「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 (無題)(君とはあの綠の樹の下で別れた)
○
君とはあの綠の樹の下で別れた
そこではいつでも風がふいて
いつでも初夏のけしきをかんずるところだ
おまへと二人で並んでゐると
遠い建築物の家根をこえて
どうどうといふ樂隊のひびきがきこえた。
おほきなその樂隊のひびきの中に二人のたましひが眼をさました。
ああ たのしき上野の博覽會
たのしき博覽會の思ひ出はまるきりゆめのやうだ。
その頃からおまへは博覽會がすきだつた
おれも博覽會が大好きだつた
おれたちは黑の帽子をかぶつてジゴマあそびをするのがすきだつた。
空中軌道のケーブルカア
上野池の端の美人賣店
不忍池第二會場夜景のイルミネーシヨン
おまへとはよく腕をくんであるいたものだ
每晚のやうにあるいたものだ
おれたちは若くて元氣で快活で無邪氣な遊びが好きだつた。
ああ博覽會 博覽會 博覽會 博覽會行進曲
どこへでもおれたちは樂隊に足なみをあはせて行つた
おれはいまでも夢のやうな氣がするのだ。
あの奇妙な臺灣館の建築が、どこかで生きてゐる不思議な赤い海じやりガニのやうな氣がするのだ。
でたらめに、二人で醉つぱらつてあるく夜の博覽會の不思議な建築道路は
われわれにはまるで異樣な西洋子供の夢の世界であつた。
[やぶちゃん注:底本では制作年を推定で大正四(一九一五)年とし、『遺稿』とある。筑摩版全集では、「未發表詩篇」の中に以下のようにある。なお、編者注で、詩篇本文の『冒頭三行各頭の○印は作者が附したもの』とある。
*
○
○君とはあの綠の樹の下で別れた
○そこでは、いつでも風がふいて、
○いつでも初夏のけしきをかんずるところだ
おまへと二人で竝んでゐると
遠い建築物の家根をこえて
どうどうといふ樂隊のひびきがきこえた、
おまへ その 樂 大きな喇叭のひゞきをきゝ風のやうなその樂隊のひびきをきの中で二人のたましひが眼をさました。
ああ、たのしき上野の博覽會
たのしき博覽會の思ひ出はまるきりゆめのやうだ
この頃からおまへは博覽會がすきだつた、
おれも博覽會が大好きだつた、
おまへおれたちは黑の帽子をかぶつて盜賊のまねジゴマごつこあそびをするのがすきだつた、
あの古川バアーの エス オ空中軌道のケーブル、カア、
上野池の端の美人賣店
不忍池第二會場夜景のイルミネーシヨン
ああおまへとはよく腕をくんであるいたものだ
每晚のやうにあるいたものだ
おれたちは若くて元氣でまる快活で西洋騎士→詩人神士のやうみたいに無邪氣だつた。→遊ギずきだつた。無邪氣な遊ギが好きだつた。[やぶちゃん注:「神士」・「遊ギ」はママ。]
ああ博覽會、博覽會、博覽會、博覽會行進曲
どこへでもおれたちは樂隊に足なみをあはせて行つた、
おれはいまでも夢のやうな氣がするのだ、
あの不思議奇妙な臺湾館の建築が、どこかで生きてゐる、不思議な赤い海じやりガニのやうな氣がするのだ、
でたらめに、二人で醉つぱらつてあるく、夜の博覽會の不思議な建築物は築道路は
われわれとは美くしいまるで異樣な西洋子供の夢の世界であつた、
*
これを詩篇本文の三行の冒頭にある「○」を確定行と仮に仮定して(或いはこれを順列交換の併存記号とすることも可能ではある)除去し、取消部分も削除すると(筑摩版全集のような消毒した校訂本文とは違う、ということである)、以下のようになる。
*
○
君とはあの綠の樹の下で別れた
そこでは、いつでも風がふいて、
いつでも初夏のけしきをかんずるところだ
おまへと二人で竝んでゐると
遠い建築物の家根をこえて
どうどうといふ樂隊のひびきがきこえた、
その樂隊のひびきの中で二人のたましひが眼をさました。
ああ、たのしき上野の博覽會
たのしき博覽會の思ひ出はまるきりゆめのやうだ
この頃からおまへは博覽會がすきだつた、
おれも博覽會が大好きだつた、
おれたちは黑の帽子をかぶつてジゴマあそびをするのがすきだつた、
空中軌道のケーブル、カア、
