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2021/11/24

曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 狗の物語くさぐさ 琴嶺舎

 

[やぶちゃん注:段落を成形した。]

 

   ○狗の物語くさぐさ【念佛狗・精進狗・狗を啖ふ非人・いづみの里の小狗。】

 文化十二、三年のころ、大江戶の本町河岸に、おかしき牝狗ありけり。

[やぶちゃん注:「文化十二、三年のころ」一八一五年~一八一七年。

「本町河岸」東京都中央区日本橋本町の日本橋川沿いの、この附近か(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 此いぬ、常に囉齋・弱(よろ)法師などの、或は、木魚をうち鳴らして、讀經念佛しつゝ、人の門に立ことあれば、必、そのあとべに踉て、共に念佛を唱る如く、

「ワアワア」

と吠ながら、送りゆくこと、數町に及べり。この故に、ともすれば、他町の牝いぬに、噬伏られて[やぶちゃん注:「かみふせられて」。]、やうやく逃て歸る日も、多かり。

[やぶちゃん注:「囉齋」「ろさい」。本来は、僧が四方を巡って托鉢して歩きつつ、供養を請うことであるが、ここは転じて、僧形の乞食坊主の意であろう。「羅斎」「邏斎」とも書く。

「弱(よろ)法師」同前。よろした法師で、乞食坊主。]

 はじめの程は、あたりの人も、

「奇。」

として、駭嘆せざるものなく、憐むものもありしかど、遂に、目に馴れ、耳に熟して、

「念佛いぬ。」

と呼びなすのみ。怪しむことも、なくなりぬ。

 このごろ、予、件のよしを老侯に話し申せしに、さるすぢ、おはするさがなれば、いたく嘆賞し給ひて、

「われ、そのいぬを得まくほりす。ぬしあらば、とにも、かくにも、はからひてよ。」

と仰らる。

[やぶちゃん注:「老侯」正編でもしばしば登場した先代の第八代松前藩藩主松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)。彼は文化四(一八〇七)年五十四の時、藩主在任中の海防への取り組みの不全や、吉原の遊女を妾にするなどの素行の悪さ(遊興費が嵩み、商人からの借金が嵩み、藩の財政も窮乏していた)を咎められ、幕府から謹慎(永蟄居)を命ぜられていた(後の文政五(一八二一)年には謹慎は解かれた)。発表者である馬琴の長男琴嶺舎滝沢興継は松前藩の医員であった。]

 はじめ、件の趣を、かの町の藥店なる長崎屋平左衞門といふものに、まさしく聞たることなれば、彼長平に、よしを告て、

「しかじか。」

と、かたらふに、

「件のいぬには、ぬしも、なし。かれが小狗なりしころより、奴婢どもの、あはれみて、物くはせなど、せしかば、近隣にては、『長崎屋の狗なり』といふめれど、まことは、さに候はず。さるを、思ひがけもなく、あて人の求め給ふは、こよなき、いぬの幸ひなれ。かさねて、おん使を給はする迄もなく、みたちへ率して、まゐらせてん。あな、かたじけなき事にこそ。」

と、ほゝゑみながら、うけ引けり。

 かくて次の日、長平は、件のいぬを小ものに率して、みづから宰領して、まゐりにければ、老侯、歡び、大かたならず、長平には、かづけ物を給はりつ。

 狗は、やがて、南の、とのゝ庭に繫し給ひけり。

 是より後、件の狗は、武家の後園にかはれつゝ、只、粱[やぶちゃん注:「おほあは」。]・肉に飽るのみ。鉦鼓・讀經の聲を得聞かず、法師のしりに、つくよし、なければ、「あだしいぬ」に異ならで、亦、しいだしたることもなく、をること、既に四、五年にして、一日、病て斃れけり。

