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2021/11/10

伽婢子卷之十一 土佐の國狗神 付金蠶

 

  ○土佐の國狗神(いぬがみ) 付《つけたり》金蠶(きんさん)

 土佐の國、「畑(はた)」といふ所には、其土民、數代(すだい)、傳はりて、「狗神」といふ者を持《もち》たり。

 狗神もちたる人、もし、他所に行《ゆき》て、他人の小袖・財寶・道具すべて、何にても、狗神の主(ぬし)、それを欲(ほし)く思ひ望む心あれば、狗神、則ち、其の財寶・道具の主につきて、たゝりをなし、大熱・懊惱《わうなう》せしめ、胸・腹(むね・はら)を痛む事、錐(きり)にて刺すが如く、刀にて切るに似たり。

 此の病《やまひ》を受けては、かの狗神の主を尋ね求めて、何にても、其の欲しがる物を與ふれば、病ひ、いゆる也。

 さもなければ、久しく病(やみ)ふせりて、終《つひ》には、死すとかや。

 中比《なかごろ》の國守(くにのかみ)、此《この》事を聞《きき》て、「畑」一鄕(がう)のめぐりに、垣(かき)、結ひまはし、男女《なんによ》一人も殘さず、燒きごみにして、殺し給ふ。

 それより、狗神、絕えたりしが、又、

「この里の一族、のこりて、狗神、是れに傳りて、今も是れ、有り。」

といふ。

「其の狗神もちたる主(ぬし)、死する時は、家を繼ぐべき者に移るを、傍(そば)にある人は、見る。」

と也。

「大《おほい》さ、米粒(こめつぶ)程(ほど)の狗也。白黑ある斑(まだら)の、色々、あり。死する人の身を離れて、家を繼ぐ人の懷(ふところ)に飛入《とびいる》。」

と、いへり。

 狗神もちたる人も、みづから、物うき事に思へ共(ども)、力なき持病なり。

 

Kinsan

 

[やぶちゃん注:挿絵は「新日本古典文学大系」版のものをトリミング補正した。一幅のみで、以下の「金蠶」の挿絵。同書脚注で挿絵を解説されて、『金蚕の病にかかった人をに黄金などの宝を与えて病気を回復させる場面』とし、『縁取』りを施した『茵』(しとね)『の上に立膝をして起き上がる憔悴しきった病人』を描いたものとある。]

 

「異國にも、『閩廣(みんくわう)』といふ所には、『蟲(まし)もの』・『咀(のろひ)』おこづる事、多く取扱ふ。」

と、いへり。

 國人(くにうど)に「金蠶(きんさん)」といふ持病、もちたる人、是れを、他人に、おくり移す事、あり。

「黃金(わうごん)と錦(にしき)と釵(かんざし)のたぐひ、其外、さまざま、重寶(てうほう)の物を、道の左に、捨て置く。是を拾ひて、家に歸れば、『金蠶の病』、移り渡る。」

と、いへり。

「其形は、蠶(かいこ)にして、色は黃金の如し。人にとりつきぬれば、初は、二、三ばかり、漸々(ぜんぜん)に多くなり、家の内に塞(ふさ)がり、身を、せむる。打ち殺しても、更に、盡きず。拾ひたる黃金・錦など、ことごとく盡きはてて後に、病ひ、少づゝ、癒(いゆ)。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「犬神」何度もいろいろな話柄の注で書いているが、例えば、「古今百物語評判卷之一 第七 犬神、四國にある事」を参照されたい。繰り返し注する気持ちはない。しかし、この犬神信仰は対象妖獣が頗る小さいことから、「管狐(くだぎつね)」などとの強い親和性が感じられ、その淵源はかなり古層のブラック・マジックの精霊的呪的信仰の一つと私は思っている。

『土佐の國、「畑(はた)」』旧高知県幡多(はた)郡。当該ウィキによれば、明治一二(一八七九)年に『行政区画として発足した当時の郡域は』、現在もある幡多郡内の大月町・黒潮町・三原村と、『宿毛市・土佐清水市・四万十市の全域』、『高岡郡四万十町の一部(大正中津川、折合、芳川、相去、烏手、大正北ノ川、弘瀬、打井川以西)』に相当する非常な広域で、旧『土佐国内の郡で最大の面積を有した。南海道でも牟婁郡に次いで広大であった』とある。原幡多郡がいかに広いかは、ウィキの地図でよく判る。

