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2021/11/13

曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 麻布の異石

 

   ○麻布の異石

「春秋傳」に、石の物いひし事を載せて、神靈の憑りたるよしを論ぜり。古來、其例、多ければ、今贅するに及ばず。抑、餘が住める麻布の地に、見聞せし異石、五種あり。其一は、秋月家の園中に、三尺許なる寒山拾得の石像、いつの比にや、「行夜の卒の跡より慕ひ來けるを、斬り拂ひけり。」とて、其瘢痕を存す。其二は、長谷寺の内に、五、六尺許なる夜久神の石像、緇素の諸願をかくるに、其驗、多し。「是も件の園中に在りしに、長谷の住持、靈夢によりて、爰に移す。」といふ。其三は、山崎家の邸内の陰陽石、これを「結の神」に比して、その願をきく、とぞ。其四は、五島家の門前大路の中央に、徑、尺餘の頑石、凸起して、あり。「道普請の礙りなり。」とて、掘りけるに、「其根、金輪際までも入りたり。」とて、元の如く、捨て置きぬ。往來の人、鹽を手向て、足の願をかくる事、半藏御門内の石に、同じ。其五は、森川家の別㙒に、二尺餘なる烏帽子形の石に、日月の像、顯れ出でたる有り。件の園丁、茂左衞門といふ者、靈夢によりて、その鄕里越後國頸城郡吉城村の畠より得たりといふ。目出たき石と申すべきか。以上の五石は、麻布の地に現存して、人皆、これを禮拜すること、米家[やぶちゃん注:底本に右に『(マヽ)』注記有り。]の昔に異ならず。余、天下を巡遊して、異石を歷觀せしこと、多し。遠き諸州の灼然を略して、近き麻布の隱微を表するのみ。江都の廣き、本所の「駒留石」、牛天神の「牛石」、其餘、地藏觀音に至りては、僕を更ふとも、其說、盡しがたかるべし。

 予が家の傍に、字を「鷹石」といふ町あり。昔、鷹の形ある石を掘出して、靈異あり。今は、なし。この處に唐豆腐を製して、「岩石」と名づく。今、石のちなみに兩三※を獻じて、兎園の一笑を乞ふのみ[やぶちゃん字注:「※」=「日」+「廷」。]。

  臘月吉日         麻布村學究

  こは輪池堂の携へられたれば、その編の間に寫しとゞめつ。

[やぶちゃん注:前回述べた通り、また、末尾に注記(実は底本では「輪池堂」が「輪地堂」となっており、ママ注記もなんにもない。この底本、かなり校正が杜撰なことが判る)する通り、本来、本編は前の「いきの數」の後、「えそ鶸圖考」と、それに続く「三十一字」の前に挿入されてある。

『「春秋傳」に、石の物いひし事を載せて、神靈の憑りたるよしを論ぜり』「春秋左氏伝」の「昭公八年」の以下の条。訓読は自然流。

   *

八年春、石言于晉魏榆。晉侯問於師曠曰、「石何故言。」。對曰、「石不能言。或馮焉。不然、民聽濫也。抑臣又聞之曰、『作事不時。怨讟動于民。則有非言之物而言。』。今宮室崇侈、民力彫盡、怨讟並作、莫保其性。石言不亦宜乎。」。於是晉侯方築虒祁之宮。叔向曰、「子野之言君子哉。君子之言、信而有徵、故怨遠於其身。小人之言、僭而無徵。故怨咎及之。「詩」曰、『哀哉不能言 匪舌是出 唯躬是瘁 哿矣能言 巧言如流 俾躬處休』。其是之謂乎。是宮也成、諸侯必叛、君必有咎、夫子知之矣。」。

   *

 八年の春、石、晉の魏榆(ぎゆ)にて、言(ものい)へり。

 晉侯、師曠(しこう)に問ひて曰はく、

「石、何故、言へる。」

と。對(こた)へて曰はく、

「石、言ふこと、能はず。或いは憑(もののつ)けるか。然らずんば、民、聽き濫(みだ)せるなり。抑(そもそ)も、臣、又、之を聞けり。曰はく、『作事するに時せず、怨讟(ゑんどく)[やぶちゃん注:怨み。]、民を動かせば、則ち、言は非ざる物、而して言(ものい)ふ。』と。今、宮室、崇侈(すうし)[やぶちゃん注:奢侈。]多く、民の力、彫盡(ちようじん)[やぶちゃん注:凋落。]し、怨讟、並び作(おこ)りて、其の性を保つこと、莫(な)し。石、言ふも亦(また)、宜(むべ)なるらずや。」

