小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (21) 近松巢林子とシェクスピア
近松巢林子とシェクスピア
一
前章までに私は、探偵味と怪奇味とに富んだ日本の犯罪文學を紹介したから、これから私は、犯罪心理の描寫にすぐれた犯罪文學を紹介しようと思ふのであるが、さうなるとその範圍が極めて[やぶちゃん注:底本は「柄」。国書刊行会本で訂した。]廣くなつて、殆んど手のつけ樣がないから、先づ德川時代の『大衆文藝』とも稱すべき淨瑠璃を選び、その最も秀れた作者であつた近松門左衞門翁の作品の解剖を試み、それと同時にシェクスピアの作品をも紹介して置かうと思ふのである。近松を日本のシェクスピアと呼ぶことの當否は、もとより私の關しないところであつて、私はたゞ何となしに二人を並べて見たのに過ぎないのであるが、兩者の作品を比較硏究することは、犯罪心理學上決して興味が少なくないのである。
[やぶちゃん注:「近松巢林子」(さうりんし)は近松門左衛門(承応二(一六五三)年~享保九(一七二五)年:本名は杉森信盛)の号の一つ。
「シェクスピア」ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare 一五六四年四月二十六日(洗礼日)~一六一六年 )。]
さて、巢林子もシェクスピアも隨分澤山の作品を遺して居るので、その中の犯罪を取り扱つたものを一々紹介するのは不可能であるから、巢林子の作では『女殺油地獄』シェクスピアの作では『マクベス』を選んで、兩巨匠の描いた犯罪者を考察して見ようと思ふのである。『女殺油地獄』の中には、河内屋與兵衞という環境によつて生じた犯罪者が取り扱はれ、『マクベス』の中にはマクベスといふ先天的犯罪者が取り扱はれてあるので、彼等が殺人の前後に於ける心的經過を比較するに頗る好都合である。
[やぶちゃん注:「女殺油地獄」享保六(一七二一)年、人形浄瑠璃として初演。当該ウィキによれば、『人気の近松作品と言うことで』、『歌舞伎でも上演されたが、当時の評判は芳しくなく、上演が途絶えていた。ちなみに、実在の事件を翻案したというのが定説だが、その事件自体の全容は未詳である』とある。私は文楽で二度見たが、どうも世話物の悪漢物としては、与兵衛の天性の極悪非道情け無しの絶対の非人間的悪党性が、全く感情移入を拒否して、頗る後味が悪く、奇体なアクロバティクな演出を含めて、あまり好きな作品ではない。梗概は当該ウィキを参照されたい。なお、以下で引用される本文(台詞)へ私が振った読みは、主に国立国会図書館デジタルコレクションの明治二四(一八九一)年文学書院刊の「女殺油地獄」を参考にした。
「マクベス」(Macbeth )は一六〇六年頃に書かれた傑作戯曲。私は彼の作品の中で「ハムレット」(Hamlet :一六〇一年頃成立)に次いで好きな作品で、舞台・映画化の鑑賞回数は数十回に及ぶ。梗概は当該ウィキを参照されたい。なお、以下の二人の参考紹介作品に就いては注さない。]
『女殺油地獄』は、巢林子の六十九歲の作であつて、晚年に於ける三名作(『心中天網島』と『心中宵庚申』とを併せて)の一つであるばかりでなく、巢林子のあらゆる作中、最も優れたものであるとさへ言はれて居る。それと同じく『マクベス』も、シェクスピアの三傑作(『ハムレット』と『オセロ』とを併せて)の一つであつて、五十二歲で死んだ作者の、四十二歲の時の作物であるから、いはゞ作者の腕の圓熟した頃のものである。だから『油地獄』と『マクベス』はそれぞれ巢林子と沙翁の代表作と見倣すも差支なく、實際、犯罪文學の立場から言つても、この二つは傑作中の傑作といひ得るのである。ことに巢林子には、『油地獄』の外に取り立てゝいふ程の犯罪文學はなく、『源氏冷泉節』の毒殺心理や『丹波與作』の窃盜心理などは『油地獄』ほど深いところまで立ち至つては居らないのであるから、巢林子の『犯罪觀』をうかゞふべき作品は、『油地獄』より外に無いといつてもよいのである。尤も『心中』卽ち複自殺の心理を廣義の犯罪心理と見倣せば、いふ迄もなく、近松翁の作品には、應接に遑のないほど取り扱はれて居る。
『油地獄』の中には、極めて我まゝに育つた靑年が、金に困つて知人の細君を殺すといふ突發性の犯罪が描かれてあり、『マクベス』には、癲癇を持つたマクベスが、幻視によつて王位を奪い得るものと確信し、國王を弑するといふ、計畫された殺人が描かれてあつて、前者は當時の市井の出來事からヒントを得、後者はホリンシェツドの『編年史』から題材を得たのであつて、ことに『油地獄』に關しては、作者が別段の用意もなく、今日の新聞の三面種を取り扱ふほどの輕い氣持で書いたらしいといふ說をなす學者もあるが、すべて、天才は、たとひ不用意のうちに筆を執つても、人間を觀察する眼に狂ひがないから、やはり立派な作品が生れるのであつて、丁度、兩親の不用意のうちに作られた天才その人が、硏究に値すると等しく、その天才の不用意な作品もまた深重に硏究すべきものであると思ふ。
