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2021/11/07

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「一」の(3)

 

 予は熊野牛王の外の牛王を見た事無い故、何とも言ひ得ぬが、熊野の牛王は幼時度々見もすれば、小學校で紛失品あるごとに牛王を呑ますと威されたので、その槪略の容體を覺え居る。烏(からす)を何羽點じ有つたか記憶せぬが、先は倭漢三才圖會に書いた通りの者だつた。盜人などを檢出するには、これを燒いて灰とし水で服むと熊野の社に居る烏が燒いた數だけ死ぬ。其罰が有罪(うざい)の本人に中つて卽座に血を吐くとか聞いた。血を吐くのが怖くて、牛王を呑ますと云ふと、呑むどころか牛王の影をも見ぬうち既(はや)く罪人が自白するを常とした。支那で狼巾(らうきん)を炙(あぶ)つて盜を見出し(酉陽雜俎續集八)、朝鮮人やオツセテ人が猫を殺すべしと威して竊(ぬす)まれた物を取返し(人類學雜誌三〇卷一號二四頁、中島生の寄書、同卷三號一○八頁なる拙文を見よ)、西阿非利加のビニ人が妖巫を露(あら)はすに、イニイ樹皮の擣汁(つきしる)を呑ませ、嘔く者を無罪嘔かぬ者を有罪とする(Dennett, “At the Back of the Black Man's Mind,” 1906, p.191)など似た例だ。西鶴か自笑・其碩か誰かの戯曲、何れにしても帝國若しくは續帝國文庫中に出版された物にも、遊女が起請する每に烏が死ぬるを歎つ[やぶちゃん注:「かこつ」。]詞が有つたと記憶する。之に近似した例、西鶴の萬の文反古三卷三章に、盲僧[やぶちゃん注:「めくらほふし」。]の懴悔話を載せ、在俗の時紙店を營む所へ、武士買物に來たり大金を店頭に遺れ[やぶちゃん注:「わすれ」。]去りしが頓て[やぶちゃん注:「やがて」。]氣付いて尋ね來るを、慾に眼が暮れて無しと答へ通す。詮方無く立歸り、良[やぶちゃん注:「やや」。]有て又彼武士、烏一羽生きたるを持來り、行末を見よと云ひながら其烏の兩目を脇指で鑿出(ほりだ)し抛付けて往つたが、後に其侍は自殺したと知る、其より店主不運續き到り、盲目の乞食僧と成つたと有る。

[やぶちゃん注:「烏(からす)を何羽點じ有つたか記憶せぬ」私は熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を総て参詣し、三種の熊野牛王符(くまのごおうふ)総てを戴き、今、この書斎に飾ってある。サイト「み熊野ネット」のてつ氏の「熊野牛王宝印」の解説では、時代によってカラスの数は増減するが、現在の牛王符では、本宮は八十八羽、那智は七十二羽、新宮は四十八羽の烏文字で五つの文字が表わされてあるとある(当時も確認したが、今回、再度、確認して見たところ、三社とも、この数で正しい。リンク先には熊楠の言っている話が「神にかけて誓う誓約書に」の項に記されてある)。私のブログ・フォト「SCULPTING IN TIME」を見られたい。一番右が熊野本宮大社のそれ中央が熊野那智大社のそれ、一番左が熊野速玉大社(新宮)のそれである。

「支那で狼巾(ろうきん)を炙(あぶ)つて盜を見出し(酉陽雜俎續集八)」同巻の「支動」の以下。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本画像を参考に電子化した(一部の漢字は正字化した)。

   *

予幼時、嘗見說郞巾、謂狼之筋也。武宗四年、官市郞巾。予夜會客、悉不知郞巾何物、亦有疑是狼筋者。坐老僧泰賢云、「涇帥段祐宅在昭國坊、嘗失銀器十餘事。貧道時爲沙彌、每隨師出入段公宅、段因令貧道以錢一千詣西市賈胡求郞巾。出至修竹南街金吾鋪、偶問官健朱秀、秀答曰、『甚易得、但人不識耳。』。遂于古培摘出三枚、如巨蟲、兩頭光、帶黃色。祐得、卽令集奴婢環庭炙之。蟲心慄蠕動、有一女奴臉唇※[やぶちゃん注:「※」=「月」+「閏」。]動、詰之、果竊器而欲逃者。」。

   *

少々、疲弊しているので、オリジナルに訓読する力が出ない。ここは掟破りで、所持する平凡社「東洋文庫」の今村与志雄氏の訳になる「酉陽雜俎」の第五巻(一九八一年刊)の訳を示す。〔 〕は今村先生の割注。

   《引用開始》

 わたしは、幼少のとき、かつて、郎巾は狼(おおかみ)の筋のことだときかされたことがある。

 武宗の四年〔会昌四年、八四四〕、官で郎巾を買いあげた。わたしは、その夜、客と会合したが、だれひとり、郎巾がどういう物か知らなかったし、狼筋であろうかと疑う人もいた。座中の老僧、泰賢が話しだした。

