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2021/11/12

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) いきの數 えそ鶸圖考 三十一字

 

[やぶちゃん注:この部分、錯雑しており、まず、「いきの數」(ヒトの呼吸数)考証があり、その後に「麻布村學究」と署名する目次で次に出る「麻布の異石」が挟まり(輪池堂が携えてきた文書とする馬琴のものらしい後書がある)、その後に輪池堂の「蝦夷鶸」の考証、さらに短歌の音数の考証がある。「麻布の異石」は目次で次に挙げられているので、ここはそれを後に回し、後の二考証を合わせて示す。

 

   ○いきの數 えそ鶸圖考 三十一字

人の息の數、西土諸家の跡、おなじからず。一晝夜に一萬三千五百息【一呼吸を一息とす。】といへるは、古來の說なり。或は二萬五千二百息といひ【「天經或問」。】、或は三萬六千五百息といふ【「詈意經」。】かくの如く、大異同あるによりて、人の疑ふ所なり。弘賢、これを試みしに、人の長短によりて、おなじからず。五人、試みしに、第一長大の人は一萬八千六百息、其次は二萬二千五百六息、至りて短少の人は、三萬四千七百四息にいたれり。其次は二萬二千八息、然れば、古來、一萬三千五百息といひ、多きに至りて、三萬六千五百息といへるも、共に、僞[やぶちゃん注:「いつはり」と訓じておく。]にあらざるべし。

「醫賸」【多紀安長著。】曰、『人一日一夜。凡一萬三千五百息。方以智云。『窮ㇾ之葢洛書之數也。而攷諸書其數不ㇾ一。』。張景「醫說」。『一萬三千五百二十息。』。「小學紺珠」。引胡氏易說。『一萬三千六百餘息【朝鮮「金悅卿梅月堂集」云。『人一日有一萬三千六百呼吸。一呼吸一息。則一息之間。潛奪天運[やぶちゃん注:以上の返り点位置は後注に示した「醫賸」原本で訂した。]一萬三千五百年之數。一年三百六十日。四百八十六萬息。』。】。』。「天經或問」。『二萬五千二百息。』。呂藍衍「言鯖」云。『一氣之運行。出二入於身中。一時凡一千一百四十五息。一晝夜。計一萬三干七百四十息。』。「釋氏六帖」。引「詈意經」[やぶちゃん注:底本は『詈息経』だが、同前原本で訂した。]云。『一日有三萬六千五百息也。』。何夢瑤「醫碥」云。『「内經」曰。『脈一日一夜五十營。營。運也。「經」謂人周身上下左右前後。凡二十八脈。共長一十六丈二尺五十運。計長八百一十丈。呼吸定息脈行六寸。一日夜行八百一十丈。計一萬三千五百息。』。按此僞說也。人一日夜。豈止一萬三千五百息哉。據何之言。佛說・西說。並多於一萬三千五百。未ㇾ知以ㇾ何爲實數也。』。

  乙酉歲暮兎園之一       輪 池

[やぶちゃん注:平均回数を数えることには、余り意味がない気がするが、ネット上の信頼出来そうなものを探ると、一般的な成人の一日の呼吸回数は約二万回から三万回で、平均的な一回あたりの呼吸量を五百ミリリットルとして計算した場合、一日に二十キログラムの空気を体に取り込んでいるとあった。漢文部の訓読を試みる。頗る読み難いので、段落を成形した。

 なお、調べる内、これは最後まで、冒頭にある多紀安長著「醫賸」(書名は「いしょう」(現代仮名遣))からの完全引用であることが判明した。作者は医師多紀元簡(たきもとやす 宝暦五(一七五五)年~文化七(一八一〇)年)で、元簡は諱、長じて安清・安長と改めた。医師多紀元徳(藍渓)の長子として生まれ、儒学を井上金峨に、医学を父について修めた後、安永六(一七七七)年に将軍徳川家治に目通りが許され、寛政二(一七九〇)年には、老中松平定信に、その才を信任され、奥医師に抜擢、法眼に叙せられて、徳川家斉の侍医となった。寛政三(一七九一)年)に父の主宰する躋寿館が官立の医学館となると、その助教として医官の子弟の教育にあたった。寛政六(一七九四)年に御匙見習となり、寛政一一(一七九九)年に父が致仕し、家督を相続、同年八月には同族の吉田沢庵とともに晴れて御匙役となったが、享和元(一八〇一)年、医官の選抜に関して不満を直言したため、奥医師を免ぜられて寄合医師に左遷された。文化三(一八〇六)年に医学館が類焼し、下谷新橋通(向柳原町)に再建し転居した。文化七(一八一〇)年には、再び、奥医師として召し出されたが、その年の十二月に急死した。享年五十六。「醫賸」は文化六年に「櫟蔭拙者」(れきいんせっしゃ)の名で刊行された全漢文の医学書である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」で原刊本が見られ、その「上巻」PDF)の23コマ目の「息數不同」がそれである。