[やぶちゃん注:「ホリンシェツドの『編年史』」イングランドの年代記作家ラファエル・ホリンズヘッド(Raphael Holinshed 一五二九年~一五八〇年)。一般的に「ホリンズヘッドの年代記 」(Holinshed's Chronicles )として知られる彼の作った年代記はシェイクスピアが数多くの戯曲を書く上で重要な情報源として利用している。]
二
『女殺油地獄』は上中下の三卷からなつて居る。上卷には野崎詣り、中卷には山上詣《やまがみまひ》り、下卷には端午の節句を鹽梅して舞臺效果を多からしめて居るが、劇としての『油地獄』を論ずるのが目的でないから、こゝではたゞ大たいの筋書きを紹介するにとゞめる。
大阪、本天滿町、豐島屋七左衞門の妻お吉(二十七歲)が、三人の娘をつれて、野崎詣りの道すがら、ある茶店に休んで居る、とお吉の家の筋向ひに住む當年二十三歲の河内屋與兵衞(主人公)が二人の色友達とやつてくる。お吉は與兵衞に向つて『お前さんには、新地の天王寺屋小菊、新町の備前屋松風といふ御馴染がある筈、こんなときに何故一しよに連立つて御出でにならぬか』[やぶちゃん注:底本では最初の二重鍵括弧がないが、国書刊行会版で加えた。]とカマをかける。すると與兵衞は『連立つて來るつもりであつたけれど、松風は先約があるといふし小菊は方角が惡いと逃げ居つたが、きけば小菊は會津の客につれられて、野崎詣りに來たといふことだから、小菊を待伏せして一出入するつもり』だと答へる[やぶちゃん注:ここも二十鍵括弧閉じるが欠落している。国書刊行会版の位置に加えた。]。それをきいてお吉は『かねがね私はあなたの御兩親から、與兵衞に意見をして下さいと賴まれて居ます。どうぞ人前で恥をさらさないやうにして御兩親を安心させてあげるやうにして下さい』
といつて去る。
間もなく小菊が會津の客とこちらへやつて來る。與兵衞たち三人は、その前に立ちはだかつて、小菊を貰ふからさう思へと言い渡す。すると會津の客は、案外物に驚かず、與兵衞の二人の友だちの一人を川に蹴こみ、一人を追ひ散らしてしまつたので、遂に與兵衞は組打ちを始め、二人とも小川の中へまろび落ちてしまふ。丁度そこヘ一人の武士が郞黨を連れ馬に乘つて代參に來たが、與兵衞のために泥水をかけられたので徒士頭の山本森右衞門が、與兵衞を捕へて見ると、與兵衞は自分の甥に當る故、一且はびつくりしたが、身うちのものとあれば尙更容赦はならぬと、討ち捨てようとすると、馬上の武士は、參詣の濟む迄は怪我をさせてはならないと押しとどめ、一行は與兵衞を殘して去つてしまふ。
與兵衞は、『南無三伯父の下向に切るゝ筈、切られたら死のう[やぶちゃん注:底本は『死う』。国書刊行会本で補った。]、死んだらどうしよ』と氣も轉倒せんばかりに怖氣つき、兎にも角にも逃ようと思つたが、さて何處へ逃げたらよいだらうかと迷つて居ると折しも其處へ最前のお吉が戾つて來る。これ幸と與兵衞はお吉に向つて、『いゝところへ來て下さつた、わたしはかうして居れば切られてしまふから、大阪へつれて行つて下さい』と賴む。お吉は『いゝえ、私はまだ歸るのではありません。七八町行つたところ、あまりに人が多いので、良人を待ち合せるために引き返して來ただけです。だが一たいその泥はどうなさつたのです?』といつて、事情をきゝ、『それでは洗濯をしてあげませう』と茶店の奧へはひつて行く。そこへお吉の良人七左衞門がきて、姉娘から、お吉と與兵衞とが、茶店の奧で衣服を脫いだり、帶を解いたりして居ることを聞いて大に嫉妬の情にかられるが、やがて奧から二人が出て來て、與兵衞が申譯をすると、七左商門は碌に返事もしないで妻子を連れて去つてしまふ。と、折あしくも先前の武士の一行が歸つて來て、森右衞門が刀の柄に手をかけようとすると、武士は鷹揚にかまへて肋けてやれといふので、與兵衞はほつとする。以上が上卷の梗槪である。
中卷では、與兵衞の家卽ち河内屋德兵衞の油屋の店が舞臺となつて居る。山上參り(吉野金峯山に登ること)の連中がどやどやとやつて來て、『與兵衞はどうした。今日俺達の歸つて來ることがわかつて居るに、出迎ひもせぬとは、どこか氣分でも惡いのか』といふ。德兵衞が走り出て『うちのどろめは山上參りの行者講のと、今年も自分の手から四貫六百、順慶町の兄太兵衞から四貫取つて、迎ひにも出ぬとはひどい奴どうぞ友だちとして意見してやつてくれ』と賴む。ところへ、奧から母親も茶をもつて出て、『與兵衞が山上さまへ噓をついた罰が、妹娘のおかちにあたつて、十日ばかり風邪氣で寢て居ますけれど醫者にかゝつても一向なほりません。どうか皆さま御祈禱を賴みます』といふ。すると講中の一人は、『罰ならば與兵衞に當る筈。娘御の病氣は別のことだらうがそれには白稻荷法印《しろいなりほふいん》といふ山伏を御賴みなさるがよい』といひ置いて去つてしまふ。
