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2021/11/30

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(ひとのからだといふものは不思議なものだ)

 

  

 

ひとのからだといふものは不思議なものだ

おれはあるとき强いゴムをかむでゐた

いつしよけんめいでゴムをかむでみた

けれどもゴムのしんはかみきれなかつた

ひとのからだはゴムのやうなものだ

病人のからだのしんに

おそろしいゴムの力はねばりついてゐるのだ

ゴムでできてる人たちは

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 利根川の松林

 

  利根川の松林

 

むかしはよくあの松林を步いたものだ

いまでもあの松林へ行つてみると

うすやみの中にきのこが生えてゐたり

道ばたに椎の實のたぐひがおつこちてゐる

いつもゆめみるやうな木立のあたりから白い利根川が流れてゐる。

ところどころの砂の上には

蟻地獄の穴がくぼんでゐる

まがつた小松の列がいちめんに靑くつづいてみえる

わたしはそこいらの石の上に腰をかけて詠嘆をする

わざとらしく詩人ぶつた表情をしてみたりする

むかしはそのへんで小娘たちとあひびきをした

父に叱られて泣きにきたこともあつた

女が戀しさに抱きついた樹木もおぼえてゐる

なにもかも夢のやうだ

いまでも利根川は白くながれてゐるけれども

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。ところが、ここで今回、本底本が原拠としていると考えてよい、その小学館版「萩原朔太郞全集」の「別册 遺稿上卷」に載るものを、このコンパクト版では、新たに校訂して、少なくとも、この詩篇に於いては、歴史的仮名遣の誤りの一部や誤記(或いは誤植)を強制的補正(注記がない点で強制である)している(私が筑摩版の校訂本文を皮肉って言っている謂いでは「消毒」)ことが判明した。筑摩版は同全集からまず、そのまま引き写し乍らも、歴史的仮名遣の誤りや助詞の誤りを、筑摩版全集の絶対校訂規則に則り、〔 〕で誤りを補訂しているからである。それは以下の三箇所である。

・「まがつた小松の列がいちめんに靑くつづいてみへ〔え〕る」

・「女が戀しさた〔に〕抱きついた樹木もおぼへ〔え〕てゐる」(二箇所)

則ち、本底本は、やはり、元版全集を進化させていることは疑いがないことがはっきりした。さらに、私は以前にも述べた通り、筑摩版全集には、この小学館のコンパクト版「萩原朔太郎詩集」叢書が書誌リストに全く載っていないことから、この叢書シリーズをそもそも校合対象としていないのであり、私はこの叢書で初めて(則ち、元版小学館版「萩原朔太郎全集」の刊行以降に小学館コンパクト版「萩原朔太郎詩集」叢書編集者が見出した遺稿・草稿・断片を、伝家の宝刀の如く崇められている筑摩版「萩原朔太郎全集」は、実に、今日只今に至るまで、全くカヴァーせず、校訂どころか参考にさえもせず、幻しのそれらを、平然と放置し続けているという事実を知るに至ったのである。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 編註・(無題)(ゆめの中ではやさしい愛憐のこころをうしなはない)

 

    斷  片

 

[やぶちゃん注:パート標題。この裏に以下の編注(底本ではポイント落ち)が記されてある。]

 

編註 ノオト、斷片などに書きつけられた作品のうち、未完成のもの並びに前後の部分等が失はれてしまつたものを、「斷片」としてここに一括した。制作年次をすべて分類することは不可能なので、ここでは比較的新しいと思はれる作風のものを最初に置き、漸次古いものに遡るごとく配列した。

 

[やぶちゃん注:以上が右ページにあり、その見開きの左ページから以下の無題詩篇「(ゆめの中ではやさしい愛憐のこころをうしなはない)」が始まる。]

 

  

 

ゆめの中ではやさしい愛憐のこころをうしなはない

ああ いかなればこそ、夢にはかくもしたしき愛感の根ざしをもよほすものを

ゆめよりさむることなかれ。

ゆめよりさむることなかれ。

いまはしづかな風景のゆめにゆすられながら

わたしの心はおさな兒のやうにすやすやと眠つて居る

とほい傾斜をくだつてゆく、乳母ぐるまの中に身をよこたへて。

  *この作品は完成してゐたと思はれるが、前半に當る部分が見當らない。

 

[やぶちゃん注:「おさな兒」の表記はママ。筑摩版全集では、酷似するものが、「未發表詩篇」に同じく無題で載る。以下に示す。同前で「おさな兒」の表記はママ。

   *

 

 

 

ゆめの中ではやさしい愛憐のこころをうしなはない、

ああ いかなればこそ、夢にはかくもしたしき愛感をもよほすものをの根ざしをもよほすものを、

ゆめよりさむることなかれ、

ゆめよりさむることなかれ。

いまはしづかな風景のゆめにゆすられながら、

わたしの心はおさな兒のやうにすやすやと眠つて居る。

とほい傾斜をくだつてゆく乳母ぐるまの中に身をよこたへて。

              一九一六・七

 

   *

クレジットは大正五年七月で満二十九歳(朔太郎は明治一九(一八八六)年十一月一日生まれ)。この年の十月頃に詩集出版の計画を本格化し始め、早くも書名に「月に吠える」を候補として考えており、上京して、挿絵等について、恩地孝四郎と相談、十一月十六日には北原白秋に詩集序文を依頼、十二月中旬には詩集の編集を終えた。「月に吠える」の刊行は翌大正六年二月(奥付は二月十五日発行。感情詩社と白日社の共同刊行。自費出版)であった。

 筑摩版全集では、以上の後に、編者注があり、そこに『三九七頁の「(わたしは)」參照。』とある。この「(わたしは)」は原稿では誤字で「(したしは)」となっている(筑摩版編者による消毒補正)。以下に示す。総てママで示す。

   *

 

 

 

したしは

ああいつも夢の中なる愛憐をかんするときは、

やせ地の草木にさへふかいあはれをさしぐむやうた、

わたしは素足にじようろをもつてたづさへて

すべての生物つめたい地面の上にそそぎかける、

すべての生物のすべての芽生にそそぎかける、

ああ、いかなればこそ、

ゆめにはかくもやさしき愛憐の根ざしをかんするものを

夢よりさむること勿れ、

夢………

 

   *

而して、後に、編者注が以下の通りに続く(底本では全体が二字下げのポイント落ち)。〈空〉は筑摩版の抹消を指す記号で、〔 〕は筑摩版編者による誤字修正と脱字補填を示す記号である(実際には「向」の右には誤字を示す編者による「・」が傍点されてある)。

   ◆

* 本稿には以下がない。

* 右端欄外に次の二行がある。

 

  とほい空でかみなりがなる

  とほい〈空〉人氣のない傾向〔斜〕の上を乳母〔車〕

 

* 原稿末尾に五字下げて次の二行がある。

 

  夢よりさむることはくるしい

  〈夢よりさむることは〉

   ◆

本篇は削除してあるはずの部分が生きているが、まず、筑摩と同一の原稿と思われる。小学館編者は、削除部分の削除線には気づいていたものの、それを一度は完成された詩篇の後半部の草稿と断片と捉えた結果として、コーダとして復活させたもののように思われる。而して、筑摩版編者がなぜ、「したしは」への参照注を記したかは、小学館編者の注と並べた時、妙にしっくりくる。「(したしは)」という無題詩を、この無題詩「(ゆめの中ではやさしい愛憐のこころをうしなはない、)」の前半原型であった採ると、何んとなく、しっくりくる部分があるからである。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 鳥の巢の内部

 

  鳥の巢の内部

 

鳥の巢をうかがへば

巢の中はぼんやりとうすぐらく

鼠いろの卵がひとつばかり

氣味わるく光りて

そのあたりいちめん

病人のかみの毛だらけなり。

ああ、じつに無數の髮の毛なり。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集では、「未發表詩篇」に以下のように載る。

   *

 

  鳥の巢の内部

 

鳥の巢をうかがへば

巢の中はぼんやりとうすぐらく

鼠いろの卵がひとつばかり

氣味わるく光りて

そのあたりいちめん

病人のかみの毛だらけなり。

ああ、じつに無數のかみの毛なり。

              三月十六日

   *

詩篇の後に筑摩版編者による、『本稿は未發表詩篇「梢」と同じ原稿用紙に書かれている。』とある。「梢」は本底本では、同じ「遺稿詩篇」パートの、本篇より十二篇前に配されてある。最終行の「髮」が「かみ」である以外には異同がないので、恐らくは筑摩版と同一原稿であろうと私は推測する。なお、このクレジットは全集の「未發表詩篇」内の配列から見て、大正四(一九二五)年三月十六日である可能性が高い。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 (無題)(山の森の中に住んでゐると) / 筑摩版全集未収録詩篇

 

  

 

山の森の中に住んでゐると

くさつた食物がきらひになる

うまい羊の肉がたべたいね

まつ白い手袋をはめこんで

いちばん上等の夫人たちと

每朝なかよしで散步がしてゐたい

もう少しして日陰の雪がとけだしたら

ほんとにわたしをたづねておくれよみるくの皿にうぐひす菜のさらだをつけますよ

鉋丁なんかぴかぴかさせて

テーブルのすみからすみがきたてるんだ

ああどんなにおれがやつれはててしまつたか

どんなにおれがかわいさうな子供になつたか

おれは每日二階の窓によりかかつて

遠い森のはづれをながめてゐる。

 

[やぶちゃん注:「うぐひす菜」「鶯菜」で、広義にはコマツナ・アブラナ・カブなどの菜の類を総称し、春に十センチメートルほどに伸びたものを「つまみ菜」とするものを指すが、狭義には特にコマツナを指すことが多く、鶯が鳴く頃に出、色も似ているところから、かく、言う。「鉋丁」は「かんな」と当て訓しておく。筑摩版全集の一九八九年刊の増補された補巻の索引にも載らない筑摩版全集未収録詩篇である。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 信仰

 

 信  仰

 

わたしがはりつけになるまへにも、

わたしはくるすをきらんとする、

これはむやみに話すべきことではない

わたしは酒亂であるし

ああ信仰のなにものもない

すべて愛より出づるものは毒草の花よりも危險である

おなごの手にするものはぴすとるの玩具である

わたしは人をしばつたり人を殺したりするまへに

わたしの智慧を殺さねばならぬ

いちにちあなたのまへに淚をながし

信じられないものを信じやうとする

わたし一人のために

わたしの兄弟たちは斷食した

ああ神さま

それがまつたくしんじつであるならば

わたしがはりつけになるまへに

すつぱりとくるすを切つてかくしごとを懺悔してしまひたいのだ。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。筑摩版では酷似する同題詩篇が「未發表詩篇」にある。以下に示す。歴史的仮名遣の誤り「おなご」「信じやう」や、誤字と思しい「ぴすどる」・「あなたのまへの」の「の」・「しんじみ」等は総てママである。太字は同前。

   *

 

 信仰

 

わたしがはりつけになるときまへにも、

わたしはくるすきらんとする、

わたしこれはあなたに→にくらしいむやみに話すべきことであるないが

たゞしそれはわたしは信心酒亂である

そして邪いん淫である

ああ信仰のなにものもない

すべて愛より出づるものは毒藥ばかりである草の花よりも危險である

おなごの手にするものはぴすどるの玩具である

わたしはわたしは人をしばつたり人を殺すまへにもしたりするまへに

わたしの戀人を智慧を殺らせさねばならぬ

わたしはにちにちあなたのまへの淚をながし

にちにち信じられないものを信じやうとする、

にちにちわたし一人のために

わたしの兄弟たちは斷食するした、

ああ神さま

ああ、それがまつたくしんじみであるならば

わたしがはりつけになるまへにも

わたしはつぱりとくるすを切つて、

のこらずのあらゆるかくしごとをいつさいの→この秘密を懺悔をするものだ→するのだ、→したいのだ、してしまひたいのだ。

 

   *

整序すると(意味が採れなくなる誤字の「ぴすどる」・「あなたのまへの」の「の」・「しんじみ」は訂正した)、

   *

 

 信仰

 

わたしがはりつけになるまへにも、

わたしはくるすをきらんとする、

これはむやみに話すべきことでないが

たゞしそれはわたしは酒亂であるし

そして邪淫である

ああ信仰のなにものもない

すべて愛より出づるものは毒草の花よりも危險である

おなごの手にするものはぴすとるの玩具である

わたしは人をしばつたり人をしたりするまへに

わたしの智慧を殺さねばならぬ

にちにちあなたのまへの淚をながし

信じられないものを信じやうとする、

わたし一人のために

わたしの兄弟たちは斷食した、

ああ神さま

それがまつたくしんじつであるならば

わたしがはりつけになるまへにも

さつぱりとくるすを切つて、

あらゆるかくしごとを懺悔してしまひたいのだ。

 

   *

微妙に表現や表記に異同があるが、小学館の編者が筑摩版が採用した原稿と同じものをもとに整序した可能性が高いようにも思われる。別稿というには当たらないものであろう。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 九月の月光

 

  九 月 の 月 光

 

光は白

光は綠

光は伴奏

光は隨圓

光は賭博

光は感傷

光は乳酪

光は立體

光は白

光は綠

 

[やぶちゃん注:「隨圓」は意味不明。以下に示す筑摩版全集所収のそこでは、校訂本文で「楕圓」としている。「楕圓」(楕円形のそれ)は「橢圓」とも書くから、腑に落ちる気はする。その全集では、「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」に以下のように載る。

   *

 

 九月の月光

 

光は白

光は綠

光は伴奏

光は隨圓

光は賭博

光は感傷

光は乳酪

光は立體

光は白

光は綠

 

   *

同一原稿である。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 病氣の探偵 / 筑摩版全集所収の「病氣の探偵」の草稿原稿と同一と推定

 

  病 氣 の 探 偵

 

がらんどうの空家の五階

永遠に閉ぢられた九つの窓

厚ぼつたいかあてんの沈默

このへんに蒸しあつい晚だが

探偵は部屋の隅から

一方の隅へ步いて居る。

部屋のまん中に木製の椅子

電氣仕掛の秘密の椅子だ

だがかわいそうに

私の探偵はなにも知らずに

不幸な瞳(ひとみ)がぢつと見つめて居る。

みつめる床の上に

亞砒酸の光る粉末

鑛物性の哀しい微光……

どうかして靑白い肢體が

エレキじみた哀傷にしびれるときさヘ

探偵はなにも知らないのだ。

その背後(うしろ)の壁に

ぬりこめられた幼兒の毒殺屍體でさヘ。

この遠い祕密の空部屋に

ぢつと自分のたましひをみつめながら

たつた一人でふるえて居るよ

おお氣の毒な病氣の探偵よ

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。「かわいそうに」「ぢつと」はママ。筑摩版全集では、「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」に同題で以下のようにある。歴史的仮名遣の誤り及び誤字らしい「徵光」等はママ。

   *

 

  病氣の探偵

 

がらんどうの空家の五階

永遠に閉ぢられた九つの窓

厚ぼつたいかあてんの沈默

このへんに蒸しあつい晚だが

探偵は部屋の隅から

一方の隅へ步いて居る

部屋のまん中に木製の椅子

電氣仕掛の祕密の椅子だ

だがか愛いそうに

私の探偵はなにも知らずに

不幸な瞳がぢつと見つめて居る

みつめる床の上に

亞砒酸の光る粉末

鑛物性の哀しい徵光……

どうかして靑白い肢體が

エレキじみた哀傷にしびれるときさヘ

探偵はなにも知らないのだ

その背後の壁にぬりこめられた幼兒の毒殺屍體でさヘ

この遠い祕密の空部屋に

ぢつと自分のたましひをみつめながら

たつた一人でふるえて居るよ

おお氣の毒な病氣の探偵

 

   *

本篇には、以上のコーダの四行が存在しない。傍点やルビもなく、表記も微妙に違う。とところが、同全集同巻の後にある『草稿詩篇「習作集第八卷・第卷」』に以下がある。太字は底本では傍点「ヽ」。歴史的仮名遣の誤りや誤字(「空部家」は「空部屋」(からべや)の誤記か)はママ。

   *

 

 毒殺事件病氣の探偵

 

がらんどうの空家(あきや)の五階、

永遠に閉ぢられた九つの窓、

この厚ぼつたいかあてんの沈默、

このへんに蒸あつい晩だが、

探偵は部屋の隅から、

一方の隅へ步いてくる、

部屋のまん中に木製の椅子、

電氣仕掛の木製 殺人の祕密の椅子

だがかわいそうに

不幸な探偵は何も知らないのだ、

不幸な瞳がぢつとみつめて居る、

みつめる床の上に

亜砥酸の光る粉末

鑛物性の哀しい微光……

探偵のどうかして瘠せた肢體が

エレキじみた哀感にしびれるときさヘ

だが探偵はなにも知らないんだ

そのうしろの暗い壁には、塗りこめられた毒殺*幼兒の毒殺死體でをさヘ//女の手、足さへ、*[やぶちゃん注:以上の「*」「//」の記号は私が打った。これで挟んだ二つの詩句は並置残存である。]

靑ざめた 我執

この氣持の惡い

ああこの遠い遠い世界の祕密の靈智空部家のまん中に、にぢつと自分をみつめて居る、

たつた一人でふるへて居る

ぢつと想に

おお氣の毒な私の病氣の探偵よ、

 

   *

細部の異同や並置部などの問題はあるものの、これはほぼ相同に近いと言える。同一原稿と見做してよいように私には思われる。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 センチメンタリズムの黎明 / 筑摩版全集所収の同題の詩の別稿

 

  センチメンタリズムの黎明

 

どんな太陽の前にも怖れない

ちいさい、するどい

おお、私はラジウムを生む。

光の光

靈の靈

勁力の元子

科學の精髓

センチメンタルの實體

あらゆる美しいものの中で

もつとも美しい光輝體

それを、私の母體が生む。

母體は透明な玻璃のやうにいちめんに螢が光つて居る。

螢が光つて居る。

 

[やぶちゃん注:「ちいさい」「元子」(「げんし」であるが、私は、誤字ではなく、物理学上の「原子」を朔太郎なりの宇宙・神霊観(元素認識)で言い換えた確信犯と採っておく)はママ。筑摩書房版全集では、同題の詩篇が「未發表詩篇」に載る。以下に示す。誤字(「合唄」。「合唱」と思われる)や歴史的仮名遣の誤り(多数ある。なお、「そうびいろ」は「さうびろ」(薔薇色)で「さうびいろ」が正しい)は総てママである。

   *

 

 センチメンタリズムの黎明

      (感想)

 

私の母體が合唄するラジウムをうむ

 

どんな大きな太陽の前にも怖れない

ちいさい、するどい

おお、私はラジウムを生む。

光の光

靈の靈

動力の元子

科學の精髓

センチメンタルの實體

あらゆる美しいものゝ中で

もつとも美しい光輝體

それを、私の母體が生む。

母體は

母體は玻璃のやうに透明だ透明な玻璃のやう 螢がいちめんに光つて居る からだ中が螢いちめんに螢が光つて居る、

あまたの 靑白い螢が、靑白く ユウレイのやうに光つて居る。

 ……………………

いまきけ

いま、あけぼのゝ遠い地平線で

幽かな幽かな、赤ん坊(ぼ)の泣聲合唄がきこゑる

 

おゝ見給ヘ

黎明のそうびいろの空に

感傷の純金の母體がうつ映つて居る

それは歡喜と苦痛にふるへながら

第一の奇蹟の扉のまへに合掌して居る

〈私の、〉おお、私のほんとういぢらしい

ほんとうの、センチメンタリズムの姿だ。

       ――八月十六日ノ日記ヨリ――

 

   *

整序すると(「合唄」だけは「合唱」とした)、

   *

 

 センチメンタリズムの黎明

      (感想)

 

私の母體がラジウムをうむ

 

どんな太陽の前にも怖れない

ちいさい、するどい

おお、私はラジウムを生む。

光の光

靈の靈

動力の元子

科學の精髓

センチメンタルの實體

あらゆる美しいものゝ中で

もつとも美しい光輝體

それを、私の母體が生む。

母體は透明な玻璃のやうにいちめんに螢が光つて居る、

螢が、光つて居る。

 ……………………

いま、あけぼのゝ遠い地平線で

幽かな幽かな、赤ん坊(ぼ)の合唱がきこゑる

 

見給ヘ

黎明のそうびいろの空に

純金の母體が映つて居る

それは歡喜と苦痛にふるへながら

第一の奇蹟の扉のまへに合掌して居る

おお、私のいぢらしい

ほんとうの、センチメンタリズムの姿だ。

       ――八月十六日ノ日記ヨリ――

 

   *

となる。本篇との異同は(踊り字は問題にしない)、筑摩版には、

・題の添辞「(感想)」があること。

・冒頭に独立一行の「私の母體がラジウムをうむ」の第一連が存在すること。

・「母體は透明な玻璃のやうにいちめんに螢が光つて居る、」と行末が読点であること。

・「螢が、光つて居る。」の次の「……………………」のリーダ以降のコーダがごっそりと存在しないこと。

・最後に附された月日入りの後書が存在しないこと。

である。以上から、私は本篇は筑摩版が拠った原稿とは異なる別稿と考える。なお、月日は筑摩版全集の「未發表詩篇」の位置からは、大正三(一九一四)年かと推測される。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 手の感傷 / 筑摩版全集の「手の感觸」と同一原稿と推定(但し、順列に有意な異同が認められる)

 

  手 の 感 傷

 

その手はびらうど

その手は絹製(もみ)

その手はふつくりしてあつたかい

その手はこそばゆい愛の感觸

その手にくちびるをおしあてたい

その手はうしろにまわるゆうわくの手

その手をあげられ

その手を磨かれ

その手をもつてわれの指を握り

その手をして聖像たらしめ

女よ。

 

[やぶちゃん注:「びらうど」(歴史的仮名遣でも「びろうど」(「天鵞絨」「ビロード」のこと。絹織物で、経糸(たていと)をパイル状(ループ状にしたもの)にした、比較的、毛足の長いパイル織物の一種。平織股は綾織の二枚の織物を経糸によってパイル糸とともに織り込み、それを二枚に切り分けて製造する。繊維が高密度に揃い、繊維の末端周辺に特有の肌触りを持つ。英語で「ベルベット」(velvet)、ポルトガル語(veludo)・スペイン語(velludo)で「ビロード」)「ゆうわく」(「誘惑」の歴史的仮名遣「いうわく」)はママ。

 さて筑摩書房版全集では、この同題の詩篇はない。しかし、「未發表詩篇」には、内容が酷似する「手の感觸」がある。以下に示す。「まわる」「ゆうわく」はママ。

   *

 

 女の手の感觸

 

その手はびろうど

その手は絹製(もみ)

その手は愛は感觸ふつくりしてあつたかい

その手はこそばゆい愛の感觸

その手はせんちめんたるのうしろにまわる女の子→手ゆうわくの手

その手にくちびるをあて るの手 たいおしあてたい

その手をあげられ

その手〈は〉を磨かれ

その手をもつて握られ→神聖たらしめ この手われの指を握り

その手は女の手

その手をしていんよくの聖餐をひらかしめ像たらしめ

女よ、

 

   *

これを整序すると、

   *

 

 手の感觸

 

その手はびろうど

その手は絹製(もみ)

その手はふつくりしてあつたかい

その手はこそばゆい愛の感觸

その手はうしろにまわるゆうわくの手

その手にくちびるをおしあてたい

その手をあげられ

その手を磨かれ

その手をもつてわれの指を握り

その手をしていんよくの聖像たらしめ

女よ、

 

   *

となり、本篇とは、題名と「その手はうしろにまわるゆうわくの手」「その手にくちびるをおしあてたい」の順列が異なるが、私は同一の原稿を判読したものではないかと考えている。「觸」と「傷」はいい加減に書けば、判読が困難になるし、五行目と六行目は筑摩版全集では激しい推敲が二行ともに行われており、ごちゃごちゃになったそれを小学館の編者がうっかり前後を入れ替えてしまったとしても不思議ではないからである。但し、本当に小学館の編者が誤りで、筑摩書房の編者が正しいかどうかは、原稿を見ない以上は、実は判らない。例えば、私個人は「その手にくちびるをおしあてたい」は本詩篇の中の大きな転回点となる一行である。「は」で並べて整序されるよりも、私は、ここにその強いブレイクが挟み込まれ、そこにまた、徐に「は」の「その手はうしろにまわるゆうわくの手」があって以下が続く方が、内在律は遙かに上下して鼓動を打つように思われるからである。

2021/11/29

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 群盜

 

  群  盜

 

足なき足の步みをきくの日ぐれ

この寂しき市街に住まへる

ぬすびとどもの心は强くかつ正直であつた

あるひは路に居てぱんを喰べ

あるひは路に居て水をのむ

わたくしどもは宿なし犬のたぐひにして

また夕ぐれの窓より細き手をのばして

人の食卓より鴨をぬすむの盜人である

ああ 十一月仲秋の夜

めんめん懺悔ををへ

酒盃をあげて悲しむの鼠盜である。

 

[やぶちゃん注:二箇所の「あるひは」はママ。九行目の「十一月仲秋」は不審な表現だが、これも原文のママである。「鼠盜」は音では「そたう(現代仮名遣:そとう)」であるが、「小さな盗みをする泥棒」の意であり、ここは意訓で「こそどろ」と読みたい。筑摩書房版全集では、「未發表詩篇」に、同題で以下のようにある。二箇所の「あるひは」「おへ」はママ。

   *

 

 群盜

 

足なき足の步みをきくの日ぐれ、

この寂しき市街に住まへる、

ぬすびとどもの心は强くかつ正直であつた、

あるひは路に居てぱんを喰べ、

あるひは路に居て水をのむ、

わたくしどもは宿なし犬のたぐひにして、

また夕ぐれの窓より細き手をのばして、

人の食卓より鴨をぬすむの盜人である。

ああ 十一月仲秋の夜、

めんめん懺悔をおへ、

酒盃をあげて悲しむの鼠盜である。

 

   *

これは、もう、同一原稿である。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 (無題)(狐がきたので) / 筑摩版全集の「未發表詩篇」収録の(無題)(にはとり鳴くと思ひきや)の草稿(複数有り)のそれら総てを纏めて並べたもの

 

[やぶちゃん注:判読不明を示す『*』は底本では一つしか打たれていないが、後注にある通り、六字分に増やした。

 

  

 

狐がきたので

雞が鳴くのだ

雞が鳴くと思つて******とび出せば

木の葉が落ちてるのだ

いまも夜天にしろじろと

懺悔するもののうしろに

みよ

永遠の圓

まつくろの氷山があり

懺悔の姿いぢらしく

 

狐がきたので

雞が鳴くのだ

雞が鳴くのかと思へば

木の葉が落ちてるのだ

ああ冬の夜の空にしろじろ

懺悔者の姿が

おれの姿が光つて居る

 

にはとり鳴くと思ひきや

いま夜天にしろじろと

光る懺悔のわがすがた

われの淚のうすあかり。

 

  *印のところ、六字不明

 

[やぶちゃん注:編注の末に句点がないのはママ。「雞」(音「ケイ」)は「にはとり」と読む。筑摩版全集未収録詩篇として公開したが、調べるうちに、筑摩版全集の「未發表詩篇」に載る無題の「(にはとり鳴くと思ひきや)」という詩篇の草稿と推理出来ることが判明した。まず、「(にはとり鳴くと思ひきや)」を示す。便宜上、これを《◆決定稿》とする。

   *

《◆決定稿》

 

 

にはとり鳴くと思ひきや

いまも夜天にしろしろと

光る懺悔のすがたわがすがた

われの淚のうすあかり

 

   *

而して、『草稿詩篇「未發表詩篇」』にある草稿(仮題して『(にはとり鳴くと思ひきや)』『(本篇原稿三種一枚)』(二種しか載らない)を以下に示す。歴史的仮名遣の誤りや誤字、及び、抹消のし忘れは、総てママ。便宜上、これらに《◆草稿1》《◆草稿2》《◆草稿3》という名を与える。

   *

 《◆草稿1》

 

狐がきたので

鷄が鳴くのだ

鷄が鳴くと思ひきやくと思つててつぽうもつてとび出せば

柳の葉の木が葉が落ちてるのだ

いまも夜天にしろしろと

 

《◆草稿2》

懺悔するものゝうしろに

みよ

永遠の闇なり

極光なり

まつくろの氷山なりがある

懺悔の姿いぢるしく

 

《◆草稿3》

 

狐が鶏(とり)を追ひかけたきたので

鶏(にはとり)が鳴くのだ

鶏が鳴くのではないのかと思へば

木の葉が落ちてるのだ

狐が鳴くのだ

ああああ冬の夜に いぢらしくの空にくつきりとしろじろと

いまも夜天にしろしろと

の姿がうつつて居のだ

おれの淚が光つて居る

 

   *

さて、次に以上の四篇を纏めて「○」を除き、整序してみる。

   *

《◆決定稿》

にはとり鳴くと思ひきや

いまも夜天にしろしろと

光る懺悔のわがすがた

われの淚のうすあかり

 

《◆草稿1》

狐がきたので

鷄が鳴くのだ

鷄が鳴くと思つててつぽうもつてとび出せば

柳の葉の木が葉が落ちてるのだ

いまも夜天にしろしろと

 

《◆草稿2》

懺悔するものゝうしろに

みよ

永遠の闇る

まつくろの氷山がある

懺悔の姿いぢるしく

 

《◆草稿3》

狐がきたので

鶏(にはとり)が鳴くのだ

鶏が鳴くのかと思へば

木の葉が落ちてるのだ

ああ冬の夜にの空にしろじろと

いまも夜天にしろしろと

悔の姿がうつつて居る

おれの淚が光つて居る

 

   *

ここで、本篇とこれらを比較するに、草稿と決定稿を全部、順に並べたものを以下に示してみる。

   *

《◆草稿1》[やぶちゃん注:頭に「○」を入れた。]

 

  ○

 

狐がきたので

鷄が鳴くのだ

鷄が鳴くと思つててつぽうもつてとび出せば

柳の葉の木が葉が落ちてるのだ

いまも夜天にしろしろと

《◆草稿2》[やぶちゃん注:本篇に合わせて結合させた。]

懺悔するものゝうしろに

みよ

永遠の闇る[やぶちゃん注:「る」は抹消し忘れ。]

まつくろの氷山がある

懺悔の姿いぢるしく

 

《◆草稿3》

狐がきたので

鶏(にはとり)が鳴くのだ

鶏が鳴くのかと思へば

木の葉が落ちてるのだ

ああ冬の夜にの空にしろじろと

懺悔の姿がうつつて居る

おれの淚が光つて居る

 

《◆決定稿》

にはとり鳴くと思ひきや

いまも夜天にしろしろと

光る懺悔のわがすがた

われの淚のうすあかり

 

   *

小学館編者は、恐らく筑摩版が依拠した一連の本詩篇の複数枚の推敲原稿と同じものを対象とし、しかも筑摩版が決定稿とする「家」と称する詩篇を決定稿とはみなさず、全体が一つの詩篇草稿であると判断して、かくソリッドに纏めて載せたのである。これは、恣意的な強制校訂や、独断の決定稿指定などをしている筑摩版全集の態度よりも、遙かに誠実であると私は感じている。因みに、最後に言っておくと、本篇では「鷄」ではなく「雞」となっている。筑摩書房版全集が痛いのは正字体を特定の一字に限定している点で、少なくともこの詩篇草稿では、萩原朔太郎は確かに「雞」の字を用いているのである。これを「雞」に換える正当な理由は全くないのである。何故か? かの「説文」では「雞」を正字とし、「鷄」はその籀文(ちゅうぶん:西周後期の金文の字様を残している、多少、字画数の多い字)であるとしているからである。漢字の決定的正字というのは実はブレがあり、一字に限定出来る字は必ずしも多くないのである。

エレーヌ・グリモー


最近、このフランス人ピアニストのエレーヌ・グリモー(Hélène-Rose-Paule Grimaud 一九六九年生まれ)のバッハの演奏に惹かれている。大学で動物学を専攻し、今はオオカミの生態を研究しながら、その養育を続けており、共感覚(音と色彩) の所有者としても知らている、私には魅力的な人物でもある。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 (無題)(夕日の松に首を縊(つ)る) / 詩集「月に吠える」所収の「天上縊死」の筑摩版全集不掲載の草稿

 

  

 

夕日の松に首を縊(つ)る

懺悔をはれる人ひとり

銀のアルバムを手にさげしが

頸に靑き紐をまきつけ

あはれあはれ

天上の松に首を縊らんと

懺悔おはれる人ひとり

はや瞳はしびれ

眼はめしひ

松にかかれば

身肉たちどころに電光發し

あはれあはれ

夕日さんさんたる梢につられ

この哀しめる

罪びとの手はさげられぬ。

 

[やぶちゃん注:この無題詩としては、筑摩版全集の索引に出ないので、試みに、ネットで「萩原朔太郎 夕日の松に首を」のフレーズで検索を掛けたところ――哀しいというか、嬉しいというか――私の九年前の二〇一三年の投稿記事がトップに出できたのだった。「月に吠える」の「天上縊死」(リンク先は二〇一八年に私がものした同詩集の正規表現版の当該詩篇)草稿群を電子化したものの一つ、「(無題) 萩原朔太郎 (「天上縊死」草稿3)」であった。そこに推敲されたものが示してあり、その抹消部を除去したものも電子化したが、それは本篇と酷似はする。異同は、

本篇七行目「人ひとり」→「ひとひとり」

本篇八行目「はや瞳はしびれ」→「はや肢體はしだれ」

本篇最終行「罪びとの手はさげられぬ。」→「罪びとの手はさげられぬ、」

だけである。しかし、八行目の違いは有意であって、誤判読の可能性もあり得ないから、これは私が仮に『「天上縊死」草稿3)』と呼んだものの失われた別稿と採るべきものであろう。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 あいんざあむ

 

  あいんざあむ

 

じめじめした土壤の中から

ぽつくり土をもちあげて

白い菌のるいが

出る

出る

出る

この出る菌のあたまが

まつくらの林の中で

ほんのり光る。

 

すこしはなれたところから

しつとり濡れた顏が

ぼんやりとみつめて居た。

 

[やぶちゃん注:「るい」はママ(「類」であるから、歴史的仮名遣は「るゐ」が正しい)。「あいんざあむ」はドイツ語の‘einsam’(アインザーム)で、「孤独な・独りの・淋しい」(他に「人里離れた・辺鄙な」の意もある)という形容詞。「菌」は「きのこ」。筑摩書房版全集では、「未發表詩篇」に、同題で以下のようにある。

   *

 

  あいんざあむ

 

じめじめした土壤の中から、

ぽつくり土をもちあげて、

白い菌のるいが、

出る、

出る、

出る、

この出る菌のあたまが、

まつくらの林の中で、

ほんのり光る。

 

すこしはなれたところから、

しつとり濡れた顏が、

ぼんやりとみつめて居た。

 

   *

同一草稿と考えてよい。なお、本篇には筑摩版全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」」に「孤獨を哀しむ人」と題した草稿がある。以下に示す。表記は総てママ。最後は編者注。

 

  寂寥

  孤獨を哀しむ

 

戀しければ

女を抱きしめ

じめじめした土壤の中から

菌のたぐひ

ぽつくり土をあげて

光る白いきのこ が出のるゐが

出る

出る

出る

この出る、菌の目鼻あまたが

ぴかぴかまつくらの林の中で

ほんのり光る*一列に//春の雨かな*

[やぶちゃん注:「*」と「//」は私が附したもので、「一列に」と「春の雨かな」とが並置残存していることを示す。]

すこしはなれた*場所で地位に立つて//ところから*

すこし*はなれた//遠いところから*

[やぶちゃん注:以上の二行は実際には一行であるが、指示し難いのでかくした。「すこし」は一つで、「はなれた」と「遠いところから」が並置残存するとともに、前の「はなれた」の後が「場所で地位に立つて」と「ところから」がさらに並置残存していることを示す。]

白い顏が

くらい林の中で

それをぼんやりみつめて居た

それをみるとて 淚ぐむ

かなしみいまはたえがたく

林の中をうかゞへば

梢にくもは雨にぬれ

白き雨こそそそぎけり

  *草稿の右下部に「EINSAM」と書いてある。

 

   *]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 最後の奇蹟

 

  最 後 の 奇 蹟

 

おれは日ましにするどくなつてくる

おれの手はしんちうになり

おれの足はゆきにうづまれ

おれの髮の毛ははがねになり

おれのゆびさきは錐になつてしまつた

 

おれの胴體はふくらみあがつた

かへるをのんだ蛇のやうになり

そこらをのたうちまわつてくるしがる

おれはしんじつおれのただれた母體から

さくらの花をさかせてみせる

おれのくさつたたましひから

らじうむの月を生んでみせる

おれはしなびる

おれはやつれる

ああおれの足音はだんだんと墓場に近づいてくる

みろ、おれは齒くひしめながらきりきりいつしよけんめいで

おそろしい最後の奇蹟を祈つてゐるのだ。

 

[やぶちゃん注:「しんちう」(「眞鍮」)(歴史的仮名遣では「しんちゆう」が正しい)、「うづまれ」「そうして」(二箇所ある)「近いてくる」「齒をくひしめなから」はママ。筑摩書房版全集では、「未發表詩篇」に、同題で以下のようにある。□は筑摩版編者の判読不能字。

   *

 

 最後の奇蹟

 

おれは日ましにするどくなつてくる

おれの乎はゆきしんちうになり

おれの足はゆきにうづまれ

おれの髮の毛はへびはがねになり

おれのゆびさきは錐になつてしまつた

おれは空の胴體はふくらみあがつて

かへるをのんだ蛇 やうだ 如く→にさも似たるのやうになり

おれは おれはそこらのたうちまわつてくるしがる

おれはしんじつ苦しいのだ

らぢうむ 光線しかけておれのくさつたただれた母體から

さくらの花をさかせてみせる

おれのくさつたたましひから

らじうむの 太陽を光らしてみせる月を生んでみせる

おれはしなびる

おれはやつれる

そうして そのなああおれはだ □□□□の足音はだんだんと墓場 墓場に近いてくる

そうしてああみろ、おれは齒をくひしめなから

きりきりいつしよけんめいで

しつかりと 靑白いおそろしい最後の奇蹟を祈つてゐるのだ。

 

   *

本篇と異同はあるが、以上の筑摩版のそれをみるに、烈しい推敲跡があり、この草稿は、かなり判読が難しいものであることが窺えるから、私は本篇と筑摩版のそれは、同一のものと考えてよいか、或いは、朔太郎が決定草稿として以上を書き直したものの孰れかであると考えてよいと思われる。因みに、筑摩版では、上記草稿の後に、編者注記があり、『本稿は未發表詩篇の「(きみがやへばのうすなさけ)」と同じ用紙に書かれている。』とあるのであるが、こういう注記が読者に対して甚だ不親切の極みなのであって、これは『草稿詩篇「拾遺詩篇」』にある、勝手に仮題した『敍情小曲』『(本稿原稿一種一枚)』にあるものを指す。但し、ここに示すべき必要はない。読みたい方のために言っておくと、第三巻の447ページにある。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 梢

 

  

 

病人の靑い帽子の下から

かみの毛ぼうぼうと生え

月てつぺんに冴え

雀その毛にて巢をかけ。

 

[やぶちゃん注:筑摩書房版全集では、「未發表詩篇」に、同題で以下のようにある。

   *

 

 梢

 

病人の靑い帽子の下から

かみの毛ぼうぼうと生え

月てんぺんに冴え

雀その毛にて巢をかけ。

 

  * 別稿の題名に「春夜」とある。

 

   *

「てつぺん」よりも「てんぺん」(「天邊」か)の方がいい。「ん」を「つ」と誤判読することは、腑に落ちる。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 月光の夜に見たる家屋の印象

 

  月光の夜に見たる家屋の印象

 

内部に病人がある

そのはあるみにうむ製

窓は*らず三角形

うすでの雪がふり

さくらぎ靑き花つけ

いたいたしいがらすかけにて床はいちめん

貸間の二階に金屬の椅子があり

家根の上に黑い猫がねむつて居る。

 

[やぶちゃん注:「*」は編者注がないが、判読不能字であろう。筑摩書房版全集では「未發表詩篇」に、同題の草稿が載る。以下に示す。表記不全(不審な「決」、「古るき」、「からす」、「からんど」)は総てママ。

   *

 

 月夜に見たる光の夜に見たる家屋の印象

 

内部に病人がある

その家の壁はあるみにうむでつくられ

窓にさくらの花がさき

窗は決らず三角形

戶にもうすでの雪がふり

さくらぎ靑き花つけ

その 二階に古るき額あり

疾患

いたいたしいからすかけにて床はいちめん

からんど貸間の二階に一脚の金屬の椅子があり

家根の上に黑い猫がねむつて居る

 

   *

筑摩書房版全集校訂本文では「決らず」を「必らず」とする。本篇の「*」であり、確かにこの処理は、意味上はしっくりと肯ずることが出来る。抹消部の後ろから二行目の「からんど」は「か」に濁点を忘れたもので、「がらんどう」に同じ(その縮約表現として「がらんど」は辞書に載る)。

 本篇は、四行目「うすでの雪がふり」の頭の欠損が気になるが、二行目の「*」が「決」ならば、敢えて判読不能としたことが納得できることと、四行目は、或いは「戶と」が判読し難く、或いは上の削除線が下まで伸びているように錯覚されたものと考えると、同一原稿である可能性が高いと考えられる。]

父の発掘した縄文(推定)の石器を贈与しに行く

本朝、これより、父が五十六年前に今の住んでいる所からほど近い、横浜市内で発掘した石器を、横浜市歴史博物館に贈与するため、大船駅で落ち合って引き渡しに行く。朝の散歩がてら――

2021/11/28

ブログ・アクセス1,630,000突破記念 梅崎春生 狸の夢

 

[やぶちゃん注:本篇は学研が発行していた高校生向け雑誌である昭和三三(一九五八)年一月号『高校コース』に発表された。梅崎春生の作品としては、かなり珍しい青少年向けの、ありがちな学園を舞台とした推理物風(梅崎春生は推理物が実は好きなのである)の短編である。しかも新年号である。春生の作品としては、ロケーション設定の特異性や、表現や言及対象に、読者対象をかなり意識して、彼なりの気をつかっている感じがよく伝わってきて、読んでいて、そういう気遣いが、かなり面白い。

 文中にオリジナルに注を附した。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本日、先ほど、1,630,000アクセスを突破した記念として公開する。【20211128日 藪野直史】]

 

   狸 の 夢

 

 秋葉次郎は近頃よく狸(たぬき)の夢をみます。夢のなかで狸はいつも人間の姿に化(ば)けているのです。いいえ、厳密な意味では、人間が突如(とつじょ)狸に変ってしまうというべきでしょう。

 狸が人間に化けているといおうが、人間がふと狸に変ったといおうが、同じ現象みたいに思われますが、内容的にはかならずしも同じであるとはいえません。

 冬休みにはいってからも、秋葉は二度ばかりこれを経験しています。暮れのうちにみた最初の夢は、ビキニスタイルの美女たちにとりまかれて、ターザンのような男が気どっている図柄でした。総天然色の、華(はな)やいだ光景です。これに反して二度目の夢は――事もあろうに、これが今年の初夢になりましたが――墨染めの破れ衣をまとい、とぼとぼと枯れ野をたどる雲水(うんすい)の旅姿ときています。こちらは淡いセピアのモノトーン・カラーで、孤独や暗黒の押しつけがましい象徴のようでした。

[やぶちゃん注:「ターザン」(Tarzan )はアメリカの小説家エドガー・ライス・バローズ(Edgar Rice Burroughs 一八七五年~一九五〇年)が創造した冒険小説の架空キャラクターの野生児の名。小説ターザン・シリーズ及び映画化作品の主人公としてよく知られるが、本篇発表時少し前までは、元水泳の金メダリスト(一九二八年のアムステルダム・オリンピックに於いて百メートル自由形・自由形リレーの二つで獲得)で俳優に転身したジョニー・ワイズミュラー(Johnny Weissmuller 一九〇四年~一九八四年:オーストリア・ハンガリー帝国出身でアメリカ合衆国で活躍した)が演じた映画が大ヒットしていた。私(昭和三二(一九五七)年生まれ)の幼少時の記憶でも、現在の想起に於いても、ターザンは彼以外には浮かばないほどである。]

 色のついた夢はめったにみません。でも、色つきの夢をみるのは精神病者だ、と以前聞いたおぼえがあるので、ちょっと心配になった秋葉は精神分析の入門書を調べてみたのですが、最近の学説では、かならずしもそうとはかぎらないというのです。

 それにしても、こうやたらに狸の夢ばかりみるようでは、健全な状態とはいえないでしょう。二学年の三分の二が終ったとはいえ、じつはまだ大学入試ノイローゼにかかるほど、受験勉強に精出してはいないのです。

 夢の登場人物については、主役一人だけのこともあれば、その他大勢が出て賑わうこともありますが、夢の舞台に立つ主人公は最後にきまって尻尾(しっぽ)を出します。それを待ちかねて秋葉は夢の外から、つまり画面にあらわれない観客席のかぶりつきのようなところから、やにわに両手をのばし、ふさふさした見事な尻尾をぎゅうっとつかまえると、相手は突然狸の姿に変ってしまいます。その拍子(ひょうし)に目がさめて、たいていすがすがしい気分を味わうという段取りなのです。

 気がついてみると、よじれた毛布や電気スタンドの柱などを握っていたり、あるいはまた、枕もとにおいてある肌着や英語の辞書をまるめて、汗ばんだ両手でしっかりつかまえているのでした。いつも爽快な目覚めを迎えるとはかぎりません。自分の脚(あし)に、それもくるぶしのあたりに、ここを先途(せんど)としがみついていたときは、味けないものでした。寝相のぐあいでベッドの脚をつかまえそこねて、転げ落ちたときのほうがむしろ後味はよかったのです。行為の目的をはなれて、人間は方法や派生的な結果で、のべつ心を痛めるようにできているのですから仕方がありません。

 おかしな夢をみる直接の原因はわかっています。中学二年生の妹にせがまれるまま、近所のくたびれた映画館にお伴をして、『狸の歌合戦』とかいう歯の浮くような国産ミュージカルをみたのがいけなかったのです。しかしこの映画見物は、精神分析医にいわせれば、それと気づかず胸の奥に眠っていたものを、夢のなかで映像化するのに一役買っただけなのでしょう。いいえ、秋葉はうすうす気づいていたのでした。真の原因は他にあったのです。だから、秋葉次郎はめざめたあとで、「いつかは春海鯛介(はるみたいすけ)もきっと尻尾をだす。尻尾のない狸なんて……いや、尻尾をださない人間なんてあるものか」と考えて、すっとんきょうな狸の顔を、表情の乏しい春海の顔とすげかえてみるのでした。

[やぶちゃん注:「狸の歌合戦」これは「歌まつり満月狸合戦」(うたまつりまんげつたぬきがっせん)であろう。昭和三〇(一九五五)年五月に公開されたモノクロのスタンダードで九十三分。脚本は中田竜雄、監督は斎藤寅次郎、音楽は原六郎。「新藝術プロダクション」製作で、新東宝配給。主演の美空ひばり(「お春」・「お菊」の姉妹二役)と、助演の雪村いづみ(「お雪」役)が初めて顔を合せたほか、トニー谷・堺駿二(堺正章の実父)・山茶花究(さざんか きゅう)といった当代の名コメディアンが出演している。サイト「MOVIE WALKER」の同作の「ストーリー」によれば、『讃岐の狸国夕月城主高康公』(藤間林太郎演。藤田まことの実父)は、日本の大正時代から昭和時代にかけての俳優。無声映画時代のスターの一人。本名は、原田林太郎(はらだりんたろう)。藤田まことの父。)『は老年で退く事になったが、十余年前、正室の姫君が何者かに拐』(かどわ)『かされたので、愛妾お浅の方が生んだ幼君以外に子供がない。お浅の方と密通の家老穴倉』(山茶花究演)『に実権を渡さないため、忠臣蝶七郎に姫の探索を命じた。彼は姫が持っている筈の「鼓の模様入りの守り袋」を手がかりに探すうち、人さらいが芸人一座に売った娘が姫らしいと聞き、阿波の国へ行く。そこの鼓の森の休み茶屋夢廼家にはお峯とお春の娘がいた。お春は主人甚兵衛が芸人一座から金の代りに受けとった娘で、甚兵衛に酷使されていた。蝶七郎は彼女が姫だと思うが、穴倉の配下黒左衛門の一隊も姫の命を狙っていた。お春は水の精から狸の化け方虎の巻を与えられ、その力で魔術師風天斎』(トニー谷演)『とドブ六』(堺駿二演)『に捕えられていた九州狸お雪を助けた。お雪は夕月城下青山針磨』(若山富三郎演)『の屋敷に働く姉お菊とお春が瓜二つなのに驚く。風天斎とドブ六が青山家の家宝の皿を盗んでお菊に罪をかぶせ、そのため彼女は井戸に投身自殺した。皿はお菊に惚れていた河童の五六兵衛のもとに隠された。かくして狸と河童の間に善悪入り乱れての大合戦となり、ついに正は勝利をしめ、お春は夕月城の家督をついだ。』とある。]

 あの小狡[やぶちゃん注:「こずる」。]そうな狸の顔と、ひどく無愛想な、厳しくキリッとした、そのくせどこか憂いをたたえた春海鯛介の顔とのあいだに、なにひとつ共通点はないのです。容貌や表情をあげつらっているのではありません。肝腎なのは、狸が春海に化けたかどうかではなく、春海が狸に……いいえ、つまりですな、問題は狸ではなくて尻尾のほうなのです。

 春海鯛介は転校生です。夫年の九月、東北の地方都市から東京郊外のH高校に転校してきました。秋葉がクラス委員をつとめている二年C組に編入されて、まだほんの四月ほどにしかなりません。担任の風間先生の話では、なんでも春海はお父さんが亡くなったので、上京して伯父さんの世話になっているとのことでした。

 春海は無愛想な男でした。無口でとっつきにくいのです。新しい仲間になじめないのかと思い、秋葉はクラス委員という肩書きの手前、つとめて気をくばり話しかけてみるのですが、春海はいっこうにのってきません。誰が話しかけても、動きののろい目もと口もとに心もち笑いをうかべ、ひととおり必要な受け答えはするのです。その代り誰も声をかけたければ、一日中でも、いいえ、二年が三年でも黙りこくっているでしょう。そんな感じの男でした。

「もう、だいぶなれたろうな。二週間になるかな」

 秋葉がそう話しかけると、春海は口をむすんだまま、ちょっとはにかむような笑いをうかべ、

「……まあね」

 十五秒ほど間をおいて答えます。

 二年の四クラスのうちでは、C組が一番おとなしいのでした。二学年全体が一年、三年に比べて、おとなしいのです。そもそも学校自体がもとの府立中学で、中流サラリーマンの子弟が多いせいか、おっとり構えた恰好なのです。わるくいえば趣味的で、これといった特徴はなく、自治会活動も低調ですから、秋葉のクラス委員としての仕事は単調なものでした。

 いってみれば二年C組は羊の群れを集めたようなクラスです。もっとも冬岡忠治という番長気どりの男と、数人の取り巻きがいて、異端者ぶりを発揮していますが、それも多少血の気が多いだけのことで、C組のなまぬるい空気が余計反撥させるのかもしれません。

「文化部でも運動部でも、なにかクラブにはいってやってみるかい。文化部はかなり盛んだけれど、鼻につくよ。運動部はどこもパッとしないから、経験があれば、レギュラーになれるぜ。前の学校では、なにをやってたの」

 秋葉がそう言うと、春海はまた何秒か時をおいて、

「……べつに……」

 と返事は短いのです。

「どこでも一通りやってみていいんだぜ。ひとりで行きにくいなら、話をつけてやるよ。ひやかしのつもりで、あちこちのぞいてみるといいね」

「……ありがとう」

 うなずいて春海はゆっくり答えます。

 伏し目がちに、そうです、春海鯛介はいつも半分瞼をとじていますが、ときどき目をあげて無作法なほど見つめるのです。べつに不快をおぼえないのは、目の運びに節度があって迷いがないせいでしょう。不快どころか、目の動きだけについていえば、チラチラと揺れることのない澄んだ強い光が、あとあとまで心に残るのでした。しかし、こんなでは、不快感は与えないにせよ、とてもクラスメートに好感はもたれません。

「精薄児でなけりゃ、ニヒリストの目つきだよ。イヤーな感じ」

「どうも、ズレてるね。鈍いことはたしかだな」

「オツムは弱くもなさそうだけど、つきあえないね。申しわけない。こちとらは、ツーてばカーとこなくちゃ」

 こんな陰口が秋葉の耳にはいります。クラスメートの三分の一は女生徒ですが、こちらの評判もまあ似たようなものでした。

「ブッてるわね。イカスつもりかしら」

「田舎者コンプレックスよ。ご誠実だわ」

「素朴でいいじゃない。そっとしといてあげなさいよ。気の毒に」

 春海は同情され、半(なか)ば無視されてしまいました。秋葉ものれんに腕押しみたいで、いい加減拍子ぬけがしてサジを投げた恰好です。

 こうして春海鯛介はふた月あまりもごく目立たない存在でした。その評価ががらりと一変したのは、十一月初めに教室内で起った盗難事件以来のことです。

 

 いまでも秋葉はその事件に疑問をもっています。一応解決はしたのですが、どうも釈然(しゃくぜん)としません。事の真相が判らないのです。

 この冬休みにスキーにいくのを諦めて家にいるのも、受験勉強というのは体(てい)のいい口実で、じつは春海に会って事実を聞きだそうという下心からでした。これまでのところ三遍会って探りを入れてみたのですが、成功しません。とどのつまり狸の夢をみるのが落ちです。収穫は皆無でした。

 事件の二、三日前に模擬試験の成績発表がありました。H高校では、進学志望率がわりと高いため、受験指導にはかなり力こぶを入れ、二年生の進学志望者は年四回、学年別の模擬テストを受けることになっています。

 受験者はだいたい百五十人くらいで、そのうち五十番までの成績表が廊下に貼りだされるのです。秋葉次郎の過去二回の総合成績は、十二番と八番でした。Z工大志望者としては、十番前後なら、まあまあの成績です。安心もできないが、そう心配するにも及ばない。そんな相場でした。

 春海鯛介が最初に人目をひいたのは、十月中旬に行われた第三回テストの成績が、月末に発表されたときといえましょう。

 秋葉は前回よりも二番さがって、ちょうど十番でした。そして秋葉のもとの位置、八番には春海鯛介の名がみえます。

 しかし級友のあいだに格別反応はありませんでした。

「成績が人間のすべてじゃないからな」

 成績の悪いものはそう考えます。C組には十番以内が春海のほかに四人もいるのですから、こんなことでいちいちおどろいてはいられません。春海については、精薄児という見方が妥当でないことは判りましたが、そのほかの評価が改められた様子はないのです。してみると、春海の好成績はむしろ、手ごたえのない反感に恰好をつけたきらいがあります。

 盗難事件が起ったのはそんな時期でした。

 十一月二十日の昼休みのことです。秋葉は夏川ユリに廊下に呼びだされました。

「お金がなくなったの。どうしよう」

 ユリは小声でそう言いました。

 机のなかに入れておいた財布の位置が、いま見ると変っている。中身を調べたら、五千円札が消えていたというのです。

「思い違いじゃないのかい。例えば……」

「けさ机にしまうとき、あらためたのよ」

「厄介なことになったぞ。きみ、いつもそんな金を持ちあるくの」

「あしたお休みでしょ。朝、出がけにパパにねだって、まきあげてきたのよ」

 ユリの父親は一流会社の重役だそうです。父は会社の車が使えるので、自家用車のほうは母とユリがかわるがわる乗りまわすという結構な身分でした。

 夏川ユリはC組の人気者です。ちょっとした女王格で、庭球部では花形選手の一人でした。同性にも異性にも受けがいいのは、美人で才気煥発(かんぱつ)で金持なのに、へんに気どらないせいでしょう。しかしあいにくなもので、美貌が逆にわざわいして、気さくにふるまえばふるまうほど、異和感がつきまとうふうなのです。やはり美人はうぬぼれ、才女は小才を見せびらかし、金持はお高くとまるのが、気楽なようです。

「クラスに泥棒がいるなんて思いたくないが、仕方がない。早速みんなを集めよう。夏川くん、これはぼくの考えだが、一応クラス内だけの問題として扱いたいのだけれど。どうしても解決がつかなければ、そのときは風間先生に相談することにして……」

 秋葉がそう提案すると、

「あくまでクラス内の間題にしてほしいわ。内輪のことですもの。お金は、出なければ出ないでいいのよ。間題を外部に持ちだすようなら、盗られたのは嘘だって言うわ」

 夏川ユリは美しい眉をかげらせて答えました。

 ほかのクラスには知られないように非常呼集がかけられ、校内に散らばっているクラスメートが教室に集ったところで、秋葉は事情を説明しました。すぐさま議長を選んで善後策の討議にはいったのですが、議論百出して容易に対策のメドがつきません。

「犯人は外部の人間かもしれないのになぜ、内部の問題にするのか」

 まずこんな意見が出て、しばらくもめました。

「かりに、かりにだ、このなかに犯人がいた場合、罪人にしたいか。問題を外に持ちだせば、いやおうなく罪の烙印を押されるだろう。泥棒にも三分の理窟、わけもなく罪を犯すものはいない。しいて罪を追究せず、金が戻らぬ場合は、一人百円ずつ持ち寄ればすむではないか、クラス内の問題とすべし」

「反対。校内の問題なら、法的な罪人とはならない。動機いかんにかかわらず、罪は罪だ。罪はまぬがれても、人間、犯した罪は償わなければならない。それが本人のためでもある。もし外部からの犯行なら無実の級友同士が疑い合って、厭な思いをすることはないだろう。学校の間題とせよ」

 ともに一理ある意見です。その罪を憎み、その人を憎まず、救済を願う友情の美しさ。深遠な思想も織り込まれて、なかなか有益ですが、秋葉はどちらもちょっと大げさすぎるような気がしました。第一、これは討論会ではないのです。

 結局、「暫定的にクラス内の問題とする」という秋葉次郎の意見が通って、方法論に移りました。

「不愉快な仮定を忍んでもらいます。紛失した金がこの室内にある、と仮定します。発見方法についてご意見を求めます」

 議長も苦しそうだな、と秋葉は同情しました。

「議論の余地はない。所持品検査と身休検査をするまでだ」

「室内にあるとは限らないから、手分けをして校内くまなく捜す必要がある」

 いくら不愉快な仮定を忍ぶにしても、魂の救済について激論した同じ口から、刑事の手口が提案されるとは意外でした。これにも反対の火の手があがります。

「人権無視の暴挙だ。所特品検査だなんて、許せない」と叫んだ男は、人に知られたくない恋人の写真でも持っているのでしょうか。一方、身休検査は女生徒側からのいっせい反対にあいました。

「たとえ同性でも、おのれの意志に反して、からだにふれられるのは絶対いやよ」

 そう言われてみると、判るような気がするので、男性側も無理じいはできません。といって、身休検査ぬきの所持品検査は無意味です。

 こうなれば、捜査の方法は自然、限られてくるので、誰でも思いつきます。

 「消去法だ。アリバイを調べてみよう」

 こんな簡単なことに気がつかなかったのは、本質論に心をうばわれていたからでしょう。

 この日の課業をみると、物理実験と体操がつづき、教室がからになるのはこの二課目の授業中だけです。人目があるのに他人の机はあけられません。実験室への行き帰り、運動場への行き帰り。犯人がクラス内にいるなら、この四回の機会にしぼられてきます。最後に教室を出るか、最初に教室へはいるか。こんなときには、たいてい誰かと連れ立って、もしくは前後して出はいりをするものです。

 偶然一人になることもあるので、この方法は完全とはいえませんが、犯人捜しが狙いではなく、ほしいのは全員無罪の証明です。

「では一人でもアリバイのあいまいな人が出た場合は、この方法はいさぎよく撤回することにして……」

 議長がそういいだしたとき、秋葉は何人かの目が春海のほうに注がれているのに気づきました。単独行動といえば、誰しもまず春海鯛介のことが頭にうかぶのです。

「議長、反対」

 と、秋葉は思わず叫んで手をあげていました。

 

「たとえ撤回しても、一度かけられた疑いは消えない」

 と秋葉は立って述べます。

「人けのない教室のなかに、ただ一人ぼんやり居残った経験、教室に戻って気がつくと空家同然で、自分の存在があやふやになる経験、こんな経験は誰にもある。ここでは、疑ワシキハコレヲ罰セズ、では足りない。疑ワシキハコレヲ疑ワズ、といきたいのです。要するに、全員がシロであることを証明できれば、これに越したことはないのですが、功をあせって思わぬ犠牲者を出しては困る。その意味で只今のアリバイ捜査は、不完全かつ不適当な方法だと考えます」

 秋葉は午後の始業時間が迫っているので、気が気でないのです。国会のように、審議未了につき放課後まで休会、とずるずる順延できればいいが、突然のことですから、放課後まで持ち越すと、課外授業やクラブ活動、その他もろもろの予定をもつ人々に、迷惑が及びます。いまでさえ、ドアをあけてのぞきこみ、「なんだ、秘密会議か」と、からかって立ち去るほかのクラスの生徒たちが、うさんくさげに好奇のまなざしを投げていくのですから、もう一度くりかえせば、対策の立たぬうちに事が外部に洩(も)れかねません。そうなると余計面倒です。どうしても昼休みのうちに目鼻をつけておきたいのでした。

「最初にお断りしたように、被害者の夏川ユリも、あくまで内輪の問題として、とくに捜査方法については充分慎重に……」

 秋葉がそう言いだしたとき、

「金の保管も慎重に」

 と半畳を入れた者があります。はじめて笑い声が起りました。

「その点、夏川ユリはくれぐれも無用の疑惑を生ぜしめないよう……」

 つづいて秋葉がそう言いかけると、「生ぜしめた。もうおそい」とそこでまた野次がとびました。

 その通りです。哲学者や宗教家のような口ぶりで論じあっているうちに、一同の頭上には早くも疑惑の雲がたれこめていたのでした。

 考えると馬鹿らしい。万一、これがクラス内部の犯行だとしても、夏川ユリは別にして、四十八人のうち四十七人までが潔白です。かりに一人二人、共犯者のおまけがついても、四十五、六人は無関係で、とんでもないとばっちりを食ったわけです。もしかすると四十八人の全員が潔白なのですが、困るのは、四十八人の誰もが「わたしはやらなかった」とは言えても、「きみはやらなかった」と言いきれないことでした。それに第一、こう議論が長びくばかりで、方策も立たないときては、夏川ユリの名前がでたとき、「盗まれたのが悪い」という非難もこめて、うっぷんばらしの野次がとぶのも当然でしょう。

 まもなく始業のベルが鳴るころです。

「こうしようじゃないか」

 と、秋葉はくだけたことばで言いました。

「今日はこれで打ち切りにする。もしこの中に、金を……つまり、だまって借りた人がいたら、あした登校してから……」

「あしたは文化の日」

「そうか。そんならあさってだ。教室で返してもらうことにする。元金の五千円だけでいい。利息は要りません」

 秋葉は時間に追われて、思いつきをしゃべるうちに、ふと冗談が口に出て、笑い声を聞いたとたんに、うまい手を思いつきました。

「自白と同じじゃないか。そんならいま返してもらえばいい」

 と誰かが言いました。

 そうもいかないので、口々に返済方法をもちだして、どうやら秋葉の思う壺です。いろいろと名案珍案がでて、なかでは教室のどこかに落しておく方法が最も有力でしたが、全員手ぬぐいで目かくしをしてから、室内の壁に沿って手探りで三回以上ぐるぐる歩きまわるという形式が嫌われ、結局秋葉のもちだした方法を採用することになったのです。

 それはこうです。全員が封筒を用意する。ごく普通の細長い封筒で、色は白。これを手に握れるように四つ折りにして、投票の要領で箱のなかに入れるのです。昼休みのそのときまで封筒は身につけて持ち、決して他人に見せないこと。型や色の違った封筒は厳禁。デパートの紙袋やピンクの封筒などは沙汰の限りです。封筒にインクや爪でしるしをつけないこと。要するに、金が戻った場合、自分だけの潔白を証明しようとしないこと。公平を期すためには、こんな条件も必要なのでした。

 犯人は金を封筒に入れるだけで、罪をつぐなうことができるのです。

「返す気がなければそれまでだな」

 そう言いだした男はみんなの嘲笑を買いました。

「なんのために討議したのだ。そんなことをいうと、おまえが盗んだと思われるぞ」

「封筒から金が出なければ、全員シロさ。万一出てきたら、水に流しておしまいだ」

「これだけお膳立てをととのえたら、誰だって返すわね。どっちにしても、あさってのお昼までに片づくじゃない」

 ともかく一応の対策ができたところで、うまいぐあいに始業ベルが鳴ったのです。[やぶちゃん注:以下、改ページで行空けはないが、改行をそれに転用した可能性があるので、一行空けた。]

 

 なか一日おいて四日の昼、予定通り四十八枚の封筒が箱のなかにおさまりました。被害者の夏川ユリは、クラス委員の秋葉と議長をつとめた男の両名立ち会いのもとに、一枚一枚封筒を調べていきます。お祭り気分の空気がひきしまって、静かな室内にペーパーナイフで封筒を切りひらく音だけが聞えてきます。

 四十八枚目の封筒をひらく音がひときわ高くひびきました。

「開封の結果をご報告します。紙幣は発見できません」と議長がいいました。

 溜息が洩れ、どこからともなく拍手が起ってしばらく鳴りやみません。紙吹雪をとばしたいたずら者もいます。感動的な瞬間でした。

「よって本法廷は」

 と議長がきまじめな顔でいいだしました。

「ここに次の通り判決をくだす。判決……全員無罪」

「ありがとう、みなさん」

 と夏川ユリがつづいて発言します。

「お騒がせしてごめんなさい。じつはあたし、お詫びしなければなりません。お金をとられたというのは嘘でした。この問題は今日かぎりで忘れてください」

 もう一度拍手が起りました。これでなにもかも元の白紙に返ったのです。

 しかし緊張がとけると、なにかしらじらしい感じがただよいはじめました。時がたつにつれて、室内の空気が重苦しく濁っていくようなのです。「チェッ、つまんねえの」といったのは、紙吹雪を投げた男。ご苦労千万にも紙吹雪を用意しながら、一方で五千円札がでる場面を期待していたのでしょう。そういえば、「返す気がなければそれまでだな」といったのも、この男でした。

「このままでいいのか。夏川くんはああいうけどさ。いまや全員の問題だものな」

「罪を追究せず百円持ち寄れといったのは、きみだぜ。だからおれは最初から学校の問題にしろといったのだ」

「しかしクラスの恥をさらすことはない」

「盗難にあうのが恥か」

「迷宮入りになればね。C組の全員シロを、ほかの連中が信じてくれると思うのか」

 秋葉は級友たちの会話を耳にして「勝手なものだ」と思いながら、彼らを笑えませんでした。夏川ユリには諦(あきら)めてもらえばいい。彼女の五千円は、官庁づとめの父をもつ秋葉の百円王ひとつにも当るまい。だがもし、クラスの内外にかかわらず盗難が再発したら、責任を間われるだろう。「封筒に金がはいっていればよかったのに」秋葉自身、そんなことを考えていたのです。いくつかの視線がまたチラチラと春海にそそがれているのを見ても、秋葉はなぜか今度は気になりませんでした。

 そんなときです、春海鯛介が立ち上ったのは。汚ないものでもつまむように、二本の指で胸先にささえた紙幣を、じっと伏し目に見つめたまま、春海はやっと口をひらきました。

「……封筒に……入れたつもりで……」

 

 これが盗難事件のあらましです。

 春海はことばすくなに謝罪し、処置をまかせました。

 処分といっても、当の夏川ユリが、二つ折りにした真新しい紙幣を春海の手から直接受けとり、むしろはにかみながら、それをまた二つに折って小さな財布におさめて、

「いいわ。許してあげる」

 といったのですから、ほかの連中がとやかく言うことはないのです。

 それに春海の態度が立派でした。卑屈にすぎず、といって、ずうずうしくもない。万引き女が泣きわめき、訴え、ふてくされるのをみると、余計醜悪で同情も消えますが、春海の場合は反対に、ふだんと変りない態度がかえって好感をもたれたようです。自白に踏み切った勇気がたたえられたのかもしれません。「じたばたしすぎたからな、みんなは」と秋葉は思いました。じっさい、みっともないのは潔白な連中のほうでした。

 結果からいえば、春海鯛介は盗みを働いて株をあげたのです。株があがったといっても、時価百円とすれば、ほんの二、三円程度でしょう。一部には「やっぱりね」といった気分がつよいのです。むしろみんなは、事件が今度こそ片づいたことを喜ぶふうでした。

 相手が春海ですから、なぜ盗んだのかは判りません。聞くだけ骨折り損だとあきらめているのでしょう。

 ともかく春海が骨のある男として見直されたのはたしかでした。しかもこの事件には、ちょっとしたおまけがついたのです。

 五日の日曜日をはさんで翌六日の朝、秋葉は春海の額にかなりのコブができているのに気がつきました。よく見ると、目尻にうすいあざがひろがり、上唇は腫(は)れていたいたしく、耳の下にもバンソウ膏(こう)が貼ってあります。

「どうした春海、その顔は」

 一時限目に風間先生が見とがめて聞くと、春海は顔をしかめて、恥かしそうに、

「……自転車に、きのう、はねられて……」

 と答えたので、失笑が湧きました。同じコブでも、トラックやバイクにとばされてできたコブなら、誰も笑わなかったでしょう。

「自動車でなくて、よかったな。みんなも気をつけてくれよ」

 風間先生は、にこりともしないで、いわくありげにみんなの顔を見まわしました。盗難事件が洩れたかな。そう秋葉は思いましたが、べつにそんな様子も見えません。

 この日はじめてユーモラスな一面をみせた春海鯛介は、コブの代償に級友の同情を買ったのです。また一、二円がところ、株をあげたわけです。

 この同情相場は休憩時間ごとにじりじりと上げて、午後の課業が終るころには、ざっと十五円ほども高値がついたでしょうか。春海の怪我はリンチによるものだと判ったからです。

 自首した日の放課後、春海は冬岡忠治とその仲間に運動場の隅へ呼びだされ、なぐる蹴るの制裁を受けたらしいのです。冬岡の番長気取りも困りものです。人権尊重の時代ですから、これが露見したら、新聞沙汰になりかねません。

 べつに街のやくざなどとのつながりはなく、「男一匹」がどうの、「男のいのちの純情」がどうやらしたとかいう歌を口ずさみ、そとでは喧嘩(けんか)のまねごともやるようですが、教室では秋葉の言いなりになるくらいですから、手に負えない乱暴者ではないのです。根は純情な感激屋でした。

 校内でもまれに、「正義のため」やら「仁義を教えるため」に、悪くすると「虫の居所」のぐあいで、ご法度(はっと)の制裁もやりかねませんが、それもせいぜい痛くないビンタを張る程度で、今度のように怪我をさせたためしはないのでした。

 こんな噂はたちまち広がります。秋葉は冬岡をつかまえて、事の真偽をたしかめました。

「春海のコブはおまえがつけたって、本当か、冬岡」

「コブはおれじゃないけどよオ……ぬすっとたけだけしいって、あんなのだよ、な。おれは引きずり倒しただけさ……うんともすんとも、言わないだろ、あいつ……AとBがアタマにきちゃって、靴でやったんだ……やりすぎたよ、な。こう、背中をまるめて、音(ね)もあげずにいるんだ、あいつ」

