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2021/11/22

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 蒲の花かたみ / 「兎園小説」(正編・全十二集)~完遂

 

[やぶちゃん注:本篇の本文は「曲亭雜記」第一上に載るので、国立国会図書館デジタルコレクションのここからを底本とした。表記はそれに従い(歴史的仮名遣の誤りもママ)、読みは一部に限り、一部の読みは送り仮名で出した。林子平・高山彦九郎とともに「寛政の三奇人」の一人に数えられた儒者蒲生君平(がもうくんぺい 明和五(一七六八)年~文化一〇(一八一三)年:下野国宇都宮新石町(現在の栃木県宇都宮市小幡一丁目)生まれ)の友人であった馬琴による渾身の評伝。彼は天皇陵を踏査して「山陵志」を著した尊王論者にして海防論者として知られる。詳しくは当該ウィキを読まれたい。但し、「兎園小説」には、「曲亭雜記」に載らないその後に非常に長大な漢文の「蒲生君臧墓表」があり、そこは吉川弘文館随筆大成版に拠った。長いので、段落を成形した。なお、吉川弘文館随筆大成版「兎園小説」では、標題は目次では「蒲の花かたみの上」であるが、本文では「蒲の花かたみ」である。ブログでは底本と同じく後者を採った。]

 

   ○蒲の花かたみ

 久かたの日影に、うとき谷を出でゝ、木(こ)、傳ひ、あさり、鳴く鳥(とり)も、友を求むといふなるに、物の量なす人として、いづれか友を思はざる。

 そを懷(おも)ふにも、科(しな)、あるべし。利慾にかたらひ、婬樂(いんらく)に集(つど)ひ、酒食によりて親しかりしは、思ふに似たるも忘るに、はやかり。

 學問(まなび)の道のひとしくて、志(こゝろざし)の異(こと)ならぬのみ、忘れんとすれど、忘れがたく、懷ふにも、猶ほ、あまりあり。

「そを誰(たれ)ぞ。」

と人に問はれんに、修静庵(しうせいあん)[やぶちゃん注:蒲生君平の号。]にますもの、なかりき。

 この人や、學びの道に、吾にひとしく、心ざまさへ、似たりけり。生まれし鄕(さと)は異(こと)なれども、同じ甲(とし)[やぶちゃん注:馬琴は明和四年で一年早い。]にと聞えしも、大かたならぬ、過世(すぐせ)なりけん。世に、ふた鞘(さや)の隔てなく、睦みかたらひぬる折に、いはれしことの、耳に止(とゞ)まり、なつかしくも、かなしくも、寢覺(ねざめ)ぬ老(おい)が曉(あかつき)には、過ぎ越しかたの胸にみちて、俤(おもかげ)にたつこともありけり。

 大凡(おほよそ)、この人の行狀(ぎやうじやう)は、藤田ぬしの書きつめたる墓表によりてしらるべけれど、猶ほ、漏しつと思ふこと、なきにしもあらざりけり。いとめづらしくも、竒(くす)しくも、多(さは)に得がたき博士(はかせ)なりし。その事の趣きを、物の端(はし)にしるしつけて、君子たちに示さずは、誰(たれ)か、また、節(ふし)を擊ちて、こと葉の調(しらべ)をたすくべきと思ふも、「をこ」の業(わざ)ながら、深谷(みたに)がくれに、友、呼ぶ鳥の聲にしも似て、已(や)みがたさに、水莖(みづぐき)の迹(あと)、淺きは、さらなり、山の井の影、うつしうつしも、人の笑はんことさへに、厭(いと)はぬは、實(げ)に、をろかなるべし。

[やぶちゃん注:最後の「をろかなる」はママ。

 吉川弘文館随筆大成版「兎園小説」では、ここに、二字下げで、

   *

文政八年乙酉冬十二月朔[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一八二六年一月十八日。]、このふみを綴りて、みづから、はしがきするもの。

        神田の隱士   瀧澤 解

   *

とある。

 以下は底本でも改行している。]

 人の心は、かくれ沼の、さだかには目に見えぬものから、そのよきも、終(つひ)に顯(あらは)れ、そのわろきも、終に見(あらは)る。よきも、わろきも、おしなべて、なき後にこそ、定かなれ。さばれ、そのよき人といふとも、祿もなく、位もあらで、名を後の世に遺せるものは、只、その人の德にあり。學びの力に、よらぬは、なし。

 玆(こゝ)に、亦、その人、あり。吾友脩静庵の主人(あるじ)、卽ち、これなり。

 抑(そもそ)も脩静庵は、もと、福田氏、後に、

「その先祖の氏鄕(うぢさと)朝臣(あそん)の族(やから)より出でたり。」

と聞くに及びて、氏(うぢ)を蒲生(がまふ)に改めけり【これらのよしは、墓表に具[やぶちゃん注:「つぶさ」。]なれば、こゝに贅せず。】。名は秀實(ひでざね)、一名(いつのな)は夷吾(いご)、字(あざな)は君平(くんぺい)、脩静は、その號(よびな)。下野州(しもつけのくに)河内郡(かはちこほり)宇都宮の人なりけり。明和四年[やぶちゃん注:ママ。]丁亥、某月日に生れぬる故をもて、其父、これに名を命じて、伊三郞といふといふ。「亥」の和訓は、卽ち、「爲(ゐ)」なり。「爲」・「伊」の假名、たがふといへども、「伊」は、猶ほ、「亥(ゐ)」の「ゐ」のこゝろなるべし。

[やぶちゃん注:「氏鄕朝臣」戦国から安土桃山時代にかけての武将蒲生氏郷(弘治二(一五五六)年~文禄四(一五九五)年)。]

 その家、半農半商にて、㸃燈油(ともしあぶら)を鬻(ひさ)ぎたり。父、沒して、兄、家を嗣ぎぬ。只、脩静のみ、をさをさ、讀書を嗜みしかば、耕(たがへ)し耘(くさき)ることを欲(ほり)せず。又、商人(あきうど)の業(わざ)を樂(ねが)はず。同じ鄕(さと)に石橋(せききやう)といふ先生ありて、經學(けいがく)を修めて、且つ、施しを好み、其家(いへ)、豊かなりければ、天明三年[やぶちゃん注:一七八三年。]、淺間山、燒けて、關東、いたく餓ゑたるとき、倉廩(さういん)[やぶちゃん注:米などの穀物を貯蔵しておく倉。]をうちひらき、四百苞(たはら)の米を散(ちら)して、鄕黨・鄰里(りんり)を賑しけり。只、この施行(せぎやう)のみならず、或は、路を造り、橋をしつらひ、隱德慈善を宗(むね)としたれば、人皆、德とせぬものなく、名を遠近(をちこち)に知られてけり。

 脩静は、いとはやくより、石橋翁の門に入りて、勤學硏究、玆(こゝ)に年あり。

 かゝりし程に、大母(おほば)の物語りによりて、祖先の賤しからぬを知曉(ちぎやう)し、みづから、氏(うぢ)を改めて、志(こゝろざし)、いよいよ、堅く、凡(およそ)、下野人(しもつけびと)の風俗は、朴訥にして、强く、悍(たけ)し。脩静は、之れに加ふるに、志氣、逞(たくま)しく、貧しきを、辭(いら)はず、

「よしや、忠義の狗(いぬ)となるとも、亂離(らんり)[やぶちゃん注:世の中が動乱状態に陥って、人々が離れ離れになってしまうこと。]の人と、ならじ。」

とて、しきりに奬(はげ)み、學びけり。

 しかれども、章句を修(をさ)めず[やぶちゃん注:後にも出るが、儒家の章句を覚えることだけでは満足せずの意と採る。]、國史舊記を涉獵して、

『いかで古學を起さん。』

と、ほりする心、いと、せちなり。剛腸(がうちやう)かくの如しといへども、母につかへて孝なりければ、母もまた、愛(め)でぬることの、他(あだ)し子よりも深かるべし。

 脩静が壯(さか)りになりし比(ころ)、その兄は身まかりけり。これにより、母、田園を、なかば、わかちて、脩静にとらせんとしてけるに、脩静、いたく、これを推辭(いなみ)て、且、母を諫めて曰、

「わが兄、不幸にして、なかそらに身まかりたまひ、且つ、その子は尙(な)ほ、幼(おちけ)なし。さるを、今、多くもあらぬ田園を、吾儕(わなみ)の爲(ため)に分かたせたまはゞ、幼(いとけ)なき者は、何によりて、荒年(くわうねん)の飢寒を凌がん。およそ、兄弟叔侄[やぶちゃん注:「しゆくてつ」。おじ(伯父・叔父)と甥。]の故なく、田園を分かつものは、親族、怨みを結ぶの基本(もと)なり。吾儕(わなみ)は、一步の田を得ずとても、兎も角もして、一期(いちご)を送らん。侄(をひ)は、わが母の嫡孫なり。渠(かれ)が身、優(ゆた)かなるときは、わが母も、また、ゆたかにおはさめ。おほん慈惠(いつくしみ)を辭(いら)ひまつるは、ひとり儕の爲(ため)のみならず、すなはち、母の爲なれば。」

と、なくなく、ことわりを盡しゝかば、母はこれを、

「賢。」

として、遂にその意に任(まか)せしとぞ。

[やぶちゃん注:理由附けは立派で正当に見えるものの、蒲生は自身、物理的に野良仕事を嫌っただけ、というのが、本音のように私には思われるが。]

