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2021/11/06

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 大酒大食の會

 

   ○大酒大食の會

文化十四年丙丑[やぶちゃん注:干支が誤り。丁丑が正しい。一八一七年。]三月廿三日、兩國柳橋萬屋八郞兵衞方にて、大酒大食の會興行、連中の内、稀人の分、書拔。

[やぶちゃん注:一行一人で書かれてあるが、名乗りが長い者がいるので、総て次行に繰り越した。解説も三字下げであるが、引き上げた。]

   酒 組

一、三升入盃にて三盃

    小田原町 堺屋忠藏    丑六十八

一、同六盃半

    芝口   鯉屋利兵衞   三  十

 其座に倒れ、餘程の間、休息致し、目を覺し、茶碗にて、水、十七盃、飮む。

一、五升入丼鉢にて壱盃半

    小石川春日町 天堀屋七右衞門 七十三

 直に歸り、聖堂の土手に倒れ、明七時迄、打臥す。

[やぶちゃん注:不定時法では「明け七ツ」とは言わない。「曉(あかつき)七ツ」のつもりか。だとすると、この時分だと、午前三時半過ぎか。]

一、五合入の盃にて拾壱盃

    本所石原町  美濃屋 儀兵衞 五十一

 跡にて「五大力」をうたひ、茶を十四盃、飮む。

[やぶちゃん注:「五大力」(ごだいりき)は歌謡・浄瑠璃・歌舞伎狂言の一系統。「五大力」とは、元来は「五大力菩薩」の略で、女からの恋文の封じ目に書く文字であり、また、貞操の誓いとして簪・小刀・三味線の裏皮などに。この字を書いた。寛政六 (一七九四) 年、上方唄の「五大力」と、小万と源五兵衛の心中事件・曾根崎五人斬り事件とを合せた並木五瓶作「島廻戯聞書(しまめぐりうそのききがき)」が大坂中の芝居で初演されて評判となり、翌年、江戸へ下った五瓶は三世沢村宗十郎のために舞台を江戸に置き換えて改作した「五大力恋緘(こいのふうじめ)」を江戸都座で初演したが、この時、上方唄に加筆して、杵屋弥十郎作曲のメリヤス「五大力」を用いて、これがまた、大人気を得た。芝居は紛失した宝刀探しに明け暮れる源五兵衛と三五兵衛に、辰巳芸者小万との愛と義理立てをからませた筋で、隣で唄う「五大力」を聴きながら、三味線の裏皮に「五大力」と書く趣演出が受けた。ほかに文化三 (一八〇六)年の同じ並木五瓶の「略三五大切 (かきなおしてさんごたいせつ)」や、文政八(一八二五)年の鶴屋南北の「盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)」の書き換え狂言が知られ、永く流行歌としてもて囃された(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

一、三合入にて弐拾七盃

    金杉     伊勢屋 傳兵衞 四十七

 跡にて、飯三盃・茶九盃。じんくを躍る。

[やぶちゃん注:「じんく」「甚句」。民謡の一つ。多くは七・七・七・五の四句形式で、節(ふし)は地方によって異なる。江戸末期から流行。「越後甚句・「米山(よねやま)甚句」・「名古屋甚句」・「博多甚句」・「相撲甚句」などがある。「じんく」は「地(じ)の句」「神供(じんく)」の意からとも、また、越後国の甚九という人名からともいうが、未詳である。]

一、壱升入にて四盃

    山の手    藩 中 之 人 六十三

 跡にて、東西の謠をうたひ、一禮して、直に、かへる。

一、三升入にて三盃半

           明屋敷の者

 跡にて、少の間、倒れ、目を覺し、砂糖湯を、茶碗にて七盃、飮む。

[やぶちゃん注:「明屋敷の者」明屋敷番(あきやしきばん)の下男か。明屋敷番は幕府の職名で、普請奉行の支配下にあり、江戸にあった幕府及び諸大名の明屋敷などを、預かり管理した職。「明屋敷預かり」とも言う。]

右之外、酒連、三、四十人計り、有之候へども、二、三升位のもの故、不記之。

   菓子組

[やぶちゃん注:以下、底本は二段組みだが、一段にした。]

一、饅頭         五十

一、羊肝         七棹

[やぶちゃん注:「羊肝」は底本の表示通りとした。羊羹。]

