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2021/11/09

伽婢子卷之十一 隱里

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回は「新日本古典文学大系」版をトリミング補正した。見開きで三図(三双)もあるので、適切と思われる箇所に挿入した。]

 

   ○隱里(かくれさと)

 播州印南(いなみ)といふ所に、内海(うつみの)又五郞とて、武藝をたしなみ、弓馬の道に稽古の功(かう)を重ね、然(しか)も、その心根(《しん》ね)、きはめて不敵者なり。

 或時、思ふやう、

『片田舍に世を過(すご)さんには、人のため、名をしらるゝ事、あるべからず。都にのぼり、赤松を賴みて、公方に宮仕(《みや》つか)へ奉り、世の變(へん)に任せて、立身せばや。』

と思ひ立《たち》て、京都にのぼりしかば、

「赤松は、身まかりたり。」

と聞ゆ。

『さては。力なし。「後藤掃部(かもん)が宇治にあり」といふ。こゝに行《ゆき》て賴まん。』

と思ひ、足に任せて尋ね行《ゆく》。

 日、すでに、暮かゝり、道に踏み迷ひて、草原(くさはら)、小坂(こさか)を、さし越え、さし越え、「栗栖野(くるすの)」といふ所に出《いで》たり。

 遠近(をちこち)、人に、物申すべき影も見えず、猿の叫ぶ聲、かすかに聞え、狐のともす火、あたりにひらめく。

 こゝに、一つの堂あり。

 古へ、「太元帥(たいげんすゐ)の法」、おこなひける所とて、今も太元堂と名づく。

 柱、朽ちて、垣、傾き、木の葉、ちりつもり、軒(のき)破れ、まことに物凄き所なれども、行先も定かならず、立歸るべき道も覺えねば、堂の緣にあがりて、夜を明かす。

 

Kakuresato1

 

 亥の刻[やぶちゃん注:午後十時。]ばかりに、東の山際より、松明(たいまつ)ともして、人、多く來《きた》る。

 漸々(ぜんぜん)に近付(ちかづき)つゝ、太元堂に向ひて、步みよる。

 又五郞、思ふやう、

『かゝる所へ、夜更けて來る者は、ばけものなるべし。然らずば、盜人(ぬす《びと》)ならん。』

と怪しみ、密かに、天井に登り、息を靜めて居たりければ、廿人ばかり、さゞめきて、堂にのぼり、火を、たてたり。

 其中の大將と覺しくて、花やかに出立《いでたつ》たる者、一の座上にあり。

 その外の者、皆、おのおの、坐(ざ)したり。

 鑓(やり)・長刀《なぎなた》・弓なんど、手每(てごと)に持ちたるを、たて並べ、用心したる躰(てい)也。

 その貌(かほ)を見れば、皆、猿のたぐひにして、更に人間にあらず。

 又五郞、

『これは。疑ひなきばけもの也。一矢(《ひと》や)射ばや。』

と思ひて、携(たづさ)へもちたる、弓、取り直し、とがり矢をつがうて、

「兵(ひやう)」

と放つに、誤たず、上座にありける者の、臂(ひぢ)のかゝりに、したゝかに、たちたり。

 此者、大《おほき》に、驚き、聲をあげて、

「あら悲し。是は、そも、何事ぞや。」

と、いふ程こそありけれ、燈し火を打ち消し、あまたの者共、ふためき立て、ちりぢりに迯げ失せたり。

 物音、靜まり、跡も見えざりければ、夜の明《あく》るを待《まち》て、あたりを見るに、血、こぼれて、引《ひき》たり。

 又五郞、

『行末を見屆けばや。』

と思ひ、跡をとめて、南のかた、山を巡り、西をさして行けば、大なる穴のはたにして、とゞまる。

 いよいよ、あやしみ、かなたこなた、せし間(あひだ)に、今宵、すこし降りたるに、土、すべりて、踏みはづし、穴の内に落入《おちいり》たり。

 底、深く、岸、高うして、あがるべきたより、なし。

 いとゞ暗かりければ、

『こゝにて、死するより外は、なし。』

と、かたはらを探り見るに、橫に、穴あり。

 靜かに步みゆくに、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかりにして、明らかなる所に出たれば、月日の光り、常のごとし。