 按ずるに、むかしも、この狗に似たる、あり。

 「幸庵對話記」に云、『何頃の事か、城州鞍馬毘沙門天、百日の開帳あり。然るに、嵯峨より、鞍馬迄、行程三里の所、百日の「中日參」の犬、有、一日も怠ること、なし。參詣の人も是を見しりてあはれみ、途中にて辨當の飯・肴等を喰せけるに、少しも腥き香あれば、くらはず。「扨は。精進するか。」とて、ためし見るに、察しの如く也。よりて、精進物を與れば、尾をふりて、啖ひけり。是、嵯峨の在所の犬なり。數日の事故、普く人の見知れる也。』と、いヘり。

[やぶちゃん注:「幸庵對話記」安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将渡辺幸庵(天正一〇(一五八二)年~宝永八(一七一一)年)の語ったものを加賀藩士が記したとされるもの(後述)。ウィキの「渡辺幸庵」によれば、『諱は茂、通称は久三郎、号は幸庵。柳生新陰流を修めた剣客ともいわれる。ただし、これらは事実と異なる可能性がある(後述)』。摂津国生まれで、当初は『徳川氏に仕えて駿河国に入り』、『出仕』し、「関ヶ原の戦い」の『際は徳川秀忠の下で大番頭を務め、以後』、慶長一八(一六一三)年に『伏見城番』、元和五(一六一八)年に『駿府城番』、寛永二(一六二五)年に『二条城番に当った。江戸幕府』第二『代将軍』『徳川秀忠の代になり、その子』『徳川忠長の傅役に選ばれるも』、寛永一〇(一六三三)年に『忠長が領地没収の上、切腹させられた後は浪人となった』。『以後は幸庵と名乗り、諸国巡礼の旅に出て、中国・天竺・ベトナム・タイを』四十『年ほど』、『放浪』し、『帰国して』、さらに三十年後の宝永六(一七〇九)年には『加賀藩主』『前田綱紀の元へ身を寄せ、旅の経験を加賀藩士』『杉木義隣に』「渡辺幸庵対話」という『本にまとめさせ』たという。『その中で「島原の乱の』折りは、『板倉重昌が討たれた現場にいて』、『その遺骸を担いで逃げた」「ベトナムとタイの間には砂漠があり、風の力で進む舟で移動する」「ミイラ採りと出会った」などの証言を残している。また、本の中で上泉信綱と同世代で細川忠興の客人である竹村武蔵という剣客にふれる記述』『があり、柳生宗矩との比較として、「但馬(宗矩)にくらぶれば、碁にていえば井目(せいもく)も武蔵強し」と竹村武蔵の方が実力は上と評している』。宝永八年に百三十歳で死去したとする。しかし、この『高齢は考え難く、話の内容に荒唐無稽なものや』、『当時の世相に反したものも多く、以下に述べる』「寛政重修諸家譜」内の『「渡邊茂」の記述と矛盾する点が多々あるため、架空の人物、または渡邊茂を偽称した別人ではないかとする説もある』。「寛政重修諸家譜』に『おける「渡邊茂」の記述は』「渡辺幸庵対話」に『おける幸庵の申告と以下の点で大きく異なる』とあるが、以下はリンク先を読まれたい。詐術師或いはパラノイアの一種であろう。]

 この條りの歲月を定かに示さざりけるは、黃耈の人の遺忘なるべし。

[やぶちゃん注:「黃耈」「こうこう」で、皮膚が黄ばみ、老斑ができた老人の意。]

 さりけれども、かの翁の、親しく見もし、聞もしつることの如く聞ゆれば、もし、是、寬永前後の事歟、さらずば、延寶以來なるべし。いかにとなれば、件の渡邊幸庵翁は、寬永中、駿河亞相家御減亡の後、浮浪人となりて、海外を遍歷すること、四十二年と言、かくて歸朝して京郡にをり、最後に江戶の大塚に閉居して、寶永八年某の月日、一百三十歲にて身まかれり。此年紀を推すときは、寬永前後の事にやあらん。しれる人にたづぬべし。

