民に告げて、溝渠を治(ち)するを趣(うなが)せ。天、將に大雨(おほあめふ)らんとす。」

と。

 是に於いて、之(か)くのごとく、天、果して、大雨りて、諸國、皆、水(みづ)す。齊、獨り、以つて安んず。

 孔子、歸るに、弟子、問ひを請ふに、孔子曰はく、

「異(べつ)なる時、小兒(せうに)の謠に曰はく、

『楚王、江を渡るとき、萍實を得ん。大なること、拳のごとく、赤きこと、日のごとし。剖きて之れを食(くら)へば、美(うま)きこと、蜜のごとくならん』

と。此れは是れ、楚の應(わう)なり。兒(じ)、又、有りて、兩兩(ふたり)して相ひ牽き、屈して、一足にて、跳びて、曰はく、

『天、將に大雨らんとす。商羊、起きて舞ふ。』

と。今、齊、之れを獲(と)る。亦、其の應なり。夫れ、謠(うた)の後に、未だ嘗つて、應に隨はざる有る者や。故に、聖人は、獨り、道を守るのみに非ざるなり。物の記(すりし)せるを睹(み)るや、卽ち、其の應を得るなり。」

と。

   *

 以下、同前。]

 米價、打ちつゞきて、貴(たか)く、冬、御切米「百俵四拾三兩」の張紙、出でしなり。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 九月に、浚明院殿(しゆんめいゐんどの)、かくれさせ給ふ。ならびなき大凶の年といふべし。

[やぶちゃん注:「浚明院殿」徳川家治の諡号。彼が実際に没したのは天明六(一七八六)年八月二十五日である(享年五十。死因は脚気衝心と推定されている)。但し、発葬されたのは九月八日であった。当時、将軍の薨去は一ヶ月余り後に報知されたのが普通であったから、極めて異例に早い報知となっている。ウィキの「徳川家治」によれば、死後数日のうちに、『反田沼派の策謀により』、かの専横した側用人『田沼意次が失脚』し、『また、意次が薦めた医師(日向陶庵・若林敬順)の薬を飲んだ後に家治が危篤に陥ったため、田沼が毒を盛ったのではないかという噂が流れた』りした、内輪の騒動を体よく鎮めることが理由だったのようである。意次は家治死去の二日後の八月二十七日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格し、後の閏十月五日には、家治時代の加増分の二万石も没収となり、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命ぜられている。

 以下同前。]

 天明七未年、打ちつゞきたる米直段(こめねだん)、當春に至りては、ますます貴く、春、御借米「百俵五十兩」の張紙、出(いで)、上米(じやうまい)の相場は七十兩以上なりき。

 夏、御借米五拾二兩にてありしが、五月に入りて、米價、いよいよ貴く、百三、四拾兩となり、今日を送る市人等、已に飢に臨めるも、ことわりぞかし。五月十九日より、江戶中、米穀の商ひなす者の見世に、「打ちこはし」・亂妨なすこと、甚しく、百人、二百人、その黨を結び、時々、「とき」の聲をあげて、晝夜のわかちなく、さわぎあるく體(てい)、さながら、戰世(いくさのよ)の如しと、おもはる。夫より、端々に至るまで、皆、人氣(じんき)、かくの如し。後には、米商賣にかゝはらず、目ぼしぎ町家に打ち入りて、手にあたるものを持ち出だして、其町内にても、防ぐべき手段なく、或は、酒を、樽ながら、吞口(のみくち)をそへ、或は、かゞみを、ぬいて、柄𣏐(ひしやく)をそへて、もてなしとせり【米屋ならぬ家をも、物とりの爲に亂妨せしには、あらず。その見世の米屋に似たるあき人、或は、酒屋・餠屋・「そば切」や、すべて、食物をあきなふものゝ見世は、打ちこはされしも有りしなり。その、「そば杖を打たれじ」とて、銘々に見世先へ、「さたう水」など、出だしおきて、あふれもの等(ら)に、のませにき。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]

[やぶちゃん注:以下同前。]

