譚海 卷之四 同所酒田領こやの濱不動峠等の事
○同國酒田に「こやの濱」といふ所のまさごは、ことごとく小き石の白きにて、沖より望めば白米をちらしたるやうに見えて、うつくしき事いはんかたなし。さればその所の船歌に、「酒田こやのはま 米ならよかろ 沖のべざいに たゞつましよ」とうたふ也。「べざい」は船の異名也。又酒田より越後へ至る山を不動峠といふ、四里半の山中にて喬木のみ生じけり。白晝もうすくらく、甚ものすごき所にして、その間人家なし。往昔(そのかみ)はぬす人(びと)窠(すみか)を結(むすび)て往來をなやませしが、今は昇平に成(なり)て其事なしとぞ。
[やぶちゃん注:標題の「同」は前の「羽州秋田領湯澤百姓聟宇治茶師子どもの事」を受けたもの。船歌には字空けを施した。
「こやの濱」「小屋之濱」或いは「興屋(こや)の濱」で、旧高野浜(こうやのはま)で遊廓があった。サイト「古今東西舎」の「酒田(村社稲荷神社)旧高野浜の表示があります。」を参照されたい。そこに『北新町に、村社稲荷神社があり』、『道路に面した掲示板のところに、旧町名を示す柱が立っていて、このあたりが高野浜であることがわかり』、『掲示板には、弘法大師がこの石の上に腰をおろし、海岸の風景を望見し』、『「高野浜」と命名したと書かれています』とある(写真有り)。その稲荷神社はここ(グーグル・マップ・データ)であるが、「今昔マップ」で見ると、北新町(旧新町)の南西に「能登興屋」の旧地名が確認でき、その西に長大な浜があったことが判る。現在は広大な酒田港に改造されてある。
「べざい」これは「弁財船」で、その同義又は発展型である「菱垣廻船」がよく知られる。私の「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十二章 北方の島 蝦夷 6 和船について」及び「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ 弁財船と打瀬舟」を参照されたい(モースの自筆の船の図が孰れにも載る)。
「不動峠」この名を確認出来ないが、酒田市街からの距離と、大杉の名で「小林の不動杉」というのが、よく一致するように思われる。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。]
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