[やぶちゃん注:「どろめ」息子の与兵衛を指して言った卑称。他に「どろく者」とも呼んでおり、推定だが、これは「泥奴」で「泥に穢れた者」の謂いか。それは先の徳庵堤での「泥」を投げ合って、「泥」まみれになるという「穢れ」が伏線としてあり、究極の豊島屋での「どろ」りとした油に塗れて忌まわしい人殺しとなる場面への再伏線ともなっている。]
するとそこへ、與兵衞の兄なる順慶町の太兵衞がたづねて來る。太兵衞も與兵衞も、德兵衞の生《な》さぬ仲の子である。卽ち德兵衞の舊主人の子で、彼は舊主人の死後舊主人の内儀と一しよになつたのである。太兵衞は德兵衞に向つて、『今も道で母に逢つて話したことだが、伯父森右衞門からの文面によると、先月與兵衞が御主人へ狼籍に及び、そのため居づらくなつて浪人したとの事、誠に以ての外の人間、一日も早く勘當してしまひなさい。一たい、常日ごろ、親仁樣が手ぬるい。自分の種でないといつたとて、母の良人である以上眞實の父だ。おかちを打たゝいても、あの馬鹿者に拳一つあてぬやうにしなさるので、却つてあいつのためにならない。たゝき出して來《こ》されゝば、どこかひどい主にかけて、ため直してやりませう。』といふ。德兵衞は無念顏、『親旦那の往生の時はそなたは七ツ、與兵衞は四ツ、德兵衞どうせいこうせいといつたことを彼奴《あいつ》はちやんと覺えて居るのだ。伯父森右衞門殿の了簡で、是非にと言はれて、親方の内儀と女夫《めをと》になり、そなたは立派に育つたが、與兵衞めはそれと反對で、商賣の手を擴めさせようと思つても、壹匁《もんめ》もうければ百匁つかう根性、意見一言いへば、千言でいひ返す。誠にこの身の境界がつらい。』と嘆く。太兵衞はそれからしきりに勘當をすゝめると折しも奧の方でおかちが眼をさまして苦しがり、門口へは白稻荷法印が見舞にやつて來る。太兵衞が去ると、入れちがひに、空樽をかついだ與兵衞が歸つて來て、法印に挨拶し親仁に向つて、『親仁殿おかちの病より大事なことがある。跡の月野崎で伯父樣にあつたら、主人の金を三貫目つかひこんだから返さなければ切腹だ、是非調べてくれとの事。その當座母に話したが今ふと思ひ出した。これからわたしが持つて行つてあげるから、是非出して下さい。』といふ。たつた今太兵衞からきいたことがあるので、德兵衞は相手にせず、法印を案内しておかちのところへ連れて行く。法印が祈禱を始めるとおかちは顏をあげ、『私の病直すには、聟殿の話をやめて、與兵衞の戀人を請出し、この世帶を渡してくれ』と、夢中になつて口走る。法印はそれを物ともせず祈つて居ると與兵衞が出て來て追ひ出してしまひ、さて、親仁に向つて、『親仁どの、今のおかちの言葉は死んだ父の死靈が言はせたのだ。死靈の言葉どほり、この與兵衞に世帶を渡したらどうだ』といふ。德兵衞は怒つて『渡せぬ』といふ。『扨は妹に聟を取つて世帶を渡すな?』『さうとも』これをきいて與兵衞はカツと怒り、德兵衞を踏のめらし、肩や背中を足蹴《あしげ》にする。妹はびつくりして、『みんな兄樣の言いつけで死靈のついた眞似をしたのに、父さまを蹴るとはひどい』といつてとゞめようとすると、與兵衞は妹をも踏み伏せる。
折しもそこへ母親が歸つて、與兵衞のたぶさを引つかみ、橫投げにのめらせて、目鼻の差別なくなぐりつける。さうして散々叱つたあげく、『半時も此内に置くことはならぬ、勘當ぢや出てうせう』と淚ながらに打たゝく。與兵衞はこれをきいて、『こゝを出たら、どこへも行く所がない』といふ。母が天秤棒で追ひ出さうとすると、與兵衞はそれを奪つて母に向つて打ちかゝる。德兵衞は、今は見るに見兼ね、更にその天秤棒を奪つて、息もつがせず六ツ八ツ打ち續ける。さうして自分のつらい心持ちを訴へると、母は、『うぢうぢひろがば町中《まちなか》よせて追ひ出す。』といつたので、町中といふ言葉に、さすがの與兵衞もびつくりして、ふらふらと出かける。德兵衞はその後を見送り、『あいつが顏付背恰好、成人するに從ひ死なれた旦那に生寫《いきうつし》。あれあの辻に立《たつ》たる姿を見るに付、與兵衞めは追出さず、旦那を追出す心がして、勿體ない悲しいわいの』と淚ながして悲しむ。といふのが中卷の梗槪である。
[やぶちゃん注:「ひろがば」「言うととなら」の意。]
下卷の舞臺は、河内屋の筋向ひ、豐島屋の店。五月四日の夜である。女房お吉一人三人の娘を寢させて留守番をして居ると、掛取りに出た良人七左衞門が中休みに立寄り、掛金として集《あつま》つた五百八十目を預けて再び出かけて行く。と、其處へ勘當された與兵衞が、油二升入の樽をさげて來て、門の口から豐島屋をのぞきにかゝると、後《うしろ》の方で、『與兵衞ではないか。』と呼ぶ者がある。見ると上町の口入綿屋小兵衞、『あゝいゝところで出逢つた。順慶町へ行けば、本天滿町の方だといひ、本天滿町ヘ行けば勘當したといふ事だつた。お前さんが留守でも親仁さんの判、新銀一貫目、今宵延びれば明日は町へことわるからそのつもりで御いでなさい。』といふ。與兵衞は驚き、『手形の表は一貫目だが正味は二百目、今夜中に返せばいゝぢやないか。』『さうとも、明日の朝六ツ迄にすめば二百目、五日の日がによつと出ると一貫目。』かういつて綿屋は歸つて行く。與兵衞がはたと當感して居ると提燈をとぼして親仁の德兵衞がやつて來る樣子、はつと思つて、彼は平蜘蛛のようにつくばつてしまふ。
