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« 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その2) | トップページ | 曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その4) »

2021/10/26

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その3)

[やぶちゃん注:言っとくが、まだ、本文はここまでの三倍以上残っている。もの凄い分量である。

 

 當時、市中を賣りあるきし「大水場所附」といふ地圖二本、予が藏弃(ざうきよ)にあり。草して左りに出だすもの、是たり。

 丙午七月十八、九日の比より、市中を賣りあるきしもの【誤字、幷に、「かなちがひ」等、本のまゝなり。是より下の四頁も、乙酉十月廿二日臨寫す。皆、同時のものなり。】

[やぶちゃん注:「乙酉十月廿二日」本第十一集分の文政八(一八二五)年「兎園会」発会前日。

 以下、底本では全体が最後の「大尾」まで、総て四方が枠に囲まれている。頭の標題は「上野下野」と「秩父領」は実際には「山水荒增記 上」(タイトルは「やまみづあらましのき」と読んでおく)の上に二行のポイント落ちで入る。その後は縦罫で閉鎖されている。そんな感じだけを出すためにダッシュを用いた。底本ではベタで全部繋がっているが、一種の瓦版なら、読み易くしたいと思い、やはり段落を成形した。なお、出る地名はいちいち注していては煩瑣なだけなので、余程、私が判らずに躓いてしまい、話が判らなくなった箇所だけに限定した。]

 

――――――――――――――――――――――

 上野下野

      山 水 荒 增 記   上

  秩 父 領

――――――――――――――――――――――

▲ころは、天明六のとし、七月十二日夜より、大雨、しきりにふりつゞきて、同十四日明方より、江戶、川すぢ、出水(でみづ)して、十五、六日、甚しく、目白下の大どい、ながれ、「せき口のはし」・「中のはし」・「みははし」其外、小ばし、不殘、おちにけり。

 小日向水道丁(こびなたすいだうちやう)、牛天神の下通り、御大・小名樣のまへ、四、五尺づゝも、出水す。

 又、「龍けいばし」・「どんどばし」、小石川御門水戶樣御屋敷の前通り、水道橋、凡、五、六尺づゝも水上り候へば、往來は、ならざりけり。

 御上水(ごじやうすい)の大どいには、鐵をつみ、石を置き、つなを附、水をふせぐ人足、おびたゞし。

 御茶の水通りの土手、二ケ所、くづれ、夫より、「せう平ばし」・「すぢかい御門」のはしぎわより、押上る水、凡、四、五尺づゝも有ければ、一向、往來は、なりがたし。

 「いづみばし」は、十六日、四つ時[やぶちゃん注:夜中では判らぬので、定時法の午前十時であろう。]に、おちけり。

 「新ばし」・淺草御門・「柳ばし」は、人どめ。

 大川の筋、本所へん、少し、水まし候所、ふりつゞく大雨に、上野・下野・秩父領の山水、押出せば、「からす川」・「かんな川」・戶田川・「とね川」、「坂東ばし」、ことごとく、出水す。近江[やぶちゃん注:補注で右に『(郷)』と振る。]・近邊の村々在々、あるいは四、五尺、六、七尺、高水すること、おびたゞし。

 時に、「戶ね川」の堤へは、左りに切(きれ)て、行とくの浦へ、押出す。人々、あはてさわぐ内、はや、水せいは、しほやくはまへ押あげて、しほがま、不殘、こわしけり[やぶちゃん注:江戸時代の行徳地区(現在の行徳地区だけではなく、浦安や船橋の沿岸の塩田も含まれていた)製塩を行う農家が多く、「行徳塩田」と呼ばれていた。]。

 扨、「梅若の土手」[やぶちゃん注:謡曲「隅田川」の「梅若伝説」で知られる梅若塚のある附近(グーグル・マップ・データ)の堤か。荒川の支流ではあり、遡れば、確かに続きは続きだろうが、確実に凡そ七十キロメートル上流なんだが。]つゞき、「くまがやの土手」ときこへしは、日本無双の大づゝみ、こけて、あふれかゝりし萬(滿)[やぶちゃん注:漢字ルビ。]水に、「あやせのつゝみ」・「戶田づゝみ」、十七日の卯こく[やぶちゃん注:午前六時頃。]すぎ、水せい、つよさに、ぜひもなや、みな、一どう、相切(きれ)れば、近江・近村、人々は、あはてふためき、立さわぐ。

