曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 文政乙酉御幸記
○文政乙酉御幸記
[やぶちゃん注:以下、『承り申候。』までは底本では全体が一字下げ。本篇冒頭は全体が書信の写しのようである。]
廿三日御幸之御歌、いまだ手に入り不申。御當日廿五首、但、御題頂戴にて、其外は、御歌、多し。「廿五日之御詠出」と申す事にて、最早、内々は揃居候へ共、いまだ表向奉行も、夫故、祕し出だし吳不申之由、手に入候はゞ、早々、遣し候樣申候。尤、此度は御兼題なし。
仙洞樣、「修學院御茶屋」より、御内々、上卿・殿上人御供にて、叡山へ御上り被遊、絕頂にて御樂一曲、有之。尤、三管、夫より、東ひらへ、よほど御下り御歸り被遊候由、御丈夫之事と、皆々、恐入候由。「窮遂軒」にて御樂三曲、「下之御茶屋」にて、御樂三曲ほど、御座候よし、承り申候。
[やぶちゃん注:この当時(文政八(一八二五)年)の天皇は仁孝(にんこう)天皇(寛政一二(一八〇〇)年~弘化三(一八四六)年)。
「仙洞樣」仁孝の父で先代の光格天皇(明和八(一七七一)年~天保一一(一八四〇)年)。文化一四(一八一七)年三月に恵仁親王(仁孝)に譲位し、太上天皇となっていた。当時、数えで五十五。
「東ひら」「東比良」で、叡山の東の琵琶湖南部の西岸を広域で言ったものであろう。
「修學院御茶屋」修学院離宮には「下御茶屋 御興寄」・「上御茶屋 窮遂亭」(後に出る)・「上御茶屋 浴龍池」の三つの御茶屋がある。
以下は、頭の「一」を行頭にするほかは、底本では、二行目以下は一字下げ(実際には二行目以降に及ぶものは最後の条のみ)。一の後に字空けを施した。]
一 供奉公卿方御裝束書には、珍敷御色目も御座候よし、近々手に入たく、入御覽可申候。
一 御當日、關白樣、御先に被爲入、准后樣にも御さそひにて被爲入候由。
一 周防守樣には、晝頃、爲御機嫌伺御出、御還り之節は、御路外御歸り、直に御參院、御末廣弐本、御絹三疋御拜領之由。御同人樣、當日御獻上物、表向、鮮鯛一折、御内々御獻上、遠鏡二つ、御組重、御猪口、御小皿五十枚づゝ、中は御煎茶、色々。下は御煮漬物・御菓子と申す事に候。別に下々迄被下候。靑籠まんぢう、燒鯛、是は御供之面々、此分に而行渡り申候由。
[やぶちゃん注:「關白樣」仁孝天皇の義兄鷹司政通。
「准后樣」光格天皇の最後の関白であった一条忠良(以下の最初の歌会で上皇に続いて筆頭で詠んでいる)のことであろう。彼は文政六(一八二三)年に関白を辞めている。彼が正式に准三后となったのは文政十一年であるが、フライングしてこう呼称しても違和感はない。
「周防守樣」この文政八年に京都所司代に就任した石見国浜田藩主松平周防守康任(やすとう)であろう。
「靑籠まんぢう」「蒸籠饅頭(せいろ(う)まんぢゆう」のことであろう。]
○文政八年十月廿三日於修學院御當座
[やぶちゃん注:以下、末尾の作者名は底本では全体が揃えてある。]
冬山 散紅葉落つるこのみをかつひろひかつ分けのぼる冬の山道
ゝゝ みゆきして君がながむる山々の冬のすがたもめづらしきかな 忠良
ゝゝ 冬がれの山のはたかくときは木はみどりあらはに生ひしげりぬる 宗厚
ゝゝ やまぢ行く袖のあらしもさむからで冬をよそめの木ゝぞはえある 永雅
ゝゝ みねふもとおく朝霜も冬の色ひかりおくある山松のかげ 實久
冬野 霜ふかくおけど言葉のいろそへて冬枯しらぬ野べの松がえ 胤定
ゝゝ 冬も猶はる風なびくけふにあひて御幸をあふぐ野べの民ぐさ 資愛
ゝゝ 冬がれの野べのけしきをめづらしとけふしも君はみそなはすらし 公祐
ゝゝ 秋草は露をかけふる花もなき霜にかれ葉の野べの見渡し 隆起
ゝゝ 冬がれし野べのみゆきのあとゝめてつゝる袖にもちよつもるらし 大任俊矩
冬路 としどしのみゆきのひかり見るのべの草葉の霜の花もそひけり 泰行
ゝゝ 冬がれの霜のみちしばふみならしみゆきにつかふ駒ぞいさめる 重成
ゝゝ いく度かさそふあらしにちりぬらん落葉をわたる冬の山みち 基逸
ゝゝ 君が爲しげる眞砂の白たへにおくとも見えぬ道の朝霜 隆光
ゝゝ 置く霜を扶にしらし此あさげわけ行く道はこまもいさみて 永胤
冬瀧 岩がねの落葉色どるたき波にしぐれのいとのけふはかゝらず 爲則
ゝゝ やま風に峯のもみぢをふきたてゝ錦ながらの冬の瀧つせ 公久