德兵衞は豐島屋の店へはひつて、お吉に向い、『與兵衞は此頃生みの母が追出したので止められもしなかつたですが、きけば今順慶町の兄の方に居るといふこと、若し狼狽《うろた》へてこちらへ來ましたら、父親は合點だから、母にわびをして再び戾るやうに意見して下さい。ここに三百女房に内證で持つて來ましたから、私から出たといはずあなたの手で渡してやつてくれませぬか。』と賴む。[やぶちゃん注:底本は句点なし。国書刊行会本で補った。]するとそこヘ母親お澤が裏口からたづねて來て、『德兵衞殿、何しにござつた。與兵衞にやるとて三百持つてござつただらう。そのあまやかしがいけない。さあさあ早くいなしやれ。』と引立てようとする、德兵衞が言ひ譯すると、お澤はなほも追ひやらうとする。歸るなら一しよに歸らうと、德兵衞がお澤を引張ると、その途端に母の袷の懷から粽《ちまき》一わと錢五百が落ちる。お澤は狼狽し、『あゝ堪忍して下され德兵衞殿、いくら鬼子でも、母の身でどうして憎からう。けれど、母が可愛い顏をしてはいかぬから、無理につらくあたりました。私に隱して錢をやつて下さる心は、口ではけんけんいつても心では三度いたゞきました。私も實はあいつの可愛さに店の錢五百を盜んでお吉樣に屆けて貰はうと思ひました』と泣く。結局お吉の取計らいに任せて夫婦二人は歸つて行く。
兩親の歸るのを見屆けた與兵衞は、『心一つに打うなづき、脇指拔て懷中に、さいたるくゞりとあけ』[やぶちゃん注:開始の二重鍵括弧が逆。訂した。]、『七左衞門殿はどちらへ、定めし掛もよつたことでせう?』と言ひながらはひる。お吉は與兵衞の姿を見て、『あゝ、いゝ所へござつた。この錢八百と粽が、あなたに遣れと天から降つて來ました。』といひ乍ら差出す。與兵衞は驚かず、『これが親たちの合力《かふりよく》か』といふ。『ちがひます。』『いやわかつて居る。先前から門口で蚊に喰はれて、親たちの愁嘆きいて淚をこぼしました。』『そんならよく合點がいつた筈、これからは心を入れ替なさい。』『いや、孝行したくても、肝腎の錢が足らぬ。賣溜め掛金がある筈だから三百目貸して下さらぬか。』お吉はびつくりして、『それでは必ず直つたといへぬではありませんか。金は奧の戶棚に上銀が五百目あまりあるが、良人の留守には一錢も貸すことなりません。いつぞやの野崎參りに着物を洗つてあげてさへ、不義したと疑はれ、言ひ譯に幾日もかゝりました。良人の歸らぬうちに早く去んで下さい。』與兵衞はそばへにじり寄り、『不義になつて貸して下さい。』といふ。『いけません。』『是非。』『女と思つてなぶらしやると聲を立てますよ。』『實は先月の二十日に親仁の謀判《ぼうはん》をして上銀二百匁今晚切りに借りたのです。明日になれば手形どほり一貫匁で返す約束、而も親と兄を始め兩町の五人組へ先方でことわる筈、とても才覺出來ぬので自害しようと、この通り脇指をさいて出ましたが、只今兩親の歎《なげき》をきゝ、死んだあとで親仁へ難儀のかゝることは不孝の上塗りと知り、詮方なさに賴むのです。たつた二百目で與兵衞の命が肋かります。どうか貸して下さい。』
お吉はこれを與兵衞のいつもの手と察し、どうしても承知しない。そこで與兵衞は考へて、『そんなら、せめてこの樽に油二升取替へてくれませんか?』といふ。『それは易いこと。』とお吉が油をつめかゝると、與兵衞はお吉の後へしのび寄り、刀を取り出す。ピカリと光つたのでお吉はびつくりして、『何でした』といふ。『何でもない。』『いやいや、それ、急度《きつと》目がすわつて、恐ろしい顏色、手を出して御覽なさい。』與兵衞は刀を背後で持ちかへて手を出す。お吉は氣味を惡がり逃出さうとする。躍りかゝつて與兵衞はお吉の咽喉笛を剌す。苦しい中から、お吉は『助けて下さい。三人の子が可愛い。[やぶちゃん注:句点は私が附した。]金は入るだけ持つて行つて命だけは助けてくれ』と哀願する。『ヲヽ死にともない筈。尤々《もつとももつとも》。こなたの娘が可愛程、己《おのれ》も己を可愛がる親仁がいとしい。金拂うて男立てねばならぬ。諦らめて死んで下され。口で申せば人が聞く、心でお念佛、南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛。』と、たうとう殺してしまふ。かくて與兵衞は死顏を見て、心を亂し、戶棚から金を盜み出して逃げ去るのである。
