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2021/10/17

伽婢子卷之十 了仙貧窮 付天狗道 / 伽婢子卷之十~了

 

了仙貧窮(れうせんひんくう) 《つけたり》天狗道(てんぐだう)

 

Ryosen1

 

[やぶちゃん注:今回は細部の状態がいい「新日本古典文学大系」版の挿絵(三幅)をトリミング補正した。右奥に立つのが、栄俊。因みに、主人公了仙は、輿に載っていて、見えない。]

 

 釋の了仙法師は播州賀古郡(かこのこほり)の人なり。いとけなくして、父母におくれ、郡(こほり)の草堂に籠りて、出家し、十七歲して、關東におもむき、相州足利の學校に三十餘年の功を積(つ)み、内外(《ない》げ)二典(じてん)に渡り、神哥(しんか)兩道にたづさはり、博學多聞(たくがくたもん)の名をほどこし、所々の談林に遊ぶ。論義辯舌ありて、諸人、皆、かたぶき伏(ふ)して、更にこれに敵する事、かなひがたし。然(しか)れば、その天性(むまれつき)、逸哲佯狂(いつてつようきやう)の風あり。命分(めい《ぶん》)、甚だ薄く、一重(《ひと》へ)の紙衣(かみこ)をだに、肩に、まつたからず。墨染の衣は、袖、破れ、その日を暮すべき糧(かて)に乏(ともし)し。

[やぶちゃん注:「釋」は「釋氏」の略で、僧侶のこと。

「了仙」不詳。架空人物であろう。

「播州賀古郡」現存する加古郡は兵庫県中南部にあるが、元は加古川以東を占めており、旧郡域は広大で、西部は現在の加古川市・高砂市に相当する(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。古くは「賀古」「賀胡」とも書き、播磨国十三郡の一つであった。

「相州足利の學校」ママ。「伽婢子卷之八 邪神を責殺」の「相模の國足利の學校」の私の注を参照。

「内外二典」仏教用語で「内典」は広義の仏教典籍・仏典を指し、「外典」仏教以外の書を広く指すが、本邦では主として儒学の教典を指す。

「神哥(しんか)兩道」宗教としての神道と、和歌の道(歌道・歌学)。

「逸哲佯狂(いつてつようきやう)」読みの後半は底本では「しやうきやう」。元禄版に拠って訂した。但し、正しくは「やうきやう」でなくてはならぬ。現代仮名遣は「いってつようきょう」。「逸哲」は「新日本古典文学大系」版脚注の言うように、「一徹」の当て字であろう(江戸時代には「一鐡」の当て字も広く行われた。ただそれで出すとエンディングの如何にもな伏線になるので、了意は敬遠したのかも知れない)。思い込んだり、言い出したりしたら、是が非でも押し通そうとする気の強い性質。一刻者。「佯狂」偽って狂気を装うこと。古く中国の隠者が世俗の人間を遠ざけるために振る舞ったポーズである。

「命分」本来は既に与えられている寿命の意であるが、ここはそれを転じて「運命」「幸不幸を含む生涯の巡り合わせ」の謂い。

「一重の紙衣」単衣の薄い寝具。「紙子」とも書く。和紙を蒟蒻糊で繋ぎ合せて柿渋を塗って乾燥させた上、揉み解してから縫った和服。防寒衣料や寝具として用いられた。ここはそれさえも擦り切れ、肩をさえ覆うことが出来ぬというありさまを言う。]

 

 此故に、學智の功は、かさなりながら、長老・上人にもならず、綱位(かうゐ)の數にもあづからぬ平僧にて、年月を重ぬるまゝ、名利(みようり)の心、さらに絕えがたし。

[やぶちゃん注:「綱位」僧綱(そうごう)のこと。本来は僧尼の統轄や諸大寺の管理運営に当たる僧の上位役職の総称。僧正・僧都(そうず)・律師が「三綱」、他に「法務」「威儀師」「従儀師」を置いて補佐させたが、平安後期には形式化している。所謂、名誉称号に過ぎない。]

 

 みづから、深く嘆きて曰く、

「了仙よ、了仙よ、汝、學問、よく勉めて、才智あり、心ざし、邪(よこしま)なく、名は世に聞こえながら、いかに、身一つを過《すぎ》わび、一寺の主(あるじ)ともならざるや。」