一、薄皮餠        三十

一、茶          十九はい

    神田    丸屋勘右衞門 五十六

一、まんぢう       三十

一、鶯餠         八十

一、松風せんべい     三十枚

[やぶちゃん注:「松風せんべい」松風煎餅。その製法は、室町時代に遡るもので、京で帝の護衛をしていた九州の菊池彦の末裔らが伝えたともされる。表側の茶色の面が松の木に似て、裏側の白い面が、うら寂しい風のようだと、茶人が名付けたという伝承もある。日本一薄い煎餅と名打っている(一・二ミリメートルだそうである)。]

一、澤庵の香の物丸のまゝ 五本

    八町堀   伊豫屋淸兵衞 六十五

一、米まんぢう      五十

一、鹿の子餠       百

一、茶          五盃

    麹町    佐野屋 彥四郞 二十八

一、まんぢう       三十

一、小らくがん      弐升程

一、ようかん       三棹

一、茶          十七盃

    千住    百姓  武 八 三十七

一、今坂もち       三十

[やぶちゃん注:「今坂もち」餡(あん)を包んだ小判形の腰高の餅。多くは紅・白に分け、白餅には、赤小豆漉し餡、紅餅には白練餡を包む。江戸時代、七五三の祝いの贈答用とした。]

一、煎餠         弐百枚

一、梅干         壱壺

一、茶          十七盃

    丸山片町   安達屋新八 四十五

一、酢、茶わんにて    五十盃

一、茶漬         三盃

    麻布     龜屋 左吉 四十七

   飯 連【常の茶漬茶碗にて、萬年味噌にて、茶づけ・香の物ばかり。】

一、飯五十四盃 たうがらし五十八

    淺草    和泉屋 吉藏 七十三

一、同四十七盃

    小日向  上總屋茂左衞門 四十九

一、同六十八盃 醬油二合

    三河島     三右衞門 四十一

    鱣連【いづれも喜撰の茶づけ。】

[やぶちゃん注:「鱣連」は「うなぎれん」。「喜撰」は宇治の高級茶の銘柄名。]

一、金壱兩弐分 うなぎすぢ

    本鄕春木町 吉野屋幾左衞門 七十五

一、金壱兩壱分弐朱 中すぢ

    深川仲町  萬屋  吉兵衞 五十一

一、金壱兩弐分 同、飯七盃

    淺草    冨田屋  千藏

一、金壱兩弐朱 同、飯五盃

    兩國米澤町 米 屋 善 助 四十八

   蕎麥組【各、二八。中、平盛。尤、上そば。】

一、五十七盃

    新吉原   桐屋 惣左衞門 四十二

一、四十九盃

    淺草駒形  鍵 屋 長 介 四十五

一、六十三盃

    池の端仲町 山口屋 吉兵衞 三十八

一、三十六盃

    神田明神下 肴 屋 新 八 二十八

一、四十三盃

    下谷    藩 中 之 人 五十三

一、八寸重箱にて九盃 豆腐汁三盃

    小松川   吉 左 衞 門 七十七

右にしるす數人は、濱町小笠原家の臣某、「その會にゆきて見るに、違なし。」といへり。人の飮食の量、大槪、限りあるものにて、いと疑しきまでなり。されど、予、いぬる日、お玉が池なる緣家にゆきしとき、新川の酒問屋【家名は忘れたり。】喜兵衞といふもの、來て、このもの、「水を飮むこと、天下第一なるべし。」と、自負するよしなれば、「いざ。」とて、一升餘も入るべき器に水を、十分、入れて出だしゝに、忽、弐碗をのみほして、さていふ、「おのれ、既に飯を契して、いくほどもなければ、多く、のみがたし。食前ならんには、今、一、弐碗は、容易し。」といヘり。予が、目擊せしもの、この喜兵衞が水と、九鬼候の醫師西川玄章が、枝柿を百食ひし、となり。かゝれば、大食大飮の人は、腸胃、おのづから、異なるところ、ありや、しらず。

             海 案 庵 記

[やぶちゃん注:「お玉が池」「神田お玉が池」。東京都千代田区岩本町二丁目にあった池。現存しない。リンク先では「繁栄お玉稲荷 (お玉が池跡)」とある。

「九鬼候」九鬼氏(くきし)は水軍として知られた、南北朝時代から江戸末期まで活躍した一族。元来は紀伊熊野地方の豪族。紀伊九木浦を本拠とし、南北朝期には志摩国にもその勢力を及ぼし、戦国期の九鬼嘉隆は北畠氏・織田信長・豊臣秀吉に属して、水軍の将として活躍した。「関ヶ原の戦い」で、嘉隆は西軍につくも、子の九鬼守隆は東軍につき、加増されて鳥羽藩五万五千石となる、子孫は摂津三田藩三万六千石と丹波綾部藩二万石に分かれた。

「西川玄章」不詳。]

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