舞臺が變つて遊廓となり、與兵衞の伯父、森右衞門が近頃與兵衞の身持が一層惡くなつたときゝ、ことに女殺して金取つたのも與兵衞らしいといふ世間の評判を心配して、備前屋の松風の許をたづねると、入れちがひに一人の男が出て來る。松風が、『つい先程見えられたが曾根崎へ用事があるといつて去られた』といふと『それではもう一つたづねるが、五月の節句前か後で、金を澤山つかつたことは御座らぬか。』といふ。『金のことは知りません』といつて松風は奧へはひる。森右衞門は仕方なく曾根崎の方へ去る。
與兵衞は小菊に逢ふため曾根崎の花屋に來ると、後家のお龜が出迎へて上らせ、それから油屋の女房殺しの芝居の話をする。與兵衞が不安を覺えて、無茶酒をのんで居ると、友人が訪ねて來て、『お前を侍がたづねて居るぞ』と告げる。びつくりして樣子をきくと叔父らしいので、逢つては面倒と、新町に紙入を忘れて來たといつはつて逃げ出す。その跡へ森右衞門がたづねて來て、花車に逢ひ、新町へ去つたときいて殘念がり、『こんど與兵衞が來たら、酒でも呑せて留め置き、本天滿町の河内屋へ知らせて貰ひたい。[やぶちゃん注:句点は私が打った。]只今來がけに櫻井屋源兵衞方へ立寄つてきくと、五月四日の夜に、大金三兩、錢八百受取つたといふことだが、こゝへ幾ら拂つたか。』『私方へも大金三兩、錢一貫文』『その夜は何を着て參つたか』。『廣袖の木綿袷、色はたしか花色だつたと思ひます。』『よろしい。』と森右衞門は去る。
再び舞臺は𢌞つて、お吉の家では三十五日の逮夜《たいや》がつとめられて居る。同行の人々が、七左衞門をなぐさめて居る折しも、居間の桁《けた》梁《うつばり》を通る鼠が、反古《ほご》をちらりと蹴落して行つた。七左衞門が見ると、血のついた半切紙に一ツがき、十匁一分五リン、野崎の割付五月三日とある。[やぶちゃん注:句点は国書刊行会本で補った。]どうやら見たやうな筆蹟だと同行に見せると、河内屋の與兵衞の手だときまり、さては去る四月十日、與兵衞は三人づれで野崎詣りに行つたさうだが、その割付にちがひない。これでお吉を殺した犯人も知れました。亡者が知らせたにちがひありませんと喜ぶ。とその時、『河内屋の與兵衞です』と、當の本人がはひつて來て『三十五日の逮夜になつても、犯人が知れぬで御氣の毒です』と弔詞をのべる。七左衞門は、『おのれ、お吉をよくも殺した』と躍りかゝる。やがて挌鬪《かくとう》[やぶちゃん注:「格鬪」に同じ。]が始まり與兵衞が逃げ出すと、表に捕吏《とりて》が居て難なく取り押へる。捕吏の後から森右衞門が聲をかけ、『もうかうなつたら潔く往生せい。世間の風說をきいて、あらわれぬ先に自害をすゝめようと、新町や曾根崎をたづねたが、いつも後ヘばかり行つたのは貴樣の運の盡だ。おい太兵衞その袷をこゝへ持つて來い。これは五月四日の夜に貴樣の著たもの、所々のきは付こはばり、お役所からの御不審、只今その證據調べだ。誰か酒を持つて來てくれい。』酒をかけると果して朱の血潮に變つた。與兵衞も今は覺悟を極め、大聲を出して、『一生不孝放埓の我なれども、一紙半錢盜みといふ事終にせず、茶屋傾城屋の拂は、一年半年《はんねん》遲《おそ》なはるも苦にならず、新銀一貫匁の手形借り一夜《ひとよ》過ぐれば親の難儀、不孝の科《とが》勿體なしと、思ふ計に眼付《まなこつけ》、人を殺せば人の歎き、人の難儀といふことに、ふつゝと眼付《まなこつ》かざりし、思へば二十年來の不孝無法の惡業が、魔王と成て與兵衞が一心の眼を眩まし、お吉殿殺し金を取しは河内屋與兵衞、仇も敵も一ツひぐわん。南無阿彌陀佛。』といひ、繩を受けて、この一篇の悲劇は終るのである。
[やぶちゃん注:「逮夜」「大夜」などとも書き、古くは葬儀の前夜を指したが、年忌や忌日の代用語として用いられる。ここは現在は行われることがまずない、三十五日法要のこと。故人が亡くなった命日から数えて、三十五日目に行う法要を指す。]
三
以上の梗槪からもわかるとほり『油地獄』の最後の部分には探偵的興味まで加はつて、いはゞ一種の優れた探偵文學となつて居り、作品全體が濃厚な近代的色彩を帶《お》んで居て、鋭い人生批評が加へられてあるために、當時の興行上の效果は却つてあまり良好ではなかつたといはれて居る。
この作に於て、作者は、如何に環境が犯罪性を釀成するかを痛烈に示さうとして居る。與兵衞の犯罪性には少しの遺傳的分子も加はつて居ない。實父、伯父、實母、實兄、すべて皆善人である。彼にはまた肉體的不具もなかつた。母親お澤が與兵衞を折檻する言葉に、『德兵衞殿は誰ぢや、おのが親。今の間に、脚が腐つて落《おち》ると知らぬか、罰あたり、おとましやおとましや、腹の中から盲《めくら》で生れ、手足かたはな者もあれど、魂は人の魂。己が五體何處を不足に生付《うまれつい》た。人間の根性何故さげぬ。父親が違ひし故、母の心がひがんで、惡性根入るといはれまいと、さす手《て》引手《ひくて》に病《やみ》の種。おのれが心の劒で、母の壽命を削るわい。』とあるのを見ても、彼が圓滿な體格を具へて居たことがわかる。さうして、これをかのシェクスピアの『リチャード三世』の中で、不具者リチャードを生んだヨーク公爵夫人がリチャードに向つて言つた言葉と比較して見ると頗る興味がある。