上野池の端の美人賣店
不忍池第二會場夜景のイルミネーシヨン
おまへとはよく腕をくんであるいたものだ
每晚のやうにあるいたものだ
おれたちは若くて元氣で快活で西洋神士みたいに無邪氣な遊ギが好きだつた。
ああ博覽會、博覽會、博覽會、博覽會行進曲
どこへでもおれたちは樂隊に足なみをあはせて行つた、
おれはいまでも夢のやうな氣がするのだ、
あの奇妙な臺湾館の建築が、どこかで生きてゐる、不思議な赤い海じやりガニのやうな氣がするのだ、
でたらめに、二人で醉つぱらつてあるく、夜の博覽會の不思議な建築道路は
われわれとはまるで異樣な西洋子供の夢の世界であつた、
*
ここで本篇と、以上の二つと比較して見るに、異なっている箇所は、想像される原稿から、そうなってもおかしくないという気が強くしてくるのである。
例えば、七行目の「おほきな」は、「おまへ」と書いてそれを削除し、「その樂」と書いて「樂」を削除し、その後に「大きな喇叭のひゞきをきゝ風のやうな」と書いたところで、以上の全部を削除している。その複雑な書入れを狭い原稿用紙の二行或いは三行の中でやらかした場合、一部が吹き出し状になり、それらを、丁寧に判別できるように取消線を附すことは、それ自体が、難しく、自分だけが判るようにしたわけであるから、「おほきな」が「樂隊のひびきをきの中で二人のたましひが眼をさました。」の丁度、頭辺りに吹き出されて、削除されてあった場合、それを判読者によっては「イキ」と採ることが十分にあり得る。
また、「その頃から」は文脈上、「この」よりも通りがいいから、無意識に訂してしまう可能性があり、さらに言えば、ひらがなの「こ」「古」の崩し字は、「そ」の「楚」と誤判読し易い。
そうなると、漢字の整序は筑摩版全集が盛んにやっている通りで、目を瞑るとするならば、大きな不審は、最後から三行目の「でたらめに」だけが独立改行していることぐらいしか、残らない。これは全くの直感に過ぎないが、或いは、これも実際の原稿を見れば、何故、小学館の編集者がそう判じたかが、判るかも知れぬし、或いは「でたらめに」だけの形容動詞を芸もなく使うというのは萩原朔太郎では珍しいから、ただの編集ミスである可能性もあるだろう。だいたいからして、この詩篇、繋げて、二段落か三段落の散文詩にしてもいいぐらい、フレーズが説明的で、それがまた、内容的にほぼ完全に同一である以上、本篇は筑摩版全集が拠った草稿原稿と同じものを元にしたものと推定するものである。
なお、作品内時制であるが、映画の「ジゴマ」(Zigomar :フランスの作家ジャン・ウジェーヌ・レオン・サジイ Jean Eugène Léon Sazie 一八六二年~一九三九年日)原作のピカレスク・ロマン)の映画化はフランスでヴィクトリアン・ヒッポリット・ジャッセ(Victorin Hippolyte Jasset 一八六二年~一九一三年)監督によるものの最初の作品(無声映画)が、明治四四(一九一一)年十一月十一日に浅草金龍館で封切られており、封切り当初から、大当たりとなった(ウィキの「ジゴマ」によれば、『劇場には観衆が殺到し、客を舞台に上げるほどだった。これは日本における洋画の最初のヒットともなった』とある)が、この詩篇のメイン・ロケーションは東京大正博覧会で大正三(一九一三)三月二十日から七月三十一日にかけて、当時の東京府の主催で、東京市上野公園地(現在の上野恩賜公園)を主会場として開催されたそれである。当該ウィキによれば、『不忍池には「ケーブルカー」と称されたロープウェイが架けられた。全長』四百『メートルのロープウェイは新技術のシンボルとして人気を博したが、池の上で』、『しばしば』、『立ち往生した。ちなみに定員は』九『名』で、『料金は』一人十五『銭だった』とある。
これもまた「エレナ」詩篇である。]
« 「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 草の神經 | トップページ | 今日は電子テクストの更新はナシ »