譚海 卷之四 同江戶風俗の事
[やぶちゃん注:「同」は四つ前の「天明三年奥州飢饉、南部餓死物語の事」に始まる「同年信州淺間山火出て燒る事」・「同時中山道安中驛領主再興の事」・「同年信州上田領一揆の事」と続いた天明三(一七八三)年に発生した出来事の連投記事の掉尾。但し、当年の江戸風俗の紹介であって、この前までの飢饉・天災・騒擾等といった強い連関性は全く認めらず、話がかなり深刻なリアリズムに偏重したと津村が思って、とってつけたような感じで、しかも先に並べた飢饉・天災を、「どこ吹く風」とするような違和感が何となくある、私には厭な一篇である。]
○此比、江戶の風俗、女子は「髮(かん)ざし」と云(いふ)、鯨の骨にて作りたる細きものを「びん」に入(いれ)さす。鬢(びん)ひしやげる事なくて、伽羅(きやら)の油少々付るによろしとぞ。小袖或は袷などの裏は、大形(おほかた)紫の絹をつける也。齒のなき下駄(げた)黑塗にして「日和下駄」と號し、白日(はくじつ)に曳(ひき)ならし往來す。赤き絹の切(きれ)淺黃(あさぎ)紫(むらさき)などにて髮をつがね、元ゆひはあまり用ひず。甚敷(はなはだしき)は「かづら」にて鬢をこしらへ置(おき)て、髮を結(ゆは)ずに「つくりびん」をさしこみて、ゆひだての髮の如くして居る也。又京都より「女の髮ゆひ」とて婆々・老女など來り、これに婦人髪をゆふてもらふ。寢て居て「たばこ」吸ながら、髮を梳(すいて)もらふ。男子は身の細き脇指・赤き帶、羽織は殊に長く紐二すぢづつをあはせ、四筋にて隨分長き紐を喜び、それを紐のさきにてむすぶゆゑ、むすびめはへそのあたりにさがりてある也。衣裳の小紋は「うつあられ」とて、「けんぼう染(ぞめ)」はやる、「雨さげ」といふもの、「あせ手ぬぐひ」と「たばこ入」とをふたつの袋に入(いれ)て、左右のたもとに置、その袋へ紐を付てむねへとほし、左右にて袋をさげもつなり。髮は「本多風(ほんだふう)」とてゆひふしの腰高し。「紙入」を「どんぶり」と號し、絹にて袋にこしらへ、其中へ用のものをみだりに押こみて懷中せり。南鐐貳朱銀壹枚、錢八百文の兩がへ程なり、飯米は七斗・八斗に至る。
[やぶちゃん注:読点位置が悪く、かなり読み難いので、特異的に鍵括弧と「・」を使用した。
「白日」青天の昼間。
「けんぼう染」「憲法染」。歴史的仮名遣は「けんばふぞめ」が正しい。染模様の名。灰墨などを用いて、黒茶色に小紋を染めたもの。慶長(一五九六年~一六一五年)の頃、京都西洞院四条の剣術家吉岡憲法(憲房・兼房・建法とも)が初めて染めし出したという。「憲法小紋」「憲法(けんぼ)黒茶」「吉岡染」「けんぼ」「けんぼう」などとも呼称した。
「本多風」名は本多忠勝の家中の者の髪型から広まったとされることによる。江戸中期以降に流行した男子の髪型で、「中剃り」を大きくし、髷(まげ)は高く結んで、鬢には油をつけずに、櫛の目を通し、後の方に油を附けたもの。通人・遊び人が好んだ。「ほんだ」「ほんだわげ」。則ち、一般に知られる「丁髷」(ちょんまげ)のことである。]
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