曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 墮陰莖 著作堂(馬琴)
○墮陰莖
平岩右膳御代官所
武州豐島郡練馬の内
字早淵村久保と申所にて
百姓孫右衞門忰
孫 四 郞
戌二十七、八歲
牛込水道町彌吉店
豆腐屋 幸 助
右孫四郞儀、一昨日廿八日【文政九年六月[やぶちゃん注:一八二六年。]。】」晝八時頃、酒に醉候體にて[やぶちゃん注:底本では「醉」の上に「給」があるが、読めないので(上が「酒を」なら「たべ・のみ」と読める)特異的にカットした。]、幸助宅前え、馬を引參、「豆腐の殼、有ㇾ之候ば、買受度。」旨申に付、「無ㇾ之。」由相斷候へば、孫四郞儀、右馬を引出候節、鼻綱にて、馬の面を强く打、彼是、立騷候故、右鼻綱、同人、足え卷付候由にて、馬の口の下え、仰向に倒れ、其節、下帶、外れ、陰莖、出候を、右馬、喰ひ付、一とふりにて、附根より、毛、二、三本付、陰莖、喰ひ取候へども、氣絕も不ㇾ致、前書幸助方にて、付藥等、致し、綿にて包、手當等いたし遣し候へば、「此分にては、步行相成可ㇾ申。」旨、申、右陰莖、紙に包、孫四郞、自分[やぶちゃん注:「おのづと」。]、手に持、馬を引歸候處、凡、十四、五軒も罷越候處、右陰莖、町内往還え、捨、其儘、罷越候に付、右跡、爲二追欠一候得ども、何れえ、參候哉、相知れ不ㇾ申。其上、右住所、承り不ㇾ申候に付、先、陰莖は鮑貝に入、町内自身番屋え、持參いたし、近邊にて、右、馬士、名・住所承候處、同所五軒町小普請稻生左門屋敷え、下掃除に罷越候者にて、早淵村百姓孫右衞門忰の由承候に付、翌日、月行事、孫右衞門方え、尋參候處、同人儀、宅に罷在候間、昨日の始末、相咄候處、「一向存不ㇾ申。」由申候。然處、次の間に打臥候もの、頭を上げ申聞候は、「昨日は、不慮成儀にて、彼是、御世話に相成、今日は、右の疵、甚、痛强、打臥罷在、失敬の段、相詑、且、昨日の始末、父えは、未二申聞一、妻えは、昨夜、相噺候へば、驚候上にて、歎罷在候。」由、申聞候に付、「氣の毒なる」よし申、右に付、「昨日、往還え、被二捨置一候陰莖、持參致し候。最、町方にては此樣成物、捨有ㇾ之候ては、御訴不ㇾ致候ては、難二相成一、左候ては、町内、物入等、相懸り、甚、迷惑に候に付、態々[やぶちゃん注:「わざわざ」。]持參致し候。」旨、申候得ば、同人妻、名前不ㇾ知、二十一、二才位相見え候者、至て、愁傷の體にて、髮は櫛卷にて、奧より立出、泪を含み、申聞候は、「昨日、私夫[やぶちゃん注:「わたくし をつと」。]、御町内にて不慮成儀にて、厚き御世話に相成、殊に、右陰莖、御持參被ㇾ下、旁[やぶちゃん注:「かたがた」「かたや」「かたはら」の孰れかか。]、以御介抱氣の毒。」の由、大に悅び、厚、禮謝申聞候間、當人、名前等、委敷、承り、則、陰莖は、妻え、引渡し候由。右は、餘り珍敷儀に付、此段、申上候。
戌六月晦日
[やぶちゃん注:何だか、ともかく、凄いというか、呆れるというか、珍談中の珍談の実話である。]