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2021/10/20

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 高須射猫

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。これ、実は五年前に、「柴田宵曲 妖異博物館 化け猫」の注で、一度、電子化して、注も附してある。今回、再度、一からやり直してあるが、そこで行った考証注は、基本、修正を必要としないと判断した。但し、リンクの不備や、少し情報を追加して作り直しておいた。

 

   ○高須射猫

 

 某候【鳥井丹波守。】の家令高須源兵衞といふ人の家に、年久しく飼ひおける猫、去年【甲子。】のいつ比にや、ふと、行方しれずなりぬ。

 その比より、源兵衞が老母、人に逢ふことを、いとひて、屛風、引きまはし、朝夕の膳も、その内におし入れさせて、給仕もしりぞけて、したゝむるを、かひまみせしかば、汁も、そへものも、ひとつにあはせて、はひかゝりて、くふ。

「さては。むかし物がたりに聞きしごとく、猫のばけしにや。」

と、いぶかりあへる折から、その君の、ゆあみし給ひて、まだ、ゆかたびらもまゐらせざりし時、なにやらん眞黑なるもの、飛び付きたり。君、こぶしをもつて、つよくうたれしかば、そのまゝ、迯げ去りぬ。

 その刻限より、かの老母、

「せなか、いたむ。」

と、いひければ、いよいよ、うたがひつゝ、親族に、

「かく。」

と告げゝれば、

「ものゝふの身にて、すておくべきに、あらず。心得有るべし。」

と、いはれて、とかくためらふべきにあらざれば、雁股の矢をつがひて、よく引きつゝ、人して、屛風をあげさせたれば、老母、おきなほりて、むねに、手をあて、

「とても、母をいるべくは、こゝを、射よ。」

と、いふに、ひるみて、矢を、はづしたり。

 又、親族にかたらひけるは、

「それは、射藝のいたらぬなり。すみやかに、いとめよ。」

と、いはれて、このたびは、たちまちに、きつて、はなちたれば、手ごたへして、母、にげ出で、庭にて、たふれたり。

 立ちより見るに、母にたがふ事、なし。

 やゝしばし、まもり居たれども、猫にもならざれば、

「こは。いかにせむ。腹きりて、死なん。」

と、いふを、おしとゞめて、

「あすまで、まち、見よ。」

と云ふ人、有り。

 心ならず、一夜をあかしたれば、もと、かひおける猫のすがたになりぬ。

 其のち、たゝみをあげ、ゆかを、はなちて、見しかば、老母のほねとおぼしくて、人骨いでたり。

 いかにか、なしかりけん、このこと、ふかくひめて、人にかたらざれば、人、しるものなし。

[やぶちゃん注:以下、底本では、最後まで全体が二字下げ。]

 評云、「この鳥居の家老高須氏は、關潢南の、しる人、なり。はじめは定府なりしが、今は勤番にて去歲より、江戶にあり、といふ。又、當主は、今玆十五歲にならせ給ふなり。右の物語り、かたく、いぶかし。もし、在所にての事か、さらずば、昔の事を、今のごとくとりなして、人のかたり聞かせしに非ずや。」。

[やぶちゃん注:「鳥井丹波守」後に「去年【甲子。】」とあるのが不審で、本発会は文政八(一八二五)年十月二十三日で、前年は文政七年甲申であるから、「去年」は「去る年」の意ととるしかない(干支の誤りは資料としては致命的で、それだけで嘘と批難されても文句が言えないのが近世以前の語りのお約束である)。これ以前の甲子は文化元(一八〇四)年である。そうなると、これは下野國壬生(みぶ)藩(藩庁壬生城は現在の栃木県下都賀(しもつが)郡壬生町(まち)にあった)第四代藩主鳥居丹波守忠熹(ただてる 安永五(一七七六)年~文政四(一八二一)年:鳥居家第二十七代当主)ということになる。

「高須源兵衞」鳥居家をずっと遡った信濃高遠藩の初代藩主で鳥居家第二十二代藩主鳥居忠春(寛永元(一六二四)年~寛文三(一六六三)年)の代の筆頭家老に「高須源兵衛」なる人物がいたことが、LocalWiki  伊那」の「大屋敷町」の記事によって判る。彼の後裔と考えられないことはない。

「關潢南」は「せきこうなん」と読み、江戸後期の常陸土浦の藩儒で書家であった関克明(せき こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)の号。既に曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 根分けの後の母子草』でも注した。彼は兎園会の元締である滝澤馬琴とも親しく、息子の関思亮は海棠庵の名で兎園会のメンバーであったかったから、屋代の知人でもあった。

 さて、本話、屋代も不審を示している通り、この話、どこか奇妙で、何となく実在人物を臭わせながらも、それがまた変に非リアルな漢字を与える作りとなってしまっているように私には思われてならない。屋代が「又當主は今玆」(こんじ:今年)「十五歳」と言っているのは、報告当時の文政八(一八二五)年のことで、この時は鳥居家は改易・立藩・移封を経て壬生藩藩主となり、先に示した第四代藩主鳥居忠熹の次男である鳥居丹波守忠威(ただきら 文化六(一八〇九)年~文政九(一八二六)年)の治世であった。更に屋代の謂いも(重箱の隅をほじくるようだが)おかしく、文政八年当時、忠威は数え「十五歳」ではなく「十七歳」である(翌年に夭折)。ともかくも、屋代の言う如く「在所にての事か」或いは「昔の事を今のごとくとりなして、人のかたり聞かせし」ものという、如何にも都市伝説臭の強いものである可能性が極めて濃厚であると言える。]

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