曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 天台靈空是湛靈空
○天台靈空是湛靈空 平安 角鹿桃窻
享保・元文の頃ほひ、沙門光謙、字は靈空といふ天台宗の學匠たり。近年、皆川淇園翁、一たび、其文章を賞せしより、其名、ますます、あらはれぬ。その書もまた、奇逸なるものなり。また寶曆・明和の頃、淨土宗に靈空、字は是湛といふ僧あり。寬政十一年の刻本、平捃印補正に、比叡山光謙、字靈空と載せ、靈空、是湛の二印を出だせるは、頗、杜撰なり。こは、かの是湛、靈空の印にして、天台靈空の印には、あらず。是、湛靈空は、晚年、寺町今出川の邊、西山派の寺に住せり。此二僧、書風、かつて似るべくもあらぬを、など、誤り傳ヘたるにや。
[やぶちゃん注:「享保・元文」一七一六年から一七四一年。
「沙門光謙、字は靈空」(れいくう 承応元(一六五二)年~元文四(一七三九)年)は天台僧。光謙(こうけん)は名。号は幻々庵。筑前国福岡の出身。十七歳で比叡山に登り、その後、比叡山西塔の星光院の院主となった。二十七歳の時、妙立慈山(みょうりゅうじざん)に師事し、元禄三(一六九〇)年に妙立が没した後は、その弟子を率いて、比叡山の僧風復興に努めた。江戸中期には、南北朝時代に始まった本覚思想の口伝法門が広まり、天台教学・僧儀の退廃が目立ってきたことから、定・慧の二学を刷新し、戒律学に於ける四分律兼学による律儀を導入するなど、僧風の是正につとめた。元禄六(一六九三)年、彼に帰依していた輪王寺宮公弁法親王の命により、比叡山横川飯室谷の安楽院を、天台・四分律兼学の安楽律院に改め、安楽院流の祖となった。元禄八年に「法華文句」を講じた際には日に千人の聴講者がいたと伝えられる。
「皆川淇園」(みながわきえん 享保一九(一七三五)年~文化四(一八〇七)年)は儒学者。ウィキの「皆川淇園」によれば、多くの藩主に賓師として招かれ、京都に家塾を開き、門人は三千人を超えたという。晩年の文化三(一八〇六)年には様々な藩主の援助を受けて京都に学問所「弘道館」を開いた。
「寶曆・明和」一七五一年から一七七二年。
「靈空、字は是湛」生没年は判らなかったが、浄土宗西山禅林寺派の僧として確認出来た。伊勢市古市にある同派の「大林寺」の公式サイトの歴代住職のリストで第六世が享保二(一七一七)年とし、第八世が享保一九年とあって、間の第七世が、『霊空』『是湛上人』とあった。しかし、これが当該人物となると、非常に早くに上人となっており、しかもそれなりに長生きしたことになる。
「寬政十一年」一七九九年。
「平捃印補正」【2021年10月25日改稿】いつも御助力をいただくT氏より、『「平」は分かりませんが』、以下は『石隠編の「捃印補正」』(くんいんほせい)のことで、『国会図書館の「捃印補正」(二巻)上の73コマ目』(左丁左端に「比叡山光謙字」(「あざな」?)「靈空」とあり、上の篆書陰刻が「靈空」、下方の陽刻が「是湛」)にかくあり、『書誌に享和二(一八〇二)年刊』とし、『又、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の「捃印補正」巻之一・二の、こちら「上」の72コマ目』に同一のものを確認出来、『早稲田の書誌には「序」が細合方明(寛政十一年(一七九九年)、「跋」が木村孔恭(寛政十二年)とあり、前掲の享和二年刊の再刻』で、『共同刊行』は『柏原屋清右衛門(浪華心斎橋筋順慶町)と書いてあります』とメールを戴いた(木村孔恭は、先般、電子化注を終えた「日本山海名産図会」の木村蒹葭堂である)。印譜が見られるとは、思わなかった。T氏に感謝申し上げる。]
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