「涇帥(けいすい)の段祐の屋敷は、昭国坊にありますが、かつて銀器を十余点、紛失しました。愚僧は、そのとき、沙弥でした。いつも師にしたがって段公の屋敷に出入りしておりました。段は、それで愚僧にいいつけて銭一千もたせ、西市の胡(こ)人の商人のところにいかせ、郎巾を求めさせました。外へ出て、修竹の南街、金吾鋪(ほ)まできました。たまたま、官健の朱秀にたずねましたら、朱秀は、

『たいへん筒単に手に入る。ただ、人が知らないだけだ』

といいました。そのまま、古い培(ばい)〔塚〕から、大きな虫のようなものを三つ、つまみ出しました。両端に光があり、黄色を帯びていました。

 段祐は、それを入手すると、すぐさま、男女の奴隷を集めさせ、中庭をとりまかせてこれを火に焼かせました。虫は、ふるえてうごめきました。すると、一人の女奴隷の顔と唇がピクピク動きました。問いただしますと、案の定、銀器を盗んで逃げようとしていた者でした」

   《引用終了》

以下、今村先生の「郎巾」の注である。ちゃんと南方熊楠の本篇を注に引いてあるのである。これはもう、引用せずんばならずである(一部を略した)。『案ずるに、宋の銭易『南部新書』(辛)によると、「狼の形状は、狗に似ていて、蒼赤色のものが、もっとも獰(どう)猛である。声をたてるたびに、身体の竅(あな)がみな、沸きたつ。腿(あし)に筋があり、大きさは、雞卵ほどである。さらに、筋が、身体中に、まるで織り、絡(から)げたようにゆきわたっている。もし、盗みを犯して白状しないことがあった場合、この筋を焼き、煙でいぶせば、盗んだ者の手を奇怪な形にひきつらせる云云」』。『銭易の『南部新書』は、段成式の『酉陽雑俎』から引いたと思われる条が多い。彼は、『酉陽雑俎』の愛読者であったらしい』。『なお、南方熊楠は、熊野の牛王を扱った論考「牛王の名義と鳥の俗信」で、牛王を呑ますというと、物を盗んだ罪人が自白する習俗をあげ、「支那で狼巾(ろうきん)を灸(あぶ)って盗を見出し朝鮮人やオッセテ人が猫を殺すべしと威して竊(ぬす)まれた物を取返し、西亜非利加のビニ人が妖巫を露はすにイニイ樹皮の擣汁(つきじる)を呑ませ、嘔く者を無罪、嘔かぬ者を有罪とするなど似た例だ」という(『南方熊楠全集』三「論考」一、一九五二年一月、乾元社刊、東京)。』とある。他にも注がある。是非、買って読まれたい。私の愛読書の一つである。

「朝鮮人やオツセテ人が猫を殺すべしと威して竊(ぬす)まれた物を取返し(人類學雜誌三〇卷一號二四頁、中島生の寄書、同卷三號一○八頁なる拙文を見よ)」「人類學雜誌三〇卷一號二四頁、中島生の寄書」は大正四(一九一五)年三月発行のそれで、中島 生と署名する論文「朝鮮舊慣調査(五)」で、サイト「J-STAGE」のここで当該論文が見られPDF)、その3コマ目の「十六、其他風紀に關する土地特有の慣行」の「三」に出るので参照されたい。そこでは呪的生物として『猫及鰍』(かじか)『を蒸殺すべしと、吹聽』(=詛言・呪言して脅すこと)『するの慣例あり』とある。南方熊楠の論文は選集によって論文名は「猫を殺すと告て盜品を取戾すこと」であるが、残念ながら、上記の「J-STAGE」では電子化されていないが、実は本底本の「俗傳」パートのここにある。短いが、フライングはしたくないので、必要な部分だけ引用すると、『朝鮮に此琴行はるとは予には初耳だがトランスカウカシアのオツセテ人も然する。竊盗に遇ふと方士に贈物して俱に心當りの家に赴き、方士一猫を擁へて[やぶちゃん注:「かかへて」。]、「汝此人の物を抜盜んで返さずば汝の祖先の魂此猫に苦しめらるゝぞ」と詛ふ。すると其家の人果して盜み居らば懼れて盜品を屹度返す。又盜人は誰と心當り無くば、家每に斯く行ひ廻れば、迚も遁れぬ所と盜人進で罪を自白する。オツセテ人は猫犬驢を怪畜とし、他人に困められて[やぶちゃん注:「くるしめられて」。]不平を訴へんとする者前方の祖先の墓上に猫か犬か驢を一疋殺し、彼の祖先某々の爲に殺すと喚はる。其上前方が何とか方付けずに置けば、名ざゝれた祖先どもの魂が殺されたと同種の畜と成る。是れ子孫に取て大不祥なれば、斯くして祖先を詛はれた者急ぎ來つて損害を償ひ和平を求むると云ふ』とあるのを指す。「トランスカウカシア」は「ザカフカス」(カフカスの彼方)に同じで、大カフカス山脈の南側の地域を指す呼称。現在のアゼルバイジャン・アルメニア・ジョージアの三共和国に相当する。他に「外カフカス」「南カフカス」とも称し、この熊楠の音写は英語のそれ「トランスコーカシア」(Transcaucasia)を用いたものである。「オツセテ人」は主にジョージアの構成民族の一つであるオセット人のことであろう。オセット人(Осетин:Osetin)はカフカース地方の山岳地帯に住むイラン系民族で、主な居住地域はカフカース山脈をまたいで南北に広がり、ロシア連邦の北オセチア共和国と(旧「グルジア」)ジョージア国の南オセチア自治州に分かれている。総人口はおよそ六十万人で、オセチア人とも呼ばれる。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。