 此時、名は忘れたりしが、何がしといへる大名、家中へ渡すべき扶持米とて、其本家へ無心して、弐拾俵計(ばかり)、車にて、警固も、大勢、附き添へ、來りしに、鮫ケ橋にて、「打ちこはし」の一むれ、百人計も、追(おひ)、取卷(とりまき)きて、

「車の米、申し請けたし。もし、異議ある上は、力づくにて請取るべし。」

とて、きそひ、かゝれる大勢のやうすに、なすベきやうなくて、宰領の足輕、三、四人も、命からがら逃げ出だし、屋敷へ歸りて、「しかじか」のよし、役人中へ、申しゝ故に、屋敷よりも、侍分の者、とりまぜ、追取刀(おつとりがたな)にて、馳せ至りしが、車ともに、いづくへ持ち行きしか、其行方、しるべきやうなければ、各(おのおの)、齒がみをなしつゝ、手をむなしく、歸れり。

 因りて、おもふに、人心、一たび、うごきては、何樣の事をしいだすべきも、しれず。されば、前漢の賈誼(かぎ)が言に、「安民可與行。而危民易與爲一レ非。」とあるは、ならびなき名言なり。

[やぶちゃん注:「賈誼」(紀元前二〇〇年~紀元前一六八年)は前漢の文帝の御代の文学者。洛陽出身。二十余歳で博士から太中大夫に進んだが、讒言のために長沙王太傅(たいふ)に移され、長沙に赴いた。後、再び文帝に召されて、梁王の太傅となったが、梁王が落馬して死んだのを痛く嘆き、一年あまり後に没した。その著に「新書」(十巻)があり、「過秦論」・「治安策」などでは、儒家の立場に立って、時勢を論じている。韻文では前漢初期の代表的辞賦作家であり、志を得ずに投身した屈原を悼みつつ、自らの運命に擬えた「弔屈原賦」などが知られる。以下は「新書」中の一節。

「安民可與行。而危民易與爲一レ非。」「安民は、與(とも)に行くこと、可(むべ)なり。而れども、危民は、『與に非(あら)ず』と爲(な)すが、易(やす)し。」か。

 以下同前。]

 此時、町奉行曲淵甲斐守・山村信濃守なりしが、

「町家のやうす、見𢌞らん。」

とて、大勢にて出でしかど、西河岸(にしがし)邊に三百・五百の組を立てたる「あふれ者」、大瓦など、積みまうけ、

「無事なる時は、奉行を恐るべし、此節に至りては、何の憚るべきこと、あらん。近付けば、打ち殺すべし。」

と、口々に、のゝしりし故に、兩奉府も、

「すごすご」

と、引きとりき、とぞ。

[やぶちゃん注:以下同前。]

日々、かくのごとき故に、御先手十組の面々、阿部平吉・柴田三右衞門・河野勝左衞門・安藤又兵衞・小野次郞右衞門・松平庄右衞門・長谷川平藏・武藤庄兵衞・鈴木彈正少弼・奥村忠太郞、各(おのおの)、與力・同心を召し具して、江戶中、端々まで𢌞りしが、何の仕出したる事も、なかりき。

[やぶちゃん注:悪いが、ぞろりと並んだ人名の注は附さない。お調べになりたければ、御自分でどうぞ。いい加減、本篇には疲れてきた。早く仕舞いにしたいのである。

 以下同前。]

 其頃の取沙汰に、

「御先手の面々、物馴れたる同心に、道をはらはせ、『打ちこはし』の一むれ、ある所をば、通行せずして、脇道をのみ𢌞りき。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 予がしれる御番衆、五月十七、八日の頃か、御借米を受取りしに、其日の相場、弐百五兩なりき。われら、其頃は、小普請(こぶしん)にて、六月の中旬頃に玉落ありしが、