   *

 「醫賸」【多紀安長著。】曰はく、

『人、一日一夜、凡そ一萬三千五百息たり。

 方以智(はういち)云はく、『之れ窮まるに、葢し、洛書の數なり。而して、諸書を攷(かんが)ふるに、其の數、一(いつ)ならず。』と。

 張景が醫說に、『一萬三千五百二十息たり。』と。

 「小學紺珠」、胡氏が「易」の說を引きて、『一萬三千六百餘息【朝鮮の「金悅卿梅月堂集」に云はく、『人、一日、萬三千六百の呼吸、有り。一呼吸は一息とせば、則ち、一息の間は、潛かに天運を奪ひて、一萬三千五百年の數たり。一年三百六十日とせば、四百八十六萬息たり。』と。】。』と。

 「天經或問(てんけいわくもん)」、『二萬五千二百息たり。』と。

 呂藍衍(りよあいえん)が「言鯖(げんせい)」に云はく、『一氣の運行、身中に出入するは、一時に凡そ一千一百四十五息たり。一晝夜に、計、一萬三干七百四十息たり。』と。

 「釋氏六帖(しやくしりくじやう)」、「詈息經(りそくきやう)」を引きて云はく、『一日、三萬六千五百息有るなり。』と。

 何夢瑤(かむやう)が「醫碥(いへん)」に云はく、『「内經(だいけい)」に曰はく、『脈、一日一夜、五十營たり。「營」は「運」なり。「經」に謂(いへら)く、「人、周身・上下・左右・前後、凡そ二十八脈あり。共に、長さ、一十六丈二尺五十運たり。計、長さ、八百一十丈たり。呼吸の定息・脈行は六寸。一日夜行、八百一十丈。計、一萬三千五百息たり。』と。

 按ずるに、此れ、僞說なり。人、一日夜(いちじつや)、豈に、止(とど)むるに一萬三千五百息とは、何の言(げん)に據(よ)るや。佛說・西說、並して一萬三千五百よりも多し。未だ、何を以つて實數と爲(な)すかを、知らざるなり。

   *

「西土」「せいど」で、中国・インド・西洋などを指すが、ここは前二者。

「方以智」(一六一一年~一六七一年)は明末清初の思想家。翰林院検討となるも、満州族の侵略に遭い、嶺南の各地を流浪した末、清軍への帰順を拒んで、僧侶となった。朱子学の格物窮理は事物の理を探究するには不十分だとし、当時、渡来していたジェスイット宣教師たちから、西洋の学問を摂取し、また、元代の医師朱震亨(しゅしんこう)の相火論や、覚浪道盛の尊火論に基いて、あくまで事物の「然る所以の理」を探究する方法としての「質測の学」と、形而上的真理の探究の方法としての「通幾」を唱えた。

「洛書の數なり」所謂、「洛陽の紙価を高める」(晋の左思が「三都の賦」を作った時、これを写す者が多く、洛陽では紙の値が高くなったという「晋書」の「文苑伝」にある故事から、「著書の評判がよくて売れ行きのよいこと」の喩え)に引っ掛けた謂い。中華最大の洛陽で売られている書物の数ほどに莫大な回数だというのであろう。

「張景」生没年不詳。二世紀中頃から三世紀初頭頃の中国の医家。「傷寒論」・「金匱要略」(きんきようりゃく)の著者で、中国医学に於ける医方の祖として「医聖」とされる。医学を張伯祖に学び、治療に優れ、特に経方(けいほう)に精通していた。後漢の霊帝(在位一六八年~一八九年)の時に科挙試の孝廉に挙げられ、後に長沙太守となった。都洛陽にあった頃より名医の評判をとっていた。

「小學紺珠」(しょうがくこんじゅ)は南宋の学者で清朝考証学の先駆とされた王応麟(一二二三年〜一二九六年)]の著になる、原文を管見した限りでは、一種の類書のようである。

『胡氏が「易」の說』南宋胡一桂撰の易の注釈のようである。書名ではないと判断した。

「金悅卿梅月堂集」李氏朝鮮初期に活躍した文人金時習(きん じしゅう/キム・シスプ一四三五年~一四九三年:明の瞿佑(くゆう)の優れた志怪小説「剪灯新話」の影響を受けて作られた短篇小説集「金鰲新話」(きんごうしんわ)が知られる)の撰になる膨大な随筆や詩文集。道家の内丹術の記載なども豊富にあるらしい。