と。

[やぶちゃん注:「身一つを過わび」「かくも、おのが身一つしかなきに、それをたった一日でさえ、養うに、困りて果て」。]

 又、みづから、解(げ)して曰く、

「安然(《あん》ねん)は堂の軒に飢えて、桓舜(くはんしゆん)は神の社に祈りし。これ、道義の不足ならんや。役(えん)の小角(せうかく)は豆州(づしう)にながされ、覺鑁(かくばん)は根來(ねごろ)に苦しみし。これ、行德のおろそかなるにあらず。敎因(けういん)は僧戶(《そう》こ)・封祿(ほうろく)ありて、安海(《あん》かい)は綱位(かうゐ)にいたらざりし。これ、智と愚との故ならず。沙彌(しやみ)は溫(あたゝ)かに衣(き)て、飽(あく)まで、喰(くら)ひ、主恩(しゆおん)は飢寒(きかん)にせまりぬ。これ、才能の不敏(《ふ》びん)なるによらんや。これ、すでに、過去世の因緣なり。儒には天命といふ。了仙、不幸にして、此《この》そしりを、うく。何ぞ因果の理《ことわり》に迷うて、みだりに名利《みやうり》を求めんや。」

とて、みずから、問答して、心を慰みけり。

[やぶちゃん注:「みづから、解(げ)して曰く」禅の修業によく見られるもので、独り、自ら問いを発して、また、自らそれに解答を与えることを指す。

「安然」平安前期の天台宗の僧安然(承和八(八四一)年?~延喜一五(九一五)年?)。五大院阿闍梨・阿覚大師・福集金剛・真如金剛などと称される。近江生まれ。最澄と同族と伝えられている。初め、慈覚大師円仁に就き、円仁の死後は遍昭に師事して、顕密二教の他、戒学・悉曇学をも考究した。元慶元(八七七)年に唐に渡ろうとしたが、断念。元慶四年に「悉曇蔵」を著した。元慶八年に阿闍梨となって元慶寺座主となった。晩年は比叡山に五大院を創建し、天台教学・密教教学の研究に専念した。彼は「大日経」を中心とする密教重視を極限まで進めて「台密」(天台宗に於ける密教)を大成した人物として知られる。地方伝承として、山形県米沢市にある塩野毘沙門堂の本尊を開眼し、その後、南陽市時沢にて入滅したといった話があり、南陽市には「安然入定窟」が伝えられてある(当該ウィキに拠る)。「新日本古典文学大系」版脚注では、『その伝記に定まらない部分があって、「堂の軒に飢て」の詳細も不明。「安然和尚、天下ノ智者、猶業貧ニシテ餓死セラレケリト云ヘリ」(雑談集五)が近い』とある。

「桓舜」(かんしゅん 天元元(九七八)年~天喜五(一〇五七)年)は平安中期の天台僧。父は備後守源致遠(文徳源氏)。月蔵房と号する。天台座主慶円に天台教学を学び、貞円・日助・遍救とともに「比叡山の四傑」と称された。一時、世俗を嫌って、伊豆国で修行していた時期もあるが、後に比叡山に戻った。長和五(一〇一六)年、藤原道長の法華三十講の講師となって以来、朝廷の貴族の間で活躍した。長元八(一〇三五)年に権律師、長暦三(一〇三九)年に極楽寺座主、次いで法性寺座主と昇任し、天喜二(一〇五四)年には権大僧都に至った(当該ウィキに拠る)。歴史的仮名遣は「くわんしゆん」が正しい。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「神の社に祈りし」は、『福徳を日吉山王に祈り、さらに稲荷大社に祈って霊験を蒙った』という『古今著聞集一、沙石集一、元亨釈書五など』に記された事績を指すとある。

「役(えん)の小角(せうかく)」修験道の祖とされる「役の行者」のこと。七世紀末に大和の葛木(かつらぎ)山にいたとされる呪術者。「役小角(えんのおづぬ)」とも呼ぶ。「続(しょく)日本紀」によれば、役君小角(えのきみおづぬ)とあり、讒言により秩序を乱したとして、文武天皇三(六九九)年に伊豆に流されたとする(それでも自在に空を行き来したという)。鬼神「前鬼」・「後鬼」を使役して諸事を手伝わせたとされる。山岳仏教のある各山に伝説が残る。