 そもそも、此ふたつのいぬは、その時を、おなじうせず、その趣の異なれども、畜生にして、おのづから佛性あるものに似たり。

 これらは「榮花物語」に藏せられたる、牛佛のたぐひとは、いはまし。

[やぶちゃん注:「榮花物語」古くは「栄華物語」ではなく、かく表記した。言わずもがなの歴史物語で全四十巻(正編三十巻・続編十巻)。作者については正編が赤染衛門で、続編は出羽弁とする説が流布しているが、書誌上では作者は未詳である。正編三十巻は万寿五(一〇二八)年から長元七(一〇三四)の間の、続編十巻は寛治六(一〇九二)年から嘉承二(一一〇七)年の間の成立とされる。「牛佛」(うしぼとけ)の話は正編後半の巻第二十五に出る。一般に「関寺(せきでら)の牛仏」(関寺は近江国逢坂関の東にあったとされる寺であるが、現存せず、位置も定かでない)として知られる話である。所持する昭和四〇(一九六五)年岩波書店刊の「日本古典文學大系」第七十六巻「榮花物語下」から引く。底本はベタであるが、読み易さを狙って段落を成形し、読点や記号も私的に追加した。読みは一部に留めつつ、オリジナルの添えた箇所もある。校訂記号は略した。踊り字「〱」は正字化或いは「々」とした。

   *

 この頃、聞けば、逢坂のあなたに、關寺といふ所に、牛佛、現(あらは)れ給て、よろづの人參り見奉る。年頃この寺に、大きなる御堂建てゝ、彌勒を造り据ゑ奉りける。

 榑(くれ)[やぶちゃん注:丸太(の)。]、えもいはぬ大木どもを、たゞこの牛一つして、運びあぐる事を、しけり。

『あはれなる牛。』

とのみ、御寺の聖(ひじり)、思(おもひ)わたりける程に[やぶちゃん注:思案を巡らしていたところに。]、寺のあたりに住む人、借りて、

「明日(あす)、使はん。」

とて、置きたりける夜の夢に、

「我は迦葉(かせう)佛也。『この寺の佛を造り、堂を建てさせん。』とて、年頃するに、こそあれ、たゞ人は、いかでか、使ふべき。」

と見たりければ、起きて、

「かうかう、夢を見つる。」

と、いひて、拜み騷(さは)ぐなりけり。

 牛も、さやにて[やぶちゃん注:さっぱりとした印象で。]黑くて、さゝやかに、おかしげにぞありける。

 繫がねど、行き去る事もなく、例(れい)の牛の心ざまにも似ざりけり。

 入道殿[やぶちゃん注:道長。]をはじめ奉りて、世中におはしける人、參らぬなく、まいりこみ、よろづの物をぞ奉りける。たゞ、帝(みかど)・東宮・宮々ぞ、えおはしまさゞりける。