「潛かに天運を奪ひて」膨大な呼吸数が、ひそかに、人間の寿命数のレベルを遙かに超えていることを言っているように思われる。数値の対照を好むのは古代中国以来のお約束である。

「天經或問」は清初の一六七五年頃に成立した、西洋天文学・宇宙論の入門書。著者は游藝(游子六)で、イエズス会宣教師が伝えた天動説・地球球体説及びティコ・ブラーエらの説を紹介している。中国本国よりも江戸時代の日本で盛んに読まれ、後の一六八一年頃に成立した続編「天経或問後集」と区別するために、「天経或問前集」とも呼ばれる(詳しくは当該ウィキを参照されたい)。

「呂藍衍(りよあいえん)」清代の文人呂種玉の字(あざな)。

「言鯖(げんせい)」随筆か。

「釋氏六帖(しやくしりくじやう)」五代後晋の僧侶釋義楚撰になる博物誌的な仏教類書。九五四年に朝廷に献上されている。

「詈意經(りそくきやう)」「大蔵経テキストデータベース」で確認出来た。

を引きて云はく、『一日、三萬六千五百息有るなり。』と。

「何夢瑤(かむやう)」(一六九三年~一七六四年)は清代の医師。

「醫碥(いへん)」「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、以下の引用部が影印本で読める。

「内經(だいけい)」「黃帝内經」。中国最古の医書。黄帝に仮託した、戦国時代から漢にかけての医学知識の結集で中医のバイブルとされる。本来は全十八巻で「素問」と「霊枢」からなる。「素問」は生理・病理・衛生を論じ。「霊枢」は針治の法を説く。流布本は唐代の二十四巻本で、「素問」には別に「黄帝内経太素」三十巻があり、本邦の仁和寺に、その古抄本が伝わっている。

 底本では冒頭に注した通り、行空けなしで、「麻布の異石」が続く。以下が「蝦夷鶸」の考証。]

 

先會に今日の主[やぶちゃん注:当兎園会文政八年十二月一日に著作堂滝沢馬琴宅で開催されている。]の出だされし無名鳥、假に「蝦夷鶸」と名付けられしを[やぶちゃん注:不詳。或いは前回の「蝦夷靈龜 蝦夷靈龜考異」で海棠庵に口出しした際に、発会の場で言及されたが、活字にはならなかったものかとも思われる。]、當直の日、携へ出でゝ、或侯に見せ參らせしかば、「是は『しまいすか』といふ鳥なり。熊本侯の寫眞の中に見えたり。依りて、今は『蝦夷いすか』と、よぶなり。倂ながら、此圖は、尾のきれたる鳥を見てうつしたり。長き尾のさきの、さけたるあり。」と、のたまふ。さらば、「全圖をかし給はらむ」事を乞ひ申しゝに、「今は、人に貸したれば、返されし時、かしてん。其とり、某候に雌雄かはせ給へば、參りて見るべし。」と、のたまふ。則、某侯に乞ひ申しゝかば、「いつにても。」と許させ給ふによりて、二、三日過ぎて參りしかば、「さも。」と、人して、鳥籠二つ、持ち出でさせ給ひ、初めて見る事を得たり。兼ねて携へし主の圖を、展て[やぶちゃん注:「ひらきて」。]、くらべ見れば、此圖は雌の方なり。雄のさまは、やせたり。雌の尾は、或侯のゝ給ひしごとくなり。雄の方は、尾の先、分れずして、尖れり。是は摺きれたるにもやあらん。然はあれど、見し儘を寫し歸り、人に仰せて[やぶちゃん注:「おほせて」。]畫がゝせたり【圖は別にあり。[やぶちゃん注:図は底本には載らない。]】。按ずるに、熊本侯の寫眞は、觜、くひちがひたれば、「いすか」の名、たがはず。このたび、わたりしは、大姿は似たれども、觜、くひちがはざれば、「いすか」の名、如何あらん。鳴聲、「ヲルコル」の笛にゝて、至りて微音なり。色も、聲も、鶸にちかきにや。

  乙酉歲暮兎園之二      輪  池

[やぶちゃん注:「しまいすか」スズメ目アトリ科イスカ属イスカ Loxia curvirostra。私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 伊須加鳥(イスカドリ) (イスカ・ヤツガシラ)」を参照されたい。但し、輪池の言うようには尾羽の雌雄の差は認められないので不審である。彼が言うように、その♂個体の尾羽はたまたま擦り切れたものだったのであろう。イスカの鳴き声はサイト「サントリーの愛鳥活動」の「イスカ」がよい。「さえずり」と「地鳴き」の二種が聴ける。

