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2021/10/16

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 眞葛の老女

 

[やぶちゃん注:これは国立国会図書館デジタルコレクションの「馬琴雑記」巻二上編のここに載るので、それを底本とした(「兎園小説」版とは表記その他に多くの異同がある)。とんでもなく長いので、段落を成形した(それだけ、実は彼女のことが馬琴には気に掛かっていたことの証左である)。読みの一部は送りがなとして出した。一部の句点(読点はない)には従わず、読点に代えた。書簡の引用部であることが判るように、当該部はダッシュで挟んだ。なお、表記は底本を忠実に再現してあり、歴史的仮名遣の誤りはママである。但し、吉川弘文館随筆大成版と校合し、明らかな底本の誤りと認めたものは、特に注して改めてある。主人公、只野真葛、本名工藤綾子(あや子・あや)については、私のブログ・カテゴリ「只野真葛」の、「新春事始電子テクスト注 只野眞葛 いそづたひ 附 藪野直史注(ブログ・カテゴリ「只野真葛」創始)」の冒頭注を見られたい。本篇に筆者である滝沢馬琴との関係も記してある。馬琴は「老女(おうな)」と呼んでいるが、この「兎園会」発会当時(文政八年十月一日(一八二七年十一月十九日))、真葛は実は既に白玉楼中の人となっていた。馬琴はそれを知らずにこれを書いているのである。但し、終りの方に翌文政九年に書き添えた頭書に、それを知ったことが記されてある(年は誤り)。真葛は宝暦一三(一七六三)年生まれで、この文政八年六月二十六日(一八二五年八月十日)に仙台で没した。享年数え六十五(私と同じ)であった。因みに馬琴瀧澤解は明和四(一七六七)年六月九日生まれで真葛より数えで五つ年下であるから、「老女」とするに違和感はない。

 

   ○眞葛(まくづ)の老女(おうな)

 眞葛は才女なり。江戶の人、工藤氏(くどううぢ)、名を綾子(あやこ)といふ。性(せい)、歌をよみ、和文(わぶん)をよくし、瀧本樣の手跡さへ、拙か(つたな)からず。

[やぶちゃん注:「瀧本樣」書道の「瀧本流」。江戸前期の石清水八幡宮別当であった滝本坊昭乗(「寛永の三筆」の一人)が始めた書道の一流派。「松花堂流」「式部卿流」とも呼ぶ。歴史的仮名遣の誤りはママ。]

 父は仙臺の俗醫士工藤【本姓源氏。】平助、諱(いみな)は平(たひら)、母は菅原氏とぞ聞えし。先祖は別所黨(べつしよたう)にて、播磨の野口の城主、長井四郞左衛門より出でたり【長井の族を、加古右京といふ。幷に「太閤傳」天正七・三木合戰の條にみえたり。】。その子孫、零落して、攝津の大坂に、をり、數世の後、長井大庵(たいあん)に至れり。是れ、則ち眞葛の祖(おほぢ)、平助の父なり。大庵は醫をもて、業(わざ)としたりしかば、江戶に到りて、紀州公に仕へまつりぬ。男子(をのこ)三人まで有けるに、只、武藝をのみ、學ばせて、子ありとだにも、聞えあげざりしかば、ある時、公、ちかく侍らして、

「汝が齡(よわい)、既に四十(よそぢ)にあまりたらんに、子ども兩三人ありと聞きぬ。などて、家督を願ひ申さぬぞ。」

と問はせたまひしかば、大庵は、あと、さがり、額つく程に、はふり落ちんとせし涙を、拭ひて答へ申すやう、

「いと有りがたきまで、忝(かたじけな)き御意(ぎよい)を蒙ふり奉りし事、身にあまりて覺え候へども、かねて申しあげし如く、先祖は一城の主(ぬし)で候ひしに、たつきの爲に、かく、長袖(ながそで)になりたるだにも、口をしく候ものを、子どもをすら、親の如くにし候はんは、先祖へ、めいぼく[やぶちゃん注:ママ。]なく思ひ候へば、不肖の某(それがし)一代のみ、めし仕はせ給へかし。子どもは、よしや、浪々の飢えに臨み候ふとも、武士にせまほしくこそ候へ。」

と、まうしゝかば、公、感じ思し召して、

「さらば、方伎(ほうぎ)は大庵一代たるべし。」

と仰せ出だされて、跡をば、武士になされたり。

[やぶちゃん注:「別所黨」別所氏。播磨の戦国大名を輩出した氏族で、播磨の守護大名であった赤松氏の庶流で、播磨国美嚢(みのう)郡三木(現在の兵庫県三木市上の丸町)にあった三木城(グーグル・マップ・データ)を本拠とした。

「公」紀州藩第六代藩主徳川宗直と思われる。]

 これにより、その長男は長井四郞右衛門と名のりたり。澁川流の「柔術(やはら)とり」にて、師の允可(いんか)を得たれども、生涯、事にあはざりければ、名をしらるゝよしも、なかりき。

 次を長井善助といひけり。こは「さし箭(や)」の射手にて、いさゝか、世に知られたり。この同胞は紀州に仕へ奉りぬ。平助は三男なるをもて、

「さのみは。」

とて、仙臺候の醫師工藤某に贅(ぜい)して、そが養嗣(やうし)にぞしたりける。されば亦、平助も實父の志をうけ嗣ぎて、圓頂(ゑんちやう)長袖の身たらん事をば、羞ぢしかば、侯に願ひ奉りて、俗體にて有けれども、衛生の術には、おろかならず。思ひを蘭學にひそめて、發明する所も多かりしにぞ、その名も粗(ほゞ)聞えたりける。

 かくて、平助が子ども、數人(すにん)あり。

 長女は綾子、所謂、眞葛、是れなり。

[やぶちゃん注:工藤家のこの兄弟姉妹には、後に出る通り、真葛が、草花の雅名をつけて呼んだ。綾子自身は「葛」であった。]

 次を工藤太郞といひて、才子なりと聞えしに、父に先だちて、身まかりぬ。

[やぶちゃん注:長男長庵元保(幼名は安太郎。「藤袴」。綾子の二歳下。二十二で早逝。]

 その次は女子(めのこ)、又、其次も女子也。これらも、よすがもとめて、後(のち)、いく程もなく、世を、はやうしたり、とぞ。

[やぶちゃん注:二女しづ子。「朝顔」。雨森家に嫁した。三女つね子。「女郎花」。加瀬家に嫁した。二人とも婚姻後、二十代半ばで亡くなっている。]

 その次を工藤源四郞元輔(もとすけ)とぞ、いひし。和漢の才子にて、詩をよくし、歌をさへよみけるに、方伎(ほうぎ)も亦、庸(よのつね)ならず。惜しくは、短命にして、子のなかりしかば、はつかに名跡(みやうせき)の遺(のこ)れりといふ。

[やぶちゃん注:工藤源四郎鞏卿(きょうけい)元輔。幼名は四郎。「尾花」。平助が将来を託した子であったが、文化四(一八〇七)年、医業の過労により、病没した。その経緯は「只野真葛 むかしばなし (5)」の私の注で詳しく書いた。綾子より十一年下。「方伎」の陰陽道の占法を以って吉凶災福を察知し、これに処するための呪術作法を行うこと。所謂、本邦で変形して発展した陰陽術(おんみょうじゅつ)である。]

 その次は、女子にて、名を「栲(たへ)」といひけり。こは越前の姬うへに、年來(としごろ)、みやづかへまつりしに、姬上(ひめうへ)、なくなり玉ひしかば、比丘尼になりて、瑞祥院と法號せり。今なほ、鐵砲洲の邸内にあるべし。

[やぶちゃん注:四女拷子(たえこ 生没年未詳)。「萩」。彼女は結婚せず、文化九(一八一二)年に剃髪し、「萩尼」と号した。真葛の頼みで、馬琴へ直接に真葛の諸原稿を齎した人物である。]

 又、その次も女子なりしを、ある醫師に妻(めあは)せられしが、こも亦、はやく身まかりし、とぞ。

[やぶちゃん注:五女照子。「撫子」。仙台の中目家に嫁した。あや子より二十三歳下。現在、電子化注を進行中の「むかしばなし」は、年の離れた末っ子の彼女が、自家の思い出が数少ないことを嘆いたため、真葛がそれらを祖父母の代まで遡って、自身に記憶に基いて語る形で書き始められたものである。]

 この同胞(はらから)、七(なゝ)たり。

 才も貌(かたち)も、とりどりなりけるそが中に、乙(おと)の子[やぶちゃん注:ここは源四郎。]の、みやけの御まへに、給事(みやづかへ)にとて、まゐれるとき[やぶちゃん注:父の伝手で仙台藩御近習となった。後、父と同じく藩医となった。]、兄の元輔が、後(のち)のおこたりをいましめて、