 この牛佛、何となく、心地、惱しげにおはしければ、

「疾(と)く、うせ給べき。」

とて、かく、人參りこみて、この聖[やぶちゃん注:この関寺の僧。]は、

「御影像(みえいざう)を書ゝむ。」

とて、急ぎけり。

 かゝる程に、西の京に、いと尊(たうと)く行ふ聖の夢に見えけり。

「迦葉佛、當入涅槃(たうにうねはん)のだむ[やぶちゃん注:「段」。丁度、その時。]なり。智者(ちさ)、當得結緣(たうとくけちゑん)せよ。」

とぞ見えたりければ、いとゞ人々、參りこむ程に、哥よむ人も、あり。和泉[やぶちゃん注:和泉式部。]、

  きゝしより牛に心をかけながらまだこそ越えね逢坂の關

 人、あまた、聞ゆれど、同じ事なれば、書ゝず。

 日頃、この御(おほん)かた、書ゝせて、六月二日ぞ、

「御眼(おほんまなこ)入れん。」

としける程に、その日になりて、この御堂を、この牛、見巡りありきて、もとの所に歸り來て、やがて、死にけり。

 これ、あはれにめでたき事也かし。

 御かたに、眼(まなこ)、入れける折ぞ、果て給にける。

 聖、いみじく泣きて、やがて、そこに埋(うづ)みて、念佛して、七日(なぬか)、七日に、經・佛供養じけり。

 後に、この書きし御かたを、内にも、宮にも、拜ませ給ける。

 かゝる事こそ、ありけれ。

 まことの迦葉佛、この同じ日ぞ、かくれ給ける。

 今は、この寺の彌勒供養ぜられ給、この聖も、いそぎけり[やぶちゃん注:その支度を早くにした。]。

 草を、誰(たれ)も誰も、とりて參りける中(なか)に、參らぬ人などぞ、ありければ、それは

「罪深きにや。」

などぞ、定めける。

   *]

 さるを又、人形[やぶちゃん注:「ひとがた」。人間のなり。]にして獸腹[やぶちゃん注:「ひとがた」に対して「けものばら」と訓じておく。]のものも、ありけり。

 文政六年の冬のころ[やぶちゃん注:一八二三年。但し、以下に出る十二月一日は既に一八二四年一月一日である。]、好みて狗を啖ふ[やぶちゃん注:「くらふ」。]非人あり【俗に「菰かぶり」といふものなり。】。

 このとしの十二月、昌平橋の外のかた[やぶちゃん注:ここの北側。]にて、ある人の見たりしは、

「小狗を、生ながら、食ひ盡せし。」

といふ。又、元飯田町の中坂[やぶちゃん注:この中央辺りか。]なる萬屋が店のほとりにても、食へり。この時は、死したる小狗一隻(ひとつ)と、猫一隻と、繩をつけて、率もて來つゝ、その小狗の毛を、ふき、皮を剥て、大腸・小腸をつかみ出し、啖ふ有さま、いふべうもあらず、これを見るもの、堵の如く、しばらくみちを去りあへざりしを見きとて、人の家嚴[やぶちゃん注:琴嶺舎興継はこれで「ちち」(=馬琴)と読ませることが殆んど。]に告げり。

 この非人の體たらく、蓬頭・裸體に、菰を着て、陽物をあらはし、婦女子を見れば、必、追ひけり。年の齡は四十前後なるべきか。その齒のしろきこと、水晶の如し。こは、每に[やぶちゃん注:「つねに」と訓じておく。]獸肉を生にて食ふ故なるべし。

 其年も、くれゆく程に、多く筋違御門[やぶちゃん注:「しづかひごもん」は「古地図 with MapFan」で秋葉原駅を中央右に示せば、下方中央に現われる。その北詰の川沿いが、広い巷路となっている。]外なる廣巷路にをり。

「ある日、『狗を捕ん』として、誤て、その膝を噬傷られ[やぶちゃん注:「かみやぶられ」と訓じておく。]しより、走ること、はじめのごとくならず。」

など、いふものありしが、こののちは、いかになりけん、次の年に至りては、絕て、噂も、聞ざりき。

 或はいふ、

「件の非人は、よしある家の二男なりしに、慢心によりて、狂亂せしもの也。後には所親に棄られて、終に無宿になりし。」[やぶちゃん注:「所親」は「しよしん」。「親しい間柄の人」の意もあるが、ここは加えて「遠い血縁関係の親戚」(さえからも)の意でとる。なお、幕府の正式な処罰としての「非人落とし」があるが、ここは狂乱したものの、処罰されるような刑事事件は起こさず、親類縁者から縁を切られ、無宿流浪人となり、そのまま被差別民であった非人の仲間となったという経緯であろう。]

といへり。

 しかれども、其體たらく、よしあるものゝ落魄したる狂人とは、見えざりき。前の說はそら言なるべし。

 これらは、近き事にして、もろ人、なべて、知ることながら、筆のついでにしるすのみ。

 是より先、文政二年の秋のころ、出羽の久保田に程ちかき、「いづみ」といふ處なる人のかひける狗、生れて半歲ばかりなるが、よく、あるじのいふことを聞とりて、その使るゝこと[やぶちゃん注:読み不明。「ゝ」は衍字で「つかへること」と読みたくなる。]、大かたは、六、七歲の小兒の如し。譬ヘば、その狗にむかひて、