 是より後も、とにかくに、家の難(なや)みに、かゝつらひて、志(こゝろざし)は立てながら、身をわがまゝにも、せざりけり。

 是よりさき、寬政二年の冬[やぶちゃん注:一七九〇年から翌年年初相当。]、

「琉球の使人(つかひ)、入朝(にふてう)しつ。」

と聞えしに、故ありて、彼(か)の輩(ともがら)と、應接をしつるもの、宇都宮に歸り來(きた)るありけり。脩静、一日(あるひ)、これを訪ひて、

「足下(そこ)は、こたび、球人(りうじん)と應對したりと傳へ聞きぬ。何等の說話ありし。」

と問ふに、その人、答ヘて、

「否(いな)、させる說話も、なし。只、四表八表(よもやも)の話の次(なへ)に、球人、われに問ひていはく、

『皇國(みくに)は、誠に、文あり、武あり、大かたならぬ、よき國なれども、竊(ひそか)に意得(こゝろえ)がたきは、「樣(さま)」といふ字に三體(さんたい)ありて、尊卑(そんひ)の科(しな)をわけらるゝに、或ひは、「永(えい)」ざま、或は。「美(び)さま」、「つくばひざま」といふよしは、如何なる義理のあるやらん。』

と、いはれしには、困りたり。」[やぶちゃん注:「次(なへ)」連語。「な」は「の」の意の格助詞で、「へ」は「うへ(上)」の音変化とも。それに格助詞「に」がついたもので、本来は上代語。接続助詞的に用いられ、上の事態と同時に他の事態も存在することを表わす。「~と同時に・~とともに」。]

と、うちほゝゑみつゝ、告げにけり。

 脩静、これを聞きしより、憤(いきどほ)り、胸にみちて、嘆息の外(ほか)、言葉もなく、そがまゝ、宿所に走りかへりて、獨り、つらつら思ふやう、

『昔、「南北朝の内亂」より、「應仁の兵火」に至りて、天朝の舊典、皆、悉(ことごと)く亡失し、文華は、ながく、地を拂ひて、世は「戰國」となりし事、槪して、二百餘年、その惡俗の餘毒、流れて、昇平(しようへい)の今の世まで、洗ひ淸むるものゝ足(た)らねばこそ、附庸偏小(ふようへんせう)の球人にすら、侮(あなど)らるゝことの、安からね。いかで、われ、古學を興して國體(こくたい)を張り、天下の爲に、死力を尽(つく)して、國恩に報ずべし。』[やぶちゃん注:「附庸」宗主国に従属してその保護と支配を受けている国。しかし、当時の琉球は公的には独立国であり(事実上、薩摩藩の不当支配下にあったが)、この謂いは私には不快千万である。]

と、愈々、思ひ定めつゝ、指を噬(か)み、血を染めて、

「孝子之情有終身喪 忠臣之心無革命時」[やぶちゃん注:訓点があるが除去した。以下に訓読する。「孝子の情 終身(しゆうしん)の喪(も) 有り  忠臣の心 革命(あくめい)の時 無し」。]

と大書しつ。志願の臍(ほぞ)をぞ、堅めける。

 かゝりし程に、歲月を歷て、脩静、江戶に往來しつゝ、林家の門人になりしかば、帶刀(たいとう)して儒學を倡(とな)へ、當時、高名(かうめい)の儒者、國學者・文人墨客とまじはりて、遊學すること、亦、年(とし)あり。

 しかれども、その持論、事情に愜(かなは)ず、或は、之を迂濶(うくわつ)とし、或は之を狂妄として、嘲り噱(わら)はぬは稀なりしを、脩静、ものゝ屑(かず)ともせで、愈よ、守りて、みづから、貶(おと)さず。その友に語りて云く、

「昔時(むかし)は、儒官、あきらかに、天朝の故實に通じて、「六經」を以て、これが資(たすけ)にしたり。こゝをもて、名(な)、正しく、事(こと)行はれざること、なし。今の俗儒は、天朝の故實をしらず、夏夷(かい)順逆[やぶちゃん注:「夷夏論」のこと。南朝の道士の顧歓(こかん)が発表した排仏のための論文。「夷」は「夷狄」、「夏」は「中国」の意で、「道」と「俗」と「跡」をキー・ワードとして構成されている。仏教と道教の根本の「道」は究極に於いては一致するが、習俗・風俗、則ち、「俗」は「夷」と「夏」では決定的に異なっており、本来、「夷」を教化するための教法、則ち、「跡」として生まれた仏教を中国に行うことは出来ないと論ずる夷狄廃仏論・廃仏毀釈論である。]の理(り)に暗くして、名を亂り、言(こと)を紊(みだ)るゝもの[やぶちゃん注:「ゝ」は吉川弘文館随筆大成版で補った。]、百五、六十年來、比々(ひゝ)として[やぶちゃん注:どれもこれも。]、皆、これなり。その位(くらゐ)に在るものは、その道を行ひ、その位に在らざるものは、その言(こと)を行ふこと、古今一致、難易、迭(たが)ひにありといへども、吾(われ)、憤りをもて、志(こゝろざし)を立て、古學を興して逸史(いつし)を修め、力を經世(けいせい)に尽して、もて、國恩に報じ奉らんと欲(ほり)すること、他(た)、なし。彼(か)の世に阿(おもね)りて、利を謀り、皋皮(かうひ)[やぶちゃん注:「虎の皮」の意で、そこの座する教導的地位にいる者の意と思われる。]に坐する草鞋(さうあい)大王、自(みづ)から名敎(めいきやう)の罪人たるを知らざるものと、隣りをなさじ、と思ふのみ。このこと、同士の爲に語るべし。悠々の徒(と)と語るべからず。」

とぞ、いきまきける。

 この比(ころ)よりして、脩静、「九志(きうし)」[やぶちゃん注:後注の太字下線部を参照されたい。]を編述の志(こゝろざし)あり。

「いにしへの山陵、多く荒廢して、その迹、定かならざるものありと聞く事、久しきをもて、まづ、「山陵志(さんりやうし)」より刱(はじ)めん。」

とて、獨行(どくかう)して、京に赴き、南海を越え、淡路に渡るに、素(もと)より、路費(ろひ)の乏(とぼ)しきを憂ひとせず、嶮(けん)を履(ふ)み、風雪を犯して、六十六國、その半ばを經歷(けいれき)し、あるは里老に問ひ、或は舊圖を考へ、諸陵存亡の趣きを目擊したりける。苦辛を、その著述の爲に辭せず、月日は、旅寐(たびね)に移れども、其の志、移らずして、愈よ、精力を盡しけり。

 かゝりし程に、丁卯[やぶちゃん注:文化四(一八〇七)年。]の年、北虜(ほくりよ/キタ[やぶちゃん注:右/左のルビ。文化の初期からの蝦夷へのロシア船の来航や通商要請を指すととる。])の邊塞を擾(みだ)るゝの風聞あり。脩静、江戶に在り。かのことを傳へ聞きて、憂ひ、且つ、憤りに堪へず、卽ち、「不恤緯(ふじゆつゐ)」五編を著はし、上書して、之を國老の執事に奉りしに、おほんとりあげは、なかりけり。とかくする程に、「山陵志」一卷、やうやくに稿を脫ぎて、刻本(こくほん)にせまく欲(ほ)りするに、脩静、素より、擔石(たんせき)の儲(たくはへ)なければ、同志に告げて、未刻(みこく)已前に入銀(にうぎん)を促し、且、その友、鍵屋静齋(かぎやせいさい)等が資(たす)けを借りて、製本、全く成りしかば、之を京師(きやうし)に獻(たてまつ)り、及び、關東の搢紳(しんしん)、並びに、有職(ゆうしよく)の人々に、まゐらせけり。しかるに、

「其の論、處士(しよし)・浮浪人の、あげつらふべきことにしも、あらず。贅言(ぜいげん)、分(ぶん)に過ぎて、忌み憚らざるに似たり。」

とて、脩静を、市(いち)の尹(かみ)の廳(ちやう)[やぶちゃん注:江戸の町奉行。]に召して、その條々を詰(なじ)られしに、脩静、すなはち、「律令」を引き、古實を證して、答へまうすことの理りに稱(かな)ひしかば、重ねて咎めは、なかりけり。

[やぶちゃん注:「不恤緯」は文化四(一八〇七)年の執筆になる、北辺防備を唱えた海防論書。幕閣の若年寄水野忠成に献上したが、逆に、幕府の警戒するところとなり、喚問を受けて、実際には閑居させられている

「山陵志」享和元(一八〇一)年に完成させた、天皇陵(山陵)に関する研究調査結果を記した史料。当該ウィキによれば、寛政八(一七九六)年から寛政一二(一八〇〇)年にかけて、『自ら行った近畿地方や四国地方の陵墓調査結果を編纂したもので、草稿は寛政』九年に、『最終稿は享和元』(一八〇一)年に『完成したと言われる。書物として発刊されたのは文化』五(一八〇八)年とも、文政五(一八二二)年とも言われ、文政五年説の『場合、君平の死後にはじめて出版されたことになる。「前方後円墳」という言葉は『山陵志』の中で初めて君平が用いた言葉である。本書が幕末の尊王論の根拠となったと評される一方で、調査結果を記録した考古学資料としての評価も高く、明治維新の後、明治天皇は君平の業績を讃え、勅命により郷里である宇都宮に石碑(蒲生君平勅旌碑)が建立された。本書は徳川光圀が編纂に取り組んだ』二百四十八年もの長大な時間をかけた「大日本史」の『補完資料の位置付けとしても評価されている』。ウィキの「蒲生君平」によれば、『本書は光格天皇が天覧するに至るが、町奉行の取り調べに遭った』ともある。

「擔石」「石」は古代中国で容量を量る単位。「儋」は二石、「担」は一石で、これで「わずかな量の米穀」の意。転じて、「わずかなこと」の意。ここは後者。]