「西阿非利加のビニ人」不詳。ただ、ナイジェリアで使われる言語の一つに‘Bini’語というのがあることを学術論文で見出せたのみである。但し、次注参照。

「イニイ」如何なる木本植物かは判らないが、熊楠の示した「Dennett, “At the Back of the Black Man's Mind,” 1906, p.191」の原本を「Internet archive」で確認出来た。当該ページはここで、「CHAPTER XIX」の「BINI CUSTOMS」(ビニ族の慣習)の冒頭に出ている。

  *

THE Bini call a wizard AZE but the Jakri word is OLOTCHO which is not very different from the word used by the BAVILI, i.e., NDOTCHI. A person accused of witchcraft is given the bark of the INYI pounded up together with water. If the accused vomits he is considered innocent, if he does not the poison generally kills him, and his guilt is thus proved.

  *

即ち、植物の名前の英語転写の綴りは「INYI」である。

「自笑」初代八文字自笑(?~延享二(一七四五)年)のこと。書肆で浮世草子作者。安藤氏。八文字屋は慶安(一六四八年~一六五二年)頃、京で古浄瑠璃の正本屋として開業し、その二代目(或いは三代目とも)が初代自笑。初代自笑は元禄(一六八八年~一七〇四年)初めに家業を継いだと思われるが、間もなく始めた絵入狂言本の刊行により、家業を大いに伸展させ、他店をリードするに至った。浄瑠璃を執筆していた江島其磧(きせき 寛文六(一六六六)年~享保二〇(一七三五)年:浮世草子作者。本名は村瀬権之丞。京の誓願寺通柳馬場角の裕福な餅屋の村瀬正孝の子であったが、七十作以上の浮世草子作品を書き、元禄末期以降では、最も売れた浮世草子作者であった。ここに出るように江島「其碩」とも書いたようであるので、ここに出るのは彼のことである。西鶴以後の浮世草子界の第一人者で、寧ろ、西鶴以上に同時代、及び、後世に大きな影響を与えた。三十四歳の時、当時の有力な版元であったこの八文字屋自笑の書肆から元禄一二(一六九九)年に刊行した役者評判記「役者口三味線」が成功をおさめて、以後、旺盛な執筆活動を展開した)これが大当たりとなって、その様式は明治に至るまで「評判記」の定型となり、八文字屋は「役者評判記」を金看板として、長く出版し続けた。また、二年後には、その成功に乗じて、其磧に浮世草子を執筆させ、「けいせい色三味線」を刊行。其磧が無署名で著述していため、宝永五(一七〇八)年か翌年頃からは、其磧の著作に対して「八文字自笑」という作者としての署名するようになる。同七年、其磧が、書肆江島屋を開業するころから、其磧と確執を生じ、其磧はこれまでの作品は自作であると主張し、一方、八文字屋では代わりの代作者などを得て争ったが、江島の方の本屋は失敗したこともあり、享保四(一七一九)年には、其磧と連名で和解を宣言、以後の作品には連名で作者を名乗った。元文元(一七三六)年に其磧が没した後は、多田南嶺を代作者に迎えている。自笑は作者として、どの程度まで作品創作に関わったかは疑問だが、その商才で、浮世草子に「八文字屋本」時代を築いた名書肆であった(自笑の部分は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「遊女が起請する每に烏が死ぬるを歎つ詞が有つたと記憶する」先に注したが、サイト「み熊野ネット」のてつ氏の「熊野牛王宝印」の解説中に、『江戸時代になると、遊女と客が取り交わす誓紙にまで熊野牛王が使われ、「誓紙書くたび三羽づつ熊野で烏が死んだげな」と小唄に歌われました。「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」という粋な都々逸もあります。この都々逸、幕末の志士・高杉晋作の作と伝えられています』とある、前者の部分を指す。

「西鶴の萬の文反古三卷三章に、盲僧の懴悔話を載せ……」国立国会図書館デジタルコレクションの「日本古典全集」の「西鶴集 上」(昭和九(一九三四)年刊)の「萬(よろづ)の文反古(ふみほうぐ)」の巻三の「㊂代筆は浮世の闇」で全文が読める。]

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