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2021/12/31

畔田翠山「水族志」 メチ (ヘダイ)

 

(一八)

メチ【熊野三老津】

 熊野海ニ多シ形狀「メダヒ」ニ似テ濶厚淡白色ニ乄背微淡黑色ヲ帶テ

 斑ナシ即「シロヂヌ」也

○やぶちゃんの書き下し文

めち【熊野三老津。】

 熊野の海に多し。形狀、「めだひ」に似て、濶〔ひろ〕く厚し。淡白色にして、背、微淡黑色を帶びて、斑、なし。即ち、「しろぢぬ」なり。

[やぶちゃん注:似ているとする「メダヒ」は「(一四)メダヒ」で私はスズキ目スズキ亜目フエフキダイ科ヨコシマクロダイ亜科メイチダイ属メイチダイ Gymnocranius griseus と比定した。而して、メダイのような斑点がなく、「淡白色」で「背が「微淡黑色を帶び」るとなると、私はスズキ目タイ科ヘダイ亜科ヘダイ属ヘダイ Rhabdosargus sarba ではないかと推定した。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のヘダイを見ると、この乏しい記載とよく一致するように見え、「地方名・市場名」には、最も私が頼りにしている宇井縫蔵の「紀州魚譜」から引いて「ヘヂヌ」「ヘジヌ」を挙げ、『和歌山県湯浅・辰ヶ浜』を採集地とし、さらに「ヒメチヌ」(徳島県阿南市)・「ヒジヌ」(愛媛県三津)がある。「紀州魚譜」の「ヘダイ」では、本書の(二二)の「マキダヒ」をヘダイに比定しているのだが、畔田は(二二)の基本名を「ヘダヒ」で出してある。畔田の記載は、精密な種分類立項にはなっておらず、今までも同一種と思われるものを、複数、別項目で掲げているから、それを以って私の比定が無効であるとは言えない。記載も乏しいので、取り敢えず、現時点では、ヘダイを第一候補としておく。因みに、宇井は「メチ」という名を同書では採用していない。但し、最後に記された「シロヂヌ」の名は、流通・地方名では、ヘダイ亜科クロダイ属キチヌ Acanthopagrus latus を指すようだが、「黄茅渟」であり、異名を「キビレ」(黄鰭)とすることからも判る通り、胸鰭・腹鰭・尻鰭が有意に黄色を呈する。畔田が採れた現物を、直に見ているとすれば、この鰭の黄色を漏らすことはないと私には思われる。

「熊野三老津」現在の和歌山県西牟婁郡すさみ町見老津(みろづ:グーグル・マップ・データ)であろう。]

只野真葛 むかしばなし (44)

 

 玄松樣は、くりあい上手なりけん、藏も、文庫藏・どぞう藏と二戶前有しを、鼻の先に有しをば、六、七間、あとへ引て、二階作(づくり)の家、たてられし。ばゞ樣は隣の地をかりること、御きらひ被ㇾ成し故、鬼門の所は、仕切(しきり)て、御かり被ㇾ成(なら)ざりしを【すまゐせし人の、仕合(しあはせ)、あしければなり。服部善藏とて。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とする。しかし、これ、「服部善藏とて、すまゐせし人の……」の誤り(誤判読)ではなかろうか?]、服部、かりて、普請をし、引こしたりし。其下心、父樣とは久しく懇意なりしが、『まさかの時、知惠をかりるに、隣なら、よい。』とて、來りしなり。

 御普請びらきには、出入のもの、弟子をはじめ、太鼓持常八・料理人藤九郞・同「たるみぶ」など、したしきものに、「ふじたに・小紋茶がへし」の羽織りに、「東屋に櫻」の紋所、

Katadori

「庵に木瓜《もつこふ》」のかたどりに思付(おもひつく)なり。かの上にても、梶原・工藤のおぼしめしの時故、さも有べきことなりし。「たるみぶ」は、其頃、はやりの料理人、昔より藤九郞がいつもせしを、この度、めづらしきかたへ被仰付しことなりし。女藝者三人、つねにきたりしへ、「紫ちりめん」、素縫(すぬひ)に、白糸にて、「つくつくしの杉菜」の模樣、下着と裏は、緋ぢりめんに金糸・銀糸にて、ものをぬへたるを被ㇾ遣し。紋所よりのおぼしめし付(つき)にて、春野のさまを、つけられし。「てんしん」と、あだな付(つけ)たる太鼓持の古物坊主にて有しには、鳶八丈の無垢を三ツ、羽織も、同じ無垢仕立の仕きせ、出(いだし)たりし。其頃、茶がへし小紋、はやりだし故なり。

 客へは引物に「いそせゝり」と、うわ書(がき)して、手まの紙・紫くじやく・ひわ茶うわ紙かさねは、みな、紅ぞめなり。中に、はまぐり貝二・あさり二・しゞみ壱、入たり。はまぐりは、銀だしと、中ねり鬢付(びんつけ)、是も河内屋【「河内や」長右衞門なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]ヘ仰付られて、香を、ことにおほくいれて、ねらせられたるなり。

「色には、ヲランダの藍で、『ベルレン』といふが、色、よし。」

とて、入られし。あさりは薰物《たきもの》二品、是も手製なり。しゞみには、

「笑藥(わらひぐすり)なりし。」

とぞ【三番は、「すゝ」と「めん」成しや。六番は玉子一箱。七番は「せう」と「かね」、八はんは、諸入用なり。】[やぶちゃん注:この原割注は底本にはなく、「日本庶民生活史料集成」にそう指示して挿入されてあるもので補填した。]。每日、包(つつみ)こしらへなど、したりし。

 櫻にそへて、諸道具、かけ物など送りし人も、おほかりし。日ごとに、進物、來りて、おもしろかりし。何人のおもひよりしことにや、吉野山のかたを書(かき)たるかけ物に、

  今ぞわがよしのゝ山の花をこそやどの物とも見るべかりける

といふ歌有しを送りしが、

「花によりて、おもひつきたるならんが、後醍醐帝の吉野の宮にて、よませられし御うた故、いわひごとには、いかゞし。」

と被ㇾ仰し。數寄屋町に、やけのこりて有し棕櫚なども、其節の致來物なりし。

 障子のほねは、目通(めどほおし)の、赤杉、めんどりなり。二階に湯殿を付て、冬は樋《とひ》にて、後へ、おとし、小用所まで付(つけ)て有し。三尺の緣より、水もくむやうな仕かけなりし。其井は、一かわ、すゑたるばかりにて、下より樋《ひ》をとほして、本井よりくみいるゝことなりし。湯殿と、はしごは、椹(さはら)の厚板にて有し。湯殿は、かやうによき木を用るにおよばねど、殊の外、「二階に湯殿つく」といふ、名、高く、世上、ひやうばん故、

「來(くる)人も心付(こころづけ)て見んを。」

とて、ゑらませられしなり。大名に召さするには、さらしの重ね付の「ゆとり」二、御用意被ㇾ成し。其模樣の注文、隣の奧樣にまかせられしを、地白にして、紺淺黃などにて、しだり櫻をつけ、下に茶色に、かうのづ、壱、付て有しが、殊の外、御氣に入りて有し。東屋櫻のかたどりなり。紺木綿・らせんしぼり五、其頃の仕出しなり。是は、平人のためなりし。花々しきことなりし。

[やぶちゃん注:底本本文中に画像で挿入されているものを読み取って入れた。この絵は家紋画像を管見するに、下にある「庵に木瓜《もつこふ》」=「庵木瓜」(いおりもっこう)で、藁葺の庵室の中に植物のボケの花をデザイン化したものを入れたものによく似ていると私には思われた。

 なお、以上は家の新普請の引き出物を語ったものであるが、私の乏しい知識では、注することがおよそ殆んど出来そうもない。以下の一つだけで、ご勘弁願いたい。悪しからず。

「ヲランダの藍で、『ベルレン』」これは当時の通称で「ベロ藍」、かのプルシアンブルーのことではないかと思われる。この顔料は葛飾北斎が「富嶽三十六景」に用いたことで非常に流行し、我々もこう記すだけで、あの鮮やかな色が想起出来るものである。「プルシアンブルーの話」PDF)によれば、「ベロ藍」という『その名前の由来は「ベルリンの藍」が訛ったものという説が有力です。和名は紺青。このほか、当時ドイツはプロセインだったのでプルシアンブルー、ベルリンで発明されたからベルリンブルー、その後中国で作られたのでチャイナブルー、北斎がつかったため北斎ブルー、鉄の化合物だからアイアンブルー、人名由来のミロリーブルーなど多くの名前があります』とあり、「ベルレン」と訛りそうな感じがするからである。]

伽婢子卷之十三 天狗塔中に棲

伽婢子卷之十三

 

   ○天狗(てんぐ)塔中(たふちう)に棲(すむ)

 

 寬正(かんしやう)五年四月に、都の東北糺(ただす)の川原にして、勸進の猿能樂あり。觀世音阿彌、同じく、其子、又三郞を太夫として、狂言師・役者、多し。

「此比《このごろ》の見物《みもの》なり。」

とて、京中の上下、足を空になし、諸人《しよにん》、蟻の如く集り、星の如くつどひて、是れを見物す。

 將軍家も三たびまで、棧敷(さんじき)、構へさせて、御覽あり。

 大名・小名、似合《にあひ》々々に、絹・小袖・金銀を出し與へらる。其の積み上ぐる事、日每に山の如し。

 或る日、將軍家には出給はず、大名がた、風流を盡す。

 若殿原達、棧敷を並べて、其前には、家々の紋、印(しる)したる幕、打たせ、芝居には、上下の諸人、堰(せき)合ひ、揉み合ひて、座を爭ふ。

 其間に、樂屋の幕、打ち上げ、「三番叟」の面箱(めんばこ)捧げ、しめやかに階(はし)がゝりをねり出てたり。

 諸人、靜まりて見居(《み》ゐ)たる所に、棧敷の東のはしより、火、燃出て、折りふし、風、烈しく吹ければ、百餘間の棧敷、一同に燒上(《もえ》あが)る。

 内に持ち運びたる屛風・簾(みす)其外、破子(わりご)・樽・臺(だい)の物、にはかの事なれば、取り退(の)くるに及ばず。

 後には、舞臺・樂屋までも同時に燃上りしかば、見物の諸人、あはてふためき、「我先に」と出んとする程に、四方嚴しく結(ゆひ)まはしたる垣なれば、鼠戶(ねづみ《ど》)一つにて、せき合ひ、揉み合ひ、踏み倒し、打轉び、女・わらべは、手足を踏み折られ、蹴りわられ、傍らには、首髮(かしらかみ)・小袖に、火、燃えつき、燒死(やけし)する者も多かりし。

 甲斐甲斐しきものありて、四方の垣を切りほどきしにぞ、やうやうに、のがるゝ人、多かりし。

 かくて、燒靜《やけしづ》まりしかば、將軍家の仰せによりて、諸大名、承り、一夜のうちに、元のごとく、舞臺・棧敷・外垣までも作り立てらる。

「まことに、大名のしわざは、はからひがたし。」

と感じながら、女・わらべ・地下の町人ばらは、きのふに懲りて、行もの、なし。

 されども、諸國の大名小名、御内《みうち》・外樣(と《ざま》)・中間・小者ばらまで、皆、行ければ、棧敷も芝居も、猶、にぎやかに込み合ひたり。

 され共、喧嘩・口論もなく、無事に仕舞せし處に、其燒けたりし夜より、都のうちに迷ひ子を尋ぬる事、十四、五人に及べり。

 或は、東山・北山・上加茂わたりの子ども、かの騷動に、方角を失ひ、逃げまどふて、足にまかせて行迷ひたる者共なれば、皆、尋ね出して歸りしに、上京今出川邊に、町人の子に次郞といふもの、年十二にして、行方《ゆきがた》なし。

 親、悲しがりて、人、多く雇ひ、諸方を尋ね、山々を巡り求むるに、是れ、なし。

 廿日ばかりの後に、東山吉田の神樂(かぐら)岡に、忙然として、立て居たるを見付て、連れて歸りしに、四、五日の程は、物をも食はず、只、湯水ばかりを飮みて、うかうかとして、物をもいはず、座し居たり。

 

Jiroutennguniau

 

[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。勧進能の桟敷の軒から不審な出火が起こる(右幅)シークエンス。左幅には橋懸かりから登場してきた、シテ役の能楽師。その前にいるのは、幕開きの別格に扱われる祝言曲である「翁(おきな)」である。それは奥にいるシテ役の「音阿彌」が面を着けていないこと、その前に三番叟の面を入れた箱を持った「面箱持ち」がいることから判る。それより、左幅下方の桟敷内(ここが大名の桟敷)に着目したい。そこに僧服を着た鼻の長い異形の人物が描かれており、その怪人の左手の伸ばされた指は、はっきりと出火している怪火を指している。そうして、その僧の前には少年次郎が座っているのである(御丁寧に次郎の前には皿状のものに載せられた菓子のようなものまで描かれてある)。則ち、この天狗が呪術で桟敷に火を放ったその瞬間がスカルプティング・イン・タイムされているのである。但し、本文では舞台の家根に天狗が次郎を抱いて飛び上がり、呪文を唱えると、発火するとあるから、ちょっと違う。

 

 其後、やうやう、人心地つきて、かたりけるやう、

「糺川原(たゞすがはら)に出たれば、五十あまりとみゆる法師の云やう、

『汝、猿樂の能を見たく思はゞ、我袖にとりつけ。』

とて、左の袂に取り付かせ、垣を飛び越えたり。

『汝、物いふな。』

とて、或る大名の棧敷に、つれてのぼられしに、大名も御内の侍も、更に見咎めず、物もいはず。かくて、

『何にても食(くふ)べきか。』

と仰られ、酒・肴・菓子まで取りて給はるを、打ち食ひけれども、人々、見もせず、咎めもせざりし處に、棧敷の並びたる家々の、幕、打ち廻し、大きに奢りたる體(てい)なりければ、此法師、

『あな、にくや。あな、見られずや。何の事もなき奴原(やつばら)の、鬚、くひそらし、「我は顏(がほ)」なる風流づくし、鼻の先、うそやきたる有樣(ありさま)かな。』

と、ひとりごとして、

『汝は、此の者共のうろたゆる躰(てい)を見たく思ふか。いで、さらば、動き亂れて、うろたふる躰、見せん。』

とて、我を、かきいだき、舞臺のやねにあがり、なにやらん、唱へられしかば、東の棧敷より、火、燃え出て、風、吹きまどひ、百餘間の棧敷、一同に燒《やけ》あがり、貴賤男女、上(うへ)を下(した)へ、もて返し、騷ぎ亂れ、うろたへまどうて、あやまちをいたし、疵をかうぶり、死する者、甚だ、おほし。

 舞臺も樂屋も燒ければ、法師、我をつれて、川原おもてに出つゝ、

『扨。見よや。』

とて、手をたゝき、大《おほき》に笑ひて、

『今は、心を慰みたり。是より、我が住(すみ)かに來よ。』

とて、法勝寺の九重《くぢゆう》の塔の上に昇り、内に入りたりければ、何もなし。只、獨古(どつこ)・錫杖・鈴(れい)を、怖ろしき繪像の佛のやうなる、羽ある者の前に置かれたるばかり也。或る日は、我を塔の中に置きながら、我ばかり出て、地にくだり、法師の姿にて、人に行逢ては、或は、腰をかゞめて、禮をなし、或は、頭(かしら)を打はりなどして通り、又は、人の容(かほ)に唾(つばき)を吐きかけ、又は、人の背(せなか)を突て打倒しなどするに、其人共、更に目にも懸けず、咎めもせず。或は、兩方より來(く)る人の、首・髮・もとゞりを摑みて、二人を一所に引寄するに、此二人、俄に、刀を拔て、打合ひ、切り合ひ、手を負ふて、朱(あけ)になるも、あり。日每にかゝる事共、いくらと、いふ數を知らず。其の外、江州勢田の橋に行て、螢を見、加茂の祭り、松尾の祭禮、「此の頃見る」といふ事あれば、つれて行きつつ、見せられたり。我、問ふやう、

『出て行給ふ道に、人に逢ふて禮をなし給ふは、誰《た》ぞ。』

といへば、

『それは、道心高く、慈悲、正直に、信心あつき人也。此人、邪慾・名利の思ひ、なし。善神、身を離れず、諸天、從ふて、守り給へれば、恐れて、禮をいたせし也。又、頭(かしら)をはりて通りしは、或は、金銀財寳、多く持ちて、貧しき人を侮(あなづ)り、生才覺(なまさいかく)ありて、愚かなる者を下(くだ)し見る、少しの藝能あれば、「是れに過《すぎ》じ」と自慢する奴原は、面(つら)の惡(にく)さに、かうべを、はりて、通る。又、脊中を突き倒しけるは、小學文(こがくもん)ある出家の、内には、道心もなく、慈悲もなく、重邪慾(ぢう《じやよく》)に餘り、外には、學文だてして、人を侮(あなづ)り、徒(いたづら)に信施(しんせ)を食ひ、旦那を貪り、非道濫行なるが憎さに、突き倒したり。又、兩方を引合せて喧嘩せさせし人は、すこしの武勇(ぶよう)を自慢して、人を「ある物か」とも思はぬ面つきの見られねば、惡(にく)さに、喧嘩させたり。又、つらおもてに、「かはすき」を吐かけしは、是れ、牛を食(くら)ひ、馬を食ひ、或は、家に飼《かひ》置ながら、其の犬・庭鳥《にはとり》を殺し、食(くら)ふ者、己(をのれ)は是れを『榮燿』と思へ共、餘りのきたなさに、唾(つばき)、吐きかけたり。「牛を食ひ、飼鳥《かひどり》を食ふものは、疫神(やくじん)、たよりを得て、疫癘(えきれい)、起こり易し。」と、いへり。總べて、何(なに)の人といふ共、正直・慈悲にして、信ある人は、恐ろしきぞ。たとひ、高位高官の人も、邪慾・非道・慢心あるは、皆、我等が一族となし、便(たよ)りを求めて、心を奪ふなり。』

とて、今より、後々の事まで、語られし。」

とて、つぶさに物語りせしか共、

『其外の事は、世を憚りて、沙汰する事、なし。かくて、今は暇(いとま)とらする。』

とて、塔の上より、つれて下り給ふ、と覺えて、其後は覺えず。」

とぞ、かたりける。

「世の中の事共、後々の有樣、物語せしに違(たが)はず。」

と、いへり。

 それより、法勝寺の塔には、「天狗のすむ」といふ事を、いひはやらかしけるに、「應仁の亂」に燒くづれたり。

[やぶちゃん注:「寬正五年四月」一四六四年。室町幕府将軍は足利義政。

「糺(ただす)の川原」下鴨神社の「糺の森」の南外れにあたる、賀茂川の分岐する辺りを「糺の河原」と呼び、古くは刑場としても利用されていたが、同時に芝居興行もここで行われ、中世には勧進猿楽その他の芸能が盛んに興行された。この辺り(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「勸進の猿能樂あり」事実、この時に勧進猿楽能がここで行われている。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『寛正五年の勧進猿楽は四月』の『五・七・十日の三日』に、『鞍馬寺修復を目的に行われ、糺河原勧進猿楽日記と異本糺河原勧進申楽記に詳しい「同五年四月五日糺川原にして勧進の猿楽あり」(本朝将軍記九・源義政・寛正五年)。』とある。二度目があるから、火災に見舞われるそれは、寬正五年四月五日か七日に限定出来る。本書の作品中、正確な日がここまで限定出来るのは特異点である。

「觀世音阿彌」猿楽能役者で三世観世大夫となった観世三郎元重音阿弥(おんあみ/おんなみ 応永五(一三九八)年~文正二(一四六七)年)。観阿弥の孫で世阿弥の甥。足利義教の絶大な支援の下、世阿弥父子を圧倒し、七十年近い生涯を第一人者として活躍した。世阿弥の女婿金春禅竹らとともに一時代を担い、他の芸能を圧倒して、猿楽能が芸界の主流となる道を作り、祖父観阿弥・伯父世阿弥が築いた観世流を発展されることに成功した著名な人物である。当該ウィキによれば、『その芸は連歌師心敬に「今の世の最一の上手といへる音阿弥」』『と評されたのを初め、同時代の諸書に「当道の名人」「希代の上手、当道に無双」などと絶賛され、役者としては世阿弥以上の達人であったと推測されている』とある。詳しい事績はリンク先を見られたい。

「其子、又三郞」音阿弥の嫡子で、四世大夫を継いでいる。正盛・政盛・松盛の諱を伝えるが、上記ウィキによれば、「観世流史参究」によると、『何れの諱も後世の創作とされる』とある。

「棧敷(さんじき)」「さじき」は、古くは「さずき」で、「假庪」「假床」などと書き、「仮の棚又は床(ゆか)」の意であった。それに「棧敷」を当て、訛って「さじき」となったものらしい。その古い「さずき」は記紀に既に見られるが、当時のそれは観覧席ではなく、神事の際の、一段高く床を張った仮設の台、つまり祭祀を行う舞台的な意味を持つものであった。観覧席としての桟敷は平安中期以降に多く造られるようになり、後、劇場・演能場・相撲小屋などに於いて、大衆席である「土間」に対して、一段高く床を張って造られた、上級の観客席を指す語に転じた。

「似合《にあひ》々々に」それぞれの分(ぶん)に相応したものとして。

「百餘間」百八十二メートル超。「新日本古典文学大系」版脚注では、『糺河原勧進猿楽日記では六十三間』(百十四・五三メートル)としつつ、『「サレバ百余間ノ桟敷」』と「太平記」巻第二十七の「田樂長講見物事」を参考引用している。

「簾(みす)」挿絵の右端に貴人の透き見用のそれが描かれてある。

「破子(わりご)」「破籠」とも書く。弁当箱の一種。檜などの白木を折り箱のように造り、中に仕切りを設けて、飯と料理を盛って、ほぼ同じ形の蓋をして携行したもの。

「樽」酒樽。

「臺(だい)の物」大きな台に載せて他者に贈る料理や進物の品。祝儀などの料理には、松竹梅などの目出度い飾り物にして盛りつけられる。

「鼠戶(ねづみ《ど》)」鼠木戸(ねづみきど)。江戸時代の芝居小屋・見世物小屋などの木戸に設けた、無料入場を防ぐための狭い戸。時代が合わないのはご愛敬。

「首髮(かしらかみ)」頭髪に同じ。

「甲斐甲斐しきもの」動作が機敏で手際がよく、自身の危険を顧みずに対処する、頼もしい者。

「御内《みうち》」「新日本古典文学大系」版脚注に『譜代の家臣』とする。

「外樣(と《ざま》)」同前で『「御内」でない家臣』とある。

「東山吉田の神樂(かぐら)岡」現在の京都市左京区南部にある吉田山の別称。標高百三メートル。

「何にても食(くふ)べきか。」「何か食いたいか?」。

「鬚、くひそらし」「髭食ひ反らす」という語がある。「髭を口に銜えたように生やし、その先の方を反らす。」の意で、威張ったさまをいう。威厳と威嚇のために鬚の両端を上にそらしている馬鹿面を軽蔑した謂い。

「我は顏(がほ)」いかにも「我こそは」と虚勢を張った面構えのこと。

「鼻の先、うそやきたる有樣(ありさま)かな」底本も元禄本もいずれも「うそやく」と清音だが、「新日本古典文学大系」版では『うそやぐ』とある。「うぞやく」とも言い、「鼻がくすぐったくなる・おかしくて笑いたくなる」の意で、鎌倉中期には既にあった語である。

「法勝寺」(ほつ(ほふ)しようじ(ほっしょうじ))は平安から室町まで平安京の東郊、白河にあった寺院。白河天皇が承保三(一〇七六)年に建立した。院政期に造られた六勝寺の一つで、六つの内で最初にして最大の寺であった。朝廷から厚く保護されたが、「応仁の乱」の最中の応仁二(一四六八)年八月の山名宗全らの西軍による岡崎攻撃によって青蓮院などとともに焼失し、更に、その再建がままならないまま、享禄四(一五三一)年二月、今度は管領の座を巡る細川高国と細川晴元の戦いに巻き込まれて、再度、焼失、再建されなかった。ここが跡地当該ウィキに拠った。

「九重《くぢゆう》の塔」八角九重塔。同寺の境内にあった八角形の九重の塔で、暦応三(一三四〇)年の記録では高さは二十七丈(約八十一メートル)あったとされる高層堂塔である。屋根は十重あるが、初重は裳階なので数えない。上記ウィキによれば、現在の『京都市動物園内の観覧車がある所に建立されていた』とあるから、ここである。同ウィキの『法勝寺九重塔模型(京都市平安京創生館)』の画像をリンクさせておく。これだけの高さがあれば、次郎が塔に残されたにも拘わらず、そこから出かけていった天狗が、市中を闊歩するさまがつぶさに見えたというのが、腑に落ちる。

「鈴(れい)」密教の法具である金剛杵(こんごうしょ:元は古代インドの投擲武器)である独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵と並ぶ金剛鈴(こんごうれい)のこと。諸尊を驚覚し、歓喜させるために鳴らすもので、その柄が五鈷・三鈷・独鈷・宝珠・塔の形をした五種がある。大壇の中央及びその四方に置く。ネットの「精選版日本国語大辞典」の「金剛鈴」の挿絵画像を参照されたい。これは三鈷鈴である。私はタイで求めた五鈷杵が、今、目の前にある。

「松尾の祭禮」京都府京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社の例祭神幸祭及び還幸祭は、現在、四月下旬から五月中旬に行われる。

「善神」「新日本古典文学大系」版脚注では、『仏法擁護の諸神、特に四天王と十二神将』とする。

「諸天」同前で『天部の仏たち』とする。前の四天王と十二神将も護法神のグループである天部に属するが、他に、梵天・帝釈天・吉祥天・弁才天・伎芸天・鬼子母神・大黒天、さらに竜王・夜叉・聖天・金剛力士・韋駄天・天龍八部衆などが含まれる。仏教のピラミッドでは如来・菩薩・明王・天の四番目のセクトとなる。

『人を「ある物か」とも思はぬ面つきの見られねば』「新日本古典文学大系」版脚注の『他の者を認めようとしない憎たらしい顔つきを見るに見かねて』は適確な訳である。

「かはすき」は「滓吐」で、名詞。「痰や唾を吐くこと・その吐かれた痰や唾」の意。

「榮燿」ここは「身分相応の当然の褒賞・贅沢」の意。

「其外の事は」「新日本古典文学大系」版脚注には、『その他政治向きにかかわる話は』とある。大天狗でさえ、高度な政治的判断で、邪まなどこぞの政府をも、忖度するたぁ、情けなや!!!――]

ブログ・アクセス1,650,000突破記念 梅崎春生 春日尾行

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年五月号「オール読物」初出で(春生は作品内で発表誌を出してサーヴィスなんぞしている)、後の昭和三〇(一九五五)年十一月近代生活社刊の作品集「春日尾行」に標題も使用されて所収された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第三巻」を用いた。

 文中に簡単な注を挿入した。不明の二箇所で情報の御提供を願ったので、どうか、よろしくお願い申し上げるものである。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本日、この年末に至って、先ほど、1,650,000アクセスを突破した記念として公開する。【20211231日 藪野直史】]

 

   春 日 尾 行

 

 夕方のことです。

 二三日来うらうらと暖かく、おだやかないい天気がつづいていました。僕は所在なく縁側にあぐらをかき、庭樹を眺めたり空ゆく雲を見上げたり、こんな夕方にはビールが好適だなどと考えてみたり、うつらうつらとしているうち、ふっと人の気配がしたので、見ると長者門の下にぼんやり立っているのは、矢木君なのでした。矢木君というのは、僕の友人で、歳は僕よりも一廻り少い。職業は画家ということになっていますが、あまり画が売れてる話も聞かないし、まあ画家の卵といったところでしょう。[やぶちゃん注:「長者門」は長屋門に同じ。但し、当時の梅崎春生は借家住まいであったから、これは洒落で、普通の門であろう。「矢木君」恐らくは梅崎春生が小説でよく登場させるエキセントリックな絵描きのモデルである画家秋野卓美(大正一一(一九二二)年~平成一三(二〇〇一)年)であろう。「立軌会」同人で、元「自由美術協会」会員。「一廻り」ではないが、春生(大正四(一九一五)年生)より七つ年下である。元は春生の妻恵津さんの知り合いであった。昭和二七(一九五二)年十月発表に「カロ三代」を参照。]

 矢木君は僕の方を見て、眼をしばしばさせ、照れたようなまぶしいような、妙な笑い方をしました。そしてしずかに口を開きました。

「今日は」

「おはいりよ」

 と僕は答えました。

 矢木君は縁側に近づいて来ました。見ると彼は右手に重そうに、ビールを半ダースほどぶら下げているではありませんか。今しがたビールのことを考えていたばかりなので、僕はもう頰がむずむずと弛(ゆる)んで、にこにこ笑いがこみ上げてくるのをどうしても止めることが出来ませんでした。矢木君はビールをどさりと縁側に置き、自分も腰をおろしながら、庭をぐるりと見廻しました。

「はあ。ここの桜も満開ですな」

「こんな暖かさだから、どこの桜だって満開だよ」

「はあ。そんなものでしたな」

 矢木君はそんな間抜けな返事をしながら、急に声を低めてひとり言のように呟(つぶや)きました。

「やはり、棒引きということにしとこうかな。いや、それでは少し――」

「何の話だね?」

 と僕は聞きとがめました。矢木君という男は、日頃からどこかトンチンカンなところがあって、話の通じないことがよくあるのです。矢木君はエヘヘと笑いながら、まぶしそうに僕の方に向き直りました。

「実はね、あなたにね、六千八百円ばかり貸してあるでしょう。その金のことですけどね――」

「僕に貸してある?」

 僕はびっくりして、さえぎりました。

「僕は君から金を借りた覚えはないよ」

「覚えがなくったって、あなたは僕に借りているのです。そいつを棒引きに――」

「棒引きにもポン引きにも――」

 と僕は呆れて、嘆息しました。

「君は時々トンチンカンになるようだね。なにか夢でも見たんじゃないのかい。季節の変り目だから、用心してしっかりすることだね」

「夢じゃないですよ。うつつのことですよ」

 矢木君はすこしも騒がず、たしなめるような口調になりました。

「自分では気がつかないでも、先様の方でそんな具合になってる。よくあり勝ちなことです。今からビールでも飲みながら、説明して上げたいと思うんですが、都合はいかがですか?」

「ビールは結構なことだが、一体――」

「はあ。話の最初は、腕時計からです」

「腕時計?」

「そうです。腕時計です」

 そう言いながら矢木君は靴を脱いで、ごそごそと縁側に這(は)い上って来ました。

 以下、ビールを酌み交しながら、矢木君がめんめんと物語った、昨日一日の彼の行動です。だから、以下の文章で、僕というのは、もちろん矢木君のことです。

 

『はあ、その腕時計というのはね、四五日前、酔っぱらった僕の友人が、僕の部屋に置き忘れて行ったものなんですよ。まだ真新しくって、何でも一万五千円出して買ったんだそうです。なかなか感じのいい、しゃれた型の時計でした。

 で、友達が取戻しに来ないもんだから、この四五日、僕が重宝(ちょうほう)して使ってたわけなんですが、さて昨日の朝のことです。昨日は日曜でしたね。朝遅く起きて、井戸端で歯をていねいにみがき、さて顔を洗おうと、掌にこてこてと石鹸を塗りつけた時、ふと気が付くと、手首にその腕時計をつけたままじゃありませんか。僕はあわてて、革をつまみ上げるようにして、それを外した。外したまではハッキリ覚えてるけど、それをどこに置いたか、それが全然ハッキリしないんですよ。きれいさっぱりと記億から拭い取られているんです。

 なぜこんな妙な記億脱落があったかと言うと、それが全部じゃないでしょうが、ちょっとした理由があったのです。と言うのは、つまり、井戸端にいたのは、僕一人じゃない。顔を洗っている僕のすぐそばに、駒井美代子嬢がつつましくしゃがんで、じゃぶじゃぶと洗濯をしていたんです。

 駒井嬢というのは、僕と同じ家に間借りしている、二十前後の女性です。もちろんまだ独身で、どこか会社にタイピストとして勤めてる。ちょっと可愛い顔をしてるし、身体つきもなかなか良い。いつかモデルになって呉れと頼んで、断られたこともあるんですけどね。なかなか気性の烈しいところもある娘(こ)なんです。その娘が、日曜だものだから、シャンソンか何か口吟(くちずさ)みながら、洗濯してたというわけです。

 で、しゃがんでいる関係上、僕の位置から、その可愛い素足の膝頭が、スカートの間からちらちらとのぞけて見える。え? 膝頭だけじゃなかろうって? ええ、ええ、そんなものが、とにかくちらちらと見える。画描きだって、そんなことはありますよ。つい頭がくらくらして、とたんに記億が脱落したんでしょうな。僕は邪念を追っぱらうために、盛大な水音を立てて、ジャブジャブと顔を洗いましたよ。

 さて僕が顔を洗ってる間に、駒井嬢はさっさと洗濯を済ませて、物干場の方に行ったらしいのです。タオルで顔を拭き上げると、彼女の姿はもうそこには見えなかった。やれやれと思いながら、さっきの腕時計はと探すと、そこらに見当らないじゃありませんか。ポンプの台の上にもないし、吊棚の上にも見当らない。僕はギョツとしましたよ。なにしろ一万五千円ですからな。急いで記億を探り廻しても、どこに置いたか、ついハッキリしない。物干場の方からは、駒井嬢が口吟む″巴里の屋根の下″か何かが、ほがらかに聞えてくるんです。[やぶちゃん注:「吊棚」井戸に屋根がついており、そこに物を置く簡易な吊り棚があるのであろう。「巴里(パリ)の屋根の下」(Sous les toits de Paris )は、一九三〇年に制作されたフランスのロマンティック・コメディ映画で、同時に一世を風靡したその主題歌の題名。監督は名匠ルネ・クレール(René Clair)。ストーリー・キャスト・スタッフは当該ウィキを参照。YouTube のこちら(ghbook氏)で冒頭と音楽が視聴出来る。]

「盗られたんじゃないかな」

 とっさにそう僕が思ったのも、無理な話じゃないでしょう。僅かの時間の間に、物体が消失する。物理的にも不可能な話ですからな。僕はいきなり嫌疑を駒井嬢にかけた。あんな虫も殺さぬ顔をして、あいつ存外のしたたか者に違いない。素足を見せびらかしたのも、色仕掛で僕の頭を輝れさせようという、そんな邪悪な魂胆だったかも知れないぞ。そんなことを頭で忙しく考えながら、僕は井戸端に棒立ちになっていました。五分間も立ちすくんでいたようですな。

 しかし、立ってただけじゃ、腕時計が出て来る筈もない。じゃ駒井嬢をつかまえて詰問するか。証拠がないんだから、そんなわけにも行かない。シラを切られりゃ、それっきりですからね。

 僕は憂鬱で腹の中が真黒になって、そこで二階の自分の部屋に、しおしおと戻って来たんです。折角のいい天気なのに、何と幸先が悪いことだろう。一万五千円もする時計を失くすなんて、何という阿呆なことか。僕はもうむしゃくしゃして、外出する気にもなれず、出窓に頰杖をついて、空を眺めたり地面を眺めたりしていたのです。そして三十分も経ったでしょうか』

 

『ふっと下を見おろすと、この下宿の玄関から、駒井嬢が出て行くところじゃありませんか。アッと僕は思って、急いで窓から離れ、机の上のスケッチブックを小脇にかかえて、大急ぎで階段をかけ降りたのです。その時の気持で言えば、どうしても放って置けないような気がしたんです。

「俺の時計を、どこか古物商にでも売りに行くんじゃないかな?」

 そんな疑いが、ちらと頭に浮んだ。靴をつっかけて表に出ると、三十米ほど先を、駒井嬢がゆうゆうと歩いて行く。ひとつ尾行してやれ。パッとそれで心が決ってしまった。古物商あたりで、売買の現場を押えて、そして時計を取戻してやろう。そんな気持だったですな。そして僕は、何食わぬ顔をして、そっと彼女のあとをつけ始めたんです。

 彼女は横丁を出て、駅の方に歩いて行きます。十米ばかり遅れて、僕がついて行く。他人を尾行するということは、へんな楽しさがありますな。やがて彼女は足を止めて、とあるミルクホールに入りました。僕はと言えば、やはり足を止めて、ちょっと考え込み、そして同じくミルクホールの扉を押しました。駒井嬢の視線が、チラと僕を突き刺したようですが、しかし僕は素知らぬ顔をして、別の卓に腰かけました。

 駒井嬢が注文したのは、牛乳とトーストです。僕もお腹が空いていたので、同じものを注文しました。

 食べ終ると、彼女は手提(さ)げから金を払って、外に出る。僕も同じく外に出る。十米の距離を保ってついて行く。彼女は妙な表情で、二度か三度か振り返って僕を見たですな。それから街角の本屋に飛び込んだ。すなわち僕も飛び込む。もう尾行すると言うより、多少は厭がらせの気分もあったようです。何しろ一万五千円ですからねえ。

 彼女はちらちらと僕を横目で見ながら、それでも″オール読物″か何かを一冊買ったようです。ぐいとそれを手提げに押し込むと、ぷんぷんしたような動作で表に出た。僕も急いで表に出たら、いきなり待伏せていたように彼女が詰めよって来ました。

「あんた、何であたしのあとをつけるのよ――」

「つけてやしないよ」

 と僕は答えました。

「あんまりいい天気だから、散歩してるんだよ」

「散歩するんだったら、あたしの歩くところと、別のとこにしたらどう?」

「そりゃ僕の勝手だよ」

 僕もつけつけと言ってやりました。

「僕が歩いて行こうとすると、前をウロチョロされて、こっちの方がよっぽど迷惑だよ」

 駒井嬢の眉根がキリリと上りました。怒ったらしいんです。尾行されて、時計が売れないもんだから、怒ったんだな。僕はそう解釈して、追い討ちをかけるように言葉をつぎました。

「それとも、つけられで困るなんて、何か後暗いところでもあるのかい?」

「そら、やっぱりつけてるんじゃないの!」

 と彼女はキンキン声を立てました。

「今朝の井戸端ででもさ、変な眼付であたしの脚を見詰めたりしてさ。あんた、少し変態じゃない――」

 僕はたちまちどぎまぎしました。なにしろ真昼間の街なかでのキンキン声です。僕がたじろいだのを見ると、彼女は鼻をつんと反(そ)らして、勝ち誇ったようにくるりと向うをむき、トットッと歩き出しました。井戸端での俺の視線に気付かれていたとは不覚だったな。しかし次の瞬間、僕は直ちに狼狽から立直って、とたんに猛然たる敵意と闘志が湧き上ってきたですな。もうこうなれば、宇宙の果てまでも、どこどこまでもくっついて歩いてやる。僕もはずみをつけて、トットッと足を踏み出しました。

 駅前まで来ると、彼女はキッと振り返った。僕ははっと電柱に身をかくしたから、気付かれなかったらしいです。それから彼女は、手提げを小脇にかかえて、傍にあるパチンコ屋にそそくさと入って行きました。電柱のかげから飛び出して、僕もパチンコ屋の前に行き、内の様子をそっとうかがいました。日曜のことですから、猛烈に混んでいましたな。僕も五十円出して玉を買い求め、人混みの中にまぎれこみました。こちらも玉を弾きながら、彼女を見張ろうという寸法です。彼女は一番奥の一台にとりついて、今やパシパシと弾いている。僕は表側の手洗い台の傍にやっと空き台を見付けて、おもむろに玉を入れ、パチンパチンと打ち始めました。彼女を見張るのが主ですから、自然と指にも熱がこもらない。邪魔になるスケッチブックを台の上に乗せ、彼女の動静と玉の動きを、かたみにうかがっていたんです。そして十分も経ったでしょうか』

 

『人混みを横柄にかき分けて、奥の方から出て来る男がいたんです。そいつは、丁度空いていた僕の傍の台に取りついて、いきなりピシンピシンと玉を打ち始めたんです。

 その打ち方が、一風変っていたですな。玉を穴に入れる。ハンドルに全力をこめ、ヤッと懸声をかけて玉を弾き上げる。玉は大速力で、台の中を七八回も回転し、それからカランコロンところがり落ちる。ふつうだと、玉をあまりぐるぐる回転させないように弾き上げるのですが、この男のはめちゃです。しかも、ヤッ、ホウ、と言ったような懸声が入るんです。とてもにぎやかなやり方でした。

 そこで僕も興味をおこして、ちらちら横目でそいつを見たりした。それは縁の太い眼鏡をかけ、チョビ鬚(ひげ)を立てた、でっぷり肥った紳士です。四十五六にもなりますかな。まあ重役風と言えば、そうも言えましょう。左掌には玉を四五十、わし摑(づか)みに摑んで、懸命に玉弾きに没入している。

 そんなやり方だから、ほとんど当り玉が出ない。やり方を教えてやろうかと思ったけれど、それも差出がましい気がして、横目で見ているだけ。時たま当り孔(あな)に入って、ジャラジャランと玉が流れ出ると、男は肥った躰(からだ)を大きくゆすって、ホッホウホウと言うような奇声を出して喜ぶ。傍若無人とも言えるし、無邪気だとも思える。僕はついその男に気をとられて、注意をそこに向けてるうちに、ふと気がついて奥の方をうかがうと、駒井嬢の姿が見えないじゃありませんか。アリャアッと思って、あわててそこらを探して見たが、彼女の姿は全然見当らない。

 僕は急いで表に飛び出した。あたりをきょろきょろ見廻した。見当らなかったですな。僕がちょっと隣りの男に気をとられてる隙に、彼女は出て行ったらしいんです。突然僕は腹が立って来ましたよ。全く地団太(じだんだ)を踏みたくなった。

「畜生め」

 と思わず僕は呟いた。そしてスケッチブックを取りにパチンコ屋に戻ると、丁度(ちょうど)隣りの男は最後の玉を弾いて、それがムダ玉だったらしく、

「ほう。ほう」

 と嘆声を洩(も)らしながら、出て来るところです。てらてらした額に、汗の玉が五つ六つふき上っている。それを見たとたん、僕は急にこの男がすこし憎らしくなって来ましたね。

 僕がスケッチブックをかかえ表に出ると、男は額の汗を拭きながら、駅舎の方に歩いてゆくところでした。僕はその後姿を見た。その瞬間、ある考えが僕の胸に浮び上って来たんです。

「駒井嬢のかわりに、今日一日、この男のあとをつけ廻してやろうか!」

 どうしてこんな奇妙な考えが浮んで来たのか、僕にもよく判らない。すこしはやけっぱちになってたんでしょうな。それともう一つ、俺の邪魔をしたこの男が、今日一日どんな行動をとるか。そんな無償の好奇心みたいなものもあったようです。

 そこで僕は、瞬間に心を定めて、スケッチブックを小脇にかかえ直した。こういうことは気合いのもんですな。男は切符を買っている。傍に寄ってうかがうと、新宿までの切符らしい。僕もつづいて新宿までの切符を買いました。時間はもう正午に近かったですな』

 

『日曜日だから、電車もめちゃくちゃに混んでいました。この男は、でくでく肥ってるくせに、人混みをうまくかき分ける才能があるらしく、満員の車輛にするりとづり込んだ。同じ車輛に乗り込むのに、僕は一苦労しましたよ。それでも、エンジンドアにスケッチブックをはさまれたまま、どうにか発車した。[やぶちゃん注:「エンジンドア」自動ドアのこと。開閉動作に際して直接作動する動力装置を「ドア・エンジン」と呼ぶ。ウィキの「自動ドア」によれば、『鉄道車両用には導入当初は空気圧作動式が多く用いられてきたが、近年は電気スクリューやリニアモーター、ラック・アンド・ピニオンといった電動式も導入され始めており、空気配管の減少に伴うメンテナンスの簡素化に寄与している』とある。]

 新宿の街がまた大にぎわいでした。うらうらといい天気だし、暖かいし、休日だしという訳で、有象無象どもが家をあけて、ぞろぞろと浮かれ出たんでしょうな。おかげで男のあとをつけるのは、大変でしたよ。刑事や探偵の苦労がしみじみと判りましたよ。もっともこちらは、刑事みたいにホシを追ってるんじゃなく、意味なく人をつけてるんですけどね。

 男はつけられているとは露知らず、すっすっと人混みを縫って歩く。こちらは無器用に人にぶっつかったりして、あとを追う。男は新宿の地理にくわしいらしく、ふっと横丁に曲り込んだ。あぶなく姿を見失うところでしたよ。

 裏街にちょっとした喫茶店みたいなのがあった。扉に金文字で″喫茶軽食ワクドウ″と書いてある。ワクドウとはまた妙な名前ですな。僕の故郷の方言では、ワクドウとはひき蛙のことですが、あまり上品な名前じゃないですな。男はこのワクドウの前に立ち止り、ちょっと腕時計を見て、扉を押して内に入ったんです。そこで僕もあとにつづいて入った。

[やぶちゃん注:「ワクドウ」方言で「ワクドウ」が「蛙」や「疣蛙」(ガマガエル)を指すのは、調べたところ、前者が宮崎、後者が福岡であった。秋野の出身は判らぬが、梅崎春生は福岡生まれである。但し、小学館「日本国語大辞典」を引くと、「わくどう」があり、『蟇蛙(ひきがえる)をいう。わくひき』とあって、記載例書籍を「日葡辞書」とするから、方言と限定することは出来ないようだ。なお、人名にはちょっとないようだ。]

 食事時だから、客も割に入っていました。隅の方の卓に、赤いトッパーコートを着た若い女が、ひとり掛けていた。男は、やっほう、というような声を立てて、その卓に近づいて行きました。女はじろりと男の顔を見ました。年は二十四五見当の、ちょっと険はありますが、なかなかの美人です。男が卓につくと、女はすぐに口をききました。

「遅かったじゃないの」

「うん、ちょっと」

「あなた、いつも約束の時間に遅れるわね。この前だって、そうだったわよ」

「すまん、すまん。ついパチンコに熱が入り過ぎたもんだから――」

「パチンコだって。あたしとパチンコと、どっちが大切なのよ」

 どうしてそんな会話が耳に入るかと言うと、運良く隣りの卓が空いていて、そこに掛けることが出来たからです。両方の卓の間には簡単な仕切りがあるのですが、声はほとんど筒抜けでした。僕は耳を立てて、その会話を聞きました。

「何にする?」

 と男が聞きました。

「あたし、お腹が空いたわ。朝食を抜いたんですもの」

 男は指を立てて給仕を呼び、カレーライスとコーヒーを二人前注文しました。僕も即座に指を立て、給仕に同じものを注文しました。さっきトーストを食べたばかりで、お腹は空いてなかったのですが、行きがかり上そういうことにしたのです。どうせ尾行するからには、相手と同じものを食べ、同じ行動をした方がいいと思ったんですな。そうした方が、相手の心理の意識が良く理解出来る。まあ言ってみれば、そんな魂胆です。ところが、同じものを注文したことが、男の注意をひいたらしく、彼はくるりと振り返って、仕切り越しに僕を見ました。そして女に向って、小さな声でささやきました。

「お隣りも、カレーとコーヒーだとよ」

 やがて注文品がそれぞれ運ばれました。白飯にどろりと黄黒いカレーがかけてある。ヮクドウという言葉を思い出して、とたんにちょっと食慾が減退したですな。しかしメニューを見ると、百円と書いてある。百円の品物を食わなきゃ勿体(もったい)ないですからな。とにかく押し込むようにして食べましたよ。耳は相変らず隣席の方にそばだてながら。

 隣りではぼそぼそと、映画を見る相談か何かをしています。男はチャンバラが見たいらしいが、女の方は洋画を主張する。しきりに押問答をしていたようですが、どういうはずみか男が、ストリップはどうだ、などと言い出して、女からぴしりと掌を叩(たた)かれた模様です。僕は思わずクスリと笑いました。

「莫迦(ばか)ね、あんたは。あんなもののどこが面白いの?」

「だって、女の裸ってものは、あれでなかなか芸術的だよ。うん」

 かすかな笑い声と共に、急に声が低くなり、何かささやき合う様子でした。それから二人は、相談がまとまったらしく、立ち上って表へ出て行った。遅れてはならじと僕も支払いを済ませ、ワクドウを出ました。二十米ばかり先を、二人はよりそいながら、ぶらぶらと歩いている。

 二人は洋品店に寄りました。僕は歩道の電桂によりかかって、しばらく待っていました。やがて二人は出て来た。女は明色の手袋をつけていました。約束の時間に遅れた罰か何かで、買わせられたんでしょうな。二人が動き出したので、僕もぶらぶらと行動を起しました。人混みは相変らずだけれど、今度は向うの速力が鈍いので、つけるのはそれほど困難じゃない。ことに女のトッパーコートは、赤くて目立つので、見失う心配がありません。それから二人は洋画専門のM座の前に足を止め、男が切符を買いました。離れたところから見ていると、二人はモギリ嬢に切符を渡し、どうやら二階に上って行く様子なんです。二階は、れいのロマンスシートというやつです。これには困りましたな。ロマンスシートというやつは、二人で買うものに決っているし、僕は一人なんですからな。[やぶちゃん注:「トッパーコート」単に「トッパー」とも呼ぶ。婦人用のショート・コートの一種で、上半身を覆う程度の軽快なデザインのものを指す。一般的にはウエストからヒップまでの丈で、裾広がりのシルエットとなったものが多い。本邦では敗戦後を始めとして、昭和三十年代も流行した(サイト「アパレル派遣なび」のこちらに拠った)。]

 よっぽどここで尾行を止して、下宿に戻ろうかと思ったんですけどね。もしここで尾行を止めたら、俺は朝から一体何したことになるんだと思いましてね、一人だったけれど、思い切ってロマンスシートの切符を買い求めました。

 ええ、ええ、バカだってことは、その時も百も承知です。尾行したって、一文の得にならないことは、初めからハッキリしてるんですからね。でも人間には、気持の行きがかりってものが、確かにあるんですよ。そういうことで、人間は時々バカなことをやる。バカをやらない人間があったら、お目にかかりたいですねえ。人間のやることったら、総じてバカですよ。僕だって、そしてあなただって、同じことですよ』

 

『ロマンスシートの料金も、なかなか僕に辛かったが、皆が二人連れなのに、僕一人で腰かけているのも、相当に辛かったですねえ。

 れいの二人は、中央から右寄りの席に、肩をすりよせて掛けていました。僕はその斜め後方の席に、ひとりぽつねんと腰をおろしました。

 スクリーンの方はろくろく見ない。うっかり映画などにひき入れられると、さっきの駒井美代子嬢を取り逃したと同じようなことになる。そう思って、もっぱら二人の後姿ばかりに注意を払っていたのです。一体この二人はどういう関係にあるんだろう?

 男の方はさっき話した通り、三等重役的タイプですが、トッパーコートの女と夫婦関係にあるとは、全然思えない。しかし、恋愛関係としては、男の方が野暮ったすぎる。妾関係でもないようだし、情婦みたいなもんかな、などと考えてもみたんですが、世間知らずの僕には、そこらがハッキリとは判らない。

 すると暫(しばら)くして、暗がりの中で二人の顔が相寄ったと思うと、いきなり接吻したらしいんです。図々しいもんですな、暗がりといえども、スクリーンの照り返しで、はっきりそれと判る。男の方が積極的で、女の方は厭がってるような風情でした。映画館の席で、背後から見られてるかも知れないのに、あのチョビ鬚(ひげ)にくすぐられるのは、あまりソッとしないんでしょうな。しかし接吻したからには、この二人はある程度とある種類の色情関係にある、と考えて僕は思わず緊張しました。思えば僕も阿呆な役割でしたな。わざわざ高い金を払って、映画はろくに見ず、二人の接吻を看視してたんですからな。

 どういうつもりか、その時僕はスケッチブックをがさごそと膝の上にひろげ、その接吻のシルエットを、簡単なスケッチとして描いたりしたのです。描いたって、どういうこともない。絵描きの本能みたいなものですかな。そのうちにお見せしますよ。

 とにかく二人は、三十分ばかりの間に、四度接吻しました。それから僕は尿意を催してトイレットに行き、大急ぎで戻って来ると、丁度(ちょうど)二人は扉から廊下に出て来るころでした。危なかったですな。映画がさほど面白くなくて、出るところだったらしいんです。もう一足おそかったら、取り逃すところだったかも知れません。

 男は眼鏡ごしに、じろりと僕の顔を見ました。そして妙な表情を浮べました。何か思い出そうとして思い出せないような、そんな奇妙な表情です。女の方はトットッと階段を降りて行く。僕も何気ないふりをよそおって、階段の方に歩いた。男はそこでグフンとせきばらいをして、急ぎ足に僕を追いこし、女と肩を並べました。階段を並んで降りながら、男は女に何かささやいている模様です。僕はわざとゆっくりした足どりで、そろそろと階段を降りました。

 映画館を出て、彼等がまっすぐに歩いて行ったのは、駅です。駅で男は切符を買い求めた。某私鉄の切符だということは判ったが、どこまで買ったのか、それはついに判らなかった。男が妙な顔をした以上、あまりあつかましく近近とくっついて歩くわけにも行かなかったんです。ええ、僕は生れつき、それほど心臓が強くないんですよ。

 僕は大急ぎでポケットを探った。もう余すところ、百円足らずしかない。ワクドウとM座の支払いで、とたんに囊中(のうちゅう)が乏しくなって来たのです。二人の後姿は、すっすっと改札の方に遠ざかって行く。どこまで切符を買ったんだろう。どこかへしけこむつもりかな。そうだとすれば、相当遠距離かも知れないぞ。僕は惑乱しましたな。追うべきか諦めるべきか。次の瞬間、朝からの得体の知れない情熱の方が、ついに勝ちを占めました。是が非でもと、僕は歯をかみ鳴らすようにして、切符をせかせかと買い求めました。今日一日は、尾行の鬼となってやる!