「よく勤めよかし。ふた親のめぐみをおもふに、雨露(うろ)のごとく、ひとしきを、うけたる身の、心々(こころこころ)にたがへるは、かの七くさてふ花のかはれるに似たり。」

とて、

  おのがじゝにほふ秋野の七くさもつゆのめぐみはかはらざりけり

と、よみて、とらせたりしを、後(のち)に、綾子の、傳へ聞きて、

「よくも、いさめたるものかな。さらば、その七草(なゝくさ)の花にたとへんに、『藤ばかま』は、かぐはしといへば、太郞よ。その次なる女、かほ、よければ、『朝がほ』。その次は『をみなヘし』。『をばな』は、そこにこそ、をはさめ。越の御まへなるは『萩』、乙子(おとこ)は『なでしこ』となるべし。『葛ばな』は、めづるばかりのものならねども、葉のひろければ、はらからを、さしおほふ子の上にしも、似つかはしかるべくや。」

と定めたりしより、物には、綾子を「眞葛」と唱へ、拷は「萩」と唱へ、祝髮(しゆくはつ)の後(のち)は「萩(はぎ)の尼(あま)」ともしるしたり。

 かゝる、めでたき同飽(はらから)なりしに、五人は、命、長からで、文化の末(すゑ)には、眞葛と、萩の尼【瑞祥院。】のみぞ、のこりたりける。

 そが中に、眞葛は、いと、をさなかりしころより、異(こと)なる志(こゝろざし)ありけり。

 明和壬辰の大火の比、

「物のあたひの、にはかに、勝(のぼ)りて、賤しきものは、いよゝ窮する。」

と傳へ聞きて、ひとり、つらくおもふやう、

「いかなれば、商人(あきうど)の心ばかり鬼々(おにおに)しきものにはある。あはれ、民の父母たる身にしあらば、かく淺ましきことはあらせじを、悔しくも、女に生れたることよ。」

とは、歎きたり。

[やぶちゃん注:「明和壬辰の大火」「明暦の大火」・「文化の大火」とともに江戸三大大火の一つに数えられる「明和の大火」。明和九年二月二十九日(一七七二年四月一日)に江戸で発生した大火。目黒行人坂(ぎょうにんざか:現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近)から出火したため、「目黒行人坂大火」とも呼ばれる。同地にあった大円寺に盗みに入った武州熊谷無宿の願人坊主真秀の放火が原因であった(真秀は同年四月頃に捕縛され、同年六月二十一日、市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された)。当該ウィキによれば、この二十九日午後一時頃に『目黒の大円寺から出火した炎は』、『南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの』、午後六『時頃に本郷から再出火』し、『駒込、根岸を焼いた』三十日の『昼頃には鎮火したかに見えたが』、三月一日の午前十時頃、『馬喰町付近から』、またしても『再出火』し、『東に燃え広がって』、『日本橋地区は壊滅した』。『類焼した町は』九百三十四町、『大名屋敷は』百六十九邸、『橋は』百七十本、『寺は』三百八十二寺を『数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、浅草本願寺、湯島聖堂も被災した』。『死者は』一万四千七百人、『行方不明者は』四千人を『超えた。老中になったばかりの田沼意次の屋敷も類焼し』ている。なお、大事なことは、この時、真葛は未だ数え九歳だったことである。]

 これよりの後、

『われは、必ず、女の本(ほん)になるべし。』

と、おもひおこしつゝ、とにかくに、身をつゝしみ、己(おのれ)をうやうやしうすることは、さらなり、

「女子(をなご)は、おもてこそ、肝要なれ。」

とて、愛敬づきたらんやうにも、しつ。又、「から文」を讀ままくほりせしに、父、いたく禁(とゞ)めて、

「女子(をなご)の博士(はかせ)ぶりたらんは、わろし。草紙のみ見よ。」

と、いはれしかば、「源氏物語」・「伊勢物語」などを、常に枕の友としつゝ、年十六の時、はじめて、和文(わぶん)といふものを、一(ひと)ひらばかり綴りたりしに、父の平助、これを、村田春海に見せしかば、いたくめで、よろこびて、

「その師、なくて、かくまで綴れるは、才女(さいぢよ)なり。」

と、いひしとぞ。

[やぶちゃん注:「村田春海」(はるみ 延享三(一七四六)年~文化八(一八一一)年)は国学者で歌人。本姓は「平」氏。通称は平四郎。賀茂真淵門下で県居学派(県門)四天王の一人。真葛の母方の祖母桑原やよ子(くわはらやよこ 生没年不詳:仙台藩医桑原隆朝の妻)が優れた古典研究家で、彼女の書いた「宇津保物語考」を非常に高く評価したのがこの村田であり、真葛の父平助とも親しかった。因みに、「宇津保物語考」に於ける年立ての研究は、同作の本格的・先駆的考証作品であり、それは昭和初期に刊行された「日本古典全集」の「宇津保物語」などに収載されるほどに、現在のレベルでも学術的価値の高い論考であった。また、その中でやよ子が作成した系図は、本邦の国文学研究に於いて複雑な人間関係を見事に図示した最初のものとさえ言われているのである。真葛にはそうした血が流れていたのである。詳しくは、「只野真葛 むかしばなし (6)」の「桑原ばゞ樣」の私の注を参照されたい。]

 みづからは、只、「伊勢物語」を師として綴りてけるに、譽められしことの、けやけきに恥ぢて、このゝちは、親にすら、見せざりしかど、

『猶ほ、よくせん。』

と、おもひたり。

 手跡は、叔父なりける人、瀧本樣(やう)の能書なりければ、その手を學びて、大かたは極めたれども、五十(いそぢ)ちかきころ、右の腕(かひな)の痛む疾(やまひ)おこりしより、物かくことも、わかき時には劣り、目もかすむこと、常になりたれば、細書(さいしよ)の草紙は得(え)[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞「え」の当て漢字。以下でも、多数、出現する。]よまずといへり。いづれも、いづれも、「女の本(ほん)にならん」とほりせしに、日々のわざにして、何事にまれ、

『人のうへに就きて、心のゆく所を考へ果さばや。』

と、おもふ心も、つきにけり。

 かくて、弟元輔に、四書の講釋といふことをせさせて、只、一とたび、問くことを得たり。これにより、

『孔子・聖人(ひじり)[やぶちゃん注:この読みは吉川弘文館随筆大成版で補った。]の敎へは、すべて、かゝるすぢにこそ。』

と、聊かたのもしく思ひたり。

 佛のをしへも、よくはしらねど、

『念ずれば、必、利益(りやく)あり。』

と思ひとりて、年來(としごろ)、觀音と不動を信じ奉りけり。

 是より先に、とし十六、七なりし頃、仙臺候の御まへに、みやつかへにのぼせられし折り、

『みやづかへは、「獨り勤めなり。」と思ふこそ、よけれ。いくたりの同役ありとても、「勤むることは、われ、一人なり。」とおもはゞ、うしろ、やすかりけん。』

と覺期(かくご)せしかば、傍輩(はうばい)にも、憎まれず、人のおこたりを咎むる心も、なくして、果して、後(のち)やすかりし、といへり。

 又、をさなかりしころ、奴婢(ぬひ)の秘事(みそかごと)をするが、ものゝいひざまと、けしきとに、しらるゝをうち見て、

『あな、おろかにも、立ちふるまふものかな。「人にしらせじ。」と思ふことを、なかなかに、「人、しれかし。」と、いはぬばかりなるは、いかにぞや。かく淺はかなる心もて、しのびあふものどもの、後々まで、いかでか、遂げん。慾にまよふものゝ心ばかりおろかなるはなかりき。』

と、おもふ程に、果して、その事、顯(あらは)れて、追れしものゝありし、とぞ。

 かくて、給事(みやづかへ)の身のいとまを給はりて、宿所にまかりし比(ころ)、母のなくなりしかば、猶をさなかりし妹(いもと)どもの「うしろ見」をも、しつ、内(うち)治むることをさへ、うち任するものゝなかりしにより、三十(みそぢ)を、なかば過ぐるまで、人妻(ひとつま)とも得(え)ならでありしに、

「同胞(はらから)のうち、いづれまれ、國勝手(くにかつて)なる人の妻とせば、元輔が爲に、よろしかるべし。」

と、父の、年來(としごろ)いひつれども、「われ、仙臺へ赴かん。」といふものは、なかりしを、眞葛は、

「父の仰せには、もれ侍らじ。ともかくも、はからせ玉へ。」

といひしにぞ、父、よろこびて、あちこちと所緣(よすが[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では本文に『よづる』とある。この場合は「世蔓」か。])もとめつゝ、當時、勤番にて、江戶番頭なりし只野伊賀とて、祿千石を領する人の後妻(うはなり)に、えにし、定まりしかば、仙臺河内(かはち)支倉(はせくら)とて、仙城(せんじやう)の二の丸に程ちかき、只野氏(たゞのうぢ)の屋敷へ遣嫁(よめら)せられけり。