「何をもて來よ。」

といふに、ほとりには、なきものなりとも、たづねもとめて、銜み來つ[やぶちゃん注:「はみきつ」。]。又、

「何がしを呼べ。」

といへば、やがて、その人のもすそを銜み、引もて來るに、來らざれば、絕て、はなさず。

 これらの所作事、每に、奇ならずといふことなければ、をちこち、人の傳へ聞えて、

「見ん。」

とて、日每に群集せしかば、あるじは、

「狗を、ぬすまれんか。」

とて、人には、みせずなりしとぞ。

 この一條は、久保田藩なる茂木巽【名は知利、號、蕉窓。】と、いひし人、當時、家嚴に消息して、「云々」と告來したれば、予も、この事を、はやく聞にき。茂木は、おとゝし、古人になりぬ。件の狗、成長したりや否を、しるよし、なけれども、猶、年たけて、その智、進まば、陸機が黃耳に劣らざるべし。

[やぶちゃん注:「陸機が黃耳」「公益財団法人 日本習字教育財団 観峰館」の公式サイト内の「黄耳寄書図」(清末民初の画家沈心海の幅画像有り。拡大画像は横向きなのでデスクトップに保存して回転させる必要がある)に、『西晋の時代、陸機』(二六一年~三〇三年)『という文学者で政治家がいました。彼は黄耳』(こうじ)『という名の犬を飼っており、とても可愛がっていました。陸機が都に仮住まいをするようになってから、しばらく故郷の家から便りが途絶えていました。あるとき』、『陸機は笑いながら』、『黄耳に「我が家から全然手紙が来ないんだ。お前に手紙をことづけたら、返事を持って帰って来てくれるかい?」と語りかけました。すると』、『犬は尻尾を振って吠えたので、陸機は手紙をしたため竹の筒の中に入れ、それを犬の首に掛けてやりました。犬は道を探すと』、『南へと走って行き、ちゃんと家にたどり着き、返事をもらって帰って来きました。その後、家との手紙のやり取りは』、『ずっと黄耳がつとめました。「黄耳寄書」は、一種の忠犬話であるとともに』「家からの手紙を届けること」『という意味でもあります』とある。]

 物の氣質の禀たること、情狀、異同ありといへども、狗にして人に等しく、人にして狗にだも及ばざるもの、かくの如し。いと怪むべきことならずや。

 この他、家嚴の「放言」中に、「人狗」・「妖狗」・「古犬の名」・「犬神」等の考ありて、その題目を出されたれども、稿本、いまだ全からねば、窺ひ見ることを得ざる也。さてもこの春の發會には、『何をがな』と思ふのみにて、出處、まさしき異聞も、あらず、支干[やぶちゃん注:底本では『支平』であるが、吉川弘文館随筆大成版で訂した。]たまたま、「丙戌」[やぶちゃん注:「ひのえいぬ」。]なる。「狗」にちなみし「ゑせ物語」は、世にいふ「門の瘦いぬ」にこそ。

 文政九年二月もちの日    琴嶺しるす

[やぶちゃん注:『家嚴の「放言」』曲亭馬琴(滝沢瑣吉(さきち)名義)の考証随筆「玄同放言(げんどうはうげん)」。息子の琴嶺と、彼の友人であった渡辺崋山画。一集は文政元年(一八一八)、二集は三年(一八二〇)刊。主として天地・人物・動植物に関し、博引傍証して著者の主張を述べたもの。「玄同」は「無差別」の意。吉川弘文館随筆大成版で所持し、目次に「卷五 動物部」の「第六十」「狗【狗妖並人狗附】」とあるものの、実は本書は「卷三」までで以下は遂に未刊であった。もともと書こうとしたが、書かれなかったと考えるべきか。或いは草稿は散逸したか。]

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