 買った切符は、最短距離のやつです。もちろん乗越して、乗越賃金を払う覚悟でした。二人の姿は、もう見えません。でも電車が判っているから安心です。と言っても、一足違いで発車されると一大事ですから、僕は駅の地下道を小走りに走りましたよ。

 十三時五十分発各駅停車。その電車の最後尾の車輛に、二人は乗っていました。女は座席に腰をおろしていましたが、男の方は立って、吊革にぶら下っていました。僕は気付かれないように、車掌室の真鐘(しんちゅう)棒に背をもたせ、もっぱらプラットホームの方ばかりを見るようにしていました。はたから見れば、気軽に郊外スケッチに赴く若い画家、そんな風(ふう)に見えたでしょうな。尾行者などとは誰も悟らない。間もなくベルがいっぱいに鳴り渡り、発車です。

 ところが、駅を五つ六つ過ぎる頃から、男は僕の存在に気付いたらしいのです。ちらっちらっと僕の方を見るらしい。あるいは窓ガラスを鏡の代用にして、僕の動作を見張っている様子なのです。僕の方も、駅に停る度に、彼等が下車するかどうか確かめる必要があるので、どうしても視線がそちらに行く。それまで男と女は、何か話し合ったりしていたのに、僕に気付いてからは、男はすこしずつ無口になって来たようです。妙に怒ったような、不安なような、ふくれたような顔になって来ました。

 女の傍の席が空いたので、男は腰をおろしました。僕に気付いているのは男の方だけで、女はまだのようでした。気付かれたらもう仕方がない。そう思って、僕はもう窓外を眺めるふりは止して、大っぴらに二人を眺めることに心を決めました。つまり、気持の上で居直ったんですな。居直りたくもなりますよ。朝から貴重な時間と貴重な金銭を費やして、ここまでやって来たんですからな。それともう一つ、朝から傍若無人にパチンコをやったり、きれいな女性とあいびきみたいなことをやったり、こちらは生活と芸術に苦労してるのに、愉しげに人生を享楽している。金も相当豊富に所持しているらしい。すなわち僕は、この男に、もはやかすかな嫉妬と憎悪を感じていたらしいんです。それは相手の女が、大変きれいな女だったせいもあったでしょうな。

 きれいな女だったですよ。あなたにも、一度お見せしたい位です。ちょっと険を含んだ、するどい顔付の女で、身体つきもなかなか良かった。駒井美代子の比ではありません。脚なんかカモシカみたいにすらりとしていましたね。頭には形良くベレー帽をかぶっている。

 男の方でも、駅に着くたびに、この僕が降りないか降りないかと、考えてるらしいんですな、がたりと停車すると、じろりと僕をにらみつける。僕もじろりと向うを見る。僕はもちろん向うの氏素姓(うじすじょう)は知らないのですが、向うからすれば、この僕はなおのこと気味悪い存在に違いありません。絵描きみたいな風体のくせに、どこまでもついて来るんですからな。

 そして電車は、やっとQという駅に停りました。女がすっと立ち上りました。男はじろりと僕を見てつづいて立ち上りました。扉が開く。二人は出る。別の出口から、僕も歩廊に降り立ちました。男はギョツとした風に、僕の方を見ました。

 Q訳での下車客は、相当な数でした。Q遊園地が、ここにはあるんです。子供連れの客が多かったのも、そのせいでしょう。それらがどっと改札口へ押しかける。その混雑に紛れて、僕の靴をぐいと踏みつけた奴がいます。飛び上るほど痛かったですな。見ると僕の横にいるのは、れいの男なんです。混雑にまぎれて傍に忍び寄って、わざと僕の足を踏みつけたらしいんです。

「いてて!」

 と僕は思わず悲鳴を上げました。男はにやりと快げに笑い、そのまま改札口を出て行った。この野郎、と思って僕もそのあとを追った。乗越賃金でちょっと暇どったけれども。

 Q遊園地は、ここから一粁ほど隔てた小高い丘の上にあるんです。駅前から遊園地まで、子供電車が出ている。子供電車と言ったって、トロッコに色を塗り、それにテント屋根をかぶせただけの、お粗末なしろものです。二人は年甲斐もなく、嘻々(きき)としてそれに乗込みました。僕ももちろん乗り込んだ。二人のすぐうしろの座席です。もうこうなれば意地でしたな』

 

『遊園地内も、桜が満開でしたよ。

 このQ遊園地に僕は初めて来たんですが、なかなか繁昌してるんで、おどろきましたよ。うじゃうじゃの人の波です。設備も割にととのっていました。子供自動車やウォーターシュート。野球場や動物園。子供連れで遊びにゆくには、手頃のところですな。あんまり人が多いんで、砂ぼこりが立ち、折角の桜もうすよごれて、まるで紙屑か何かをくっつけたみたいに見えましたな。

 僕はまかれないように、忠実に二人のあとにくっついて歩いた。その頃から女の方も、少し変だと思い始めたらしいです。時々不審げなまなざしで、僕の方を見る。

 二人はウォーターシュートに乗ったり、吊下げ飛行機に乗ったりする。年甲斐もなく、そんなことが楽しいらしいんです。僕はと言えば、そんなのに乗ってみたいんだけど、生憎(あいにく)懐中が乏しいんで、乗れない。うっかり乗ると、帰りの電車賃がなくなるおそれがある。仕方がないから、連中が乗っている間は、スケッチブックを開いて、そこらの写生などをして暇をつぶしていました。連中が降りて来ると、またついて歩く。無償の情熱はいいけれど、さっき踏まれた足は痛いし、そろそろくたびれては来たし、イヤになって来たですな。しかし、ひるむ心を引立て引立てして、番犬のようにつきまとって歩いた。

 それはビックリハウスというやつでしたな。窓のない小さな建物で、内に入ると何かビックリすることがあるらしいんです。男は二人前の切符を買った。一枚十円だけれど、僕には買えない。だから、どんなビックリか、僕は今でも判らないです。

 建物の入口に、係の少女が立っている。そしてその前まで行って、男は女だけを建物の中に入れました。するとそれで定員だと見えて、少女が扉をしめた。そのとたんに男はくるりとふりむき、顔をきっと緊張させて、僕の方へまっすぐつかっかと歩いてくる。ちょっとばかりこちらも緊張しましたな。

「おい。君は一体、誰から頼まれた?」

 男は僕のそばにピタリとよりそい、低い声でそう言いました。やや凄味(すごみ)を利(き)かせた口調です。僕は身構えたまま黙っていました。だって返事のしようがないですからね。すると男の声は急にやわらかく、意外にも哀願の調子さえ帯びて来たんです。

「え、誰に頼まれた。トミコからか?」

 ビックリハウスから、わあわあとけたたましい混声が流れ出ました。内部の叫声喚声を拡声器で表に流しているんです。人寄せのためでしょうね。

「え。トミコだろう。な、依頼主はトミコだろう」

 僕はわけも判らないまま、重々しくうなずきました。すると男は絶望したように頭をかきむしりました。

「そうか。やはりトミコか」

 男はうなり声を上げました。そして忙しく手を内ポケットに突込むと、ワニ皮の財布を引っぱり出しました。そして左手で僕の腕を摑(つか)みました。

「な、金ならいくらでも出す。その報告を握りつぶして呉れんか。頼む」

 予想外に事態が進展したので、面食ったのは僕です。僕は思わず目をパチパチさせました。何が何だか五里霧中ながら、とにかく僕が何かと間違えられてるらしいこと、そしてそのことでこの男が絶望して、僕に金を呉れたがっている、そのことだけはやっと了解出来ました。男はおっかぶせるように言葉をつぎました。

「え。いくら要るんだ。いくら?」

「一万五千円」

 とっさにその金額が口に出て来た。やはり無意識の裡(うち)に、あの腕時計のことを心配してたんですな。そう言ってしまって、自分でもびっくりした位です。

「なにい。一万五千円だと?」

 そして男は笛のような嘆声を発しました。

「そりゃ高い。いくらなんでも高過ぎる。少し負けて呉れ」

「イヤです」

 こうなれば僕も必死です。折角金を呉れると言うのに、ここで所定の金額を頑張らなきゃ、友達に会わせる顔がない。男の顔は赤く怒張して来ました。すこし声を荒らげて、

「負けろ!」

「イヤだ」

「考え直せ!」

「じゃ金は要らん。その腕時計を呉れ」

 男はあわてたように右の手首を引っこめました。

「無茶言うな。この時計は三万円もする」

「じゃ、金よこせ」

 そして僕は、いきなりスケッチブックを開いて、接吻のデッサンを見せてやりました。男はさっと顔色を変え、それから、へなへなと身体から力を抜いたようでした。

「そうか。それじゃ仕方がない」

 男はしぶしぶと財布から紙幣(さつ)束を出し、むこう向きになって数えてる様子でしたが、直ぐに向き直って、束を僕の眼前につきつけました。そして沈痛な声で言いました。

「ここに九千円ある」

「九千円では足りない」

「だから、あと六千円は、名剌に書くから、そこで受取って呉れ」

「大丈夫でしょうな。そこは」

「大丈夫だ。それより君の方は、大丈夫だろうな。俺からしぼって、またトミコから取ったら、承知しないぞ。いいな」

「大丈夫だ。三橋とは違う」

 男はせかせかと名刺と万年筆を引っぱり出し、裏に何か書き始めました。追っかけられるような動作です。ははあ、女がビックリハウスから出て来ないうちに、事を処理してしまいたいんだな。そう僕は気付きました。ちょっと気の毒な気持でしたよ』[やぶちゃん注:「Q遊園地」このロケーションとなる遊園地がどこなのか、私にはよく判らない。多くのアトラクションがあり、動物園もあり、何より、駅から「子供電車」があるというのは、恐らく私より年上の方(私は昭和三二(一九五七)年生まれ)なら、即座にお判りになるだろう。御教授戴けると、恩幸、これに過ぎたるはない。「三橋」不詳。詐欺事件か何かの犯人の名らしいが判らぬ。出来れば、遊園地とともに、よろしく御教授あられたい。]

 

『僕は名刺を受取り、大急ぎでビックリハウスの前を離れました。早くあっちに行け、と男が言ったせいもあるのですが、ぐずぐずしてると男の気持が変って、金を取戻されそうな気もしたからです。急ぎ足で駅の方に戻りながら、僕は名刺の表を読みました。鴨志田竜平。そう印刷してあります。あの肥っちょの名前なのでしょう。裏をかえすと。『拝啓。この名刺持参人に六千円渡してやって呉れ。そちらは忙しいか。こちらはとても忙しい。アハハ。オテル殿。竜平』

 と書いてあります。せっぱつまってこれを書いたくせに、何がアハハだと、僕はいささか軽蔑と憐憫(れんびん)を感じましたな。

 男の説明では、僕が残金を受取る先方は、神田駅近くのおでん屋だということでした。オテルというのはそこの女将らしいのです。男とオテルとはどういう関係にあるのか、急いでいたもんで、その時はつい聞きそびれてしまいました。

 さて、神田駅で降り、男が教えた道筋をたどり、そのおでん屋の表に来た時は、もうあたりはすっかり暗くなっていました。七時ちょっと過ぎていましたかな。繩のれんからそっとのぞいて見ますと、五坪か六坪程度の小ぢんまりした店構えです。お客が一人入っています。台の向うには三十前後の、白粉の濃い女が、おでん鍋の中味を箸(はし)で調整しています。これがオテルだな、と思いながら、僕はガラス扉をがらりとあけました。

「今晩は」

 と僕は言いました。オテルさんはちらと僕の風体を見て、つっけんどんに言いました。

「似顔画はお断りですよ」

 僕がスケッチブックを持っているので、間違えたらしいのです。

「似顔描きじゃないよ。飲みに来たんですよ」

 そう言って僕は台の前に腰をおろしました。一杯飲んで、それから用事にとりかかろうというつもりなんです。

「あら、そう。それはそれは」

 オテルさんは急に愛想良くなって、いそいそとおちょうしをつけました。僕は莨(たばこ)に火をつけ、ちらりちらりとオテルを観察していました。どうも水商売上りらしいな。ちょっとヒステリー気味なところもあるらしいぞ。さて、どんな具合に切出してみるかな。

 おちょうしのカンがつき、おでんを一皿注文して、僕はおもむろに飲み始めました。九千円という大金がポケットにあるし、ゆったりした気分でしたな。昼間ワクドウでカレーライスを食べたきりですから、腹はぺこぺこで、おでんも旨(うま)かったし、お酒ははらわたに沁み渡ったです。適度の運動の後の酒、これはこの世の極楽ですな。

 先客は三十五六の、ちょっといなせな請負師らしい風体の男です。オテルさんと親しげに冗談口をきき合ったり、盃をさしたりさされたり、古くからの顔馴染のように見えました。男が言いました。

「今日はオテルさん一人かい。オフサはどうした」

「ありゃ一昨日クビにしちゃったわよ」

 とオテルさんは眉をひそめて、はき出すように言いました。

「へえ。何でクビにしたんだね」

「どうもこうもないよ。あの女、見かけによらず淫乱でね、店の名にかかわるからさ」

 それから二人の間で、オフサという女の話がやりとりされました。僕は黙ってそれを聞きながら、盃(さかずき)を傾けていました。オフサというのは、この店の雇い女らしく、何か男と間違いをおこして、それで追い出されたらしいのです。しかしその件については、オテルさんはあまり口にしたくないらしく、最後に不快げに眉をひそめて、嘆息しました。

「もう、男も女も、あたしゃ全然信用しないことにしたよ」

「カモさんじゃないのかい。オフサに手をつけたのは」

 男は盃を口に持って行きながら、ズバリと言いました。オテルさんはぎょっとしたらしく、顔をこわばらせたが、直ぐに忌々しげにうなずきました。

「実はそうなんだよ。ほんとに癪(しゃく)にさわるったらありゃしない」

「そうだろうね。カモさんったら、女癖が悪いからな。イカモノ食いというやつだよ。それでどうしてオテルさんは見破ったんだね?」

「オフサの日記を調べてみたのさ。どうも様千が変だったからね。すると、ところどころに鴨(かも)の絵が書いてあるのさ。あたしゃ初めニワトリの両かと思ってさ、何でニワトリが描いてあるのかと考えてるうち、ハッと気が付いたのさ。癪にさわるじゃないの。鴨志田と寝た日の心覚えに、その画を描いたってえの」

 僕は驚きましたな。カモさんというのが鴨志田の事とは、今迄思いもしなかったからです。これは少々風向きが宜(よろ)しくない様子です。

「それで、オフサを問い詰めて白状させたのが一昨日。直ぐにクビにしてやったわ」

 オテルさんはコップに冷酒を注いで、ぐいとあおりました。眼がすこし吊上っています。

「そいじゃ、ばれたことはカモさんはまだ知らないのかい」

「そうなんだよ。やって来たらとっちめてやろうと、手ぐすね引いて待ってるのだけどね。何だい、ろくに手当も呉れない癖に、ひとかどの旦那面しやがってさ!」

 僕はと言えば、おちょうしも空になったし、皿のおでんも食い尽したし、ここらで口を入れなければ、ますます具合が悪くなる予感がしたものですから、おそるおそる口を出しました。

「じ、じつは、カモさんから頼まれて、やって来たんですが――」

「え。なに。カモ?」

 とオテルさんはきりりと僕の方に向き直りました。

「一体何を頼まれて来たのさ?」

「こ、これを」

 僕は急いで名刺を差出しました。声もいくらかかすれたようです。オテルさんは名刺をひったくるようにして、忙しくそれを読み下しました。額の静脈がもりもりと盛り上ったようです。

「何だい。六千円。よくもそんなことが言えるわね。バカにしてるわ」

「でも、僕は六千円、どうしても要るんですよ」

「あんたは一体誰なの。何者なの。鴨志田とどういう関係があるのさ!」

「関係というほどじゃないけれど、僕はあの人に六千円貸しがあるんです」

「貸し? あの人は、他人様から金を借りるような男じゃないわ」

「だって、チャンと貸してあるんですよ!」

 と僕は言葉に力をこめました。

「鴨志田さんは、明晩こちらにお伺いすると言ってましたよ。その時、色々説明するって」

 これは僕がウソをついたのです。そう言えばオテルさんの気持が和んで、金を出して呉れるかも知れないと思ったのです。するとオテルさんは、軽蔑的な口調ではき捨てるように言いました。

「六千円なんて大金は、家には今ないわよ!」

「こんな店をやってて、無いわけはない。無いとは言わせませんぞ!」

 僕も腹が立ったので、つい税務吏員みたいな口を利きました。

「ないわよ!」

 とオテルさんは怒鳴りました。

「ある!」

「ない!」

 オテルさんはヒステリックに叫んで、手を棚に伸ばし、一冊の帳面を投げつけるように僕によこしました。帳面は台の上でハラリと拡がりました。

「疑うんなら、それを見てよ。それが全部のツケの帳面よ。来る客来る客、皆ツケばっかりで、現金は一文も入りゃしない。ウソだと思ったら、金箱見せてやろうか。え?」

 そのキンキンした声を聞きながら、僕の視線はその帳面の一頁に、ひたと釘付けにされていたのです。ここまで言えば、もうお判りでしょう。その沢山の名前の中に、あなたの名前と、その下に金額、六千八百円也と、チャンと記入されてあったんです。偶然も、こうピッタリ行くと、もう言うところないですな。しかし、あなたがあんな変てこりんなおでん屋の常連だとは、ちょっと驚き入りましたな。僕はおもむろに口を開きました。

「じゃ、このツケを僕が取って来て、それを僕のものにしていいかい?」

 オテルはびっくりしたように僕の顔を見、首を伸ばして帳面をのぞきこみました。僕はあなたの名のところを指差しました』

 

『オテルさんとの談合は、それでまとまったんですがね。

 僕の貸金は六千円だし、あなたのツケは六千八百円でしょう。差額の八百円を払ってゆけと、オテルさんはしきりに主張するのです。僕は素直に払いました。それと今飲んだ分の勘定。これが二百二十円です。二十円というハシタ金がなかったので、僕はあちこちポケットを探ってると、上衣の内ポケットに何かコリッとした固いものが入っている。何だろうと思ってつまみ出して見ると、僕は思わずアッと驚愕の叫び声を上げましたよ。それは一体何だったと思います? なんと腕時計だったんですよ。今朝盗られたとばかり思っていた腕時計が、チャンと内ポケットに入っていたんです。何ともはや驚きましたな。これが内ポケットに入ってる位なら、僕は一体何のために今朝からせっせと動き廻ったか、わけが判らんじゃありませんか』

 

 矢木君はそこまで話して、ぐっとコップのビールを飲みました。もうそろそろ日暮れ時です。半ダースの瓶もほとんど空になりました。いい気持に酔っぱらって、身体の節節がとろけてゆくような感じでした。

「それは一日御苦労だったね」

 と僕はけだるく口を開きました。

「しかしまあ、時計が出て来てよかったな」

「あの洗面の時、大事なものだと思って、無意識に内ポケットにしまいこんだんでしょうな。駒井嬢の膝頭のおかげで、すっかりそれを忘却してしまったらしい」

 そして矢木君は、とろりとうるんだ眼を僕に向けました。

「それでと、つまり、僕はあなたに、六千八百円の貨しがあるわけになりますな。これは一体――」

「棒引きだよ」

 と僕はたしなめてやりました。

「その上僕から金を取ろうなんて、それはむさぼりと言うもんだよ。芸術家ともあろうものが、そんな慾張りでは、絶対に大成しないよ。棒引きにしなさい。そうすれば僕もたすかる」

「それもそうですな。では、そういうことにしますか」

 矢木君はけろりとした表情でそう答えながら、残りのビールをぐっと飲み乾しました。

萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 櫻

 

   

 

櫻のしたに人あまたつどひ居ぬ

なにをして遊ぶならむ。

われも櫻の木の下に立ちてみたれども

わがこころはつめたくして

花びらの散りておつるにも淚こぼるるのみ。

いとほしや

いま春の日のまひるどき

あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。

 

[やぶちゃん注:初出は大正二(一九一三)年五月号『朱欒』。但し、無題。以下に示す。

   *

 

 

 

櫻のしたに人あまたつどひ居ぬ。

なにをしてあそぶならむ

われも櫻の木の下に立ちてみたれども

わがこゝろはつめたくして

花びらの散ちておつるにも淚こぼるゝのみ

いとほしや

いま春の日のまひるどき

あながちに哀しきものをみつめたる我にしもあらぬを

 

   *

やはり、筑摩版全集の「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」に、本篇の草稿が載る。以下に示す。

   *

 

 さくら

 

櫻の下に人あまたつどひ居ぬ

何をしてあそぶならん

われも櫻の木の下に立ちて見たれども

わがこゝろはつめたくして

花びらの散ちて落つるにも淚こぼるゝのみ

いとほしや

いま春の日のまひるとき

あながちに哀しきものをみつめたる我にしもあらぬを

 

   *]

萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 女よ

 

   女  よ

 

うすくれなゐにくちびるはいろどられ

粉おしろいのにほひは襟脚に白くつめたし。

女よ

そのごむのごとき乳房をもて

あまりに强くわが胸を壓するなかれ

また魚のごときゆびさきもて

あまりに狡猾にわが背中をばくすぐるなかれ

女よ

ああそのかぐはしき吐息もて

あまりにちかくわが顏をみつむるなかれ

女よ

そのたはむれをやめよ

いつもかくするゆゑに

女よ 汝はかなし。

 

[やぶちゃん注:初出は大正二(一九一三)年五月号『朱欒』。以下に示す。「かくはしき」はママ。老婆心乍ら、「擽ぐる」は「くすぐる」と読む。

   *

 

 女よ

 

うすくれなゐにくちびるはいろどられ

粉おしろいのにほひは襟脚に白くつめたし

女よ

そのゴムのごとき乳房をもて

あまりに强くわが胸を壓するなかれ

また魚のごときゆびさきもて

あまりに狡猾にわが背中をば擽ぐる勿れ

女よ

ああそのかくはしき吐息をもて

あまりに近くわが顏をみつむる勿れ

女よ

そのたはむれをやめよ

いつもかくするゆゑに

女よ、汝はかなし。

 

   *

やはり、筑摩版全集の「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」に、本篇の草稿が載る。以下に示す。「くれない」「みつむこと」はママ。

   *

 

 女よ

 

うすくれないにくちびるは彩られ

粉白粉のにほひは襟脚に白くつめたし

女よ

そのゴムのごとき乳房をもて

あまりに强くわが胸を壓する勿れ

また魚のごとき指先もて

あまりに狡猾にわが背中をば擽ぐる勿れ

女よ

あゝそのかくはしき吐息をもて

あまりに近く我が顏をみつむこと勿れ

女よ

そのたはむれをやめよ

いつもかくする故に

女よ汝は悲し

          (一九二三、四、)

 

   *]

萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 こころ

 

   こ こ ろ

 

こころをばなににたとへん

こころはあぢさゐの花

ももいろに咲く日はあれど

うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

 

こころはまた夕闇の園生のふきあげ

音なき音のあゆむひびきに

こころはひとつによりて悲しめども

かなしめどもあるかひなしや

ああこのこころをばなににたとへん。

 

こころは二人の旅びと

されど道づれのたえて物言ふことなければ

わがこころはいつもかくさびしきなり。

 

[やぶちゃん注:初出は大正二(一九一三)年五月号『朱欒』。以下に示す。

   *

 

 こゝろ

 

こゝろをばなにゝたとへん

こゝろはあぢさゐの花

もゝいろに咲く日はあれど

うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

 

こゝろはまた夕やみの園生のふきあげ

音なき音のあゆむひゞきに

こゝろはひとつによりて悲しめども

かなしめどもあるかひなしや

あゝこのこゝろをばなにゝたとへん

 

こゝろは二人の旅びと

されど道づれのたえて物いふことなければ

わがこゝろはいつもかくさびしきなり

 

   *

こちらは踊り字「ヽ」「ゞ」が視覚的アクセントとして奇妙な内在律を感じさせる。しかし、因みに、私は人生の中で幼児期より「々」以外の踊り字を用いたことがなく、特に複数語の踊り字「〱」「〲」は特に激しい嫌悪を催し、「〻」も気持ちが悪いほどで、残る余生も自分の文章に用いることはない。しかし、この初出詩篇は、なんとも、踊り字がまっこと、いいではないか。

 なお、筑摩版全集の「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」に、本篇の草稿が載る。以下に示す。「あぢさい」はママ。

   *

 

 こゝろ

 

こゝろをば何にたとへん

こゝろはあぢさいの花

もゝいろに咲く日はあれど

うすむらさきのためいきばかりはせんなくて。

こゝろはまた夕やみの園生のふきあげ

砂時計の漏刻

音なき音の步むひゞきに

こゝろはひとつによりて悲しめども

悲しめどもあるかひなしや。

あゝこのこゝろをなにゝたとへん

こゝろは二人の旅びと

されどその道づれのたえて物いふことなければ

わがこゝろはいつもかく淋しきなり

 

   *]

2021/12/30

ブログ・カテゴリ「萩原朔太郎Ⅱ」創始

ブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」の記事が1000件に近づいてきた。私の加入しているニフティのブログ「ココログ」は、一カテゴリでは千件を超えると、過去記事が表示されなくなり、カウントも増えない。ブログ画面では1001以前の古い記事がリンクとして出てこなくなるため、過去記事を読者が読む際には、使い勝手が非常に悪くなる。特に向後も順調に増える予定の萩原朔太郎の記事では、それは甚だ困るため、「萩原朔太郎Ⅱ」というブログ・カテゴリを新規に作ることとした。今まで通り、よろしく。 心朽窩主人敬白

萩原朔太郎詩集 純情小曲集 正規表現版 始動 / 「珍らしいものをかくしてゐる人への序文」(室生犀星の序)・自序・「出版に際して」(萩原朔太郎)・目次・愛憐詩篇「夜汽車」

 

[やぶちゃん注:萩原朔太郎の第四詩集に当たる「純情小曲集」は大正一四(一九二五)年八月十二日に新潮社から刊行された。収録作品は「愛憐詩篇」十八篇、「鄕土望景詩」十篇で、後者には「鄕土望景詩の後に」という「鄕土望景詩」の六つの詠唱対象地についての散文詩的自解がある。

 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」にある同原本初版(萩原朔太郎署名附。リンク先は一括PDF。書誌等のタイトル・ページはここ)画像を視認した。同データの画像使用は許可制であるので、表紙その他についてヴィジュアルに見て戴きたい箇所は、底本のHTML版の当該単一画像へのリンクとした(本体を包んでいるカバーも本詩集の一部として採り上げてある)。但し、最後(「鄕土望景詩の後に」の後で、萩原恭次郎の「跋」の前)に萩原朔太郎が配したモノクローム写真「前橋市街之圖」(撮影者不詳)については、参考にした所持する昭和五一(一九七六)年筑摩書房刊「萩原朔太郞全集 第二卷」にある画像を取り込み、トリミング補正して用いる。なお、加工データとして「青空文庫」の同詩集のテキスト・ファイル・データ(二〇一八年十二月十四日最終更新版・入力・kompass氏/校正・小林繁雄氏/校正・門田裕志氏)を使用させて貰った(ここの下方にある)。ここに御礼申し上げる。

 底本原本では、読点の後に有意な間隙(一字分弱)を空けたり、逆に鍵括弧が前後とも詰っていたりする版組みであるが、再現していない。また、署名内の字空けや下方インデントなどは、ブログ・ブラウザでの不具合を考えて、これも再現していない。字のポイントも相対的な感じで変化を加えたり、加えなかったりしている。また、注では、今までの詩集正規表現版と同様に初出を示し、さらに気づいた限りの、草稿も電子化する。

 ★★★なお、ブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」の記事が一千件に近づいてきた。私の「ココログ」は一カテゴリでは千件を超えると、過去記事が表示されなくなり、カウントも増えない。萩原朔太郎の記事では、それは甚だ困るため、★「萩原朔太郎Ⅱ」★というブログ・カテゴリを新規に作ることとした。★★★20211230日始動 藪野直史】]

 

 

 

MCMXXV

 

版 出 社 潮 新

 

 

[やぶちゃん注:ここのみ実際の画像にやや似せて電子化した。本体を包んでいるカバーの表紙。地は白で、文字は赤で、背寄りに配され、全体が二重の長方形の赤罫で囲われてある。「MCMXXV」はローマ数字で刊行年の「1925」を意味する。]

 

 

純 情 小 曲 集    萩 原 朔 太 郞 著

 

[やぶちゃん注:カバー背文字。実際は縦書で詩集名は著者名よりポイントが大きい。体色が激しいが、思うに、カバー裏表紙中央の新潮社のマークも、同じく前の表紙側と同じく赤で印刷されているので、この背文字ももとは同じ赤と推定される。カバーを総て開いた画像もある。ここで先に言ってしまうが、本体の背も同じ文字列であるが、遙かに小さく、上方に布地に紙に印刷された、ゴシック体の、いかにも狭苦しく詰めたそれが、貼り付けられてある。

 

 

 純情小曲集 銅版畫入

 

         西歷一九二五年 東京版

 

[やぶちゃん注:本体表紙。縦書。詩集題名は黒い罫線で囲われてある。背から五分の一辺りまでの「平(ひら)の出」部分が、裏表紙(中央にモノクロームの新潮社のマーク)ともに、赤い布装となっている。「銅版畫入」は不審。既に注した通り、本詩集にはモノクローム写真が一葉あるだけである。或いは、詩集発行案の当初には、後の詩集「底本 靑猫」に入っているような版画を挿入する企画意図が萩原朔太郎にはあり、それがとりやめになった後、その修正(取消)が編集部に通知されず、初期原稿のままにかくなってしまったものか?

 見返しの「効き紙」も「遊び」も無地であるが、その「遊び」の右下方に萩原朔太郎の直筆サインがある。

 

 

 純 情 小 曲 集 萩 原 朔 太 郞 著

 

            新 潮 社 出 版

 

[やぶちゃん注:扉。縦書。全体が明るい水色の罫線で囲われている。

 

 

 

北原白秋氏に捧ぐ

 

[やぶちゃん注:献辞。扉の次の次であるこの左ページにある。

 以下は室生犀星による序。なお、一括版(PDF)で縦覧されたいが、本詩集の目次と詩集本文開始標題のページを除くと、総てのページの端、右ページでは右に、左ページでは左に、縦罫(上下開放)があり、その外下方につつましやかな斜体ノンブルが打たれるというお洒落な版組みとなっている。]

 

 

 珍らしいものをかくして

 ゐる人への序文

 

 萩原の今ゐる二階家から本鄕動坂あたりの町家の屋根が見え、木立を透いて赤い色の三角形の支那風な旗が、いつも行くごとに閃めいて見えた。このごろ木立の若葉が茂り合つたので風でも吹いて樹や莖が動かないとその赤色の旗が見られなかつた。

「惜しいことをしたね。」

 しかし萩原はわたしのこの言葉にも例によつて無關心な顏貌をした。

 

 或る朝、萩原は一帖の原稿紙をわたしに見せてくれた。いまから十三四年前に始めてわたしが萩原の詩をよんだときの、その原稿の綴りであつた。わたしは讀み終へてから何か言はうとしたが、それよりもわたしが受けた感銘はかなりに纖く鋭どかつたので、もう一度默つて原稿を繰りかへして讀んで見た。そしてやはり頭につうんと來る感銘が深かつた。いいフイルムを見たときにつうんとくる淚つぽい種類の快よさであつた。わたしはすぐ自分のむかしの詩を思ひ返して、萩原もいい詩をかいて永い間世に出さなかつたものだと、無關心で、無頓着げなかれの性分の中に或る奧床しさをかんじた。かれは何か絕えずもの珍らしいものを祕かにしまつてゐるやうな人がらである。

 

   五月二十一日朝   犀  星  生

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。

 以下、萩原朔太郎の「自序」。下線はママ。かなり細い右傍線(最初の部分の画像を参照されたい)である。]

 

 

 自    序

 

 やさしい純情にみちた過去の日を記念するために、このうすい葉つぱのやうな詩集を出すことにした。「愛憐詩篇」の中の詩は、すべて私の少年時代の作であつて、始めて詩といふものをかいたころのなつかしい思ひ出である。この頃の詩風はふしぎに典雅であつて、何となくあやめ香水の匂ひがする。いまの詩壇からみればよほど古風のものであらうが、その頃としては相當に珍らしいすたいるでもあつた。

 ともあれこの詩集を世に出すのは、改めてその鑑賞的評價を問ふためではなく、まつたく私自身への過去を追憶したいためである。あるひとの來歷に對するのすたるぢやとも言へるだらう。

 

 「鄕土望景詩」十篇は、比較的に最近の作である。私のながく住んでゐる田舍の小都邑と、その附近の風物を咏じ、あはせて私自身の主觀をうたひこんだ。この詩風に文語體を試みたのは、いささか心に激するところがあつて、語調の烈しきを欲したのと、一にはそれが、咏嘆的の純情詩であつたからである。ともあれこの詩篇の内容とスタイルとは、私にしては分離できない事情である。

 「愛憐詩篇」と「鄕土望景詩」とは、創作の年代が甚だしく隔たるために、詩の情操が根本的にちがつてゐる。(したがつてまたその音律もちがつてゐる。)しかしながら共に純情風のものであり、咏嘆的文語調の詩である故に、あはせて一册の本にまとめた。私の一般的な詩風からみれば、むしろ變り種の詩集であらう。

 

 私の藝術を、とにかくにも理解してゐる人は可成多い。私の人物と生活とを、常に知つてゐる人も多少は居る。けれども藝術と生活とを、兩方から見てゐる知己は殆んど居ない。ただ二人の友人だけが、詩と生活の兩方から、私に親しく往來してゐた。一人は東京の詩友室生犀星君であり、一人は鄕土の詩人萩原恭次郞君である。

 この詩集は、詩集である以外に、私の過去の生活記念でもある故に、特に書物の序と跋とを、二人の知友に賴んだのである。

 

  西曆一九二四年春

    利根川に近き田舍の小都市にて 著 者

 

[やぶちゃん注:「あやめ香水」不詳。但し、「月に吠える」の「五月の貴公子」に「あやめ白粉」というのが出現する。『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 五月の貴公子』の私の注を見られたいが、そこでは「あやめ白粉」は造語である可能性が強い。但し、そこに引用したように、『頭髪用の香油に「イリス香油(井上太兵衛商店)」』というものがあったし、現行、調べると、単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科 Iridaceae アヤメ属 Iris を用いた香水が外国では実際に製造されている(画家齋藤芽生氏のブログ「隠花微温室」の「イリスの香水」によれば(段落を総て繋げた)、『「28ラパウザ」というのはココ・シャネルの南仏の別荘の名だそうだ。シャネルは自分のアイリス畑を持っている。アイリス香料は世界一高価。どこかで読んだが一番高いとキロ一千万円するのだそうだ。そのアイリスをこれでもかとふんだんに使うのがシャネルの香水。No.19とか』。『根茎を三年土の中で育て、掘り起こして数年寝かせ、またそこから油脂に溶かしたり抽出したりを繰り返し、七年くらいかけてやっとアヤメのエッセンスが少量とれる』とあった。参考まで。嗅ぐことはあるまい。私の妻は大の香水嫌いで、私が唯一使っている男性化粧品はアフター・シェーブローションだけであるが、それもわざわざ無香料を選んでいるからである。

「あるひとの來歷に對するのすたるぢや」本篇の「愛憐詩篇」が、かの萩原朔太郎の中の永遠の聖少女「エレナ」への、死に至る病いとしてのノスタルジアの幻想産物であることを匂わせたもの。「エレナ」を御存じない方は、「ソライロノハナ 附やぶちゃん注 PDF縦書版」の私の注ごときものでもよろしければ、読まれんことを望む。

「鄕土の詩人萩原恭次郞君」大正末期の芸術革命の先頭に立ち、ダダイストから始めて、アナーキズムへ傾倒し、詩集「死刑宣告」で知られる萩原恭次郎(明治三二(一八九九)年~昭和一三(一九三八)年)は群馬県勢多郡南橘村(前橋市)生まれ。但し、彼は養子に行って萩原となったもので、本姓は金井であり、血縁関係はない。十三も年上の朔太郎との交友が始まったは大正五(一九一六)年の四月以降である(全集年譜を見るに、朔太郎が前橋の自宅で週一回開いていた「詩と音楽の研究会」がきっかけと思われる)。

 以下、萩原朔太郎の散文詩的出版事情自解。]

 

 

 出版に際して

 

 昨年の春、この詩集の稿をまとめてから、まる一年たつた今日、漸く出版する運びになつた。この一年の間に、私は住み慣れた鄕土を去つて、東京に移つてきたのである。そこで偶然にもこの詩集が、私の出鄕の記念として、意味深く出版されることになつた。

 鄕土! いま遠く鄕土を望景すれば、萬感胸に迫つてくる。かなしき鄕土よ。人人は私に情(つれ)なくして、いつも白い眼でにらんでゐた。單に私が無職であり、もしくは變人であるといふ理由をもつて、あはれな詩人を嘲辱し、私の背後(うしろ)から唾(つばき)をかけた。「あすこに白痴(ばか)が步いて行く。」さう言つて人々が舌を出した。

 少年の時から、この長い時日の間、私は環境の中に忍んでゐた。さうして世と人と自然を憎み、いつさいに叛いて行かうとする、卓拔なる超俗思想と、叛逆を好む烈しい思惟とが、いつしか私の心の隅に、鼠のやうに巢を食つていつた。

 

  いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん

 

 人の怒のさびしさを、今こそ私は知るのである。さうして故鄕の家をのがれ、ひとり都會の陸橋を渡つて行くとき、淚がゆゑ知らず流れてきた。えんえんたる鐵路の涯へ、汽車が走つて行くのである。

 鄕土! 私のなつかしい山河へ、この貧しい望景詩集を贈りたい。

 

  西曆一九二五年夏

    東京の郊外にて        著 者

 

 

  純情小曲集目次

 

[やぶちゃん注:目次標題。単立独立ページである。

 以下、目次ではリーダとページ数は省略した。標題は各パートで均等割付であるが、無視した。]

 

 

珍らしいものをかく
                室生犀星
してゐる人への序文

自序

出版に際して

 

  愛 憐 詩 篇

夜汽車

こころ

女よ

旅上

金魚

靜物

蟻地獄

利根川のほとり

濱邊

綠蔭

再會

地上

花鳥

初夏の印象

洋銀の皿

月光と海月

 

  鄕 土 望 景 詩

 中學の校庭

 波宜亭

 二子山附近

 才川町

 小出新道

 新前橋驛

 大渡橋

 廣瀨川

 利根の松原

 公園の椅子

 

   鄕土望景詩の後に

 Ⅰ前橋公園

 Ⅱ大渡橋

 Ⅲ 新前橋驛

 Ⅳ小出松林

 Ⅴ波宜亭

 Ⅵ前橋中學

跋              萩原恭次郞

 

 

   純 情 小 曲 集

 

[やぶちゃん注:本文開始標題ページ。独特の太明朝活字。]

 

 

    愛 憐 詩 篇

 

[やぶちゃん注:パート標題。]

 

 

    夜 汽 車

 

有明のうすらあかりは

硝子戶に指のあとつめたく

ほの白みゆく山の端は

みづがねのごとくにしめやかなれども

まだ旅びとのねむりさめやらねば

つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。

あまたるきにすのにほひも

そこはかとなきはまきたばこの烟さへ

夜汽車にてあれたる舌には佗しきを

いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。

まだ山科(やましな)は過ぎずや

空氣まくらの口金(くちがね)をゆるめて

そつと息をぬいてみる女ごころ

ふと二人かなしさに身をすりよせ

しののめちかき汽車の窓より外(そと)をながむれば

ところもしらぬ山里に

さも白く咲きてゐたるをだまきの花。

 

[やぶちゃん注:本文の第一詩篇。下線は右傍線。筑摩版全集によれば、初出は大正二(一九一三)年五月号『朱欒』で、標題は「みちゆき」。この雑誌名は「ザンボア」と読む。北原白秋の編集になる文芸雑誌で、明治四四(一九一一)年十一月から大正二(一九一三)年五月まで十九冊が発行され、後期浪漫派の活躍の場となった(なお、大正七年一月に改題誌『ザムボア』が発刊されているが同年九月に廃刊している)。初出形を以下に示す。誤字或いは誤植及び歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

 

 みちゆき

 

ありやけのうすらあかりは

硝子戶に指のあとつめたく

ほの白みゆく山の端は

みづがねのごとくにしめやかなれども

まだ旅人のねむりさめやらねば

つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや

あまたるきニスのにほひも

そこはかとなきはまきたばこの煙さへ

夜汽車にてあれたる舌には佗しきを

いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ

まだ山科(やましな)は過ぎずや

空氣まくらの口金(くちがね)をゆるめて

そつと息をぬいてみる女ごゝろ

ふと二人悲しさに身をすりよせ

しのゝめちかき汽車の窓より外を眺むれば

ところもしらぬ山里に

さも白く咲きてゐたるおだまきの花

 

   *

なお、筑摩版全集の「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」に、「みちゆき」の草稿が載る。以下に示す。

   *

 

 汽車のみちゆき

 

ありあけのうすらあかりは

硝子戶に指のあとつめたく

ほのしらみゆく山の端は

みづがねのごとくにしめやかなれど

まだ旅人の眠りさめやらねば

つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや

甘たるきニスのにほひも

そこはかとなきはまきたばこの煙さへ

夜汽車にてあれたる舌には佗しきを

いかばかり人妻は身にしみひきつめて嘆くらん

まだ山科(しな)はすぎずや

空氣まくらの口金をゆるめて

そつと息をぬいてみる女ごゝろ

ふと二人悲しさに身をすりよせ

しのゝめ近き窓より外を眺むれば

ところも知らぬ山里に 

さも白く咲きて居たるおだまきの花

              (一九一三、四)

 

   *

最後の「おだまき」の表記はママ。]

伽婢子卷之十二 大石相戰 / 卷之十二~了

 

   ○大石相戰(あひたゝかふ)

 

Daijyakuahiarasohu

 

[やぶちゃん注:挿絵は同じく底本からトリミング補正した。個人的には「大石」は「だいじやく」と読みたいが、「だいせき」だろうなあ。]

 

 

 越州春日山の城は、長尾《ながを》謙信の居住せられし所也。謙信、巳に死去せらるべき前(さき)かど、城の内に、大石、二つあり。

[やぶちゃん注:「長尾」の読みは底本は「ながう」、元禄版は『なかを』、「新日本古典文学大系」版は『なかう』。如何ともし難いので、正規で示した。但し、「新日本古典文学大系」版脚注には、『「ながう」の振仮名は、本書他巻にも見られる』とあるから、「ながう」とするのが、本書の電子化ではそちらが正しいとは思う。]

 或日の暮方に、かの二つの石、躍(をど)り上(あが)り、踊り上り、頻りに動きけるに、人皆、恠しみ、見侍べり。

 怱に一所にまろび寄りて、

「はた」

と打合ひ、又、立のきて、躍り動き、又、打ち合ひたり。

「大石の事なり。如何なる故とも知《しり》がたし。只、恠しき事。」

に思ひければ、人々、いかにとも、すべき樣(やう)なし。

 夜半過《すぐ》るまで戰ひて、其の石、缺け損じて、散り飛ぶ事、霰(あられ)の如し。

 終に、二つの石、諸友(もろとも)に、碎けて、扨(さて)、止みにけり。

 夜あけて見れば、其あたりに、血、流れたり。

「是れ、只事(たゞ《こと》)にあらず。」

と思ひ、恠しみける所に、謙信、病み付き給ひ、終に空しくなり給へば、兄弟(きやうだい)、跡を爭ひ、本城と、二の曲輪(くるわ)と、兩陣たてわかりて、軍(いくさ)ありける。

「これ、其しるし成るべし。」

と、後(のち)に思ひ合はせしとぞ。

 

 

伽婢子卷之十二終

[やぶちゃん注:「越州春日山の城」越後国頸城郡中屋敷春日山(現在の新潟県上越市春日山町)にあった中世の山城。主に長尾氏の居城で、戦国武将上杉謙信の城として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「謙信、巳に死去せらるべき前(さき)かど」「前かど」は「以前」の意。当該ウィキによれば、上杉謙信は天正五(一五七七)年九月二十三夜、手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破した(「手取川の戦い」)後、十二月二十三日には、次なる遠征に向けての大動員令を発し、翌年三月十五日に遠征を開始する予定であったが、その六日前の三月九日、遠征の準備中、春日山城内の厠で倒れ、昏睡状態に陥り、その後、意識が回復しないまま天正六年三月十三日(一五七八年四月十九日)に四十九歳で没した。倒れてからの昏睡状態から、死因は脳溢血との見方が強い。遺骸には鎧を着せ、太刀を帯びさせ、甕の中へ納め、漆で密封された。この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸一角に安置され、明治維新の後になって、歴代藩主が眠る御廟へと移されている。『生涯独身で養子とした景勝・景虎のどちらを後継にするかを決めていなかった』ことから、『上杉家の家督の後継をめぐって』「御館(おたて)の乱」『が勃発、勝利した上杉景勝が、謙信の後継者として上杉家の当主となり、米沢藩の初代藩主となったが、血で血を洗う内乱によって』、『上杉家の勢力は大きく衰えることとなる』。『未遂に終わった遠征では』、『上洛して織田信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたとも推測されるが、詳細は不明である』とある。本篇の最後に語られる「御館の乱」については、当該ウィキを見られたい。]

伽婢子卷之十二 盲女を憐て報を得

 

   ○盲女(まうぢよ)を憐(あはれみ)て報(むくひ)を得(えたり)

 

Moujiyo

 

[やぶちゃん注:やはり底本の挿絵をトリミング補正した。]

 

 永祿戊辰(つちのえたつ)十二月に、武田信玄、軍兵(ぐんびやう)を率(そつ)して、駿州に赴き、今川氏眞(うぢざね)を脅かし、城下の民屋を燒たて、氏眞を追落して、駿府を奪ひ取り給へり。

 城下の諸民、慌(あは)てふためき、資財・雜具(ざふぐ)を取り運び、我先きにと、にげ惑ふ。

 其の間に、大軍、押來り、家々に込み入り、財物(ざいもつ)を掠(かす)め、落人《おちうど》を打ち伏せ、剝ぎ取り、手に持ちたる物、皆、奪ひ、切りたふし、追落《おひおと》し、男女《なんによ》、なき叫ぶ音《おと》、閧(とき)の聲に和(くわ)して、天地も崩(くづ)るゝばかり也。

 かくて、燒靜《やけしづ》まり、城、落ちて、氏眞は、行がたなく、信玄、勝利を得て、府中の掟《おきて》をいたされしかば、地下人《ぢげにん》ばら、家に歸る。

 かゝる所に、町家の燒跡なる溝の中に、年、七、八歲ばかりなる女子《をんなご》ありて、なき叫ぶ。

「父よ、母よ、妹よ、我を捨て、いづくに行給ふぞ、我には、食も湯も、たべぬか、あな、悲し、あな、怖ろし、飢《うゑ》て渴(かつえ)たるぞや、あな、苦し。」

とて、聲をばかりに、なき叫ぶを見れば、目のしひたる女子也。

 隣りの家に住みたる、やもめの女房、歸り來りて、いふやう、

「あな、かはゆや、此娘は、三歲の時、疱瘡(とうさう)をうれへて、眼(まなこ)に入《いり》つゝ、兩目ながら、盲(しひ)たり。二人の親、此娘の、智惠かしこきを憐み、常には「法華經」の「藥草喩品(やくさうゆほん)」、「觀音普門品《くわんのんふもんぼん》」を敎へて、誦(じゆ)せしめたり。殊更にいとほしみ育て侍べりしを、此頃、父は、三浦右衞門に惡(にく)まるゝ事ありて、非分(ひぶん)の科(とが)を被り、牢舍(らうしや)させられて、牢屋にして、死す。母、是れを恨みて、病《やみ》つきて、打續き、死す。姊、これを育て侍べりしに、今度のみだれに、流れ矢に當りて、死す。城落ちて後は、一族、散々(ちりちり)になりて、此娘の事、知る者、なし。かゝる者を、見捨て侍べらば、溝に倒れて、飢死(うゑしぬ)べし。」

とて、淚と共に、いだき起こし、元より孀(やもめ)なり、亂に逢うて、あらゆる物、皆、失ひ、此盲女を養ふべき力は、なけれ共、いとかはゆく、見捨て難く、我が背中に、舁(か)き負ひ、薦張(こもばり)の小屋に置きつゝ、粥、少しづゝ食せ、

「いかに。和御前(わごぜ)が父母は、かうかうの事にて、疾(とく)、死せり。姊は、此程のみだれに、矢に當りて、死す。みづから、かはゆく見捨てがたさに、こゝにつれて歸り、育て侍べるぞや。」

といふに、此盲女、是れを聞《きく》より、悶え焦れて、歎き悲しみ、粥をも食はず、夜晝、啼き叫び、終に、絕入《たえいり》て、死にけり。

 孀(やもめ)の女房、大《おほき》に憐み歎きて、薪(たきゞ)を拾ひ、燒殘りし燼(もえぐひ)を集めて、火葬したりければ、盲目女子の帶(おび)に、金子二兩をつけて、あり。

 孀の女房、是れを取て、僧を供養し、佛事、いとなみ、黃金(わうごん)の有(あり)限り、皆、佛道に布施したり。

 斯くて、十日ばかりの後(のち)に、我家の内にして、黃金十兩を、拾ひ得たり。

 此由、信玄、聞傅へ給ひ、

「かゝる心ざしある女房は、未だ、世に稀れ也。我身のわびしきに加へて、盲女を養ひ、又、黃金を得て、我が德分とせず、佛道に布施する事、たぐひなき廉直(れんちよく)の女也。奉行・頭人《とうにん》に是れあらば、昔の靑砥左衞門に替るべからず。天道、憐みて、黃金十兩を與へ給ふなるべし。是を公義に召し取らば、冥慮(みやうりよ)も、恐ろし。」

とて、信玄より、家を建て、孀の女房に、とらせらる。

 是故に、德付(つ)きて、ともかうも緩やかに世を渡りけると也。

 夫れ、世の人、其富、榮えて、金銀、豐かなる時は、禮法をも知り、義理をも、勤む。正直にも見ゆるもの也。

 家、衰へ、身、貧しければ、おのづから、無禮になり、義理を棄てて、德に就き、物を貪ぼるは、世の常の人の心ぞかし。

 されば、かゝる亂れに逢《あひ》て、家は燒けくずれ、資財は失ひ、我が身すがらになり、其の日だに、暮し兼ね、實(まこと)に侘しき中に、かの孀の女房、慈悲深く、盲女を育ひ、又、死したるを棄ず、薪を拾ふて、火葬し、黃金を得て、佛事を營む。

 更に我身の爲にせざる事、誠の心ざし、誰《たれ》か感ぜざらん。

 此故に、こゝに記して、敎への端(はし)とす。

 今の人、若(も)し、利を見て、義を忘れ、德によりて、邪(よこしま)をなさば、此孀の女房のため、耻(はづ)かしき罪人(ざいにん)ならずや、といふ。

[やぶちゃん注:「永祿戊辰(つちのえたつ)」武田信玄(大永元(一五二一)年~元亀四(一五七三)年:享年五十三)と徳川家康による第一次駿河侵攻。永禄十一年十二月六日(ユリウス暦一五六八年十二月二十四日/グレゴリオ暦換算一五六九年一月三日)、信玄は遠江での今川領分割を約束した三河の徳川家康と共同で、駿河侵攻を開始、薩垂山で今川軍を破り(「薩埵峠の戦い」)、今川館(後の駿府城)を、一時、占拠し、江尻城(静岡県静岡市内)も築城した。信玄は駿河侵攻に際し、相模の北条氏康にも協調を持ちかけていたが、氏康は今川氏救援のため出兵し、この侵攻の有様によって(後述)甲相同盟は解消され、北条氏は越後上杉氏との越相同盟を結び、武田領国への圧力を加えた。さらに徳川氏とは結局、遠江領有を巡って対立、翌永禄十二年五月には、家康は今川氏と和睦、家康は駿河侵攻から離脱した。以上はウィキの「武田信玄」に拠ったが、ウィキの「駿河侵攻」の「第一次駿河侵攻」の方がより詳しい。『信玄は駿河侵攻にあたって、相模の北条氏康・北条氏政父子に今川領の分割を提案していた。しかし氏政の生母で氏康の正室である瑞渓院は氏真の祖父母でもある今川氏親と寿桂尼の娘であったことから、氏政は拒絶した。このため』、『信玄は徳川家康と今川領分割の密約を結び、大井川を境にして東部を武田氏が、西部を徳川氏がそれぞれ攻め取ることにしたのである』。十二月六日、信玄は一万二千の『軍勢を率いて駿河侵攻を開始した。これに対して氏真は重臣の庵原忠胤』(いはらただたね)に一万五千の『軍勢を預けて迎撃させた。ところが武田軍が進軍を開始すると、今川軍は戦うことなく退却し始め』てしまう。これは、『三河の喪失に続いて』遠州忩劇(えんしゅうそうげき:永禄七(一五六四)年に引馬城主飯尾連龍(いのおつらたつ)が今川に反乱を起こした混乱状態)『による遠江の混乱をみた今川家臣団は』、『氏真の力量に不安を抱いていたものと考えられ、信玄はそこにつけこんで今川氏の有力家臣である瀬名信輝、朝比奈政貞』、『葛山氏元』(かつらやまうじもと)『らを調略し、結果として』二十一『人もの武将が信玄に内通して裏切ったのであ』った(「薩埵峠の戦い」)。『このため、今川軍は戦わずして敗れ』、十二月十三日、『武田軍は駿府に入った。さらに駿府城の支城である愛宕山城や八幡城も武田軍に落とされたため、氏真は遠江掛川城の朝比奈泰朝』(やすとも)『を頼って落ち延びた。このとき、氏真の正室早川殿(北条氏康の娘)や侍女らは』、『輿も用意できずに徒歩で逃げざるをえないという切迫した状況であったと伝えられて』おり、『信玄は北条氏に対し』、『「越(上杉)と駿(今川)が示し合わせて武田氏を滅亡させようとしたことが明らかになったので今川氏を討つ」と説明していたが、娘が徒歩で逃げるという屈辱的な状況になったことに激怒した北条氏康は』、『武田氏との同盟破棄を決意した』のであった。『なお、氏政は武田信玄の娘である黄梅院を正室に(その間に儲けた北条氏直が後に当主となる)していたが、氏政は離縁して妻を武田家へ送り返したと伝えられている。しかし』、これは、ごく近年、一九七〇年代になって『初めて』、突如、出現した巷説に過ぎず、『歴史的な根拠はない(黄梅院は小田原城に留め置かれてそのまま死去した)とする説が出されている』。『北条氏政は氏真の援軍要請を受けて』十二月十二日に『駿河に援軍に向かったが、時遅く』、『伊豆三島に対陣するに留まった』とある。