「中比《なかごろ》の國守(くにのかみ)」「中比」はそう遠くはない一昔前の謂いで、読者の江戸時代から言えば、広義には中世、狭義には室町末期から戦国・織豊時代を指す。この場合は後者でよいか。何故なら、「新日本古典文学大系」版脚注では、『天正二年(一五七四)、一丈氏を滅ぼして、翌年』、『土佐国を統一した長曾我部(ちょうそかべ)元親の代を指すか』とあるからである。但し、当該ウィキによれば、長宗我部元親(天文八(一五三九)年~慶長四(一五九九)年)は、『通説によると』、天正一三(一五八五)年には『四国全土をほぼ統一することに成功したとされているが』、『統一されていないと主張する研究者も複数おり、見解は分かれている』とある。また、彼の人柄や評価には激しいブレがあり、例えば「元親記」では『「律儀第一の人」「慇懃の人」と評され、その他の軍記物でも武勇に優れ仁慈に厚い名君と評している』一方で、『阿波(徳島県)の細川氏の史書である』「細川三好君臣阿波軍記」では『不仁不義の悪人と評している』とあり、また、『年貢に関しては二公一民と厳しく、隠田が発覚した場合には』、彼の示した規定「百箇条」には、『倍の年貢を取り、あるいは斬首にするとしている。また百姓の逃散には厳しい取締りを設けた。このため』、『百姓の逃亡も少なくなかったと』もいうとある。こうした悪評価の一面を認めるとなら、犬神を一部の民間の不穏な淫祠邪教の類いと断じたとしてもおかしくなく、これぐらいな徹底殺戮をしないとは言えない気はする。

「閩廣(みんくわう)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『中国の湖広(湖南・湖北省の古名)』と、『閩粤(びんえつ=福建省)の略称か。「金蚕ノ毒、蜀中ニ始マリ、近ク湖広、閩粤ニ及ンデ浸(ますます)多シ」(鉄囲叢談。本草綱目引用文もほぼ同文)。また、五朝小説の虚谷間抄「池州進士鄒間…」に「金蚕ノ蟲者ハ是ナリ、閩広ヨリ始マリ近ゴロ吾郷ニ至ル」。』とある。この「五朝小説」は本書の種本の一つ。

「蟲(まし)もの」底本・元禄版ともに清音。所謂、「蠱物(まじもの)」で、広義には神霊には、祈ることで他に災いが及ぶようにすること。まじない(呪・咒)をして相手をのろうこと。また、その術(ブラック・マジック)を指すが、ここでは、蠱毒(こどく)のニュアンスも含まれていると言える。古代中国において用いられた呪術で、動物を使うもので、中国華南の少数民族の間で受け継がれている。「蠱道」「蠱術」「巫蠱(ふこ)」などとも呼ぶ。当該ウィキによれば、『犬を使用した呪術である犬神、猫を使用した呪術である猫鬼などと並ぶ、動物を使った呪術の一種である。代表的な術式として』は、「医学綱目」巻二十五の記載に、『「ヘビ、ムカデ、ゲジ、カエルなどの百虫を同じ容器で飼育し、互いに共食いさせ、勝ち残ったものが神霊となるため』、『これを祀』り、そうして発生した最強の『毒を採取して飲食物に混ぜ、人に害を加えたり、思い通りに福を得たり、富貴を図ったりする。人がこの毒に当たると、症状はさまざまであるが」』、『「一定期間のうちにその人は大抵死ぬ」と記載されている』。『古代中国において、広く用いられていたとされる。どのくらい昔から用いられていたかは定かではないが、白川静など、古代における呪術の重要性を主張する漢字学者は、殷・周時代の甲骨文字から蠱毒の痕跡を読み取っている』。『「畜蠱」(蠱の作り方)についての最も早い記録は』、「隋書」の「地理志」に『ある「五月五日に百種の虫を集め、大きなものは蛇、小さなものは虱と、併せて器の中に置き、互いに喰らわせ、最後の一種に残ったものを留める。蛇であれば蛇蠱、虱であれば虱蠱である。これを行って人を殺す」といったものである』。『中国の法令では、蠱毒を作って人を殺した場合あるいは殺そうとした場合、これらを教唆した場合には死刑にあたる旨の規定があり』、「唐律疏議」巻十八では、『絞首刑』、「大明律」巻十九や「大清律例」巻三十では『斬首刑となっている』。『日本では、厭魅(えんみ)』(まじないで人を呪い殺すこと。或いは、呪法により、死者の体を起こして、これに人を殺させること)『と並んで「蠱毒厭魅」として恐れられ』、「養老律令」の『中の「賊盗律」に記載があるように、厳しく禁止されていた。実際に処罰された例としては』、神護景雲三(七六九)年、女官『県犬養姉女』(あがたのいぬかいのあねめ)『らが不破内親王の命で蠱毒を行った罪によって流罪となったこと』(称徳天皇を呪い殺そうとした嫌疑を受けたもので氏の名を犬部と改めさせられた上で遠流に処されたが、その後、宝亀二(七七一)年に嫌疑は讒言であったとして許され、本姓に復している)、宝亀三(七七二)年に『井上内親王』(光仁天皇の皇后で太子他戸親王の母。夫光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、後日、他戸親王も皇太子を廃された(翌年に山部親王(後の桓武天皇)が立太子された)。また、翌宝亀四年には薨去した光仁天皇の同母姉難波内親王を呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、他戸親王とともに庶人に落とされ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉され、同六(七七五)年、幽閉先で他戸親王と同日に亡くなっている。この不自然な死には暗殺説や自殺説も根強い)『が蠱毒の罪によって廃されたこと』『などが』、「続日本紀」に『記されている。平安時代以降も、たびたび』、『詔を出して禁止されている』とある。

