曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 犬猫の幸不幸
○犬猫の幸不幸
いぬる十一月廿三日、内藤新宿なる旅籠屋橋本惣八が家にて、河豚を料理ける時、その骨・膓[やぶちゃん注:「はらわた」と訓じておく。]を、家のうらなる子犬と、家に飼うたる猫と、食ひけるに、忽、口より、白き淡[やぶちゃん注:「あは」と訓じておく。]をふき、「くるくる」とめぐり、七轉八倒して、いと、くるしげに見えし程に、犬は、そのまゝ死しぬ。猫は座敷へよろめき上りつゝ、折ふし、座敷の腰張をせんとて、「つのまた」といふものを煮て、盆に入れて置きたるを、此猫、その「つのまた」を啖ひけるに、見るが内に、くるしみの氣色、うせて、平日のごとくに、なりけり。これ、「つのまた」は、魚毒を解すものなるか。それをしりて、猫の食ひけるか。又は、くるしさのまゝに、何となく、くらひしか。自然と、「つのまた」の功によりて、魚毒を解したるにや。とまれかくまれ、犬は、不幸にして、死し、猫は、幸にして、免れたり。畜類すら、瞬遠の間に、幸不幸、かくのごとく、其數あるものなり。
編者曰、「此間に數行を脫したるものなるべし。」。
文寶、一首の秀歌をよみにき。そのうた、
すこやかなみのを養ふ老らくにあやかりたきの音に聞きつる
この一條は、尾州名古屋人、田鶴丸ぬしの物がたりなれば、鶴のはなしを龜屋が聞きとり、「千秋萬歲、萬々歲。」と、目出度、筆をとゞむるになん。
文政乙酉臘月朔 文寶堂散木しるす
[やぶちゃん注:「腰張」壁や襖の下半部に紙や布を張ること。
「つのまた」「鹿角菜(ツノマタ)」は紅藻植物門紅藻綱真性紅藻亜綱スギノリ目スギノリ科ツノマタ属ツノマタ Chondrus ocellatus 。古くから、含有する粘質物を漆喰や壁土などの粘着剤として使用されてきた。博物誌は私の「大和本草卷之八 草之四 鹿角菜(ツノマタ)及び海藻総論後記」を参照されたい。
「編者曰……」これは底本本書の親本である昭和二(一九二七)年から四年にかけて、関根正直・和田英松・田辺勝哉監修によって出版された際の編集者の挿入と思われる。確かに、突然、以下、まるで違う話になっており、その話も唐突な和歌から始まり、『鶴のはなしを龜屋が聞きとり、「千秋萬歲、萬々歲。」と、目出度、筆をとゞむるになん。』という文章が受けるべき前段がない。しかし、それにしても、記号等で囲まれていないのは、甚だ不審(処理不全)ではある。しかも、実はもっと不審があって、この後の遯菴主人の発表「瞽婦殺賊」の後に、突然、以下の文宝堂の識が出現し、これは内容から、この前半の「犬猫幸不幸」の添えたものであることが明白である(但し、最後の署名に「再識」とあるので、追加として挿入したことは判る。にしても、「兎園小説」に纏めるのに、この仕儀は馬琴の不親切と言わざるを得ない。以下に示す。傍線太字は囲み字、太字は囲み字。
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○「本草綱目」云、
鹿角菜【「食性」。】トサカノリ 主治下熱風氣療小兒骨蒸熱勞服丹石人食之。能下石力解麵熱。
○「倭名類聚抄」云、
鹿角菜(ツノマタ)崔禹錫「食經」云、『鹿茸狀似水松【和名「豆乃萬太」。】。』。「文選」、「江賦」注云、『鹿角菜【「漢語抄」云、『和名、同上。』。】。
○「救急選方」云、
食章魚中毒【本朝經驗。】、鹿角菜(フノリ)湯浸化飮之、亦解諸魚毒。
右本章には、「トサカノリ」とありて、魚毒を解する事は見えざれども、「倭名抄」には、「ツノマタ」とあり。「救急選方」による時は、「フノリ」とありて、『諸の魚毒を解く』とあり。されば、「ツノマタ」も、「フノリ」も同物にて、こまかき所を布苔に製し、あらき屑を「角岐」となすものにて、一種一名にして、「鹿角菜」は「フノリ」「ツノマタ」なる事、あきらけし。さるゆゑに、河豚の魚毒を解くるものなるべし。
乙酉臘八 文寶堂再識
兎園、「犬猫の禍福」の條にあはせて、御らん可被下候。
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「本草綱目」は巻二十八の「菜之三」。にある以下。
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鹿角菜【「食性」。】
釋名猴葵【時珍曰、按沈懷遠南越志云猴葵一名「鹿角」。葢鹿角以形名猴葵因其性滑也。】
集解【士良曰、鹿角菜、生海州登萊沂宻諸處海中。時珍曰、鹿角菜、生東南海中石厓間。長三四寸、大如鐵線。分了如鹿角狀。紫黃色。土人采曝貨爲海錯。以水洗、醋拌、則脹起如新。味極滑美。若久浸、則化如膠狀。女人用以梳髮粘而不亂。】