「今川氏眞」(天文七(一五三八)年~慶長一九(一六一五)年)については、少々、個人的に彼の後半生に興味があるので、この敗走以降について当該ウィキから引く。五月蠅い方は飛ばされたい。「薩埵峠の戦い」で大量の家臣の裏切りによって、僅か一日後の十二月十三日に今川軍は潰走、『駿府も占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城・掛川城へ逃れた。早川殿のための乗り物も用意できず、また代々の判形も途中で紛失するという逃亡であった。しかし、遠江にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧され』た。十二月二十七日には『徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝を初めとした家臣らの抵抗で半年近くの籠城戦となった』。『早川殿の父・氏康は救援軍を差し向け、薩埵峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強めたため、家康は氏真との和睦を模索』した。永禄一二(一五六九)年五月十七日、『氏真は家臣の助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に氏真・家康・氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する』が、『この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真及びその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城を以て戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている』。『同年、今川家臣の堀江城主・大沢基胤が、徳川家康の攻撃に耐えきれず降伏しているが、その際に基胤は氏真に「奮戦してきたが、最早』、『耐えきれない。城を枕に討死しても良いが、それは誠の主家への奉公にはならないでしょう」』『と、氏真に降伏を許可して貰うための書状を送っている』。『氏真は今川家の逼迫した情勢を考慮して基胤の意見を受け入れ、「随意にして構わない、これまでの忠誠には感謝している」と、家康の軍門へ下ることを許可しており、また基胤のこれまでの働きを労っている』。『基胤は家康に降伏し、堀江城主としての地位は容認され、徳川家臣となった。これにより』、『家康との主従関係が逆転し、家康の徳川家による庇護下で江戸時代を生き残ることになる』。『掛川城の開城後、氏真は妻・早川殿の実家である北条氏を頼り、蒲原を経て伊豆戸倉城に入った』。後、『小田原に移り、早川に屋敷を与えられる』。永禄十二年五月二十三日、『氏真は北条氏政の嫡男・国王丸(後の氏直)を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で嫡男の範以』(のりもち)『はまだ生まれていない)。しかし、実際には縁組から程なく、今川氏の家督を国王丸に譲らされ、氏真の身分は「隠居」ということにされている』。『また、武田氏への共闘を目的に上杉謙信に使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は越相同盟)。駿河では岡部正綱が』、『一時』、『駿府を奪回し、花沢城の小原鎮実』(おはらしげざね)『が武田氏への抗戦を継続するなど』、『今川勢力の活動はなお残っており、氏真を後援する北条氏による出兵も行われた。抗争中の駿河に対して』、『氏真は多くの安堵状や感状を発給している。これらの書状の実効性を疑問視する見解もあるが、氏真が駿河に若干の直轄領を持ち、国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある』。『しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も順次武田氏の軍門に降るなどしたため』。元亀二(一五七一)年『頃には大勢が決し、氏真は駿河の支配を回復することはできなかった』同年十月に『氏康が没すると、後を継いだ氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦した(甲相一和)。従来の説ではこの年の』十二『月に氏真は相模を離れ、家康の庇護下に入ったとされていた』。『しかし、近年になって』翌元亀三年五月に『今川義元の』十三『回忌が氏真夫妻によって小田原郊外の久翁寺で行われていたことが判明し』、『家康の元に向かったのはそれ以降のことであったことが確定した』。『また、この法要の主催が氏真夫妻であることや』、『既に嫡男の範以が生まれていること、北条氏側でも氏政の正室である黄梅院が死去したために北条氏を継ぐ嫡男の確定が急がれたことから、氏真と(北条)氏直との縁組はこの時点で既に解消されて』、『氏真が当主に復帰していたとする指摘もある』。『いずれにしても、掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河統治の大義名分を得るものであった』。『長谷川正一は』、天正元(一五八〇)年八月に『武田信玄の死を知った奥平氏が徳川方に帰参した際に家康が同氏が武田氏から得た今川氏の旧臣の所領の扱いについて氏真に相談していたことを指摘し、信玄の死を知った氏真が駿河奪還の好機とみて家康を頼り、氏政も表向きはともかく』、『これを阻止する対応は取らなかったのではないか、とする仮説を提示している』。天正三(一五七五)年の一月、『(恐らく浜松から)吉田・岡崎などを経て上洛の旅に出、京都到着後は社寺を参詣したり』、『三条西実澄ら旧知の公家を訪問したりしている』。「信長公記」によると、三月十六日、『家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と京都の相国寺で会見した。信長は氏真に蹴鞠を所望し、同』『二十日に相国寺において公家達と共に信長に蹴鞠を披露している』。同年四月、『武田勝頼が三河長篠に侵入したことを聞くと(長篠の戦い)京都を出立して三河に戻り』、五月十五日から、『牛久保で後詰を務めている』。『氏真に仕えていた朝比奈泰勝は、家康の許に使者に訪れた際に設楽原での戦闘に参加し、内藤昌豊を討ち取り、家康の直臣になったという』。『長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち』、五『月末からは数日間』、『旧領駿河にも進入し、各地に放火している』。七『月中旬には諏訪原城(現在の静岡県島田市)攻撃に従った』。なお、同年七月十九日に『宗誾(そうぎん)と署名した文書を発給しており、この時までに剃髪していたことが分かる』。天正四(一五七六)年三月十七日、『家康は牧野城主に氏真を置き、松平家忠・松平康親に補佐させた』が、翌年三月には『氏真は浜松に召還され』、一年足らずで城主を解任された。この時、家臣『海老江弥三郎に暇を与えて』おり、『この文書が、今川家当主として氏真が発給した現存最後の文書となる。しかし、この書状について浜松に召還されたのは海老江の方とする解釈を取る研究者もおり、この考えでは氏真は牧野城主を解任されていない可能性もある。長谷川正一は、牧野城番に任じられた松平家忠が氏真が挨拶を受けたとする』「家忠日記」天正七年十月八日条の記事があり、その後も少なくとも天正九年六月までは『家忠と「氏真衆」と表記された氏真家臣との交流が見られることから』、『氏真はこの時期までは牧野城主の地位にあり、普段は浜松で家康に近侍して、必要に応じて牧野城に通っていた可能性を指摘している』『長谷川はある時期(恐らく相遠同盟成立ごろ)まで、氏真が浜松で徳川氏の外交にも関与していたとしている』。『牧野城主解任後の動向は不明であるが』、天正一一(一五八三:以下、グレゴリオ暦)年七月、『近衛前久』(さきひさ)『が浜松を訪れ、家康が饗応した際には、氏真も陪席している』が、『この後』、暫く、消息は不明となる。天正一九(一五九一)年九月、山科言経』(ときつね)の日記「言経卿記」に『氏真は姿を現す。この頃までには京都に移り住んだと推測され』、『仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真は、言経初め冷泉為満・冷泉為将ら旧知・姻戚の公家などの文化人と往来し、冷泉家の月例和歌会や連歌の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていたことが記されている』同日記の文禄四(一五九五)年の条には『言経が氏真と共に石川家成を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかの繋がりがあることが推測される』。『京都在住時代の氏真は、豊臣秀吉あるいは家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたと推測されて』おり、後の慶長一七(一六一二)年には、『家康から近江国野洲郡長島村(現在の滋賀県野洲市長島)の「旧地」』五百『石を安堵されているが』、『この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない』。慶長三(一五九八)年には氏真の次男『品川高久が徳川秀忠に出仕している』慶長一二(一六〇七)年には『長男範以が京都で没する。慶長』十六年には、『範以の遺児・範英(直房)が徳川秀忠に出仕した』。「言経卿記」の『氏真記事は、慶長』一七(一六一二)年『正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる』。同年四月、『氏真は、郷里の駿府で大御所家康と面会している』。「寛政重修諸家譜」によれば、『氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時であり、また』、『家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。氏真はそのまま子や孫のいる江戸に移住したものと思われ、慶長』十八『年』、『長年』、『連れ添った早川殿と死別』、翌慶長一九(一六一五)年十二月二十八日、『江戸で死去。享年』七十七であった。

「掟《おきて》」「新日本古典文学大系」版脚注に『戦後処理の法令、法度』とある。

「疱瘡(とうさう)」元禄版のルビを採った。天然痘。オルトポックスウイルス属天然痘ウイルス(Poxvirus variolae )により引き起こされる強感染性疾患。死亡率は最大三十%。天然痘の症例は世界的なワクチン接種により一九七七年以来発生していない。一九八〇年の世界保健機関(WHO)の定期ワクチン接種の中止推奨により根絶宣言を出した(但し、テロリストが既存の貯蔵天然痘ウイルスを入手することによる再発の危険性はある)。免疫は経時的に低下するため、現在ではほぼ全人類に天然痘に感受性があると言ってよい。感染は直接接触及び飛沫感染による。汚染された衣服・寝具も感染源となり得る。発疹が出現後、最初の七~十日間に感染力は最大となる。皮膚病変部に瘡蓋が形成される頃には低下する。ウイルスは口腔咽頭又は気道粘膜に侵入、該当部位のリンパ節で増殖する。潜伏期間は七~十七日の範囲で、その後、発熱・頭痛・背部痛及び激しい倦怠感を伴う前駆症状が二~三日続く。前駆症状に続いて斑点状丘疹が口腔咽頭粘膜・顔面・腕を中心に発現、速やかに体幹および脚部に拡大、その一~二日後、皮膚病変が小水疱になり、次いで膿疱となる。膿疱は体幹よりも顔面及び四肢に密集する。膿疱は丸く、よく膨れ、外見上、上皮組織に深く埋没して見える。死亡率はこの二週目前後にショックと多臓器不全を引き起こす激しい炎症反応により最も高まる。その状態が八~九日間続いた後、膿疱は瘡蓋を形成して終息するが、重度の瘢痕が残る。以上を「大痘瘡」と称し、それに類似しているがはるかに軽度な症状の「小痘瘡」は発疹の範囲も狭く、死亡率は一%未満である(以上は「メルクマニュアル 日本語版」の「天然痘」を私が要約したものである。眼球へのウィルス侵入や高熱によって失明するケースが有意にあり、ウィキの「天然痘」によれば、幼少期に右目を失明した伊達政宗も、天然痘によるものであったし、十六世紀、キリスト教布教のために来日したカトリック教会イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、ヨーロッパに比して日本では全盲者が多いことを指摘しているが、後天的な失明者の大部分は、天然痘によるものだったと考えられているとある。

「藥草喩品(やくさうゆほん)」「法華経」の第五品。草木の生い繁るさまを仏の教えの喩えとして用い、仏の慈悲や済度のさまを説いた章。

「觀音普門品《くわんのんふもんぼん》」の第二十五品の「觀世音菩薩普門品」の別称。観世音菩薩の名を受持することの功徳や、この菩薩が三十三もの身に変じて衆生を救うことを説いたもの。「観音経」も同じ。

「三浦右衞門」三浦真明(さねあき ?~永禄一一(一五六八)年)は今川氏家臣。大原資良(すけよし:但し、小原鎮実(しげざね)と同一人物)の子で駿河三浦氏の傍流の一つに養子に入ったものとみられる。通称、右衛門大夫。当該ウィキによれば、『軍記物などでは、「義鎮(右衛門佐)」の名で登場するが、後になって実名入りの発給文書が発見され』、『一旦は実名は「直明」とされた(「石田文書」)。しかし、その後「真明」の誤写・誤読とする意見が出され、現在では真明が実名であったと考えられている(「真」は今川氏真からの偏諱とみられている)』(「新日本古典文学大系」版脚注では『三浦右衛門佐義鎮』となっており、出自を『上方浪人の子』とする)。「桶狭間の戦い」『以降、今川氏真の側近として急速に台頭する。初期には父である大原資良(三河国吉田城城将)と共に松平元康(徳川家康)ら三河における反今川の動きに対する対応を行っていた』。永禄五(一五六二)年に、『今川氏真が三河に出陣した際には』『参戦している。その後も氏真側近として訴訟の披露などを行っている』。永禄一一(一五六九)年の『信玄の駿河侵攻に際しては、父と共に駿河国花沢城にて抵抗していたが、遠江国高天神城に逃れた後に徳川家康と内応した小笠原氏助に父と共に殺された』(軍記物「松平記」)『と伝えられ』。「甲陽軍鑑」も『今川氏から離反しようとしたために高天神城』(たかてんじんじょう)『にて殺害されたと伝えられている。父の大原資良に関してはその後も存命したとする説もあるが、真明の死亡した場所(高天神城)が諸書で一致し、かつ妻の死も同日に死去したと伝えられていることから、真明が妻と共に殺害されたのは事実とみられる。なお、小笠原氏助は後に龍巣院(静岡県袋井市)へ真明夫妻のために寄進を行っているため、氏助がその死に関わっていた可能性も高い』。以上のような『軍記物では、今川氏真を誑かして多くの重臣を讒言して、その結果として武田・徳川の侵攻の際』、『多くの重臣が今川氏を裏切ったと伝えられているが事実関係は不明である。ただし、大原資良が他国出身でありながら』、『今川氏に重用された経緯があり、次の世代にあたる真明は筆頭重臣格の三浦氏の傍流を継いで、今川氏の重臣と同様の役割を担ったことが今川家中において反発された可能性はある』。「小田原北条記」巻六「三浦右衛門佐」では、『百姓に対し、重い労役を課し、家財まで売却させたため、反感と恨みを買い、花沢落城の際、単騎で三河国に逃げ延びた際、(元の領民から)身元が分かった上で落ち武者扱いされ、落ち武者狩りを受け、馬から引き落とされ、甲冑身ぐるみを剥がされた末、裸にされて追っ払われた。さらに高天神(現小笠郡大東町)に着き、小笠原与八郎に縛り上げられた際は、切り手の足助長久郎が近づいて、助願のためには、耳鼻は削がれてもよいかとたずねられ、「耳鼻は削がれても良いから助けてほしい」と命乞いをするも、それを聞いた小笠原は』「その心ゆえ、恥を忘れて、ここまで来たのだ。」と言い返し、即座に『斬首された』とある。この哀れな少女のために、溜飲が下がる。

「非分(ひぶん)」理に合わないこと。道理に外れること。不当であること。

「靑砥左衞門」鎌倉時代の北条時頼の家臣とされる架空の理想的武士青砥藤綱。私の「耳嚢 巻之四 靑砥左衞門加増を斷りし事」や、「北條九代記 卷之八 相摸の守時賴入道政務 付 靑砥左衞門廉直」など参照されたい。

「是を公義に召し取らば」現実的に考えれば、少女の帯の二両は両親のお守り代り、自宅で見つけた十両は拾得物であるから、本来は、お上に届け出ねばならないことを前提として、

「我が身すがらになり」「すがら」は接尾語で「そのものだけで、ほかに付属しているものがない」という意を表わす。

 

 本篇も前篇同様、最終的に教訓説教の体を成すが、話柄としては、しんみりとする話である。それは、盲目の少女の描写と、孀の女性の行動が、作り物に見えず(特に前者)、非常なリアリズムを以って訴えかけてくるからである。]

2021/12/29

伽婢子卷之十二 邪淫の罪立身せず

 

   ○邪淫の罪立身せず

 

 白石掃部正(しろいしかもんのかみ)は、鎌倉の上杉家に仕へて、足輕大將なり。その子、右衞門尉は年、巳に廿三、父にしたがひて、同じく奉公を勤めんとす。

 よりより[やぶちゃん注:「折々」に同じ。]、言上して、巳に目見えせん事を定めらる。

 その借りたる家に、娘あり。年十七、八、みめ、甚だうるはしかりければ、右衞門尉、心を掛て、さまざまつくろへども、家のあるじ、みだりなる事をば、きびしくきらひて、夜(よる)とても、物音、少し聞ゆれば、咎め、あやしみて、用心せしかば、遂に、逢ふ事、叶はず。

 右衞門尉、たゞ此女にまどひて、奉公の心ざし、傍(かたはら)になり、とかく透間(すきま)を窺ひし處に、

「明日は、上杉家の御目見え。」

とて、親も、嬉しく、取まかなふ。

 其夜しも、家のあるじ、

「一族の中に急用あり。」

とて、出行つゝ、夜ひとよ、歸らず。

 右衞門尉、

『よきひまぞ。』

と思ひ、ひそかに娘の部屋にしのびて、心ざしを遂げ、喜びに餘りけり。

 

Siroisiuemonnnojyou

 

[やぶちゃん注:底本のものをトリミング補正して用いた。「新日本古典文学大系」版脚注に、『中央、直垂(本文では狩衣)、折烏帽子を着けた俸禄の折紙を持参した男。右に立烏帽子、素襖、長袴姿の』、当該の折紙を『取り上げようとする男』とある。]

 

 かくて、我が臥戶(ふしど)に歸り、まどろみければ、靑き狩衣(ぎぬ)に、烏帽子(ゑぼうし)着たる男一人、走り來りて、一紙(《いつ》し)の折紙(をりかみ)を捧げ、

「明日、必ず、一千石の奉祿にあづかるべし。」

と云所に、赤き裝束に、立烏帽子(《たて》ゑぼし)着たる男一人、跡より、走り來り、大に怒りたる氣色にて、彼の折紙を奮(うば)ひ取り、

「右衞門尉は、まさなきよこしまの私事《わたくしごと》せし故に、天帝、大に怒り給ひ、奉祿の符を取り返し給ふなり。」

とて、夢は覺めたり。

 次の日、右衞門尉父子、うるはしく出立(《いで》だち)、遠侍(とをさふらひ)に伺公(しこう)せし所に、管領(くわんれい)、立ち出たまへば、なにとかしたりけむ、右衞門尉、深く眠りて、前後も覺えず、管領の出給ふをも、知らず。

「かゝる不覺人(ふかく《にん》)は、物の用に立べからず。」

と、諸人、かたぶきいひしかば、終に召抱へられず。

 父掃部は、是を恨みて、暇(いとま)乞ふて、發心しけり。

 右衞門尉は、一期(《いち》ご)の内(うち)、身上《しんしやう》片付(かたつ)かで、流浪・遂電の者と、なりぬ。

 されば、人の身上、かたつくべきが、片付かざるは、更に世を恨み、人を、かこつべからず。只、我身に省みて、我れすまじき事をすれば、天道、憎みて、官位・奉祿、皆、心に叶はず、といふ。

[やぶちゃん注:「白石掃部正(しろいしかもんのかみ)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注に「掃部正」は『掃部寮)』(掃部寮は本来は律令制で宮中の掃除・儀場の設営などを司った役所。無論、ここでは肩書に過ぎぬ)『のかみ(頭)は従五位下に相当』とある。

「鎌倉の上杉家」南北朝から室町時代を通じて「鎌倉公方」(所謂「関東八ヶ国」に甲斐国・伊豆国を合わせた十ヶ国を統治した鎌倉に置かれた「鎌倉府」の長官)の補佐役を「関東管領」と呼び、貞治二年/正平一八(一三六三)年に上杉憲顕が任ぜられて以降、上杉氏が世襲した。上杉氏は犬懸(いぬかけ)上杉氏・山内(やまのうち)上杉氏・扇谷(おおぎがやつ)上杉氏・詫間(たくま)上杉氏の四家があり(総て鎌倉の地名・谷戸名)、当初は犬懸上杉氏・山内上杉氏が、後に山内上杉氏が任ぜられた。但し、当初は「関東執事」と呼ばれていた。鎌倉公方の下部組織でありながら、任命権などは室町幕府将軍にあったため、ほどなく室町将軍と鎌倉公方の対立が起こり、さらに幕府側の意を汲んだ関東管領と鎌倉公方との内部抗争へと発展し、それに上杉氏内部での権力抗争も激化、関東はだらだらと騒乱状態が続くこととなった。本篇は、肝心の関東管領の名が出てこないので、年代を限定出来ないが、一番命脈を保った山内上杉氏辺りを措定すると、上限は初代関東管領が上杉憲顕(のりあき 徳治元(一三〇六)年~正平二三/応安元(一三六八)年)で、下限は天文一五(一五四六)年に山内憲政・扇谷朝定(ともさだ)が北条氏康と武蔵河越で戦って敗れ、憲政は越後に敗走して長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り、永禄元(一五五八)年に管領職と上杉の姓を景虎に譲った結果、嫡流が絶えた時までとなる。本書の他の編の時制設定からみると、後者の時制限度に比較的近い近過去の時期ととってよいように思われる。ともかくも、記載から、ロケーションは鎌倉と限定出来、もしこれが以上の山内上杉氏の家臣であるとすれば、山内上杉氏の屋敷跡は、現在の北鎌倉の明月院の入口附近の東方に比定されているから、その周辺ということになろうかと思われる。

「傍(かたはら)になり」等閑(なおざり)となって。

「折紙(をりかみ)」元禄版の清音の読みをとった。本語は「をりがみ」とも読まれるが、本来は清音である。奉書紙(楮(こうぞ:クワ科コウゾ属コウゾ雑種コウゾ Broussonetia kazinoki × Broussonetia papyrifera 。ヒメコウゾ(学名前者)とカジノキ(同後者)の雑種)を原料とする和紙。しわがなく純白で上質。色奉書・紋奉書などの変種もある。越前奉書が有名。・鳥の子紙(雁皮 (がんぴ:バラ亜綱フトモモ目ジンチョウゲ科ガンピ属ガンピ Diplomorpha sikokiana ) を主原料とした上質の和紙。鶏卵の色に似た淡黄色で、強く耐久性があり、墨の映りもよい。福井県・兵庫県産のものが知られ、「越前鳥の子」「播磨紙 (はりまがみ)」 とも呼ばれる)・檀紙 (だんし:楮を原料とし、縮緬(ちりめん)状の皺を作った上質の和紙。平安時代には陸奥から良質のものが産出されたので陸奥紙(みちのくがみ)ともいった。さらに古くは、檀(まゆみ:ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus sieboldianus var. sieboldianus )を原料としたので、「真弓 (まゆみ) 紙」とも書いた) などを横に二つに折ったもの。古くより公式文書・進物用目録・鑑定書などに用いる。

「私事《わたくしごと》」ここは不正な密通・私通を指す。

「遠侍(とをさふらひ)」武家の屋敷で、主殿から離れたところに設けられた警護の武士の詰所。「内侍(うちさぶらい)」の対語。

「かたぶきいひしかば」「かたぶく」(傾く)は「非難する」の意。

「かこつ」「託つ」「心が満たされないので不平を言う・愚痴をこぼす・嘆く」或いは「他の事や他人のせいにする」の意。ここは後者。

「我れすまじき事」自分でも、内心、悪いことと認識していること。しかし、この話、教訓説教染みた終わり方で本書では珍しく全体に平凡で面白くない。されば、脱線的にマニアックな注を施すことで溜飲を下げた。]

伽婢子卷之十二 厚狹應報

 

[やぶちゃん注:同じく挿絵は底本からトリミング補正した。]

 

Atusadanjyou

 

   ○厚狹應報(あつさようはう)

 

 陶(すゑ)尾張守晴賢は、大内義隆の家老として、不義をくはだて、主君義隆を追出し、みづから山口の城に居て、分國を押領す。其の威、やうやう强くして、大軍、靡き從ひ、今は、

『世の中、恐るゝに足らず。』

とぞ思ひける。

 周防長門の諸將・諸侍等(《しよ》しら)、弓をふせ、かぶとをぬぎて、從ひつく事、いふばかりなし。

 中に、周防の國には吉城(よしき)・大嶋、長門の國には美禰(みね)・見嶋の諸侍等、はじめは從はざりけるを、

「今は、時世にまかするぞ、よき。忠義ありとても、誰か身を安くしたる。無用の忠義に身をせばめられむより、只、降參せよ。」

とて、皆、その陶に降參す。

 その中に、長門の國の住人厚狹彈正(あつさのだんじやう)なにがしといふ者は、そのかみ、義隆に恩をかうぶれり。一旦は降參すといへ共、

「是は、當屋形(やしき)をうかがふ謀(はかりこと)なるべし。」

と讒する者あり。

 陶、

『げにも。』

と、おもひ、厚狹をからめとりて、鏁(くさり)をもつて柱に縛りつけ、四方に炭火を起し、火あぶりにす。

 陶、いでて、これを見る。

 厚狹、甚だ苦しみ、大きに聲をあげ、

「我、すでに降參す、何の罪によつて、かく、からきめ見する。死してのちも、物知る事あらば、此報(むくい)、なからめや。」

とて、燒け爛れて、死す。

 陶、うちわらひ、

 火責(ひぜめ)の厚狹(あつさ)さてこりよ

といふ秀句して、その尸(かばね)を野に棄てたり。

 半年ばかりの後、常に陶が座の右に、厚狹、來りて、見ゆ。

 陶、大きに、にくみ、きらひしが、安藝の國宮嶋の軍(いくさ)に、毛利家の爲に、打ち破られたり。その時、

「厚狹、申胃を帶し、鹿毛(かげ)の馬にのり、まつさきに進み、陶を、馬より突き落とせし。」

と、近き軍兵(ぐんびやう)共は、まのあたり、見たり。

 これより、陶、終に、合戰に利なくして、敗漬(はいせき)したりとかや。

[やぶちゃん注:「陶(すゑ)尾張守晴賢」陶晴賢(すえのはるかた 大永元(一五二一)年~天文二四(一五五五)年)は大内義隆に重臣として仕えたが、後に義隆を討ち、大友宗麟の弟晴英を迎えて大内家の後嗣とした。彼は天文二十四年九月二十一日(一五五五年十月六日)、晴賢は自ら二万から三万の大軍を率いて、安芸厳島に侵攻し、反旗を翻した毛利方の宮尾城を攻略しようとした。しかし、毛利軍の奇襲攻撃によって、本陣を襲撃されて敗れてしまう。毛利氏に味方する村上水軍によって、大内水軍が敗れ、退路も断たれてしまい、逃走途中の十月一日、自害した。享年三十五歳。辞世は「何を惜しみ何を恨みん元よりもこの有樣に定まれる身に」であった。詳しくは当該ウィキを読まれたい。

「大内義隆」(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)戦国時代の武将。大内義興の長男。周防・長門・安芸・石見・筑前・豊前の守護。大友氏・少弐(しょうに)氏と戦い、九州北部を掌握した。一方で文学・芸能を好み、明・朝鮮とも交易し、また、ザビエルに布教の許可を与えている。天文二十年、陶晴賢の謀反に遭い、九月一日、長門大寧寺で自刃した。享年四十五歳。詳しくは当該ウィキを読まれたい。

「周防の國」「吉城(よしき)・大嶋」「吉城」は現在の山口県の旧吉敷郡。郡域は当該ウィキを参照。「大嶋」は古代より瀬戸内海の海上交通の要衝として栄えた、同県の屋代島(やしろじま)を中心とした島嶼部。

「長門の國」「美禰(みね)・見嶋」「美禰」は山口県中央部にある旧美祢郡、現在の美祢市付近。郡域は当該ウィキを参照。「見嶋」は山口県萩市に属する島で、山口県最北端に位置しており、萩市沖北北西約四十五キロメートルの日本海海上にある。面積は七・七三平方キロメートルで、現在の人口は六百九十七名。古くから大陸との交易で栄え、約一千年の歴史があり、先祖には倭寇の出身者もいる。近世には一島一郡の見島郡を称し、「島酋」と称する山田氏が島を管掌し、長州藩政下でも特異な地であった。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「厚狹彈正(あつさのだんじやう)なにがし」不詳。但し、山口県には嘗て厚狭(あさ)郡(現在の宇部市・山陽小野田市一帯)があったので(現在の山陽小野田市の地名で厚狭が残る。詳しくはウィキの「厚狭」を参照)この土地の出身者という設定であろうが、当初から、後の狂句のむごい洒落に使うために、かく名づけたものと思われる。

「物知る事あらば」「新日本古典文学大系」版脚注に、『もし物ごとを知覚し判断する能力を備えていた』なら、とある。

「鹿毛(かげ)の馬」馬の毛色の一つで、鹿の毛色に似た毛色。特に鬣(たてがみ)・尾・脚の下部が黒いものを言う。

「敗漬(はいせき)」「新日本古典文学大系」版脚注に『敗績の誤刻。戦さに大敗すること』とある。「績」には「手柄・功(いさお)」の意がある。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 極光 / 詩集「蝶を夢む」~了

 

   極光

 

懺悔者の背後には美麗な極光がある。

 

 

 

蝶を夢む

 

[やぶちゃん注:詩集「蝶を夢む」の最終詩篇と、本文最終ページの柱。左ページに奥附。本詩集は新潮社の「現代詩人叢書」の第十四編で書籍本体への思い入れが私にはないので、以上のリンクで示すに留めた。

 「極光」の初出は大正四(一九一五)年二月号『詩歌』であるが、十行からなる長めの散文詩「懺悔者の姿」の三行の一部のみを抜き出して改題したアクロバットものの新作というべきものである。ブログの古い電子化を、最近、必要上(「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 懺悔者の姿」の注を附すため)、補正した「懺悔者の姿 萩原朔太郎 (正規表現版・「極光」原形)」があるので、そちらを見られたい。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 Omega の瞳

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 Omega の瞳

   Omega の瞳

 

死んでみたまへ、屍蠟の光る指先から、お前の靈がよろよろとして昇發する。その時お前は、ほんたうにおめがの靑白い瞳(め)を見ることができる。それがお前の、ほんたうの人格であつた。

 

ひとが猫のやうに見える。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。初出は大正四(一九一五)年四月発行の『卓上噴水』であるが、無題で、第二連は存在しない。以下に示す。誤字や歴史的仮名遣の誤りは総てママ。

   *

 

 

 

幼兒は眞實であり神は純一至高の感傷である。

死んでみたまへ、屍臘の光る指先からお前の至純な靈が發散する、其時お前にほんとうに OMEGA.  の瞳の靑白い感傷のひとみを見ることができる其れは汝の人格であつた。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 柳

 

   

 

放火、殺人、竊盜、夜行、姦淫、およびあらゆる兇行をして柳の樹下に行はしめよ。夜において光る柳の樹下に。

そもそも柳が電氣の良導體なることを、最初に發見せるもの先祖の中にあり。

 

手に兇器をもつて人畜の内臟を電裂せんとする兇賊がある。

かざされたるところの兇器は、その生(なま)あたたかき心臟の上におかれ、生ぐさき夜の呼吸において點火發光するところのぴすとるである。

しかしてみよ、この黑衣の曲者(くせもの)も、白夜柳の木の下に凝立する由所である。

 

[やぶちゃん注:「由所」はママ。筑摩版全集校訂本文では『所以』に強制消毒されてある。「白夜柳」は恐らく「びやくややなぎ」であろうが、特定の種名ではなく、「黑衣の曲者」に応じて幻想された造語と思われる。初出は大正四(一九一五)年二月号『詩歌』。標題は「柳に就て」。以下に示す。太字は底本(筑摩版全集)では傍点「ヽ」である。

   *

 

 柳に就て

 

放火、殺人、竊盜、夜行、姦淫、及びあらゆる兇行をして柳の樹下に行はしめよ。夜に於て、光る柳の樹下に行はしめよ。

かかる塲合に於ける、すべての兇行は必ず靈性を生ず。

そもそも、柳が動物電氣の良電體なることを、世界に於て最初に發見せるもの我々の先祖にあり。

しかも極めて不徹底に無自覺に、あまつさへ、傳說的に表現せられしところに新人の增補がある。

 

手に兇器を所持して人畜の内臟を電裂せんとする兇賊がある。

彼はその愛人の額に光る鑛石を射擊せんとして震慄し、かつ疾患するところの手を所有する。

かざされたるところの兇器は、その生あたたかき心臟の上におかれ、生ぐさき夜の靈智の呼吸に於て、點火發光するところのぴすとるである。而して見よ、この黑衣の曲者も、白夜柳の木の下に停立凝視する由所である。

 

なお、筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」に草稿がある。以下に示す。誤字・脱字及び誤字と思しいもの、歴史的仮名遣の誤りは、総てママである。三行目の数字群は朔太郎が打ったもの。「震りつ」は「震慄」に同じ。

   *

 

  

 

いまいたむべし夜に於て光る柳の葉は薄き金屬の碎片である、光る柳の木は 霜月動物心理の靈性冬幹樹心あらゆる樹木の中最も靈性を有するところの感電白金體である

およそあらゆる樹木のうち生物の微動物電氣の知感に於て鋭感すること枯霜霜かれ月の柳の如きものはない、

5兇行放火、4姦淫、3夜行、2竊盜、1殺人、云々

されば

みよ彼はつねに柳の木の下にひそみかくる、

彼は手に兇器を所持して、人類の畜の内臟を電裂せんとするところの兇賊であるがある、

彼の眼は闇夜の空に飛鳥を射殺するところの兇器である

彼の手はその愛人の額に光る礦石を射擊せんとして震りつしその兇器はかつ發光するところの手である、を所有す、

而してみよその兇器は生あたゝき心臟のうヘにおかれ

生ぐさき夜の靈智の呼吸を

墓場より掘屈せられたるところの生膽である、

さて兇器は生れたる胎兒の述走神經である、

みよその兇器は生あたゝき心臟の上におかれ生ぐさき夜の靈智の呼吸に於て點火發光するピストルである、

而してみよこの白金の黑衣の曲者も白夜、柳の下に停立する由所である、

 

殺人、强姦、詐僞、竊盜、夜行、あらゆる兇行の行はるゝところに

必ず柳をうえしめよ

あらゆる兇行はその塲合必ず靈性を生ず

かくの如きものは具體的說明は最も進步せる 學と科學哲理と科學との說明にまつ外なし、

詩人はこれを直覺すれば足れり、

他物を凝視するとこせよとの謂は自我の心靈を凝視せよの謂なり、人若し自我心靈の發光を感知するとき外物悉く我に傾斜し光輪を有するに至るべし、

ありがたや魚にも

心外無物心内有物(オイケン)

ありがたや魚にも後光(白秋)

 

・「自我心靈の」「感知するとき」は筑摩版全集初版では「自我が心靈の」「感知するごとき」となっているが、後の差し込みでかく訂正している。

・「オイケン」ドイツの哲学者でノーベル文学賞受賞者(一九〇八年受賞)であるルドルフ・クリストフ・オイケン(Rudolf Christoph Eucken 一八四六年~一九二六年)。体系的哲学者ではなかったが、生の哲学及び理想主義の立場から多くの著作をものし、日本を含め、国外にも多くの影響を与えた。但し、彼の息子でネオ・リベラリズムの代表者である経済学者ウォルター・オイケン(Walter Eucken  一八九一年~一九五〇年)の方が現行では知名度が高い。さて、この「心外無物心内有物」(「心の外には、物、無し。心の内にのみ、物、有り。」か)であるが、私は父オイケンの著作を読んだことがないので、なんとも言えぬが、これは、彼の示した思想というより、仏教の「心外無別法」(しんげむべっぽう)のことで、「認識していると信じている一切の現象世界は、総てが各自の心識から出たものに過ぎず、別にその物対象が存在するのではないということ」を指しているものと思う。

・「ありがたや魚にも後光(白秋)」不詳。朔太郎の盟友北原白秋の詩歌の一節にでもあるものか? 私は知らない。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 散文詩(パート標題)・添え書き・「吠える犬」

 

    散 文 詩 四 篇

 

[やぶちゃん注:パート標題。その裏に以下の添え書き。]

 

 

   「月に吠える」前派の作品

 

 

   吠 え る 犬

 

月夜の晚に、犬が墓地をうろついてゐる。

この遠い、地球の中心に向つて吠えるところの犬だ。

犬は透視すべからざる地下に於て、深くかくされたるところの金庫を感知することにより。

金庫には翡翠および夜光石をもつて充たされたることを感應せることにより。

吠えるところの犬は、その心靈に於てあきらかに白熱され、その心臟からは螢光線の放射のごときものを透影する。

この靑白い犬は、前足をもつて堅い地面を掘らんとして焦心する。

遠い、遠い、地下の世界において微動するものを感應することにより。

吠えるところの犬は哀傷し、狂號し、その明らかに直視するものを掘らんとして、かなしい月夜の墓地に焦心する。

 

吠えるところの犬はである。

なんぢ、忠實なる、敏感なる、しかれどもまつたく孤獨なる犬よ。

汝が吠えることにより、病兒をもつた隣人のために銃をもつて擊たれるまで。

吠えるところの犬は、靑白き月夜においてのである。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。初出は大正四(一九一五)年二月号『詩歌』。以下に示す。誤字或いは誤植と思われるものは総てママである。

   *

 

 吠える犬

 

月夜の晚に、犬が墓地を墓標をめぐつて居る。

この遠い地球の核心に向つて吠えるところの犬だ。

犬は透視すべからざる地下に於て深くかくされたるところの金庫を感知することにより、金庫には斐翠及び夜光石を以て充たされたることを感能せることにより。

吠えるところの犬は、その心靈に於て明らかに白熱され、その心臟に於て螢光線の放射の如きものを肉身に透影する。

この靑白い犬は前足を以て固き地面を堀らんとして焦心する。遠い、遠い地下の世界に於て微動せるところのものを感得することにより。

吠えるところの犬は哀傷し、疾患し、しかもその明らかに直視するところのものを堀らんとして月夜の墓地に焦心する。

 

吠えるところの言葉は『詩』である。

汝、忠實なる、敏感なる、然れども全く孤獨なる犬よ。汝が吠えることにより、洞察なき隣人のために銃をもつて擊たるるまで、名字が餓死するに及ぶまで、汝が『謎』を語ることを止めざる最後にまで。

吠えるところの犬は、靑白き月夜に於ての『詩人』である。

 

   *

初出では最後の第二連が本篇の核心である象徴の謎の解き明かしのようになっていて、面白くない。決定稿の方が遙かに詩となっている。しかし、この詩篇こそが、近代詩に突如出現した「月に吠える犬」であり、そうした意味で本邦の近代詩史に於ける重大な「疾患」のメルクマールなのである。本篇には、草稿が二種あり、その一つが筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」に載る。標題は「犬」である。以下に示す。歴史的仮名遣の誤りや誤字・衍字と思しいものはママ。

   *

 

  

月夜の晚の

犬が*柳の木を//墓場の墓標を*めぐつて居る

[やぶちゃん注:「*」「//」は私が附したもので、「柳の木を」と「墓場の墓標を」が並置残存していることを示す。]

この犬の心靈は柳の葉にふれて

この遠い地球の核心に向つて吠えるところの犬だ

犬の心靈はあきらかに飢えかがやいて居る。 そは 犬の心靈は靑く犬の述走神經はあるたしかな

彼は透徹すべからざる地下に於て深く匿かれたるところの主人の金銀貴金屬の金庫がある、祕密のを感知することにより、

而て金庫には斐翠及び夜光石を以てみたされてゐる

彼は吠えるところの犬はその心靈に於てあきらかに白熱され

その心臟に於て螢光線の放射の如きものを肉身に透影する、

この靑白き犬に於ては前足に於て固き地を掘らんとして居るして焦心する、

遠い遠い地下の世界に於ては何人も知らないところの靈がくされたる微動するところのものを明確に感知したるものは地上に於て一疋の蓄生である、ところの犬である、

犬は感傷し犬は疾患し而してその知る直視するところのものを掘らんとして月夜の晚に焦心する、

うゑたる犬は吠える、

 

  *

最後に編者注があり、『本稿の冒頭欄外に「龜について、」とある。』とある。詩集「月に吠える」に載せた「龜」を想起し、そのイメージとの関連性を自身のメモランダとしたものか。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 榛名富士

 

   榛 名 富 士

 

その絕頂(いたゞき)を光らしめ

とがれる松を光らしめ

峰に粉雪けぶる日も

松に花鳥をつけしめよ

ふるさとの山遠遠(とほどほ)に

くろずむごとく凍る日に

天景をさへぬきんでて

利根川の上(へ)に光らしめ

祈るがごとく光らしめ。

               ――鄕土風物詩――

 

[やぶちゃん注:初出は大正四(一九一五)年一月号『水甕』。以下に示す。「くろづむ」はママ。

   *

 

   榛名富士

      ――鄕土風物詩――

 

その絕頂(いたゞき)を光らしめ、

とがれる松を光らしめ、

峯に粉雪けぶる日も

松に花鳥をつけしめよ

ふるさとの山、遠遠(とほどほ)に、

くろづむごとく凍る日に、

天景をさへぬきん出て、

利根川の上(へ)に光らしめ、

いのるがごとく光らしめ。

          ――十一月作――

 

   *

本篇には草稿がある。以下に示す。行頭の数字は朔太郎自身が打ったもの。誤字はママ。

   *

 

  榛名富士

   (上野三岳ノ一、形樣富士山ニ似タルヲ

    以テコノ名アリ、)

 

1その絕頂を光らしめ

2とがれる松を光らしめ

3おも峯に粉ゆきふるときも→けぶる日も→ふれる日もけぶる日も

4松に花鳥をつけしめよ

利根 さ靑に利根をはしらせて

けぶるがごとく凍る日に

遠山脈の 消ゆる日に 凍る日に

5ふるさとかみつけの山遠々に

6くろづむごとく凍る日に

7天景をさへぬきんでゝ

8利根川のへに光らしめ

9いのるが如く光らしめ、

     ――滯鄕 詩扁 哀語――
     ――鄕土詩扁――
     ――鄕土景物詩――
     ――一九一四、一一、一五――

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 綠蔭俱樂部

 

   綠蔭俱樂部

 

都のみどりば瞳(ひとみ)にいたく

綠蔭俱樂部の行樂は

ちまたに銀をはしらしむ

五月はじめの朝まだき

街樹の下に並びたる

わがともがらの一列は

はまきたばこの魔醉より

襟脚きよき娘らをいだきしむ。

綠蔭俱樂部の行樂の

その背廣はいちやうにうす靑く

みよや都のひとびとは

手に手に白き皿を捧げもち

しづしづとはや遠近(をちこち)を行きかへり

綠蔭俱樂部の會長の

遠き畫廊を渡り行くとき。

 

[やぶちゃん注:「綠蔭俱樂部」なる怪しげにして在雑なものの実態は不詳。初出は大正三(一九一四)年六月号『詩歌』。以下に示す。二行目の誤植はママ。

   *

 

 綠蔭俱樂部

 

都のみどりば瞳(ひとみ)にいたく、

綠蔭俱榮部の行樂は、

ちまたに銀をはしらしむ、

五月上旬(はじめ)のあさまだき、

街樹の下に並びたる、

わがともがらの一列は、

はまきたばこの魔醉より、

襟脚きよき娘らをいだきしむ、

みないつしんにいだきしむ。

綠蔭俱樂部の行樂の、

その背廣はいちやうにうす靑く、

みよや都のひとびとは、

手に手に白き皿を捧げもち、

しづしづとはや遠近(をちこち)を行きかへり、

綠蔭俱樂部の會長の、

遠き𤲿廊を渡り行くとき。

 

   *

本篇のクライマックスの「襟脚きよき娘らをいだきしむ、」の後に強調の「みないつしんにいだきしむ。」の一行が挟まれてあり、これが反転のバネとなって上手く働いて、詩想のクレッシェンドが静かにデクレッシェンドへと転じており、私はこの初出形の方がよいと感じている。

 なお、筑摩版全集の『草稿詩篇 蝶を夢む』の最後には、『綠蔭俱樂部(本篇原稿一種一枚』としつつも、掲げずに、『末尾に「(大正三年五月一日)」と附記されている』とのみ記す。但し、同全集の『一九一三、九 習作集第九卷』には、以下の草稿が載る。

   *

 

 綠蔭俱樂部

都のみどりば瞳(ひとみ)にいたく

綠蔭俱榮部の行樂は

ちまたに銀をはしらしむ

五月はじめの朝まだき

街樹の下に並びたる

わが友がらの一列は

襟脚しろき娘らをいだきしむ

みないつしんにいだきしむ。

綠蔭俱樂部の行樂の

その背廣はいちようにうす靑く

みよや都のひとびとは、

手に手に白き皿を捧げもち

しづしづとはや遠近を步みいづ、

綠蔭俱樂部の會長の

遠き畫廊をすぐるときしも。

             (大正三年五月一日)

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 空に光る

 

   空 に 光 る

 

わが哀傷のはげしき日

するどく齲齒(むしば)を拔きたるに

この齲齒は昇天し

たちまち高原の上にうかびいで

ひねもす怒りに輝やけり。

みよくもり日の空にあり

わが瞳(め)にいたき

とき金色(こんじき)のちさき蟲

中空に光りくるめけり。

 

[やぶちゃん注:「齲齒」の音は正しくは「くし」と読む。「うし」と読むことが多いが、「う」は慣用音で本当は誤りである。まあ、「むしば」と読んでしまっているから、いいけれど、個人的には「むしば」という読みは本詩篇の詩想から見ると、『何だかな~』っていう感じが私はしてならないのだが。

「とき金色(こんじき)のちさき蟲」の「とき」は、前の「わが瞳(め)にいたき」を受けるから、「利き」「鋭き」で、「ちさき蟲」の形容。

初出は大正三(一九一四)年六月号『詩歌』。以下に示す。

   *

 

 空に光る

 

わが哀傷の烈しき日、

するどく齲齒を拔きたるに、

この齲齒は登天し、

たちまち高原の上に浮びいで、

ひねもす怒りに輝やけり。

みよ、くもり日の空にあり、

わが瞳(め)にいたき、

とき金色(こんじき)のちさき蟲

中空に光りくるめけり。

 

   *

本篇には筑摩版全集の『習作集題九卷』に草稿が一つある。標題は「光る齲齒」。

   *

 

  光る齲齒

 

わが哀傷の烈しき日

するどく齲齒を拔きたるに

この齲齒は登天し

たちまち高原の上に浮びいで(懸りて)

ひねもす怒りにかゞやけり

見よくもり日の空にあり

わが眼にいたき

とき金色の小さき蟲

中空に光りくるめけり。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 瞳孔のある海邊

 

   瞳孔のある海邊

 

地上に聖者あゆませたまふ

烈日のもと聖者海邊にきたればよする浪々

浪々砂をとぎさるうへを

聖者ひたひたと步行したまふ。

おん脚白く濡らし

怒りはげしきにたへざれば

足なやみひとり海邊をわたらせたまふ。

見よ 烈日の丘に燃ゆる瞳孔あり

おん手に魚あれども泳がせたまはず

聖者めんめんと淚をたれ

はてしなき砂金の道を踏み行きたまふ。

 

[やぶちゃん注:初出は大正三(一九一四)年七月号『詩歌』。標題は「みらくる」。以下に示す。

   *

 

 みらくる

 

地上に聖者あゆませたまふ、

烈日のもと、聖者うみべに來れば寄する浪浪、

浪浪、砂をとぎ去るうへを、

聖者ひたひたと步行したまふ、

おん脚しろく濡らし、

怒りはげしきにたへざれば、

足なやみひとり海邊をわたらせ給ふ、

みよ烈日の丘に燃ゆる瞳孔あり、

おん手に魚あれども泳がせたまはず、

聖者めんめんと淚たれ、

はてしなき砂金の路をふみ行き給ふ。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 遊泳

 

   遊 泳

 

浮びいづるごとくにも

その泳ぎ手はさ靑なり

みなみをむき

なみなみのながれははしる。

岬をめぐるみづのうへ

みな泳ぎ手はならびゆく。

ならびてすすむ水のうへ

みなみをむき

沖合にあるもいつさいに

祈るがごとく浪をきる。

 

[やぶちゃん注:初出は大正三(一九一四)年七月号『詩歌』。標題は「遊樂」。以下に示す。異同は少ない。

   *

 

 遊樂

 

浮びいづるごとくにも

その泳ぎ手はさあをなり

みなみをむき

なみなみのながれははしる

岬をめぐるみづのうへ

みな泳ぎ手はならびゆく。

ならびてすゝむ水のうへ

みなみをむき

沖合にあるもいつさいに

祈るがごとく浪をきる。

 

   *

 なお、筑摩版全集の「一九一三、九 習作集第九卷」に以下の草稿がある。

   *

 

 遊泳

 

ふかみに泳ぎ

しづめば肉はみどりに

浮べば瞳に島は落つ

岬をめぐり泳ぎいて

ああたましひもぬれぬれし

魚ら肌をくすぐりて

さ靑になづむ海のみづ

岬をめぐり泳ぎいで

なみなみのうへを遊泳す

 

遊樂至上のみづのうへ

沖合を見ればいつさいに

鷗さんさんとび散れり

みよ日は眞夏

うしほのみちひ音なみ遠に

われの肉生命にめざめ

地平にもろ手をさしのべて

よろこびするどく水をきる

よろこびするどく水をきる


   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 戀を戀する人

 

   戀を戀する人

 

わたしはくちびるにべにをぬつて

あたらしい白樺の幹に接吻した。

よしんば私が美男であらうとも

わたしの胸にはごむまりのやうな乳房がない

わたしの皮膚からはきめのこまかい粉おしろいの匂ひがしない

わたしはしなびきつた薄命男だ

ああなんといふいぢらしい男だ

けふのかぐはしい初夏の野原で

きらきらする木立の中で

手には空色の手ぶくろをすつぽりとはめてみた

腰にはこるせつとのやうなものをはめてみた

襟には襟おしろひのやうなものをぬりつけた

かうしてひつそりとしなをつくりながら

わたしは娘たちのするやうに

こころもちくびをかしげて

あたらしい白樺の幹に接吻した。

くちびるにばらいろのべにをぬつて

まつしろの高い樹木にすがりついた。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。十二行目の「襟おしろひ」はママ。「月に吠える」からの再録。『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 戀を戀する人』と比較されたいが、傍点部がもっと多い。私は糞前衛芝居のようないかにもな映像で、あまり好きな詩篇ではないが、「月に吠える」初版発売(大正六(一九一七)年二月十五日感情詩社・白日社出版部発行(自費出版))に際して問題を起こした詩篇で、既に印刷済みであったものの、直前に内務省警保局から発売禁止の内達を受け、本篇及び「愛憐」(そちらで削除の様子を注で記してある)の二篇を削除することで発売が許可されたいわくつきのものである(私の上記正規表現版は複数冊存在する無削除の完全本で復刻されたものを底本としている)。但し、大正一一(一九二三)年三月に発行された再版「月に吠える」(アルス刊)では、この二篇は復活して所収されてある。]

2021/12/28

伽婢子卷之十二 幽靈書を父母につかはす

[やぶちゃん注:挿絵は四枚(見開き二幅と単幅三つ)は、底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング補正して、適切と思われる位置に挿入した。]

 

 ○幽靈、書を父母(ぶも)につかはす

 

 江州東坂本に、正木のなにがしが娘龍子(たつこ)は、いとけなしくて才知あり。

 親、もとより有德(うとく)なりければ、いつくしみ育て、哥雙紙の道、敎へたるに、いつしか容貌(かほかたち)美しく、心ざま、情深し。其隣に芦崎(あしさき)なにがしが子に、數馬(かずま)といふ者は、龍子と同じ年にて、いとけなき時は、一つ所に遊びけるを、時の人、みな、戯(たはふ)れて、

「此同じ年なる子は、後、必ず、夫婦となすべし。」

といふを、幼なき心に、互に思ひしめて、

「此人ならでは。」

と、ひそかに許しけり。

 年たけゝれば、出《いで》て遊ぶ事もなし。

 數馬は、山にのぼせて、兒(ちご)となし、龍子は窓(まど)のもとに隱れすみけり。

 數馬、或時、家に歸りつゝ、哥を書きて遣(つかは)す。

 人しれず結びかはせし若草の

   花は見ながら盛りすぐらむ

 しるらめや宿の梢を吹かはす

   風にかけつゝかよふこゝろを

 龍子、是を見るに、限りなく『嬉し』と思ふ中に、又、思ひくづをれつゝ、返しとおぼしくて、

 月日のみ流れゆくゆく淀川の

   よどみ果てたる中の逢瀨に

 今はかく絕にしまゝの浦におふる

   みるめをさへに波ぞたゞよふ

 年十七になりしかば、親、

「然るべき人、聟にせん。」

と、はからひけるを、龍子、更にうけごはず、湯水をだに斷(たち)て泣き伏したるを、ひそかに問はせたりければ、

「西隣りの數馬に、約束しける事、あり。是にゆかずば、死すべし。他所には更に行べからず。」

といふ。

 親。

「この上は。」

とて、隣りになかだちを入れ、

「かうかう。」

と、いはせしか共、正木は有德(うとく)にて、蘆崎は貧しければ、

「數馬、容(かほ)かたちうるはしく、美男(びなん)にて才智ありとはいへども、いかで其緣を結ぶの相待(さうたい)ならん。」

とて、親は、しばしば辭しけれ共、

「娘の思ひかけたる所也。又、それ、有德なるを以て、緣を結ばゞ、金銀財寶を聟にする也。婚姻に財寶を論ずるは、夷慮(いりよ)のえびすの道也。」

と、いへり。

「我等、更に財寶を聟には、とらず。數馬が人がら、才智利こんなるを以て、聟にせん、と云事也。」

とて、しひて、吉日を定め、其いとなみは、娘の方《かた》より整え、其日に至りて、迎へつかはしければ、心の儘に夫婦となり、忍ぶべき關守もなく、嬉しさ、限りなし。

 龍子、

  ひとり寢のまどにさし入月かげを

   諸ともに見る夜半ぞうれしき

と、いひければ、數馬、

 夜な夜なはかこちて過し窓のもとに

   ともにながむるありあけの月

 夫婦の契り、淺からざる事、比翼の鳥の空に飛び、連理の枝の地に結びたるも、譬(たとへ)とするに、たらず。

 