卽ち『おのれはこの下界をわしの地獄にするために生れて來おつたのぢや。生れる當座もわしを苦しませおつたのぢやが。頑是ない頃から我儘で、剛情で、學問を始めるやうになつてからは、怖ろしい亂暴な、氣の荒い子で丁年《ていねん》[やぶちゃん注:成人。]になつては大膽不敵で、向う見ずで、それが年を取つてからは、高慢で、狡猾で、慘忍で、以前よりは外面が溫和になりおつたゞけに、口と心とは裏表の不信不義、深切《しんせつ》めかしては人を陷擠《おとしい》れるわるだくみ!』(坪内氏譯による)とあつて不具變質者の犯罪性の發達の經路が遺憾なく述べられてある。與兵衞の母親の言葉の中には、『育ち』が犯罪性を作ることが言ひ表はされ、リチャードの母親の言葉には、生れながらの犯罪性は、自然に發展して行くものであることが述べられてある。先天的犯罪者リチャードは、子供の時分から狡猾であつて世間の表裏をよく知つて居たにかゝはらず、境遇によつて作られた犯罪者與兵衞は世間といふものを少しも知らぬ『坊ちやん』であつた。氣儘に育つた彼は自分の欲望ならばどんなことでも叶ふものと思ひ込んで居たがために犯罪の何ものであるかといふことさへ知らなかつた。『まだ此上に根性の直る藥には、母が生肝《なまきも》を煎じて飮《のま》せいといふ醫者あらば、身を八ツ裂も厭はね共《とも》』といふくらゐの母親の盲目的な愛と、『此德兵衞は親ながら主筋《しうすぢ》と思ひ、手向ひせず存分に踏《ふま》れた。腹を借《かり》た生《うみ》の母に今の樣、傍《そば》から見る目も勿體なうて身が震ふ。今打《うち》たも德兵衞は打たぬ、先《まづ》德兵衞殿冥途より、手を出してお打なさるゝと知ぬかやい。おかちに入聟取といふは、跡方もないこと。エヽ無念な、妹に名跡《みやうせき》繼《つが》せては、口惜《くちをし》と恥入《はぢいり》、根性も直るかと、一思案しての方便。あの子は餘所へ嫁入さする、氣遣ひすな。他人どし親子と成《なり》は、よくよく他生の重緣と可愛さは實子一倍。疱瘡した時日進樣へ願かけ、代々の念佛捨て百日法華に成《なり》』といふくらゐの父親の義理を思ふ愛の中に育つたのであるから、彼の氣儘は極端に增長したのである。無論、同じ家に育つた兄の太兵衞が正直な人間になつたところを見れば、與兵衞には、我儘放埓に陷るべき先天的素質があつたと解釋しても差支ないけれど、少なくとも近松翁は、與兵衞を先天的犯罪者にしようとは思はなかつたやうである。
[やぶちゃん注:小酒井不木は身体に障碍があることを先天的犯罪性と結びつけようとする偏見があることを批判的に読む必要がある。
「リチャード三世」シェイクスピアの史劇。正式なタイトルは「リチャード三世の悲劇」(The Tragedy of King Richard the Third )。初演は一五九一年。そこでシェイクスピアは主人公リチャード三世を、先天的に背骨が大きく曲がって瘤があり、足を引き摺る人物として描いているが、実際の当人の遺骨の調査によって、これは創作だったことが判っている。実際の彼は、背骨が曲がる脊柱後湾の症状はあったものの、重度ではなく、衣服や甲冑を着れば、隠れる程度のものであった。]
かくの如く、親子の眞の道を敎へられなかつた與兵衞は、成長しても子供のまゝの野蠻性を失はなかつた。その野蠻性は野崎詣りの場面に於いて喧嘩によつてはつきりあらはされてあるが、その喧嘩の當時、伯父に逢つたことを種にして、兩親を欺いて金を取らうとした奸智は、その野蠻性の發現とも見られぬでもないけれど、むしろ、惡友の感化によるといつた方が適當であるかも知れない。遊里に足を踏み入れた彼は、お定まりの金に窮し、始めて世の中が我が意の如くならぬことを知り、父母を詐《あざむ》かうと謀つたのである。さうして更にその奸智は進んで父の謀判を企て、妹に死靈のついた眞似をさせるに至つた。然しながら彼は決して盜みをしなかつた。彼が捕へられた時の述懷に『一紙半錢盜みといふ事終にせず。』とあるのを見ても、盜むことを惡いと考へて居たことは事實である。それにも拘はらず父の謀判を企てたのは、父を詐いたり、父に迷感をかけたりするぐらゐは罪惡であると思つて居なかつたのである。このことは『お坊ちやん育ち』の人が屢ば陷る危險の穴である。世間知らずの人が、他人に煽動されて、罪惡と知らず大事を取り出來《でか》すのは、法律上の罪惡を恐れて、道德上の罪惡を恐れないからである。與兵衞は卽ち、父母に對してどんな罪惡を行つても、それは當然許さるべきものであると思つて居たのである。
ところが愈よ勘當されるとき、母が『町中よせて追出す』と言つたのをきいた彼は、始めて自分以外に世間といふものゝあることを知つてぎよつとした。天秤棒に怖れなかつた彼も、世間の『法』には恐怖を感じたのである。愈よ勘當されて見ると、彼は始めて道德の存在に氣が附いたのである。勘當された彼は、さしづめ兄の太兵衞の家に行つた。さうして『絕望』を感じて居たところへ、しみじみ意見され、兩親の尊いことを知り、ことに義理ある父は、一層尊敬せねばならぬことを悟つたのである。