「はや、大(おほき)に直段も引き下れり。」

と、いひしが、九拾八兩弐分にてありき。

[やぶちゃん注:「小普請」小普請組(こぶしんぐみ)。無役の旗本・御家人の内、原則、三千石以下の者が編入された組織(三千石以上の者は寄合席(よりあいぜき)に編成された)。無役の旗本・御家人が営中などの小規模な普請(小普請)に人足を供する義務を負っていたことから生じた名称。十七世紀後半以降は、この人足役は金納となった(小普請金)。当初は留守居に、享保四(一七一九)年以降は、老中の支配下に属し、組に分けて統率された。幕府末期の慶応一・二(一八六五・一八六六)年には陸海軍両奉行の支配であった(なお、小普請奉行は小普請方(かた)の長官で、幕府の土木・建築工事を担当する「下三奉行(したさんぶぎょう)」の一つに数えられ,本丸・西ノ丸のそれぞれの大奥・紅葉山(もみじやま)諸堂舎・増上寺・浜御殿などの営繕を担当し、若年寄配下であった。以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

 以下同前。]

 此時分、町家にては、白粥・「あづきがゆ」・「麥挽(むぎひき)わり」を以て、最上とし、「豆めし」・「そら豆めし」・「芋めし」を上食とし、「ひばめし」・「きらず飯」、或は、「うどんの粉のつといれ」等を、その次となす。甚しきに至りては、得[やぶちゃん注:不可能の副助詞「え」の当て漢字。]しらぬ野菜を、おほく、鍋に入れ、鹽にて、少し、味をつけ、其中へ「ひえ」の粉(こ/こな)樣(やう)の物を、ふりちらして、食とす。又。「わら」を「すさ」の如くに切りて、「ほうろく」へかけて、よきほどに、こがし、それを、挽舂(ひきうす)にて、よく、ひき、「だんご」となして、くらへり。

[やぶちゃん注:「ひばめし」「干葉飯」。ダイコンの葉を炊き込んだ飯。陰干しにしたダイコンの葉(干葉)を、よく揉んで、熱湯に浸し、適宜に刻み、米に混ぜ、塩を加えて炊きあげたものを指す。米節約のための粗末な飯。

「きらず飯」「雪花菜飯(きらずめし)」。「おから」を多く混ぜて炊いた飯。同前。

「うどんの粉のつといれ」饂飩粉を練ったものを「苞」(つと:「包む」と同語源で、藁や葦などを束ねて、その中に食品を包んだもの。藁苞(わらづと)に包んだもの。米の飯よりも日持ちがしただろう。

「すさ」「苆」「寸莎」。壁土に混ぜて、罅割れを防ぐ繋(つな)ぎとする材料。荒壁には藁(わら)を、「上塗り」には麻又は紙を用いる。ここは前者。

 以下同前。]

 予があたりの土手原にある、可なりに食となるべき草は、みな、とりつくせしなり。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 奧州筋にては、鳥獸を食し、或は、

「子をとらへて、飢をしのげり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:人間の子どもを攫って食べたのである。]

 此「打ちこはしの時」、公より、一町内の人別をあらため、其人數(にんず)程、竹鎗一本づゝもたせ、白き手拭を「しるし」と定め、

「もし、他(よそ)より、亂妨のもの來(きた)れば、拍子木を以て、うちならす時は、一同に集ふべし。」

と觸れられしが、程なく、騷動、止みたり、となり。是、全く、其町内より出でしものも、他の者に交りて、わが町内にも、夜分など、亂妨せしゆゑに、町内にかゝる觸(ふれ)出でし故に、皆、しづまりしは、當意卽妙の事とぞ【此(この)「町觸れ」によりて、「打こはし」の鎭まりしには、あらず。江戶中の米屋共を、不殘(のこらず)、打こはして、人氣、ゆるみし上に、「米穀、下直(げじき)にし、御救被下(おすくひくださる)。」といふ風聞によりて、漸々に鎭まりしなり。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 此節、「あふれ者共」も召し捕(とら)れて、入牢せしもの、おびたゞしく、