Kazumatatuko1

 

 僅かに半年ばかりの後に、織田信長、江州に打ち出《いで》、山門、此の時に、たてをつきしを、元龜二年九月十二日、叡山・吉日山王《ひえさんわう》に至るまで、皆、燒《やき》滅ぼさる。

 此故に、坂本の民屋(みんをく)、亂妨・騷動して、四角八方に、皆、ちりぢりになりたり。

 龍子は信長の家臣佐久間右衞門尉信盛が手に、とりものとなりて、初めは行方《ゆきがた》を知らず。

 後に、淺井《あざい》・朝倉、ほろびて、江州、物靜かになり、人民、おのれおのれが故鄕に歸り住みて、暫く安堵したり。

 數馬は、妻の龍子が行衞を尋ねんとて、父母に別れをとり、

「もし、めぐり逢はずば、二たび、家に歸るべからず。」

と誓ひをおこし、比叡辻(ひえつじ)に出たれば、人のいふやう、

「正木が娘龍子は、佐久間に捕られて、陣中に。」

とて、聞《きき》て、河内の國高屋の城に赴きしかば、

「交野(かたの)の城、おちて、江州小谷(をたに)に行たり。」

といふ。

 又、江州に行しかば、

「京都にあり。」

と聞ゆ。

 方々《かたがた》、その所、定まらず、こゝかしこに馳せ向ひ、終に、天正八年正月に聞《きき》けるやう、

「佐久間は、大坂門跡の籠城につき、天王寺の陣に屯(たむろ)し、七ケ國の軍勢を從へ居たり。」

といふ。

 これより、攝州大坂にくだり、天王寺の陣に赴きしかば、年月《としつき》重なり、諸國を尋ねめぐりしかば、衣は破れて。鶴(つる)の氅(けごろも)の如く、かたち、おもがはりして、色黑く、瘦せつかれ、野にとまり、草に臥し、露にやどかす袖の上、淚は、更に、置き爭ふ。

 すでに天王寺の陣に行きければ、軍兵《ぐんぴやう》、そばだち、番手(ばんて)きびしく、數馬、恐ろしながら、立《たち》やすらひ、隙を窺ひて、問はんとす。

 番の足輕共、あやしみて、

「これは、いかさま、敵のはかりごとをもつて、陣中のありさま、見せつかはしぬらん。其儀ならば、一足《ひとあし》も逃すな、搦め捕りて、首をはね、見せしめのため、札《ふだ》をそへて、阿部野(あべの)にさらせや。」

とて、

「我も、我も。」

と走り出て、打ふせ、押し倒して、高手小手にいましめ、大將佐久間に、このよし、いひ入たり。

 佐久間、聞きて、

「囚人(めしうど)、こなたへ、つれて來れ。子細を尋ねて後に、ともかうも、はからふべし。」

とて、本陣に召しよせ、信盛、出向うて、

「汝は大坂籠城の者か。いかなる子細によりて、此陣に來り、うかがひける。ありの儘に白狀せずば、水火の責めに掛くべし。」

と、いはれたり。

 

Kazumatatuko2

 

 數馬、少しも恐れたる色なく、

「只今、此大事に及びて陳《ちん》じ申《まうす》には、あらず。ゆめゆめ、敵方より來りて、此の陣中をうかゝふ者には、あらず。これは江州東坂本の土民、蘆崎のなにがしが子、數馬といふ者也。叡山喪亂(さうらん)の砌(みぎ)り、一族、悉く八方に別れちりて、行方なく、此程、漸く、國中、靜かになり、地下《ぢげ》の土民、歸り住みて安堵せし所に、我《わが》妹(いもと)龍子、一人、歸り來らず。人に問へば、『君の陣中にあり』といふ。それより、諸方に尋めぐり、只今、爰に來り侍べり。願くは、一目逢せてたび給へかし。然(しか)らば、死すといふとも、何をか恨み侍べらん。」

とて、淚を、はらはらと流す。

「さて。年はいくつ許(ばか)り。」

と問へば、

「其時は十七歲、それより九年を經たれば、廿六歲になり侍り。」

といふ。

「扨は。」

とて、陣中の女房共を尋ねしかば、年も、名も、國も、所も同じく、數馬がいふに替らぬ女あり。

 歌、よく詠み、手書き、智惠、利根なりければ、信盛、これを寵愛して置きたり。

「うたがふ所なく、それなり。」

とて、繩をとき、ゆるし、廰場《ちやうば》に呼び入《いれ》て、龍子に逢はせしかば、龍子も、

「我《わが》兄《あに》也。」

と、いひて、數馬に對面し、一目見るより、

「あれは。それか。」

と、いひもはてず、淚を流し、淚より外の事、なし。

 信盛曰、

「久しく諸方を尋ねめぐり、關を越え、咎(とが)めを凌ぎ、さこそ侘しく心つかれ、力、衰へぬらん。此陣中にして、暫く休息せよ。」

とて、新らしき小袖一かさね出し、小屋の内に置きて、旅のつかれを休めらる。

 次の日、信盛、いひけるは、

「汝が妹(いもと)、よく雙紙を讀み、歌をも、つゞる。汝も、定めて、手書き、物讀むか。」

と。

 數馬、答へて、

「それがし、いとけなきより、山門にのぼり、佛經・外典(げてん)、怠りなく學(がく)し、詩文のかたはし、よろしからねども、つくり侍べり。手も亦、をかしげながら、なべての人には、劣り侍らじ。」

といふ。

 信盛、大に喜び、

「我れ、いとけなき時より武藝に心をよせ、諸方の陣中に日を送り、學文・手跡の事は、手にも取らず。此故に、今、諸方の書簡、又は、一篇の詩歌を贈られても、更に和韻・返歌の事に及ばず。手の郞從の中にも、これ、なし。今、幸ひに、汝、その道を得たり。我が陣中に居て、その事の職、勤めて得させよ。」

と也。

 數馬、嬉しくて、

「ともこうも、仰にしたがひ奉らむ。」

とて、はや、二百貫の知行につけられ、上を受け、下につたへ、書簡・飛札(ひさつ)、みな、信盛が心の如く、とゝのへたり。

 軍中の諸兵、いずれも、重き人に思ひ、かしづきて、あなづらはしき色、なし。

 されども、數馬は是を嬉しとも思はず。

 妻が行衞を尋ね求むる爲にこそ、身をも省みず、命をも惜まず、これまでも來りけれ、一たび逢ひ見て後は、重ねて見る事も叶はず、内外(うちと)、隔り、互に心ばかりを思ひ通はし、忍びの淚を袖につゝみながら、月を越ゆるほどに、卯月の衣更(《ころも》がへ)になれければ、垢付(あかづ)たる小袖をぬぎて、人を賴みて、

「妹につかはす。」

と、いはせ、歌一首、書きて、衣裏(えり)に包み入れたり。

 色見えぬこれや忍ぶのすり衣

   思ひみだるゝ袖のしら露

 龍子、これを取りて、衣裏(えり)の綻びを廣げしかば、歌、あり。大に悲しくて、聲を忍びの泪おさへ難く、返しとおぼしくて、小紙に書つけ、

「夏のかたびら、遣す。」

と、いうて、衣裏もとに、縫ふくめて、遣りける。

 いかにして行きて離れむ陸奧(みちのく)の

   思ひしのぶの衣へにけり

 數馬、此返しを見るに、胸、悶え、心、消えて、思ひ歎きしが、其つもりにや、重き病に沈み、

「今を限り。」

と聞えしかば、龍子は佐久間に申して、

「兄(あに)の病、重くして、今は限りと、聞侍べり。願くは、此世の名ごりに、今一たび、見まゐらせばや。」

とて、なきければ、許し侍べり。

 

Kazumatatuko3

 

 急ぎ、小屋の中に行たりければ、前後わきまへず、吟(によひ)ふしたり。

 龍子、枕もとに立寄り、

「如何に。みづからこそ、只今、爰に參りて侍べれ。」

といふに、數馬、

「むく」

と起きあがり、龍子が手をとり、大息(《おほ》いき)つきたるに、泪は兩の目に餘り、容(かほ)に流れかゝりつゝ、物をも得云はで、口ばかり動くやうにて、其儘、絕入《たえいり》て、空しくなる。

 佐久間、あはれがりて、天王寺のうしろの山もとに送り埋(うづ)み、僧を雇ひて吊(とふら)はせけり。

 龍子は、なくなく我が住む方に歸り、湯水をだに聞《きき》いれず、引かづきて、臥しけるが、其夜より、心地、惱みて、藥をも飮まず、只なきに泣きつゝ、空に向ひ、地に伏して、大息のみ、つきて、次の日の暮がた、佐久間にいひけるは、

「みづから、家を離れ、君にしたがひ參らせ、年を重ねて他國を巡り、親しき者とては、一人もなかりしに、只、兄のみ一人、尋ね來(き)て、これさへ、むなしくなり侍べり。此かなしさは、生《せい》を替ても、忘れ難く侍べれば、今は、命も極まれり。みづから、死なば、兄のそばに、埋みてたべ。黃泉(よみぢ)のもとにして、せめて、同じ所にめぐり逢ひ、年月の憂さ、つらさ、語り慰む事もがなと、他國にさまよふ便りを求めむ。」

とて、その息絕え、むなしく成るたり。

 佐久間は、世に痛はしく思ひて、其心ざし、望みたるに違(たが)はず、數馬が塚の左に並べて埋みつゝ、龍子が衣裝、殘らず、寺に送りつかはし、あと、よく吊ひけり。

 同じき六月に、大坂門跡の籠城、あつかひになりて、開退(あけのき)ければ、佐久間も天王寺の陣を拂ひて歸りしかば、今は、少し、物靜かになり行《ゆく》かと覺えしに、龍子が江州の家に久しく召使はれし下人彌五郞、商人と成りて、世を渡るわざとし、大坂より和泉《いづみ》の境ひにゆくとて、天王寺邊(へん)を打過ければ、東の方の山ぎはに、新しく立《たち》たる家、あり。

 數馬と、龍子と、門より、つれ立出て、

「如何に。彌五郞にてはなきか。道のたよりに立寄れかし。故鄕の事も、ゆかしきに。」

とて、呼びかけたり。

 彌五郞、立もどり、手をうちて、

「故鄕には數馬殿の御父母は、とく、むなしくならせ給ひ、その跡は、舅(おぢ)にておはする權七殿こそ、繼がせ給へ。龍子公(たつこぎみ)の二人の御親は、恙なくて、只、御人《おひと》の行衞を聞かまほしく、朝夕は、泣きしをれて、神ほとけに祈り給ふに、などや、とくとく歸り給はぬ。」

と語る。

 龍子、

「さればよ、故鄕のゆかしさ、いふばかりなければ、世につかふる身は、心のならねば、それも叶はず。」

といふ。

 彌五郞は急ぐ事のありて早く歸るべきに、

「文一つ、遣はし給へ。」

と云へば、

「まづ、今宵は、こゝにとゞまりてよ。」

とて、酒、進め、物、食はせなどして、夜もすがら、物語りしつゝ、はや、明方になりければ、彌五郞は旅立空《たびだつそら》に出《いで》てかへる。

 龍子、文、こまごまと書て、渡しぬ。

 坂本に歸りて、正木夫婦に、文を參らせ、

「かうかう。」

と語りしかば、親、かぎりなく喜び、急ぎ、文を開きて見れば、文の言葉、文字のくさり、手の書き流したる、疑ふ處もなき、娘の文なり。

 其言葉には、

「久しく年へて たまたま彌五郞 見え來たり 故鄕の事 聞につけて 嬉しきが中に 戀しさ やる方もなく侍べり 朝な夕な そなたの空に棚引く雲霞も 思ひを起こすなかだちとなり 秋來る鳫金(かり《がね》)も 便りの文は傳へぬかと侘びられ そゞろに落つる淚の袖 今は みな 朽果てて 彌五郞にまみえし嬉しさを 何に包まんとのみ思ほゆ わが身は 父のうみて 母の育てける 深き惠みは 海(うみ)の數(かず)ならず 高きいつくしみは 山も物かは 夫 いざなひ 妻 したがふは 女の身の習ひ 人の世の定め也 往日(そのかみ)は 山崩れ 麓(ふもと)傾き 日の色は煙におほはれ みづうみの波は熖(ほのほ)に燃ゆ 身を歎き 命をのがれんとて したしきが ゆき別れ 塵(ちり)の如く とび 霰(あられ)の如く わかれて 皆 ちりちりになり 互にゆくさき 知り難し みづからは 佐久間とかや恐ろしき武士にとられ 或時は

交野(かたの)の陣に肝を消し 或時は中嶋のいくさに胸を冷やし 國の數々 從ひ巡(めぐ)り なみだにのみ 浮き沈みし 恨みを心に隱し おそれを身にうけて 春の月 朧ろに 秋の風 凄(すさ)まじく 寢(ね)られぬ枕の上には 夜の衣をかへせども 夢をだに結はず 時移り 事さりて 我を尋ぬる人に逢へり 更に春を尋ぬるの遲き恨みはなしに 門の前の柳 風に折られて 二たび 枝 出《いで》つゝ 斷《たへ》たる絃(ことのを)かさねて繫ぎければ 又 君の賜(たまもの)ありて つかふる道に 立歸るべき私(わたくし)を忘れ 日 重なり 月 逝きて 今日(けふ)になりぬ 音づれ絕えたる不孝(ふけう)のとが 恩を忘るゝに似たる事をば 枉(ま)げてゆるし給へ」

など、書きて、奧に、

 田鶴(たづ)のゐるあしべの潮(しほ)のいや增に

   袖ほすひまもなくなくぞふる

 二人の親、是を見て、

「その比、別れてより、たよりのつてをだに聞かず、今は世になき人の數にや入ぬらんと、心もとなく悲しと思ひ暮せしに、生きてありとだに聞けば、まことに、日比、いのり申せし神ほとけの利生《りしやう》ぞや。」

とて、嬉しなきに、なきけり。

 父のいふやう、

「急ぎ、こゝに迎へて、年比の歎きをも慰め、見えもし、見もせむ。」

とて、彌五郞に案内せさせ、急ぎ、天王寺に赴きしに、棟門(むなかど)立《たて》たる家ありと覺えし所には、只、草、茫々と生ひ茂り、狐、はせ巡り、道のなき山の麓に、塚、二つ、並びて、あり。

 こゝかしこ見めぐらせ共、それかと覺しき家は、なし。

 一町餘りの西に寺あり。

 こゝに行て、僧に尋ねしかば、

「其塚は、佐久間信盛の陣中より葬禮したる、蘆垣數馬、正木氏龍子兄弟の塚なり。又、そのあたりに、人のすむべき家は、なきものを。」

といふ。

 父、驚き、娘の文を取出して見れば、文字もなく、墨もつかぬ白紙にてぞ、有ける。

 父、悲しさのあまり、塚のもとに打倒れ、人目をも耻《はぢ》ず、聲をばかりに泣き居たり。

 

Kazumatatuko4

 

[やぶちゃん注:龍子の父の夢中の邂逅を描いたもの。この画像では判り難いが、冥途の存在である三角頭巾(天冠(てんかん・てんがん))を二人ともつけている。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの画像を見られたい。面白いのは、右下に下男の弥五郎もその夢に登場していることである。しかし、情に於いては、接点を作った彼れが描かれていることに、私は違和感はない。]

 

「我、はるばると、これまで來《きた》る事も、一目逢はんと思ふぞ。いかに此つかに埋もれて、跡を隱しけるこそ、悲しけれ。老たる父が心を知らば、姿を見《み》みえて、此《この》物思ひを慰めよかし。」

とて、其夜は、そこにとどまりしに、夜半ばかりに、夢ともなく、數馬と龍子と現れ出て、淚をながしつつ、そのかみの事共、語り、

「跡、よく、とぶらひて給(た)べ。」

といふ。

 父、夢心地に、

「我、ここに來る事は、迎へて故鄕に歸らん爲也。よし、さらば、空しき尸(から)なりとも、つれて、故鄕に歸りなむ。」

と云ふに、

「いやとよ、此地に埋もるゝも、地府(ちふ)の定《さだめ》あり。又、物靜かにして、すむに、よろし。故鄕にうつし歸されんには、苦み、重なる事、侍べり。埋みし塚をば、二たび、餘所に移さぬものぞや。地府の定めし御とがめ、その亡者にあたりて、苦しみを受くる也。只、此まゝ置きて、とぶらひ給へ。」

とて、父にとりつき、なきけるよ、と、おぼえて、夢は、さめたり。

 なくなく、僧を雇ひて、塚の前にして、供物(くもつ)をそなへ、經、よみつゝ、跡、よく、とぶらひ、淚ともろともに立《たち》別れて、坂本の故鄕に立歸りし父が心、見る人、きく人、皆、あはれがりて、淚をながす。

 坂本に歸りても、思ひのつもりにや、夫婦の親、いくほどなく、身まかりぬ。

[やぶちゃん注:「江州東坂本」現在の滋賀県大津市坂本(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の東部。

「哥雙紙の道」この場合の「哥雙紙」は、和歌に関する書で、歌道の意。

「芦崎(あしさき)」本篇で「芦」と「蘆」が混在しているのはママである。

「人しれず結びかはせし若草の花は見ながら盛りすぐらむ」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、了意御用達の例の山科言緒(ときお 天正五(一五七七)年~元和六(一六二〇)年:公家)編の歌学書(部立アンソロジー)「和歌題林愚抄」(安土桃山から江戸前期の成立)「恋二」の「絶久恋」の藤原隆信朝臣(康治元(一一四二)年~元久二(一二〇五)年:正四位下右京大夫。建仁二(一二〇二)年に法然に従って出家した。似絵(にせえ:平安末期から鎌倉時代に流行した大和絵様式の肖像画。特に面貌を写実的に描くもの)の開祖として知られる)の歌(「千載和歌集」「恋四」)を一部変えて用いたとある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たるが出来る。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「30」コマ目の左丁の十一行目のそれで、

 人しれす結ひそめてし若草の花のさかりをすきやしぬらん

整序すると、

 人知れず結び初めてし若草の花の盛りを過ぎやしぬらむ

であろう。「草結び」は古代に於いては、道標べとするように、とりわけ呪的な行為であり、近世に至ると、ダイレクトに「男女間の約束をすること。縁結び。」の意をあからさまに指した。

「しるらめや宿の梢を吹かはす風にかけつゝかよふこゝろを」同前で同じそれの「恋二」の「恋隣女」にある藤原俊成の一首(「新続古今和歌集」の「恋」)を一部変えて用いたとある。全巻(PDFの「34」コマ目の右丁の十一行目のそれで、そこでは俊成の家集「長秋詠藻」からとある。

 しるらめややとのこすゑを吹かはす風につけてもおもふ心を

整序すると、

 知るらめや宿の梢を吹き交はす風につけて思ふ心は

龍子と数馬は実際に隣家であるから、この一首はよく調和する一首となる。

「月日のみ流れゆくゆく淀川のよどみ果てたる中の逢瀨に」同前で同書の「恋二」の「絶久恋」の為道朝臣の一首の以下を手入れをしたもの。同前の「30」コマ目の左丁の十二行目のそれで、

 月日のみなかれもゆくかなみた川よとみはてたる中のあふせに

で、整序すると、

 月日のみ流れもゆくか淚川淀み果てたる中の逢ふ瀨に

「今はかく絕にしまゝの浦におふるみるめをさへに波ぞたゞよふ」特に原拠はないか。「絕えにしままの」が以下の「浦」に掛かって「真間の浦」を引き出し、下総の市川真間の悲劇の美少女真間の手児奈が身を投げた「浦」を通わせ、そこに「生ふる」ところの海藻「みるめ」(「海松」「水松」などと漢字表記するミル緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile。古くより食用とされ、「万葉集」に既に詠まれているそれを実景として点描しつつ、「見る目」或いは「見る面」(「二人が顔を見合わすこと」がかくも永く絶えていることを)を掛けている。

「他所」「新日本古典文学大系」版脚注では、「たしよ」と読ませる注となっている。

「なかだち」仲人(なこうど)。

「相待(さうたい)」底本も元禄版も「さうたい」である。但し、ここは「さうだい(そうだい)」と読むのが正しいようで(「新日本古典文学大系」版も「さうだい」)、仏教用語で「二つの対象が、互いに相対関連して存すること。長は短と、東は西と相い対して共に存するという類い。相互の相対立の性質によって、見かけ上、存在しているように見えているに過ぎない仮象を言う。対語は「絶待」(ぜつだい)

ならん。」

とて、親は、しばしば辭しけれ共、

「夷慮(いりよ)のえびす」野蛮人。重語的で如何にも差別的で嫌な感じがするフレーズである。

「利こん」「利根」。利発に同じ。

「ひとり寢のまどにさし入月かげを諸ともに見る夜半ぞうれしき」同前で同書の「恋二」「月前逢恋」の前大納言経任(「新後撰和歌集」の「恋三」)の一首をいじったもの。全巻(PDF)の「23」コマ目の右丁の初行のそれ。

 ひとりねのとこになれにし月かけをもろともにみるよはそうれしき

整序すると、

 獨り寢の床に馴れにし月影をもろともに見る夜半ぞうれしき

「夜な夜なはかこちて過し窓のもとにともにながむるありあけの月」元歌はないか。

「織田信長、江州に打ち出《いで》、山門、此の時に、たてをつきしを、元龜二年九月十二日、叡山・吉日山王《ひえさんわう》に至るまで、皆、燒《やき》滅ぼさる」織田信長による「比叡山焼き討ち」は同年同月同日(ユリウス暦一五七一年九月三十日/グレゴリオ暦換算十月十日)。僧侶・学僧・上人・児童の首を、悉く刎ねたと言われている。織田軍は、先ず、坂本・堅田周辺に放火し、それを合図に攻撃が始まったとされる。「吉日山王」坂本にある現在の日吉大社(ひよしたいしゃ)。第二次世界大戦以前は「ひえ」と呼んでいた。延暦七(七八八)年、最澄が比叡山上に比叡山寺(後の延暦寺)一乗止観院(後の根本中堂)を建立した際、比叡山の地主神を祀る日吉社を守護神として崇敬した。而して延暦一三(七九四)年の平安京遷都により、日吉社は京の鬼門に当ったことから、鬼門除け・災難除けの社として国から崇敬されるようになり、参照したウィキの「日吉大社」によれば、『延暦寺が勢力を増してくると、やがて日吉社と神仏習合する動きが出て、日吉社の神は唐の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになり、延暦寺では山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いていくようになる。日吉社は』元慶四(八八〇)年に『西本宮の大己貴神が』、寿永二(一一八三)年に『東本宮の大山咋神が』、『それぞれ正一位の神階に叙せられた』。『こうして日吉社は延暦寺と次第に一体化していき、平安時代中期には八王子山の奥に神宮寺が建てられている。また、日吉社の参道沿いには延暦寺の里坊が立ち並ぶようになっていく。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社の山王信仰も広まって全国に日吉社が勧請・創建され、現代の天台教学が成立するまでに与えた影響は大きいとされる』とある。

「佐久間右衞門尉信盛」(大永八・享禄元(一五二八)年或いは前年とも~天正一〇(一五八二)年)は武将佐久間信晴の子として尾張に生まれた。織田信秀に仕え、信長が家督相続をする際には、これを支持し、以後、信長の信任を得たとされる。永禄一一(一五六八)年の信長の上洛に従い、京都の治安維持に努め、次いで近江永原城を預けられ、柴田勝家とともに、近江から六角承禎(しょうてい)(=義賢)の勢力を掃討するのに力があった。元亀三(一五七二)年十二月の遠江の「三方ケ原の戦い」に、徳川家康の援軍として浜松城に送られたが、この時は完敗を喫した。「長篠の戦い」・「伊勢長島一向一揆」との戦い、「越前一向一揆」との戦いなど、信長の戦闘の殆どに参陣しているが、なかでも天正四(一五七六)年から本格化した「石山本願寺包囲戦」では、特にその中心的な位置にあった。ところが、石山本願寺が降服してきた直後の天正八(一五八〇)年八月、「無為に五ヶ年間を費した」と信長から問責され、子の正勝ともども、高野山に追放されてしまう。明智光秀の讒言によるとも、事実、茶の湯に耽溺して軍務を怠ったからとも言われてはいるが、真相は不明で、信長の所謂、「捨て殺し」政策の犠牲になった一人とされる。剃髪して宗盛と号したが、紀伊国十津川の温泉で病気療養中に病死した。なお、子の正勝は、後に許されて、信長に仕え、不干斎と号して、豊臣秀吉の御咄衆となり、茶人としても名を残している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「淺井《あざい》・朝倉、ほろびて」「小谷城の戦い」で敗れ、浅井長政は天正元(一五七三)年九月一日(父の久政は既に八月二十七日に自刃)に自刃して浅井家は滅び、朝倉義景は「一乗谷城の戦い」で敗走し、従兄弟朝倉景鏡(かげあきら)の勧めで逃れていたことろ、天正元年八月二十日早朝、当の景鏡が織田信長と通じて裏切って襲撃、自刃して朝倉家は滅亡した。因みに、「新日本古典文学大系」版脚注でここに注して『浅井義景』とあるのは、朝倉義景の誤り。

「比叡辻(ひえつじ)」先の坂本の東の琵琶湖西岸の滋賀県大津市比叡辻(ひえいつじ)。「新日本古典文学大系」版脚注に、近江の『水陸交通の要地』とある。

「河内の國高屋の城」現在の大阪府羽曳野市古市にある高屋城城跡。義昭派の重臣遊佐信教が同じく反信長派であった三好康長をこの城に引き入れて籠城を敢行したが、天正三(一五七五)年に信長の猛攻を受け(この時、佐久間も城攻めに参加しているようである)、落城、その後、廃城となった。本丸は現在の安閑(あんかん)天皇陵に治定されている古墳上にあった。

「交野(かたの)の城」現在の大阪府交野市私部(きさべ)にあった。別名私部(きさべ)城。ここ

「江州小谷(をたに)」現行では小谷城(おだにじょう)と濁る。現在の滋賀県長浜市にあった。ここ。専ら、朝倉の滅亡の地、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られる城である。

「天正八年」一五八〇年。

「大坂門跡の籠城」浄土真宗本願寺派第十一世宗主・真宗大谷派第十一代門首・石山本願寺住職であった顕如(天文一二(一五四三)年~天正二〇(一五九二)年)は元亀元(一五七〇)年に彼の率いる本願寺と織田氏は交戦状態に入り、この永い反目と抗争は「石山合戦」とも呼ばれる。しかし、織田軍が次々と反対勢力を制圧したため、抗戦継続を諦め、朝廷を和平の仲介役として、この天正八(一五八〇)年に信長と和睦し、顕如自身は石山を退去し、紀伊国鷺森別院に移った。

「天王寺の陣」石山攻め(旧石山本願寺は現在の大阪城内に遺跡が比定されている)のために織田軍が天王寺に設けた陣屋。天正四(一五七六)年五月七日に摂津天王寺で発生した信長と一向一揆との戦闘「天王寺砦の戦い」では四天王寺は信長勢に火を放たれ、全焼している。無論、佐久間もここに実際に出陣している。

「七ケ國」三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊。

「氅(けごろも)」羽毛。

「そばだち」背筋を伸ばして威嚇的に立哨し。

「番手(ばんて)」陣の警固に当たる兵士。

「いかさま」「如何樣」。副詞。「いかさまにも」の略から、ここでは「自分の考えや叙述、推測などの確度が高いことを表わす語。「きっと・どう見ても・てっきり」。

「札《ふだ》」「新日本古典文学大系」版脚注に、『氏名・年齢・罪科などを記した高札。捨札』とある。

「阿部野(あべの)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『阿倍野のことか。天王寺に近い繁華の地』とある。天王寺の南に接したここ

「陳《ちん》じ申《まうす》には、あらず」「新日本古典文学大系」版脚注にある通り、『疑いをはらすために』敢えて拵えて『弁明する』ものではない、の意。

「妹(いもと)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『兄妹の関係に偽っているが、これは』龍子が『信盛の妻妾の身の上にあったことを暗示する』とある。

「廰場《ちやうば》」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「庁庭(ちやうば)」の当て字。折り調べを行う「お白洲」』とある。

「あれは。それか。」「新日本古典文学大系」版脚注に、『あの人がその人か。意外な邂逅と数馬の変わりはてた姿に驚き、思わず口をついて出た語』とされる。

「和韻」小学館「日本国語大辞典」に『他人から漢詩を詠みかけられた時などに、それにこたえて、その詩と同じ韻字を用いて詩を作ること。次韻・用韻・依韻の三体がある』とある。

「手の郞從」直属の手下の部下。

「二百貫の知行」「新日本古典文学大系」版脚注に、『年貢高が銭二百貫文の土地。田地一段を五百文と計算するのが標準的であった』とある。

「飛札(ひさつ)」飛脚に持たせて送る急ぎの手紙。急を要する手紙。「飛書」とも言う。

「あなづらはしき色、なし」「侮らはし」は動詞「侮(あなず)る」の形容詞化で、軽蔑しようとする気持ちがすること。尊敬・尊重する意志を持たないことを言う。佐久間の従者らも彼のことを一目置いていたことを言う。

「卯月の衣更(《ころも》がへ)」四月一日。

「色見えぬこれや忍ぶのすり衣思ひみだるゝ袖のしら露」同前で「和歌題林愚抄」の「恋四」の「寄衣恋」の常盤井入道の歌(「新後撰和歌集」「恋一」)を用いたとある。同じく早稲田大学図書館「古典総合データベース」ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)の「62」コマ目の右丁の後ろから五行目のそれ。

「いかにして行きて離れむ陸奧(みちのく)の思ひしのぶの衣へにけり」同前で同書の「恋四」の「寄衣恋」の従二位家隆(「玉葉和歌集」「恋一」)を転用している。同前で、ここの「62」コマ目の右丁の一番最後のそれ。

「同じき六月に、大坂門跡の籠城、あつかひになりて、開退(あけのき)ければ」「あつかひ」は講和のこと。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『実際には』もっと早く、同じ天正八(一五八〇)年『閏三月に講和が実現した』とある。

「御人」「新日本古典文学大系」版脚注に、『そのお方。目前の相手に対して名指しを遠慮した婉曲な表現。オヒト』とある。

「中嶋のいくさ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『淀川支流の神崎川と中津川に囲まれた一帯。現在の大阪市淀川区・東淀川区のあたり。元亀元年(一五七〇)九月三日、中島まで出陣した将軍義昭のもとに』、『根来、雑賀衆一万騎が馳せ参じ、信長軍との間に激戦を交えた(信長記三。大坂合戦事)』とある。この中央附近である。

「斷《たへ》たる絃(ことのを)」楽器の弦が切れることであるが、「琴瑟 (きんしつ) 」を夫婦の仲に喩えるところから、本来は「妻に死別すること」を言う。ここは逆転して夫数馬が死んだと思っていたことを言っており、豈はからんや、彼が生きていたことを転じて言っている。

「君の賜(たまもの)ありて つかふる道に 立歸るべき私(わたくし)を忘れ」主君佐久間が褒美として数馬を右筆として取り立てて呉れたことを言いつつ、そうした結果として、龍子が、自身の親に孝をなすことがないがしろにした慚愧の念を言う。

「不孝(ふけう)」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『「不孝」の呉音読み』とある。

「田鶴(たづ)のゐるあしべの潮(しほ)のいや增に袖ほすひまもなくなくぞふる」同前で、同書の「恋四」の「寄鳥恋」の国道朝臣の一首(「順徳院歌合建保二九尽」)のこの55」コマ目の右丁の後ろから五行目のそれを用いたもの。但し、リンク先では「國通」と見える。

「棟門(むなかど)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『切妻破風の屋根を載せた立派な門』とある。

「蘆垣數馬」ママ。

「地府(ちふ)」冥府。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 さびしい人格

 

   さびしい人格

 

さびしい人格が私の友を呼ぶ

わが見知らぬ友よ早くきたれ

ここの古い椅子に腰をかけて二人でしづかに話してゐやう

なにも悲しむことなく君と私でしづかな幸福な日を暮さう

遠い公園のしづかな噴水の音をきいてゐやう

しづかに しづかに 二人でかうして抱きあつてゐやう。

母にも父にも兄弟にも遠くはなれて

母にも父にも知らない孤兒の心をむすびあはさう

ありとあらゆる人間の生活の中で

おまへと私だけの生活について話しあはう

まづしいたよりない二人だけの祕密の生活について

ああその言葉は秋の落葉のやうにさうさうとして膝の上にも散つてくるではないか。

 

わたしの胸はかよわい病氣した幼な兒の胸のやうだ

わたしの心は恐れにふるへるせつないせつない熱情のうるみに燃えるやうだ。

 

ああいつかも私は高い山の上へ登つて行つた

けはしい坂路をあほぎながら蟲けらのやうにあこがれて登つて行つた

山の絕頂に立つたとき蟲けらはさびしい淚をながした。

あほげばばうばうたる草むらの山頂で大きな白つぽい雲がながれてゐた。

 

自然はどこでも私を苦しくする

そして人情は私を陰鬱にする

むしろ私はにぎやかな都會の公園を步きつかれて

とある寂しい木蔭の椅子を見つけるのが好きだ。

ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ

ああ都會の空を遠く悲しげにながれてゆく煤煙

またその都會の屋根をこえてはるかにちひさく燕の飛んで行く姿をみるのが好きだ。

 

よにもさびしい私の人格が

おほきな聲で見知らぬ友を呼んでゐる

わたしの卑屈で不思議な人格が

鴉のやうなみすぼらしい樣子をして

人氣のない冬枯れの椅子の片隅にふるへて居る。

 

[やぶちゃん注:三ヶ所の「ゐやう」、「あほぎながら」「あほげばば」はママ(歴史的仮名遣は「ゐよう」「あふぎながら」「あふげば」が正しい)。「月に吠える」からの再録。表記の異同はあるものの、大きな作り変えはない。私の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 さびしい人格』では、かなり拘った注も附してあるので、詩篇を比較されるとともに、是非、注も読まれたい。本篇は、私には、とある忘れ難き過去の記憶から、萩原朔太郎だけではない、近現代詩歌の中で、必ず、一番に想起する詩篇なのである。

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 有害なる動物

 

   有害なる動物

 

犬のごときものは吠えることにより

鵞鳥のごときものは畸形兒なることにより

狐のごときものは夜間に於て發光することにより

龜のごときものは凝晶することにより

狼のごときものは疾行することによりてさらに甚だしく

すべて此等のものは人身の健康に有害なり。

 

[やぶちゃん注:まるで、中国の古い博物誌・本草書・伝奇小説・志怪小説か、プリニウスの「博物誌」を読むようで、偏頗にして差別的・非科学的であるが、さればこそ、古典的博物学の面目の復活又は精神分析的或いは民俗学的に甚だ興味深い(正直、問題があるが面白い)一篇である。初出は大正四(一九一五)年一月号『水甕』。以下に示す。

   *

 

 有害なる動物

 

犬のごときものは吠ゆることにより、

鵞鳥のごときものは畸形兒なることにより、

狐のごときものは夜間に於て發光することにより、

龜のごときものは凝晶することにより、

狼のごときものは疾行することによりて更に甚だしく、

すべて此等のものは人身の健康に有害なり。

               ――十二月作――

 

   *

草稿も一篇ある。以下に示す。誤字や脱字と思われるものは総てママ。

   *

 

  有害なる動物

 

たとへば犬のごときものはその吠ゆることによりて

雲雀の如きものはつばさのニツケルなるを以て

魚の如きものはその泳ぐことにより

鵞鳥のごときものは遠方 綺形*その怪異なることによりて//その不具キ形兒なることより*

[やぶちゃん注:「*」「//」は私が附した。「その怪異なることによりて」と「その不具キ形兒なることより」が並列残存していることを示す。]

狐のごときものは夜間に及びその肢體の光れることによりて

疾行する狼のごときものは就中有害なり。よく疾行することによりて最も甚だし、

就中すべてこれらのもの人身われの建康に有害なり、

 

   *

 しかしだな、朔太郎よ、判っているよな? 自然界に於いて宇宙の中で最も致命的絶望的非望的に「有害なる動物」は――無論、人間だよ――]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 見えない兇賊

 

   見えない兇賊

 

兩手に兇器

ふくめんの兇賊

往來にのさばりかへつて

木の葉のやうに

ふるへてゐる奴。

 

いつしよけんめいでみつめてゐる

みつめてゐるなにものかを

だがかわいさうに

奴め 背後(うしろ)に氣がつかない、

背後には未知の犯罪

もうもうとしてゐる黑の板塀。

 

夜目にも光る

白銀(しろがね)の服を着こんだ奴

この奇體な

それでゐて

みたものもない片目の兇賊。

 

[やぶちゃん注:「かわいさう」はママ。初出は大正三(一九一四)年十二月号『地上巡禮』。標題は「片眼の兇賊」。以下に示す。歴史的仮名遣の誤り(「可愛そう」)はママ。

   *

 

 片眼の兇賊

 

兩手に兇器、

ふくめんの兇賊、

往來にのさばりかへつて、

木の葉に、

ふるへて居る奴、

 

いつしよけんめいでみつめて居る、

みつめて居るなにものかを、

だが可愛さうに、

奴め、うしろに氣が付かない、

背後(うしろ)には未知の犯罪、

はてしもない黑の板塀、

 

夜目にも光る、

白銀(しろがね)の服を着こんだ奴、

この奇體な、

それでゐて、

見たこともない片眼の兇賊。

 

   *

筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」には草稿が一つ載る。以下に示す。歴史的仮名遣の誤りや誤字と思われるものは総てママ。

   *

 

  片眼の兇賊

 

兩手に兇器、

覆面の兇賊巨漢、

往來にのさばりかへつて、

木つ葉のやうにふるへて居る奴。

 

みつめて居る何者かを、

だがかわいそうに、

奴め、背後(うしろ)に氣に付かない、

背後(うしろ)には未知の犯罪、

はてしもない黑の板塀(いたべい)。

夜目(よめ)にも光る、

白銀の服を着こんだ奴、

この奇體な、

それで居て見たこともない片眼の兇賊。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 月夜

 

   月 夜

 

へんてこの月夜の晚に

ゆがんだ建築の夢と

醉つぱらひの圓筒帽子(しるくはつと)。

 

[やぶちゃん注:初出は大正三(一九一四)年十二月号『地上巡禮』。標題は「月」。以下に示す。「ゆがんた」はママ。誤植。

   *

 

 

 

へんてこの月夜の晚に

ゆがんた建築の夢と

醉つぱらひの圓筒帽子(しるくはつと)

 

   *

筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」に『月夜(本篇原稿二種二枚)』として以下一篇が載る。太字は底本では傍点「ヽ」。

   *

  


へんてこの月夜の晚に、

歪んだ建築の夢と、

醉(よ)つぱらひの圓筒帽子(しるくはつと)、

すばらしい純銀の圓筒帽子(しるくはつと)。

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 夜の酒場

 

   夜の酒場

 

夜の酒場の

暗綠の壁に

穴がある。

かなしい聖母の額(がく)

額の裏(うら)に

穴がある。

ちつぽけな

黃金蟲のやうな

祕密の

魔術のぼたんだ。

眼(め)をあてて

そこから覗く

遠くの異樣な世界は

妙なわけだが

だれも知らない。

よしんば

醉つぱらつても

靑白い妖怪の酒盃(さかづき)は、

「未知」を語らない。

 

夜の酒場の壁に

穴がある。

 

[やぶちゃん注:初出は大正三(一九一四)年十二月号『地上巡禮』。殆んどが表記違いに過ぎないが、全体の及んでいるので、言葉で示すより、そのまま出した方が楽なので、以下に示す。五行目の「頭」はママ。「額」の誤植の可能性が強い。

   *

 

 夜の酒場

 

夜の酒場の、

暗綠の壁に、

穴がある、

哀しい聖母の額、

頭の裏に、

穴がある、

ちつぽけな、

黃金蟲(こがねむし)のやうな、

秘密の、

魔術のボタンだ、

眼をあてて、

そこからのぞく、

遠くの異樣な世界は、

妙なわけだが、

だれも知らない、

よしんば、

醉つぱらつても、

靑白い妖怪の酒盃(さかづき)は、

未知(みち)を語らない、

 

夜の酒場の壁に、

穴がある。

 

   *

筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」に『夜の酒場(本篇原稿一種一枚)』として以下が出る。明らかに二篇が載るが、同一原稿用用紙に纏めて載るから一種としているようだが、これは普通なら、二種扱いとしか思われない。不審。以下に示す。太字は底本では傍点「ヽ」。誤字(「つる」)と思しいものはママ。

   *

  酒場の壁穴


ちよつと御覽

穴のむかふに

夜の酒場の

壁に穴がある額がつる

裏の世界に

酒場の壁から

額の裏に穴がある

ちつぽけな

祕密な

魔術のボタンだ

いつも行くわたしのバアは

祕密な穴の

穴から さきの みえるその遠くの異樣な世界は

へんなわけだが

だれも知らない

ょしんば

お前が酒に醉はうとも

薄黑い靑白い妖怪の盃は

祕密あの「未知」をかたらない

わたしの夜の酒揚の

壁に穴がある。

 

  酒場の壁穴


夜の洒場の、暗綠の壁に

壁に穴がある、

哀しい聖母の、

額の裏に、

穴がある、

ちつぽけな、

黃金蟲のやうな、

祕密な、

魔術のぼたんだ、

眼をあてゝ、

そこからのぞく、

遠くの異樣な世界は、

妙なわけだが、

だれも知らない、

よしんば、

酒に醉つぱらつても、

靑白い妖怪の洒盃(さかづき)は。

  *

最後に編者注があり、『本稿の餘白に「折返し御返稿を願ます、編輯大急ぎの躰十九日か二十日には活字ニ組みかけさします」と北原白秋の筆蹟で書かれている。』とある。こんなものを添えられても、草稿は二種とする私の考えは変わらない。二番目は決定稿とは違うじゃないか!]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 懺悔

 

   懺 悔

 

あるみにうむの薄き紙片に

すべての言葉はしるされたり

ゆきぐもる空のかなたに罪びとひとり

ひねもす齒がみなし

いまはやいのち凍らんとするぞかし。

ま冬を光る松が枝に

懺悔のひとの姿あり。

 

[やぶちゃん注:初出は大正四(一九一五)年三月号『地上巡禮』。但し、標題は「姿」。以下に初出形を示す。太字は底本(筑摩版全集)では傍点「ヽ」。誤字(「扁」)はママ。

   *

 

 姿

 

あるみにうむの薄き紙片に、

すべての言葉はしるされたり、

ゆきぐもる空のかなたに罪びとひとり、

ひねもす切齒なし、

いまはや生命こほらむとするぞかし。

ま冬を光る松が枝に

懺悔のひとの姿あり。

           ――淨罪詩扁――

 

   *

「切齒」(せつし(せっし))には「歯を喰いしばること」の意がある。

 なお、同全集の「草稿詩篇 蝶に夢む」には、本篇の草稿三種の内から二種が活字化されてあるので(孰れも無題)、以下に示す。歴史的仮名遣の誤りや誤字(「寅」は同全集は「宙」の誤字とする)や脱字らしき部分はママ。太字は同前。

   *

 

  

 

あきらかなるものあらはれぬ

せる罪をしるせる紙片に

かゞやく銀→黃ろき罪のあるみにうむの光る薄き紙片に

すべてのことばはしるされたり

ああ汝のもし齒をやぶらば

齒より汝の骨をけづれば

骨は粉末して樹上にふらん

齒は寅に 光り 現じ

そもそも汝の手よりして發せるもの

幽にあらはれ

汝の骨肉をやぶらば肉にあらはれ

れきれきとして骨にもけづられ

犯せる罪のしるし四方にあはれしぞいづ

 

 

  

 

あきらかなるのあらはれぬ

あるみにうむの薄き紙片に

懺悔の姿いちぢるく

すべてのことばはしるされたり

そのひとのれきれきとして齒もあらはれ

額にあらはれ

骨にきざまれ

天にあらはれ

しるしは木々にあらはれ

 

   *

とあり、最後に編者注があって、『本稿は『月に吠える』の草稿詩篇「冬」と同じ用紙に書かれており、發想は同時で後にそれぞれ獨立したものと思われる』とあり、さらに本草稿について、『別稿には題名を「罪人姿」とし、末尾に「――淨罪詩扁〔篇〕」とある』とある。「月に吠える」の決定稿「冬」は『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 冬』を見られたい。正規表現版では草稿は電子化していないが、今回、追加する形でそちらの注に追加しておいたので、これも見られたい。]

2021/12/27

南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版)公開

今年最後の大物として、

南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版・3.7MB・89頁)

をサイト「心朽窩旧館」に公開した。

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 巢

 

   

 

竹の節はほそくなりゆき

竹の根はほそくなりゆき

竹の纖毛は地下にのびゆき

錐のごとくなりゆき

絹絲のごとくかすれゆき

けぶりのやうに消えさりゆき。

 

ああ髮の毛もみだれみだれし

暗い土壤に罪びとは

懺悔の巢をぞかけそめし。

 

[やぶちゃん注:初出は大正四(一九一五)年三月号『地上巡禮』。この初出時期に萩原朔太郎の中で起動し、多量に生み出された、私が「〈「竹」詩想〉詩篇」と呼んでいる一群の一つである。初出形を以下に示す。

   *

 

 

 

竹の節はほそくなりゆき、

竹の根はほそくなりゆき、

竹の毛先は地下にのびゆき、

錐のごとくになりゆき、

絹糸のごとくにかすれゆき、

けぶりのごとく消えさりゆき。

 

その髮もみだれみだれし、

くらき牢屋(ひとや)に罪びとは、

懺悔(ざんげ)の巢をぞかけそめし。

 

   *

本篇には、筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」に草稿が二篇(孰れも無題)載る(草稿は三種とする内の二篇)。以下に続けて示す。脱字や誤字と思われるものは総てはママ。

   *

 

  

 

はしぜんにかれ冬の日のさびしらにの節は細くなりゆき

竹の根は細くなりゆき

けむりのごとくになり

根は地面の下に垂直し

錐のごとくになるなりするどく

しぜんに糸絹糸さびしやのごとくになり

けむりのごとくに消えつみびとのひとやのひとやの奧に

 

竹の葉は

つみびの髮は 長くのびゆきて みだれ よごれて みだれて

しぜんその指さきに

①懺悔を凍る冬の日に

①つみびとの髮は垢に ちりにけがされみだれみだれてにみだれ

①ひとやのくらきひとやの奧にに巢となりぬをかけそめぬ

②その髮もみだれみだれてにみだれ

②くらき牢屋につみびとは

②懺悔の巢をぞかけそめぬ

[やぶちゃん注:①と②は私が附した。これは①群の三詩句と、②群の二詩句がそれぞれに並列されて残存していることを示す。]

 

 

  

 

竹の節はほろびそくなりゆき

竹の根はほそくなりゆき

その*先は//毛先は//纖毛は*地下にのびゆき

[やぶちゃん注:以上の「*」「//」は私が附した。ここは「その」の下、地下にのびゆきの上に、「先は」・「毛先は」・「纖毛」の三つが並置残存していることを示す。]

錐の如くになりのびゆき

絹糸の如くにもかすれゆき

けぶりの如きにきえさりゆき

 

みよいまし

その髮もみだれくに みだれし

みよいましひとやのすみにつみびとは

ああいまし

懺悔の巢をぞかけそめぬ

つみびとの髮はみだれみだれて

みよああいましみよひとやのすみに

懺悔の巢をぞかけそめし。

         ――淨罪詩扁――

 

  (巢)

 

   *

編者注に最後にある『「(巢)」は本稿の後部欄外に記入されている』とある。

   *

 萩原朔太郎の病的な「竹」シリーズはそれだけを追ってもよい彼の詩想中の巨大な核の一つであることは言うまでもない。衆人の前にその病的にして波状的な痙攣的フレーズが曝されたのがこの大正四年の初めであった。何より、「月に吠える」巻頭に配された、

「地面の底の病氣の顏」(萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 序(北原白秋・萩原朔太郎)目次その他・「地面の底の病氣の顏」

が既にその疾患の徴候を読者に示し、而して満を持して誰もが知っている、

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 竹

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 竹 (同題異篇)

の症例が、衛生博覧会よろしく、デロリと展示される。しかも、それらは、

白い朔太郎の病氣の顏 萩原朔太郎 (「地面の底の病氣の顏」初出形)

竹 萩原朔太郎 (「月に吠える」の「竹」別ヴァージョン+「竹」二篇初出形)(これは『――大正四年元旦――』のクレジットを持つ)

竹の根の先を掘るひと 萩原朔太郎 (「竹」別ヴァージョン)

また、未発表の、

(無題) 萩原朔太郎 (「竹」詩想篇)

穴 萩原朔太郎 (「竹」詩想篇)

祈禱 萩原朔太郎 (「竹」詩想篇)

(無題)・祈禱 萩原朔太郎 (未発表詩「祈禱」草稿二篇)

といった隠しカルテもある。萩原朔太郎という竹根妄想症候群(Bamboo roots delusion syndrome)は近代日本作家の病跡学の教科書的タイプ症例と言ってよい。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 白夜

 

   白 夜

 

夜霜まぢかくしのびきて

跫音(あのと)をぬすむ寒空(さむぞら)に

微光のうすものすぎさる感じ

ひそめるものら

遠見の柳をめぐり出でしが

ひたひたと出でしが

見よ 手に銀の兇器は冴え

闇に冴え

あきらかにしもかざされぬ

そのものの額(ひたひ)の上にかざされぬ。

 

[やぶちゃん注:初出は大正四(一九一五)年一月号『地上巡禮』。以下に初出形を示す。

   *

 

 白夜

 

夜霜まぢかくしのびきて、

跫音(あのと)を盜む寒ぞらに、

微光のうすものすぎ去る感じ、

ひそめるものら、

遠見(とほみ)の柳をめぐり出でしが、

ひたひたと出でしが、

みよ手に銀の兇器は冴え、

闇に冴え、

あきらかにしもかざされぬ、

そのものゝ額の上にかざされぬ。

          ――十一月作――

 

   *

なお、本篇には、筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」に草稿が一篇(無題)載る(草稿は三種とする内の一篇のみ)。以下に示す。□は底本編者の判読不能字。

   *

 

  

 

白金微光のよるきたり

夜天の□羅よるしだいにふけ

裸服の→おみなごの 靑ざめし裸體をすかす

光る→靑夜光のうすもの衣裝のすぎ行くところ

靑ざめし裸形 靈をすかす空氣のそこに

光のうすものすぎ去る ところ 感じゆくけはひし

ひたひたとよる女の女子のあゆみ いのりを感じちからを感じて

ひそめるものら

遠見の柳をめぐりいでしが、

みよ、そがかれの兇器は、あきらかに光り額にふりかざさる、

 

   *

最後に編者注があり、採用しなかった『他の草稿では』「白夜兇行」及び「柳」『と題する』とある。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 龜

 

   

 

林あり

沼あり

蒼天あり

ひとの手には重みをかんじ

しづかに純金の龜ねむる

この光る

さびしき自然のいたみにたえ

ひとの心靈(こゝろ)にまさぐりしづむ

龜は蒼天のふかみにしづむ。

 

[やぶちゃん注:七行目末の「たえ」はママ。「月に吠える」より再録。『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 龜』と対照されたいが、「たへ」は元版では正しく「たえ」で、四行目の「重みをかんじ」、七行目冒頭「さびしき」がそれぞれ、元版では「おもみを感じ」、「寂しき」となっている。再録では以上の表記換え以外に、初版にあった四行目と句点の終行を除いて打たれてあった読点が総て除去されてあるのだが、実はこの読点除去の形は「月に吠える」再版(初版刊行の五年後の大正一一(一九二二)年三月アルス刊)の表記と一致するので、実際の手入れは四行目・七行目の表記換えだけである。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 天路巡歷

 

   天路巡歷

 

おれはかんがへる

おれの長い歷史から

なにをして來たか

なにを學問したか

なにを見て來たか。

 

いつさいは祕密だ

だがなんて靑い顏をした奴らだ

おれの腕にぶらさがつて

蛇のやうにつるんでゐた奴らだ

おれは決して忘れない

おれの長い歷史から

あいつらは

死よりも恐ろしい祕密だ。

 

おれはかんがへる

そのときまるであいつらの眼が

おれの手くびにくつついてゐたことを

おれの胴體に

のぞきのがねを仕掛けた奴らだ

おれをひつぱたく

おれの力は

馬車馬のやうにひつぱたく。

 

そしてだんだんと

おれは天路を巡歷した

異樣な話だが

おれはじつさい 獨身者(ひとりみ)であつた。

 

[やぶちゃん注:「のぞきのがね」はママ。初出から「のぞきめがね」(覗き眼鏡)の誤植である。初出は大正四(一九一五)年一月号『異端』。初出形を以下に示す。

   *

 

 天路巡歷

 

おれはかんがへる、

おれの長い歷史から、

おれはなにをして來たか、

なにを學問したか、

なにを見て來たか。

 

いつさいは秘密だ、

だがなんて靑い顏をした奴らだ、

おれの腕にぶらさがつて、

蛇のやうにつるんでゐた奴らだ、

おれは决して忘れない、

おれの長い歷史から、

あいつらは、

死よりも恐ろしい秘密だ、

 

おれはかんがへる、

そのときまであいつらの眼が、

おれの手くびにくつゝいてゐたことを、

おれの胴體に、

のぞきめがねを仕掛けた奴らだ、

おれをひつぱたく、

おれの力は、

馬車馬のやうにひつぱたく。

 

