萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(ふかい路を下つてゆくと) / 筑摩版全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』に載る草稿を整序したものと酷似する(恐らくは同一)詩篇
○
ふかい路を下つてゆくと
たうたうといふ水の音がきこえた
どこかでおほきな瀧が流れてゐる
どこかに夢のやうな神*が眠つてゐる
山みちをこえる旅びとは
[やぶちゃん注:「*」は本底本では判読不能字を示す。筑摩版全集では、まず、前部が強い相似を示す詩篇が「未發表詩篇」に以下のように載る。「とうとうと」「みやまりんどう」の表記はママ。「どこかに夢のやうな橋がながれてゐる」はちょっと不審なフレーズだが、ママ。
*
○
ふかい山みちを步いてゐる
とうとうといふ水の音がきこえるやうだ
どこかに夢のやうな橋がながれてゐる
高い山みちにはのいたゞきには
みやまりんどうの花が咲いてゐた
*
ところが、後に筑摩版編者によって、『本稿は『月に吠える』の「海水旅館」』(決定稿はこれ。リンク先は私のブログの正規表現版)『の草稿と同一用紙の左上方に書かれている。別稿にもとづき一行目末尾に「と」を補った(本卷四九一頁參照)』(これは筑摩版編者の分をはみ出た不当な捏造であるから、上記の電子化では除去した。何より、せめても、その別稿を総て活字化すべきであろう)。『また三行目の「橋」は草稿では瀧となっている。』とある。そこで、その参照指示のある、同全集同三巻の『草稿詩篇「未發表詩篇」』の方を以下に示す。仮題は『○(ふかい山みちを步いてゐると』で、『(本稿原稿二種二枚)』とあるものである。
*
○
ふかい山 谷山路を下つてゆくと
たうたうといふ水の音がきこえた
どこかで 瀧 夢のやうな建築がある
しぜんに谷の底から
溫泉のどこかにでおほきな瀧が流れてゐる
どこかに夢のやうな建築が眠つてゐる
山みちを 建築 たよりない旅びとの心が つかれた旅びとの心に
山みちのくらい竹やぶ のかげから にそふて
山みちをこえる旅びとは眼をあげてみると
まるい山の上にまた山が重なつてゐた、
*
而して、以上の後に、ポイント落ち全体が二字下げで以下の注記がある。
◆
*同じ用紙の前半に次の一行及び四行が書かれている。
ながるるごとき風の海濱の砂丘の上に
高い丘にを風がながれていゐる
風はながれるや
丘 風にふかれてたゝずむ
草をの花
*また同じ用紙裏面には「(ふかい山みちを步いてゐると)」本文と、『月に吠える』の「海水旅館」草稿とが書かれている。
◆
とある。しかし、先に掲げた筑摩版の二種の草稿の後者を整序してみると、
*
○
ふかい山路を下つてゆくと
たうたうといふ水の音がきこえた
どこかでおほきな瀧が流れてゐる
どこかに夢のやうな建築が眠つてゐる
山みちをこえる旅びとは
*
となって、本篇と酷似することが判る。一行目の「ふかい山 谷山路を下つてゆくと」の抹消線が下方の山の最終画に触れていれば、それも削除対象と判読してもおかしくなく、「建築」も、見えない大きな瀧の瀑布音がする、山越えをせねばならぬ奥深い山中に、幻想の「建築」があるとは普通は思わないから、朔太郎のひどい崩し字の「建築」を「建築」とは読めず、それらしい「神*」と誤って読んだとしても、これまた、おかしくない。小学館編者の見たのは、まさしく、この筑摩版に載る後者の原稿であったと私は断言するものである。]
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