「覺鎫(かくばん)」(嘉保二(一〇九五)年~康治二(一一四四)年)は真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖。諡は興教(こうぎょう)大師。平安時代後期の朝野に勃興していた念仏思潮を真言教学においていかに捉えるかを理論化、西方浄土教主阿弥陀如来とは真言教主大日如来という普門総徳の尊から派生した別徳の尊であると規定した。真言宗の教典中でも有名な「密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげのもん)」、空思想を表した「月輪観(がちりんかん)」の編者としても知られ、本邦で五輪塔が普及する契機となった「五輪九字明秘密釈」の著者でもある(以上は、当該ウィキに拠った)。「根來(ねごろ)に苦しみし」については、「新日本古典文学大系」版脚注に、彼は『高野山伝法院にあったが、山徒の排斥にあい、根来寺に移り、その地で没した(密厳上人行状記・下)』とある。

「敎因(けういん)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注も『伝未詳』とのみある。

「僧戶(《そう》こ)」公式な僧籍。

「封祿(ほうろく)」俸禄に同じ。公的に授けられた扶持米及びそれに代わる食物や物品の給与。

「安海」生没年未詳の平安中期の天台僧。京の人。比叡山の興良について出家し、長保五(一〇〇三)年、源信が宋の智礼に二十七条の質問状を送る際、安海は「上・中・下」の解答を事前に想定して作り、智・礼の解答は「中」か「下」であろうと予言し、結果は、その通りであったという。参照した講談社「日本人名大辞典」には、当時の二大学匠を評したものに、「源信は、広いが、浅いので、着物を捲くって渡れる。覚運は、深いが、狭いから、跨いで越えられる。」という格言があるそうである。「綱位(かうゐ)にいたらざりし」とあるのは、「新日本古典文学大系」版脚注に『若死にした』とあることと関係があろう。

「沙彌」サンスクリット語の「シュラーマネーラ」の漢音写。「息慈」などと訳す。出家して沙弥十戒を受け、比丘となるまでの修行中の僧。女子は「沙弥尼」と呼ぶ。年齢によって三種に分け、七〜十三歳を「駆烏(くう)沙弥」、十四〜十九歳を「応法沙弥」、二十歳以上を「名字沙弥」と呼んだ。また、「未だ修行が未熟な者」の意から、形は法体(ほったい)でも、妻子を持ち、世俗の生業に従っている者、つまり、「入道」とか「法師」と呼ばれる市井にある仏教者を、日本では広く「沙弥」と称した。中世の沙弥には武士が多い。沙門(=僧)とは明確に区別された呼称であった(以上は平凡社「百科事典マイペディア」を参照した)。

「主恩」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『平安中期の興福寺の学僧』の名とし、『筑前博多に流謫されてことがあり、「飢寒にせまりぬ」はそれを指すか』とある。

「不敏」才知・才能に欠くこと。

「天文の末の年」天文(てんぶん)は天文二四年十月二十三日(ユリウス暦一五五五年十一月七日)に弘治に改元している。

「光明寺」神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗天照山光明寺。鎌倉時代の寛元元(一二四三)年開創とされ、永く関東に於ける念仏道場の中心として栄えた。「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 光明寺」を参照。

「所化(しよけ)」元は「仏菩薩などにより教化されること・教化を受ける者」であるが、後に修行中の僧、或いは、広く寺に勤める役僧を指す。

 

 所化(しよけ)の伴頭(ばんとう)榮俊(えいしゆん)といふものは、學問の友として、久しく斷金(だんきん)の契(ちぎり)をいたせしが、ある時、藤澤邊(へん)に出《いで》ける道にして、了仙に行合《ゆきあひ》たり。

[やぶちゃん注:「所化(しよけ)」元は「仏菩薩などにより教化されること・教化を受ける者」であるが、後に修行中の僧、或いは、広く、寺に勤める役僧を指す。

「伴頭」ここは修行僧衆の中でも筆頭に立つ僧の意。

「榮俊」不詳。同じく架空人物であろう。

「斷金の契」固く結ばれた友情の喩え。元は中国の北魏の地誌「水経注」(全四十巻。撰者は酈道元(れきどうげん 四六九年~五二七年)で、五一五年の成立と推定される)の巻三十一にある「淯水」の末尾にあるエピソードに基づくとされるが、その濫觴は「易経」の「繫辭(けいじ)伝」で、「二人同心、其利斷金」(二人、心を同じくすれば、其の利(と)きこと、金を斷つ。)である。]

