「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 蛙料理 附・小学館編集者による最終「編註」 / 「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版再版本)~電子化注完遂
蛙 料 理
わたしはずゐぶんながいあひだ、地べたの下へもぐつてゐた
地べたの下からあたまを出して。
土鼠のするやうに
狡猾らしく展望することさへもしなかつた。
わたしはあかんぼのやうに冬眠した
わたしはほんとにすやすやとねむつた
そしてあつたかい寢床のなかでゆつくりかんがへた
いろいろな浮世のことをかんがへた
いろいろな娘たちのことをかんがへた。
いろいろな友だちのことをかんがへた
いろいろな食物についてかんがへた
ことにわたし自身の食物について‥‥。
わたしはわたしの食物の選擇をまちがへはしなかつた
けれどもわたしの料理本の第三ぺーヂにわづかの誤謬を發見した。
その發見がわたしを臆病にした。むしろ卑怯にはしなかつたけれども。
しかしわたしは幸福な蛙であつた。
わたしの眠つてゐるあひだに
わたしの頭のうへの地面を通行人がふみつけて行つた
みんなは幽靈のやうに步いてゐた。
そしてわたしはしづかに眠つてゐた。
またあるとき わたしは道化(おどけ)た夢をみた
わたしの仲のよい友だち‥‥人間どもの夢をみた
さしてひどくみすぼらしい おまけにひどく下卑(げび)たらしいけちな生物の夢をみた。
生物がうごめいた
それが人間の背中をちくりとさした
ああ なんたる珍らしい觀物だ
おろかの奴がそいつをひねりつぶさうとした
けれども賢い奴があはれな虱に唾をかけた。
わたしはまた風變りの夢をみた
けれどもみんな忘れはてた
さうしていまはうららかの春である。
なにもかも愉快である
さてわたしの食物はとびきり上等といふわけで
蛙料理のあたらしい書物がひらかれる
ふるい誤謬は校正された、これは訂正二版の新刊です。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。また、『遺稿』とし、制作年は『推定不能』とある。第三連目の空行は、底本では見開き改ページ部分に当たるのであるが、版組みから見ると、明らかに一行空けと判断される。但し、底本は製本が杜撰で(一部の右ページ終行や左ページの初行が、「のど」に食い込んでしまっていて、押し開かないと読めない箇所があることから、ここは、空行ではない可能性もある(しかし、以下の筑摩版全集を参照されたいが、そこでは空行位置が逆に後に一行ズレているのである)。
一方、筑摩版全集では、「未發表詩篇」の後ろから七つ前に配されているので、晩年の作の可能性が高いか。以下に示す。歴史的仮名遣の誤り・脱字・誤字はママ。太字は同前。
*
蛙料理
(たとへばなし)
わたしはずいぶんながいあいだ、地べたの下へもぐつてゐた。
地べたの下からあたまを出して。狡 土龍のやうに展望す
土鼠のするやうに。
狡猾らしく展望することさへもしなかつた。
わたしはあかんぼのやうに冬眠した。
わたしはほんとにすやすやとねむつた。
そしてあつたかい寢床のなかでゆつくりかんがへた。
いろいろな浮世のことをかんがへた。
いろいろな娘たちのことをかんがへた。
いろいろな友だちのことかんがへた。
わたし自身のいろいろな食物についてかんがへた。
ことにわたし自身の食物について……。
わたしはわたしの食物の選擇をまちがへはしなかつた。
けれどもわたしの料理本の第三ペーヂにわづかの誤謬を發見した。
その發見がわたしを憶病にした。むしろ卑怯にはしなかつたけれども。
しかしわたしは幸福な蛙であつた。
わたしの眠つてゐるあひだに、
わたしの頭のうへの地面を通行人がふみつけて行つた。
みんなは幽靈のやうに步いてゐた。
あなたたちがいつでもやつてゐるやうなあんばいで。
そうしてわたしはしづかに眠つてゐた。