「おこづる」「をこつる(おこつる)」が正しい。「誘(おこづ)る」で、うまい事を言ったり、したりして、人を欺き誘ったり、御機嫌をとることを指す。所謂、民間の怪しげな覡(げき)・巫女といった似非シャーマンのことである。

「國人(くにうど)」本邦に話柄を転じた。本邦のそれぞれの国の土着の人々。

「金蠶(きんさん)」「本草綱目」の巻四十二の「蟲之四」の「濕生類二」に以下のように出る。太字は囲み字。

   *

金蠶【「綱目」】

釋名食錦蟲

集解 時珍曰按陳藏器云故錦灰療食錦蟲蠱毒註云蟲屈如指環食故緋帛錦如蠶之食葉也今攷之此蟲卽金蠶也蔡絛叢話云金蠶始於蜀中近及湖廣閩粤浸多狀如蠶金色日食蜀錦四寸南人畜之取其糞置飮食中以毒人人卽死也蠶得所欲日置他財使人暴富然遣之極難水火兵刄所不能害必倍其所致金銀錦物置蠶於中投之路旁人偶收之蠶隨以往謂之嫁金蠶不然能入人腹殘囓腸胃完然而出如尸蟲也有人守福淸民訟金蠶毒治求不得或令取兩刺蝟入其家捕之必獲蝟果於榻下牆隙擒出夫金蠶甚毒若有鬼神而蝟能制之何耶又幕府燕閑錄云池州進士鄒閬家貧一日啓戶護小籠内有銀器持歸覺股上有物蠕蠕如蠶金色爛然遂撥去之仍復在舊處踐之斫之投之水火皆卽如故閬以問友人友人曰此金蠶也備告其故閬歸告妻云吾事之不可送之家貧何以生爲遂吞之家人謂其必死寂無所苦竟以壽終豈至誠之盛妖不勝正耶時珍竊謂金蠶之蠱爲害甚大故備書二事一見此蠱畏蝟一見至誠勝邪也夷堅志言中此蠱者吮白礬味甘嚼黑豆不腥以石榴根皮煎汁吐之醫學正傳用樟木屑煎汁吐之亦一法也愚意不若以蝟皮治之爲勝其天

   *

以下に訓読を試みる。国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年の訓点版本を(ここから)参考にした。