 

 漆塗の手輿(たごし)にのり、白丁(はくてう)八人に、かゝせ、曲彔(きよくろく)・びかう・朱傘(しゆからかさ)、おなじく白丁にもたせ、同宿、七、八人、うるはしく出立《いでたち》、雜色(ざふしき)に先を拂はせ、さゞめき來るよそほひ、往昔(むかし)に替りて巍々堂々(ぎぎだうだう)たる事、ひとへに國師・僧正の儀式に似たり。

[やぶちゃん注:「白丁」元は下級武士の着用する狩衣の一種で、白の布子張りであったので「白張」とも書いた。律令制の諸官司・神社・駅 (うまや) などに配属されて雑務を行う無位無官の者や、諸家の傘持・沓持・口取など仕丁がこれを着たところから、貴人に従う下人を、広く、かく称した。

「曲彔」主として僧侶が法会式などで使う椅子の一種。背凭れの笠木(かさぎ)が曲線を描いているか、または、背凭れと肘掛けとが、曲線を描いた一本の棒で繋がっているのが特徴である。「曲彔」は「曲彔木」の略で、「彔」は「木を削(はつ)る(削ぎ落とす)」の意であるから、「木を削って曲線を造形した椅子」の意となる。鎌倉時代に中国から渡来したもので、最初は、専ら、禅宗で用いられたが、後には他の宗派や、仏教に拘わらず一般でも使うようになった。特に桃山時代には大流行した(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。最初の挿絵の左幅の行列の最後で白丁が肩に載せているのがそれ。]

「びかう」「鼻高履」。「鼻廣履」「鼻荒履」(これらは歴史的仮名遣は「くわう」となる)とも書いた。僧侶が法衣に合わせて用いる履(くつ)で、革製で、先端を高く反って作った浅沓(あさぐつ)。鼻高。

「朱傘」地紙を朱色に染めた差し傘。長柄を附け、戸外の法会式などで、導師などに差し翳して日を除ける用とした。公家も盛んに用いた。先の挿絵の「曲彔」の前で白丁が肩にかけて持っている。「新日本古典文学大系」版脚注では、サイズを『柄八尺、大きさ三尺二寸』とする。

「同宿」同じ僧坊に住む僧。挿絵では二人のみ描かれている。

「雜色」貴顕の家や官司などに仕えて、雑役を勤めた卑賤の者の称。白丁より格下。

「巍々堂々」姿が堂々としていて、厳(いか)めしく立派なさま。

「國師」天皇の導師となる僧位を指す。

「僧正」僧綱の最高ランクである法印大和尚位(だいかしょうい)の大僧正の次席。]

 

 了仙は、九條の袈裟に、座具、取そへて、身に纏ひ、檜扇(ひあふぎ)さし出し、

「和僧は、榮俊ならづや。」

とて、輿より、おり下り、手をとり、淚を流して、昔今《むかしいま》の物語りす。

[やぶちゃん注:「九條の袈裟」尼の着る三種の袈裟「三衣」(「さんえ」或いは「さんね」)の最も正式で豪華な僧伽梨(そうぎやり)。「大衣」「九条衣」とも呼び、布九幅を横に綴って誂えた袈裟。これを受けること自体が一種の法嗣の証明ともされる正装着である。後の二種は「鬱多羅僧」(うつたらそう:上衣・七条衣。普段着)と「安陀会」(あんだえ:中衣・五条衣。作業着)。比丘六物(三衣と鉢・尼師壇(にしだん:坐具)・飲み水をこすための漉水嚢(ろくすいのう)の六つ)の一つでもある。

「檜扇」檜(ひのき)の白木のままの細長い薄板を重ね、上端を糸で、下端を要(かなめ)で留めた扇。儀礼用の所持具であって、煽る実用のものではない。]

 

 榮俊、いひけるは、

「君と別れ隔たる事、わづかに半年ばかりの間に、よく、みづから、綱位たかく、靑雲の上にのぼり、封祿(ほうろく)あつく、朱門のうちに交はり、衣服・袈裟の花やかなる出《いで》たち、手輿、同宿のさかんなる有樣、まことに、學智、秀(ひい)でたる所、心ざしを遂ぐる時也。僧法師の本意《ほい》は、こゝに極まれり。羨しくこそ。」