そしてだんだんと、

おれは天路を巡歷した、

異樣な話だが、

おれは實際、獨身者(ひとりみ)であつた。

 

   *

各連最終行以外に総ての行末(に読点が打たれてあること最終行は途中にも打たれてある)、「秘」「决」「實際」の字体異同を除くと、第三連二行目が「そのときまであいつらの眼が、]が大きな異同で、本篇では「そのときまるであいつらの眼が」である。ここは「まで」では微妙に同連内での続き具合に躓きが起こるので、「まるで」の初出の際の原稿の脱字或いは誤植が疑われる。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 かなしい薄暮

 

   かなしい薄暮

 

かなしい薄暮になれば

勞働者にて東京市中が滿員なり

それらの憔悴した帽子のかげが

市街(まち)中いちめんにひろがり

あつちの市區でもこつちの市區でも

堅い地面を掘つくりかへす

掘り出して見るならば

煤ぐろい嗅煙草の銀紙だ

重さ五匁ほどもある

にほひ堇のひからびきつた根つ株だ

それも本所深川あたりの遠方からはじめ

おひおひ市中いつたいにおよぼしてくる。

なやましい薄暮のかげで

しなびきつた心臟がしやべるを光らす。

 

[やぶちゃん注:「月に吠える」の「かなしい遠景」の改題再録。『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 かなしい遠景』と比較対象されたい。標題変更以外には、最終行が「しなびきつた心臟がしやべるを光らしてゐる。」とある以外は有意な表現変更はない。はそちらで詳細語注もしてある。但し、「嗅煙草」(かぎたばこ)であるが、私自身、使用したことはないが、所謂、口腔内に固形煙草片を入れてニコチンを体内に吸収するもので、「噛み煙草」と同じく、燃やしたり、煙が出るタイプではない。本邦でも(見たことはないが)売っている。なお、詩集原本の当該部を見られたいが、上記の通り、十行目のスミレは「菫」ではなく、異体字の「堇」である。

2021/12/26

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 悲しい月夜

 

   悲しい月夜

 

ぬすつと犬めが

くさつた波止場の月に吠えてゐる

たましひが耳をすますと

陰氣くさい聲をして

黃色い娘たちが合唄してゐる

合唄してゐる

波止場のくらい石垣で。

 

いつも

なぜおれはこれなんだ

犬よ

靑白いふしあはせの犬よ。

 

[やぶちゃん注:「月に吠える」からの再録。「合唄」は「月に吠える」でも同じ。これではとても「合唱」とは読めないが、朔太郎は「がつしやう」と当て読みしていると考えるべきであろうか。後発の生前の詩集群では「合唱」に書き直されてある。但し、「萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「午後」(9) たそがれ Ⅵ」(私のブログ分割版。一括縦書ルビ版(PDF・1MB弱)もある)では、一首に「ある宵のオペラの序幕合唄隊(コーラス)の中に見し人わすられぬ哉」という用例があり、この二字で「コーラス」という読みも排除出来ない。因みに、この当て読みのケースは私の「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳)」でも、二度、出現しており(ここと、ここ)、後者では「合唄(コーラス)」というルビも施されてある。『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 悲しい月夜』と比較されたい。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 酢えたる菊

 

   酢えたる菊

 

その菊は酢え

その菊はいたみしたたる

あはれあれ霜月はじめ

わがぷらちなの手はしなへ

するどく指をとがらして

菊をつまんとねがふより

その菊をばつむことなかれとて

かがやく天の一方に

菊は病み

酢えたる菊はいたみたる。

 

[やぶちゃん注:「月に吠える」からの再録であるが、題名は「すえたる菊」から漢字での以上の表記に変わった。最終行以外に総て読点が打たれていること以外に、各所での「すゆ」の漢字表記が違っている以外は、詩想の変化はない。私の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 すえたる菊』と比較されたい。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 輝やける手

 

   輝やける手

 

おくつきの砂より

けちえんの手くびは光る

かがやく白きらうまちずむの死蠟の手

指くされども

らうらんと光り哀しむ。

 

ああ故鄕にあればいのち靑ざめ

手にも秋くさの香華おとろへ

靑らみ肢體に螢を點じ

ひねもす墓石にいたみ感ず。

 

みよ おくつきに銀のてぶくろ

かがやき指はひらかれ

石英の腐りたる

われが烈しき感傷に

けちえんの、らうまちずむの手は光る。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。最終行の同語には傍点はない。

「らうまちずむ」は自己免疫疾患の一つで機序がよく判っていないリウマチ(rheumatism:英語のカタカナ音写は「リュマティズム」が近い)のこと。関節・骨・筋肉の強張り・腫 れ・痛み・変形などの症状を呈する疾患の総称。古代には「悪い液が身体各部を流れていって起こる」と考えられ、名は「流れる」の意のギリシャ語に由来するほどに古い。現在は主に「慢性関節リウマチ」を指す。「リューマチ」「ロイマチス」とも表記する。

「死蠟」は「屍蠟」(「石竹と靑猫」の私の注を参照)に同じ。筑摩版校訂本文は勝手に「屍蠟」に変えてあるが、誤字でもないものを、こんなことをする権利も正当性も、全く以って、ない。殆んど、差別用語の言葉狩りの狂信的ヒート・アップと同じである。

「らうらん」は「老懶」「老爛」で 年老いて物憂いこと。また、そのさまを言う語。

 初出は大正四(一九一五)年一月号『異端』であるが、標題は「墓參」。以下に示す。歴史的仮名遣の誤りや誤字(屍臘)は総てママ。太字は同前(こちらでは最終行の「らうまちずむ」にも振られてある。

   *

 

 墓參

 

おくつきの砂の中より、

けちゑんの手くびは光る、

かゞやく白きらうまちずむの屍臘の手、

指くされども、

らうらんと光り哀しむ。

 

あゝ、故鄕(ふるさと)にあればいのち靑ざめ、

手にも秋くさの香華(かうげ)おとろへ、

靑らみ肢體に螢を點じ、

ひねもす墓石にいたみ感ず。

 

みよ、おくつきに銀のてぶくろ、

かゞやき指はひらかれ、

石英の腐りたる、

我れが烈しき感傷に

けちゑんの、らうまちずむの手は光る。

 

   *

なお、筑摩版全集の『草稿詩篇 蝶を夢む』の最後には、『輝やける手(本篇原稿一種二枚)』としつつも、掲げずに、『本篇原稿の題名は「墓參」とある』とのみ記す。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 松葉に光る

 

   松葉に光る

 

燃えあがる

燃えあがる

あるみにうむのもえあがる

雪ふるなべにもえあがる

松葉に光る

縊死の屍體のもえあがる

いみじき炎もえあがる。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。初出は大正四(一九一五)年二月発行の『遍路』。。詩篇本文に異同はないが、標題が「炎上」であるから、以下に示す。太字は同前。

   *

 

 炎上

 

もえあがる

もえあがる

あるみにうむのもえあがる

雪ふるなべにもえあがる

松葉に光る

縊死の屍體のもえあがる

いみじき炎もえあがる。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 松葉に光る 詩集後篇(標題)・自注・「狼」

 

松葉に光る    詩集後篇

 

[やぶちゃん注:パート標題。その裏に以下の自注。]

 

 

この章に集めた詩は、「月に吠える」の前半にある「天上縊死」「竹と哀傷」等の作と同時代のもので、私の詩風としては極めて初期のものに屬する。すべて「月に吠える」前派の傾向と見られたい。但し内八篇は同じ詩集から再錄した。

 

 

   

 

見よ

來る

遠くよりして疾行するものは銀の狼

その毛には電光を植ゑ

いちねん牙を硏ぎ

遠くよりしも疾行す。

ああ狼のきたるにより

われはいたく怖れかなしむ

われはわれの肉身の裂かれ鋼鐵(はがね)となる薄暮をおそる

きけ淺草寺(せんさうじ)の鐘いんいんと鳴りやまず

そぞろにわれは畜生の肢體をおそる

怖れつねにかくるるにより

なんぴとも素足をみず

されば都にわれの過ぎ來し方を知らず

かくしもおとろへしけふの姿にも

狼は飢ゑ牙をとぎて來れるなり。

ああわれはおそれかなしむ

まことに混鬧の都にありて

すさまじき金屬の

疾行する狼の跫音(あのと)をおそる。

 

[やぶちゃん注:標題の「狼」の字に限っては(本文は普通に「狼」。底本画像を参照されたい)、(つくり)「良」の一画目が点ではなく、「一」の字体。グリフウィキのこれ

「怖れつねにかくるるにより」は「そぞろにわれは畜生の肢體をおそ」れているが、その「怖れ」は「つねに」私自身が「かくるる」ように殊更に振る舞っている「により」(から)「なんぴとも素足をみず」(何人(なんぴと)も私の顫える素足を見ることはない)という意であろう。かなり捩じれた朔太郎好みの病的な表現である。

「混鬧」「こんどう」と読み、「人で溢れかえって騒々しい様子」の意。

 初出は大正四(一九一五)年一月号『詩歌』。初出形を以下に示す。歴史的仮名遣の誤り及び誤植(ルビ「はねが」や「嗚りやまず」の「嗚」)は総てママ。

   *

 

   

 

見よ、

來る、

遠くよりして疾行するものは銀の狼、

その毛には電光を植え、

いちねん牙を研ぎ

遠くよりしも疾行す、

あゝ、狼のきたるにより、

われはいたく怖れかなしむ、

われはわれの肉身の裂かれ鋼鐵(はねが)となる薄暮を怖る、

きけ、淺草寺の夕ぐれの鐘嗚りやまず、

そゞろに我は畜生の肢體をおそる

怖れつねにかくるゝにより、

なんぴとも素足を見ず、

されば都にわれの過ぎ來し方を知らず、

かくしもおとろへしけふの姿にも、

狼は飢え牙をとぎて來れるなり、

あゝわれは怖れかなしむ、

まことに混鬧の都にありて、

すさまじき金屬の、

疾行する狼の跫音(あのと)を怖る。

               ――その二――

 

   *

「その二」とあるが、筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶に夢む」に本篇の草稿として『五種七枚』とあることから、その草稿の中の「二」番目の決定稿という意味であろうか。「その一」がこれ以前に発表された形跡はない。以下にそこに挙げられている二篇(他は載らない)の草稿を以下に示す。行頭にある数字は朔太郎が打ったもの。歴史的仮名遣の誤りや誤字と思われるものは総てママ。

   *

 

 感傷→念願

 祈願

 

夕ぐれかけていつさんにきた れる るものは

1もとめきたるあくなきものは乞食→蓄生狼なり

2その毛に、はがね電光をうえ、牙を硏ぎ、

3われを喰みわれを殺す、

4もとめえざるものは乞食なりああわれはおもう

いのれしからずんば 死がいか 乞食の手より

5われはわれの肉身のはがねとなる夕をおそる

そのすぎこし方を知らず

6きけ夕の鐘鳴りやまず

きけ上野東叡山のきけ淺草の夕の寺の鐘こんこんと鳴りもやまず

7そゞろに我は蓄生の心をおそる

8そのさればわがすぎこし方を知らず

9なんぴとも素足を見ず

われはわれの天上にあり

蓄生の心を知らず

乞食の心を感ぜず

いはんや

せんちめんたるの子

合掌していんよくの路をたどる

10かくしもおとろへはてし我の心に瞳に

11狼は牙をとぎて來れるなり、

12まことにわれはおそる

13遠くより都にありてすさまじきどんよくの靈感のけものをおそる、

 

 

  

 

狼きたる

ああみよ狼きたる、

この薄暮靈感のあひだ、薄暮閉光のあひだ

遠くよりましぐらに疾行する

みよ遠くよりして疾行するものは靈感の銀の狼なり、

その毛には電光をうゑ

いちねん牙をとぎ

われを喰みわれを殺さむとす

われああ狼のちかづくにより

われはいたくおそれ哀しむ、

われはわれの肉身の裂かれ鋼鐵となる薄暮をおそる、

きけ上野淺草寺の夕べゆうぐれの鐘鳴りやまず

そゞろに我は蓄生の肢體をおそる

おそれつねにのがるかくるゝにより

なんぴとも素足をみず

されば都に我のすぎこし方を知らず

かなしみかくしもおとろへし今日の瞳にも姿にも

狼は尙牙をとぎて來れるなり

ああわれはおそれ哀しむ、

まことに雜鬧の都にありて

すさまじき靈惑のけものをおそる。

 

   *

後半の無題詩には編者注があり、『欄外に「玻璃」と附記されている。』とある。「雜鬧」は「雑踏」に同じで、決定稿の「混鬧」に同じ。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 波止場の烟

 

   波止場の烟

 

野鼠は畠にかくれ

矢車草は散り散りになつてしまつた

歌も 酒も 戀も 月も もはやこの季節のものでない

わたしは老いさらばつた鴉のやうに

よぼよぼとして遠國の旅に出かけて行かう

さうして乞食どものうろうろする

どこかの遠い港の波止場で

海草の焚けてる空のけむりでも眺めてゐやう

ああ まぼろしの乙女もなく

しをれた花束のやうな運命になつてしまつた

砂地にまみれ

礫利食(じやりくひ)がにのやうにひくい音(ね)で泣いて居やう。

 

[やぶちゃん注:「眺めてゐやう」「居やう」はママ。

「礫利食(じやりくひ)がに」種同定不能。「砂利喰蟹」の音からは、ジャリガニで、十脚(エビ)目ザリガニ下目アメリカザリガニ科アメリカザリガニ属アメリカザリガニ亜属アメリカザリガニ Procambarus(Scapulicambarus) clarkii を想起される方が多いであろうが、それはあり得ない。何故なら、アメリカザリガニは昭和二(一九二七)年五月十二日に、やはり外来種で食用目的での大正七(一九一八)年に移入されたウシガエル(ナミガエル亜目アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属ウシガエル Rana catesbeiana )の餌として移入されたものだからである。則ち、本詩集が刊行された大正一二(一九二三)年にはアメリカザリガニはいないからである(ウシガエル移入問題とウシガエル及びアメリカザリガニが本邦に蔓延してしてしまった理由については、『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (九)』の私の『「此處ではそれをヒキガヘルと呼んで居るけれども、自分は蝦蟇だと思ふ。『ヒキガヘル』といふ語は、普通蝦蟇(ブル・フロツグ)に與へて居る名である」「ヒキガヘル」「蝦蟇」「蝦蟇(ブル・フロツグ)」』の注を読まれたい。因みに、その元凶の発生源は、私の住む鎌倉であり、私が教員時代、数年下宿していた岩瀬なのである)。本邦には在来固有種で、ザリガニ下目ザリガニ上科アジアザリガニ科 アジアザリガニ属ニホンザリガニ Cambaroides japonicus がいるが、「砂地にまみれ」という表現は同種らしくなく、私は比定し得ない。寧ろ、これは河口付近の汚らしく見える砂地や泥地に棲息している(恰も砂利を食っているようにしか見えない、砂泥に「まみれた」複数種のみすぼらしい蟹類(恐らくは小型の蟹)を漠然と指しているものと思われる。

 初出は大正一二(一九二三)年五月号『婦人公論』。初出の標題はただの「烟」である。以下に示す。歴史的仮名遣の誤りは総てママである。総ルビであるが、一部に留めた。

   *

 

 

 

野鼠は畠(はたけ)にかくれ

矢車草はちりぢりになつてしまつた

歌も、酒も、戀も、月も、もはやこの季節のものでない

わたしは老いさらばつた鴉のやうに

よぼよぼとして遠國(ゑんごく)の旅に出かけて行かう

さうして乞食どものうろうろする

どこかの遠い港の波止場で

海草の焚(や)けてる空のけむりでも眺めてゐやう。

ああまぼろしの乙女もなく

しほれた花束のやうな運命になつてしまつた

砂地にまみれ

礫利食(じやりく)ひ蟹(がに)のやうにひくい音(ね)で泣いてゐやう。

 

   *

 なお、本篇を以って詩集「蝶を夢む」の「詩集前篇」は終わっている。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 農夫

 

   農 夫

 

海牛のやうな農夫よ

田舍の家根には草が生え、夕餉(ゆふげ)の烟ほの白く空にただよふ。

耕作を忘れたか肥つた農夫よ

田舍に飢饉は迫り 冬の農家の荒壁は凍つてしまつた。

さうして洋燈(らんぷ)のうす暗い厨子のかげで

先祖の死靈がさむしげにふるへてゐる。

 

このあはれな野獸のやうに

ふしぎな宿命の恐怖に憑(つ)かれたものども

その胃袋は野菜でみたされ くもつた神經に暈(かさ)がかかる。

冬の寒ざらしの貧しい田舍で

愚鈍な 海牛のやうな農夫よ。

 

[やぶちゃん注: 「海牛」には後発詩集でもルビがない。従って、「うみうし」と読んでいるか、「かいぎう」と読んでいるか、判らぬ。現代の圧倒的一般人は「うみうし」と読んでしまうだろう。しかし、それは正当か? この農夫の形容は、「耕作を忘れたか」と見えるような「肥つた農夫」であり、それはまさに「このあはれな野獸のやうに」「ふしぎな宿命の恐怖に憑(つ)かれたものども」の表象であり、「その胃袋は野菜でみたされ くもつた神經に暈(かさ)がかか」っている奇体な生き物である。しかも、それは、「冬の寒ざらしの貧しい田舍で」の嘱目である。

 無論、これを「海牛」=ウミウシ(軟体動物門腹足綱異鰓上目 Heterobranchia に属する後鰓類(Opisthobranchia:近年はこれに階級を与えないが和名呼称としては親しい。これはラテン語の“opistho”(後ろの)+“brankhia”(鰓)である。)の中でも、貝殻が縮小するか、体内に埋没或いは完全に消失した種などに対する一般的な総称(当該体制を持つ総てを必ずしもウミウシと呼ぶ訳ではない)。特に異鰓上目裸鰓目 Nudibranchia(新分類では裸鰓亜目 Nudibranchia(同綴り))が典型的なウミウシとされることが多く、ウミウシとは裸鰓類のことであるとされることもあるが、裸鰓類以外の後鰓類にも和名にウミウシを含む種は多く、和名にカイ(貝)を含む種でも貝殻が極めて小さく、分類するに際してはウミウシに含められる種も少なくない)ととっても意味は通じるように見える(ウミウシについては、私の「生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 二 雌雄同體 ウミウシ」を見られたい。萩原朔太郎は、海辺で観察出来る海産無脊椎動物を、この時期、盛んに詩篇に読み込んでいるから、違和感はない。私の偏愛するウミウシ類は一般人から見れば、奇体である。

 だが、私はこれを、そうは読まない。これは「海牛」で「かいぎう(かいぎゅう)」と読みたい。このシチュエーションの中で、田舎の貧しいが、太った、畑中で動かない鈍重な農夫の形象――「このあはれな野獸のやうに」想起され、事実、「ふしぎな宿命の恐怖に憑(つ)かれたものども」として既に地球上から人間によって絶滅させられた巨大な優しき水棲哺乳類で、「その胃袋は野菜でみたされ くもつた神經に暈(かさ)がかか」っているような、草食性の奇体な巨大な海の野獣が――嘗ていた――からである。萩原朔太郎は、それを話しで知っていたとしても、おかしくない。而して、「海牛」という、それは、現生種では

海牛(ジュゴン)目Sirenia

 ジュゴン科Dugongidae ジュゴン属ジュゴン Dugong Dugon (一属一種)

 マナティー科 Trichechidaeマナティー属

   アマゾンマナティ Trichechus inunguis

   アメリカマナティ Trichechus manatus

   アフリカマナティ Trichechus senegalensis (一族三種)

である(但し、目の和名の狭義の「海牛」は、本来は、マナティ類を指す)。しかし、私は敢えてここでは、人魚のモデルとされるジュゴンやマナティ――ではない――としたい。私はここに出る朔太郎の言う「海牛」は、断然、

哺乳綱海牛目 Sirenia ジュゴン科 Dugongidae ステラーカイギュウ亜科 Hydrodamalinae ステラーカイギュウ属ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas

と読みたいのである。

 カイギュウ類の寒冷地適応型の一種で、体長七~九メートル、最大体重は実に九トンにも及ぶ巨大水棲獣であった。ロシアのベーリング率いる探検隊の遭難によって一七四二年(寛保二年相当)に発見された彼らは、その温和な性質や、傷ついた仲間を守るために寄ってくるという習性から、瞬く間に食用に乱獲され、一七六八年(天明六年相当)を最後に、発見報告が絶える。人間に知られて僅か二十七年の命であった。私は、こうした過去の事実を知った萩原朔太郎が、ここに、既にこの世から絶滅させられてしまった哀れな彼らを、秘かに現出させたのであると思う。環境保護が叫ばれる今でこそ、少しは知られるようになった彼らだが、反して「地球にやさしい」を嘯く僕たちは、欲望の赴くまま、容易に普段のやさしさを放擲して、不敵な笑いを浮かべながら、第二のステラダイカイギュウの悲劇を他の生物にも向けるであろう点に於いて、何等の進歩もしていない。それは、バチルス、トリパノゾーマ、いや、生物と無生物の狭間にいるウィルス以下の存在だ。ステラーカイギュウの頭骨の哀しそうに語りかけてくるそれに、僕たちは耳を傾けねばならない。最後の言葉をずっと昔に述べた、私の南方熊楠「人魚の話」もある。

「厨子」の「厨」は「廚」の俗字(「厨子」(ずし)は筑摩版全集校訂本文では「廚」に消毒されているが、後発の詩集の再録では一貫して「厨子」である。こんなこの筑摩版全集でしか見られない校訂本文にどんな意味があるのか、それが定本となって流布することにどんな絶対的正当性があるのか、私は甚だ不思議に思う)。「廚子・厨子」は日本だけで用いられる訓義で、神仏の像を入れる二枚扉の附いた堂形の箱。ここでは、ごく粗末な小さな仏壇。

 なお、本篇の初出は未詳である。]

2021/12/25

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(8)/「牛王の名義と烏の俗信」~了

 

      結 論

 

 と云ふと大層だが、こんなに長く書ては何とか締りを附けざ成らぬ。本篇牛王の事を一寸書く積りで、烏の事が以ての外長く成つた。上述の外に烏に關する俗信古話は甚だ多く、其は其は山烏の頭が白く成る迄懸つても書き悉されぬから、善い加減に果(はて)として結論めきた者を短く口上と致さう。文獻乏しき世の事が永く後(あと)へ傳はらぬは、北米の印甸人(インジアン)印度のトダ人南洋や亞非利加に其例頗る多きは先輩の定論有り。然しながら未開の民とても既に人間たる上に、多少の信念も習慣風俗も有つたに相違無いから、後日追々他方から種々と文化を輸入しても固有の習慣信念全くは滅びず、幾分か殘り留まる。斯る事物を總稱してフオークロール(俚俗)、之を硏覈[やぶちゃん注:「けんかく」。底本は「硏劒」だが、選集で訂正した。「覈」は「調べる」の意で、事実を詳しく調査し明らかにすること。「研究」に同じ。]する學をもフオークロール(俚俗學)と云ふ。舊俗の一朝にして亡び難きは、舊曆の正月祝や盆踊が何に[やぶちゃん注:「いかに」。]禁制しても跡を絕たず動(やゝ)もすれば再興せらるゝで知れる。されば、熊野烏の尊ばれたなども之に關して外國と異なる事共多きより推すと、もと熊野に烏を神視する固有の古俗有つて、其事或は外國に類例有り或はこれが無かつた。然る處へ外國から牛王の崇拜入來つたので、本來、烏を引いて誓言すると、新來、牛王を援(ひ)いて盟證すると丁度似た所から、烏像を點じて牛王寶印とし、牛王と云へば烏の畫札(ゑふだ)と解する迄因習流行した事と惟ふ[やぶちゃん注:「おもふ」。]。扨偶然の符合ながら、印度で烏と牛と親愛する事實話なども大に此融通を助成したゞらう。其牛王と云ふは、印度に牛を裁判の標識とし誓言の證據に立つる事有り、又大自在天や大威德明王如き强勢な神も、閻魔王如き冥罰を宰る[やぶちゃん注:「つかさどる」。]神も皆、牛を使物とする所から、本邦に佛法入つてより牛を誓言や冥罰の神としたので、曾我物語に牛王の渡ると見えてと有るも、祈禱が聽かれた標[やぶちゃん注:「しるし」。]に祭神(さいしん)の裁可通り、法を執行し來る神を指した者で、先は[やぶちゃん注:「まづは」。]牛頭馬頭(ごづめづ)が人の死際に火の車もて迎ひに來る樣な事と思ふ。

    (大正五年鄕土硏究第三卷第十二號)

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。以下の太字も同じ。

「トダ人」インドのタミル・ナードゥ州にあるニールギリ丘陵(グーグル・マップ・データ)に居住する少数民族トダ族。

「曾我物語に牛王の渡ると見えてと有る」後の「追記」の「二」の「病氣を人に移す修法成就の際、牛王といふ神が渡ると同時に供物が自ら動き出す」とあるそれは、本篇冒頭で既出(原文も引用されてある)既注。]

 

 

追 記

、牛王に就て (鄕硏三卷六四二頁參照)牛黃(ごわう)を確かに牛王と書いた例は、川角太閤記卷四、「慶長元年遊擊(遊擊將軍沈惟敬)參る時、秀吉へ進物は、沈香のほた一かい餘り、長さ二間、間中(まんなか)高さ三寸、廻り一尺の香箱(かうばこ)に入れ申候。八疊釣の蚊帳、但し色は蟬の羽毛(蟬とはカワセミなるべし)、藥種、龍腦、麝香、人參、牛王の由、以上七色、其外、卷物、綾、羅、錦紗の類也云々」とある。此序に申す。印度の烏が水牛の爲に牛虱を除く由を述べたが(三卷六四九頁)、十八世紀の英人ギルバート、ホワイトのセルボーン博物志にも、「白種、灰色種の鶺鴒が牛の腹や鼻邊から脚邊に走り廻り、牛にとまる蠅を食ふ。又足下に踏殺された蟲をも食ふならん。造化經濟の妙、乃ち斯る不近緣の二物をして能く相利用せしむ」とある。吾邦の鶺鴒にも亦斯くの如き行爲ありや否。

      (大正五年鄕硏究第四卷第一號)

、鄕硏三卷六四二頁に曾我物語から、病氣を人に移す修法成就の際、牛王といふ神が渡ると同時に供物が自ら動き出す一條を引いた。頃日、義經記卷五「吉野法師が判官を追掛奉る事」を讀むと、義經、衆徒を追却けて後、餅を取出だして從者に頒つに「辨慶を召して是れ一つづゝと仰せければ、直垂の袖の上に置てゆづりはを折て敷き、一つをば一乘の佛に奉る。一つをば菩提の佛に奉る。一つをば道の神に奉る。一つをばさんじんごわうにとて置たりけり」。是は山神牛王で、牛王といふ特種の神が中古崇敬せられた今一つの證據と見える。或はごわうは護法の假名を誤寫したのかとも惟ふが、曾我物語に牛王と書き、印度で牛を神視する事既に述べた如くだから、多分は矢張り牛王で有らう。

 又烏で占ふ例を種々擧げたが、多くは其鳴聲に由るもので、其坐位を察て[やぶちゃん注:「みて」。]卜ふのは J. Theodore Bent,“The Cyckades,” 1885, p.394 に一つ見える。云く希臘のアンチパロス島は史書載する事無く唯海賊の巢栖(すみか)なりし。又只今も碌な者棲まず。パロス島人、此島民を蔑んで烏と呼ぶ。以前は尤も迷信深く主として烏を相(み)て占へり。例せば烏が樹に止るに北側ならば萬づ無事だが、南側ならば海賊海峽に入れる徵と斷じ、忙ぎ走つて邑の諸門を閉じたと。熊楠謂ふに烏は眼至つて明かに且つ注意深い者故、自然、海賊の來るのを怪んで其方を守り坐るのだらう。從つて此占ひなどを單に迷信と笑ふてのみ過すべきで無い。

 六四八頁に地獄で烏が罪人を食ふちう佛說を擧げたが、現世に烏に人を食はせた基督敎國の例もある。十三世紀にクーロンジユの大僧正アンリ一世は、フリデリク伯の手足、頸、脊を輾折(しきを)り、扨、餘喘あるまゝ烏に與へて倍(ますま)す苦んで死せしめた(Henri Estienne, “Apologie pour Herodote,” ed. 1879, Paris, tom.i, p.65)。次に、七三八頁に比丘尼等賤妓と烏の關係を一寸述べたが、延寶四年[やぶちゃん注:一六七六年。]板談林十百韻第十の百韻のうち、「比丘尼宿はやきぬぎぬに歸る雁、卜尺」、「かはす誓紙のからす鳴く也、一朝」、「終は是れ死尸(しかばね)さらす衆道ごと、志計」。賣色比丘尼や男色の徒が烏を畫(ゑが)いた牛王で誓ふを詠(よん)んだ物たる事勿論だが、當初、熊野比丘尼が牛王を賣りあるいたに因(ちな)んだ作意でもあらう。西鶴の好色一代女に、大阪川口の碇泊船を宛込(あてこん)で婬を鬻いだ歌(うた)比丘尼を記して、「絹の二布(ふたの)の裾短かく、とりなり一つに拵(こしら)へ、文臺に入(いれ)しは、熊野の牛王、酢貝(すがひ)、耳姦(みゝかしま)しき四つ竹、小比丘尼に定まりての一升干杓(びしやく)」と云へるが其證據だ。

      (大正五年鄕硏究第四卷第七號)

[やぶちゃん注:本文内の太字は底本では傍点「◦」。『川角太閤記卷四』「慶長元年遊擊(遊擊將軍沈惟敬)參る時、秀吉へ進物は……」「川角太閤記」は「かわすみたいこうき」(現代仮名遣)と読む。江戸初期に書かれたとされる豊臣秀吉に関する逸話を纏めたもの。全五巻。主に「本能寺の変」から「関ヶ原の戦い」までの期間が記されている。本来は単に「太閤記」といったが、後になって他の「太閤記」と区別するために著者川角三郎右衛門の名を冠して呼ぶようになった。作者は、大名で筑後国主であった田中吉政(天文一七(一五四八)年~慶長一四(一六〇九)年)に仕えた武士。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの明四二(一九〇九)年共同出版刊の共同出版株式会社編輯局編「川角太閤記 下卷」のここ(左ページ四行目以降)。

「ギルバート、ホワイトのセルボーン博物志」「南方熊楠 小兒と魔除 (5)」の私の「G. White, ‘The Natural History and Antiquities of Selborne’」の注を参照されたい。訳本を所持しているのだが、書庫の底に沈んで見当たらず、当該箇所を示せない。悪しからず。

『義經記卷五「吉野法師が判官を追掛奉る事」を讀むと、義經、衆徒を追却けて後、餅を取出だして從者に頒つに……』所持する岩波古典文学大系(東洋文庫藏本底本)で確認。

さんじんごわう」は「山神護法(さんじんごわう)」と表記し、前記の岩波の岡見正雄氏の頭注では、

   《引用開始》

 山神午王とする校注本もあるが、田中本「さんしんこほう」とある。山神護法、即ち山の神と解すべきで、護法は元来仏教を擁護する護法善神の意で、平安時代以来験徳ある僧侶には護法(乙護法)がつき仕え、その意のままに駆使された。書写の性空上人や信貴山縁起絵巻の乙(おと)護法など有名であるが、修験道でも験者の使いとなって走り廻る所謂使神、みさき神と考えたようで、山神も護法の一人と考えて、山神護法といったのだろう。なお護法は古くからゴオウと訓じたので、宮内庁書陵部、九条家旧蔵諸山縁起なる鎌倉期慶政上人筆の一冊には(熊野参詣還向ノ次第先ツ護法(コヲウ)送り次第」なる詞句が見え、ゴヲウと訓をつけるので、湯沢幸吉郎氏が指摘するように、西源院本太平記(刀江書院本)には「満山護法(コウヲウ)」(一一〇頁)、「常随宮仕之護法(・ウヲウ)」等と見える(湯沢氏、国語学論考)。「五しきにそめたる七尺のはたをさゝけて申やう、山には山神こわう、かわにはすいしん、うみにはりうしんと申て、よるひるおこたらす」(横山氏校、室町時代物語集第一、古梓堂文庫本、くまのゝ本地上)、「きさき御くしあまたゆいわけて一ゆいをは、ほんていたいしやくをはしめてよろつのほとけにまいらする、このわうし三にたり給はんまてまほり給へ、一ゆりをはこの山の山神こふうにまいらする」(同下)、「山王七社王子眷属東西満山護法聚衆」(覚一本系平家巻七、平家山門連署)、「七仏五十余代仏祖幷満山護法善神神」(相田氏、日本の古文書所引、肥後広福寺文書、菊池武茂起訓文)、「伏乞当寺の諸尊満山の護法」(勅修御伝第三十一)、「下野国宇都宮の御殿に納める。乙護法使者たり」(平治巻一、叡山物語の事)、「さりとも年月頼みをかくる大聖不動明王の威力、又は山神護法善神、殊には開山役の優婆塞」(謡曲、谷行)。→補注一六。

   《引用終了》

とある。聊か引用が長くなるのであるが、明らかに南方熊楠が牛王とする説を退ける内容であるから、補注も引いておく。

   《引用開始》

一六 山神護法[やぶちゃん注:当該ページ数を略した。] 護法については頭注の如く諸例があるが、なお宮地直一氏の熊野三山の史的研究第六編第四章、三山祭神の組織の条に、熊野の十二所以外の附属せる若干の小神ありとして[やぶちゃん注:以下の引用は変則的に改行部分の途中で一字下げとなっているが、ここでは改行して頭から示した。]、

「護法 護法とは所謂正法を護持する梵天・帝釈・四天王等の謂にして、之が中にあつて、是等善神の使者となり駆使の役に当るものを護法天童又は護法童子といひ、又略して単に護法ともいへり。而してこの種類に属せる護法は、有徳の験者に常侍してその用を勤め、又道心者に随つて之を擁護すと信ぜられて、上下の信仰頗る篤く、日本霊異記(中、打法師以現得悲病而死縁第卅五)を始め、その後の記録物語類に尠からぬ記事を留めたり。例へば伝教又は性空の使役せしと伝ふる乙護法の如きは、その一にして(平治物語叡山物語事・元亨釈書十一・太平記十一書写山行幸事・栂尾明恵伝記上)、本社にあつては、御幸を始め参詣の輩が帰途稲荷の社頭に護法を送るの習あり、その式折敷に餅を盛りて地土に安き[やぶちゃん注:「おき」。]、先達幣を収つて拝礼を行ふといへり(中右記、天仁二年十一月十目・長秋記、大治五年十二月廿二日、長承三年二月七日)。こは往還の道程余りに長途に及ぶが故に、途中の安全を祈請せんとする自然の要求より起りし風習なるべしと雖も、護法そのものゝ本体に関しては全然その所見を欠きたり。されど今さきに記しき金剛童子の性質より推考するに、かく道者の為に護身の用を勤めしは即ちこの童子にして、護法の名は之が功能の一方面を表示せし称呼なるべく、又さきに引ける御記文に、各々付払天魔云々とあるも、道中の護持を含めし意に外ならざるか。走湯山縁起(四)によるに、さきに掲げし雷電童子を南山護法五体王子之中といへり。五休の称はいかゞならんも、金剛童子を以て護法とする思想は充分に之を認むるを得べく、又太平記(五、大塔宮熊野落事)にも三所権現の下に満山護法十万眷属八万金剛童子と連記したり。かゝれば古くはさきの一万十万社以外に之を祭る社を見ざりしが、鎌倉時代に入り独立の崇拝をうけ、満山護法といはれて、別にその本地を定め、又別社として祭祀せらるゝに至りぬ(宴曲抄上、譲羽山熊野権現、康正三年注文、垂跡絵)。されど遂に十二所の数に加へらるゝに及ばざりき」(三八八頁)と書かれる。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

「J. Theodore Bent,“The Cyckades,” 1885, p.394」イギリスの探検家・考古学者で作家でもあったジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島」(エーゲ海中部に点在するギリシア領の二百二十以上の島から成る諸島。位置は当該ウィキの地図を参照されたい)。当該箇所は「Internet archive」のこちら

「クーロンジユの大僧正アンリ一世は、フリデリク伯の手足、頸、脊を輾折(しきを)り、扨、餘喘あるまゝ烏に與へて倍(ますま)す苦んで死せしめた(Henri Estienne, “Apologie pour Herodote,” ed. 1879, Paris, tom.i, p.65)」アンリ・エティエンヌ(Henri Estienne 一五二八年~一五九八年:パリ生まれの古典学者・印刷業者。ラテン語名ヘンリクス・ステファヌス(Henricus Stephanus)としても知られる。一五七八年に彼が出版した「プラトン全集」は、現在でも「ステファヌス版」として標準的底本となっている。以上は当該ウィキに拠った)の「ヘロドトスの謝罪」。当該書の当該部はここ。この二人の人物については、よく判らんのだが、以上の原記載に「Henri Ⅰ de molenark 1225-1238」とあり、ずたずたされてカラスの餌にされた「Frederic」なる人物と、その関係も私にはよく判らぬ。

「談林十百韻」(だんりんとつぴやくゐん(だんりんとっぴゃくいん))は江戸前期の俳諧撰集。延宝三(一六七五)年板行。田代松意(しょうい)編・自序・自跋。全二冊。同年夏、東下した西山宗因に発句「されば爰に談林の木あり梅の花」を請い受け、江戸神田鍛冶町の松意の草庵に集った、俳諧談林の連衆である松意・雪柴・在色(ざいしき)・一鉄・正友(せいゆう)・志斗・一朝・松臼・卜尺の九人で詠じた百韻十巻。以下の二句は、「愛知県立大学図書館 貴重書コレクション」の「古俳書」のこちら(以上は当該箇所の画像データ。同書のトップ・ページはこちら)で原本の当該句が見られる。左丁の四・五・六句目である。なお、本文で「志計」とあるのは、「志斗」に同じ。辞書により、前者で出、読みを「しけい」とする。しかし前掲原本を見るに、一貫して「志斗」と書いている。これだと「しと」と読むのが普通であるが、「計」は「ばかり」と副助詞で訓ずることが多く、その副助詞「ばかり」を「斗」の字で略して書くことが近代以前では頗る多い。さすれば、「志斗」も「しけい」と読むべきであろうか。

『西鶴の好色一代女に、大阪川口の碇泊船を宛込(あてこん)で婬を鬻いだ歌(うた)比丘尼を記して、「絹の二布(ふたの)の裾短かく、とりなり一つに拵(こしら)へ、文臺に入(いれ)しは、熊野の牛王、酢貝(すがひ)、耳姦(みゝかしま)しき四つ竹、小比丘尼に定まりての一升干杓(びしやく)」と云へる』巻三の「調謔(たはぶれ)の歌船(うたふね)」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和二(一九二七)年国民図書刊の「近代日本文学大系」第三巻所収の同作の当該部をリンクさせておく。右ページ後ろから五行目末から。所持する小学館「日本古典文学全集」の暉峻(てるおか)・東(ひがし)共校注・訳「井原西鶴集」(昭和四九(一九七四)年第二版)によれば、「歌比丘尼」は『熊野の護符を売り念仏を唱え、地獄極楽の絵解きをして米銭を乞うた尼。「もとは清浄の立て派にて熊野を信じて諸方に勧進しけるが、いつしか衣をりやくし歯をみがき頭をしさいにつみて、小哥を便りに色をうるなり」(人倫訓蒙図彙)』とある。以下、「二布」は腰巻のことで、「とりなり一つ……」は『みな一様のいでたちをして』、「文臺」は『かた箱。比丘尼が脇にはさんで持つ小箱』、「熊野の牛王」は無論、熊野牛王印でたまさかの男と起請文を交わすのに使う小道具、「酢貝」は『しただみ(栄螺』『に似た小さい貝)の蓋を酢の中に入れると旋回する。春の初め熊野に参詣して紀州の海辺で拾い、比丘尼が児女に玩具として与える』とある(これについては後述する)。「四つ竹」は『扁平な竹片を両手に二個ずつ持ち、掌を開いたり、閉じたりして鳴らす楽器』、「一升干杓」については、『比丘尼は腰に檜の柄杓(ひしゃく)を差し、米や金を受け』たとあるものを指す。「酢貝」は私の守備範囲で、腹足綱前鰓亜綱古腹足目サザエ(リュウテン(サザエ))科リュウテン亜科オオベソスガイ属スガイ Lunella correensis のサザエと同じような石灰質の蓋を指す。本邦の全域の磯の潮間帯で普通に見られるに殻径二~三センチメートルの食用にもなる巻貝であるが、例えば、当該ウィキによれば、『日本では磯で普通に見られることから、昔から磯遊びの対象として親しまれてきた。著名な例としてこの貝の蓋を半球面側を下にして酢に浸すと、酸で蓋の石灰質が溶解する際に、二酸化炭素の気泡を出しつつ、くるくると回転することから、古くから子供の遊びとなっていたという。冒頭に述べたように「酢貝」という名はこの遊びに由来し、本来は蓋のみの呼称で、本体の方にはカラクモガイ(唐雲貝)の名がある。』とあり、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のスガイにも、『フタの丸く盛り上がった方を下にして、酢に浸すと泡を出してクルクルと回る。「スガイ」はこの蓋の呼び名。貝本体はカラクモガイ(唐雲貝)とい言った』とあって、幼少時以来、海岸生物に魅せられてきた私も、小さな頃から、諸図鑑の解説でそう覚えていたのだが、実は実際に何度か、試してみたが、泡は出たが、旋回はしなかったので、六十四になっても、その運動を見たことがない。昔からそんなに知られた遊戯であるなら、ネット上の動画にあるだろうと調べたこともあるが、なかった。今回も調べたが、見当たらない。ところが、個人サイト「五島列島 福江島の博物誌 知られざる五島の海」でズバリ! 「フタは回るのか? スガイ 酢貝 (サザエ科) Turbo (Lunella) coreensis を見つけた。而して実験の結果は――『泡は確かに出てくるのですが、数時間そのままにしておいても回ることはありませんでした。今回使ったフタは直径』八ミリメートル『ほどで、小さな泡で動くには大きすぎたのかもしれません。あるいは、もっと強烈に反応するような強い酢(?)が必要なのか。インターネット上で調べてみても、有効な情報は得られませんでした。ただ、私と同じように「やってみたけど回らない」という人はいました。とりあえず、もっと小さいもので試してみようかとは思っていますが…。』(二〇一五年三月の記事)とあった。う~~ん、私も何時か、小型のもので、やってみよっ、と!]

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(7)

 

 烏や鴉を凶鳥とするのも最[やぶちゃん注:選集では「いと」と振る。]古いことで、五雜俎九に、「詩云、莫赤匪狐、莫黑莫烏、二物之不祥從古已忌之矣[やぶちゃん注:「「詩」に云はく、『赤くして狐に匪(あら)ざるは莫(な)く 黑くして烏に匪ざるは莫し』と。二物の不祥なるは、古へより已に之れを忌む。」。]。日本紀神代下に、天稚彥橫死の時、其父天國玉[やぶちゃん注:「あまのくにたま」。]、諸鳥を役割して、八日八夜、啼哭悲歌する。異傳に以烏爲宍人者[やぶちゃん注:「烏を以つて、宍人者(ししひと)と爲す。」。「宍人者」は獣肉を処理する屠殺業者を指す。]、古事記に翠鳥御食人(そにをみけびと)とし、と有る。宣長言く、御食人(みけびと)は殯[やぶちゃん注:「もがり」。]の間、死者に供る饌[やぶちゃん注:「むくるけ」。]を執行ふ人也、書紀に宍人者と有る是に當れりと(古事紀傳一三)。翠鳥(そに)乃ち鴗(かはせび)は能く魚を捕ふる故御食人としたちふ谷川士淸の說より推すと、吾神代には烏專ら生肉を食ひ、弱い鳥獸を捕ふるを以て著れた物で、爾後如く腐肉死屍を啖ひ田圃を荒すとて忌(いま)れなんだんだろ。然るに書紀神武卷に、更遣頭八咫烏召之(兄磯城)。時烏到其營而鳴耶、天神子召汝、恰奘過々々々(いさわいさわ)、と。兄磯城忿之曰、聞天壓神至、而吾爲慨憤時、奈烏何鳥、若此惡鳴耶、乃彎弓射之[やぶちゃん注:「更に頭八咫烏(やたのからす)を遣はして之れ(兄磯城(えしき))を召す。時に烏、其の營(いほり)[やぶちゃん注:砦。陣屋。]に到りて鳴きて曰はく、「天神(あめのかみ)の子、汝(いまし)を召す。恰奘過(いさわ)、恰奘過(いさわ)。」と。兄磯城、之れを忿(いか)りて曰はく、「天壓神(あめおすのかみ)の至ると聞きて、吾が慨憤(ねた)みつつある時に、奈何んぞ、烏鳥(からす)の此くのごとく惡しく鳴くや。」と。乃(すなは)ち、弓を彎(ひ)きて之れを射る。」。底本では清音で振るが、「いざわ」は感動詞(「いざ」は感動詞、「わ」は感動の助詞)で、相手を誘うときに発する言葉。]。次に弟磯城[やぶちゃん注:「おとしき」。]方に往き、前同樣に鳴くと、弟公、容を改め、臣聞天壓神至、旦夕畏懼、善乎烏、汝鳴若此者歟[やぶちゃん注:「臣、天壓神の至りますと聞(うけたまは)りて、旦夕(あしたゆふべ)に畏(お)ぢ懼(かしこ)まる。善きかな、烏、汝の此(か)くのごとく鳴く者か。」。]と言つて之を饗し、隨つて歸順したと見ゆ。さすれば其頃は此方の氣の持樣次第、烏鳴[やぶちゃん注:「からすなき」。]を吉とも凶とも做(し)たのだ。然るに、追々烏を忌む邦俗と成つたは、本來、腐肉死屍を啖ふ上に村里田園擴がるに伴れて烏の抄掠[やぶちゃん注:「せうりやく(しょうりゃく)」。「抄略」とも書く。かすめ奪うこと。略奪。]侵害も劇しく成つたからであらう。腐肉死屍を食うて掃除人の役を勤むる功を賞して禿鵰(ヴアルチユール)などを神とし尊んだ國も有るから、其だけなら斯く忌み嫌はるゝ筈が無い。古ハドリアのヴヱネチア人は、年々二人の欽差大臣を烏群に遣はし、油と麥粉を煉合せて贈り、圃[やぶちゃん注:「はたけ」。]を荒らさぬ樣懇願し、烏輩之を享食(うけく)へば吉相とした(Gubernatis, vol.ii, p.254)。吾邦でも初は腐屍や害虫を除き朝起きを勵しくれる等の諸點から神視した烏が、田圃開くるに及び嫌はれ出したので、今日では歐米で烏鴉が跡を絕つた地も有る。本邦も御多分に洩れない始末と成るだらうが、飛鳥盡きて良弓藏まる氣の毒の至り也。佛說にも夫長旅の留守宅に來て面白く鳴く烏に、其妻がわが夫無難に還るの日汝に金冠を與へんと誓うた所、夫果して息災に戾つたので、烏來たり金盃を眺めて好音[やぶちゃん注:「良きこゑ」。]を出す。因て妻之を烏に與へ、烏、金盃を戴いて去る。鷹、金盃を欲さに[やぶちゃん注:「ほしさに」。]烏の頭を裂いた。神之を見て偈(げ)を述ぶらく、須く[やぶちゃん注:「すべからく」。]無用の物を持つ事勿れ、黃金烏頭に上つて盜之を望むと(F. A. von Schiefner, “Tibetan Tales,” trans. Ralston, 1906, p.355)。是れ印度でも烏を時として吉鳥としたのだ。然し經律異相四四に譬喩經を引いて、昔有一極貧人、能解鳥語、爲賈客賃擔、過水邊飯、烏鳴、賈客怖、作人反笑、到家問言云々、答曰、烏向語我、賈人身上有好白珠、汝可殺之取珠、我欲食其肉、是故我笑耳[やぶちゃん注:「昔、一(ひとり)の極めて貧しき人有り。能く鳥語を解す。賈客(こかく)[やぶちゃん注:商人。]の爲に賃擔(ちんかつぎ)[やぶちゃん注:雇われて同行して物品を担い運ぶこと。]をして、水邊を過ぎ、飯(めしく)ふ。烏、鳴いて、賈客、怖るるに、作人(やとひど)、反(かへ)つて笑へり。家に到りて問ふて云はく」云々、「答へて曰はく、『烏、向(さき)に、我に語るに、「賈人の身上(しんしやう)に好き白珠あり。汝、之れを殺し、珠を取るべし。我は、其の肉を食らはんと欲す。」と。是の故に我は笑ひしのみ。』と。」。]とあれば、隨分古く既人肉を食ふ鳥として烏鳴を忌んだと知らる。今日も印度で烏を不祥とす。然してラバルの婦女にカカと名くる例あり。梵語及びラバル語で烏の義也(Balfour, “The Cyclopaedia of lndia,” vol.i, p.843)と有るが、日本で妻をカカと呼ぶは是と關係無し。斯く不祥としながら印度人は一向烏を殺さず放置するから、家邊に蕃殖すること夥しく、在留の洋人大いに困る(“Encyclopaedia Britannica,” vol.vii, p.513)。是は丁度土耳其[やぶちゃん注:「トルコ」。]で犬を罪業有る物が化つたと信じながらも、之を愍れんで蕃殖を縱にせしむると一般だ。摩訶僧祇律十六に、神に供へた食を婦人が賢烏來れと呼んで烏に施す事有り。パーシー輩が烏を殺さぬは例の太陽に緣有り、又屍肉を片付け吳るからだらう。波斯人は、鴉二つ雙(なら)ぶを見れば吉とす(Burton, “The Book of the Thousand Nights and a Night,” ed. Smithers, 1894, vol.vi, p.382, n)。囘敎國と希臘基督敎國には烏を不祥とし、カリラー、ワ、ジムナー書には、之を、罪業、纏(まと)はり、臭氣、穢(きたな)き鳥と呼べり(同書五卷八頁注)。アラブ人も鴉を朝起き最も早き鳥とし、グラブ、アル、バイン(別れの鴉)と言ふ。因て別離の兆として和合平安幸福の印相たる鳩と反對とす。主として黑白色の差(ちが)ひから想ひ付いたらしく、俗傳にマホメツト敵を避けて洞に潜んだ時、烏追手に向ひ、ガール、ガール(洞々(ほらほら))と鳴いたので、マホメツト之を恨み、以後常に、ガール、ガールと鳴いて自分の罪を白し[やぶちゃん注:「あらはし」。]、又、盡未來際[やぶちゃん注:「じんみらいざい」。]黑い喪服を著て不祥の鳥たるを示さしめたちふ事で厶る[やぶちゃん注:「ござる」。](同上卷三、一七八頁注二)。古希臘神話にも光の神アポロ、情をテツサリアの王女コローニスに通じ姙めるを、鴉して番せしむる内、王女、復[やぶちゃん注:「また」。]イスクスの戀を叶へて其妻たらんと契つたので、鴉其由を光神に告げると、何樣べた惚れ頸丈[やぶちゃん注:「くびつたけ」。]な女の不實と聞いて騰せ[やぶちゃん注:「のぼせ」。]揚げ、折角忠勤した鴉其時迄白かつたのを永世黑くした(Grote, “History of Greece,”  London, John Murray, 1869, vol.i, 174)。又女神パラス、其義兄へフアイストスの子、蛇形なるを養ふに、三侍女をして決して開き見る勿らしむ。然るに、三女好奇の餘り竊に之を見て亂心して死す。鴉其由を告げたので永くパラスに勘當されたと云ふ(Gubernatis, vol.ii, p.254;Smith, “Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology,” 1846, vol.ii, p.48)。斯く何處でも評判が惡く成つても、アラビヤ人は今も鴉を占候之父(アブ・ザジル)と呼び、右に飛べば吉、左に飛べば凶とす(Burton, vol.iii, p.178, n.)。プリニウスの博物志十卷十五章に、鴉の卵を屋根下に置くと其家の女難產すと載す。一六〇八年出板ホールのキヤラクタースに、迷信の人、隣屋に鴉鳴くを聞けば直ちに遺言を爲すと有る由(Hazlitt, vol.ii, p.508)。又古歐人は事始めに鴉鳴を聞くを大凶とした(Collin de Plancy, p.144)。ブラウンのプセウドドキシアの注者ウヰルキン言く、鴉は齅覺非常に發達せる故、人死する前に特異の臭を放つを、煙突を通じて聞知り鳴き噪ぐ。實は死の前兆を示すで無くて、死につゝ有る人有つて、而して後鳴くのぢやとは尤も千萬な論だ。爾雅に鳶烏醜其飛也翔、烏鵲醜其掌縮[やぶちゃん注:「鳶・烏は醜し。其れ、飛ぶや、翔(はばた)く。烏・鵲は醜し。其れ、掌(あし)を縮む。」。]。烏も一たび惡まれ出すと、飛ぶ時に脚を腹下に縮める事迄も御意に入らぬのぢや。埤雅に今人聞烏噪則唾、以烏見異則噪、故唾其凶也[やぶちゃん注:「今、人、烏の噪ぐを聞けば、則ち、唾(つば)す。烏は異を見れば、則ち、噪ぐを以つて、故に其の凶に唾するなり。」。]。唾吐いて凶事を厭(まじな)ふは、歐州、殊に盛んだ。水滸傳第六回、魯智深、大相國寺の菜園で破落戶共(ごろつきども)を集め遊ぶ時、楊柳上老鴉鳴噪すると、衆人有ㇾ齒シク赤口上ㇾ天白舌入ルトㇾ地、智深道フニ、儞做甚麼鳥亂、衆人道、老鴉叫、怕ラクハラン口舌[やぶちゃん注:熊楠は珍しく訓点をつけているのだが、本文に不審があり、中文サイトで確認し、特異的に修正した。『衆人、齒を扣(たた)くもの、有り、齊(ひと)しく道(い)ふ、「赤口(しやくこう)、天に上り、白舌(びやくぜつ)、地に入る。」と。智深、道ふ、「儞(なんぢ)ら、甚麼(いか)にしてか鳥亂(てうらん)を做(な)すや。」と。衆人、道ふ、「老鴉叫ぶ、怕(おそ)らくは口舌有らん。」と。』。私は「水滸伝」に興味がなく、短い余生の間にも読むことはない。されば、この部分、意味がよく判らないところが多いが、注をする気はない。悪しからず。]]。宋・元の頃は、斯(かゝ)る烏鳴の禁法(まじなひ)も有たんぢや[やぶちゃん注:「あつたんぢや」。]。習俗通に、案明帝起居注曰、帝東巡泰山、到滎陽、有烏飛鳴乘輿上、虎賁中郞將王吉射中之、作辭曰、烏烏啞啞、引弓射、洞左腋、陛下壽萬歲、臣爲二千石。帝賜錢二百萬、令亭壁悉畫爲烏也[やぶちゃん注:これも本文表記に疑問があったので、中文サイトを参考にしつつ、本文を特異的にいじって作り替えた。「「明帝起居注」を案ずるに、曰はく、『帝、東して、泰山を巡り、熒陽(けいやう)に至る。烏、飛んで、乘れる輿(こし)の上に、鳴く有り。虎賁中郞將王吉、射て、之れに中(あ)つ。辭を作(な)して曰はく、「烏々啞々(ううああ)、弓を引き、射て、左の腋を洞(つらぬ)く。」と。陛下は萬歲を壽(ことほ)ぎ、「臣は二千石と爲す。」と。帝、錢二百萬を賜ひ、亭壁に、悉く、烏を畫き爲さしむ。』と」。]又烏の爲に人民大に困つた例は、古今圖書集成邊裔典卷二十一に朝鮮史略を引いて、高麗忠烈王二十七年云々、先是朱悅子印遠爲慶尙按廉、貢二十升黃麻布、又惡烏鵲聲、令人嚇以弓矢、一聞其聲卽徵銀瓶(錢の名)、民甚苦之[やぶちゃん注:同前で、「維基文庫」の同書の当該部(「朝鮮部彙考九」の「大德元年以高麗王子謜為高麗國王仍加授王功臣號逸壽王按元史成宗本紀大德元年二月癸卯以闍里台所)の電子化を参考に本文を訂した。「『高麗の忠烈王二十七年』云々。『是れに先だちて、朱悅の子、印遠は、慶尙の按廉[やぶちゃん注:監査役か。]と爲(な)り、二十升の黃麻の布を貢(みつぎ)す。また烏鵲(うじやく)の聲を惡(にく)んで、人をして嚇(おど)すに弓矢を以つてせしむ。一聞(ひとたび)、その聲を聞けば、卽ち、銀甁を徵し、民、甚だ之れに苦しむ。』。]。Tavernier, “Travels in India,” vol.ii, p.294 に、暹羅[やぶちゃん注:シャム。タイ王国の古名。]で娼妓死すれば常の婦女通り火葬せしめず、必ず郊外に棄てゝ犬や鴉に食すと有り。吾國亦德川氏の初世迄妓家の主人死すれば藁の韁(たづな)を口にくはへ、死んだ時著た儘の衣で町を引ずり野において烏狗に餌うた[やぶちゃん注:「かうた」。餌として食わせた。]と一六一三年(慶長十八年)英艦長サリスの平戶日記に出づ(Astley, “A New General Collection of Voyages and Travels,” 1745, vol.i, p.482)。妓主長者さへ斯だから賤妓などは常に烏腹に葬られたなるべく、從つて、彼輩、烏を通じて熊野を尊び、其から熊野比丘尼が橫行するに及んだのだらう。