と。

 是(ここ)に於いて、晉侯、方(まさ)に「虒祁(しき)の宮」を築けり。

 叔向曰はく、

「子野[やぶちゃん注:師曠の字(あざな)。]の言(げん)、君子なり。君子の言、信(まこと)ありて、徴(しるし)[やぶちゃん注:確たる裏付け。]あり。故に、怨み、其の身より遠(とほさか)れり。小人の言、僭(おご)れりて、徴、無し。故に怨みの咎(とが)、之れ、及べり。「詩」に曰はく、

哀しきかな 言(げん)を能くせざる

舌 是れ 出だすのみに匪(あら)ず

維(こ)れ 躬(み) 是れ 瘁(や)みぬ

哿(よ)きかな 言を能くする

巧言 流るるがごとく

躬を休(やす)きに處にあらしむ

其れ、是(か)くのごとき謂ふか。是の宮の成るや、諸侯、必ず、叛(そむ)き、君主、必ず、咎(とが)、及べり。夫子(ふうし)[やぶちゃん注:尊称。「先生」。師曠を指す。]、之れを知れり。」と。

   *

引用されてある「詩経」のそれは、「小雅」の「雨無正」の一節で「小人の言は禍いを齎して、必ず病み憂える。優れた言動を成せる者は、心地よい響きを以ってその人の身体を穏やかに保つ」といった謂いであろう。「師曠」(生没年不詳)は春秋時代の晋の平公(昭公の先代)に仕えた楽人。盲目であったが、琴の名手で、絶対音感を有していた。酒色に耽溺する平公に、たびたび、箴言を述べたとされる。

 なお、本篇については、私のFacebookの友達が作っておられる麻布史の強力なサイト「DEEP AZABU」の「むかし、むかし5」の「70.麻布の異石」で採り上げられて、以下のように注しておられ、「麻布學究」なる人物の正体も明らかにされておられる。

   《引用開始》[やぶちゃん注:サイト内リンクも可能な限り、再現してある。]

滝沢馬琴「兎園小説」の中で、城南読書桜教授であり、林一門の五蔵の一人の大郷信斎は「麻布学究」という名で麻布の異石を述べている。

1.秋月家の庭にあった3尺ほどの寒山拾得の石像。[やぶちゃん注:現存し、リンクがあって画像で見られる。]

詳細はむかし、むかし11-186.寒山拾得の石像でどうぞ

2.長谷寺にある5~6尺の夜叉神像

こちらも以前は秋月家にあったが長谷寺住職が霊夢により寺に移したと言われる。岡本綺堂が半七捕物帖で夜叉神堂として取り上げている。 昭和20年空襲により消失。現在は復元された夜叉神像が安置されている。

3.山崎家の陰陽石

がま池のほとりにあり「結びの神」といわれた。

4.五島家門前の要石

現在の麻布総合支所辺の路上にあった石。麻布七不思議のひとつのかなめ石で「永坂の脚気石」ともいわれた。

5.日月(じつげつ)の石

森川家別邸(広尾橋辺)にあった烏帽子形の石で二尺ほどで日月の像が出ていた。園丁茂左衛門というものが霊夢により郷里、越後の畑中より掘り出した。 道聴塗説十編には、

祥雲寺前の橋爪に森川家の別荘あり。ここに住める下部茂左衛門といふ者、今年正月霊夢により、其の郷里越後国頸城郡荒井東吉城村にて、三月二日長さ二尺余、 広さ一尺計り、その形少しく烏帽子の如く、左右に日月のかたち突起せるを堀出し、これを負うて江戸に来り、件の別荘に安置しければ、近隣聞き伝えてあつまり 観る者多し。目出度き石と申すべきか。

とある。

そして上記5つの異石とは別に、

予が家の傍に、字を鷹石といふ町あり。昔鷹形ある石を堀出して霊異あり。今はなし。

と、鷹石についての記述があるが、兎園小説が書かれた江戸末期の文政年間(1800年代初頭)にはすでに元地には鷹石が存在しなかった事がわかる。

   《引用終了》]

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