 これにより脩静、慷慨嗟嘆して、身の禍ひを見かへらず、日比(ひごろ)の剛膓(がうちやう)十倍して、記文一篇を綴りてけり。そのこと、禁忌に觸るゝをもて、市の尹にや聞えにけん、召し問はんとせられしに、「林家(りんけ)の門人たる」よしを聞かれて、まづ、祭酒に告げられしかば、祭酒、卽ち、脩静を招きよせて、

「件の記文を、まゐらせよ。」

と、ありけるに、脩静、答へまうすやう、

「件の拙文は、一時(いちじ)漫戯(まんげ)の稿本なりしを、何某(なにがし)に貸したりしが、いく程もなく、失ひて、今は、一ひらも候はず。仰せの趣き、畏(かしこま)り候へども、なきものなれば、せんすべも、なし。この義、ひたすらに賢察を願ひ奉る。」

と陳じゝかば、祭酒、すなはち、脩静を退(しりぞ)かして、又、家臣をもて、問はしめ給ふに、脩静、陳(ちん)ずること、初めの如し。家臣はこれをまことゝせず。なほ、さまざまに詰(なじ)りしかぱ、祭酒、これを推し禁(とゞ)めて、

「威をもて、逼(せま)るは、要(えう)なき業(わざ)なり。利害を說きて諭(さと)さば、足りなん。問ふこと、再三、再四にして、白(まう)すことの違はぬは、實(じつ)に失ひたるならん。おきね、おきね。」

と、とゞめさせて、宿所にかへし給ひしとぞ、程經て後に、聞えける。

 此の事、世間に聞えしかば、知るもしらぬも、おしなべて、駭嘆せずといふものなく、踈(うと)きは、

「愚。」

として、これを嘲り、親しきは、憫(あはれ)めども、救ふよしもなきまゝに、

「あなや、脩静は、不測の罪に身を喪ふ歟。」

と阽(あやぶ)みしに、祭酒、愛顧のとりなしにやよりけん、又、その母に孝なるよしさへ、尹にしられたるにやあらん、やうやくに免かれて、させるおほん咎もなかりけり。

[やぶちゃん注:「記文一篇」書名を明らかにしていないが(「散逸した」と証言していることからの、馬琴のポーズであろう)、ウィキの「蒲生君平」によれば、先の「山陵志」が町奉行の取り調べに遭ったことを『不服として』「憤記」『を執筆したところ、再度取り調べを受け、林述斎の弁明で事なきを得た』とあるのが、それである。]

 脩静、江戶に僑居してより、文化の始めまで、駒込吉祥寺門前にをり、七年庚午[やぶちゃん注:文化七(一八〇七)年。]の春二月、更に卜居して石町なる鐘撞堂新道へ移りにけり。

[やぶちゃん注:ウィキの「蒲生君平」によれば、陵墓実地『調査の旅から帰郷した後は、享和元年』(一八一〇年)『に江戸駒込の吉祥寺付近に修静庵』『という塾を構えて何人かの弟子を講義し、貧困と戦いながら』、同年に「山陵志」を『完成させた』とし、更に文化七(一八一〇)年には、『居を神田石町の鐘撞新道に移し』、『同年、師・鈴木石橋の資金援助を受け』て、「職官志」を一部、刊行している。『江戸では、大学頭・林述斎に文教振興を建議している。構想していた』「九志」=(「神祇志」・「山稜志」・「姓族志」・「職官志」・「服章志」・「礼儀志」・「民志」・「刑志」・「兵志」)のうち、『出版できたのは』、「山陵志」と「職官志」だけで『あり、それも借財を背負ってのことであ』った。「職官志」を通しては、『平田篤胤との親交が始まっ』ている、とある。]

 駒籠(こまごみ)[やぶちゃん注:「駒込」に同じ。]にありし日より、敎授に口を餬(もら)ふものから、「山陵志」に相つゞきて、又、「職官志」を彫らんとすなれば、財用、足らで、窮すれども、志氣、卓(たか)く傑出して、持論聽くべく、文章、觀るべし。

 又、ある時は、交遊・宴會の席につらなりて、脩静、特に强飮(がういん)酩酊、劇談放言して、讓らず。その體(てい)たらく、傍若無人に似たりといへども、方正鯁直(ほうせいきやうちよく)の性(せい)、言外にあらはれて、國を憂ふるの心、一日半時(いちにちはんじ)も撓(たゆ)むこと、なし。

[やぶちゃん注:「鯁直」「かうちよく(こうちょく)」とも読む。「鯁」は「魚の骨が咽喉に刺さる」の意で、「直言が受け入れられがたいこと」を喩えて言ったもの) 人に諂(へつら)わず、権勢を恐れないこと。強く正しいこと。]

 はじめ脩静が、山陵訪求の爲に京に赴きしとき、彼地に、絕えて、しる人なし。當時、小澤蘆庵は、古學を好みて、萬葉風の詠歌に名たかく、

「世にすねたる陰逸なり。」

と、かねて傳へ聞きしかば、

「渠(かれ)が助けを借らばや。」

とて、その京に入りし日に、やがて蘆庵が宿所(しゆくしよ)を尋ねて、

「云々(しかじか)。」

と、おとなふ程に、小澤が家僕(かぼく)、出で迦(むか)へて、

「いづこより。」

と問ふ。

 いひよるよしもなきまゝに、脩静、まづ、佯(いつは)りて、

「某(それがし)は、下野なる宇都宮のほとりにて、蒲生伊三郞と呼ばるゝ者なり。琴(きん)を好み候へども、田舍には、よき師、なし。主人(あるし)の翁(おきな)は、琴(きん)の妙手にておはするよし、東野(とうや)の果(はて)まで、かくれなし。是れにより、おほん弟子にならまく欲(ほ)りして、遙々と來つるにて候。」

といふ。

 その僕、こゝろを得て、奧に赴き、云々(しかじか)と告げにけん、蘆庵は、聲を高くして、

「あな、無益(むやく)にも、問はれごとかな。汝、出でて、しか、答へよ。『主人(あるじ)は、久しう、客を辭し、交りを絕ちたれば、都のうちだにも、親しう物(もの)せるは、稀なり。琴は、若かりし時、搔き鳴らしたりけるを、あちこちの人に知られて、「彼(かれ)にきかせよ、此(これ)に敎へよ。」と、いはるゝが、うるさければ、近ごろ、うち摧(くだ)きて薪(たきゞ)に代へたり。かゝれば、所望にしたがふべくもあらず。他(た)に行きて、求め給へ。』。」

といふ聲の、蒸襖(むしふすま)[やぶちゃん注:「からかみ」と同じで普通の襖のこと。]一重(ひとへ)を隔てて、定かにぞ、聞えける。

 脩静は、僕が報(つ)ぐるに及びて、そが、「しかじか」といふを、しも、またず、さらに又、推しかへして云ふ、

「翁(おきな)のおほん答へは、こゝにも、つばらに、もれきゝたり。某、猶ほ、一言(ひとこと)あり。願ふは、枉(ま)げて聞きたまへ。吾は、下野なる儒者なり。しかじかの志願あれば、屢(しばしば)、江戶に遊學し、こたみ、都に上りしかども、相ひ識れるもの、絕えてなし。翁の古學を好み給ふと、その氣質の俗ならぬは、かねて傳へ聞くものから、いひよる由のなきまゝに、『琴(きん)を學ばん爲にとて來りつる』といひしなり。こは長者(ちやうじや)を欺(あざむ)くに似たれども、その虛言(そらごと)は已むことを得ざりし實情(まこと)より出でたれば、許され對面せられば、肝膽(かんたん)を吐き、志願を告げて、翁の資(たす)けを借(か)らんと欲(ほ)りす。かくても、意(こゝろ)に稱(かな)はずば、退(しりぞ)けられんこと、勿論たるべし。今一たび、和殿(わどの)を勞(らう)せん。此由(よし)、執り次ぎ給へ。」

といふ。

 蘆庵も、これを洩れ聞きて、

「さりとは思ひかけざりき。竒(く)しき客人(まれびと)なり。對面せずば、悔しきことあらん。」

とて、

「『こなたへ』と申せ。」

とて、やがて、面(おもて)をあはしけり。

 脩静、ふかく歡びて、夙(はや)くより、思ひ起しゝ志願の由を說き示し、「山陵志」著述の爲に、古き御陵(みさゝぎ)を尋ねんとて、旅寐をしつることの趣き、

「云々(しかじか)。」

と、かたりいづるに、蘆庵も、只管(ひたすら)、感歎して、

「足下(そくか)は、得がたき學士なり。さる志しあらんには、吾が庵(いほり)に杖をとゞめて、こゝらわたりの御陵(みさゝき)を、しづかに訪求(はうきう)し給へ。」

とて、又、他事(たじ)もなく、もてなしけり。

[やぶちゃん注:「小澤蘆庵」(享保八(一七二三)年~享和元(一八〇一)年)は歌人・国学者。父は小沢喜八郎実郡(実邦ともいわれる)。一時、本庄家に養子に入り、本庄八郎と称した。名は玄仲(はるなか)・玄沖。通称は帯刀。別号は観荷堂・図南亭・孤鷗・七十童・八九童。法号は寂照院月江蘆庵居士。難波で生れ、京都に住んだ。「平安和歌四天王」の一人。三十歳頃、冷泉為村に入門し、武者小路実岳にも学ぶが、独自の歌学に目覚め、「ただごと歌」を主張したことから、為村から破門された。蒲生君平以外にも、伴蒿蹊・本居宣長・上田秋成などという錚々たる人物と交遊している。武士としては、尾張藩家老の家臣であり、国学者としては尊王論を展開した(当該ウィキに拠った)。]