 寺々にては、はやがねつき、宿老[やぶちゃん注:町内の年寄役を指す。]・店屋は「ほらがい」ふき、

「たすけ船、たすけ船。」

と、命をかぎりに、にげうせたり。

 誠に、水せいのはやきこと、「三つばの弓矢」のごとくにて、「さつて」・「くり橋」・「古河なわて」・「とち木」・「藤おか」・「佐の」・行田・「關やど」・「御領」をはじめとして、「かすかべ」・「こしがや」・杉戶邊、うづまく水に、人々は、親の手を引、子どもを、せおい、みな、山林に、かへらせけり。

 いよいよ、水先(みづさき)は、「そうか」より「千住通り」へおし出(いだ)し、「かもんづゝみ」を打こして、「かさいりやう[やぶちゃん注:「領」。]二合半」・今井・「ねこざね」・「一の井」・「二の井」・「さかさい」・「きね川」・本所邊、平(ひら)一めんに、海、となる。先(まづ)、隅田川・「向じま」・秋葉・「三𢌞り」・「牛じま」へん、「小梅」・「竹丁」・「中の江」・「なり平」・「橫ぼり」・「割下水」・古岡町・吉田町・三笠町邊の家居(いへゐ)、屋根迄、水、上れば、人々、あわて立さわぎ、

「とやせん、かくや。」

と、うろたへる、其あり樣のあわれさは、目もあてられぬ、ふぜいなり。

 實(げ)に、龜井戶天神の御やしろは、よほど高き所ゆへ、人々、よふよふ、にげのびて、助船(たすけぶね)をぞ待(まち)にけり。

 又、「立川通り」より「きく川町」・「おなぎ澤」の近へん、橋も、平地も、あらざれば、

「いかゞわせん。」

と、人々、せん方なみだに、くれける時、中にも、心きゝたる人、

「五百らかんの御寺こそ、高き所に候得(さふらえ)ば、此所へにげたまへ。」

[やぶちゃん注:「五百らかんの御寺」現在の目黒の五百羅漢寺の前身である天恩山五百大阿羅漢禅寺(元禄八(一六九五)年創建)。現在の東京都江東区大島のここにあった。寺跡のマーキングがある。前に出た「きく川町」が現在の墨田区菊川で近い。]

と、申(まうす)人の言葉につれ、あるいは、さへつき[やぶちゃん注:右に『マヽ』注記有り。意味不明。]人、いかた[やぶちゃん注:「筏(いかだ)」であろう。]、およぐも あれは、ざい木にとりつき、ながれ渡るもあり。

 よふよふ、「らかん」にたどりつき、「さゝいどう」の家根にのり、

「たすけ給へ。」

と、ねんぶつのこへより、あわれ、もよふせり。

[やぶちゃん注:「さゝいどう」国立国会図書館公式サイト内の「錦絵でたのしむ江戸の名所」の「さざい堂」によれば、先に示した五百羅漢寺の境内に寛保元(一七四一)年に建立された三匝堂(さんそうどう)のこと。三匝堂とは「三回巡る堂」の意味で、内部が三層から成る螺旋状になっており、同じ通路を通らずに、上り下りが出来る構造を持っていた。その形状が「栄螺」(さざえ)のようであったことから「さざえ(さざゐ)堂」として知られた。通路の途中には観音札所があり、堂内を一巡すれば、「観音の霊場巡り」ができるとされて、その造りの珍しさからも、江戸の人々の人気を集めた。弘化年間(一八四四年~一八四八年)の暴風雨や後の「安政の大地震」で荒廃し、寺とともに「さざえ堂」も消え去った。]

 此時、はやくも、御慈悲に、

「なんぎの諸人を助(たすけ)ん。」

と、御用船、數百そう、こぎ來、あり樣みるよりも、水入の人々は、二階・屋根から、ひさしより、飛のり、飛びのり、數萬人、あやうき命を助(たすかり)しも、誠に、きみの惠なり。