さう悟ると共に、彼は、父の謀判したことをこの上もない惡いことだと思ふに至つた。而《しか》も五月四日の晚までに返さねば五人組へも知らせるといふ貸主との契約であつたので、彼は居ても立つても居られず、金の工面が出來ねば自殺しようと決心し、豐島屋へ來たのである。來て見ると、兩親たちは、自分の罪を惡《にく》むどころか、却つて慈愛ある處置を取らうとして居たので、愈よもつて父親に難儀をかけてはならぬと思つたのである。さうして彼は、如何なる手段を講じても、三百目の金を調へねばならぬと決心したのである。彼はその時人一人殺す罪よりも、父親に難儀をかけるのが堪へられなかつた。で、お吉を殺して金を奪はうと咄嵯の間に思ひ立つたのである。お吉が血に染りながら三人の子のあることを訴へても、もはや彼の心は動かなかつた。さうして、『こなたの娘が可愛程、己も己を可愛がる親仁がいとしい』と彼は言ひ放つた。これをリチャード三世が、『亡兄の女と結婚をせにやならん。然《さ》うせんと、おれの王國は脆い硝子の上に載ツかつて居るといふ爲體《ていたらく》[やぶちゃん注:国書刊行会本では『したい』とルビを振るが、従えない。]だ。弟どもを殺しておいて、さうしてその姉娘と結婚するというのは、大ぶ際どい遣り口だ!けれども血の中ヘ踏込んだ以上、罪惡を突つき出すのも止むを得ない。淚ぽたぽたの憐憫なんかは、おれの眼中にや住んで居ない』(坪内氏譯による)といつた言葉と對比して見ると、リチャードは罪惡そのものに陶醉して居るに反し、與兵衞は、已むに已まれず罪惡を犯して居ることがわかる。
さて、一旦お吉を殺して見ると、今まで思ひも寄らなかつた恐怖が、お吉の死顏をみた瞬間からむらむらと起つて來た。近松翁は、その時の與兵衞の恐怖を次の如き麗筆を以て述べて居る。
[やぶちゃん注:以下の引用部は底本では全体が一字下げ。]
『日比の强き死顏見て、ぞつと我から心もおくれ、膝節《ひざぶし》がたがたがたつく胸を押しさげさげ、提《さげ》たる鎰《かぎ》を追取《おつと》つて、覗けば蚊帳のうちとけて、寢たる子供の顏付さへ、我を睨むと身も震へば、つれてがらつく鎰の音、頭《かうべ》の上に鳴神の落かゝるかと肝にこたへ、戶棚にひつたり引出すうちがひ上銀《うへぎん》五百八十匁、宵に聞たる心當《こころあたり》。ねぢ込《こみ》ねぢ込ふところの、重さよ足もおもくれて、薄氷《はくひやう》を履《ふむ》火焰踏《ふむ》、此脇指《わきざし》はせんだの木の橋から川へ、沈む來世は見えぬ沙汰[やぶちゃん注:「見えぬ」は底本も国書刊行会本も「見える」であるが、二種の「女殺油地獄」版本で確認して訂した。]、此世の果報の付時《つけどき》と、内をぬけ出《いで》一さんに、足に任せて』
これをかのフランスの大犯罪者ラスネールが、知己のシャルドンとその母を殺して寢臺を戶棚のそばに引き寄せ、戶棚の中の金をさがして居るとき、室《へや》の時計が『チン』と一つうつたのをよく覺えて居たことと比較すると、先天性犯罪者と、偶發性犯罪者の心理の差異を知ることが出來る。
[やぶちゃん注:「せんだ」栴檀(せんだん)。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach 。別名、楝(おうち)。五~六月の初夏、若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数、円錐状に咲かせる(ここから「花楝」とも呼ぶ)。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく全く無縁の異なる種である白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダンSantalum album )なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。これはビャクダンSantalum album の原産国インドでの呼称「チャンダナ」が中国音で「チャンタン」となり、それに「栴檀」の字が与えられたものを、当植物名が本邦に伝えられた際、本邦の楝の別名である現和名「センダン」と当該文字列の音がたまたま一致し、そのまま誤って楝の別名として慣用化されてしまったものである。本邦のセンダン Melia azedarach の現代の中国語表記は正しく「楝樹」である。グーグル画像検索「楝の花」をリンクさせておく。但し、ここでは無論、明らかに聖なる異界のそれであり、他との並列を考えれば、仮想された実在しない芳香栴檀様の香りを放つ聖木(せいぼく)ととるべきである。