 これにより、脩静は、日每に古陵(こりよう)を尋ね巡(めぐ)るに、ともすれば、日暮れて歸るを、主人(あるじ)は、自から、風呂を焚きて、浴(ゆあみ)させぬる。老人の心づかひを、

「胸苦(むねくる)し。」

とて、いなめども、從はず、

「これ等の事は、只管(ひたすら)に客を愛する故のみならず、吾も亦、かゝる竒人に宿(やど)することの歡ばしさに、足下の疲勞(つかれ)を慰めて、『恙なかれ』と思ふよしは、『國の爲に、力を竭(つく)す人の、助けにならん。』とてなり。必ず、辭退(いな)みたまふな。」

とて、後々までも、然(し)かしてけり。

 かゝりし程に、脩静は、ある夜(よ)、更闌(こうた)けて、子ふたつ[やぶちゃん注:午後十一時頃。]のころ、歸りしかども、蘆庵は、いねず、待ちてをり、例の如く、浴(ゆあみ)させ、飯(めし)をすゝめて、さて、いふやう、

「われ、足下に宿(やど)せる日より、疏菜(そさい)の外(ほか)に、物もなく、させるもてなしを爲(せ)ざれども、夜は老僕を休(やす)らはせんとて、手づからに風爐(ふろ)さへ焚くを、思ひ汲みたまはずや。古陵を尋ね巡ればとて、今までは、要なからんに、道草、くうてか。老人に、物をおもはせ給ふこと、こゝろ得がたし。」

と呟きけり。

 脩静、聞きて、貌(かたち)を改め、

「翁の恨み、ことわり也。わが非を飾るにあらねども、更闌(かうたけ)けたるは、聊(いさゝか)、ゆゑあり。懺悔(ざんけ[やぶちゃん注:ママ。当時は「さんげ」が一般的な読みである。])の爲に笑ひに備へん。今日(けふ)は某(それ)の天皇の陵(みさゝぎ)をたづねたりしに、日の暮るゝまで、尋ねも、あはで、思はずも、等持院なる尊氏の墓を見たり【等持院は金閣寺の北郊、石不動の北に在り。尊氏の法號を、「等持院」と云。この寺に足利氏十三世の木像あり。】[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版「兎園小説」では『頭書』とある。]。こゝに至りて、年來(としごろ)の恨み、心頭に起こりて堪へられず、墓に向つて罵るやう、

『梟臣(けうしん)尊氏、なほ、靈あらば、今、いふことを、慥(たしか)に聞け。汝は、一旦、治まりたる「建武重祚」の世を亂して、逆(ぎやく)に取り、逆に守りし毒を、後世(こうだい)に流せしより、二百十數年、干戈(かんくわ)をさまらず、國の舊典(きうてん)も、これが爲(ため)に燒け亡び、王室も亦、これによりて、卑(いや)しく、古帝(こてい)世々(よよ)の山陵(さんりやう)すら、迹、なくなりて、吾等にさへ、飽くまで物を思はするは、皆、悉く、汝が罪なり。天罸(てんばつ)、當(まさ)に知るべし。』

とて、杖をもて、石塔を思ふまゝに打ちたゝき、かくて、寺門を出づる程に、物ほしう、なりしかば、道のほとりの酒屋に立ちより、怒りにまかして飮む程に、六、七合を盡くしたり。さて、酒屋を出でしかど、醉ふてて、足も定まらず、

『此まゝにて、かへりゆかば、必ず、翁に叱られん。なかば醒(さま)してゆかめ。』

と思ふて、株(くひぜ)に尻を掛けしより、熟睡(うまい)やしけん、時も移りて、駭(おどろ)き覺(さ)むれば、更闌けたり。」

と語るに、蘆庵は噴き出だして、思はず、

「呵々。」

と、うち笑ひ、

「さても。世の中には、似たる馬鹿ものも、あれば、あるものかな。吾も亦、往(い)ぬる年(とし)、ある日、靈山(りやうぜん)のほとりに逍遙して、長嘯子(ちやうせうし)の墓所を過(よぎ)りし時【長嘯子は木下。氏名は勝俊。豊太閤の外族たるをもて、若狹の國を領せり。「關ケ原役」の後、所領、失ふて、東山に幽栖し、「天哉翁」と云ふ。】、さすがに、宿恨(しゆくこん)なきにあらねば、行きも得(え)やらずにらまへて、

『長嘯子、不滅の罪あり。わぬし、みづからこれをしるや。わぬしは豊太閤の外族(ぐわいぞく)として、位、高く、且つ、采地(さいち)も廣かるに、心ざま、武士に似ず、「伏見の駕籠城」に敵の旗色を見て、鬼胎(きたい)[やぶちゃん注:心中の秘かな恐れ。]を抱き、鳥居元忠(もとただ)等(ら)を、棄て殺(ころ)しにせしは、不義なり。事(こと)成(たひら)ぎて、罪を蒙り、はつかに、命を助けられしを幸ひにして、耻を知らず、心にもあらぬ、世捨人貌(よすてびとがほ)して、似非歌(えせうた)、多く詠じたる。「一盲、衆盲を引きし」より、歌の調べのわろくなりて、今に至るまで、なほらぬは、是れ、不滅の罪にあらずや。冥罸(みやうばつ)、かくの如くならん。』

と罵りながら、杖をあげて、墓を毆(たゝき)たる事、ありけり。こは、よく似たるにあらずや。」

と、語りもあへず、聞きも、をはらず、齊(ひと)しく、腹を抱へし、とぞ。

 昔、吳國に、さるものあり。さばれ、楚の平王は讐(あだ)といふとも、その親の爲(ため)に君(きみ)なり。さるを、その墓を發(あば)き、その屍(しかばね)を鞭うちしは、過ぎたるに似て、餘情(よせい)なし。もし、伍子胥(ごししよ)をして、投化(とうくわ)せしめ、この時にしもあらしめば、かならず、階(かい)を降(くだ)るべし。

[やぶちゃん注:「投化」徳を慕って訪ね来たって、その人物に帰服すること。「投帰」とも言う。

 以上で底本の本文は終わっている。以下は、曲亭馬琴「兎園小説」の方でここに載る蒲生君平の墓誌「君臧」というのは蒲生君平の字(あざな)。彼の墓は台東区谷中一丁目の臨江寺(グーグル・マップ・データ)にあり、東京都庁公式サイト内の「東京都文化財情報データベース」の「蒲生君平(がもうくんぺい)墓」を見ると(墓石写真有り)、『正面上位に『蒲生君藏墓表』、四面に蒲生君平の業績が刻まれてい』るとあるので、この場合の「臧」は「藏」(くら)と同義字である。「臧」は現行では殆んど使用されることがなくなったが、旧刑法用語の「臧物」(ざうぶつ(ぞうもぶつ))が辛うじて汎用されていた。所謂、「犯罪に依って他人の財産を侵害し、手に入れた物。盗品の類い。贓品(ぞうひん)」で、その影響から、私などは悪い意味しか想起出来なかったが、実際、「臧」には「腸(はらわた)・内臓」・「蔵・倉庫」・「賄賂」・「下部・下僕・しもべ」・「隠す」とネガティヴな義が多いものの、「納める」・「良い」の意がある。今までの経験上、吉川弘文館随筆大成版は誤字や誤判読があって、当てにならない上に、最後に馬琴が、これは「蒲生の墓碑より拓本を採ったのだが、摩耗がかなりあって、誤字があることを危惧するので、まさに後日の校訂を俟つ」と述べているから、「国文研データセット」にある蒲生君平の「皇和表忠録」に附帯する「蒲生君臧墓表」と校合した。上から三段目の画像の左から二つ目から右へ向かい、四段目最後までで、アドレスの末尾「00014.jpg」から「00019.jpg」に至る六画像である(異体字は私が一般的と考える方で採り、必ずしもリンク先のそれとは異なる)。但し、そちらは総て読点である。吉川弘文館随筆大成版に従い、句点で統一した。欠文が、いきなり、冒頭にあった。馬琴の翻刻は、相当な量のミス(誤字もあるが、脱字・脱文が有意に多い)があるので、いちいち注すると、五月蠅くなるだけなので、どこを挿入し、どこを訂したかは記さない。吉川弘文館随筆大成版と御自身で対照させて比較されたい。まあ、これだけでも、後記の馬琴先生の要請に百九十五年後の、今、私が応えたものとして、電子化した価値は十二分にあろうと存ずる。冒頭の五番目の一文の尊称改行は気持ちが悪い(上記リンク先のここの右丁の四行目。但し、そこでは一字空け。校合本では、後にも同様の、或いは不審な字空けが頻繁に出現するが、総て無視した)ので、完全に詰めた。作者「藤田一正」(かずまさ)は儒学者で民政家の藤田幽谷(安永三(一七七四)年~文政九(一八二六)年)で後期水戸学の中心人物の一人。かの藤田東湖の父である。一正は本名。著書に「正名論」・「勧農或問」・「修史始末」などがある。篆刻者は不詳。]

 

蒲生君臧墓表

   常陸 藤田一正撰  源千之 幷篆額

[やぶちゃん注:校合本には下方の「源千之」以下はない。]

