曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 瑞龍が女兒
[やぶちゃん注:これも国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記」の巻第三下に載るので、それを底本とした。読みの一部は送り仮名に出した。同前で歴史的仮名遣の誤りはママ。発表は同じく琴嶺舎滝沢興継。]
○瑞龍(ずいりよう)が女兒(むすめ)
寬政・文化の間[やぶちゃん注:一七八九年から一八一八年。間に享和が挟まる。]、軍書を講談して生活にしたる瑞龍軒(ずいりやうけん)は、前の瑞龍が子にて、馬谷(ばこく)・百輅(ひやくろ)等が姪(をい)なり【第一前の瑞龍・第二馬谷・第三百輅、この三人は兄弟なり。百輅は吾山が社中にて、俳諧の判者なり。この中、馬谷、尤も世に知られたり。】。當時、「中山(なかやま)物語」といふ俗書の、世に行はるゝありけり。こは、京師の人の手になりたるにや。あらぬ事をのみ書つめて、禁忌に觸るゝことの、多(さは)なるを、竒(き)を好むもの、虛實をも得考ぬ、俗客の玩(もてあそ)ぶこと、少からず。こゝをもて、貸本屋などいふ者は、二本も、三本も、寫し取て、此處彼處(こゝかしこ)へ、貸したりければ、官[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、ひらがなで『おほやけ』とある。]にも聞し召れて、嚴禁を加へられ、寫し取たる本屋どもは、御咎(おとがめ)を蒙りて、寫本は、すべて、燒き捨てられ、そを取り扱ひたる[やぶちゃん注:底本は「取扱(とりあつか)たる」。吉川弘文館随筆大成版で訂した。]者どもには、各[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版はひらがな踊り字で『おのもおのも』。]、過料をたてまつらしめ給へり。こは享和[やぶちゃん注:一八〇一年から一八〇四年まで。]中の事にぞ有ける。かくて、文化中に至りて、件(くだん)の瑞龍軒、難波町わたりなる居宅にて、かの「中山物語」を講談してけり。その書は曩(さき)に禁斷せられて、見まくほしとおもふ者も多かりけるにや、夜每に人のつどひ來て、聽くもの、おびたゞしかりけるを、市(いち)の尹(かみ)[やぶちゃん注:町奉行。]より、隱密(いんみつ)に人を遣はして、聽衆(ちやうしゆ)にうちまじらしつゝ、夜每に聞かしめられしを、知るもの、絕へてなかりし、とぞ。かくて、はや、その講談も、この席を限りにて、講じ訖(おは)ると聞えし霄(よい)の程、瑞龍は、その席にて、忽ちに、搦(から)め捕られて、やがて獄舍(ひとや)に繫がれけり。扨、事の顚末をおごそかに問はれしに、「件の書はちかき比、反故(はんこ)中より獲(え)たりしかば、世わたりの爲にせんと思ひし外(ほか)は候はず。禁斷せられし者ならんとは、かけても知らず候ひき。」と、恐る恐る、陳(ちん)じかども、「その書を禁止せられしが、數十年前のことならばこそ、遠くもあらぬ事なるを、『知らず』と申すことやは、ある。知りつゝ講談したりしは、不屆(ふとゞき)なり。」と讞斷(けんだん)[やぶちゃん注:吟味の上で処断されること。]せられて、「遠島にや流さるべき。」、「市(いち)にや棄てられん。」などとて、世評もまた、まちまち也。しかるに、瑞龍に、ひとりの女兒(むすめ)あり。この年、甫(はじ)めて[やぶちゃん注:「未だ」の意か。]、十二、三歲なるべし。その性(さが)、孝順なりければ、父の禁獄せられしより、號哭(がうきう)して、寢食をおもはず。町役人等、もろともに、「おほん慈悲願ひ」とかいふよしをもて、願文(ねぎぶみ)を捧げつゝ、市の尹の廳(ちやう)にまゐる每に、「みづから、親の罪にかはらん。」と、乞ひまうして、哀傷悲泣、人の視聽を驚し[やぶちゃん注:「おどろかし」。]、追(お)つ立てらるれども、得退(えしりぞ)かず、死をだも、辭せぬ有さまなれば、人みな、不便(ふびん)におもはぬは、なし。この事、度(たび)かさなりけるまゝに、おほやけにも、その孝信をあはれませたまひけん、瑞龍は、思ひしより、その罪、かろく定められて、遂に追放せられけり。「こは、またく、むすめの孝行ゆゑなり。」とて、親も歡び、人も嘆賞する程に、件のむすめは、ある豪家(ごうか)の子の婦(よめ)に懇求(こんきう)せられて、ゆくりなく、よすが、いで來しかば、瑞龍も、その家より、扶助(ふじよ)せられて、「おんかまひ」の場所ならぬ近鄕に、半生を送ることを得たり、とぞ聞えし。夫、孝は百行の本(もと)なり。至尊は、これをもて、民に敎へ、士庶も亦、これによりて、身を脩む。その國を治め、家を齋(とゝの)ふるの要道、なのことか、亦、これに加へん。感ずるに、猶、あまりあるものは、かの孝男女のうへにあらずや。
