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2021/10/09

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 佛敎腹籠の古書

 

[やぶちゃん注:標題は「ぶっきやう、はらごもりのふるがき」と読んでおく。「腹籠り・胎り」及び本文の「みくら」は、この場合、仏像などの腹の中(胎内)に観音像や経典・造立に係わる祈願や文書などを入れ籠めてあるものを指す。実際には、よく見られるものである。]

 

   ○佛敎腹籠の古書

野州西鹿沼村【當時、番町藪主膳殿、知行所なり。】の畑の中に、古堂あり。其後堂に釋迦の木像あり。「此『みくら』を、ぬきて見る時は、立どころに盲目となる。」と、いひ傳へて、誰も『みくら』を拔きて見るもの、なかりしに、蒲生伊三郞といへる儒者、その寺へ斷りて、佛像の『みくら』をぬきて、腹の内へ、手を入れ、さぐり見るに、一通の書あり。とり出だし、ひらき見れば。

    金 箔      五百目

     爲再建令寄附之者也

      元弘元年二月  藤原少將 公 綱

と、ありしよし。野州杤木町渡邊某よりの文通に、いひおこしたれば、こゝにしるす。

  文政乙酉長月朔      文寶堂抄出

[やぶちゃん注:「野州西鹿沼村」現在の栃木県鹿沼市西鹿沼町(にしかぬままち:グーグル・マップ・データ)。

「藪主膳殿」一橋家の家老に藪主膳忠久なる人物がいる。その後裔か。

「蒲生伊三郞」同姓で同じ通称を持つ知られた儒学者に蒲生君平(がもうくんぺい 明和五(一七六八)年~文化一〇(一八一三)年)がいる。彼は天皇陵を踏査して「山陵志」を著した尊王論者であり、海防論者としても知られ、同時代の仙台藩の林子平や、上野国の郷士高山彦九郎とともに「寛政の三奇人」の一人と讃えられた。参照した当該ウィキによれば、『赤貧と波乱の人生を送りながら、忠誠義烈の精神を貫いた。姓は』、天明八(一七八八)年十七歳の時、『祖先が会津藩主蒲生氏郷であるという家伝(氏郷の子・蒲生帯刀正行が宇都宮から会津に転封の際、福田家の娘』が『身重』であったため、『宇都宮に残し、それから』四『代目が』君平の『父の正栄』であった『という)に倣い改めた。君平は字で、諱は秀実、通称は伊三郎。号に修静庵』とある。『下野国宇都宮新石町(栃木県宇都宮市小幡一丁目)の生まれ』で、『父は町人福田又右衛門正栄で、油屋と農業を営』んでいたとある。なかなかに面白い事績は、リンク先を読まれたい。ロケーションからも彼であろう。なお、ファナティクな尊王の廃仏派の儒家なら、こんなことは平気の平左である。水戸光圀がそうだった。かの黄門は、生涯一回ぽっきりの旅行で鎌倉に赴いた途次も、横浜の金沢辺で、地蔵菩薩像を見つけて、突然、怒りだし、縄でぐるぐる巻きにして、引き廻した末に捨てている。

「元弘元年二月」一三三一年。鎌倉幕府滅亡の二年前。

「藤原少將公綱」宇都宮氏第九代当主にして宇都宮城城主宇都宮公綱(きんつな 乾元元(一三〇二)年~正平一一/延文元(一三五六)年)。名将楠木正成に「坂東一の弓取り」と評されて恐れられるほどの武勇を誇ったと伝えられる人物。「元弘の乱」の初期には幕府側として楠木正成と戦ったが、後、後醍醐天皇方に従い、建武政権では雑訴決断所一番の奉行となった。同政権が崩壊後も、南朝方に組みして、各地を転戦した。吉野の行在所にも参じ、その功により正四位下左少将に叙任されている。後に出家し、益子町大羽(おおば)に隠栖したが、晩年は不遇だったともされる。事績は当該ウィキを見られたい。

「野州杤木町」栃木市栃木市内であろう。]

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