昔者中郞氏。學周孔之道於南淵先生。養素丘園。高尙其事。一出而翊中宗中興之運。再造邦家。經綸鴻業。大織冠之勳。塞天地。是以藤姓之胤。世秉國鈞。實與社稷休戚。而枝葉蔓延。殆徧ㇾ于海内。其薨也。學士紹明。欲ㇾ傳令名於不朽。製碑文以示後世云。距ㇾ今千有餘歲。其文雖ㇾ不ㇾ可得而見。然大人君子墓碑有ㇾ文。葢此爲ㇾ始。淡海文忠公。在大寶養老之際。奉ㇾ詔刊修律令。其喪葬令曰。凡三位以上。及別祖氏宗。竝得ㇾ營ㇾ墓。凡墓皆建ㇾ碑。記某官姓名之墓。當此之時。朝野尙ㇾ文。兦[やぶちゃん注:「亡」の正字。]ㇾ論其名公鉅卿。廼至遐陬僻壤國造郡領之墓。亦有立ㇾ石銘ㇾ文者矣。其後浮屠盛行。而葬祭之禮先廢。文章與時運汚隆。而紀述德業。莫ㇾ或之聞。慶元已來。偃ㇾ武修ㇾ文。摻觚之士稍衆。碑碣之撰不ㇾ尠。兦ㇾ論其閥閱之家。廼至文人儒士山林隱逸之流。苟有稍足稱述。亦皆有以立ㇾ石銘ㇾ文者矣。嗚呼。君臧。關東布衣。發ㇾ憤著ㇾ書。欲我神聖之道於中國。徵ㇾ之以西土周孔之敎。終身轗軻。齋ㇾ志以歿。曾無一資半給之潤其身。而尺寸之功。不ㇾ克ㇾ施諸當世。然其浩然之氣。託諸文章。卓卓其不ㇾ朽者。可以與古人上レ徒矣。其墓之有ㇾ表。豈得ㇾ已哉。君臧諱秀實。一名夷吾。字君平。下野人也。本福田氏之子。自改氏蒲生。蒲生。淡海望族。系出藤原朝臣秀鄕。至會津參議氏鄕。而大顯。先世屢遷徙野奧之間。其宗爲有土之君者。兦ㇾ嗣絕ㇾ祀。既百數十年矣。君臧廼其庶孽苗裔云。東野之俗素强悍。君臧少以ㇾ氣自豪。讀ㇾ書不ㇾ治章句。慨然有經濟之志。及ㇾ壯好ㇾ遊。足跡殆徧天下之半。然未曾登仕路。故雖身在都會乎。常有山林樸茂之氣。其平生所持論。未甞少自貶以求一ㇾ售。故圓枘方鑿。俗儒笑以爲極迂濶。而君臧自信愈篤。恒謂其友曰。吾以編戶餘夫。不ㇾ能ㇾ治生商賈。又不肯仕官爲ㇾ吏以干升斗之祿。讀ㇾ書作爲文章。亦不ㇾ能曲學阿世之徒ㇾ伍。朝韲暮鹽。坐取困窮。子亦知其所以然乎。吾少時甞在ㇾ家讀ㇾ書。先祖母自ㇾ旁語ㇾ我曰。昔蒲生氏之自會津。徙封宇都宮也。其庶孽有帶刀某者。食祿三千石。納邑豪福田氏女爲ㇾ妾。有ㇾ身。適會蒲生氏再封會津。帶刀亦隨而徙焉。時留其妾父家。既而生ㇾ男。妾父母愛ㇾ之。不ㇾ忍其遠別。佯告以女子。因鞠于其家。後冐母姓。遂爲編戶之民氓。是於ㇾ汝高祖之父也。汝讀ㇾ書者。善記ㇾ之。吾於ㇾ是發ㇾ憤立ㇾ志。講究古學。欲曠世之墜典。以報國恩之萬一。庶幾乎其不ㇾ辱先祖矣。吾生也晚。不ㇾ逢大化大寶之世。大織淡海二公之相業。非ㇾ所企及。雖ㇾ然在其位者行其道。不ㇾ在其位者行其言。稽ㇾ古徵ㇾ今。通達國體。王政之要。在ㇾ納民於軌物。俾在ㇾ上之人明祀典。以敎孝敬。四海之内。各以其職上ㇾ祭。則天祖之所以照臨六合者。萬世無ㇾ墜矣。冨諸矦以奮武衞。安百姓以固邦本。是吾願也。昇平二百年。不ㇾ値天慶天正之亂。秀鄕氏鄕兩朝臣之將略。無復所一ㇾ施。雖ㇾ然安思ㇾ危。古之善敎。天下雖ㇾ安所ㇾ可ㇾ虞者。夷狄盜賊。正名分以定民志。禁左道以塞亂源。使吾說獲一ㇾ行。則遠宴安之酖毒。驅戎狄之豺狼。不啻致一時摧陷廓淸之功。將ㇾ俾斯民永無被髮左袵之患矣。斯吾志也、志願如ㇾ是。悠悠之徒。曷足與談哉、君臧又曰。仲尼稱。吾志在春秋。春秋經世之志。以道名分。周公遺法存焉。故爲ㇾ政正ㇾ名。夫子所ㇾ先。戎狄是膺[やぶちゃん注:校合本(右丁六行目)では「膺」の「广」の内部の上部が「亻」ではなく「壅」の「亠」と「土」を除去した字で、下方が「月」ではなく、「冂」の中に左画中央に接して「コ」とあるのだが、表記不能。訓読では「膺」としておく。]。周公之遺訓、今世俗儒。以ㇾ文亂ㇾ名。俗吏以ㇾ權亂ㇾ法。亂ㇾ法者。罪止其身。亂ㇾ名者。其言載筒册。而流毒於後世。夫神州。天地之正氣也。寒溫均適。寔爲中國。和平見ㇾ乎ㇾ穀。而甘美豐饒。文敎所ㇾ及。其養以給。精英發ㇾ乎ㇾ鐵。而堅剛鋭利。武威所ㇾ加。其功以成。限以天地。莫ㇾ有外異賊内侵之患。開闢以來。天祖之胤。世世傳ㇾ統。君臣上下之分。嚴威乎無ㇾ紊。宇宙之間。孰能及我神州者。故日出處天子。日沒處天子。雖ㇾ交大國。不肯苟讓。惜夫名也。今俗儒不ㇾ知名分。動虧國體。苟忘内外之分。而不ㇾ顧其名。則愛新覺羅氏之正朔。亦可禀而奉一ㇾ之。鄂羅斯國之察罕汗。亦可稱爲女帝也。可乎哉。丁卯歲。北虜擾ㇾ邊。君臧時在江戶。聞ㇾ之憂憤。廼著不恤緯五篇。詣國老門下。上書獻ㇾ之。不ㇾ報。先ㇾ是。君臧嘗聞古先帝王之山陵。或有荒廢者。欲之當路。以圖其修覆。躬自歷視其地。參考古圖舊記。作山陵志。平生精力。半在此書。書成獻之京師及關東諸公用ㇾ事者。有司嫌其論建非處士所一ㇾ宜。召詰ㇾ之。君臧乃引律文。誦故事以對。當ㇾ是君臧慷慨自奮。欲天下世人之所ㇾ難ㇾ言者。雖由ㇾ是獲一ㇾ禍。而不ㇾ顧也。有司惡其不遜。將ㇾ寘之重法。時有一學士。操文柄世所貴重。憫君臧而救ㇾ之曰。儒生喜論ㇾ事、固不ㇾ足ㇾ怪。草野之人不ㇾ知忌諱。亦何足深罪。置而不ㇾ問。可也。[やぶちゃん注:ここ(右丁五行目下方)は「兎園小説」版では「而不ㇾ顧也」(「兎園小説」版は「也」がない)の後が、異様にごっそりと文章が異なる。「兎園小説」では、『故時人目君臧狂妄。殆將ㇾ罹不測之罪。盖或有君臧之爲一ㇾ人者。憫而救ㇾ之。』で以下に続く。]因獲ㇾ免。君臧素剛膓。不ㇾ能仰當世。以取上ㇾ容。廼澆以ㇾ酒。時或劇飮大醉。頽然自放。而憂國之念。未甞頃刻忘也。間居講ㇾ學。以懲ㇾ忿ㇾ慾。不敢與ㇾ世抗爲ㇾ務。廼號其所ㇾ居之菴。曰修靜。以自警。謂修ㇾ身在ㇾ此。而成ㇾ名亦在ㇾ此。敎授之暇。專力著述。始君臧著革弊賦役等諸論。號曰今書。以規當世得失。至ㇾ是更撰職官志。欲以ㇾ次編神祇姓族等志。與山陵併爲九志。未ㇾ及悉成。文化十年癸酉七月五日。以ㇾ疾歿ㇾ于江戶僑居。享年四十有六。君臧壯而丁家艱。服除遊歷四方。故晚而娶。其配多氏。紅葉山伶官某之女。無ㇾ子。君臧之歿也。其交遊尤親且舊者。相聚而哭ㇾ之曰。斯人也。作山陵志者。其於葬祭之禮。最致ㇾ意焉。不幸無ㇾ嗣。襄事之責在朋友。其可ㇾ不ㇾ盡ㇾ心乎。廼葬之江戸北郊谷中龍興山臨江寺域内。以余與君臧相識最久也。託以表墓之文。廼書以遣ㇾ之。使之鑱諸石曰。

嗚呼君臧。常以關東布衣自稱。雖ㇾ不ㇾ免阨窮。猶爲天下奇男子。豈可閭里儒梟。號稱先生同ㇾ年而語哉。吾聞其臨ㇾ終。尙稱天地之正氣。且有三寶之說云。留精靈於天地之間。將其人而授上ㇾ之。古之所ㇾ謂死而不ㇾ兦者。其君臧之謂邪。噫。微斯人吾誰與歸。

