萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 編註・(無題)(ゆめの中ではやさしい愛憐のこころをうしなはない)
斷 片
[やぶちゃん注:パート標題。この裏に以下の編注(底本ではポイント落ち)が記されてある。]
編註 ノオト、斷片などに書きつけられた作品のうち、未完成のもの並びに前後の部分等が失はれてしまつたものを、「斷片」としてここに一括した。制作年次をすべて分類することは不可能なので、ここでは比較的新しいと思はれる作風のものを最初に置き、漸次古いものに遡るごとく配列した。
[やぶちゃん注:以上が右ページにあり、その見開きの左ページから以下の無題詩篇「(ゆめの中ではやさしい愛憐のこころをうしなはない)」が始まる。]
○
ゆめの中ではやさしい愛憐のこころをうしなはない
ああ いかなればこそ、夢にはかくもしたしき愛感の根ざしをもよほすものを
ゆめよりさむることなかれ。
ゆめよりさむることなかれ。
いまはしづかな風景のゆめにゆすられながら
わたしの心はおさな兒のやうにすやすやと眠つて居る
とほい傾斜をくだつてゆく、乳母ぐるまの中に身をよこたへて。
*この作品は完成してゐたと思はれるが、前半に當る部分が見當らない。
[やぶちゃん注:「おさな兒」の表記はママ。筑摩版全集では、酷似するものが、「未發表詩篇」に同じく無題で載る。以下に示す。同前で「おさな兒」の表記はママ。
*
○
ゆめの中ではやさしい愛憐のこころをうしなはない、
ああ いかなればこそ、夢にはかくもしたしき愛感をもよほすものをの根ざしをもよほすものを、
ゆめよりさむることなかれ、
ゆめよりさむることなかれ。
いまはしづかな風景のゆめにゆすられながら、
わたしの心はおさな兒のやうにすやすやと眠つて居る。
とほい傾斜をくだつてゆく乳母ぐるまの中に身をよこたへて。
一九一六・七
*
クレジットは大正五年七月で満二十九歳(朔太郎は明治一九(一八八六)年十一月一日生まれ)。この年の十月頃に詩集出版の計画を本格化し始め、早くも書名に「月に吠える」を候補として考えており、上京して、挿絵等について、恩地孝四郎と相談、十一月十六日には北原白秋に詩集序文を依頼、十二月中旬には詩集の編集を終えた。「月に吠える」の刊行は翌大正六年二月(奥付は二月十五日発行。感情詩社と白日社の共同刊行。自費出版)であった。
筑摩版全集では、以上の後に、編者注があり、そこに『三九七頁の「(わたしは)」參照。』とある。この「(わたしは)」は原稿では誤字で「(したしは)」となっている(筑摩版編者による消毒補正)。以下に示す。総てママで示す。
*
○
したしは
ああいつも夢の中なる愛憐をかんするときは、
やせ地の草木にさへふかいあはれをさしぐむやうた、
わたしは手素足にじようろをもつてたづさへて
すべての生物つめたい地面の上にそそぎかける、
すべての生物のすべての芽生にそそぎかける、
ああ、いかなればこそ、
ゆめにはかくもやさしき愛憐の根ざしをかんするものを
夢よりさむること勿れ、
夢………
*
而して、後に、編者注が以下の通りに続く(底本では全体が二字下げのポイント落ち)。〈 〉は筑摩版の抹消を指す記号で、〔 〕は筑摩版編者による誤字修正と脱字補填を示す記号である(実際には「向」の右には誤字を示す編者による「・」が傍点されてある)。
◆
* 本稿には以下がない。
* 右端欄外に次の二行がある。
とほい空でかみなりがなる
とほい〈空〉人氣のない傾向〔斜〕の上を乳母〔車〕
* 原稿末尾に五字下げて次の二行がある。
夢よりさむることはくるしい
〈夢よりさむることは〉
◆
さらに、筑摩版全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』に二篇が載る。表記は総てママ。
*
○
遠い空をかみなりが鳴つてゐる、
遠いさびしい傾 野原には平原の野原を、ひくい傾斜がながれている。
*
以上には編者注があり、『本稿左半分に次の行がある』として、
*
夢よりさめ★て また おかなしむなかれ//て 恐れ おろしき//ることなかれ★
とほい傾斜丘のふとをすべる
乳母車の中に眠つてゐる
とほい空傾□をすべりゆく乳母車の中に座りながら
*
とある。※「★」「//」は私が附した。三つのフレーズ候補が並置残存していることを示す。以下、次の別草稿。
*
○
とほい空でかみなりがなる、
とほいさびしい 砂丘傾向をしづかに乳母車のやうなものがすべつてゐる、
わたしは
ああゆめの中なる愛情をかんずるときは
瘦地草木にさへふかい愛情をかんじする。
*
本篇は削除してあるはずの部分が生きているが、まず、最初に掲げたものと同一の原稿と思われる。小学館編者は、削除部分の削除線には気づいていたものの、それを一度は完成された詩篇の後半部の草稿と断片と捉えた結果として、コーダとして復活させたもののように思われる。而して、筑摩版編者がなぜ、「したしは」への参照注を記したかは、小学館編者の注と並べた時、妙にしっくりくる。「(したしは)」という無題詩を、この無題詩「(ゆめの中ではやさしい愛憐のこころをうしなはない、)」の前半原型であった採ると、何んとなく、しっくりくる部分があるからである。]
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