「假(かり)に牢をも、しつらひし。」

と、いへり【「多く入牢せしは、この『打こはし』の騷ぎに乘じて、物を盜みし巾着切(きんちやつきり)などいふ、盜人なりし。」と聞きぬ。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 此「打ちこはし」の騷動、五月十九日より廿二日までにて鎭まりしが、廿四日頃より、廿六、七日の間は、米穀の賣買(ばいばい)[やぶちゃん注:底本は『貴買』であるが、意味が不明である。「たかがひ」と読めぬことはないが、「賣」の誤判読とした方が躓かない。]、更になし。【此「打こはし」は、五月下旬より六月初旬まで、凡(およそ)、一旬にて、全く鎭りし也。その中(うち)、甚しかりしは、四、五日の程なりき。】[やぶちゃん注:底本に『頭書』とある。]。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 米商賣の者、六月二日頃より、米、賣り出だすべき含(ふくみ)はありしが、一體、米、拂底なる故に、手段なくて、只、其町ぎりに、番屋々々にて、百文につきて、四合づゝに賣りしなり。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 百俵五人扶持以下の御家人へは、御救米拜借被仰付之(これ、おほせつけられ)、六月に入り、町々へは、御すくひ米・御救金、壱人に付、三匁弐分、米・豆、合而(あはせて)五合づゝ被下之(これ、くださる)。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 米穀、拂底に因りて、津々浦々迄、御救方の事、關東御郡代伊奈半左衞門に被仰付之、半左衞門、計(はから)ひにて、大麥、兩(りやう)に壱石(いつこく)、米は兩に四斗(と)の積りをもて、江戶町中へ御すくひ米あり。尤、

「右代物は五日めに差出候へば、又候(またぞろ)、其跡の米麥ともに賣りわたし。」

觸れられしなり。但、壱兩なり。四斗の相揚、百俵にては八拾七兩弐步の積りなり、とぞ。

[やぶちゃん注:「大麥、兩(りやう)に壱石、米は兩に四斗の積り」大麦の場合は一両(重さの単位で四十一~四十二グラム)に対して一石(容積の単位で百八十・三六リットル)に、米の場合は同じ一両に対して一斗(七十六・一五六リットル)と換算するという意味であろう。但し、後半の部分は私は何を言っているのか、よく判らない。

 以下同前。]

 此米、直段(ねだん)の至りて、貴(たか)かりし時に、をかしき物語、有り。

 吉原にて何がしといへる雙(なら)びなき名妓ありしが、常には文雅風流なる客を愛し、文才なき野俗なる人物には、殊に愛相(あいさう)も薄かりき。

 此(この)飢僅に至りて、日頃と違(たが)ひ、入り來る客をば、雅・俗を、えらまず、もてなしも厚かりし故に、一家のもの共、大に不審し、其(その)操(みさを)のかはりしことを難ぜしに、名妓のいへるは、

「不審し給ふこと、道理に聞え侍る。必竟、此頃しも、日々に雜食のみにて、いかに快(こころよか)らず。客、來(きた)れば、米の飯を食しまゐらする故に、客を愛するにては、なし。只、口腹(こうふく)を愛するなり。」

と、いへるにて、此時分の、米の寶なるを、しるべし。

[やぶちゃん注:「口腹」には「幸福」を掛けているか。

 以下同前。]

 子が方へ出入する大工、作事(さくじ)を、外より、受け負ひし。

「焚出しの米をとゝのへん。」

とて、拾兩付の金を、ふところにし、米商人の方へ、終日、あるきしに、やうやく、五升、三升づゝ買ひ集めて、

「三斗には足らざりし。」

とて、常に物語せり。

[やぶちゃん注:「拾兩付」は「じふりやうづき」で、これは纏まった小判や同一貨幣などの十両ではなく、「なんだかんだと寄せ集めて十両分の銭金(ぜにかね)」という意であろう。

 以下同前。]

 此年はいづれの人とても、空腹になり易きこと、至りて、はやく、朝飯、すみぬれば、はや、晝飯を待ちかねしなり。

[やぶちゃん注:以下同前。]