文政元年歲在戊寅[やぶちゃん注:一八一八年。]秋八月

[やぶちゃん注:以下は「兎園小説」の記載。総て馬琴の追記である。]

  墓石 縱曲尺三尺四寸餘 橫曲尺壱尺二寸五分

  碑文 一千八百六十一言 篆額題目撰者姓名共十有三字

  統計一千八百八十六字

解云。墓表則稱其私諡。予記文則稱其號。此以ㇾ有ㇾ所ㇾ忌故也。乙酉冬十一月廿三日[やぶちゃん注:文政八年。グレゴリオ暦では一八二六年一月一日である。]。予攜興繼臨江寺。謁亡友蒲生子之墓。卽便薦行澄祭ㇾ之。祭訖以蠟墨拓碑文。未兩三頁。短景旦暮。倉卒之際。磨減之多。還ㇾ家視ㇾ之。不ㇾ易ㇾ讀者過半矣。因推ㇾ文以ㇾ意謄寫焉。恐有誤字。俟異日再搨校訂者也。

[やぶちゃん注:私は尊王思想自体は大嫌いである。さらに蒲生氏は、「あらやしき」(神道の冥界)にあっても、そうした二鞘にして不倶戴天の私の、この碑石の墓誌の訓読を、断然、拒否されるであろうから、当初、訓読は示さない予定であった。一部に意味がよく分からない箇所もあったが、校訂しつつ、電子化しながら、管見した限り、言っていることは、上記で馬琴が記した内容に概ね沿っており、上記の校訂漢文本文でも十全に理解は出来る内容であると思ったが、校訂を終る頃には、何とも言えず、蒲生君平に感情移入が強く生じてきて、しんみりしてくるまでに私の内心に変化が生じた。されば、折角の「兎園小説」正編全篇の終りである。暴虎馮河で、以下に馬琴の追記も含め、訓読を試みることとした。読み易くするために段落を成形した。読みは総て私の推定(歴史的仮名遣)。

   *

蒲生君臧(がまふくんざう)墓表

   常陸 藤田一正撰  源千之 幷(ならびに) 篆額

 昔者(むかし)、中郞氏、周・孔の道を南淵先生に於いて學び、素丘園に養ひたり。其の事、高尙たり。一たび出でて、中宗の中興の運を翊(たす)へ、再び、邦(くに)の家(や)を造り、鴻業(こうげふ)、經綸(けいりん)せり。

[やぶちゃん注:「中郞氏」不詳。

「中宗」一度亡んだ漢を再度、後漢として「中興」した初代皇帝光武帝劉秀(紀元前六年~紀元後五七年)のことか。

「鴻業」大事業。

「經綸」国家を治め整えること。天下を統治すること。また、その施策。]

 大織冠の勳は、天地を塞(ふさ)げり。是れ、以つて、「藤」の姓の胤(いん)たり。世に國鈞(こくきん)[やぶちゃん注:国政。]を秉(と)れり。實(げ)に社稷と休戚を同じくせり。而も、枝葉、蔓延して、殆んど、海内に徧(あまね)し。

 其れ、薨せるや、學士紹明、名を不朽のものとして傳令せんと欲し、碑文を製して、以つて、後世に示して云はく、

「今を距つること、千有餘歲、得て見るべからざると雖も、然れども、大人・君子の墓碑、文、有り。葢(けだ)し、此れ、始めと爲(な)す。淡海文忠公、大寶・養老の際に在りて、詔を奉じて「律令」を刊修す。其の「喪葬令(もさうれい)」に曰はく、『凡そ三位以上、及び、別祖・氏宗(ししゆう)は、竝びに、墓を營むことを得。』。『凡そ、墓、皆、碑を建てり。「某官・姓名の墓」と記せ。』と。」

[やぶちゃん注:「別祖」嫡流から分派した氏の始祖。

「氏宗」正規の嫡流の氏姓の家祖。]

と。

 當に此の時なるべし、朝野、文を尙(たつと)ぶ。其の名・公・鉅卿(きよけい)を論(あげつら)ひて兦(ばう)せるをいふ。廼(すなは)ち、遐陬(かそう)・僻壤・國造郡(くにつくりのみやつこ)の領(みやつこ)の墓に至るに、亦、石を立てて文を銘(しる)す者、有り。

[やぶちゃん注:「鉅卿」「公卿」に同じ。

「遐陬」「かすう」とも読むが、「すう」は「陬」の慣用音で正しくない。人里離れた所。辺鄙な土地。]

 其の後、浮屠、盛行し、而して、葬祭の禮、先づ、廢(はい)さる。文章、時運と與(とも)に、汚隆(をりゆう)あり。而して德業を紀述せるも、之れを聞くこと、或る莫し。

[やぶちゃん注:「浮屠」仏教。

「汚隆」「汚」は「地面の窪み」で、二字で「土地の低いことと、高いこと」。転じて、「衰えることと盛んになること」で「盛衰がある」の意。]

 慶元已來、武を偃(おご)りて、文を修し、摻觚(さんこ)の士、稍(やや)、衆(おほ)く、碑碣(ひけつ)を指す。石碑或いはそれに刻した碑文のこと。]の撰、尠(すく)なからず。其の閥閱(ばつえつ)の家を論ひて兦せるをいふ。廼ち、文人・儒士・山林隱逸の流(りう)に至れり。

[やぶちゃん注:「慶元」南宋の寧宗の治世に使用された元号。一一九五年 から一二〇〇年まで。

「摻觚の士」一般には「操觚之士」(そうこのし:現代仮名遣)である。文章を書くことを生活するための手段にしている人。「觚」は中国で「文字を書いた木札」のことを指し、それを操る(「摻」は「執(と)る」)人という意。

「碑碣」「碑」は「石碑の方形のもの」で、「碣」は「その円柱形のもの」を指す。石碑、或いは、それに刻した碑文のこと。

「閥閱」権勢のある一門・家柄と功績。]

 苟(いや)しくも、稍、稱述するに足る者有れば、亦、皆、以つて、石を立て、文を銘す者、有り。

 嗚呼(ああ)、君臧、關東の布衣(ほい)、憤りを發して書を著(しる)す。

 我が神聖の道を、中國に明(てら)して、之れに徵して、西土の周・孔の敎へを以つてせんと欲するも、終身、轗軻(かんか)にして、志を齋(いつ)きて、以つて歿す。

[やぶちゃん注:「轗軻」元は「道が凸凹で車が上手く進めないさま」から転じて、「志を得ないこと」の喩え。]

 曾つて一資半給にて、之れ、其の身を潤ほすこと、無し。而して、尺寸の功、諸(もろもろ)の當世の施しを克(よ)くせず。

[やぶちゃん注:「一資半給」同年齢の町人男子の一人前の半分の給与ということか。但し、蒲生が若き日に何らかの職に就いたという事実は見当たらない。晩年の享和元(一八〇一)年)に江戸駒込の吉祥寺付近に修静庵という塾を構え、何人かの弟子に講義したことはあるが、それも殆んど稼ぎにはならなかったと思われる。]

 然れども、其の浩然(かうぜん)の氣、諸文章に託せり。卓卓として、其れ、朽ちざれば、以つて古人と與(とも)に徒(ともがら)と爲すべし。

[やぶちゃん注:「浩然」「浩」は元は「水が豊かなさま」で、心などが広くゆったりとしているさま。

「卓卓として」際立って優れている様子。]

 其の墓、之れ、表、有り。豈に已むを得えんや。

 君臧、諱(いみな)、秀實(ひでざね)。一名、夷吾(いご)。字(あざな)は君平。下野(しもつけ)の人なり。本(もと)、福田氏の子。自(みづか)ら、氏を蒲生と改む。蒲生は、淡海(あふみ)の望族(ばうぞく)なり。系は藤原朝臣秀鄕に出で、會津の參議氏鄕に至る。而して、大いに顯らかなり。先世は、屢(しばしば)、野奧の間に遷徙(せんし)するも、其の宗(そう)、有土の君たる者なり。

[やぶちゃん注:「淡海」「近江」に同じ。藤原秀郷の一説の出生地であり、後裔蒲生氏郷の出生地でもある。

「望族」人望があり、名声の高い家柄。

「有土の君」意味不明。「ゆうどのきみ」「うどのきみ」?。領地を持った権勢家の意か。]

 嗣(し)、兦(な)く、祀(まつり)絕え、既に百數十年。君臧、廼ち、其れ、

「庶孽(しよげつ)の苗裔。」

と云へり。

[やぶちゃん注:「庶孽」正妻でない女性が産んだ庶子。]

 東野の俗、素(もと)より、强悍たり。君臧、少しく氣を以つて、自(おのづ)から豪たり。書を讀み、章句を治めず、慨然として經濟の志し、有り。

[やぶちゃん注:「書を讀み、章句を治めず」ただ先賢の言葉を読んだだけでは「満足しない」の意か。]

 壯に及びて、遊(ゆう)を好み、足跡は、殆んど天下の半ばを徧(あまね)くせり。然れども、未だ曾つて仕路(しろ)に登らず。故に、雖身は都會に在ると雖も、常に山林樸茂(ぼくも)の氣に有るがごとし。其の平生(へいぜい)の持論とする所は、未だ甞つて、少しも、自らを貶して、以つて、售(う)るを求めず。故に圓枘方鑿(ゑんぜいはうさく)たり。俗儒、笑ひて、以つて、

「極めて迂濶たり。」

と爲せり。

[やぶちゃん注:「遊」「あそび」ではなく、学術的踏査のための「遊歷」の意。

「仕路」藩の雇人や官吏となる道。

「樸茂」草木が繁茂すること。

「圓枘方鑿」普通は「円鑿方枘」(えんさくほうぜい:現代仮名遣)で、「丸い穴に四角い枘(ほぞ)を入れようとすること」の意から、「物事がうまくかみ合わないこと」の喩え。出典は「史記」の孟子伝から。この場合は、丸い枘を四角い穴に差し込もうとすることになるが、同義でよい。]

