曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 越後烈女
[やぶちゃん注:段落を成形した。]
○越後烈女 輪 池
ことし八月の末つかたに、小石川水道端に住める與力藤江又三郞の宅に、强盜入りしことあり。
あるじは、やも男[やぶちゃん注:「やもを」。「鰥夫」「寡男」。]にて、俳諧の會に行き、老母は親類がり行きて、下女と下男のみ、留守に居たり。
よる亥の刻過ぐる比、門をたゝく音す。
『あるじのかへりたるならん。』
と思ひて、男、出でて、あけたれば、白刄を提げしもの、五人、おし入りて、この男をしばりあげ、部屋に入れて、二人は、まもりをり。三人は内にいらんとせしを、下女、窓よりのぞきみて、とみに歸り入り、燈火をふきけし、
「誰、おきよ。かれ、起きよ。」
と、有合ひもせざる人を、あるがごとくによばゝり、さて、雨戶を、音たかくあけて、うしろのかたにさけ、椽を下りて、庭に出で、玄關の前に行きて、うかゞふに、人影、なし。
あたりをみれば、稻荷の祠の垣のかげより、さきにみし、ぬす人三人、出でたり。
女、少も、さわがず、
「こなたへ、き給へ。みづから、道びきすべし。いざ。」
とて、先に立ちて、刀を前にさげて、椽をあがり、物かげにかくれて、まちゐたり。かくて、ひさしくまてども、入りきたらず。
『いかゞせしならん。』
と、もとの如く、庭にいでゝみるに、さらに、かげも、なし。
垣のかげを、のぞきみても、あらず。
「さては。にげさりしならん。」
と、あけたる門の戶をたて、戶ざしする音を聞きて、男は、ふるへ聲にて、女を、よぶ。女、
「いかゞせしや。」
と、とへば、
「かく、しばられたり。ときて、たべ。」
と、いふ。すなはち、繩をときながら、
「此有さまを、かならず、人にかたるまじ。あるじにも申すまじ。」
と、いひきかせて、うちに入り、子過ぐる比に、あるじかへりたれば、事、ゆゑなきさまにて、やすませたり。
あくる日、あるじ、錢湯にゆきたれば、となりの同僚に逢ひたり。
同僚の、いはく、
「夜邊は、そこには、何ごと、有りしや。」
と。あるじ、
「それがしは他行して、しり侍らず。」
と。
「いかゞなる事にや。たゞならぬ物おとしければ、耳たてゝきゝをり、『猶、物おとせば、出で逢ふべし。』と、身がまへせしが、その内に、納りたれば、うちやすみぬ。」
と。
あるじ、かへりて、
「かのひとの、かくいはれしは、なにごとか有りし。」
と、とへば、
「しかじか。」
と、こたふ。
「さばかりのことを、いかで告げざるや。」
と、いへば、
「さん候。ぬす人、おしいりたるのみにて、物も、うせず、人もあやまたず候へば、申す迄もなし、とおもひしなり。」
と、こたへて、打ち過ぎぬ。
わがちかきあたりに、この家あるじの姊あり。長月なかばに、この女、つかひにきたり、姊がいふやう、
「さきに、ぬす人しりぞけしは、たぐひなき、ふるまひなりき。その時、いかゞの覺悟にて有りしぞ。」
と。
女は、
「堅固の田舍人にて、覺悟と申すことは、しり侍らず。おしはかりても、み給へ。白刄さげしものゝ、いくたりも、入りきたれば、みづからが命は、なき物と、おもひしのみにて侍り。」
と、こたへし。
越後のむまれにて、年廿あまり三になる、とぞ。酉彥といふものゝ、かたりきかしゝなり。
[やぶちゃん注:最後の方は、当家主人の姉が、直に、その下女に問うたところが、下女が、かく答えたのを、その姉が、たまたま訪ねて行った輪池屋代弘賢に話したというシチュエーションであろうととった。
「小石川水道端」文京区小日向一丁目及び水道一・二丁目。この附近(グーグル・マップ・データ)。]
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