「バカだよ、おまえたちは。訴えられて、表沙汰になれば、退校ものだぞ」

「ぬけ目はないよ。ぬすっとは訴えやしないさ。言ってやったよ、でけえつらするなって……」

 冬岡は得意の鼻をうごめかしていましたが、一週間後には、その鼻柱をへし折られるようなはめにおちたのです。

 冬岡も、その腰巾着(こしぎんちゃく)のAもBも、柔道部員です。あまり稽古には出ないので、来年も対外試合の選手になれる見込みはありません。

 たまたま冬岡が稽古に出た日に、春海は道場にあらわれ、稽古着を借りて着換えました。

「いい心がけだ。一丁、もんでやろか」

 冬岡が声をかけると、春海は気がなさそうにうなずいて、

「……このなかでは、誰が……つまり、一番つよいのは、誰だ」

 といいました。

「そうだな、三年生はもうあまり出てこないが、あそこの五分刈り頭が、副将だった人だ」

「……あとで……よかったら、もんでくれ」

「ああ、いいとも。おやすいご用だよ」

 しかし冬岡はやがて、穴があったらはいりたいような気もちを味わいました。副将といえば、C高校では一、二を争う実力者です。それが春海との乱取りで、藁(わら)人形みたいに振りまわされているではありませんか。

 春海がもどってきて、まだ消えない額のコブを指先でなでながら、「よかったら、もんでくれ」と言ったとき、冬岡は胴ぶるいがとまらなかったといいます。

 「……いやなら、いいんだ……人はみかけによらないだろう……前の学校には、おれなんか歯が立たないのが、十人はいた……上には上があるものだ……でけえつらをするなよ、冬岡」

 口も利(き)けないでいる冬岡に、春海はそういってめずらしく白い歯をみせ、笑いかけました。

 副将がその場にきて入部をすすめましたが、春海は断りました。対外試合のときだけでいい、という頼みにも応じません。

「……やりたいけど、だめなんです。友人を……片輪にしてから……久しぶりに今日……やっぱり、だめだった。気もちが……腕がちぢんで……」

 あの日もし、なにかの拍子で腕がちぢまなかったら……と考えて、冬岡はぞっとしたそうです。

 この話が伝わると、春海の株はいっぺんに……まあ、そうですな、三十八円分ほどはねあがりました。暴落をつづけてきた兜町とはあべこべに、春海の株はあがる一方です。

 十一月末に発表された模擬テストの成績で、春海はもう一度注目を浴びました。前回の八番から四番にあがったのです。秋葉は逆に四番さがって十四番に落ちていました。

 秋葉が狸の夢か見るようになったのは、それからまもなくです。

 

 同じ模擬テストでも前回のは春海の株価に影響がなく、今度のそれは、金額にして……毎度金の話で恐れいりますが、数字はやはり便利な尺度ですからな……ざっと四十五円ほど株をあげています。理窟に合わないようですが、世の中では、現象としてはよく似た材料でも、決して同じ結果は生みません。

 今回のテスト成績は、秋葉次郎にはショッキングなものでした。席次だけについていえば、四番と十四番では、相撲の番付なら小結と前頭十枚目くらいなひらきで、まあ大した違いではない。二場所もすれば、入れ替わる可能性もあるのですが、秋葉は最近、春海鯛介が自分と同じZ工大志望であることを風間先生にきいて知ったばかりです。春海に差をつけられたのが問題ではなく、春海がたまたまZ工大志望だったことが不都合なのでした。

 席次ばかりでなく、このところ株をあげ放題にあげているあの春海鯛介が、です。いいえ、田舎者とさげすまれ、存在を無視され、出来心にせよ、級友の金を盗んでスキャンダルの種をまいたあの春海が、です。

 短期間にその変りようはどうでしょう。いまや春海は畏敬の的(まと)です。リンチの首謀者、冬岡忠治にいたっては、春海鯛介を英雄視さえしているのです。

 そのころ秋葉は風間先生に呼ばれて、妙なことを聞かされました。

「どうだい、春海と自転車は。うまくいってるようじゃないか」

「自転車ですって」

「とぼけるな。国定村の親分だよ」

 長岡ならぬ冬岡忠治のリソチ事件を、先生は知っているのでした。

「スパイがいるのですか」

「バカをいうな。勘でわかるさ。それにおしゃべりが多いしな。盗難騒ぎも判っていたが、きみたちの自治にまかせて、様子をみていた。しかしあれは一杯くわされたようだな」

 そのときはぼんやり聞き流しましたが、秋葉はあとで「一杯くわされたようだな」という一言が気になりました。

 どんな意味か。春海が騒ぎを起して、一杯くわしたのか。それとも、春海は無実で、姿なき犯人に一杯くわされたのか。

 春海以外に犯人はない、という最初の空気は、いつからともなく、五分五分に変りました。級友の見方が半々に割れている意味ではなくて、級友個人の心のなかに、二つの見方が争っていたのです。シロかもしれない。クロかもしれない。しかし間題をむしかえすのは面倒だ、といったぐあいに。

 春海が厳格清廉(せいれん)で鳴らした判事の遺児であることも、あとでわかりました。判事の息子だからシロとはいえませんが、秋葉はあのただごとでないストイシズムが判るような気がします。なにしろ、伯父さんの大きな邸宅で優遇されながら、年の瀬というのに、火の気のない殺風景な小部屋にこもって、ひざ小僧を毛布にくるみ、机に向っているのですから。

 級友たちには、春海がシロかクロかはもうどうでもいいのです。やはりクロだとしても、自白した勇気は、罪をつぐなってお釣りがきます。それに被害者は毎月二万円も小遣いをつかう夏川ユリです。口にこそ出しませんが、心ひそかに溜飲をさげた者も多いはずです。

 月野好子のように無実を信じるものさえ出てきました。春海の返した五干円札は、手の切れそうなサラの札を二つ折りにしたもの。ユリはそれをまた二つに折って財布に入れたのですが、ユリの財布は小さくて二つ折りのままではおさまらない。つまりあの五干円札はユリの財布にあったものとは違う。だから春海は無実だ、というのが好子の論法でした。

 しかし返したのは盗難のあった翌々日ですから、同じ紙幣を返すとはかぎりません。財布の大きさに目をつけたのはさすがに女性ですが「どうも女の論理には飛躍がある」と秋葉は思うのです。

 夏川ユリの春海を見る目つきも尋常ではありません。事件直後はこだわりなく話しあっていたのに、やがてユリは春海を避けはじめました。秋葉がそれとなく観察すると、ユリはときどき遠くからじっと春海を見つめています。

 いいえ、ユリのことはどうでもいい。秋葉が胸を痛めているのは、花田千枝子の心変りでした。

 駅前のひなびた商店街に、「花田屋」というソバ屋があります。千枝子はそこの娘でした。手不足なので昼のうちは店を手伝い、夜は定時制の高校に通っています。

「結婚するなら、鼻低く、愛嬌第一、料理好き」

 これは結婚相談所の広告ではなく、秋葉次郎が兄の太郎からもらった葉書の全文です。大学三年のとき年上の美人と結婚した兄から、半年後に送られたものでした。恐らく最初の幻滅を歌ったものでしょう。

 秋葉は経済的にも苦労した兄の見本があるので、学生結婚はしないつもりですが、千枝子をみていると、受験一色に塗られた心がほのぼのとあたたまる思いでした。

 はじめて「花田屋」に誘ったのは冬岡です。食べるものはいつもキツネうどんでしたが、三回目ごろから秋葉は、三角に切った油揚げが自分のだけ三枚浮かせてあるのに気がつきました。みると冬岡たちのはどれも二枚ずつです。間違えたのではなく、四回目も同じでした。そういえば、ネギの量も倍近くあるのです。ウスアゲとネギを入れるのは千枝子の役目でした。冬岡たちは軽口をいって千枝子を笑わせています。

「へえー、ゼリー雪井が結婚したの。知らなかったな。愚か」

 秋葉にしてみれば、油揚げの足りないのを知らずにいる彼らのほうこそ、愚かです。

 兄の言ってよこした三つの条件のうち、料理の点は不明ですが、さきの二つ「鼻低く、愛嬌第一」が千枝子の身上でした。ひと頃の秋葉には、キツネうどんが生甲斐といえたくらいです。

 ところが春海を誘ってから事情が変りました。はやくも二回目に春海の油揚げが三枚にふえたのです。そして三回目には、「おれはタヌキだ」と春海がいうのを、「キツネにしろよ」「タヌキが滋養になる」「この店はキツネにかぎるのだ」と説き伏せた秋葉は、自分の油揚げが二枚に減っているのを見たのです。千枝子は多分、春海にほれこんでいる冬岡の宣伝にのったのでしょう。女心はあさはかなものです。兄貴の忠告もいい加減なものだ、と秋葉は思いました。その後は「花田屋」に誘われても、秋葉はもう、「うどんかけ」しか食べません。

 冬休みにはいる前に、月野好子が秋葉にこんなことを言いました。盗難事件は夏川ユリの打った芝居だ。ユリは何度か、春海について、「いじめてやりたい衝動を感じる」といっていた。それに近頃街に出るとき、ほそい金のネックレスをつけて、聞きもしないのに、「ちょうど五千円よ」

と吹聴している。つまりあの事件は、疑いが春海にかかるのを見ぬいて計画した狂言だ。それがいまは春海にイカレているというのです。

 そうかもしれません。しかし秋葉は一方、こうも考えます。いまとなれば、春海が盗んだとは思えない。そんなら退校程度の犠牲を覚悟で、無実の罪を背負ったのか。クラス内の問題としておさまることを計算の上、「勇気」を効果的に示したのではないのか。冬岡を恨ませずに心服させたのも、老獪(ろうかい)な手口といえないだろうか。

 秋葉は冬休みになって春海を三度訪ねたのですが、あいまいに笑うだけで、春海はことばを濁すのです。「一杯食わされたようだな」といった風間先生はなにを考えていたのでしょう。

 冬休みもあとわずかです。秋葉は休みのうちにもう一度春海に、できれば夏川ユリにも会って、真相をつきとめたいのですが、もうどうでもいいような気がします。

 いくら捜しても尻尾はないかもしれません。尻尾があるものなら、無理につかまえなくとも、自然に見えてくるでしょう。たとえ尻尾をとらえても、ベッドから落ちて頓死(とんし)でもしたら、つまりません。じたばたすればするほど悪くなるのが世の中です。そう思えば、狸の夢も消えるでしょう。先は長いのです。

[やぶちゃん注:「ゼリー雪井」不詳。架空の歌手か俳優か。

 因みに、本作中で、月(十一月)日付や曜日を細かに示しているが、試みに調べて見たが、発表された一九五八年以前直近数年を遡っても、それに完全に一致する年は、なかった。簡単に出来ることを敢えて合わせようとしなかったのは、あくまで創作物という矜持からであろう。]

甲子夜話卷之六 35 婦人の居所を長局と云說

6―35 婦人の居所を長局と云說

妾婢を置く處を長局と謂ふ。近頃、字書を視に、『「增韻」宮中長廡相通ルヲ永巷。「列女傳」宣姜后脫管珥永巷』と見ゆ。これ、「長局」とは「永巷」より云起せるか。又、『「三輔黃圖」『永巷宮中之長巷。幽官女之有ㇾ罪者。武帝時改掖庭ㇾ獄焉。』。』。これ、官女の獄と聞ゆ。今も咎を受たる女婢を、長局に押込申付るなど云も、この遺事か。

■やぶちゃんの呟き

まず、漢文部を訓読しておく。一部は本訓点に従っていない。文中、「字書」とあるが、これは普通は一般名詞で単なる漢字字書を指すが、ここは、その完備した代表格である「康煕字典」のことである。同字書の「巷」の記載を見たところ、以上の漢文の二節が、丸ごと、載っていた。但し、「管珥」は静山のそれか、判読の誤りか知らぬが、「簪珥」(しんじ)が正しい。「簪珥」は、冠を留めるのに用いる簪(かんざし)と、耳の飾りに垂れる耳玉で、ここは、何らかの罪を得て、後宮から下がることを、「脫管珥」と言っているようである。

   *

「增韻」に『宮中の長廡(ちやうぶ)[やぶちゃん注:長い軒(のき)。]の相ひ通づるを「永巷(えいこう)」と曰ふ』と。「列女傳」に、『周の宣の姜后(きやうこう)、簪珥を脫(ぬ)ぎて、罪を永巷に待つ。』と。

   *

「宣」は西周の第十一代の王(在位:紀元前八二八年~紀元前七八二年)。

   *

「三輔黃圖(さんぽくわうず)」に、『永巷は宮中の長巷なり。官女の、罪有る者を幽閉す。武帝の時、改めて、「掖庭(えきてい)」と爲(な)して、獄を置く。』と。

   *

「長局」「ながつぼね」。宮中や江戸城大奥などで、長い一棟の中を、幾つもの局(女房の部屋)に仕切った住居。局町(つぼねまち)とも呼ぶ。

曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 文政八乙酉年九月十一日紀伊殿より御用番御老中大久保加賀守殿え御屆書付の寫し / 曲亭馬琴「兎園小説外集」第一~了

 

   ○文政八乙酉年九月十一日、紀伊殿より、

    御用番御老中大久保加賀守殿え、御屆

    書付の寫し。

私領分紀州三山、御用に付、材木御尋有ㇾ之候處、奧熊野より、四十三里、深山に、大木一本有ㇾ之候、左之通り。

一 榎

  太さ、百二十抱、高さ、凡、八十七間程。

  南西え、出候、大枝、何れも十九抱

  より、三十抱程。

右の榎、東西南三方え、割れ有ㇾ之候處、宿木、生出候。左之通り。

一 椎

 高さ、二間位より、三間程迄、太さ一抱程。

 十三本。

一 松

 高さ、各、三、四間位より、太さ一抱半より、

 二抱程。九本。

一 黃楊

 高さ、二間位より、三間程迄。太さ、一抱位

 より、一抱半迄。十三本。

一 南天

 高さ、三間位より、太さ、四尺位迄。七本。

一 楓

 高さ、各、五間位より、太さ、何れも一抱位

 迄。七本。

一 竹

 高さ、三間程、太さ、二尺程。三十七本。

右之通りに御座候。此段御屆仕候。

 酉七月          紀州殿御城附

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

解、按ずるに、此大榎の事は、これより先、「月堂見聞集」、享保の卷に見えたり。「見聞集」に載せし所、樹の大小、幷に「やどり木」の數、大かた、違はず。それよりして、又、百年ばかりを經て、こたび、人の見出せし也。

 

 

兎園小說外集第一

[やぶちゃん注:リストの頭の「一」の後に字空けを施した。

「文政八乙酉年」一八二五年。

「紀州殿」徳川斉順(なりゆき 享和元(一八〇一)年~弘化三(一八四六)年)。紀州藩第十一代藩主。第十四代将軍徳川家茂の実父。

「大久保加賀守」大久保忠真(ただざね 安永七(一七七八)年(一説に天明元(一七八二)年とも)~天保八(一八三七)年)。譜代大名・老中。相模国小田原藩第七代藩主。小田原藩大久保家第九代。

「八十七間」百五十八・一七メートル。以下、「一間」は一・八二メートル。

「月堂見聞集」(げつどうけんもんしゅう:現代仮名遣)元禄一〇(一六九七)年から享保一九(一七三四)年までの見聞雑録。「岡野随筆」「月堂見聞類従」とも呼ぶ。本島知辰(ともたつ)著。全二十九巻。江戸・京都・大坂を主として、諸国の巷説を記し、政治経済から時事風俗にまで亙る。自己の意見を記さず、淡々と事蹟を書き記したもので、大火・地震・洪水の天災記事や、将軍宣下・大名国替や、朝鮮・琉球人の来聘、正徳二(一七一二)年に発生した寄合松平左門家家中の騒動、江島ら奥女中の一件、享保十年の水野隼人正刃傷事件、同十二年の美作津山の百姓一揆、翌十三年の象(ぞう)献上のことなどが記された実録体記事である。

「享保」一七一六年~一七三六年。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 上毛多胡郡碑文註釋抄錄 乾齋

 

   ○上毛多胡郡碑文註釋抄錄

『弁官符、上野國片岡郡綠野郡甘良郡、幷せて三郡内、三百戶郡成給羊多胡郡成、和銅四年三月九日甲寅、宜左中辨正五位下多治比眞人、太政官二品穗積親王、左大臣正二位石上尊、右大臣二位[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、ここに『(正脫カ)』と傍注する。]藤原尊。』。

【「宣」の字、上へかへりて、よむべし。】[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、以上を『〔附箋〕』とする。]

 右の如くに可ㇾ讀。

「弁」の字は「辨」字の代に用る也。天下の政事を司る役所を太政官といふ。知太政官事【後に太政大臣といふ。】、其役所の頭也。その下に「辨官」といふ役あり。此辨官は太政官の中の肝煎、「しまり」となる役也。「符」は、「字彙」に、『驗也。證也。』と註して、『すべて、證據にする書付を「符」と云。』。「辨官、符す。」とは、後の證據の爲に、辨官から、「此碑に書記して置。」と、文の初に、ことはり[やぶちゃん注:ママ。]たる詞也。甘良郡、「和名鈔」には、『甘樂郡』とあり。同事也。「郡となし給ふ」とは、「片岡郡綠野内より、民家三百戶を取分て、新に一郡と定め玉ふ。」といふこと也。「半多胡郡成」とは、「三郡の内、民戶を分て、多胡郡と成す。」といふこと也。「左中辨云々」「藤原尊」とは、「是等の人々、新に多胡郡を置くことを、仰付られたるぞ。」といふこと也。「公卿補任」、『穗積親王は知太政官事。』とあり。是、太政大臣の職分に同じ。「右大臣正二位藤原朝臣」は「不比等」也。「尊」の字は「朝臣」也。「補任」には『朝臣』とあり、「石上朝臣」は「麻呂」といふ人也。

「郡成給」は「郡ト成シ給フ」とよむべし。如ㇾ此の書樣、此邦の古書には、多く、例あり。漢土の文の書樣には、なき事なり。漢土の文の書樣にてよめば、義理、通ぜざるなり。「郡成テ」とよむは、誤也。

「羊」、此「羊」の字は、「半」の字を書誤たる也。上古は、いまだ、文華、開ざりし故、文字のあつかひなど、誤ること、此邦の古書には、間[やぶちゃん注:「まま」。]あることなり。「半」の字、「玉篇」の註に、『物の中分也。ワカツとよむ也。』。然るを、誰人か、其誤を推察せず。文に隨ひ、且、漢土の文をよむ如く、「羊に給フ」と、よみしより、『人の名なり。』と思ひ、剩[やぶちゃん注:「あまつさへ」。]、「大夫」の爵を添て、「羊大夫の墓銘也。」と言傳るは、腹を捧て、絕倒するに、餘りあり。「羊大夫」といふ人、史傳に、曾て見ざるもの也。古の碑は、今の世にていへば、境目の定杭のやうなる物也。「續日本紀」、和銅四年[やぶちゃん注:七一一年。]三月、多胡郡を置ことは見えたれ共、「羊に給ふ」といふことは、見えず。是を證とすべし。

 安永四年乙未閏十二月  伊勢平藏貞丈考

又云、

辨官符。今割上野國片岡綠野甘良三郡中三百戶。新爲一郡。名曰多胡郡。和銅四年辛亥三月九日甲寅。在中辨正五位多治比眞人。太政官二品桔積親王。左大臣正二位石上尊。右大臣正二位藤原尊奉行。

右の如く書けば、分明なるべきに、古代の文、迂遠也。

              平 貞丈 書

右上毛多胡郡古碑の事、古より讀兼たるをもて、東涯子の「盍簪錄」に、此碑の事を論じ、又、東江子など、亦、此古質を論じ置たり。しかれども、皆、以、人口の膾炙する所に過ぎず。獨、伊勢平藏子の解釋、頗、痛快を覺ゆ。今、こゝに錄して、もて、異聞に備ふ。

 文政九年丙戌春二月十五日  中井 豐民

[やぶちゃん注:ここで問題にしている碑文は、現在の群馬県高崎市吉井町(よしいまち)池(いけ)に現存する、国の特別史跡に指定されている古碑(金石文)の「多胡碑(たごひ)」である。「山ノ上碑」・「金井沢碑」とともに「上野三碑」と総称され、また、書道史の上からも「日本三古碑」の一つとされる貴重なものである。建碑は、その内容から、八世紀後半とされている。本碑については、ブログ版「耳囊 卷之二 上州池村石文の事」(二〇一〇年五月公開)、及び、サイト版「耳囊」の一括「卷之二」(二〇一〇年にブログと共時的に公開)の同話で、オリジナルに詳細な考証を行なっているので、そちらを参照されたい。相当に入れ込んで注を作成したものなので、ここでは繰り返す気は、全く、ない。電子化注の差別化を図るために、後者で作成した図等は、前者では省略しているので、是非、後者で見られたい。また、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 四 百合若と八束脛』でも、本碑に言及されてあるため、注を添えてあるから、そちらも参照されたい。

「玉篇」中国の字書。全三十巻。梁の顧野王(こやおう)の撰。五四三年、成立。「説文解字」に倣って、字数を大幅に増加した部首分類体の字書で、後に唐の孫強が増補し、また、宋の陳彭年らが勅命により、増補修訂した。原本の顧野王の写本の一部は日本にのみ現存する。

「定杭」(ぢゃうくひ(じょうくい))は、境界などを規定するために建立した杭。

「安永四年乙未閏十二月」はグレゴリオ暦では旧暦十二月一日で既に一七七六年一月二十一日である。

「伊勢平藏貞丈」「伊勢貞丈」(いせさだたけ 享保二(一七一八)年~天明四(一七八四)年)は江戸中期の旗本(幕臣)で伊勢流有職故実の研究家。ウィキの「伊勢貞丈」によれば、『江戸幕府寄合・御小姓組蕃士。旗本・伊勢貞益の次男』。『有職読み』(中世の歌学で歌人の名を音で読むことに始まった尊敬の訓読法)『でテイジョウと呼ばれることもある』。平蔵は通称。『伊勢氏は元々室町幕府政所執事の家柄であり』、『礼法に精通し、江戸幕府』三『代将軍徳川家光の時に貞丈の曾祖父伊勢貞衡(さだひら)が召し出された』。享保一一(一七二六)年に実兄が十三歳で『夭折して伊勢氏は一旦』、『断絶したが、弟である貞丈が』十『歳で再興』、三百『石を賜り』、『寄合に加えられた。この時』には十二『歳と年齢を詐称している』。延享二(一七四五)年には二十八歳で『御小姓組に番入り、儀式の周旋、将軍出行の随行などにあたった。貞丈は特に中世以来の武家を中心とした制度・礼式・調度・器具・服飾などに詳しく』、『武家故実の第一人者とされ、伊勢流中興の祖となった』。天明四(一七八四)年三月に『致仕し』、『麻布に隠居したが』、二ヶ月後に享年六十七で亡くなった。『有職故実に関する著書を数多く残し』ている。私も数冊を所持する。多胡碑の彼の考証が何に載るのかは、不明。

「東涯子」伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年)京都生まれの儒学者。伊藤仁斎の長子。名は長胤。父仁斎の古義学を受継ぎ、「堀川学派」を充実させた。学問は博覧綿密であったが、仁斎のような独創性はなく、専ら、父の学の整理・補成・紹述に費やした。その著述は経学・文学から、和漢の制度・文法・名物の詳細に及ぶ。「盍簪錄」(こうしんろく/かっしんろく)は考証を中心とした随筆。

「東江子」沢田東江(享保一七(一七三二)年~寛政八(一七九六)年)は江戸生れの書道家・漢学者・儒学者・洒落本の戯作者。元は多田姓であったが、改めた。氏は源、諱は鱗。当該ウィキによれば、宝暦四(一七五四)年に、『兄弟子の高橋道斎に勧められ』、『上毛多胡碑を観に赴き』、『拓本を打ち、のちに』「多胡郡碑面考証」として『上梓した』とある。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 硝子製煉場 / 筑摩書房版「未發表詩篇」採用の「硝子製煉場」草稿の別ヴァージョン

 

  硝 子 製 煉 場

 

つめたい大理石の扉

磨きあげた眞鍮の外壁

不思議な工場は天使のやうに眠つて居る

けれども眼は地上でもえて居る

狡猾な眼はいきものの眼はいつも張りきつて居る

内部はせわしないくろんぼの幽靈

妖怪めいた五色のルツボ

それが扉のすきまから見える

へんな魂のめばえが

細長いくだのさきでふくらむところ

 

諸君のあやしい姿をかくせ

ああ、諸君

忠實なる私の職工

お早う

さてみなさん

このぎやまんの林檎を御覽下さい

おおなんと磨きあげた琥珀の林檎

奇蹟のはらんだ林檎

靈智のわすれた林檎

 

編註 「靈智のわすれた林檎」の次に一行あるも判讀しがたく、削除した。

 

[やぶちゃん注:「せわしない」はママ。筑摩版全集では「未發表詩篇」に推敲草稿が以下のように載る。二行目の字空けは原稿のまま。歴史的仮名遣の誤りや衍字もそのままである。

   *

 

 硝子製煉場

 

つめたい大理石の扉

磨きあげた眞 の外壁

この不思議な工場は天使のやう→死のやう天使のやうに眠つて居る、

まるで いつも天使の眼のやうに眠つてゐる、

けれども人間の眼は地上でもえて居る

實に狡猾な人間いきものゝ狡猾な眼はよく知つて居るいつも張りきつて居る、

けれども内部はせわしないくろんぼの幽れい

妖怪めいた虹の溶液五色のルツボ

それが扉のすきまから見える

へんな魂のめばへが

細長いくだのさきでふくらむ光景も→ありさまところ

 

ああ、諸君

忠實なる私の職工、

諸君のあやしい姿をかくせ

秘密の注文

眼に見えない

まだ休息の時にははやい

仕上げの秘密にはまだ時がある、

そのうへにもなんとみ給へよろこんでください

気をつけ給へ

 

お早う

さて諸君みなさん

私の右の掌のうへをこのぎやまんの林檎を御覽ん下さい

おおなんと奇麗な林ご

                 琥珀

おゝなんと磨いたきあげた    の林ゴ

                 瑠璃

[やぶちゃん注:「琥珀」と「瑠璃」は並置残存。]

奇蹟のはらんだ林檎

靈智のわすれた林檎

 

   *

本篇には筑摩版編者の注が以下のようにある。『二行七字目は原稿では空きのまま。「鍮」と推定されるので上欄本文にはこれを補った。また第二連四行目の「注文」は消し忘れと思われるので上欄本文では抹消した。』とある。これは穏当な判断ではある(「鍮」の欠損は朔太郎が漢字を思い出せず、後の漢字表記を期した意識的欠字である)。しかし、校訂本文は採用せず、あくまで推敲原稿を整序して以下に示す。但し、「眞鍮」は本篇から見ても間違いないので、「鍮」を挿入した。

   *

 

 硝子製煉場

 

つめたい大理石の扉

磨きあげた眞鍮の外壁

不思議な工場は天使のやうに眠つて居る、

けれども眼は地上でもえて居る

いきものゝ狡猾な眼はいつも張りきつて居る、

けれども内部はせわしないくろんぼの幽れい

妖怪めいた五色のルツボ

それが扉のすきまから見える

へんな魂のめばへが

細長いくだのさきでふくらむところ

 

ああ、諸君

忠實なる私の職工、

諸君のあやしい姿をかくせ

注文

まだ休息の時にははやい

仕上げの秘密には時がある、

そのうへにもなんとよろこんでください

 

お早う

さてみなさん

このぎやまんの林檎を御覽ん下さい

            琥珀

おゝなんときあげた     の林ゴ

            瑠璃

奇蹟のはらんだ林檎

靈智のわすれた林檎

 

   *

以上を本篇と並べてみても、細部に異同がある。私は、この筑摩版編者が採用した原稿よりも後に改稿した草稿が本篇のソースではないかと推定している。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 おれの部屋

 

  お れ の 部 屋

 

おれの部屋はせますぎる

けれどもおれはかまはない

おれの部屋の窓からのぞくと海がみえる

おれはいつでも海をみてゐる

海はぎんいろにかがやいてうつくしい

おれはきうくつでもかまはない

さうしておれは自由の身だ

おれが散步にでかけるとき

おれはおれの部屋には用がない。

 

[やぶちゃん注:「きうくつ」はママ。本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 (無題)(つかれきつた魂がねむつてゐる) / 前掲詩篇「ある場所に眠る」の別稿と推定される

 

  

 

つかれきつた魂がねむつてゐる

みどりのこんもりとした木立ちのかげに

わたしの靑ざめた手足がすやすやと眠つてゐる

手の上にもちひさな蟲けらが這ひあがつて

しづかに私のたましひをみまもつてゐるのである

私の心はしづかに眠る

さうしてかなしい生活の夢をみつづける

ああけふもけふとて酒場をもとめ

酒場の椅子にたましひをくさらした

さらに多くの憂鬱なる神經が

酒場の椅子にべつたりとねばりついた。

 

*前作と重複する部分あるも、作者がいづれの作品を採らうとしたかは分らぬ。

 

[やぶちゃん注:「前作」はこの直前に掲げられてある「ある場所に眠る」。穏当な見解で、或いは、「ある場所に眠る」と一緒に或いは連続した原稿に並べられて記されてあったものかも知れない。実際、底本では、数行しか残っていないのに、そこから本篇を始めている。本シリーズの詩篇の組版のセオリーは、独立した一篇一篇は、見開き右ページ行頭から開始、或いは、同仕儀の左ページ開始であるからである。則ち、ここで小学館編者は特異的に、草稿原稿を連続して並べて組んでいるのである。最後に。本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 ある場所に眠る

 

  ある場所に眠る

 

たいさうふかい綠のかげで

つかれきつた魂がすやすやと眠つてゐた

その靑ざめた手足のうへから

ちひさな蟲けらが這ひのぼつても

しづかに魂をみつめてゐた

しづかに夢をみるわたしのたましひ

しづかに夢をなく

 

ああそこの木立ちの風の行方

夏がきた愉快さに光がおどつてゐる

うれしい五月が私をおとづれた。

 

*標題は「ある場所に眠る」のほか、「ある場所で子供の唄へる」ともあり、これは消してあつた。なほこの作品は末行のあたりが少し曖味になつてゐる。

 

[やぶちゃん注:底本では、標題右下に「*」が附いて、末尾編注に対応させてあるが、除去した。「たいさう」「おどつて」はママ。ただ、この注はやや不審で、末行の附近のどこが曖昧なのか判らない。曖昧なのは、寧ろ、第一連の終りの「しづかに夢をなく」であろう。本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。而して、その転載の編注を見るに、私と同じ不審を筑摩版編者が持ったようで、『なほこの作品は〔第一連の〕末行のあたりが少し曖味になつてゐる。』となっている。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 絕望の足 /筑摩版全集所収の「絕望の足」とは異なる別稿

 

  絕 望 の 足

 

魚のやうに空氣をもとめて

よつぱらつて町をあるいてゐる私の足です

東京市中の堀割から浮びあがるところの足です

さびしき足

さびしき足

よろよろと道に倒れる人足の足

それよりももつと甚だしくよごれた絕望の足。

 

その足うらより月はのぼりて

家々の家根はいちめんに黑し

あらゆるものを失ひ

あらゆる幸福のまぼろしをたづねて

東京市中に徘徊する足

よごれはてた病氣の足

さびしい人格の足、

ひとりものの異性に飢えたる足

よつぱらつて堀ばたを步く足

ああ、心中になにをもとめんとて

かくもみづからをはづかしむる日なるか

よろよろとしてもたれる電信柱

はげしき啜りなきをこらへるこころ

ながく道路にたほれむとする絕望の足である。

 

[やぶちゃん注:筑摩書房版全集には、「拾遺詩篇」に同題の詩が載るが(初出は大正六(一九一七)年六月号『秀才文壇』)、明らかに有意な異同がある。以下に示す。太字は底本では傍点「ヽ」。後ろから二行目の「こらえる」はママ。

   *

 

 絕望の足

 

魚のやうに空氣をもとめて、

よつぱらつて町をあるいてゐる私の足です、

東京市中の堀割から浮びあがるところの足です、

さびしき足、

さびしき足、

よろよろと道に倒れる人足の足、

それよりももつと甚だしくよごれた絶望の足、

あらゆるものをうしなひ、

あらゆる幸福のまぼろしをたづねて、

東京市中を徘徊するよひどれの足、

よごれはてたる病氣の足、

さびしい人格の足、

ひとりものの異性に飢ゑたる足、

よつぱらつて堀ばたをあるく足、

ああ、こころの中になにをもとめんとて、

かくもみづからをはづかしむる日なるか、

よろよろとしてもたるる電信柱、

はげしきすすりなきをこらえるこころ、

ああ、ながく道路に倒れむとする絕望の足です。

 

   *

これは最早、同一決定稿でないことは明白である。]

2021/11/27

曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 猩々 乾齋

 

   ○猩々

「禮記」、「曲禮」[やぶちゃん注:「きよくらい」。]の篇に云、『猩々、能言、不ㇾ離禽獸。』。その由來、久し。こゝをもて、本朝、婦女子といへども、これを、しれり。しかのみならで、畫工に「猩々飮酒の圖」あり、散樂に「猩々の舞」あり。これ、そのますます昭著なる故也。しかれども、いまだその眞の猩々を見たるといふ者を、聞かず。唐土にも、古より、說者[やぶちゃん注:「とくもの」。]、少からねど、亦、その眞を目擊して說者に、あらず。獨、廓諶君が著せし「爾雅」に、面りその眞を見つるよしを載たり。今、その文を和解す。「爾雅」に云、猩々は『人面獸身。最機警。善人間之言。學虫鳥之聲。而莫曲不一ㇾ肖也。聲如八女子。其啼也淸越。嗜ㇾ酒好ㇾ舞。虞人以ㇾ此誘ㇾ之。則毀罵而去。予在綠塢山觀ㇾ之。群居相謂曰。客必東人也。踊躍出視焉。予偶々有ㇾ酒。寄少許召飮ㇾ之。四者齊下。未レ喫先謝。既飮輒醉矣。以ㇾ知予無機也。予徘徊恐ㇾ爲後人所害。忽然雙飛下古木。囂然相謂曰。上客過勞。兒可之以去也。「禮」曰。猩々能言。不ㇾ離禽獸。予終敢以爲ㇾ信。』と、いへり。この事、最、奇なり。これ、誠に、猩々の眞面目にあらずや。よりて、表出して、こゝに、しるしつ。

[やぶちゃん注:「猩々」「猩猩」は、現在、真猿亜目狭鼻下目ヒト上科オランウータン(ショウジョウ)科Pongidae(或いはヒト科Hominidaeとも)オランウータン属 Pongo を指す中国語として用いられており、中国語科名としても用いられている(中文のウィキの「猩猩」等に於いては「ヒト科猩猩亜科猩猩属」とする)。但し、中国の古来からの記載を見る限りでは(「山海経」が最古か)、その属性には実際のオラウータン類に比して、甚だ疑義を覚える点が少なくなく、オランウータンを一つの大きなモデルとしつつ、仮想された幻獣か架空の類人猿ととるべきものである。個人サイトの断片である「猩々――それはオランウータンではなかった――」の論説を私は強く支持するものである。そもそも、オランウータンの棲息域はスマトラ島(インドネシア)と、南部を除くボルネオ島(インドネシア・ブルネイ・マレーシア三国による領有島)の熱帯雨林の中に限定されており、「猩猩」を中国国内で見ることはあり得ない。無論、良安が想定しているのも、話として知っていた、オランウータン Pongo を措定してあるものと考えてよい。因みに、「オラン・ウータン」はマレー語で「orang」(「人」)+「hutan」(「森の」)で、「森の人」を意味する。ウィキの「オランウータン」からオランウータン現生種二種・亜種三種を掲げておく。

スマトラオランウータン Pongo abelii

ボルネオオランウータン Pongo pygmaeus

Pongo pygmaeus pygmaeus (サラワクからボルネオ島西部に分布)

Pongo pygmaeus wurmbii  (ボルネオ島西部からボルネオ島中部に分布)

Pongo pygmaeus morio (ボルネオ島東部からサバに分布)

詳しい博物誌は私の古い電子化注である寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の私の注を参照されたい。

「猩々、能言、不ㇾ離禽獸。」「禮記」の「曲禮篇上」の一節。「猩々(しやうじやう)は能(よ)く言(ものい)へども、禽獸を離れず。」で、「猩々は、よく、人語を操るものの、禽獣の仲間から離れることは出来ない。」の意であるが、但し、これは人間の礼節のない人間を警喩する一節であって、全体は、『鸚鵡能言、不離飛鳥。猩猩能言、不離禽獸。今人而無禮、雖能言、不亦禽獸之心乎。』(鸚鵡(あうむ)は能く言へども、飛鳥(ひちやう)を離れず、猩猩は能く言へども、禽獸を離れず。今、人にして、禮、無ければ、能く言ふと雖も、亦、禽獸の心ならずや。)である。

「散樂」原義は、古代中国に於ける軽業・曲芸・奇術・幻術・滑稽物真似に類する西域起源の大衆的雑戯芸。公的な「正楽」・「雅楽」に対する俗楽で、「百戯」「雑戯」とも呼ぶ。而してそれが、奈良時代に本邦に伝来して、中世まで行われた同様の演芸・大道芸を指す。初めは「雅楽」と並んで宮廷で保護・育成されたが、平安時代に入ると、一般にも伝わって甚だ盛行し、後に「田楽」・「猿楽」などに受け継がれ、民俗芸能の重要な基盤の一つとなった。

「昭著」(しやうちよ)「なる」は「際立って明らかなさま」を指す。

『廓諶君が著せし「爾雅」』「廓諶君」は不詳。一度も聴いたことがない人名である。「爾雅」(じが)は現存する中国最古の字書にして「十三経」の一つ。漢の学者たちが諸経書、特に「詩経」の伝注を集録したものとされる。「釈詁」・「釈言」・「釈訓」・「釈親」以下、「釈鳥」・「釈獣」・「釈畜」の十九編は、古語を用法と種目別に分類して解説したもので、経書の訓詁解釈に於ける貴重史料である。注釈書として晉の郭璞(かくはく)の注と、宋の刑昺(けいへい)の疏を合わせた「爾雅注疏」が甚だ価値が高いとされる。古くは周公、或いは、孔子とその弟子の手が加えられたという説があったが、現在は完全に否定されている。これはただの思い付きだが、「廓」と「郭」の類似が異様に気になる。この「廓諶君」というのは、実は――「郭」璞を始めとする「諸君」によって書かれた「爾雅」注――の誤りではあるまいか? 大体からして、「爾雅」には、「釋獸」に「猩猩、小而好啼。闕洩、多狃。」(猩猩は、小にして、好く啼く。[やぶちゃん注:別称。]「闕洩(けつせつ)」。多くは[やぶちゃん注:「人に」か?]狃(な)るる。)とあるだけだからである。

「面り」意味不明。「而」(しか)「り」の誤字かと思ったが、「爾雅」の刑昺注を見たところ、盛んに「猩猩」が「人面」であることを言っており、以下にも出ることから、ここは「人面なり」の脱字と採るのが、一番、自然な感じがする。

『今、その文を和解す。「爾雅」に云』と言っておいて、訓点附き漢文というのは如何なものか? これ自体が、後世の「爾雅」の諸注を参考に、日本漢文で纏めたという謂いのようにしか見えないのである。しかし「予」とある部分は、発言者がいないとおかしい。よく判らぬ。

「猩々は『人面獸身……』訓読しておく。一部は返り点に従っていない。

   *

 猩々は、人面獸身にして、最も機警(きけい)[やぶちゃん注:機智があって賢いこと。]たり。人間の言(ことば)を善(よ)くし、虫鳥の聲を學(まね)び、而も、曲がりて、肖(に)ざること莫(な)きなり[やぶちゃん注:「ひねくれて悪しき方へ向かうことなく、よく正しく学んで堅実である。]。聲は八つの女子(むすめご)のごとく、其の啼くや、淸くして、越(ぬきん)ず。酒を嗜み、舞を好む。

 虞人(ぐひと)[やぶちゃん注:中国古代の伝説上の聖王舜が堯から譲られて帝位にあった王朝の人民。]は、此(ここ)を以つて、之れを誘ひながら、則ち、毀(そし)り、罵(ののし)りて去る、と。

 予、綠塢山(ろくをざん)[やぶちゃん注:不詳。]に在りて、之れを觀たり。群居して、相ひ謂ひて曰はく、

「客、必ず、東の人なり。」

と。

 踊躍(ようやく)して、出づるを、視たり。

 予、偶々(たまたま)、酒、有り。少し許りを寄せ、召して、之れを飮ましむ。

 四つの者、齊(ひと)しく下(くだ)り、未だ喫(きつ)せざるに、先(ま)づ、謝せり。

 既にして飮み、輒(すなは)ち、醉へり。

 予を機(とき)無くして知れるを以つてす。[やぶちゃん注:猩猩は、この私と時をおかずに、馴れ親しんだ。]

 予は、徘徊して、後に、人に害を爲(な)さしめんことを、恐る。

 忽然として、雙(なら)び飛びて、古木を下り、囂然(がうぜん)として、相ひ謂ひて曰はく、

「上客、勞(つか)れ、過ぎたり。兒(われ)[やぶちゃん注:「私」。猩猩自身。]、之れを負ひて、以つて、去らしむべきなり。」

と。

 「禮(らい)」に曰はく、『猩々、能く言(ものい)へども、禽獸を離れず。』と。

 予、終(つひ)に、敢へて以つて、信(しん)を爲(な)せり。

   *]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 蛇怪 鈴木分左衞門 / へびこしき 山本庄右衞門

[やぶちゃん注:同じの奇体な出来事を二人が記しているので、二篇を同時に電子化する。図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正して示した。「こしき」は以下に見る通り、「甑」で、米や豆などを蒸すのに用いた器。元は鉢形の瓦製で、底に湯気を通す幾つもの小穴を開け、湯釜に載せて蒸した。後、方形又は丸形の木製とし、底に簀の子を敷いたものを「蒸籠(せいろう・せいろ)」と呼ぶ。蛇は一対一の後尾も行うが、多くの種で♂♀が群れを成して交尾することもままある。されば、こうした現象は、必ずしも特異ではないようである。因みに、交尾時間は驚くほど長いと聞いている。]

 

   ○蛇怪        鈴木分左衞門

小石川三百坂にすめるに田藩[やぶちゃん注:底本に右傍注して『マヽ』とある。]小十人高橋百助といふものゝ子、千吉とて、今年十四になれるが、近きわたり、遊びありきしが、牛袋何某の門邊に、圖の如く、くちなは、十五疋、いやがうへに、をり重り、わだかまり居たり[やぶちゃん注:図は次の「へびこしき」の図の上方にある。]。伺ひ見るに、中に、光れるものあり。おそろしながら、小腕をさし入れたるに、手にさはれるものあるをとりあげ、圖のごとき、古錢一文を得たり[やぶちゃん注:図は同前の下方。]。其後、くちなはは、おのがじゝ、にげ去るを、つどひ居たるものども、「うちころしてん。」など、のゝしるを、かの小童、「人をもあやめざるに、いかで、さる事すべき。」と制しぬれば、かの小童の勇氣に感じて、手だすものも、なかりしと也。これは千吉が祖母、つねに物語りしは、「蛇、あまた、わだかまれる中には、珠玉あるもの也。これを得たる人は、かならず、生涯、財寶に事かく事、なし。」と、いひしを聞おぼえしゆゑ、かくはなせしとぞ。此圖は、かの小童のみづから記せし也。六月廿五日【文政九年。[やぶちゃん注:一八二六年。]】の事也。

[やぶちゃん注:「小石川三百坂」「さんびやくざか」或いは「三貊坂」(さんみゃくざか:現代仮名遣)とも。ここ(グーグル・マップ・データ)であるが、サイド・パネルの冒頭画像に文京区教育委員会の說明版があるので、そちらも見られたい。

「田藩」不詳。但し、先に示した「甲子夜話」では『田安殿』とある。

「小十人」小十人組。将軍の護衛に当たった「小十人」の組織。小十人二十名を以って一組とし、元和九(一六二三)年に、初めて四組が置かれ、後、漸次、増加した。各組に一人の頭と二人の組頭がいた。西丸にも配置された。

 以下は「蛇怪」の終りまで、底本では全体が一字下げ。]

私に云、この記は鈴木氏の口づから、輪池堂に話せしを、輪池堂の書れしなりとぞ。

後の一圖もおなじ事ながら、合せ寫しとゞめつ。

(「蛇コシキ」之圖)

 

Jyaikai

 

[やぶちゃん注:キャプション(画像にも含めた)は、

此高、一尺六、七寸也。蛇のかず、十五匹也。橫はゞ一尺六分許也。

とある。下方の銭には、

景元福寳

とあり、これは北宋の仁宗の景佑元年(一〇三四年)に鋳造された中国の宋銭である。中文サイトのこちらで画像が見られる。]

 

これは彼錢を搨拓[やぶちゃん注:「たふたく(とうたく)」。「拓本」に同じ。]せしを、すきうつしにしたれば、寸分たがはず。後の「蛇甑」の圖は、傳聞によりたるものなれば、なかなかに、わろし、といふめり。見て圖したると、その「ぜに」を拓り[やぶちゃん注:「すり」。「摺り」に同じ。]たるを、まさりなり、とすべし。

 

 

   ○へびこしき     山本庄右衞門

文政九年丙戌の夏、四月なかばより、雨なくして、梅天[やぶちゃん注:「つゆ」と訓じておく。]に至りても、雨、ふらず。赤地、千里なりしかば、近在所々に於て、既に雨乞せるに至れり。五月廿一日、雨、降り、翌日、又、雨、降り、それよりして、又、雨、なく、六月の初旬・中旬頃[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では七月下旬から八月三日まで。]は、また、赤地となれり。漸々、廿日に至て、雨、降ぬ。それより、日ごとに、雨、時々に頻り也。廿五日の晝過る頃、小石川三百坂の往還にて、蛇、あまた、集り、綆縻(つるべなは)をわがねたるさまに蟠り、うづ高く、重なり合て、頭を揃へて、眞中を、うつろにして、又、三方より頭を向ひ合せ、其うつろなる中を、見込たるさま也。蛇の數、都合十五也といふ【かく集り蟠るを、「へびこしき」と云。】。往來の人々みるもの、堵[やぶちゃん注:「かき」。垣根。]の如く也けり。その邊に住居せし田藩[やぶちゃん注:同前。]の小十人高橋百助が男千吉なるもの、年、僅に十四歲なるが、夫を聞て、速に、はせ來り、たゞちに其蛇に近づきて、左の手にて、袖をかゝげ、右の腕を、其中に、さしこみて【蛇の重りたる深さ、およそ、拳より肘のあたりまで有といふ。】、一物を得たり。蛇も亦、其物を惜むけしきもなく、その圍みを解て、にげ去りしが、下に敷れたる蛇は、おしひらめられたるも有し、といふ。それよりは、一つちり、二つちり、追々に、いづくともなく、ちりうせぬ。

 

Hebikosikinozu

 

[やぶちゃん注:キャプションは、上部に、

蛇の重なりし高さ、一尺六、七寸。徑、一計。

「徑」は「わたり」で直径。「一」は一尺。下方の銭の図の上に、

此錢、篆字にてありしと云。

とある。但し、この図の銭は、

景元祐寳

とあって、北宋の哲宗の元祐年間(一〇八六年~一〇九三年)に鋳造された宋銭である。中文サイトのこちらの画像と解説を参照されたい。]

 

千吉は、幼年より、かつて、「蛇の集り卷たる中には、必、名玉あり。それを得るものは、必、運、開き、幸ひを得る事、疑なし。」と、かねて古老の物語せしを、一途に深く信用したるによれり。はじめ、卷たる内を見るに、光りあり、既に腕をさしこみたる時は、拳にこたへて、當るものあり、と。然れども、恙なくして、遂に物を得るに至る事、實に奇遇といふべし。かの孫叔敖が德に異なりといへども、また、古老の言を信じて、群蛇を怖れざるも、また、奇事也。その得たるものは玉にはあらで、篆書せる「景祐元寶錢」なりとぞ。

[やぶちゃん注:この二篇のために、同一事件を後に記した松浦静山の「甲子夜話」の「卷八十七の「蛇塚」を先に電子化注しておいたので、そちらも参照されたい。

甲子夜話卷八十七 4 蛇塚(フライング)

87ー4 蛇(ヘビ)塚

[やぶちゃん注:亭馬琴「兎園小説外集」の「蛇怪」・「へびこしき」に、必要上から、単発でフライングする。全く同一の出来事(場所と年月日及び事件当事者の名・年齢は完全に一致する)であるからである。画像は底本のものをトリミング補正した。]

 

 丙戌六年廿五日、小石川三百坂にて蛇多く集り、重累して桶の如し。往來の人步を留て皆見る。その邊なる田安殿の小十人高橋百助の子千吉、十四歲なるが云ふには、この如く蛇の重りたる中には必ず寳ありと聞く。いざ取らん迚、袖をかゝげ、右手を累蛇の中にさし入れたるに、肱を没せしが、やゝ探て果て銭一を獲たり。見るに、篆文の元祐通寳錢なり。是より蛇は散じて行方知れずと。奇異と云べし。

 

Hebiduka1

 

[やぶちゃん注:キャプションは、上部に、

傳說ノ圖

中央に右向き横転で、

コノ渡一尺六、七寸。

左下方に縦書で、

高モ、一尺六、七寸。

とある。]

予因て「泉貨鑑」に載るものを附出す。

 

Hebiduka2

 

[やぶちゃん注:この図の銭は、しかし、

元踊祠寳

と書いてある。中文サイトのこちらの画像を参照されたい。これは北宋の哲宗の元佑(一〇八六年~一〇九三年)年間の鋳造の宋銭である。「兎園小説外集」にあるのは、北宋の仁宗の景佑元年(一〇三四年)に鋳造された中国の宋銭で、異なる。

 

追記す。田舍にてはこれを蛇塚(ヘビヅカ)と云て、往々あることとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「丙戌六年」文政九(一八二六)年。

「小石川三百坂」後に出す曲亭馬琴「兎園小説外集」の当該話の私の注を参照されたい。

「小十人」同前。

「累蛇」「るいじや」と音読みしておく。

「探て」「さぐりて」。

「果て」「はたして」。

「元祐通寳錢」北宋の哲宗の元祐年間(一〇八六年~一〇九三年)に鋳造された宋銭。中文サイトのこちらを参照。

「泉貨鑑」「和漢古今泉貨鑑」(わかんここんせんかかがみ)。江戸で寛政八(一七九六)年に刊行された朽木龍橋(くつきりゅうきょう)撰になる貨幣図説。龍橋は号で本名は朽木昌綱(寛延三(一七五〇)年~享和二(一八〇二)年。列記とした丹波福知山藩藩主にして、古銭研究家・蘭学者。隠岐守。古銭を愛好、収集・研究し、他に「新撰銭譜」・「西洋銭譜」等を刊行している。また、世界地理に詳しく、「泰西輿地図説」を著わしてもいる蘭癖大名である。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 路次

 

  路次について

 

路次についてある種の人々の中では一種の不可思議な迷信が信じられる

裏町のまづしい人々の住んでゐる町々の路次は甚だしく複雜してたいていは迷路のやうに入りこんでゐるものである

ことに人氣のないさむしい裏通りなどで路次を發見したとき私はたいていの場合に一度は通りぬけて見ないと氣がすまない

私の考へでは、全く思ひがけない不思議な裏町がいつもかうしたまづしい路次の向ふ方にあるやうな氣がする

その通りは夢にも豫期しなかつた素晴しいもので

街路は花瓦斯で畫のやうに明るく

見あげるやうな建物と建物の間を磨きあげた馬車や自動車がまつ黑になつて通る

実際その立派なことと賑やかなことでは世界第一といつてもいい位ひであるのに

不思議なことには

今まで、だれにも知られずにゐた。

それは人々の

夢の中で忘れられてゐた悲しいまぼろしの路次である。

 

[やぶちゃん注:歴史的仮名遣の誤りはママ。また、「路次」は「ろし」で「ろじ」とも読むものの、これは「行く道の途中・途次・道筋」の意であって、ここで朔太郎が指す「路地(ろぢ)」の意は全くないので、完全な誤用である。萩原朔太郎の誤った私的慣用表現はかなり多く、しかも深刻で、恐らく誰からか指摘されても、頑なに直さなかった偏執的固執があったものと思う。ルーティンの偏執行動も多く指摘されており、病跡学的には萩原朔太郎はかなり興味深い対象ではある。

 本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、本底本に先行する小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 波浮

 

   波  浮(大 島)

 

ぼくは郵使脚夫の步調をまなんで

港々の家をたづね馳せめぐり

新しい手紙の山を投げこんだ

あるひは沖を通る汽船をめがけ

大束にした電報を投げこんだ

ああさうして家々の洋燈はともされ

船の船室(キヤビン)に花やかな貴婦人の夢はまどろむ

いづこまで、さうしてどこに人生の航路はすぎゆくだらう

あらゆる幸福の新聞はよみかへされ

地球はいく度びか夜を通り晝をすぎ

はてなき北海の孤島にさヘ

燈臺守のまづしい生活があるではないか

さうしてぼくは郵便脚夫

かなしくただよへる船です。

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、本底本に先行する小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。なお、ネット上には萩原朔太郎が大島を訪れたという記載が散見されるが、「靑猫」時代以前の年譜を管見しても彼が大島に行ったという記載はないように思うのだが。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 編者前書・「靜夜」

 

    遺 稿 詩 篇

 

[やぶちゃん注:パート標題。その裏に以下の編者注。]

 

 

編註 「松葉に光る」『月に吠える』當時より『靑猫』の年代に到る作品中、ノオト、紙片その他に書きつけたまま、雜誌等に發表もしなかつた詩はずゐぶん澤山にあり、これを既刊『遺稿詩集』『氷島』の中にも收錄したが、その殘餘のものをここに集め「遺稿詩篇」とした。このほかになほ「洋燈の下で」(『四季』昭和十七年九月號掲載)その他一、二の作品があつたが、都合によりこれは收錄しなかつた。

 

創作年代 「波浮」はノオトに書かれており、その詩風は『靑猫』時代に屬する。「路次について」「絕望の足」「ある場所に眠る」(つかれきつた魂)は『氷島』中に收錄の「都會と田舍」と同じノオトに書かれてゐる點から推して大正六年ころの作品と思はれる。「おれの部屋」は大正五年ころ、「夜」は大正四年、「病氣の探偵」は大正三年と推定してほぼ誤りないと思はれる。

[やぶちゃん注:「松葉に光る」これは第三詩集「蝶に夢む」の後半に配された「松葉に光る   詩集後篇」と標題された詩篇群を指す。そこで萩原朔太郎は注して、

   *

この章に集めた詩は、「月に吠える」の前半にある「天上縊死」「竹と哀傷」等の作と同時代のもので、私の詩風としては極めて初期のものに屬する。すべて「月に吠える」前派の傾向と見られたい。但し内八篇は同じ詩集から再錄した。

   *

と語っていることに由来するものである。なお、同詩篇群のパート標題となっている詩篇「松葉に光る」は『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 編者前書・「供養」 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「供養」の別稿』の注で電子化してある。

「既刊『遺稿詩集』『氷島』」本小学館コンパクト版シリーズ「萩原朔太郎詩集」のそれ。「遺稿詩集」(「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」)はこのブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」で初版原拠正規表現版として全電子化注済み。「氷島」は同シリーズのそれ(「萩原朔太郎詩集 Ⅲ 氷島」)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇を視認出来る。なお、詩集「氷島」もこのブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」で初版原拠正規表現版として全電子化注済み。

「洋燈の下で」「ランプのしたで」と読んでいるものと思われる(筑摩版索引では「ラ行」に配置されてある)。同全集の「拾遺詩篇」に載るものを示す。歴史的仮名遣の誤りはママ。太字は底本では傍点「ヽ」。

   *

 

 洋燈の下で

 

僕は暗い洋燈の下で

鉛筆の心がボロボロに折れ切るまで

百度(たび)も女の名を書き散らした。

悲しい戀愛!

こんな紙屑が何になろう。

僕は人生から長靴をはき

泥濘の苦しい道を步いて來た。

酷烈の孤獨に忍び

革でさへも食ひ切つてきた。

僕の血には糊がついてる

そいつをべつたりと塗りつくやうな

烈しい情緖なんかどこにもなかつた。

僕は眞暗の壁に向つて

厭世思想のダイナマイトを密造してきた。

どこに復讐を叩きつけるか

僕は勇氣さへも無くしてしまつた。

さうして冬近い東京に漂泊し

かなしい愛欲に溺れてゐる

ああ歌!

氷のやうに冷たい瞳(め)をして

愛も憐憫もない無情の少女(おとめ)

明日は人妻に行く女を戀して

百度もその人の名を書き散らしてゐる。

悲しい戀愛!

こんな紙屑が何になろう。

僕はもう一切を無くしてしまつた。

   *

収録をしなかった理由は不明だが、「エレナ」詩篇の一つと見て間違いない。]

 

 

  靜  夜

 

ぷらちなの靑い寫眞を

往來の窓にかける

かける窓の上の

塔のてつぺんで

やせぎすの玻璃の手くび

ぷらちなの女の手くび。

星が光る

街中に星が光る。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。筑摩版全集では「未發表詩篇」に以下のように出る。歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

 

 靜夜

 

ぷらちなの靑い寫眞を、

往來の窓にかける、

そうしてぢつと淚ぐみ、

かける窓の上の、

塔のてつぺんで、

やせぎすの玻璃の手くび、

ぷらちなの女の手くび。

星が光る、

街中に星が光る。

 

   *

本篇と同一原稿と考えてよかろう。なお、同筑摩版では、編者注があり、『「習作集第九卷」の「寫眞」別稿(本全集第二卷五二一頁)。』とある。以下にそれ(「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」中の一篇)を示す。

   *

 

 寫眞

 

ぷらちなの靑い寫眞を

往來の窓にかける

窓の上の

他界てつぺんで

やせぎすの奇體の手くび

ぷらちなの女の手くび

星が光る

街中に星が光る

 

   *]

2021/11/26

ウィキペディアをやめた

ある記載の大きな誤記に就いて、丁寧に指摘したが、ボットで、訳の分からぬ、勝手な誤記載の当該部の削除により、「当該部が削除されたから除去しろ」と言われたので、馬鹿々々しくて(原記者の語りもなくである)、ウィキペディアの記載・訂正を、向後、一切、やめる。引用には使うが、永久に――おさらばダ!――

誰かさんと同じで――皆――最下劣だ!

曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 墮陰莖 著作堂(馬琴)

 

   ○墮陰莖

        平岩右膳御代官所

         武州豐島郡練馬の内

          字早淵村久保と申所にて

           百姓孫右衞門忰

              孫 四 郞

               戌二十七、八歲

        牛込水道町彌吉店

          豆腐屋 幸   助

右孫四郞儀、一昨日廿八日【文政九年六月[やぶちゃん注:一八二六年。]。】」晝八時頃、酒に醉候體にて[やぶちゃん注:底本では「醉」の上に「給」があるが、読めないので(上が「酒を」なら「たべ・のみ」と読める)特異的にカットした。]、幸助宅前え、馬を引參、「豆腐の殼、有ㇾ之候ば、買受度。」旨申に付、「無ㇾ之。」由相斷候へば、孫四郞儀、右馬を引出候節、鼻綱にて、馬の面を强く打、彼是、立騷候故、右鼻綱、同人、足え卷付候由にて、馬の口の下え、仰向に倒れ、其節、下帶、外れ、陰莖、出候を、右馬、喰ひ付、一とふりにて、附根より、毛、二、三本付、陰莖、喰ひ取候へども、氣絕も不ㇾ致、前書幸助方にて、付藥等、致し、綿にて包、手當等いたし遣し候へば、「此分にては、步行相成可ㇾ申。」旨、申、右陰莖、紙に包、孫四郞、自分[やぶちゃん注:「おのづと」。]、手に持、馬を引歸候處、凡、十四、五軒も罷越候處、右陰莖、町内往還え、捨、其儘、罷越候に付、右跡、爲追欠候得ども、何れえ、參候哉、相知れ不ㇾ申。其上、右住所、承り不ㇾ申候に付、先、陰莖は鮑貝に入、町内自身番屋え、持參いたし、近邊にて、右、馬士、名・住所承候處、同所五軒町小普請稻生左門屋敷え、下掃除に罷越候者にて、早淵村百姓孫右衞門忰の由承候に付、翌日、月行事、孫右衞門方え、尋參候處、同人儀、宅に罷在候間、昨日の始末、相咄候處、「一向存不ㇾ申。」由申候。然處、次の間に打臥候もの、頭を上げ申聞候は、「昨日は、不慮成儀にて、彼是、御世話に相成、今日は、右の疵、甚、痛强、打臥罷在、失敬の段、相詑、且、昨日の始末、父えは、未申聞、妻えは、昨夜、相噺候へば、驚候上にて、歎罷在候。」由、申聞候に付、「氣の毒なる」よし申、右に付、「昨日、往還え、被捨置候陰莖、持參致し候。最、町方にては此樣成物、捨有ㇾ之候ては、御訴不ㇾ致候ては、難相成、左候ては、町内、物入等、相懸り、甚、迷惑に候に付、態々[やぶちゃん注:「わざわざ」。]持參致し候。」旨、申候得ば、同人妻、名前不ㇾ知、二十一、二才位相見え候者、至て、愁傷の體にて、髮は櫛卷にて、奧より立出、泪を含み、申聞候は、「昨日、私夫[やぶちゃん注:「わたくし をつと」。]、御町内にて不慮成儀にて、厚き御世話に相成、殊に、右陰莖、御持參被ㇾ下、旁[やぶちゃん注:「かたがた」「かたや」「かたはら」の孰れかか。]、以御介抱氣の毒。」の由、大に悅び、厚、禮謝申聞候間、當人、名前等、委敷、承り、則、陰莖は、妻え、引渡し候由。右は、餘り珍敷儀に付、此段、申上候。

 戌六月晦日

[やぶちゃん注:何だか、ともかく、凄いというか、呆れるというか、珍談中の珍談の実話である。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 前後身紀事 著作堂(馬琴)

 

[やぶちゃん注:物語風なので段落を成形した。一部でダッシュを用いた。]

 

   ○前後身紀事

 江戶澁谷に、聖護院宮樣御支配下、「中山寺」[やぶちゃん注:修験者の名。「ちゆうざんじ」と読んでおく。]といへる、修驗者、あり。

 此人、妻をむかへて、十ケ年に餘るといへども、子なきことを歎き、一子あらん事をのみ、ねがひける。

 頃は文政七年甲申冬十一年十四日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では既に一八二五年一月二十日。]、「芝切通し」を駕籠に乘て歸る程に、おもはずも、まどろみたりしに、

――一人の僧、五才ばかりの子をつれ來り、

「是は、其方の子になるべきぞ。」――

と、いふと、思ひて、夢さめ、駕籠の左右をかへり見るに、人、なし。

 向を見れば、小兒のひつぎを將て[やぶちゃん注:「いて」。]、葬に行あり[やぶちゃん注:「とふらひにゆくあり」。]。

 不思議なる事に思ひて、其跡を付て行ば、同町金地院へ、おくり行ぬ。

 是は南部丹波守殿家中、木村弘といへる人の三男銀次郞といへる、五才にて相果たるなり。

 かくて、直に[やぶちゃん注:「ただちに」。]金地院へ至り、此葬の終るまで、「再生の法」を修し、且、小兒の年を問へば、

「五才にて病死せる、『寒園童子』と法號せる。」

よし、聞て歸り、直に、鳥目・米少々、金地院へおくりけるに、

「中山寺より、そなへらる子細なし。いづれか、外方[やぶちゃん注:「ほかかた」。]へ參るにて、あるべし。」

と云ひけるを、使のもの、

「いさいは、紙面に有ㇾ之。」

よし答ける故、受取、ひらき見れば、

――寒園童子追善の爲 囘向を賴む――

よしなれば、辭するに不ㇾ及、其意に任せぬ。

 その翌乙酉正月より、中山寺の婦妻、懷妊し、十ケ月に至り、當文政九年丙戌春二月、常に張置し、「寒園童子」の法號、見えず。

「いかゞしつるや。」

と、あやしみ思へども、知れず。

 かくて、四、五日を經て、右の妻、安產し、男子、出生しけり。

「是、夢中に、さづかりし子なるべし。」

と、夫婦、よろこぶ事、大方ならず。

 されど、其子、生れて日を經れども、兩の拳を握りて、ひらくこと、なし。

 色々にすれども、ひらかねば、思ひ出し、

「先ごろ、金地院に葬し小兒の再生、うたがひなし。さあらんには、かの墓所の所の土をもつて、洗はゞ、ひらく事も有べし。」

とて、早速、金地院へ人を遣し、右の樣子を述ければ、

「易き御事に候へども、町方と違ひ、武家の墓所なれば、案内なくては、墓所へさはること、後日の沙汰、いかゞ也。是は、南部丹波守殿家中、木村弘といふ人の子の墓なれば、其方へ御沙汰有ㇾ之候はゞ、直に進じ可ㇾ申。」

と答ける故、早速、右、木村弘方へ申遣しけるに、

「それは不思議なる事に候。勿論、いか樣とも勝手次第に致さるべき。」

よし、答て、直に自身にも出行ける[やぶちゃん注:「いでゆきける」。]。

 使のものは、金地院より、土を取りて歸りけるに、金地院にても、不思議に思ひければ、人を附て遣しける。

 扨、右の土をもつて小兒の拳を洗ひければ、握り詰たる手、ひらきし。

 その片手の内に、

――木村弘が家の紋――丸の内に松皮菱の形――うすく、あらはれたりし。

 右の土を以て、なほ、よくよく洗ひければ、あと見えず、おちし、とぞ。

「右、夢中に見えつる僧は、金地院に安置する所の、地藏菩薩なるべし。」

と、ものがたりけるよし。

「誠に、かの小兒は、わが子の再生に疑ひなし。」

とて、木村夫婦、大によろこび、中山寺へ夫婦共に尋行て、親類のごとくいたし候よしなり。

[やぶちゃん注:以下「きゝ書きなり」までは、底本では全体が一字下げ。]

 右の趣、木村弘、直談のよし。

 藝州云、

「奥末人より承り、幷に、老女袖島、金地院へ御代香の節、同寺にて承り候趣ども、あらあら、きゝ書なり。」。

 ある人、添翰[やぶちゃん注:「てんかん」書簡・文書などにさらに添える手紙。紹介・依頼・贈答・訴訟手続の際に添付する文書。挙状。添え状。]。

[やぶちゃん注:以下、クレジット「七月十三日」まで、底本では全体が一字下げ。]

――昨日は一寸ながら拜顏大慶仕候 爾後 彌 御安泰彼ㇾ成御勤賀上俣候 然者拜借の珍書 永々留置奉恐入朕候 則返上仕候 御落手可ㇾ被ㇾ下候 木村弘と申人は 輕き役相勤候由 正說と申趣に尙承り申候 別て[やぶちゃん注:「べつして」。]難ㇾ有寫取置申候 拜顏萬々御禮可申上候 出懸り早々申上候――

 七月十三日

丹羽法葛へ相尋申候處、此通り申越候。

右一編は、今玆文政九丙戊秋九月廿六日、輪池翁の攜て、海棠庵席上にて披講せられしを借抄す。最、奇聞といふべし。

 十月初八          著作堂主人

[やぶちゃん注:それこそこの「手」の類話は枚挙に遑がない。私の「怪奇談集」にも複数あるはずなのだが、直ぐに引き出せない。判ったら、追記する。

「聖護院宮樣」聖護院(しょうごいん)は現在の京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗の総本山の寺。「聖護院門跡」とも称する。開山は増誉、本尊は不動明王。嘗ては天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つであったが、それ以上に、現在でも、本邦の修験道に於ける本山派の中心寺院であると同時に、全国の霞(かすみ:修験道に於ける「縄張り」とも言える支配地域のこと。修験当山派では有力修験寺院(先達)が末端山伏を、人と人との繋がりを通して組織化したため、地域単位の支配は行わず、「霞」という言葉も用いなかったが、これに対し、修験本山派では、院家(京都の若王子・住心院など。本聖護院はその上位を統括するもの)などの先達が一国一郡単位の支配地域を「霞」と呼んで統轄し、これを聖護院門跡が保障するという、地域単位の組織化を進めた。院家などの先達は、在地の有力修験者(年行事や触頭)に霞支配を委任し、得分を上納させた。以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)を統括する総本山である。されば、この修験者「中山寺」がその支配の一人であったことが判る。

「柴切通し」現在の東京タワーの北北西の東京都港区芝公園に「切通坂」の名で残る。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「金地院」東京タワー直近に現存する。臨済宗。

「藝州」馬琴の知人の武家安芸守であろうが、不詳。

「奥末人」南部丹波守の奥向き方の下役であろう。

「丹羽法葛」不詳。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 夜景

 

   夜  景

 

高い家根の上で猫が寢てゐる

猫の尻尾から月が顏を出し

月が靑白い眼鏡をかけて見てゐる

だが泥棒はそれを知らないから

近所の屋根へひよつこりとび出し

なにかまつくろの衣裳をきこんで

煙突の窓から忍びこもうとするところ。

 

[やぶちゃん注:底本の「詩作品發表年譜」によれば、初出誌を大正四(一九一五)年三月発行の『卓上噴水』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年三月号とする。その初出を示す。

   *

 

 夜景

 

高い家根の上で猫が寢てゐる

猫の尻尾から月が顏を出し

月が靑白い眼鏡をかけて見てゐる

だが泥棒はそれを知らないから

近所の家根へひよつこりとび出し

なにかまつくろの衣裝をきこんで

煙突の窓から忍びこもうとするところ。

 

   *

異同は「屋根」が「家根」で、「衣裳」が「衣裝」であるだけであり、これは小学館版編者の消毒と考えてよい。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 三人目の患者

 

  三人目の患者

 

三人目の患者は

いかにもつかれきつた風をして

ぺろりと舌をたらした

お醫者が小鼻をとんがらして

『氣分はどうです』

『よろしい』

『食物は』

『おいしい』

『それから……』

『それからすべてよろしい』

そして患者は椅子からとびあがつた

みろ、歪んだ脊髓のへんから

ひものやうにぶらさがつた

なめくじの神經だの、くさつたくらげの手くびだの……

そいつは眞赤(まつか)の殺人者(ひとごろし)だ。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。底本の「詩作品發表年譜」によれば、初出誌を大正四(一九一五)年六月発行の『詩歌』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年六月号とする。その初出を示す。

   *

 

 三人目の患者

 

三人目の患者は、

いかにもつかれきつた風をして、

べろりと舌をたらした、

お醫者が小鼻をとんがらして、

『氣分はどうです』

『よろしい』

『食物は』

『おいしい』

『それから……』

『それからすべてよろしい』

そして患者は椅子からとびあがつた、

みろ、歪んだ脊髓のへんから、

ひものやうにぶらさがつた、

なめくじの神經だの、くさつたくらげの手くびだの……。

そいつは眞赤(まつか)の殺人者(ひとごろし)だ。

 