といふ。

 了仙、答へて曰く、

「我、今、一職(《いつ》しよく)をうけて勉め行ふ。更に隱すべきにあらず。その形勢(ありさま)、見せ奉らん。こなたへ、おはせよ。」

とて、光明寺の堂に行到《ゆきいた》る。人、さらに、見咎むる事、なし。

[やぶちゃん注:「藤澤邊」(私の住まいはまさにその辺で、寝室の窓の外の裏山は藤沢市であり、そもそもが私のいる辺りは大船でも元は藤沢に属していた)での邂逅から、突然、直線でも七キロメートル以上離れた由比ヶ浜東の光明寺(了仙の墓所がある)が出ること自体が、既にして異界に栄俊は立ち入っていることを意味する。]

 

 夜《よ》、すでに後夜(ご《や》)[やぶちゃん注:夜半から夜明け前の頃。現在の午前四時前後。]に及ぶ。

 了仙、語りけるは、

「我、つねに慢心あり。然れども、更に非道をなさず。平生、貧賤なる事を怨み憤りて、因果の理《ことわり》としりながら、これに惑へるを似て、死して天狗道に落ち、學頭の職に選ばれ、文を綴り、書を考へて、その義理を、あきらめ、傳ゆ。

 わが天狗道は、魔道なりと雖も、鬼神に橫道(わう《だう》)なきが故に、人をえらび、器量によりて、その職をつかさどらしむ。

 人間《じんかん》は、たゞ賄(まひなひ)を以て、ひいきをなし、追從(ついしやう)輕薄の者を『よし』と思ひ、外《そと》の形(かたち)を用ひて、内をしらず。人のほむるを用ひて、其《その》才能を、いはず。是によりて、公家も、武家も、出家も、同じく追從輕薄奸曲(かんきよく)佞邪(ねいじや)をもつて、官位奉祿に飽滿(あきみ)ちて[やぶちゃん注:ここは本来は逆接でブレイクが入るべきところ。]、よき人は、皆、その道の正しきを守る。此故《このゆゑ》に、人をへつらはず、輕薄、なし。こゝをもつて、長く埋(うづも)れて、世に出《いで》ず。麒麟は、いたづらに糞車(ふんしや)をかけられて、草水《くさみづ》に飢渴(うゑかつ)え、駑馬(ど《ば》)は、時を得て、豆粥(とうじゆく)に飽きたり。鳳皇(ほうかう)は枳(からたち)の中にすみて、鴟・梟(とび・ふくろふ)は蘭菊(らんきく)の間に、さえづる。こゝをもつて、公家も、武家も、出家も、賢者は、頸(くび)、やせて、髮、かれつゝ、溝瀆(かうとく)の『ほそみぞ』にころび、死すれども、知人なく、愚人奸曲の輩《ともがら》は、世にあはれて、時めく也。これより、風俗、惡しくなりて、治れる時は、少なく、亂る日は、多し。

 わが天狗道は、たゞ、よく、その器量をえらび、その職を、あてがふに、誤らず。

 凡そ、世の人、貴賤をいはず、少《すこし》も慢心ある者は、皆、死して、魔道に來る。その中に、君《くん》に不忠あり、親に不孝するものは、必ず、大きなる責めを受け、善を積み、德を施せし者は、皆、その幸ひを、かうぶる。輪𢌞因果のことわり、皆、僞りならず。天子・公卿・武士・出家、世に名を知られたる輩《ともがら》、わが道に入《いり》て、或は大將となり、或は眷屬となり、世の人の心だてによりて、或は障㝵(しやうげ)をなし、或は守護をなす。それ、太上は、德を、たて、その次は、功を、たつ。その次は、言を、たつ。これ、死して久しけれ共、朽ちず、といへり。

 我は、德もなく、功もなし。

 こゝに論場(ろんじよう)に言(こと)を立《たて》しも、今、すでに、無きが如し。

 その、慢心のむくひを、見給へ。」

とて、堂の庭に飛出《とびいで》たる姿を見れば、翼、あり。

[やぶちゃん注:「天狗道」天狗の住む天界・鬼道。増上慢や怨恨憤怒によって堕落した者の落ちる魔道。仏教の六道に倣って後付けで附属された魔界。地獄思想の細分が中国で偽経によって捏造されたものであるから、付けたりは幾らでもバラェティーに富む。