 みなみな、うへに[やぶちゃん注:「餓え」。]、かつへし[やぶちゃん注:「渇へし」。]ことなれば、早速、勘三郞、桐座兩芝居の者共に、焚出(たきだ)し、仰付させられ、燒飯として被下しは、猶、ありがたきことゞもなり。

[やぶちゃん注:「勘三郞」歌舞伎の江戸三座の一つ中村座の座元。

「桐座」江戸の歌舞伎劇場の一つで、市村座の控櫓(ひかえやぐら)。女歌舞伎を演じた。中村座は市村座の近くで興行していた。]

 扨、大川の水せい、つよく候へば、新大橋・永代橋、いづれも落て、往來、なし。兩國の御はしは、御用人足、あつまりて、橋をふせぎ候事、すさまじかりける次第なり。

 扨、廣小路中通りに御小家を掛させられ、缺來(かけきた)る水入(みづいり)の者どもを[やぶちゃん注:辛くも走り逃げのびてきた水害被災者たちを。]、御すくいたまわること、誠に仁惠の御ことなり。

 實(げ)に、

伊奈半左衞門樣、御屋敷の前通り、同樣、小家、掛させられ、水入の百姓を、御すくいたまわる事、ひとへに、御じひ、ふかき事どもなり。

 又、千住大橋・「小つが原」・「まろき橋」は「今どの」へん、「さんや」・「とりごへ」・田中なぞ、水、十萬[やぶちゃん注:右に『(充満)』と傍注する。]せしことなれば、中々、往來、也(なり)がたし。

 水せいは、吉原の土手、こし候へば、郭(くるわ)の者ども、

「此つゝみ、切(きれ)ては、ほんに叶まじ。」

と、「日本づゝみ」に土俵を上げ、又、大門のまへ通り、壱丈あまりに、土俵をつき[やぶちゃん注:「堆(つ)き」。]、水ふせぐこと、おびたゞし。

 「みのわ」・金杉・「三河しま」、水入候(みづいりさふらふ)事なれば、みなみな、にげうせ候なり。

 實(げ)に、田町の通りも、水、まし、三、四尺づゝも、是(これ)あるなり。

 又、淺草くわんおん御寺内(うち)は、よほど高き所ゆへ、少々、水、出候へば、此所へ、人々、あまた、あつまり、水、引(ひく)を、

「いや、おそし。」

と待(まち)けり。並木・「こまがた」近へんも、少々、水、附(つき)、御藏米(おくらまい)八町・「天王ばし」迄、水、つよく、往來、舟にて、通用す。

 又、下谷門ぜきまへ、こうとく寺の近へんも、右同斷の大水なり。

 扨、東海道の川々は、「六ごう」・「馬にう」・「さ川」[やぶちゃん注:右に『酒匂』と傍注する。]なぞ、いづれも川留(かはどめ)、「鶴み」のはし、落(おち)候(さふらふ)て、「かな川新町」・「藤澤しゆく」、萬水のことなれば、往來、一面、ならざりけり。

 程なく、雨もやみければ、水も、段々、引にけり。

 とざゝぬ御代のことぶきと、水入(みづいり)、御すくいたまはること、廣代(くわうだい)の御じひなり。

 扨、大雨にて、くづれ候所を、しるす。

 芝「あたご山」・同切通し・「まみ穴」井伊樣御屋敷の土手・山王の御山・春日の山、其外、少々づゝの所は筆につくしがたし。 大 尾

 

[やぶちゃん注:以下、村名表を挟んで、二図ともに底本のものをトリミング補正し、見開きの部分を合成して見かけ上で接合した(実際には原図自体が綺麗に切られていないので、ごく接近させただけである)。]

Mitisujihougakujyunmitige

 