『「ヲルコル」の笛』「ヲルコル」は南蛮渡りのオルゴールのことであろうが、「笛」は不審。

「鶸」スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelinae のヒワ類(ヒワという種はいない)の総称。私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶸(ひわどり) (カワラヒワ・マヒワ)」を参照されたい。鳴き声は同じくサイト「サントリーの愛鳥活動」の「マヒワ」及び「カワラヒワ」で聴かれたい。]

 

 

卅一字の歌を、「濱の眞砂のごとく、盡くる期なし。」といひ傳へたれど、四十七言をもて、三十一言を取り用ふれば、盡くる期なきことはあらじと思はるゝなり。我、わかゝりし時、隅東先生のいはれしは、「或人、四十七言の内にて、三十一言を除き、これを一字づゝ取り替、取り替、上下・順倒して乘除し、幾億萬に至りて、盡く、と考へしものありし。」と、いはれき。今、その人の名を忘れたり。又、其書、しかせし物も、傳はらず。つとめて考ヘしことの傳はらざるも、本意なしとおもひ、世を早うせし我養子淸通が兄前原辨藏は、もとの古川山城守に學びて、算術に達したれば、或時、此事を語らひて、別に術を施したり。其數左のごとし。

  貳佰肆拾七京弐仟佰伍拾億捌仟肆佰零壱萬弐仟參佰零參

たゞしこれは短歌のみなり。長歌・旋頭歌・混本歌、字あまりの歌は、この外なり。

  乙酉歲暮兎園之三      輪  池

[やぶちゃん注:ここに書かれていることは、甚だよく判る。要するに、意味を成すかどうかは、別として「いろは」四十七文字の三十一文字の組み合わせとして作った場合の話である。サイト「Quora」(入るにはログイン操作が必要)に『いろは』四十八(「ん」を数えている)『文字の中から』十七『文字を選び出す組み合わせは(同じ文字の重複も可)何通りありますか?』『桁数だけでも結構ですので教えてください。また、その内』、『何割位』が『日本語として意味がある文が出来ると思われますか?』という質問に対して、公立高校教諭のMartin Taitさんがお答えになったものがあり、『重複が可能で順番に関係があるので、計算の仕方は一番簡単に』四十八『を』十七『乗すればよく、

38,115,448,583,970,168,165,554,454,528

38115𥝱448583970168165554454528

29桁です』とあって、意味を成す『割合は、まずゼロに近いくらいの非常に小さなものでしょう』とあり(近世の計算でなら、「ん」を入れて四十八とするのが寧ろ正しいだろう)、ここに示された数値より遙かに大きい。因みに、私は大学時代に國學院大學弁論部に属していたが、その部報(一九七五年~一九七七年)『ゆくて』(昭和五三(一九七八)年一月発行。因みに、この編集者は当時大学三年で広報部長であった私であった)に、大学一年次の私が書いた「第二芸術論批判――現代俳句私論」という拙論を載せたものを今も持っている。桑原武夫の「第二芸術論」批判であるが、その中で、守旧俳句の限界はまさに意味を成す語の十七音の組み合わせに限界が生じているという観点からは、俳句の限界がきていることを示唆はした(当時、私は自由律俳句『層雲』の誌友であったので、守旧派は嫌いであった)。その中で私は、『また、俳壇外からの科学的考察もある。昭和二十三年』(一九四八年)に『科学雑誌』『自然』『に守山英雄が載せた「俳句の限界」という一文である。文字を組み合わせて意味をなし、それが俳句として鑑賞に堪える程度の場合が有限であるというのである。その結果、五七五定型俳句として、その数は10 7108位だろうと述べ、現在』、『定型俳句について類想が多いと感ずるのは、その大部分が世に出尽』く『して、定型俳句の寿命がつきかけているからだろうとし、字余りとしえ一字多くする毎に、俳句数は前記の十倍の割で増加するであろうと説いている。これを市川一男が「第二芸術論につぐ原爆的警告」と評しているのもうなずける』と述べた。これは今も変わらないし、短歌も同じことだと考えている。

「我養子淸通」不詳。

「前原辨藏」不詳。

「古川山城守」古川氏清(うじきよ 宝暦八(一七五八)年~文政三(一八二〇)年)は旗本で和算家。官位は従五位下・和泉守・山城守。宝暦九(一七五九)年に家督を継ぎ、奥右筆などを務め、文化八(一八一一)年に従五位下和泉守に叙任された。広敷用人となり、文化十三年八月には勘定奉行となり、在職のまま没した。著書に「算籍」・「円中三斜矩」等がある。大名の伊勢国桑名藩五代藩主松平忠和にも算学を教えている(当該ウィキに拠った)。]

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