 米すくなき時節には、北斗にさゝふる程の黃金白銀ありとも、更に、益なし。米は壱ケ年も、二ケ年も餘りある程に、手當(てあて)ありたきものなり。前漢の鼂錯(てうそ)が論に、「球玉金銀饑不ㇾ可ㇾ食。寒不ㇾ可ㇾ衣」とは、古今不易の確言といふべし。

[やぶちゃん注:「北斗にさゝふる程」「北斗」は北斗七星のこと。中国では古代よりこの七星を天枢(てんすう)・璇(せん)・璣(き)・天権(てんけん)・玉衡(ぎょくこう)・開陽・揺光と呼び、畏敬した。これは、斗の柄の指す方角によって時刻が知れ、また、季節を定める重要な星であったからである。また、道教の星辰信仰の中では、順に貪狼・巨門・禄存・文曲・廉貞・武曲・破軍星と呼ばれ、北極星信仰や司命神信仰と習合し、人間の寿夭禍福(じゅようかふく)を司る神とされた。特に人間の命運は、生年の干支で決まる北斗の中の本命星の支配下にあり、北斗神が降臨して、行為の善悪を司察し、「寿命台帳」に記入する「庚申」・「甲子」の日に醮祭(しようさい:星祭り)をすることで、長寿を得、災厄を免かれると考えられたのである(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

 以下同前。]

天明八申とし、正月晦日、禁中、及、堂上衆、武家寺社、市中等、火災の大變あり。

[やぶちゃん注:天明八戊申年一月三十日(グレゴリオ暦一七八八年三月七日)に京都で発生した「天明の京都大火」。皇居が炎上し、京都の大半が焼失した。当該ウィキによれば、『京都で発生した史上最大規模の火災で、御所・二条城・京都所司代などの要所』が『軒並み』、『焼失したほか、当時の京都市街の』八『割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした』「応仁の乱」の『戦火による焼亡を』、『さらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた。江戸時代の京都は』、『この前後にも』「宝永の大火」と、元治の「どんどん焼け」で『市街の多くを焼失しており、これらを「京都の三大大火」と呼ぶこともある』とある《【やぶちゃん補注】★必要がない場合は、太字部を飛ばして下さい。★「宝永の大火」は宝永五年三月八日(一七〇八年四月二十八日)に発生し、四百十七ヶ町、一万三百五十一軒、佛光寺や下鴨神社などの諸寺社などが焼けたもので、「どんどん焼け」は幕末の「禁門の変」に伴って元治元年七月十九日(一八六四年八月二十日)に発生した火災の通称。この呼称は、手の施しようもなく、みるみる内に「どんどん」焼け広がったさまに基づく。焼失町数は八百十一町(当時の京の全町数は千四百五十九町)、焼失戸数は二万七千五百十七軒(同前で全戸数四万九千四百十四軒)、人的被害は負傷者七百四十四名、死者三百四十名。但し、二条城や幕府関係の施設に被害は見られなかった。当該ウィキによれば、『従来は』『乃美織江ら』、『長州兵が撤退時に』、『河原町の長州藩邸に放火したことが原因とされていたが、西隣の寺町にある本能寺は長州藩邸制圧を狙った薩摩兵の砲撃により』、『真っ先に焼け落ちており、北側の角倉邸、南側の加賀藩邸や対馬藩邸、東側の鴨川対岸が無事に火災を免れた』『ことから「長州藩邸はすぐに鎮火されたが』、『敗残兵が逃げ込んだ鷹司邸や民家が福井藩、一橋慶喜勢、会津藩・薩摩藩兵、新選組らの砲撃により』、『炎上し』、『その火が延焼した」可能性も浮上している』とあり、また、後に、『大火は、会津藩が長州残党を狩り出すため』、『不必要におこなった放火が原因だ、との感情が強』くあり、『町民からは評判の悪い会津と新選組が原因扱いされていたと』もあったとある。》。