[やぶちゃん注:以上は真葛の事蹟を馬琴は極端に圧縮・省略(以下に示す初婚の事実は真葛が馬琴に送った文書類で馬琴は、知ってはいたが、哀れに思って意識的に書かなかった可能性が高い)してしまっている。その間の事蹟を当該ウィキから引く。かなり長くなるが、彼女の半生(本格的な著述に至るプレの部分としてのそれである)を知る上で甚だ重要である(五月蠅いとなら、ここの太字部分を無視すれば、本文の続きに飛べる)。十五『歳ころから縁談の話も出てきたが、祖母、父、母いずれも消極的であった。とくに母は、義母ゑんも実母やよ子も奥づとめの経験があったのに対し、みずからはその経験がなかったことに引け目を感じており、また、当時の結婚生活が女性には負担の大きいものであったことなどから早婚には反対で、あや子には奥女中奉公をすすめた。こうして』安永七(一七七八)年九月、十六歳で仙台藩上屋敷での奉公がはじまり、第七『代藩主伊達重村夫人近衛氏年子に仕えることとなった。彼女のこの時期の記録はほとんどのこっていないが、のちに、自分に朋輩はないものと考えて懸命に勤めたこと』、『また、町家から勤めにあがった者たちの話で、町人がいかに武家を憎んでいるかを知り、封建身分相互の間には埋めがたい対立のあることに気づいて驚愕したこと』『などを記している』。天明三(一七八三)年、『選ばれて重村の息女詮子(あきこ)の嫁ぎ先彦根藩井伊家上屋敷に移ることとなった。井伊直冨と伊達詮子の縁談を取り持ったのは、ときの権力者田沼意次であったという。これに前後して、父平助は』天明元(一七八一)年四月に「赤蝦夷風説考」『下巻を、天明』三『年には同上巻を含めてすべて完成させた。密貿易を防ぐ方策を説いた』「報国以言」を『老中田沼意次に提出した』。『これらの情報は、松前藩藩士前田玄丹』、『松前藩勘定奉行湊源左衛門、長崎通詞吉雄耕牛らより集めたもので』、翌天明四(一七八四)年には、『平助は江戸幕府勘定奉行松本秀持に対し』、「赤蝦夷風説考」の『内容を詳しく説明し、松本はこれをもとに蝦夷地調査の伺書を幕府に提出した。これにより、父工藤平助は』、『いずれ』、『蝦夷奉行に抜擢され、幕府の直臣になるという噂が流れた』。天明二年或いは三年頃、『平助はあや子に対し、おまえは結婚適齢期』(当時は二十歳頃とされた)『ではあるが、自分はこの先どれだけ出世するかわからず、いま結婚すると』、『妹たちの方が高い家格の人との縁談にめぐまれることも出てくるので、いま少し辛抱して奥づとめを続けるようにと諭されたという』。『平助や松本秀持の努力の甲斐あって天明』五『年には』、『田沼政権のもと』、『蝦夷地調査隊が派遣された』。しかし、翌天明六年は、『工藤家にとって災難の重なった年であった。国元は前年からの凶作(天明の大飢饉)で藩財政は厳しさを増した』。二『月には』、『平助の後継者として育てられてきた上の弟長庵が、火災後の仮住まいにおいて』二十二『歳で没した。幼いころから利発で思慮深く、将来を嘱望されていたが、病弱であった』。八『月には』、十『代将軍徳川家治の逝去がきっかけとなり、平助の蝦夷地開発計画に耳を傾けてきた田沼意次が失脚し』、十『月、幕府は第』二『次蝦夷地調査の中止を決定した。これにより』、『平助が蝦夷奉行等として出世する見込みはまったくなくなった。田沼のライバル松平定信の政策は、蝦夷地を未開発の状態にとどめておくことがむしろ国防上』、『安全だという考えにもとづいていた』。『築地の工藤邸は天明』四『年に焼失してしまうが、その後、築地川向に借地して家を建てはじめた。しかし、世話する人に預けた金を使い込まれてしまい、普請は途中で頓挫した。そうした』中、天明七(一七八七)年の『倹約令の影響で景気も急速に冷え込んだため、家の新築は見通しが立たなくなった。こののち、日本橋浜町に住む幕府お抱えの医師木村養春が平助に同居を持ちかけたので、工藤一家はここに住むことになった』。二『月、あや子のよき相談相手であった祖母ゑんが浜町宅で死去し』、『同じ年の』七月十一日には、『詮子の夫井伊直冨が病のため』二十八『歳で急死した。最後の手当に呼ばれて調剤した薬を差し上げたのが平助だったため』、『家中での評判がわるくなり、あや子も剃髪した詮子の傍らで仕えるのが心苦しくなった』ことから、天明八(一七八八)年三月、「身を引くべき時来りぬと覚悟して」病気を理由に勤めを辞した。彼女の奉公は、仙台藩上屋敷]五『年、彦根藩上屋敷』五『年の計』十『年におよんだ』。『奥づとめを辞した彼女は浜町の借宅に帰った。当時の浜町は「遊んで暮らすには江戸一番」と呼ばれる土地柄で、周囲には名所旧跡が多かった。この家からは、しず子が津軽藩家臣雨森権市のもとに嫁している』。寛政元(一七八九)年五月、『工藤一家は日本橋数寄屋町に転居した。地主は、国学者で歌人の三島自寛であった。この年の冬、あや子は平助より、かねて懇意としている磯田藤助が、藤助のいとこにあたる酒井家家臣と彼女との縁談を世話すると言っているので嫁に行けと言われ、あや子は父に従った』。二十七『歳になっていた』。しかし、『この結婚は惨憺たる結果であった。相手はかなりの老人であり、夫としてはじめて口にしたことばが「おれは高々五年ばかりも生きるなるべし。頼むはあとの事なり」だという。これが自分の一生を託す夫であり、自分ののこりの人生かと思うと情けなく、泣いてばかりいたあや子は結局』、『実家に戻された。また、酒井家家中では、伊達騒動の因縁から仙台藩をわるく言いたがる風潮があり、それもあや子にとっては苦痛であった。さらに、縁談を勧める際の父平助の「先は老年と聞が、其方も年取しこと」の言葉も彼女を傷つけた』。『離縁したあや子が数寄屋町に戻ったころより』、『次第に母が病いがちとなり、あや子は母になり代わって弟妹の世話をするようになった』。寛政二(一七九〇)年、三女つね子が加瀬氏に嫁いだ(つね子は』二十『歳代半ばで没している)。同年、雨森家へ嫁いで一子を産んでいた次女のしず子が病んで衰弱したのを知り、工藤家で治療のため』、『引き取ったところ、数日ののち』、『没してしまう出来事があった。あや子は、しず子の苦労続きの結婚生活を知り、雨森家の仕打ちに憤慨している』。寛政四(一七九二)年、三十歳の時、『母が亡くなった。末の照子はこのときまだ』七『歳であった。弟の源四郎は工藤家の家督を継ぐべく修行中の身であったが、あや子とは大人同士の会話を楽しめる』十九『歳の若者に成長していた』。『父からは漢学の学習を禁じられたあや子であったが、源四郎からは四書』『の手ほどきを受けている。年は離れていたが』二人は互いの『学識や向学心に敬意を払い』、ともに『理解しあえる仲のよい姉弟であった』。『また、地主の三島自寛とは、国学や歌文を共通の関心事として個人的な交流があり』、二『人はしばしば手紙をやり取りすることもあった』。寛政五(一七九三)年、『父工藤平助は弟子にあたる松前藩医米田元丹』『を通じて、ロシア使節アダム・ラクスマンの根室来航とともに帰国した大黒屋光太夫から』、『米田が直接聞いた光太夫の体験談やロシア情報などを知る機会を得た。こののち平助は』「工藤万幸聞書」として、『その情報をまとめた。父のかたわらにあった彼女は、これらの情報にふれたと思われる』寛政九年二月、『父工藤平助は医書』「救瘟袖暦」(きゅうおんんそでごよみ)『(のちに大槻玄沢による序が付せられた)を著し』、七『月には斉村の次男で生後』十『ヶ月の徳三郎(のちの』十『代藩主伊達斉宗)が熱病のため』、『重体に陥ったものの』、『平助の治療により』、『一命を取りとめた』。寛政九年、三十五『歳のあや子は仙台藩の上級家臣で当時江戸番頭の只野行義』(つらよし ?~文化九(一八一二)年:通称が只野伊賀)『と再婚することとなった。只野家は、伊達家中において「着坐」と呼ばれる家柄で、陸奥国加美郡中新田に』千二百『石の知行地をもつ大身であった。夫となる只野行義は、斉村の世子松千代の守り役を』、一旦、『仰せつかったが』、寛政八年八月の『斉村の夭逝により』、『守り役を免じられ、同じ月に、妻を失っていた。行義は、神道家・蔵書家で多賀城碑の考証でも知られる塩竈神社の神官藤塚式部や』、『漢詩や書画をよくする仙台城下瑞鳳寺の僧古梁紹岷(南山禅師)など』、『仙台藩の知識人とも交流のあった読書人であり、父平助とも親しかった』。『かねてより平助は、源四郎元輔の後ろ盾として』、『娘のうちのいずれかが』、『仙台藩の大身の家に嫁することを希望しており、この頃より』、『平助も体調が思わしくなくなったため、あや子は工藤家のため』、『只野行義との結婚を承諾した。彼女は行義に』、

