萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 手の感傷 / 筑摩版全集の「手の感觸」と同一原稿と推定(但し、順列に有意な異同が認められる)
手 の 感 傷
その手はびらうど
その手は絹製(もみ)
その手はふつくりしてあつたかい
その手はこそばゆい愛の感觸
その手にくちびるをおしあてたい
その手はうしろにまわるゆうわくの手
その手をあげられ
その手を磨かれ
その手をもつてわれの指を握り
その手をして聖像たらしめ
女よ。
[やぶちゃん注:「びらうど」(歴史的仮名遣でも「びろうど」(「天鵞絨」「ビロード」のこと。絹織物で、経糸(たていと)をパイル状(ループ状にしたもの)にした、比較的、毛足の長いパイル織物の一種。平織股は綾織の二枚の織物を経糸によってパイル糸とともに織り込み、それを二枚に切り分けて製造する。繊維が高密度に揃い、繊維の末端周辺に特有の肌触りを持つ。英語で「ベルベット」(velvet)、ポルトガル語(veludo)・スペイン語(velludo)で「ビロード」)「ゆうわく」(「誘惑」の歴史的仮名遣「いうわく」)はママ。
さて筑摩書房版全集では、この同題の詩篇はない。しかし、「未發表詩篇」には、内容が酷似する「手の感觸」がある。以下に示す。「まわる」「ゆうわく」はママ。なお、編者注があり、本篇と「炎天」の二篇は同一の用紙に書かれていある旨の記載がある。その「炎天」は『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 炎天 / 筑摩版全集の「未發表詩篇」所収の「炎天」の別稿』の注で電子化してある。
*
女の手の感觸
その手はびろうど
その手は紅絹製(もみ)
その手は愛は感觸ふつくりしてあつたかい
その手はこそばゆい愛欲の感觸
その手はせんちめんたるのうしろにまわる女の子→手ゆうわくの手
その手はにくちびるをあて るの手 たいおしあてたい
その手をあげられ
その手はを磨かれ
その手をもつて握られ→神聖たらしめ この手われの指を握り
その手は女の手
その手をしていんよくの聖餐をひらかしめ像たらしめ
女よ、
*
これを整序すると、
*
手の感觸
その手はびろうど
その手は絹製(もみ)
その手はふつくりしてあつたかい
その手はこそばゆい愛の感觸
その手はうしろにまわるゆうわくの手
その手にくちびるをおしあてたい
その手をあげられ
その手を磨かれ
その手をもつてわれの指を握り
その手をしていんよくの聖像たらしめ
女よ、
*
となり、本篇とは、題名と「その手はうしろにまわるゆうわくの手」「その手にくちびるをおしあてたい」の順列が異なるが、私は同一の原稿を判読したものではないかと考えている。「觸」と「傷」はいい加減に書けば、判読が困難になるし、五行目と六行目は筑摩版全集では激しい推敲が二行ともに行われており、ごちゃごちゃになったそれを小学館の編者がうっかり前後を入れ替えてしまったとしても不思議ではないからである。但し、本当に小学館の編者が誤りで、筑摩書房の編者が正しいかどうかは、原稿を見ない以上は、実は判らない。例えば、私個人は「その手にくちびるをおしあてたい」は本詩篇の中の大きな転回点となる一行である。「は」で並べて整序されるよりも、私は、ここにその強いブレイクが挟み込まれ、そこにまた、徐に「は」の「その手はうしろにまわるゆうわくの手」があって以下が続く方が、内在律は遙かに上下して鼓動を打つように思われるからである。【二〇二二年二月二十五日追記】筑摩版全集の追補・訂正差し込みで、『本篇は「その手は菓子である」草稿の「女の手の感觸」』『と重複するため【本文】【初出】ともに削除』とあるが、折角、苦労して電子化したので残しておくことにする。というより、実は子細に見ると、両者は同一ではないからである。]
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