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2021/11/28

曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 上毛多胡郡碑文註釋抄錄 乾齋

 

   ○上毛多胡郡碑文註釋抄錄

『弁官符、上野國片岡郡綠野郡甘良郡、幷せて三郡内、三百戶郡成給羊多胡郡成、和銅四年三月九日甲寅、宜左中辨正五位下多治比眞人、太政官二品穗積親王、左大臣正二位石上尊、右大臣二位[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、ここに『(正脫カ)』と傍注する。]藤原尊。』。

【「宣」の字、上へかへりて、よむべし。】[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、以上を『〔附箋〕』とする。]

 右の如くに可ㇾ讀。

「弁」の字は「辨」字の代に用る也。天下の政事を司る役所を太政官といふ。知太政官事【後に太政大臣といふ。】、其役所の頭也。その下に「辨官」といふ役あり。此辨官は太政官の中の肝煎、「しまり」となる役也。「符」は、「字彙」に、『驗也。證也。』と註して、『すべて、證據にする書付を「符」と云。』。「辨官、符す。」とは、後の證據の爲に、辨官から、「此碑に書記して置。」と、文の初に、ことはり[やぶちゃん注:ママ。]たる詞也。甘良郡、「和名鈔」には、『甘樂郡』とあり。同事也。「郡となし給ふ」とは、「片岡郡綠野内より、民家三百戶を取分て、新に一郡と定め玉ふ。」といふこと也。「半多胡郡成」とは、「三郡の内、民戶を分て、多胡郡と成す。」といふこと也。「左中辨云々」「藤原尊」とは、「是等の人々、新に多胡郡を置くことを、仰付られたるぞ。」といふこと也。「公卿補任」、『穗積親王は知太政官事。』とあり。是、太政大臣の職分に同じ。「右大臣正二位藤原朝臣」は「不比等」也。「尊」の字は「朝臣」也。「補任」には『朝臣』とあり、「石上朝臣」は「麻呂」といふ人也。

「郡成給」は「郡ト成シ給フ」とよむべし。如ㇾ此の書樣、此邦の古書には、多く、例あり。漢土の文の書樣には、なき事なり。漢土の文の書樣にてよめば、義理、通ぜざるなり。「郡成テ」とよむは、誤也。

「羊」、此「羊」の字は、「半」の字を書誤たる也。上古は、いまだ、文華、開ざりし故、文字のあつかひなど、誤ること、此邦の古書には、間[やぶちゃん注:「まま」。]あることなり。「半」の字、「玉篇」の註に、『物の中分也。ワカツとよむ也。』。然るを、誰人か、其誤を推察せず。文に隨ひ、且、漢土の文をよむ如く、「羊に給フ」と、よみしより、『人の名なり。』と思ひ、剩[やぶちゃん注:「あまつさへ」。]、「大夫」の爵を添て、「羊大夫の墓銘也。」と言傳るは、腹を捧て、絕倒するに、餘りあり。「羊大夫」といふ人、史傳に、曾て見ざるもの也。古の碑は、今の世にていへば、境目の定杭のやうなる物也。「續日本紀」、和銅四年[やぶちゃん注:七一一年。]三月、多胡郡を置ことは見えたれ共、「羊に給ふ」といふことは、見えず。是を證とすべし。

 安永四年乙未閏十二月  伊勢平藏貞丈考

又云、

辨官符。今割上野國片岡綠野甘良三郡中三百戶。新爲一郡。名曰多胡郡。和銅四年辛亥三月九日甲寅。在中辨正五位多治比眞人。太政官二品桔積親王。左大臣正二位石上尊。右大臣正二位藤原尊奉行。

右の如く書けば、分明なるべきに、古代の文、迂遠也。

              平 貞丈 書

右上毛多胡郡古碑の事、古より讀兼たるをもて、東涯子の「盍簪錄」に、此碑の事を論じ、又、東江子など、亦、此古質を論じ置たり。しかれども、皆、以、人口の膾炙する所に過ぎず。獨、伊勢平藏子の解釋、頗、痛快を覺ゆ。今、こゝに錄して、もて、異聞に備ふ。