 搔き起こす人しなければ埋(うづ)み火の身はいたづらに消えんとすらん

[やぶちゃん注:以上は漢字を恣意的に正字化した。]

『という和歌を贈り、暗に行義側からの承諾をうながしている』。『行義は、幼い松千代が』九『代藩主伊達周宗となったため、その守り役を解かれ、江戸定詰を免じられていた』。一旦、『江戸に招き寄せ』ていた『家族も』、『急遽』、『仙台に帰して』おり、この時の『行義との結婚は』、『あや子の仙台行きを意味していた。なお、のちに末妹の照子が仙台の中目家に嫁いでいる』。寛政九(一七九七)年九月十日、『あや子は仙台へ旅立った。このときの心境を、彼女は』二十『年後に振り返って』、

「友を捨て、父兄弟のわかれ、樂(たのしみ)をたちて、みちのくの旅におもむきたりし。かく、おもひたちしはじめより、『父に得し體にしあれば、いさぎよく、又、かえすぞ。』と思ひとりて、『三十五才を一期ぞ。』と、あきらめ、二度(ふたたび)歸らぬ旅立(たびだち)も、死出の道には增(まさ)りけりと、ことならず思ひ、此地にくだりて[やぶちゃん注:以下略。ここは独自に一九九四年国書刊行会刊の鈴木よね子校訂「只野真葛」の「独考(ひとりかんがへ)」の「独考巻の下抄録」を参考に恣意的に正字化して示した。]

『と述べており、悲壮な決意であったことを記している』。『また、結婚直後にあや子が行義にあてた手紙がのこっており、このなかで、くれぐれも工藤家への配慮を願っており、「これよりはいくひさしく御奉公申し上げ候」のことばも綴られている』、八『年後、あや子は父平助への思いを』、

 はしきやし君がみことをかゞふらば火にもを水にも入らんと思ひしを

『の歌で言い表しており、父のことばであれば』、『火中・水中に入ることも辞さなかったと詠っている』。『仙台行きには、夫只野行義は職務の都合により』、『同行できず、弟源四郎が付き添った。仙台只野家に到着したのは』九月二十二日で、『屋敷は仙台城二の丸近くの元支倉扇坂(現在の東北大学構内)にあった』。『只野家では』、『行義の老母、おば、きょうだい、息子たちがそろって待機しており、彼女と』、『にぎにぎしい対面を果たした』、『これ以後、あや子は終生』、『仙台で暮らすこととな』った。『行義には先妻とのあいだの男子』三人がおり、十四『歳の嗣子只野由治(のちの図書由章)、次男由吉(のちの真山杢左衛門)、三男由作(早世)であった。ほかに四男にあたる養子(のちの大條善太夫頼秀。行義の父只野義福の妾腹の子)がいた。行義は翌』寛政一〇(一七九八)年二月に『仙台に帰り』、翌寛政十一年には、『嗣子由治をともなって再び江戸に旅立った。このように、行義はその後も職務の性格上』、一『年おきに江戸と仙台を往復する生活を送った。行義が仙台に戻った際には、あや子に江戸のようすをこまごまと話してきかせた。行義はあや子の影響で和歌を詠むようになり、彼女もしだいに行義に対し』、『深い愛情をいだくようになった。また、仙台の屋敷にのこった子どもたちもよくなついた』寛政十年には、『桑原純と思われる叔父より』、『多数の書籍が贈られており、そのなかの賀茂真淵の著作』「ことばもゝくさ」に非常に『感銘を受けている』。『この頃より』、『あや子はいっそう熱を入れて本格的に国学関係の本を読むようになったと思われる』。同年『冬、あや子は宮城郡の塩竈神社に詣でており、紀行文として』「塩竈まうで」を『著している。これを江戸の父平助に送ったところ、村田春海に見せたという知らせが届き、あや子は』大いに『恥じ入っているが、春海より思いがけない称賛を受け、「そぞろにうれしき事かぎりなかりき」』(「独考」)『との感想をもらしている。また』、寛政十一年には、『結婚からこの年までの日記文』「みちのく日記」が完成を見ている、とある。

 人、或(ある)は、これを諫めしものゝありしに、眞葛、答へていはく、

「遠く仙臺へよめらせんと欲[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版によれば、『ほり』とひらがなで記されてある。]するは、これ、父のこゝろなり。又、遠くゆくことをうれはしく思ふは、子の心なり。なでふ、子の心を、心として、親の情願(じやうぐわん)に背(そむ)くべき。われは、『三十六歲を一期(いちご)として、死したり。』と思へば、うれひもなく、うらみも、あらず。死して、すぐせ、わろくば、必、地獄の呵責を受くべく、且、親同胞(おやはらから)にあふに、よし、なかるべし。仙臺は、もとも厭(いと)はしき所なり。且、聲、だみて、むくつけきをとこに、かしづき、『詞(ことば)がたき』[やぶちゃん注:「和歌や文章について対等に語り合う相手」の意であろう。]もなき宿を、生涯、うちまもりたらんも、地獄の呵責には、ますこと、なからんや。」

と、いひしとぞ。

 さて。年ありて、父平助も身まかり、眞葛の良人(おつと)伊賀も世を去りて、前妻(もとつめ)の嫡子只野圖書(たゞのづしよ)の世となりにたり。

[やぶちゃん注:工藤平助は寛政十二年十二月十日(一八〇一年一月二十四日に享年六十七で病没した。真葛数え三十八の時であった。そして真葛五十歳の時、江戸詰となっていた夫只野行義が江戸で急死した。文化九(一八一二)年四月二十一日のことであった。]

 この家、いとかたくなゝる家則(かそく)多くて、傍らいたき事のみなれども、繼母(けいぼ)の事なれば、何事も得いはず、

『いとおろかなるわざかな。』

と思ひつゝ、そが、まにまにせずといふこと、なし。はじめ、

『女の本(ほん)にならん。』

と思ひしを、得果さず。をのこ・はらからの、世をば、はやくせしことのかなしくて、

『よしや、わが身、女[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では平仮名で『おうな』とある。]なりとも、人に異(こと)なる書(ふみ)を著はして、世にも知られ、乃祖(ないそ)[やぶちゃん注:祖父或いは先祖。]の名をも、顯はさばや。』

と思ふに、今の諸候の多くは、財主の爲に苦しめられながら、嬖妾(へいしやう)[やぶちゃん注:「愛妾」に同じ。]に費えを厭ひ玉はず。或は、職位(しよくゐ)を望みて、そがなかだちするものに、謀(はか)られ、あたら、黃金(こがね)を失ひ玉へることなどをはじめとして、經濟の可否を論ずること、數篇(すへん)、全書三卷を「獨考(ひとりかんがへ)」と名づけたり。時に文化十四年冬十二月朔、眞葛五十五歲の著述とぞ聞えし。此他、「奧州ばなし」一卷、「磯づたひ」一卷あり。予が、こゝにしるしつけたるは、眞葛の、予が爲に書きておこせし「昔がたり」・「とはずがたり」・「秋七くさ」・「筆のはこび」などいふ草紙の意をうけて、畧記しつるものなり。

[やぶちゃん注:「奧州ばなし」「磯づたひ」は既にブログ・カテゴリ「只野真葛」で電子化注を完遂しており、それらの一括縦書PDF版も私の個人サイト「鬼火」内の電子テクスト・ページ「心朽窩旧館」で、それぞれ、「奧州ばなし」及び「磯づたひ」として公開してある。

 以下は、底本でも改行してある。一つの切れめでもあるので、一行空けた。]

 

 予は、近き頃まで、眞葛をしらず、文政二年己卯[やぶちゃん注:一八一九年。]の春きさらぎ下旬、家の内のものどもの、年の始めのことほぎにとて、親族許(しんぞくがり)ゆきたりし日、齡(よはひ)五十(いそぢ)ばかりなる比丘尼の、從者(ずさ)ひとりいたるが、來て、おとなふ有けり。とりつぐものゝなき折なれど、うちも、おかれず、みづから出でて、

