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2021/11/24

譚海 卷之四 安永中川川浚・新地埋立等所々出來の事

 

○江戸小網町のうら「どうかん堀」は、「あらめばし」の川より潮(しほ)通したるが、安永八年堀留の川をさらへし土をもちて半分埋たて、今は半分より先ばかり元の川の形殘りて有(あり)。三つ股洒井修理太夫殿屋敷前、濱町川の出先より「大はし」の際までも、安永年中埋たてになり新地出來たり。天明四年本所川通り「さらへ」ありし土にて、一つめの川の出先兩國橋のもとへも新地出來たり。同五年夏淺草見附川北側、洒井家の屋敷の脇より新柳橋のきはまで、新地八千兩に川岸通り御定(おさだめ)あり、家作出來たり。藏前新地も同時の事也。

[やぶちゃん注:「小網町」現在の中央区日本橋小網町(グーグル・マップ・データ)。

「どうかん堀」「道灌堀」ではない。小網町三丁目東側の日本橋川の入堀が「稲荷堀」(とうかんぼり)」或いは「十日堀」(とうかぼり)と呼ばれていたのが訛ったもの。「古地図 with MapFan」で日本郵政の「日本橋小網町局」を探して、中央分離ウィンドウの直上に配すると、直下右方に汐留橋で分岐した「稲荷濠」が現われる。これである。なお、まだ、その画面をそのままに! 次の次の注でさらに使う!

「安永八年」一七七九年。

「堀留」先の「古地図 with MapFan」で「日本橋小網町局」を更に北へと移してゆくと、暫くすると、「堀留児童公園」が見つかる。それを上のウィンドウの中央直上に持ってゆくと、直下に「堀江入濠」が出現する。これが「堀留の川」であることが判る。そこを大々的に川浚えした際の水底の土を盛って「稲荷濠」との接続部が塞がれ、「かつお河岸」となって遮断されていることがよく判るのである。これもそのままの方がいい! やはり次で利用出来るから!

「三つ股洒井修理太夫殿屋敷前、濱町川の出先より「大はし」の際までも、安永年中埋たてになり新地出來たり」「洒井修理太夫殿屋敷」は判らぬが、「三つ股」でOK! 私が先月、ものした『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 丙午丁未 (その4)』切絵図を見られたい。そこの隅田川の「田安殿」の東北直近の川に「三ツマタ」とあるのがそれであり、右端にある「新大橋」が、この「大はし」のことである。そうしてその川上直近に、忽然と、隅田川の中に葦原らしき記載が見えるであろう。実は、こここそが、ここで言っている埋立地「中州」(現在、再度、埋立られて中央区日本橋中州となっている。先の「古地図 with MapFan」を汐留橋まで戻って、東北に移動させると、隅田川に合流する。そこに「田安殿下屋敷」というのがあるのが、同じ「三つ股」なのであるの痕跡なのである。ここに江戸時代、実は、一時期、埋め立てられて、繁華な町が存在したのである。ウィキの「日本橋中洲」によれば、明和八年六月十六日(一七七一年七月二十七日)六代目馬込勘解由に『より浜町と地続きになるように埋め立てが行われ』、安永元年十二月十八日(一七七三年一月十日)に「中洲新地」として『竣工した』。安永四(一七七五)年には『町屋が整い、富永町と号した。間もなく飲食店が立ち並ぶ一大歓楽街となり、両国の客を奪うほどの賑わいを見せた。しかしながら、隅田川の流路を狭め』てしまったことから、『上流で洪水が頻発し、また』、『奢侈を戒める寛政の改革の影響もあって』、寛政元(一七八九)年に『取り壊され、芦の茂る浅瀬へと戻った』。なお、『この時の土砂は隅田土手の構築に利用された』とある。はいはい! またまた、まだ、その画面をそのままに! 次の注で、また、さらに使いますよ!

『天明四年』(一七八四年)『本所川通り「さらへ」ありし土にて、一つめの川の出先兩國橋のもとへも新地出來たり』先の「古地図 with MapFan」で隅田川を遡ると、間もなく、東(左岸)に「竪川」(たてかわ)が見えてくる。これが「本所」の「川通り」である。そうして、分岐したその最初の橋が下方では「一ツ目橋」であることが判る。確定は出来ないが、岸のでっぱりからは、両国橋東詰の尾上町・元町という辺りが、新地であったか。さてもさても! 次も! また、使う!!!

「同五年夏淺草見附川北側、洒井家の屋敷の脇より新柳橋のきはまで、新地八千兩に川岸通り御定(おさだめ)あり、家作出來たり」「古地図 with MapFan」で両国橋上流直近の西の分岐を見よ。そこにある「柳橋」が「新柳橋」で、その西の流れを切絵図の方で遡って行くと、「浅草橋」がある。この北詰に江戸城の「淺草見附」はあった(グーグル・マップ・データ)。「古地図 with MapFan」に戻って、そこから少し西に行ったところに、「酒井左衛門尉庄内藩下屋敷」が見えてくる。

「藏前新地」「古地図 with MapFan」で、さらに隅田川を遡ると、西岸(右岸)に蔵前地区が現われる。但し、ここで言っている新地がどこであるかは、ちょっと分からない。ここは江戸の早い時期に「浅草御蔵」が敷設されており、川幅が少し狭くなっている。この西岸のどこかではあろう。対岸は「御竹蔵」で蔵前ではなく両国であり、川沿いには大名屋敷が並んでいるから、こちら側ではあり得ない。]

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