 一つの窟(いはや)に、石の門ありて、數十人、其門をかためて、番を勤む。

 其有樣は、今夜(こよひ)、太元堂に來りける者に、たがはず。

 番の者、驚き問ふやう、

「何人《なんぴと》なれば、こゝには、來りける。」

と。

 又五郞、

「是れは、播州より、此ころ、都に上り、醫師(くすし)を以つて、身のわざとす。藥をもとめて、山に分け入《いり》侍りしが、道に踏み迷ひ、思ひ掛けず、穴に落て、こゝに來れり。都に歸るべき道を、示し給へ。」

といふに、番の者ども、聞《きき》て、大に喜び、

「是は。まことに、天のあまたふる幸《さいはひ》也。我君、きのふ、たまたま、城を出て遊び給ふ所に、流れ矢の爲(ため)に、當りて、疵を被(かうふ)り、臥(ふし)給へり。療治して、給(たび)給へ。」

とて、内に呼び入れたり。

 宮殿(くうでん)、いらかを磨き、簾(みす)掛渡したる奧に、いざなふに、かのあるじ、苦しげなる聲にて、

「我、たまたま、出て遊ぶ處に、禍(わざはひ)、忽ち、身に迫り、運、傾(かたふ)きて、流れ矢に當り、毒氣、すでに、骨にとほり、痛む事、いふばかりなし。命、又、危(あやう)し。願はくは、一つの配劑を出して、此病《やまひ》を治し給へ。然らば、我、二たび、甦(よみがへ)りて、重ねて樂しみを受くべし。是れ、まことの大恩也。」

といふを見れば、毛はげて、大なる猿也。幾年經たり共《とも》、知られず、老いさらばうたる、いとゞ苦しげにて、吟(によ)び臥(ふし)たり。

 兩のかたはらに、二人の美人、あり、美しさ、限りなし。

 

Kakuresato2

 

 又五郞、立ちよりて、脉科(みやく)をとり、疵をなでゝ、

「少しも苦しからず。やがて、いゆべし。我に名方の藥あり。是れを服(ぶく)すれば、病を治するのみならず、長生不死の靈藥なれば、命を保ち、よはひを若(わか)やかになし、天地と共に久しからん。」

とて、腰につけたる火打ち袋より、丸藥を取出して、與へ、服せしむ。

 一類、みな、これを喜ぶ。

 殊更に、不老不死の藥と聞て、

「我等、かゝる神仙の人に、あふ事、まれ也。願くは、我等にも、給はれかし。」

といふ。

 袋を傾けて、分ち與ふ。

 多くの猿ども、爭ひ、うばうて、是れを、のみけり。

 元より此藥は、鏃(やじり)にぬりて獸(けだもの)を射るに、必ず、斃(たを)る、といふ大毒《だいどく》なれば、何かは、たまるべき、暫らくありて、皆、一同に倒れふして、血を吐き、前後を知らず、苦しみける所を、枕元に立てかけたる太刀を取り、片端(かたはし)より、切殺しけり。