 文政九年丙戌春二月十五日  中井 豐民

[やぶちゃん注:ここで問題にしている碑文は、現在の群馬県高崎市吉井町(よしいまち)池(いけ)に現存する、国の特別史跡に指定されている古碑(金石文)の「多胡碑(たごひ)」である。「山ノ上碑」・「金井沢碑」とともに「上野三碑」と総称され、また、書道史の上からも「日本三古碑」の一つとされる貴重なものである。建碑は、その内容から、八世紀後半とされている。本碑については、ブログ版「耳囊 卷之二 上州池村石文の事」(二〇一〇年五月公開)、及び、サイト版「耳囊」の一括「卷之二」(二〇一〇年にブログと共時的に公開)の同話で、オリジナルに詳細な考証を行なっているので、そちらを参照されたい。相当に入れ込んで注を作成したものなので、ここでは繰り返す気は、全く、ない。電子化注の差別化を図るために、後者で作成した図等は、前者では省略しているので、是非、後者で見られたい。また、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 四 百合若と八束脛』でも、本碑に言及されてあるため、注を添えてあるから、そちらも参照されたい。

「玉篇」中国の字書。全三十巻。梁の顧野王(こやおう)の撰。五四三年、成立。「説文解字」に倣って、字数を大幅に増加した部首分類体の字書で、後に唐の孫強が増補し、また、宋の陳彭年らが勅命により、増補修訂した。原本の顧野王の写本の一部は日本にのみ現存する。

「定杭」(ぢゃうくひ(じょうくい))は、境界などを規定するために建立した杭。

「安永四年乙未閏十二月」はグレゴリオ暦では旧暦十二月一日で既に一七七六年一月二十一日である。

「伊勢平藏貞丈」「伊勢貞丈」(いせさだたけ 享保二(一七一八)年~天明四(一七八四)年)は江戸中期の旗本(幕臣)で伊勢流有職故実の研究家。ウィキの「伊勢貞丈」によれば、『江戸幕府寄合・御小姓組蕃士。旗本・伊勢貞益の次男』。『有職読み』(中世の歌学で歌人の名を音で読むことに始まった尊敬の訓読法)『でテイジョウと呼ばれることもある』。平蔵は通称。『伊勢氏は元々室町幕府政所執事の家柄であり』、『礼法に精通し、江戸幕府』三『代将軍徳川家光の時に貞丈の曾祖父伊勢貞衡(さだひら)が召し出された』。享保一一(一七二六)年に実兄が十三歳で『夭折して伊勢氏は一旦』、『断絶したが、弟である貞丈が』十『歳で再興』、三百『石を賜り』、『寄合に加えられた。この時』には十二『歳と年齢を詐称している』。延享二(一七四五)年には二十八歳で『御小姓組に番入り、儀式の周旋、将軍出行の随行などにあたった。貞丈は特に中世以来の武家を中心とした制度・礼式・調度・器具・服飾などに詳しく』、『武家故実の第一人者とされ、伊勢流中興の祖となった』。天明四(一七八四)年三月に『致仕し』、『麻布に隠居したが』、二ヶ月後に享年六十七で亡くなった。『有職故実に関する著書を数多く残し』ている。私も数冊を所持する。多胡碑の彼の考証が何に載るのかは、不明。

「東涯子」伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年)京都生まれの儒学者。伊藤仁斎の長子。名は長胤。父仁斎の古義学を受継ぎ、「堀川学派」を充実させた。学問は博覧綿密であったが、仁斎のような独創性はなく、専ら、父の学の整理・補成・紹述に費やした。その著述は経学・文学から、和漢の制度・文法・名物の詳細に及ぶ。「盍簪錄」(こうしんろく/かっしんろく)は考証を中心とした随筆。

「東江子」沢田東江(享保一七(一七三二)年~寛政八(一七九六)年)は江戸生れの書道家・漢学者・儒学者・洒落本の戯作者。元は多田姓であったが、改めた。氏は源、諱は鱗。当該ウィキによれば、宝暦四(一七五四)年に、『兄弟子の高橋道斎に勧められ』、『上毛多胡碑を観に赴き』、『拓本を打ち、のちに』「多胡郡碑面考証」として『上梓した』とある。]

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