ゝゝ 山かぜのさそふこの葉もおのづからよりあはせたる瀧のしらいと 親實
ゝゝ 冬かけて殘るもみぢ葉枝ながらこほりにとぢよ瀧の白いと 有長
ゝゝ 時雨ふる音かとぞ思ふ山の瀧雲のとなりの軒に聞えて 重德
冬池 まつが根にいづるいづみの池なれば冬も綠にいく世澄むらむ 忠良
ゝゝ 冬ながら氷もそめぬさx波の花の春かとむかふ池水 爲訓
ゝゝ 春の名の日影ゆたけき此いけの波さむからずうかぶ松しま 爲則
ゝゝ みそなはす此山かげの池水もふゆのひかりにさぞこほるらむ 有言
ゝゝ 見渡すにきしねの嵐さえくて波うちよする冬の池水 爲和
冬田 かり衣思ひたゝずは朝まだき冬田の面の霜は見ましや
ゝゝ せきわけしあぜの流れの水かれてかり田の面に霜きゆるなり 政道
ゝゝ 豐なる御代ぞとしるやかる跡のいなゝきしげき霜のあら小田 樂山
ゝゝ 稻雲冬獲晚登田。鳥雀驚人收穗邊。一段荒寒終事後。霜花結成白花檀 公說
ゝゝ 冬しるきひえのあらしにふもとなるかり田の苫やこのは散りしく 通修
題者奉行等 爲則
○文政八年十月廿三日於修學院御當座後座
か
十月見紅葉 かく計秋の錦をそのまゝに千しほおりなす冬のもみぢ葉 正通
み
ゝゝゝゝ みゆきする山路はしばし冬來てものこるもみぢに秋を見せけり 家厚
な
ゝゝゝゝ 名もしるき雲の隣の軒近みひときに秋を殘すもみぢ葉 有言
つ
ゝゝゝゝ 露しぐれそめにし雲に此ごろものこるもみぢは御幸まちけん 永雅
き
ゝゝゝゝ 君も臣も見し長月にかはらずてそむるちしほは冬の山かげ 重成
の
ゝゝゝゝ のちとほくましゝ御幸にかみな月ちらぬかひある山のもぢ葉 資愛
ち
ゝゝゝゝ ちしほまでげふの御幸のをりにあへ秋のこしたる木々のもみぢ葉 隆起
の
ゝゝゝゝ のべ山邊秋のこす色もいく千入けふの御幸をまちしもみぢ葉 樂山
み
ゝゝゝゝ みねつゞき比えのねかけて冬枯はしらぬ山とも見ゆるもみぢ葉
か
ゝゝゝゝ 神無月きみの御幸につかへ來てふかきめぐみをもみぢにぞ見る 公久
ひ
ゝゝゝゝ 飛霜著樹作多工。十月山顏水面紅。別有光輝迎玉輦。宛如飾障似屛風 公說
え
ゝゝゝゝ 枝かはす松にならびてもみぢ葉もさかりの色を冬に見るらし 泰行
ち
ゝゝゝゝ ちりはてぬ木々の梢の冬になほ色うるはしくのこるもみぢ葉 永胤
か
ゝゝゝゝ かくもけふみはやす春をまつの嶋の冬にもちらめ峯のもみぢ葉 有長
き
ゝゝゝゝ きみがけふみゆきまちえて冬までもちしほと殘す山のもみぢ葉 實久
や
ゝゝゝゝ 山陰に嵐もしらず冬かけて見する紅葉やみゆきまちけん 韶仁
ま
ゝゝゝゝ またゝぐひあらしもふかず神無月御幸にめづる木々のもみぢ葉 親實
に
ゝゝゝゝ にぎはしきけふの御幸に冬來ても猶立ちそふる山のもみぢ葉 重德
の
ゝゝゝゝ 軒ちかくそめものこさず冬きてのけふも待ちえしもみぢとぞ見る 忠良
こ
ゝゝゝゝ 此冬のけふを御幸とそめそめて色あさからず殘るもみぢ葉 爲知
る
ゝゝゝゝ るり光のます山かけて秋の色を此面かのもに殘す木々かな 公祐
も
ゝゝゝゝ もとよりも御幸を待ちし紅葉かはしられてふゆぞ殘る山陰 祐貞
み
ゝゝゝゝ 御幸をばことしも待ちて嵐吹く冬も紅葉のちらずやあるらむ 通修
ち
ゝゝゝゝ 千重百重なほ山姬は冬かけて霜はもみぢの錦おるらん 爲訓
を
ゝゝゝゝ おのづから錦とぞ見ゆる神無月しぐるxをかの山のもみぢ葉 大江俊雅
も
ゝゝゝゝ もきしほは冬までこえて山陰の御幸も秋とむかふもみぢ葉 爲則
て
ゝゝゝゝ てる色を君みそなはせ冬來てもにしきはえある山のもみぢ葉 基逸
あ
ゝゝゝゝ あきの後もこゝろをそめて神無月名にたつ春にむかふもみぢ葉 雅光
そ
ゝゝゝゝ 空晴れしけふの御幸のあまつ日に冬とも見えずてらすもみぢ葉 隆光
ふ
ゝゝゝゝ ふゆ來ても此山かげにいく千々の秋をのこしてそむるもみぢ葉 胤定
題者奉行等 爲則
右二編は、十二月朔、輪池堂携來於席上所披講者、倂錄于篇左。
[やぶちゃん注:私は短歌嫌いなで、以上の細部にも興味が全く働かないので注さない。一つだけ、後半の歌は各人の冒頭の字(頭にピックアップされてある)をならべると、
かみなつきのちのみかひえちかきやまにのこりもみちをもてあさふ
となり、
神無月のちのみかひえ近き山に殘り紅葉をもて遊ふ
(二句目はよく判らない。「後のみか、比叡」「後の三日冷え」などと考えたが、どうも判らぬ)で、それが一種の当季の折句の一首となるように仕立ててある。]