   *

金蠶【「綱目」。】

釋名「食錦蟲」。

集解 時珍曰はく、「按ずるに、陳藏器が云はく、『故錦灰、食錦蟲の蠱毒を療す。』と。註に云はく、『蟲、屈めば指環のごとく、故緋・帛錦を食ふこと、蠶(かひこ)の葉を食ふがごとし。』と。今、之れを攷(かんが)ふれば、此の蟲、卽ち、金蠶なり。「蔡絛叢話」に云はく、『金蠶、蜀中に始まり、近ごろ、湖廣(こくわう)・閩粤(びんえつ)に及んで、浸(いや)や、多し。狀(かたち)、蠶のごとく、金色。日に蜀錦四寸を食するなり。南人、之れを畜ひて、其の糞を取り、飮食の中に置きて、以つて、人を毒す。人、卽ち、死す。蠶(さん)、欲する所を得て、日に日に、他財を置き、人をして暴(には)かに富ませしむ。然れども、之れを遣ふは、極めて難し。水・火・兵刄、害する能はざる所、必ず、其の致す所を倍す。金・銀・錦物を致す所、蠶を中に置き、之れを投ず。路旁の人、偶(たまた)ま、之れを收む。蠶、隨ひて以つて往(ゆ)く。之れを「嫁金蠶」と謂ふ。然らずんば、能く人の腹に入りて、腸胃を殘囓(ざんげつ)し、完然として、出づること、尸蟲(しちゆう)のごとし。人、有り、福淸を守りたり。民、金蠶毒を訟ふも、治求して、得ず。或いは、兩つの刺蝟(しい)[やぶちゃん注:二匹のハリネズミの意であろう。]を取りて、其家に入れ、之れを捕らしめば、必ず、獲れたり。蝟、果して、榻下(たふか)[やぶちゃん注:腰掛の足下。]・牆隙(しやうげき)[やぶちゃん注:障子・衝立・壁の隙間。]に於いて、擒(と)り出だす。夫れ、金蠶は、毒、甚しくして、鬼神の有るがごとくして、蝟、能く、之れを制すること、何(なん)ぞや。』と。又、「幕府燕閑錄」に云はく、『池州の進士鄒閬(すうらう)家、貧にして、一日、戶を啓(ひら)きて、小籠を護る。内に、銀器、有り、持ち歸り、股上に、物、有ることを覺ゆ。蠕蠕として蠶のごとし。金色、爛然として、遂に、之れを撥(はら)ひ去る。仍(すなは)ち、復た、舊處に在りて、之れを踐(ふ)む。之れを斫(き)り、之れを水・火に投ずるも、皆、卽ち、故(かく)のごとし。閬、以つて、友人に問ふ。友人が曰はく、「此れ、金蠶なり。」と。備(つぶさ)に、其の故(ゆゑ)を告ぐ。閬、歸りて、妻に告げて云はく、「吾、之れに事(つか)へること、不可なり。之れを送るに、家貧、何を以つて、生ぜんや。」と。遂に、之れを吞みたり。家人、謂へるに、「其れ、必ず、死寂、苦しむ所、無し。」と。竟に壽を以つて終る。豈に至誠、盛妖を正すに勝(た)へざるや。』と。時珍、竊かに謂へる、「金蠶の蠱、害を爲(な)すこと、甚だ大なり。故に備(つぶさ)に二事を書せり。一たび、此の蠱の蝟(あつま)るを畏れて見ば、至誠、邪に勝るを見るなり。「夷堅志」に言(いは)く、『此の蠱に中(あた)る者は、白礬を吮(な)むるに、味、甘く、黑豆を嚼(か)むに、腥さからず。石榴根の皮[やぶちゃん注:ザクロの根皮。漢方で細菌性・アメーバ性腸炎の下痢及び条虫や回虫の虫下しに用いるが、毒性が強い。]の煎じ汁を以つてせば、之れを吐く。』と。「醫學正傳」に、『樟(くす)の木の屑の煎じ汁を用ひて、之れを吐く。』と。亦、一法なり。愚、意(おもふ)らく、若(しか)ず、蝟の皮を以つて、之れを治するが、勝れりと爲す。其の天なり[やぶちゃん注:「最上の処方である」の意か。]。

   *

一部、意味がよく判らない箇所もあるものの、全体を読むに不審はなく、さらに思うに、これは架空の妖術によって生じた毒虫ではなく、ヒト感染性或いは日和見感染性のヒトの消化器内に寄生する寄生虫のように見えてくる。所謂、回虫などが、多量に寄生すると、「逆虫(さかむし)」と言って、口腔から寄生虫を吐き出すこともあり(江戸時代の記載にある)、多量の個体が寄生すれば、相応に重篤な症状を呈することもある。私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚘(ひとのむし)」の私の注を参照されたい。

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