またあるとき、わたしは道化(おどけ)た夢をみた。
わたしの仲のよい友だち……人間どもの夢をみた。
そうしてひどくみすぼらしい、おまけにひどく下卑(げび)たらしいけちな生物の夢をみた。
生物がうごめいた。
それが人間の背中をちくりとさした。
ああ なんたる珍らしい觀物(みもの)だ。
おろかの奴がそいつをひねりつぶさうとした
けれども賢い奴があはれなシラミにつばきをしかけた。
註(シラミは柳澤健)
わたしはまた風變りの夢をみた。
けれどもみんな忘れはてた。
そうしていまはうららかの春である。
なにもかも愉快である。
さてわたしの食物はとびきり上等といふわけで。
蛙料理のあたらしい書物がひからかれる。
ふるい誤謬は校正された。これは訂正第二版の新刊です。
(このたとへばなしを新扁詩扁の序に代ふ)
*
思うに、筑摩版の元となった詩稿と同じものであろうと推測する。詩篇本文ではない、三ヶ所の解説的挿入の「(たとへばなし)」「註(シラミは柳澤健)」「(このたとへばなしを新扁詩扁の序に代ふ)」は何んとなく小学館の編者が恣意的カットした感じがする。「そもそもが執筆年代推定不能であるからには、これを「序」とする「新扁詩扁」なるものが不明であること。「たとえへばなし」という意味深長な言葉遣いに加えて、個人名を出してしまっている点など、総合的に考えた時、カットするという判断に至ったとして肯ずることが私は出来る。
この「柳澤健」(たけし(但し、辞書類では「けん」とある) 明治二二(一八八九)年~昭和二八(一九五三)年)は外交官で詩人。当該ウィキによれば、『旧会津藩士で女学校校長』であった『柳澤良三の長男として福島県会津若松市に生まれる。会津中学校(のち福島県立会津高等学校)から一高、東京帝国大学仏法科に学び』、大正四(一九一五)年五月卒業後、『逓信省に入り』、『同年』十『月』には『文官高等試験に合格』した。『横浜郵便局長心得在職中の』大正八(一九一九)年四月に、一時、官吏を『辞職』した後、『大阪朝日新聞社に入社し』、『論説班に所属した』。『その後』、今度は『外務省に勤務し、フランス、イタリア、メキシコなどに駐在。外務省文化事業部第』二『課長や、新設された第』三『課(国際文化事業担当)の初代課長を務めた』。『ポルトガル公使館一等書記官を最後に退官し』、『日泰文化会館館長を務め』た(「泰」はタイのこと)。『その傍ら』、『大学時代に島崎藤村、三木露風に師事して認められ』、『詩人としても中央詩壇で活躍し「果樹園」、「柳澤健詩集」などを発表した』。『外務省文化事業部課長当時、日本ペンクラブの創設にも尽力し(初代会長は自らが敬愛する島崎藤村)、当時軍国主義路線で孤立しつつあった日本文化の伝播に努めた。退官後は評論家として活躍し、故郷会津地方の校歌も多数手がけ』た。『戦後は』「世界の日本社」を『設立し、豊田副武や池田成彬の回顧録などを出版した』とある。彼と朔太郎の不仲は、柳澤が朔太郎の属していた「人魚詩社」の友人で詩人の山村暮鳥と室生犀星への評論攻撃に起因するものである。ここでそれを詳しく取り上げる気はない。ただ、渡辺和靖氏の論文「萩原朔太郎の不安 ―『月に吠える』後半の課題(二)」(『愛知教育大学研究報告 人文科学』(一九九四年二月発行・第四十三輯所収・「愛知教育大学学術情報リポジトリ AUE Repository」のこちらからPDFでダウン・ロード可能)が、本詩篇を採り上げた上で、前後の事情を語っておられるので、参照されたい。而して、それを読む限り、本篇は晩年の作品ではなく、大正六(一九一七)年二月の詩集「月に吠える」の刊行よりも前に書かれたことが判り、その証拠として、大正五(一九一六)年六月号『狐ノ巢』(よく判らないが、前橋での同人誌のようである)に発表された筑摩版全集の「拾遺詩篇」中の以下の詩篇が、本篇と強い共時性を持っていることからも、立証されるのである。
*
諷詩
―人魚詩社の人たちに與ふ―
友だちはひどく歪んだ顏をしながら、