「いづこより來ませしぞ。」

と問ふに、比丘尼のいはく、

「尼は、牛込神樂坂(うしごみかぐらざか)なる田中長益(ちやうゑき)といふ醫師(いし)に由緣(ゆかり)あるものに侍り。主人(あるじ)に見參(けんざん)せまほし。」

と、いひつゝ、にじり上りたり。

 予は、文化のはじめより、客を謝し、帷(ゐ)を垂れて、常に人と交はらず、をちこちの騷客(そうかく)の、多(さは)に來訪せらるゝも、舊識(きうしき)の紹介(ひきつけ)なければ、病ひに托(たく)して、逢はざりしに、

『ついで、わろし。』[やぶちゃん注:「面会の次第が乱暴でよくないな」。]

と、思へども、せんかたのなきまゝに、

「いな、主人は出でゝ、今朝より、あらず。家の内の人ども、いつちヘか、ゆきたりけん、己(おのれ)は、しばし、留守するもの也。何事まれ、仰せおかれよ。歸らば、傳へまゐらせん。」

と、惟光(これみつ)がほに、答へたり。

[やぶちゃん注:面白い表現だ。ただ、考えて見れば、自身を光源氏に譬えているわけで、ちょっと憎い感じはする。]

 その時、比丘尼は、ふところより、一通の封狀と、「さかな代(だい)」と、しるしたる「こがね」一封(いつふう)と、「ふくさ」に包みたる草紙三(み)まきを、とり出でゝ、

「こは、みちのくの親しきものより、『あるじに、とゞけまゐらせよ。』とて、おこしたるなり。草紙は、『をんなの書きたるを、こゝの翁の筆削(ひつさく)をたのみ侍る。』とよ。猶、つぶさには、此消息(せうそこ)にこそ、あらめ。あまは、今宵、田中許(がり)止宿(ししゆく)し侍れば、翌(あす)のかへさに、又、とぶらひ侍りてん。『その折りに、一筆(ひとふで)なりとも、此かへしを賜はれ。』と傳へ給へかし。」

といふ。

 予、答へて、

「そは、こゝろ得て侍れども、主人は、年來(としごろ)、『筆とる技に倦(う)みつかれたれば。』とて、いづ方より、よざし玉ふも、かゝるものは、うけ引き侍らず。殊更、留守の宿(やど)なるに、あづかりおかば、叱られやせん。又、折りもこそあるべきに、こは、もてかヘらせ玉へかし。」[やぶちゃん注:「よざし」「よさす」は元は上代語で後世には「よざす」とも表記する。四段活用動詞「寄(よ)す」の未然形に、上代の尊敬の助動詞「す」の付いたもので、「おまかせになる・ある事柄をある人に委任なさる」の意である。ここは、その「す」が使役の意に転じた用法で、二重敬語ではあるまい。]

と、いなむを、比丘尼は聽かずして、

「そは、宣(のたま)ふことながら、おん身の心ひとつもて、おしかへされんことには、あらじ。とまれ、かくまれ、あづかりて、たべ。翌の朝は、巳(み)の比[やぶちゃん注:午前十時頃。]に、またこそ、來(き)め。」

と、期(ご)をおして[やぶちゃん注:再来の刻限を定めて。]、いとまごひして、まかり出でにけり。

 予も亦、書齋に退(しりぞ)きて、まづ、その狀を、ひらきて見るに、いひおこしたる趣きは、比丘尼のいへるに同じけれども、ふみの書きざま、尊大にて、

――馬琴樣 みちのくの眞葛――

と、のみありて、宿所などは定かにしらせず、いぶかしきこと、限りもなければ、獨り、つらつら思ふやう、

『此(この)年來(としごろ)、貴人(あてびと)より、書を賜はりし事のあれども、かくまでに尊大なるは、いかなる人の妻やらん。仙臺侯の側室(そばめ)にて、「御部屋(おへや)」など、唱ふるもの歟。遙々と、よざしぬる草紙は、何を書きたるやらん。』

と、思へば、やがて繙(ひもと)きて見れば、經濟の可否を論じて「獨考」と名つけたる「ふみまき」の稿本(したがき)なり。

『その說どもの、よき、わろきは、とまれ、かくまれ、婦人には多く得がたき見識あり。只、惜しむべきことは、眞(まこと)の道をしらざりける、不學不問の心を師として、ろ論じつけたるものなれば、傍らいたきこと、多かり。はじめより、玉工の手を經て、飽くまで磨かれなば、かの「連城(れんじやう)の價(あたひ)」におとらぬまでになりぬべき。その玉をしも、玉鉾(たまぼこ)の、みちのくに埋(うづ)みぬることよ。』

と、おもへば、今さらに捨てがたきこゝろあり。

[やぶちゃん注:「連城の價」「連城の璧(たま)」が一般的。秦の昭王が十五の城と交換したいと申し入れたという趙の恵文王の所蔵していた玉璧(ぎょくへき)。転じて「またとない宝物」の比喩。「和氏璧(かしのたま)」或いは単に「連城」とも。]

 さは、さりながら、人妻か、母か、もしらぬ一老婆(いつらうば)の、その宿所だに定かならねば、需(もとめ)に應ずべくもあらず。

『いでや、わが志を見しらして、その後に、ともかくもせんすべあれ。』

と、おもふになん、その夜、「かへし」をものするに、

――己(おのれ)は、いとはやくより、市(いち)にかくれて、婦幼童(をんなわらんべ)のもてあそびものとなるよしは、刀自(とじ)にもしられたるなるべし。さばれ、こたみ、よせられしおん作の『さうし』は、それらのすぢにはあらぬを、世の人の、われをしれるものと、異(こと)なる見どころあるにあらずば、江戶には、名だゝる儒者も、國學者も多かるに、己には、たのみ玉はじ。さるこゝろもて、せられなば、などて、いと尊大なる。大凡(およそ)、人にもの問ふには禮節あり。いにしへの人は、一字(いちじ)の師をだも、猶、おろかには、せざりき。もし、まことに問はん、とのみ、こゝろあらば、かくはあらじを、馬琴とだに、たゝへられしは、いかにぞや[やぶちゃん注:ママ。吉川弘文館随筆大成版では『馬琴とさへものせられしはいかにぞや』で、その方が腑に落ちる。]。曲亭も、馬琴も、予が戲號(げがう)なれど、戲作・狂詩・狂歌などのうへにのみ交はる友ならば、しか唱へられんに、咎むべき事にはあらず。もし、實學正文(じつがくせいぶん)のうへをもて交はる友に、なほ『曲亭』とたゝへられ、『馬琴』といはるゝは、是、われをしらざるものに似たり。いかでか、予がこゝろに耻づること、なからんや。かゝれば、刀自も、よく、予をしり玉へるに、あらざるなめり。近頃、平賀源内が、儒學・蘭學のうへには『鳩溪(きうけい)』と號し、戲作には『風來山人』と稱し、淨瑠璃本の作あるには『福内鬼外(ふくうちきぐわい)』と、しるしけり。又、太田覃(おほたたん)[やぶちゃん注:底本では「覃」に「せん」とルビするが、誤りなので訂した。大田南畝の本名であるこれは訓読みして「ふかし」である。ただ、尊敬を示して音読みすることは普通に行われる。]は、儒學に「南畝」と稱し、狂詩に「寢惚先生(ねぼけせんせい[やぶちゃん注:ルビは「ね」がない。補った。])」と稱し、狂文・狂歌に「四方赤良(よもあから)」「四方山人(よもさんじん)」「巴人亭(はじんてい)」「杏花園(きやうくわゑん)」などもしるし、晚年には「蜀山人」と號したれども、戲作・淨瑠璃のうへならでは、「鳩溪(きうけい)」を「風來」とも「鬼外」とも稱するものなく、狂文・狂詩・狂歌のうへならで、「南畝」を「寐惚(ねぼけ)」とも、「四方」とも、「巴人亭」とも稱するものは、あらざりき。よしやその著(いちじる)きをのみ、呼びなれて、虛實の號を混ずるとも、眞(まこと)によくその人をしれるものは、こゝらに、心を用ふべき事歟。刀自は、よく予をしらず、予は、素より、刀自を知らず。男女(なんぢよ)、みづから、授け、受けざるは、「禮」也。刀自は人の妻歟、母歟。その宿所だも、つゝみ玉ふには、われ、答ふる所をしらず。こゝをもて、只、わが志(こゝろざし)を述べて、おどろかし奉るのみ。――

と、書きしるしつ。

 かくて、妻(め)のをんな[やぶちゃん注:馬琴の妻。]を呼びて、

「翌の朝、しかじかの比丘尼、來つべし。『主人は、けふも、未明(はやき)に出て、あらず。こは、きのふの「おんかへし」なり。』と告げて、わたせよ。」

といふに、こゝろ得て、しか、はからひつ。

 この後(のち)、二十日ばかりを經て、又、かの比丘尼より、御宰(おさい)めきたる使ひをもて[やぶちゃん注:「御宰」江戸時代に奥女中の供や、買い物などの雑用をした下男。但し、通常、その場合は「ごさい」と読む。]、