   *

異同は三行目冒頭の「ぺろり」(半濁音)が「べろり」(濁音)である他は、句読点のみであり、「ぺ」「べ」は小学館版の誤判読と考えれば、別稿とは認め難い。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 竹の根の先を掘るひと

 

  竹の根の先を掘るひと

 

病氣はげしくなり

いよいよ哀しくなり

三ケ月空にくもり

病人の患部に竹が生え

肩にも生え

手にも生え

腰からしたにもそれが生え

ゆびのさきから根がけぶり

根には纎毛がもえいで

血管の巢は身體いちめんなり

しぜんに哀しみふかくなりて憔悴れさせ

絹絲のごとく毛が光り

ますます鋭どくして耐えられず

つひにすつぱだかとなつてしまひ

竹の根にすがりつき、すがりつき

かなしみ心頭にさけび

いよいよいよいよ竹の根の先を掘り。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。「耐え」及び「ついに」はママ。「憔悴れさせ」は「やつれさせ」と訓じていよう。底本の「詩作品發表年譜」によれば(左ページ「225」の三行目だが、前の「玩具箱」の頭の植字を誤植していて、「玩の根の先を掘る人」と竹具箱」になってしまっている)、初出誌を大正四(一九一五)年三月発行の『卓上噴水』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年三月号とする。その初出を示す。

   *

 

 竹の根の先を掘るひと

 

病氣はげしくなり

いよいよ哀しくなり

三ケ月空にくもり

病人の患部に竹が生え

肩にも生え

手にも生え

腰からしたにもそれが生え

ゆびのさきから根がけぶり

根には纎毛がもえいで

血管の巢は身體いちめんなり

ああ巢がしめやかにかすみかけ

しぜんに哀しみふかくなりて憔悴れさせ

絹絲のごとく毛が光り

ますます鋭どくして耐えられず

つひにすつぱだかとなつてしまひ

竹の根にすがりつき、すがりつき

かなしみ心頭にさけび

いよいよいよいよ竹の根の先を掘り、

 

   *

御覧の通り、「ああ巢がしめやかにかすみかけ」一行の欠損がある。しかし、その他は終わりの行の句読点の違い以外は完全に一致している。

 私は中学時代に萩原朔太郎の「竹」に遭遇して以来の萩原朔太郎という「疾患」の「感染者」であり、致死的にして不滅の痙攣的な彼の霊的にして病的な「竹」詩群には拘りがあるホスピス患者である。知られた「月に吠える」のそれは、二〇一八年に作った、

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 竹

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 竹 (同題異篇)

が決定版であるが、それより前の二〇一三年には、本ヴァージョンである、

竹の根の先を掘るひと 萩原朔太郎 (「竹」別ヴァージョン)

と、

竹 萩原朔太郎 (「月に吠える」の「竹」別ヴァージョン+「竹」二篇初出形)

を電子化注している程度にはファナティクな朔太郎性竹シンドローム罹患者なのである。

 されば、本篇の画像診断であるが、「ああ巢がしめやかにかすみかけ」一行の欠損以外には終行の読点の違いしかないという本篇映像は、正直、遺稿草稿とするのには、私は、躊躇を感ずる。これだけの分量に増殖した病巣で、他に病変(異同)がないというのが、底本編者という担当執刀医には悪いが、一行欠損はオペのミスである可能性が強く疑われるからである。

 無論、草稿別稿なのかも知れぬが、「ああ巢がしめやかにかすみかけ」のない本篇は、初出に明らかに劣る。やはり、別稿ではなく、編集ミスとしたい。

2021/11/25

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (21) 近松巢林子とシェクスピア

 

      近松巢林子とシェクスピア

 

        

 前章までに私は、探偵味と怪奇味とに富んだ日本の犯罪文學を紹介したから、これから私は、犯罪心理の描寫にすぐれた犯罪文學を紹介しようと思ふのであるが、さうなるとその範圍が極めて[やぶちゃん注:底本は「柄」。国書刊行会本で訂した。]廣くなつて、殆んど手のつけ樣がないから、先づ德川時代の『大衆文藝』とも稱すべき淨瑠璃を選び、その最も秀れた作者であつた近松門左衞門翁の作品の解剖を試み、それと同時にシェクスピアの作品をも紹介して置かうと思ふのである。近松を日本のシェクスピアと呼ぶことの當否は、もとより私の關しないところであつて、私はたゞ何となしに二人を並べて見たのに過ぎないのであるが、兩者の作品を比較硏究することは、犯罪心理學上決して興味が少なくないのである。

[やぶちゃん注:「近松巢林子」(さうりんし)は近松門左衛門(承応二(一六五三)年~享保九(一七二五)年:本名は杉森信盛)の号の一つ。

「シェクスピア」ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare 一五六四年四月二十六日(洗礼日)~一六一六年 )。]

 さて、巢林子もシェクスピアも隨分澤山の作品を遺して居るので、その中の犯罪を取り扱つたものを一々紹介するのは不可能であるから、巢林子の作では『女殺油地獄』シェクスピアの作では『マクベス』を選んで、兩巨匠の描いた犯罪者を考察して見ようと思ふのである。『女殺油地獄』の中には、河内屋與兵衞という環境によつて生じた犯罪者が取り扱はれ、『マクベス』の中にはマクベスといふ先天的犯罪者が取り扱はれてあるので、彼等が殺人の前後に於ける心的經過を比較するに頗る好都合である。

[やぶちゃん注:「女殺油地獄」享保六(一七二一)年、人形浄瑠璃として初演。当該ウィキによれば、『人気の近松作品と言うことで』、『歌舞伎でも上演されたが、当時の評判は芳しくなく、上演が途絶えていた。ちなみに、実在の事件を翻案したというのが定説だが、その事件自体の全容は未詳である』とある。私は文楽で二度見たが、どうも世話物の悪漢物としては、与兵衛の天性の極悪非道情け無しの絶対の非人間的悪党性が、全く感情移入を拒否して、頗る後味が悪く、奇体なアクロバティクな演出を含めて、あまり好きな作品ではない。梗概は当該ウィキを参照されたい。なお、以下で引用される本文(台詞)へ私が振った読みは、主に国立国会図書館デジタルコレクションの明治二四(一八九一)年文学書院刊の「女殺油地獄」を参考にした。

「マクベス」(Macbeth )は一六〇六年頃に書かれた傑作戯曲。私は彼の作品の中で「ハムレット」(Hamlet :一六〇一年頃成立)に次いで好きな作品で、舞台・映画化の鑑賞回数は数十回に及ぶ。梗概は当該ウィキを参照されたい。なお、以下の二人の参考紹介作品に就いては注さない。]

『女殺油地獄』は、巢林子の六十九歲の作であつて、晚年に於ける三名作(『心中天網島』と『心中宵庚申』とを併せて)の一つであるばかりでなく、巢林子のあらゆる作中、最も優れたものであるとさへ言はれて居る。それと同じく『マクベス』も、シェクスピアの三傑作(『ハムレット』と『オセロ』とを併せて)の一つであつて、五十二歲で死んだ作者の、四十二歲の時の作物であるから、いはゞ作者の腕の圓熟した頃のものである。だから『油地獄』と『マクベス』はそれぞれ巢林子と沙翁の代表作と見倣すも差支なく、實際、犯罪文學の立場から言つても、この二つは傑作中の傑作といひ得るのである。ことに巢林子には、『油地獄』の外に取り立てゝいふ程の犯罪文學はなく、『源氏冷泉節』の毒殺心理や『丹波與作』の窃盜心理などは『油地獄』ほど深いところまで立ち至つては居らないのであるから、巢林子の『犯罪觀』をうかゞふべき作品は、『油地獄』より外に無いといつてもよいのである。尤も『心中』卽ち複自殺の心理を廣義の犯罪心理と見倣せば、いふ迄もなく、近松翁の作品には、應接に遑のないほど取り扱はれて居る。

 『油地獄』の中には、極めて我まゝに育つた靑年が、金に困つて知人の細君を殺すといふ突發性の犯罪が描かれてあり、『マクベス』には、癲癇を持つたマクベスが、幻視によつて王位を奪い得るものと確信し、國王を弑するといふ、計畫された殺人が描かれてあつて、前者は當時の市井の出來事からヒントを得、後者はホリンシェツドの『編年史』から題材を得たのであつて、ことに『油地獄』に關しては、作者が別段の用意もなく、今日の新聞の三面種を取り扱ふほどの輕い氣持で書いたらしいといふ說をなす學者もあるが、すべて、天才は、たとひ不用意のうちに筆を執つても、人間を觀察する眼に狂ひがないから、やはり立派な作品が生れるのであつて、丁度、兩親の不用意のうちに作られた天才その人が、硏究に値すると等しく、その天才の不用意な作品もまた深重に硏究すべきものであると思ふ。

[やぶちゃん注:「ホリンシェツドの『編年史』」イングランドの年代記作家ラファエル・ホリンズヘッド(Raphael Holinshed 一五二九年~一五八〇年)。一般的に「ホリンズヘッドの年代記 」(Holinshed's Chronicles )として知られる彼の作った年代記はシェイクスピアが数多くの戯曲を書く上で重要な情報源として利用している。]

 

          

 

『女殺油地獄』は上中下の三卷からなつて居る。上卷には野崎詣り、中卷には山上詣《やまがみまひ》り、下卷には端午の節句を鹽梅して舞臺效果を多からしめて居るが、劇としての『油地獄』を論ずるのが目的でないから、こゝではたゞ大たいの筋書きを紹介するにとゞめる。

 大阪、本天滿町、豐島屋七左衞門の妻お吉(二十七歲)が、三人の娘をつれて、野崎詣りの道すがら、ある茶店に休んで居る、とお吉の家の筋向ひに住む當年二十三歲の河内屋與兵衞(主人公)が二人の色友達とやつてくる。お吉は與兵衞に向つて『お前さんには、新地の天王寺屋小菊、新町の備前屋松風といふ御馴染がある筈、こんなときに何故一しよに連立つて御出でにならぬか』[やぶちゃん注:底本では最初の二重鍵括弧がないが、国書刊行会版で加えた。]とカマをかける。すると與兵衞は『連立つて來るつもりであつたけれど、松風は先約があるといふし小菊は方角が惡いと逃げ居つたが、きけば小菊は會津の客につれられて、野崎詣りに來たといふことだから、小菊を待伏せして一出入するつもり』だと答へる[やぶちゃん注:ここも二十鍵括弧閉じるが欠落している。国書刊行会版の位置に加えた。]。それをきいてお吉は『かねがね私はあなたの御兩親から、與兵衞に意見をして下さいと賴まれて居ます。どうぞ人前で恥をさらさないやうにして御兩親を安心させてあげるやうにして下さい』

 といつて去る。

 間もなく小菊が會津の客とこちらへやつて來る。與兵衞たち三人は、その前に立ちはだかつて、小菊を貰ふからさう思へと言い渡す。すると會津の客は、案外物に驚かず、與兵衞の二人の友だちの一人を川に蹴こみ、一人を追ひ散らしてしまつたので、遂に與兵衞は組打ちを始め、二人とも小川の中へまろび落ちてしまふ。丁度そこヘ一人の武士が郞黨を連れ馬に乘つて代參に來たが、與兵衞のために泥水をかけられたので徒士頭の山本森右衞門が、與兵衞を捕へて見ると、與兵衞は自分の甥に當る故、一且はびつくりしたが、身うちのものとあれば尙更容赦はならぬと、討ち捨てようとすると、馬上の武士は、參詣の濟む迄は怪我をさせてはならないと押しとどめ、一行は與兵衞を殘して去つてしまふ。

 與兵衞は、『南無三伯父の下向に切るゝ筈、切られたら死のう[やぶちゃん注:底本は『死う』。国書刊行会本で補った。]、死んだらどうしよ』と氣も轉倒せんばかりに怖氣つき、兎にも角にも逃ようと思つたが、さて何處へ逃げたらよいだらうかと迷つて居ると折しも其處へ最前のお吉が戾つて來る。これ幸と與兵衞はお吉に向つて、『いゝところへ來て下さつた、わたしはかうして居れば切られてしまふから、大阪へつれて行つて下さい』と賴む。お吉は『いゝえ、私はまだ歸るのではありません。七八町行つたところ、あまりに人が多いので、良人を待ち合せるために引き返して來ただけです。だが一たいその泥はどうなさつたのです?』といつて、事情をきゝ、『それでは洗濯をしてあげませう』と茶店の奧へはひつて行く。そこへお吉の良人七左衞門がきて、姉娘から、お吉と與兵衞とが、茶店の奧で衣服を脫いだり、帶を解いたりして居ることを聞いて大に嫉妬の情にかられるが、やがて奧から二人が出て來て、與兵衞が申譯をすると、七左商門は碌に返事もしないで妻子を連れて去つてしまふ。と、折あしくも先前の武士の一行が歸つて來て、森右衞門が刀の柄に手をかけようとすると、武士は鷹揚にかまへて肋けてやれといふので、與兵衞はほつとする。以上が上卷の梗槪である。

 中卷では、與兵衞の家卽ち河内屋德兵衞の油屋の店が舞臺となつて居る。山上參り(吉野金峯山に登ること)の連中がどやどやとやつて來て、『與兵衞はどうした。今日俺達の歸つて來ることがわかつて居るに、出迎ひもせぬとは、どこか氣分でも惡いのか』といふ。德兵衞が走り出て『うちのどろめは山上參りの行者講のと、今年も自分の手から四貫六百、順慶町の兄太兵衞から四貫取つて、迎ひにも出ぬとはひどい奴どうぞ友だちとして意見してやつてくれ』と賴む。ところへ、奧から母親も茶をもつて出て、『與兵衞が山上さまへ噓をついた罰が、妹娘のおかちにあたつて、十日ばかり風邪氣で寢て居ますけれど醫者にかゝつても一向なほりません。どうか皆さま御祈禱を賴みます』といふ。すると講中の一人は、『罰ならば與兵衞に當る筈。娘御の病氣は別のことだらうがそれには白稻荷法印《しろいなりほふいん》といふ山伏を御賴みなさるがよい』といひ置いて去つてしまふ。

[やぶちゃん注:「どろめ」息子の与兵衛を指して言った卑称。他に「どろく者」とも呼んでおり、推定だが、これは「泥奴」で「泥に穢れた者」の謂いか。それは先の徳庵堤での「泥」を投げ合って、「泥」まみれになるという「穢れ」が伏線としてあり、究極の豊島屋での「どろ」りとした油に塗れて忌まわしい人殺しとなる場面への再伏線ともなっている。]

 するとそこへ、與兵衞の兄なる順慶町の太兵衞がたづねて來る。太兵衞も與兵衞も、德兵衞の生《な》さぬ仲の子である。卽ち德兵衞の舊主人の子で、彼は舊主人の死後舊主人の内儀と一しよになつたのである。太兵衞は德兵衞に向つて、『今も道で母に逢つて話したことだが、伯父森右衞門からの文面によると、先月與兵衞が御主人へ狼籍に及び、そのため居づらくなつて浪人したとの事、誠に以ての外の人間、一日も早く勘當してしまひなさい。一たい、常日ごろ、親仁樣が手ぬるい。自分の種でないといつたとて、母の良人である以上眞實の父だ。おかちを打たゝいても、あの馬鹿者に拳一つあてぬやうにしなさるので、却つてあいつのためにならない。たゝき出して來《こ》されゝば、どこかひどい主にかけて、ため直してやりませう。』といふ。德兵衞は無念顏、『親且那の往生の時はそなたは七ツ、與兵衞は四ツ、德兵衞どうせいこうせいといつたことを彼奴《あいつ》はちやんと覺えて居るのだ。伯父森右衞門殿の了簡で、是非にと言はれて、親方の内儀と女夫《めをと》になり、そなたは立派に育つたが、與兵衞めはそれと反對で、商賣の手を擴めさせようと思つても、壹匁《もんめ》もうければ百匁つかう根性、意見一言いへば、千言でいひ返す。誠にこの身の境界がつらい。』と嘆く。太兵衞はそれからしきりに勘當をすゝめると折しも奧の方でおかちが眼をさまして苦しがり、門口へは白稻荷法印が見舞にやつて來る。太兵衞が去ると、入れちがひに、空樽をかついだ與兵衞が歸つて來て、法印に挨拶し親仁に向つて、『親仁殿おかちの病より大事なことがある。跡の月野崎で伯父樣にあつたら、主人の金を三貫目つかひこんだから返さなければ切腹だ、是非調べてくれとの事。その當座母に話したが今ふと思ひ出した。これからわたしが持つて行つてあげるから、是非出して下さい。』といふ。たつた今太兵衞からきいたことがあるので、德兵衞は相手にせず、法印を案内しておかちのところへ連れて行く。法印が祈禱を始めるとおかちは顏をあげ、『私の病直すには、聟殿の話をやめて、與兵衞の戀人を請出し、この世帶を渡してくれ』と、夢中になつて口走る。法印はそれを物ともせず祈つて居ると與兵衞が出て來て追ひ出してしまひ、さて、親仁に向つて、『親仁どの、今のおかちの言葉は死んだ父の死靈が言はせたのだ。死靈の言葉どほり、この與兵衞に世帶を渡したらどうだ』といふ。德兵衞は怒つて『渡せぬ』といふ。『扨は妹に聟を取つて世帶を渡すな?』『さうとも』これをきいて與兵衞はカツと怒り、德兵衞を踏のめらし、肩や背中を足蹴《あしげ》にする。妹はびつくりして、『みんな兄樣の言いつけで死靈のついた眞似をしたのに、父さまを蹴るとはひどい』といつてとゞめようとすると、與兵衞は妹をも踏み伏せる。

 折しもそこへ母親が歸つて、與兵衞のたぶさを引つかみ、橫投げにのめらせて、目鼻の差別なくなぐりつける。さうして散々叱つたあげく、『半時も此内に置くことはならぬ、勘當ぢや出てうせう』と淚ながらに打たゝく。與兵衞はこれをきいて、『こゝを出たら、どこへも行く所がない』といふ。母が天秤棒で追ひ出さうとすると、與兵衞はそれを奪つて母に向つて打ちかゝる。德兵衞は、今は見るに見兼ね、更にその天秤棒を奪つて、息もつがせず六ツ八ツ打ち續ける。さうして自分のつらい心持ちを訴へると、母は、『うぢうぢひろがば町中《まちなか》よせて追ひ出す。』といつたので、町中といふ言葉に、さすがの與兵衞もびつくりして、ふらふらと出かける。德兵衞はその後を見送り、『あいつが顏付背恰好、成人するに從ひ死なれた且那に生寫《いきうつし》。あれあの辻に立《たつ》たる姿を見るに付、與兵衞めは追出さず、且那を追出す心がして、勿體ない悲しいわいの』と淚ながして悲しむ。といふのが中卷の梗槪である。

[やぶちゃん注:「ひろがば」「言うととなら」の意。]

 下卷の舞臺は、河内屋の筋向ひ、豐島屋の店。五月四日の夜である。女房お吉一人三人の娘を寢させて留守番をして居ると、掛取りに出た良人七左衞門が中休みに立寄り、掛金として集《あつま》つた五百八十目を預けて再び出かけて行く。と、其處へ勘當された與兵衞が、油二升入の樽をさげて來て、門の口から豐島屋をのぞきにかゝると、後《うしろ》の方で、『與兵衞ではないか。』と呼ぶ者がある。見ると上町の口入綿屋小兵衞、『あゝいゝところで出逢つた。順慶町へ行けば、本天滿町の方だといひ、本天滿町ヘ行けば勘當したといふ事だつた。お前さんが留守でも親仁さんの判、新銀一貫目、今宵延びれば明日は町へことわるからそのつもりで御いでなさい。』といふ。與兵衞は驚き、『手形の表は一貫目だが正味は二百目、今夜中に返せばいゝぢやないか。』『さうとも、明日の朝六ツ迄にすめば二百目、五日の日がによつと出ると一貫目。』かういつて綿屋は歸つて行く。與兵衞がはたと當感して居ると提燈をとぼして親仁の德兵衞がやつて來る樣子、はつと思つて、彼は平蜘蛛のようにつくばつてしまふ。

 德兵衞は豐島屋の店へはひつて、お吉に向い、『與兵衞は此頃生みの母が追出したので止められもしなかつたですが、きけば今順慶町の兄の方に居るといふこと、若し狼狽《うろた》へてこちらへ來ましたら、父親は合點だから、母にわびをして再び戾るやうに意見して下さい。ここに三百女房に内證で持つて來ましたから、私から出たといはずあなたの手で渡してやつてくれませぬか。』と賴む。[やぶちゃん注:底本は句点なし。国書刊行会本で補った。]するとそこヘ母親お澤が裏口からたづねて來て、『德兵衞殿、何しにござつた。與兵衞にやるとて三百持つてござつただらう。そのあまやかしがいけない。さあさあ早くいなしやれ。』と引立てようとする、德兵衞が言ひ譯すると、お澤はなほも追ひやらうとする。歸るなら一しよに歸らうと、德兵衞がお澤を引張ると、その途端に母の袷の懷から粽《ちまき》一わと錢五百が落ちる。お澤は狼狽し、『あゝ堪忍して下され德兵衞殿、いくら鬼子でも、母の身でどうして憎からう。けれど、母が可愛い顏をしてはいかぬから、無理につらくあたりました。私に隱して錢をやつて下さる心は、口ではけんけんいつても心では三度いたゞきました。私も實はあいつの可愛さに店の錢五百を盜んでお吉樣に屆けて貰はうと思ひました』と泣く。結局お吉の取計らいに任せて夫婦二人は歸つて行く。

 兩親の歸るのを見屆けた與兵衞は、『心一つに打うなづき、脇指拔て懷中に、さいたるくゞりとあけ』[やぶちゃん注:開始の二重鍵括弧が逆。訂した。]、『七左衞門殿はどちらへ、定めし掛もよつたことでせう?』と言ひながらはひる。お吉は與兵衞の姿を見て、『あゝ、いゝ所へござつた。この錢八百と粽が、あなたに遣れと天から降つて來ました。』といひ乍ら差出す。與兵衞は驚かず、『これが親たちの合力《かふりよく》か』といふ。『ちがひます。』『いやわかつて居る。先前から門口で蚊に喰はれて、親たちの愁嘆きいて淚をこぼしました。』『そんならよく合點がいつた筈、これからは心を入れ替なさい。』『いや、孝行したくても、肝腎の錢が足らぬ。賣溜め掛金がある筈だから三百目貸して下さらぬか。』お吉はびつくりして、『それでは必ず直つたといへぬではありませんか。金は奧の戶棚に上銀が五百目あまりあるが、良人の留守には一錢も貸すことなりません。いつぞやの野崎參りに着物を洗つてあげてさへ、不義したと疑はれ、言ひ譯に幾日もかゝりました。良人の歸らぬうちに早く去んで下さい。』與兵衞はそばへにじり寄り、『不義になつて貸して下さい。』といふ。『いけません。』『是非。』『女と思つてなぶらしやると聲を立てますよ。』『實は先月の二十日に親仁の謀判《ぼうはん》をして上銀二百匁今晚切りに借りたのです。明日になれば手形どほり一貫匁で返す約束、而も親と兄を始め兩町の五人組へ先方でことわる筈、とても才覺出來ぬので自害しようと、この通り脇指をさいて出ましたが、只今兩親の歎《なげき》をきゝ、死んだあとで親仁へ難儀のかゝることは不孝の上塗りと知り、詮方なさに賴むのです。たつた二百目で與兵衞の命が肋かります。どうか貸して下さい。』

 お吉はこれを與兵衞のいつもの手と察し、どうしても承知しない。そこで與兵衞は考へて、『そんなら、せめてこの樽に油二升取替へてくれませんか?』といふ。『それは易いこと。』とお吉が油をつめかゝると、與兵衞はお吉の後へしのび寄り、刀を取り出す。ピカリと光つたのでお吉はびつくりして、『何でした』といふ。『何でもない。』『いやいや、それ、急度《きつと》目がすわつて、恐ろしい顏色、手を出して御覽なさい。』與兵衞は刀を背後で持ちかへて手を出す。お吉は氣味を惡がり逃出さうとする。躍りかゝつて與兵衞はお吉の咽喉笛を剌す。苦しい中から、お吉は『助けて下さい。三人の子が可愛い。[やぶちゃん注:句点は私が附した。]金は入るだけ持つて行つて命だけは助けてくれ』と哀願する。『ヲヽ死にともない筈。尤々《もつとももつとも》。こなたの娘が可愛程、己《おのれ》も己を可愛がる親仁がいとしい。金拂うて男立てねばならぬ。諦らめて死んで下され。口で申せば人が聞く、心でお念佛、南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛。』と、たうとう殺してしまふ。かくて與兵衞は死顏を見て、心を亂し、戶棚から金を盜み出して逃げ去るのである。

 舞臺が變つて遊廓となり、與兵衞の伯父、森右衞門が近頃與兵衞の身持が一層惡くなつたときゝ、ことに女殺して金取つたのも與兵衞らしいといふ世間の評判を心配して、備前屋の松風の許をたづねると、入れちがひに一人の男が出て來る。松風が、『つい先程見えられたが曾根崎へ用事があるといつて去られた』といふと『それではもう一つたづねるが、五月の節句前か後で、金を澤山つかつたことは御座らぬか。』といふ。『金のことは知りません』といつて松風は奧へはひる。森右衞門は仕方なく曾根崎の方へ去る。

 與兵衞は小菊に逢ふため曾根崎の花屋に來ると、後家のお龜が出迎へて上らせ、それから油屋の女房殺しの芝居の話をする。與兵衞が不安を覺えて、無茶酒をのんで居ると、友人が訪ねて來て、『お前を侍がたづねて居るぞ』と告げる。びつくりして樣子をきくと叔父らしいので、逢つては面倒と、新町に紙入を忘れて來たといつはつて逃げ出す。その跡へ森右衞門がたづねて來て、花車に逢ひ、新町へ去つたときいて殘念がり、『こんど與兵衞が來たら、酒でも呑せて留め置き、本天滿町の河内屋へ知らせて貰ひたい。[やぶちゃん注:句点は私が打った。]只今來がけに櫻井屋源兵衞方へ立寄つてきくと、五月四日の夜に、大金三兩、錢八百受取つたといふことだが、こゝへ幾ら拂つたか。』『私方へも大金三兩、錢一貫文』『その夜は何を着て參つたか』。『廣袖の木綿袷、色はたしか花色だつたと思ひます。』『よろしい。』と森右衞門は去る。

 再び舞臺は𢌞つて、お吉の家では三十五日の逮夜《たいや》がつとめられて居る。同行の人々が、七左衞門をなぐさめて居る折しも、居間の桁《けた》梁《うつばり》を通る鼠が、反古《ほご》をちらりと蹴落して行つた。七左衞門が見ると、血のついた半切紙に一ツがき、十匁一分五リン、野崎の割付五月三日とある。[やぶちゃん注:句点は国書刊行会本で補った。]どうやら見たやうな筆蹟だと同行に見せると、河内屋の與兵衞の手だときまり、さては去る四月十日、與兵衞は三人づれで野崎詣りに行つたさうだが、その割付にちがひない。これでお吉を殺した犯人も知れました。亡者が知らせたにちがひありませんと喜ぶ。とその時、『河内屋の與兵衞です』と、當の本人がはひつて來て『三十五日の逮夜になつても、犯人が知れぬで御氣の毒です』と弔詞をのべる。七左衞門は、『おのれ、お吉をよくも殺した』と躍りかゝる。やがて挌鬪《かくとう》[やぶちゃん注:「格鬪」に同じ。]が始まり與兵衞が逃げ出すと、表に捕吏《とりて》が居て難なく取り押へる。捕吏の後から森右衞門が聲をかけ、『もうかうなつたら潔く往生せい。世間の風說をきいて、あらわれぬ先に自害をすゝめようと、新町や曾根崎をたづねたが、いつも後ヘばかり行つたのは貴樣の運の盡だ。おい太兵衞その袷をこゝへ持つて來い。これは五月四日の夜に貴樣の著たもの、所々のきは付こはばり、お役所からの御不審、只今その證據調べだ。誰か酒を持つて來てくれい。』酒をかけると果して朱の血潮に變つた。與兵衞も今は覺悟を極め、大聲を出して、『一生不孝放埓の我なれども、一紙半錢盜みといふ事終にせず、茶屋傾城屋の拂は、一年半年《はんねん》遲《おそ》なはるも苦にならず、新銀一貫匁の手形借り一夜《ひとよ》過ぐれば親の難儀、不孝の科《とが》勿體なしと、思ふ計に眼付《まなこつけ》、人を殺せば人の歎き、人の難儀といふことに、ふつゝと眼付《まなこつ》かざりし、思へば二十年來の不孝無法の惡業が、魔王と成て與兵衞が一心の眼を眩まし、お吉殿殺し金を取しは河内屋與兵衞、仇も敵も一ツひぐわん。南無阿彌陀佛。』といひ、繩を受けて、この一篇の悲劇は終るのである。

[やぶちゃん注:「逮夜」「大夜」などとも書き、古くは葬儀の前夜を指したが、年忌や忌日の代用語として用いられる。ここは現在は行われることがまずない、三十五日法要のこと。故人が亡くなった命日から数えて、三十五日目に行う法要を指す。]

 

        

 

 以上の梗槪からもわかるとほり『油地獄』の最後の部分には探偵的興味まで加はつて、いはゞ一種の優れた探偵文學となつて居り、作品全體が濃厚な近代的色彩を帶《お》んで居て、鋭い人生批評が加へられてあるために、當時の興行上の效果は却つてあまり良好ではなかつたといはれて居る。

 この作に於て、作者は、如何に環境が犯罪性を釀成するかを痛烈に示さうとして居る。與兵衞の犯罪性には少しの遺傳的分子も加はつて居ない。實父、伯父、實母、實兄、すべて皆善人である。彼にはまた肉體的不具もなかつた。母親お澤が與兵衞を折檻する言葉に、『德兵衞殿は誰ぢや、おのが親。今の間に、脚が腐つて落《おち》ると知らぬか、罰あたり、おとましやおとましや、腹の中から盲《めくら》で生れ、手足かたはな者もあれど、魂は人の魂。己が五體何處を不足に生付《うまれつい》た。人間の根性何故さげぬ。父親が違ひし故、母の心がひがんで、惡性根入るといはれまいと、さす手《て》引手《ひくて》に病《やみ》の種。おのれが心の劒で、母の壽命を削るわい。』とあるのを見ても、彼が圓滿な體格を具へて居たことがわかる。さうして、これをかのシェクスピアの『リチャード三世』の中で、不具者リチャードを生んだヨーク公爵夫人がリチャードに向つて言つた言葉と比較して見ると頗る興味がある。卽ち『おのれはこの下界をわしの地獄にするために生れて來おつたのぢや。生れる當座もわしを苦しませおつたのぢやが。頑是ない頃から我儘で、剛情で、學問を始めるやうになつてからは、怖ろしい亂暴な、氣の荒い子で丁年《ていねん》[やぶちゃん注:成人。]になつては大膽不敵で、向う見ずで、それが年を取つてからは、高慢で、狡猾で、慘忍で、以前よりは外面が溫和になりおつたゞけに、口と心とは裏表の不信不義、深切《しんせつ》めかしては人を陷擠《おとしい》れるわるだくみ!』(坪内氏譯による)とあつて不具變質者の犯罪性の發達の經路が遺憾なく述べられてある。與兵衞の母親の言葉の中には、『育ち』が犯罪性を作ることが言ひ表はされ、リチャードの母親の言葉には、生れながらの犯罪性は、自然に發展して行くものであることが述べられてある。先天的犯罪者リチャードは、子供の時分から狡猾であつて世間の表裏をよく知つて居たにかゝはらず、境遇によつて作られた犯罪者與兵衞は世間といふものを少しも知らぬ『坊ちやん』であつた。氣儘に育つた彼は自分の欲望ならばどんなことでも叶ふものと思ひ込んで居たがために犯罪の何ものであるかといふことさへ知らなかつた。『まだ此上に根性の直る藥には、母が生肝《なまきも》を煎じて飮《のま》せいといふ醫者あらば、身を八ツ裂も厭はね共《とも》』といふくらゐの母親の盲目的な愛と、『此德兵衞は親ながら主筋《しうすぢ》と思ひ、手向ひせず存分に踏《ふま》れた。腹を借《かり》た生《うみ》の母に今の樣、傍《そば》から見る目も勿體なうて身が震ふ。今打《うち》たも德兵衞は打たぬ、先《まづ》德兵衞殿冥途より、手を出してお打なさるゝと知ぬかやい。おかちに入聟取といふは、跡方もないこと。エヽ無念な、妹に名跡《みやうせき》繼《つが》せては、口惜《くちをし》と恥入《はぢいり》、根性も直るかと、一思案しての方便。あの子は餘所へ嫁入さする、氣遣ひすな。他人どし親子と成《なり》は、よくよく他生の重緣と可愛さは實子一倍。疱瘡した時日進樣へ願かけ、代々の念佛捨て百日法華に成《なり》』といふくらゐの父親の義理を思ふ愛の中に育つたのであるから、彼の氣儘は極端に增長したのである。無論、同じ家に育つた兄の太兵衞が正直な人間になつたところを見れば、與兵衞には、我儘放埓に陷るべき先天的素質があつたと解釋しても差支ないけれど、少なくとも近松翁は、與兵衞を先天的犯罪者にしようとは思はなかつたやうである。

[やぶちゃん注:小酒井不木は身体に障碍があることを先天的犯罪性と結びつけようとする偏見があることを批判的に読む必要がある。

「リチャード三世」シェイクスピアの史劇。正式なタイトルは「リチャード三世の悲劇」(The Tragedy of King Richard the Third )。初演は一五九一年。そこでシェイクスピアは主人公リチャード三世を、先天的に背骨が大きく曲がって瘤があり、足を引き摺る人物として描いているが、実際の当人の遺骨の調査によって、これは創作だったことが判っている。実際の彼は、背骨が曲がる脊柱後湾の症状はあったものの、重度ではなく、衣服や甲冑を着れば、隠れる程度のものであった。]

 かくの如く、親子の眞の道を敎へられなかつた與兵衞は、成長しても子供のまゝの野蠻性を失はなかつた。その野蠻性は野崎詣りの場面に於いて喧嘩によつてはつきりあらはされてあるが、その喧嘩の當時、伯父に逢つたことを種にして、兩親を欺いて金を取らうとした奸智は、その野蠻性の發現とも見られぬでもないけれど、むしろ、惡友の感化によるといつた方が適當であるかも知れない。遊里に足を踏み入れた彼は、お定まりの金に窮し、始めて世の中が我が意の如くならぬことを知り、父母を詐《あざむ》かうと謀つたのである。さうして更にその奸智は進んで父の謀判を企て、妹に死靈のついた眞似をさせるに至つた。然しながら彼は決して盜みをしなかつた。彼が捕へられた時の述懷に『一紙半錢盜みといふ事終にせず。』とあるのを見ても、盜むことを惡いと考へて居たことは事實である。それにも拘はらず父の謀判を企てたのは、父を詐いたり、父に迷感をかけたりするぐらゐは罪惡であると思つて居なかつたのである。このことは『お坊ちやん育ち』の人が屢ば陷る危險の穴である。世間知らずの人が、他人に煽動されて、罪惡と知らず大事を取り出來《でか》すのは、法律上の罪惡を恐れて、道德上の罪惡を恐れないからである。與兵衞は卽ち、父母に對してどんな罪惡を行つても、それは當然許さるべきものであると思つて居たのである。

 ところが愈よ勘當されるとき、母が『町中よせて追出す』と言つたのをきいた彼は、始めて自分以外に世間といふものゝあることを知つてぎよつとした。天秤棒に怖れなかつた彼も、世間の『法』には恐怖を感じたのである。愈よ勘當されて見ると、彼は始めて道德の存在に氣が附いたのである。勘當された彼は、さしづめ兄の太兵衞の家に行つた。さうして『絕望』を感じて居たところへ、しみじみ意見され、兩親の尊いことを知り、ことに義理ある父は、一層尊敬せねばならぬことを悟つたのである。

 さう悟ると共に、彼は、父の謀判したことをこの上もない惡いことだと思ふに至つた。而《しか》も五月四日の晚までに返さねば五人組へも知らせるといふ貸主との契約であつたので、彼は居ても立つても居られず、金の工面が出來ねば自殺しようと決心し、豐島屋へ來たのである。來て見ると、兩親たちは、自分の罪を惡《にく》むどころか、却つて慈愛ある處置を取らうとして居たので、愈よもつて父親に難儀をかけてはならぬと思つたのである。さうして彼は、如何なる手段を講じても、三百目の金を調へねばならぬと決心したのである。彼はその時人一人殺す罪よりも、父親に難儀をかけるのが堪へられなかつた。で、お吉を殺して金を奪はうと咄嵯の間に思ひ立つたのである。お吉が血に染りながら三人の子のあることを訴へても、もはや彼の心は動かなかつた。さうして、『こなたの娘が可愛程、己も己を可愛がる親仁がいとしい』と彼は言ひ放つた。これをリチャード三世が、『亡兄の女と結婚をせにやならん。然《さ》うせんと、おれの王國は脆い硝子の上に載ツかつて居るといふ爲體《ていたらく》[やぶちゃん注:国書刊行会本では『したい』とルビを振るが、従えない。]だ。弟どもを殺しておいて、さうしてその姉娘と結婚するというのは、大ぶ際どい遣り口だ!けれども血の中ヘ踏込んだ以上、罪惡を突つき出すのも止むを得ない。淚ぽたぽたの憐憫なんかは、おれの眼中にや住んで居ない』(坪内氏譯による)といつた言葉と對比して見ると、リチャードは罪惡そのものに陶醉して居るに反し、與兵衞は、已むに已まれず罪惡を犯して居ることがわかる。

 さて、一旦お吉を殺して見ると、今まで思ひも寄らなかつた恐怖が、お吉の死顏をみた瞬間からむらむらと起つて來た。近松翁は、その時の與兵衞の恐怖を次の如き麗筆を以て述べて居る。

[やぶちゃん注:以下の引用部は底本では全体が一字下げ。]

『日比の强き死顏見て、ぞつと我から心もおくれ、膝節《ひざぶし》がたがたがたつく胸を押しさげさげ、提《さげ》たる鎰《かぎ》を追取《おつと》つて、覗けば蚊帳のうちとけて、寢たる子供の顏付さへ、我を睨むと身も震へば、つれてがらつく鎰の音、頭《かうべ》の上に鳴神の落かゝるかと肝にこたへ、戶棚にひつたり引出すうちがひ上銀《うへぎん》五百八十匁、宵に聞たる心當《こころあたり》。ねぢ込《こみ》ねぢ込ふところの、重さよ足もおもくれて、薄氷《はくひやう》を履《ふむ》火焰踏《ふむ》、此脇指《わきざし》はせんだの木の橋から川へ、沈む來世は見えぬ沙汰[やぶちゃん注:「見えぬ」は底本も国書刊行会本も「見える」であるが、二種の「女殺油地獄」版本で確認して訂した。]、此世の果報の付時《つけどき》と、内をぬけ出《いで》一さんに、足に任せて』

 これをかのフランスの大犯罪者ラスネールが、知己のシャルドンとその母を殺して寢臺を戶棚のそばに引き寄せ、戶棚の中の金をさがして居るとき、室《へや》の時計が『チン』と一つうつたのをよく覺えて居たことと比較すると、先天性犯罪者と、偶發性犯罪者の心理の差異を知ることが出來る。

[やぶちゃん注:「せんだ」栴檀(せんだん)。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach 。別名、楝(おうち)。五~六月の初夏、若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数、円錐状に咲かせる(ここから「花楝」とも呼ぶ)。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく全く無縁の異なる種である白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダンSantalum album )なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。これはビャクダンSantalum album の原産国インドでの呼称「チャンダナ」が中国音で「チャンタン」となり、それに「栴檀」の字が与えられたものを、当植物名が本邦に伝えられた際、本邦の楝の別名である現和名「センダン」と当該文字列の音がたまたま一致し、そのまま誤って楝の別名として慣用化されてしまったものである。本邦のセンダン Melia azedarach の現代の中国語表記は正しく「楝樹」である。グーグル画像検索「楝の花」をリンクさせておく。但し、ここでは無論、明らかに聖なる異界のそれであり、他との並列を考えれば、仮想された実在しない芳香栴檀様の香りを放つ聖木(せいぼく)ととるべきである。

「ラスネール」ピエール・フランソワ・ラスネール(Pierre François Lacenaire 一八〇三年~一八三六年)はフランスのリヨン出身の犯罪者(窃盗・詐欺・手形偽造・殺人等)にして詩人。逮捕されて死刑(ギロチン刑)に処せられた。処刑直前まで執筆し続けていた「回想録」(邦訳有り。私は未見)が残る。以上の小酒井の言及も、その一節にあるのであろう。詳しくは当該の日本語版のウィキを参照されたい。

「知己のシャルドンとその母を殺し」フランス語版の彼のウィキに、一八二九年に窃盗罪で一年の懲役刑を言い渡された際に親しくなった友人ジャン・フランソワ・シャルドン(Jean-François Chardon)とその母を、一八三四年に冷酷に殺害している(彼は斧で、その母はベッドで窒息死させられている)。]

 殺人罪を犯した與兵衞は、良心の呵責をのがれるために、只管、痛飮して、胸中の苦悶を消さうとした。花屋の後家が油屋の女房殺しの芝居の話をすると、彼はぎくりとして、『後家、たしなめ。ちと人にも物云《ものいは》せい。生れて、與兵衞、こんなむさい床凡《しやうぎ》の上で、酒呑んだ事なけれど、今日は許す。東隣、借足《かりたし》して、與兵衞が座敷分《ざしきぶん》に一ツこしらや。材木、諸色《しよしき》、諸入目《しよいれめ》、見事に、我等、仕る。きつい物か物か。エ、げびた此蒲鉾の、薄い切樣は。』[やぶちゃん注:以上の引用は、底本では句読点が不全で、甚だ読み難いため、先の版本を参考に一部に句読点を入れた。]と、いかにも狼狽した口調で出鱈目をしやべり、さうして叔父がたづねて居るときいて甚だしく恐怖し、逃げ出してしまつたのである。

[やぶちゃん注:「材木」調度のことかと思ったが、調べると、「歳を取った歌比丘尼(うたびくに:近世に歌念仏を歌って歩いた比丘尼。のちには売春する者も現れた。勧進比丘尼とも呼ぶ)」の意があったので参考までに述べておく。

「諸色」華麗な服を着た沢山の女たちの意か。

「諸入目」もろもろの掛かる費用総て。]

 遂に與兵衞は、良心の呵責に苦しむすべての犯罪者が行ふやうに、お吉の三十五日の逮夜の晚、犯行の現場に顏を出したのである。『つい三十五日の逮夜になりましたの。殺した奴もまだ知れず、氣の毒千萬したが追付《おつつけ》知れましよ』とその時の彼の言葉は、後來の探偵小說家にも屢ば採用される筆法である。かうして灯《あかり》のまはりを飛んで居た蛾は、灯の中にはひつてしまつたのである。

 かく觀察して來ると、近松翁は、この種の犯罪者の心的經過を殆んど遺憾なきまでに描き出したといつてよい。故意か偶然かは知らぬが、與兵衞の殺人の季節に、統計上、殺人の多い五月を選んであるのも面白い。又、犯罪性を考へるには性的の煩悶を見逃してはならぬが、與兵衞は勝手次第に遊里に出入りして居たのであるからその點を顧慮する必要が無からしめてある。お吉に出金を賴むとき、『不義に成て貸て下され』といつたのは、お吉の言葉に續いて言つたゞけで、別に深い意味は無かつたのである。

[やぶちゃん注:日本に限って言えば、殺人ではないが、広義の犯罪の増加する月というのは、事実、五月のようである。「セコム」公式サイト内のコラムの「3月は犯罪が増え始める月?」に、五年間のグラフ附きで、『毎年』三『月になると』、『件数が増加に転じています』。『おおよその傾向としては』、一『年の中で最も犯罪件数が少なくなるのが』二『月で、翌月の』三『月から増加に転じて』、五『月くらいにピークとなります。その後、やや落ち着いてから』、十『月にもう一度』、『ピークを迎えるといった動きを、ほぼ毎年繰り返しています』。こうした『山形の曲線を描く犯罪』は、『窃盗犯や粗暴犯(暴行、傷害、恐喝など暴力的な犯行)が顕著です。風俗犯(公然わいせつ、賭博など社会の善良な風俗に反する犯行)も同じような動きをしています』。『 粗暴犯の中では暴行や傷害、窃盗犯の中では忍込み(就寝中の家を狙う泥棒)や居空き(住民は起きているが隙を狙って家に侵入する泥棒)や自転車盗、風俗犯の中では強制わいせつが、このような形のグラフを描いています』とあるからである。殺人(未遂)事件も五~六月に多いとする新聞記事もあった。但し、アメリカの国内統計データでは一月一日が最も多いそうである。]

 お吉を殺すとき、彼が後に自殺するつもりであつたことは前後の事情からして察せられるが、その決心が崩れてしまつたのは、お吉の死顏を見てからの恐怖のためである。彼の恐怖は全く豫期しなかつたものであつて、その點がこれから述べようとするマクベスの犯行後の恐怖と異なるところである。卽ちマクベスは、自分の行爲が大罪であることを知り、當然、殺害後の恐怖を豫期して居たのである。從つて彼はその恐怖に打ち勝たうと用意した。ところが、彼は打勝つことが出來なかつたのである。其處に卽ち、一層深刻な恐怖が見られるのであつて、その恐怖をシェクスピアが如何なる筆をもつて描いて居るかを、次章に紹介しようと思ふのである。

 

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 玩具箱 ―人形及び動物のいろいろとその生活 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「玩具箱 ―人形及び動物のいろいろとその生活―」の別稿 附・幻しの三篇組詩「玩具箱」の不完全再現の試み

 

  玩 具 箱

     ―人形及び動物のいろいろとその生活―

 

   

 

靑い服をきた獵人が

釣竿のやうなてつぽうをかついで

わん つう、わん つう、

このへんにそつくりかへつた主人のうしろから

木製のしなびきつた犬が

尻尾のさきをひよこつかせ

わん つう、わん つう。

 

   

 

さむしい Hotel の臺所で

のすたるぢやのメリイが泣いて居る。

ほんのり光る玉菜のかげから

ぜんまい仕かけで

鼠がひよつくり顏を出した。

 

  *これは『朝、晝、夕』の三篇の組詩と

  して雜誌に掲載されたが、このうち『晝』

  は「野景」と改題して『蝶を夢む』に收錄

  した。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。底本の「詩作品發表年譜」によれば(左ページ「225」の二行目だが、次の「竹の根の先を掘る人」と頭の植字を誤植していて、「竹具箱」になってしまっている)、初出誌を大正四(一九一五)年一月発行の『白金帖』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年十一月号とするのであるが、同全集は、後注で、この初出誌を入手することが出来なかったとし、しかし、『筆寫原稿が殘っているので、右はそれによった』とある(後掲する)。この、注、何故、単に「原稿」と言わずに、『筆寫原稿』と言ったのだろう? 手書きの元原稿なら、「決定稿」或いは「脱稿原稿」「送付原稿」でよい。『筆寫原稿』とは、萩原朔太郎自身が、何故か判らないが(草稿も手元になく、脱稿した決定稿も返却されなかったためか)、仕方なく、当該雑誌から書き写した、という意味にしか採れない表現である。しかも、全集が載せる、その『筆寫原稿』は、本篇とは微妙に異なるのである。以下に示す。太字は同前。

   ◆

 

 玩具箱

    ―人形及び動物のいろいろとその生活―

 

     朝

 

靑い服をきた獵人が、

釣竿のやうなてつぽうをかついで、

わん、つう、わん、つう、

このへんにそつくりかへつた主人のうしろから、

木製のしなびきつた犬が、

尻尾のさきをひよこつかせ、

わん、つう、わん、つう。

 

     夕

 

さむしい Hotel の臺所で、

のすたるぢやのメリイが泣いて居る、

ほんのり光る玉菜のかげから、

ぜんまい仕かけで、

鼠がひよつくり顏を出した。

 

  * 掲載誌は未入手だが、筆寫原稿が殘

    っているので、右はそれによった。

  * 同時發表の「晝」は「野景」として

    『蝶に夢む』に收錄。

 

   ◆

まず、本篇と、この全集の『筆寫原稿』詩篇とでは、本篇では、

  • 副題の終りのダッシュがないこと。
  • 非常に多くの読点が一致しないこと。
  • 「朝」の四行目の「へん」の傍点がないこと。

有意に異なる。則ち、推定するに、小学館版の編者は、幸いにして、初出誌『白銀帖』の三つの詩篇から成るものの実物(原稿ではない)を管見することができ、そこから、後に再録されることがなかった、この二篇を抽出した、と考えてよいのではあるまいか? 

 なお、

――『蝶を夢む』で「野景」と解題して単独で再録(手を加えている可能性は頗る高い。決定稿は以下に示した)した「晝」との三篇構成の組詩を、恐らく、現在、我々は読むことが出来ない

のである。因みに、「蝶を夢む」に所収された「晝」を決定稿は以下である。

   *

 


 野景

弓なりにしなつた竿の先で

小魚がいつぴき ぴちぴちはねてゐる

おやぢは得意で有頂天だが

あいにく世間がしづまりかへつて

遠い牧場では

牛がよそつぽをむいてゐる。

 

   *

 そこで、筑摩書房版全集の『筆寫原稿』という謂いへの不審が再燃する。

 先に推理したような事情で朔太郎が筆写した原稿というのが、あるとなら、

――朔太郎が組詩であるはずのものから、「晝」をわざわざ除去して自ら写した可能性は百%あり得ない

からである。しかし、同全集の詩集『蝶を夢む』の「野景」には、下方にあるべき初出形参照が、全くないのである(上記引用と同じ形で三篇組詩の『筆寫原稿』から、として載せることが出来るはずである)。これは、甚だ不審と言わざるを得ない。

 ところが、同全集には、

――「草稿詩篇 蝶を夢む」に、『野景(本篇原稿六種七枚)』と仮題して、ズバリ! 「晝」と題した、その中の草稿一篇のみが活字化されている

のである。これは組詩の二番目にあった「晝」の決定稿ではないものの、

――これを、以上の筑摩書房版の『筆寫原稿』の間に挟み込めば、原「玩具箱」の雰囲気をある程度、復元出来るのではないか?

と、私は考えた。それを以下に示す。草稿であるから、まず、削除などが含まれているそれをそもまま単独で示す(歴史的仮名遣の誤りはママ。筑摩版編者注附)。

   ◇

 

  釣竿

  晝

 

弓のやうにまがつた竿の先で

目高が一疋ぴちぴちはねてる

おやぢはいつしよけんめいだが

(おやぢはとくいで有頂天だが)

あいにく牛でさえも界はけんがしいんとして居る→しづまりかへつてしいんとして

遠くの牧場では牛でさへも晝寢 をして居る→をしてる して居る、よそつぽをむいて居る、

 

  *「幼年思慕扁〔篇〕、」「幼年詩扁〔篇〕、

   玩具箱ヨリ、」と附記された別稿もある。

 

   ◇

以下、以上の削除を除去したもの、さらに、三行目と四行目にある並置残存については、決定稿を鑑み、丸括弧で後から添えられた四行目を採り、三行目を除去したものを、先の筑摩版の「朝」と「夕」の間に挟み込み、三篇組詩「玩具箱」の不完全復元版として以下に示すものである。

   §   §   §

 

 玩 具 箱

    ―人形及び動物のいろいろとその生活―

 

     

 

靑い服をきた獵人が、

釣竿のやうなてつぽうをかついで、

わん、つう、わん、つう、

このへんにそつくりかへつた主人のうしろから、

木製のしなびきつた犬が、

尻尾のさきをひよこつかせ、

わん、つう、わん、つう。

 

     

 

弓のやうにまがつた竿の先で

目高が一疋ぴちぴちはねてる

おやぢはとくいで有頂天だが

あいにく世けんがしいんとして

遠くの牧場では牛でさへもよそつぽをむいて居る、

 

     

 

さむしい Hotel の臺所で、

のすたるぢやのメリイが泣いて居る、

ほんのり光る玉菜のかげから、

ぜんまい仕かけで、

鼠がひよつくり顏を出した。

 

   §   §   §

これで――私の憂鬱は――美事に完成したのである――。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 蒼天 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「蒼天」の別稿

 

  蒼  天

 

いつしんなれば

おほむけに屍體ともなる

つめたく合掌し

いちねん

きりぎりす靑らみ、もはや、

雀みそらに殺さる。

 

[やぶちゃん注:「あほむけ」はママ。「あふむけ」が正しい。底本の「詩作品發表年譜」によれば、初出誌を大正三(一九一四)年十一月発行の『風景』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年十一月号とする。但し、その初出とは微妙に異なる箇所がある。以下に示す。

   *

 

 蒼天

 

いつしんなれば、

あほむけに屍體ともなる、

つめたく合掌し、

いんよくいちねん、

きりぎりす靑らみ、もはら、

雀みそらに殺さる。

 

   *

読点は別としても、四行目の「いんよくいちねん、」が、ただ「いちねん」となっており、また、五行目「もはら、」が「もはや」で、初出誌から採ったなら、こんなミスはし得ない。原稿から写したとなら、「ら」を「や」と誤読する可能性はあっても、「いんよく」を見落とすことはない。されば、これも筑摩版とは異なる別稿ととるべきである。]

2021/11/24

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 疾患光路 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「疾患光路」の別稿

 

  疾 患 光 路

 

我れのゆく路

菊を捧げてあゆむ路

いつしん供養

にくしんに血をしたたらすの路

肉さかな、きやべつの路

電車軌道のみちもせに

犬、畜生をして純銀たらしむる

疾患せんちめんたる夕ぐれの路

ああ 素つぱだかの聖者の路。

 

[やぶちゃん注:底本の「詩作品發表年譜」によれば、大正三(一九一四)年十月の作とし、初出誌を大正四年一月発行の『水甕』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年一月号とする。但し、その初出とは微妙に異なる箇所がある。以下に示す。

   *

 

 疾患光路

 

我れのゆく路、

菊を捧げてあゆむ路、

いつしん供養、

にくしんに血をしたたらすの路、

肉さかな、きやべつの路

邪淫の路、

電車軌道のみちもせに、

犬、畜生をして純銀たらしむる、

疾患せんちめんたる夕ぐれの路、

ああ、素つぱだかの聖者の路、

             ――十月作――

 

   *

本篇には「邪淫の路(、)」の一行がない。されば、別稿ととるべきであろう。]

譚海 卷之四 同所酒田領こやの濱不動峠等の事

 

○同國酒田に「こやの濱」といふ所のまさごは、ことごとく小き石の白きにて、沖より望めば白米をちらしたるやうに見えて、うつくしき事いはんかたなし。さればその所の船歌に、「酒田こやのはま 米ならよかろ 沖のべざいに たゞつましよ」とうたふ也。「べざい」は船の異名也。又酒田より越後へ至る山を不動峠といふ、四里半の山中にて喬木のみ生じけり。白晝もうすくらく、甚ものすごき所にして、その間人家なし。往昔(そのかみ)はぬす人(びと)窠(すみか)を結(むすび)て往來をなやませしが、今は昇平に成(なり)て其事なしとぞ。

[やぶちゃん注:標題の「同」は前の「羽州秋田領湯澤百姓聟宇治茶師子どもの事」を受けたもの。船歌には字空けを施した。

「こやの濱」「小屋之濱」或いは「興屋(こや)の濱」で、旧高野浜(こうやのはま)で遊廓があった。サイト「古今東西舎」の「酒田(村社稲荷神社)旧高野浜の表示があります。」を参照されたい。そこに『北新町に、村社稲荷神社があり』、『道路に面した掲示板のところに、旧町名を示す柱が立っていて、このあたりが高野浜であることがわかり』、『掲示板には、弘法大師がこの石の上に腰をおろし、海岸の風景を望見し』、『「高野浜」と命名したと書かれています』とある(写真有り)。その稲荷神社はここ(グーグル・マップ・データ)であるが、「今昔マップ」で見ると、北新町(旧新町)の南西に「能登興屋」の旧地名が確認でき、その西に長大な浜があったことが判る。現在は広大な酒田港に改造されてある。

「べざい」これは「弁財船」で、その同義又は発展型である「菱垣廻船」がよく知られる。私の「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 6 和船について」及び「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ 弁財船と打瀬舟」を参照されたい(モースの自筆の船の図が孰れにも載る)。

「不動峠」この名を確認出来ないが、酒田市街からの距離と、大杉の名で「小林の不動杉」というのが、よく一致するように思われる。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

譚海 卷之四 羽州秋田領湯澤百姓聟宇治茶師子どもの事

 

[やぶちゃん注:物語風なので、特異的に段落を成形した。その関係上、特異的に読点や記号を追加してある。

 

○羽州秋田領湯澤といふ所に、百姓某(なにがし)なるもの、豪富なるもとに、上方より來(きた)る奉公人、年來(としごろ)、篤實に仕へしかば、夫婦、相談して、一人ある女(むすめ)にめあはせて、むこにしたり。いよいよ、順(したがひ)、よく相續しければ、今は、此ものに家督をゆづり、老夫婦隱居の身になりしかば、

「一とせ、西國順禮ながら、上方一見にのぼらん。」

と、せしかば、此むこ、去年春より、みづから、庭に、わづかなる茶の樹をうえ[やぶちゃん注:ママ。]、葉つみ、人手にかけず、心に入(いれ)てこしらへあげたる茶を、紙一包(ひとつつみ)ばかりに出來けるを、ことし出たつ比(ころ)、兩親にあたへ、申けるは、

「京都在留の間に、宇治へおはさば、何とぞ、此茶を、其(その)しるしある『のうれん』かけし茶師のもとにおはして、此茶を、其あるじに見せ給ひて、

『いかに、できかた、よろしく候や、あしく候や。』、評判をうけて給り候へ。」

とて、わたしぬ。

 さて、老夫婦、上京して、宇治へ行(ゆき)たるとき、彼(かの)茶の事をおもひ出して、そのしるしある「のうれん」の家へ、たづね至り、

「これは、わが子なるものの製せし茶にて侍り。よく出來候ひたるや、あしきや、見てもらひたき。」

由(よし)申ければ、下女・下男、

「をかしき事を云(いふ)人哉(かな)。いかにとも、見わかるべきやうも、あらず。」

とて、うけがはず、問答に及(および)たり。

 その家のあるじ、聞付(ききつけ)て、立(たち)いで、老夫婦に逢(あひ)、さて、その茶を受取(うけとり)て、紙をひらき、一目見るより、淚を、

「はらはら」

と、こぼして、云(いふ)やう、

「是は。まさしく、われらが子共(こども)の製(せい)したる茶に、うたがひ、なし。此茶の製(せい)しやうは、わが家(や)の、一子相傳の製し方にて、外にしるもの、侍らず。さては、そこの子共といはるゝものは、我が子にして、前年、ほうらつ[やぶちゃん注:「放埒」。]に身をうしなひ、いづちともなく、行方しらず成(なり)たりしかば、かならず、はるばるの國にくだりて、そこの子になり侍りぬる事。」

とて、いそぎ、夫婦を内へともなひ入(いれ)、二、三日、ねもごろに、あひしらひ、いとまこひ、わかるゝとき、金子五兩、夫婦に合力(かふりよく)せしとぞ。

 不思議なる物語也。

譚海 卷之四 安永中川川浚・新地埋立等所々出來の事

 

○江戸小網町のうら「どうかん堀」は、「あらめばし」の川より潮(しほ)通したるが、安永八年堀留の川をさらへし土をもちて半分埋たて、今は半分より先ばかり元の川の形殘りて有(あり)。三つ股洒井修理太夫殿屋敷前、濱町川の出先より「大はし」の際までも、安永年中埋たてになり新地出來たり。天明四年本所川通り「さらへ」ありし土にて、一つめの川の出先兩國橋のもとへも新地出來たり。同五年夏淺草見附川北側、洒井家の屋敷の脇より新柳橋のきはまで、新地八千兩に川岸通り御定(おさだめ)あり、家作出來たり。藏前新地も同時の事也。

[やぶちゃん注:「小網町」現在の中央区日本橋小網町(グーグル・マップ・データ)。

「どうかん堀」「道灌堀」ではない。小網町三丁目東側の日本橋川の入堀が「稲荷堀」(とうかんぼり)」或いは「十日堀」(とうかぼり)と呼ばれていたのが訛ったもの。「古地図 with MapFan」で日本郵政の「日本橋小網町局」を探して、中央分離ウィンドウの直上に配すると、直下右方に汐留橋で分岐した「稲荷濠」が現われる。これである。なお、まだ、その画面をそのままに! 次の次の注でさらに使う!

「安永八年」一七七九年。

「堀留」先の「古地図 with MapFan」で「日本橋小網町局」を更に北へと移してゆくと、暫くすると、「堀留児童公園」が見つかる。それを上のウィンドウの中央直上に持ってゆくと、直下に「堀江入濠」が出現する。これが「堀留の川」であることが判る。そこを大々的に川浚えした際の水底の土を盛って「稲荷濠」との接続部が塞がれ、「かつお河岸」となって遮断されていることがよく判るのである。これもそのままの方がいい! やはり次で利用出来るから!

「三つ股洒井修理太夫殿屋敷前、濱町川の出先より「大はし」の際までも、安永年中埋たてになり新地出來たり」「洒井修理太夫殿屋敷」は判らぬが、「三つ股」でOK! 私が先月、ものした『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その4)』切絵図を見られたい。そこの隅田川の「田安殿」の東北直近の川に「三ツマタ」とあるのがそれであり、右端にある「新大橋」が、この「大はし」のことである。そうしてその川上直近に、忽然と、隅田川の中に葦原らしき記載が見えるであろう。実は、こここそが、ここで言っている埋立地「中州」(現在、再度、埋立られて中央区日本橋中州となっている。先の「古地図 with MapFan」を汐留橋まで戻って、東北に移動させると、隅田川に合流する。そこに「田安殿下屋敷」というのがあるのが、同じ「三つ股」なのであるの痕跡なのである。ここに江戸時代、実は、一時期、埋め立てられて、繁華な町が存在したのである。ウィキの「日本橋中洲」によれば、明和八年六月十六日(一七七一年七月二十七日)六代目馬込勘解由に『より浜町と地続きになるように埋め立てが行われ』、安永元年十二月十八日(一七七三年一月十日)に「中洲新地」として『竣工した』。安永四(一七七五)年には『町屋が整い、富永町と号した。間もなく飲食店が立ち並ぶ一大歓楽街となり、両国の客を奪うほどの賑わいを見せた。しかしながら、隅田川の流路を狭め』てしまったことから、『上流で洪水が頻発し、また』、『奢侈を戒める寛政の改革の影響もあって』、寛政元(一七八九)年に『取り壊され、芦の茂る浅瀬へと戻った』。なお、『この時の土砂は隅田土手の構築に利用された』とある。はいはい! またまた、まだ、その画面をそのままに! 次の注で、また、さらに使いますよ!

『天明四年』(一七八四年)『本所川通り「さらへ」ありし土にて、一つめの川の出先兩國橋のもとへも新地出來たり』先の「古地図 with MapFan」で隅田川を遡ると、間もなく、東(左岸)に「竪川」(たてかわ)が見えてくる。これが「本所」の「川通り」である。そうして、分岐したその最初の橋が下方では「一ツ目橋」であることが判る。確定は出来ないが、岸のでっぱりからは、両国橋東詰の尾上町・元町という辺りが、新地であったか。さてもさても! 次も! また、使う!!!