虱(しらみ)に向つて話をした。
『虱や、ご生だからたからないでおくれ、
私にしつつこくしないでおくれ、
おまへはほんとに不愉快だ』
そして痒ゆいところへ手をやろうともしなかつた。
この友だちは聖人だ。
*
なお、筑摩版全集第三巻の『草稿詩篇「未發表詩篇」』には、『蛙料理 (本稿原稿二種九枚)』として、一種が載る。以下に示す。以下、七段落から成るが、各段落の二行目以降は、底本では一字下げとなっている。「*みつめてゐた。//さがしてゐた。*」は二つのフレーズが並置残存していることを示す。
*
蛙の うた 感想料理
私は可成ずゐぶんながいあひた[やぶちゃん注:ママ。]、一年ちが[やぶちゃん注:ママ。]くのあひだも地べたの下へもぐりこんでゐた。尻地べたの下からあたまを出して泥鼠のやうに狡猾らしく展望することさへもしなかつた。わたしは蛙あかんぼのやうに冬眠した。そしていま春がきた。そしてわたしは地面の下で目をさました。
わたしはほんとによく眠つた。そしてつめたい、けれどもあたゝかい寢床の中でゆつくりとかんがへた。いろいろな浮世のことをかんがんた[やぶちゃん注:ママ。]。いろいろな女たちのことをかんがへた。いろいろな友だちのことをかんがへた。わたし自身の食物についてかんがんだ[やぶちゃん注:ママ。]。ことに私自分の食物について。
わたしはわたしの食物をのせんたくをまちがヘはしなかつた。けれども食物の料理本をの第三ページにわづかの誤謬を發見した。この發見はわたしを考へさせた。そ わたしはこの發見がわたしは[やぶちゃん注:ママ。]憶病[やぶちゃん注:ママ。]にした、むしろ卑怯にはしなかつたけれども
しかしわたしは幸福な蛙であつた。わたしの眠つてゐる間にわたしのあたまの上で上の地面をたくさんの人通行人がふみつけて行つた。またあるときはわたしの仲のよい友だちがわたしは不快 胸のわるい〉奇拔な夢をみた
ひよつとした加減で
わたしの仲のよい人間の友だちがと方もない馬鹿にみえた、
友だちその人間はほんとの人間素裸になつたてゐた、そしてなにかを*みつめてゐた。//さがしてゐた。*
*
なお、本篇底本の小学館版は、以上を以って詩篇本文が終わっている。
この後に、「詩作品年譜」が載るが、これは、代表的内詩作品、及び、本底本「遺稿詩集」に載せた詩篇の制作年月日・発表年雑誌名・雑誌年月をリスト化したものである。ただ、そうした書誌は筑摩版全集で、より正確に調べ上げられており、本底本所収に詩篇のそこにあるそれらのデータは総て、各詩篇の注の冒頭で述べておいたので、ここでは活字化しない。本底本の初版と変わらないので、見たい方は国立国会図書館デジタルコレクションのここから視認されたい。その内、本底本所収分の詩篇のデータは、ここの左ページの終りの部分からになる。
さて、ここが「詩作品年譜」の最終ページ(見開き)となるのであるが、その最後にある「編註」とあるものは、以上の「詩作品年譜」を解説するだけでなく、編集作業で小学館版の編者がどのような対象の遺稿ノートや遺稿原稿を扱ったか、推定年代は何を以ってしたか、といった非常に重要なことが書かれているため、以下にこれだけは、電子化することとした。字下げやポイント落ちは再現していない。]
編註。*年譜中に「原題」とあるのは、主として雜誌發表の際の題名を指す。*制作年代中に「何年推定」とあるもののうち、何らかの雜誌に發表せられあるものも何篇かあると思はれる。*「ノオト」とあるものは使用年代不明のノオトに書きつけられてあつたもので、推定によれば、これは主として大正二年ころより大正四年ころまでの作品と思はれる。*「遺稿」とあるは、原稿紙その他の紙片に書きつけられてあつたものである。*「何年推定」とあるものの推定基準は、主として使用せる原稿用紙に據つたものでこのうちの幾篇かには、推定年の外れてゐる作品もあると思はれる。
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