[やぶちゃん注:「詩云、莫赤匪狐、莫黑莫烏」「詩經」の「國風」の「邶風」(はいふう)の「北風」の一節。全体は国が乱れ、身に危険の迫ったと感じた者が、親友とともに他国へ亡命せんとするシークエンスを詠んだもので、壺齋散人氏のブログ「壺齋閑話」の「北風:亡命の歌(詩経国風:邶風)」で全体が読める。訓読・和訳有り。

「翠鳥御食人(そにをみけびと)とし」「翠鳥」翡翠(かわせみ。ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ亜種カワセミ Alcedo atthis bengalensis 。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴗(かはせび)〔カワセミ〕」を参照されたいが、思うに、何故、カワセミがそうした死者へ送る聖餐の料理人とされたのかは、以下の谷川の説なんぞよりも、恐らくは、その冠毛や羽根が著しく美しいことから、死者の霊をその美々しさで鎮魂するという呪的意味があったものと私には思われる。

「宣長言く、御食人(みけびと)は殯の間……」国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫版の当該部をリンクさせておく。右ページ最終行末から。なお、「日本書紀」の当該本文ページはここ

「谷川士淸」(たにかわことすが 宝永六(一七〇九)年~安永五(一七七六)年)は国学者・神道家。本名は昇。医者の家に生まれ、玉木正英・松岡玄達に垂加神道を学び、独学で国学を修め、本居宣長とも交わった。「日本書紀」を重んじ。その全注釈「日本書紀通証」(全三十五巻)をものし、また国語辞典の先駆とされる字書「和訓栞」(わくんのしおり(全九十三巻・本書の実際の刊行には、士清の没した翌年から明治二〇(一八八七)年、まで、実に百余年を要した)の著者としてよく知られる。「和訓栞」を調べてみたが、それらしいものを発見出来なかったので、以下の見解は「日本書紀通証」のものか。

「古ハドリア」古い「Hadria」地方で、特に現在のイタリアのヴェネト地方(Veneto)州(今の州都は「ヴヱネチア」(Venezia))に、嘗てエトルリア人が築いた都市で現在のアドリア(Adria)の古称。

「欽差大臣」本来は清朝の官職名で、特定の事柄について皇帝の全権委任を得て対処する臨時の官を欽差官というが、その中でも特に三品以上のもの指した漢語である。

「Gubernatis, vol.ii, p.254」複数回既出のイタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。Internet archive」の第二巻原本の当該部はここ。下から十五行目以下に出る。]

「F. A. von Schiefner, “Tibetan Tales,”」ドイツの言語学者にしてチベット学者であったフランツ・アントン・シーフナー(Franz Anton Schiefner 一八一七年~一八七九年)の「チベット譚」。

「經律異相四四に譬喩經を引いて、昔有一極貧人……」「中國哲學書電子化計劃」の影印本画像のここで全原文が視認出来る(中段の終りから)。標題は「賃人善解鳥語十六」で、最後に割注で「出譬喩經」(「譬喩經(ひゆきやう)」に出づ)とある。

「ラバルの婦女にカカと名くる例あり。梵語及びラバル語で烏の義也(Balfour, “The Cyclopaedia of lndia,” vol.i, p.843)」「ラバル」は以下の引用元の原本の綴りで納得。南方熊楠は頭の音を落しており、「マラバ(ー)ル」が正しく、現在のインド南部のコンカン地方からタミル地方のカンニヤークマリに至るまでの沿岸地帯であるマラバール海岸(英語:Malabar Coast)のことだ。紀元前三千年頃から既その記録が現われ、メソポタミア・アラビア・ギリシャ・ローマなどにその存在が知られていたとウィキの「マラバール海岸」にあるから、独自の言語を持っていたとしてもおかしくない。ここ英文の当該ウィキ(正確には「Malabar Coast moist forests」(マラバール海岸湿性林地帯))の地図画像)。引用元は既出既注のスコットランドの外科医で東洋学者のエドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年)の書いたインド百科全書。「Internet archive」の原本のこちらの右ページ下方。タイトル「CROWS.」。

「“Encyclopaedia Britannica,” vol.vii, p.513」「Internet archive」には同巻はなかったので、「National Library of Scotland」で発見したものの、糠喜びで、当該ページには、それらしい記載がないようだ。

「摩訶僧祇律十六に、神に供へた食を婦人が賢烏來れと呼んで烏に施す事有り」「大蔵経テキストデータベース」で確認。確かに同巻にある。

「パーシー輩」パールシー或いはパールスィー。インドに住むゾロアスター教の信者たちを指す。

「Burton, “The Book of the Thousand Nights and a Night,” ed. Smithers, 1894, vol.vi, p.382, n」原本確認不能。「Internet archive」巻六の当該ページを見たが、エディションが異なるのか、ないようである。

「カリラー、ワ、ジムナー書」不詳。

「王女コローニス」ウィキの「コローニス」(別人で複数いる)の「プレギュアースの娘」によれば、『ラピテース族の王プレギュアースの娘で、医術の神アスクレーピオスの母とされる。コローニスの物語はカラスの色が変わる変身譚とともに語られている』。『ヘーシオドスによると、コローニスはアポローンに愛されて子を身ごもったが、プレギュアースによってエラトスの子イスキュスと結婚させられた』。『しかし、多くの伝承ではコローニスが自らイスキュスと密通したとされる。ピンダロスによれば、コローニスはアポローンに愛されて子供を身ごもったにもかかわらず、アルカディアからの客人イスキュスに恋をし、父プレギュアースに隠れてイスキュスと密通した。しかし、アポローンはすぐに気づき、アルテミスを送ると、アルテミスは多くの者とともにコローニスを射殺した。しかし、コローニスが火葬されるとき、アポローンは自分の子を救い出し、ケイローンに養育させた』。『後に成長したアスクレーピオスは死者さえも蘇らせる名医になった。ピンダロスの物語ではカラスは登場しないが、多くの物語では、カラスがコローニスの密通に気付き、アポローンに知らせる。アポローンは怒って以前は白い色だったカラスを黒い色に変え、またコローニスを殺した。しかし、アポローンは後悔して自らの手で火葬し、そのさいに子アスクレーピオスをコローニスの胎内から救い出して、ケイローンに養育させた』。『アントーニーヌス・リーベラーリスでは、コローニスの密通の相手はアルキュオネウスとされる』。また、『エピダウロスの詩人イシュロスによると、コローニスはプレギュアースとムーサ』(文芸(ムーシケー)を司る女神たち)の一『人エラトーとマロスの娘クレオペマーの娘である』。『パウサニアスによると、プレギュアースがエピダウロスにやって来たとき、コローニスはすでにアポローンの子を身ごもっていた。そして、プレギュアースに同行してエピダウロスにやって来て、アスクレーピオスを出産し、ミュルティオン山に捨てた。この赤子はヤギに養われ、羊飼アレスタナスに発見されたとき、神々しく光っていた』。『なお、一説にアスクレーピオスの母はレウキッポスの娘アルシノエーともいわれ、古代でも意見が分かれていたが、アポロパネースというアルカディア人がデルポイでどちらの伝承が正しいか神に質問すると、コローニスの子であるという答えが返ってきたという』とある。

「Grote, “History of Greece,”  London, John Murray, 1869, vol.i, 174」イギリスの国会議員で歴史家でもあったジョージ・グロート(George Grote 一七九四年~一八七一年)が一八四年から十年かけてものした「ギリシャ史」。Internet archiveで探したが、エディションの合わないものばかりで、当該ページを見ても、違っていた。

「女神パラス」処女神アテーナーは『少女の頃、友達であるパラスと槍と楯を持って闘技で遊んでいたところ、間違ってパラスを殺してしまった。それを悲しんだ女神は、自分の名の前に「パラス」を置き、パラス・アテーナーと名乗ることにしたという』とウィキの「アテーナー」にある。ここはアテーナーのことである(次注参照)。

「其義兄へフアイストス」ギリシア神話の炎と鍛冶の神(本来は雷と火山の神であったと思われる)ヘーパイストスは、当該ウィキによれば、アプロディーテーと結婚するも、『相手にされなかった』彼は、『アテーナーが仕事場にやって来たときに欲情し、アテーナーと交わろうとして追いかけた。ヘーパイストスは処女神であるアテーナーから固く拒まれたが、アテーナーの足に精液を漏らした。アテーナーがそれを羊毛でふき取り、大地に投げると、そこから上半身が人間で下半身が蛇の子供エリクトニオスが誕生した。それを見つけたアテーナーは見捨てはせず、自分の神殿でエリクトニオスを育てたという』とある。なお、『軍神アテーナーは、頭痛に悩むゼウスが痛みに耐えかね、ヘーパイストスに命じて斧(ラブリュス)で頭を叩き割らせることで、ゼウスの頭から生まれたとい』われ、ヘーパイストスはゼウスとヘーラーの第一子であるし、彼の妻アプロディーテーの父もゼウスともされるから、単性生殖の処女神と姻族関係から見ると「義兄」というのは腑に落ちる。

「Gubernatis, vol.ii, p.254」本書電子化で複数回既出既注のイタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。「Internet archive」の第二巻原本の当該部はここ。左ページの七行目以下に記されてある。

「Smith, “Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology,” 1846, vol.ii, p.48」イングランドの辞書編集者ウィリアム・スミス(Sir William Smith 一八一三年~一八九三年)の「ギリシャ・ローマ伝記神話事典」。Internet archive」のこちらの「ERICHTO’NICUS」の条。

「プリニウスの博物志十卷十五章に、鴉の卵を屋根下に置くと其家の女難產すと載す」既出既注。しかし、これは、『ワタリガラスは一腹でせいぜい五つの卵しか生まない。彼らは嘴で生み、あるいは交尾する(したがって懐妊している婦人がその卵を食べると口から分娩する。そしてとにかくそれを家に持ち込むと難産する)と一般に信じられている。』の部分をざっくり纏めたもので、やや言い方が悪い。

「一六〇八年出板ホールのキヤラクタースに、迷信の人、隣屋に鴉鳴くを聞けば直ちに遺言を爲すと有る由(Hazlitt, vol.ii, p.508)」既出既注のイギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「信仰と民俗学」。「Internet archive」の当該書のこちらの左ページの中段下方に、「NATIONAL FAITHS」(「国民の信仰」)の最後に、

   *

Moresin includes the croaking of ravens among omens.  Hall, in his "Characters," 1608, tells us that if the superstitious man hears the raven croak from the next roof, he at once makes his will.

   *

この引用は、イギリスの司教で風刺作家でもあったジョセフ・ホール(Joseph Hall, Bishop of Exeter 一五七四年~一六五六年)が一六〇八年に発表した「Characters of Virtues and Vices 」(「美徳と悪徳の特性」)の一節。英文サイトで全文がここで活字化されている。「BOOK II. CHARACTERISTICS OF VICES.」の「The superstitious.」の中に以上の一節がある。

「ブラウンのプセウドドキシア」こちらに既出の人物で、その私の注「Sir Thomas Browne」で本書にも言及済み。

「ウヰルキン」不詳。

「埤雅」(ひが)は北宋の陸佃(りくでん)によって編集された辞典。全二十巻。主に動植物について説明してある。

「風俗通」後漢の応劭(おうしょう)が著した事物考証本である「風俗通義」のこと。著者は制度・典礼・故事に詳しく、後漢末の混乱期に、それらが忘れられることを恐れて「漢官儀」などを著わしているが、本書も、その博識をもとに,当時の一般人の考えの誤りを正すために書かれたもの。もとは三十巻或いは三十二巻あったとされるが、現存するのは皇覇・正史・愆礼(けんれい。「愆」は「不正」の意)・過誉・十反・声音・窮通・祀典・怪神・山沢の十巻のみである。

高麗の忠烈王二十七年」一三〇〇年。

「Tavernier, “Travels in India,” vol.ii, p.294」十七世紀のフランスの宝石商人で旅行家であったジャン=バティスト・タヴェルニエ(Jean-Baptiste Tavernier 一六〇五年~一六八九年)。一六三〇年から一六六八年の間にペルシャとインドへの六回の航海を行っており、諸所の風俗を記した。その著作は、彼が熱心な観察者であり、注目に値する文化人類学者の走りであったことを示している。彼のそれらの航海の記録はベスト・セラーとなり、ドイツ語・オランダ語・イタリア語・英語に翻訳され、現代の学者も貴重な記事として、頻繁に引用している(英文の彼のウィキに拠った)。Internet archiveで、この原本を見つけ、指示するページを見たが、載っていない。ページ数か、巻数の誤りか。

「Astley, “A New General Collection of Voyages and Travels,” 1745, vol.i, p.482「Internet archive」のこちらの左ページ左の中央附近に記載がある。但し、そこでは「Dogs and Fowls」とあり、「Fowls」は広義の鳥類を指す語で、カラスには限らない。]

 

 序でに言ふ、牛黃を祕密法に用ゐる事、佛敎に限らぬ。摩利支天は、もと梵敎の神で、唐朝に吾邦へ傳へた兩界曼陀羅には見えぬ。趙宋の朝に譯された佛說大摩里支菩薩經に牛黃をもつて眞言を書くと有るなど、明らかに梵敎から出た作法だ。馬鳴大士の大莊嚴經論十に、牛黃を額に塗つて我吉相をなすと云ふ者に佛僧が問ふと、吉相は能く死すべき者を死なざらしめ鞭繋らるべき[やぶちゃん注:「むちうちくくらるべき」。]者を解脫せしむ。此牛黃は牛の心肺の間より出づと答ふ。僧曰く、牛自身に牛黃を持ながら耕稼の苦を救ふ能はず、何ぞ能く汝をして吉ならしめんやと。又其よりずつと前に出來た根本說一切有部毘奈耶雜事一に、諸婆羅門、額に白土や白灰を點畫する事有り。又六衆(六人の惡僧每度釋尊に叱らるゝ者)入城乞食、見諸婆羅門、以牛黃點額、所有乞求、多獲美味[やぶちゃん注:「又、六衆(六人の惡僧。每度、釋尊に叱らるゝ者。)、城に入りて食を乞ふ。諸婆羅門を見るに、牛黃を以つて額に點ず。所有(いはゆる)、乞ひ求めば、多く、美味を獲(う)。」。]六衆之を眞似(まね)して佛に越法罪を科(おは)せらると有り。密敎に牛黃を眉間に點ずるは梵敎から移れるので、原(も)と佛敎徒の所作で無かつたのぢや。牛黃梵名ゴロチヤナ、支那のみならず印度でも藥用する(Balfour, vol.ii, p.547)。諸派の印度[やぶちゃん注:選集では『ヒンズー』。]敎徒が今も額に祀神の印相を點畫する樣子一斑は Dubois, “Hindu Manners, Customs and Ceremonies,” ch. ix に就いて見るべし。

[やぶちゃん注:「馬鳴大士」馬鳴(めみょう 紀元後八〇年頃~一五〇年頃)は古代インドの仏教僧。サンスクリット語の名「アシュヴァゴーシャ」の漢訳。

「大莊嚴經論十に、牛黃を額に塗つて我吉相をなすと云ふ者に佛僧が問ふと……」「大莊嚴論經卷第一CBETA中華電子佛典協會)電子版(PDF)の124コマ目(原本でも同ページ)の頭に出る。

「根本說一切有部毘奈耶雜事一に、諸婆羅門、額に白土や白灰を點畫する事有り……」「維基文庫」の同書同巻の電子化に(コンマを読点に代え、一部の漢字を正字化した)、

   *

緣處同前、時諸苾芻日初分時、執持衣鉢入城乞食、見諸婆羅門以自三指點取白土或以白灰、抹其額上以爲三畫、所有乞求多獲美好。

   *

とある。「六衆」は熊楠が添えたものか。「六衆之を眞似(まね)して佛に越法罪を科(おは)せらる」の文字列も単語で分解して検索した限りでは、同書にはない。

「Balfour, vol.ii, p.547」Internet archive」の原本ではここだが、見当たらない。

「Dubois, “Hindu Manners, Customs and Ceremonies,” ch. Ix」以前に言った通り、「Internet archive」では後代の合巻しかないので、当該部は探せない。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 まづしき展望

 

   まづしき展望

 

まづしき田舍に行きしが

かわける馬秣(まぐさ)を積みたり

雜草の道に生えて

道に蠅のむらがり

くるしき埃のにほひを感ず。

ひねもす疲れて畔(あぜ)に居しに

君はきやしやなる洋傘(かさ)の先もて

死にたる蛙を畔に指せり。

げにけふの思ひは惱みに暗く

そはおもたく沼地に渴きて苦痛なり

いづこに空虛のみつべきありや

風なき野道に遊戯をすてよ

われらの生活は失踪せり。

 

[やぶちゃん注:初出は大正一〇(一九二一)年二月新潮社刊の詩話会編「現代詩人選集」。初出形は、六行目「畔(あぜ)に居しに」の「あぜ」のルビがなく、八行目の「指せり」に「指(さ)せり」とルビする。十行目「おもたく」は「重たく」で、十二行目の「すてよ」が「捨てよ」、最終行の「われら」が「我等」であるだけで、異同は些末な表記のみなので、掲げない。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 商業

 

   商 業

 

商業は旗のやうなものである

貿易の海をこえて遠く外國からくる船舶よ

あひは綿や瑪瑙をのせ

南洋 亞細亞の島々をめぐりあるく異國のまどろすよ。

商業の旗は地球の國々にひるがへり

自由の領土のいたるところに吹かれてゐる。

商人よ

港に君の荷物は積まれ

さうして運命は出帆の汽笛を鳴らした。

荷主よ

水先案内(ぱいろつと)よ

いまおそろしい嵐のまへに むくむくと盛りあがる雲を見ないか

妖魔のあれ狂ふすがたを見ないか

たちまち帆柱は裂きくだかれ

するどく笛のさけばれ

さうして船腹の浮きあがる靑じろい死魚を見る。

ああ日はしづみゆき

かなしく沖合にさまよふ不吉の鷗はなにを歌ふぞ。

商人よ

ふたたび椰子の葉の茂る港にかへり

君のあたらしい綿と瑪瑙を積みかへせ

亞細亞のふしぎなる港々にさまよひ來り

靑空高くひるがへる商業の旗の上に

ああかのさびしげなる幽靈船のうかぶをみる。

商人よ! 君は冒險にして自由の人

君は白い雲のやうに、この解きがたくふしぎなる愁ひをしる。

商業は旗のやうなものである。

 

[やぶちゃん注:三行目「あひは」はママ。後発の二詩集への再録から、「あるひは」(ママ。歴史的仮名遣は「あるいは」でよい)の恐らくは植字の脱字である。初出未詳。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 かつて信仰は地上にあつた

 

   かつて信仰は地上にあつた

 

でうすいすらええるの野にござつて

惡しき大天狗小天狗を退治なされた。

「人は麥餠(むぎもち)だけでは生きないのぢや」

初手の天狗が出たとき

泥薄(でうす)如來の言はれた言葉ぢや

これぢやで皆樣

ひとはたましひが大事でござらう。

たましひの罪を洗ひ淨めて

よくよく昇天の仕度をなされよ。

この世の說敎も今日かぎりぢや

明日(あす)はくるすでお目にかからう。

南無童貞麻利亞(まりや)聖天 保亞羅(ぽうろ)大師

さんたまりや さんたまりや。

 

信仰のあつい人々は

いるまんの眼にうかぶ淚をかんじた

悅びの、また悲しみの、ふしぎな情感のかげをかんじた。

ひとびとは天を仰いだ

天の高いところに、かれらの眞神(しんしん)の像(かたち)を眺めた。

さんたまりや さんたまりや。

 

奇異なるひとつのいめえぢ

私の思ひをわびしくする

かつて信仰は地上にあつた。

宇宙の 無限の 悠悠とした空の下で

はるかに永生の奇蹟をのぞむ 熱したひとびとの群があつた。

ああいま群集はどこへ行つたか

かれらの幻想はどこへ散つたか。

わびしい追憶の心像(いめえぢ)は、蒼空にうかぶ雲のやうだ。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。冒頭、「いすらええる」の表記はママで、かの絶対消毒敢行主義の筑摩版全集校訂本文でもママである。しかし、「イスラエル」(ヘブライ語で「神が支配する」の意)の音写を「イスラエエル」としたものを見たことは、私は、ない。日本語の外来語音写は近代以降、掟破りに個人が勝手にいろいろな音写をしてきたから、取り立てて奇異とは言うまい。そもそも、イスラエルの公用語のヘブライ語の「アレフベート」は二十二文字であるが、元来、これらは総て子音で、伝統的に、当該語句を発音する際には、特定の決められた母音を当該子音に附帯させて発音することで、特定単語を表現するという。参照したイスラエル・ユダヤ専門の出版社「ミルトス」の「ヘブライ語 ― ヘブライ語ってどんな言葉?」によれば、七世紀頃、『聖書ヘブライ語の発音を伝えるために母音記号(ニクダー)が工夫され』たが、現在の『イスラエルでは一般にニクダーがついていない文で書かれて』おり、『これを読むときは、カンを働かせて』(!?!)『頭の中で母音をつけ』て『発音する』というちょっとびっくりすることが書かれている。しかも古代イスラエルのヘブライ語の発音は現在は既に不明となっている。されば、「いすらええる」と聴こえないでもなかったとは言い得るかも知れぬ。禁教の切支丹の内部でこの表記(口伝による変形)が生きていたかどうかは知らぬが、あっても全くおかしくはなかろうとも思う。しかし、この詩篇を書くに際して、そうした切支丹関連文書を萩原朔太郎が参考にしたとなら、研究者はそれを調べ、発見し、指示する必要があろう。私にそんな義務はない。そもそも、ここでは、隠れ切支丹が隠蔽防御のために行ったような、イエス・キリストが「でうす」(Deus:ラテン語で「神」を表わす)や「如來」に、マリアが「聖天」、パウロが「大師」の姿になって登場し、サタン・ルシファーや、その眷属諸々は「雨月物語」の「白峯」の如く「大天狗子天狗」へと自由自在に勝手に習合・混淆されている。何をかいわんや、遂にそのブッ飛んだ世界に筑摩版全集の編集者が消毒器具のバルブをさえ開くことが出来なかったのであったことが小気味が良い。

いるまん」(ポルトガル語:irmão:一般には「兄弟」、宗教的には「法兄弟」の意)十六~十七世紀頃に日本に渡来したキリスト教の宣教師の一階級。司祭職パードレ(padre=伴天連(バテレン))の下にある助修士(平修士)のこと。

 初出は大正一一(一九二二)年五月号『秦皮』(聴いたことのない雑誌だ。調べたが、判らなかった)。以下に初出形を示す。第一連一行目「は」の太字及び「ごさつて」、五行目「でいす」、十一行目「かからう」の「かか」太字(これは十字架に「架かる」に掛けた洒落か?)、第二連四行目「おほいだ」は総てママである。

   *

 

 かつて信仰は地上にあつた

 

でうすはいすらええるの野にごさつて

惡しき大天狗小天狗を退治なされた。

「人は麥餠(むぎもち)だけでは生きないのぢや」

初手の天狗が出たとき

でいす如來の言はれた言葉ぢや。

これぢやて皆樣

人はたましひが大事でござる

たましひの罪を洗ひきよめて

よくよく昇天の仕度をなされよ。

この世の說敎も今日限りぢや

くるすで明日はお目にかからう。

南無まりや聖天 ぽをろ大師

さんたまりや さんたまりや。

 

信仰のあつい人々は

いるまんの眼にうかぶ淚をかんじた

悅びのまた悲しみの ふしぎな情感の影をかんじた。

人々は天をあほいだ

天の高い所に かれらの眞神の像(かたち)を眺めた。

はれるや はれるや はれるや はれるや。

 

奇異なるひとつの心像(いめえぢ)は

私の想ひをわびしくする

かつて「信仰」は地上にあつた。

宇宙の 無限の 悠悠とした空の下で

はるかに永生の奇蹟をのぞむ 熱した人々の群があつた

ああ今 群集はどこへ散つたか

かれらの幻想はどこへ行つたか

私のわびしい心像(いめえぢ)は、蒼空にうかぶ雲のやうだ。

 

   *]

2021/12/24

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(6)

 

 烏鴉共に、膽勇智慧敏捷、鳥中に傑出し、壽命も長く、又多少の間違ひは有るにせよ、親子夫妻友儕[やぶちゃん注:「ともがら」。]間の愛情も非常に厚いちふ處より、慈孝忠信の話も出來、殊に太陽に緣有る靈鳥と仰がるゝより、或は神、或は神使として專敬された。隨つて之を吉鳥とした例も少なからず、既に上文に散見するが、猶一二を擧れば、沙漠を旅行する中、鳶や烏が見當れば必ず村落が近いと云ふから之を吉相とするは必定だ(Burton, “Pilgrimage to Al-Madinah and Meccah,” in The York Library, vol.ii, p.294)。南史に、高昌國有朝烏、旦々集王殿前、爲行列、不畏人、日出然後散去[やぶちゃん注:「高昌國に、朝、烏、有り。旦々、王の殿前に集まり、行列を爲し、人を畏れず。日、出でて、然る後に、散じ去る。」。]。是はナポレオン三世が鷲を馴して兵士の人氣を自身に集めた如く、烏が每旦參朝するを王威の徵としたのだ。類凾に、海鹽南三里、有烏夜村、晉何準所居也、一夕群烏啼噪、適生女、他日後夜啼、乃穆帝立準女爲后之日[やぶちゃん注:「海鹽の南三里に烏夜村(うやそん)あり。晉の何準(かじゆん)の居りし所なり。一夕、群烏、啼き噪ぎ、適(たまた)ま、女(むすめ)を生む。他日、後夜(ごや)に啼く。乃(すなは)ち、穆帝(ぼくてい)が準の女を立てて后(きさき)と爲せし日なり。」。]。烏啼きも此樣(こんな)に吉(よ)いのが有うとは、お釋迦さんでも氣が附くめー。又唐書曰、柳仲郢自拜諫議後、每遷官、群烏大集於昇平里第云々、凡五日而散、詔下不復集、家人爲候、惟天下除節度、烏不復集、遂卒於鎭[やぶちゃん注:「唐書に曰はく、『柳仲郢(りうちゆうえい)、諫議[やぶちゃん注:諫議大夫(かんぎたいふ)。皇帝の誤りを諌め、国家の利害得失などについて忠告する役職。秦では「諫大夫」と称していたが、後漢の光武帝が改めてより、歴代、この名で置かれた。]を拜せしより後(のち)、官を遷(うつ)る每に、群烏、大いに昇平里(しやうへいり)の第(だい)[やぶちゃん注:屋敷。邸宅。]に集まり』云々、『凡そ五日にして、散ず。詔、下れども、又は集まらず。家人、以つて、候(しるし)と爲(な)す。惟だ、天下の節度[やぶちゃん注:節度使の任官。]を除き、烏、又は集まらず。遂に鎭に卒(しゆつ)す。」]。官が昇る前每に集まつた烏が來ないのが死亡の前兆だつたんぢや。酉陽雜俎に邑中終歲無烏、有寇、郡中忽無烏者、日烏亡[やぶちゃん注:ぱっと見でも不審だった。最後の部分、底本は「曰烏亡」で、選集もそれを馬鹿正直に訓読して『烏亡という』となっているのだが、原本の影印本を「中國哲學書電子化計劃」で確認したところ、これは「曰」ではなく、「日」の誤りであることが判明したので特異的に訂した。「邑(いふ)の中(うち)、終歲、烏、無ければ、寇(こう)[やぶちゃん注:外部から侵入してくる賊。]、有り。郡の中、忽(にはか)に、烏、無ければ、日烏(ひう)、亡(ぼう)せり。」。]。婦女の不毛同樣、有るべき物が具(そな)はらぬを不吉とするので、邦俗鼠多い家は繁昌し、火事有るべき家に燕巢はぬと信ずるに同じ。古希臘等で、鴉を豫言者とせるも必ず凶事のみ告げたので無く、昔氷州(アイスランド)では鴉鳴の通事[やぶちゃん注:翻訳者。]有て吉凶を判じ、國政を鴉鳴に諮(と)うた(Collin de Plancy, p.143)。マコレーも其セント・キルダ誌に鴉が歡呼して好天氣を豫告し中つるを稱揚した。支那の鴉經(上出)も、鴉鳴が凶事ばかりで無く、吉事をも告ぐるとしたのだ。類凾二四三と二四四に邵氏聞見錄を引き云ふ、邵康節の母、山を行(あり)き、一黑猿を見、感じて娠み、娩するに臨み、烏、庭に滿ちければ、人もつて瑞とすと。是は康節先生が色餘り黑かつた言譯に作り出た言らしいが、兎に角烏を瑞鳥とした例にはなる。又、王知遠母晝寢、夢鴉集其身、因有娠、寶誌曰、生子、爲當世文士[やぶちゃん注:「王知遠が母、晝(ひる)寢(い)ねて、鴉、其の身に集まるを夢み、因つて娠(はら)めり。寶誌曰はく、「子(をとこ)を生まば、當世の文士と爲(な)らん。」と」。]。鴉に因んで文章に黑人(くろうと)と云ふ洒落かね。ブレタンでは家每に二鴉番し[やぶちゃん注:「つがひし」。]、人の生死を告ぐといふ(Collin de Plancy, p.143)。

[やぶちゃん注:「Burton, “Pilgrimage to Al-Madinah and Meccah,” in The York Library, vol.ii, p.294」十九世紀の大英帝国を代表する冒険家で、人類学者・言語学者・作家・翻訳家であり、軍人・外交官でもあったリチャード・フランシス・バートン(Richard Francis Burton  一八二一年~一八九〇年:本邦では特に「アラビアン・ナイト」の英訳「The Book of the Thousand Nights and a Night」(「千夜一夜物語」 一八八五年~一八八八年出版。本編十巻・補遺六巻)の翻訳者として知られる)の「Personal narrative of a pilgrimage to Al-Madinah and Meccah」(「アルマディナとメッカへの巡礼の私的な物語」)。一八五五~六年刊で全三巻。但し、二種の英文サイトの同巻同ページを調べたが、見当たらない。

「南史」中国の正史二十五史の一つ。本紀十巻・列伝七十巻から成る。唐の李延寿の撰。高宗(在位:六四九年~六八三年)の時に成立した。南朝の宋・斉・梁・陳四国の正史を改修した通史で、南朝・北朝の歴史が、それぞれ自国中心であるのを是正し、双方を対照し、条理を整えて編集した史書。

「高昌國」南北朝から唐代にかけて、現在の新疆ウイグル自治区トルファン市に存在したオアシス都市国家。元・明代にはウイグル語の音訳から「哈拉和卓」(カラ・ホージャ)・「火州」・「霍州」などとして記録されている。トルファン市高昌区には、城址遺跡「高昌故城」が残っている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「類凾に、海鹽南三里……」「漢籍リポジトリ」の「烏三」の[428-14a]の影印画像の二行目の「村名 弓名」に現われる。

「後夜(ごや)」夜半から朝までの時間。

「穆帝(ぼくてい)」複数いるが、この場合は東晋の第五代皇帝。司馬聃(たん)。在位は三四四年~三六一年。数え十九歳で崩御している。

「準の女」何法倪。東晋の政治家で宰相に昇りつめた何充(二九二年~三四六年)の五番目の弟である何準の娘。穆帝の皇后。

「柳仲郢(りうちゆうえい)」唐代の政治家。監察御史・戸部尚書・京兆尹を歴任し、節度使となったが、後に左遷された。

「鎭」東蜀の「町」の意か。実は「唐書」の記載は「巻十八下」の「本紀第十八下」の「宣宗」の条にあるが、かなり長い。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの電子化がそれであるが(かなりよく正しく字が起こされているようである。影印本画像も見られる)、その最後の部分は、「會河南尹柳仲郢、鎭東蜀、辟為節度判官、檢校工部郎中。大中末、仲郢、坐專殺左遷、商隱廢罷、還鄭州、未幾病卒。」とあるのを熊楠は圧縮している。

「酉陽雜俎に邑中終歲無烏……」同書の巻十六の「廣動植之一序」の動植物の吉凶を羅列した中に出る。この時期の「邑」(ゆう)は現在の「県」に相当する。中国の「郡」は県を含む上位の行政単位である。従って、「県中(けんじゅう)から、一年中、カラスがいなくなった時は、外部からの侵攻がある凶兆であり、また、郡の中に、突如、カラスがいなくなった時は、太陽の中にいる三本足の神聖なカラスが死んでしまう宇宙的カタストロフを意味する。」ということである。これなどを見ると、私には、黒点の拡大による太陽の核融合の減衰ではなく、皆既日食を指しているように思われる。

「マコレー」これはイギリスの商人で官吏でもあった旧イギリス領シエラレオネの植民地主義者であったケネス・マカーリー(Kenneth Macaulay 一七九二年~一八二九年)であろう。

「セント・キルダ誌」選集はこれを雑誌名として二重鍵括弧で括っているが、これは、マコレーが書いた「The History of St. Kilda 」(「セント・キルダ諸島の歴史」)のことではないか?

「鴉經(上出)」『「二」の(2)』参照。

「類凾二四三と二四四に邵氏聞見錄を引き云ふ、邵康節の母、山を行(あり)き……」「漢籍リポジトリ」のこちらが「卷二四三」で(「人部二」)、ちらが「卷二四四」で(「人部三」)、確かに孰れにも「邵氏聞見錄」からの引用がある。しかし、前者には「一黑猿を見、感じて娠み、」に相当するものはない。複数の検索方法で同書全体も調べたが、見当たらなかった。後者には「生子三」の「庭滿慈烏」で[249-6b]に「邵氏聞見録邵康節母李氏臨娩有慈烏滿庭人以瑞是日康節生七嵗戯于庭蟻穴中别見天日雲氣徃来也」と、この後半に相当するものがある。

「王知遠母晝寢……」「王知遠」は唐代の人物のようである。「維基文庫」の「大清一統志」では(影印画像附帯)、「鴉」ではなく、「鳳」となっている。同「古今圖書集」のこちら(同前。但し、画像は下方)では、『「唐書王遠智傳」、王遠智、系本琅邪、後爲揚州人。父曇選、爲陳揚州刺史。母晝寢、夢鳳集其身、因有娠。浮屠寶誌謂曇選曰、「生子當爲世方士。」。』とあるんですけど? 熊楠先生?

「ブレタン」フランスのブレタン(Brétinか?]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 湼槃

 

   湼  槃

 

花ざかりなる菩提樹の下

密林の影のふかいところで

かのひとの思惟(おもひ)にうかぶ

理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神祕をおもふ。

 

涅槃は熱病の夜あけにしらむ

靑白い月の光のやうだ

憂鬱なる 憂鬱なる

あまりに憂鬱なる厭世思想の

否定の、絕望の、惱みの樹蔭にただよふ靜かな月影

哀傷の雲間にうつる合歡の花だ。

 

涅槃は熱帶の夜明けにひらく

巨大の美しい蓮華の花か

ふしぎな幻想のまらりや熱か

わたしは宗敎の祕密をおそれる

ああかの神祕なるひとつのいめえぢ――「美しき死」への誘惑。

 

涅槃は媚藥の夢にもよほす

ふしぎな淫慾の悶えのやうで

それらのなまめかしい救世(くぜ)の情緖は

春の夜に聽く笛のやうだ。

 

花ざかりなる菩提樹の下

密林の影のふかいところで

かのひとの思惟(おもひ)にうかぶ

理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神祕をおもふ。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。標題「湼槃」のみ、この字体(本文内の三ヶ所のそれは「涅槃」)。「湼」は「涅」の異体字。流石は本家新潮社! 同社の昭和一四(一九三九)年刊の新潮文庫「萩原朔太郞詩集」でも標題はちゃんと「湼槃」の表記となっている。初出は大正一一(一九二二)年九月号『太陽』。以下に示す。こちらの標題は「涅」の字体。太字は同前。

   *

 

 湼槃

 

    原始佛敎における涅槃の觀念は、
     この世に於ての最も美しい思想である。
              ショーペンハウエル

 

花ざかりなる菩提樹の下

密林の影のふかいところで

かのひとの思惟(おもひ)に浮ぶ

理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神祕をおもふ。

 

涅槃は熱病の夜あけにしらむ

靑白い月の光のやうだ

憂欝なる 憂欝なる

あまりに憂欝なる厭世思想の

否定の、絕望の、惱みの樹蔭にただよふ靜かな月影

哀傷の雲間にうつる合歡(ねむ)の花だ。

 

涅槃は熱帶の夜明けにひらく

巨大の美しい蓮華の花か

ふしぎな幻想のまらりや熱か

わたしは宗敎の祕密をおそれる

ああかの神祕なるひとつの心像(いめえぢ)――美しき死への誘惑。

 

涅槃は媚藥の夢にもよほす

ふしぎな淫慾の悶えのやうで

それらのなまめかしい救世(くぜ)の情緖は

春の夜に聽く笛のやうだ。

 

花ざかりなる菩提樹の下

密林の影のふかいところで

かのひとの思惟(おもひ)にうかぶ

理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神祕をおもふ。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 僕等の親分

 

   僕等の親分

 

剛毅な慧捷の視線でもつて

もとより不敵の彼れが合圖をした

「やい子分の奴ら!」

そこで子分は突つぱしり 四方に氣をくばり

めいめいのやつつける仕事を自覺した。

 

白晝商館に爆入し

街路に通行の婦人をひつさらつた

かれらの事業は奇蹟のやうで

まるで禮儀にさへ適つてみえる。

しづかな、電光の、抹殺する、まるで夢のやうな兇行だから

市街に自動車は平氣ではしり

どんな平和だつてみだしはしない。

もとより不敵で豪膽な奴らは

ぬけ目のない計畫から

勇敢から、快活から、押へきれない欲情から

自由に空をきる鳥のやうだ。

見ろ 見ろ 一團の襲擊するところ

意志と理性に照らされ

やくざの祕密はひつぺがされ

どこでも偶像はたたきわられる

 

剛毅な 慧捷の瞳(ひとみ)でもつて

僕等の親分が合圖をする。

僕等は卑怯でみすぼらしく 生き甲斐もない無賴漢(やくざ)であるが

僕等の親分を信ずるとき

僕等の生活は充血する

仲間のみさげはてた奴らまでが

いつぽんぶつこみ 拔きつれ

まつすぐ喧嘩の、繩ばりの、讐敵(かたき)の修羅場へたたき込む。

 

僕等の親分は自由の人で

靑空を行く鷹のやうだ。

もとより大膽不敵な奴で

計畫し、遂行し、豫言し、思考し、創見する。

かれは生活を創造する。

親分!

 

[やぶちゃん注:初出誌未詳。或いは未発表詩篇か。「慧捷」「覚えが早い上に、すばしっこい。」の意の「聡慧警捷」(そうけいけいしょう)の縮約。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 絕望の逃走

 

   絕望の逃走

 

おれらは絕望の逃走人だ

おれらは監獄やぶりだ

あの陰鬱な栅をやぶつて

いちどに街路へ突進したとき

そこらは叛逆の血みどろで

看守は木つ葉のやうにふるへてゐた。

 

あれからずつと

おれらは逃走してやつて來たのだ

あの遠い極光地方で 寒ざらしの空の下を

みんなは栗鼠のやうに這ひ𢌞つた

いつもおれたちの行くところでは

暗愁の、曇天の、吠えつきたい天氣があつた。

 

逃走の道のほとりで

おれらはさまざまの自然をみた

曠野や、海や、湖水や、山脈や、都會や、部落や、工場や、兵營や、病院や、銅山や

おれらは逃走し

どこでも不景氣な自然をみた

どこでもいまいましいめに出あつた。

 

おれらは逃走する

どうせやけくその監獄やぶりだ

規則はおれらを捕縛するだらう

おれらは正直な無賴漢で

神樣だつて信じはしない、何だつて信ずるものか

良心だつてその通り

おれらは絕望の逃走人だ。

 

逃走する

逃走する

あの荒凉とした地方から

都會から

工場から

生活から

宿命からでも逃走する

さうだ! 宿命からの逃走だ。

 

日はすでに暮れやうとし

非常線は張られてしまつた

おれらは非力の叛逆人で

厭世の、猥弱の、虛無の冒瀆を知つてるばかりだ。

ああ逃げ道はどこにもない

おれらは絕望の逃走人だ。

 

[やぶちゃん注:「暮れやうとし」の「や」はママ。初出は大正一一(一九二二)年九月号『太陽』。以下に示す。

   *

 

 絕望の逃走

     ――あるニヒリストのうた

 

おれらは絕望の逃走人だ

おれらは監獄やぶりだ

あの陰欝な栅をやぶつて

いちどに街路へ突進したとき

そこらは叛逆の血みどろで

看守は木つ葉のやうにふるへてゐた。

 

あれからずつと

おれらは逃走してやつて來たのだ

あの遠い極光地方で、寒ざらしの空の下を

みんなは栗鼠のやうに這ひ廻つた

いつもおれたちの行くところでは

暗愁の、曇天の、吠えつきたい天氣があつた。

 

逃走の道のほとりで

おれらはさまざまの自然をみた

曠野や、海や、湖水や、山脈や、都會や、部落や、工場や、兵營や、病院や、銅山や

おれらは逃走し

どこでも不景氣な自然をみた

どこでもいまいましいめに出あつた。

 

おれらは逃走する

どうせやけくその監獄やぶりだ

規則はおれらを捕縛するだらう

おれらは正直な無賴漢で

神樣だつて信じはしない、何だつて信ずるものか

良心だつてその通り

おれらは絕望の逃走人だ。

 

逃走する

逃走する

あの荒寥とした地方から

都會から

工場から

生活から

宿命からでも逃走する

さうだ! 宿命からの逃走だ。

 

日はすでに暮れようとし

非常線は張られてしまつた

おれらは非力の叛逆人で

厭世の、猥瀆の、虛無の冒瀆を知つてるばかりだ。

ああ逃げ道はどこにもない

おれらは絕望の逃走人だ!

 

   *

なお、筑摩版全集の『草稿詩篇 蝶を夢む』の最後には、『絕望の逃走(本篇原稿一種二枚)』としつつも、掲げずに、『斷片。末尾に』、(詩集 蝶を夢むヨリ)「萩原朔太郞詩集」ヨリ『と附記されている』という旨のみ記す。

2021/12/23

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(5)

 

 支那で烏を太陽の精とする。三足の烏は淮南子に最古く筆せられたと、井上哲次郞博士が大正二年五月一日の日本及び日本人で言はれた。其本文は日中有踆烏猶踆蹲也謂三足烏[やぶちゃん注:「日中に踆烏(しゆんう)有り。猶ほ踆は蹲(そん)のごときなり。『三足の烏』を謂へり。」。]だ。しかし、楚辭に羿焉彃日烏焉解羽[やぶちゃん注:底本では三字目が「畢」であるが、誤字であるので訂した。「羿(げい)は焉(いづく)んぞ日(ひ)を彃(い)たる 烏(からす)は焉んぞ羽(はね)を解(と)せる。」。]とあり、准南子に堯時十日竝出草木焦枯堯命羿仰射十日其九烏皆死堕羽翼[やぶちゃん注:「堯の時、十の日(ひ)、竝び出でて、草木、焦げ枯る。堯、羿に命じて、十の日を、仰ぎ射せしむ。その九の烏、皆、死して、羽翼を墮(お)とす。」。]と出るを見ると、三足は兎に角、烏が日に棲むちう迷信は、漢代よりはずつと古く有つて、戰國の時既に記されたのだ。明治四十五年八月一日の『日本及日本人』[やぶちゃん注:一九一二年。七月三十日に大正に改元している。但し、これは雑誌のバック・ナンバーを言ったもので、刊行物は事実、改元以前に発行されているから、これで正しいのである。]に予が言つた通り、太陽に烏有りとは日中の黑點が似たからだが、其上に烏が定つて[やぶちゃん注:「きまつて」。]曉を告げるからで有る。バツヂ曰く、古埃及人の幽冥經(ブツク・オヴ・ゼ・デツド)に、六七の狗頭猴(チノケフアルス)旭に對(むか)ひ手を擧げて呼ぶ處を畫けるは、曉の精で日が地平より上り畢れば化して狗頭猴と成ると附載した。蓋し亞非利加の林中に此猴日出前每に喧呼するを曉の精が旭日を歡迎頌讃すると心得たるに由ると。是れ頗る支那で烏を日精とするに似居る。予屢ば猴を畜(か)うたのを觀ると、日が暮れば忽ち身を屈め頭を垂れて眠り了り何度起(おこ)すも暫くも覺(さめ)居らず、扨曉近く天が白むと歡び起きて大噪(おほさは)ぎす。日吉の神が猴を使物とするは此由であらう。猴と烏は仲惡い者らしく、古今著聞集に、文覺淸瀧川の上で猴謀つて烏を捕へ使ひ殺すを見たと載せ、Tavernier, “Travels in India,” trans. Ball, 1889, vol.ii, p.294 に、ベンガルで母に乳付(ちゝづ)かぬ子を三日續けて朝から晚(くれ)迄樹間に露(さら)し、なほ乳付かねば之を鬼子(おにご)と做(な)して恒河(ガンジス)に擲入(なげい)る。斯く曝さるゝ間烏來つて眼を啄き拔く事多く、爲にこの地方に瞎(かため)又盲人(めくら)多し。然るに猴多き樹間に曝された兒は此難を免る。猴は甚だ烏を惡み、其巢を見れば必ず之を覆して卵を破る故、烏が其邊に巢ぬ[やぶちゃん注:「すくはぬ」。]からだと出づ。日吉(ひえ)と熊野と仲惡きに(嚴神鈔)、其使ひ物の猴と烏と仲惡きも面白い。但し日吉山王利生記に烏も日吉の使と有るは、例の日に緣あるからだらう。鹽尻四一、伊勢矢野の神香良洲(からす)の御前は天照大神の妹と云ふも、日と烏に因んだのか。古今圖書集成の邊裔典卷二八に、朝鮮史略曰、新羅東海濱有二人、夫曰迎烏、妻曰細烏、迎烏漂至日本國小島主、其妻細烏尋其夫、漂至其國、立爲妃、人以迎烏細烏爲日月之精[やぶちゃん注:「「朝鮮史略」に曰はく、『新羅の東海の濱に、二人、有り。夫は迎烏と曰ひ、妻は細烏と曰ふ。迎烏、漂ひて日本國の小島に至り、主と爲(な)る。其の妻細烏は、其の夫を尋ね、漂ひて其の國に至り、立ちて妃と爲る。人、迎烏・細烏を以つて、「日月の精」と爲す』と。」。]。又新羅の官制十七品の中に、大烏・小烏有り、何とか烏に關する名か知らぬ。古波斯から起つて一時大に歐州に行はれたミツラ敎で、光の神ミツラ自ら聖牛を牲する雕像に、旭日の傳令使として鴉を附した(“Encyclopaedia Britannica,” vol.xviii, p.623)。其像は予親(まのあた)り視た事有り。寫は Seyffert, “A Dictionary of Classical Antiquities,” trans., 1908, p.396 に出づ。Frobenius, “The Childhood of Man,” 1909, pp.255-6 に、鴉死人の靈を負て太陽に送り付ける所を西北米土人が刻んだ樂器の圖有り。ツリンキート人は最初火を持來り、光を人に與へしは烏と信ず(“Encyc. Brit.,” ii, 51)。西南濠州諸部土人の傳說にも烏初めて火を得て人に傳へた話が多い。例せばヤラ河北方の古傳に、カール、アク、アール、ウク女獨り火を出す法を知れど他に傳へず、薯蕷(やまのいも)を掘る棒の端に火を保存す。烏(ワウング)之を取らんとし、其の蟻の卵を嗜むを知れば、多くの蛇を作つて蟻垤(ありづか)下に置き、かの女を招く。女少しく掘るに蛇多く出づ。烏敎へて彼棒で蛇を殺さしむ。乃ち蛇を打つと棒より火墮(おつ)るを、烏拾ひ去つた。大神パンゼル、彼女を天に置き星となす。烏火を得て吝みて[やぶちゃん注:「しわみて」。]人に與へず。黑人の爲に食を煮てやるはよいが、賃として最好の肉を自ら取り食ふ。大神大いに怒り、黑人を聚めて烏に麁しく[やぶちゃん注:「あらあらしく」。]言(ものい)はしむ。烏瞋(いか)つて黑人を燒亡せんとて火を抛散らす。黑人各の[やぶちゃん注:「おのおのの」。]火を得て去り、チユルト、チユルトとヲラル[やぶちゃん注:選集ではそれぞれ『チェルト』『テラル』と表記する。]の二人、乾草もて烏を圍み火を附けて焚殺すと有つて、此烏も星と化(な)つて天に在るらしい(Smyth, “The Aborigines of Victoria,” 1878, vol.ii, pp.434, 459)。其他鷲と烏合戰物語など、西南濠州の神話に烏多く參加せり。烏が火を傳ふとは、日と火と日と烏が相係るに由つたらしく、支那にも武王紂を伐つ時、渡孟津、有火自天、止於王屋、爲赤烏(尙書中候)、惑熒火精、生朱烏(抱朴子)、「蜀徼有火鴉、能銜火(本草集解)[やぶちゃん注:『「孟津を渡る。天より、火、有り、王屋に止まり、赤烏と爲れり。」(「尙書中候」)、熒惑(けいわく)は火の精にして、朱烏を生む。」(「抱朴子」)、「蜀の徼(さかひ)に火鴉有り、能く火を銜む。」(「本草」集解)。』。]など、類凾四二三に引き居り、中山白川營中問答の講談を幼時聽きたるに、此事の起は、白烏を朝廷へ獻じたのを郊外に放つと忽ち火に化し、京師火災に及んだからと言つた。酉陽雜俎に、烏陽物也。感陰氣而翅重、故俗以此占其雨否[やぶちゃん注:「烏は陽物なり。陰氣を感ずれば、翅、重し。故に、俗、此れを以つて其の雨ふるや否やを占ふ。」。但し、この「酉陽雜俎」出典とするという記載は不審。後注参照。]。倭漢三才圖會に鴉鳴有還聲者、謂之呼婦、主晴、無還聲者、謂之逐婦、主雨[やぶちゃん注:「鴉、鳴きて、還(もど)る聲有れば、之れを『呼婦』と謂い、晴を主(つかさど)る。還る聲無ければ、之れを」『逐婦』と謂ひ、雨を主る。」。]という支那說を引き、又云く、按夏月鴉浴近雨、每試然、凡將雨氣鬱蒸、故浴翅者矣[やぶちゃん注:「按ずるに、夏月、鴉、浴すれば、雨ふること、近し。每(つね)に試むるに、然り。凡そ將に雨ならんとすれば、氣、鬱蒸(うつじよう)す。故に翅を浴する者なり。」。但し、この「倭漢三才圖會」出典とするという記載は不審。後注参照。]。こんな譯にも由るか、濠州で烏初めて雨を下した[やぶちゃん注:「ふらした」。]と信ずる土人有り(Smyth, ii, 462)。

