萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 『蝶を夢む』拾遺 手
[やぶちゃん注:太字は、底本では傍点「◎」である。]
手
白晝あるひは夜間において幻燈するところの手は一個である。
必ず左である。
手は突如として空間に現出する。
時としては壁または樹木の幹に、ためいきの如き姿を幻影する。
手は歷々として發光する。
われの手より來るところの恐怖は、しばしばその背後において先祖の幽靈を感知する。
幽靈は樹上に微笑してゐる。
*「先祖」「手」の二篇は『蝶を夢む』卷末の「散文詩」に組み入れようとしたものと思はれる。なほ「手」は雜誌『詩歌』大正四年二月號に掲載された「密房秘記」中の一篇たる「手の幻影」を改作したものである。(本卷「散文詩」參照)。
[やぶちゃん注:第二連二行目は一行が組版目一杯に記されているため、三行目「手は歷々として發光する。」は二行目に続いている可能性があるが、以下の示す「手の幻影」から、独立改行と判断した。太字「左」は底本では傍点「◎」である。
【2022年3月4日追記】編者註にある「密房秘記」なる作品は甚だ不審である。このような標題の詩篇はその註が指示する「散文詩」(本底本のある国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの小学館版「萩原朔太郎詩集Ⅳ 散文詩)にも載らないし、そもそもが、筑摩版全集(一九八九年刊の同全集の補巻も確認)の作品索引にも、このような詩篇(群)は載らない。ネット検索をかけて見たまえ。私のこのページが挙がってくるだけなのだ。
しかも、筑摩書房版全集には「手」という詩篇は存在しない。補巻でも索引にない。但し、編者が注で述べた通り、同全集第三巻の「拾遺詩篇」に載る「手の幻影」の一部との親和性がすこぶる高い。確かにくだくだしいそれよりも本篇の方が整序されて鋭くなっており、改作説を私は支持するものである。以下に上記初出の「手の幻影」を示す。太字傍線「左」は、そこでは、傍点「◦」であり、以下の「あるもの」「ためいき」「けちゑん」(「ゑ」はママ)は総て傍点「ヽ」である。
*
手の幻影
白晝或は夜間に於て幻現するところの手は必ず一個である。左である。
而してそは何ぴとにも語ることを禁ぜられるところのあるものの手である。
手は突如として空間に現出する。時として壁或は樹木の幹にためいきの如き姿を幻影する。
手は歷々として發光する。
手はしんしんとして疾患する。
手は酸蝕されたる石英の如くにして傷みもつとも烈しくなる。
手は白き金屬のごときものを以て製造され透明性を有す。
われの手より來るところの恐怖は、しばしばその手の背後に於て幽靈をさへ感知する。
微笑したるところの幻影であり、沈默せる遠きけちゑんの顏面であることを明らかに知覺するとき我は卒倒せんとする。
我はつねに『先祖』を怖る。
*
さらに、筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』に以下の「手」と題した草稿(正しくは決定稿。以下の最後の筑摩版の編者注を参照)が載る。下線「左」は底本では傍点「◎」である。
*
樹上の手
手
白晝あるひは夜間において幻現燈するところの手は一個である。かならず左である。
手は突如として空間に現出する。時としては壁または樹木の幹に、ためいきの如き姿を幻影する。
手は歷々として登光する。
われの手より來るところの恐怖は、しばしばその背後において先祖の幽靈を感知する。
幽靈は樹上に微笑してゐる。
*實際は「手の幻影」を『蝶を夢む』に收錄のため
書き直したものだが、同詩集には敗録されなかっ
たので、便宜上ここに掲載する。
*]
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