 起上り、立ちあがらんとすれども、毒にあてられて、よろめきて、都合一類、大小三十六疋の猿、一同に殺し盡されたり。

「二人の女房も、同じ化物(ばけもの)の類(たぐひ)なるべし。諸友(もろとも)に、打ころさん。」

といふに、二人ながら、啼きていふやう、

「我らは、更に妖魅(やうみ)[やぶちゃん注:元禄版はひらがなで「ばけもの」。]の類《るゐ》にあらず。一人は、『醍醐』といふ所の並浦(なみうら)のなにがしが娘、今一人は、伏見の里に平田のなにがしといふ者の娘にて侍べる。思ひも寄らず、恐しき者のために、ばかされて、深き穴に、沈み惑ふ。迯げて歸るべき故鄕《ふるさと》の道も知らず、その儘、こゝにて死なん事を求むれども、かなはず、あさましき畜生のつかはれ者となり、六十日ばかり、このかた、夜(よる)となく、晝となく、悲しき物思ひを致し侍べり。君、今、是れ等を殺し給ふ。我等、二たび人間に立歸り、戀しき父母に逢ひまゐらせなば、是れぞ、大恩の主君なるべし。」

といふ。

 又五郞、すでに、ばけものは、打殺しけれ共、

「人間に立歸るべき道をしらず。いかゞすべき。」

と案じ煩ふ所に、白き裝束に、烏帽子着たる翁、十餘人、いづくより來《きた》るとも知らず、現はれ出たり。

「これは、此所(《この》ところ)に、久しくすみ侍べりし者どもなるを、近きころより、猿共に、住家をうばゝれ、食物・財寶、のこりなく、押領(あうれう)せられ、身のたゝずみもなくなり、はるかの傍らにすまゐして、妻子(さいし)・孫までも、世のうきめをみる事、『口おし』とは思ひながら、かれに敵對すべき力なければ、時節を待《まち》て、心をなだめし所に、君の、これらを退治し給ふ。此故に、我ら、二たび、この地のあるじとなり、いにしへのごとく、かへり住《すむ》べし。大恩、なに事か、これに勝(まさ)るべき。」

とて、手に手に、黃金をつゝみて、又五郞が前に、さし置く。

 そのかたちも、又、人にはあらぬ「くせもの」也。

 目は、まろく、口は、とがり、鬚と眉毛は、至りて長し。

 又五郞、いふやう、

「なんぢら、久しく此地に住みて、神通(じんづう)ありと、みゆ。いかなれば、猿にあざむかれて、すみかを、うばゝれたる。さて。なんぢら、まことは、何ものぞ。こゝをば何(なに)といふぞ。」

と、たづねしに、翁(おきな)こたへけるは、

「われらは、壽(いのち)五百歲を保ちて、一たび、變(へん)ず。彼等は八百歲を保ちて後に、一たび、變ず。此ゆへに敵對(てきたい)する事、かなはず。そもそも、我等は、これ、虛星(きよせい)の精靈(せいれい)として、大黑天神の使者也。此所は鼠(ねづみ)の住所《すみどころ》として、世に「かくれ里」と名づく。更に、人間にむかひて、害をなさず。功を積み、行(ぎやう)を滿(みて)て、天上に飛びかけり、仙境に出入して、自在神通のたのしみに、ほこる。しかるを、猿ども、あつまりて、年をかさねて、惡行をなし、人のむすめをとりて、をのれが心をなぐさみ、物を害し、禍ひをなす。その科(とが)あらはれて、一類、同じ所に、亡びたり。天道、すでに、君が手をかりて、ころしたまふものなり。天道の所爲(わざ)にあらずは、君、何として、ほろぼし給はん。君、しばらく、目をとぢ給へ。我ら、送りて、人間にかへしまいらせん。」

といふ。

 

Kakuresato3

 

 又五郞、目をふさぎければ、女二人と又五郞を、うしろに、かきをひ、道をすゝめば、雨風あらく、こゑ、さはがしくきこえて、目をひらくに、ひとつの白き大鼠、そのほか、十四、五ばかりのねづみ、大さ、豕(ぶた)のごとし。