[やぶちゃん注:「淮南子」本邦の学者間では「えなんじ」と呉音で読むことになっている。前漢の高祖の孫で淮南王の劉安(紀元前一七九年?~同一二二年)が編集させた論集。二十一篇。老荘思想を中心に儒家・法家思想などを採り入れ、治乱興亡や古代の中国人の宇宙観が具体的に記述されており、前漢初期の道家思想を知る不可欠の資料とされる。当該箇所は「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本画像の一行目で見られる。右の活字は機械翻字で、どうしようもなくひどいので参照してはダメ。

「井上哲次郞」国家主義者であった哲学者井上哲次郎(安政二(一八五六)年~昭和一九(一九四四)年)の通称。東京帝国大学で日本人初の哲学教授(明治二十三(一八九〇)~大正一二(一九二三)年)となった(“metaphysical”の訳語「形而上」は彼になるもの)。文学史では近代詩集の濫觴として必ず覚えさせられる(読んでも頗る退屈な非詩的内容なのに)「新体詩抄」を、外山正一・矢田部良吉らとともに明治一五(一八八二)年に刊行、「孝女白菊詩」などの漢詩でも有名で、当時、現役の東大教授である。

「大正二年」一九一三年。

「日本及び日本人」正しい表記は『日本及日本人』。月刊の評論雑誌。明治二一(一八八八)年四月、三宅雪嶺・井上円了・杉浦重剛ら政教社同人により創刊された『日本人』を、明治四〇(一九〇七)年に改題したもの。当初から西欧主義に反発した国粋主義を主張し、後、雪嶺の個人雑誌的色彩を濃くした(但し、大正一二(一九二三)年の大震災罹災直後に運営方針から内部で対立し、同年秋に雪嶺は去った)。昭和二〇(一九四五)年二月、終刊。戦後の昭和四一(一九六六)年一月に復刊したものの、時勢に合わず、四年後には廃刊となった。

「踆烏」太陽の中に蹲っているとされた、三本足の鴉。

「蹲」大修館書店の「廣漢和辭典」では「蹲」の意義の中で、「鷷」に同じとするので、そちらを引くと、「爾雅」に西方に棲息する雉とある。しかしこれは、何だか、「踆烏」が豆鉄砲喰らったような感じで、不服であった。そこでさらに調べると、研究者がおられた。飯塚勝重氏の論文「三足烏原像試探」(PDF・『アジア文化研究所研究年報』四十八号・二〇一四年二月発行・「東洋大学学術情報リポジトリ」のここでダウン・ロード可能。画像も豊富)である。詳しくはそちらを見られたいが、飯塚氏は「踆」を「蹲」と似ているとした記載自体を怪しいと考えておられる。「廣漢和辭典」の親分である「大漢和辞典」を引いた後に、「蹲」について「蹲鴟」(そんし)「鴟蹲」の語を掲げ、後者は本来は『うずくまるフクロウを意味する』とされる(口絵有り)。以下の「楚辞」の「烏」も考証されておられるので、是非、読まれたい。

「羿焉彃日烏焉解羽」「楚辞」の長大な詩「天問」の地上の怪異に対する疑問を挙げる段の終りにある、

   *

鯪魚何所

鬿堆焉處

羿焉彃日

烏焉解羽

 鯪魚(りようぎよ)は 何(いづ)れの所ぞ

 鬿堆(きたい)は 焉(いづ)れの處ぞ

 羿(げい)は 焉(いづ)くんぞ日を彃(い)たる

 烏(からす)は 焉くんぞ羽(はね)を解きたる

   *

である。訓読は集英社「漢詩大系 第三巻 楚辭」(藤野岩友著・昭和四二(一九六七)年)に拠った。

・「鯪魚」は清の呉任臣の「山海経広注」で、「山海経」の「海内北経」にある「陵魚、人面、手足魚身、在海中。」の注で、この屈原の「天問」の「鯪魚」をそれであるとする(「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本画像を参照)。なお、私の『毛利梅園「梅園魚譜」 人魚』でも言及され、私が相当にリキを入れた注を附してあるので、是非、読まれたい。ただそこに私が張った多くの画像を見るだけでも、人魚フリークにはすこぶる楽しいはずである。序でに、私の「大和本草附錄巻之二 魚類 海女 (人魚)」もどうぞ。

・「鬿堆」「山海経」の「東山経」に「北號之山」に、「有鳥焉、其狀如鷄而白首、鼠足而虎爪、其名曰鬿雀、亦食人。」とあるのが、それらしい。

・「羿」当該ウィキによれば、『中国神話に登場する人物』で、『弓の名手として活躍したが、妻の嫦娥(姮娥とも書かれる)に裏切られ、最後は弟子の逢蒙によって殺される、悲劇的な英雄である』。『羿の伝説は』「楚辞」のこの「天問」『篇の注などに説かれている太陽を射落とした話(射日神話、大羿射日)が知られるほか、その後の時代の活躍を伝える話』(夏の時代の別な羿のことであるが、後代のそれは、この羿の伝説の派生的なものとも考えられているようだが、ここでは省略する)『も存在している』。『日本でも古くから漢籍を通じてその話は読まれており』「将門記」の石井の夜討ちの場面や、「太平記」(巻二十二)『などに弓の名手であったことや』、『太陽を射落としたことが引用されている』。『天帝である帝夋』(しゅん)『(嚳』(こく)『ないし舜と同じとされる)には羲和』(ぎわ/ぎか)『という妻がおり、その間に太陽となる』十『人の息子(火烏)を産んだ。この』十『の太陽は交代で』、一日に一人ずつ、『地上を照らす役目を負っていた』。『ところが』、『帝堯の時代に』、十『の太陽がいっぺんに現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋は』、『その解決の助けとなるよう天から神の一人である羿をつかわした。帝夋は羿に紅色の弓(彤弓』(とうきゅう)『)と白羽の矢を与えた』。『羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが』、『効果がなかった』ため、『仕方なく』、一『つを残して』九『の太陽を射落とした。これにより』、『地上は再び元の平穏を取り戻したとされる』。『その後も羿は、各地で人々の生活をおびやかしていた数多くの悪獣』『を退治し、人々にその偉業を称えられた』。しかし、『自らの子(太陽たち)を殺された帝夋は羿を疎ましく思うようになり』、『羿と妻の嫦娥(じょうが)を神籍から外したため、彼らは不老不死ではなくなってしまった。羿は崑崙山の西に住む西王母を訪ね、不老不死の薬を』二『人分もらって帰るが、嫦娥は薬を独り占めにして飲んでしまう。嫦娥は羿を置いて逃げるが、天に行くことを躊躇して月(広寒宮)へしばらく身をひそめることにする。しかし、羿を裏切ったむくいで体はヒキガエルになってしまい、そのまま月で過ごすことに』なってしまった(嫦娥は道教で月の神となっている)。『なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「満月の晩に月に団子を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて再び夫婦として暮らすようになった」という話が付け加えられることもある』。『その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、家僕の逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば私が天下一の名人だ」と思うようになり、ついに羿を撲殺してしまった。このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」』(「逢蒙殺羿」)と言うようになった』とある。

・「烏(からす)は 焉くんぞ羽(はね)を解きたる」これは、まさに太陽の中に(三本足の奇体なかどうかは知らぬが)烏がさわにいたのに、羿が九つの太陽を射落とした結果、九割もの鴉は羽を落して消えてしまったという牽強付会をすると、何となく、意味が通ずるようなきがしてくる。そんなことを妄想しながら、検索していると、山のキノコ氏のブログ「雑想庵の破れた障子」の「人類は紀元前の大昔から、太陽黒点の消長と、温暖化との相関関係に気付いていた! (前篇)」にそれっぽい引用が出てくるのを見出した。さらに、同記事の(後篇)を読むに、『射落とした太陽からカラスの羽が落ちてくるか、あるいは太陽からカラスの群れが飛び出してあちこちに雲散霧消する。つまり、カラスがいなくなったのである。』とあった。而して、熊楠と同じく、この太陽の中の黒いカラスとは、太陽の黒点を指す、とあった。以下、『太陽黒点は英語では sunspot=太陽のそばかす、ほくろでありますが、世界各地に太陽にカラスがいるぞという伝承があるようで、東アジアでは太陽に棲むカラスとは太陽黒点のことです。そもそも太陽は』二十七『日 (地球日で) の周期で自転しているから黒点は日々移動していくし、太陽活動の活発さに応じて巨大になったり消滅したりして変幻自在であります。で、動き回るカラスに見えたのでしょう。東アジアの太陽に棲むカラスはたいていは』三『本足ですが、これは数字には陰の数字と陽の数字があり、太陽のカラスには陽の数字の』三『を当てたものだと考えられています。しかし、巨大肉眼黒点が』三『本足のカラスそっくりの形状であった可能性もありえます。現代人は目が悪い人が多いですが、古代人は視力の高い人が多かったと考えられ、肉眼黒点の形状を細かに観察したことであろうと思われます』とあって、更に、『日本がまだ縄文時代のころ』、『中国大陸では既に農耕がはじまっていて』、一『日の仕事をおえた人々が夕陽を眺めて、太陽のカラスを観察していたのが』三『本足のカラスの起源なのです。古代には』、『まだ近代的な意味での天文学も植物学も地質学もありませんが、現代人よりもはるかに身近な 「自然観察」 をしていたことは想像に難くありません』とあった。「楚辞」のこの一句を解釈するには、やや説明しきれていない気はするものの、非常に面白い考証である。是非、読まれたい。

「明治四十五年八月一日の『日本及日本人』に予が言つた」当該記事に当たることが出来ない。

「バツヂ」イギリスの考古学者エルネスト・アルフレッド・トンプソン・ウォーリス・バッジ(Ernest Alfred Thompson Wallis Budge 一八五七年~一九三四年)。古代エジプト・アッシリア研究者として大英博物館の責任者を長く務めた。既に「南方熊楠 小兒と魔除 (2)」「南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 6」に登場している。

「幽冥經(ブツク・オヴ・ゼ・デツド)」古代エジプトで冥福を祈り死者とともに埋葬された葬祭文書「死者の書」。パピルスなどに、主に絵とヒエログリフで、死者の霊魂が肉体を離れてから、死後の楽園アアルに入るまでの過程・道標を描いたもの。参照した当該ウィキによれば、『書名をラテン文字化』したものを、『日本語に直訳すると「日下出現の書」または「日のもとに出現するための呪文」となる』。「死者の書」という名称は、一八四二年に『プロイセン王国のエジプト学者、カール・リヒャルト・レプシウスがパピルス文書を』「Ägyptisches Totenbuch」(「エジプト人の死者の書」)と『名付けて出版したことで、英訳の』「Book of the Dead」などとして『知られるようになった』とある。

「狗頭猴(チノケフアルス)」漢字文字列からは、「狗の頭部を持った猿」で、エジプト神話に登場する冥界の神であるアヌビス(Anubis)の異名かと思ったが、不詳。綴りが判らん。Chinochephalus じゃ、何か学名みたいだし。以下の熊楠の言い方じゃ、アフリカにモデルになった猿がいるように書いてある。識者の御教授を乞うものである。

「古今著聞集に、文覺淸瀧川の上で猴謀つて烏を捕へ使ひ殺すを見た」巻第二十の「魚蟲禽獸」篇にある「文覺上人、高尾にて三匹の猿、烏を捕りて鵜飼を摸するを見る事」である。以下に電子化する。「新潮日本古典集成」版を参考に、恣意的に漢字を正字化した。

   *

 文覺上人、高雄興隆の比、見まはりけるに、淸瀧川のかみに、大きなる猿、兩三匹ありけるが、一つの猿、岩のうへにあふのきふして、うごかず。いま二匹は、たち退きて居たりけり。上人あやしみ思ひて、かくれて見ければ、烏一兩とびきて、この寢たる猿のかたはらに居たり。しばしばかりありて、猿の足を、つつきけり。猿、なほ、はたらかず、死にたるやうにてあれば、烏、しだいにつつきて、うへにのぼりて、目をくじらむと、しけるとき、猿、烏の足をとりて、おきあがりにけり。その時、のこりの猿二匹、いできて、ながき葛(かづら)をもちて、烏の足に、つけてけり。烏、飛びさらんとすれども、かなはず。さて、やがて河にをりて、烏をば、水になげ入れて、葛のさきをとりて、一匹は、あり、いま二匹は、河上より、魚をかりけり。人の、鵜、つかひけるをみて、魚をとらせむとしけるにや。烏を鵜につかふためし、はかなけれども、こゝろばせ、ふしぎにぞ思ひよりたりける。烏は、水になげ入られたれども、その益なくて、しにゝければ、猿どもは、うちすてて、山へいりにけり。「不思議なりし事、まのあたり見たりし。」とて、彼上人、かたりけるなり。

   *

「Tavernier, “Travels in India,” trans. Ball, 1889, vol.ii, p.294」十七世紀のフランスの宝石商人で旅行家であったジャン=バティスト・タヴェルニエ(Jean-Baptiste Tavernier 一六〇五年~一六八九年)。一六三〇年から一六六八年の間にペルシャとインドへの六回の航海を行っており、諸所の風俗を記した。その著作は、彼が熱心な観察者であり、注目に値する文化人類学者の走りであったことを示している。彼のそれらの航海の記録はベスト・セラーとなり、ドイツ語・オランダ語・イタリア語・英語に翻訳され、現代の学者も貴重な記事として、頻繁に引用している(英文の彼のウィキに拠った)。「Internet archive」で、この原本を見つけ、指示するページを見たが、載っていない。ページ数か、巻数の誤りか。

「嚴神鈔」室町時代の成立と推定される山王七社と諸末社について述べた書。「東京大学史料編纂所」公式サイト内のこちらで、「續群書類從 四十九」のそれが視認出来る。但し、写本。

「日吉山王利生記」(ひえさんのうりしょうき:現代仮名遣)は「山王絵詞」とも呼ぶが、詞書のみが伝わる。鎌倉時代、文永年間(一二六四年~一二七五年)の成立と推定される。

「鹽尻」江戸中期の国学者天野信景(さだかげ 寛文三(一六六三)年~享保一八(一七三三)年)の膨大な随筆(百七十巻以上が現存すると思われる)。元祿・宝永・正徳・享保(一六八八年~一七三六年)の約四十年間に亙って、歴史・地理・言語・文学・制度・宗教・芸術などについての見聞や感想を記したもの。国立国会図書館デジタルコレクション当該箇所が読める。ここの左丁の上段の「○伊勢國壹志郡矢野に祭る所の香良洲の……」の条で、上段その「香良洲(からす)の御前は天照大神の妹」という下りは上段後から四行目に出現する。

「古今圖書集成の邊裔典卷二八に、朝鮮史略曰、新羅東海濱有二人、夫曰迎烏、妻曰細烏、迎烏漂至日本國小島主、其妻細烏尋其夫、漂至其國、立爲妃、人以迎烏細烏爲日月之精」「古今圖書集成」(清の類書。現存する類書(百科事典)としては、中国史上最大で、巻数一万巻。正式名称は「欽定古今圖書集成」)を中國哲學書電子化計劃」の影印本で探したが、眼がチカチカしてくるばかりなので、引用ではなく、原本の「朝鮮史略(李徴朝鮮末期に成立した朝鮮穆祖から宣祖朝までの略史。作者不詳)を探したところ、「漢籍リポジトリ」のこちらにあった。[001-17b]の画像と電子化を見られたい。

「新羅の官制十七品」新羅(紀元前五七年~紀元後 九三五年)官位と職名であろう。

「ミツラ敎」ミトラ教・ミトラス教・ミスラス教とも。古代ローマで隆盛した、太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教であるが、これは、その起原は古代のインド・イランに共通するミスラ(ミトラ)神の信仰であったものが、ヘレニズムの文化交流によって地中海世界に入った後、形を変えたものと考えられることが多い。 紀元前一世紀には牡牛を屠るミトラス神が地中海世界に現われ、紀元後二世紀までには、ミトラ教としてよく知られる密儀宗教となった。ローマ帝国治下で一世紀より四世紀にかけて興隆したと考えられている。しかし、その起源や実体については不明な部分が多い(当該ウィキに拠った)。

「“Encyclopaedia Britannica,” vol.xviii, p.623Internet archive」の原本のここ

「Seyffert, “A Dictionary of Classical Antiquities,” trans., 1908, p.396」ドイツの古典哲学者でローマが専門であったオスカル・セイフェルト(Oskar Seyffert 一八四一年~一九〇六年)の著作。Internet archive」で版古いが(一八九五年)、同ページにあった。キャプションは「ミトラスの生贄」で、左上方の崖の上にカラスが確かにいる

「Frobenius, “The Childhood of Man,” 1909, pp.255-6」ドイツの在野の民族学者・考古学者で、ドイツ民族学の要人であったレオ・ヴィクトル・フロベニウス(Leo Viktor Frobenius 一八七三年~一九三八年)の英訳本「人類の幼年期」。「Internet archive」のこちらで原本の当該箇所が見られ、その下方の「241」図が「鴉死人の靈を負て太陽に送り付ける所を西北米土人が刻んだ樂器の」それだ。素敵だ! 気に入ったので、スクリーン・ショットでキャプションごと撮り、以下に掲げる。因みに、この後にも同様な魅力的なそれらの図が見られる。必見!

 

Tamasiiwookurukarasunohue

 

「ツリンキート人は最初火を持來り、光を人に與へしは烏と信ず(“Encyc. Brit.,” ii, 51)」Internet archive」の原本を確認、そこに北西アメリカの「Thlinkit indians」とあった。調べて見ると、所謂、イメージする北米インディアンよりも、アラスカに分布する人々のようである。和文記載が乏しく、よく判らない。

「ヤラ河」ヤラ川(Yarra River)はオーストラリアのビクトリア州南部を流れる川で、ヤラ・レンジズ国立公園の湿地帯に源を発し、メルボルンの中心地区を流れ、ポート・フィリップ湾のメルボルン港に注ぐ。流路延長は約二百四十二キロメートル。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。その Yarra Ranges National Park 附近のアボリジニーの伝承である。

「Smyth, “The Aborigines of Victoria,” 1878, vol.ii, pp.434, 459」オーストラリアの地質学者で、作家・社会評論家でもあったロバート・ブラフ・スミス(Robert Brough Smyth 一八三〇年~一八八九年)の作品。Internet archive」の原本の「434はここで、下方に火の伝承のことが短く記されているが、そこにはその伝説ついては、第一巻の「461」ページに指示してある(二巻の「459」ページは目録で違う)。そこで、第一巻を見ると、「458」から「火」の項があり、「459に熊楠の示した「カール、アク、アール、ウク女」(原書では「Kar-ak-ar-ook」と綴る)の名が二行目に出現する。ここだ!

「尙書中候」緯書(漢代に盛行した讖緯説を集大成した書。先秦の頃より流行していた未来を予言する讖(しん)と、陰陽五行・災異瑞祥・天人相感などの諸説によって経書を解釈しようとする緯とが結合した讖緯説は、図讖・図緯・緯候などと呼ばれて前漢末に隆盛を極めた。それが後漢の初めに至って、政権と結び付き、王莽の重んじた古文経に対抗して今文(きんぶん)学説として整理の気運が生じ、「乾鑿度」・「考霊曜」・「元命包」のように三字の編名を冠するいわゆる「緯書」が成立した。ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)の一書。散佚して、引用でしか見られない。

「蜀徼有火鴉、能銜火(本草集解)」これは李時珍の「本草綱目」の巻四十九「禽之三」の「慈烏」の「集解」の最後にある。「漢籍リポジトリ」のこちらの[114-10b]の影印画像を見られたい。

「類凾四二三」以上の三つの引用は、「漢籍リポジトリ」のこちらの「鳥部六【烏・鵲】」の「烏一」及び「烏二」にバラバラに出るものを熊楠がチョイスしてセットにしたもの。漢文を熟語の文字列でそれぞれ検索されたい。

「中山白川營中問答」「中山」は公卿議奏に任じられた中山愛親(なるちか 寛保元(一七四一)年~文化一一(一八一四)年:寛政元(一七八九)年に光格天皇が父典仁(すけひと)親王に太上(だいじょう)天皇の尊号をおくることを幕府に諮ったが、老中松平定信の反対でならなかった「尊号一件」で知られた人物。同五年に幕府の召喚を受け、一件紛糾の責任をとわれて閉門百日、議奏を解任された)で、「白川」白河公松平定信であろう。国立国会図書館デジタルコレクションに「勤王 繪本中山というのがあり(大谷信道編・明治二〇(一八八七)年広知社刊)、問答が幾つかあるが、ざっと見た限りでは、この話はないようだった。「白烏を朝廷へ獻じたのを郊外に放つと忽ち火に化し、京師火災に及んだ」というのを、幾つかの単語の組み合わせで検索したが、これもヒットしなかった。識者の御教授を乞う。

「酉陽雜俎に、烏陽物也……」この以下の文字列は、「酉陽雜俎」には見当たらない。しかし、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」で、良安は、「三才圖會」から引用して、

   *

「三才圖會」に云はく、『鴉、異を見れば、則ち、噪(さは)ぐ。故に、人、烏の噪ぐを聞くときは、則ち唾(つばきは)く。性(せい)、樂にして空曠(くうくわう)。涎(よだれ)を傳(つた)へて孕(はら)む。烏の飛-翅(と)ぶを候(うかが)ひて、天、將に雨(あめふ)らんとするを知る。蓋し、烏は陽物なり。陰氣を感じて重(おも)し。故に、俗、此れを以つて雨を占ふ。』と。

   *

とあるのを、熊楠は勘違いしたものか?

「倭漢三才圖會に鴉鳴有還聲者……」これも「和漢三才図会」には、幾つかの項を調べたが、どこにも見当たらない。気になるのは、「鴉鳴有還聲者、謂之呼婦、主晴、無還聲者、謂之逐婦、主雨」「という支那說を引き」という熊楠の言い方が、必ずしも、引用でない点で、中文サイトの「古今圖書集成」のこちらの「論飛禽」に(活字化を参考に画像で起こした)、

   *

諺云、「鴉浴風、鵲浴雨、八八兒洗浴斷風雨。」。鳩鳴有還聲者、爲之呼婦主晴、無還聲者、爲之逐婦主雨。鵲巢低主水、高主旱。俗傳、鵲意既預知水。則云、終不使我沒殺、故意愈低、既預知旱、則云、終不使我曬殺、故意愈高。「朝野僉載」云、鵲巢近地、其年大水、海燕忽成群而來、主風雨。諺云、「烏肚雨白肚風赤、老鴉含水叫。」。雨則未晴、晴亦主雨、老鴉作此聲者亦然。鴉若叫早主雨、多人辛苦。叫晏晴、多人安閒。農作次第、夜間聽九逍遙鳥叫卜風雨。諺云、「一聲風、二聲雨、三聲四聲斷風雨。」。鸛鳥仰鳴則晴、俯鳴則雨。鵲噪早報晴明曰乾鵲。冬寒天雀群飛翅聲重必有雨雪。鬼車鳥卽是九頭蟲、夜聽其聲出入、以卜晴雨。自北而南、謂之出窠、主雨。自南而北、謂之歸窠、主晴。「古詩」云、「月黑夜深聞鬼車 吃鷦叫」。主晴。俗謂之、「賣蓑衣𪃮叫。」。諺云、「朝𪃮晴、暮𪃮雨。」。夏秋間雨陣將至、忽有白鷺飛過、雨竟不至、名曰截雨。家鷄上宿遲、主陰雨。燕巢做不乾淨、主田内草多、母鷄背負鷄鶵、謂之鷄䭾兒、主雨【𪃮字査字典不載。乃方言也。音屋字亦係俗字。】

   *

とあって、内容と対象の鳥に異同があるが、その諺に酷似する部分があることが判る。さらに、以下の「按夏月鴉浴近雨、每試然、凡將雨氣鬱蒸、故浴翅者矣」であるが、「按」は良安の自身の解説をする際の定番の謂いではあり、「自分で試してみたが、その通り。」というのも良安がよく使う謂い方なのではあるのだが、見当らないのである。調査は続行する。識者の御援助も乞いたい。

「濠州で烏初めて雨を下したと信ずる土人有り(Smyth, ii, 462)」これも第一巻の誤り。Internet archive」の原本のここ

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 野景

 

   野 景

 

弓なりにしなつた竿の先で

小魚がいつぴき ぴちぴちはねてゐる

おやぢは得意で有頂天だが

あいにく世間がしづまりかへつて

遠い牧場では

牛がよそつぽをむいてゐる。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集の「解題」の「初出形及び草稿詩篇」の「一、初出誌が判明しながら再録不能だったもの」の中に本詩集では、本篇のみが挙げられてあり、『「野景」(初出題名「晝」)(『白金帖』大正四年六月號)』とあり、初出形は載らない。しかし、同全集「草稿詩篇 蝶を夢む」には『野景(本篇原稿六種七枚)』として、一篇が挙げられている。初出形が採録出来なかったんだから、殆んど同じでも六種総てを出しゃあよかろうにと強く思うが、まあ、ともかく、それを以下に示す。標題は最初「釣竿」と書いて抹消して、「晝」である。

   *

 

  釣竿

  

 

弓のやうにまがつた竿の先で

目高が一疋ぴちぴちはねてる

おやぢはいつしよけんめいだが

(おやぢはとくいで有頂天だが)

あいにく牛でさえも界はけんがしいんとして居る→しづまりかへつてしいんとして

遠くの牧場では牛でさへも晝寢 をして居る→をしてる して居る、よそつぽをむいて居る、

 

   *

後に編者注があり(〔 〕は編者による補正)、『「幼年思慕扁〔篇〕、」「幼年詩扁〔篇〕、玩其箱ヨリ、」と附記された別稿もある。』とある。やっぱ、全部載せるべきでしょう!]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 馬車の中で

 

   馬車の中で

 

馬車の中で

私はすやすやと眠つてしまつた。

きれいな婦人よ

私をゆり起してくださるな

明るい街燈の巷をはしり

すずしい綠蔭の田舍をすぎ

いつしか海の匂ひも行手にちかくそよいでゐる。

ああ蹄の音もかつかつとして

私はうつつにうつつを追ふ

きれいな婦人よ

旅館の花ざかりなる軒にくるまで

私をゆり起してくださるな。

 

[やぶちゃん注:「靑猫」からの再録。「巷」「蹄」に「ちまた」「ひづめ」のルビがあること以外には異同はない。「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 馬車の中で」を参照されたい。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 閑雅な食慾

 

   閑雅な食慾

 

松林の中を步いて

あかるい氣分の珈琲店(かふえ)をみた

遠く市街を離れたところで

だれも訪づれてくるひとさへなく

松間の かくされた 追憶の 夢の中の珈琲店(かふえ)である。

をとめは戀々の羞をふくんで

あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組

私はゆつたりとふほくを取つて

おむれつ ふらいの類を喰べた

空には白い雲がうかんで

たいそう閑雅な食慾である。

 

[やぶちゃん注:「靑猫」からの再録。最後の三行が、

   *

おむれつ ふらいの類を喰べた。

空には白い雲がうかんで

たいさう閑雅な食慾である。

   *

と表記が異なるだけである。「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 閑雅な食慾」を見られたい。そちらで語注も施してある。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 野鼠

 

   野 鼠

 

どこに私らの幸福があるのだらう

泥土(でいど)の砂を掘れば掘るほど

悲しみはいよいよふかく湧いてくるではないか

春は幔幕のかげにゆらゆらとして

遠く俥にゆすられながら行つてしまつた。

どこに私らの戀人があるのだらう

ばうばうとした野原に立つて口笛を吹いてみても

もう永遠に空想の娘らは來やしない。

なみだによごれためるとんのづぼんをはいて

私は日傭人(ひやうとり)のやうに步いてゐる

ああもう希望もない 名譽もない 未來もない

さうしてとりかへしのつかない悔恨ばかりが

野鼠のやうに走つて行つた。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。ルビ「ひやうとり」はママ(歴史的仮名遣は「ひようとり」でよい)。「靑猫」からの再録。「坭土」を「泥土」とし、三行目及び十一行目末の句点を除去している以外に異同はない。「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 野鼠」と並べて見られたい。そちらで簡単な注を附してある。なお、私は五年前に朔太郎の個人的な半生のかなり赤裸々な告白回想である昭和一一(一九三六)年六月号『新潮』初出の「靑猫を書いた頃」を電子化注しているが、そこで本篇の一部を引用しているので、読まれんことを強くお勧めする。]

2021/12/22

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 寄生蟹のうた

 

   寄生蟹のうた

 

潮みづのつめたくながれて

貝の齒はいたみに齲ばみ酢のやうに溶けてしまつた

ああ ここにはもはや友だちもない戀もない

渚にぬれて亡靈のやうな草を見てゐる

その草の根はけむりのなかに白くかすんで

春夜のなまぬるい戀びとの吐息のやうです。

おぼろにみえる沖の方から

船びとはふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く楫の音がきこえてくる

あやしくもここの磯邊にむらがつて

むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまはる

それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹(やどかり)の幽靈ですよ。

 

[やぶちゃん注:「靑猫」から再録。「船人」が「船びと」となっている以外は異同はない。私の「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 寄生蟹のうた」でちょっと朔太郎への文句の注をしてあるので参照されたい。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 夢(とらうむ)

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 夢(とらうむ)

   (とらうむ)

 

あかるい屛風のかげにすわつて

あなたのしづかな寢息をきく。

香爐のかなしい烟のやうに

そこはかとたちまよふ

女性のやさしい匂ひをかんずる。

 

かみの毛ながきあなたのそばに

睡魔のしぜんな言葉をきく

あなたはふかい眠りにおち

わたしはあなたの夢をかんがふ

このふしぎなる情緖

影なきふかい想ひはどこへ行くのか。

 

薄暮のほの白いうれひのやうに

はるかに幽かな湖水をながめ

はるばるさみしい麓をたどつて

見しらぬ遠見の山の峠に

あなたはひとり道にまよふ 道にまよふ。

 

ああ なににあこがれもとめて

あなたはいづこへ行かうとするか

いづこへ、いづこへ、行かうとするか。

あなたの感傷は夢魔に酢えて

白菊の花のくさつたやうに

ほのかに神祕なにほひをたたふ。

 

[やぶちゃん注:「靑猫」からの再録であるが、「靑猫」では「とらうむ」のルビはなく、表記に微妙な違いがあり、さらに「靑猫」では詩篇末尾に「(とりとめもない夢の氣分とその抒情)」という添え書きがある。私の「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 夢」と別ウィンドウで並べて見られたい。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 家畜

 

   家 畜

 

花やかな月が空にのぼつた

げに大地のあかるいことは。

小さな白い羊たちよ

家の屋根の下にお這入り

しづかに淚ぐましく動物の足調子をふんで。

 

[やぶちゃん注:初出は大正七(一九一八)年一月号『詩歌』であるが、標題は「小さな行進」である。以下に示す。

   *

 

 小さな行進

 

花やかな月が空にのぼつた、

げに大地のあかるいことは、

小さな白い羊たちよ、

家の屋根の下にお這入り、

しづかに、淚ぐましく、動物の足調子をふんで。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 蟾蜍

 

   蟾 蜍

 

雨景の中で

ぽうとふくらむ蟾蜍

へんに膨大なる夢の中で

お前の思想は白くけぶる。

 

雨景の中で

ぽうと呼吸(いき)をすひこむ靈魂

妙に幽明な宇宙の中で

一つの時間は消抹され

一つの空間は擴大する。

 

[やぶちゃん注:「蟾蜍」は以下の初出でルビが振られる通り、「ひきがへる」と読む(音は「センジヨ(センジョ)」)。種や博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」を参照されたい。

初出は大正一一(一九二二)年一月号『日本詩人』。以下に示す。「澎大」「すいこむ」はママ。

   *

 

 蟾蜍

 

雨景の中で

ぽーとふくらむ蟾蜍(ひきがへる)

へんに澎大なる夢の中で

お前の思想は白くけぶる。

 

雨景の中で

ぽーと呼吸(いき)をすいこむ靈魂

妙に幽冥な宇宙の中で

お前の時間は消抹され

お前の空間は擴大する。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 眺望

 

   眺 望

 

              旅の記念として、室生犀星に

 

さうさうたる高原である

友よ この高きに立つて眺望しやう。

僕らの人生について思惟することは

ひさしく既に轉變の憂苦をまなんだ

ここには爽快な自然があり

風は全景にながれてゐる。

瞳(め)をひらけば

瞳は追憶の情侈になづんで濡れるやうだ。

友よここに來れ

ここには高原の植物が生育し

日向に快適の思想はあたたまる。

ああ君よ

かうした情歡もひさしぶりだ。

 

[やぶちゃん注:二行目「しやう」はママ。「情侈」は「じやうし」と読むのだろうが、熟語としては「情歡」以上に見慣れない。「己の回顧感情の恣(ほしいまま)にすること」という謂いではあろう。なお、添え辞は、以下の初出から見て、前年大正一〇(一九二一)年夏七月下旬に、室生犀星に室生が避暑に馴染んでいた軽井沢から電報を寄せ、軽井沢に招かれ、ともに妙高山麓の赤倉温泉に遊んでおり、この時の遊興を指していると考えてよい。

 初出は大正十一年二月号『日本詩人』。以下に示す。

   *

 

 眺望

 

     旅の記念として、室生犀星に

 

さうさうたる高原である

友よ、この高きに立つて眺望しよう。

僕らの人生について思惟することは

ひさしく既に轉變の憂苦をまなんだ。

ここには爽快な自然があり

風は全景にこがれてゐる。

瞳(め)をひらけば

瞳(め)は追憶の情侈になづんで濡れるやうだ。

友よここに來れ

ここには高原の植物が生育し

日向な快適の思想はあたたまる。

ああ 君よ

かうした情歡もひさしぶりだ。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 海鳥 (ひょんなことから驚きの事実を発見)

 

   海 鳥

 

ある夜ふけの遠い空に

洋燈のあかり白白ともれてくるやうにしる

かなしくなりて家家の乾場をめぐり

あるひは海岸にうろつき行き

くらい夜浪のよびあげる響をきいてる。

 

しとしととふる雨にぬれて

さびしい心臟は口をひらいた

ああ かの海鳥はどこへ行つたか。

運命の暗い月夜を翔けさり

夜浪によごれた腐肉をついばみ泣きゐたりしが

ああ遠く飛翔し去つてかへらず。

 

[やぶちゃん注:「あるひは」はママ。この「乾場」は「ほしば」で、ワカメかコンブのそれであろう。私は直ちに既に友人であった北原白秋の優れた一首(第一歌集「桐の花」(大正二(一九一三)年東雲堂書店刊)の「初夏晩春」所収。白秋二十七歳。例の松下俊子との姦通罪により未決監に拘置(二週間)された翌年)、

      一九一〇暮春三崎の海邊にて

 いつしかに春の名殘となりにけり

  昆布干場(こんぶほしば)のたんぽぽの花

を想起する。因みに、北海道では昆布のそれは「干場」と書いて「かんば」と呼ぶが、朔太郎が北海道へ行ったという記憶はないので、「ほしば」でよかろう。ところが、ネットで北海道行の有無を調べていたところ、筑摩版全集の年譜にも載らない驚きの事実を見つけた。二〇一三年四月三日の「四国新聞社」の記事で、『萩原朔太郎が旧制中学卒業後の進学先として農学を志願していたことを示す資料が北海道大の文書館(札幌市)で』、三『日までに見つかった。研究者は「都会や欧州を愛し、芸術活動を志したイメージとは対照的で、非常に興味深い」と評価している』。『文書館によると、資料は』明治四〇(一九〇七)『年の東北帝国大学農科大予科(現・北海道大)の志願者名簿で、朔太郎の名前や出身中学などの記載があった。文書館の職員が昨年』二『月、保管していた過去の志願者名簿などを調べていた際に』、『偶然』、『見つけた』。『名簿には入試を欠席したことを示す印も付けられていた』とあって、小さいが、その志願者名簿の写真(北海道大文書館提供)が載り、「前橋」「萩原朔太郎」の姓名が確認出来る。当時、朔太郎は数え二十二(志願時は満二十歳)で、この年の七月に高等学校入学試験を受験したが、志望校未記入であったため、熊本の五高の合格扱いとなった(翌年七月第一学年を落第し、同月、岡山の六高を受験して合格(九月八日附で志願変更で五高を退学)したが、翌明治四十二年七月に性懲りもなく六高第一学年をまたしても落第、結局、翌明治四十三年四月に慶応義塾大学部予科一年に入学したものの、理由不明であるが、同月中に退学している。これが彼の最終学歴である。彼が一瞬なりとも、農学を志したというのは、かなり驚きである。これは当時は相応の記事になったのであろうが、私は十四年前に早期退職して以来、まず、滅多に新聞は読まないし、ネット上の新聞記事も余程のことがないと、読まない。皆さん、ご存知であれば、悪しからず。

 「一九一〇暮春三崎の海辺にて」と初出は大正一一(一九二二)年七月号『日本詩人』。以下に示す。「あるひは」「うらつき行き」(後者は原稿の誤記か誤判読か誤植)はママ。

   *

 

 海鳥

 

ある夜ふけの遠い空に

洋燈(らんぷ)のあかり白白ともれてくるやうにしる。

かなしくなりて家家の乾場をめぐり

あるひは海岸にうらつき行き

くらい夜浪のよびあげる響をきいてる。

 

しとしととふる雨にぬれて

さびしい心臟は口をひらいた

ああ かの海鳥はどこへ行つたか。

運命の暗い月夜を翔けさり

夜浪によごれた腐肉をついばみ泣きゐたりしが

ああ遠く飛翔し去つてかへらず。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 石竹と靑猫 (ちょっと筑摩版全集を批判した)

 

   石竹と靑猫

 

みどりの石竹の花のかげに ひとつの幻の屍體は眠る

その黑髮は床にながれて

手足は力なく投げだされ 寢臺の上にあほむいてゐる。

この密室の幕のかげを。

ひそかに音もなくしのんでくる ひとつの靑ざめたふしぎの情慾

そはむしかへす麝香になやみ

くるしく はづかしく なまめかしき思ひのかぎりをしる。

ああいま春の夜の灯かげにちかく

うれしくも死蠟のからだを嗅ぎてもてあそぶ

やさしいくちびるに油をぬりつけ すべすべとした白い肢體をもてあそぶ。

そはひとつのさびしい靑猫

君よ夢魔におびえて このかなしい戯れをとがめたまふな。

 

[やぶちゃん注:三行目「あほむいて」はママ。無論、筑摩版全集本文は「あふむいて」と消毒している。後の「底本 靑猫」でも「あほむいて」は頑固にママであるが、行末句点は除去している(これは再録に際して確認した朔太郎が除去したのだとすれば、偏執的な彼はあくまで「あふむいて」という自己だけの慣用表現に拘ったということを意味していると断言してよい)。

 四行目末の句点は、同本文では除去されている。同全集の「校異 蝶を夢む」を見ると、清書原稿に句点がないとあるので、こちらの方は、まず、詩篇の流れからも、その校訂本文に於いては正当な校訂行為と言えるとは言えるであろう。以下に示す初出でも句点はない。

 最終行「戯」の字体はママ。筑摩版全集は「戲」とする。「戯」は「戲」の略字であるから仕方ないと言えばそれまでだが、著者自身の編集になる「萩原朔太郞詩集」(昭和三(一九二八)年第一書房刊)及び「現代詩人全集」第九巻(昭和四年新潮社刊)では「戲」であるものの、萩原朔太郎が完全決定版と述べた「底本 靑猫」(昭和十一年版畫社刊)では、「戯」なのである。ご存知の通り、「底本 靑猫」には最後に囲み記事で「卷尾に」として、萩原朔太郎自身が(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の初版原本の当該ページに拠った。冒頭の「二つの書の」は現在、筑摩版全集では『この書の』に書き換えられている)、

   *

       卷 尾 に

 二つの書の中にある詩篇は、初版「靑猫」を始め、新潮社版の「蝶を夢む」第一書房版の「萩原朔太郞詩集」その他既刊の詩集中にも散在し、夫々少し宛詩句や組方を異にしてゐるが、この「定本」のものが本當であり、流布本に於ける誤植一切を訂正し、併せてその未熟個所を定則に改定した。よつて此等の詩篇によつて、私を批判しようとする人々や、他の選集に拔粹しようとする人々は、今後すべて必ずこの「定本」によつてもらひたい。

               著  者

   *

と述べているのを、萩原朔太郎という沃野に「テツテ」的に強力な殺菌・殺ウイルス剤を散布して平然としている筑摩版全集の編者らは、一体全体、どう考えているのであろうと、ふと、私は思うのである。

「石竹」ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis 。初夏に紅・白色などの五弁花を咲かせる。葉が竹に似ていることが名の由来とされる。中国原産。

「麝香」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。

「死蠟」adipocere(アディパウスィア)であるが、正しくは「屍蠟」である(筑摩版全集校訂本文では「屍蠟」に強制消毒されている)。死体が水中や湿潤な土中に置かれた場合、空気が遮断された状態に於いて諸条件が揃うと生ずる異常死体現象。死蠟の内、軟らかいものは、腐ったチーズ様を、硬いものは脆い石膏様を呈し、孰れも腐敗臭ではなく、黴臭いとされる。完全に十全に変質した死蠟は、水に浮き、水に不溶で、大部分はエーテルやアルコールに溶け、加熱すると、溶解して蠟のような性状をとるため、この名称が付けられてある。通常、皮下脂肪は二、三ヶ月で死蠟化し、深部組織は四、五ヶ月、全身の死蠟化には二、三年を要する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

 初出は大正一一(一九二二)年七月号『日本詩人』であるが、標題は「屍蠟と靑猫」である。以下に示す。九行目「屍臘」はママ。

   *

 

 屍蠟と靑猫

 

みどりの石竹の花のかげに ひとつの幻の屍體は眠る

その黑髮は床にながれて

手足は力なく投げだされ 寢臺の上にあほむいてゐる。

この密室の幕のかげを

ひそかに音もなくしのんでくる ひとつの靑ざめたふしぎな情慾

そはむしかへす麝香になやみ

くるしく はづかしく なまめかしき思ひのかぎりをしる。

ああ いま春の夜の灯かげにちかく

うれしくも屍臘のからだを嗅ぎてもてあそぶ

やさしいくちびるに油をぬりつけ すべすべとした白い肢體をもてあそぶ。

そはひとつのさびしい靑猫。

君よ夢魔におびえて このかなしい戯むれをとがめたまふな。

 

   *

筑摩書房編者よ、「この」苛立たしい「かなしい戯むれを」……「とがめたまふな」……。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 黑い蝙蝠 (筑摩版全集の初出表記への不審有り)

 

   黑 い 蝙 蝠

 

わたしの憂鬱は羽ばたきながら

ひらひらと部屋中を飛んでゐるのです。

ああなんといふ幻覺だらう

とりとめもない怠惰な日和が さびしい淚をながしてゐる。

もう追憶の船は港をさり

やさしい戀人の捲毛もさらさらに乾いてしまつた

草場に昆蟲のひげはふるへて

季節は亡靈のやうにほの白くすぎてゆくのです。

ああ私はなにも見ない。

せめては片戀の娘たちよ

おぼろにかすむ墓場の空から 夕風のやさしい歌をうたつておくれ。

 

[やぶちゃん注:初出は大正一一(一九二二)年七月号『日本詩人』。以下に示す。「だろう」「ふるゑて」はママ。

   *

 

 黑い蝙蝠

 

わたしの憂鬱は羽ばたきながら

ひらひらと部屋中を飛んでゐるのです。

ああなんといふ幻覺だろう

とりとめもない怠惰な日和が さびしい淚をながしてゐる。

もう追憶の船は港をさり

やさしい戀人の捲毛(まきげ)もさらさらに乾いてしまつた

草場に昆蟲のひげはふるゑて

季節は亡靈のやうにほの白くすぎてゆくのです。

ああ 私はなにも見ない

私は美の酒盃(さかづき)をすて 虛無のせうぜうたる洞窟へかくれてしまつた。

せめては片戀の娘たちよ

おぼろにかすむ墓場の空から 夕風のやさしい歌をうたつておくれ。

 

   *

以上をタイピングしながら、珍しく、最早、絶対的権威として君臨している筑摩版「萩原朔太郞全集」で示された初出形の掲載には、不審を抱いた。「せうぜうたる」である。この「ぜ」に同全集編者は誤字の傍点「・」を打っていない。ここで「私」は、巷間の燦爛たる歓楽を捨て去り――もの寂しいひっそりとした――虚無の絶対の孤独の洞窟(グロッタ)の中へと隠れてしまった、のである。この意味の「せうぜう」に真っ先に相応しいのは「蕭條」(蕭条)であろう。しかし、この「蕭條」の歴史的仮名遣は「せうでう」である(現代仮名遣は「しょうじょう」)。或いは『同じ意味の「蕭蕭」だろ?』と言われるかも知れぬが、それは違う。何故なら、「蕭蕭」の歴史的仮名遣は「せうせう」であり(現代仮名遣は「しょうじょう」)、これは「せうぜう」と濁音化することはないからである(少なくとも私は、過去、濁点を打った読みを見たことはない)。私は朔太郎は前者の「蕭條(せうでう)」を彼にありがちな誤用で「せうぜう」としてしまったものと見る(想起されるイメージと表現方法からは「蕭蕭たる洞窟」というのは、しっくりこず、朔太郎でも使わない気がするのである)。とすれば、絶対消毒規定で校訂本文を「テツテ的」に無菌化している同全集の絶対規定からは、この「ぜ」には誤字を指弾する「・」が、なくてはならないのである。]

2021/12/21

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 春の芽生

 

   春 の 芽 生

 

私は私の腐蝕した肉體にさよならをした

そしてあたらしくできあがつた胴體からは

あたらしい手足の芽生が生えた

それらはじつにちつぽけな

あるかないかも知れないぐらゐの芽生の子供たちだ

それがこんな麗らかの春の日になり

からだ中でぴよぴよと鳴いてゐる

かはいらしい手足の芽生たちが

さよなら、さよなら、さよなら、と言つてゐる。

おおいとしげな私の新芽よ

はちきれる細胞よ

いま過去のいつさいのものに別れを告げ

ずゐぶん愉快になり

太陽のきらきらする芝生の上で

なまあたらしい人間の皮膚の上で

てんでに春のぽるかを踊るときだ。

 

[やぶちゃん注:「ぽるか」ポルカ(チェコ語:polka/英語:polka/フランス語:polka)は、十九世紀後半に流行した四分の二拍子の活発な舞曲。各小節の第三番目の八分音符が強調される。名称はチェコ語の「polska」(「ポーランド娘」の意)に由来するとされる。起源は不明だが、一八三七年にプラハで登場して以来、直ちに世界中に広まり、舞踏会やダンス・ホールに欠かせない存在となった。ヨハン・シュトラウス父子は、ワルツのほかにも多数のポルカを書いており、スメタナは、オペラ「売られた花嫁」(一八六六年初演)の他、さまざまな作品に、この舞曲のリズムを取り入れたことで知られている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

 本篇の初出は大正四(一九一五)年四月発行の『卓上噴水』で、初出では「春」と題されている。筑摩版全集で以下に示す。「ぐらひ」「子供だち」「ずいぶん」はママ。

   *

 

 

 

私は私の腐蝕した肉體にさよならをした

そして新しく出來あがつた胴體からは

あたらしい手足の芽生が生えた

それらは實にちつぽけな

あるかないかも知れないぐらひの芽生の子供だちだ

それがこんな麗らかの春の日になり

からだ中でぴよぴよと鳴いてゐる

可愛らしい手足の芽生たちが

さよなら

さよなら

さよなら

と言つてゐる

おお いとしげな私の新生よ

はぢきれる細胞よ

いまいつさいのものに別れをつげ

ずいぶん愉快になり

きらきらする芝生のうへで

生あたらしい人間の皮膚のうへで

てんでに春のポルカを踊る時だ。

          三月十七日

 

   *

同全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」には『本篇原稿六種六枚』とあり、二種が掲げられてある。同全集では四種を重要と判断せず、掲載していないことになる。以下、二種(孰れも無題)を以下に示す。二篇とも歴史的仮名遣の誤りや誤字(「健設」「らいまちす」など)・脱字はママである。

   *

 

  

 

私は私の肉體にさよならをした

ふりすてゝ顧り見ない過去の腐蝕した肉體に

そうして新らしい胴體からはく健設した胴體から

新らしい手足が生えたの芽生がはえた

新らしい指の芽生がはえた

それはほんのそれはじつにちつぽけ

あるかないかもわからないぐらいの芽生であるの子供たちだ、

それがこんな麗らかの春の日にすら

からだ中でぴよぴよ鳴いて居る

可愛らしい手足の芽生たちが

さよなら

さよなら

さよならといつて居る、

おおいとしげな私の新生よ

ちよいと空をごらん

太陽がくるりくるりとまわて居る、

からだ中が球のやうに

春の芝生を

いつさいのものに別れをつげ

うらゝかのきらきらする芝生の上で

みんな春のポルカをおどるのだ

 

[やぶちゃん注:「顧り見ない」はママ。以下の別稿も同じ。]

 

 

  

 

私は私の肉體にさよならをした、

ふりすてゝ顧り見ない 腐蝕 過去の肉體、

腐蝕した 過去の→らいまちすの 過去の肉體の上に別れは墓場の中で光つて居る、

らうまちすの羊みたいな奴に要はないのだ過去と告別した

お前は→を「時」の墓場の下で光つておいで、

そして見給へ新らしく出來あがつた胴體からは

新らしい手足の芽生がはえた

それはまだじつにちつぽけな

あるかないかわからないぐらいの芽生の子供たちだ

それがこんな麗らかの春の日になり

からだ中でぴよぴよ鳴いて居る

可愛いらしい手足の芽生たちが

さよなら

さよなら

さよならといつて居る

おおいとしげな私の肉體→細胞新生よ

はぢきれる細胞よ

いまはいつさいのものに別れをつげ

ずいぶん愉快になり

きらきらする春の芝生のうへで

私のいきいきした生あたらしい人體の皮膚の上で

てんでにみんな春のポルカを踊るのだ、

 

   *

なお、筑摩版全集第三卷の『草稿詩篇「補遺」』の「斷片」パートに、

   *

   ○

私の私の腐れきつた紳經にさよならをした、

そして新しく出

   *

とあるのは(「私の私の」のくり返し及び「紳」の誤字はママ)、本稿冒頭部分に他ならない。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(4)

 

 コランド、プランチー(上に引いた書、一四三頁[やぶちゃん注:「一四三頁」は原書のページであろう。「二」の(2)』の「Collin de Plancy, “Dictionnaire infernal,” Bruxelles, 1845, p.347」の私の注を参照。])は、古希臘の詩聖ヘシオドスの言を引いて、人の極壽は九十七歲なるに、烏は八百六十四歲、鴉は其三倍卽ち二千五百九十二歲生きると述べた。印度にも烏鴉を長壽としたは、法華文句に文珠問經を引いて八憍を八鳥に比せるに、壽命憍如烏、烏命長不死[やぶちゃん注:「壽命憍(じゆみやうきよう)は烏のごとし、烏、命長くして、死せず。」。]、烏は死なぬ物と信じたのだ。五雜俎に舊說烏性極壽、三鹿死後、能倒一松、三松死後、能倒一烏、而世反惡之何也[やぶちゃん注:「舊說に、烏の性、極めて壽(いのちなが)し。三鹿(さんろく)死して後、能く一松(いつしやう)を倒し、三松、死して後、能く一烏を倒す。而るに、世、反(かへ)つて之れを惡(にく)むは何ぞや。」。]。抱朴子に丹を牛肉に和(ま)ぜて未だ毛羽を生ぜぬ烏に呑ませると成長して毛羽皆赤し、其を殺し陰乾(かげぼし)にし擣(つき)服(の)む事百日すると五百歲の壽を得と載せたのも、烏極めて壽(いのちなが)しちう俗傳から割り出したのぢやろ。蘇格蘭(スコツトランド)の古諺にも、「犬の命三つ合せて馬の命、馬の命三つ合わせて人の命」、其から鹿鷲檞[やぶちゃん注:「かしは」。]と三倍宛で進み增す。是には烏は無いが東西共に鹿を壽(いのちなが)い物とする證には立つ。又人が馬と鹿の間にあるも面白い(John Scoffern, “Stray Leaves of Science and Folk-Lore,”  1870, p.462)。予は烏を畜(か)うた事無いが、屢ば烏を銃つた[やぶちゃん注:「うつた」。]のを見ると、頭腦に丸が入つて居ても半日や一日は生き居り、甚だしきは吾輩が獲物の雉で例の强者(つはもの)の交りを始め、玉山傾倒に臨んで烏でもいゝからモー一升などと見に行くと、苦勞墨繪(くろうすみゑ)のと洒落(しやれ)て飛び去つた跡で、折角の興も醒めた事が數囘ある。何しろ非常に生力の强いものだから、隨分長生もさしやんせう。然し八百歲の二千五百歲のなどは大法螺で、Gurney, “On the Comparative Ages to which Birds Live,” Ibis, 1899, p.19 に、鳥類の命數を實査報告せるを見ると、天鵞(はくてう)と鸚哥(いんこ)は八十歲以上、鴉と梟は八十に足らず、鷲と鷹は百年以上、駝鳥は體大きい割に夭(わかじに)で最高齡が五十歲と有る。兎に角壽命が短かゝらず妙に死人の在處へ飛んで來るより、衆望歸仰する英雄が烏と成つて永存するてふ迷信も間(まゝ)在る。英國の一部でアーサー王鴉と成つて現在すと信じ(Cox, op.cit., p.71)、獨逸の傳說フレデリク、バルバロツサ帝の山陵上を烏が飛廻る間は帝再び起きずと云ひ(Gubernatis, vol.ii, p.235)、フキニステラの民は其王グラロン娘ダフツト俱に鴉に化つて現存すと傳ふ(Collin de Plancy, p.143)。