話を「天明の京都大火」に戻す。

一月三十日(三月七日)『未明、鴨川東側の宮川町団栗辻子』(どんぐりのづし:現在の京都市東山区宮川筋付近)『の町家から出火』したが、これは『空き家への放火だったという。折からの強風に煽られて』、『瞬く間に』、『南は五条通にまで達し、更に火の粉が鴨川対岸の寺町通に燃え移って』、『洛中に延焼した。その日の夕方には』、『二条城本丸が炎上し、続いて洛中北部の御所にも燃え移った。最終的な鎮火は発生から』二日後の二月二日の『早朝のことだった』。『この火災で東は河原町・木屋町・大和大路まで、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで、西は智恵光院通・大宮通・千本通まで、南は東本願寺・西本願寺・六条通まで達し、御所・二条城のみならず、仙洞御所・京都所司代屋敷・東西両奉行所・摂関家の邸宅も焼失した。幕府公式の「罹災記録」(京都町代を務めた古久保家の記録)によれば、京都市中』千九百六十七町のうち』、『焼失した町は』千四百二十四町、『焼失家屋は』三万六千七百九十七戸、焼失世帯六万五千三百四十世帯、焼失寺院二百一寺、焼失神社三十七社、死者は百五十名だったとあるが、実際には死者数に『関しては公式記録の値引きが疑われ、実際の』死亡者は千八百名は『あったとする説もある。光格天皇は』、『御所が再建されるまでの』三『年間、聖護院を行宮』(あんぐう:仮御所)『とし、恭礼門院は妙法院、後桜町上皇は青蓮院(粟田御所)に』、『それぞれ』、『移った。後桜町院の生母青綺門院の仮御所となった知恩院と青蓮院の間に、幕府が廊下を設けて通行の便を図っている』。『この大火に江戸幕府も衝撃を受け、急遽老中で幕閣の中心人物であった松平定信を京都に派遣して朝廷と善後策を協議した。また、この直後に』、公家で有職故実家の『裏松固禅』(うらまつみつよ)が幸いにも「大内裏図考證」を完成させており、『その研究に基づいて』、『焼失した内裏の再建』が『古式に則った形』『で行われることとなった。再建の費用は幕府から出資された。これは』、『幕府の慢性的な財政難と』、この「天明の大飢饉」に『おける民衆の苦しみを理由に』、「かつてのような古式に則った壮麗な御所は、建てることはできない。」と言った『松平定信の反対論を押し切ったものであり、憤慨した定信は』、『京都所司代や京都町奉行に対し』、「朝廷の新規の要求には応じてはならない。」と『指示している』。『これにより』、『「幕府」に対する「朝廷」の動向が世間の注目を集めるようになり、さらに「尊号一件」などの』、『幕府と朝廷間の紛争の遠因となった』とある。

 以下同前。]

 神祖、海内(かいだい)を統御ましましてより、二百年の今日まで、四民、其所を得ざるものなく、三代の治といふとも、恐らく、此うへに、過ぐまじ。

[やぶちゃん注:「神祖」徳川家康。

「三代の治」古代中国の夏・殷(商)・周三王朝の時代を指す。それぞれの黄金時代を築いた創業の聖王である、夏の禹王、殷の湯王、周の文王・武王・周公のときには、最も理想的な統治が行われていたとされ、孔子は、この三代の歴史の中に、人類が生み出した最も優秀な中国文化の展開を見、自分こそ、その本質を知るものと自認していた。そして将来の理想的な国家社会のイメージを,三代文化の総合として構想したのであった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「二百年の今日」江戸開府から二百年後は享和三(一八〇八)年。よく判らない筆者の執筆時制の確認が出来る記載である。]

「昇平の世に、ひとり、恐怖すべきもの、火災に、ますこと、なし。平賀源内の工夫せし『天龍水』といふもの、制作なしたらば、雙(ならび)なき防(ふせぎ)なるべきに、其含(そのふくみ)の内に、なき人の數に入りし。惜むべきこと。」

とて、司馬江漢なる蘭學者、語りき。いかなる防ぎの器(き)なりしにか【「消夏自適」「天明の凶年編」全。】。

[やぶちゃん注:「平賀源内」は享保一三(一七二八)年生まれで、安永八年十二月十八日(一七八〇年一月二十四日)に獄死したことになっている(酒に酔って誤解から人を殺傷した咎による入牢し、破傷風により亡くなったとされているが、別説に、田沼意次或いは故郷であった高松藩(旧主である高松松平家)によって密かに救出され、その庇護下で天寿を全うしたとも伝えられ、私は後者を、結構、信じている。