 地を掘(ほり)、穴を穿(うがち)て、野原に出たり。

 道ゆく人に、

「こゝは、いづくぞ。」

と、とへば、

「木幡(こはた)山のふもと也。」

といふ。

 二人のむすめを親のもとに送り返せば、親、大によろこびて、又五郞を兩家の聟とす。

 又五郞、それより、武門の望みを離れ、富裕安穩(あんおん)の身となりぬ。

 後に又、木幡山の野はづれを尋ぬるに、歸り出たる穴は跡もなく、松・茅(かや)しげり、草むら閉ぢたるばかり也。

 又五郞は、後、終に、子もなく、その行がたを、しらず。

[やぶちゃん注:「播州印南(いなみ)」現在、兵庫県加古郡稲美町(いなみちょう)印南(いんなみ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)があるが、「今昔マップ」でこの附近を見ると、「印南新」という地名が見え、「新日本古典文学大系」版脚注では、『兵庫県加古川市右岸一帯から高砂市にかけての地域。西国往還の要路「印南 井ナミ」(書言字考・自筆校本)』とあることから、最初の地図で示した附近の広域地名ととるのが良いようである。

「内海(うつみの)又五郞」不詳。

「赤松」赤松氏は村上源氏の一流で、播磨の豪族。九条家領播磨国佐用郡佐用荘赤松村を本拠として赤松氏を称し、則村の時、後醍醐天皇の命に応じて討幕の兵を挙げ、後に足利尊氏に属して播磨守護となった。その子範資は摂津守護、則祐は播磨・美作・備前の守護となり、幕閣に重きをなした。しかし、則祐の孫満祐が、嘉吉元 (一四四一) 年、将軍義教を暗殺したため、幕府軍に攻められて自殺して後、一族は没落した。しかし、その後、政則の時、将軍義政の許しを得て、家を再興、「応仁の乱」には東軍の将として活躍し、播磨・備前・美作を回復した。しかし、その死後は、家臣浦上・宇喜多両氏に勢力を奪われ、則房の死後は、後嗣がなく、断絶し、庶流の赤松広通も「関ヶ原の戦い」で西軍に属して、戦死し、断絶した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。後に出る「宇治」にいる「後藤掃部(かもん)」が判明すれば、時制を限定出来ると思ったのだが、彼は不詳(「新日本古典文学大系」版脚注も「太平記」に『文和四』(一三五五)『年の畿内における合戦で、北朝方に播磨国の住人後藤三郎衛門尉基明という強弓武士の名がみえる』等、他に二人の人物を挙げるも、『不詳』とする)で、結局、本篇の話柄内時制を限定する役には実は全く立たない。

「草原(くさはら)」「道に踏み迷」うているわけで、地名ではなく、一般名詞。

「小坂(こさか)」同前で、小さな坂。

「栗栖野(くるすの)」京都府京都市山科区栗栖野打越町(くりすのうちこしちょう)附近か。宇治のかなり北である。既にして、異界への通路に既に向かっていたという設定であろうか。

「太元帥(たいげんすゐ)の法」真言密教の大法の一つ。口伝では「帥」の字を読まずに「たいげんのほう」と読むという。悪獣や外敵などを退散させる力を持つという大元帥明王(鬼神)を本尊として鎮護国家・敵軍降伏のために修する法で、承和六 (八三九) 年に常暁が唐から伝えた。仁寿元(八五一)年以降は正月八日から七日間に亙って朝廷で修せられ。また「天慶の乱」(「承平・天慶の乱」は平安中期に時を同じくして起った平将門・藤原純友の反乱。天慶四(九四一)年に小野好古(よしふる)らによって鎮圧された)などにも修法が行われた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「太元堂」「新日本古典文学大系」版脚注に、『京都市伏見区小栗栖北谷町』(おぐりすきただにちよう:ここ)『にあった法淋寺(正徳』江戸前期の一七一一年から一七一六年まで)頃には『廃寺か)。かつて大元帥秘法を行なった場所』とある。先の「栗栖野」の南に当たるので位置的な齟齬はない。