[やぶちゃん注:「瑞龍軒」滋野瑞龍軒。有名な講釈師らしい。
「馬谷」初世は森川伝吉(正徳四(一七一四)年~寛政三(一七九一)年)。瑞龍軒の弟で以下の百輅の兄。講釈師。講釈師の興行形態を確立した人物らしい。
「百輅」上記以上のことは不明。
「吾山」(ござん 享保二(一七一七)年~寛政元(一七八九)年)は俳人。会田氏、後に越谷(こしがや)氏を名乗った。武州越谷の生まれ。当初は柳居に、後に鳥酔に兄事した江戸座(沾徳(せんとく)座)の点者。編著に「翌桧」「朱紫」などがあるが、何より、方言研究書として知られた「物類称呼」(安永四(一七七五)年)刊)の作者としてとみに知られる。
「中山(なかやま)物語」不詳。
底本ではここで終わっているが、吉川弘文館随筆大成版では、以下の後書がある。]
そもそも、この「兎園小說」は、去歲のしはす下つかたに、家嚴の、かりそめに思ひ起しゝを、まづ、北峯ぬし[やぶちゃん注:好問堂山崎美成の号。]にかたらひつゝ、この春、諸君の同意を得てしより、月每の集會、間斷なく、今は、はや、十有二集に滿つるになん。『この滿會には、何をか書かん。』と思ふも、をこの、すさみながら、こゝに孝義の三編を綴れるよしは、是をもて、自、警め[やぶちゃん注:「いましめ」。]、且、人の子の「いましめ」にもなれかし、とての、わざなりける。
時文化八年乙酉冬十二月朔 呵硏擢墨沐書於神田鳳簫菴 琴嶺興繼
[やぶちゃん注:「文化」は以下の干支から「文政」の誤り。
以下は吉川弘文館随筆大成版にある全く以上とは関係のない追記。]
甲申[やぶちゃん注:文政七(一八二四)年。]十二月八日「耽奇漫錄」追加
予が家に藏弃せる達磨の木像は、「雲慶作」とあり。曩に、家嚴、此木像を「耽奇會」に出だしゝ折、「雲慶・運慶別人なる事、且、雲慶は何れの世の佛工なるや、未詳。」のよしを書れたり。しかるに、きのふ、たまたま「鎌倉志」を繙閱[やぶちゃん注:「はんえつ」。]せしに、「卷の二」、「光觸寺」の本尊「頰燒阿彌陀」の緣起の條に、『建保三年、京都に大佛師あり。雲慶法師と號す云々』とあり【この下にも、『雲慶云々』と書けること、三ケ所、見えたり。】。本文によりて考ふるに、運慶・雲慶、同人なるべし。もし、運慶、はじめは「雲」を書き、後に「運」の字に改めたるか。さらずは、緣起の誤りか。「志」に、その辯、なければ、いかにと、定めがたけれども、こも亦、一勘に備ふべし【この一條は、「耽奇錄」中に、しるしおかれんことを、希ふのみ。】
琴嶺 再識
乙酉抄月兎園納會
[やぶちゃん注:「耽奇漫錄」同書は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで見られるが、どの記事の追加であるのかは分からなかった。
「鎌倉志」『「卷の二」、「光觸寺」の本尊「頰燒阿彌陀」の緣起の條に、『建保三年、京都に大佛師あり。雲慶法師と號す云々』』「光觸寺」(こうそくじ)は私が鎌倉の寺の中で最も偏愛する寺である。ここ(グーグル・マップ・データ)。私の「新編鎌倉志卷之二」の「光觸寺」の冒頭部を引く。
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○光觸寺【熊野權現小祠。】光觸寺(クワウソクジ)は、藤觸山(トウソクザン)と號す。道より南也、開山は一遍上人、藤澤の淸淨光寺の末寺也。堂に光觸寺と額あり。後醍醐天皇の宸筆也。《頰燒阿彌陀》本尊阿彌陀〔運慶[やぶちゃん注:☜。]作。〕。觀音〔安阿彌作。〕・勢至〔湛慶作。〕此本尊を頰燒(ホウヤケ)阿彌陀と云也。縁起の略に云、順德帝、建保三年、京都に大佛師有り。雲慶[やぶちゃん注:☜。]法印と號す。將軍右大臣家の招請に因て下向の刻鎌倉佳人すくりの氏女町の局(ツボネ)、時に年(トシ)卅五。雲慶[やぶちゃん注:☜。]に對面して、此佛を作(ツク)らしむ。四十八日を限り、成就せん事を願(ネガ)ふ。雲慶[やぶちゃん注:☜。]其の言に隨て成就す。[やぶちゃん注:以下略。]
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「抄月」この時の「兎園会」は文政八年十二月一日に馬琴邸で開かれているが、旧暦十二月の異名にこれは見当たらない。似たものに「杪冬」(びょうとう:現代仮名遣)があるが。]
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