「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 黑いオルガン
黑いオルガン
ほのぼのとした薄暮
とある廣間のしきものの上を
しづかに縱橫に私の足が步き廻る
ああ この花瓶 香の高い花
もちろん 私について この問題は未定である
しかしそれは
それよりも尙しつかりとすることは
私自身の生活だ
結婚、それはまだ遠い未來の宿題だ
向ふへなげつけろ
くらい何もかもそこは運命のゴミステバだ
そして ああ なんといふしづかな夜がくるのだらう
空佩のしんめりとしてゐることはどうだ
しばらくこの戶外の眺望はどうなのだ
私はきく どこかで音樂 夕風に匂ふオルガンを。
この黑い沈痛な何といふ重たいメロヂヤ
たれがそこに坐つてゐる?
戶外の遠い敎會の屋根下に
お彈き オルガン オルガン オルガン
ああ この運命よ いまこそどうにでもなれ
そのすべてのパイプをぬけ パイプをぬけ
黑い大きなオルガン
何もかも 憂愁は不自然な病的生活
その害毒の廢れた夢
しづかに生ぬるく白い薄暮の中にふるへる音樂
その感情をつつむ黑いオルガン。
[やぶちゃん注:底本では、ただ、『ノオト』とする。筑摩版全集では、『草稿詩篇 「原稿散逸詩篇」』に『靑猫草稿(黑い風琴)』と標題して、上記「黑いオルガン」の収録するものの、そこに編者注があって、『小學館版『萩原朔太郞全集』に收錄されているが、元原稿は現存していない。』と注する。大正一二(一九二三)年一月二十六日に刊行した第二詩集に載る「黑い風琴」は私の「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 黑い風琴」を見られたいが、実は筑摩版全集では、『草稿詩篇「補遺」』と標題するパートに、非常に長い、『黑い風琴(靑猫)』『(本篇原稿四種五枚)』として全集編者の仮題を名打ったものがある。ここでそれも示しておくこととする。濁点脱落らしき物や、脱字・誤字(誤表現)歴史的仮名遣の誤りは総てママ。□は底本の判読不能字。
*
○
おるがんをお彈きなさい 女のひとよ
女あなたは黑い衣裝をきて
大きな黑いおるがんの前に座りなさい
あなたはの手の指はおるかんを這ふのです、
かるく やさしく、しめやかに、雨雪のふる音のやうに
おるがんをおひきなさい 女のひとよ
おるがんをおきにて 女のひとよ
ああ この黑い黑い大きな 風琴 悲しみ、まつくらな恐し□□恐しい音樂、夢魔の祕密 ささやき音樂
だれかそこにで唄ふのか
だれかそこでしとしとと泣いてゐるか
そのああ おおこのひとつの大きな巨大な黑いおるおるがん
不思議な家根屋、あやしき死の戰慄
おるがんをおきなさい女のひとよ、
おるがんをおきなさい女のひとよ
私は記憶する
ああこの恐しい夢の中の黑い風琴
[やぶちゃん注:ここで切れているものとも思われる。以下の二行が字下げされており、詩篇名候補並置と思われるからである。]
風琴を彈く
黑い風琴
おるがんをお彈なさい 女のひとよ
あなたは黑い着物をきて
おるがんの前に座りなさい
あなたの手ははおるがんを這ふのです
かろく やさしく しめやかに 雪のふつてゐる音のやうに
おるがんをお彈きなさい 女のひとよ
おるがんをお彈きなさい 女のひとよ
おるがんをお彈き
だれがそこで唄つてゐるのか
だれがそこでしんめりと聽いてゐるの
ああ このまつくろな恐ろしい憂鬱の闇の中で
べつたりと壁にはりついて
恐ろしい巨大な黑い風琴を彈くのはだれです
宗敎のはげしいき感情そのふるえ
戰慄
病氣した するぱいぷおるがん れくえれえむ
けいれん
[やぶちゃん注:「戰慄」と「けいれん」は並置残存。]
お祈りなさい 病氣のあるひとよ
恐ろしいことはないのです
私たちは生きてゐるのです
恐ろしい時間はないのです 人生は 時は
お彈なさい、お彈ひきるかんを やさしく、しづかに、あなたのたましひしんめりとめやかに雪のふるやうに
あなたのたましひいのちの上にふりつむ雪をきくやうに
お彈きないおるかんをまつ黑 い の陰氣なおるがんを
おるかんをお彈なさよ、 あなたは、 お彈きない、
おるがんをお彈(ひ)……。
ああ この亙大な黑い風琴
あなたは幽靈ですか、神樣ああまつ黑の長い着物をき
あなたは さむしく、 やさしく孤獨におるかんをお彈なさい
しぜんに□□感情のしづまるまで
恐しい□□あなたは孤獨で大きな黑いめろぢやおるがんをおきなさい
○
恐ろしいことはない 恐ろしい時間はないのです
お彈きなさいおるがんを
やさしく しづかに しめやかに
いのちの上にふりつむ雪をきくやうに
お彈きなさいおるがんを
おるがんをお彈きなさい 女のひとよ
ああ まつ黑の長い着物をきて
しぜんに感情のしづまるまで
あなたは大き
恐ろしい憂鬱の暗の中でに
あなたは大きな黑いおるがんをお彈きなさい。
あなたは孤獨で
ああいつも私の心の底に身を投げてすすり泣くやさしきやさしき高尙の 戀びとよ情藻の戀びとよ愛の夫人よ、
いともけだかき情藻の家の夫人よ。
[やぶちゃん注:ここに『*前半部の原稿は現存しない。』編者注がある。]
○
恐ろしいことはない 恐ろしい時間はないのです
お彈きなさいおるがんを
やさしく □とうゑんに しめやかに
大雪の□□□ふりつむときの松の□の葉の□□は□□□綠のやうに
いのちの上に光を投げかけてお彈きなさい
お彈きなさいおるがんを
おるがんをお彈きなさい 女のひとよ
ああ まつ黑のながい着物をきて
しぜんに感情のしづまるまで
あなたは大きな黑い風琴をお彈きなさい
恐ろしい憂鬱の暗の中で
ああ いつも私の心の底に身を投げてすすり泣く
あなたはいつも身を投げて私の心の底にすすり泣く
あなたは
ああ 何といふ烈しいく憂陰影なる感情のけいれんよ。
*
以上の最後に、またしても、『前半部の原稿は現存しない。』と編者注がある。]
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