曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 阿比乃麻村の瘞錢
[やぶちゃん注:底本は、ここでは、国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雑記」巻第四下のここから載るものに拠った。段落を成形した。一部の読みを送り仮名で外に出し、それらの一部では吉川弘文館随筆大成版を参考にして挿入した。]
○阿比酒麻村(あひのまむら)の療錢(うづめぜに)
松前領エサシの近鄕、アヒノマ村の民、立之助が母は、質樸慈善のものなり。人、綽號(あだな)して、「オカツテ婆々」と呼びぬ。はじめ、オカツテ村より嫁(か)し來れるをもつて也。又、立之助が妻の名を、「よす」と、いひけり。こも又、朴素寡欲のものとぞ聞えし。
[やぶちゃん注:「松前領エサシの近鄕、アヒノマ村」北海道檜山郡江差町はここ(グーグル・マップ・データ)だが、「アヒノマ」に相当するような地名を見出せない。
「オカツテ村」現在の江差追分漁港付近に五勝手(ごかって)地区(グーグル・マップ・データ)が存在し、旧村「五勝手村」の確認、国土地理院図によって、この地区を流れる川の名の「五勝手川」も確認出来た。]
かくて、文政六年[やぶちゃん注:一八二三年。]、夏六月のころ、件(くだん)の「よす」は、
「畑(はた)を打たん。」
として、ひとり田野(のら)に出でたるに、この日、畑のめぐりなりける土手の下(もと)にて、思はず、古錢(こせん)を掘り出だしけり。勉めて掘りなば、いくばくも出づべかりしを、素より寡欲のものなれば、扨、おもふやう、
「われはこの錢の爲にとて、こゝへ來りつるにあらず。さるを、この爲に畑の稼(かせ)ぎを、おろかにすべきことかは。」
とて、鍬にかゝれば、取り、かゝらね共、求むるこゝろは、なかりけり。
しかれども、とかくして、三貫文あまりの古錢を獲(え)たりしかば、そを簣(あじか)にうちいれて、宿所(しゆくしよ)へもて歸る程に、ちひさなる蛇の、わがしりに踉(つ)きて來るあり。
はじめの程は、みかへりながら、追ひやらひたれども、猶、あやにくに來るを、こゝろともせで、わが門に及べるころ、蛇は見えずなりぬ。
かくて、その黃昏(たそがれ)に、立之助も、よそよりかへり來にければ、「よす」は。
「しかじか。」
と告ぐるに、立之助は、よろこびて、
「その錢を、いかにしつる。」
と問ふ。
「かしき桶にいれたるを、蓋して、かしこにあり。」
と答ふ。
「いでや、われ、よく見ん。」
とて、納戶やうの處に至るに、その桶の上に、ちひさき蛇の蟠りて、をり。
「しやつ、憎し。などて、こゝへは、入りたるぞ。」
とて、きせるをもて、拂ひ落しつゝ、終(つひ)にうち殺して、背門(そと)へ棄てけり。
其夜、立之助は、件の錢をかぞへ果てて、「よす」にいふやう、
「求めて掘らば、いくらも出づべき錢ならんには、畑は、うたでも、取るベき者を、等閑(なほざり)にしつるおろかさよ。翌(あす)は夙(つと)めて、しるべを、せよ。われ、ゆきて、あらん限り取りて、みすべきぞ。」
と罵りたり。
かゞりし程に、立之助は、夜の明くるを待ちわびつゝ、未明(まだき)より、妻を先に立たして、きのふの處へ、ゆくゆく、掘れども、掘れども、錢は、ひとつも、出でざりければ、
「處まどひや、しけん。」
とて、いらちて、「よす」を罵(のゝし)れども、
「正(まさ)しく、こゝなり。」
といふに、きのふ掘りたる跡もあれば、『さなるべく』と思ひかへして、日ぐらし、掘りに掘りたれば、土手の据のみ、ほり崩しつゝ、一錢だにも得ることなくて、手を空しくして、かへりにけり。
さばれ、きのふ、「よす」が獲たるは、めでたき古錢のみなれば、ヱサシ人の、傳へ聞きて、價(あたひ)よく買ひぬ、といふ。
村民、時に批評していはく、
「『よす』が三貫の古錢を獲たるば、その寡欲なりけると、『オカツテ婆々』が、年來(としごろ)の慈善の陽報(やうはう)にてもあるべし。もし、『よす』にのみ任(まか)しおかば、錢は、猶、日々に出づべきを、立之助が貪婪(たんらん)なる、靈蛇さへ擊ち殺せしかば、出べき錢の、出ずなりぬ。いと惜むべきことなりき。」
と、いはぬもの、なかりける。
『彼(か)の太山(たいざん)に貨(たから)あり。たからに、こゝろなきもの、これを得る。』と、「老子經」に見えたるすら、思ひ出でられて、ことわりにこそ聞えたれ。
或ひはいふ、
「むかし、アヒノマのほとりに、數千貫(すせんくわん)の錢を埋(うづ)めたるものありしよし、故老の口碑に傳へたり。『よす』が掘出せしは、むかし人の埋めたる三千貫文のうちなるべし。」