「同五年夏淺草見附川北側、洒井家の屋敷の脇より新柳橋のきはまで、新地八千兩に川岸通り御定(おさだめ)あり、家作出來たり」「古地図 with MapFan」で両国橋上流直近の西の分岐を見よ。そこにある「柳橋」が「新柳橋」で、その西の流れを切絵図の方で遡って行くと、「浅草橋」がある。この北詰に江戸城の「淺草見附」はあった(グーグル・マップ・データ)。「古地図 with MapFan」に戻って、そこから少し西に行ったところに、「酒井左衛門尉庄内藩下屋敷」が見えてくる。

「藏前新地」「古地図 with MapFan」で、さらに隅田川を遡ると、西岸(右岸)に蔵前地区が現われる。但し、ここで言っている新地がどこであるかは、ちょっと分からない。ここは江戸の早い時期に「浅草御蔵」が敷設されており、川幅が少し狭くなっている。この西岸のどこかではあろう。対岸は「御竹蔵」で蔵前ではなく両国であり、川沿いには大名屋敷が並んでいるから、こちら側ではあり得ない。]

譚海 卷之四 同江戶風俗の事

 

[やぶちゃん注:「同」は四つ前の「天明三年奥州飢饉、南部餓死物語の事」に始まる「同年信州淺間山火出て燒る事」「同時中山道安中驛領主再興の事」「同年信州上田領一揆の事」と続いた天明三(一七八三)年に発生した出来事の連投記事の掉尾。但し、当年の江戸風俗の紹介であって、この前までの飢饉・天災・騒擾等といった強い連関性は全く認めらず、話がかなり深刻なリアリズムに偏重したと津村が思って、とってつけたような感じで、しかも先に並べた飢饉・天災を、「どこ吹く風」とするような違和感が何となくある、私には厭な一篇である。]

 

○此比、江戶の風俗、女子は「髮(かん)ざし」と云(いふ)、鯨の骨にて作りたる細きものを「びん」に入(いれ)さす。鬢(びん)ひしやげる事なくて、伽羅(きやら)の油少々付るによろしとぞ。小袖或は袷などの裏は、大形(おほかた)紫の絹をつける也。齒のなき下駄(げた)黑塗にして「日和下駄」と號し、白日(はくじつ)に曳(ひき)ならし往來す。赤き絹の切(きれ)淺黃(あさぎ)紫(むらさき)などにて髮をつがね、元ゆひはあまり用ひず。甚敷(はなはだしき)は「かづら」にて鬢をこしらへ置(おき)て、髮を結(ゆは)ずに「つくりびん」をさしこみて、ゆひだての髮の如くして居る也。又京都より「女の髮ゆひ」とて婆々・老女など來り、これに婦人髪をゆふてもらふ。寢て居て「たばこ」吸ながら、髮を梳(すいて)もらふ。男子は身の細き脇指・赤き帶、羽織は殊に長く紐二すぢづつをあはせ、四筋にて隨分長き紐を喜び、それを紐のさきにてむすぶゆゑ、むすびめはへそのあたりにさがりてある也。衣裳の小紋は「うつあられ」とて、「けんぼう染(ぞめ)」はやる、「雨さげ」といふもの、「あせ手ぬぐひ」と「たばこ入」とをふたつの袋に入(いれ)て、左右のたもとに置、その袋へ紐を付てむねへとほし、左右にて袋をさげもつなり。髮は「本多風(ほんだふう)」とてゆひふしの腰高し。「紙入」を「どんぶり」と號し、絹にて袋にこしらへ、其中へ用のものをみだりに押こみて懷中せり。南鐐貳朱銀壹枚、錢八百文の兩がへ程なり、飯米は七斗・八斗に至る。

[やぶちゃん注:読点位置が悪く、かなり読み難いので、特異的に鍵括弧と「・」を使用した。

「白日」青天の昼間。

「けんぼう染」「憲法染」。歴史的仮名遣は「けんばふぞめ」が正しい。染模様の名。灰墨などを用いて、黒茶色に小紋を染めたもの。慶長(一五九六年~一六一五年)の頃、京都西洞院四条の剣術家吉岡憲法(憲房・兼房・建法とも)が初めて染めし出したという。「憲法小紋」「憲法(けんぼ)黒茶」「吉岡染」「けんぼ」「けんぼう」などとも呼称した。

「本多風」名は本多忠勝の家中の者の髪型から広まったとされることによる。江戸中期以降に流行した男子の髪型で、「中剃り」を大きくし、髷(まげ)は高く結んで、鬢には油をつけずに、櫛の目を通し、後の方に油を附けたもの。通人・遊び人が好んだ。「ほんだ」「ほんだわげ」。則ち、一般に知られる「丁髷」(ちょんまげ)のことである。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 夢中に劔を得るの物語 輪池

 

    ○夢中に劔を得るの物語

     後藤與次右衞門組

       西丸御切手同心

    小石川諏訪町

    そ ば 切 橫 町 折原岩之助

維時[やぶちゃん注:「これ とき」。]、文政九丙戌年[やぶちゃん注:一八二六年。]三月十六日の夜の夢に、江戶神田小柳町[やぶちゃん注:現在の千代田区神田須田町一丁目及び二丁目の一部(グーグル・マップ・データ)。以下同じ。]邊の道具屋某の店に、希代の靈劍あるよしを、凡、五度ほど、同じ夢を續けて見侍り。餘りの不思議さに、翌廿一日、彼處へ尋行しに、夢中、幻のごとく見し、道具やの顏に、正しく似たるゆゑ、立寄尋ければ、「その品、有。」よし申に付、「求度[やぶちゃん注:「もとめたく」。]、價は何程に候哉。」と申ければ、「金百疋にて有レ之。」と申。最、至極、古びれたる品に候まゝ、「少々、まけ吳候。」樣申けれ共、「中々に引不ㇾ申。」と申候間、其まゝに打捨歸り候處、又々、二晚程、同じ夢を見し儘、去にても、餘りの不思議なる事故、廿四日に、金子、持參いたし、彌[やぶちゃん注:「いよいよ」。]、「先の品、買請度。」よし申聞候處、亭主の申候には、「扨々、格別の御懇望に付、一朱に御まけ可申上。」と申候に付、一朱、遣し、此方へ請取申候て、歸宅し、大切に祕置[やぶちゃん注:「ひしおき」。]候處、又、其晚の夢に、甲冑の上え、白き裝束いたし、右の手に劔をもちし人、出現し、夢中に告て曰、「善哉々々、汝、劔を得たり。抑、此劍は靈驗なる事を委敷[やぶちゃん注:「くはしく」。]しらすべし。謹で、聽聞せよ。」と、高らかに示現に曰、

「寶劔の威德は、

一、劔難を除き、

一、運を開き、

一、毒氣・毒血、拂除き、

一、出世をいたさせ、

一、我、數度、戰場に赴く每に、我、光を以、悉くに、强敵を追拂返し候。其後埋り居、凡、今年迄、二百二十六年に成。」[やぶちゃん注:最後の条は底本では二行目以降が一字下げ。「二百二十六年」文政九年から遡ると、慶長四(一五九九)年で、前年に豊臣秀吉が死去しており、この年の九月二十八日に、徳川家康が大坂城西の丸に入っている。江戸幕府開府の四年前である。]

との告也。其上、「又、我姿を寫し、世上の人々に施候へば、大成・隱德に成べし。」と告ると思へば、忽、夜の明方になり、鳥と共に、夢は覺にけり。餘り不思議の事故、「子孫の後榮にも可相成。」と、於ㇾ是、書記する者也。

 文政九丙戌年三月     折原岩之助

                 終善判

      覺

一、劔一腰

 但、かわ[やぶちゃん注:ママ。]鞘入。

 銘「小倉五郞源宗廣」と有ㇾ之。

 代、一朱。

右之通、慥に請取申候、以上。

 戌三月廿四日 神田小柳町三丁日 龜屋忠兵衞

    折原岩之助樣

長短・寸法、すべて、圖の如し。

 

Muken1

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

頭、鐵。

  柄、鮫無ㇾ之、黑。緣、鐵。鐵鍔。此處、

  塗、黑革卷。    金箔筋、有ㇾ之。

である。判り難いが、鍔下の鍔から五分の一附近に、キャプションへの指示線が左に僅かに出ている。

 以下、底本では下方にある。]

 文政九年丙午三月廿四日神田小柳町

        龜屋忠兵衞方より買受。

 

Muken2

 

[やぶちゃん注:キャプションは、鍔の右下・上に、

       鞘、黑革。

とある。以下、吉川弘文館随筆大成版では『〔割注〕』とする。底本では、初行が五字下げであるが、引き上げた。]

 

小倉五郞宗廣、越前國住人、貞治比、當時迄、四百七十四年[やぶちゃん注:文政九年から遡ると、南北朝時代の正平八/文和二(一三五三)年。]、鞘、革鞘。一尺二寸二分、蛇之目紋付。柄、四寸一分、ふち・かしら共、柄、糸革、三分。鍔・鎺[やぶちゃん注:「はばき」。ここ(「ウィクショナリー」の画像)。]、はなれず、イ[やぶちゃん注:意味不明・]に一尺八寸五分、換長[やぶちゃん注:意味不明。]一尺六寸、一書に『一尺八分五厘』とあり、非なるべし。

 

Muken3

 

[やぶちゃん注:刀身自体を示したもの。キャプションは、鎺ぶ指示線をして、右に、

      鎺、黑革。

鍔を単体で示したその上方に、

鐵。黑

塗。

とあって、左手の茎(なかご)に指示線を施して、

○小倉五郞源宗廣

とある。以下は実は「○小倉五郞源宗廣」の下方にあるが、改行した。]

   江戶小石川住  折原岩之助 條善判

[やぶちゃん注:「西丸御切手同心」(にしのまるおきつてどうしん)は江戸城西ノ丸の切手門に切手番頭が勤務するが、その配下の者(番頭には二十人が付属)。同門の警備と出入りの監督が番頭の勤め。「切手」とは大奥関係者の通行証を指す。女中たちの出入りや、荷物の出入りを監視し、長物・葛籠などで十貫目以上のものは蓋を開けて中身を検査した。

「小石川諏訪町」文京区後楽二丁目

「小倉五郞宗廣」不詳。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 情慾 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「磨かれたる金屬の手」の別稿

 

  磨かれたる金屬の手

 

手はえれき

手はぷらちな

手はらうまちずむのいたみ

手は樹心に光り

魚に光り

墓石に光り

手はあきらかに光る

ゆくところ

すでに肢體をはなれ

炎に灼熱し狂氣し

指ひらき啓示さるるところの

手は宇宙にありて光る

光る金屬の我れの手くび

するどく磨かれ

われの瞳めしひ

われの肉をやぶり

われの骨をきづくにより

恐るべし恐るべし

手は白き疾患のらぢうむ

ゆびいたみ烈しくなり

われひそかに針をのむ。

 

[やぶちゃん注:太字箇所は底本では傍点「ヽ」。底本の「詩作品發表年譜」によれば、初出誌を大正三年十一月発行の『詩歌』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年十一月号とする。但し、その初出とは微妙に異なる箇所がある。以下に示す。太字は同前。「きづゝくにより」はママ。「傷つくにより」であるから、「きずつくにより」が正しい。

   *

 

 磨かれたる金屬の手

 

手はえれき

手はぷらちな

手はらうまちずむのいたみ、

手は樹心に光り、

魚に光り、

墓石に光り、

手はあきらかに光る、

ゆくところ、

すでに肢體をはなれ、

炎々灼熱し狂氣し、

指ひらき啓示さるゝところの、

手は宙宇にありて光る、

光る金屬の我れの手くび、

するどく磨かれ、

われの瞳(め)をめしひ、

われの肉をやぶり、

われの骨をきづゝくにより、

恐るべし恐るべし、

手は白き疾患のらぢうむ

ゆびいたみ烈しくなり、

われひそかに針をのむ、

 

   *

私は本篇は敢然として筑摩版の初出決定稿の草稿と断ずる。何故なら、「われの骨をきづくにより」という誤記・誤表記は萩原朔太郎によく見られる原稿の誤りと極めて親和性が強いからである。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 情慾 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「情慾」の別稿

 

  情  慾

 

手に釘うて

足に釘うて

十字にはりつけ

齒がみをなして我こたふ。

空もいんいん

地もいんいん

肢體に靑き血ながれ

するどくしたたり

電光したたり

身肉ちぎれやぶれんとす

いま裸形を恥ぢよ

十字架のうへ

齒がみをなして われいのる

 

[やぶちゃん注:底本の「詩作品發表年譜」によれば、初出誌を大正三年十一月発行の『詩歌』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年十一月号とする。但し、その初出とは明らかに異なる箇所がある。以下に示す。

   *

 

 情慾

 

手に釘うて、

足に釘うて、

十字にはりつけ、

邪淫のいましめ、

齒がみをなして我こたふ。

空もいんいん、

地もいんいん、

肢體に靑き血ながれ、

するどくしたゝり、

電光したゝり、

身肉ちぎれやぶれむとす、

いま裸形を恥ぢず、

十字架のうへ、

齒がみをなしてわれいのる。

 

   *

読点や表記は別としても、「邪淫のいましめ、」がない以上、これは別稿である。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 月蝕皆既 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「月蝕皆既」の別稿

 

  月 蝕 皆 既

 

みなそこに魚の哀傷

われに淚のいちじるく

きみはきみとて

ましろき乳房をぬらさんとする

このひごろつかふことなく

ひさしくわれら靈智にひたる

すでに長き祈禱ををへ

いまみれば月も皆既なり

魚の性はせんちめんたる

みよ、うみはみどりをたたへ

肉靑らみ

いんいんとして二人あひ抱く

齒と齒と合し

手は手をつがひ

魚の浪におよぎて

よるの海に靑き死の光れるを見る。

 

[やぶちゃん注:底本の「詩作品發表年譜」によれば、初出誌を大正三年十一月発行の『詩歌』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年十一月号とする。但し、その初出とは明らかに異なる箇所がある。以下に示す。「いちゞるく」「たゝえ」はママ。

   *

 

 月蝕皆既

 

みなそこに魚の哀傷、

われに淚のいちゞるく、

きみはきみとて、

ましろき乳房をぬらさむとする。

この日ごろつかふことなく、

ひさしくわれら靈智にひたる、

すでに長き祈禱ををへ、

いまみれば月も皆既なり、

魚の性はせんちめんたる、

みよ、うみはみどりをたゝえ、

肉靑らみ、

いんいんとして二人あひ抱く、

齒と齒と合し、

手は手をつがひ、

もつれつゝからまりにつゝ、

いんよくきはまり、

魚の浪におよぎて、

よるの海に靑き死の光れるをみる。

 

   *

句読点の有無は無視しても、コーダの高まりを演出する「もつれつゝからまりにつゝ、」「いんよくきはまり、」が本篇にないのは、明確に別稿であることを意味する。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 狗の物語くさぐさ 琴嶺舎

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。]

 

   ○狗の物語くさぐさ【念佛狗・精進狗・狗を啖ふ非人・いづみの里の小狗。】

 文化十二、三年のころ、大江戶の本町河岸に、おかしき牝狗ありけり。

[やぶちゃん注:「文化十二、三年のころ」一八一五年~一八一七年。

「本町河岸」東京都中央区日本橋本町の日本橋川沿いの、この附近か(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 此いぬ、常に囉齋・弱(よろ)法師などの、或は、木魚をうち鳴らして、讀經念佛しつゝ、人の門に立ことあれば、必、そのあとべに踉て、共に念佛を唱る如く、

「ワアワア」

と吠ながら、送りゆくこと、數町に及べり。この故に、ともすれば、他町の牝いぬに、噬伏られて[やぶちゃん注:「かみふせられて」。]、やうやく逃て歸る日も、多かり。

[やぶちゃん注:「囉齋」「ろさい」。本来は、僧が四方を巡って托鉢して歩きつつ、供養を請うことであるが、ここは転じて、僧形の乞食坊主の意であろう。「羅斎」「邏斎」とも書く。

「弱(よろ)法師」同前。よろした法師で、乞食坊主。]

 はじめの程は、あたりの人も、

「奇。」

として、駭嘆せざるものなく、憐むものもありしかど、遂に、目に馴れ、耳に熟して、

「念佛いぬ。」

と呼びなすのみ。怪しむことも、なくなりぬ。

 このごろ、予、件のよしを老侯に話し申せしに、さるすぢ、おはするさがなれば、いたく嘆賞し給ひて、

「われ、そのいぬを得まくほりす。ぬしあらば、とにも、かくにも、はからひてよ。」

と仰らる。

[やぶちゃん注:「老侯」正編でもしばしば登場した先代の第八代松前藩藩主松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)。彼は文化四(一八〇七)年五十四の時、藩主在任中の海防への取り組みの不全や、吉原の遊女を妾にするなどの素行の悪さ(遊興費が嵩み、商人からの借金が嵩み、藩の財政も窮乏していた)を咎められ、幕府から謹慎(永蟄居)を命ぜられていた(後の文政五(一八二一)年には謹慎は解かれた)。発表者である馬琴の長男琴嶺舎滝沢興継は松前藩の医員であった。]

 はじめ、件の趣を、かの町の藥店なる長崎屋平左衞門といふものに、まさしく聞たることなれば、彼長平に、よしを告て、

「しかじか。」

と、かたらふに、

「件のいぬには、ぬしも、なし。かれが小狗なりしころより、奴婢どもの、あはれみて、物くはせなど、せしかば、近隣にては、『長崎屋の狗なり』といふめれど、まことは、さに候はず。さるを、思ひがけもなく、あて人の求め給ふは、こよなき、いぬの幸ひなれ。かさねて、おん使を給はする迄もなく、みたちへ率して、まゐらせてん。あな、かたじけなき事にこそ。」

と、ほゝゑみながら、うけ引けり。

 かくて次の日、長平は、件のいぬを小ものに率して、みづから宰領して、まゐりにければ、老侯、歡び、大かたならず、長平には、かづけ物を給はりつ。

 狗は、やがて、南の、とのゝ庭に繫し給ひけり。

 是より後、件の狗は、武家の後園にかはれつゝ、只、粱[やぶちゃん注:「おほあは」。]・肉に飽るのみ。鉦鼓・讀經の聲を得聞かず、法師のしりに、つくよし、なければ、「あだしいぬ」に異ならで、亦、しいだしたることもなく、をること、既に四、五年にして、一日、病て斃れけり。

 按ずるに、むかしも、この狗に似たる、あり。

 「幸庵對話記」に云、『何頃の事か、城州鞍馬毘沙門天、百日の開帳あり。然るに、嵯峨より、鞍馬迄、行程三里の所、百日の「中日參」の犬、有、一日も怠ること、なし。參詣の人も是を見しりてあはれみ、途中にて辨當の飯・肴等を喰せけるに、少しも腥き香あれば、くらはず。「扨は。精進するか。」とて、ためし見るに、察しの如く也。よりて、精進物を與れば、尾をふりて、啖ひけり。是、嵯峨の在所の犬なり。數日の事故、普く人の見知れる也。』と、いヘり。

[やぶちゃん注:「幸庵對話記」安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将渡辺幸庵(天正一〇(一五八二)年~宝永八(一七一一)年)の語ったものを加賀藩士が記したとされるもの(後述)。ウィキの「渡辺幸庵」によれば、『諱は茂、通称は久三郎、号は幸庵。柳生新陰流を修めた剣客ともいわれる。ただし、これらは事実と異なる可能性がある(後述)』。摂津国生まれで、当初は『徳川氏に仕えて駿河国に入り』、『出仕』し、「関ヶ原の戦い」の『際は徳川秀忠の下で大番頭を務め、以後』、慶長一八(一六一三)年に『伏見城番』、元和五(一六一八)年に『駿府城番』、寛永二(一六二五)年に『二条城番に当った。江戸幕府』第二『代将軍』『徳川秀忠の代になり、その子』『徳川忠長の傅役に選ばれるも』、寛永一〇(一六三三)年に『忠長が領地没収の上、切腹させられた後は浪人となった』。『以後は幸庵と名乗り、諸国巡礼の旅に出て、中国・天竺・ベトナム・タイを』四十『年ほど』、『放浪』し、『帰国して』、さらに三十年後の宝永六(一七〇九)年には『加賀藩主』『前田綱紀の元へ身を寄せ、旅の経験を加賀藩士』『杉木義隣に』「渡辺幸庵対話」という『本にまとめさせ』たという。『その中で「島原の乱の』折りは、『板倉重昌が討たれた現場にいて』、『その遺骸を担いで逃げた」「ベトナムとタイの間には砂漠があり、風の力で進む舟で移動する」「ミイラ採りと出会った」などの証言を残している。また、本の中で上泉信綱と同世代で細川忠興の客人である竹村武蔵という剣客にふれる記述』『があり、柳生宗矩との比較として、「但馬(宗矩)にくらぶれば、碁にていえば井目(せいもく)も武蔵強し」と竹村武蔵の方が実力は上と評している』。宝永八年に百三十歳で死去したとする。しかし、この『高齢は考え難く、話の内容に荒唐無稽なものや』、『当時の世相に反したものも多く、以下に述べる』「寛政重修諸家譜」内の『「渡邊茂」の記述と矛盾する点が多々あるため、架空の人物、または渡邊茂を偽称した別人ではないかとする説もある』。「寛政重修諸家譜』に『おける「渡邊茂」の記述は』「渡辺幸庵対話」に『おける幸庵の申告と以下の点で大きく異なる』とあるが、以下はリンク先を読まれたい。詐術師或いはパラノイアの一種であろう。]

 この條りの歲月を定かに示さざりけるは、黃耈の人の遺忘なるべし。

[やぶちゃん注:「黃耈」「こうこう」で、皮膚が黄ばみ、老斑ができた老人の意。]

 さりけれども、かの翁の、親しく見もし、聞もしつることの如く聞ゆれば、もし、是、寬永前後の事歟、さらずば、延寶以來なるべし。いかにとなれば、件の渡邊幸庵翁は、寬永中、駿河亞相家御減亡の後、浮浪人となりて、海外を遍歷すること、四十二年と言、かくて歸朝して京郡にをり、最後に江戶の大塚に閉居して、寶永八年某の月日、一百三十歲にて身まかれり。此年紀を推すときは、寬永前後の事にやあらん。しれる人にたづぬべし。

 そもそも、此ふたつのいぬは、その時を、おなじうせず、その趣の異なれども、畜生にして、おのづから佛性あるものに似たり。

 これらは「榮花物語」に藏せられたる、牛佛のたぐひとは、いはまし。

[やぶちゃん注:「榮花物語」古くは「栄華物語」ではなく、かく表記した。言わずもがなの歴史物語で全四十巻(正編三十巻・続編十巻)。作者については正編が赤染衛門で、続編は出羽弁とする説が流布しているが、書誌上では作者は未詳である。正編三十巻は万寿五(一〇二八)年から長元七(一〇三四)の間の、続編十巻は寛治六(一〇九二)年から嘉承二(一一〇七)年の間の成立とされる。「牛佛」(うしぼとけ)の話は正編後半の巻第二十五に出る。一般に「関寺(せきでら)の牛仏」(関寺は近江国逢坂関の東にあったとされる寺であるが、現存せず、位置も定かでない)として知られる話である。所持する昭和四〇(一九六五)年岩波書店刊の「日本古典文學大系」第七十六巻「榮花物語下」から引く。底本はベタであるが、読み易さを狙って段落を成形し、読点や記号も私的に追加した。読みは一部に留めつつ、オリジナルの添えた箇所もある。校訂記号は略した。踊り字「〱」は正字化或いは「々」とした。

   *

 この頃、聞けば、逢坂のあなたに、關寺といふ所に、牛佛、現(あらは)れ給て、よろづの人參り見奉る。年頃この寺に、大きなる御堂建てゝ、彌勒を造り据ゑ奉りける。

 榑(くれ)[やぶちゃん注:丸太(の)。]、えもいはぬ大木どもを、たゞこの牛一つして、運びあぐる事を、しけり。

『あはれなる牛。』

とのみ、御寺の聖(ひじり)、思(おもひ)わたりける程に[やぶちゃん注:思案を巡らしていたところに。]、寺のあたりに住む人、借りて、

「明日(あす)、使はん。」

とて、置きたりける夜の夢に、

「我は迦葉(かせう)佛也。『この寺の佛を造り、堂を建てさせん。』とて、年頃するに、こそあれ、たゞ人は、いかでか、使ふべき。」

と見たりければ、起きて、

「かうかう、夢を見つる。」

と、いひて、拜み騷(さは)ぐなりけり。

 牛も、さやにて[やぶちゃん注:さっぱりとした印象で。]黑くて、さゝやかに、おかしげにぞありける。

 繫がねど、行き去る事もなく、例(れい)の牛の心ざまにも似ざりけり。

 入道殿[やぶちゃん注:道長。]をはじめ奉りて、世中におはしける人、參らぬなく、まいりこみ、よろづの物をぞ奉りける。たゞ、帝(みかど)・東宮・宮々ぞ、えおはしまさゞりける。

 この牛佛、何となく、心地、惱しげにおはしければ、

「疾(と)く、うせ給べき。」

とて、かく、人參りこみて、この聖[やぶちゃん注:この関寺の僧。]は、

「御影像(みえいざう)を書ゝむ。」

とて、急ぎけり。

 かゝる程に、西の京に、いと尊(たうと)く行ふ聖の夢に見えけり。

「迦葉佛、當入涅槃(たうにうねはん)のだむ[やぶちゃん注:「段」。丁度、その時。]なり。智者(ちさ)、當得結緣(たうとくけちゑん)せよ。」

とぞ見えたりければ、いとゞ人々、參りこむ程に、哥よむ人も、あり。和泉[やぶちゃん注:和泉式部。]、

  きゝしより牛に心をかけながらまだこそ越えね逢坂の關

 人、あまた、聞ゆれど、同じ事なれば、書ゝず。

 日頃、この御(おほん)かた、書ゝせて、六月二日ぞ、

「御眼(おほんまなこ)入れん。」

としける程に、その日になりて、この御堂を、この牛、見巡りありきて、もとの所に歸り來て、やがて、死にけり。

 これ、あはれにめでたき事也かし。

 御かたに、眼(まなこ)、入れける折ぞ、果て給にける。

 聖、いみじく泣きて、やがて、そこに埋(うづ)みて、念佛して、七日(なぬか)、七日に、經・佛供養じけり。

 後に、この書きし御かたを、内にも、宮にも、拜ませ給ける。

 かゝる事こそ、ありけれ。

 まことの迦葉佛、この同じ日ぞ、かくれ給ける。

 今は、この寺の彌勒供養ぜられ給、この聖も、いそぎけり[やぶちゃん注:その支度を早くにした。]。

 草を、誰(たれ)も誰も、とりて參りける中(なか)に、參らぬ人などぞ、ありければ、それは

「罪深きにや。」

などぞ、定めける。

   *]

 さるを又、人形[やぶちゃん注:「ひとがた」。人間のなり。]にして獸腹[やぶちゃん注:「ひとがた」に対して「けものばら」と訓じておく。]のものも、ありけり。

 文政六年の冬のころ[やぶちゃん注:一八二三年。但し、以下に出る十二月一日は既に一八二四年一月一日である。]、好みて狗を啖ふ[やぶちゃん注:「くらふ」。]非人あり【俗に「菰かぶり」といふものなり。】。

 このとしの十二月、昌平橋の外のかた[やぶちゃん注:ここの北側。]にて、ある人の見たりしは、

「小狗を、生ながら、食ひ盡せし。」

といふ。又、元飯田町の中坂[やぶちゃん注:この中央辺りか。]なる萬屋が店のほとりにても、食へり。この時は、死したる小狗一隻(ひとつ)と、猫一隻と、繩をつけて、率もて來つゝ、その小狗の毛を、ふき、皮を剥て、大腸・小腸をつかみ出し、啖ふ有さま、いふべうもあらず、これを見るもの、堵の如く、しばらくみちを去りあへざりしを見きとて、人の家嚴[やぶちゃん注:琴嶺舎興継はこれで「ちち」(=馬琴)と読ませることが殆んど。]に告げり。

 この非人の體たらく、蓬頭・裸體に、菰を着て、陽物をあらはし、婦女子を見れば、必、追ひけり。年の齡は四十前後なるべきか。その齒のしろきこと、水晶の如し。こは、每に[やぶちゃん注:「つねに」と訓じておく。]獸肉を生にて食ふ故なるべし。

 其年も、くれゆく程に、多く筋違御門[やぶちゃん注:「しづかひごもん」は「古地図 with MapFan」で秋葉原駅を中央右に示せば、下方中央に現われる。その北詰の川沿いが、広い巷路となっている。]外なる廣巷路にをり。

「ある日、『狗を捕ん』として、誤て、その膝を噬傷られ[やぶちゃん注:「かみやぶられ」と訓じておく。]しより、走ること、はじめのごとくならず。」

など、いふものありしが、こののちは、いかになりけん、次の年に至りては、絕て、噂も、聞ざりき。

 或はいふ、

「件の非人は、よしある家の二男なりしに、慢心によりて、狂亂せしもの也。後には所親に棄られて、終に無宿になりし。」[やぶちゃん注:「所親」は「しよしん」。「親しい間柄の人」の意もあるが、ここは加えて「遠い血縁関係の親戚」(さえからも)の意でとる。なお、幕府の正式な処罰としての「非人落とし」があるが、ここは狂乱したものの、処罰されるような刑事事件は起こさず、親類縁者から縁を切られ、無宿流浪人となり、そのまま被差別民であった非人の仲間となったという経緯であろう。]

といへり。

 しかれども、其體たらく、よしあるものゝ落魄したる狂人とは、見えざりき。前の說はそら言なるべし。

 これらは、近き事にして、もろ人、なべて、知ることながら、筆のついでにしるすのみ。

 是より先、文政二年の秋のころ、出羽の久保田に程ちかき、「いづみ」といふ處なる人のかひける狗、生れて半歲ばかりなるが、よく、あるじのいふことを聞とりて、その使るゝこと[やぶちゃん注:読み不明。「ゝ」は衍字で「つかへること」と読みたくなる。]、大かたは、六、七歲の小兒の如し。譬ヘば、その狗にむかひて、

「何をもて來よ。」

といふに、ほとりには、なきものなりとも、たづねもとめて、銜み來つ[やぶちゃん注:「はみきつ」。]。又、

「何がしを呼べ。」

といへば、やがて、その人のもすそを銜み、引もて來るに、來らざれば、絕て、はなさず。

 これらの所作事、每に、奇ならずといふことなければ、をちこち、人の傳へ聞えて、

「見ん。」

とて、日每に群集せしかば、あるじは、

「狗を、ぬすまれんか。」

とて、人には、みせずなりしとぞ。

 この一條は、久保田藩なる茂木巽【名は知利、號、蕉窓。】と、いひし人、當時、家嚴に消息して、「云々」と告來したれば、予も、この事を、はやく聞にき。茂木は、おとゝし、古人になりぬ。件の狗、成長したりや否を、しるよし、なけれども、猶、年たけて、その智、進まば、陸機が黃耳に劣らざるべし。

[やぶちゃん注:「陸機が黃耳」「公益財団法人 日本習字教育財団 観峰館」の公式サイト内の「黄耳寄書図」(清末民初の画家沈心海の幅画像有り。拡大画像は横向きなのでデスクトップに保存して回転させる必要がある)に、『西晋の時代、陸機』(二六一年~三〇三年)『という文学者で政治家がいました。彼は黄耳』(こうじ)『という名の犬を飼っており、とても可愛がっていました。陸機が都に仮住まいをするようになってから、しばらく故郷の家から便りが途絶えていました。あるとき』、『陸機は笑いながら』、『黄耳に「我が家から全然手紙が来ないんだ。お前に手紙をことづけたら、返事を持って帰って来てくれるかい?」と語りかけました。すると』、『犬は尻尾を振って吠えたので、陸機は手紙をしたため竹の筒の中に入れ、それを犬の首に掛けてやりました。犬は道を探すと』、『南へと走って行き、ちゃんと家にたどり着き、返事をもらって帰って来きました。その後、家との手紙のやり取りは』、『ずっと黄耳がつとめました。「黄耳寄書」は、一種の忠犬話であるとともに』「家からの手紙を届けること」『という意味でもあります』とある。]

 物の氣質の禀たること、情狀、異同ありといへども、狗にして人に等しく、人にして狗にだも及ばざるもの、かくの如し。いと怪むべきことならずや。

 この他、家嚴の「放言」中に、「人狗」・「妖狗」・「古犬の名」・「犬神」等の考ありて、その題目を出されたれども、稿本、いまだ全からねば、窺ひ見ることを得ざる也。さてもこの春の發會には、『何をがな』と思ふのみにて、出處、まさしき異聞も、あらず、支干[やぶちゃん注:底本では『支平』であるが、吉川弘文館随筆大成版で訂した。]たまたま、「丙戌」[やぶちゃん注:「ひのえいぬ」。]なる。「狗」にちなみし「ゑせ物語」は、世にいふ「門の瘦いぬ」にこそ。

 文政九年二月もちの日    琴嶺しるす

[やぶちゃん注:『家嚴の「放言」』曲亭馬琴(滝沢瑣吉(さきち)名義)の考証随筆「玄同放言(げんどうはうげん)」。息子の琴嶺と、彼の友人であった渡辺崋山画。一集は文政元年(一八一八)、二集は三年(一八二〇)刊。主として天地・人物・動植物に関し、博引傍証して著者の主張を述べたもの。「玄同」は「無差別」の意。吉川弘文館随筆大成版で所持し、目次に「卷五 動物部」の「第六十」「狗【狗妖並人狗附】」とあるものの、実は本書は「卷三」までで以下は遂に未刊であった。もともと書こうとしたが、書かれなかったと考えるべきか。或いは草稿は散逸したか。]

Memorandum 母

 

 母はALSで二〇一九年三月十九日早朝に、たつた獨りで江ノ島の見える病院で亡くなつた。

 私ははつきりと言明する。

 私の母を――直接にも間接にも――惱ませ、苦しめた人間を――私は――决して――許さない。

 そこには他人は勿論、肉親や親族さへも含まれてゐなかったことはない。

 それは――確かに未來永劫――「あなた」であり、「私」でさへあるのである…………

 

2021/11/23

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 受難日 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「受難日」の草稿

 

  受 難 日

 

受難の日はいたる

主は遠き水上(みなかみ)にありて

氷のうへよりあまた光る十字すべらせ

女はみな街路に裸形となり

その素肌は黃金の林立する柱と化せり

見よやわが十指は凝結し

背にくりいむは瀧とながるるごとし。

しきりに掌(て)をもつて金屬の女を硏ぎ

胴體をもつてちひさなる十字を追へば

樹木はいつせいに𢌞轉し

都會は左にはげしく傾倒す。

ああ十字疾行する街路のうへ

そのするどさに日輪もさけびくるめき

群集を越へて落しきたるを感じ

いのり齒をくひしめ

受難の日のくれがた

われつひに蛇のごとくなりて絕息す。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。「越へて」はママ。底本の「詩作品發表年譜」によれば、初出誌を大正三年七月発行の『創作』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年七月号とする。但し、その初出とは微妙に異なる箇所がある。以下に示す。太字は同前。「研」「ちいさなる」はママ。

   *

 

 受難日

 

受難の日はいたる

主は遠き水上(みなかみ)にありて

氷のうへよりあまた光る十字すべらせ

女はみな街路に裸形となり

その素肌は黃金の林立する柱と化せり。

見よやわが十指は晶結し

背にくりいむは瀧とながるゝごとし

しきりに掌(て)をもつて金屬の女を研ぎ

胴體をもつてちいさなる十字を追へば

樹木はいつさいに𢌞轉し

都は左にはげしく傾倒す。

あゝ十字疾行する街路のうへ

そのするどさに日輪もさけびくるめき

群集を越へて落(おと)しきたるを感じ

いのり齒をくひしめ

受難の日のひくれがた

われつひに蛇のごとくなりて絕息す。

 

   *

「晶結」「いつさいに」「都」「ひくれがた」は誤判読のしようがないもので、決定稿の前の草稿である可能性が高い。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 初夏の祈禱 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「初夏の祈禱」の別稿

 

  初 夏 の 祈 禱

 

主よ、

聖なる神よ。

 

われはつちを掘り

つちをもりて

日毎におん身の家畜を建設す

いま初夏きたり

主のみ足は金屬のごとく

薰風のいただきにありて輝やき

われの家畜は新綠の蔭に眠りて

ふしぎなる白日の夢を畫けり

ああしばし

ねがはくはこの湖しろきほとりに

わがにくしんをしてみだらなる遊戲をなさしめよ。

 

いま初夏きたる

野に山に

榮光榮光

榮光の主とその下僕(しもべ)にあれ。

あめん。

 

[やぶちゃん注:底本末の「詩作品發表年譜」 によれば、制作年月日を大正三(一九一四)年五月八日とし、初出誌を大正三年六月発行の『詩歌』とする。筑摩書房版全集でも「拾遺詩篇」に載り、同雑誌の同年六月号とする。但し、その初出とは微妙に異なる箇所がある。以下に示す。「堀」「戯」はママ。

   *

 

 初夏の祈禱

 

主よ、

いんよくの聖なる神よ。

 

われはつちを堀り、

つちをもりて、

日每におんみの家畜を建設す、

いま初夏きたり、

主のみ足は金屬のごとく、

薰風のいたゞきにありて輝やき、

われの家畜は新綠の蔭に眠りて、

ふしぎなる白日の夢を畫けり、

ああしばし、

ねがはくはこの湖しろきほとりに、

わがにくしんをしてみだらなる遊戯をなさしめよ。

 

いま初夏きたる、

野に山に、

榮光榮光、

榮光いんよくの主とその僕(しもべ)にあれ。

あめん。

          ―一九一四、五、八―

 

   *

読点や誤字・異体字は別として、「いんよく」が二箇所で排除されているところからは、別稿の草稿或いは改稿ととるべきものか。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 編者前書・「供養」 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「供養」の別稿

 

   拾 遺 詩 篇

 

[やぶちゃん注:パート標題。この裏に以下の編註がある。]

 

編註 「愛憐詩篇」から『靑猫』に到る年代の作品中、雜誌に發表されただけで、既刊の何れの詩集にも收錄されなかつた詩は、既刊『遺稿詩集』に三十二篇、『氷島』に四篇を收めたが、なほ他に、十七篇の雜誌發表作品が蒐集された。このうちの「街道」は本卷「愛憐詩篇拾遺」に、「竹」は「蝶を夢む拾遺」[やぶちゃん注:二十鍵括弧なしはママ。]に編入し、他の一篇を除外した殘りの都合十三篇を、ここに「拾遺詩篇」として年代順配列した。これら作品の多くは、『月に吠える』收錄の「松葉に光る」とその作風が共通しており、その意味で萩原朔太郞のいふ「月に吠える前派」に該當する、ものである。

 

[やぶちゃん注:「既刊『遺稿詩集』」既に私のブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」で全電子化注を終えたそれ。

「『氷島』に四篇」本コンパクト版の先行する「萩原朔太郎詩集Ⅲ 氷島」に収録された「遺稿詩篇」パートの「都會と田舍」「よき祖母上に」「紫色の感情にて」「我れ何處へ行かん」「旅や味噌こしの」の四篇。リンク先は総て国立国会図書館デジタルコレクションの同書の当該詩篇。なお、詩集「氷島」は既に私のブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」で全電子化注を終えている。

「一篇を除外した」除外した理由も不明なら、如何なる詩篇だったかも分からない。戦後の出版であるから、時局や公序風俗に抵触する作品とも思われない。不審。単に極めて短い断片であったものか、或いは、既に公開された詩篇と全く同じ内容の遺稿だったからかも知れない。

「『月に吠える』收錄の「松葉に光る」」この『月に吠える』は第三詩集『蝶を夢む』(大正一二(一九二三)年新潮社刊『現代詩人叢書』第十四編)の誤り。同詩篇は以下。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本当該詩篇の表記に拠った。太字は底本では傍点「ヽ」。

   *

   松葉に光る


燃えあがる
燃えあがる
あるみにうむのもえあがる
雪ふるなべにもえあがる
松葉に光る
縊死の屍體のもえあがる
いみじき炎もえあがる。

   *

なお、本詩篇の初出は、筑摩版全集によれば、大正四(一九一五)年二月発行の『遍路』の題違いの「炎上」であるが、標題以外は異同がないので示さない。]

 

 

  供  養

 

女は光る魚介のたぐひ

みなそこ深くひそめる聖像

わが手を伸ぶれど浮ばせ給はず

額(ひたひ)にみどりの血をながし

われはおんまへに禮拜す

遠くよりしも步ませたまへば

たちまち路上に震動し

息絕ゆるまでも合掌す

にちにち都に巡禮し

もの喰まざればみじめに靑ざめ

おん前にかたく瞳(め)をとづる。

 

[やぶちゃん注:これ、詩の題名の後にあるべき行空けがなく詰っている。一ページに全詩篇を詰めて載せるための仕儀と思われるが、特異的に今まで通り、一行空けた。底本末の「詩作品發表年譜」によれば、初出誌を大正三(一九一四)年十一月発行の『詩歌』とする。しかし、筑摩書房版全集では、「拾遺詩篇」に載るものの、そこでは、同雑誌の同年七月号とし、しかもその初出とは微妙に異なる箇所がある。以下に示す。

   *

 

  供養

 

女は光る魚介のたぐひ

みなそこ深くひそめる聖像

われ手を伸ぶれど浮ばせ給はず

しきりにみどりの血をながし

われはおんまへに禮拜す

遠くよりしも步ませたまへば

たちまち路上に震動し

息絕ゆるまでも合掌す

にちにち都に巡禮し

もの喰(は)まざればみじめに靑ざめ

おん前にかたく瞳(め)をとづる。

 

   *

有意な異同から、これは初出のそれではなく、発見された同詩篇の草稿と推定される。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」始動 / 目録・馬琴注・第一 年の和名幷に月の異名考餘 著作堂

 

[やぶちゃん注:「兎園小説外集」は曲亭馬琴編の「兎園小説」に続き、「兎園会」が断絶した後の、文政九(一八二六)年から翌同十年に至るまでの記録。所持する吉川弘文館随筆大成版の「日本随筆大成」第二期第三巻所収の解説によれば、『馬琴を初として、琴嶺、屋代輪池、鈴木分左衛門、山本庄右衛門、中井乾斎、文宝堂、海棠庵、南無仏庵等九人の執筆による』ものとある。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。但し、挿絵は画像が今一つぼんやりしているが、キャプションもそのまま使えるので、底本の画像をトリミング補正して使用することとした(底本は『インターネット公開(裁定)』『著作権法第67条第1項により文化庁長官裁定を受けて公開』『裁定年月日: 2020/03/25』であるから、引用使用は許される)。また、本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第三巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない。稀に底本の誤判読或いは誤植と思われるものがあり、そこは特に注記して吉川弘文館版で特異的に訂した)。諸凡例は先行する「兎園小説」(正編)に準じて、字下げその他は必ずしも底本に従わない(ブログのブラウザ上の不具合を防ぐため)。【 】は二行割注。今まで通り、句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。また、今回からは標題の下に筆者名を記して、判り易くした。【二〇二一年十一月二十三日始動 藪野直史】]

 

 

兎園小說外集目錄

   第 一

年の和名幷に月の異名考餘 著作堂

狗の物語くさぐさ 琴嶺舍

靈劔感得の物語 輪池

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では『夢中に剣を得るの物語』とする。]

前後身紀事 著作堂

[やぶちゃん注:底本では著者を『同』とするが、本文を見るに著作堂馬琴のものであるので、誤りとが断じて特異的に訂した。]

墮陰莖 同

蛇甑 鈴木氏

[やぶちゃん注:同前では『蛇怪』。]

同 山本氏

[やぶちゃん注:底本では著者を『輪池』とするが、本文を見るに山本庄右衛門のものであるので、誤りとが断じて特異的に訂した。]

猩々 乾齋

多胡郡碑註釋抄錄 同

紀の山の大榎 著作堂

   第 二

唐船漂着の記 輪池

秦鼎手筒 同

大河内藤藏紀事 文寶

池笠問答 著作堂

筑後柳川風流祭再考圖說 海棠庵

小松内大臣重盛公寶塔の圖搨本 同

冷泉左衞門朝臣詠歌 輪池

カピタン獻上目次 同

丙戌百目紀事 輪 池

異形小兒の圖二本 同

一本  文寶堂

近藤氏紀事 海棠庵

著作堂小集展覽目錄

御坊主伊東久勝忰宗勝橫死之話

江戸地名考小識 著作堂

ふるきはんじ物の盃考 著作堂

六足狗 輪池堂

峨眉山下橋 南無佛庵

[やぶちゃん注:発表者は下方に揃えて並んでいるが、本ブログでは字空けがその通りに反映せず、綺麗に並ばずに気持ちが悪いだけなので、総て標題から一字あけで示した。

 以下、著作堂馬琴の注。底本では全体が一字下げ。]

「兎園」集會、自ㇾ是而斷絕。社友内中入鬼籍者、文寶【後號「後蜀山人」。文政十二年三月二十三日歿。享年六十二。】、海棠庵【文政十三年九月二十七日歿。三十四歲。】・移住筑後者、松蘿館【文政八年春、分袂以來如胡越。】。有レ故而絕交者、好問堂【文政八年季冬以來、不與ㇾ此交。其志不ㇾ愜也。】。交遊不ㇾ全如ㇾ此。浩嘆何堪。余以閑居爲ㇾ常。無ㇾ友亦一樂也。

[やぶちゃん注:訓読する。吉川弘文館随筆大成版の解説に書き下してあり、それを一部で参考にはした。読みは私が推定で歴史的仮名遣で附した。

   *

「兎園」の集會、是れよりして斷絕す。社友内の中(うち)、鬼籍に入る者、文寶【後に「後蜀山人」と號す文政十二年三月二十三日歿す。享年六十二。】、海棠庵【文政十三年九月二十七日歿す。三十四歲。】。筑後に移住せしは、松蘿館【文政八年春、分袂(ぶんべい)以來、胡越のごとし。】。故有りて絕交せし者、好問堂【文政八年季冬以來、此れと交はらず。其の志し、愜(こころよ)からざるなり。】。交遊、全(まつた)からざること、此くのごとし。浩嘆、何ぞ堪へん。余、閑居以つて、常と爲(な)す。友無きも亦、一樂なり。

   *

「後」(「こう」?)「蜀山人」この「後」は前の「後」の衍字の可能性が高いが、ママとした。文宝亭文宝は明和五(一七六八)年生まれの狂歌師にして江戸飯田町の茶商であった。姓は今井で、通称は亀屋久右衛門。初代蜀山人大田南畝に書と狂歌を学び、別号に「食山人」「散木」があり、晩年には二代目「蜀山人」を名乗った。

「文政十二年」は一八二九年。

「松蘿館」既注であるが、再掲しておくと、西原好和(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一五(一八四四)年)の号。筑後国柳河藩士であったが、幼少より江戸で生活し、定府藩士として留守居役・小姓頭格用人などを勤めた。文政七(一八二四)年五月から「耽奇会」に、後の「兎園会」にも参加したものの、文政八(一八二五)年四月、「驕奢遊蕩」を理由としてか、「風聞、宜しからず」によって、幕府から国元筑紫(柳河藩)への蟄居の譴責を受け、江戸を強制退去させられた。天保年間は柳河藩領南野(現在の柳川市大和町)に隠棲して終わった。

「胡越のごとし」ここは「志(こころざし)合えば胡越(こえつ)も昆弟(こんてい)たり」(「漢書」の「鄒陽伝」から)を掛けたもの。「志しが合えば、北方の胡の者と南方の越の者とでも兄弟同様になれる。」の意で、「志が一致すれば、他人同士であっても兄弟のように親しくなれる。」ことを言い、彼との不本意な理由による永の別れを愛惜している馬琴の心情が滲んでいる。

「故有りて絕交せし者、好問堂【文政八年季冬以來、此れと交はらず。其の志し、愜(こころよ)からざるなり。】」随筆家で雑学者の山崎美成(よししげ 寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年)。「耽奇会」の方で亀屋文宝堂が発表した「大名慳貪(だいみょうけんどん)」(「倹飩箱(けんどんばこ)」(盛り切りで売るうどん・そば・飯・酒などを江戸時代に「けんどん」と称したが、その倹飩饂飩や蕎麦など、一杯盛りの食品を入れて運ぶ箱を言い、上下又は左右に溝を切って、蓋の嵌め外しが出来る)に汁次(しるつぎ)や薬味箱なども一緒に収めたものを「けんどん提重(さげじゅう)」「忍(しのび)けんどん」と称したが、これに種々の蒔絵を施した豪華なものを「大名けんどん」と呼んだ。その考証。「耽奇漫録」第十二集所収。文政八年三月十三日発会。国立国会図書館デジタルコレクションのオール・カラーの美しい画像のここと、ここを参照されたい)について、「慳貪」の使用法を巡って、中心メンバーであった馬琴と山崎美成との間で論争となり、この「慳貪争い」が致命的に拗(こじ)れてしまい、孰れも譲らず(二人とも心が慳貪だねぇ!)、絶交に至ったのであった。]

 

 

兎園小說外集第一

 

   〇年の和名幷に月の異名考餘

[やぶちゃん注:長いので、段落を成形した。]

 

 近來、國學のいよいよ、さかりに開けしより、先哲・後學おのおの、發明の辨あり。これにより、物の名の起原なども、定かにしらるゝことぞ、多かる。

 そが中に本居氏の「古事記傳」に、

「年の和名を『とし』といふよしは、『畊作』の義也。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「畊作」「こうさく」と読み、「耕作」に同じ。]

 この言、尤、よし。もて定說とすべし。只、その註釋のいまだ具はらざれば、尙、あかぬこゝちぞする。

 愚、按ずるに、「とし」の言は、「とねしづく(百穀播收[やぶちゃん注:漢字ルビ。])」の義なるを下略せしなり。唐山にて、始て字を造れるもの、亦、この義を取れり。その「季」と「稔」の兩字のごとき、幷に「禾」に從ふをもて、知るべし。

 字書に、『「禾」は「戶羅切」[やぶちゃん注:中国語音の反切表示。]、音「嘉」。「穀」總名。黍稷稻粱自ㇾ苗至レ實、曰レ禾。』と、いふと、いへり。

[やぶちゃん注:「とねしづく」不詳。

 引用の漢文を訓読してみる。

   *

「禾(くわ)」は「戶」・「羅」の切、音「嘉(か)」。「穀」は總名。黍(もちきび)・稷(うるちきび)・稻・粱(おほあは)、苗より實に至り、「禾」と曰ふ。

   *

「戶」は「」で、「羅」は「luó」であるから、「」となる。但し、現代中国語では「禾」は「」。これは思うに「ó」(オー)と「é」(ウーァ)が近似するからいいのであろうか。だいたい、「クワ」が「カ」と同じというのと通じていると感じたからである。

 又、「季」は「年」の本字なり。「說文」に、『季、穀熟也。』、「正字通」に云、『古人謂一年一稔。取穀一熟也。』。これ、和漢、その義、相同じ。かゝれば、「とし」の、「とねしつくる」の略辭たること、疑ふべからず。

 唐山は文華の國也。この故に、物每に、その字、三も、四つも、ありて、なかなかに煩雜をなせり。譬ば、「季」の字あるうへに、或は「稔」に作り、又、「歲」に作り、又、「紀」にも作るが如し。

 按ずるに、「歲」は冬至より冬至までをいふ也。人の年歲に、「歲」を書くことも、この義におなじ。その年の冬至後に生るゝものは、明年の支干によるべし。今の俗は、この義を知らず、冬至後に擧たる兒にも、なほ、その年の支干をもて數ふ。さては、「歲」の義に稱はず[やぶちゃん注:「かなはず」。]。いかにとなれば、「歲」は「日の步み」也。日の天を行くこと、三百有六旬六日有て、日の行こと、一周なり。これを「一歲」といふ。かゝるゆゑに、中冬を「二之日」とす。日、行周り盡して、復、始る。これ、歲の日步たるゆゑん、「一之日」は冬至なり。周は十一月をもて、正月とす。これを「正歲」とい

ふ。職[やぶちゃん注:「しよく」であろうが、「営み」の意であろう。]として、これに由るなり。「歲」、又、「載」に作るよしは、「爾雅」に、『「載」は「歲」也』。『唐虞[やぶちゃん注:「たうぐ」。伝説上の聖天子陶唐氏堯と有虞氏舜を併せて呼ぶ名。また、その二人の治めた時代を指す。]に「載」といふ。』。「物の終て、更に始る」の義を取るといふ。又、「紀」に作るよしは、「書」の「供範」に、『「五紀」あり。その一を「歲」といひ、その「二」を「月」といひ、其三を「日」といひ、その四を「星辰」といひ、その五を「曆數」といふ。又、十二を「一紀」とす。歲星の天を一周するの義を取る。』といふ。唐山は、一事に、その字、多くして、その義も、隨て、亦、煩雜なること、かくのごとし。

[やぶちゃん注:底本でもここは改行している。]

 天朝は、いにしへより今に至るまで、「とし」といふのみ、異名を呼ぶもの、なし。文の辭に及ばざるもの、これを推して、その餘を知るべし。

[やぶちゃん注:以下の一段落は、底本では全体が一字下げ。]

 先輩の考に、月の異名も、すべて農事のうへにかけて、倡へ[やぶちゃん注:「となへ」。]來たる、といふ。こは動きなき[やぶちゃん注:「ゆるぎなき」。]妙案なり。しかれども、註釋の、なほ、詳ならぬものあり、よりて、考餘の一篇を綴りそへて、もて、遣忘に備ふ。博士の爲には笑るべし。

 正月を「むつみ月」といひ、略して「むつき」ともいふよしは、舊說に、『この月は良賤、迭に[やぶちゃん注:「たがひに」。]往來・慶賀して、むつまじき義也。』と、いへり。是、究めて、いはれ、なし。しかれども、新說も、いまだ詳ならず。

 按ずるに、「むつき」は「むす月」也。「むつみ月」といふも、「むすび月」の義なれば、相同じ。この月の陽氣、下に蒸して、草木、將に萠出んとするの勢ひあり。譬ば、胎生のもの、其胎内に蒸れ、卵生のもの、その殼中に蒸るゝが如し。故に「むつみ月」といひ、略しては、「む月」といふ。「書紀」、「神代の卷」なる、「かんむすび」の尊を、「神產靈」と書れたり。「產靈」は、則、「母德」にして、「子を胎内に蒸す」の義、あり。故に「神產靈」と唱ふ。今の世も、人の子を「むす子」・「むすめ」といふ。是も「むすび子」「むすび女」の略にて、元來、その母の胎内に、蒸されて生出(なりいで)しものなれば也。されば、正月を「むつみ月」といふも、これにおなじ。もし、漢字を借用せば、「產靈月」と書こそ、よけれ。「月令」に、『孟春之月云々』。『天氣下降。地氣上騰。天地和同。草木萠勁。』と、いふ。凡、この十六言、「むつき」の中に、こもりたり。抑[やぶちゃん注:「そも」と訓じておく。]、亦、妙ならずや。

 二月を「きさらぎ」といふよしは、舊說に、「この月は、或は寒く、或は暖にして、更に又、寒中より、さむきこと、あり、故に『衣更着』と名づく。」と、いふ。これも亦、いはれ、なし。又、新說に、「『きさらぎ』は『息、更に來つる』の義にて、東風、氷を解きて、蟄虫、動く。『いき』とは天地の陽氣也。」と、いふ。こは、理りあるに似たれど、いまだ、甘心しがたし。

 按ずるに、「きさらぎ」は「鋤[やぶちゃん注:「すき」。]さらぎ」なるべし。この月は、をさをさ、田を鋤き、畑を打也。この故に「すき浚ぎ」を略して、「きさらぎ」といふなり。

 三月を「やよひ」といふよしは、「彌生」の義にて、この月は、草木、いやがうへに、生出れば、しかいふ。」と、眞淵の說に從ふべし。

 四月を「うづき」といふよしは、「莫傳抄」に、『夏かりの かへる越路の となみ山 卯のはな月と 何はいはまし』とあるによりて、「卯月」と書きて、この月は、卯の花、さかりなれば、しか名づけたりと思ふもの、多かるは、みな、あやまりを傳へたる也。新說に、『「うづき」は「植月」也。この月は、根をわけ、種をくだすことの、最、さかりなる頃なれば、「うゑ月」といふ。それを略して「うづき」といふ。』と、いへり。この說は、いと、よし。さばれ、「うゑ月」の義にはあらで、「うみ月」の「み」を略せしならん。既に播したる百[やぶちゃん注:「もも」。]のたなつ物[やぶちゃん注:「穀(たなつもの)」で田畑から穫れる稲を筆頭とした穀物のこと。]、みな發生(なりいで)たるを、或は、移しうゑ、或は、つちかひ、養ふこと、譬ば、胎内の兒のうまれ出たるを、育るが如し。よりて、正月を「むつき」といふにむかヘて、「うみ月」と名づけたるなるべし。唐山にて、四月の節の中を「小滿」といふも、この義に、かなへり。「小滿」は「臨月出產」のこゝろをもて、見るべし。

[やぶちゃん注:短歌は句で空隙を入れた(以下同じ)。

「莫傳抄」後鳥羽院口伝とする「和歌肝要 莫傳抄」(わかかんよう ばくでんしょう:現代仮名遣)。]

 五月を「さつき」といふよしは、舊說に「早苗月」とし、「祕藏集」には、「さくも月」と、よめり。新說に、「さは耕作」の事にて古言也。この月は、稻の苗をうつし植る時にして、農事に大切のよしなれば、「さつき」といふ、と、いへり。理りあるに似たれど、いまだ、詳ならず。猶、考ふべし。

 六月を「みな月」といふよしは、舊說に、この月は、暑熱、酷して、水に乏しきころなれば、「水無月」といふといヘり。東滿は、これを否み、『「みな月」は、かみなる月の上下を省る[やぶちゃん注:「はぶける」。]也。この月は雷の、しばしば、なるものなれば、しかなづけたり。』と、いへれど、甘心しがたし。又、一說に、「みな月」は「水なす月」也。この月は、田に水の乏しきをもて、をさをさ、水をまかする也。よりて「みづなす月」といふべきを、略して「みな月」といふ、と、いへり。姑く[やぶちゃん注:「しばらく」。]、この說に從ふべし。

[やぶちゃん注:「東滿」不詳。思うに、後にも出る、江戸前期の国学者荷田春満(かだあずままろ 寛文九(一六六九)年~元文元(一七三六)年:本姓は羽倉氏。初名は信盛、後に「丸」、また「春」と名乗ったからである。]

 七月を「ふみ月」といふよしは、舊說に、『「ふみひらき月」の略辭也。この月は二星に書をたむけ、且、書籍を曝すことあれば、「ふみ月」といふ。』と、いへり。「藏玉集」に、「たなばたの かふ夜の空の かげ見えて かきならべたる ふみ披き月」とあるは、これ也。又、新說に、『ふみ月は「ふえ月」也。この月は稻の葉の特に殖る[やぶちゃん注:「ふえる」。]ころなれば。』と、いヘり。前の「ふみひらき月」には、立まさりて、聞ゆれども、いまだ、可ならず。

[やぶちゃん注:「藏玉集」(ざふぎよくしふ)は「蔵玉和歌集」のこと。室町時代の歌学書。一巻。撰者は二条良基に仮託されているが、未詳。草木・鳥獣・月の異名などを詠んだ歌を収集分類し、考証を加えたもの。先に出た「莫伝抄」を増補した形となっている。「草木異名抄」の異名もある。

「かふ夜」「交ふ夜」であろう。牽牛淑女が年に一度だけ行き交わる夜であろう。]

 按ずるに、「ふみ月」は「ふくみ月」の中略也。この月は稻の花、其皮中に、なり出て、物をふくむが如し。譬ば、頰の和名を「ホホ」といふも、「ふくむ」の義也。物の胎を「はらむ」といふも、「ハ」と「ホ」、音通にて、亦、「ふくむ」の義に近く、花のつぼみに「含」の字を當たるも、「含」に「ふくむ」の義、あれば也。これらによりても、「ふみ月」の「ふくみ月」なるを、しるべし。

 八月を「はづき」といふよしは、舊說に、『葉月也。この月、梧桐の葉落れば也。』といひ、一說には、『「はち月」の「ち」を略して、「はづき」といふ。』といへるは、笑ふべし。又、新說に、『この月は、稻の葉、さかりにして、いまだ、穗を見ず。よりて「葉月」といふ。』と、いへるも、うけがたし。

 按ずるに、「はづき」は「はな月」の「な」を省る也。この月、上旬には、早稻の花、ひらき、中旬には、晚稻の花、さかり也。依て、「はな月」といふべきを、略して「はづき」と、いへるなり。

 九月を「ながつき」といふよしは、舊說に、『「夜長月」也』。又、新說は、これを否して、『この月は、稻の穗、既に長し、よりて「長月」と名づく。』といへり。

 按ずるに、「なが月」は「稻刈り月」の略辭なるべし。稻は、「イナ」、音通にて、體に「いね」といひ、用に「いな」といふ【稻城・稻村・稻光の類の如し。】。「いな」の「な」と、「かる」の「る」を省きて、「なが月」といふか【「か」を濁音に倡るは、音便にて、この例、多し。】。この月は、をさをさ、早稻を刈る頃なれば、しか名づたるべし。

[やぶちゃん注:「體」「たい」であろう。本体の正式な「晴れ」の呼び名。

「用」「よう」で慣用として使う日常語の意であろう。]

 十月を「かみな月」といふよしは、舊說に、『「神無月」也。この月は、諸神、出雲の大社に集合(つどひ)給ふ。よりて、この名あり。』と、いふ。荷田氏は、これを斥けて、『「かみな月」は「雷無月」也。この月は、雷、その聲を收るの、かぎり也。六月を「雷鳴(かみなる)月」といふにむかへて、「雷無月」と名づく。』と、いへれど、これも亦、甘心しがたし。

 按ずるに、「かみな月」は、「かりね月」なるべし。「かりね」は、卽、「刈稻」也。「リ」と「ミ」と橫音にて、「ナ」と「ネ」は音通也。よりて、「かり稻」を「かみ」と倡ふ。十月には、なべて、稻を刈盡すものなれば、しか、名づけたり。九月を「なが月」といふも、「稻かり」の義なれど、稻に早晚の遲速あり。おほよそ、九月に刈はじめて、十月下旬に刈果るものなれば、この兩月、同義にして、異名也。譬ば、「たね」と「さね」との如し。「タ」と「サ」と橫音なれば、「たね」も亦、「さね」也。しかるに、稻を「たね」と訓み、實を「さね」と訓じたる、これも亦、同義にして異名也。この理りをもて推すときは、「なが月」「かみな月」の同義にして、名の異なるをあかすに足らんか。

[やぶちゃん注:「橫音」(よこおん)は母音行の「ア・イ・ウ・エ・オ」の横の「段」のこと。

 以下は一段落全体が底本では一字下げ。]

 再、按ずるに、十月を「雷無月」の義とするよしは、「祕藏集」に、「四方山は からくれなゐに なりにけり しぐれひまなき 神なかり月」とあるによるか。「神なかり月」の「神」は、「雷鳴なき月」といふに似たり。

[やぶちゃん注:「祕藏集」は「古今打聞」(こきんうちぎき)「祕藏抄」「和歌祕藏鈔」の異名を持つ、伝凡河内躬恒の作とされる歌学書のことであろう。]

 十一月を「しも月」といふよしは、舊說に、『霜降り月也。「藏玉集」に、「風さむみ 霜ふり月の けふよりや 雪げと見えて くもりそむらん」。』と、あり。新說も、これに從ふのみ。

 愚、按ずるに、「しも月」は、「しておさめ月」の略辭なるべし【「も」と「お」と、橫音也。】。この月は、貢の新穀を「收斂(をさめい)るゝとき」なれば、この名、あるか。いまだ、必、と、しがたけれども、姑く、こゝろみに、いふ、のみ。

 十二月を「しはす」といふよしは、俗書に、『「師走」と書て、この月は、諸生、師に走り、故舊を訪へば也。』などいふ說あれども、あげつらふに足らず。貝原益軒は、筑紫の四極(しはつ)山を證として、『「とし極(はつ)る」の義なるべし。』と、いへり。契冲、眞淵も、「年極る」の義とするのみ。

 按ずるに、「しはす」は「としはつる」の義にあらで、「しねはつる」の略辭なるべし。この月は、農事、既に果て、耒耜[やぶちゃん注:「らいし」。「耒」は「鋤の柄」、「耜」は「鋤の刃」で、農具の鋤を指し、ここは農事一般の意。]に暇あり。調貢(みつぎもの)の新穀を斂め果ぬる[やぶちゃん注:「をさめはてぬる」。]ころなれば、「しはす月」[やぶちゃん注:「仕果つる」。]といふにやあらん。「月令」に、『季冬之月云々』。『命ㇾ晨計耦耕事、修耒耜田器、乃命四監。收秩薪柴。以共郊廣及百祀之薪燎』といへるにも、かなへり。

[やぶちゃん注:「礼記」の「月令」(私は「がつりょう」と読むのを常としている。「礼記」の中でも一年の農事の指標を示したものとしてよく知られる)の訓読を試みる。

   *

『季冬の月』、『晨(あした)に命じて耦耕の事を計り、耒耜(らいし)を修(をさ)め、田器を具(そな)ふ。乃(すなは)ち、四監に命じて、秩(ちつ)[やぶちゃん注:稲をしっかりと積み上げたもの。]・薪(たきぎ)・柴を收めしむ。以つて郊廣(こうかう)及び百祀の薪燎(しんりやう)を共にす』。

   *

「郊廣」不詳。「都城郊外の広野」の意か。「薪燎」は篝火。]

 右十二ケ月の異名、愚按の當否は、とまれ、かくまれ、すべて、農事のうへにかけて、倡ざるもの、あることなし。されば、いにしへの聖皇、農事をもて、年に命じ、月に名づけて、民に耕作を勸め給ひし善政、今に歷然たり。農は、司命の奴[やぶちゃん注:「ど」。]にして、その身、貴きにあらねども、そのわざの重きこと、何ものか、亦、これに加ん[やぶちゃん注:「くはへん」。言わずもがな、ここは反語。]。後世、「こよみ」といふものゝいで來しよしも、「民に、時をうしなはせじ。」との爲なれば、「正月」・「二月」と數んより、この異名をもて、農を勸めば、「こよみ」にも、ます、捷徑なるべし。さるを、後々に至りては、「藏玉」・「莫傳」・「祕藏」の諸集に、月の異名を、こちたく、出して、歌よますべき爲にのみ、せられしは、いかにぞや。

[やぶちゃん注:「司命」中国に於いて、本来、北斗七星の魁(かい)(桝(ます)の部分)の上方にある星座「文昌宮六星」の第四星を「司命」という。古来、「人間の寿命を司る天神」と考えられ、「楚辞」の「九歌」には「大司命」・「少司命」の二神が見え、文昌宮第五星の「司中」、第六星の「司禄」とともに、祭祀の対象とされた。特に道教では、人間の寿命台帳を管理し、人間の行為の善悪を監視する「三尸虫」(さんしちゅう:本邦の庚申信仰の核である信仰と関わる)や、竈神(かまどがみ)の報告に基づいて、寿命の増減を行う神と考えられた(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「捷徑」(せふけい(しょうけい)は「捷逕」とも書き、元は「目的地に早く行ける道・近道」で、転じて、「目的を達するに手っ取り早い方法」の意。]

 物の名義の多なるは、から國ぶりにて、紛れ易く、「物そこね」なる、わざにこそ、あれ。

 こは、「ひがごと」にやしらねども、

「この春はじめのまどひには、ふさはしかるべき事を。」

とて、ことふりにたる、とし月の、異名の考餘を綴るになん、多かる中に、ひとつ、ふたつ、取らるゝことの、ありもせば、新奇に走る怪誕に、いさゝか、ますよしも、あらんかし。

 文政九年丙戌春二月時正  瀧 澤 解 稿

[やぶちゃん注:私は、この馬琴の農事に従った月の異名説に諸手を挙げて賛同するものである。嘗て、私は古典の授業用にそうしたコンセプトで統一した農事秘訣に従った月の異名説を作り、生徒に配布したことがあった。古い紙ベースの資料(生徒の自作作品は別に保存してある)は総て九年前に廃棄した。古いデータを捜してみたが、なかった。少し残念な気がしている。もし、持っている元教え子がいたら、どうか、画像で送って呉れると嬉しい。多分、B5だと思うのだが。

「怪誕」(くわいたん(かいたん))の「誕」は「偽り」の意で、奇怪にして、出鱈目なこと・さまを指す。「兎園会」のメンツはそうした物がお好き。]

2021/11/22

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 蒲の花かたみ / 「兎園小説」(正編・全十二集)~完遂

 

[やぶちゃん注:本篇の本文は「曲亭雜記」第一上に載るので、国立国会図書館デジタルコレクションのここからを底本とした。表記はそれに従い(歴史的仮名遣の誤りもママ)、読みは一部に限り、一部の読みは送り仮名で出した。林子平・高山彦九郎とともに「寛政の三奇人」の一人に数えられた儒者蒲生君平(がもうくんぺい 明和五(一七六八)年~文化一〇(一八一三)年:下野国宇都宮新石町(現在の栃木県宇都宮市小幡一丁目)生まれ)の友人であった馬琴による渾身の評伝。彼は天皇陵を踏査して「山陵志」を著した尊王論者にして海防論者として知られる。詳しくは当該ウィキを読まれたい。但し、「兎園小説」には、「曲亭雜記」に載らないその後に非常に長大な漢文の「蒲生君臧墓表」があり、そこは吉川弘文館随筆大成版に拠った。長いので、段落を成形した。なお、吉川弘文館随筆大成版「兎園小説」では、標題は目次では「蒲の花かたみの上」であるが、本文では「蒲の花かたみ」である。ブログでは底本と同じく後者を採った。]

 

   ○蒲の花かたみ

 久かたの日影に、うとき谷を出でゝ、木(こ)、傳ひ、あさり、鳴く鳥(とり)も、友を求むといふなるに、物の量なす人として、いづれか友を思はざる。

 そを懷(おも)ふにも、科(しな)、あるべし。利慾にかたらひ、婬樂(いんらく)に集(つど)ひ、酒食によりて親しかりしは、思ふに似たるも忘るに、はやかり。

 學問(まなび)の道のひとしくて、志(こゝろざし)の異(こと)ならぬのみ、忘れんとすれど、忘れがたく、懷ふにも、猶ほ、あまりあり。

「そを誰(たれ)ぞ。」

と人に問はれんに、修静庵(しうせいあん)[やぶちゃん注:蒲生君平の号。]にますもの、なかりき。

 この人や、學びの道に、吾にひとしく、心ざまさへ、似たりけり。生まれし鄕(さと)は異(こと)なれども、同じ甲(とし)[やぶちゃん注:馬琴は明和四年で一年早い。]にと聞えしも、大かたならぬ、過世(すぐせ)なりけん。世に、ふた鞘(さや)の隔てなく、睦みかたらひぬる折に、いはれしことの、耳に止(とゞ)まり、なつかしくも、かなしくも、寢覺(ねざめ)ぬ老(おい)が曉(あかつき)には、過ぎ越しかたの胸にみちて、俤(おもかげ)にたつこともありけり。

 大凡(おほよそ)、この人の行狀(ぎやうじやう)は、藤田ぬしの書きつめたる墓表によりてしらるべけれど、猶ほ、漏しつと思ふこと、なきにしもあらざりけり。いとめづらしくも、竒(くす)しくも、多(さは)に得がたき博士(はかせ)なりし。その事の趣きを、物の端(はし)にしるしつけて、君子たちに示さずは、誰(たれ)か、また、節(ふし)を擊ちて、こと葉の調(しらべ)をたすくべきと思ふも、「をこ」の業(わざ)ながら、深谷(みたに)がくれに、友、呼ぶ鳥の聲にしも似て、已(や)みがたさに、水莖(みづぐき)の迹(あと)、淺きは、さらなり、山の井の影、うつしうつしも、人の笑はんことさへに、厭(いと)はぬは、實(げ)に、をろかなるべし。

[やぶちゃん注:最後の「をろかなる」はママ。

 吉川弘文館随筆大成版「兎園小説」では、ここに、二字下げで、

   *

文政八年乙酉冬十二月朔[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一八二六年一月十八日。]、このふみを綴りて、みづから、はしがきするもの。

        神田の隱士   瀧澤 解

   *

とある。

 以下は底本でも改行している。]

 人の心は、かくれ沼の、さだかには目に見えぬものから、そのよきも、終(つひ)に顯(あらは)れ、そのわろきも、終に見(あらは)る。よきも、わろきも、おしなべて、なき後にこそ、定かなれ。さばれ、そのよき人といふとも、祿もなく、位もあらで、名を後の世に遺せるものは、只、その人の德にあり。學びの力に、よらぬは、なし。

 玆(こゝ)に、亦、その人、あり。吾友脩静庵の主人(あるじ)、卽ち、これなり。

 抑(そもそ)も脩静庵は、もと、福田氏、後に、

「その先祖の氏鄕(うぢさと)朝臣(あそん)の族(やから)より出でたり。」

と聞くに及びて、氏(うぢ)を蒲生(がまふ)に改めけり【これらのよしは、墓表に具[やぶちゃん注:「つぶさ」。]なれば、こゝに贅せず。】。名は秀實(ひでざね)、一名(いつのな)は夷吾(いご)、字(あざな)は君平(くんぺい)、脩静は、その號(よびな)。下野州(しもつけのくに)河内郡(かはちこほり)宇都宮の人なりけり。明和四年[やぶちゃん注:ママ。]丁亥、某月日に生れぬる故をもて、其父、これに名を命じて、伊三郞といふといふ。「亥」の和訓は、卽ち、「爲(ゐ)」なり。「爲」・「伊」の假名、たがふといへども、「伊」は、猶ほ、「亥(ゐ)」の「ゐ」のこゝろなるべし。

[やぶちゃん注:「氏鄕朝臣」戦国から安土桃山時代にかけての武将蒲生氏郷(弘治二(一五五六)年~文禄四(一五九五)年)。]

 その家、半農半商にて、㸃燈油(ともしあぶら)を鬻(ひさ)ぎたり。父、沒して、兄、家を嗣ぎぬ。只、脩静のみ、をさをさ、讀書を嗜みしかば、耕(たがへ)し耘(くさき)ることを欲(ほり)せず。又、商人(あきうど)の業(わざ)を樂(ねが)はず。同じ鄕(さと)に石橋(せききやう)といふ先生ありて、經學(けいがく)を修めて、且つ、施しを好み、其家(いへ)、豊かなりければ、天明三年[やぶちゃん注:一七八三年。]、淺間山、燒けて、關東、いたく餓ゑたるとき、倉廩(さういん)[やぶちゃん注:米などの穀物を貯蔵しておく倉。]をうちひらき、四百苞(たはら)の米を散(ちら)して、鄕黨・鄰里(りんり)を賑しけり。只、この施行(せぎやう)のみならず、或は、路を造り、橋をしつらひ、隱德慈善を宗(むね)としたれば、人皆、德とせぬものなく、名を遠近(をちこち)に知られてけり。

 脩静は、いとはやくより、石橋翁の門に入りて、勤學硏究、玆(こゝ)に年あり。

 かゝりし程に、大母(おほば)の物語りによりて、祖先の賤しからぬを知曉(ちぎやう)し、みづから、氏(うぢ)を改めて、志(こゝろざし)、いよいよ、堅く、凡(およそ)、下野人(しもつけびと)の風俗は、朴訥にして、强く、悍(たけ)し。脩静は、之れに加ふるに、志氣、逞(たくま)しく、貧しきを、辭(いら)はず、

「よしや、忠義の狗(いぬ)となるとも、亂離(らんり)[やぶちゃん注:世の中が動乱状態に陥って、人々が離れ離れになってしまうこと。]の人と、ならじ。」

とて、しきりに奬(はげ)み、學びけり。

 しかれども、章句を修(をさ)めず[やぶちゃん注:後にも出るが、儒家の章句を覚えることだけでは満足せずの意と採る。]、國史舊記を涉獵して、

『いかで古學を起さん。』

と、ほりする心、いと、せちなり。剛腸(がうちやう)かくの如しといへども、母につかへて孝なりければ、母もまた、愛(め)でぬることの、他(あだ)し子よりも深かるべし。

 脩静が壯(さか)りになりし比(ころ)、その兄は身まかりけり。これにより、母、田園を、なかば、わかちて、脩静にとらせんとしてけるに、脩静、いたく、これを推辭(いなみ)て、且、母を諫めて曰、

「わが兄、不幸にして、なかそらに身まかりたまひ、且つ、その子は尙(な)ほ、幼(おちけ)なし。さるを、今、多くもあらぬ田園を、吾儕(わなみ)の爲(ため)に分かたせたまはゞ、幼(いとけ)なき者は、何によりて、荒年(くわうねん)の飢寒を凌がん。およそ、兄弟叔侄[やぶちゃん注:「しゆくてつ」。おじ(伯父・叔父)と甥。]の故なく、田園を分かつものは、親族、怨みを結ぶの基本(もと)なり。吾儕(わなみ)は、一步の田を得ずとても、兎も角もして、一期(いちご)を送らん。侄(をひ)は、わが母の嫡孫なり。渠(かれ)が身、優(ゆた)かなるときは、わが母も、また、ゆたかにおはさめ。おほん慈惠(いつくしみ)を辭(いら)ひまつるは、ひとり儕の爲(ため)のみならず、すなはち、母の爲なれば。」

と、なくなく、ことわりを盡しゝかば、母はこれを、

「賢。」

として、遂にその意に任(まか)せしとぞ。

[やぶちゃん注:理由附けは立派で正当に見えるものの、蒲生は自身、物理的に野良仕事を嫌っただけ、というのが、本音のように私には思われるが。]

 是より後も、とにかくに、家の難(なや)みに、かゝつらひて、志(こゝろざし)は立てながら、身をわがまゝにも、せざりけり。

 是よりさき、寬政二年の冬[やぶちゃん注:一七九〇年から翌年年初相当。]、

「琉球の使人(つかひ)、入朝(にふてう)しつ。」

と聞えしに、故ありて、彼(か)の輩(ともがら)と、應接をしつるもの、宇都宮に歸り來(きた)るありけり。脩静、一日(あるひ)、これを訪ひて、

「足下(そこ)は、こたび、球人(りうじん)と應對したりと傳へ聞きぬ。何等の說話ありし。」

と問ふに、その人、答ヘて、

「否(いな)、させる說話も、なし。只、四表八表(よもやも)の話の次(なへ)に、球人、われに問ひていはく、

『皇國(みくに)は、誠に、文あり、武あり、大かたならぬ、よき國なれども、竊(ひそか)に意得(こゝろえ)がたきは、「樣(さま)」といふ字に三體(さんたい)ありて、尊卑(そんひ)の科(しな)をわけらるゝに、或ひは、「永(えい)」ざま、或は。「美(び)さま」、「つくばひざま」といふよしは、如何なる義理のあるやらん。』