[やぶちゃん注:標題は「道筋方角順道 下」。流石にこのキャプションを示す気はない。現代の地図と合わせて確認するには、まず、この画像をデスクトップに保存して、右に九十度回転して南北を合わせた上で、「古地図 with MapFan」を開き、現在の東京駅を上の現代の地図で示すと、下方の江戶時代の石川島が南東位置に現われる。そこで隅田川を遡れば、永代橋・新大橋・両国橋を辿って、両国橋東詰の少し離れた位置に「回向院」が現われ、本地図の「ゑかうゐん」と一致するので、以下は、この地図と「古地図 with MapFan」を左右に置けば、簡単に現在の地図での確認も出来る。但し、隅田川の右岸の縮尺や位置が左岸とは一致しておらず、戶惑うかも知れない。その時は、現在の秋葉原駅を捜して、その西下方見ると、万世橋があるが、その下方を江戶切絵図で見ると、「筋違橋門」とあって、それが、本図の左下方にある「すしかへ御門」である(その左の「小石川」「本郷」なども圧縮されてしまっている)。]

 

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が枠に囲まれており、全行が罫線で閉鎖されて書かれてある。頭の「增補」と「新全」の間には橫罫が入る。そんな感じだけを出すためにダッシュや罫線を用いた。地名の注は附さない。]

――――――――――――――――――――――

增補 │

    │ 村 所 附 幷  道 の 記

新全 │

――――――――――――――――――――――

○まん本所に 小むめ村  押あげ村  うけち村

[やぶちゃん注:「まん本所」に馬琴が右傍注して『「まん」は『まづ』の誤なるべし』と振る。]

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柳しま村   うめたむら てらじま村 さなへ村

――――――――――――――――――――――

かめあり村  すさき村  若みや村  千ば村

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四ツ木むら  大どむら  しぶへむら 善右衞門新田

――――――――――――――――――――――

龜いど村   おむらい村 平井むら  小松川

――――――――――――――――――――――

石き村    松もと村  小いわ村  笠つか村

――――――――――――――――――――――

かまたむら  ほり切村  寶木づか  小すげ村

――――――――――――――――――――――

小やの村   柳原村   あやせ村  水どはしおち

――――――――――――――――――――――

ゑのきど   大はら村  すのまた  はな又村

――――――――――――――――――――――

うたゝ村   長田村   川はた村  大はたむら

――――――――――――――――――――――

木下川    木下むら  彌五郞新田 長はつ新田

――――――――――――――――――――――

かまくら新田 嘉兵衞新田 久左衞門新田 八右衞門新田

――――――――――――――――――――――

おゝと新田  荻しん田  深川出村   まよりも

――――――――――――――――――――――

弐合半領   大水にて  船ばし    行とく

――――――――――――――――――――――

市川邊    八わた   くまが谷   木下風

――――――――――――――――――――――

松 戶    小がね   みな利根川  の道すじなり

――――――――――――――――――――――

右水入の者、不殘、伊奈半左衞門樣御屋敷のまへ通りに、御小屋をかけさせられ、御すくい給(たまは)る事、誠に廣代の御慈悲なり。ちう夜御見𢌞りの上、病人ていの者には、御藥を被下置。小どもには「ぜんべい」五枚づゝ、女どもには、髮の油・元結・差紙迄、被下事、ひとへに御慈悲深き事なりけり。

――――――――――――――――――――――

 

[やぶちゃん注:以下の図の標題は「大水ばしよ附※ 全」。この「※」は一見、「咄」に見えるが、寧ろ、「口」+「圡」で、「圖」の異体字で囗(くにがまえ)の中に「土」を入れた字体の異体字ではないかと考えている。則ち、「大水場所附」(おほみずばしよづき)]の「圖 全」の意であると採る。いちいちこのキャプションを示す気は、やはり、ない。また、これは異様な広域を変形圧縮してあるので、地図では示しにくい。ざっと見るに、関東で、その南北では、江戸板橋及び葛西から、上野高崎及び下野宇都宮まで、東西では、同古河及び小貝川を最東に置き、それと並行する鬼怒川(利根川の下流の流れには河口の「銚子」を示す記入はある)から、上野の山中に発する神流川(かんらがわ)までが、概ねの記載範囲かと思われる。気になる地形では右丁下方の利根川の中州のように描かれている「五ケ村」であるが、これは下総国葛飾郡にあった、現在は茨城県西南端に位置する猿島郡五霞町(ごかまち)のことと推定出来る。]

 

Oomizusiyodukkebanasizen

 

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