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« エレーヌ・グリモー | トップページ | 萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 群盜 »

2021/11/29

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 (無題)(狐がきたので) / 筑摩版全集の「未發表詩篇」収録の(無題)(にはとり鳴くと思ひきや)の草稿(複数有り)のそれら総てを纏めて並べたもの

 

[やぶちゃん注:判読不明を示す『*』は底本では一つしか打たれていないが、後注にある通り、六字分に増やした。

 

  

 

狐がきたので

雞が鳴くのだ

雞が鳴くと思つて******とび出せば

木の葉が落ちてるのだ

いまも夜天にしろじろと

懺悔するもののうしろに

みよ

永遠の圓

まつくろの氷山があり

懺悔の姿いぢらしく

 

狐がきたので

雞が鳴くのだ

雞が鳴くのかと思へば

木の葉が落ちてるのだ

ああ冬の夜の空にしろじろ

懺悔者の姿が

おれの姿が光つて居る

 

にはとり鳴くと思ひきや

いま夜天にしろじろと

光る懺悔のわがすがた

われの淚のうすあかり。

 

  *印のところ、六字不明

 

[やぶちゃん注:編注の末に句点がないのはママ。「雞」(音「ケイ」)は「にはとり」と読む。筑摩版全集未収録詩篇として公開したが、調べるうちに、筑摩版全集の「未發表詩篇」に載る無題の「(にはとり鳴くと思ひきや)」という詩篇の草稿と推理出来ることが判明した。まず、「(にはとり鳴くと思ひきや)」を示す。便宜上、これを《◆決定稿》とする。

   *

《◆決定稿》

 

 

にはとり鳴くと思ひきや

いまも夜天にしろしろと

光る懺悔のすがたわがすがた

われの淚のうすあかり

 

   *

而して、『草稿詩篇「未發表詩篇」』にある草稿(仮題して『(にはとり鳴くと思ひきや)』『(本篇原稿三種一枚)』(二種しか載らない)を以下に示す。歴史的仮名遣の誤りや誤字、及び、抹消のし忘れは、総てママ。便宜上、これらに《◆草稿1》《◆草稿2》《◆草稿3》という名を与える。

   *

 《◆草稿1》

 

狐がきたので

鷄が鳴くのだ

鷄が鳴くと思ひきやくと思つててつぽうもつてとび出せば

柳の葉の木が葉が落ちてるのだ

いまも夜天にしろしろと

 

《◆草稿2》

懺悔するものゝうしろに

みよ

永遠の闇なり

極光なり

まつくろの氷山なりがある

懺悔の姿いぢるしく

 

《◆草稿3》

 

狐が鶏(とり)を追ひかけたきたので

鶏(にはとり)が鳴くのだ

鶏が鳴くのではないのかと思へば

木の葉が落ちてるのだ

狐が鳴くのだ

ああああ冬の夜に いぢらしくの空にくつきりとしろじろと

いまも夜天にしろしろと

の姿がうつつて居のだ

おれの淚が光つて居る

 

   *

さて、次に以上の四篇を纏めて「○」を除き、整序してみる。

   *

《◆決定稿》

にはとり鳴くと思ひきや

いまも夜天にしろしろと

光る懺悔のわがすがた

われの淚のうすあかり

 

《◆草稿1》

狐がきたので

鷄が鳴くのだ

鷄が鳴くと思つててつぽうもつてとび出せば

柳の葉の木が葉が落ちてるのだ

いまも夜天にしろしろと

 

《◆草稿2》

懺悔するものゝうしろに

みよ

永遠の闇る

まつくろの氷山がある

懺悔の姿いぢるしく

 

《◆草稿3》

狐がきたので

鶏(にはとり)が鳴くのだ

鶏が鳴くのかと思へば

木の葉が落ちてるのだ

ああ冬の夜にの空にしろじろと

いまも夜天にしろしろと

悔の姿がうつつて居る

おれの淚が光つて居る

 

   *

ここで、本篇とこれらを比較するに、草稿と決定稿を全部、順に並べたものを以下に示してみる。

   *

《◆草稿1》[やぶちゃん注:頭に「○」を入れた。]

 

  ○

 

狐がきたので

鷄が鳴くのだ

鷄が鳴くと思つててつぽうもつてとび出せば

柳の葉の木が葉が落ちてるのだ

いまも夜天にしろしろと

《◆草稿2》[やぶちゃん注:本篇に合わせて結合させた。]

懺悔するものゝうしろに

みよ

永遠の闇る[やぶちゃん注:「る」は抹消し忘れ。]

まつくろの氷山がある

懺悔の姿いぢるしく

 

《◆草稿3》

狐がきたので

鶏(にはとり)が鳴くのだ

鶏が鳴くのかと思へば

木の葉が落ちてるのだ

ああ冬の夜にの空にしろじろと

懺悔の姿がうつつて居る

おれの淚が光つて居る

 

《◆決定稿》

にはとり鳴くと思ひきや

いまも夜天にしろしろと

光る懺悔のわがすがた

われの淚のうすあかり

 

   *

小学館編者は、恐らく筑摩版が依拠した一連の本詩篇の複数枚の推敲原稿と同じものを対象とし、しかも筑摩版が決定稿とする「家」と称する詩篇を決定稿とはみなさず、全体が一つの詩篇草稿であると判断して、かくソリッドに纏めて載せたのである。これは、恣意的な強制校訂や、独断の決定稿指定などをしている筑摩版全集の態度よりも、遙かに誠実であると私は感じている。因みに、最後に言っておくと、本篇では「鷄」ではなく「雞」となっている。筑摩書房版全集が痛いのは正字体を特定の一字に限定している点で、少なくともこの詩篇草稿では、萩原朔太郎は確かに「雞」の字を用いているのである。これを「雞」に換える正当な理由は全くないのである。何故か? かの「説文」では「雞」を正字とし、「鷄」はその籀文(ちゅうぶん:西周後期の金文の字様を残している、多少、字画数の多い字)であるとしているからである。漢字の決定的正字というのは実はブレがあり、一字に限定出来る字は必ずしも多くないのである。

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