と、いはれしには、困りたり。」[やぶちゃん注:「次(なへ)」連語。「な」は「の」の意の格助詞で、「へ」は「うへ(上)」の音変化とも。それに格助詞「に」がついたもので、本来は上代語。接続助詞的に用いられ、上の事態と同時に他の事態も存在することを表わす。「~と同時に・~とともに」。]

と、うちほゝゑみつゝ、告げにけり。

 脩静、これを聞きしより、憤(いきどほ)り、胸にみちて、嘆息の外(ほか)、言葉もなく、そがまゝ、宿所に走りかへりて、獨り、つらつら思ふやう、

『昔、「南北朝の内亂」より、「應仁の兵火」に至りて、天朝の舊典、皆、悉(ことごと)く亡失し、文華は、ながく、地を拂ひて、世は「戰國」となりし事、槪して、二百餘年、その惡俗の餘毒、流れて、昇平(しようへい)の今の世まで、洗ひ淸むるものゝ足(た)らねばこそ、附庸偏小(ふようへんせう)の球人にすら、侮(あなど)らるゝことの、安からね。いかで、われ、古學を興して國體(こくたい)を張り、天下の爲に、死力を尽(つく)して、國恩に報ずべし。』[やぶちゃん注:「附庸」宗主国に従属してその保護と支配を受けている国。しかし、当時の琉球は公的には独立国であり(事実上、薩摩藩の不当支配下にあったが)、この謂いは私には不快千万である。]

と、愈々、思ひ定めつゝ、指を噬(か)み、血を染めて、

「孝子之情有終身喪 忠臣之心無革命時」[やぶちゃん注:訓点があるが除去した。以下に訓読する。「孝子の情 終身(しゆうしん)の喪(も) 有り  忠臣の心 革命(あくめい)の時 無し」。]

と大書しつ。志願の臍(ほぞ)をぞ、堅めける。

 かゝりし程に、歲月を歷て、脩静、江戶に往來しつゝ、林家の門人になりしかば、帶刀(たいとう)して儒學を倡(とな)へ、當時、高名(かうめい)の儒者、國學者・文人墨客とまじはりて、遊學すること、亦、年(とし)あり。

 しかれども、その持論、事情に愜(かなは)ず、或は、之を迂濶(うくわつ)とし、或は之を狂妄として、嘲り噱(わら)はぬは稀なりしを、脩静、ものゝ屑(かず)ともせで、愈よ、守りて、みづから、貶(おと)さず。その友に語りて云く、

「昔時(むかし)は、儒官、あきらかに、天朝の故實に通じて、「六經」を以て、これが資(たすけ)にしたり。こゝをもて、名(な)、正しく、事(こと)行はれざること、なし。今の俗儒は、天朝の故實をしらず、夏夷(かい)順逆[やぶちゃん注:「夷夏論」のこと。南朝の道士の顧歓(こかん)が発表した排仏のための論文。「夷」は「夷狄」、「夏」は「中国」の意で、「道」と「俗」と「跡」をキー・ワードとして構成されている。仏教と道教の根本の「道」は究極に於いては一致するが、習俗・風俗、則ち、「俗」は「夷」と「夏」では決定的に異なっており、本来、「夷」を教化するための教法、則ち、「跡」として生まれた仏教を中国に行うことは出来ないと論ずる夷狄廃仏論・廃仏毀釈論である。]の理(り)に暗くして、名を亂り、言(こと)を紊(みだ)るゝもの[やぶちゃん注:「ゝ」は吉川弘文館随筆大成版で補った。]、百五、六十年來、比々(ひゝ)として[やぶちゃん注:どれもこれも。]、皆、これなり。その位(くらゐ)に在るものは、その道を行ひ、その位に在らざるものは、その言(こと)を行ふこと、古今一致、難易、迭(たが)ひにありといへども、吾(われ)、憤りをもて、志(こゝろざし)を立て、古學を興して逸史(いつし)を修め、力を經世(けいせい)に尽して、もて、國恩に報じ奉らんと欲(ほり)すること、他(た)、なし。彼(か)の世に阿(おもね)りて、利を謀り、皋皮(かうひ)[やぶちゃん注:「虎の皮」の意で、そこの座する教導的地位にいる者の意と思われる。]に坐する草鞋(さうあい)大王、自(みづ)から名敎(めいきやう)の罪人たるを知らざるものと、隣りをなさじ、と思ふのみ。このこと、同士の爲に語るべし。悠々の徒(と)と語るべからず。」

とぞ、いきまきける。

 この比(ころ)よりして、脩静、「九志(きうし)」[やぶちゃん注:後注の太字下線部を参照されたい。]を編述の志(こゝろざし)あり。

「いにしへの山陵、多く荒廢して、その迹、定かならざるものありと聞く事、久しきをもて、まづ、「山陵志(さんりやうし)」より刱(はじ)めん。」

とて、獨行(どくかう)して、京に赴き、南海を越え、淡路に渡るに、素(もと)より、路費(ろひ)の乏(とぼ)しきを憂ひとせず、嶮(けん)を履(ふ)み、風雪を犯して、六十六國、その半ばを經歷(けいれき)し、あるは里老に問ひ、或は舊圖を考へ、諸陵存亡の趣きを目擊したりける。苦辛を、その著述の爲に辭せず、月日は、旅寐(たびね)に移れども、其の志、移らずして、愈よ、精力を盡しけり。

 かゝりし程に、丁卯[やぶちゃん注:文化四(一八〇七)年。]の年、北虜(ほくりよ/キタ[やぶちゃん注:右/左のルビ。文化の初期からの蝦夷へのロシア船の来航や通商要請を指すととる。])の邊塞を擾(みだ)るゝの風聞あり。脩静、江戶に在り。かのことを傳へ聞きて、憂ひ、且つ、憤りに堪へず、卽ち、「不恤緯(ふじゆつゐ)」五編を著はし、上書して、之を國老の執事に奉りしに、おほんとりあげは、なかりけり。とかくする程に、「山陵志」一卷、やうやくに稿を脫ぎて、刻本(こくほん)にせまく欲(ほ)りするに、脩静、素より、擔石(たんせき)の儲(たくはへ)なければ、同志に告げて、未刻(みこく)已前に入銀(にうぎん)を促し、且、その友、鍵屋静齋(かぎやせいさい)等が資(たす)けを借りて、製本、全く成りしかば、之を京師(きやうし)に獻(たてまつ)り、及び、關東の搢紳(しんしん)、並びに、有職(ゆうしよく)の人々に、まゐらせけり。しかるに、

「其の論、處士(しよし)・浮浪人の、あげつらふべきことにしも、あらず。贅言(ぜいげん)、分(ぶん)に過ぎて、忌み憚らざるに似たり。」

とて、脩静を、市(いち)の尹(かみ)の廳(ちやう)[やぶちゃん注:江戸の町奉行。]に召して、その條々を詰(なじ)られしに、脩静、すなはち、「律令」を引き、古實を證して、答へまうすことの理りに稱(かな)ひしかば、重ねて咎めは、なかりけり。

[やぶちゃん注:「不恤緯」は文化四(一八〇七)年の執筆になる、北辺防備を唱えた海防論書。幕閣の若年寄水野忠成に献上したが、逆に、幕府の警戒するところとなり、喚問を受けて、実際には閑居させられている

「山陵志」享和元(一八〇一)年に完成させた、天皇陵(山陵)に関する研究調査結果を記した史料。当該ウィキによれば、寛政八(一七九六)年から寛政一二(一八〇〇)年にかけて、『自ら行った近畿地方や四国地方の陵墓調査結果を編纂したもので、草稿は寛政』九年に、『最終稿は享和元』(一八〇一)年に『完成したと言われる。書物として発刊されたのは文化』五(一八〇八)年とも、文政五(一八二二)年とも言われ、文政五年説の『場合、君平の死後にはじめて出版されたことになる。「前方後円墳」という言葉は『山陵志』の中で初めて君平が用いた言葉である。本書が幕末の尊王論の根拠となったと評される一方で、調査結果を記録した考古学資料としての評価も高く、明治維新の後、明治天皇は君平の業績を讃え、勅命により郷里である宇都宮に石碑(蒲生君平勅旌碑)が建立された。本書は徳川光圀が編纂に取り組んだ』二百四十八年もの長大な時間をかけた「大日本史」の『補完資料の位置付けとしても評価されている』。ウィキの「蒲生君平」によれば、『本書は光格天皇が天覧するに至るが、町奉行の取り調べに遭った』ともある。

「擔石」「石」は古代中国で容量を量る単位。「儋」は二石、「担」は一石で、これで「わずかな量の米穀」の意。転じて、「わずかなこと」の意。ここは後者。]

 これにより脩静、慷慨嗟嘆して、身の禍ひを見かへらず、日比(ひごろ)の剛膓(がうちやう)十倍して、記文一篇を綴りてけり。そのこと、禁忌に觸るゝをもて、市の尹にや聞えにけん、召し問はんとせられしに、「林家(りんけ)の門人たる」よしを聞かれて、まづ、祭酒に告げられしかば、祭酒、卽ち、脩静を招きよせて、

「件の記文を、まゐらせよ。」

と、ありけるに、脩静、答へまうすやう、

「件の拙文は、一時(いちじ)漫戯(まんげ)の稿本なりしを、何某(なにがし)に貸したりしが、いく程もなく、失ひて、今は、一ひらも候はず。仰せの趣き、畏(かしこま)り候へども、なきものなれば、せんすべも、なし。この義、ひたすらに賢察を願ひ奉る。」

と陳じゝかば、祭酒、すなはち、脩静を退(しりぞ)かして、又、家臣をもて、問はしめ給ふに、脩静、陳(ちん)ずること、初めの如し。家臣はこれをまことゝせず。なほ、さまざまに詰(なじ)りしかぱ、祭酒、これを推し禁(とゞ)めて、

「威をもて、逼(せま)るは、要(えう)なき業(わざ)なり。利害を說きて諭(さと)さば、足りなん。問ふこと、再三、再四にして、白(まう)すことの違はぬは、實(じつ)に失ひたるならん。おきね、おきね。」

と、とゞめさせて、宿所にかへし給ひしとぞ、程經て後に、聞えける。

 此の事、世間に聞えしかば、知るもしらぬも、おしなべて、駭嘆せずといふものなく、踈(うと)きは、

「愚。」

として、これを嘲り、親しきは、憫(あはれ)めども、救ふよしもなきまゝに、

「あなや、脩静は、不測の罪に身を喪ふ歟。」

と阽(あやぶ)みしに、祭酒、愛顧のとりなしにやよりけん、又、その母に孝なるよしさへ、尹にしられたるにやあらん、やうやくに免かれて、させるおほん咎もなかりけり。

[やぶちゃん注:「記文一篇」書名を明らかにしていないが(「散逸した」と証言していることからの、馬琴のポーズであろう)、ウィキの「蒲生君平」によれば、先の「山陵志」が町奉行の取り調べに遭ったことを『不服として』「憤記」『を執筆したところ、再度取り調べを受け、林述斎の弁明で事なきを得た』とあるのが、それである。]

 脩静、江戶に僑居してより、文化の始めまで、駒込吉祥寺門前にをり、七年庚午[やぶちゃん注:文化七(一八〇七)年。]の春二月、更に卜居して石町なる鐘撞堂新道へ移りにけり。

[やぶちゃん注:ウィキの「蒲生君平」によれば、陵墓実地『調査の旅から帰郷した後は、享和元年』(一八一〇年)『に江戸駒込の吉祥寺付近に修静庵』『という塾を構えて何人かの弟子を講義し、貧困と戦いながら』、同年に「山陵志」を『完成させた』とし、更に文化七(一八一〇)年には、『居を神田石町の鐘撞新道に移し』、『同年、師・鈴木石橋の資金援助を受け』て、「職官志」を一部、刊行している。『江戸では、大学頭・林述斎に文教振興を建議している。構想していた』「九志」=(「神祇志」・「山稜志」・「姓族志」・「職官志」・「服章志」・「礼儀志」・「民志」・「刑志」・「兵志」)のうち、『出版できたのは』、「山陵志」と「職官志」だけで『あり、それも借財を背負ってのことであ』った。「職官志」を通しては、『平田篤胤との親交が始まっ』ている、とある。]

 駒籠(こまごみ)[やぶちゃん注:「駒込」に同じ。]にありし日より、敎授に口を餬(もら)ふものから、「山陵志」に相つゞきて、又、「職官志」を彫らんとすなれば、財用、足らで、窮すれども、志氣、卓(たか)く傑出して、持論聽くべく、文章、觀るべし。

 又、ある時は、交遊・宴會の席につらなりて、脩静、特に强飮(がういん)酩酊、劇談放言して、讓らず。その體(てい)たらく、傍若無人に似たりといへども、方正鯁直(ほうせいきやうちよく)の性(せい)、言外にあらはれて、國を憂ふるの心、一日半時(いちにちはんじ)も撓(たゆ)むこと、なし。

[やぶちゃん注:「鯁直」「かうちよく(こうちょく)」とも読む。「鯁」は「魚の骨が咽喉に刺さる」の意で、「直言が受け入れられがたいこと」を喩えて言ったもの) 人に諂(へつら)わず、権勢を恐れないこと。強く正しいこと。]

 はじめ脩静が、山陵訪求の爲に京に赴きしとき、彼地に、絕えて、しる人なし。當時、小澤蘆庵は、古學を好みて、萬葉風の詠歌に名たかく、

「世にすねたる陰逸なり。」

と、かねて傳へ聞きしかば、

「渠(かれ)が助けを借らばや。」

とて、その京に入りし日に、やがて蘆庵が宿所(しゆくしよ)を尋ねて、

「云々(しかじか)。」

と、おとなふ程に、小澤が家僕(かぼく)、出で迦(むか)へて、

「いづこより。」

と問ふ。

 いひよるよしもなきまゝに、脩静、まづ、佯(いつは)りて、

「某(それがし)は、下野なる宇都宮のほとりにて、蒲生伊三郞と呼ばるゝ者なり。琴(きん)を好み候へども、田舍には、よき師、なし。主人(あるし)の翁(おきな)は、琴(きん)の妙手にておはするよし、東野(とうや)の果(はて)まで、かくれなし。是れにより、おほん弟子にならまく欲(ほ)りして、遙々と來つるにて候。」

といふ。

 その僕、こゝろを得て、奧に赴き、云々(しかじか)と告げにけん、蘆庵は、聲を高くして、

「あな、無益(むやく)にも、問はれごとかな。汝、出でて、しか、答へよ。『主人(あるじ)は、久しう、客を辭し、交りを絕ちたれば、都のうちだにも、親しう物(もの)せるは、稀なり。琴は、若かりし時、搔き鳴らしたりけるを、あちこちの人に知られて、「彼(かれ)にきかせよ、此(これ)に敎へよ。」と、いはるゝが、うるさければ、近ごろ、うち摧(くだ)きて薪(たきゞ)に代へたり。かゝれば、所望にしたがふべくもあらず。他(た)に行きて、求め給へ。』。」

といふ聲の、蒸襖(むしふすま)[やぶちゃん注:「からかみ」と同じで普通の襖のこと。]一重(ひとへ)を隔てて、定かにぞ、聞えける。

 脩静は、僕が報(つ)ぐるに及びて、そが、「しかじか」といふを、しも、またず、さらに又、推しかへして云ふ、

「翁(おきな)のおほん答へは、こゝにも、つばらに、もれきゝたり。某、猶ほ、一言(ひとこと)あり。願ふは、枉(ま)げて聞きたまへ。吾は、下野なる儒者なり。しかじかの志願あれば、屢(しばしば)、江戶に遊學し、こたみ、都に上りしかども、相ひ識れるもの、絕えてなし。翁の古學を好み給ふと、その氣質の俗ならぬは、かねて傳へ聞くものから、いひよる由のなきまゝに、『琴(きん)を學ばん爲にとて來りつる』といひしなり。こは長者(ちやうじや)を欺(あざむ)くに似たれども、その虛言(そらごと)は已むことを得ざりし實情(まこと)より出でたれば、許され對面せられば、肝膽(かんたん)を吐き、志願を告げて、翁の資(たす)けを借(か)らんと欲(ほ)りす。かくても、意(こゝろ)に稱(かな)はずば、退(しりぞ)けられんこと、勿論たるべし。今一たび、和殿(わどの)を勞(らう)せん。此由(よし)、執り次ぎ給へ。」

といふ。

 蘆庵も、これを洩れ聞きて、

「さりとは思ひかけざりき。竒(く)しき客人(まれびと)なり。對面せずば、悔しきことあらん。」

とて、

「『こなたへ』と申せ。」

とて、やがて、面(おもて)をあはしけり。

 脩静、ふかく歡びて、夙(はや)くより、思ひ起しゝ志願の由を說き示し、「山陵志」著述の爲に、古き御陵(みさゝぎ)を尋ねんとて、旅寐をしつることの趣き、

「云々(しかじか)。」

と、かたりいづるに、蘆庵も、只管(ひたすら)、感歎して、

「足下(そくか)は、得がたき學士なり。さる志しあらんには、吾が庵(いほり)に杖をとゞめて、こゝらわたりの御陵(みさゝき)を、しづかに訪求(はうきう)し給へ。」

とて、又、他事(たじ)もなく、もてなしけり。

[やぶちゃん注:「小澤蘆庵」(享保八(一七二三)年~享和元(一八〇一)年)は歌人・国学者。父は小沢喜八郎実郡(実邦ともいわれる)。一時、本庄家に養子に入り、本庄八郎と称した。名は玄仲(はるなか)・玄沖。通称は帯刀。別号は観荷堂・図南亭・孤鷗・七十童・八九童。法号は寂照院月江蘆庵居士。難波で生れ、京都に住んだ。「平安和歌四天王」の一人。三十歳頃、冷泉為村に入門し、武者小路実岳にも学ぶが、独自の歌学に目覚め、「ただごと歌」を主張したことから、為村から破門された。蒲生君平以外にも、伴蒿蹊・本居宣長・上田秋成などという錚々たる人物と交遊している。武士としては、尾張藩家老の家臣であり、国学者としては尊王論を展開した(当該ウィキに拠った)。]

 これにより、脩静は、日每に古陵(こりよう)を尋ね巡(めぐ)るに、ともすれば、日暮れて歸るを、主人(あるじ)は、自から、風呂を焚きて、浴(ゆあみ)させぬる。老人の心づかひを、

「胸苦(むねくる)し。」

とて、いなめども、從はず、

「これ等の事は、只管(ひたすら)に客を愛する故のみならず、吾も亦、かゝる竒人に宿(やど)することの歡ばしさに、足下の疲勞(つかれ)を慰めて、『恙なかれ』と思ふよしは、『國の爲に、力を竭(つく)す人の、助けにならん。』とてなり。必ず、辭退(いな)みたまふな。」

とて、後々までも、然(し)かしてけり。

 かゝりし程に、脩静は、ある夜(よ)、更闌(こうた)けて、子ふたつ[やぶちゃん注:午後十一時頃。]のころ、歸りしかども、蘆庵は、いねず、待ちてをり、例の如く、浴(ゆあみ)させ、飯(めし)をすゝめて、さて、いふやう、

「われ、足下に宿(やど)せる日より、疏菜(そさい)の外(ほか)に、物もなく、させるもてなしを爲(せ)ざれども、夜は老僕を休(やす)らはせんとて、手づからに風爐(ふろ)さへ焚くを、思ひ汲みたまはずや。古陵を尋ね巡ればとて、今までは、要なからんに、道草、くうてか。老人に、物をおもはせ給ふこと、こゝろ得がたし。」

と呟きけり。

 脩静、聞きて、貌(かたち)を改め、

「翁の恨み、ことわり也。わが非を飾るにあらねども、更闌(かうたけ)けたるは、聊(いさゝか)、ゆゑあり。懺悔(ざんけ[やぶちゃん注:ママ。当時は「さんげ」が一般的な読みである。])の爲に笑ひに備へん。今日(けふ)は某(それ)の天皇の陵(みさゝぎ)をたづねたりしに、日の暮るゝまで、尋ねも、あはで、思はずも、等持院なる尊氏の墓を見たり【等持院は金閣寺の北郊、石不動の北に在り。尊氏の法號を、「等持院」と云。この寺に足利氏十三世の木像あり。】[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版「兎園小説」では『頭書』とある。]。こゝに至りて、年來(としごろ)の恨み、心頭に起こりて堪へられず、墓に向つて罵るやう、

『梟臣(けうしん)尊氏、なほ、靈あらば、今、いふことを、慥(たしか)に聞け。汝は、一旦、治まりたる「建武重祚」の世を亂して、逆(ぎやく)に取り、逆に守りし毒を、後世(こうだい)に流せしより、二百十數年、干戈(かんくわ)をさまらず、國の舊典(きうてん)も、これが爲(ため)に燒け亡び、王室も亦、これによりて、卑(いや)しく、古帝(こてい)世々(よよ)の山陵(さんりやう)すら、迹、なくなりて、吾等にさへ、飽くまで物を思はするは、皆、悉く、汝が罪なり。天罸(てんばつ)、當(まさ)に知るべし。』

とて、杖をもて、石塔を思ふまゝに打ちたゝき、かくて、寺門を出づる程に、物ほしう、なりしかば、道のほとりの酒屋に立ちより、怒りにまかして飮む程に、六、七合を盡くしたり。さて、酒屋を出でしかど、醉ふてて、足も定まらず、

『此まゝにて、かへりゆかば、必ず、翁に叱られん。なかば醒(さま)してゆかめ。』

と思ふて、株(くひぜ)に尻を掛けしより、熟睡(うまい)やしけん、時も移りて、駭(おどろ)き覺(さ)むれば、更闌けたり。」

と語るに、蘆庵は噴き出だして、思はず、

「呵々。」

と、うち笑ひ、

「さても。世の中には、似たる馬鹿ものも、あれば、あるものかな。吾も亦、往(い)ぬる年(とし)、ある日、靈山(りやうぜん)のほとりに逍遙して、長嘯子(ちやうせうし)の墓所を過(よぎ)りし時【長嘯子は木下。氏名は勝俊。豊太閤の外族たるをもて、若狹の國を領せり。「關ケ原役」の後、所領、失ふて、東山に幽栖し、「天哉翁」と云ふ。】、さすがに、宿恨(しゆくこん)なきにあらねば、行きも得(え)やらずにらまへて、

『長嘯子、不滅の罪あり。わぬし、みづからこれをしるや。わぬしは豊太閤の外族(ぐわいぞく)として、位、高く、且つ、采地(さいち)も廣かるに、心ざま、武士に似ず、「伏見の駕籠城」に敵の旗色を見て、鬼胎(きたい)[やぶちゃん注:心中の秘かな恐れ。]を抱き、鳥居元忠(もとただ)等(ら)を、棄て殺(ころ)しにせしは、不義なり。事(こと)成(たひら)ぎて、罪を蒙り、はつかに、命を助けられしを幸ひにして、耻を知らず、心にもあらぬ、世捨人貌(よすてびとがほ)して、似非歌(えせうた)、多く詠じたる。「一盲、衆盲を引きし」より、歌の調べのわろくなりて、今に至るまで、なほらぬは、是れ、不滅の罪にあらずや。冥罸(みやうばつ)、かくの如くならん。』

と罵りながら、杖をあげて、墓を毆(たゝき)たる事、ありけり。こは、よく似たるにあらずや。」

と、語りもあへず、聞きも、をはらず、齊(ひと)しく、腹を抱へし、とぞ。

 昔、吳國に、さるものあり。さばれ、楚の平王は讐(あだ)といふとも、その親の爲(ため)に君(きみ)なり。さるを、その墓を發(あば)き、その屍(しかばね)を鞭うちしは、過ぎたるに似て、餘情(よせい)なし。もし、伍子胥(ごししよ)をして、投化(とうくわ)せしめ、この時にしもあらしめば、かならず、階(かい)を降(くだ)るべし。

[やぶちゃん注:「投化」徳を慕って訪ね来たって、その人物に帰服すること。「投帰」とも言う。

 以上で底本の本文は終わっている。以下は、曲亭馬琴「兎園小説」の方でここに載る蒲生君平の墓誌「君臧」というのは蒲生君平の字(あざな)。彼の墓は台東区谷中一丁目の臨江寺(グーグル・マップ・データ)にあり、東京都庁公式サイト内の「東京都文化財情報データベース」の「蒲生君平(がもうくんぺい)墓」を見ると(墓石写真有り)、『正面上位に『蒲生君藏墓表』、四面に蒲生君平の業績が刻まれてい』るとあるので、この場合の「臧」は「藏」(くら)と同義字である。「臧」は現行では殆んど使用されることがなくなったが、旧刑法用語の「臧物」(ざうぶつ(ぞうもぶつ))が辛うじて汎用されていた。所謂、「犯罪に依って他人の財産を侵害し、手に入れた物。盗品の類い。贓品(ぞうひん)」で、その影響から、私などは悪い意味しか想起出来なかったが、実際、「臧」には「腸(はらわた)・内臓」・「蔵・倉庫」・「賄賂」・「下部・下僕・しもべ」・「隠す」とネガティヴな義が多いものの、「納める」・「良い」の意がある。今までの経験上、吉川弘文館随筆大成版は誤字や誤判読があって、当てにならない上に、最後に馬琴が、これは「蒲生の墓碑より拓本を採ったのだが、摩耗がかなりあって、誤字があることを危惧するので、まさに後日の校訂を俟つ」と述べているから、「国文研データセット」にある蒲生君平の「皇和表忠録」に附帯する「蒲生君臧墓表」と校合した。上から三段目の画像の左から二つ目から右へ向かい、四段目最後までで、アドレスの末尾「00014.jpg」から「00019.jpg」に至る六画像である(異体字は私が一般的と考える方で採り、必ずしもリンク先のそれとは異なる)。但し、そちらは総て読点である。吉川弘文館随筆大成版に従い、句点で統一した。欠文が、いきなり、冒頭にあった。馬琴の翻刻は、相当な量のミス(誤字もあるが、脱字・脱文が有意に多い)があるので、いちいち注すると、五月蠅くなるだけなので、どこを挿入し、どこを訂したかは記さない。吉川弘文館随筆大成版と御自身で対照させて比較されたい。まあ、これだけでも、後記の馬琴先生の要請に百九十五年後の、今、私が応えたものとして、電子化した価値は十二分にあろうと存ずる。冒頭の五番目の一文の尊称改行は気持ちが悪い(上記リンク先のここの右丁の四行目。但し、そこでは一字空け。校合本では、後にも同様の、或いは不審な字空けが頻繁に出現するが、総て無視した)ので、完全に詰めた。作者「藤田一正」(かずまさ)は儒学者で民政家の藤田幽谷(安永三(一七七四)年~文政九(一八二六)年)で後期水戸学の中心人物の一人。かの藤田東湖の父である。一正は本名。著書に「正名論」・「勧農或問」・「修史始末」などがある。篆刻者は不詳。]

 

蒲生君臧墓表

   常陸 藤田一正撰  源千之 幷篆額

[やぶちゃん注:校合本には下方の「源千之」以下はない。]

昔者中郞氏。學周孔之道於南淵先生。養素丘園。高尙其事。一出而翊中宗中興之運。再造邦家。經綸鴻業。大織冠之勳。塞天地。是以藤姓之胤。世秉國鈞。實與社稷休戚。而枝葉蔓延。殆徧ㇾ于海内。其薨也。學士紹明。欲ㇾ傳令名於不朽。製碑文以示後世云。距ㇾ今千有餘歲。其文雖ㇾ不ㇾ可得而見。然大人君子墓碑有ㇾ文。葢此爲ㇾ始。淡海文忠公。在大寶養老之際。奉ㇾ詔刊修律令。其喪葬令曰。凡三位以上。及別祖氏宗。竝得ㇾ營ㇾ墓。凡墓皆建ㇾ碑。記某官姓名之墓。當此之時。朝野尙ㇾ文。兦[やぶちゃん注:「亡」の正字。]ㇾ論其名公鉅卿。廼至遐陬僻壤國造郡領之墓。亦有立ㇾ石銘ㇾ文者矣。其後浮屠盛行。而葬祭之禮先廢。文章與時運汚隆。而紀述德業。莫ㇾ或之聞。慶元已來。偃ㇾ武修ㇾ文。摻觚之士稍衆。碑碣之撰不ㇾ尠。兦ㇾ論其閥閱之家。廼至文人儒士山林隱逸之流。苟有稍足稱述。亦皆有以立ㇾ石銘ㇾ文者矣。嗚呼。君臧。關東布衣。發ㇾ憤著ㇾ書。欲我神聖之道於中國。徵ㇾ之以西土周孔之敎。終身轗軻。齋ㇾ志以歿。曾無一資半給之潤其身。而尺寸之功。不ㇾ克ㇾ施諸當世。然其浩然之氣。託諸文章。卓卓其不ㇾ朽者。可以與古人上レ徒矣。其墓之有ㇾ表。豈得ㇾ已哉。君臧諱秀實。一名夷吾。字君平。下野人也。本福田氏之子。自改氏蒲生。蒲生。淡海望族。系出藤原朝臣秀鄕。至會津參議氏鄕。而大顯。先世屢遷徙野奧之間。其宗爲有土之君者。兦ㇾ嗣絕ㇾ祀。既百數十年矣。君臧廼其庶孽苗裔云。東野之俗素强悍。君臧少以ㇾ氣自豪。讀ㇾ書不ㇾ治章句。慨然有經濟之志。及ㇾ壯好ㇾ遊。足跡殆徧天下之半。然未曾登仕路。故雖身在都會乎。常有山林樸茂之氣。其平生所持論。未甞少自貶以求一ㇾ售。故圓枘方鑿。俗儒笑以爲極迂濶。而君臧自信愈篤。恒謂其友曰。吾以編戶餘夫。不ㇾ能ㇾ治生商賈。又不肯仕官爲ㇾ吏以干升斗之祿。讀ㇾ書作爲文章。亦不ㇾ能曲學阿世之徒ㇾ伍。朝韲暮鹽。坐取困窮。子亦知其所以然乎。吾少時甞在ㇾ家讀ㇾ書。先祖母自ㇾ旁語ㇾ我曰。昔蒲生氏之自會津。徙封宇都宮也。其庶孽有帶刀某者。食祿三千石。納邑豪福田氏女爲ㇾ妾。有ㇾ身。適會蒲生氏再封會津。帶刀亦隨而徙焉。時留其妾父家。既而生ㇾ男。妾父母愛ㇾ之。不ㇾ忍其遠別。佯告以女子。因鞠于其家。後冐母姓。遂爲編戶之民氓。是於ㇾ汝高祖之父也。汝讀ㇾ書者。善記ㇾ之。吾於ㇾ是發ㇾ憤立ㇾ志。講究古學。欲曠世之墜典。以報國恩之萬一。庶幾乎其不ㇾ辱先祖矣。吾生也晚。不ㇾ逢大化大寶之世。大織淡海二公之相業。非ㇾ所企及。雖ㇾ然在其位者行其道。不ㇾ在其位者行其言。稽ㇾ古徵ㇾ今。通達國體。王政之要。在ㇾ納民於軌物。俾在ㇾ上之人明祀典。以敎孝敬。四海之内。各以其職上ㇾ祭。則天祖之所以照臨六合者。萬世無ㇾ墜矣。冨諸矦以奮武衞。安百姓以固邦本。是吾願也。昇平二百年。不ㇾ値天慶天正之亂。秀鄕氏鄕兩朝臣之將略。無復所一ㇾ施。雖ㇾ然安思ㇾ危。古之善敎。天下雖ㇾ安所ㇾ可ㇾ虞者。夷狄盜賊。正名分以定民志。禁左道以塞亂源。使吾說獲一ㇾ行。則遠宴安之酖毒。驅戎狄之豺狼。不啻致一時摧陷廓淸之功。將ㇾ俾斯民永無被髮左袵之患矣。斯吾志也、志願如ㇾ是。悠悠之徒。曷足與談哉、君臧又曰。仲尼稱。吾志在春秋。春秋經世之志。以道名分。周公遺法存焉。故爲ㇾ政正ㇾ名。夫子所ㇾ先。戎狄是膺[やぶちゃん注:校合本(右丁六行目)では「膺」の「广」の内部の上部が「亻」ではなく「壅」の「亠」と「土」を除去した字で、下方が「月」ではなく、「冂」の中に左画中央に接して「コ」とあるのだが、表記不能。訓読では「膺」としておく。]。周公之遺訓、今世俗儒。以ㇾ文亂ㇾ名。俗吏以ㇾ權亂ㇾ法。亂ㇾ法者。罪止其身。亂ㇾ名者。其言載筒册。而流毒於後世。夫神州。天地之正氣也。寒溫均適。寔爲中國。和平見ㇾ乎ㇾ穀。而甘美豐饒。文敎所ㇾ及。其養以給。精英發ㇾ乎ㇾ鐵。而堅剛鋭利。武威所ㇾ加。其功以成。限以天地。莫ㇾ有外異賊内侵之患。開闢以來。天祖之胤。世世傳ㇾ統。君臣上下之分。嚴威乎無ㇾ紊。宇宙之間。孰能及我神州者。故日出處天子。日沒處天子。雖ㇾ交大國。不肯苟讓。惜夫名也。今俗儒不ㇾ知名分。動虧國體。苟忘内外之分。而不ㇾ顧其名。則愛新覺羅氏之正朔。亦可禀而奉一ㇾ之。鄂羅斯國之察罕汗。亦可稱爲女帝也。可乎哉。丁卯歲。北虜擾ㇾ邊。君臧時在江戶。聞ㇾ之憂憤。廼著不恤緯五篇。詣國老門下。上書獻ㇾ之。不ㇾ報。先ㇾ是。君臧嘗聞古先帝王之山陵。或有荒廢者。欲之當路。以圖其修覆。躬自歷視其地。參考古圖舊記。作山陵志。平生精力。半在此書。書成獻之京師及關東諸公用ㇾ事者。有司嫌其論建非處士所一ㇾ宜。召詰ㇾ之。君臧乃引律文。誦故事以對。當ㇾ是君臧慷慨自奮。欲天下世人之所ㇾ難ㇾ言者。雖由ㇾ是獲一ㇾ禍。而不ㇾ顧也。有司惡其不遜。將ㇾ寘之重法。時有一學士。操文柄世所貴重。憫君臧而救ㇾ之曰。儒生喜論ㇾ事、固不ㇾ足ㇾ怪。草野之人不ㇾ知忌諱。亦何足深罪。置而不ㇾ問。可也。[やぶちゃん注:ここ(右丁五行目下方)は「兎園小説」版では「而不ㇾ顧也」(「兎園小説」版は「也」がない)の後が、異様にごっそりと文章が異なる。「兎園小説」では、『故時人目君臧狂妄。殆將ㇾ罹不測之罪。盖或有君臧之爲一ㇾ人者。憫而救ㇾ之。』で以下に続く。]因獲ㇾ免。君臧素剛膓。不ㇾ能仰當世。以取上ㇾ容。廼澆以ㇾ酒。時或劇飮大醉。頽然自放。而憂國之念。未甞頃刻忘也。間居講ㇾ學。以懲ㇾ忿ㇾ慾。不敢與ㇾ世抗爲ㇾ務。廼號其所ㇾ居之菴。曰修靜。以自警。謂修ㇾ身在ㇾ此。而成ㇾ名亦在ㇾ此。敎授之暇。專力著述。始君臧著革弊賦役等諸論。號曰今書。以規當世得失。至ㇾ是更撰職官志。欲以ㇾ次編神祇姓族等志。與山陵併爲九志。未ㇾ及悉成。文化十年癸酉七月五日。以ㇾ疾歿ㇾ于江戶僑居。享年四十有六。君臧壯而丁家艱。服除遊歷四方。故晚而娶。其配多氏。紅葉山伶官某之女。無ㇾ子。君臧之歿也。其交遊尤親且舊者。相聚而哭ㇾ之曰。斯人也。作山陵志者。其於葬祭之禮。最致ㇾ意焉。不幸無ㇾ嗣。襄事之責在朋友。其可ㇾ不ㇾ盡ㇾ心乎。廼葬之江戸北郊谷中龍興山臨江寺域内。以余與君臧相識最久也。託以表墓之文。廼書以遣ㇾ之。使之鑱諸石曰。

嗚呼君臧。常以關東布衣自稱。雖ㇾ不ㇾ免阨窮。猶爲天下奇男子。豈可閭里儒梟。號稱先生同ㇾ年而語哉。吾聞其臨ㇾ終。尙稱天地之正氣。且有三寶之說云。留精靈於天地之間。將其人而授上ㇾ之。古之所ㇾ謂死而不ㇾ兦者。其君臧之謂邪。噫。微斯人吾誰與歸。

文政元年歲在戊寅[やぶちゃん注:一八一八年。]秋八月

[やぶちゃん注:以下は「兎園小説」の記載。総て馬琴の追記である。]

  墓石 縱曲尺三尺四寸餘 橫曲尺壱尺二寸五分

  碑文 一千八百六十一言 篆額題目撰者姓名共十有三字

  統計一千八百八十六字

解云。墓表則稱其私諡。予記文則稱其號。此以ㇾ有ㇾ所ㇾ忌故也。乙酉冬十一月廿三日[やぶちゃん注:文政八年。グレゴリオ暦では一八二六年一月一日である。]。予攜興繼臨江寺。謁亡友蒲生子之墓。卽便薦行澄祭ㇾ之。祭訖以蠟墨拓碑文。未兩三頁。短景旦暮。倉卒之際。磨減之多。還ㇾ家視ㇾ之。不ㇾ易ㇾ讀者過半矣。因推ㇾ文以ㇾ意謄寫焉。恐有誤字。俟異日再搨校訂者也。

[やぶちゃん注:私は尊王思想自体は大嫌いである。さらに蒲生氏は、「あらやしき」(神道の冥界)にあっても、そうした二鞘にして不倶戴天の私の、この碑石の墓誌の訓読を、断然、拒否されるであろうから、当初、訓読は示さない予定であった。一部に意味がよく分からない箇所もあったが、校訂しつつ、電子化しながら、管見した限り、言っていることは、上記で馬琴が記した内容に概ね沿っており、上記の校訂漢文本文でも十全に理解は出来る内容であると思ったが、校訂を終る頃には、何とも言えず、蒲生君平に感情移入が強く生じてきて、しんみりしてくるまでに私の内心に変化が生じた。されば、折角の「兎園小説」正編全篇の終りである。暴虎馮河で、以下に馬琴の追記も含め、訓読を試みることとした。読み易くするために段落を成形した。読みは総て私の推定(歴史的仮名遣)。

   *

蒲生君臧(がまふくんざう)墓表

   常陸 藤田一正撰  源千之 幷(ならびに) 篆額

 昔者(むかし)、中郞氏、周・孔の道を南淵先生に於いて學び、素丘園に養ひたり。其の事、高尙たり。一たび出でて、中宗の中興の運を翊(たす)へ、再び、邦(くに)の家(や)を造り、鴻業(こうげふ)、經綸(けいりん)せり。

[やぶちゃん注:「中郞氏」不詳。

「中宗」一度亡んだ漢を再度、後漢として「中興」した初代皇帝光武帝劉秀(紀元前六年~紀元後五七年)のことか。

「鴻業」大事業。

「經綸」国家を治め整えること。天下を統治すること。また、その施策。]

 大織冠の勳は、天地を塞(ふさ)げり。是れ、以つて、「藤」の姓の胤(いん)たり。世に國鈞(こくきん)[やぶちゃん注:国政。]を秉(と)れり。實(げ)に社稷と休戚を同じくせり。而も、枝葉、蔓延して、殆んど、海内に徧(あまね)し。

 其れ、薨せるや、學士紹明、名を不朽のものとして傳令せんと欲し、碑文を製して、以つて、後世に示して云はく、

「今を距つること、千有餘歲、得て見るべからざると雖も、然れども、大人・君子の墓碑、文、有り。葢(けだ)し、此れ、始めと爲(な)す。淡海文忠公、大寶・養老の際に在りて、詔を奉じて「律令」を刊修す。其の「喪葬令(もさうれい)」に曰はく、『凡そ三位以上、及び、別祖・氏宗(ししゆう)は、竝びに、墓を營むことを得。』。『凡そ、墓、皆、碑を建てり。「某官・姓名の墓」と記せ。』と。」

[やぶちゃん注:「別祖」嫡流から分派した氏の始祖。

「氏宗」正規の嫡流の氏姓の家祖。]

と。

 當に此の時なるべし、朝野、文を尙(たつと)ぶ。其の名・公・鉅卿(きよけい)を論(あげつら)ひて兦(ばう)せるをいふ。廼(すなは)ち、遐陬(かそう)・僻壤・國造郡(くにつくりのみやつこ)の領(みやつこ)の墓に至るに、亦、石を立てて文を銘(しる)す者、有り。

[やぶちゃん注:「鉅卿」「公卿」に同じ。

「遐陬」「かすう」とも読むが、「すう」は「陬」の慣用音で正しくない。人里離れた所。辺鄙な土地。]

 其の後、浮屠、盛行し、而して、葬祭の禮、先づ、廢(はい)さる。文章、時運と與(とも)に、汚隆(をりゆう)あり。而して德業を紀述せるも、之れを聞くこと、或る莫し。

[やぶちゃん注:「浮屠」仏教。

「汚隆」「汚」は「地面の窪み」で、二字で「土地の低いことと、高いこと」。転じて、「衰えることと盛んになること」で「盛衰がある」の意。]

 慶元已來、武を偃(おご)りて、文を修し、摻觚(さんこ)の士、稍(やや)、衆(おほ)く、碑碣(ひけつ)を指す。石碑或いはそれに刻した碑文のこと。]の撰、尠(すく)なからず。其の閥閱(ばつえつ)の家を論ひて兦せるをいふ。廼ち、文人・儒士・山林隱逸の流(りう)に至れり。

[やぶちゃん注:「慶元」南宋の寧宗の治世に使用された元号。一一九五年 から一二〇〇年まで。

「摻觚の士」一般には「操觚之士」(そうこのし:現代仮名遣)である。文章を書くことを生活するための手段にしている人。「觚」は中国で「文字を書いた木札」のことを指し、それを操る(「摻」は「執(と)る」)人という意。

「碑碣」「碑」は「石碑の方形のもの」で、「碣」は「その円柱形のもの」を指す。石碑、或いは、それに刻した碑文のこと。

「閥閱」権勢のある一門・家柄と功績。]

 苟(いや)しくも、稍、稱述するに足る者有れば、亦、皆、以つて、石を立て、文を銘す者、有り。

 嗚呼(ああ)、君臧、關東の布衣(ほい)、憤りを發して書を著(しる)す。

 我が神聖の道を、中國に明(てら)して、之れに徵して、西土の周・孔の敎へを以つてせんと欲するも、終身、轗軻(かんか)にして、志を齋(いつ)きて、以つて歿す。

[やぶちゃん注:「轗軻」元は「道が凸凹で車が上手く進めないさま」から転じて、「志を得ないこと」の喩え。]

 曾つて一資半給にて、之れ、其の身を潤ほすこと、無し。而して、尺寸の功、諸(もろもろ)の當世の施しを克(よ)くせず。

[やぶちゃん注:「一資半給」同年齢の町人男子の一人前の半分の給与ということか。但し、蒲生が若き日に何らかの職に就いたという事実は見当たらない。晩年の享和元(一八〇一)年)に江戸駒込の吉祥寺付近に修静庵という塾を構え、何人かの弟子に講義したことはあるが、それも殆んど稼ぎにはならなかったと思われる。]

 然れども、其の浩然(かうぜん)の氣、諸文章に託せり。卓卓として、其れ、朽ちざれば、以つて古人と與(とも)に徒(ともがら)と爲すべし。

[やぶちゃん注:「浩然」「浩」は元は「水が豊かなさま」で、心などが広くゆったりとしているさま。

「卓卓として」際立って優れている様子。]

 其の墓、之れ、表、有り。豈に已むを得えんや。

 君臧、諱(いみな)、秀實(ひでざね)。一名、夷吾(いご)。字(あざな)は君平。下野(しもつけ)の人なり。本(もと)、福田氏の子。自(みづか)ら、氏を蒲生と改む。蒲生は、淡海(あふみ)の望族(ばうぞく)なり。系は藤原朝臣秀鄕に出で、會津の參議氏鄕に至る。而して、大いに顯らかなり。先世は、屢(しばしば)、野奧の間に遷徙(せんし)するも、其の宗(そう)、有土の君たる者なり。

[やぶちゃん注:「淡海」「近江」に同じ。藤原秀郷の一説の出生地であり、後裔蒲生氏郷の出生地でもある。

「望族」人望があり、名声の高い家柄。

「有土の君」意味不明。「ゆうどのきみ」「うどのきみ」?。領地を持った権勢家の意か。]

 嗣(し)、兦(な)く、祀(まつり)絕え、既に百數十年。君臧、廼ち、其れ、

「庶孽(しよげつ)の苗裔。」

と云へり。

[やぶちゃん注:「庶孽」正妻でない女性が産んだ庶子。]

 東野の俗、素(もと)より、强悍たり。君臧、少しく氣を以つて、自(おのづ)から豪たり。書を讀み、章句を治めず、慨然として經濟の志し、有り。

[やぶちゃん注:「書を讀み、章句を治めず」ただ先賢の言葉を読んだだけでは「満足しない」の意か。]

 壯に及びて、遊(ゆう)を好み、足跡は、殆んど天下の半ばを徧(あまね)くせり。然れども、未だ曾つて仕路(しろ)に登らず。故に、雖身は都會に在ると雖も、常に山林樸茂(ぼくも)の氣に有るがごとし。其の平生(へいぜい)の持論とする所は、未だ甞つて、少しも、自らを貶して、以つて、售(う)るを求めず。故に圓枘方鑿(ゑんぜいはうさく)たり。俗儒、笑ひて、以つて、

「極めて迂濶たり。」

と爲せり。

[やぶちゃん注:「遊」「あそび」ではなく、学術的踏査のための「遊歷」の意。

「仕路」藩の雇人や官吏となる道。

「樸茂」草木が繁茂すること。

「圓枘方鑿」普通は「円鑿方枘」(えんさくほうぜい:現代仮名遣)で、「丸い穴に四角い枘(ほぞ)を入れようとすること」の意から、「物事がうまくかみ合わないこと」の喩え。出典は「史記」の孟子伝から。この場合は、丸い枘を四角い穴に差し込もうとすることになるが、同義でよい。]

 而れども、君臧、自信、愈よ、篤く、恒に其の友に謂ひて曰はく、

「吾、編戶(へんこ)の餘夫(よふ)なるを以つて[やぶちゃん注:戸主の次男以下を指す。]、生商賈(なましやうばい)を治(おさ)むること能はず。又、仕官吏と以つて爲(な)り升斗の祿を干(ほ)すも肯(がへん)ぜず。書を讀みて、文章を作り爲(な)せり。亦、曲學阿世の徒(やから)と與(とも)に伍(ご)爲(す)ることも能はず。朝(あした)に韲(なますをくら)ひ、暮れに鹽(しほをな)め、坐して困窮せるを取る。子も亦、其の然(しか)る所以(ゆゑん)を知らざるか。吾、少時、甞つて、家に在りて、書を讀めり。先きの祖母、旁(かたは)らより我にりて曰はく、

『昔、蒲生氏の會津より、宇都宮へ徙封(しふう)するや、其の庶孽(しよげつ)に帶刀(たてはき)の某(なにがし)なる者、有り。食祿は三千石、邑豪(いうがう)の福田氏の女(むすめ)を納(い)れて、妾(めかけ)と爲(な)す。身、有り[やぶちゃん注:妊娠すること。]。適(たまた)ま、蒲生氏、再び會津に封ぜらるに會ふ。帶刀も亦、隨ひて徙(うつ)る。時に其の妾を父家に留む。既にして、男(をのこ)生まれり。妾の父母、之れを愛す。其の遠く別るるを忍びず、佯(いつは)りて告げて『女子なり』となす。因りて其の家に鞠(やしな)へり。後、母の姓を冐(かぶ)せ、遂に編戶の民氓(みんぼう)[やぶちゃん注:庶民。]と爲す。是れ、汝に於いては高祖の父なり。汝、書を讀まば、善く、之れを記(しる)せよ。』

と。吾、是(ここ)に於いて、憤りを發し、志しを立て、古學を講究して、曠世の墜典(ついてん)を脩(しゆ)せんと欲す。以つて、國恩の萬が一に報ぜん。庶幾(ねがは)くは、其の先祖を辱(はづかし)めざらんことを。吾、生まるるや、晚(くる)るも、大化・大寶の世に逢はず、大織・淡海の二公の相業(さうげふ)は、企て及ぶ所に非ず。然りと雖も、其の位(くらゐ)に在る者は、其の道を行き、其の位に在らざる者は、其の言を行ふものなり。古へを稽(かんが)へ、今に徵し、國體に通達して、王政の要(かなめ)を、民として軌物(きぶつ)に於いて、納めんとする在るものなり。上に在るの人、祀典を明(あきら)かにし、以つて孝敬を敎へ、四海の内、各(おのおの)其の職を以つて祭(まつりごと)を助けしむものなり。則ち、天祖の、以つて六合(りくがふ)を照臨する者の所(ところとす)るは、萬世、墜つる無し。諸矦を冨ませ、以つて武衞を奮ひ、百姓を安んじて、以つて邦(くに)の本(もと)を固むる、是れ、吾が願なり。昇平なること、二百年、「天慶」・「天正の亂」にも値(あ)はず、秀鄕・氏鄕兩朝臣の將略は、復た、施す所、無し。然りと雖ども、安(いづくん)ぞ危きを思はざる。古への善の敎へ、天下、安んずると雖も、虞るべからざる所(ところとす)る者なり。夷狄・盜賊、名分を正し、以つて、民の志しを定め、左道を禁(いまし)めて、以つて亂の源(みなもと)を塞(ふさ)ぎ、吾が說を行ひ獲(と)らしめん。則ち、宴の安きの酖毒(ちんどく)を遠ざけ、戎狄(じゆうてき)の豺狼(さいらう)を驅(お)ふ。啻(ただ)に一時に摧(くじ)き陷(おと)す廓淸(くわくせい)の功を致さず、將(まさ)に、斯くて、民の、永く、被髮左袵(ひはつさじん)の患(うれひ)を無くして俾(たす)けんとす。斯く吾が志なり。志しの願ひは是(こ)のごとし。悠悠たる徒(やから)は、曷(なん)ぞ與(とも)に談ずるに足らんや。」

と。

[やぶちゃん注:「編戶の餘夫」戸主の次男以下の男子を指す。

「身、有り」妊娠していること。

「民氓」庶民や流浪の民。

「墜典」亡佚した古典籍。

「大織」大職冠(たいしよくくわん(たいしょくかん))の略。孝徳天皇の大化三(六四七)年に定められた「十三階」の冠位の最高位。その後、天智天皇の時までに十九階、二十六階と増階されたが、孰れも、その冠位の最高位であった。後世の正一位に相当する。但し、中古以前にあっては、実際には天智天皇八(六六九)年に藤原姓の初祖藤原鎌足だけに授与された官位であったため、「大職冠」=鎌足を指す。

「淡海」既注の藤原秀郷のこと。

「軌物」道義や政(まつりごと)に於いて、必ず守らなければならない決まり。掟。

「六合」天地と四方とを合わせて指す語。上下四方。全宇宙。

『「天慶」・「天正の亂」』「天慶」「の亂」は「承平・天慶の乱」。平安中期に時を同じくして起った平将門・藤原純友の反乱。天慶四(九四一)年に小野好古(よしふる)らによって鎮圧された。将門を討ったのは藤原秀郷。「天正の亂」は「天正壬午の乱」のこと。天正壬午天正一〇(一五八二)年)に武田氏の旧領に当たる上・甲・信・駿地方で起きた戦乱の総称、同年三月の織田信長の武田攻め(「甲州崩れ」)から同年六月の「本能寺の変」後の若御子対陣に至る一連の動乱を指す。蒲生氏郷が活躍した時期。

「酖毒」「兎園小説」は『鴆毒』(同じく「ちんどく」)とするが、同義。中国で鴆という架空の鳥の羽にある猛毒。転じて「猛毒・毒物」でここは世のさまざな有意な害毒を持った諸現象を指す。

「戎狄の豺狼」「戎狄」はここでは日本以外の異国。「豺狼」は凶悪なヤマイヌとオオカミ(或いはいずれもオオカミ。「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗(ゑぬ いぬ) (イヌ)」を参照)。獰猛な悪者の比喩。

「廓淸」悪い相手・対象を完全に駆除すること。

「被髮左袵の患」文明が異なる地域にある当事者から見れば、侵入してきた外国人や異民族の野蛮な風習に従わさせられる憂いの意。「被髮」は、結い束ねずに「散切(ざんぎ)り」にした、見た目、乱れた髪型のこと。「左袵」は衣服の前を打ち合わせる際、左の襟を内側にして着ること。所謂、「左前」。中国では「右衽」を中華の風とし、「左衽」を夷狄(いてき)の習俗とした。ここは異国人が侵入してきて、本来の日本のそれとは、全く異なった奇体な習慣を強いられることを指す。

「悠悠たる徒」平然と落ち着き払った奴等。]

 君臧、又、曰はく、

「仲尼の稱して、『吾が志しは、「春秋」に在り。』と。「春秋」は經世の志したり。以つて、名分を道(い)ふ。周公の遺法は存(そん)せり。故に政(まつりごと)を爲(な)し、名を正す。夫子は先(さき)にせしむ。戎狄は、是れ、膺(せめう)つ。周公の遺訓に、『今世の俗儒は、文を以つて、名を亂す。俗吏は、權(けん)を以つて、法を亂す。法を亂す者は、罪、其の身に止まる。名を亂す者は、其の言、筒册に載す。而して流毒は後世に於けるまで、流る。』と。夫れ、神州、天地の正氣なり。寒・溫、均しく適(かな)へり。寔(まこと)に中國と爲(な)せり。和平なること、穀に見よや。而して、甘美にして豐饒たり。文敎、及ぶ所、其れ、養ひ、以つて、給ふ。精英は、鐵に發す。而して、堅剛にして鋭利たり。武威は加ふる所、其の功、以つて、成す。限るに、天地を以つてす。外異が賊の、内侵の患ひ、有る莫し。開闢以來、天祖の胤(たね)。世世、統(す)べきて傳へり。君臣上下の分、嚴威なるかな、紊(みだれ)、無し。宇宙の間、孰くんぞ能く我が神州に及べる者か。故に、日、出づる處の天子と、日、沒する處の天子は、大國として交はると雖も、苟しくも讓ることを肯(がへん)ぜず。夫れ、名を惜めばなり。今、俗儒、名分を知らず。動(ややもす)れば、國體を虧(そこな)ひ、苟くも内外の分(ぶん)を忘れり。而も、其の名を顧みず。則ち、愛新覺羅氏の正朔、亦、禀(こめぐら)をして之れを奉るべく、鄂羅斯國(ろしあこく)の察罕汗(ちやがんはん)は、亦、稱して女帝を爲(な)すべきなり。可なるかなや。」

と。

[やぶちゃん注:「愛新覺羅氏の正朔」これは後金(ごきん)の創始者にして清の初代皇帝とされるヌルハチ(努爾哈赤 一五五九年~一六二六年)のことであろう。君主としての称号は満洲語で「ゲンギェン・ハン」。女真族の愛新覚羅氏出身である。私が彼だと思うのは、彼の皇帝に就いたのが天命元年一月一日(一六一六年二月十七日)だからである。則ち、以後、清の建国記念日はこれ以降、「正朔」であるからである。

「察罕汗(ちやがんはん)」よく判らないが、中国語で「白人の皇帝」の意があるようである。]

 丁卯の歲、北虜邊(ほくりよへん)に擾(さは)ぐ。

[やぶちゃん注:「丁卯の歲」文化四年丁卯。一八〇七年。

「北虜」この場合は蝦夷地辺りを指すものであろう。文化年間の初期にはロシアが本邦に対して盛んに通商を求めてきていた。]

 君臧、時に江戶に在りて、之れを聞き、憂憤し、廼ち、「不恤緯(ふじゆつゐ)」五篇を著す。國老の門下に詣(まゐ)り、上書して、之れを獻ずるも、報いられず。

 是れに先(さきだ)ちて、君臧、嘗つて、古への先帝王の山陵、或いは荒廢せる者有るを聞き、

「之れを、當路(たうろ)[やぶちゃん注:(朝廷・幕府の)重職。]に告げ、以つて、其の修覆を圖せしめん。」[やぶちゃん注:「當路」その担当である重職。ここは朝廷・幕府のそれ。]

と欲し、躬(み)自(みづか)ら、其の地を歷視し、古圖・舊記を參考して、「山陵志」を作(な)せり。平生の精力、半ばは、此の書に在り。書き成して、之れを京師及び關東諸公の事を用ふる者に獻ぜり。

 有司、

「其の論建、處士の宜(よろ)しき所(ところとす)るに、非ず。」

と嫌ひ、召して、之れを詰(なじ)れり。

 君臧、乃(すなは)ち、律文を引きて、故事を誦(とな)へて、以つて、對す。是(ここ)に當りて、君臧、慷慨自奮し、

「天下の爲に、世人の、之れ、言ひ難き所をば、言はんと欲す。是れには、由ありて、禍ひを獲(う)ると雖も、而も顧(かへりみ)ざるなり。」

と。

 有司、其の不遜なるを惡(にく)み、將に、之れを重き法に寘(お)かんとす。

 時に、一學士にして、文柄を操(あやつ)るに、世の貴重なる所と爲せる者、有り。君臧を憫(あはれ)みて、之れを救ひて曰はく、

「儒生、喜びて事を論ずる、固(もと)より、怪しむに足らず。草野の人、忌諱を知らず。亦、何ぞ深き罪に足らんや。置きて、問はざれば、可なり。」

と。[やぶちゃん注:既に述べた通り、ここ(右丁五行目下方)は「兎園小説」版では「而不ㇾ顧也」(「兎園小説」版は「也」がない)の後が異なる。「兎園小説」のそれを推定訓読しておく。

   *

故に、時に、人、君臧を目(もく)して、「狂妄(きやうまう)」と以つてす。殆んど、將に不測の罪に罹(か)けられんとす。盖(けだ)し、或る君臧の人として爲(な)sんとすることを知れる者、有りて、憫れんで、之れを救ふ。

   *]

 因りて、免(まぬか)るるを獲(え)たり。

 君臧、素(もと)より剛膓(がうちやう)にして、當世を俯仰(ふげう)して、以つて、容(い)らることを取ること、能はず。

 廼ち、澆(そそ)ぐに、酒を以つてし、時に或いは劇飮大醉す。頽然として自(おのづか)ら放つ。而れども、憂國の念、未甞つて頃刻(きやうこく)[やぶちゃん注:僅かな時間。]も忘れざるなり。

 間居して、學を講じ、慾に忿(いきどほ)りて懲(こら)すに、敢へて、世と抗(あらが)ふを務めと爲(な)さざるを以つてす。廼ち、其の居する所の菴を號して、「修靜」と曰ひ、以つて自(おのづか)ら警せり。謂はば、身を修して此(ここ)に在り。而して名を成すも亦、此に在り。

 敎授の暇(いとま)、著述に專力し、始めて、君臧、革の弊や、賦役等の諸論を著す。號して「今書」と曰ふ。以つて、當世の得失の規(てほん)たり。

 是に至りて、更に、「職官志」を撰す。次を以つて「神祇」・「姓族」等の志を編せんと欲す。「山陵」と併びに「九志」と爲す。

 未だㇾ悉く成るに及ばざるに、文化十年癸酉七月五日、疾ひを以つて、江戶の僑居(きやうきよ)に歿す。享年四十有六。

 君臧、壯にして、家(いへ)の艱(なや)み[やぶちゃん注:父母の死。]に丁(あた)れり。服除(ふくぢよ)して[やぶちゃん注:喪が明けて。]四方に遊歷す。故に、晚にして娶(めと)れり。其の配、多氏(おほいうぢ)、紅葉山伶官某(なにがし)の女(むすめ)なり。子は無し。

 君臧の歿するや、其の交遊の尤も親しく、且つ、舊(ふる)き者、相ひ聚まりて、之れを哭して曰はく、

「斯(か)の人や、「山陵志」を作りし者なり。其の葬祭の禮に於いてや、最も意(こころ)致りたり。不幸にして、嗣、無く、襄(ゆず)らるる事の責は、朋友に在り。其れ、心を盡さざるべきか。廼ち、之れを、江戸の北郊、谷中の龍興山臨江寺域内に葬す。余、君臧と與(とも)に、相ひ識しること、最も久しきを以つてするものなり。託すに、表墓の文を以つてす。廼ち、書を以つて、之れを遣はす。之れを諸石に鑱(き)りしめて、曰はく、

「嗚呼(ああ)、君臧、常に『關東の布衣』を以つて自稱せり。阨窮(やくきゆう)を免れざると雖も、猶ほ、天下の奇男子たり。豈に閭里の儒梟(じゆけう)の、號するに「先生」を稱せる、年の同じくして語りたる者と、與(くみ)すべきや。吾れ、聞く、其の終りに臨み、尙ほ、「天地の正氣。」を稱し、且つ、「三寶の說有り。」と云へり。精靈として天地の間(かん)に於いて留(とど)め、將に、其の人を俟(ま)ちて而して、之れを授けんとす。古への謂ふ所の『死して兦(ほろ)びざる者』は、其れ、君臧の謂ひか。噫(ああ)、斯(こ)の人、微(な)かりせば、吾れ、誰(たれ)と與(とも)にか歸(き)せん。

文政元年歲在戊寅[やぶちゃん注:一八一八年。]秋八月

[やぶちゃん注:「阨窮」「厄窮」に同じ。物事に行き詰り、動きがとれず苦しむこと。

「噫、斯の人、微かりせば、吾れ、誰と與にか歸せん。」「文章軌範」に載る范文成公の「岳陽樓記」の一節。

 以下は「兎園小説」の記載。総て馬琴の追記である。]

  墓石 縱曲尺三尺四寸餘 橫曲尺壱尺二寸五分

  碑文 一千八百六十一言 篆額題目撰者姓名共十有三字

  統計一千八百八十六字

解云。墓表則稱其私諡。予記文則稱其號。此以ㇾ有ㇾ所ㇾ忌故也。乙酉冬十一月廿三日[やぶちゃん注:文政八年。グレゴリオ暦では一八二六年一月一日である。]。予携興繼臨江寺。謁亡友蒲生子之墓。卽便薦行潦祭ㇾ之。祭訖以蠟墨拓碑文。未兩三頁。短景旦暮。倉卒之際。磨減之多。還ㇾ家視ㇾ之。不ㇾ易ㇾ讀者過半矣。因推ㇾ文以ㇾ意謄寫焉。恐有誤字。俟異日再搨校訂者也。

[やぶちゃん注:「縱曲尺」(かねじやく)「三尺四寸」一・〇二メートル。

「壱尺二寸五分」三十七・八センチメートル。

 「解云……」を訓読する。

   *

解(とく)云はく、「墓表、則ち、其の私(わたくし)の諡(おくりな)を稱せり。予が記文は、則ち、其の號を稱したり。此れ、忌む所の有るを以つての故なり。乙酉冬十一月廿三日、予、興繼と携(つらな)りて、臨江寺に到りて、亡友蒲生子(がまふし)の墓を謁せり。卽便(よしん)ば、行潦(にはたづみ)に薦(こもかぶ)りしても、之れを祭らんとせり。祭り訖(をは)りて、蠟墨(らうぼく)を以つて拓碑文を搨(す)れり。未だ兩(りやう)三頁(よう)ならざるに、短景にして旦暮(たんぼ)たり。倉卒の際(きは)より、磨り減り、之れ、多く、家に還りて、之れを視るに、讀むに易からざる者、過半たり。因りて、文より推(お)して、意を以つて謄寫せり。恐るるは誤字の有ることなり。異日(いじつ)を俟ちて、再び搨り、當(まさ)に校訂すべき者なり。」と。

   *

「忌む所の有るを以つての故なり」蒲生の著作物が何度も幕閣の咎めや物議を醸しているからである。

「短景」陽が短いこと。

「旦暮」「朝から晩まで」が原義であるが、転じて「ちょっとの間」。

――馬琴先生、ちょっと遅くなりましたが、私が校訂しておきまして御座います――] 

   *

 以下は本文が一字下げ、短歌が四字下げであるが、引き上げた。「兎園小説」正編全十二集掉尾の言祝ぎ歌である。]

乙酉の、しはす、ついたち、「兎園小說集」の滿筵にあるじして、竟宴のこゝろをよめる、

 書きつめしふみをばなにゝおはすべきゝはあそはぬ菟道の友垣   解

おなじ折、興繼に代りて、おなじこゝろを、

 宇治のきみのすさみに似たることの葉もながめにうとき冬の花園

 

兎園小說

2021/11/20

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 『蝶を夢む』拾遺 手

 

[やぶちゃん注:太字は、底本では傍点「◎」である。]

 

   

 

白晝あるひは夜間において幻燈するところの手は一個である。

必ずである。

 

手は突如として空間に現出する。

時としては壁または樹木の幹に、ためいきの如き姿を幻影する。

手は歷々として發光する。

 

われの手より來るところの恐怖は、しばしばその背後において先祖の幽靈を感知する。

 

幽靈は樹上に微笑してゐる。

 

*「先祖」「手」の二篇は『蝶を夢む』卷末の「散文詩」に組み入れようとしたものと思はれる。なほ「手」は雜誌『詩歌』大正四年二月號に掲載された「密房秘記」中の一篇たる「手の幻影」を改作したものである。(本卷「散文詩」參照)。

 

[やぶちゃん注:第二連二行目は一行が組版目一杯に記されているため、三行目「手は歷々として發光する。」は二行目に続いている可能性があるが、以下の示す「手の幻影」から、独立改行と判断した。太字「」は底本では傍点「◎」である。筑摩書房版全集には「手」という詩篇は存在しない。補巻でも索引にない。但し、編者が注で述べた通り、同全集第三巻の「拾遺詩篇」に載る「手の幻影」の一部との親和性がすこぶる高い。確かにくだくだしいそれよりも本篇の方が整序されて鋭くなっており、改作説を私は支持するものである。以下に上記初出の「手の幻影」を示す。太字傍線「」は、そこでは、傍点「◦」であり、以下の「あるもの」「ためいき」「けちゑん」(「ゑ」はママ)は総て傍点「ヽ」である。

   *

 

 手の幻影

 

白晝或は夜間に於て幻現するところの手は必ず一個である。である。

而してそは何ぴとにも語ることを禁ぜられるところのあるものの手である。

手は突如として空間に現出する。時として壁或は樹木の幹にためいきの如き姿を幻影する。

手は歷々として發光する。

手はしんしんとして疾患する。

手は酸蝕されたる石英の如くにして傷みもつとも烈しくなる。

手は白き金屬のごときものを以て製造され透明性を有す。

われの手より來るところの恐怖は、しばしばその手の背後に於て幽靈をさへ感知する。

微笑したるところの幻影であり、沈默せる遠きけちゑんの顏面であることを明らかに知覺するとき我は卒倒せんとする。

我はつねに『先祖』を怖る。

 

   *

さらに、筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』に以下の「手」と題した草稿(正しくは決定稿。以下の最後の筑摩版の編者注を参照)が載る。下線「左」は底本では傍点「◎」である。

   *

  樹上の手
  手

白晝あるひは夜間において幻燈するところの手は一個である。かならずである。

手は突如として空間に現出する。時としては壁または樹木の幹に、ためいきの如き姿を幻影する。

手は歷々として登光する。

われの手より來るところの恐怖は、しばしばその背後において先祖の幽靈を感知する。

幽靈は樹上に微笑してゐる。

  *實際は「手の幻影」を『蝶を夢む』に收錄のため
   書き直したものだが、同詩集には敗録されなかっ
   たので、便宜上ここに掲載する。

   *]

連れ合い無事退院

本日午前中、11月2日に両股関節人工関節術(術式は七時間十五分)を受けた連れ合いが、無事、退院致しました。介護用ベッドのレンタルなどで、自発的に声掛けして呉れた教え子を始めとして、さまざまな応援を頂戴し、まことにありがとう御座いました。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 『蝶を夢む』拾遺 先祖

 

  先  祖

 

先祖の幽靈は、ながい尻尾を曳きずつて通る。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集では「未發表詩篇」に以下のように載る。

   *

 

 先祖

 

先祖の幽靈は、ながい尻尾を曳きずつて通る。

 

   *

これに筑摩版編集者が、『本篇は未發表詩篇』の無題の『「(このなんて納まり返つた人たちだ)」と關係がある。』とあるので、そちらも掲げる。全集では本篇の二つ前に載る。かなり長いものである。表記は総てママである。太字は底本では傍点「ヽ」。

   *

 

 ○

 

このなんで納まり返つた人たちだ

みろ御先祖たち の行列だ

このなんて靑い顏の人たちだ

このなんて意地の惡い眼付の人たちだ、

ながいながい單調の行列から

(みんな)舌をたらして行く

あるひとの如きは實に尻尾の尖をひきづつて居る、

しんにたいていいやらしいたましいらうまちずむの、薄い 紙製の肉體けいれんから

紙製の薄い肉體をびくびくさせて

手の光る

光る

光る

光る

白臘模型の御先祖たち

君たち一代のいやらしい秘密から

遠い「過去」の螢光墓穴から

その通る、長たらしいぶらつとほうむから

出てくる、出てくる、出てくる、影と夜の幽靈//夜の陰忍なる食慾また逃げる餌物らのいんきくさい足音から

[やぶちゃん注:私が打った「*」及び「//」で挟んだ部分は並存を示す。次も同じ。]

懺悔の そのまたいんきくさい餌物の逃げる足音/逃げまわる飢物らのいんきくさい足音から

あなた方の腐蝕した靈魂の槪念から銀の階段から

なにかもおれは知つて居る、

それ 君等いつさいの秘密を永遠の子孫 遠い 孫兒につたへるために知つて居る

┃お氣の毒だがおれは生きて居た、

やい、ひつこめ、 連中、 ひつこめろ、白い御先祖たち

 

┃御氣毒だが……

ひつこめろ、白い御先祖たち

[やぶちゃん注:行空けは都合で施した。行頭の縦線(底本では横線)は行空けの前と後ろの二行では別々に繋がっている。則ち、この前後の二行自体が並置されてある。但し、並置したものの、双方にその後に削除を加えてしまった結果、「お氣の毒だが」と「御氣毒だが……」の並置並存となっているに過ぎない。]

あまりに御先祖、もうその馬鹿々々しい行列をやめてくれ

ひつこめろ

犬蓄生のごとくにも見えるから

御先祖、見つともない尻尾だけはかくしておくれ

白い霧の遠方

白いさ霧の 遠方 世界でも

齒が光る、その 手がいたむ のか いたむ、白い

ああしんしづ  哀しげなる 哀しくに淚がながれる

なんたる陰氣な

しんじつ哀しげに見える御先祖たち

手が疾む

疾患らうまちずむの御先祖たち、

 

   *

 なお、本底本の次の詩篇「手」の後に附された小学館編集者の注を参照のこと。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 『蝶を夢む』拾遺 竹

 

  

 

竹は直角

人のくびより根が生え

根がうすくひろがり

ほのかにけむる。

 

[やぶちゃん注:これは筑摩版全集の「拾遺詩篇」に載り、『詩歌』大正四年二月号に掲載された一篇である。初出を示す。

   *

 