「臂(ひぢ)のかゝり」腕の上肘(うえひじ)と下肘との間の関節附近。

『こゝにて、死するより外はなし。』は不吉な言葉であるので、言挙げしたとは思われないから、心内語とした。

「宮殿(くうでん)」この読みは確かにあるが、それは「神を祀る宮。或いは、仏像などを納める厨子の社殿式の立派なもの」の意である。「新日本古典文学大系」版脚注では、『「クゥデン 豪華な宮殿(日葡)』とする。「吟(によ)び臥(ふし)たり」「新日本古典文学大系」版脚注に、『うめき苦しんで臥すこと。「吟 によふ」(大全)』とある。

「何かは、たまるべき、」この「たまる」は「溜まる」の特殊な用法で、多くは下に打消の語や反語表現を伴って、「持ちこたえる」「保つ」「我慢する」の意。「どうして持ちこたえることができようか、いや、出来ようはずもなく、」の意。

暫らくありて、皆、一同に倒れふして、血を吐き、前後を知らず、苦しみける所を、枕元に立てかけたる太刀を取り、片端(かたはし)より、切殺しけり。

 起上り、立ちあがらんとすれども、毒にあてられて、よろめきて、都合一類、大小三十六疋の猿、一同に殺し盡されたり。

「二人の女房も、同じ化物(ばけもの)の類(たぐひ)なるべし。諸友(もろとも)に、打ころさん。」

「醍醐」京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある醍醐寺周辺。先行する地名とも近場である。

「伏見」前注のリンク参照。

「人間に立歸り」及び後の「人間に立歸るべき道をしらず」や「人間にかへしまいらせん」などは、私は「じんかん」と読みたくなる。「新日本古典文学大系」版は二箇所とも「にんげん」と読ませている(前者にのみ「にんげん」のルビがある)。無論、六道の「人間道」は「にんげんどう」であるから、正当な読みなのではあるが、どうも「にんげん」の現代の響きは、「人間世界」のニュアンスよりも「単体・総体の生物種としてのヒト」のイメージが強過ぎ、「立歸」る対象としての人間世界の雰囲気を醸し出すには、当時もあった「じんかん」の方が躓かないと私は考えるからである。実際にこれを朗読すれば、聴衆の半数以上は、「にんげん」という読みでは、反射的に首を傾げてしまうと判断するからである。

「虛星(きよせい)」虚宿(きょしゅく/とみてぼし)は二十八宿の一つで、北方の玄武七宿の第四宿。主体となる星官(星座)としての「虚」は「みずがめ座β」、「こうま座α」の二星から構成される。獣は、ズバリ、鼠を当てる。

「木幡(こはた)山」「新日本古典文学大系」版脚注に、『古くは宇治市の木幡』(こばた:ここ)『一帯を指し、後に西方の伏見山一帯をも含む。別称に「松原山」、或いは伏見城廃城後の「古城山」「桃山」など』があり、『歌枕』で、『京、宇治間の難所』とある。地理上の展開に於いては齟齬は全くない。

「又五郞は、後、終に、子もなく、その行がたを、しらず」異界に触れた人間は洋の東西を問わず、必ず、まともな最期は迎えず、失踪するのがお約束である。

  なお、最後に言っておくと、私は最後の巨大鼠に乗せられて、人間(じんかん)に戻る又五郎と攫われて使役されていた二人の女の図を、次話の「土佐の國狗神   金蠶」の挿絵と一瞬勘違いしていた(ぼーっとし見ていて巨大鼠を犬と勘違いしたのである)。それを笑われるのであれば、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)を見られるがいい。そこで岩波書店の編集担当者は、真逆の致命的誤謬をやらかしているからである。同書では「伽婢子」は抜粋版で本「隱里」は採用されていない。ところが、この本篇の第三図が逆に「土佐の國狗神   金蠶」の挿絵として掲げられ、実際の正しい(付属する「金蠶」の地味な挿絵一枚のみである)挿絵は採られていない。これは編者が私と同じくこの挿絵を「犬神」の絵と誤認したことを示すものである。360ー361ページだ。今も改版していないようだ(しかも私が初版を買った値段の今は倍近い)。見て御覧な。

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