 而れども、君臧、自信、愈よ、篤く、恒に其の友に謂ひて曰はく、

「吾、編戶(へんこ)の餘夫(よふ)なるを以つて[やぶちゃん注:戸主の次男以下を指す。]、生商賈(なましやうばい)を治(おさ)むること能はず。又、仕官吏と以つて爲(な)り升斗の祿を干(ほ)すも肯(がへん)ぜず。書を讀みて、文章を作り爲(な)せり。亦、曲學阿世の徒(やから)と與(とも)に伍(ご)爲(す)ることも能はず。朝(あした)に韲(なますをくら)ひ、暮れに鹽(しほをな)め、坐して困窮せるを取る。子も亦、其の然(しか)る所以(ゆゑん)を知らざるか。吾、少時、甞つて、家に在りて、書を讀めり。先きの祖母、旁(かたは)らより我にりて曰はく、

『昔、蒲生氏の會津より、宇都宮へ徙封(しふう)するや、其の庶孽(しよげつ)に帶刀(たてはき)の某(なにがし)なる者、有り。食祿は三千石、邑豪(いうがう)の福田氏の女(むすめ)を納(い)れて、妾(めかけ)と爲(な)す。身、有り[やぶちゃん注:妊娠すること。]。適(たまた)ま、蒲生氏、再び會津に封ぜらるに會ふ。帶刀も亦、隨ひて徙(うつ)る。時に其の妾を父家に留む。既にして、男(をのこ)生まれり。妾の父母、之れを愛す。其の遠く別るるを忍びず、佯(いつは)りて告げて『女子なり』となす。因りて其の家に鞠(やしな)へり。後、母の姓を冐(かぶ)せ、遂に編戶の民氓(みんぼう)[やぶちゃん注:庶民。]と爲す。是れ、汝に於いては高祖の父なり。汝、書を讀まば、善く、之れを記(しる)せよ。』

と。吾、是(ここ)に於いて、憤りを發し、志しを立て、古學を講究して、曠世の墜典(ついてん)を脩(しゆ)せんと欲す。以つて、國恩の萬が一に報ぜん。庶幾(ねがは)くは、其の先祖を辱(はづかし)めざらんことを。吾、生まるるや、晚(くる)るも、大化・大寶の世に逢はず、大織・淡海の二公の相業(さうげふ)は、企て及ぶ所に非ず。然りと雖も、其の位(くらゐ)に在る者は、其の道を行き、其の位に在らざる者は、其の言を行ふものなり。古へを稽(かんが)へ、今に徵し、國體に通達して、王政の要(かなめ)を、民として軌物(きぶつ)に於いて、納めんとする在るものなり。上に在るの人、祀典を明(あきら)かにし、以つて孝敬を敎へ、四海の内、各(おのおの)其の職を以つて祭(まつりごと)を助けしむものなり。則ち、天祖の、以つて六合(りくがふ)を照臨する者の所(ところとす)るは、萬世、墜つる無し。諸矦を冨ませ、以つて武衞を奮ひ、百姓を安んじて、以つて邦(くに)の本(もと)を固むる、是れ、吾が願なり。昇平なること、二百年、「天慶」・「天正の亂」にも値(あ)はず、秀鄕・氏鄕兩朝臣の將略は、復た、施す所、無し。然りと雖ども、安(いづくん)ぞ危きを思はざる。古への善の敎へ、天下、安んずると雖も、虞るべからざる所(ところとす)る者なり。夷狄・盜賊、名分を正し、以つて、民の志しを定め、左道を禁(いまし)めて、以つて亂の源(みなもと)を塞(ふさ)ぎ、吾が說を行ひ獲(と)らしめん。則ち、宴の安きの酖毒(ちんどく)を遠ざけ、戎狄(じゆうてき)の豺狼(さいらう)を驅(お)ふ。啻(ただ)に一時に摧(くじ)き陷(おと)す廓淸(くわくせい)の功を致さず、將(まさ)に、斯くて、民の、永く、被髮左袵(ひはつさじん)の患(うれひ)を無くして俾(たす)けんとす。斯く吾が志なり。志しの願ひは是(こ)のごとし。悠悠たる徒(やから)は、曷(なん)ぞ與(とも)に談ずるに足らんや。」

と。

[やぶちゃん注:「編戶の餘夫」戸主の次男以下の男子を指す。

「身、有り」妊娠していること。

「民氓」庶民や流浪の民。

「墜典」亡佚した古典籍。

「大織」大職冠(たいしよくくわん(たいしょくかん))の略。孝徳天皇の大化三(六四七)年に定められた「十三階」の冠位の最高位。その後、天智天皇の時までに十九階、二十六階と増階されたが、孰れも、その冠位の最高位であった。後世の正一位に相当する。但し、中古以前にあっては、実際には天智天皇八(六六九)年に藤原姓の初祖藤原鎌足だけに授与された官位であったため、「大職冠」=鎌足を指す。

「淡海」既注の藤原秀郷のこと。

「軌物」道義や政(まつりごと)に於いて、必ず守らなければならない決まり。掟。

「六合」天地と四方とを合わせて指す語。上下四方。全宇宙。

『「天慶」・「天正の亂」』「天慶」「の亂」は「承平・天慶の乱」。平安中期に時を同じくして起った平将門・藤原純友の反乱。天慶四(九四一)年に小野好古(よしふる)らによって鎮圧された。将門を討ったのは藤原秀郷。「天正の亂」は「天正壬午の乱」のこと。天正壬午天正一〇(一五八二)年)に武田氏の旧領に当たる上・甲・信・駿地方で起きた戦乱の総称、同年三月の織田信長の武田攻め(「甲州崩れ」)から同年六月の「本能寺の変」後の若御子対陣に至る一連の動乱を指す。蒲生氏郷が活躍した時期。

「酖毒」「兎園小説」は『鴆毒』(同じく「ちんどく」)とするが、同義。中国で鴆という架空の鳥の羽にある猛毒。転じて「猛毒・毒物」でここは世のさまざな有意な害毒を持った諸現象を指す。

「戎狄の豺狼」「戎狄」はここでは日本以外の異国。「豺狼」は凶悪なヤマイヌとオオカミ(或いはいずれもオオカミ。「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗(ゑぬ いぬ) (イヌ)」を参照)。獰猛な悪者の比喩。

「廓淸」悪い相手・対象を完全に駆除すること。

「被髮左袵の患」文明が異なる地域にある当事者から見れば、侵入してきた外国人や異民族の野蛮な風習に従わさせられる憂いの意。「被髮」は、結い束ねずに「散切(ざんぎ)り」にした、見た目、乱れた髪型のこと。「左袵」は衣服の前を打ち合わせる際、左の襟を内側にして着ること。所謂、「左前」。中国では「右衽」を中華の風とし、「左衽」を夷狄(いてき)の習俗とした。ここは異国人が侵入してきて、本来の日本のそれとは、全く異なった奇体な習慣を強いられることを指す。

「悠悠たる徒」平然と落ち着き払った奴等。]

 君臧、又、曰はく、

「仲尼の稱して、『吾が志しは、「春秋」に在り。』と。「春秋」は經世の志したり。以つて、名分を道(い)ふ。周公の遺法は存(そん)せり。故に政(まつりごと)を爲(な)し、名を正す。夫子は先(さき)にせしむ。戎狄は、是れ、膺(せめう)つ。周公の遺訓に、『今世の俗儒は、文を以つて、名を亂す。俗吏は、權(けん)を以つて、法を亂す。法を亂す者は、罪、其の身に止まる。名を亂す者は、其の言、筒册に載す。而して流毒は後世に於けるまで、流る。』と。夫れ、神州、天地の正氣なり。寒・溫、均しく適(かな)へり。寔(まこと)に中國と爲(な)せり。和平なること、穀に見よや。而して、甘美にして豐饒たり。文敎、及ぶ所、其れ、養ひ、以つて、給ふ。精英は、鐵に發す。而して、堅剛にして鋭利たり。武威は加ふる所、其の功、以つて、成す。限るに、天地を以つてす。外異が賊の、内侵の患ひ、有る莫し。開闢以來、天祖の胤(たね)。世世、統(す)べきて傳へり。君臣上下の分、嚴威なるかな、紊(みだれ)、無し。宇宙の間、孰くんぞ能く我が神州に及べる者か。故に、日、出づる處の天子と、日、沒する處の天子は、大國として交はると雖も、苟しくも讓ることを肯(がへん)ぜず。夫れ、名を惜めばなり。今、俗儒、名分を知らず。動(ややもす)れば、國體を虧(そこな)ひ、苟くも内外の分(ぶん)を忘れり。而も、其の名を顧みず。則ち、愛新覺羅氏の正朔、亦、禀(こめぐら)をして之れを奉るべく、鄂羅斯國(ろしあこく)の察罕汗(ちやがんはん)は、亦、稱して女帝を爲(な)すべきなり。可なるかなや。」

と。

[やぶちゃん注:「愛新覺羅氏の正朔」これは後金(ごきん)の創始者にして清の初代皇帝とされるヌルハチ(努爾哈赤 一五五九年~一六二六年)のことであろう。君主としての称号は満洲語で「ゲンギェン・ハン」。女真族の愛新覚羅氏出身である。私が彼だと思うのは、彼の皇帝に就いたのが天命元年一月一日(一六一六年二月十七日)だからである。則ち、以後、清の建国記念日はこれ以降、「正朔」であるからである。