「天龍水」不詳。ただ、この名は「竜吐水」(りゅうどすい)と酷似する。竜吐水は江戸時代から明治時代にかけて用いられた消火道具で、その名称は、竜が水を吐くように見えたことに由来するとされる。参照した当該ウィキによれば、『これを改良したものを雲竜水(うんりゅうすい)と呼ぶ』(こちらの方がより酷似するネーミングである)。十八『世紀中頃の明和元年』(一七六四年)『に江戸幕府より町々に給付されたポンプ式放水具であり、火事・火災の際、屋根の上に水をかけ、延焼防止をする程度の消火能力しか持たなかったとされる(モースの絵日記にその様子が描かれている)。自身番屋に常備された』。『木製であり、外観形式としては箱型であり、駕籠にも似た江戸時代の消火器である』とある。源内の考えたものは、これを遙かに大規模にした装置であったものか? なお、私はそこに出る生物学者で「お雇い外国人」として進化論を日本人に初めて紹介したエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)の石川欣一訳のズバリその「日本その日その日」をずっと昔にブログで全電子化注を終えている。「第四章 再び東京へ 15 隅田川川開きのその夜起った火事の火事場実見録」及び「第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所 11」で絵入りで紹介している。但し、前者では、ウィキでも述べられている通り、酷評で、上の前者の私の電子化から引用すると、『長さ六フィートの木管が、消火機械の中心から垂直に出ている木管に接合しているのだが、その底部は、それが上下左右に動き得るような具合になって、くっ付いている。火を消すことを目的につくられたとしては莫迦気切った、そして最も赤坊じみたもののように思われた。我々が到着した時建物は物凄い勢で燃え、また重い屋根の瓦はショベルで掻き落されて、音を立てて地面に落ちていた。家屋の構造で焼けぬ物は瓦だけなのに、それを落すとは訳が判らなかった。地面には例の消火機械が二、三台置いてあり、柄の両端に一人ずつ――それ以上がつかまる余地がない――立ち、筒先き役は箱の上に立って、水流をあちらこちらに向けながら、片足で柄を動かす応援をし、これ等の三人は気が狂ったように柄を上下させ、水を揚げるのだが、柄を動かす度に機械が地面から飛び上る。投げられる水流の太さは鉛筆位、そして我国の手動ポンプにあるような空気筒がないので、独立した迸水(ほうすい)が連鎖してシュッシュッと出る。喞筒(ポンプ)は円筒形でなく四角であり、何週間か日のあたる所にかけてあったので、乾き切っている。それで、筒から放出されるより余程多量の水が、罅裂(すきま)から空中に噴き出し、筒先き役は即座にびしょ濡れになって了う。機械のある物は筒の接合点がうまく行かぬらしく、三台か四台ある中で只一台が、役に立つような水流を出していた。』とある。

 以下、最後まで、底本では全体が二字下げ。]

 この記を筆(ひつ)せし鱗齋ぬしは、その職分、官府の御舊記を窺ひ見る事の自由なる故に、當時の御沙汰と、地名・歲月・時日、まさしくも、具(つぶさ)にしるされたり。但、市中の事、風聞の說に至りては、いかにぞや、おもふよしなきにあらぬを、そのくだりに、聊(いささか)、「かしら書」を加へたり。前編と彼是(かれこれ)、比較せば、後生(こうせい)の爲に稗益(ひえき)あるべし。

文政九年丙戌春二月十七日、雨窓に、謄寫、了(をはんぬ)。

[やぶちゃん注:「當時の御沙汰と、地名・歲月・時日、まさしくも、具(つぶさ)にしるされたり」馬琴さんよ! 私が注で何度も言っている通り、誤り、多いぜ! この本は!

「裨益」「埤益」とも書く。「助けとなって役立つこと」の意。]

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