「みちのくよりの消息を屆け侍る。」

とて、おこしたるに、「栲(たへ)の尼」と、しるしたる添へふみも、ありけり。

 まづ、眞葛の狀をうちひらきて見るに、こたみは、いと、おしくだりて、文(ふみ)の書きざまの、ねもごろなりし。そが中に、

――よろづに、あはあはしき[やぶちゃん注:「淡淡しき」。いかにも軽薄で浮わついた。]をんなの、よそをだに得しらねば、今は『やもめ』にて、いとおよすげたる[やぶちゃん注:たいそう老けた感じの。]身にしあれど、『をとこに物いはんに、ねもごろぶりたらんも[やぶちゃん注:「いかにも心を込めて丁寧に記すのも」の意であろう。]、なかなかに、無禮(なめげ)なるべし。』と思ひとりしより、『禮(ゐや)なし』と見られにけん。露(つゆ)ばかりも、そなた樣をあなどる心あらば、人には見せぬ筆のすさびを、たのみ奉ることやはある。この後(のち)とても、心づきなき事、多からんを、敎へられんとこそ、ねがひ侍れ。『こなたのうへを、しらせよ。』とあるに、いかで、つゝみ侍るべき。眞葛はしかじかなり。又、さきにわらはが消息(せうそこ)を、もてとぶらひ侍りしは、妹(いもと)にて、しかじか。――

と、その身のうへをも、妹『拷(たへ)の尼(あま)』の名どころをも、つぶさに書きしるして、別に「昔かたり」といふ草紙一巻(ひとまき)に、その先祖の事さへ、しるしつけて、みせられたり。

 又、その消息に、

――こゝには、『詞(ことば)がたき』もなく侍れば、只、あけくれに、物を考へ見かへすることの、癖となり、病ひともなり侍りたり。さて、思ふやう、何の爲に生(な)り出でつらん。女一人(をんなひとり)の心として、世界の人の苦(く)を助けまほしく思ふは、なしがたきことゝしりながら、只、この事を思ふが故に、日夜、やすき心もなくて苦しむぞ、無益(むゑき)なる。今は『やもめ』にもなりつるに、なげきをのこさん子とても、なし。息のかよはん限りは、この歎き、やむこと、あたはじ。長く生きてくるしまんより、息をとゞむるぞ、苦をやすむるの、すみやかなるべしと思ひて、ひたすら死なんことを願ひ侍りしに、時は秋のことなりき、曉(あかつき)がたの夢に、

[やぶちゃん注:以下、底本でも改行一字下げ。但し、和歌の上句の後は、そのまま続いてしまっている。]

 秋の夜のながきためしを引く蔦(つた)の

といふ歌の上の、おのづから、ふと、聞えたるは、多年信じ奉る觀音菩薩の、しめさせ給ふと覺えて、夢ごゝろに忝(かたじけな)く、此下のつけやうにて、おのが一世の占(うら)とならん、とまで、しめさせ玉ふ、とおぼえて、いとうれしく、心、いと、あわたゞしきものから、世々に榮えんとこそ、いはめ、と思ふ程に、さめはて侍りき。

『四の句、いと、大事ぞ。』

と思ひつゝ、やゝ程(ほど)ありて、

[やぶちゃん注:ここは底本でも改行(字下げはなし)であるが、同前。]

 たへぬかつらは

と、つけ侍りし。

[やぶちゃん注:「たへぬ」はママ。

 ここは底本でも改行で一字下げであるが、同前。]

 秋の夜のながぎためしにひく蔦のたへぬかつらは世々に榮えん

と、一首のかたちをなしぬれど、いと心もとなくのみ思ひ侍りき。かく、たえず、物をのみ思ひ積みし故によりて、病者(びやうしや)となり侍りて、身もよはく、心もきえきへにのみ、なり增さりしは、不動尊を信じ奉りて後、漸(やうや)く、病も、うすくなり侍りしかども、今に、右の手のいたみて、筆取ること、心のまゝならず、眼(め)、くらくして、細書(さいしよ)をみること、あたはず。是は『老(おひ)の病ひ』とぞ覺え侍る。この近きわたりに、「岩不動」と申し奉るが、たゝせ玉ふ。年每(としごと)の五月廿八日には、このわたりなる幼童(わらんべ)どもの、集合(つど)ひて、御輿(みこし)をかき荷(にな)ひ、御旗(みはた)、あまた持ちて、遊ぶが如く、もて渡り侍り。我も赤色(あかいろ)なる御旗をたてまつりしを、御先(みさき)に持ちてわたりしかば、御心につかせ玉へるならめと、有がたく思ひ侍りしに、宵過ぎて、うすねふたきに[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版に『うすねむたきに』とあり、「薄眠たきに」(少し眠気がさしてきた頃)の意であることが判る。]、

『いざ、ねばや。』

と思ひて、端居(はしゐ)しながら、籠(かご)にこめたる螢(ほたる)の、やすげなくふるまふをまもりつゝ、何心(なにごゝろ)もなくてありしほどに、

[やぶちゃん注:底本でも改行一字下げ。但し、文は後に続く。]

 ひかりある 身こそくるしき思ひなれ

といふことの、耳にきかれて、めさむるこゝちもしは、

『此(この)御佛(みほとけ)の御しめしぞ。』

と、有りがたくて、

[やぶちゃん注:同前。]

 世にあらはれん時をまつ間(ま)は

と、又、下をつけそへ侍りし。

 此二歌(ふたうた)をちかくに、

『さらば、心にこめしことどもを、書きしるさばや。』

と思ひ立ちて、いと、おほけなき[やぶちゃん注:身のほど知らずな。身分不相応な。]ことどもを、いひ出だせるに侍るなる。書き果てて後に、

『誰(たれ)に「しらげ」をたのまばや。』[やぶちゃん注:「しらげ」「精(しら)げ」で「精(しら)ぐ 」(他動詞ガ行下二活用)で、精米するように、「磨きをかけて仕上げる・鍛えて一層良くする」の名詞形で、「校閲して貰ってブラッシュ・アップすること」を指す。]

と、久しう思ひ煩ひて侍りしに、

「かゝる人に見せよ。」

と、不動尊の御しめしありし故、

そなたに、ことよせ侍りしにこそ。おろそかならず、考を添へ給はらんなんど、ねんじ奉りぬ。今の此身は、譬へば、小蛇の(せうじや)の、物に包まれて、死にもやらず、生きもせず、むなしき思ひ、のこれるに、ひとし。

『君(きみ)、雨となり、風となりて、こゝろざしを、引きたすけ玉はらば、もし、天に顯はるゝことのありもや、せん。』

など、ありて、こたみは、瀧澤解(とく)大人(だいじん)先生樣御もとへ 綾子――

と、書かれたり。

 この長文(ながぶみ)を見る程に、おもはず淚は、はふり落ちて、あはれむこゝろになりにたり。

 名を諱(い)む事は、「からくに」の制度なるを、國學などのうへにては、ふかく、いむよしも、あらず。たとひ、今は、なべて忌むとても、戲號(げがう)を唱へらるゝには、はるかにまして、ほいに稱(かま)へり。但し、「大人先生」などたゝえられしのみ、當(あた)りがたきことなれば、「大人先生」のわけをしるして、かたく、とゞめたりけれども、猶、あやにくに[やぶちゃん注:予想以上に厳格で。馬琴先生、実は、また真葛に使って欲しかったわけね!]、用ひざりけり。こは、羹(あつもの)に懲りしものゝ、韲(あへもの)[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では『スノモノ』とルビする。「韲」は「膾」「鱠」に同義。]を吹くたぐひならまし。そもそも、この眞葛の刀自は、「おのこだましひ」あるものから、をさなきよりの癇症の凝り固まりしにもや、あらん。さばれ、心ざま、すなほにて、人わろからぬ性ならずば、予がいひつることゞもを、速かに諾(うべな)ひて、遠祖(とほつおや)の事をさヘ、しるして見することやは、せん。かゝる婦人のたのめる事を、猶、いなまんは、さすがにて、しかじかと、ことうけ、しつる。

 そのをりの、予がかへしに、

――「海(うみ)なす御心の廣からずば、木の枝に鼻をすらるゝ。」といひけん如き、予が言(こと)ぐさを、諾(うべな)ひ容(い)れて、しかじかとは聞え玉はじ。およそは、こたみの御消息にて、あし曳(びき)の山の井のかげさへみゆるこゝちし侍れば、淺くは思ひ侍らねど、『不動尊の示現(じげん)によりて』など聞え玉ふばかり、うけられね。そは、とまれ、かくもあれ。たのまれ奉りし一條は、よくも、わろくも、なし果て、おん笑ひにこそ、備(そな)ふべけれ。しかれども、生業(なりはひ)の爲めに、たのまれたる書きものゝ多かれば、今年の暮れまで、待たせたまへ――