「察罕汗(ちやがんはん)」よく判らないが、中国語で「白人の皇帝」の意があるようである。]

 丁卯の歲、北虜邊(ほくりよへん)に擾(さは)ぐ。

[やぶちゃん注:「丁卯の歲」文化四年丁卯。一八〇七年。

「北虜」この場合は蝦夷地辺りを指すものであろう。文化年間の初期にはロシアが本邦に対して盛んに通商を求めてきていた。]

 君臧、時に江戶に在りて、之れを聞き、憂憤し、廼ち、「不恤緯(ふじゆつゐ)」五篇を著す。國老の門下に詣(まゐ)り、上書して、之れを獻ずるも、報いられず。

 是れに先(さきだ)ちて、君臧、嘗つて、古への先帝王の山陵、或いは荒廢せる者有るを聞き、

「之れを、當路(たうろ)[やぶちゃん注:(朝廷・幕府の)重職。]に告げ、以つて、其の修覆を圖せしめん。」[やぶちゃん注:「當路」その担当である重職。ここは朝廷・幕府のそれ。]

と欲し、躬(み)自(みづか)ら、其の地を歷視し、古圖・舊記を參考して、「山陵志」を作(な)せり。平生の精力、半ばは、此の書に在り。書き成して、之れを京師及び關東諸公の事を用ふる者に獻ぜり。

 有司、

「其の論建、處士の宜(よろ)しき所(ところとす)るに、非ず。」

と嫌ひ、召して、之れを詰(なじ)れり。

 君臧、乃(すなは)ち、律文を引きて、故事を誦(とな)へて、以つて、對す。是(ここ)に當りて、君臧、慷慨自奮し、

「天下の爲に、世人の、之れ、言ひ難き所をば、言はんと欲す。是れには、由ありて、禍ひを獲(う)ると雖も、而も顧(かへりみ)ざるなり。」

と。

 有司、其の不遜なるを惡(にく)み、將に、之れを重き法に寘(お)かんとす。

 時に、一學士にして、文柄を操(あやつ)るに、世の貴重なる所と爲せる者、有り。君臧を憫(あはれ)みて、之れを救ひて曰はく、

「儒生、喜びて事を論ずる、固(もと)より、怪しむに足らず。草野の人、忌諱を知らず。亦、何ぞ深き罪に足らんや。置きて、問はざれば、可なり。」

と。[やぶちゃん注:既に述べた通り、ここ(右丁五行目下方)は「兎園小説」版では「而不ㇾ顧也」(「兎園小説」版は「也」がない)の後が異なる。「兎園小説」のそれを推定訓読しておく。

   *

故に、時に、人、君臧を目(もく)して、「狂妄(きやうまう)」と以つてす。殆んど、將に不測の罪に罹(か)けられんとす。盖(けだ)し、或る君臧の人として爲(な)sんとすることを知れる者、有りて、憫れんで、之れを救ふ。

   *]

 因りて、免(まぬか)るるを獲(え)たり。

 君臧、素(もと)より剛膓(がうちやう)にして、當世を俯仰(ふげう)して、以つて、容(い)らることを取ること、能はず。

 廼ち、澆(そそ)ぐに、酒を以つてし、時に或いは劇飮大醉す。頽然として自(おのづか)ら放つ。而れども、憂國の念、未甞つて頃刻(きやうこく)[やぶちゃん注:僅かな時間。]も忘れざるなり。

 間居して、學を講じ、慾に忿(いきどほ)りて懲(こら)すに、敢へて、世と抗(あらが)ふを務めと爲(な)さざるを以つてす。廼ち、其の居する所の菴を號して、「修靜」と曰ひ、以つて自(おのづか)ら警せり。謂はば、身を修して此(ここ)に在り。而して名を成すも亦、此に在り。

 敎授の暇(いとま)、著述に專力し、始めて、君臧、革の弊や、賦役等の諸論を著す。號して「今書」と曰ふ。以つて、當世の得失の規(てほん)たり。

 是に至りて、更に、「職官志」を撰す。次を以つて「神祇」・「姓族」等の志を編せんと欲す。「山陵」と併びに「九志」と爲す。

 未だㇾ悉く成るに及ばざるに、文化十年癸酉七月五日、疾ひを以つて、江戶の僑居(きやうきよ)に歿す。享年四十有六。

 君臧、壯にして、家(いへ)の艱(なや)み[やぶちゃん注:父母の死。]に丁(あた)れり。服除(ふくぢよ)して[やぶちゃん注:喪が明けて。]四方に遊歷す。故に、晚にして娶(めと)れり。其の配、多氏(おほいうぢ)、紅葉山伶官某(なにがし)の女(むすめ)なり。子は無し。

 君臧の歿するや、其の交遊の尤も親しく、且つ、舊(ふる)き者、相ひ聚まりて、之れを哭して曰はく、

「斯(か)の人や、「山陵志」を作りし者なり。其の葬祭の禮に於いてや、最も意(こころ)致りたり。不幸にして、嗣、無く、襄(ゆず)らるる事の責は、朋友に在り。其れ、心を盡さざるべきか。廼ち、之れを、江戸の北郊、谷中の龍興山臨江寺域内に葬す。余、君臧と與(とも)に、相ひ識しること、最も久しきを以つてするものなり。託すに、表墓の文を以つてす。廼ち、書を以つて、之れを遣はす。之れを諸石に鑱(き)りしめて、曰はく、

「嗚呼(ああ)、君臧、常に『關東の布衣』を以つて自稱せり。阨窮(やくきゆう)を免れざると雖も、猶ほ、天下の奇男子たり。豈に閭里の儒梟(じゆけう)の、號するに「先生」を稱せる、年の同じくして語りたる者と、與(くみ)すべきや。吾れ、聞く、其の終りに臨み、尙ほ、「天地の正氣。」を稱し、且つ、「三寶の說有り。」と云へり。精靈として天地の間(かん)に於いて留(とど)め、將に、其の人を俟(ま)ちて而して、之れを授けんとす。古への謂ふ所の『死して兦(ほろ)びざる者』は、其れ、君臧の謂ひか。噫(ああ)、斯(こ)の人、微(な)かりせば、吾れ、誰(たれ)と與(とも)にか歸(き)せん。

文政元年歲在戊寅[やぶちゃん注:一八一八年。]秋八月

[やぶちゃん注:「阨窮」「厄窮」に同じ。物事に行き詰り、動きがとれず苦しむこと。

「噫、斯の人、微かりせば、吾れ、誰と與にか歸せん。」「文章軌範」に載る范文成公の「岳陽樓記」の一節。

 以下は「兎園小説」の記載。総て馬琴の追記である。]

  墓石 縱曲尺三尺四寸餘 橫曲尺壱尺二寸五分

  碑文 一千八百六十一言 篆額題目撰者姓名共十有三字

  統計一千八百八十六字

解云。墓表則稱其私諡。予記文則稱其號。此以ㇾ有ㇾ所ㇾ忌故也。乙酉冬十一月廿三日[やぶちゃん注:文政八年。グレゴリオ暦では一八二六年一月一日である。]。予携興繼臨江寺。謁亡友蒲生子之墓。卽便薦行潦祭ㇾ之。祭訖以蠟墨拓碑文。未兩三頁。短景旦暮。倉卒之際。磨減之多。還ㇾ家視ㇾ之。不ㇾ易ㇾ讀者過半矣。因推ㇾ文以ㇾ意謄寫焉。恐有誤字。俟異日再搨校訂者也。

[やぶちゃん注:「縱曲尺」(かねじやく)「三尺四寸」一・〇二メートル。

「壱尺二寸五分」三十七・八センチメートル。

 「解云……」を訓読する。

   *

解(とく)云はく、「墓表、則ち、其の私(わたくし)の諡(おくりな)を稱せり。予が記文は、則ち、其の號を稱したり。此れ、忌む所の有るを以つての故なり。乙酉冬十一月廿三日、予、興繼と携(つらな)りて、臨江寺に到りて、亡友蒲生子(がまふし)の墓を謁せり。卽便(よしん)ば、行潦(にはたづみ)に薦(こもかぶ)りしても、之れを祭らんとせり。祭り訖(をは)りて、蠟墨(らうぼく)を以つて拓碑文を搨(す)れり。未だ兩(りやう)三頁(よう)ならざるに、短景にして旦暮(たんぼ)たり。倉卒の際(きは)より、磨り減り、之れ、多く、家に還りて、之れを視るに、讀むに易からざる者、過半たり。因りて、文より推(お)して、意を以つて謄寫せり。恐るるは誤字の有ることなり。異日(いじつ)を俟ちて、再び搨り、當(まさ)に校訂すべき者なり。」と。

   *

「忌む所の有るを以つての故なり」蒲生の著作物が何度も幕閣の咎めや物議を醸しているからである。

「短景」陽が短いこと。

「旦暮」「朝から晩まで」が原義であるが、転じて「ちょっとの間」。

――馬琴先生、ちょっと遅くなりましたが、私が校訂しておきまして御座います――] 

   *

 以下は本文が一字下げ、短歌が四字下げであるが、引き上げた。「兎園小説」正編全十二集掉尾の言祝ぎ歌である。]

乙酉の、しはす、ついたち、「兎園小說集」の滿筵にあるじして、竟宴のこゝろをよめる、

 書きつめしふみをばなにゝおはすべきゝはあそはぬ菟道の友垣   解

おなじ折、興繼に代りて、おなじこゝろを、

 宇治のきみのすさみに似たることの葉もながめにうとき冬の花園

 

兎園小說

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