曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 騙兒悔ㇾ非自新
[やぶちゃん注:標題は「騙兒(かたり)、非を悔いて、自(みづか)ら新たにす。」と訓じておく。読み易くするために、段落を成形した。発表は琴嶺舎。作中の書簡では当時の手紙の雰囲気を出すためにダッシュで挟み、敢えて句読点を用いず、字空けを施して読み易くしておいた。【2022年7月29日追記】『曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 加賀金澤出村屋紀事 オリジナル現代語訳附』でオリジナルの原話が載る。その公開とともに、注をブラッシュ・アップした。]
○騙兒悔ㇾ非自新
加賀の金澤の枯木橋の西なる出村屋太左衞門といふ商人の兩替舖は、淺野川の東の橋詰にあり。
[やぶちゃん注:「枯木橋」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。金沢城の東内惣構枯木橋詰遺構をポイントしてあるが、橋はちゃんとここに現存する。ストリートビューのこれを参照されたい。因みに、ここは私の偏愛する泉鏡花の生家の南東直近である。
「兩替舖」「りやうげへみせ」と訓じておく。
「淺野川の東の橋詰」現在の浅野川は枯木橋の東北を流れている。結構な暴れ川であったから、当時はもっと南西を流路としていたのであろう。]
文化九年癸酉の大つごもりに、
「卯辰山觀音院の下部、使なり。」
と僞りて、出村屋が舖に來つ。
[やぶちゃん注:「文化九年癸酉」干支が誤っている。癸酉は文化一〇(一八一三)年。九年は壬申。原話によって、文化十年が正しいことが判った。
「卯辰山觀音院」卯辰山西麓の真言宗長谷山観音院。加賀藩三代藩主前田利常の正室珠姫が観音を篤く信仰し、社殿を寄進したとされる有名な寺で、現存する。ここ。]
百匁包のしろがねを騙りとりたる癖者ありしを、當時、隈なく、あさりしかども、便宜を得ざりしとぞ。
かくて、十あまり三とせを經て、文政七甲申の年の大つごもりに、出村屋が兩替舖に人の出入の繁き折、花田色の、いとふりたる風呂敷包をなげ入れて、こちねんとして、うせしもの、あり。
[やぶちゃん注:「文政七甲申」一八二四年。最初、『しかし、数えにしても「十あまり三とせ」は一年多過ぎである。干支の誤りといい、この凡ミスといい、珍しく、この辺りは、父馬琴の手を借りずに、滝沢琴嶺舎興継自身が補足したものである可能性が高いか。」と注したが、原話で間違いないことが判った。考えてみれば、その騙り盗(と)ったそれで、まがりなりにも、生計を立てられるようになるには、確かに、それなりの時間は必要であろう。
「花田色」「縹色」。藍染めの染め色の一種の色で、明度が高い薄青色を指す。
「こちねん」「忽然」。]
たそがれ時の事なれば、その人としも見とめずして、追人ども、甲斐は、なかりけり。
さて、あるべきにあらざれば、太左衞門は、いぶかりながら、件の包を釋きて見るに、うちには、しろがね百匁ばかりと、錢十六文ありて、一通の手簡を添へたり。
[やぶちゃん注:「釋きて」「ときて」。]
封皮を析きて[やぶちゃん注:「さきて」。]、その書を見るに、
――十とせあまりさきつころ やつがれ 困窮至極して せんすべのなきまゝに 膽 太くも 惡心 起りて 『觀音院の使』と僞り 當(ソノ)御店(ミタナ)にて 銀百匁を 騙りとり候ひき こゝをもて 火急なる類苦を みづから 救ふものから かへり見れば 罪 いとおもくて 身を容るゝ處なし よりて とし來 力を竭して やゝ本銀をとゝのへたれば その封貨を相添えて けふなん 返し奉る【國法にて、役人、百匁每に銀を包みて「一封」とし、印を押して行はしむるに、封貨十六文を取ることゝぞ。是、則、紙の費に充るといふ。よりて、その十六文を添へたるなり。】 ふりにし罪をゆるされなば かの洪恩を忘るゝときなく 死にかへるまで 幸ひならん 利銀は なほ のちのちに 償ひまゐらすべきになん。あなかしこ――
とばかりに、さすがに、名・氏をしるさねども、あるじは、さらなり、小もの等まで、この文に就き、その意を得て、感嘆せぬは、なかりけり。
[やぶちゃん注:「ふうひ」。封筒。
「析きて」「さきて」「裂きて」。
「竭して」「つくして」。]
同鄕の人、中澤氏【名は儉[やぶちゃん注:音の「けん」の他に名前・名のりだと、「たか」・「のり」がある。調べたところ、同姓同名の人物が現在の石川県内にいたことが判った(「金沢市教育史稿」に所収)。]。】、