など、しるして果て、妹の尼の添ふみを見るに、

――陸奥(みちのく)よりの消息(せうそこ)とゞけ奉る。さても、いぬる日、ふたゝびまで、とぶらひまつりしは、

『人づてに、な、せそ。みづからゆきて、しかじかと傳へよかし。』

と、みちのくより、いひおこせたりしにこそ。さるを、次のあしたにも、あはせ玉はぬにて、しか、侍りぬ。かの留守居(するゐ)の翁(おきな)こそ、こゝろにくけれ。かゝれば、奧のたより每に、尼がその消息をもてゆきて、とゞけまゐらするも要(えう)なし。此のちは、いつも使ひをもて、すべきに、「禮(ゐや)なし」とて、な咎めたまひそ。――

と、ゑんじたるふみの書きざまなれば、予は、何とも、そのことのいらへはせで、

[やぶちゃん注:以下、底本でも改行一字下げ。但し、同じく文は下に続く。]

 ふみわきてとはれし草のいほりにはなほ春ながくかるゝ君かも

と、よみてつかはしゝかば、後のたよりに、かへし、

[やぶちゃん注:同前。なお、「かへし」の行の下方インデントで以下の名前はあるが、改行した。]

                 萩の尼

 やぶしわかぬ君が心しはるならばわりことくさもかれずやあらまし

と、ありしに、又、予がかへし、

 ことくさを花とし見ればとゞめあへずきのふおしみしはるはものかは

と、よみて、つかはしけり。こは、卯月朔日のことにぞ有りける。

 この「萩の尼」瑞祥院も、多く得がたき才女(さいぢよ)にて、歌をよみ、和文(わぶん)をよくし、走り書き、うるはしくて、手すぢは姊(あね)の眞葛に似て、瀧本樣(やう)なるも、めでたし。

 程へて、予が「ことくさ」の歌をたゝヘて、

[やぶちゃん注:同前。]

 ことの葉のしげきいほりの下つまやふるえの萩をはなとなすらん

と、よみておこしたりき。[やぶちゃん注:この一首、吉川弘文館随筆大成版では、三句目が『下つゆや』である。]

 又、このとしの冬、萩の尼より、ものをつゝみておこしし服紗(ふくさ)を、あやまちて、火桶の中へとり落したりけるを、わびつゝ、かヘしつかはす、とて、

[やぶちゃん注:同前で、「解」の名の位置は先と同じ処理をした。以下、五月蠅いばかりなので、歌では、この注をしない。]

                   解

 こがれつゝわたしかねたる川舟(かはふね)のかぜのふくさにいとゞくるしき

と、いひしに、萩の尼のかへし、

  「やけふくさ」といふことを

と、はし書きして、

 よの人のたぐひにあらずまめなりやけふ草の戶にかへすこゝろは

と、ありし。こは予が遣はしたる、かへの服紗をかへせし折の事になん。

 是より先に、彌生のころ、眞葛のせうそこに、

――御生業(おんなりはひ)の爲めに、筆とらせ玉ふにて、いとまなきに、しばしば、わづらはし奉るを、『こゝろなし』とや、おもはれ侍りてん――

などありしに、「かへしす。」とて、よみてつかはしける、

 わが宿のはなさくころもみちのくの風のたよりはいとはざりけり

ほど經て、眞葛の、かへし、

 あやまたず君につげなんかへる雁かすみかくれにことつてしふみ

こは、その家の「おきて」あれば、予に消息(せうそこ)をおくれる事を、誰々(たれたれ)にもしらせずとか。嚮(さき)に聞きたることもあれば、歌の心も、しられたり。是より後、かねて書きつゞりたりし物をば、妹(いもと)の尼に淨書せしめ、又、予が爲に綴れるものをば、眞菖の、みづから淨書して、くさくさ[やぶちゃん注:底本は「くさしく」。吉川弘文館随筆大成版で訂した。]、おくりて見やられたり。

 この餘、その消息のはしにも、眞淵・春海(はるみ)・宣長・大平(おほひら)などを論ぜしあり。いと、けやけくおもほゆるを、「さのみは。」とて、しるしも、つくさず。

[やぶちゃん注:「大平」本居大平(もとおりおおひら 宝暦六(一七五六)年~天保四(一八三三)年)であろう。伊勢松坂生まれの国学者。旧姓は稲懸。十三歳の時に本居宣長の門に入り、「茂穂」と称した。宣長に愛され、四十四歳で、その養子となり、宣長の死後、失明した宣長の子春庭(はるにわ)に代って、家を継ぎ、紀伊藩に仕えて国学を講じた。門人も多く、宣長の思想の普及に力を尽した。著書に「古学要」・「神楽歌新釈」・「万葉集合解」などがある。]

 かゝりし程に、このとしも、はや、霜月になりしかば、

――「獨考」のことは、忘れ玉はずや。かねての約束をたがへたもふな――

など、いひおこせること、しばしばなれども、

『今さらに、そのふみを引きなほさん事、易からず。もし、そのわろきを刈りとらば、殘らんことの葉、すくなかるべし。こは、此まゝにうちおきて、別に、諭(さと)すに、ますこと、あらじ。』

と、思ひにければ、原本は假名づかひのたがへると、眞名(まな)の寫しあやまれるに、いさゞか雌黃(しわう)を施して、別に「獨考論(どくこうろん)」二巻(ふたまき)を綴りたり。

 その言(こと)、露ばかりも謟(へつら)ひかざれる筆を、もてせず。その是非を、あげつらふに、敎訓を旨として、高慢の鼻をひしぎしにぞ。いと、おとなげなきに似たれど、

『かくいはで、かたほめせば、いよいよ、さとるよしなくて、にぶし、といふとも、予が斧(をの)をうけたる甲斐は、あらざるべし。人に信(まこと)をもてするに、怒りを怕(おそ)れて諫めざらんは、交遊の義にあらず。』

と、かねておもふによりて也。

[やぶちゃん注:「雌黄」元は硫化砒素からなる鉱物(黄色で半透明、樹脂光沢を持つ。鶏冠石に伴って産することが多く、有毒。雄黄(ゆうおう)に同じ)のこと。これを、昔、中国で、文字の抹消に用いたところから、「詩文を改竄・添削すること」を指す。]

 かくて、廿日ばかりにして、その書、やうやく成りしかば、みちのくへ、つかはすとき、

「いついつまでも、まじらひし事、うけたまはり度(たく)思ひ侍れど、をとこ・をみなの交りは、「かしらの雪を冬の花」と見あやまりつゝ、人もや、咎めん。且、わが生業(なりはひ)のいとまなきに、年來(としごろ)思ふよしもあれば、いとふるき友すら、疎(うと)くなり侍りたり。かゝれば、おん交はりも、是を限りとおぼし召されよ。」

など、いひ、つかはしゝに、次のとしの春、みちのくよりのかへしとて、「萩の尼」の屆けられたり。

 くだんの尼は、予が論の書きざまを譏(そし)れりと見て、うらみにけん。

 怒りは、筆に、あらはれにき。

 こは、あねにおとりて、むねせまき婦女子の氣質と、しられたり。

 眞葛は、さもあらずして、いと、いたく、よろこび、うけたる、消息のまめやかにて、――おんいとまなき冬の日に、書肆(ふみや)どものせめ奉る、春のまうけのわざをすら、よそにして、かう、ながながしきことを綴りて、敎へ導きたまはせし、御こゝろの程、あらはれて、限りもなき幸ひにこそ、侍れ。なほ、永き世に、此めぐみをかへし奉るべし――

と、書かれたり。

 このとき、越前の「御くにかみ」[やぶちゃん注:「御國紙」か。特産の特殊な和紙であろう。]とて、賣物には絕えてなき小形(こがた)の美の紙[やぶちゃん注:「みのがみ」。]十五帖と、おなじ國の「はさみ」、陸奥名とり川なる「うもれ木」の栞(しをり)、「もとあらの萩の筆」などを、贈られしにぞ、明けの春、きさらぎの頃、そのよろこびを、一筆(ひとふで)書きてつかはせしに、かしこのかへしは來(き)にたれど、久米路(くめぢ)の橋の、なか、絕えて、ふみ見ることは、なくなりぬ。

「いとかなし。」

とも、かなしかりしが、かく遠ざかりぬる事を「いかにぞや」と思ふ人の爲めには、いふもえうなきわざながら、

『彼(かの)同胞(はらから)は才女(さいぢよ)なり。齡(よはひ)は、かれも小動(こゆるぎ)のいそぢを過ぐる程なりとも、迭(たがひ)におもてをしらずして、親しく年をかさねなば、李(すもゝ)の下に冠(かむり)を正(たゞ)し、瓜の園(その)に履(くつ)をいるゝ人の疑なからずやは。且、彼家のぬしには、しらさで、みそかにす、といはるゝをしりつゝ、交るべくも、あらず。いと捨てがたき思ひありて、捨てずしてかなはぬは、すぐせありての事ならん。』