  竹

 

竹は直角、

人のくびより根が生え、

根がうすくひろごり、

ほのかにけぶる。

           ――大正四年元旦――

 

   *

これは思うに、別稿ともとれなくはないが、小学館の編者による過剰な消毒の結果である可能性も高いように思われる。因みに、この初出当該号には、後の詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の巻頭にある「竹とその哀傷」に載る、知られた二篇の「竹」(私のブログの正規表現版のこれと、これ)の初出形が一緒に掲載されており、私は二〇一三年にブログの『竹 萩原朔太郎 (「月に吠える」の「竹」別ヴァージョン+「竹」二篇初出形)』で「月に吠える」版と異同の詳細を記してあるので、見られたい。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 『蝶を夢む』拾遺 道心

 

  道  心

 

肌身はなさぬ

純金のみ佛なれども

みやま夏ゆきふり

雪ふり

まひる魚鳥のうれひを薰ず。

やんごとなきわれの道心

山路ふかみ

しだいに雪ふり

純金なれども

み佛はなみだにくもる。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集には「未發表詩篇」に載る。表記の異同(誤字を含む)があるので以下に示す。

   *

 

 道心

 

肌身はならぬ

純金のみ佛なれども

みやま夏ゆきふり

雪ふり

まひる魚鳥のうれひを薰んず。

やんごとなきわれの道心

山路ふかみ

しだいに雪ふり

純金なれども

み佛はなみだにくもる。

 

   *

同じ原稿であろう。]

2021/11/19

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 古代の呼名

 

[やぶちゃん注:発表者は同じく客員の青李庵。最初の記名(業種の特別通称)は下インデント三字上げであるが、引き上げ、字空けも詰めた。]

 

   ○古代の呼名

   江州伊香郡金居原村百姓

          梨之木    藤之棚

          萬 代    上之山

          堂之坂    川 端

右之村方は、山中にて炭燒を業に致し居候。往古は一村不殘、右樣の名を付居候由に候へ得共、追々、「何次郞」・「何右衞門」などゝ改名致し、當時宗門帳に、右六人之者、右樣之名を附居申候。

    同郡奧河並村百姓     太 夫

右村方にては、婦、相果候夫は、何れも「太夫」と、年々、宗門帳ニ相附居申候。如何成故と相尋候へば、「夫、相果候婦を、後家と申すも、同じ事。」と申し居候。

 右彥根家富田甚右衞門殿の話なり。

[やぶちゃん注:「江州伊香郡金居原村」旧滋賀県伊香(いか)郡杉野村。現在の長浜市の北東部、木之本町地区の山間部、杉野川の流域、国道三百三号の沿線に相当する。木之本町木之本周辺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「同郡奧河並村」旧伊香郡奥川並村。滋賀県の最北部の旧丹生村(にうむら)。現在の長浜市北部(旧余呉町北東部)。この附近(集落跡が残る)。]

妻は 明日 退院予定

本日、これより妻の介護用ベッド・レンタル搬入。五ヶ月くらいはベッドでないと寝られないため。明日、妻は退院予定。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 『蝶を夢む』拾遺 鴉

 

  

 

枯れ柳のある井戶のほとりに

わたしは憂鬱の日かげをながめた

そこを過ぎてどこへ行くのか 夕風の中に泣いてる戀びとよ。

あなたは黑い情慾の鴉

それの病熱で心臟をいためたまふな。

 

[やぶちゃん注:筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。しかし、本篇の表記と微妙に違いがある。以下に示す。

   *

 

  鴉

 

枯れ柳のある井戶のほとりに

わたしは憂鬱の日かげをながめた。

そこを過ぎてどこへ行くのか、夕風の中に泣いてる戀びとよ。

あなたは黑い情慾の鴉

それの病熱で心臟をいためたまふな。

 

   *

二行目末の句点、三行目中ほどの読点である。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 『蝶を夢む』拾遺  (無題)(漕手よ) 筑摩版全集不載の草稿断片

 

  

 

漕手よ

はや君の家の窓に燈火(あかり)はつけられ

妹はひとり庭にたたづむ

漕手よ 祈禱せよ

 

*本篇は『蝶を夢む』の草稿に於て「絕望の逃走」と「僕等の親分」の間に置かれてゐたが、改編の際に、前半の部分が失はれたものである。

 

[やぶちゃん注:「断片」としたのは、最後に附された本底本の小学館版編者の注の謂いから推測した。筑摩版全集には第一巻に「草稿詩篇 蝶を夢む」があるが、数度、見渡したが、この断片は見当たらない。既に失われた草稿原稿と推定される。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 『蝶を夢む』拾遺  編註・「別れ」 / 「別れ」(添辞)「旅の記念として、室生犀星に」の筑摩版全集不載の別稿

 

   『蝶 を 夢 む』 拾 遺

 

[やぶちゃん注:パート標題。この裏に以下の編註がある。]

 

 

編註 大正十二年七月出版された詩集『蝶を夢む』の編纂は、遺されてある當時の原稿から推測して、少くとも三度ほど編み直したものと思はれる。ここに收錄した作品は、その遺された原稿から採錄したもので、これらの作品は一度び編みこみながら、なんらかの都合で削除したものであつた。なほ既刊『遺稿詩集』に收めた「螢狩」「合唱」の二篇も、ひとたび『蝶を夢む』に編みこんだうへで、やはり都合により削除したものであつた。

 

[やぶちゃん注:『既刊『遺稿詩集』に收めた「螢狩」「合唱」の二篇』既に電子化注した同じ小学館版「萩原朔太郞詩集」コンパクト・シリーズの前巻(第五巻)である「遺稿詩集」の「螢狩」「合唱」を指す。]

 

 

  別  れ

 

    旅の記念として室生犀星に

 

友よ、安らかに眠れ。

夜はほのじろく明けんとす

僕はここに去り

また新しい汽車に乘つて行かうよ

僕の孤獨なふるい故鄕へ。

東雲(しののめ)ちかい汽車の窓で

友よ、やすらかに眠れ。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集では、第三巻の「拾遺詩篇」に載り、初出誌は大正一一(一九二二)年二月号『日本詩人』である。初出形を示す。

   *

 

 別れ

 

       旅の記念として、室生犀星に

 

友よ 安らかに眠れ。

夜はほのじろく明けんとす

僕はここに去り

また新しい汽車に乘つて行かうよ

僕の孤獨なふるい故郷へ。

東雲(しののめ)ちかい汽車の寢臺で

友よ 安らかに眠れ。

 

   *

決定的に本底本版の六行目の「窓」が「寢臺」であることから、本詩篇は草稿の一つと考えてよく、本篇と相同のものは同全集には載らない。

 「旅の記念」「僕はここに去り/また新しい汽車に乘つて行かうよ/僕の孤獨なふるい故郷へ。」というフレーズから、一つ、推察出来るのは、この「旅」という謂いから、筑摩版全集の年譜にある、大正十年七月中旬に『室生犀星に電報で輕井澤に招かれて、共に妙高山麓の赤倉溫泉に遊ぶ』とある旅の終りの「別れ」のシチュエーションの可能性である。それ以降に室生犀星と逢った可能性は排除出来ないものの、この時が、私は最もしっくりくるのである。]

2021/11/18

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 希有の物好み

 

   ○希有の物好み

元祿[やぶちゃん注:一六八八年から一七〇四年まで。]の頃、京室町通三條[やぶちゃん注:この中央附近(グーグル・マップ・データ)。]の南に、櫻木勘十郞といふ人ありけり。古器物・書畫の鑑定をも、よくせり。希有の物好にて、衣服より、足袋帶に至るまで、色々の縞を着用し、扇子・脇指柄糸[やぶちゃん注:「わきざしのえのいと」と訓じておく。]・鍔・印籠・草履まで、縞ならずといふ事、なし。朝夕の食物、鱠は、もとより「刻みもの」なり。煮物などにも大根・牛房の類の「すぢ」ある品をもちひ、椀・折敷までも、縞のもやふをぞ、ものしける。されども、「まげて、異を好むに、あらず。只、天性、かくありし。」とぞ。家居も、世にめづらしく、表二楷の格子も、さまざまの唐木にて、縞にくみたて、店先も「堺格子」といふものを立て、此所に大きなる竪貫木[やぶちゃん注:「たてぬきのき」と訓じておく。]ありて、靑貝にて、唐草の模樣あり。「ひさし」の大垂木などは、細き柴竹の寒竹にて、さまざまの縞に、くませ、扨、中庭に泉水ありて、金魚、あまた、はなち置く。そこより、居間の二楷[やぶちゃん注:ママ。]へ階梯を渡したり。其階梯も、唐物作りの擬寶珠、高欄、付けてけり。又、中庭の北面より、隣りの壁まで、縞にぬらせけり。かゝれば、世に「縞の勘十郞」と云ひけるとぞ。

[やぶちゃん注:発表者は同じく客員青李庵。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 賀茂村の坂迎ひ

 

   ○賀茂村の坂迎ひ  京 角鹿比豆流

『「伊勢太神宮の廣前に、太々神樂、捧げ奉る。」とて、かの御社に、春每、參詣する事、六十六國に殘る處も、なし。都の町々、近き村里、老たるも、若きも、かたらひつゝ、二十、三十、あるは百にも滿てる人の、願、はて、家に歸る日、家族・うから・したしきかぎり、逢坂山の「水うまや」に集ひ、待酒、汲かはし、宴をなす。是を「坂迎」といふ。こゝより、家までのかへるさ、迎の人と共に、謠ひつれて、都の町、くだりさわぎ行く事、引きもきらず。こをみる人、大路に立ちつゞけり。三月廿一日、上賀茂の一群、松林の加茂塘[やぶちゃん注:「かもづつみ」。]をすぐるに、鞍馬口の、乞食の兒等、いでゝ、錢を乞ふ事、頻りなり。加茂村の百姓、「さか迎」の日、「唐坂」といふ菓子二ツづゝ、あたへ、また、人數、こゝらなれば、菓子の代に、「あし」一筋あたふるが、古き例なりとかや。酒に醉ひしれたる若人、戲れて、何れのわいためもなく、叱り、さいなみ、子等があたまを、叩けり。かれらが事なれば、やがて「わ」と泣きて、「賀茂もの、しか、たゝきたり。」と告げしかば、折から「御影供」とて、乞兒も酒のみゐたるが、やがて、はやりかに走りいでゝ、六、七人、追ひ來りて、のゝしる。双方、酒力を借りて、いとゞかしましな。かたゐ、追々、はせ集り、八十人にも、およべり。「賀茂のやつら、一人もかへさじ。」とて、礫石[やぶちゃん注:「つぶていし」。]、雨の如く投げ出だして、おめき、さけぶほど、五、六十人の賀茂人、すべき樣なく、旅脇差、ぬきいだして、こゝはしひ[やぶちゃん注:底本に右に『(マヽ)』傍注がある。]などするほどに、刀底に損れしもの、礫にて、いためられたる人も、おほく、相引に引きたり。後の日、鞍馬口の小屋の頭ども、「不潔なるもの共、所を追放つべき[やぶちゃん注:「おひはなつべき」。]。」よしにて、詑たれど、「賀茂がたも、狂水におかされて、まさなき事や、ありけん、めで度、神詣の歸るさなれば、たゞおだやかなれ。」とて、事は、すみたり。』と、三谷吾雲が物語りけると、荷田の信美大人の「口づから」を、しるし侍るなりけり。

[やぶちゃん注:発表は客員の青李庵。

「坂迎」(さかむかへ)は「境迎へ」とも書き、一般的な広義では、旅から郷里に帰る人を国境・村境などに出迎えて供応する儀礼を指す。京の人は特に伊勢参宮などから帰京する知人・親族を逢坂の関まで出迎えるのが習いであった。別に「酒迎へ」「さかむかひ」とも称した。伊勢詣での「晴れ」の時空間を最後に共有することで、迎えた相手にも幸いが到ると考える共感呪術的イニシエーションと思われる。ここではそれを賀茂村でロケーションし、賀茂村と鞍馬口の被差別民の別個な集団であったそれぞれの「ほかひびと」(乞食)の「ちゃちゃ」と闘諍と後始末の「晴れ」を以って和解するという事情を絡ませて興味深い話柄である。

「逢坂山」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「水うまや」「水驛(みづうまや(「むまや」とも))」。第一義的には「水路の宿場・船の停泊する所」であるが、ここは「街道の宿や茶店」の意で、人が飲食したり、馬に水を飲ませたりするところからかく称した。

「三谷吾雲」不詳。

「荷田の信美」(かだのぶよし 寛延三(一七五〇)年~文政一〇(一八二八)年)は歌人。京出身で京の伏見稲荷大社の神職。小沢蘆庵門下で、上田秋成とも親交があった。本姓以外に羽倉(はくら)を名乗った。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 瑞龍が女兒

 

[やぶちゃん注:これも国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記」の巻第三下に載るので、それを底本とした。読みの一部は送り仮名に出した。同前で歴史的仮名遣の誤りはママ。発表は同じく琴嶺舎滝沢興継。]

 

   ○瑞龍(ずいりよう)が女兒(むすめ)

寬政・文化の間[やぶちゃん注:一七八九年から一八一八年。間に享和が挟まる。]、軍書を講談して生活にしたる瑞龍軒(ずいりやうけん)は、前の瑞龍が子にて、馬谷(ばこく)・百輅(ひやくろ)等が姪(をい)なり【第一前の瑞龍・第二馬谷・第三百輅、この三人は兄弟なり。百輅は吾山が社中にて、俳諧の判者なり。この中、馬谷、尤も世に知られたり。】。當時、「中山(なかやま)物語」といふ俗書の、世に行はるゝありけり。こは、京師の人の手になりたるにや。あらぬ事をのみ書つめて、禁忌に觸るゝことの、多(さは)なるを、竒(き)を好むもの、虛實をも得考ぬ、俗客の玩(もてあそ)ぶこと、少からず。こゝをもて、貸本屋などいふ者は、二本も、三本も、寫し取て、此處彼處(こゝかしこ)へ、貸したりければ、官[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、ひらがなで『おほやけ』とある。]にも聞し召れて、嚴禁を加へられ、寫し取たる本屋どもは、御咎(おとがめ)を蒙りて、寫本は、すべて、燒き捨てられ、そを取り扱ひたる[やぶちゃん注:底本は「取扱(とりあつか)たる」。吉川弘文館随筆大成版で訂した。]者どもには、各[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版はひらがな踊り字で『おのもおのも』。]、過料をたてまつらしめ給へり。こは享和[やぶちゃん注:一八〇一年から一八〇四年まで。]中の事にぞ有ける。かくて、文化中に至りて、件(くだん)の瑞龍軒、難波町わたりなる居宅にて、かの「中山物語」を講談してけり。その書は曩(さき)に禁斷せられて、見まくほしとおもふ者も多かりけるにや、夜每に人のつどひ來て、聽くもの、おびたゞしかりけるを、市(いち)の尹(かみ)[やぶちゃん注:町奉行。]より、隱密(いんみつ)に人を遣はして、聽衆(ちやうしゆ)にうちまじらしつゝ、夜每に聞かしめられしを、知るもの、絕へてなかりし、とぞ。かくて、はや、その講談も、この席を限りにて、講じ訖(おは)ると聞えし霄(よい)の程、瑞龍は、その席にて、忽ちに、搦(から)め捕られて、やがて獄舍(ひとや)に繫がれけり。扨、事の顚末をおごそかに問はれしに、「件の書はちかき比、反故(はんこ)中より獲(え)たりしかば、世わたりの爲にせんと思ひし外(ほか)は候はず。禁斷せられし者ならんとは、かけても知らず候ひき。」と、恐る恐る、陳(ちん)じかども、「その書を禁止せられしが、數十年前のことならばこそ、遠くもあらぬ事なるを、『知らず』と申すことやは、ある。知りつゝ講談したりしは、不屆(ふとゞき)なり。」と讞斷(けんだん)[やぶちゃん注:吟味の上で処断されること。]せられて、「遠島にや流さるべき。」、「市(いち)にや棄てられん。」などとて、世評もまた、まちまち也。しかるに、瑞龍に、ひとりの女兒(むすめ)あり。この年、甫(はじ)めて[やぶちゃん注:「未だ」の意か。]、十二、三歲なるべし。その性(さが)、孝順なりければ、父の禁獄せられしより、號哭(がうきう)して、寢食をおもはず。町役人等、もろともに、「おほん慈悲願ひ」とかいふよしをもて、願文(ねぎぶみ)を捧げつゝ、市の尹の廳(ちやう)にまゐる每に、「みづから、親の罪にかはらん。」と、乞ひまうして、哀傷悲泣、人の視聽を驚し[やぶちゃん注:「おどろかし」。]、追(お)つ立てらるれども、得退(えしりぞ)かず、死をだも、辭せぬ有さまなれば、人みな、不便(ふびん)におもはぬは、なし。この事、度(たび)かさなりけるまゝに、おほやけにも、その孝信をあはれませたまひけん、瑞龍は、思ひしより、その罪、かろく定められて、遂に追放せられけり。「こは、またく、むすめの孝行ゆゑなり。」とて、親も歡び、人も嘆賞する程に、件のむすめは、ある豪家(ごうか)の子の婦(よめ)に懇求(こんきう)せられて、ゆくりなく、よすが、いで來しかば、瑞龍も、その家より、扶助(ふじよ)せられて、「おんかまひ」の場所ならぬ近鄕に、半生を送ることを得たり、とぞ聞えし。夫、孝は百行の本(もと)なり。至尊は、これをもて、民に敎へ、士庶も亦、これによりて、身を脩む。その國を治め、家を齋(とゝの)ふるの要道、なのことか、亦、これに加へん。感ずるに、猶、あまりあるものは、かの孝男女のうへにあらずや。

[やぶちゃん注:「瑞龍軒」滋野瑞龍軒。有名な講釈師らしい。

「馬谷」初世は森川伝吉(正徳四(一七一四)年~寛政三(一七九一)年)。瑞龍軒の弟で以下の百輅の兄。講釈師。講釈師の興行形態を確立した人物らしい。

「百輅」上記以上のことは不明。

「吾山」(ござん 享保二(一七一七)年~寛政元(一七八九)年)は俳人。会田氏、後に越谷(こしがや)氏を名乗った。武州越谷の生まれ。当初は柳居に、後に鳥酔に兄事した江戸座(沾徳(せんとく)座)の点者。編著に「翌桧」「朱紫」などがあるが、何より、方言研究書として知られた「物類称呼」(安永四(一七七五)年)刊)の作者としてとみに知られる。

「中山(なかやま)物語」不詳。

 底本ではここで終わっているが、吉川弘文館随筆大成版では、以下の後書がある。]

そもそも、この「兎園小說」は、去歲のしはす下つかたに、家嚴の、かりそめに思ひ起しゝを、まづ、北峯ぬし[やぶちゃん注:好問堂山崎美成の号。]にかたらひつゝ、この春、諸君の同意を得てしより、月每の集會、間斷なく、今は、はや、十有二集に滿つるになん。『この滿會には、何をか書かん。』と思ふも、をこの、すさみながら、こゝに孝義の三編を綴れるよしは、是をもて、自、警め[やぶちゃん注:「いましめ」。]、且、人の子の「いましめ」にもなれかし、とての、わざなりける。

  時文化八年乙酉冬十二月朔 呵硏擢墨沐書於神田鳳簫菴 琴嶺興繼

[やぶちゃん注:「文化」は以下の干支から「文政」の誤り。

 以下は吉川弘文館随筆大成版にある全く以上とは関係のない追記。]

甲申[やぶちゃん注:文政七(一八二四)年。]十二月八日「耽奇漫錄」追加

予が家に藏弃せる達磨の木像は、「雲慶作」とあり。曩に、家嚴、此木像を「耽奇會」に出だしゝ折、「雲慶・運慶別人なる事、且、雲慶は何れの世の佛工なるや、未詳。」のよしを書れたり。しかるに、きのふ、たまたま「鎌倉志」を繙閱[やぶちゃん注:「はんえつ」。]せしに、「卷の二」、「光觸寺」の本尊「頰燒阿彌陀」の緣起の條に、『建保三年、京都に大佛師あり。雲慶法師と號す云々』とあり【この下にも、『雲慶云々』と書けること、三ケ所、見えたり。】。本文によりて考ふるに、運慶・雲慶、同人なるべし。もし、運慶、はじめは「雲」を書き、後に「運」の字に改めたるか。さらずは、緣起の誤りか。「志」に、その辯、なければ、いかにと、定めがたけれども、こも亦、一勘に備ふべし【この一條は、「耽奇錄」中に、しるしおかれんことを、希ふのみ。】

               琴嶺 再識

乙酉抄月兎園納會

[やぶちゃん注:「耽奇漫錄」同書は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで見られるが、どの記事の追加であるのかは分からなかった。

「鎌倉志」『「卷の二」、「光觸寺」の本尊「頰燒阿彌陀」の緣起の條に、『建保三年、京都に大佛師あり。雲慶法師と號す云々』』「光觸寺」(こうそくじ)は私が鎌倉の寺の中で最も偏愛する寺である。ここ(グーグル・マップ・データ)。私の「新編鎌倉志卷之二」の「光觸寺」の冒頭部を引く。

   *

○光觸寺【熊野權現小祠。】光觸寺(クワウソクジ)は、藤觸山(トウソクザン)と號す。道より南也、開山は一遍上人、藤澤の淸淨光寺の末寺也。堂に光觸寺と額あり。後醍醐天皇の宸筆也。《頰燒阿彌陀》本尊阿彌陀〔運慶[やぶちゃん注:☜。]作。〕。觀音〔安阿彌作。〕・勢至〔湛慶作。〕此本尊を頰燒(ホウヤケ)阿彌陀と云也。縁起の略に云、順德帝、建保三年、京都に大佛師有り。雲慶[やぶちゃん注:☜。]法印と號す。將軍右大臣家の招請に因て下向の刻鎌倉佳人すくりの氏女町の局(ツボネ)、時に年(トシ)卅五。雲慶[やぶちゃん注:☜。]に對面して、此佛を作(ツク)らしむ。四十八日を限り、成就せん事を願(ネガ)ふ。雲慶[やぶちゃん注:☜。]其の言に隨て成就す。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

以下、「頰燒阿彌陀緣起」が大事! 必ず、リンク先の続きを読まれたい。

「抄月」この時の「兎園会」は文政八年十二月一日に馬琴邸で開かれているが、旧暦十二月の異名にこれは見当たらない。似たものに「杪冬」(びょうとう:現代仮名遣)があるが。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 破風山の龜松が孝勇

 

[やぶちゃん注:これは国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記」の巻第三下に載るので、それを底本とした。読みの一部は送り仮名に出した。歴史的仮名遣の誤りはママ(読みで現代仮名遣になっているものが有意にある)。]

 

   ○破風山の龜松が孝勇 琴 嶺 興 繼 稿

天明八年戊申冬十二月[やぶちゃん注:同年の十二月一日はグレゴリオ暦一七八八年十二月二十七日であるから、一七八九年である可能性が高い。]、湯島一丁目板木師平五郞が板せし、「御免龜松手抦孝行記」[やぶちゃん注:「抦」「柄」の異体字。]に云、『此度、信州佐久郡内山村百姓總右衞門事、狼(おゝかみ)に啖れ[やぶちゃん注:「くはれ」。]候處、若年悴龜松、卽坐に狼を抱留[やぶちゃん注:「だきとめ」。]、鎌にて殺候次第。

[やぶちゃん注:以下の記名は後者は凡そ九字下げであるが、引き上げ、宛名も含め、字空けもオリジナルに施した。]

 遠藤兵右衞門樣御支配所 當時 佐藤友五郞樣

   信州佐久郡内山村 百姓 總右衞門悴 龜松申十一歲

右村は信州・上州國境(くにさかい)、破風山(はふやま)の麓(ふもと)にて、總右衞門儀、高一斗餘所持、家内五人くらしにて、居宅より三町[やぶちゃん注:約三百二十七メートル。]程(ほど)隔(へだゝ)り、字(あざな)を「逢月(あいつき)」と申所に、「猪鹿防(しゝじかふせぎ)」の番小屋(ばんこや)へ、當【天明八年。】九月廿五日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦十月二十七日。]夕方、悴龜松をつれまゐり、龜松は草を刈り、總右衞門は、小屋にて火を焚き居(ゐ)候處、後ろの方[やぶちゃん注:「かた」。吉川弘文館随筆大成版のひらがな本文に拠る。]より、狼、來り、足へ、喰(くら)ひ付き候を、ふりかへり候へば、唇(くちびる)より腮(あご)へ掛け、喰ひ付き候間、狼の耳を、つかみ、聲を立候に付、龜松、聞きつけ、驅(か)けまゐり、所持の鎌を、狼の口へ入れ候へども、かつら際(ぎは)より、噬(か)み折られ、用、立がたく、總右衞門所持の鎌を、龜松、取あげ、尙又、狼の口へ、抦[やぶちゃん注:「え」。]の方を捻じこみ、うしろへ、引倒し、兩人にて、押(おさ)へ候へども、總右衞門は、數ケ所、喰はれ候ことゆゑ、働き、なりがたく、打ち倒(たふ)れ候に付、狼、起き上(あが)り候を、龜松、石を以て、狼の口へ指し込み、鎌の抦を打ち込み、牙(きば)をかき候へども、狼、搔き付き、相働(あいはたら)き候に付、龜松、大指(おほゆび)にて、狼の兩眼(りようがん)を繰(く)り拔き[やぶちゃん注:抉(えぐ)り抜き。]、打敲(たゝ)き、漸(やうやく)、仕留申候。總右衞門事は、所々、喰れ候へども、灸所(きうしよ)[やぶちゃん注:急所。]に無ㇾ之ゆゑ、龜松、介抱いたし、宿へ連れ歸り、翌日より、療治・藥用等、仕候處、追日、快方のよしに候。龜松儀、年齡より小抦(こがら)にて、虛弱に相見え、中々、右體の働き可致ものには、相見え不申候。驚き迯げ退(の)きも可ㇾ致ところ、『親の大事。』と存じ、弱年に不似合(にあはぬ)働致候段、誠に古今の大手抦(おほてがら)に候。斯て、幼年の身にてさへ、かようの働いたし候。况や、大人に於て、をや。誰も心掛は、かく有たき事なり。羨むべし、羨むべし。

右龜松儀、父總右衞門、狼に出合候節、相働き、狼を仕留、父を助け候段、幼年にて奇特(きどく)なる仕方に付、御褒美(ごほうび)として銀弐拾枚、被ㇾ下ㇾ之。

右は、先頃、御代官大貫治右衞門樣、撿見(けんみ)[やぶちゃん注:幕府や領主が役人を派遣して、稲作の生長状態を検証して、年貢の率を決めること。或いはその役人。]として御出之節、野立(のだて)にて御聞被ㇾ遊、則、當人、御呼出し、始末、御尋の上、御書上げ[やぶちゃん注:底本は「け」であるが、吉川弘文館随筆大成版で訂した。]になり、右之通、此度御褒美被ㇾ下候事、誠に前代未聞、世上、親孝行の敎(おしへ)にも可相成と、板木に仕り蒙御免賣弘め申候。天明八申年十二月 明神前通湯島一丁目板元板木師平五郞

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

興繼云、本文の、いと拙く[やぶちゃん注:「つたなく」。]見ゆるを、そがまゝに寫せしは、實を傳へん爲なり。この印本を、今も、藏弃(ぞうきよ)せし人も、ありてん。しかれども、紙の數、はつかに三丁ばかりのものなれば、永く世に傳ん[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版は『伝はらん』。]ことの、難かるべきを、いと惜しむのあまり、うつしとゞめぬ。原本の體たらく、世に「サゲ」[やぶちゃん注:落とし咄(ばなし)。]など唱ふるものゝ、街巷(ちまた)を賣り步くとは異(こと)にして、地名・人名も、いと正しく、且、「御免」の二字を冠(かぶ)らせしも、珍らかなり。「孝子の事を板して賣り步く事、これらや、始なるべきか。」と、家嚴(ちゝ)は、いへり。再び思ふに、この龜松が事、「孝義錄」に載せられたる歟。家嚴も、「覺えず。」と、いへり。猶、考ふべし。

[やぶちゃん注:「信州佐久郡内山村」現在の長野県佐久市内山(グーグル・マップ・データ)。

「逢月(アイツキ)」不詳。こんなに綺麗な字名なら残すべきと思うのだが、現在は人家もないか。

「信州・上州國境、破風山」現在の内山からは北に五・六キロメートルで、やや遠いが、「八風山」(はっぷうさん)があるから、それであろう(国土地理院図)。破風岳(はふだけ)はあることはあるが、遙かに北で違う。

「御免」公的に許しを得た事実報知であることを示す。

「孝義錄」江戸時代の孝子・節婦・忠僕及び奇特者の記録。全五十巻。寛政元(一七八九)年に「寛政の改革」の民衆教化策の一環として、幕府が、江戸初期以来の全国の農民・町人の善行表彰者の報告を命じ、さらに寛政一〇(一七九八)年には追加報告させ、それらを昌平坂学問所に集めて編集、享和元(一八〇一)年に官版として出版した。所載の表彰者総数八千六百十四名、表彰の時期は慶長七(一六〇二)年から寛十年までの約二世紀に及ぶが、全体の八十一%の六千九百八十五名は、宝暦から寛政までの十八世紀後半に表彰されたものである(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 街道

 

  街  道

 

俥にゆられつつ

夕ぐれ時の街道を

新町街道を急ぐ女よ

眞赤な夕日は山の上

白粉のゑりがさむしかろ

今宵

おん身の上に幸あれかし。

 

[やぶちゃん注:「ゑり」はママ。「新町街道」不詳。先に出した萩原朔太郎が勝手に名づけた「小出新道」のことか?

 本篇は筑摩版全集では「拾遺詩篇」に載り、初出誌があって、大正三(一九一四)年三月二十四日附『上毛新聞』である。以下に初出形を示す。

   *

 

 街道

 

俥にゆられつゝ

夕ぐれ時の街道を

新町街道を急ぐ女よ

眞赤な夕日は山の上

白粉のゑりがさむしかろ

今宵

おん身の上に幸あれかし

         (一九一三、一〇、二〇)

   *

編者注があり、『作者がこの作品全體に斜線を引いた雜誌が殘されている』とある。ということは、この詩篇は再度、別な雑誌に転載されたことを示すとしか読めない。まあ、ともかくも気持ちでは、朔太郎としては発表後に結果してボツにしたい作品だったということであろう。また、表記違いの同詩篇草稿(但し、標題は「偶成」)が「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」に以下のように出る。ルビの読み「かいどう」や「おしろひ」はママ。

   *

 

 偶成

 

俥にゆられつゝ

夕ぐれ時の街道(かいどう)を

高崎新町街道を急ぐ女よ

眞赤な夕日は山のうへ

おしろひの襟がさむしかろ

今宵

おん身の上に幸(さち)あれかし

               (一九一三、一〇、二〇)

 

   *]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 あきらめ

 

  あ き ら め

 

あきらめよ

あきらめよ

わがあきらむることにより

けしき妙なるよもの黎明

さしもに洋紅を流したり

 

あきらめよ あきらめよ

わがあきらむることにより

水盤の瀑流れ出でて

開きしページは靑くうるみたり

 

われはやさしくよきひとなるに

わが側へに立つもの

死魚の裏返る腹を指さし

なにとてかの空しき妖光を敎うるならむ

これを見ること久しきより

わが眼はいしくもただれたり

 

ああ 戶口に樹木あり

よしや花には靈智のゆきかひを求めずとも

わが性のあまりにやさしれば

とく起きいでて窓開らかでやは。

 

[やぶちゃん注:「敎うる」はママ。

「洋紅」は「やうこう(ようこう)」で深紅色及びその系統色である「カーマイン・カーミン(carmine)」・「カルミン(karmijn:オランダ語)」・「コチニール(cochineal)」・「マゼンタ(magenta)」(現代中国語では「マゼンタ」を「洋紅色」と訳す)などの顔料を指す。無論、「やうべに」とも読める。万一(後掲する別稿では「ページ」と読み換えているが)、「洋紙」を「やうし」と読んでいるなら、ここは「やうべに」でなくてはバランスが悪い。

 さて、筑摩版全集では、まず、第二巻の「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の中に、一見似て見えるものの、その実、かなり異形の一篇が載る。

   *

 

 あきらめ

 

あきらめよ

あきらめよ

わがあきらむることにより

銀盤に瀑流れ出でゝ

開きし洋紙は靑くうるみたり

 

われはやさしくよきひとなるに

わが側へに立つもの

死魚の裏返る腹を指さし

なにとてかの空しき妖光を敎ゆるならむ

 

あゝ戶口に樹木あり

よしや花には靈智のいきかひを求めずとも

わが心あはれみにすぎたれば

とく起き出でゝ窓開らかでやは

 

あきらめよ

あきらめよ

わがあきらむることにより

景色たへなるよもの黎明(れいめい)

さしもに洋紅を流したり

 

   *

全体の対構造の整った様子からは、上記が洗練されているが、その分、陳腐で面白くない。私は俄然、本篇を支持する。なお、筑摩版全集では、第三巻の『草稿詩篇「第八卷・第九卷」』に本篇が載るが、小学館版元版からの転載に過ぎない。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 (無題)(麥はますますのびゆけり)

 

  

 

麥はますますのび行けり

遠き畑の田つくりの

白きぢゆばんにえんえんと

眞晝の光ふりそそぐ

九月はじめの旅立ちに

汽車の窓より望むれば

麥の靑さにおどろきて

つかれし心が泣きだせり。

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。しかし、この詩篇、ちょっと時節と対象がおかしい。「九月はじめの旅立ち」であるのに、「麥はますますのび行」く景観で、しかも「汽車の窓より望むれば/麥の靑さにおどろきて」というのは、矛盾(麦が成長して青いのは晩春)である。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 (無題)(いのらずとても)

 

  

 

いのらずとても

今日としなれば來るものを

やさしく春のくるものを

かくも野末に泣きぬれし。

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

2021/11/17

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 騙兒悔ㇾ非自新

 

[やぶちゃん注:標題は「騙兒(かたり)、非を悔いて自(のづか)ら新たにす」と訓じておく。読み易くするために、段落を成形した。発表は琴嶺舎。作中の書簡では当時の手紙の雰囲気を出すためにダッシュで挟み、敢えて句読点を用いず、字空けを施して読み易くしておいた。]

 

   ○騙兒悔ㇾ非自新

 加賀の金澤の枯木橋の西なる出村屋太左衞門といふ商人の兩替舖は、淺野川の東の橋詰にあり。

[やぶちゃん注:「枯木橋」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。金沢城の東内惣構枯木橋詰遺構をポイントしてあるが、橋はちゃんとここに現存する。ストリートビューのこれを参照されたい。

「兩替舖」「りやうげへみせ」と訓じておく。

「淺野川の東の橋詰」現在の浅野川は枯木橋の東北を流れている。結構な暴れ川であったから、当時はもっと南西を流路としていたのであろう。]

 文化九年癸酉の大つごもりに、

「卯辰山觀音院の下部、使なり。」

と僞りて、出村屋が舖に來つ。

[やぶちゃん注:「文化九年癸酉」干支が誤っている。癸酉は文化一〇(一八一三)年。九年は壬申。

「卯辰山觀音院」卯辰山西麓の真言宗長谷山観音院。加賀藩三代藩主前田利常の正室珠姫が観音を篤く信仰し、社殿を寄進したとされる有名な寺で、現存する。ここ。]

 百匁包のしろがねを騙りとりたる癖者ありしを、當時、隈なく、あさりしかども、便宜を得ざりしとぞ。

 かくて、十あまり三とせを經て、文政七甲申の年の大つごもりに、出村屋が兩替舖に人の出入の繁き折、花田色の、いとふりたる風呂敷包をなげ入れて、こちねんとして、うせしもの、あり。

[やぶちゃん注:「文政七甲申」一八二四年。しかし、数えにしても「十あまり三とせ」は一年多過ぎである。干支の誤りといい、この凡ミスといい、珍しく、これは父馬琴の手を借りずに、滝沢琴嶺舎興継自身が書いたものである可能性が高いか。

「花田色」「縹色」。藍染めの染め色の一種の色で、明度が高い薄青色を指す。

「こちねん」「忽然」。]

 たそがれ時の事なれば、その人としも見とめずして、追人ども、甲斐は、なかりけり。

 さて、あるべきにあらざれば、太左衞門は、いぶかりながら、件の包を釋きて見るに、うちには、しろがね百匁ばかりと、錢十六文ありて、一通の手簡を添へたり。

[やぶちゃん注:「釋きて」「ときて」。]

 封皮を析きて[やぶちゃん注:「さきて」。]、その書を見るに、

――十とせあまりさきつころ やつがれ 困窮至極して せんすべのなきまゝに 膽 太くも 惡心 起りて 『觀音院の使』と僞り 當(ソノ)御店(ミタナ)にて 銀百匁を 騙りとり候ひき こゝをもて 火急なる類苦を みづから 救ふものから かへり見れば 罪 いとおもくて 身を容るゝ處なし よりて とし來 力を竭して やゝ本銀をとゝのへたれば その封貨を相添えて けふなん 返し奉る【國法にて、役人、百匁每に銀を包みて「一封」とし、印を押して行はしむるに、封貨十六文を取ることゝぞ。是、則、紙の費に充るといふ。よりて、その十六文を添へたるなり。】 ふりにし罪をゆるされなば かの洪恩を忘るゝときなく 死にかへるまで 幸ひならん 利銀は なほ のちのちに 償ひまゐらすべきになん。あなかしこ――

とばかりに、さすがに、名・氏をしるさねども、あるじは、さらなり、小もの等まで、この文に就き、その意を得て、感嘆せぬは、なかりけり。

[やぶちゃん注:「ふうひ」。封筒。

「析きて」「さきて」「裂きて」。

「竭して」「つくして」。]

 同鄕の人、中澤氏【名は儉[やぶちゃん注:音の「けん」の他に名前・名のりだと、「たか」・「のり」がある。]。】、

「今玆【文政乙酉。】正月十一日、卽願寺といふ梵刹にて、太左衞門にあひし折、彼の顚末をうち聞きて、件の手簡を見てけるに、手迹も、その書ざまも、いと、いたう拙なければ、さゝやかなる民などのわざなるべしと思ふ。」

と、いヘり。

[やぶちゃん注:「儉」音の「ケン」の他に名前・名のりだと、「たか」・「のり」がある。

「文政乙酉」文政八(一八二五)年。

「卽願寺」ここ

「拙なければ」「つたなければ」。]

 折から、尾張の人の、篆刻をもて、遊歷したるが、

「故鄕へ歸る。」

と聞えしかば、

「そが、『うまのはなむけ』に。」

とて、件の趣を綴りたる漢文あり。この夏、聖堂の諸生石田氏【名は煥。】、江戶よりかへりて、舊故を訪ひし日、松任の驛なる友人木邨子鵠の宿所にて、中澤氏の紀事を閱して、感嘆、大かたならざれども、

「惜むらくは、その文、侏※なり。よりて、綴り、かへにき。」[やぶちゃん注:「※」=「亻」+「离」。意味不明。されば、言っている意味全体が不明。]

といふ。漢文、亦、一編あり。

[やぶちゃん注:「聖堂」湯島聖堂。

「煥」音「クワン(カン)」以外に、名前・名のりには「あきら」がある。

「松任」白山市松任(まっとう)。

「木邨子鵠」「きとんしこく」と読んでおく。]

 且、編末の評に云、

「嗚呼、是一人之身。爲非義則愚夫猶惡ㇾ之。及其悔ㇾ非改ㇾ過。則君子亦稱ㇾ之。「書」所ㇾ謂、『惟聖不ㇾ念作ㇾ狂。狂克念作ㇾ聖。』。一念之發其可ㇾ不ㇾ愼哉。孔子曰、『過勿ㇾ憚ㇾ改。』。孟子曰、『人能知ㇾ耻則無ㇾ耻。』。信哉。夫人不ㇾ知ㇾ耻。則非義暴戾無ㇾ所ㇾ不ㇾ爲。苟能知ㇾ耻則立ㇾ身行ㇾ道。豈難ㇾ爲哉。於ㇾ是知。國家仁政之效。有以使民遷ㇾ善而不自知。孔子所ㇾ謂。有ㇾ耻且格者。可ㇾ徵哉。」

 予は、その文の巧拙に拘れるにあらねども、只、勸懲を旨として、蒼隷農夫も、こゝろえ易き假名ぶみにしつるのみ。さばれ、その事の、はじめ終りを、審に傳へざりしは、記者の漢文に做ふたる筆のまはらぬ故なるべし【銀を騙略せられし時の形勢、後に銀を返しくれし時、國主に訴へたるか否の事、原文にもれたり。】。

[やぶちゃん注:漢文の訓読を試みる。一部は返り点に通りには読まなかった。

   *

 嗚呼、是れ、一人の身、非義を爲さば、則ち、愚夫は、猶ほ之れを惡くするがごとし。其れ、非を悔ひて、過(あやま)ちを改むるに及びて、則ち、君子も亦も、之れを稱す。書、謂ふ所は、

『聖と惟(いへど)も、念(おも)はざれば、狂と作(な)り、狂といへども克(よ)く念へば、聖と作(な)る。』

と。

 一念の發(ほつ)、其れ、愼まざるべからざるや。

 孔子曰はく、

『過(あやま)ちは、改むること、憚かる勿かれ。』

と。

 孟子曰はく、

『人は、能く耻を知る。則ち、耻、無し。』

と。

 信なるかな、夫れ、人、耻を知らざれば、則ち、非義・暴戾、爲(な)さざる所、無し。苟しくも、能く耻を知れば、則ち、身、立ち、道を行く。豈に爲すに難きや。是に於いて、知れり。國家の仁政の效は、以つて民をして善に遷(うつ)させめて、自から知らざる者有らしむ。孔子の謂ふ所は、『耻、有りて、且つ、格者たる。』なり。徵(ちやう)すべきかな。

   *

「書」は「書經」のこと。引用部は「聖人であっても、十全な思慮に欠けておれば、それは『狂』(誤った行いを成す人)となり、狂人でも、十全な思慮を発揮出来れば、即座に聖人となる。」の意で、「天子が不断の努力を怠れば、天命が革(あらた)まってしまい、王朝は交替することとなるという「書経」の政治思想を表わした言葉。

「蒼隷農夫」若造・僕(しもべ)・農民。

「審に」「つまびらかに」。

「做ふたる筆」「ならふたる」で「慣れた筆記」の意か。

「騙略」「ねんりやく」。騙(だま)しの詐術。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 晩冬哀詩/ 筑摩版全集未収録詩篇(但し、「冬日哀語」の表題で表記・表現違いで酷似する一篇は有り)

 

  晩 冬 哀 詩

 

いのるより

空もえしかば

かはべにたてるおみなご

しもつきの

ゆくふねにかぢをたえ

ききと

ききと

ああかへすべきよしもなし。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集には本篇は載らない。後の補巻の索引にも載らないので、筑摩版全集不掲載詩篇と採っておくが、実は同全集の「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の中に「冬日哀語」という別題で表記・表現違いの酷似する以下がある。

   *

 

 冬日哀語

 

いのるより

空もえしかば

かはべにたてるおすみなご

しもつきの

ゆく舟に楫をとり

ききと

ききと

あゝかへすべきよしもなし、

 

   *

相同ではないので、異稿とすべきものである。にも拘わらず、筑摩版では、大三卷の『草稿詩篇「習作集第八卷・第九卷』の最後に、詩篇を示さず、「冬日哀語」と題のみを小文字で示し、筑摩版編者による『*小學館版『萩原朔太郎全集』には「晩冬哀詩」と題して收錄されている』とのみあって、詩本文を載せない。これは如何にもおかしい仕儀である。私は小学館版を見ることが出来ないが、怪しい臭いがプンプンするのである。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 齒痛

 

  齒  痛

 

この高原にたかぶり怒り

ひとり哀しみやぶれ

日毎に祈りて景物を光らしむ

しんにこの齒痛は皮膚をこがし

わが神經をして路上に燃えしむる

みよ胸より發する齒痛は

するどく幼樹の幹を裂く

あはれ痛みの烈しきにたえずして

日の下にけふもわが身の踊れるなり

 

[やぶちゃん注:「たえず」の表記はママ。本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 (無題)(白みゆく月の夜なれや)+(つきずやみせぬうづまき 音もなく二人さしより)

 

  

 

白みゆく月の夜なれや

このしめりたる潮風にしばなくかもめ

燐光の靑さに水ながれいで

つきせぬ歡魚の身ともなれば

君こそ

ああまたさしぐみいづる淚み膝をぬらしぬ

ああかの高き宿星に

  *

つきずやみせぬうづまき 音もなく二人さしより

淚ぐましき露臺の椅子にうち向ふ。

  *印のあたり、部分的に曖昧である。

 

[やぶちゃん注:「*」のマーキングと最後の注は底本編者によるもの。本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 (無題)(あさまだきここに來りて)+(さびしや木の芽も露にしめりて)

 

  

あさまだきここに來りて

わがつむは宵待草の白きなれども

君を待つ心やいかに

この指にはさめば草もほのぼの

そらに黎明のみづがね流れたり

いざやわが身をば草木のかげに橫たへ

ひそかに指を草にあて

われは遠きあかつきの

   *

さびしや木の芽も露にしめりて

その繪具もて君が浴衣をひたすらむ

かたばみぐさもまだ起きいでぬあかつきに

かくまでに心あがりて

流るる岸に淚をうかべ

 

  * この二篇はノオトの同じ頁に並んで書かれ、

   同一のものか、また別個の作品にしようとした

   のか判別できぬので、便宜的にかく配列した。

 

[やぶちゃん注:編者注記から見て、「*」のマークはノートには存在しないものと思われる。本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 (無題)(靑空の下を步み行かばや)

 

[やぶちゃん注:最後から二行前の「*」は底本編者(後の編者による注参照)によるマーキング。]

 

  

 

靑空の下を步み行かばや

ひとりあたりをかへりみ

うたはんとして低く瞳を伏せたり

ああ十月半ばの空高く

透靑遠きに流れたり

かくして林をいで

行人の秋を問ふあへば

しきりに愁ひしたたり落つるによりて

つめたく路上に坐れるなり

ああ友の呼ばへる聲もいとはるか

みづうみのほとりに鳴きつれ連山の麓に去りゆく鳥

  *

この靑空の下を步み行かばや。

 

  *印のヶ所は一行全く不明。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集には無題詩としての本篇は載らない。後の補巻の索引にも載らないので、筑摩版全集不掲載詩篇と採っておく。しかし、実は本篇「靑空」と勝手に仮題して、その後に「○」を附して、第三巻の『草稿詩篇「習作集第八卷・第九卷」』に本篇を小学館版から転載しているのである。則ち、詩集「靑猫」の決定稿「靑空」(リンク先は私の正規表現版)の草稿扱いとして、しかも参照注記もせずにやらかした、先の「(悲しや 侘しや)」と同じ極めて不親切な仕儀である。甚だ腹の立つこと、極まりない。

「透靑」一般名詞では見たことがない。「とうせい」と読んでおく。意味は「透き通った青」で違和感はない。萩原朔太郎の造語と採る。]

2021/11/16

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 渚

 

  

 

女はかなしくよりそひて

わが手をみつむ

夕浪のひき去りゆく渚に座り

ほの白く光りて殘る渚を指さし

われ等なにごとか語らむと思ふなり

愛なくしてときのすぎゆくわびしさは

この言葉なきかたらひのひまに。

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。実は、二〇一四年に、どういう経緯で電子化したか思い出せないのだが(恐らくは気儘に全集を開いては、ふと気にいったものをブログでランダムに電子化していたように思う)、既に電子化しているが、「渚」の正字などが、当時の私の「ワード」がユニコード未対応であったためか、「渚」となっていることもあり、再掲しておく。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 (無題)(悲しや 侘しや)

 

  

 

悲しや 侘しや

ここは異域のいやはてに

目路のかぎりはうすあかり

とんとんとろりと物の怪が

地軸のはてをはせめぐる

うすら侘しき日の步み

雲ふきまくるくらやみに

眼ばかり光る風車

風肅々と吹きめぐり

遠方にすさまじき

異形のものの走りゆく

遠い異域の夕まぐれ

身うちにそひて怖え泣く

きちがひのドンキホーテの片意地こそ哀しけれ

かたく立てたる槍先に

うれひは到るよせきたる。

 

[やぶちゃん注:「怖え泣く」「おびえなく」と訓じておく。筑摩版全集には無題詩としての本篇は載らない。後の補巻の新索引にも載らないので、筑摩版全集不掲載詩篇と採っておく。しかし、実は筑摩版には第三巻の『草稿詩篇「習作集第八卷・第九卷」』に、解題から、小学館版全集から転載したとして、「ドン・キホーテ」と勝手に題を附しておいて、後に「○」を添えて、本篇が載る。これは、筑摩版第二卷「習作集第九卷(哀憐詩篇ノート)」に載る、以下のものを校訂本文で採用した、その草稿扱いという処理を意味しているのである。それを以下に示す。表は総てママ。

   *

 

 ドン・キホーテ

 

悲しや悲しや

こゝは異域のいやはてに

とんとんとろりと物の怪が

地軸のはてをはせめぐる

うすら侘しき日の步み

 

ほのくらやみに

眼ばかり光る粉挽車

風肅々と吹きめくり

遠方にすさまじき

異形のものゝ馳り行く

 

遠い異域の夕まぐれ

身うちにそひて怖え泣く。

きちがひの

キホーテの片意地こそ悲しけれ

固く立てたる槍先に

うれひひたによせきたる。

   *

筑摩版全集の問題点は、勝手に題名をつけたり、それぞれが草稿関係にある並立状態にある詩篇を、参照注記を附さずに、離れた別巻に載せている点である。これは甚だ不親切と言わざるを得ないのである。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 編註・「白日夢」

 

    「愛 憐 詩 篇」拾 遺

 

[やぶちゃん注:パート表題。裏の28ページに以下の編註が載る。不自然な字空け(一行字数を合わせるためと推定される。「編註」の後のみ再現した)があるので、全文を正常に繋げて示した。]

 

 

編註 『初期詩篇』に收められた「愛憐詩篇」は、すべて萩原朔太郞の初期作品といふべきもので、その雜誌發表も大正二年から大正三年にかけて行はれた。既刊『月に吠える』には「愛憐詩篇」十八篇を收錄し、『遺稿詩集』にはその年代の「遺稿作品」四十四篇を收めたが、ここにはさらに「拾遺」として十二篇を補追した。これらは「街道」一篇をのぞいて、みなノオトに書いてあつた。この十二篇の採集により「愛憐詩篇」當時の作品はほぼ完きまでに蒐錄されたと思はれる。

 

[やぶちゃん注:「遺稿詩集」は昭和二三(一九四八)年小學館刊「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」のこと。既にブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」で完全電子化注済み。

「その年代の「遺稿作品」四十四篇を收めたが、ここにはさらに「拾遺」として十二篇を補追した。これらは「街道」一篇をのぞいて、みなノオトに書いてあつた」計五十六篇。筑摩書房版全集では「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」には四十九篇が載るが、以下に見る通り、本篇群との一致度が異様に低く、本底本が元とした「ノオト」は「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」とは全くの別物である(因みに、筑摩版全集第二巻にある「習作集」は「習作集第八卷」と「習作集第九卷」以外には載らず(言っておくと、「愛憐詩篇ノート」は渋谷國忠氏の監修・解説で昭和三七(一九六二)年に世界文庫から復刻された際の書名「愛憐詩篇ノオト 前後二卷」として出版された際に渋谷氏が勝手に添えた副仮題を、筑摩版編者が第八巻にのみ適応したもので、私は実は甚だ不審に思っている)、解題で『これら「習作集」は第八・第九卷だけ殘され、第一卷から第七卷までと第十以後についてはまったく不明である。』とある。則ち、恐るべき膨大な量の草稿用「習作集」が忽然と消え去ってしまった可能性が極めて高いのである(少なくとも前の七巻分)。]

 

 

 

  白 日 夢

 

ひぐるまの花さもえんえと咲きければ

その高き葉の下に蟲つどひ

羽蟻の列ははてなき大地を步み行けり

見よや空には日輪もえ

きほひ猛なる投槍のほさき

火のごとく 人の肌をつきぬけり

時しもあれや

わが心いたく飢えて

ひねもす饐えはてしくだもののにほひをかぐ

やみがたき沒落にいたらんとす

すべて若き日はくちなはの縞ある背に生れ

身うちことごとくふるへて

かの靑き南國の海を嘆きしたへり

わが身は沃度もてぬられたる

アルマの唇ににほふひなげし

ひぐるまの花咲さく夏の白日に

阿片煙草の夢こそいかで忘られむ

遠き地軸のとどろきに

ひぐるまの花咲き散れる夏の白日。

 

[やぶちゃん注:「えんえ」はママ。「えんえん」(延々)の脱字或いは萩原朔太郎独特の音律による省略ででもあるかもしれない。或いは「ひぐるま」(日輪)=向日葵「の花さも」と続くのであれば、これは「圓々」(ゑんゑん)の誤表記の縮約とも採れる。後掲する別稿参照。

「沃素」(えうそ(ようそ))はハロゲン族元素の一つ。ヨード。単体では金属光沢を有する暗紫色の結晶であるが、昇華しやすく、蒸気は紫色で刺激臭がある。有毒。水に溶けないが、沃化カリウム水溶液には溶けて褐色、ベンゼン・ヘキサンでは紫色、アルコール・アセトンで褐色、澱粉では青色を呈する。天然には海藻やチリ硝石などに含まれ、哺乳類では甲状腺に含まれてチロキシンを構成し、必須元素の一つであり、また分析試薬や医薬などに利用される。但し、ここでは単なる色彩上の南国の土人(以下の別稿を参照)のおどおろどろしいヨード・チンキ色の戦士のボディ・ペインティングのイメージに過ぎない。

「アルマ」不詳。但し、英語・スペイン語などの女性名に「Alma」があり、これはラテン語の「almus」=「滋養」、又は、スペイン語・ポルトガル語の「alma」=「魂」に由来し、一読した際には後者の「魂」の意で「戦士たる私の霊魂の唇に」と直感的には読み下した。

 さて、筑摩版全集には同題「白日夢」があるが、異同の激しい一篇が「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」にある。以下に示す。「つくざけり」はママ。「つき(ん)ざけり」の誤記であろう。標題頭の意味不明の記号「△」や歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

 

△白日夢

 

ひぐるまの花さもゑんゑんと咲きければ

その高き莖の下に蟲つどひ

羽蟻の列は涯なき地平を步み行けり

見よや空には日輪もえ

きほひ猛なる投槍の穂先

火の如く蠻人の肌をつくざけり

八月なかば、わが心いたく飢えて

ひねもす饐えはてしくだものゝにほひをかぎ

やみがたき沒落の邪淫にひたらんとす

すべて若き日はくちなはの縞ある背に生れ

身うちことごとくふるへて

かの靑き南國の海を戀ひしたへり

わが身は妖紅もてぬられたる

アルマのくちびるに、にほふひなげし

遠き地軸のとゞろきに

ひぐるまの花咲き散れる夏の白日

阿片煙草の夢こそいかに忘られね、

                  (戲作)

 

   *

謂わんとするところの一篇に夢想展開の一貫性(説明的叙述部分)は後者にあるが、内在律を大事にした萩原朔太郎の詩篇としては本篇の方が俄然優れていると私は思う。なお、実は筑摩版第三巻の『草稿詩篇「習作集第八卷・第九卷」』に本書の本篇を転載して載せてあり、これを勝手に「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」に載る上記の草稿扱いにしているのである。こういう仕儀は甚だ不親切極まりない。相互に参照注記を附すのが当然であろう。

2021/11/15

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 小曲十篇

 

    小 曲 十 篇

 

[やぶちゃん注:パート表題。裏の20ページに以下の編註が載る。不自然な字空け(一行字数を合わせるためと推定される)があるので、全文を正常に繋げて示した。]

 

 

編註 これらの作品は「初期詩篇」とともに習作時代に屬し、集中の「水尾」が、既刊『遺稿詩集』收錄の「螢狩」と同じノオトの切れはしに鉛筆書きしてあつたことから推して、大正二ないし大正三年ころと思はれる。なほ集中最初の『銀』から『雀』に至る六篇は、一括して「秋思」と總題され、「小曲六篇」と副題してあつた。

 

[やぶちゃん注:小学館版のコンパクト版の「遺稿詩集」の「螢狩」はこれ以上は非常に重要なもので、以下に示す通り、筑摩書房版全集では、この十篇はソリッドに一括して載ってはおらず、六篇目の「淚」に書かれた原稿についての筑摩版編集者の注記の採用元原稿の様態解説の内容(後掲する)とは明らかに有意に異なるからである。則ち、本原稿は筑摩版全集が確認した同一の十篇のそれぞれ原稿とは、また、異なるものと推定されるからである。

 

 

 

  

 

戀もあらしも過ぎさりて

岩間に銀の瀧ながる

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集では、第二巻の「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」の518ページに載るが、前に、後に掲げる「水尾」「こゝろ」(本底本では「心」)の順で配され、後には、後に掲げる「釣」「命」「雀」と、一つ別な無題(いはん方なきさびしさに)を挟んで、やはり後掲する「おもひで」が載る。しかも表記に異同がある。以下に示す。

   *

 

 銀

 

戀も嵐もすぎ去りて、

岩間に銀の瀧ながる、

 

   *]

 

 

 

  

 

うたげの庭に笛を吹く

世界のはてのおさな兒よ

 

[やぶちゃん注:「おさな兒」はママ(歴史的仮名遣は正しくは「をさな兒」)。筑摩版全集では同前で、「こゝろ」として517ページに載るが、やはり表記が異なる。以下に示す。

   *

 

 こゝろ

 

宴會(うたげ)の庭に笛を吹く、

世界のはてのおさな兒よ、

 

   *]

 

 

 

  

 

きりぎりすが殺したや

靑い顏して

ぢつといのちをみつめたや

 

[やぶちゃん注:「ぢつと」はママ(歴史的仮名遣は正しくは「じつと」)。筑摩版全集では同前で、「命」として519ページに載る。表記に変更はない。]

 

 

 

  

 

きちがひなればさびしかろ

ぢつとして居られねば

鐵橋の下を魚を釣る

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集では同前で、「釣」として518ページに載る。表記は異同(歴史的仮名遣の誤り・誤字と思われるもの)がある。以下に示す。

   *

 

 釣

 

きちがひなればさびしかろ

ぢつとして居られば

鐵橋の下を魚を釣る

 

   *

筑摩版校訂本文では、

   *

 

 釣

 

きちがひなればさびしかろ

じつとして居られねば

鐵橋の下で魚を釣る

 

   *

とする。しかし、「で」の校訂は正しいと言えるか? 「に」の可能性もあるのに。]

 

 

 

  

 

坊主にならうとなるまいと

なんで雀が知るものぞ

淚が流れてとまり申さず

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集では同前で、「坊主」として519ページに載る。表記は異同(読点)がある。以下に示す。

   *

 

 雀

 

坊主にならうとなるまいと、

なんで雀が知るものぞ、

淚が流れてとまり申さず、

 

   *]

 

 

 

  

 

眞實なればいかにせむ

なみだぞわれのいのちなる

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集では、第三巻「未發表詩篇」の259ページに載るが、表記に異同がある。以下に示す。

   *

 

  淚

 

しんじつなればいかにせむ

なみだぞわれのいのちなる

 

   *

しかも、そこには筑摩版の編者注として、『「秋日行語」の總題のもとに、同じ原稿用紙に「銀」「心」』(漢字表記はママ)『「淚」「命」の順に記されており、他の三篇はいずれも「習作集第九卷」に收錄されているが、「淚」だけは收錄されていない。』とある。この題は小学館版の「編註」にある「秋思」と親和性があるが、しかし違い、しかもその原稿には「銀」「心」「淚」「命」の四篇しか記されていないとあるのである。則ち、自ずと、本底本の依拠したノートの切れ端に書かれたものと、筑摩版全集の依拠した原稿は別物であることを意味する。

 

 

 

  水  尾

 

あきかぜふかばちるものを

さんらんとして蛇およぎ

綠金の瞳は夢を見る

 

[やぶちゃん注:「水尾」は思うに、地名などではなく、一般名詞の「みを」(みお)で「澪」「水脈」のことであろう。本篇は筑摩版全集では、第二巻の「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の517ページに載るが、表現・表記に異同がある。以下に示す。

   *

 

 水尾

 

あきかぜ吹けばちるものを、

さんらんとして蛇およぎ、

綠金の瞳は夢を見る、

 

   *

他に同全集第三巻の『草稿詩篇「習作集第八卷・第九巻」』に以下の草稿がある。

   *

 

  水尾

ひかりをみをにみあきふかばちるものを

さんらんたりや金の蛇として蛇およ

さんらんたりや銀の蛇

金銀綠金の瞳は夢をみる、

 

   *

「あきふかば」はママ。「かぜ」の脱字であろう。]

 

 

 

  

 

あほげば

松はしたゝるみどり

松はかゞやく銀の松

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩版全集では、第三巻の「未發表詩篇」の258ページに載るが、こちらは推敲段階を含めた削除等を含んだものである。以下に示す。「あほげば」の歴史的仮名遣の誤りはママ(歴史的仮名遣は「あふげば」。萩原朔太郎の偏執的書き癖で、他の詩篇の原稿でも、しばしば、こう書く)。

   *

 

 松

 

1あほげば

2松はしたゝるみどり、

目しひばとづれば、

松はかなづる、

ひやうひやうと

こがらし眞如、

3松はかゞやく銀の松。

銀の松。

 

  *

で、筑摩版編者により、『行頭の123の數字は作者が附したもの。三行目の抹消部分は意味不明であるが、原文のまま。』とある。「目しひ」は「盲(めしひ)せば」と書くところを「せ」を脱字し、二案として前を抹消せずに、「閉づれば」としたが、全抹消したと考えれば、意味不明とは言えないと私は思う。]

 

 

 

  お も ひ で

 

うすらひに

いさなさやぎ

松の葉に

ゆきのふる

はつしもの

うすきゑにしを

 

[やぶちゃん注:「ゑにし」はママ(歴史的仮名遣は「えにし」でよい)。本篇は筑摩版全集では、第二巻の「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の517ページに載る。標題が「おもいで」と歴史的仮名遣を誤り、「ゑにし」は同前であるものの、編者注に『全篇が斜線で抹消されている。』とあり、少なくとも同ノートに於いては、萩原朔太郎自身はこれを詩篇として抹消・除去しているということになる。但し、同全集第三巻の『草稿詩篇「習作集第八卷・第九巻」』に「おもひで」と全集編者が仮題して、以下の「菊」と題した、かなり似た草稿断片がある。

   *

 

  菊

 

うすらひに

魚(いさな)さやぎ

まつの葉に

こなゆきのふ

冬のはつしもの

あきのしらじら

あさのあひびき

なお、「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」には、別に、以下の同題異篇が後の520ページに載る。参考までに以下に示す。標題の「おもいで」の表記はママ。

   *

 

 おもいで

 

遠い海岸の、

病院の長廊下で、

月がきつすをする、

まつ白い寢臺のすみで、

眞鍮のこほろぎ、

 

   *

全くの直感に過ぎぬのだが、この同題異篇は、上記のそれが、海辺であり、本篇の「いさなさやぎ」(勇魚さやぎ)と「松」も親和性があって、私は間違いなく永遠のファム・ファータル「エレナ」への「思ひ出」なのではないか――次の無題詩篇もそれに直結している――と強く感ずるものである。]

 

 

 

 

 

きみと居るとき

わが世はたのし

きみなきとき わが世はやみの世

そよかぜのふきくる

きみが夢路を

ああ風さヘ

星さへかたる きみ戀しやと

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩版全集では、第三巻の「未發表詩篇」の272ページに載るが、こちらは推敲段階を含めた削除等を含んだものである。以下に示す。

 

 ○

 

きみと居るとき

わが世はたのし

きみなきとき わが世はやみの世

そよかぜのふきくる

きみが夢路

風も星も

あゝ風さヘ

星さへかたる、きみ戀しやと、

 

   *]

2021/11/14

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 文政乙酉御幸記

 

   ○文政乙酉御幸記

[やぶちゃん注:以下、『承り申候。』までは底本では全体が一字下げ。本篇冒頭は全体が書信の写しのようである。]

廿三日御幸之御歌、いまだ手に入り不申。御當日廿五首、但、御題頂戴にて、其外は、御歌、多し。「廿五日之御詠出」と申す事にて、最早、内々は揃居候へ共、いまだ表向奉行も、夫故、祕し出だし吳不申之由、手に入候はゞ、早々、遣し候樣申候。尤、此度は御兼題なし。

仙洞樣、「修學院御茶屋」より、御内々、上卿・殿上人御供にて、叡山へ御上り被遊、絕頂にて御樂一曲、有之。尤、三管、夫より、東ひらへ、よほど御下り御歸り被遊候由、御丈夫之事と、皆々、恐入候由。「窮遂軒」にて御樂三曲、「下之御茶屋」にて、御樂三曲ほど、御座候よし、承り申候。

[やぶちゃん注:この当時(文政八(一八二五)年)の天皇は仁孝(にんこう)天皇(寛政一二(一八〇〇)年~弘化三(一八四六)年)。

「仙洞樣」仁孝の父で先代の光格天皇(明和八(一七七一)年~天保一一(一八四〇)年)。文化一四(一八一七)年三月に恵仁親王(仁孝)に譲位し、太上天皇となっていた。当時、数えで五十五。

「東ひら」「東比良」で、叡山の東の琵琶湖南部の西岸を広域で言ったものであろう。

「修學院御茶屋」修学院離宮には「下御茶屋 御興寄」・「上御茶屋 窮遂亭」(後に出る)・「上御茶屋 浴龍池」の三つの御茶屋がある。

 以下は、頭の「一」を行頭にするほかは、底本では、二行目以下は一字下げ(実際には二行目以降に及ぶものは最後の条のみ)。一の後に字空けを施した。]

一 供奉公卿方御裝束書には、珍敷御色目も御座候よし、近々手に入たく、入御覽可申候。

一 御當日、關白樣、御先に被爲入、准后樣にも御さそひにて被爲入候由。

一 周防守樣には、晝頃、爲御機嫌伺御出、御還り之節は、御路外御歸り、直に御參院、御末廣弐本、御絹三疋御拜領之由。御同人樣、當日御獻上物、表向、鮮鯛一折、御内々御獻上、遠鏡二つ、御組重、御猪口、御小皿五十枚づゝ、中は御煎茶、色々。下は御煮漬物・御菓子と申す事に候。別に下々迄被下候。靑籠まんぢう、燒鯛、是は御供之面々、此分に而行渡り申候由。

[やぶちゃん注:「關白樣」仁孝天皇の義兄鷹司政通。

「准后樣」光格天皇の最後の関白であった一条忠良(以下の最初の歌会で上皇に続いて筆頭で詠んでいる)のことであろう。彼は文政六(一八二三)年に関白を辞めている。彼が正式に准三后となったのは文政十一年であるが、フライングしてこう呼称しても違和感はない。

「周防守樣」この文政八年に京都所司代に就任した石見国浜田藩主松平周防守康任(やすとう)であろう。

「靑籠まんぢう」「蒸籠饅頭(せいろ(う)まんぢゆう」のことであろう。]

   ○文政八年十月廿三日於修學院御當座

[やぶちゃん注:以下、末尾の作者名は底本では全体が揃えてある。]

冬山 散紅葉落つるこのみをかつひろひかつ分けのぼる冬の山道

ゝゝ みゆきして君がながむる山々の冬のすがたもめづらしきかな 忠良

ゝゝ 冬がれの山のはたかくときは木はみどりあらはに生ひしげりぬる 宗厚

ゝゝ やまぢ行く袖のあらしもさむからで冬をよそめの木ゝぞはえある 永雅

ゝゝ みねふもとおく朝霜も冬の色ひかりおくある山松のかげ 實久

冬野 霜ふかくおけど言葉のいろそへて冬枯しらぬ野べの松がえ 胤定

ゝゝ 冬も猶はる風なびくけふにあひて御幸をあふぐ野べの民ぐさ 資愛

ゝゝ 冬がれの野べのけしきをめづらしとけふしも君はみそなはすらし 公祐

ゝゝ 秋草は露をかけふる花もなき霜にかれ葉の野べの見渡し 隆起

ゝゝ 冬がれし野べのみゆきのあとゝめてつゝる袖にもちよつもるらし 大任俊矩

冬路 としどしのみゆきのひかり見るのべの草葉の霜の花もそひけり 泰行

ゝゝ 冬がれの霜のみちしばふみならしみゆきにつかふ駒ぞいさめる 重成

ゝゝ いく度かさそふあらしにちりぬらん落葉をわたる冬の山みち 基逸

ゝゝ 君が爲しげる眞砂の白たへにおくとも見えぬ道の朝霜 隆光

ゝゝ 置く霜を扶にしらし此あさげわけ行く道はこまもいさみて 永胤

冬瀧 岩がねの落葉色どるたき波にしぐれのいとのけふはかゝらず 爲則

ゝゝ やま風に峯のもみぢをふきたてゝ錦ながらの冬の瀧つせ 公久

ゝゝ 山かぜのさそふこの葉もおのづからよりあはせたる瀧のしらいと 親實

ゝゝ 冬かけて殘るもみぢ葉枝ながらこほりにとぢよ瀧の白いと 有長

ゝゝ 時雨ふる音かとぞ思ふ山の瀧雲のとなりの軒に聞えて 重德

冬池  まつが根にいづるいづみの池なれば冬も綠にいく世澄むらむ 忠良

ゝゝ 冬ながら氷もそめぬさx波の花の春かとむかふ池水 爲訓

ゝゝ 春の名の日影ゆたけき此いけの波さむからずうかぶ松しま 爲則

ゝゝ みそなはす此山かげの池水もふゆのひかりにさぞこほるらむ 有言

ゝゝ 見渡すにきしねの嵐さえくて波うちよする冬の池水 爲和

冬田 かり衣思ひたゝずは朝まだき冬田の面の霜は見ましや

ゝゝ せきわけしあぜの流れの水かれてかり田の面に霜きゆるなり 政道

ゝゝ 豐なる御代ぞとしるやかる跡のいなゝきしげき霜のあら小田 樂山

ゝゝ 稻雲冬獲晚登田。鳥雀驚人收穗邊。一段荒寒終事後。霜花結成白花檀 公說

ゝゝ 冬しるきひえのあらしにふもとなるかり田の苫やこのは散りしく 通修

  題者奉行等           爲則

   ○文政八年十月廿三日於修學院御當座後座

十月見紅葉 かく計秋の錦をそのまゝに千しほおりなす冬のもみぢ葉 正通

ゝゝゝゝ みゆきする山路はしばし冬來てものこるもみぢに秋を見せけり 家厚

ゝゝゝゝ 名もしるき雲の隣の軒近みひときに秋を殘すもみぢ葉 有言

ゝゝゝゝ 露しぐれそめにし雲に此ごろものこるもみぢは御幸まちけん 永雅

ゝゝゝゝ 君も臣も見し長月にかはらずてそむるちしほは冬の山かげ 重成

ゝゝゝゝ のちとほくましゝ御幸にかみな月ちらぬかひある山のもぢ葉 資愛

ゝゝゝゝ ちしほまでげふの御幸のをりにあへ秋のこしたる木々のもみぢ葉 隆起

ゝゝゝゝ のべ山邊秋のこす色もいく千入けふの御幸をまちしもみぢ葉 樂山

ゝゝゝゝ みねつゞき比えのねかけて冬枯はしらぬ山とも見ゆるもみぢ葉

ゝゝゝゝ 神無月きみの御幸につかへ來てふかきめぐみをもみぢにぞ見る 公久

ゝゝゝゝ 飛霜著樹作多工。十月山顏水面紅。別有光輝迎玉輦。宛如飾障似屛風 公說

ゝゝゝゝ 枝かはす松にならびてもみぢ葉もさかりの色を冬に見るらし 泰行

ゝゝゝゝ ちりはてぬ木々の梢の冬になほ色うるはしくのこるもみぢ葉 永胤

ゝゝゝゝ かくもけふみはやす春をまつの嶋の冬にもちらめ峯のもみぢ葉 有長

ゝゝゝゝ きみがけふみゆきまちえて冬までもちしほと殘す山のもみぢ葉 實久

ゝゝゝゝ 山陰に嵐もしらず冬かけて見する紅葉やみゆきまちけん 韶仁

ゝゝゝゝ またゝぐひあらしもふかず神無月御幸にめづる木々のもみぢ葉 親實

ゝゝゝゝ にぎはしきけふの御幸に冬來ても猶立ちそふる山のもみぢ葉 重德

ゝゝゝゝ 軒ちかくそめものこさず冬きてのけふも待ちえしもみぢとぞ見る 忠良

ゝゝゝゝ 此冬のけふを御幸とそめそめて色あさからず殘るもみぢ葉 爲知

ゝゝゝゝ るり光のます山かけて秋の色を此面かのもに殘す木々かな 公祐

ゝゝゝゝ もとよりも御幸を待ちし紅葉かはしられてふゆぞ殘る山陰 祐貞

ゝゝゝゝ 御幸をばことしも待ちて嵐吹く冬も紅葉のちらずやあるらむ 通修

ゝゝゝゝ  千重百重なほ山姬は冬かけて霜はもみぢの錦おるらん 爲訓

ゝゝゝゝ おのづから錦とぞ見ゆる神無月しぐるxをかの山のもみぢ葉 大江俊雅

ゝゝゝゝ もきしほは冬までこえて山陰の御幸も秋とむかふもみぢ葉 爲則

ゝゝゝゝ てる色を君みそなはせ冬來てもにしきはえある山のもみぢ葉 基逸

ゝゝゝゝ あきの後もこゝろをそめて神無月名にたつ春にむかふもみぢ葉 雅光

ゝゝゝゝ 空晴れしけふの御幸のあまつ日に冬とも見えずてらすもみぢ葉 隆光

ゝゝゝゝ ふゆ來ても此山かげにいく千々の秋をのこしてそむるもみぢ葉 胤定

  題者奉行等           爲則

 右二編は、十二月朔、輪池堂携來於席上所披講者、倂錄于篇左。

[やぶちゃん注:私は短歌嫌いなで、以上の細部にも興味が全く働かないので注さない。一つだけ、後半の歌は各人の冒頭の字(頭にピックアップされてある)をならべると、

 かみなつきのちのみかひえちかきやまにのこりもみちをもてあさふ

となり、

 神無月のちのみかひえ近き山に殘り紅葉をもて遊ふ

(二句目はよく判らない。「後のみか、比叡」「後の三日冷え」などと考えたが、どうも判らぬ)で、それが一種の当季の折句の一首となるように仕立ててある。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丑時參詩歌