「今玆【文政乙酉。】正月十一日、卽願寺といふ梵刹にて、太左衞門にあひし折、彼の顚末をうち聞きて、件の手簡を見てけるに、手迹も、その書ざまも、いと、いたう拙なければ、さゝやかなる民などのわざなるべしと思ふ。」
と、いヘり。
[やぶちゃん注:「儉」音の「ケン」の他に名前・名乗りだと、「たか」・「のり」がある。
「文政乙酉」文政八(一八二五)年。
「卽願寺」ここ。
「拙なければ」「つたなければ」。]
折から、尾張の人の、篆刻をもて、遊歷したるが、
「故鄕へ歸る。」
と聞えしかば、
「そが、『うまのはなむけ』に。」
とて、件の趣を綴りたる漢文あり。
この夏、聖堂の諸生石田氏【名は煥。】、江戶よりかへりて、舊故を訪ひし日、松任の驛なる友人木邨子鵠の宿所にて、中澤氏の紀事を閱して、感嘆、大かたならざれども、
「惜むらくは、その文、侏𠌯なり。よりて、綴りかへにき。」[やぶちゃん注:「𠌯」。音は「レイ」、「相並ぶ」の意である。されば、物理的に「字が異様に小さくて、しかも相並んでいて、頗る読み難いこと」ということか? いやいや、単にそれなら、「綴り」変えるとは言うまい。「漢文の知識が幼稚であり、それが連続していて、おかしな表記・表現が相い並んでいること」を言うのであろう。]
といふ。漢文、亦、一編あり。
[やぶちゃん注:「聖堂」湯島聖堂。
「石田氏【名は煥。】」不詳。「煥」は音「クワン(カン)」以外に、名前・名載りに「あきら」があるが、ここは音読みすべきであろう。
「松任」(まつたふ)は現在の石川県の白山市松任(まっとう)。
「木邨子鵠」不詳。「きとんしこく」と読んでおく。「木邨」という姓は現在もある。]
且、編末の評に云、
「嗚呼、是一人之身。爲二非義一則愚夫猶惡ㇾ之。及二其悔ㇾ非改一ㇾ過。則君子亦稱ㇾ之。「書」所ㇾ謂、『惟聖不ㇾ念作ㇾ狂。狂克念作ㇾ聖。』。一念之發其可ㇾ不ㇾ愼哉。孔子曰、『過勿ㇾ憚ㇾ改。』。孟子曰、『人能知ㇾ耻則無ㇾ耻。』。信哉。夫人不ㇾ知ㇾ耻。則非義暴戾無ㇾ所ㇾ不ㇾ爲。苟能知ㇾ耻則立ㇾ身行ㇾ道。豈難ㇾ爲哉。於ㇾ是知。國家仁政之效。有乙以使三民遷ㇾ善而不二自知一者甲。孔子所ㇾ謂。有ㇾ耻且格者。可ㇾ徵哉。」
予は、その文の巧拙に拘れるにあらねども、只、勸懲を旨として、蒼隷農夫も、こゝろえ易き假名ぶみにしつるのみ。さばれ、その事の、はじめ終りを、審に傳へざりしは、記者の漢文に做ふたる筆のまはらぬ故なるべし【銀を騙略せられし時の形勢、後に銀を返しくれし時、國主に訴へたるか否の事、原文にもれたり。】。
[やぶちゃん注:漢文の訓読を試みる。一部は返り点に通りには読まなかった。
*
嗚呼、是れ、一人の身、非義を爲せども、則ち、愚夫は、猶ほ之れを惡(わる)くするがごとし。其れ、非を悔ひて、過(あやま)ちを改むるに及びて、則ち、君子も亦も、之れを稱す。「書」、謂ふ所は、
『聖と惟(いへど)も、念(おも)はざれば、狂と作(な)り、狂といへども克(よ)く念へば、聖と作(な)る。』
と。
一念の發(ほつ)、其れ、愼まざるべからざるや。
孔子曰はく、
『過(あやま)ちは、改むること、憚かる勿かれ。』
と。
孟子曰はく、
『人は、能く耻を知る。則ち、耻、無し。』
と。
信なるかな、夫れ、人、耻を知らざれば、則ち、非義・暴戾、爲(な)さざる所、無し。苟しくも、能く耻を知れば、則ち、身、立ち、道を行く。豈に爲すに難きや。是に於いて、知れり。國家の仁政の效は、以つて民をして善に遷(うつ)さしめて、自(おのづか)ら知らざる者たるに有り。孔子の謂ふ所は、『耻、有りて、且つ、格者たる。』なり。徵(ちやう)すべきかな。
*
「書」は「書經」のこと。引用部は「聖人であっても、十全な思慮に欠けておれば、それは『狂』(誤った行いを成す人)となり、狂人でも、十全な思慮を発揮出来れば、即座に聖人となる。」の意で、「天子が不断の努力を怠れば、天命が革(あらた)まってしまい、王朝は交替することとなるという「書経」の政治思想を表わした言葉。
「暴戾」荒々しく、道理に反する行いをすること。
「蒼隷農夫」若造・僕(しもべ)・農民。
「審に」「つまびらかに」。
「做ふたる筆」「ならふたる」で「慣れた筆記」の意か。
「騙略」「ねんりやく」。騙(だま)しの詐術。]
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