「糞車」肥桶を運ぶ荷車。

「かけられて」「驅(か)けられて」。引き駆けるために使役されて。

「草水《くさみづ》に飢渴(うゑかつ)え」草や水さえも僅かしか与えられずに、飢え渴つえて。

「駑馬」足ののろい馬。また、才能の劣る人の喩えでもあり、前の対の「麒麟」(ここでは聖獣というよりも、一日に千里を走る名馬を指す)を才人の喩えとして、優れた人物も、年老いては、その働きや能力が普通の人にさえ及ばなくなるの意の「騏驎も老いては駑馬に劣る」をパロったもの。この故事成句は「戦国策」の「斉」に見える。紀元前四世紀、戦国時代、秦以外の国々に遊説して合従策を唱えた弁論家蘇秦の台詞。斉の王に向かって、「騏驎の衰ふるや、駑馬、之れに先だつ」(どんな名馬も年をとると、そのへんのつまらない馬の方が速く走るようになる)と述べて、安易な突出した秦への対外政策を戒めた。

「豆粥」豆の入った粥(かゆ)。

「鳳皇」了意の書き癖で聖鳥「鳳凰」のこと。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳳凰(ほうわう) (架空の神霊鳥)」を見られたいが、そこに「天下、道有るときは、則ち、見る。其の翼、竽(う)のごとく、其の聲、簫(せう)たり。生ける蟲を啄まず、生ける草を折らず、羣居せず、侶行(りよかう)せず、梧桐に非ずば、棲まず、竹の實に非ざれば、食はず、醴泉(れいせん)に非ざれば、飮まず」とある。それが、棘だらけの「枳(からたち)の中にす」むのは、世が致命的に腐敗していることになる。

「溝瀆(かうとく)」みぞ。どぶ。故事成句「溝瀆(こうとく)に縊(くび)る」(「論語」の「憲問」が原拠。「自ら己れの首を締め、汚い溝に落ちて死ぬ」で「つまらない死に方」の喩え)をさらにダメ押しして「『ほそみぞ』にころび、死す」とやらかしたもの。

「障㝵」障碍・障害に同じ。正常な様態を阻害すること。

『「これ、死して久しけれ共、朽ちず、といへり。我は、德もなく、功もなし。こゝに論場(ろんじよう)に言(こと)を立《たて》しも、今、すでに、無きが如し。その、慢心のむくひを、見給へ。」とて、堂の庭に飛出《とびいで》たる姿を見れば、翼、あり』この大どんでん返しは劇的でよく書かれてある。]

 

Ryosen2

 

[やぶちゃん注:縁側で惨状を見る栄俊。地面に座っているのが、異形に変じた了仙。彼の左手で大きな柄杓(本文の「銚子」)で以って、盃に何やら(ネタバレのため言わない)を注ぐ法師(裾の幅を著しく狭くタイトにした「踏込袴(ふんごみばかま)」を穿いている)。]

 

 鼻高く、まなこより、光り輝き、すさまじき形に變ぜし所に、虛(そら)より、鐵(くろがね)の釜、

「ふらふら」

と、おちて、其中に、熱鐵の湯、わきかえる。

 それにつゞきて、法師、一人、くだり、銚子(てうし)に、熱鐵の湯を、もりいれ、盃にいれて、了仙に渡す。

 了仙、怖れたるけしきにて、これを飮み入るゝに、臟腑、もえ出《いで》て、下に燒けくだり、地にまろびて、うせにければ、堂にありし、白丁も、同宿も、皆、きえうせて、夜はほのぼのと、あけ渡れば、光明寺中の堂には、あらで、「榎(え)の島」の濱おもてに、榮俊、一人、坐したり。

 それより、歸りて、佛事、いとなみ、道心深く、後世《ごぜ》を怖れ、諸國行脚して、菩提心を祈りけり。

 

伽婢子卷之十終

[やぶちゃん注:「熱鐵の湯」高温で溶かされて液体となって煮え滾っている液体の鉄である。似たようなものは「叫喚地獄」で、溶けた銅を飲まされるのが、お約束である。

『「榎(え)の島」の濱おもて』現在の片瀬東浜。またしても光明寺から直線で六キロメートルも跳躍した。リンク地図の中央全体が本篇メインのロケーションを総て含んでいる。]

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