 

   ○丑時參詩歌

下毛野國足利のかたほとりに、よに、「丑の時まゐり」といふわざをせしを、「まさめに、見つ。」と、そこなる人のかたれるさまをよめる。     橋 庭 麻 呂

あやしきは 火にぞ有りける うちしめる 時こそ有りけれ もえたてば けつすべもなし 世中の 人の思ひも おのづから しかこそ有るらめ よの常は 外へも出でえぬ たをやめの たつや心を 黑髮の 思ひ亂れて いただきに ともし火さゝげ むなさかに ます鏡かけ ひだりてに かなくぎもたし みぎり手に かなつちもたし ぬばたまの やみのよふけの 丑すぎて うしとも言はず 神のます もりのしめなは いきのをに かけつゝすゑて おひしげる なみ樹の松に 左手の 釘とりおさへ みぎり手の つち振り上げて ねたましや あなねたましと かきみだり 逆立髮に さかだてる 角をさゝげし ほのほはも 鏡にうつり かゞみはも 胸にたく火の おそろしき 姿てらして とこひ打ち 音もとゞろに 山彥の とよむひゞきぞ よそにきく 身にもこたへて 身の毛さへ いよたちにける たをやめの いかにもえたつ こゝろなるらむ

 たをやめのとこひのろひとうつくぎやいづくのたれか身にひゞくらん

[やぶちゃん注:以下、『以廣異聞。』までは底本では全体が一字下げ。]

下野州足利里。有世所謂丑時進※者[やぶちゃん注:「※」=(上)「禾」+(下)「旬」。]。世之人無有視之。而里人獨視之。告之橋庭麻呂。庭麻呂以國歌記之。余亦作七言古體。以廣異聞。

夜入四更人語歇。落月光滅冷透骨。情面閻羅懷肉刅。足躡木履度幽峻。自謂。無天地人間知。松杉深處有所思。胸懸明鏡頂戴火。火能照鏡鏡照姿。數幅白衣白於雪。朱唇黑髮烏雲垂。右手金鎚左手釘。釘則五寸鎚倍之。三釘四釘七七釘。四十九釘數盡時。受釘老杉宛百丈。更無一葉留在枝。奈何使無心根柢。枯稿不終千萬歲。此時山魑林魅絕。天根地紐似可裂。吾聞。荊楚俗能呪詛人。宜掘兩穴。奈何獨將竊窕身。妬刅毒手好剌人。

  乙酉子月       快雪堂主人岡雄

[やぶちゃん注:本発表は目次によれば、輪池堂屋代弘賢であるが、「快雪堂主人岡雄」という署名は屋代の号には見当たらない。

「丑時參」(うしのときまゐり)「丑の時まゐり」は、ご存じ、「丑の刻參り」のこと。詳細は当該ウィキを見られたいが、そこに、『「うしのときまいり」という言葉の方が古い』とし、『古くは祈願成就のため、丑の刻に神仏に参拝することを言った。後に呪詛する行為に転』じたもので、『京都市の貴船神社には、貴船明神が降臨した「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に参詣すると、心願成就するという伝承があったので、そこから呪詛場に転じたのだろうと考察される』とある。

「下毛野國足利のかたほとり」場所を特定していないが、調べて見ると、足利市八幡町の下野國一社八幡宮(しもつけのくにいっしゃはちまんぐう)の境内にある門田(かどた)稲荷神社(グーグル・マップ・データ)のことと思われる。現在、「縁切の社」という公式の看板が建てられており、ネット上にも嘗て「丑の刻参り」が行われていたという複数の記載が見られるからである。

「橋庭麻呂」不詳。「はしのにはまろ」と読んでおく。

「とこひ」ハ行四段活用の動詞「呪・詛(とこ/とご)ふ」の連用形。「呪(のろ)う」の上代に既に見られる非常に古い語である。

「下野州足利里。有世所謂丑時進※者[やぶちゃん注:「※」=(上)「禾」+(下)「旬」。]。世之人無有視之。而里人獨視之。告之橋庭麻呂。庭麻呂以國歌記之。余亦作七言古體。以廣異聞。」訓読してみる。

   *

下野(しもつけ)の州(くに)足利の里。世に所謂「丑時の進※」せる者、有り[やぶちゃん注:「※」は読み不詳。]。世の人、之れを視ること有る無し。而れども、里人、獨り之れを視る。之れを橋庭麻呂が告げて、庭麻呂、國歌を以つて、之れを記す。余も亦、七言の古體を作れり。以つて、異聞を廣む。

   *

「夜入四更人語歇……」古体詩の訓読を試みる。

   *

夜に入ること 四更(しかう) 人語 歇(つ)く

落月 光 滅し 冷 骨に透く

情面 閻羅(えんら) 肉刅(にくじん)を懷き

足 躡(ふ)むは木履 幽峻に度(わた)る

自(おのづ)から謂へらく

天地 人間の知は無く

松杉(しようさん) 深き處に思ふ所 有り

胸に懸く 明鏡 頂きには 火を戴す

火 能く鏡を照らし 鏡は姿を照らす

數幅の白衣(びやくえ) 雪よりも白く

朱(あけ)の唇(くち) 黑き髮 烏雲(ううん)垂る

右手に金鎚 左手に釘

釘(くぎ)は則ち五寸 鎚は 之れ 倍す

三釘(みくぎ) 四釘 七七釘(しちしちくぎ)

四十九釘 數 盡くる時

釘を受けたる老杉 宛(さなが)ら 百丈

一葉だに枝に在るを留むるは更に無し 

奈何(いかん)ぞ無心をして根柢せしめんや

枯稿 終はらず 千萬歲

此の時 山魑林魅(さんちりんみ) 絕へ

天根地紐(てんこんちちう) 裂くるべきに似たり

吾れ 聞く

「荊楚(けいそ)の俗 能く人を呪詛するに

宜しく兩(ふた)つながら 穴を掘り

奈何(いかん)ぞ獨り將に窕(あでや)かなる身を竊(ひそ)めんとし

妬刅(とじん)の毒手 好んで人を剌す」と

   *

最後の部分の訓読は自信がない。「四更」は丑の刻に同じ。「閻羅」閻魔王に同じ。「幽峻」人里離れた場所。「烏雲」は黒雲。「七七釘」人の生まれ変わる間である中有(ちゅうう)に掛けた渾身の四十九本。「荊楚」中国南方の長江中流域地方の旧称。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 一宮川旅情の歌

 

  一宮川旅情の歌

 

よしやあしや

水草の葉をしばし吹き鳴らさむ

ここは上總(かずさ)の國一宮(いちのみや)川

とび魚の水をとびかひ

蜜柑の皮の浮くや沈むや

風ふけば海鳴りいでて

あまつさへ鶫(つぐみ)なくなり

ああはやかかる渚に一人たたづみ

わればかり哀しむ人はまたとあらず

浮寢鳥、旅する旅に幾日(いくか)へにけむ

ここもまたよしやあしやは

たそがれて水草の葉を吹き鳴らす寂しさよ。

 

[やぶちゃん注:「たたづみ」はママ。

「一宮川」(いちのみやがは)は千葉県の九十九里平野南部を流れる。描写から見て河口附近の景であるが、奇しくも、晩年に萩原朔太郎と友人となる芥川龍之介が、大学時分、重要な人生的転回点に於いて、複数回(確実には二度)、避暑した場所にごく近い。私の「芥川龍之介書簡抄27 / 大正三(一九一四)年書簡より(五) 吉田彌生宛ラヴ・レター二通(草稿断片三葉・三種目には七月二十八日のクレジット入り)」(地図リンク有り)及び「芥川龍之介書簡抄62 / 大正五(一九一六)年書簡より(九) 塚本文宛(恐らく芥川龍之介の書簡の中で最も人口に膾炙している彼女へのラヴ・レター)」を参照されたい。

 さて、本篇は筑摩書房版全集の「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」の「月見草」と酷似する(相同ではない)。以下に示す。「密柑」「たゝづみ」「あらぢ」「鳴す」は総てママ。

 

 一宮川旅情の歌

 

よしやあしや

水草の葉を折りてしばし吹き鳴らさむ

こゝは上總の國一宮川

飛び魚の水をとびかひ

密柑の皮の浮くや沈むや

風ふけば海鳴りいでゝ

あまつさへ鶇(つぐみ)なくなり

あゝはやかゝる渚に一人きてたゝづみ

わればかり哀しむ人はまたとあらぢ

浮寢鳥旅より旅に幾日へにけむ

こゝもまたよしやあしやは

たそがれて水草の葉を吹き鳴す寂しさよ。

               (五月九日)

 

筑摩版では、同ノートの直前の「雨の降る日」(添え題「(兄にううたへるうた)」)のクレジットが『〔一九一三、五、二〇、〕』となっており、直後の「綠蔭」のクレジットが『(二十四、五、一九一三)』であることから、大正二年五月九日の作と推定出来る。それを裏付けるように、筑摩版年譜には、大正二年五月の条に、『妹ユキと、千葉縣一宮方面に十日間ほど旅行』とある。今までの数篇と同じく、有意に表記上の違いが見られることから、小学館版の本篇のソースは「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」とは別の未発信書簡に記された詩篇である可能性が高い。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 月見草

 

  月 見 草

 

咲きいでたるは月見草

海近き帷幕(あげはり)の影に座りて

日中は哀しくしほれたり

わがごとも物を思へや月見ぐさ

ああ、この花の黃色きを見てあれば

こころまたひとつになりて人を戀ふ

たれを待つとしなけれども

かくも素直にわが待ち居れば

そつと來て接吻(くちづけ)のして欲しや

たれにてもあれ

にほひよき少女ほしやとうち嘆く

わが若き瞳のみづみづしさと悲しさと

空の靑きに鳥とんで

さらさらと砂は素脛(すはぎ)をこぼれおつ

この長き濱邊にあるはわれ一人

ああただ一人

たそがれて月見草の花は咲き出づ。

 

[やぶちゃん注:「帷幕(あげはり)」は「幄舍」(あくしゃ)で、四隅に柱を立て、棟・檐 (のき) を渡して布帛 (ふはく) で覆った仮小屋。ここは漁師小屋であろう。

 本篇は「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」の「月見草」と酷似する(相同ではない)。以下に示す。「しほれたり」はママ。

 

 月見草

 

咲きいでたるは月見草

海近き帷幕(あげはり)の影に座りて

日中は哀しく しほれたり

わがごとも物を思へや月見草

あゝ この花の黃いろきを見てあれば

こゝろまたひとつになりて人を戀ふ

たれを待つとしはなけれども

かくも素直にわが待ち居れば

そつと来て 接吻(くちづけ)のして欲しや

たれにてもあれ

にほひよき女欲しやとうち嘆く

我が若き瞳のみづみづしさと哀しさと

空の蒼きに鳥飛んで

さらさらと砂は素脛をこぼれ落つ

この長き濱邊にあるは我れ一人

あゝたゞ人

たそがれて月見草の花は咲き出づ。

              (一九一三、五)

 

編者注に、『題名の下にG.Sと記されている』とある。前篇と同じく、有意に表記上の違いが見られることから、やはり、小学館版の本篇のソースは「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」とは別の未発信書簡に記された詩篇であり、「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」にあるクレジット「一九一三」(大正二年)よりも以前に独立して記された別草稿である可能性が浮上してくる。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 偶成

 

  偶  成

 

かなしくも故鄕(ふるさと)にかへり居て

うたつくりとは成りはてにけむ

この日、町のはづれをさまよひしが

しんとせる心になりてかへりたり

きのふ びあぜれの繪をながめ

けふは蓄音機のしよぱんを聽く

わが田舎ずまひは何といふ心やすさぞ

窓には茴香の花咲けり。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。

びあぜれ」は、まあ、このカタカナ音写で「繪」描きとなれば、かのイギリスのイラストレーター(ワイルドの「サロメ」のそれで知られる)として有名な、ヴィクトリア朝世紀末美術を代表する作家オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley 一八七二年~一八九八年)としてよかろう。

「茴香」は「ういきやう」でセリ目セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare。花の花期は七~八月で、枝分かれした草体全体が鮮やかな黄緑色のその茎頂に、黄色の小花を多数つけて傘状に広がる。

 本詩篇は、筑摩版全集では、この題名では載らないが、どうも一度、このフレーズは読んだ記憶があったので、調べてみたところ、「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」の中に、「ふるさと」という標題である詩篇の一節と酷似する(相同ではない)ことが判った。以下に示す。七行目「いつもごとく」及び「茴香(ういぎやう)」の読みはママ。

   *

 

 ふるさと

 

赤城山の雪流れ出で

かなづるごとくこの古き町にはしりいづ

ひとびとはその四つ辻にあつまり

かなしげに犬のつるむを眺め居たり

ひるさがり

床屋の庭に石竹の花咲きて

われはいつもごとく本町裏の河岸を行く

うなだれて步むわがうしろに

かすかなる市びとのさゝやききこえ

人なき電車はがたこんと狹き街を走り行けり

わがふるさとの前橋

 

     △

 

かなしくもふるさとに歸り居て

うたつくりとは成りはてにけむ

この日町のはづれをさまよひしが

しんとせるこゝろになりてかへりたり

きのふびあぜるの繪をながめ

けふは蓄音機のしよぱんをきく

わが田舍ずまひはなにといふ心やすさぞ

窓には茴香(ういぎやう)の花も咲けり

            (十九、五、一九一三)

 

   *

「かなづるごとく」「奏づる如く」で「舞いを舞うかのように」の意。

「石竹」ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis 。初夏に紅・白色などの五弁花を咲かせる。葉が竹に似ていることが名の由来とされる。中国原産。

 なお、編者注があって、『「△」の下にSBと記されている。』とある。なお、本詩篇の第一連は(というより、以上の署名らしきものの位置から見て、「△」以下の後半は別個な無題詩篇と考えることも出来る)、独立して改作され、大正二年十月六日附『上毛新聞』に、「ふるさと」として「夢みるひと」のペン・ネームで、以下のように初出している。初出は総ルビであるが、一部に留めた。八行目「わか」、九行目「さゝやきこへ」はママ。

   *

 

 ふるさと

 

赤城山(あかぎやま)の雪流れ出で

かなづる如くこの古き町に走り出づ

ひとびとはその四つ辻に集まり

哀しげに犬のつるむを眺め居たり

ひるさがり

床屋の庭に石竹(せきちく)の花咲きて

我はいつもの如く本町裏(ほんまちうら)の河岸(かし)を行く

うなだれて步むわか背後(うしろ)に

かすかなる市人(いちびと)のさゝやきこへ

人なき電車はがたこんと狹き街を走り行けり

我が故鄕(ふるさと)の前橋

 

   *

さて。本篇は前者「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」の「ふるさと」の後段と酷似しているものの、相同ではなく、さらに、本底本の「初期詩篇」パートの解説の「制作年代」の末尾を、再度、見てほしい。

   *

「偶成」以下の三篇は、未發送に終つた手紙に、自作詩の解說として書かれてゐたもので、制作年代はやはり明治末年のころから大正改元のころと思はれる。

   *

則ち、小学館版の本篇のソースは「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」とは別の未発信書簡に記された詩篇であり、「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」にあるクレジット「一九一三」(大正二年)よりも以前に独立して記された別草稿である可能性が浮上してくることになるのである。

2021/11/13

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 地獄より天堂ヘ

 

  地獄より天堂ヘ

 

我は人にかくれて十字架に接吻す

主よわれをあはれみ給ヘ

 

我が行く途は異端のみち

わがともがらは邪淫の蛇

 

かくても我は主にすがらん

聖加從力(セント・カトリツク)の誠の主よ

 

我が心は常に誘惑に躍り

肉は腐れて邪宗門の庭に爛(ただよ)へども

尙われは聖母の袖にかくれて啜り泣く

         さんた・まりや

 

げに我はい祈禱(いのり)を知らず

惡酒にただれし唇もて

何ぞ主の御名を汚すをえん

わがうたふ歌は地獄の詩

惡魔の戀を讃えし唇もて

何ぞ尊き讃美歌を唄ふをえん

 

かくても我は主を信ず

淚をもて主を信ず

         さんた・まりや

 

ヹルレーヌの嘆きはわが嘆き

わが胸は破戒の惱みにたへがたし

         さんた・まりや

         さんた・まりや

愚かにも人にかくれて主を信ず

聖母よ吾をあはれみ給ヘ

             あめん

 

[やぶちゃん注:第三連二行目「聖加從力(セント・カトリツク)」(漢字表記は正しくは「聖加特力」)、第四連二行目「爛(ただよ)へども」(漢字表記は「漾」「漂」)、「讃えし」(歴史的仮名遣は正しくは「讃へし」)は総てママ。本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、これもまた、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 自我主義者

 

  自我主義者

 

『われに背逆(さから)ふものは邪宗の鬼

地獄の底に陷して硫黄の火を嘗めしめん

われに順ふものは宗敎(おしへ)のいとし子

無上の榮光と久遠の歡樂に耽らしめん』

 

かくエホバのたまへり

げに神の聖旨はわがこころ

神の意思は我れの意思

よしやわが信條は神の敎則(おきて)に違ふとも

われもまた我れの神なり

何のはばかるところもあらじかし

さらば我が友エホバよ

偉大なるエゴイストの神よ

我等盃を合せて友誼をむすぴ

かつ人の子のためにことぶきをなさん。

 

[やぶちゃん注:読み「おしへ」はママ。本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、これもまた、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 麻布の異石

 

   ○麻布の異石

「春秋傳」に、石の物いひし事を載せて、神靈の憑りたるよしを論ぜり。古來、其例、多ければ、今贅するに及ばず。抑、餘が住める麻布の地に、見聞せし異石、五種あり。其一は、秋月家の園中に、三尺許なる寒山拾得の石像、いつの比にや、「行夜の卒の跡より慕ひ來けるを、斬り拂ひけり。」とて、其巖痕を存す。其二は、長谷寺の内に、五、六尺許なる夜久神の石像、緇素の諸願をかくるに、其驗、多し。「是も件の園中に在りしに、長谷の住持、靈夢によりて、爰に移す。」といふ。其三は、山崎家の邸内の陰陽石、これを「結の神」に比して、その願をきく、とぞ。其四は、五島家の門前大路の中央に、徑、尺餘の頑石、凸起して、あり。「道普請の礙りなり。」とて、掘りけるに、「其根、金輪際までも入りたり。」とて、元の如く、捨て置きぬ。往來の人、鹽を手向て、足の願をかくる事、半藏御門内の石に、同じ。其五は、森川家の別㙒に、二尺餘なる烏帽子形の石に、日月の像、顯れ出でたる有り。件の園丁、茂左衞門といふ者、靈夢によりて、その鄕里越後國頸城郡吉城村の畠より得たりといふ。目出たき石と申すべきか。以上の五石は、麻布の地に現存して、人皆、これを禮拜すること、米家[やぶちゃん注:底本に右に『(マヽ)』注記有り。]の昔に異ならず。余、天下を巡遊して、異石を歷觀せしこと、多し。遠き諸州の灼然を略して、近き麻布の隱微を表するのみ。江都の廣き、本所の「駒留石」、牛天神の「牛石」、其餘、地藏觀音に至りては、僕を更ふとも、其說、盡しがたかるべし。

 予が家の傍に、字を「鷹石」といふ町あり。昔、鷹の形ある石を掘出して、靈異あり。今は、なし。この處に唐豆腐を製して、「岩石」と名づく。今、石のちなみに兩三※を獻じて、兎園の一笑を乞ふのみ[やぶちゃん字注:「※」=「日」+「廷」。]。

  臘月吉日         麻布村學究

  こは輪池堂の携へられたれば、その編の間に寫しとゞめつ。

[やぶちゃん注:前回述べた通り、また、末尾に注記(実は底本では「輪池堂」が「輪地堂」となっており、ママ注記もなんにもない。この底本、かなり校正が杜撰なことが判る)する通り、本来、本編は前の「いきの數」の後、「えそ鶸圖考」と、それに続く「三十一字」の前に挿入されてある。

『「春秋傳」に、石の物いひし事を載せて、神靈の憑りたるよしを論ぜり』「春秋左氏伝」の「昭公八年」の以下の条。訓読は自然流。

   *

八年春、石言于晉魏榆。晉侯問於師曠曰、「石何故言。」。對曰、「石不能言。或馮焉。不然、民聽濫也。抑臣又聞之曰、『作事不時。怨讟動于民。則有非言之物而言。』。今宮室崇侈、民力彫盡、怨讟並作、莫保其性。石言不亦宜乎。」。於是晉侯方築虒祁之宮。叔向曰、「子野之言君子哉。君子之言、信而有徵、故怨遠於其身。小人之言、僭而無徵。故怨咎及之。「詩」曰、『哀哉不能言 匪舌是出 唯躬是瘁 哿矣能言 巧言如流 俾躬處休』。其是之謂乎。是宮也成、諸侯必叛、君必有咎、夫子知之矣。」。

   *

 八年の春、石、晉の魏榆(ぎゆ)にて、言(ものい)へり。

 晉侯、師曠(しこう)に問ひて曰はく、

「石、何故、言へる。」

と。對(こた)へて曰はく、

「石、言ふこと、能はず。或いは憑(もののつ)けるか。然らずんば、民、聽き濫(みだ)せるなり。抑(そもそ)も、臣、又、之を聞けり。曰はく、『作事するに時せず、怨讟(ゑんどく)[やぶちゃん注:怨み。]、民を動かせば、則ち、言は非ざる物、而して言(ものい)ふ。』と。今、宮室、崇侈(すうし)[やぶちゃん注:奢侈。]多く、民の力、彫盡(ちようじん)[やぶちゃん注:凋落。]し、怨讟、並び作(おこ)りて、其の性を保つこと、莫(な)し。石、言ふも亦(また)、宜(むべ)なるらずや。」

と。

 是(ここ)に於いて、晉侯、方(まさ)に「虒祁(しき)の宮」を築けり。

 叔向曰はく、

「子野[やぶちゃん注:師曠の字(あざな)。]の言(げん)、君子なり。君子の言、信(まこと)ありて、徴(しるし)[やぶちゃん注:確たる裏付け。]あり。故に、怨み、其の身より遠(とほさか)れり。小人の言、僭(おご)れりて、徴、無し。故に怨みの咎(とが)、之れ、及べり。「詩」に曰はく、

哀しきかな 言(げん)を能くせざる

舌 是れ 出だすのみに匪(あら)ず

維(こ)れ 躬(み) 是れ 瘁(や)みぬ

哿(よ)きかな 言を能くする

巧言 流るるがごとく

躬を休(やす)きに處にあらしむ

其れ、是(か)くのごとき謂ふか。是の宮の成るや、諸侯、必ず、叛(そむ)き、君主、必ず、咎(とが)、及べり。夫子(ふうし)[やぶちゃん注:尊称。「先生」。師曠を指す。]、之れを知れり。」と。

   *

引用されてある「詩経」のそれは、「小雅」の「雨無正」の一節で「小人の言は禍いを齎して、必ず病み憂える。優れた言動を成せる者は、心地よい響きを以ってその人の身体を穏やかに保つ」といった謂いであろう。「師曠」(生没年不詳)は春秋時代の晋の平公(昭公の先代)に仕えた楽人。盲目であったが、琴の名手で、絶対音感を有していた。酒色に耽溺する平公に、たびたび、箴言を述べたとされる。

 なお、本篇については、私のFacebookの友達が作っておられる麻布史の強力なサイト「DEEP AZABU」の「むかし、むかし5」の「70.麻布の異石」で採り上げられて、以下のように注しておられ、「麻布學究」なる人物の正体も明らかにされておられる。

   《引用開始》[やぶちゃん注:サイト内リンクも可能な限り、再現してある。]

滝沢馬琴「兎園小説」の中で、城南読書桜教授であり、林一門の五蔵の一人の大郷信斎は「麻布学究」という名で麻布の異石を述べている。

1.秋月家の庭にあった3尺ほどの寒山拾得の石像。[やぶちゃん注:現存し、リンクがあって画像で見られる。]

詳細はむかし、むかし11-186.寒山拾得の石像でどうぞ

2.長谷寺にある5~6尺の夜叉神像

こちらも以前は秋月家にあったが長谷寺住職が霊夢により寺に移したと言われる。岡本綺堂が半七捕物帖で夜叉神堂として取り上げている。 昭和20年空襲により消失。現在は復元された夜叉神像が安置されている。

3.山崎家の陰陽石

がま池のほとりにあり「結びの神」といわれた。

4.五島家門前の要石

現在の麻布総合支所辺の路上にあった石。麻布七不思議のひとつのかなめ石で「永坂の脚気石」ともいわれた。

5.日月(じつげつ)の石

森川家別邸(広尾橋辺)にあった烏帽子形の石で二尺ほどで日月の像が出ていた。園丁茂左衛門というものが霊夢により郷里、越後の畑中より掘り出した。 道聴塗説十編には、

祥雲寺前の橋爪に森川家の別荘あり。ここに住める下部茂左衛門といふ者、今年正月霊夢により、其の郷里越後国頸城郡荒井東吉城村にて、三月二日長さ二尺余、 広さ一尺計り、その形少しく烏帽子の如く、左右に日月のかたち突起せるを堀出し、これを負うて江戸に来り、件の別荘に安置しければ、近隣聞き伝えてあつまり 観る者多し。目出度き石と申すべきか。

とある。

そして上記5つの異石とは別に、

予が家の傍に、字を鷹石といふ町あり。昔鷹形ある石を堀出して霊異あり。今はなし。

と、鷹石についての記述があるが、兎園小説が書かれた江戸末期の文政年間(1800年代初頭)にはすでに元地には鷹石が存在しなかった事がわかる。

   《引用終了》]

2021/11/12

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) いきの數 えそ鶸圖考 三十一字

 

[やぶちゃん注:この部分、錯雑しており、まず、「いきの數」(ヒトの呼吸数)考証があり、その後に「麻布村學究」と署名する目次で次に出る「麻布の異石」が挟まり(輪池堂が携えてきた文書とする馬琴のものらしい後書がある)、その後に輪池堂の「蝦夷鶸」の考証、さらに短歌の音数の考証がある。「麻布の異石」は目次で次に挙げられているので、ここはそれを後に回し、後の二考証を合わせて示す。

 

   ○いきの數 えそ鶸圖考 三十一字

人の息の數、西土諸家の跡、おなじからず。一晝夜に一萬三千五百息【一呼吸を一息とす。】といへるは、古來の說なり。或は二萬五千二百息といひ【「天經或問」。】、或は三萬六千五百息といふ【「詈意經」。】かくの如く、大異同あるによりて、人の疑ふ所なり。弘賢、これを試みしに、人の長短によりて、おなじからず。五人、試みしに、第一長大の人は一萬八千六百息、其次は二萬二千五百六息、至りて短少の人は、三萬四千七百四息にいたれり。其次は二萬二千八息、然れば、古來、一萬三千五百息といひ、多きに至りて、三萬六千五百息といへるも、共に、僞[やぶちゃん注:「いつはり」と訓じておく。]にあらざるべし。

「醫賸」【多紀安長著。】曰、『人一日一夜。凡一萬三千五百息。方以智云。『窮ㇾ之葢洛書之數也。而攷諸書其數不ㇾ一。』。張景「醫說」。『一萬三千五百二十息。』。「小學紺珠」。引胡氏易說。『一萬三千六百餘息【朝鮮「金悅卿梅月堂集」云。『人一日有一萬三千六百呼吸。一呼吸一息。則一息之間。潛奪天運[やぶちゃん注:以上の返り点位置は後注に示した「醫賸」原本で訂した。]一萬三千五百年之數。一年三百六十日。四百八十六萬息。』。】。』。「天經或問」。『二萬五千二百息。』。呂藍衍「言鯖」云。『一氣之運行。出二入於身中。一時凡一千一百四十五息。一晝夜。計一萬三干七百四十息。』。「釋氏六帖」。引「詈意經」[やぶちゃん注:底本は『詈息経』だが、同前原本で訂した。]云。『一日有三萬六千五百息也。』。何夢瑤「醫碥」云。『「内經」曰。『脈一日一夜五十營。營。運也。「經」謂人周身上下左右前後。凡二十八脈。共長一十六丈二尺五十運。計長八百一十丈。呼吸定息脈行六寸。一日夜行八百一十丈。計一萬三千五百息。』。按此僞說也。人一日夜。豈止一萬三千五百息哉。據何之言。佛說・西說。並多於一萬三千五百。未ㇾ知以ㇾ何爲實數也。』。

  乙酉歲暮兎園之一       輪 池

[やぶちゃん注:平均回数を数えることには、余り意味がない気がするが、ネット上の信頼出来そうなものを探ると、一般的な成人の一日の呼吸回数は約二万回から三万回で、平均的な一回あたりの呼吸量を五百ミリリットルとして計算した場合、一日に二十キログラムの空気を体に取り込んでいるとあった。漢文部の訓読を試みる。頗る読み難いので、段落を成形した。

 なお、調べる内、これは最後まで、冒頭にある多紀安長著「醫賸」(書名は「いしょう」(現代仮名遣))からの完全引用であることが判明した。作者は医師多紀元簡(たきもとやす 宝暦五(一七五五)年~文化七(一八一〇)年)で、元簡は諱、長じて安清・安長と改めた。医師多紀元徳(藍渓)の長子として生まれ、儒学を井上金峨に、医学を父について修めた後、安永六(一七七七)年に将軍徳川家治に目通りが許され、寛政二(一七九〇)年には、老中松平定信に、その才を信任され、奥医師に抜擢、法眼に叙せられて、徳川家斉の侍医となった。寛政三(一七九一)年)に父の主宰する躋寿館が官立の医学館となると、その助教として医官の子弟の教育にあたった。寛政六(一七九四)年に御匙見習となり、寛政一一(一七九九)年に父が致仕し、家督を相続、同年八月には同族の吉田沢庵とともに晴れて御匙役となったが、享和元(一八〇一)年、医官の選抜に関して不満を直言したため、奥医師を免ぜられて寄合医師に左遷された。文化三(一八〇六)年に医学館が類焼し、下谷新橋通(向柳原町)に再建し転居した。文化七(一八一〇)年には、再び、奥医師として召し出されたが、その年の十二月に急死した。享年五十六。「醫賸」は文化六年に「櫟蔭拙者」(れきいんせっしゃ)の名で刊行された全漢文の医学書である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」で原刊本が見られ、その「上巻」PDF)の23コマ目の「息數不同」がそれである。

   *

 「醫賸」【多紀安長著。】曰はく、

『人、一日一夜、凡そ一萬三千五百息たり。

 方以智(はういち)云はく、『之れ窮まるに、葢し、洛書の數なり。而して、諸書を攷(かんが)ふるに、其の數、一(いつ)ならず。』と。

 張景が醫說に、『一萬三千五百二十息たり。』と。

 「小學紺珠」、胡氏が「易」の說を引きて、『一萬三千六百餘息【朝鮮の「金悅卿梅月堂集」に云はく、『人、一日、萬三千六百の呼吸、有り。一呼吸は一息とせば、則ち、一息の間は、潛かに天運を奪ひて、一萬三千五百年の數たり。一年三百六十日とせば、四百八十六萬息たり。』と。】。』と。

 「天經或問(てんけいわくもん)」、『二萬五千二百息たり。』と。

 呂藍衍(りよあいえん)が「言鯖(げんせい)」に云はく、『一氣の運行、身中に出入するは、一時に凡そ一千一百四十五息たり。一晝夜に、計、一萬三干七百四十息たり。』と。

 「釋氏六帖(しやくしりくじやう)」、「詈息經(りそくきやう)」を引きて云はく、『一日、三萬六千五百息有るなり。』と。

 何夢瑤(かむやう)が「醫碥(いへん)」に云はく、『「内經(だいけい)」に曰はく、『脈、一日一夜、五十營たり。「營」は「運」なり。「經」に謂(いへら)く、「人、周身・上下・左右・前後、凡そ二十八脈あり。共に、長さ、一十六丈二尺五十運たり。計、長さ、八百一十丈たり。呼吸の定息・脈行は六寸。一日夜行、八百一十丈。計、一萬三千五百息たり。』と。

 按ずるに、此れ、僞說なり。人、一日夜(いちじつや)、豈に、止(とど)むるに一萬三千五百息とは、何の言(げん)に據(よ)るや。佛說・西說、並して一萬三千五百よりも多し。未だ、何を以つて實數と爲(な)すかを、知らざるなり。

   *

「西土」「せいど」で、中国・インド・西洋などを指すが、ここは前二者。

「方以智」(一六一一年~一六七一年)は明末清初の思想家。翰林院検討となるも、満州族の侵略に遭い、嶺南の各地を流浪した末、清軍への帰順を拒んで、僧侶となった。朱子学の格物窮理は事物の理を探究するには不十分だとし、当時、渡来していたジェスイット宣教師たちから、西洋の学問を摂取し、また、元代の医師朱震亨(しゅしんこう)の相火論や、覚浪道盛の尊火論に基いて、あくまで事物の「然る所以の理」を探究する方法としての「質測の学」と、形而上的真理の探究の方法としての「通幾」を唱えた。

「洛書の數なり」所謂、「洛陽の紙価を高める」(晋の左思が「三都の賦」を作った時、これを写す者が多く、洛陽では紙の値が高くなったという「晋書」の「文苑伝」にある故事から、「著書の評判がよくて売れ行きのよいこと」の喩え)に引っ掛けた謂い。中華最大の洛陽で売られている書物の数ほどに莫大な回数だというのであろう。

「張景」生没年不詳。二世紀中頃から三世紀初頭頃の中国の医家。「傷寒論」・「金匱要略」(きんきようりゃく)の著者で、中国医学に於ける医方の祖として「医聖」とされる。医学を張伯祖に学び、治療に優れ、特に経方(けいほう)に精通していた。後漢の霊帝(在位一六八年~一八九年)の時に科挙試の孝廉に挙げられ、後に長沙太守となった。都洛陽にあった頃より名医の評判をとっていた。

「小學紺珠」(しょうがくこんじゅ)は南宋の学者で清朝考証学の先駆とされた王応麟(一二二三年〜一二九六年)]の著になる、原文を管見した限りでは、一種の類書のようである。

『胡氏が「易」の說』南宋胡一桂撰の易の注釈のようである。書名ではないと判断した。

「金悅卿梅月堂集」李氏朝鮮初期に活躍した文人金時習(きん じしゅう/キム・シスプ一四三五年~一四九三年:明の瞿佑(くゆう)の優れた志怪小説「剪灯新話」の影響を受けて作られた短篇小説集「金鰲新話」(きんごうしんわ)が知られる)の撰になる膨大な随筆や詩文集。道家の内丹術の記載なども豊富にあるらしい。

「潛かに天運を奪ひて」膨大な呼吸数が、ひそかに、人間の寿命数のレベルを遙かに超えていることを言っているように思われる。数値の対照を好むのは古代中国以来のお約束である。

「天經或問」は清初の一六七五年頃に成立した、西洋天文学・宇宙論の入門書。著者は游藝(游子六)で、イエズス会宣教師が伝えた天動説・地球球体説及びティコ・ブラーエらの説を紹介している。中国本国よりも江戸時代の日本で盛んに読まれ、後の一六八一年頃に成立した続編「天経或問後集」と区別するために、「天経或問前集」とも呼ばれる(詳しくは当該ウィキを参照されたい)。

「呂藍衍(りよあいえん)」清代の文人呂種玉の字(あざな)。

「言鯖(げんせい)」随筆か。

「釋氏六帖(しやくしりくじやう)」五代後晋の僧侶釋義楚撰になる博物誌的な仏教類書。九五四年に朝廷に献上されている。

「詈意經(りそくきやう)」「大蔵経テキストデータベース」で確認出来た。

を引きて云はく、『一日、三萬六千五百息有るなり。』と。

「何夢瑤(かむやう)」(一六九三年~一七六四年)は清代の医師。

「醫碥(いへん)」「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、以下の引用部が影印本で読める。

「内經(だいけい)」「黃帝内經」。中国最古の医書。黄帝に仮託した、戦国時代から漢にかけての医学知識の結集で中医のバイブルとされる。本来は全十八巻で「素問」と「霊枢」からなる。「素問」は生理・病理・衛生を論じ。「霊枢」は針治の法を説く。流布本は唐代の二十四巻本で、「素問」には別に「黄帝内経太素」三十巻があり、本邦の仁和寺に、その古抄本が伝わっている。

 底本では冒頭に注した通り、行空けなしで、「麻布の異石」が続く。以下が「蝦夷鶸」の考証。]

 

先會に今日の主[やぶちゃん注:当兎園会文政八年十二月一日に著作堂滝沢馬琴宅で開催されている。]の出だされし無名鳥、假に「蝦夷鶸」と名付けられしを[やぶちゃん注:不詳。或いは前回の「蝦夷靈龜 蝦夷靈龜考異」で海棠庵に口出しした際に、発会の場で言及されたが、活字にはならなかったものかとも思われる。]、當直の日、携へ出でゝ、或侯に見せ參らせしかば、「是は『しまいすか』といふ鳥なり。熊本侯の寫眞の中に見えたり。依りて、今は『蝦夷いすか』と、よぶなり。倂ながら、此圖は、尾のきれたる鳥を見てうつしたり。長き尾のさきの、さけたるあり。」と、のたまふ。さらば、「全圖をかし給はらむ」事を乞ひ申しゝに、「今は、人に貸したれば、返されし時、かしてん。其とり、某候に雌雄かはせ給へば、參りて見るべし。」と、のたまふ。則、某侯に乞ひ申しゝかば、「いつにても。」と許させ給ふによりて、二、三日過ぎて參りしかば、「さも。」と、人して、鳥籠二つ、持ち出でさせ給ひ、初めて見る事を得たり。兼ねて携へし主の圖を、展て[やぶちゃん注:「ひらきて」。]、くらべ見れば、此圖は雌の方なり。雄のさまは、やせたり。雌の尾は、或侯のゝ給ひしごとくなり。雄の方は、尾の先、分れずして、尖れり。是は摺きれたるにもやあらん。然はあれど、見し儘を寫し歸り、人に仰せて[やぶちゃん注:「おほせて」。]畫がゝせたり【圖は別にあり。[やぶちゃん注:図は底本には載らない。]】。按ずるに、熊本侯の寫眞は、觜、くひちがひたれば、「いすか」の名、たがはず。このたび、わたりしは、大姿は似たれども、觜、くひちがはざれば、「いすか」の名、如何あらん。鳴聲、「ヲルコル」の笛にゝて、至りて微音なり。色も、聲も、鶸にちかきにや。

  乙酉歲暮兎園之二      輪  池

[やぶちゃん注:「しまいすか」スズメ目アトリ科イスカ属イスカ Loxia curvirostra。私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 伊須加鳥(イスカドリ) (イスカ・ヤツガシラ)」を参照されたい。但し、輪池の言うようには尾羽の雌雄の差は認められないので不審である。彼が言うように、その♂個体の尾羽はたまたま擦り切れたものだったのであろう。イスカの鳴き声はサイト「サントリーの愛鳥活動」の「イスカ」がよい。「さえずり」と「地鳴き」の二種が聴ける。

『「ヲルコル」の笛』「ヲルコル」は南蛮渡りのオルゴールのことであろうが、「笛」は不審。

「鶸」スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelinae のヒワ類(ヒワという種はいない)の総称。私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶸(ひわどり) (カワラヒワ・マヒワ)」を参照されたい。鳴き声は同じくサイト「サントリーの愛鳥活動」の「マヒワ」及び「カワラヒワ」で聴かれたい。]

 

 

卅一字の歌を、「濱の眞砂のごとく、盡くる期なし。」といひ傳へたれど、四十七言をもて、三十一言を取り用ふれば、盡くる期なきことはあらじと思はるゝなり。我、わかゝりし時、隅東先生のいはれしは、「或人、四十七言の内にて、三十一言を除き、これを一字づゝ取り替、取り替、上下・順倒して乘除し、幾億萬に至りて、盡く、と考へしものありし。」と、いはれき。今、その人の名を忘れたり。又、其書、しかせし物も、傳はらず。つとめて考ヘしことの傳はらざるも、本意なしとおもひ、世を早うせし我養子淸通が兄前原辨藏は、もとの古川山城守に學びて、算術に達したれば、或時、此事を語らひて、別に術を施したり。其數左のごとし。

  貳佰肆拾七京弐仟佰伍拾億捌仟肆佰零壱萬弐仟參佰零參

たゞしこれは短歌のみなり。長歌・旋頭歌・混本歌、字あまりの歌は、この外なり。

  乙酉歲暮兎園之三      輪  池

[やぶちゃん注:ここに書かれていることは、甚だよく判る。要するに、意味を成すかどうかは、別として「いろは」四十七文字の三十一文字の組み合わせとして作った場合の話である。サイト「Quora」(入るにはログイン操作が必要)に『いろは』四十八(「ん」を数えている)『文字の中から』十七『文字を選び出す組み合わせは(同じ文字の重複も可)何通りありますか?』『桁数だけでも結構ですので教えてください。また、その内』、『何割位』が『日本語として意味がある文が出来ると思われますか?』という質問に対して、公立高校教諭のMartin Taitさんがお答えになったものがあり、『重複が可能で順番に関係があるので、計算の仕方は一番簡単に』四十八『を』十七『乗すればよく、

38,115,448,583,970,168,165,554,454,528

38115𥝱448583970168165554454528

29桁です』とあって、意味を成す『割合は、まずゼロに近いくらいの非常に小さなものでしょう』とあり(近世の計算でなら、「ん」を入れて四十八とするのが寧ろ正しいだろう)、ここに示された数値より遙かに大きい。因みに、私は大学時代に國學院大學弁論部に属していたが、その部報(一九七五年~一九七七年)『ゆくて』(昭和五三(一九七八)年一月発行。因みに、この編集者は当時大学三年で広報部長であった私であった)に、大学一年次の私が書いた「第二芸術論批判――現代俳句私論」という拙論を載せたものを今も持っている。桑原武夫の「第二芸術論」批判であるが、その中で、守旧俳句の限界はまさに意味を成す語の十七音の組み合わせに限界が生じているという観点からは、俳句の限界がきていることを示唆はした(当時、私は自由律俳句『層雲』の誌友であったので、守旧派は嫌いであった)。その中で私は、『また、俳壇外からの科学的考察もある。昭和二十三年』(一九四八年)に『科学雑誌』『自然』『に守山英雄が載せた「俳句の限界」という一文である。文字を組み合わせて意味をなし、それが俳句として鑑賞に堪える程度の場合が有限であるというのである。その結果、五七五定型俳句として、その数は10 7108位だろうと述べ、現在』、『定型俳句について類想が多いと感ずるのは、その大部分が世に出尽』く『して、定型俳句の寿命がつきかけているからだろうとし、字余りとしえ一字多くする毎に、俳句数は前記の十倍の割で増加するであろうと説いている。これを市川一男が「第二芸術論につぐ原爆的警告」と評しているのもうなずける』と述べた。これは今も変わらないし、短歌も同じことだと考えている。

「我養子淸通」不詳。

「前原辨藏」不詳。

「古川山城守」古川氏清(うじきよ 宝暦八(一七五八)年~文政三(一八二〇)年)は旗本で和算家。官位は従五位下・和泉守・山城守。宝暦九(一七五九)年に家督を継ぎ、奥右筆などを務め、文化八(一八一一)年に従五位下和泉守に叙任された。広敷用人となり、文化十三年八月には勘定奉行となり、在職のまま没した。著書に「算籍」・「円中三斜矩」等がある。大名の伊勢国桑名藩五代藩主松平忠和にも算学を教えている(当該ウィキに拠った)。]

2021/11/11

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 小出の林

 

  小 出 の 林

 

小出の林を

昔よく步きたりき

いともいともセンチメンタルの詩集を

ふところに

故もなく淚ながしてさまよひぬ

夕されば落葉せる小路の上に

うなだれて物を思ひき

また折々はたたづみて

小石など拾ひしこともありき

口笛をよく吹きて居たりき

あはれその頃の少年よ

小出の林

いまも尙二人步けば淚ながるる。

            (前 橋 小 曲 の 二)

 

[やぶちゃん注:「たたづむ」はママ。歴史的仮名遣は「たたずむ」でよい。本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、これは小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。これは有名な朔太郎の「小出新道」で知られる。個人サイト「高校物理講義ノートとつれづれの記」の「小出新道」によれば、『小出新道という名は朔太郎がつけたもので固有名詞ではない。「小出新道」の詩から、現在の大渡橋の南にある上毛会館』(公立学校共済組合前橋宿泊所「上毛会館」であったが、二〇一二年末に閉鎖された。この附近にあった。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『から住吉町交番』(ここ)『へ向かう道と考えられる』。『前橋は製糸業が盛んになり、街は活気づき』、『道路が広げられた。前橋で作られた生糸は横浜経由で輸出された。朔太郎がそれまで親しんできた小出新道に茂っていた楢や櫟などが切り倒され、朔太郎は』、『自分では抗えないふるさとの変貌ぶりに心を痛めていたに違いない』。『左の写真』(写真有り)『は、小出新道と呼ばれていた道路の現在の姿である。市街地から西を眺めたもので、正面に見えるのは榛名山である。朔太郎には現在のような姿は想像だにできないだろう』とある。後者の地図に現われる現在の北西から南東へ一直線に走る「三中北通り」がそれと思われるが、サイト主のおっしゃる通り、現在、その周辺に、林は、全く見当たらない。

私の「小出新道 萩原朔太郎 (附自註 初出形)」も参照されたい。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 あまくさ

 

  あ ま く さ

 

あまくさへ行きて見たりき

切支丹の魔法の島へ。

 

されどげにこともなかりき

一筋の路のかなたに

海ばかり白くひかりて。

 

うすら日は家根にちろぼひ

みだらなる酒屋のかどに

尺八を吹くひとありき

あはれなる天草のまち。

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、これは小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 電子化始動 / 「遺珠」小解(巻末)・表紙・扉・「初期詩篇」の編者前書・「はつはる」

 

[やぶちゃん注:私は先にこのブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」で、小学館の昭和二二(一九四七)年六月発行の初版の、翌昭和二十三年一月一日発行の再版本「萩原朔太郎詩集」(全集とは名打たない詩集のコンパクト版)第五巻「遺稿詩集」を電子化注したが、そこで驚天動地の、現在の最も完備されたと思っていた筑摩書房版「萩原朔太郎全集」に載らない詩篇を数多く見出すこととなった。それは、筑摩版全集の編者解説を子細に読むに、実は筑摩書房版のそれは、実際には発見した原稿を総ては活字化していないことが判明した。要するに、草稿や別稿が複数ある場合、最も活字化するに足ると編集者が判断したものをチョイスしているものが有意に多いのである。そして、筑摩版元版全集(昭和五〇(一九七五)年から昭和五十三年にかけて刊行)に先行する小学館版元版全集(昭和一八(一九三三)年から翌年にかけて刊行された萩原朔太郎全集の最初のもの)には、両全集の刊行の三十年余りのスパンの内に消失してしまった詩稿・草稿が数多あったことが判明したのである。しかも、不審なことに、筑摩版は小学館版元版全集を校合対象にしてはいるものの、こちらのコンパクト版の小学館版「萩原朔太郎詩集」シリーズをその対象にはしていないものと推定されるのである(その証拠に筑摩版「書誌」には本シリーズの記載が見当たらない。恐らくは自社小学館版元版全集をチョイスしただけのお手軽な縮約版詩集叢書と断じたせいではないかと私は推理している)。しかし、私は小学館版元版全集を所持しないが、それとこの同社の「萩原朔太郎詩集」叢書は、その内容が、特に、遺稿・草稿・同断片が、さらにブラッシュ・アップされて付加されている可能性があるのではないか? とも考えている(そうではないかも知れぬ)。

 そこで、そうした可能性を考えて、先に電子化した第五巻「遺稿詩集」(これは再刊版で所持)に続く、第六巻に相当する(別巻扱いで、実際には巻数表示はない)「萩原朔太郎詩集 遺珠」を電子化注したい欲求に駆られてきた。幸い、「国立国会図書館デジタルコレクション」のこちらで、同書(昭和二二(一九四七)年の初版本)が全篇見られるので、その画像を視認して電子化注を行なうこととする。実際には、私が既に電子化注している詩篇も含まれているようであり、「俳句」や「短歌」などはサイトで「やぶちゃん版萩原朔太郎全句集」(別に縦書版も有り)及び「やぶちゃん版萩原朔太郎全歌集 附やぶちゃん注 PDF縦書版」もあるが、煩を厭わず、目次は除いて、本文は総てを電子化する。

 なお、同底本の巻末にある編集解説である「遺珠小解」を以下に先に掲げて、同底本の編集方針を詳らかにしておく。

   *

 

    「遺珠」小解

 

 本書に收れめられた作品は、すべて既刊詩集に收錄されなかつたもののみである。その槪略については各篇の「編註」にしるしたが、制作年代は「愛憐詩篇」「月に吠える」當時である。これにより萩原朔太郞の詩はほとんどその全部を收錄したといふことが出來るのであつて、既刊詩集五卷と併せて、ここに萩原朔太郎の詩の世界はその全貌がゑがかれた譯である。

 去る昭和十八年、萩原朔太郞全集十卷(監修・河井醉名 島崎藤村 高村光太郞 谷崎潤一郞 野口米吹邱 室生犀星 北原白秋 編纂委員・伊藤信吉 多田不二 中野重治 堀 辰錐 丸山 薰 三好達治 保田與重郞)を、小學館より刊行したが、その後、世の渇望にも拘らず種々の事情のため全集の再版發行は不可能の狀態に立至つた。依てその代表作のみを分割し、「戀愛名歌集」[郷愁の詩人與謝蕪村]「情調哲學新しき欲情」「詩の原理」並に「詩集」五巻を、それぞれ新版にして刊行して來た。

 本書に収錄せる各詩篇は、嘗て「全集別册」として、ひとたびは版に上つたものであつたが不幸にして紙型諸共その全部を灰燼に歸してしまつたため、詩集としては今回初めて世に出るものである。

 萩原朔太郞の日本詩壇に残した偉大なる業蹟を追慕するため、梓を新たにしてここに殘餘の遺稿詩篇の全部を世に送る所以である。

 

   *

実は、以上の解説は恐らく、この叢書の元版である小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」及び同「下巻」(孰れも昭和一九(一九三四)年十月刊)に添えられたものとは思う。それは筑摩版書誌にはある。実際には、従ってこの「萩原朔太郎遺珠」の内容は筑摩版全集に全部反映されているものとは思う。しかし、では、何故、先の小学館版「萩原朔太郞詩集」第五巻「遺稿詩集」にあって、筑摩版にないものが、複数、存在したのか? これが疑問である。編者が複数の詩篇草稿をより広く求め、チョイスした結果、小学館版に載っていたものは、却下されたと考えるのが好意的な判断となろうが、それは断簡零墨まで拾い出す気持ちに於いて同じだったはずの旧小学館版編者に対して、甚だ失礼な行為であると私は思う。少なくとも、編者注でそれを注記するのが先達への最低の礼儀である。【二〇二一年十一月十一日始動】]

 

   遺珠

 

[やぶちゃん注:表紙。]

 

萩原朔太郎詩集

遺    珠

 

小 學 館 刊

 

[やぶちゃん注:見開き。以下、に「萩原朔太郞詩集 遺  珠  目次」とあるが、以下「目次」は略す。]

 

   初 期 詩 篇

 

[やぶちゃん注:目次の後の扉。その扉の裏に以下(右ページ)と「はつはる」がある。]

 

 

編註 ここに蒐めた八篇は、萩原朔太郎の作品としてそのもつとも初期に屬し、未だ習作時代のものである。最初の五篇はノオトより採つたものでこのノオトには、夥しい短歌とかなり多くの小曲が書きこんである。

 

制作年代 「あまくさ」より「地獄より天堂へ」に到る五篇はごく初期のノオトに書かれこのうち「小出の林」のみ大正二円三月の作なることが誌してある。從つてこれら作品はほぼ明治末年から大正二年ころの作と推定される。「偶成」以下の三篇は、未發送に終つた手紙に、自作詩の解說として書かれてゐたもので、制作年代はやはり明治末年のころから大正改元のころと思はれる。

 

 

  は つ は る

 

はつ春の日の珍らしく

水銀を皿にころがし

かつ見て居れば日は頻き

ほのかにもにほふえにしだ

ぴあのの KEY の薄あかり

女の白きためいきと

春の日のくれて行くこころもち。

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、これは小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

2021/11/10

伽婢子卷之十一 土佐の國狗神 付金蠶

 

  ○土佐の國狗神(いぬがみ) 付《つけたり》金蠶(きんさん)

 土佐の國、「畑(はた)」といふ所には、其土民、數代(すだい)、傳はりて、「狗神」といふ者を持《もち》たり。

 狗神もちたる人、もし、他所に行《ゆき》て、他人の小袖・財寶・道具すべて、何にても、狗神の主(ぬし)、それを欲(ほし)く思ひ望む心あれば、狗神、則ち、其の財寶・道具の主につきて、たゝりをなし、大熱・懊惱《わうなう》せしめ、胸・腹(むね・はら)を痛む事、錐(きり)にて刺すが如く、刀にて切るに似たり。

 此の病《やまひ》を受けては、かの狗神の主を尋ね求めて、何にても、其の欲しがる物を與ふれば、病ひ、いゆる也。

 さもなければ、久しく病(やみ)ふせりて、終《つひ》には、死すとかや。

 中比《なかごろ》の國守(くにのかみ)、此《この》事を聞《きき》て、「畑」一鄕(がう)のめぐりに、垣(かき)、結ひまはし、男女《なんによ》一人も殘さず、燒きごみにして、殺し給ふ。

 それより、狗神、絕えたりしが、又、

「この里の一族、のこりて、狗神、是れに傳りて、今も是れ、有り。」

といふ。

「其の狗神もちたる主(ぬし)、死する時は、家を繼ぐべき者に移るを、傍(そば)にある人は、見る。」

と也。

「大《おほい》さ、米粒(こめつぶ)程(ほど)の狗也。白黑ある斑(まだら)の、色々、あり。死する人の身を離れて、家を繼ぐ人の懷(ふところ)に飛入《とびいる》。」

と、いへり。

 狗神もちたる人も、みづから、物うき事に思へ共(ども)、力なき持病なり。

 

Kinsan

 

[やぶちゃん注:挿絵は「新日本古典文学大系」版のものをトリミング補正した。一幅のみで、以下の「金蠶」の挿絵。同書脚注で挿絵を解説されて、『金蚕の病にかかった人をに黄金などの宝を与えて病気を回復させる場面』とし、『縁取』りを施した『茵』(しとね)『の上に立膝をして起き上がる憔悴しきった病人』を描いたものとある。]

 

「異國にも、『閩廣(みんくわう)』といふ所には、『蟲(まし)もの』・『咀(のろひ)』おこづる事、多く取扱ふ。」

と、いへり。

 國人(くにうど)に「金蠶(きんさん)」といふ持病、もちたる人、是れを、他人に、おくり移す事、あり。

「黃金(わうごん)と錦(にしき)と釵(かんざし)のたぐひ、其外、さまざま、重寶(てうほう)の物を、道の左に、捨て置く。是を拾ひて、家に歸れば、『金蠶の病』、移り渡る。」

と、いへり。

「其形は、蠶(かいこ)にして、色は黃金の如し。人にとりつきぬれば、初は、二、三ばかり、漸々(ぜんぜん)に多くなり、家の内に塞(ふさ)がり、身を、せむる。打ち殺しても、更に、盡きず。拾ひたる黃金・錦など、ことごとく盡きはてて後に、病ひ、少づゝ、癒(いゆ)。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「犬神」何度もいろいろな話柄の注で書いているが、例えば、「古今百物語評判卷之一 第七 犬神、四國にある事」を参照されたい。繰り返し注する気持ちはない。しかし、この犬神信仰は対象妖獣が頗る小さいことから、「管狐(くだぎつね)」などとの強い親和性が感じられ、その淵源はかなり古層のブラック・マジックの精霊的呪的信仰の一つと私は思っている。

『土佐の國、「畑(はた)」』旧高知県幡多(はた)郡。当該ウィキによれば、明治一二(一八七九)年に『行政区画として発足した当時の郡域は』、現在もある幡多郡内の大月町・黒潮町・三原村と、『宿毛市・土佐清水市・四万十市の全域』、『高岡郡四万十町の一部(大正中津川、折合、芳川、相去、烏手、大正北ノ川、弘瀬、打井川以西)』に相当する非常な広域で、旧『土佐国内の郡で最大の面積を有した。南海道でも牟婁郡に次いで広大であった』とある。原幡多郡がいかに広いかは、ウィキの地図でよく判る。

「中比《なかごろ》の國守(くにのかみ)」「中比」はそう遠くはない一昔前の謂いで、読者の江戸時代から言えば、広義には中世、狭義には室町末期から戦国・織豊時代を指す。この場合は後者でよいか。何故なら、「新日本古典文学大系」版脚注では、『天正二年(一五七四)、一丈氏を滅ぼして、翌年』、『土佐国を統一した長曾我部(ちょうそかべ)元親の代を指すか』とあるからである。但し、当該ウィキによれば、長宗我部元親(天文八(一五三九)年~慶長四(一五九九)年)は、『通説によると』、天正一三(一五八五)年には『四国全土をほぼ統一することに成功したとされているが』、『統一されていないと主張する研究者も複数おり、見解は分かれている』とある。また、彼の人柄や評価には激しいブレがあり、例えば「元親記」では『「律儀第一の人」「慇懃の人」と評され、その他の軍記物でも武勇に優れ仁慈に厚い名君と評している』一方で、『阿波(徳島県)の細川氏の史書である』「細川三好君臣阿波軍記」では『不仁不義の悪人と評している』とあり、また、『年貢に関しては二公一民と厳しく、隠田が発覚した場合には』、彼の示した規定「百箇条」には、『倍の年貢を取り、あるいは斬首にするとしている。また百姓の逃散には厳しい取締りを設けた。このため』、『百姓の逃亡も少なくなかったと』もいうとある。こうした悪評価の一面を認めるとなら、犬神を一部の民間の不穏な淫祠邪教の類いと断じたとしてもおかしくなく、これぐらいな徹底殺戮をしないとは言えない気はする。

「閩廣(みんくわう)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『中国の湖広(湖南・湖北省の古名)』と、『閩粤(びんえつ=福建省)の略称か。「金蚕ノ毒、蜀中ニ始マリ、近ク湖広、閩粤ニ及ンデ浸(ますます)多シ」(鉄囲叢談。本草綱目引用文もほぼ同文)。また、五朝小説の虚谷間抄「池州進士鄒間…」に「金蚕ノ蟲者ハ是ナリ、閩広ヨリ始マリ近ゴロ吾郷ニ至ル」。』とある。この「五朝小説」は本書の種本の一つ。

「蟲(まし)もの」底本・元禄版ともに清音。所謂、「蠱物(まじもの)」で、広義には神霊には、祈ることで他に災いが及ぶようにすること。まじない(呪・咒)をして相手をのろうこと。また、その術(ブラック・マジック)を指すが、ここでは、蠱毒(こどく)のニュアンスも含まれていると言える。古代中国において用いられた呪術で、動物を使うもので、中国華南の少数民族の間で受け継がれている。「蠱道」「蠱術」「巫蠱(ふこ)」などとも呼ぶ。当該ウィキによれば、『犬を使用した呪術である犬神、猫を使用した呪術である猫鬼などと並ぶ、動物を使った呪術の一種である。代表的な術式として』は、「医学綱目」巻二十五の記載に、『「ヘビ、ムカデ、ゲジ、カエルなどの百虫を同じ容器で飼育し、互いに共食いさせ、勝ち残ったものが神霊となるため』、『これを祀』り、そうして発生した最強の『毒を採取して飲食物に混ぜ、人に害を加えたり、思い通りに福を得たり、富貴を図ったりする。人がこの毒に当たると、症状はさまざまであるが」』、『「一定期間のうちにその人は大抵死ぬ」と記載されている』。『古代中国において、広く用いられていたとされる。どのくらい昔から用いられていたかは定かではないが、白川静など、古代における呪術の重要性を主張する漢字学者は、殷・周時代の甲骨文字から蠱毒の痕跡を読み取っている』。『「畜蠱」(蠱の作り方)についての最も早い記録は』、「隋書」の「地理志」に『ある「五月五日に百種の虫を集め、大きなものは蛇、小さなものは虱と、併せて器の中に置き、互いに喰らわせ、最後の一種に残ったものを留める。蛇であれば蛇蠱、虱であれば虱蠱である。これを行って人を殺す」といったものである』。『中国の法令では、蠱毒を作って人を殺した場合あるいは殺そうとした場合、これらを教唆した場合には死刑にあたる旨の規定があり』、「唐律疏議」巻十八では、『絞首刑』、「大明律」巻十九や「大清律例」巻三十では『斬首刑となっている』。『日本では、厭魅(えんみ)』(まじないで人を呪い殺すこと。或いは、呪法により、死者の体を起こして、これに人を殺させること)『と並んで「蠱毒厭魅」として恐れられ』、「養老律令」の『中の「賊盗律」に記載があるように、厳しく禁止されていた。実際に処罰された例としては』、神護景雲三(七六九)年、女官『県犬養姉女』(あがたのいぬかいのあねめ)『らが不破内親王の命で蠱毒を行った罪によって流罪となったこと』(称徳天皇を呪い殺そうとした嫌疑を受けたもので氏の名を犬部と改めさせられた上で遠流に処されたが、その後、宝亀二(七七一)年に嫌疑は讒言であったとして許され、本姓に復している)、宝亀三(七七二)年に『井上内親王』(光仁天皇の皇后で太子他戸親王の母。夫光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、後日、他戸親王も皇太子を廃された(翌年に山部親王(後の桓武天皇)が立太子された)。また、翌宝亀四年には薨去した光仁天皇の同母姉難波内親王を呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、他戸親王とともに庶人に落とされ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉され、同六(七七五)年、幽閉先で他戸親王と同日に亡くなっている。この不自然な死には暗殺説や自殺説も根強い)『が蠱毒の罪によって廃されたこと』『などが』、「続日本紀」に『記されている。平安時代以降も、たびたび』、『詔を出して禁止されている』とある。

「おこづる」「をこつる(おこつる)」が正しい。「誘(おこづ)る」で、うまい事を言ったり、したりして、人を欺き誘ったり、御機嫌をとることを指す。所謂、民間の怪しげな覡(げき)・巫女といった似非シャーマンのことである。

「國人(くにうど)」本邦に話柄を転じた。本邦のそれぞれの国の土着の人々。

「金蠶(きんさん)」「本草綱目」の巻四十二の「蟲之四」の「濕生類二」に以下のように出る。太字は囲み字。

   *

金蠶【「綱目」】

釋名食錦蟲

集解 時珍曰按陳藏器云故錦灰療食錦蟲蠱毒註云蟲屈如指環食故緋帛錦如蠶之食葉也今攷之此蟲卽金蠶也蔡絛叢話云金蠶始於蜀中近及湖廣閩粤浸多狀如蠶金色日食蜀錦四寸南人畜之取其糞置飮食中以毒人人卽死也蠶得所欲日置他財使人暴富然遣之極難水火兵刄所不能害必倍其所致金銀錦物置蠶於中投之路旁人偶收之蠶隨以往謂之嫁金蠶不然能入人腹殘囓腸胃完然而出如尸蟲也有人守福淸民訟金蠶毒治求不得或令取兩刺蝟入其家捕之必獲蝟果於榻下牆隙擒出夫金蠶甚毒若有鬼神而蝟能制之何耶又幕府燕閑錄云池州進士鄒閬家貧一日啓戶護小籠内有銀器持歸覺股上有物蠕蠕如蠶金色爛然遂撥去之仍復在舊處踐之斫之投之水火皆卽如故閬以問友人友人曰此金蠶也備告其故閬歸告妻云吾事之不可送之家貧何以生爲遂吞之家人謂其必死寂無所苦竟以壽終豈至誠之盛妖不勝正耶時珍竊謂金蠶之蠱爲害甚大故備書二事一見此蠱畏蝟一見至誠勝邪也夷堅志言中此蠱者吮白礬味甘嚼黑豆不腥以石榴根皮煎汁吐之醫學正傳用樟木屑煎汁吐之亦一法也愚意不若以蝟皮治之爲勝其天

   *

以下に訓読を試みる。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年の訓点版本を(ここから)参考にした。

   *

金蠶【「綱目」。】

釋名「食錦蟲」。

集解 時珍曰はく、「按ずるに、陳藏器が云はく、『故錦灰、食錦蟲の蠱毒を療す。』と。註に云はく、『蟲、屈めば指環のごとく、故緋・帛錦を食ふこと、蠶(かひこ)の葉を食ふがごとし。』と。今、之れを攷(かんが)ふれば、此の蟲、卽ち、金蠶なり。「蔡絛叢話」に云はく、『金蠶、蜀中に始まり、近ごろ、湖廣(こくわう)・閩粤(びんえつ)に及んで、浸(いや)や、多し。狀(かたち)、蠶のごとく、金色。日に蜀錦四寸を食するなり。南人、之れを畜ひて、其の糞を取り、飮食の中に置きて、以つて、人を毒す。人、卽ち、死す。蠶(さん)、欲する所を得て、日に日に、他財を置き、人をして暴(には)かに富ませしむ。然れども、之れを遣ふは、極めて難し。水・火・兵刄、害する能はざる所、必ず、其の致す所を倍す。金・銀・錦物を致す所、蠶を中に置き、之れを投ず。路旁の人、偶(たまた)ま、之れを收む。蠶、隨ひて以つて往(ゆ)く。之れを「嫁金蠶」と謂ふ。然らずんば、能く人の腹に入りて、腸胃を殘囓(ざんげつ)し、完然として、出づること、尸蟲(しちゆう)のごとし。人、有り、福淸を守りたり。民、金蠶毒を訟ふも、治求して、得ず。或いは、兩つの刺蝟(しい)[やぶちゃん注:二匹のハリネズミの意であろう。]を取りて、其家に入れ、之れを捕らしめば、必ず、獲れたり。蝟、果して、榻下(たふか)[やぶちゃん注:腰掛の足下。]・牆隙(しやうげき)[やぶちゃん注:障子・衝立・壁の隙間。]に於いて、擒(と)り出だす。夫れ、金蠶は、毒、甚しくして、鬼神の有るがごとくして、蝟、能く、之れを制すること、何(なん)ぞや。』と。又、「幕府燕閑錄」に云はく、『池州の進士鄒閬(すうらう)家、貧にして、一日、戶を啓(ひら)きて、小籠を護る。内に、銀器、有り、持ち歸り、股上に、物、有ることを覺ゆ。蠕蠕として蠶のごとし。金色、爛然として、遂に、之れを撥(はら)ひ去る。仍(すなは)ち、復た、舊處に在りて、之れを踐(ふ)む。之れを斫(き)り、之れを水・火に投ずるも、皆、卽ち、故(かく)のごとし。閬、以つて、友人に問ふ。友人が曰はく、「此れ、金蠶なり。」と。備(つぶさ)に、其の故(ゆゑ)を告ぐ。閬、歸りて、妻に告げて云はく、「吾、之れに事(つか)へること、不可なり。之れを送るに、家貧、何を以つて、生ぜんや。」と。遂に、之れを吞みたり。家人、謂へるに、「其れ、必ず、死寂、苦しむ所、無し。」と。竟に壽を以つて終る。豈に至誠、盛妖を正すに勝(た)へざるや。』と。時珍、竊かに謂へる、「金蠶の蠱、害を爲(な)すこと、甚だ大なり。故に備(つぶさ)に二事を書せり。一たび、此の蠱の蝟(あつま)るを畏れて見ば、至誠、邪に勝るを見るなり。「夷堅志」に言(いは)く、『此の蠱に中(あた)る者は、白礬を吮(な)むるに、味、甘く、黑豆を嚼(か)むに、腥さからず。石榴根の皮[やぶちゃん注:ザクロの根皮。漢方で細菌性・アメーバ性腸炎の下痢及び条虫や回虫の虫下しに用いるが、毒性が強い。]の煎じ汁を以つてせば、之れを吐く。』と。「醫學正傳」に、『樟(くす)の木の屑の煎じ汁を用ひて、之れを吐く。』と。亦、一法なり。愚、意(おもふ)らく、若(しか)ず、蝟の皮を以つて、之れを治するが、勝れりと爲す。其の天なり[やぶちゃん注:「最上の処方である」の意か。]。