「ラスネール」ピエール・フランソワ・ラスネール(Pierre François Lacenaire 一八〇三年~一八三六年)はフランスのリヨン出身の犯罪者(窃盗・詐欺・手形偽造・殺人等)にして詩人。逮捕されて死刑(ギロチン刑)に処せられた。処刑直前まで執筆し続けていた「回想録」(邦訳有り。私は未見)が残る。以上の小酒井の言及も、その一節にあるのであろう。詳しくは当該の日本語版のウィキを参照されたい。
「知己のシャルドンとその母を殺し」フランス語版の彼のウィキに、一八二九年に窃盗罪で一年の懲役刑を言い渡された際に親しくなった友人ジャン・フランソワ・シャルドン(Jean-François Chardon)とその母を、一八三四年に冷酷に殺害している(彼は斧で、その母はベッドで窒息死させられている)。]
殺人罪を犯した與兵衞は、良心の呵責をのがれるために、只管、痛飮して、胸中の苦悶を消さうとした。花屋の後家が油屋の女房殺しの芝居の話をすると、彼はぎくりとして、『後家、たしなめ。ちと人にも物云《ものいは》せい。生れて、與兵衞、こんなむさい床凡《しやうぎ》の上で、酒呑んだ事なけれど、今日は許す。東隣、借足《かりたし》して、與兵衞が座敷分《ざしきぶん》に一ツこしらや。材木、諸色《しよしき》、諸入目《しよいれめ》、見事に、我等、仕る。きつい物か物か。エ、げびた此蒲鉾の、薄い切樣は。』[やぶちゃん注:以上の引用は、底本では句読点が不全で、甚だ読み難いため、先の版本を参考に一部に句読点を入れた。]と、いかにも狼狽した口調で出鱈目をしやべり、さうして叔父がたづねて居るときいて甚だしく恐怖し、逃げ出してしまつたのである。
[やぶちゃん注:「材木」調度のことかと思ったが、調べると、「歳を取った歌比丘尼(うたびくに:近世に歌念仏を歌って歩いた比丘尼。のちには売春する者も現れた。勧進比丘尼とも呼ぶ)」の意があったので参考までに述べておく。
「諸色」華麗な服を着た沢山の女たちの意か。
「諸入目」もろもろの掛かる費用総て。]
遂に與兵衞は、良心の呵責に苦しむすべての犯罪者が行ふやうに、お吉の三十五日の逮夜の晚、犯行の現場に顏を出したのである。『つい三十五日の逮夜になりましたの。殺した奴もまだ知れず、氣の毒千萬したが追付《おつつけ》知れましよ』とその時の彼の言葉は、後來の探偵小說家にも屢ば採用される筆法である。かうして灯《あかり》のまはりを飛んで居た蛾は、灯の中にはひつてしまつたのである。
かく觀察して來ると、近松翁は、この種の犯罪者の心的經過を殆んど遺憾なきまでに描き出したといつてよい。故意か偶然かは知らぬが、與兵衞の殺人の季節に、統計上、殺人の多い五月を選んであるのも面白い。又、犯罪性を考へるには性的の煩悶を見逃してはならぬが、與兵衞は勝手次第に遊里に出入りして居たのであるからその點を顧慮する必要が無からしめてある。お吉に出金を賴むとき、『不義に成て貸て下され』といつたのは、お吉の言葉に續いて言つたゞけで、別に深い意味は無かつたのである。
[やぶちゃん注:日本に限って言えば、殺人ではないが、広義の犯罪の増加する月というのは、事実、五月のようである。「セコム」公式サイト内のコラムの「3月は犯罪が増え始める月?」に、五年間のグラフ附きで、『毎年』三『月になると』、『件数が増加に転じています』。『おおよその傾向としては』、一『年の中で最も犯罪件数が少なくなるのが』二『月で、翌月の』三『月から増加に転じて』、五『月くらいにピークとなります。その後、やや落ち着いてから』、十『月にもう一度』、『ピークを迎えるといった動きを、ほぼ毎年繰り返しています』。こうした『山形の曲線を描く犯罪』は、『窃盗犯や粗暴犯(暴行、傷害、恐喝など暴力的な犯行)が顕著です。風俗犯(公然わいせつ、賭博など社会の善良な風俗に反する犯行)も同じような動きをしています』。『 粗暴犯の中では暴行や傷害、窃盗犯の中では忍込み(就寝中の家を狙う泥棒)や居空き(住民は起きているが隙を狙って家に侵入する泥棒)や自転車盗、風俗犯の中では強制わいせつが、このような形のグラフを描いています』とあるからである。殺人(未遂)事件も五~六月に多いとする新聞記事もあった。但し、アメリカの国内統計データでは一月一日が最も多いそうである。]
お吉を殺すとき、彼が後に自殺するつもりであつたことは前後の事情からして察せられるが、その決心が崩れてしまつたのは、お吉の死顏を見てからの恐怖のためである。彼の恐怖は全く豫期しなかつたものであつて、その點がこれから述べようとするマクベスの犯行後の恐怖と異なるところである。卽ちマクベスは、自分の行爲が大罪であることを知り、當然、殺害後の恐怖を豫期して居たのである。從つて彼はその恐怖に打ち勝たうと用意した。ところが、彼は打勝つことが出來なかつたのである。其處に卽ち、一層深刻な恐怖が見られるのであつて、その恐怖をシェクスピアが如何なる筆をもつて描いて居るかを、次章に紹介しようと思ふのである。
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