と、かねてより、おもひしなり。

 これよりの後、まどろまぬ曉(あかつき)每(ごと)に思ひ出で、そのあけの朝、消息(せうそこ)さへ、とり出だしつゝ見る每に、淚は、胸にみちしほの、ふかきなげきとなりにたり。

 この後(のち)、三(み)とせばかりの程は、

「『萩の尼』が御宰(おさい)をもて、予が家の『奇應丸(きわうぐわん)』を求めさせつる事、折々ありし。」[やぶちゃん注:息子の松前藩医員の興継が調合した市販薬であろう。]

と、むすめどもの、いひつるにて、

『扨は。予が安否のほどを、みちのくへ告げんとての、わざか。』

と思ふも、いと、はかなし。

 いかで、われ、眞葛の草子を刻本(ゑりまき)にして、世にあらはさんとは思へども、彼(か)の「獨考」は禁忌に觸るゝこと、多かり。まいて、予が「獨考論」などは、人に見すべきものには、あらず。されば、

「此二書は、そゞろに、な、人に貸(か)しそ。」

と、興繼をすら、いましめたり。

 又、「奧州ばなし」などいふものも、憚るべきこと、まじりたれば、刻本には、なしがたし。只、「磯づたひ」の一書のみ、その文の、特にすぐれて、且、めづらかなる說もあり。禁忌にふるゝことのなければ、

『是をこそ。』

と、おもふ物から、いまだ時の至らぬにや、書肆(ふみや)と謀(はか)るいとまなかりき。

 眞葛の齡(よはひ)を縷(かゞな)ふるに、予に、四つばかり[やぶちゃん注:数えでなければ正しい。]の姊(あね)なりければ、今もなほ、恙なくば、六十(むそぢ)あまり三ッにやならまし【眞葛は文政七年某の月日に、身まかりしとぞ。今玆三月、尾張の友人田鶴丸が、松島、見にゆきしをり、ことつけしに、眞葛と、うとからぬ仙臺の醫師にたつねしよしにて、はつかに、その訃聞えたる也。丙戌四月追記。[やぶちゃん注:冒頭注に記した通り、文政七年は誤り。真葛はこれが発表された十月一日から三ヵ月余り前の文政八年六月二十六日(一八二五年八月十日)に没していた。享年六十三であった。]】。

[やぶちゃん注:「かがなふ」は漢字は「僂」が正しい(吉川弘文館随筆大成版では正しくそうなっている)。これは、副詞「かがなべて(「日数を重ねて」の意)」を「指を折りかがめて数えて」の意に解したところから、「指折り数える」の意で用いられた。]

 おもふに、いぬる文化のはじめつかた[やぶちゃん注:「文化」は十五年まで。一八〇四年から一八一八年まで。]、尾張の某氏の後室が、「新潟」といふ草紙物語を書きつめて、予が筆削を乞ひけるも、かたく辭(いろ)ひて[やぶちゃん注:「いなびて」の誤り。吉川弘文館随筆大成版では、正しく『辞びて』とある]還(かへ)したり。又、近き頃、本鄕なる田中氏の女(むすめ)の、予が敎へを受けんと願ふこと、既に十年(とゝせ)に餘りぬと聞えしも、いなみて終(つい)にうけ引ざりき。まいて男子(をのこ)の予が、をしへ子たらんと請ひし人々は、かゞなふに遑(いとま)なきを、意見を述べ、推し禁(とゞ)めて、いづれも、需(もとめ)に應ぜざりけり。予が、人の師とならざるは、柳宗元に倣(なら)ふにあらねど、素より思ふよしあれば也。さるを、只、この眞葛の刀自のみ、婦女子には、いとにげなき經濟のうへを論ぜしは、紫女(しじょ)・清氏(せいし)にも立ちまさりて、「男だましひ」あるのみならず、世の人は、えぞしらぬ、予をよくしれるも、あやしからずや。されば、予が、陽に袪(しりぞ)けて、陰に愛(め)づるは、このゆゑのみ。かゝる世に稀なる刀自なるを、兎園社友(じやいう)にしらせんとて、いといひがたきことをすら、おしもつゝまで、しるすになん、秋も、はや、けふのみと、くれゆく窓の片あかり、風さへ、いとゞ身にしみて、火ともす程を、まつまゝに、かくなん、思ひつゝけける。

[やぶちゃん注:中唐の詩人柳宗元のもとに、韋中立という若者が入門を志願してきたのに対し、それを辞退することを述べた書簡「答韋中立論師道書」(韋中立に答へて師道を論ずる書)を指すものであろう。全文が載るわけではないが、松本肇氏の論文「韓柳友情論」PDF・一九八四年十二月発行『文藝言語研究 文藝篇』巻九所収)が非常に判り易い。そもそも柳宗元は当時としては稀れに見る強力な無神論者・唯物論者・合理主義者であり、「論語辯」では、「論語」が孔子の直弟子によって編纂されたものではないことをまことにクールに解析し、その中で「師」なるものは単なる一方的な尊崇のイメージがあるだけの仮想であるというようなことをさえ言っているように私は思う。私は高校一年の時に「江雪」を読んで以来、彼のファンである。

 以下は底本では全体が一字下げ。]

 うらみきと思ふもわびし眞葛葉(まくずは)に今もなごりのあきの夕風

 予は、例の、「ふみ屋」らにせめられて、かゝるもの、かくいとまなきを、そのいとまなき折に、いと長々しう書かんこそ、まことに書くにはあるべけれど、思ふも、老のしはみたるなり。瘤(こぶ)を見するに似て、われながら、いといと、をかし。されば、きのふ巳(み)[やぶちゃん注:午前十時。]のころに、はじめて筆を把(と)りしより、さて書くとかく程に、夜も、はや、二更の鐘[やぶちゃん注:午後十時或いは午後十一時頃。]を聞きつゝ、このはたひら[やぶちゃん注:原稿を指しているが、語源不明。]を綴り果てにき。もちろん[やぶちゃん注:底本「ん」なし。吉川弘文館随筆大成版で補った。]初藁 (しよかう)[やぶちゃん注:「稿」の異体字。]のまゝにしあれば、さすがに心もとなさに、今朝(けさ)、はじめより、讀みかへして、纔(わづ)かに誤脫を補ふものから、拙きうへに、なほ拙きが、巧みにして、けふのまとゐの、間にあはぬには、ますらめと、みづから、ゆるすも嗚呼(おこ)なるべし【文政八年乙酉冬十月朔藁】

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では最後に『愚山人解稿』とある。

 にしても、この、馬琴が事実を書いて、その中で馬琴自らが、真葛との文通の絶えた折りに、涙を流したことを、素直に記したこれは、馬琴が自身について書いたものの中でも、恐らくはとんでもない特異点であろう。電子化しながら、私も目頭が熱くなった。

 以下、例の底本編者の依田百川の評言。「兎園小説」には、無論、載らないのだが、真葛評が載るので電子化する。]

百川云、眞葛の父工藤平助といへえるは、世に名高き竒士(きし)林子平(りんしへい)が從弟(いとこ)なりとか聞しことあり[やぶちゃん注:こんな話は聴いたことがない。ガセネタであろう。]。さればこそ、この眞葛の老女も丈夫氣(ますらをぎ)あるならめ。余、「獨考」といふ書を一讀するに、當時、藩主が商人(あきんど)等(ら)の爲に、國財を管理せられて、己が自由に民政を行ふ事を得ざるを痛みたる論あり、又、婦人の爲に政事を紊(みだ)らるゝ事[やぶちゃん注:ママ。何となく言葉遣いと内容がおかしい気がする。]など擧げて、論ぜし處もありき。又、金銀寶貨(はうくわ)などは經濟の才ありといひつべし。曲亭は博學なれども、經濟の才に至りては、眞葛に及ばざる處もあらん。されば、多くの人と交りたれども、實に感服せしもの、少なきに、獨、この老女を推稱(すいしやう)して、口に容(い)れざる[やぶちゃん注:深く入り込んでは語ろうとしない。]如きをもて見れば、世に珍しき婦人なるべし。此傳と先に載せられたる蒲生の傳[やぶちゃん注:「兎園小説」正編の最終第十二集の掉尾に置かれた馬琴の「蒲の花かたみ」を指す。林子平・高山彦九郎とともに「寛政の三奇人」の一人に数えられた儒者蒲生君平(がもうくんぺい 明和五(一七六八)年~文化一〇(一八一三)年:天皇陵を踏査して「山陵志」を著した尊王論者にして海防論者として知られる)の評伝。フライングされたい方は国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雑記」第一上のここから読める。]と、男女一雙の叙事の竒文(きぶん)なるかな。世に傑士・賢婦少なきにあらねども、竒文をもて傳ふるもの、稀れなり。かの二人の竒節(きせつ)をもて、曲𠅘の竒文を得て、これをしるす。實に古今の一大竒觀とすべし。

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