と、いひしとぞ。三千貫といふよしは、いかなる故にかあらん。猶、たづぬべし。かゝるものを掘り出せば、私にものすることにはあらぬを、邊鄙村落(へんぴそんらく)の事なれば、領主へ訴(うた)へまうさゞりしかば、今玆(ことし)、やうやく、其の事、聞えて、老侯も、はじめて知ろしめされしとて、太田九吉といふ使ひをもて、家嚴(ちゝ)に告げさせ給ひしとき、家嚴のいはく、
「むかし、『前九年』・『後三年』など聞へたる奧の戰(たゝかひ)より、近世、天正のころまでも、落武者どものヱサシヘも野作地(のさち)へも、逃(のが)れたるが、多かるべし。かゝれば、そのともがらの、埋づめ置きたる錢にても、ありけんかし。恨むらくは、當時(そのかみ)、領主へ聞えあげざりしかば、その錢文(ぜんもん)をだも、見るに、よしなし。今も猶、その錢をもちたるものあらば、見まく欲(ほ)しきものにこそ候へ。」
と、まうしゝかば、老候、やがて、
「しかじか。」
と、松前へ傳へさせ給ひしとぞ。
「異日(いじつ)、もし、其錢を老候へまゐらするものあらば、家嚴にも、分かち賜ふべし。」
と仰せられたりとばかりにして、久しうなれども、今に何ともうけたまはらぬは、有れども、「無し。」と申して出ださゞる歟、實(まこと)になきにてもあるべし。
「唐の黃巢(くわうさう)が敗れて後、閩越(びんえつ)の深山中(しんざんちう)に、あまたの錢を埋(うづ)め置きしを、宋の時に至りて、樵夫(きこり)、ゆくりなく、その錢を得たり。只、多くして、一人の力にかなはず、次の日、
『又、取らん。』
とて、其處(そのところ)に至るに、巨蛇(きよじや)ありて、錢を見ず。樵夫、おそれて逃げかへりし、といふ事、所見あり。「宛委餘篇(えんいよへん)」なりしかと思へど、暗記せず。抄錄したりと覺ゆれば、他日、見出だすべし。」
と、家嚴、いへり。
興繼、按ずるに、蝦夷は何にまれ、その寶とするものを、山野に埋(うづ)め藏(おさ)めて、妻子にも知らせず、そのもの、にはかに死する時は、子孫といふとも、是を取るに、よしなし。星霜(としつき)を經て後に、ゆくりなく、他人の爲に掘り出ださるゝことあり、といふ。アヒノマの古錢も、そのたぐひなるべし。又、蝦夷地なるオコシリにても、今より九年ばかりさきつころ【文化十四年歟。】、「古錢を掘り出だせし」といふ奇談あり。この他、オコシリには、異聞(いもん)も多かれど、おのれ、連日、持病の手腕(たなくび)、搖動(ようどう)して、筆を把(と)るに、自在ならず。かばかりの短篇だも、からくして、綴りたり。こゝに漏せることどもは、後の「兎園」にしるすべし。文政八年陽月朔琴嶺瀧澤興繼
[やぶちゃん注:「老候」当時の第九代松前藩藩主松前章広の父で、隠居した前第八代藩主松前道広。
「前九年」前九年の役(永承六(一〇五一) 年~康平五(一〇六二)年)。源頼義と子の義家による陸奥の俘囚長安倍氏の討伐戦。
「後三年」後三年の役(永保三(一〇八三)年~寛治元(一〇八七)年)。「前九年の役」の後、奥羽に力を伸ばした清原氏の内紛に陸奥守として赴任した源義家が介入し、藤原清衡を助けて、清原家衡・武衡を滅ぼした戦い。これよって清衡は奥羽の地盤を引き継ぎ、源氏は東国に基盤を築いた。
「天正」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。天正一〇(一五八二)年にヨーロッパで用いられる西暦は、カトリック教会が主導してユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦された。
「唐の黃巢が敗れて」「黄巣の乱」は八七五年から八八四年の唐末期に起きた農民の反乱。王仙芝の起こした反乱に呼応して、山東の黄巣も蜂起・合流、四川以外の全土を巻き込んだ。王仙芝の死後、黄巣は、八八〇年、長安に入って、国号を「大斉」(だいせい)とし、皇帝の位に就いたが、唐軍の反撃を受け、泰山付近で敗死したが、この乱は唐朝滅亡の契機となった。
「閩越(びんえつ)」「閩」は福建省の、「越」は現在の浙江地方の古名。
「宋」北宋(九六〇年~一一二七年)。
「宛委餘篇(えんいよへん)」明の官僚で学者の王世貞が著した史書。同書が原拠かどうかは確認出来なかった。
「オコシリ」現在の奥尻島(グーグル・マップ・データ)。
「文化十四年」一八一七年。
「おのれ、連日、持病の手腕(たなくび)、搖動(ようどう)して、筆を把(と)るに、自在ならず。かばかりの短篇だも、からくして、綴りたり」
「文政八年陽月朔」一八二五年十月一日。「陽月」は陰暦十月の異称。陰が極まって陽を生じる月という。本「兎園会」(「兎園小説」第十集)発会の日附。]
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