   *

一部、意味がよく判らない箇所もあるものの、全体を読むに不審はなく、さらに思うに、これは架空の妖術によって生じた毒虫ではなく、ヒト感染性或いは日和見感染性のヒトの消化器内に寄生する寄生虫のように見えてくる。所謂、回虫などが、多量に寄生すると、「逆虫(さかむし)」と言って、口腔から寄生虫を吐き出すこともあり(江戸時代の記載にある)、多量の個体が寄生すれば、相応に重篤な症状を呈することもある。私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚘(ひとのむし)」の私の注を参照されたい。

2021/11/09

伽婢子卷之十一 隱里

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回は「新日本古典文学大系」版をトリミング補正した。見開きで三図(三双)もあるので、適切と思われる箇所に挿入した。]

 

   ○隱里(かくれさと)

 播州印南(いなみ)といふ所に、内海(うつみの)又五郞とて、武藝をたしなみ、弓馬の道に稽古の功(かう)を重ね、然(しか)も、その心根(《しん》ね)、きはめて不敵者なり。

 或時、思ふやう、

『片田舍に世を過(すご)さんには、人のため、名をしらるゝ事、あるべからず。都にのぼり、赤松を賴みて、公方に宮仕(《みや》つか)へ奉り、世の變(へん)に任せて、立身せばや。』

と思ひ立《たち》て、京都にのぼりしかば、

「赤松は、身まかりたり。」

と聞ゆ。

『さては。力なし。「後藤掃部(かもん)が宇治にあり」といふ。こゝに行《ゆき》て賴まん。』

と思ひ、足に任せて尋ね行《ゆく》。

 日、すでに、暮かゝり、道に踏み迷ひて、草原(くさはら)、小坂(こさか)を、さし越え、さし越え、「栗栖野(くるすの)」といふ所に出《いで》たり。

 遠近(をちこち)、人に、物申すべき影も見えず、猿の叫ぶ聲、かすかに聞え、狐のともす火、あたりにひらめく。

 こゝに、一つの堂あり。

 古へ、「太元帥(たいげんすゐ)の法」、おこなひける所とて、今も太元堂と名づく。

 柱、朽ちて、垣、傾き、木の葉、ちりつもり、軒(のき)破れ、まことに物凄き所なれども、行先も定かならず、立歸るべき道も覺えねば、堂の緣にあがりて、夜を明かす。

 

Kakuresato1

 

 亥の刻[やぶちゃん注:午後十時。]ばかりに、東の山際より、松明(たいまつ)ともして、人、多く來《きた》る。

 漸々(ぜんぜん)に近付(ちかづき)つゝ、太元堂に向ひて、步みよる。

 又五郞、思ふやう、

『かゝる所へ、夜更けて來る者は、ばけものなるべし。然らずば、盜人(ぬす《びと》)ならん。』

と怪しみ、密かに、天井に登り、息を靜めて居たりければ、廿人ばかり、さゞめきて、堂にのぼり、火を、たてたり。

 其中の大將と覺しくて、花やかに出立《いでたつ》たる者、一の座上にあり。

 その外の者、皆、おのおの、坐(ざ)したり。

 鑓(やり)・長刀《なぎなた》・弓なんど、手每(てごと)に持ちたるを、たて並べ、用心したる躰(てい)也。

 その貌(かほ)を見れば、皆、猿のたぐひにして、更に人間にあらず。

 又五郞、

『これは。疑ひなきばけもの也。一矢(《ひと》や)射ばや。』

と思ひて、携(たづさ)へもちたる、弓、取り直し、とがり矢をつがうて、

「兵(ひやう)」

と放つに、誤たず、上座にありける者の、臂(ひぢ)のかゝりに、したゝかに、たちたり。

 此者、大《おほき》に、驚き、聲をあげて、

「あら悲し。是は、そも、何事ぞや。」

と、いふ程こそありけれ、燈し火を打ち消し、あまたの者共、ふためき立て、ちりぢりに迯げ失せたり。

 物音、靜まり、跡も見えざりければ、夜の明《あく》るを待《まち》て、あたりを見るに、血、こぼれて、引《ひき》たり。

 又五郞、

『行末を見屆けばや。』

と思ひ、跡をとめて、南のかた、山を巡り、西をさして行けば、大なる穴のはたにして、とゞまる。

 いよいよ、あやしみ、かなたこなた、せし間(あひだ)に、今宵、すこし降りたるに、土、すべりて、踏みはづし、穴の内に落入《おちいり》たり。

 底、深く、岸、高うして、あがるべきたより、なし。

 いとゞ暗かりければ、

『こゝにて、死するより外は、なし。』

と、かたはらを探り見るに、橫に、穴あり。

 靜かに步みゆくに、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかりにして、明らかなる所に出たれば、月日の光り、常のごとし。

 一つの窟(いはや)に、石の門ありて、數十人、其門をかためて、番を勤む。

 其有樣は、今夜(こよひ)、太元堂に來りける者に、たがはず。

 番の者、驚き問ふやう、

「何人《なんぴと》なれば、こゝには、來りける。」

と。

 又五郞、

「是れは、播州より、此ころ、都に上り、醫師(くすし)を以つて、身のわざとす。藥をもとめて、山に分け入《いり》侍りしが、道に踏み迷ひ、思ひ掛けず、穴に落て、こゝに來れり。都に歸るべき道を、示し給へ。」

といふに、番の者ども、聞《きき》て、大に喜び、

「是は。まことに、天のあまたふる幸《さいはひ》也。我君、きのふ、たまたま、城を出て遊び給ふ所に、流れ矢の爲(ため)に、當りて、疵を被(かうふ)り、臥(ふし)給へり。療治して、給(たび)給へ。」

とて、内に呼び入れたり。

 宮殿(くうでん)、いらかを磨き、簾(みす)掛渡したる奧に、いざなふに、かのあるじ、苦しげなる聲にて、

「我、たまたま、出て遊ぶ處に、禍(わざはひ)、忽ち、身に迫り、運、傾(かたふ)きて、流れ矢に當り、毒氣、すでに、骨にとほり、痛む事、いふばかりなし。命、又、危(あやう)し。願はくは、一つの配劑を出して、此病《やまひ》を治し給へ。然らば、我、二たび、甦(よみがへ)りて、重ねて樂しみを受くべし。是れ、まことの大恩也。」

といふを見れば、毛はげて、大なる猿也。幾年經たり共《とも》、知られず、老いさらばうたる、いとゞ苦しげにて、吟(によ)び臥(ふし)たり。

 兩のかたはらに、二人の美人、あり、美しさ、限りなし。

 

Kakuresato2

 

 又五郞、立ちよりて、脉科(みやく)をとり、疵をなでゝ、

「少しも苦しからず。やがて、いゆべし。我に名方の藥あり。是れを服(ぶく)すれば、病を治するのみならず、長生不死の靈藥なれば、命を保ち、よはひを若(わか)やかになし、天地と共に久しからん。」

とて、腰につけたる火打ち袋より、丸藥を取出して、與へ、服せしむ。

 一類、みな、これを喜ぶ。

 殊更に、不老不死の藥と聞て、

「我等、かゝる神仙の人に、あふ事、まれ也。願くは、我等にも、給はれかし。」

といふ。

 袋を傾けて、分ち與ふ。

 多くの猿ども、爭ひ、うばうて、是れを、のみけり。

 元より此藥は、鏃(やじり)にぬりて獸(けだもの)を射るに、必ず、斃(たを)る、といふ大毒《だいどく》なれば、何かは、たまるべき、暫らくありて、皆、一同に倒れふして、血を吐き、前後を知らず、苦しみける所を、枕元に立てかけたる太刀を取り、片端(かたはし)より、切殺しけり。

 起上り、立ちあがらんとすれども、毒にあてられて、よろめきて、都合一類、大小三十六疋の猿、一同に殺し盡されたり。

「二人の女房も、同じ化物(ばけもの)の類(たぐひ)なるべし。諸友(もろとも)に、打ころさん。」

といふに、二人ながら、啼きていふやう、

「我らは、更に妖魅(やうみ)[やぶちゃん注:元禄版はひらがなで「ばけもの」。]の類《るゐ》にあらず。一人は、『醍醐』といふ所の並浦(なみうら)のなにがしが娘、今一人は、伏見の里に平田のなにがしといふ者の娘にて侍べる。思ひも寄らず、恐しき者のために、ばかされて、深き穴に、沈み惑ふ。迯げて歸るべき故鄕《ふるさと》の道も知らず、その儘、こゝにて死なん事を求むれども、かなはず、あさましき畜生のつかはれ者となり、六十日ばかり、このかた、夜(よる)となく、晝となく、悲しき物思ひを致し侍べり。君、今、是れ等を殺し給ふ。我等、二たび人間に立歸り、戀しき父母に逢ひまゐらせなば、是れぞ、大恩の主君なるべし。」

といふ。

 又五郞、すでに、ばけものは、打殺しけれ共、

「人間に立歸るべき道をしらず。いかゞすべき。」

と案じ煩ふ所に、白き裝束に、烏帽子着たる翁、十餘人、いづくより來《きた》るとも知らず、現はれ出たり。

「これは、此所(《この》ところ)に、久しくすみ侍べりし者どもなるを、近きころより、猿共に、住家をうばゝれ、食物・財寶、のこりなく、押領(あうれう)せられ、身のたゝずみもなくなり、はるかの傍らにすまゐして、妻子(さいし)・孫までも、世のうきめをみる事、『口おし』とは思ひながら、かれに敵對すべき力なければ、時節を待《まち》て、心をなだめし所に、君の、これらを退治し給ふ。此故に、我ら、二たび、この地のあるじとなり、いにしへのごとく、かへり住《すむ》べし。大恩、なに事か、これに勝(まさ)るべき。」

とて、手に手に、黃金をつゝみて、又五郞が前に、さし置く。

 そのかたちも、又、人にはあらぬ「くせもの」也。

 目は、まろく、口は、とがり、鬚と眉毛は、至りて長し。

 又五郞、いふやう、

「なんぢら、久しく此地に住みて、神通(じんづう)ありと、みゆ。いかなれば、猿にあざむかれて、すみかを、うばゝれたる。さて。なんぢら、まことは、何ものぞ。こゝをば何(なに)といふぞ。」

と、たづねしに、翁(おきな)こたへけるは、

「われらは、壽(いのち)五百歲を保ちて、一たび、變(へん)ず。彼等は八百歲を保ちて後に、一たび、變ず。此ゆへに敵對(てきたい)する事、かなはず。そもそも、我等は、これ、虛星(きよせい)の精靈(せいれい)として、大黑天神の使者也。此所は鼠(ねづみ)の住所《すみどころ》として、世に「かくれ里」と名づく。更に、人間にむかひて、害をなさず。功を積み、行(ぎやう)を滿(みて)て、天上に飛びかけり、仙境に出入して、自在神通のたのしみに、ほこる。しかるを、猿ども、あつまりて、年をかさねて、惡行をなし、人のむすめをとりて、をのれが心をなぐさみ、物を害し、禍ひをなす。その科(とが)あらはれて、一類、同じ所に、亡びたり。天道、すでに、君が手をかりて、ころしたまふものなり。天道の所爲(わざ)にあらずは、君、何として、ほろぼし給はん。君、しばらく、目をとぢ給へ。我ら、送りて、人間にかへしまいらせん。」

といふ。

 

Kakuresato3

 

 又五郞、目をふさぎければ、女二人と又五郞を、うしろに、かきをひ、道をすゝめば、雨風あらく、こゑ、さはがしくきこえて、目をひらくに、ひとつの白き大鼠、そのほか、十四、五ばかりのねづみ、大さ、豕(ぶた)のごとし。

 地を掘(ほり)、穴を穿(うがち)て、野原に出たり。

 道ゆく人に、

「こゝは、いづくぞ。」

と、とへば、

「木幡(こはた)山のふもと也。」

といふ。

 二人のむすめを親のもとに送り返せば、親、大によろこびて、又五郞を兩家の聟とす。

 又五郞、それより、武門の望みを離れ、富裕安穩(あんおん)の身となりぬ。

 後に又、木幡山の野はづれを尋ぬるに、歸り出たる穴は跡もなく、松・茅(かや)しげり、草むら閉ぢたるばかり也。

 又五郞は、後、終に、子もなく、その行がたを、しらず。

[やぶちゃん注:「播州印南(いなみ)」現在、兵庫県加古郡稲美町(いなみちょう)印南(いんなみ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)があるが、「今昔マップ」でこの附近を見ると、「印南新」という地名が見え、「新日本古典文学大系」版脚注では、『兵庫県加古川市右岸一帯から高砂市にかけての地域。西国往還の要路「印南 井ナミ」(書言字考・自筆校本)』とあることから、最初の地図で示した附近の広域地名ととるのが良いようである。

「内海(うつみの)又五郞」不詳。

「赤松」赤松氏は村上源氏の一流で、播磨の豪族。九条家領播磨国佐用郡佐用荘赤松村を本拠として赤松氏を称し、則村の時、後醍醐天皇の命に応じて討幕の兵を挙げ、後に足利尊氏に属して播磨守護となった。その子範資は摂津守護、則祐は播磨・美作・備前の守護となり、幕閣に重きをなした。しかし、則祐の孫満祐が、嘉吉元 (一四四一) 年、将軍義教を暗殺したため、幕府軍に攻められて自殺して後、一族は没落した。しかし、その後、政則の時、将軍義政の許しを得て、家を再興、「応仁の乱」には東軍の将として活躍し、播磨・備前・美作を回復した。しかし、その死後は、家臣浦上・宇喜多両氏に勢力を奪われ、則房の死後は、後嗣がなく、断絶し、庶流の赤松広通も「関ヶ原の戦い」で西軍に属して、戦死し、断絶した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。後に出る「宇治」にいる「後藤掃部(かもん)」が判明すれば、時制を限定出来ると思ったのだが、彼は不詳(「新日本古典文学大系」版脚注も「太平記」に『文和四』(一三五五)『年の畿内における合戦で、北朝方に播磨国の住人後藤三郎衛門尉基明という強弓武士の名がみえる』等、他に二人の人物を挙げるも、『不詳』とする)で、結局、本篇の話柄内時制を限定する役には実は全く立たない。

「草原(くさはら)」「道に踏み迷」うているわけで、地名ではなく、一般名詞。

「小坂(こさか)」同前で、小さな坂。

「栗栖野(くるすの)」京都府京都市山科区栗栖野打越町(くりすのうちこしちょう)附近か。宇治のかなり北である。既にして、異界への通路に既に向かっていたという設定であろうか。

「太元帥(たいげんすゐ)の法」真言密教の大法の一つ。口伝では「帥」の字を読まずに「たいげんのほう」と読むという。悪獣や外敵などを退散させる力を持つという大元帥明王(鬼神)を本尊として鎮護国家・敵軍降伏のために修する法で、承和六 (八三九) 年に常暁が唐から伝えた。仁寿元(八五一)年以降は正月八日から七日間に亙って朝廷で修せられ。また「天慶の乱」(「承平・天慶の乱」は平安中期に時を同じくして起った平将門・藤原純友の反乱。天慶四(九四一)年に小野好古(よしふる)らによって鎮圧された)などにも修法が行われた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「太元堂」「新日本古典文学大系」版脚注に、『京都市伏見区小栗栖北谷町』(おぐりすきただにちよう:ここ)『にあった法淋寺(正徳』江戸前期の一七一一年から一七一六年まで)頃には『廃寺か)。かつて大元帥秘法を行なった場所』とある。先の「栗栖野」の南に当たるので位置的な齟齬はない。

「臂(ひぢ)のかゝり」腕の上肘(うえひじ)と下肘との間の関節附近。

『こゝにて、死するより外はなし。』は不吉な言葉であるので、言挙げしたとは思われないから、心内語とした。

「宮殿(くうでん)」この読みは確かにあるが、それは「神を祀る宮。或いは、仏像などを納める厨子の社殿式の立派なもの」の意である。「新日本古典文学大系」版脚注では、『「クゥデン 豪華な宮殿(日葡)』とする。「吟(によ)び臥(ふし)たり」「新日本古典文学大系」版脚注に、『うめき苦しんで臥すこと。「吟 によふ」(大全)』とある。

「何かは、たまるべき、」この「たまる」は「溜まる」の特殊な用法で、多くは下に打消の語や反語表現を伴って、「持ちこたえる」「保つ」「我慢する」の意。「どうして持ちこたえることができようか、いや、出来ようはずもなく、」の意。

暫らくありて、皆、一同に倒れふして、血を吐き、前後を知らず、苦しみける所を、枕元に立てかけたる太刀を取り、片端(かたはし)より、切殺しけり。

 起上り、立ちあがらんとすれども、毒にあてられて、よろめきて、都合一類、大小三十六疋の猿、一同に殺し盡されたり。

「二人の女房も、同じ化物(ばけもの)の類(たぐひ)なるべし。諸友(もろとも)に、打ころさん。」

「醍醐」京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある醍醐寺周辺。先行する地名とも近場である。

「伏見」前注のリンク参照。

「人間に立歸り」及び後の「人間に立歸るべき道をしらず」や「人間にかへしまいらせん」などは、私は「じんかん」と読みたくなる。「新日本古典文学大系」版は二箇所とも「にんげん」と読ませている(前者にのみ「にんげん」のルビがある)。無論、六道の「人間道」は「にんげんどう」であるから、正当な読みなのではあるが、どうも「にんげん」の現代の響きは、「人間世界」のニュアンスよりも「単体・総体の生物種としてのヒト」のイメージが強過ぎ、「立歸」る対象としての人間世界の雰囲気を醸し出すには、当時もあった「じんかん」の方が躓かないと私は考えるからである。実際にこれを朗読すれば、聴衆の半数以上は、「にんげん」という読みでは、反射的に首を傾げてしまうと判断するからである。

「虛星(きよせい)」虚宿(きょしゅく/とみてぼし)は二十八宿の一つで、北方の玄武七宿の第四宿。主体となる星官(星座)としての「虚」は「みずがめ座β」、「こうま座α」の二星から構成される。獣は、ズバリ、鼠を当てる。

「木幡(こはた)山」「新日本古典文学大系」版脚注に、『古くは宇治市の木幡』(こばた:ここ)『一帯を指し、後に西方の伏見山一帯をも含む。別称に「松原山」、或いは伏見城廃城後の「古城山」「桃山」など』があり、『歌枕』で、『京、宇治間の難所』とある。地理上の展開に於いては齟齬は全くない。

「又五郞は、後、終に、子もなく、その行がたを、しらず」異界に触れた人間は洋の東西を問わず、必ず、まともな最期は迎えず、失踪するのがお約束である。

  なお、最後に言っておくと、私は最後の巨大鼠に乗せられて、人間(じんかん)に戻る又五郎と攫われて使役されていた二人の女の図を、次話の「土佐の國狗神   金蠶」の挿絵と一瞬勘違いしていた(ぼーっとし見ていて巨大鼠を犬と勘違いしたのである)。それを笑われるのであれば、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)を見られるがいい。そこで岩波書店の編集担当者は、真逆の致命的誤謬をやらかしているからである。同書では「伽婢子」は抜粋版で本「隱里」は採用されていない。ところが、この本篇の第三図が逆に「土佐の國狗神   金蠶」の挿絵として掲げられ、実際の正しい(付属する「金蠶」の地味な挿絵一枚のみである)挿絵は採られていない。これは編者が私と同じくこの挿絵を「犬神」の絵と誤認したことを示すものである。360ー361ページだ。今も改版していないようだ(しかも私が初版を買った値段の今は倍近い)。見て御覧な。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 瞽婦殺賊

 

[やぶちゃん注:「こふさつぞく」と読んでおく。]

 

   ○瞽婦殺賊

近比の事なり。武州忍領の邊へ、冬時に至れば、越後より來る瞽婦の、三絃を彈じて、村々を巡りつゝ、米錢を乞ふありけり。或冬、忍領の長堤を薄暮に通過せるに、忽、後より呼び掛くるものも[やぶちゃん注:ママ。衍字か。]あり。瞽婦、(編者曰、此處もまた脫字あるべし。)

卽、自ら吹くところの管頭(ガンクビ)[やぶちゃん注:以下の展開から煙管(きせる)のそれであろう。]を指し向くるに乘じ、瞽婦、摸索し、我が烟草[やぶちゃん注:「たばこ」。]に火の通ぜざるまねして、「大人、口づから、吹きたまへ。」といふ。盜[やぶちゃん注:「ぬすびと」と訓じておく。]、何の思慮もなく、力を入れて吹くに及びて、其機を測り、忽ち、盜の烟管を握り、躍り掛りて、力に任せて、咽喉を突く。盜、不意を討れて、大に狼狽して、仰けに倒れぬ。瞽婦、直に、我が縕𫃠[やぶちゃん注:「をんばう(おんぼう)」で、あろうが、「縕袍」の誤字であろう。綿を入れた着物。綿入れ。どてら。「おんぽう」とも「どてら」とも読める。]を摸取し[やぶちゃん注:身軽に逃げるために、着ているどてらからさっと抜き出したことを言うのであろう。]、虎口を遁れて、兼ねて知れる村家に投宿し、右の狀を話す。翌朝、村人、堤上に來て見るに、盜、遂に一烟管の爲に、急所を突れて、死せり、と云ふ。七尺の大男子、一瞽婦に殺さる。又、天ならずや【武州忍の在なる、古次郞といふ者の話なり。】

               遯庵主人記

[やぶちゃん注:「武州忍領」「ぶしうおしりやう」。忍藩(おしはん)は武蔵国埼玉郡にあった藩。藩庁は忍城(現在の埼玉県行田市本丸。グーグル・マップ・データ)にあった。

「後より呼び掛くるものもあり」ママ。後の「も」は衍字か。

「(編者曰、此處もまた脫字あるべし。)」これは底本本書の親本である昭和二(一九二七)年から四年にかけて、関根正直・和田英松・田辺勝哉監修によって出版された際の編集者の挿入と思われる。確かに、展開に不全がある。

「管頭(ガンクビ)」以下の展開から煙管(きせる)のそれである。

「烟草」「たばこ」。

「大人」「だいじん」。

「盜」「ぬすびと」と訓じておく。

「縕𫃠」「をんばう(おんぼう)」で、あろうが、「縕袍」の誤字であろう。綿を入れた着物。綿入れ。どてら。「おんぽう」とも「どてら」とも読める。

「摸取し」身軽に逃げるために、着ているどてらから、さっと、抜き出したことを言うの「七尺」二・一二メートル。当時としては破格に背が高い。

「天」天道が罰したこと。]

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 犬猫の幸不幸

 

   ○犬猫の幸不幸

いぬる十一月廿三日、内藤新宿なる旅籠屋橋本惣八が家にて、河豚を料理ける時、その骨・膓[やぶちゃん注:「はらわた」と訓じておく。]を、家のうらなる子犬と、家に飼うたる猫と、食ひけるに、忽、口より、白き淡[やぶちゃん注:「あは」と訓じておく。]をふき、「くるくる」とめぐり、七轉八倒して、いと、くるしげに見えし程に、犬は、そのまゝ死しぬ。猫は座敷へよろめき上りつゝ、折ふし、座敷の腰張をせんとて、「つのまた」といふものを煮て、盆に入れて置きたるを、此猫、その「つのまた」を啖ひけるに、見るが内に、くるしみの氣色、うせて、平日のごとくに、なりけり。これ、「つのまた」は、魚毒を解すものなるか。それをしりて、猫の食ひけるか。又は、くるしさのまゝに、何となく、くらひしか。自然と、「つのまた」の功によりて、魚毒を解したるにや。とまれかくまれ、犬は、不幸にして、死し、猫は、幸にして、免れたり。畜類すら、瞬遠の間に、幸不幸、かくのごとく、其數あるものなり。

 編者曰、「此間に數行を脫したるものなるべし。」。

   文寶、一首の秀歌をよみにき。そのうた、

 すこやかなみのを養ふ老らくにあやかりたきの音に聞きつる

この一條は、尾州名古屋人、田鶴丸ぬしの物がたりなれば、鶴のはなしを龜屋が聞きとり、「千秋萬歲、萬々歲。」と、目出度、筆をとゞむるになん。

  文政乙酉臘月朔   文寶堂散木しるす

[やぶちゃん注:「腰張」壁や襖の下半部に紙や布を張ること。

「つのまた」「鹿角菜(ツノマタ)」は紅藻植物門紅藻綱真性紅藻亜綱スギノリ目スギノリ科ツノマタ属ツノマタ Chondrus ocellatus 。古くから、含有する粘質物を漆喰や壁土などの粘着剤として使用されてきた。博物誌は私の「大和本草卷之八 草之四 鹿角菜(ツノマタ)及び海藻総論後記」を参照されたい。

「編者曰……」これは底本本書の親本である昭和二(一九二七)年から四年にかけて、関根正直・和田英松・田辺勝哉監修によって出版された際の編集者の挿入と思われる。確かに、突然、以下、まるで違う話になっており、その話も唐突な和歌から始まり、『鶴のはなしを龜屋が聞きとり、「千秋萬歲、萬々歲。」と、目出度、筆をとゞむるになん。』という文章が受けるべき前段がない。しかし、それにしても、記号等で囲まれていないのは、甚だ不審(処理不全)ではある。しかも、実はもっと不審があって、この後の遯菴主人の発表「瞽婦殺賊」の後に、突然、以下の文宝堂の識が出現し、これは内容から、この前半の「犬猫幸不幸」の添えたものであることが明白である(但し、最後の署名に「再識」とあるので、追加として挿入したことは判る。にしても、「兎園小説」に纏めるのに、この仕儀は馬琴の不親切と言わざるを得ない。以下に示す。傍線太字は囲み字、太字は囲み字。

   *   *   *

○「本草綱目」云、

鹿角菜【「食性」。】トサカノリ  主治下熱風氣療小兒骨蒸熱勞服丹石人食之。能下石力解麵熱。

○「倭名類聚抄」云、

鹿角菜(ツノマタ)崔禹錫「食經」云、『鹿茸狀似水松【和名「豆乃萬太」。】。』。「文選」、「江賦」注云、『鹿角菜【「漢語抄」云、『和名、同上。』。】。

○「救急選方」云、

食章魚中毒【本朝經驗。】、鹿角菜(フノリ)湯浸化飮之、亦解諸魚毒。

右本章には、「トサカノリ」とありて、魚毒を解する事は見えざれども、「倭名抄」には、「ツノマタ」とあり。「救急選方」による時は、「フノリ」とありて、『諸の魚毒を解く』とあり。されば、「ツノマタ」も、「フノリ」も同物にて、こまかき所を布苔に製し、あらき屑を「角岐」となすものにて、一種一名にして、「鹿角菜」は「フノリ」「ツノマタ」なる事、あきらけし。さるゆゑに、河豚の魚毒を解くるものなるべし。

  乙酉臘八         文寶堂再識

 兎園、「犬猫の禍福」の條にあはせて、御らん可被下候。

   *

「本草綱目」は巻二十八の「菜之三」。にある以下。

   *

鹿角菜【「食性」。】

釋名猴葵【時珍曰、按沈懷遠南越志云猴葵一名「鹿角」。葢鹿角以形名猴葵因其性滑也。】

集解【士良曰、鹿角菜、生海州登萊沂宻諸處海中。時珍曰、鹿角菜、生東南海中石厓間。長三四寸、大如鐵線。分了如鹿角狀。紫黃色。土人采曝貨爲海錯。以水洗、醋拌、則脹起如新。味極滑美。若久浸、則化如膠狀。女人用以梳髮粘而不亂。

氣味甘大寒滑無毒【詵曰微毒丈夫不可久食發痼疾損腰腎經絡血氣令人脚冷痺少顏色。】主治下熱風氣療小兒骨蒸熱勞服丹石人食之能下石力【士良。】。解麫熱【大明。】。

   *[やぶちゃん注:太字は囲み字。]

鹿角菜【「食性」。】

釋名猴葵(こうき)【時珍曰はく、「按ずるに、沈懷遠が「南越志」に云はく、『猴葵、一名「鹿角」。葢し、「鹿角」は形を以つて名づく。猴葵は其の性、滑らか因るなり。』と。】

集解【士良曰はく、「鹿角菜、海州の登・萊・沂(き)・宻(みつ)[やぶちゃん注:山東半島の旧州名。]の諸處の海中に生ず。」と。時珍曰はく、「鹿角菜、東南の海中の石厓の間に生ず。長さ三、四寸。大いさ、鐵線のごとし。分了して、鹿角の狀(かたち)のごとし。紫黃色。土人、采りて曝し、貨(う)りて、海錯と爲す。水を以つて洗ひ、醋(す)に拌(かきまず)るときは、則ち、脹起して新たなるがごとし。味、極めて滑美なり。若(も)し、久しく浸すときは、則ち、化して膠(にかは)の狀のごとし。女人、用ひて、以つて髮を梳(くしけづ)る。粘じて亂れず。」と。】。

氣味甘、大寒。滑。毒、無し【詵(せん)曰はく、「微毒。丈夫。久くは食ふべからず。痼疾を發し、腰・腎の經絡の血氣を損ず。人をして脚を冷痺し、顏色、少からしむ。」と。】。主治熱風の氣を下し、小兒の骨蒸熱勞[やぶちゃん注:骨髄から発する発熱による疲労。]を療し、丹石を服する人、之れを食へば、能く石力を下す【士良。】。麫熱(めんねつ)[やぶちゃん注:本編の「麺熱」ともに意味不明。漢方用語も見当たらない。]を解す。【大明。】。

   *

『「倭名類聚抄」云……』は巻十七の「菜蔬部第二十七」の「海菜類」第二百二十六の以下。

   *

鹿角菜(ツノマタ) 崔禹錫が「食經」に云はく、『鹿茸の狀(かたち)。「水松」[やぶちゃん注:海藻のミルのこと。]に似たり。』と【和名、「豆乃萬太」。】。「文選」が「江の賦」の注に云はく、『鹿角菜』と【「漢語抄」に云ふに、和名、上に同じ。】]

   *

「救急選方」多紀元簡(櫟窓(「れいそう」或いは「ろうそう」)著。文化七(一八一〇)年跋。写本の当該部を「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」のここに発見した。〔 〕は私の添えたもの。

   *

鹿角菜 章魚[やぶちゃん注:蛸。タコ。]を食ひて毒に中〔(あた)るときは〕【「本朝經驗」。】、鹿角菜(フノリ)〔を〕湯に浸し、化し、之れを飮む。亦、諸〔(もろもろ)の〕魚毒を解す。

   *

「トサカノリ」紅藻植物門紅藻綱スギノリ目ミリン科トサカノリ属トサカノリMeristotheca papulosa。私の「大和本草卷之八 草之四 雞冠菜(トサカノリ)」を参照されたい。

「フノリ」私が殊の外好きな、紅色植物門紅藻綱スギノリ目フノリ科フノリ属 Gloiopeltis のフノリ類(フノリという和名種はいないので注意)。本邦産種は、

ハナフノリ Gloiopeltis complanata

フクロフノリ Gloiopeltis furcata

マフノリ Gloiopeltis tenax

であるが、食用に供されるのは後者のフクロフノリ・マフノリの二種である。私の「大和本草卷之八 草之四 海蘿(フノリ)」を参照されたい。

『「ツノマタ」も、「フノリ」も同物にて、こまかき所を布苔』(ふのり)『に製し、あらき屑を「角岐」』(つのまた)『となすものにて、一種一名にして、「鹿角菜」は「フノリ」「ツノマタ」なる事、あきらけし』大きな誤り。文宝堂は海藻に疎い。以上の三種の現物さえ見たことがないのであろう。一目瞭然(ツノマタトサカノリフノリのグーグル画像検索をリンクさせておく。ツノマタとトサカノリは個体によっては似ているものがある)、御覧の通り、素人でも判別出来る。

「河豚の魚毒を解くるものなるべし」大誤り。テトロドトキシンは現在も有効な治療薬はない。

   *   *   *

「田鶴丸」馬琴の友人であることしか判らない。先の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 眞葛の老女』に登場している。]

2021/11/08

人生は

人生は、少しくばかりではなく、大いに――下らない――

ブログ・アクセス1,620,000突破記念 梅崎春生 拾う

 

[やぶちゃん注:初出は昭和二六(一九五一)年八月号『小説新潮』で、後の短編集等への収録はない。

 傍点「ヽ」は太字とした。文中に簡単な注記を入れた。作中に外国映画のコメディが出るが、私は喜劇映画が嫌いなので、ワン・シークエンスの台詞だけなので、作品は判らない。知りたい向きには、ウィキの「1950年の日本公開映画」或いは「1951年の日本公開映画」が参考になるかも知れない。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本日午後早くに(妻の入院先に物品受け渡しに行き不在中)、1,620,000アクセスを突破した記念として公開する。【202111月8日 藪野直史】]

 

   拾  う

 

      

 

 新宿から甲府にむかう甲州街道。その新宿から一里ほども来たところに、下高井戸というへんてつもない宿場がある。そこは街道と上水の間を、ほこりっぽい空地で区切って、都心からくるバスの終点にもなっている。[やぶちゃん注:東京都杉並区下高井戸(グーグル・マップ・データ)。]

 その朝、バスの終点標識から七八間[やぶちゃん注:十二・七八~十四・五四メートル。]へだたったところ、街道面のアスファルトがそこだけえぐれて、ぽっかりと小さな凹地をなしている箇所に、こまかく折り畳(たた)んだ紙片が、ひとつポツンと落ちていた。

 なにしろここらは、近来とみに車馬の往来がはげしく、道を横切るにも一苦労するようなところだから、道ばたのそんなよごれた紙屑に、誰も目をとめはしない。だからその紙片は、いくどとなく乗用車やトラックのタイヤに轢(ひ)かれて、あやめもわかたぬ程くろずみ、ブリキ板のようになって、平たく地面に貼りついていた。初夏の太陽があかあかと照って、そこらから水蒸気がうっすらと立ちのぼっている。

 丁度(ちょうど)午前八時五十分。街道に自動車のとだえた隙(すき)をねらって、反対側の歩道から、一人の肥った男が、バスの発着場をさして一目散に駈けてきた。その大型のバスには、運転手も女車掌もすでに乗りこんで、もう発車しそうになっている。すこし動きかけて、走ってくる肥った男を待つために、タイヤを半分車道に乗り入れたまま、ゆらりと立ち止ったところだ。

 肥った男の姿は、街道の中ほどまで転がるように駈けてきた時、れいの小さな凹地に足をとられたらしく、ガクンとよろめいた。とたんに片方の靴がすっぽり脱げて、男は踊るようなかたちで、二三歩ピョンピョンと片足飛びをした。その恰好(かっこう)が可笑(おか)しかったのか、そばかすのある若い女車掌は、真鍮(しんちゅう)の手すりにすがりつくようにして、甲高く短い笑い声をあげた。誘われたように、入口近くの乗客の三四人が、濁った含み笑いで、それに和した。しかしこれら不謹慎な笑い声も、とっさの間だったから、その肥った男の耳までは、おそらくは届かなかっただろう。

 穴山八郎(というのがその男の名なのであるが)は、両手を空に泳がせて、あぶなく立ち止った。そしてやっとのことで、ふくらんだ案山子(かかし)のように、ゆらゆらと靴の方にむき直った。まるい顔がまっかに充血して、皮膚には汗が粒になって吹き出ている。

 えぐれた凹地のまんなか、靴は死んだ蛙みたいにひっくり返って、ぶざまな底革を空に向けていた。白っぽくすり減った鋲(びょう)金。斜めに歪んだゴム踵(かかと)。底革の鈍感な輪郭。彼の眼はそれを見た。顔が内側からカッと燃え出すのを感じながら、穴山八郎はふたたび不器用な片足飛びで、あわてて靴の方に近づこうとした。その瞬間、靴の直ぐそばの地面に貼りついている、折り畳まれた奇妙な紙片の色と形が、ふと彼の眼をつよくとらえた。

(紙幣だ)

 穴山八郎は咽喉(のど)の奥で、あやうく叫びをかみ殺した。黒黒と印されたタイヤの跡の隙間から、大額紙幣特有の紫色の模様が、あわあわと滲(にじ)み出て見えるのだ。折り畳まれたその厚さでは、三枚や四枚の数とは思えなかった。靴の方に軀(からだ)をかがめながら、動悸が急にはげしくなるのが判った。

(――こんなところに、こんな紙幣(さつ)束が……)

 穴山八郎のふるえる指先は、とつぜん靴から横にずれて、紙幣束の一端に触れた。灼けるような感触が、指先から彼の全身に伝わる。反射的に頰の筋肉を歪(ゆが)ませ、へんに力むような表情になりながら、素早くつまみ上げた。真黒に塗りつぶされた短い時間の流れ。次の瞬間、彼の腕は不自然な動き方をして、それをポケットの中に辷(すべ)りこませる。同じ時間に、彼の足先はくねくねともがき、元の靴のなかにスッポリと収まっている。――そして彼は、叱られた幼児みたいな顔付になって、ぐいとバスの方に向き直った。

 バスの中から無数の視線が、彼をめがけて突き刺さってくる。それらを痛く全身で受けとめながら、彼はころがるような勢いで、再びバスの方に突進した。誰も見てやしない。誰も見てやしない。混乱した頭の奥で、そんなことを、呪文のように呟きながら。――

 

     

 

(ほんとに誰も見てやしなかっただろうな)

 バスが動き出してしばらくして、やっと動悸(どうき)も収まった頃、穴山八郎はおずおずと顛をあげ、そっとあたりを見廻しながら、そう思った。並みいる乗客たちは、さっきの出来事も忘れ果てたように、しごく無感動な姿勢で、新聞を読んだり窓外の風景を眺めたりしている。八郎はやや安堵(あんど)したような表情をつくって、手の甲で額の汗をしきりにぬぐった。

(とにかく――よかったな)

 なにがよかったのか、よく判然しないまま、彼は自分に納得させるように、そう呟いた。今日も今日とてすっかり朝寝坊して、電車ではとても間に合わないから、バスの停留場に駈けつけたのであった。会社には出勤時間にうるさい主任がいて、遅刻をすると恐い顔でにらみつけるのだ。だから電車定期があるのに、わざわざバスヘ駈けつけたのだが、とたんに穴につまずいてきりきり舞いして、路上に醜態をさらした。もっともそんな醜態をさらしたおかげで、奇妙な好運みたいなものに打ち当った気もするのだが。

(――好運?)

 八郎は急に落着かない顔付になって、右手をもじもじと動かした。あたりをはばかるように、窮屈そうに肱を曲げて、そっと右手をポケットに差し入れてみる。右手の乗客とぴったり体が接しているので、うまく手が入ってゆかないのだ。右側の客は薄地のスーツを着た肉付きのいい年増女である。濃めの口紅をつけた、つんとすました横顔が見える。かすかにただよってくるのは、何という香水の匂いかしら。八郎の指先はやっとのことで、ポケットの底の紙幣の端に触れた。バスがごとんととまって、また何人かの客がのろのろと乗り込んでくる。

(間に合うかな?)

 会社の主任の不機嫌な顔をとたんに思いうかべて、八郎はちらと顔をしかめる。今月に入って、もう三回も遅刻しているのだ。今日また遅れれば、うるさく文句を言われるにきまっている。いま何時何分ごろかしら。八郎のすぐ前の吊皮には、タイピストらしい風態の若い女がぶら下がっている。その腕時計の針を見ようと思うのだが、車体が動揺するので、うまく読み取れない。それにその女は、袖の寛(ひろ)く短い卵色のセーターを着けているので、白い腕がよじれる度にゆたかな鳶色(とびいろ)の脇毛がちらりとのぞくのだ。見ているような見ていないような、曖昧(あいまい)なずるい視線で、八郎はそれをチラチラと眺めている。ちぢれて軟かそうなそのあり方が、やがて八郎の内部の奥のものを、微かにしかし執拗(しつよう)にそそってきた。

(今日は会社に出るのは、やめにするかな)

 そんな考えがふいに八郎の頭を走りぬける。遅刻よりは欠勤の方が、まだマシだろう。主任のあの苦虫をつぶした顔を思うだけでも、ぞっとする。それに今日という日は――と八郎は、ポケットの右手を微妙に動かしながら、自分に言い聞かせるように呟(つぶや)く。朝から奇妙な拾い物をした特別の日なんだから――。たしかにあれは千円札だったが、一体何枚ぐらいあるんだろう?

 ポケットの内で八郎の指は、虫のようにうごめき、重なった紙幣の耳をひとつひとつ数えていた。五枚。六枚。七枚。……その手ごたえのある感触が、ふと八郎の肥った頰をゆるめてくる。三十歳。未だ独身。しかも使おうと思えば使える巨額の金が、ここにある。自分さえその気になれば、今日という日を、誰も拘束できないではないか。――ぼんやりと弛緩した笑いが、八郎の頰にゆるゆるとのぼってきた。そうだ。今日一日ぐらいは、たまにはこの俺だって――。

「なにをなさるの!」

 突然、低いけれども、とがった鋭い声が、耳のそばで弾(はじ)けた。右側の席の年増女の顔が、キッとふりむいて、八郎をにらみつけている。指先の紙幣の感触と鳶色にうずまく脇毛に、かたみに心を奪われていた八郎は、ハッと身体を硬直させて、顔をそちらにねじむける。とげとげしい女の声が、つづいてかぶさってきた。

「へんな真似はしないでちょうだい。なんです、朝っぱらから!」

「ぼ、ぼくは何も――」

 紙幣を手探る指のうごめきを、肉体を接しているのでこの年増女は、いやらしい悪戯(いたずら)と解したのだな。咄嗟(とっさ)にそう気付くと、八郎はまっかになって、しどろもどろな声でどもった。

「ぼ、ぼくはただ、この、ポケットの中の――」

 どう説明すればいいのか。拾った紙幣を数えていたでは、通用しないだろう。八郎は混乱しながら、言葉を切り、あわてて間題の右手をポケットから引き出した。その右手は、居場所がないように、しばらく宙(ちゅう)をうろうろとした。

「ほんとに、いやらしいったら、ありゃしない」

 とどめをさすように舌打ちをして、女の顔はぷいと正面を向いた。周囲からさげすまれ、嘲笑されている自分をかんじて、八郎は口も利(き)けず頸(くび)をギュッと肩にめりこませた。なんとも完膚(かんぷ)なきまでに惨(みじ)めな気持である。周囲の吊皮の客たちも、こちらを見おろして、せせら笑っているらしい。鳶色の脇毛もくそもあるものか。ほんとに今日は、なんという奇妙な日だろう!

「御苑前。新宿御苑前。ございませんか」

 バスがとまった。反射的に八郎は腰を浮かせ、人混みをかきわけて、出口の方に突進した。さながら傷ついたイノシシみたいな恰好で。

 

     

 

 朝の新宿御苑は、芝生はなめらかにひろびろと拡がり、樹々はむんむんと緑の梢を、天高く伸ばしていた。時刻のせいか、入場者の影はほとんど見えないようであった。玉砂利をしいた遊歩道を、八郎の姿はせかせかと足早に歩いたり、また急にゆっくりした足どりになって動いたりした。日射しはすでに、午前十時を廻っているらしい。道はいくつにも枝に分れ、行けども行けども果てしがなかった。

 どういうつもりでこの御苑に入ってきたのか、八郎は自分でもよく判らなかった。どうも発作的に飛びこんだような気がする。

「さて。――さて」

 これで何度目かの意味ない呟きを口にしながら、八郎はやがて決心したように竹柵をまたぎ、こわごわと芝生に足を踏み入れた。大きな泰山木(たいざんぼく)の根元に、かくれるように腰をおろすと、彼は小学生のように両手を横にあげ、二三度大きく深呼吸をした。それから思い切りしかめた顔を、膝の間に埋めながら、乱暴な声で独りごとを言った。

「ざまあみろ。とうとう会社を休んじまいやがって!」

 芝生には見渡すかぎり、誰もいなかった。八郎はしばらく頭を垂れ、その姿勢のままでいた。やがてゆるゆると顔を上げると、急にきつい眼付になってぐるりを見廻し、ポケットからごそごそとれいの紙幣をとり出した。乾いた泥が紙幣の表面から、はらはらと舞い落ちる。彼の手はそれを拡げ、一枚一枚芝生にならべて行った。全部で十枚。十枚のその千円紙幣は、芝の緑の上に、扇形の奇怪な模様を形づくった。八郎は腕を組んだ。

「誰が落したんだろうな」

 そして彼はフンと鼻を鳴らした。誰が落したってかまわないではないか。もしかすると、捨てたのかも知れない。人間という種族は、他の動物と違って、想像できないようなこともする動物だからな。捨てるということもあり得るさ。彼はふてくされた気持でそう考え、再びフンと鼻を鳴らし、小学生的良心のかけらを踏みつぶそうとした。路上できりきり舞いをしたり、バスの中で恥をかいたりした揚句、それでこの金が使えなければ、俺は一体どうなるのか。あんまり莫迦(ばか)にするな。

「よし、今日一日で、これを全部使い果たしてしまえ」

 八郎は双手(もろて)をつき出して、サラサラと紙幣をかき集めた。一万円。それは彼の月給より、二千円も多いのだ。この金を生活のために使えば悪いが、今日一日で蕩尽(とうじん)してしまうのなら、神様も大目に見て呉れるだろう。罰せられても、今日一日の自分が罰せられるだけだ。よし。八郎は踏切るようにうなずいて、紙幣束をぐいとポケットにねじこみ、はずみをつけて立ち上った。とにかく今から時間潰しに、この天下の名園を心ゆくまで、王侯の心をもって漫歩しよう。

 足を忍ばせて芝生を出、ふたたび玉砂利の歩道を、八郎は胸を張ってゆるゆると歩き出す。胸を張ったつもりでいても、背後から見ると、八郎の背は丸くちぢかんで、目に見えない重荷を背負っているように見える。じっさい彼はしっかと踏みしめているつもりなのに、妙に心もとない足どりを感じた。ここを歩いている自分自身が、へんに現実感がない、影のような存在に思われた。その想念を追っぱらうように、彼は一歩毎に、確かめるように口ずさむ。

「一万円。一万円。――一万円」

 

     

 

 午後一時。

 穴山八郎はぼんやりした顔をして、新宿の人混みのなかを歩いている。

 そしてふと何ごとか思い付いた風(ふう)に、人混みの列を離れ、とある店の中に入ってゆく。階段をのぼる。そこに置かれた料理の陳列棚を、暫(しばら)くまじまじと眺めている。

「ボルシチ・ランチ」食券売場でそう言って、れいの千円札の一枚を差し出す。八百五拾円のおつりと、一枚の食券。[やぶちゃん注:「ボルシチ」(ロシア語борщ:ラテン文字転写borshch)はロシアスープの一種。最もロシア的色彩が濃く、公式の饗宴にも日常食にも用いられ、ロシアの各地方には郷土色豊かな種々のボルシチがある。本式のそれは赤蕪を主体に、ベーコン・トマト・人参・玉葱・キャベツ・セロリ・ポアロなどとともに、実沢山に煮込み、彩色も豊かで、サワー・クリームをかけて食べる。]

 食堂の内部はむれて暑かった。一番すみの卓に八郎は腰をおろしている。ボルシチ・ランチ。陳列棚のなかでは、これが一番高い。高いから、買う気になったのだ。しかし八郎の身体は、へんにだるく疲れて、食欲があるのかないのか、自分でもはっきりしなかった。まだあと、九千八百五拾円もある。

 やがて、ボルシチ・ランチが、運ばれてきた。赤くどろりとした肉汁。熱そうに湯気が立っている。小皿。一塊の麵麭(パン)。眼前にそれらが並べられたとき、八郎はなんだか得体の知れない、妙に重苦しい負担をかんじた。

(何かかるい、つめたいものにすれば、よかったな)食堂は満員であった。どれもこれも、アイスクリームを舐(な)めたり、ソーダ水をすすったりしているのだ。こんなものを食べているのは、八郎一人であった。皆が珍らしげにこちらを眺めているような気がする。顔じゅうから汗を吹き出しながら八郎はしきりにスプーンを口に運んだ。運んでも運んでも肉汁はすこしも減らなかった。相変らずどろりと淀んで、赤い湯気をゆらゆらと立てている。

 八郎の向いには、痩せた貧しげな大学生が一人腰をおろして、ゆっくりと饅頭(まんじゅう)を食べていた。白い饅頭の皮を食い欠きながら、八郎の肉汁をじっと見詰めている。八郎のフオークが牛肉のかたまりをとり出すと、学生の視線はそれを追って、八郎の唇までついてくる。なにか監視されてるみたいで、八郎はだんだんやり切れなくなってきた。

(好きこのんでこんなものを、食ってるんじゃないんだぞ)

 そう叫びたいのをこらえながら、顔じゅうを汗だらけにして、八郎はやっとのことで食べ終えた。胃のへんがぶうっとふくらんで、濡れた海綿でも押しこまれたような感じだ。八郎はしきりに汗を手巾(ハンカチ)で拭き拭きうんざりしたような顔になって、コップの水をガブガブと飲みほした。前の大学生はすっと立ち上ってひっそりと食堂の外に出て行った。八郎はがやがやした食堂の内部を見渡しながら、説明しようもない孤独をひしひしと感じた。

「どうも何かがハッキリしないヨ」

 と彼は呟いた。この食堂に来る度に、いつかは食べたいと思っていたのが、この料理であった。しかし彼の給料では、とても注文し切れないので、いつもは饅頭で我慢していたのだ。さっきの大学生のように。今日はゆくりなくも日頃の念願を果たすことができた。ところが食べ終えても、ゼイタクをしたあとのあの充足感が、奇妙に湧き上ってこないのだ。むなしく腹がふくらんだばかりである。八郎はやがてけだるく腰を浮かしながら、情なさそうな声でつぶやいた。

「映画でも見てやるか」

 映画なら腹にもたれないだろう。映画館のなかでゆっくりと、残金の使途について考えてもいい。そして八郎は立ち上った。そのはずみに、彼の肥った膝裏に押されて、椅子が大げさな音を立てて、床に横ざまにころがった。食堂中のすべての眼が、一瞬八郎の狼狽した姿にあつまる。

 

     

 

 スクリーンには黒白の映像が、ちらちらと動き、濁った機械音が間歇(かんけつ)的に場内に流れていた。

 一番前の座席にすわり、八郎は脚をながながと前に突き出して、スクリーンを見上げていた。途中から入ったので、話の筋がよくのみこめなかった。皆がどっと笑っても、八郎は少しも可笑(おか)しくない。八郎の側にいる女客は、笑い上戸だと見えて、要所要所にくると甘ったるい声で笑い出す。咽喉の軟かい肉や濡れた舌を、じかに想像させるような、妙に肉感的な笑い声であった。八郎は時折スクリーンから眼をそらして、ちらちらとその女の方をぬすみ見た。

 女は器械編みの赤いセータを着て、眼鏡をかけていた。画面が明るくなると、女の顔も白っぽくなり、暗くなると、とたんにくすんだ色になる。そして可笑しい場面がくると、手にしたハンカチをくしゃくしゃに丸めながら、肉感的な笑い声が女の唇からころがり出る。

(さっきは失敗したな)

 どうした聯想(れんそう)か、ふとバスの中のことを思い出して、八郎は顔をちょっとしかめる。あのことがまだ後味わるく、胸に尾を引いているのだ。それを打ち消すように八郎は口の中でもごもごとつぶやいてみる。

(どうだっていいさ。とにかく今日一日の俺というのは宙に浮き上った架空の人間なんだから、な)

 架空の人間。その思い付きが、瞬間八郎の眉を明るくさせる。――スクリーンでは、息子らしい男が母親に話しかけている。浮き上ったスーパー・インポーズの文字。

「今度女友達を家に連れてきたいんだよ」と息子。

「へえ。どこで知り合ったんだね?」と母親。

「映画館の中で、その女(ひと)がハンカチを落っことして、それを僕が拾ってやったんだ」

「まあ。ずいぶん古い手だこと。そんな古い手に引っかかったのかい、この子は」

 傍の女が身体をゆすってころころと笑い出す。ハンカチを握ったその女の手が、偶然に八郎の膝にやわらかく触れている。画面に気をとられて、女はそれを意識していない様子だ。汗と香料と混ったような匂いがかすかに動く。それに誘われたように、バスの吊皮にぶら下がっていたタイピスト風の女の、腕の付け根の印象が、突然はっきりとよみがえってくる。八郎は少しずつ息苦しくなってきた。

(九千七百何拾円だぞ)と彼は思う。(まだ三百円しか使っていない)

 一日で一万円を使い果たすには今のやり方ではダメだ。徹底的に俗悪にならねばならぬ。俗悪にふるまわねば一万円なんか使い尽せるものか。八郎はしだいに息苦しく、酒に酔ったように気分がほてってくる。バスの中の自分のぶざまに復讐するような気持だ。古い手だって何だって、かまうものか。そして八郎の腕は肱(ひじ)掛けから降りて、のろのろと自分の膝の方へ近づいてゆく。そこに女の掌がある。

 女はびくりと体をふるわせた。しかしそのまま、じっとしている。八郎の指は、しっとりしめったような冷たい女の掌を、しっかと摑(つか)んでいた。女の掌は摑まれたまま、何の反応も示さない。そして女は横目をつかって、じっと八郎の方をうかがっているらしい。

(俗悪だ!)スクリーンに見入るふりをしながら、八郎は腹の底で自嘲する。(何ともはや、俗悪きわまる!)

 その瞬間、女の掌にすこし力が入って、八郎の指から脱け出ようとするらしい。八郎は自然らしく指をゆるめた。ぬめぬめした感触をのこして、女の掌は自分の膝の方にそろそろと戻ってゆく。そしてしばらく経った。

 女は座席にかたくなって、スクリーンに顔を固定させている。可笑(おか)しい場面がきても、もう笑わなくなった。

 やがて、終りの字幕。パツと明るくなる。

 八郎が立ち上るのと一緒に、女も立ち上る。廊下に出ると、廊下についてくる。そして自然に肩が並んで、二人は表へ出る。女は平たい靴を穿(は)いて、いくらか外輪(そとわ)な歩き方をする。眼鏡の奥で目を細めて、わざとらしい独りごと。映画のプログラムをはたはたさせ、咽喉(のど)もとに風を入れながら、

 「まあ。外は暑いこと」[やぶちゃん注:「外輪な歩き方」爪先(つまさき)を外側に向けて歩くこと、及び、そうしたX脚の足の歩行様態のこと、或いは意識的にそのような歩き方をすること。]

 

     

 

 お腹が空いたと女が言うので曲り角の中華料理屋に入った。女は五目ソバを注文した。

 女は鼈甲縁の眼鏡をかけ、丸々した顔をしていた。二十三四になるかしら。唇がすこしまくれ上った感じで、そこが可愛いと言えば、そう言えないこともない。頸(くび)をちょっとかしげ、眼を細めてものを言う癖があった。なんだか舌たるいような声であった。もう動作もすっかり慣れ慣れしくなっている。

「ずいぶんロマンチックねえ、あの映画」

 ソバを唇に運びながらも、女はひっきりなしにしゃべった。映両の批評や、その原作の話など。八郎はビールをかたむけながら、それに相槌(あいづち)を打ったり、ちらちらと女の動作を観察したりした。素人は素人に違いないが、すこし頭が甘いらしい。八郎はビールを飲み下しつつ、そんなことを考えている。久しぶりのビールなのに、なまぬるく、舌ざわりも良くなかった。焼酎の方がよっぽど気が利いている、と思いかけて止(や)めた。内ポケットの紙幣(さつ)束の重みが急にズッシリと感じられた。

「あたしこれでも、文学少女なのよ」ギラギラする汁を箸(はし)でかき廻しながら、女はちょっとしなをつくって見せた。

「将来は劇作家として立ちたいの。だから映画を見ることは、とても参考になるのよ」

「そりゃ結構なことじゃないか」

 自分のことをいろいろしゃべったあと、女はちらと上眼を使って彼に訊ねた。

「あなたはなに? どこにお勤め?」

「いや」と八郎はあいまいな笑い方をした。「今日は僕は、特別なんだから――」

「トクベツ?」舌たるく女は反間した。

「そう。特別人間だ」

 ビール二本の酔いが、それでもほのぼのと廻ってきて、八郎はわざとキザな口調で答えた。そうすることに妙な快感もあった。

 壁間の大時計が、そうぞうしく六時を打った。その音が八郎の胸を、瞬間、ややいらだたしくかり立てた。今日の残りはいくばくもない。早くどうにかしなくては!

 金を払うだんになると女は、自分のぶんは自分で払うと言ってどうしてもきかなかった。そして取出した女の赤い金入れを見た時、何故だか八郎は突然自分の中から急速に欲望が衰えてゆくのを感じた。映画館で掌を握りしめたあの瞬間の気分が、急にほかのものにすり替えられてゆく。それは酔いと重なって妙にけだるい感じとして、八郎の身体にきた。

「パチンコでもやるか」

 表に出て八郎は何となく誘った。外はまだ明るく、街はひけ時でザワザワと混雑していた。

「でも――」女はちょっとためらう風(ふう)をした。「もう、帰らなくちゃいけない、とも思うし――」

「うちは何処。お父さんはいるの?」

「ううん。友達とふたりでアパート暮しよ。今夜はあたしが、晩飯の当番なんだから」

 そう言いながらも女はグズグズと、思い切り悪くついてきた。八郎は何かをしきりに確かめようとするような顔付になって、ゆるゆると人混みを歩いてゆく。肥った頸(くび)筋が酔いであかくなって、そこにぎゅっとカラーが食い込んでいる。

 裏街のパチンコ屋で、ひとしきりパチンコを弾(はじ)きながら、そこで十円札が三四枚減った。パチンコは八郎の手にしたがって、カラコロと回転した。歯の根も合わぬ、身の毛もよだつような絶大の快楽は、この世にはあり得ないのか。蒼然と衰えゆく夕光を感じながら、八郎は自分をはげますように、しきりにそう思っていた。なんだか妙に淋しく、また妙に切ない気分でもあった。今日という日が終ると、またあの物憂(う)い明日が始まるのだろう。その意識が八郎にはやり切れなかった。この金でいっそ旅に出てやろうか。そんなことも思う。れいの女は二三台向うで、憑(つ)かれたように熱心に、玉を弾いているのだ。赤いセータ。灰色のスカート。うすい靴下の色。眼鏡の下にぼったりとふくらんだ瞼。しっとりしめった冷たい皮膚。(あいつを今夜宿屋に連れこんで、裸に剝(む)きあげて――)彼はそれを横目で見ながら、けしかけるように力いっぱい玉を弾く。(そしてあの悪雲助が、かよわい女順礼をなぐさむようにして――)

 映画館の中でうす汚なく手を握り合った仲だから、そこらの落ちが似合いではないのか。強いて考えをそこに持って行こうとあせりながら、八郎はすべての気持を賭けるつもりで、最後の玉をパチンと弾き上げた。玉はカラコロと釘を縫ってむなしく底穴に吸い込まれた。

 

     

 

 

 鰻(うなぎ)屋の二附にのぼり、酒をさすと、女はいくらでも飲んだ。帰ることも忘れたような顔になり、さされるまま、つぎつぎと器用に盃を乾す。相当飲みなれた手付きであった。ほんとに妙な女だな。そんなことを考えながら、八郎も盃(さかずき)を乾した。向うでも、妙な男だな、と思ってるかも知れない。そう思っているうちに、酔いがふたたび急に廻ってきた。

(今日は俺は大金を持ってるんだぞ)

 それがしゃべりたくて仕方がなかった。しかし彼はそれは言わず、女のよく廻る舌や唇の動きばかり眺めていた。女はしきりにどこかの劇団の内幕をしゃべっていた。その合の手に、串をつまんで鰻を口に持って行く。鰻の肉はでっぷりふくらんで、ぎらぎらと不潔な色をたたえている。霜焼けした手を、それは何となく聯想(れんそう)させた。だから八郎はそれに手をつけず、塩豆ばかりつまんだ。――[やぶちゃん注:この段落の二箇所の「鰻」は実は「饅」となっており、ママ表記もないが、私は底本全集の誤植と捉え、特異的に訂した。]

「あんた、いい人ねえ。きっと善い人よ」

 その声が妙に乱れると思ったら、女も急速に酔いが廻ってきたらしかった。眼がすこし無邪気にとろけて、片肱(ひじ)を卓につき、いつか足をくずして横坐りになっている。白い下着がのぞいて見えるのだ。質素なその布地は、女の生活の陰影を彼にひたひたと感じさせた。

「なんだかあんたという人は、妙に安心できるわねえ。そうでしょ。皆そう言うでしょ?」

「――うん。皆もそう言うよ」

 じっさい会社でも、八郎はきもっ玉の小さな、善良な男として通っていた。自分のそんな性格に、八郎はいつも反撥と嫌悪をかんじているのであったが。

「そうだろうと思った。やはりあたしの眼に、狂いはないや」

 女はそんなことを言いながらしきりに手酌で盃をあけた。八郎も負けずに盃をあおる。そうすることで自分の嗜欲(しよく)をはげまし育てるかのように。女の語調が乱れて人を小莫迦(ばか)にしたような口をきき出すのが、ふしぎに耳にこころよかった。何もかも、もうどうでも良かった。深く立ち入って考えるのは面倒くさかった。そこで思ったままを、

「でも、善いっていうことは、意気地なしってことさ。な、そうだろ?」

「意気地なしだって、いいじゃないの。偉ぶってるのよりは、よっぽどマシよ」

 それからとろけた眼を据(す)え、女は何を思ったのか、ぐにゃぐにゃとなまめかしく坐り直し、両掌をついてこんなことを言ったりした。

「――この度は、ふしぎな御縁で、お近付きになりまして」

 鰻屋を出ると女はいきなり彼に腕をからませてきて、もう一軒自分が知っている店に行こうと言い張って聞かなかった。だから仕方なく彼もついて歩いた。足がすこしフラフラして街の燈がすべて茫とうるんで見える。彼はいつか腕を女の胴に廻していた。彼の腕の輪のなかで女の胴はくりくりと動いた。しかしそれは確かなようでいて不確かな感触でもあった。女は彼よりも二寸ほど背が低かった。[やぶちゃん注:段落頭の「鰻屋」も「饅屋」。同前の処理を施した。]

 女が連れて行ったのは、屋台ともつかぬ細長い小店であった。先客が二人ほどいて、なにかしきりにむつかしい議論をし合っていた。女はそこの女主(おんなあるじ)と顔見知りらしく、お互いにいくらかぞんざいな口の利(き)き方をした。

 運ばれてきたのは、焼酎(しょうちゅう)であった。コップの中でそれは透明に、ゆたゆたと揺れていた。女が先にちょっと口をつけて言った。

「あらあ。これ、焼酎じゃないの」

「だって、あんたは、いつも焼酎じゃないの」

「そりゃあそうだけどさあ」

 女は甘ったれたような声を出した。

「今日は友達を連れて来たんだからさあ」

「いいんだよ、僕も、これで」

 八郎は投げだすような口調で言った。ほんとにほんとに、どうでもよかった。店の奥手の小窓を通して、かすかな汽笛の音が八郎の耳に届いてくる。あの金で切符を買い、駅から中央線に乗って、どこか遠く遠くへ行ってしまう。八郎は粗末な板壁に頭をもたせ、そういうことを本気で空想し始めていた。青々とした山。つめたく鎮(しず)もる湖。小さな駅舎。トンネルや鉄橋。彼を乗せた汽車が、それらを縫ってぐんぐん走って行く。……

「こちら、おとなしいのね」

 女主(おんなあるじ)が糸切歯をちらと見せて、彼に笑いかけてきた。言葉の抑揚に、どこか上州方面の訛(なま)りがあった。彼はぼんやりと充血した眼を開いた。

「ああ。汽車に乗ることを、いま考えてたんだ」

「あら、どこかにご旅行なさるの?」

「旅行なんか、するものかあ」

 傍の女が乱れた声で口を入れた。もう彼女は二杯目を飲んでいて、動作もひどくだらしなくなっていた。片掌を宙に泳がせながら、誰にともなく、

「――こ、この人ねえ、あたしの手をねえ、握ったんだよう。こうやってさ、こんな具合にさあ」

 女の指がくねくねと動いて、彼の掌にからまってきた。彼は黙ってじっとしていた。あの時の女の態度と同じように。――女の指はほてって熱かった。やがて、ある虚(むな)しい哀感が、ほのぼのと彼の全身をつつんできた。彼は腕にすこし力を入れ、そろそろと女の指から掌を引き抜いて行った。この女はここに残して、おれはもう帰ろう。咄嗟(とっさ)にそう心に決めながら、その掌を伸ばしてコップを摑み、残りの液体を一息でぐっと咽喉(のど)に流しこんだ。強烈な液体は咽喉を灼いて、彼の食道に辷りおちて行った。

 

     

 

 ――夜の新宿の街を、彼はひとりでふらふらと歩いていた。残った紙幣束を片手にわしづかみにして、あてもなくよろめきあるいていた。汽笛の音がしきりに聞えるような気がするのだが、どこで鳴っているのか、頭の外側で鳴っているのか、頭の内側で鳴っているのか、それもハッキリとしなかった。そこらの時間の流れは、茫漠としてぼやけている。またどこかの店に入ったような気もするし、そうでないような気もする。

 ……ふと気がつくと、彼は輪タクのほろがこいの中に、上半身を半ば倒すようにして腰かけていた。ほろの外から、声が呼んでいる。[やぶちゃん注:「輪タク」自転車タクシーの通称。二輪車若しくは三輪車で。人力により乗客を運ぶもの。ウィキの「自転車タクシー」によれば、『終戦時の物資不足から燃料がわずかで、タクシーを走らすことができなかったことから』、『大正初期に生まれた「人働車」を新たに登場させたもので、その名称は、自転車を指す「銀輪」と「タクシー」という言葉の合成させたものからきている』。『日本における輪タク営業のはじまりは』、昭和二二(一九四七)年二月一日、『闇市を統率してきた関東尾津組が』二『人乗りの輪タク営業を東京で始めたもの』が最初『だといわれている』。『ちなみに営業当初は』二十四キロメートル十円で、その後、十月には二十円に『値上げされ』、一キロメートルごとに十円加算『となっていた。都電と都バスの料金が』五十『銭だった当時から考えると』、『高級な乗り物だった』。『その後、同じような営業が各地に広まり』、昭和二四(一九四九)年には、全国で七十(営業者・団体)を『超え、色々な種類の輪タクや業態が登場した。新潟市の厚生車では、リヤカーに一人用の幌をつけた急造的なもので、日中は駐輪場で、日暮れからは飲み屋などのある盛り場に停車場を設け、客を待つ日々だったという』。『輪タクの多くは』、昭和二六(一九五一)年から昭和二七(一九五二)年頃には殆んど姿を消し、見られなくなった、とある。本作は昭和二六(一九五一)年八月発表であるから、東京の輪タクの後・末期ということになろう。私は十数年前、ヴェトナムでバイクのそれに乗ったことはある。引用元のウィキにある、まず、本邦の昭和二十四年のものと思われる「輪タク」の写真をリンクさせておく。これで「ほろがこい」(幌囲い)の意味もお判り戴けるはずである。]

「且那、旦那。着きましたぜ。ここは下高井戸ですぜ」

 彼はもの憂く身体を起し、車体をゆるがせて、外によろめき出る。そしてポケットから紙幣のかたまりをわし摑(づか)みにとり出すと、いい加減に数えて輪タク屋にわたす。輪タク屋が車を廻して、元来た道へ戻ってゆくのを、立ったままとろんとした眼で見送っている。

「済まねえなあ。ほんとに」

 暫(しばら)くしてぼんやりと彼は呟く。

「折角一万円を落して呉れたのに、こんなダラシない使い方をしてさ」

 落し主がそこにいるかのように、彼は二三度空(くう)にむかって頭を下げる。それから上半身を曲げて、そこらの地面をうろうろと探し廻る。そして彼はやっと見つける。アスファルトがえぐれて、浅い凹地になっている。彼は紙幣束をぐっとかためて、そこに静かに置く。そしてそれを靴で踏みつける。力をこめて、何度も何度も。

「こうして置けば、明日誰かがこれを拾うだろう」

 彼は膝を上げて、ぐいと踏みおろす。

「拾った奴は、おれみたいじゃなく、うまくやれよな。ほんとに!」

 やがて紙幣束は、靴裏の泥に再びよごれて、ペチャンコになってしまう。

 それから彼の姿は、よろよろと街道を横切り、そこにある路地のなかに、ふらふらと消えてしまう。あとは人気(ひとけ)のない広い街道を、ねっとりした初夏の夜風が、ゆるやかに吹いているだけだ。

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 犬猫の幸不幸

 

   ○犬猫の幸不幸

いぬる十一月廿三日、内藤新宿なる旅籠屋橋本惣八が家にて、河豚を料理ける時、その骨・膓[やぶちゃん注:「はらわた」と訓じておく。]を、家のうらなる子犬と、家に飼うたる猫と、食ひけるに、忽、口より、白き淡[やぶちゃん注:「あは」と訓じておく。]をふき、「くるくる」とめぐり、七轉八倒して、いと、くるしげに見えし程に、犬は、そのまゝ死しぬ。猫は座敷へよろめき上りつゝ、折ふし、座敷の腰張をせんとて、「つのまた」といふものを煮て、盆に入れて置きたるを、此猫、その「つのまた」を啖ひけるに、見るが内に、くるしみの氣色、うせて、平日のごとくに、なりけり。これ、「つのまた」は、魚毒を解すものなるか。それをしりて、猫の食ひけるか。又は、くるしさのまゝに、何となく、くらひしか。自然と、「つのまた」の功によりて、魚毒を解したるにや。とまれかくまれ、犬は、不幸にして、死し、猫は、幸にして、免れたり。畜類すら、瞬遠の間に、幸不幸、かくのごとく、其數あるものなり。

 編者曰、「此間に數行を脫したるものなるべし。」。

   文寶、一首の秀歌をよみにき。そのうた、

 すこやかなみのを養ふ老らくにあやかりたきの音に聞きつる

この一條は、尾州名古屋人、田鶴丸ぬしの物がたりなれば、鶴のはなしを龜屋が聞きとり、「千秋萬歲、萬々歲。」と、目出度、筆をとゞむるになん。

  文政乙酉臘月朔   文寶堂散木しるす

[やぶちゃん注:「腰張」壁や襖の下半部に紙や布を張ること。

「つのまた」「鹿角菜(ツノマタ)」は紅藻植物門紅藻綱真性紅藻亜綱スギノリ目スギノリ科ツノマタ属ツノマタ Chondrus ocellatus 。古くから、含有する粘質物を漆喰や壁土などの粘着剤として使用されてきた。博物誌は私の「大和本草卷之八 草之四 鹿角菜(ツノマタ)及び海藻総論後記」を参照されたい。

「編者曰……」これは底本本書の親本である昭和二(一九二七)年から四年にかけて、関根正直・和田英松・田辺勝哉監修によって出版された際の編集者の挿入と思われる。確かに、突然、以下、まるで違う話になっており、その話も唐突な和歌から始まり、『鶴のはなしを龜屋が聞きとり、「千