氣味甘大寒滑無毒【詵曰微毒丈夫不可久食發痼疾損腰腎經絡血氣令人脚冷痺少顏色。】主治下熱風氣療小兒骨蒸熱勞服丹石人食之能下石力【士良。】。解麫熱【大明。】。
*[やぶちゃん注:太字は囲み字。]
鹿角菜【「食性」。】
釋名猴葵(こうき)【時珍曰はく、「按ずるに、沈懷遠が「南越志」に云はく、『猴葵、一名「鹿角」。葢し、「鹿角」は形を以つて名づく。猴葵は其の性、滑らか因るなり。』と。】
集解【士良曰はく、「鹿角菜、海州の登・萊・沂(き)・宻(みつ)[やぶちゃん注:山東半島の旧州名。]の諸處の海中に生ず。」と。時珍曰はく、「鹿角菜、東南の海中の石厓の間に生ず。長さ三、四寸。大いさ、鐵線のごとし。分了して、鹿角の狀(かたち)のごとし。紫黃色。土人、采りて曝し、貨(う)りて、海錯と爲す。水を以つて洗ひ、醋(す)に拌(かきまず)るときは、則ち、脹起して新たなるがごとし。味、極めて滑美なり。若(も)し、久しく浸すときは、則ち、化して膠(にかは)の狀のごとし。女人、用ひて、以つて髮を梳(くしけづ)る。粘じて亂れず。」と。】。
氣味甘、大寒。滑。毒、無し【詵(せん)曰はく、「微毒。丈夫。久くは食ふべからず。痼疾を發し、腰・腎の經絡の血氣を損ず。人をして脚を冷痺し、顏色、少からしむ。」と。】。主治熱風の氣を下し、小兒の骨蒸熱勞[やぶちゃん注:骨髄から発する発熱による疲労。]を療し、丹石を服する人、之れを食へば、能く石力を下す【士良。】。麫熱(めんねつ)[やぶちゃん注:本編の「麺熱」ともに意味不明。漢方用語も見当たらない。]を解す。【大明。】。
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『「倭名類聚抄」云……』は巻十七の「菜蔬部第二十七」の「海菜類」第二百二十六の以下。
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鹿角菜(ツノマタ) 崔禹錫が「食經」に云はく、『鹿茸の狀(かたち)。「水松」[やぶちゃん注:海藻のミルのこと。]に似たり。』と【和名、「豆乃萬太」。】。「文選」が「江の賦」の注に云はく、『鹿角菜』と【「漢語抄」に云ふに、和名、上に同じ。】]
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「救急選方」多紀元簡(櫟窓(「れいそう」或いは「ろうそう」)著。文化七(一八一〇)年跋。写本の当該部を「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」のここに発見した。〔 〕は私の添えたもの。
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鹿角菜 章魚[やぶちゃん注:蛸。タコ。]を食ひて毒に中〔(あた)るときは〕【「本朝經驗」。】、鹿角菜(フノリ)〔を〕湯に浸し、化し、之れを飮む。亦、諸〔(もろもろ)の〕魚毒を解す。
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「トサカノリ」紅藻植物門紅藻綱スギノリ目ミリン科トサカノリ属トサカノリMeristotheca papulosa。私の「大和本草卷之八 草之四 雞冠菜(トサカノリ)」を参照されたい。
「フノリ」私が殊の外好きな、紅色植物門紅藻綱スギノリ目フノリ科フノリ属 Gloiopeltis のフノリ類(フノリという和名種はいないので注意)。本邦産種は、
ハナフノリ Gloiopeltis complanata
フクロフノリ Gloiopeltis furcata
マフノリ Gloiopeltis tenax
であるが、食用に供されるのは後者のフクロフノリ・マフノリの二種である。私の「大和本草卷之八 草之四 海蘿(フノリ)」を参照されたい。
『「ツノマタ」も、「フノリ」も同物にて、こまかき所を布苔』(ふのり)『に製し、あらき屑を「角岐」』(つのまた)『となすものにて、一種一名にして、「鹿角菜」は「フノリ」「ツノマタ」なる事、あきらけし』大きな誤り。文宝堂は海藻に疎い。以上の三種の現物さえ見たことがないのであろう。一目瞭然(ツノマタ・トサカノリ・フノリのグーグル画像検索をリンクさせておく。ツノマタとトサカノリは個体によっては似ているものがある)、御覧の通り、素人でも判別出来る。
「河豚の魚毒を解くるものなるべし」大誤り。テトロドトキシンは現在も有効な治療薬はない。
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「田鶴丸」馬琴の友人であることしか判らない。先の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 眞葛の老女』に登場している。]