萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 路次
路次について
路次についてある種の人々の中では一種の不可思議な迷信が信じられる
裏町のまづしい人々の住んでゐる町々の路次は甚だしく複雜してたいていは迷路のやうに入りこんでゐるものである
ことに人氣のないさむしい裏通りなどで路次を發見したとき私はたいていの場合に一度は通りぬけて見ないと氣がすまない
私の考へでは、全く思ひがけない不思議な裏町がいつもかうしたまづしい路次の向ふ方にあるやうな氣がする
その通りは夢にも豫期しなかつた素晴しいもので
街路は花瓦斯で畫のやうに明るく
見あげるやうな建物と建物の間を磨きあげた馬車や自動車がまつ黑になつて通る
実際その立派なことと賑やかなことでは世界第一といつてもいい位ひであるのに
不思議なことには
今まで、だれにも知られずにゐた。
それは人々の
夢の中で忘れられてゐた悲しいまぼろしの路次である。
[やぶちゃん注:歴史的仮名遣の誤りはママ。また、「路次」は「ろし」で「ろじ」とも読むものの、これは「行く道の途中・途次・道筋」の意であって、ここで朔太郎が指す「路地(ろぢ)」の意は全くないので、完全な誤用である。萩原朔太郎の誤った私的慣用表現はかなり多く、しかも深刻で、恐らく誰からか指摘されても、頑なに直さなかった偏執的固執があったものと思う。ルーティンの偏執行動も多く指摘されており、病跡学的には萩原朔太郎はかなり興味深い対象ではある。
本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、本底本に先行する小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]