曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 「參考太平記」年歷不合
[やぶちゃん注:前と同じく竜珠館の発表。またしても、なんだか文章が杜撰の極み。「奈和」でないよ! 「名和」だがね! 名前も間違ってる! 「長高」じゃあねえ!「長年」だっつうの!]
○「參考太平記」年歷不合
「參考太平記」、元弘三年、「後醍醐帝船上山へ潛幸」の條に、「伯耆」の卷を引きて、『奈和長高が三男乙童丸』とありて、小注に、『正六位上四郞左衞門尉高光、建武三年十一月一日、於西[やぶちゃん注:底本に『(本ノマヽ)』の傍注有り。]。』。その第三番の弟の乙童丸、十四歲なるべきやう、なし。其うへ、次男の孫三郞基長には、「土用松」とて、三歲の男子あり。これをもて、見れば、高義[やぶちゃん注:ママ。]、たとひ、若年なりとも、二十あまりなるべし。悉く、小注の誤なり。
[やぶちゃん注:「參考太平記」は「太平記」の諸伝本(西源院本・南都本・今川家本・前田家本・毛利家本・北条家本・金勝院本・天正本など)を比較し、さらに「公卿補任」・「増鏡」・「園太暦」など 百四部もの記録・文書によって、記事の適否を考訂した書。 全四十巻。徳川光圀が「大日本史」の撰修の準備作業として、儒臣今井弘済に命じて編集させたもので、弘済の死後は内藤貞顕が引継いで元禄四 (一六九一) 年に刊行された(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「元弘三年、「後醍醐帝船上山へ潛幸」の條に、「伯耆」の卷を引きて、『奈和』(「名和」の誤り)『長高』(「長年」の誤り)『が三男乙童丸』とありて、小注に、『正六位上四郞左衞門尉高光、建武三年十一月一日、於西』」国立国会図書館デジタルコレクションの「參考太平記」のここ(左丁の最後)に見つけた。不全な引用を正確に以下に示す。名和が子や一族を連れて、後醍醐天皇を迎えるために発するシーンである。カタカナをひらがなに直した。記号を使用し、割注内の漢文脈は訓読した。約物は正字化した。切りのいいところまで採った。
*
長髙を始として、二男孫三郎基長、三男乙童丸【後に正六位上。四郎左衞門の尉髙光。建武三年十一月一日、西坂本に於いて、逝去、廿二歲。】、長年が舍弟鬼五郎助髙、姪(をい)に六郎太郎義氏【行氏嫡男。正五位下・安藝の守。】従弟(いとこ)小太郎信貞、同次郎實行、婿(むこ)に彦次郎忠秀、鳥屋彦三郎義真【後に縫殿の允。左衞門の尉。備中の守義直。】、此の外、若黨等、都合二十餘騎して、一族、相催すに及はす、折節、在合輩、大坂港へ鞭を擧て、馳參る。
*
ちゃんと注を引いていないのであるが、これは元弘三(一三三三)年の閏二月二十八日の出来事で、「建武三年」は一三三六年であるから、注によれば、この時、乙童丸は十九歳であって、「十四歲」なんかじゃねえぞ!?! この話、もうそれだけで、呆れ果てた。「参考太平記」の注はおかしくない! 竜珠館自身が、ちゃんと原本を見てないだけじゃないか! 因みに、名和長年(なわながとし ?~延元元/建武三(一三三六)年)は伯耆の豪族。この年、隠岐を秘かに脱出した後醍醐天皇を伯耆の船上山に迎え、討幕軍に加わった。建武新政では因幡・伯耆の守護となり、記録所・雑訴決断所の寄人(よりうど)となったが、九州に敗走した足利尊氏が再挙して東上するのを、京都で迎え撃って、敗死した。
「高義」これもさあ! 「高光」の誤字でないの? もーー!!!]
« 曲亭馬琴「兎園小説」(正編~第十二集(正編・最終集) 助兼 | トップページ | 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 若鷹 »