[やぶちゃん注:「八憍」の「憍」は仏教で言う煩悩の一つである「驕」の正字。「法華文句」第六に載り、「オンライン版仏教辞典」のこちらの「憍」によれば、『心所(心のはたらき)の一つ。自己に属するものについて自らの心のおごりたかぶること。倶舎宗では、小随煩悩地法の一つ。唯識宗では、小随煩悩の一つに数える〔他に対して心のおごりたかぶるのは慢という〕。』とし、その名数として、盛壮憍(元気盛んなことの誇り)・姓憍(血統の勝れていることの誇り)・富憍・自在憍(自由の誇り)・寿命憍(長寿の誇り)・聡明憍・行善憍(善行の誇り)・色憍(容貌の誇り)を挙げている。

「John Scoffern, “Stray Leaves of Science and Folk-Lore,”  1870, p.462)」ジョン・スコッファーン(一八一四年~一八八二年)はイギリスの外科医で、ポピュラー・サイエンスの著作をものしている作家でもあった。「科学と民間伝承の落ち葉籠」(或いは「飛花落葉集」)とでも訳すか。Internet archive」で原本の当該箇所が視認出来る

「Gurney, “On the Comparative Ages to which Birds Live,” Ibis, 1899, p.19」ジョン・ヘンリー・ガーニー・ジュニア(一八四八年~一九二二年)はイギリスの鳥類学者。父も政治家であったが、鳥類学者としての方がよく知られていた。「鳥類の寿命の比較年齢について」か。

 「Cox, op.cit., p.71」『「二」の(2)』参照。熊楠の指示するのは、Internet archive」の当該原本のここ

「獨逸の傳說フレデリク、バルバロツサ帝の山陵上を烏が飛廻る間は帝再び起きずと云ひ(Gubernatis, vol.ii, p.235)本篇で既出既注のコォウト・アンジェロ・デ・グベルナティスの「動物に関する神話学」。選集もこのページ数であるが、調べたところ、どうも違う。名前の「Frederic Barbarossa(中世の神聖ローマ皇帝フリードリヒⅠ世(Friedrich I. 一一二二年~一一九〇年)でフル・テクストを検索したところ、「253」ページの誤りであることが判明した。「Internet archive」の第二巻原本の当該部はここの下部の注がそれである。]

「フキニステラ」選集では『フィキニステラ』。不詳。

「王グラロン」「娘ダフツト」不詳。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 その襟足は魚である

 

   その襟足は魚である

 

ふかい谷間からおよぎあがる魚類のやうで

いつもしつとり濡れて靑ざめてゐるながい襟足

すべすべと磨きあげた大理石の柱のやうで

まつすぐでまつ白で

それでゐて恥かしがりの襟足

このなよなよとした襟くびのみだらな曲線

いつもおしろいで塗りあげたすてきな建築

そのおしろいのねばねばと肌にねばりつく魚の感覺

またその魚類の半襟のなかでおよいでゐるありさまはどうです

ああこのなまめかしい直線のもつふしぎな誘惑

そのぬらぬらとした魚類の音樂にはたえられない

あはれ身を藻草のたぐひとなし

はやくこの奇異なる建築の柱にねばりつきたい

はやく はやく この解きがたい夢の Nymph に身をまかせて。

 

[やぶちゃん注:初出は大正六(一九一七)年十二月発行の『詩篇』で、標題は「その襟足は魚類である」である。表記上の変化が細部に見られる。以下に示す。添え辞の「てい」はママ(転倒誤植)。

   *

 

 その襟足は魚類である

    「最も美しきものの各部分に就てい」

    その二

 

ふかい谷間からおよぎあがる魚類のやうで、

いつもしつとり濡れて靑ざめてゐるながい襟足、

すべすべと磨きあげた大理石の柱のやうで、

まつすぐでまつ白で、

それでゐて恥かしがりの襟足、

このなよなよとした襟くびのみだらな曲線、

いつもおしろいで塗りあげたすてきな建築、

そのおしろいのねばねばと肌にねばりつく魚の感覺、

またその魚類の半襟の中でおよいでゐるありさまはどうです、

ああ このなまめかしい直線のもつふしぎな誘惑、

そのぬらぬらとした魚類の音樂にはたえられない、

あはれ身を藻ぐさのたぐひとなし、

はやくはやくこの奇怪なる建築の柱にねばりつきたい、

はやくはやくこの解きがたき夢の NYMPH に身をまかせて。

 

   *

また、筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」には、本篇の草稿が載る。以下に示す。太字は底本では傍点「ヽ」。歴史的仮名遣の誤りや誤字(「誘惑」の誤字と思われる「透惑」)は総てママ。□は底本の判読不能字。

   *

 

  その襟くびはその襟足は魚類である

 

その足は

その襟くび

その鼻は 音樂 宗敎である、

そこには不思議な祕密がある、

かぎりなき影

その襟足は魚である

ふかい間から浮び泳ぎあがつた魚類のやうで

くいつも靑ざめてしつとりと水にぬれてゐる その ながい襟 くび

すべすべとする

いつもしつとりとしてぬれて靑ざめてゐるながい襟足

ねばねばしてねばり

すべすべとみがきあげた大理石の柱のやうで

まつすぐで、堂々としてまつしろで、ゴーマンでそれでゐて恥かしがりの襟足

なよなよとしたえりくびの曲線みだらな曲線、

いつもおしろひで優美にぬりあげたすてきな直線→藝術建築、

そのおしろひのねばねばとねばる肌の肌にねばりつく魚のやうな音樂

またそのえりくびの→藝術魚るゐの半襟の中でおよいでゐるありさまはどうです、

そこへ吸ひつきたい

みる人の心を吸ひつける不思議な

うつむいて半襟の内へ うづくまるくすぐつたひくびすじ かくれるくすぐつたい襟筋

ああしつとりと汗や油にぬれてゐる魚の肌の

その半襟の うちぶところに 中でおよいでゐるありさまはどうだ、

ああ、なんといふこのあやしげなる女の肌の→直線の→肌の 陰影の魔術は人の心肉の魔術はみる人の心をくるしめなやます、

れからだをもぐさとなし

ああ早くその肌にねばりつきたい、

ああ早くそのきれいな皮膚にぴつたりと吸ひつきたい、

このなまめかしいもぐさ直線のもつ不思議な透惑→恐ろしい不思ギな透惑

その不思議なその靑ざめた 魚→透惑 色情ぬらぬらとした音樂のよろこび魚るゐの音樂にはたえられない

このかぎりなく 美しい→不思議なる 美しいものの透惑

かぎりなくああ早く早くもぐさのたぐひとなりこの奇怪なる建築のもつ限りなく美しい夢の中に、美しい夢の中に窓を□□めて、柱にねばりつきたい

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 その手は菓子である

 

  その手は菓子である

 

そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ

そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ

指なんかはまことにほつそりとしてしながよく

まるでちひさな靑い魚類のやうで

やさしくそよそよとうごいてゐる樣子はたまらない

ああその手の上に接吻がしたい

そつくりと口にあてて喰べてしまひたい

なんといふすつきりとした指先のまるみだらう

指と指との谷間に咲く このふしぎなる花の風情はどうだ。

その匂ひは麝香のやうで 薄く汗ばんだ桃の花のやうにみえる。

かくばかりも麗はしくみがきあげた女性の指

すつぽりとしたまつ白のほそながい指

ぴあのの鍵盤をたたく指

針をもて絹をぬふ仕事の指

愛をもとめる肩によりそひながら

わけても感じやすい皮膚の上に

かるく爪先をふれ

かるく爪でひつかき

かるくしつかりと押へつけるやうにする指のはたらき

そのぶるぶるとみぶるひをする愛のよろこび

はげしく狡猾にくすぐる指

おすましで意地惡のひとさし指

卑怯で快活な小指のいたづら

親指の肥え太つた美しさとその暴虐なる野蠻性。

ああ そのすべすべとみがきあげたいつぽんの指をおしいただき

すつぽりと口にふくんでしやぶつてゐたい いつまでたつてもしやぶつてゐたい。

その手の甲はわつぷるのふくらみで

その手の指は氷砂糖のつめたい食慾

ああ この食慾

子供のやうに意地のきたない無智の食慾。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。詩集「靑猫」からの再録。表記上の小さな変更(「親指の肌へ太つた」の誤りの修正、「しな」の傍点除去や「皮膚のうへに」の「うへ」の漢字化、「そのぶるぶるとみぶるひをする愛のよろこび はげしく狡猾にくすぐる指」の分離など)があるのみである。私の「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) その手は菓子である」と比較されたい。そちらに初出形も示してある。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 灰色の道

 

   灰 色 の 道

 

日暮れになつて散步する道

ひとり私のうなだれて行く

あまりにさびしく灰色なる空の下によこたふ道

あはれこのごろの夢の中なるまづしき乙女

その乙女のすがたを戀する心にあゆむ

その乙女は薄黃色なる長き肩掛けを身にまとひて

肩などはほつそりとやつれて哀れにみえる

ああこのさびしく灰色なる空の下で

私たちの心はまづしく語り 草ばなの露にぬれておもたく寄りそふ。

戀びとよ

あの遠い空の雷鳴をあなたは聽くか

かしこの空にひるがへる波浪の響にも耳をかたむけたまふか。

 

戀びとよ

このうす暗い冬の日の道邊に立つて

私の手には菊のすえたる匂ひがする

わびしい病鬱のにほひがする。

ああげにたへがたくもみじめなる私の過去よ

ながいながい孤獨の影よ

いまこの並木ある冬の日の街路をこえて

わたしは遠い白日の墓場をながめる

ゆうべの夢のほのかなる名殘をかぎて

さびしいありあけの山の端をみる。

戀びとよ 戀びとよ。

 

戀びとよ

物言はぬ夢のなかなるまづしい乙女よ

いつもふたりでぴつたりとかたく寄りそひながら

おまへのふしぎな麝香のにほひを感じながら

さうして霧のふかい谷間の墓をたづねて行かうね。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集によれば、初出形は大正七(一九一八)年一月号『詩歌』の「重たい書物を抱へて步む道」であるが、烈しく異なっている。以下に示す。「厭生」(まあ、「厭世」があるのだから、これもよかろうか)、「たえがたく」の「え」、「みぢめ」の「ぢ」はママ。「PAGE」は総て横書き。なお、本篇決定稿には清書原稿があるのであるが、そこでは「孤獨の道」となっており、後から題名を変更したことが判る。

   *

 

 重たい書物を抱へて步む道

 

日暮れになつて散步する道、

よく手入れをした美しい並木の道道、

ひとり私のうなだれて步いて行く、

あまりに寂しく灰色なる空の下によこたふ道。

あはれこのごろの夢の中なるまづしき少女、

その少女の姿を戀する心にあゆむ、

その少女は薄黃色なるながき肩掛を身にまとひて、

肩などはほつそりとやつれてあはれにみえる、

ああこの寂しく灰色なる空の下に、

私たち二人の心はまづしく語り、草ばなの露にぬれて重たく寄りそふ。

戀びとよ、

あの遠い空の雷鳴をあなたはきくか、

かしこの空にひるがへる浪浪のひびきにも耳をかたむけたまふか。

戀びとよ、

この薄暗い冬の日の道べにたちて、

私の手には重たい厭生の書物をかかへてゐる、

みたまへ、

ここのPAGEには菊のすえたるにほひをかぎ、

ここのPAGEには病みたる心靈の光をみる、

そしてこのうすいみどり色のPAGE,  PAGEには

風にふかれる葉つぱのやうにちつてしまつた、

ああ げにたえがたくもみぢめなる私の過去よ、

ながいながい孤獨の影よ、

いまこの美しい並木ある冬の目の街路をこえて、

私は遠い憂愁の墓塲をながめる、

ゆうべの夢のほのかなる名殘をかぎて、

さびしいありあけの山の端をみる、

戀びとよ、戀びとよ、

もの言はぬ夢の中なるまづしい少女よ、

いつも私はひとりで歩み、

ひとりでかんがへ、

ひとりでかなしみ、

私の白い墓塲のかげに座つてお前のくるのを待ちたいのだ

このごろの夢によくみる、

よにもしたしげな、そして力のない愛憐の微笑をかぎながら。

 

   *

初出形は典型的な「エレナ」詩篇の一つとして読め、朔太郎の中の幻しのエレナ喪失のトラウマは初出形の方が遙かに濃厚濃密であり、個人的には初出形を推すものである。]

2021/12/20

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(3)

 

 淵鑑類凾四二三に、俗云鴛交頸而感烏傳涎而孕。[やぶちゃん注:「俗に云ふ、『鴛(をしどり)は頸を交へて感じ、烏は涎(よだれ)を傳へて孕む。』と」。]。プリニウスの博物志にも、世に鴉は嘴(くちばし)もて交はる故に、其卵を食つた婦人は口から產すると云ふ。アリストテレス是を駁して、鴉が鳩同樣雌雄相愛して口を接するを誤認したのだと言つたと有る。熊楠屢烏の雌雄相愛して口を接するを見る。又自宅に龜を十六疋畜(かひ)有るが、發情の時雄が雌に對して啄き始めると雌も啄き返す。喙衝き到るを避けては啄き、啄かれては避ける事、取組前の力士の氣合を見る如し。交會は水中でするを、龍動(ろんどん)の動物園で一度見た。予の庭のなどは泥水故決して見えぬ。斯る處を誤認したと見えて、化書(類凾四四〇所引)に牝牡之道、龜々相顧神交也[やぶちゃん注:「牝牡(ひんぼ)の道、龜と龜の相顧みるは神交するなり。」。]と載す。又佛經に接吻を鳴と書いた處多い。例せば根本說一切有部毘奈耶三九に、鄔陀夷覩童女、顏容姿媚、遂起染心、卽摩觸彼身、嗚唼其口[やぶちゃん注:「大蔵経テキストデータベース」で確認。確かに、「嗚唼」である。「鄔陀夷(うだい)、彼(か)の童女の顏容(かんばせ)姿媚(あでや)かなるを覩(み)て、遂に染心(ぜんしん)を起こし、卽ち彼(か)の身(からだ)を摩(な)で觸(さは)り、其の口を嗚唼(おしやう)す」。「嗚唼」は「接吻」のこと。]。四分律藏四九に、時有比丘尼、在白衣家内住、見他夫主、共婦嗚口、捫摸身體、捉捺乳[やぶちゃん注:「大蔵経テキストデータベース」で確認。確かに、「嗚」である。「時に比丘尼有り、白衣(びやくえ)の家内に在りて住み、他(ほか)の夫主の、婦と共に、口を嗚(お)し、身體(からだ)を捫(な)で摸(さは)り、乳を捉みて捺(お)すを見たり。」。とある中文サイトで、この「四分律藏」の当該部分を引用し、『「嗚」字是中國人最早用來形容「接吻」的一個專門性的動詞』と記してあった。]。康煕字典、嗚の字に接吻の義を示さぬが、想ふに烏は雌雄しばしば口を接して愛を示すから、譯經者が烏と口とより成る嗚の一字で接吻を表はしたのだろ。是はさして本篇に係らぬが近來の大發明故洩し置く。扨プリニウス曰く、諸鳥の中、烏(コルニクス)ばかりが、其子飛び始めて後暫く之を哺ふ[やぶちゃん注:「やしなふ」。]。鴉(コルヴス)は子が稍や長ずれば逼つて飛去しむと。本邦の烏屬中にも稍長じた子を追ふのと哺ふのと有りや。閑多き人の精査を冀ふ[やぶちゃん注:「ねがふ」。]。甲子夜話二三に出た平戶安滿嶽の神鴉、常に雌雄一雙にて年々子に跡を讓り去るとは、鴉の本種「わたりがらす」だらう。こんな事から反哺の孝など云出したんだろ。本草に、烏、此鳥初生、母哺之六十日、長則反哺六十日、可謂慈孝矣[やぶちゃん注:「烏、此の鳥、初めて生まるるや、母、之れを哺ふこと六十日、長ずれば、則ち、反哺(はんぽ)すること、六十日、慈孝と謂ふべし。」。]、慈烏孝烏の名これより出づと有る。自分[やぶちゃん注:「おのづと」と訓じておく。]飛びうるまで羽生えたるに、依然親の臑囓(すねかぢ)りをしおるのを反哺の孝とは大間違ひだ。又思ふに和漢ともに產するコルヴス、パスチナトル(みやまがらす)は、年長ずれば顏の毛禿落ちて灰白く、其痕遠く望み得る。其が子と同棲するを見て子が親に反哺すと言出したのか。其樣な法螺話は西洋にも有つて、Southey, op. cit., 4th Ser., p.109 に、一三六〇年(正平十五年)フランシスカン僧バーテルミウ、グラントヴィルが筆した物を引いて云く、烏老いて羽毛禿落ち裸となれば、其子等自分の羽以て他を被ひ肉を集め來て哺ふ云々と。是は支那の禮記の句などを聞傳へたのか、其よりは多分北アフリカの禿鵰(ヴルチユール)の咄を聽いて、烏と同じく腐肉を食ひ熱國で掃除の大功有る物故烏と誤認したのであらう。Leo Africanus, “Descrizione dell’ Affrica” in Ramusio, “Navigationi Viaggi,” Venetia, 1588, tom. i, fol. 94D. に、禿鵰年老いて頭の羽毛落竭して剃つた如し。巢にばかり籠り居るを其子等之を哺ふと聞いたと記す。記者はグラントヴヰルより百年以上後の人だが、禿鵰反哺の話は以前から行はれた物だらう。予熱地で禿鵰を多く見たるに、鷲鷹の類ながら動作烏に似た事多し。之に較[やぶちゃん注:「やや」。]似たは Sir Thomas Browne(十七世紀の人)の“Pseudodoxia,” bk. v. ch, I や Thomas Wright の“Popular Treatises on Science,” 1841, pp. 115-6 に、中世歐州の俗信に、鵜鶘(ペリカン)自分の胸を喙き裂いて血を出し、其愛兒に哺(くは)すと云つた。注者ウヰルキン謂く、是は此鳥頷下なる大嗉囊(おほのどぶくろ)に魚多く食蓄へ、子に哺さんとて嗉嚢を胸に押付て吐出すを、自ら胸を破ると想うた謬說ぢやと。類凾に、瑞應圖曰、烏至孝之應、異苑曰、東陽顏烏、以純孝著聞、後有群烏、銜鼓集顏所居之村、烏口皆傷、一境以爲、顏至孝、故慈烏來萃、銜鼔之異、欲令聾者遠聞、卽於鼔所立縣、而名爲烏傷、王莾改爲烏孝、以彰其行迹云[やぶちゃん注:「淵鑑類函」を調べたところ、頭の「瑞應圖曰、烏至孝之應」というのは、同書に同じ文字列はなく、熊楠が、そう言っている内容をごく短く纏めた作文であることが判ったので、以下の訓読では、それが判るように、切っておいた。最後は底本では「去」であるが、これは「云」の誤字であったので、訂しておいた。「「瑞應圖」に云はく、『烏は至孝の應なり。』と。」「『異苑』に曰はく、東陽の顏烏(がんう)は純孝を以つて著聞す。後、群烏、有りて、鼓(つづみ)を銜へ、顏の居(ゐ)る所の村に集まれり。烏の口、皆、傷つけり。一境(むらびと)、以爲(おもへら)く、『顏は至孝なれば、故に、慈烏、來たり萃(あつま)りて、鼔を銜ふるの異あり、聾者をして遠く聞かしめんと欲するなり。』と。卽ち、鼔の所に於いて縣を立て、名づけて「烏傷」と爲す。王莽、改めて「烏孝」と爲し、以つて其の行迹を彰(あらは)すと云へり。」但し、疑問に思われた方も多いと思うが、実は「鼓」は写本や翻刻される過程で生じた誤字であるようだ。後注参照。]。世間の聾迄も顏烏(がんう)ちふ者の孝行を聞知るやう、烏輩が鼓を持つて來て廣告したのだ。以色列(イスラヱル)の傳說にエリジヤがアハブの難を遁るゝ途に、餓えた時鴉之を哺(やしな)うたと云ひ、隨つて基督敎の俗人も鴉を敬する者あり(Hazlitt, “Faiths and Folklore,” 1905, vol.ii, p.508)。烏が不意の取持で貧女が國王の后と成つた譚は、貧女國王夫人經」(經律異相二十三)に出づ。グベルナチス(Gubernatis, “Zoological Mythology,” vol.ii, p.257)曰く、獨逸とスカンヂナヴヰアの俚謠に烏が美女を救ふ話多く、孰れも其女の兄弟と呼ばれ有り、又烏が身を殺して迄も人を助くる談多しと。日本にも出羽の有也無也の關[やぶちゃん注:「うやむやのせき」。]に昔鬼出て人を捉る[やぶちゃん注:「とる」。]、烏鳴いて鬼の有無を告げ往來の人を助けたといふ(和漢三才圖會、六五)。烏が能く慈に能く孝に、又、人を助くる譚、斯くの如き者有る上に、忠義譚も佛本行集經五二に出づ。善子と名くる烏王の后が孕んで、梵德王の食を得んと思ふ、一烏爲に王宮に至り、一婦女銀器に王の食を盛るを見、飛下つて其鼻を啄くと、驚いて食を地に翻(かや)す[やぶちゃん注:「ひっくり返す」或いは「こぼす」の意。]。烏取り持去つて烏后に奉る。其から味を占めて、每日宮女の鼻を啄きに來たので、王、人をして之を捕へしめると、彼烏仔細を說き王大に感じ入り、人臣たる者須く是猛健烏(たけきからす)が主の爲に食を求めて命を惜しまざるが如くなるべしとて、以後常に來て食を取らしめたと云ふ。Collin de Plancy, “Dictionnaire infernal,” p.144 に、古人婚前に烏を祝したは、烏夫婦の中何方かゞ死ぬと、存つた[やぶちゃん注:「のこつた」。]方が或定期間獨居して貞を守つたからだと見えるが、日本の烏には夫(をつと)も子も有るに姧通するのも有るなり。日本靈異記中に、信嚴禪師出家の因緣は、家の樹に棲む烏の雄が雌と子を養ふ爲に遠く食を覓(あさ)る間に、他の雄鳥が來て其雌に通じ、西東もまだ知らぬ子を捨てゝ、鳥が鳴く吾妻か不知火の筑紫かへ梅忠もどきに立退いた跡へ、雄鳥(どり)還り來り其子を抱いて鬱ぎ死んだのを見て浮世が嫌に成り、行基の弟子と成つて剃髮修行したしたので厶(ござ)ると說き居る。こんなに種々調べるとマーク・トエーンが人間には成程人情が大分(だいぶ)有ると皮肉つた通り、人も烏も心性に餘り差異が無さゝうだ。さればこそ衆經撰雜譬喩經下には、烏が常に樹下の沙門の誦經を一心に聽いて、後獵師に殺さるゝも心亂れず天上に生れたと說かれた。

[やぶちゃん注:「淵鑑類凾」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。「漢籍リポジトリ」のこちらで、四百二十三巻の「鳥部六【烏・鵲】」の「烏一」を見られたい。その[428-2b]の影印画像の最後行に熊楠の引く一文がある。この奇体な交尾説は古くから信じられていた。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴛鴦(をしどり)」にも「本草綱目」から引かれてあり、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」では、「三才圖會」から引かれてある。

「プリニウスの博物志にも、世に鴉は嘴(くちばし)もて交はる故に、其卵を食つた婦人は口から產すると云ふ。アリストテレス是を駁して、鴉が鳩同樣雌雄相愛して口を接するを誤認したのだと言つた」この謂い方はちょっとおかしい。そもそもガイウス・プリニウス・セクンドゥスGaius Plinius Secundus 紀元後二三年~七九年)はアリストテレス(ラテン文字転写:Aristotelēs 紀元前三八四年~紀元前三二二年)よりずっと後の博物学者だからである。所持する中野定雄・中野里美 ・中野美代共訳「プリニウスの博物誌」(平成元(一九八九)年‎ 雄山閣出版刊・第三版)で見たところ、これはまさにそこに書かれた内容であって、第十巻の「ワタリガラス」の項に、

   《引用開始》

ワタリガラスは一腹でせいぜい五つの卵しか生まない。彼らは嘴で生み、あるいは交尾する(したがって懐妊している婦人がその卵を食べると口から分娩する。そしてとにかくそれを家に持ち込むと難産する)と一般に信じられている。しかし、アリストテレスは、エジプトのトキについてと同様、ワタリガラスについてもそんなことは噓だ、だが問題の接嘴(よく見かけることだが)は、ハトがよくやるように接吻の一種だ、と言っているワタリガラスは自分たちが前兆で伝えることの意味を知っている唯一の鳥であるように思える。というのは、メドゥス[やぶちゃん注:ここには訳注記号があり、後に『メディアの息子、メディア人にその名を与えたとされている。』とある。]の客が殺されたとき、ペロポンネソスとアッティカにいたワタリガラスはみんな飛び去ったから。彼らが喉がつまったかのように声を呑み込むような鳴き方をするときは、それはとくに凶兆だ。

   《引用終了》

とあるを、うっかり、かく言い換えてしまったものである。また、このアリストテレスの見解は、所持する島崎三郎訳「アリステレス全集9」(岩波書店一九六九年刊)所収の「動物発生論」を見たところ、「第六章」の「鳥類の発生」の冒頭に基づくものであることが判った。〔 〕は訳者が補足した部分を指す。

   《引用開始》

 鳥類の発生についても事態は同様である。すなわち、「オオガラスとイビスは口で交わり、四足類のイタチは口で子を産む」という人々があるからである。これらは、現にアナクサゴラスやその他の自然学者たちのうちの或る人々も述べているところであるが、あまりに単純で軽率な説である。鳥類について見ると、人々が推理〔三段論法〕によって誤った結論に達してしまうのは〔次の点が根拠になっている〕。すなわち、オオガラスの交尾はめったに見られないが、互いに嘴で交わることはしばしば見られ、これはカラスの類の鳥ならみなすることであって、飼い馴らされたコクマルガラスを見ればよく分かる。これと同じことをハトの類もするが、彼らは明らかに交尾もするので、そのためにこんな話は起こりようがなかったのである。カラスの類は少産の〔卵を少ししか産まぬ〕動物に属するから、好色ではないが、彼らも交尾するところをすでに観察されている。しかし、精液がいかにして栄養分と同じように、何でも入ってくるものを調理する胃を通って子宮に達するのか、ということを人々が推論してみないのはおかしい。しかも、これらの鳥類にも子宮があるし、卵〔巣〕は下帯〔横隔膜〕のそばに見られるのである。また、イタチにも、他の四足類と同じ様式の子宮がある。とすると、この子宮から口までどうやって胎児は進むのであろうか。しかし、イタチがその他の裂足類(これらについては後で述べるが[やぶちゃん注:ここには訳者注があるが、略す。])と同様に、まるで小さい子を産み、しばしばその子を口にくわえて運ぶということが、こんな見解を作り出した所以なのである。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

なお、訳者注では(学名が斜体になっていないので、割り込みで示した)、『オオガラスは(日本ではワタリガラス)』とされ、 Corvus corax の学名を記され、『『動物誌』第九巻第二十七章』『によると、エジプト産の鳥で、白いのと黒いのがあり、白いのは』Ibis religiosa 、『黒いのは』Ibis falcinellus (=igneus )『とされる。いずれも日本のトキに近い鳥である』とあった。前者はペリカン目トキ科トキ亜科クロトキ属アフリカクロトキ Threskiornis aethiopicus のことかと思われ(名前が「黒」だが、翼の初列風切羽先端と、次列風切り羽の先端及び三列風切り羽が変形した腰背部の飾り羽が黒い以外は、白い羽毛に包まれる。下に湾曲した嘴と長い脚は黒い。サハラ砂漠以南から南端までのアフリカ大陸・マダガスカル島・イラク南西部に棲息しており、嘗てはエジプトにも分布していた。詳しくは当該ウィキを見られたい)、後者はトキ科トキ亜科ブロンズトキ属ブロンズトキ Plegadis falcinellus の(繁殖個体は赤褐色の身体に暗緑色の翼をもつが、非繁殖個体と若年個体は暗い体色のままである。オーストラリア・東南アジア・南アジア・アフリカ・マダガスカル・ヨーロッパからアメリカ大陸大西洋岸の熱帯・温帯域にかけて棲息しているが、新大陸の個体群は比較的最近(十九世紀)になって、アフリカから自然に分布を広げたものと考えられている。ヨーロッパで繁殖した個体は、冬期、アフリカに渡り、越冬する。詳しくは当該ウィキを参照されたい)のシノニムである。なお、次の注では、「コクマルガラス」について、学名をCorvus monedula とされておられるが、これはニシコクマルガラスであって、既に注した通り、コクマルガラスは Corvus dauuricus である。但し、ニシコクマルガラスはコクマルガラスと極めて近い近縁種であり、北アフリカからヨーロッパのほぼ全域、イラン・北西インド・シベリアと、広範囲に分布している。

「自宅に龜を十六疋畜(かひ)有る」熊楠の亀好きはよく知られ、私は寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」(サイト版)の「綠毛龜(みのかめ)」でも、冒頭注で、『これは広く淡水産のカメ類(潜頸亜目リクガメ上科イシガメ科Geoemydidaeの仲間等)に藻類が付着したものであろうと思われるが、「脊骨に三稜有り」という叙述は、椎甲板と肋甲板に三対の筋状隆起(キールと呼称する)を持っているイシガメ科のクサガメ Chinemys reevesii 等を思わせる。なお、この如何にも日本人好みのウラシマタロウガメ(私の造和名・浦島太郎亀)が好きで好きで、遂に自分で拵えちゃった有名人をご存知だろうか。南方熊楠、その人なんである。今、それを読んだ確かな資料を思い出せないでいるが、南方熊楠邸保存顕彰会常任理事の中瀬喜陽氏による「南方熊楠と亀」にその事実記載があったと記憶する。熊楠の悪戯っぽい笑みが、私にはよく見える』と記した。今、再度、南方熊楠関連の諸本をひっくり返したのだが、見当たらないが、さるびん氏のブログ「サルヴィンオオニオイガメ専科~淡水熱帯魚と共に~」の『南方熊楠の亀「お花」』に、南方熊楠は『亀の飼育にも取り組んでいた人物でした』。『多い時にはイシガメやクサガメを』六十『匹以上も飼育していたとか』。『熊楠の記録には、長男の熊弥と亀のエピソード等がしばしば登場するそうです』。『熊楠は淡水藻の研究も行っており、これらの亀に』人工的に『藻を生や』さ『せて蓑亀にする実験もしていたとのこと』とあり、昭和六(一九三一)年六月七日附『上松蓊(うえまつしげる)宛書簡に「小生方のみのがめ、只今長き藻の上に短き異種の藻をふさのごとく叢生し、はなはだ見事なり」 とあったそうです』。『また、熊楠が飼っていたクサガメの「お花」は、熊楠が亡くなってから』後も六十『年も生き』、二〇〇一年七月に『老衰で死亡したという記録があり、「お花」は』一〇〇『年以上生きたのではないかともいわれているそうです』。『ちなみに、このクサガメを熊楠が亡くなった』昭和一六(一七四一)『年以降も飼育し続けたのは、熊楠の長女の文枝で、熊楠から「お前が生まれる前からいる亀だから大事に」と言われ、文枝はその言い付けを守り、生涯この「お花」を大切に育てたそうです』とあるので、間違いない。

「根本說一切有部毘奈耶三九に、鄔陀夷覩童女……」「四分律藏四九に、時有比丘尼……」これらは実は全く同じものを、南方熊楠は、既に電子化注した「四神と十二獸について」に記している。そちらで詳細に注してあるので、ここでは省略する。

「康煕字典、嗚の字に接吻の義を示さぬ」大修館書店「廣漢和辭典」には、「嗚」の意味の三番目に擬声語とし、『嗚啞(オア)は烏(からす)の鳴き声』とする(例示引用は私の偏愛する中唐の鬼才李賀の「勉愛行」だ)。

「プリニウス曰く、諸鳥の中、烏(コルニクス)ばかりが、其子飛び始めて後暫く之を哺ふ。鴉(コルヴス)は子が稍や長ずれば逼つて飛去しむと」前掲引用の「プリニウスの博物誌」の第十巻の「一四 カラス」の末尾に『自分の子供が飛べるようになっても、まだしばらくの間それを食べさせ続けるが、そんなのは』(「鳥類は」の意)『ほかにない』とあるのを受けて、「一五 ワタリガラス」の項の冒頭に、

   《引用開始》

ところが同種のすべての鳥は自分たちの子供を巣から追い出して強制的に飛ばせる。ワタリガラスなどもそうだ。このワタリガラスも自身肉食であるのみでなく、子供が丈夫になると、彼らを駆り立てて相当遠いところへ追いやる。したがって、小さな村にはワタリガラスはふた番』(つがい)『しかいない。両親は引っ込んで場所を子供に譲る。

   《引用終了》

因みに、前の注で引用した部分が、これに一節(産卵と体調変異)を挟んで続いている。

『甲子夜話二三に出た平戸安滿嶽の神鴉……』先の『「一」の(4)』のために電子化した「甲子夜話卷之二十三 11 安滿岳の烏 + 甲子夜話卷之八十七 2 安滿岳の鴉【再補】」を参照。

「本草に、烏、此鳥初生……」「本草綱目」巻四十九の「禽之三」の「慈烏」の記載。「漢籍リポジトリ」のこちら[114-10a]を見られたい。

「コルヴス、パスチナトル(みやまがらす)は、年長ずれば顏の毛禿落ちて灰白く、其痕遠く望み得る」「顏」とあるが、厳密には嘴である。同種は成鳥では、基部の皮膚が剥き出しになり、白く見える。

「Southey, op. cit., 4th Ser., p.109」既出既注のイギリスの詩人ロバート・サウジー(Robert Southey 一七七四年~一八四三年)の死後に纏められた著作集の第四巻。「Internet archive」のこちらで、原本の以下の当該箇所が視認出来る。右ページの左下にある「crowsdutiful Children.」 (「カラス族――忠実な子供たち。」)とあるのがそれ。下方に引用元の筆者名を「BARTHELMEW GLANTVILE」(詳細事績不明)とし、引用者の地位を「Franciscan Frier」(後の綴りが不審だが、フランシスコ会修道士であろう)とする。

「禮記の句」「大戴禮記」の「夏小正」にある、『豺祭獸。善其祭而後食之也。初昏南門見。南門者、星名也、及此再見矣。黑鳥浴。黑鳥者、何也、烏也。浴也者、飛乍高乍下也。時有養夜。養者、長也、若日之長也。』を指すか?

「北アフリカの禿鵰(ヴルチユール)」「禿鵰(ヴアルチユール)」vulture。音写は「ヴォルチュル」が近い。ここは旧大陸のタカ目タカ科ハゲワシ亜科 Aegypiinae のハゲワシ類を指す。

「Leo Africanus, “Descrizione dell’ Affrica” in Ramusio, “Navigationi Viaggi,” Venetia, 1588, tom. i, fol. 94D. 」レオ・アフリカヌス(Leo Africanus 一四八三年?~一五五五年?)の名前で知られる、本名をアル=ハッサン・ブン・ムハンマド・ル=ザイヤーティー・アル=ファースィー・アル=ワッザーンという、アラブの旅行家で地理学者。「レオ」はローマ教皇レオⅩ世から与えられた名で、「アフリカヌス」はニック・ネーム。以下の書籍名はイタリア語で「アフリカの解説」「旅の案内」か。

「予熱地で禿鵰を多く見たる」熊楠は北アメリカ大陸周辺にしか行っていないから、この場合は、タカ目コンドル亜目コンドル科 Cathartidae のコンドル類である。

「Sir Thomas Browne」サー・トーマス・ブラウン(一六〇五年~一六八二年)はイングランドの著作家。医学・宗教・科学・秘教など様々な知識に基づいた著作で知られる。当該ウィキによれば、『フランシス・ベーコンの自然史研究に影響を受け、自然界に深い興味を寄せた著作が多い。独自の文章の技巧で知られ、作品に古典や聖書の引用が散りばめられており、同時にブラウンの独特な個性が現れている。豊かで特異な散文で、簡単な観察記録から極めて装飾的な雄弁な作品まで様々な作風を操った』とある。「Pseudodoxia」は彼の著「プセウドドキシア・エピデミカ」(Pseudodoxia Epidemica :一六四六年~一六七二年)で、邦訳では「荒唐世説」などと訳される。怪しい巷説や迷信を採り上げて批判した書。

 「Thomas Wright」トーマス・ライト(一八一〇年~一八七七年)はイギリスの好古家で著作家。「“Popular Treatises on Science,” 1841, pp. 115-6」は「Popular Treatises on Science,Written During the Middle Ages: In Anglo-Saxon, Anglo-Norman, and English.」で「中世に書かれた科学に関する知られた論文。アングロ・サクソン語、アングロノルマン語、英語に拠るもの。」で、「Internet archive」のこちらから原本が視認出来るが、私はとてものことに読めないし、当該箇所を探す気も起らない。悪しからず。

「類凾に、瑞應圖曰……」巻四百二十三の「鳥部六【烏・鵲】」の「烏二」。本文内の注で述べた通り、冒頭に「瑞應圖」(Q$Aの回答によれば、宋代の絵巻物で、高宗の即位の祝いとして瑞祥の伝説を文章と絵で表現したもの。臣下が献上したらしい)への言及があり(「烏二」は[428-4b]から)、次の[428-5b]の四行目以下に「異苑曰……」が現われる。

「異苑」六朝時代の宋(四二〇年〜四七九年)の劉敬叔の撰になる志怪小説集。全十巻。当時の人物についての超自然的な逸話、幽霊・狐狸に纏わる民間の説話などを記したもの。但し、現存のテキストは明代の胡震亨(こしんこう)によって編集し直されたもので、原著とは異なっていると考えられている。なお、どうも烏が銜えてくるのが「鼓」というのはどうもおかしいと思って幾つかのフレーズで調べたところ、同一の話が、北魏の知られた地理書「水經注」(すいけいちゅう:全四十巻。撰注者は官僚で文人の酈道元(れきどうげん 四六九年~五二七年)で、五一五年成立と推定される)に出ており、そこに、この部分が(「維基文庫」の影印本画像と、「中國哲學書電子化計劃」の「乾隆御覽本四庫全書薈要・史部」の影印本を参考にしたが、前者で字起こしした)、

   *

後有羣烏助銜土塊爲墳【案近刻訛作後有羣烏銜鼔集顏烏所居之邨】

   *

訓読を試みると、

   *

後[やぶちゃん注:孝子である顔烏が親を亡くした、その直「後」の意であろう。]、群烏有りて、土塊(つちくれ)をもて助け、銜(くは)へて、墳を爲(な)せり【案ずるに、近刻は、訛(あやま)りて、「後、羣烏有りて、鼔を銜へて顏烏の居る所の邨(むら)に集まれり。」に作る。】。

   *

とすれば、すこぶる腑に落ちたのであった。ただの自己満足を懼れ、さらに検索したところ、ネットを始めた古くからよくお世話になっている個人サイト「元・肝冷斎日録」のこちらに、原文・訓読・現代語訳が載っているのを発見した。その訓読文と現代語訳は(分離しているので合成した。表記はママ)、

   《訓読文引用》

『東陽の顔烏、淳孝を以て著聞せり。群烏有りて、土塊を助け銜(くわ)えて墳を為せり。烏口みな一境において傷めり。おもえらく、顔烏の至孝なるが故に慈烏を致し、孝声をして遠聞せしめんと欲するならん。又、その県に名づけて「烏傷」と曰えり。』

   《現代語訳引用》

『会稽・東陽の顔烏(がん・う)というひとは、たいへんな孝行者というので有名であった。親が亡くなった後、人を雇う資力が無いため、手づから鋤鍬を取ってその墳墓を築こうとした。すると、(彼の名前と同じ)カラスたちが群れてやってきて、土のかたまりを咥えてきて、墳墓づくりを手伝ってくれた。このため、その近辺のカラスのくちばしは、みな傷ついたという。さてさて、おそらくこれは、顔烏があまりにもすごい孝行者であったので、(その徳が)優しいカラスたちに働きかけて、孝行の評判を遠いところにまで伝え聞かせようとしたのではないだろうか。また、このことから、その近辺の区域は「カラスの(くちばしの)傷ついた県」と名づけられたのである。』

   *

これで、私は胸を撫で下したのであった。当初は本文内で修正してしまおうとも思ったが、修正が一字の変更に留まらなくなり、しかも平凡社の選集では訓読となっている上に、「鼓」になってしまっていることから、注でかく示すことにした。

「王莽」(おうもう 紀元前四五年~紀元後二三年)は前漢の外戚で、新の建国者。幼少の皇帝を立てて実権を握り、紀元後八年に自らが帝位に就いた(在位:八年~二三年)。その間、儒教を重んじ、人心を治め、即位の礼式や官制の改革も、総て古典に則ったが、現実性を欠いていて失敗し、内外ともに反抗が相次ぎ、自滅した。後、光武帝により、漢朝が復興されている。

「エリジヤ」「旧約聖書」の預言者エリヤ。その名はヘブライ語で「ヤハウェは我が神なり」を意味する。

「アハブ」「旧約聖書」によれば、第六代イスラエル王オムリの子に生まれ、その死後に跡を継ぎ、二十二年の間、王位にあった。預言者エリヤは代表的な彼の反対者として描かれ、終始、エリヤとアハブ王家の敵対関係が言及されている。また、アハブはシリアの王女イゼベルを妻に迎えた。イゼベルはシリアのバアル崇拝をイスラエルに導入した。結果、それ以前から存したヤハウェ信仰や金の仔牛信仰に加えた混合宗教がイスラエルに展開されたほか、後にはアハブと婚姻関係を結んだユダ王国にも導入された。これを「旧約聖書」では偶像崇拝として非難し、さらには「ヤハウェ信仰への弾圧」と指弾している。このため、旧約聖書ではアハブは「北王国の歴代の王の中でも類を見ないほどの暴君」として扱われている(以上は当該ウィキに拠った)。

「Hazlitt, “Faiths and Folklore,” 1905, vol.ii, p.508」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「信仰と民俗学」。Internet archive」の当該書のこちらの左ページの頭の部分にある。

「烏が不意の取持で貧女が國王の后と成つた譚は、貧女國王夫人經」(經律異相二十三)に出づ」これは検索を続けること三十分、漸く、台湾サイトの「CBETA 中華電子佛典協會」の方の「經律異相卷第二十三(聲聞無學學尼僧部第十二)」で綺麗に電子化されたそれで、見出せた。そこの「孤獨母女為王所納出家悟道十一」である。冒頭を引くと、初っ端にカラスが出る(下線太字は私が附した)。『舍衛城。有孤獨母人。自生一女。年始十七。顏容端嚴衣不蔽形。母乞食自連。女貞賢明達。博讀經書守節不出門戶。居近王道而心願適王。又願事神如佛。王出行國內。見烏在貧女門上鳴。王便舉弓射烏。烏持王箭走入女家。王傍人追烏入舍。女不出面。但拔箭放烏授箭擲外。王人見指知之非凡。却後年中。王第一夫人卒。娉求夫人。無應相者。廣訪人間。左右白言。前時射烏窮獨母女。年十六七雖不見面。瞻手聞聲似是貴人。王便往視呼將俱來……』と続く。話の終りには出典として「貧女為國王夫人經」とある。本邦のサイトでは「經律異相」の、こうした整序された電子化物がないようなので、この注では甚だすこぶる助かった。

「グベルナチス(Gubernatis, “Zoological Mythology,” vol.ii, p.257)曰く、獨逸とスカンヂナヴヰアの俚謠に烏が美女を救ふ話多く、孰れも其女の兄弟と呼ばれ有り、又烏が身を殺して迄も人を助くる談多しと」これは今までも本書で何度も熊楠が引いている作品で、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」である。Internet archive」の同第二巻のここの、右ページ本文の下から七行目から。

「出羽の有也無也の關に昔鬼出て人を捉る烏鳴いて鬼の有無を告げ往來の人を助けたといふ(和漢三才圖會、六五)」所持する原本画像から訓点を除去した白文原文通りのものと、後に訓読したものを示す(これは私の同書の電子化の永年に亙る自己拘束だからである)。歴史的仮名遣の誤りはママで、〔 〕は私が推定で歴史的仮名遣で補った部分。これは地誌の前巻からの地誌の「大日本國」パートの、巻第六十五の中の「出羽」パートの終りの方(六折)である。歌は改行して引き上げ、上句・下句を分けた。

   *

牟也牟也關 良材集【引八雲御抄】云牟也牟也乃關有陸奥

出羽之交但關有出羽方草木森森然行人不栞則難

徃來

 武士の出さ入さにしるしするを

    をちをちどちのむやむやの関

△按俗謂有也無也関者訛也昔此山鬼神棲不時出捉

 人烏鳴告有無人因其聲徃來之說愈妄也或云鳥海

 山近處有此關【又俊頼歌爲伊奈牟夜】

   *

   *

牟也牟也關(むやむやのせき) 「良材集」に【「八雲御抄〔(やくもみせう)〕」を引〔(ひき)〕て。】云はく、『「牟也牟也乃(の)關」、陸奥と出羽の交(あはい)に有り。但し、關は出羽方に有り。草木、森森然〔(しんしんぜん)〕として、行人(みちゆき〔のひと〕)、栞(しおら)せざれば、則〔ち〕、徃來難し。

 武士〔(もののふ)〕の出〔(いづ)〕さ入〔(いる)〕さにしるしするを

    をちをちどちのむやむやの関

△按〔ずるに〕、俗に「有也無也(うやむや)の関」と謂ふは、訛〔(あやま)〕りなり。「昔し、此の山に、鬼神、棲(す)み、不時に出て、人を捉(と)る。烏、鳴き、有無を告ぐ。人、其の聲に因〔(より)〕て徃來す。」と云〔ふ〕。之〔(これ)〕、愈(いよいよ)、妄〔(まう)〕なり。或〔いは〕云〔(いふ)〕、「鳥海山の近處(〔ちかきところ〕)に此關、有り。」と【又、俊頼の歌に「伊奈牟夜」と爲〔(す)〕。】。

   *

恐らくは多くの人は芭蕉の「奥の細道」で知っている(私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花』の原文参照)この「牟也牟也關」は「うやむやのせき」とも呼び、「有耶無耶関」「有也無也関」などとも表記し、比定地は二つある。一つは平安後期からの歌枕で、山形県と宮城県との境界にある笹谷(ささや)峠(この峠自体は確かに最古からあった)にあった関所。出羽と陸奥の境となった。「伊奈(いなむ)の関」とも。ここ(グーグル・マップ・データ)。今一つは、 山形県と秋田県の境界、日本海に臨む三崎峠にあった関所。ここは「和漢三才図会」本文の一説にある通り、鳥海山の西麓である。「良材集」は「歌林良材集」で全二巻の歌論・歌学書。一条兼良撰。室町中期成立。「八雲御抄」は鎌倉初期の歌学書。全六巻。順徳天皇著。「承久の乱」(承久三(一二二一)年五月)の頃まで執筆していた草稿を、佐渡遷御後に纏めたもので、先行の歌学研究を集大成したもの。歌学的知識・詠歌作法・歌語の収集と解釈・名所解説・歌論の見解などが記されている。引用の歌「武士〔(もののふ)〕の出〔(いづ)〕さ入〔(いる)〕さにしるしするををちをちどちのむやむやの関」は「夫木和歌抄」の巻二十一の「雜三」に載る読人不知 の一首であるが、「日文研」の「和歌データベース」でも、

 もののふのいつさいるさにしをりする

    とやとやとほりのむやむやのせき

であり、これは、

 武士の出(い)づさ入(い)るさに枝折(しをり)する

    とやとやとほりのむやむやの關

で、上句は武士でさえ出入りのために草木を折り縛って栞とせねば迷って出られなくなってしまう迷宮(ラビリンス)の夢幻的なイメージを下句でオノマトペイアに仕立てた戯れと思うが、そのオノマトペイアが、伝説の「鬼がいるぞ!」という烏の「有也有也」(うやうや)、「無也無也」(むやむや)のそれと響き合うところを、良安は面白いと思ってここに挿入したようにも思われる。

「佛本行集經五二」以下の話は同経の「中國哲學書電子化計劃」の影印のこの辺りに出ている。活字でないと、と言う方は、簡体字交じりでよければ、「維基文庫」の同経の全文で「佛告诸比丘。我念往昔久远之时。波罗奈国有一乌王。」を検索で入れれば、その文頭に辿り着く。ぶつぶつに切れていても、ちゃんとした本邦の字体で見たければ、「大蔵経データベース」のこちらで「佛告諸比丘。我念往昔久遠之時。」を検索すればよろしい。

「日本靈異記中に、信嚴禪師出家の因緣は……」私の好きな「烏の邪婬を見て、世を厭ひ、善を修する緣第二」である。以下に角川文庫板橋倫行(ともゆき)氏の校注本(昭和五二(一九七七)年(第十八版)角川文庫刊)で示す。段落を成形した。

 

   *

 禪師信嚴(しんごん)は、和泉の國泉の郡の大領(だいりやう)血沼(ちぬ)の縣主(あがたぬし)倭麻呂(やまとまろ)なり。聖武天皇の御世の人なり。

 此の大領の家の門に、大樹有り。烏、巢を作り、兒を産み、抱(うだ)きて臥す。雄(を)の烏、遐迩(をちこち)飛び行き、食を求め、兒を抱ける妻を養ふ。

 食を求めて行ける頃、他(あだ)の烏、遞(たがひ)に來たりて婚(つる)び姧(かた)む。今の夫に婚(つる)びて、心に就きて、共に高く空にかけり、北を指して飛び、子を棄てて睠(かへり)みず。

 時に、先の夫の烏、食物を哺(ふふ)み持ち來たりて、見れば、妻の烏、無し。時に兒を慈しみ、抱きて臥し、食物を求めずして、數(あまた)の日を經たり。

 大領、見て、人を樹に登らせて、其の巣を見しむるに、兒を抱きて、死す。

 大領、見て、大(いた)く悲しび、心に愍(あはれ)み、烏の邪婬を觀て、世を厭ひ、家を出で、妻子を離れ、官位を捨て、行基大德(だいとこ)に隨ひて、善を修し、道を求む。

 名を信嚴と曰ふ。但だ、要(ちぎ)り語りて曰はく、

「大徳と倶に死に、必ず、當に同に[やぶちゃん注:「おなじきに」。]西方に往生すべし。」

といふ。

 大領の妻も亦、血沼の縣主なり。大領捨つるも、終に他(あだ)の心、無く、心に貞潔を愼む。愛(め)でし男子(をのこご)、病を得て、命、終はる時に臨みて、母に白(まを)して言はく、

「母の乳を飮まば、我が命を延ぶべし。」

といふ。

 母、子の言(こと)に隨ひ、乳を、病める子に飮ましむ。

 子、飮みて、歎きて言はく、

「ああ、母の甜(あま)き乳を捨てて、我、死なむか。」

といひて、卽ち、命、終はる。

 然して、大領の妻、死にし子に戀ひ、同共(ともども)に家を出で、善法を、修し、習ひき。

 信嚴禪師、幸、無く、緣、少なく、行基大徳より、先に、命、終りき。大徳、哭き詠(しの)び、歌を作りて曰はく、

  烏といふ大をそ鳥の言をのみ共にといひて先だち去ぬる

 夫れ、火の炬(も)えむとする時は、まづ、折松を備へ、雨降らむとする時には、兼ねて石板を潤ほす。烏の鄙(のびか)なる事を示して、領、道心を發(おこ)す。先善の方便に、苦を見(しめ)して、道を悟らしむとは、其れ、斯れを謂ふなり。欲界雜類の鄙なる行(わざ)、是(か)くの如し。厭ふ者は背き、愚なる者は貪(ふけ)る。

 贊に曰はく、可(あこし)なるかな[やぶちゃん注:「立派なことではないか!」。]、血沼の縣主の氏、烏の邪婬をみて、俗塵を厭ひ、浮花の假趣[やぶちゃん注:婀娜に華やかである仮の現象としての現世。]に背き、常に身を淨めて、修善に勤め、惠命(ゑみやう)を祈(ねが)ふ。心に、安養の期(ご)を尅(のぞ)み、この世間を解脫す。異(こと)に秀れにたる厭土の者なり。

   *

厶(ござ)る」「厶」は「私」の漢字の異体字。本邦ではこれに丁寧語・尊敬語の「御座る」の訓を当てた。

「マーク・トエーン」その当代にあって世界中で最も人気の高かった作家マーク・トウェイン(Mark Twain 本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズ(Samuel Langhorne Clemens) 一八三五年~一九一〇年)のこと。

「衆經撰雜譬喩經下には、烏が常に樹下の沙門の誦經を一心に聽いて、後獵師に殺さるゝも心亂れず天上に生れたと說かれた」発見出来ず。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 陸橋

 

   陸 橋

 

陸橋を渡つて行かう

黑くうづまく下水のやうに

もつれる軌道の高架をふんで

はるかな落日の部落へ出やう。

かしこを高く

天路を翔けさる鳥のやうに

ひとつの架橋を越えて跳躍しやう。

 

[やぶちゃん注:「出やう」「しやう」はママ。初出は大正一〇(一二二一)年十二月号『表現』。標題は「陸橋を渡つて」。以下に示す。

   *

 

 陸橋を渡つて

 

陸橋を渡つて行かう

黑くうづまく下水のやうに

もつれる軌道の高架を踏んで

はるかな落日の部落へ出よう。

かしこに高く

天路を翔(か)けさる鳥のやうに

一つの架橋を越えて跳躍しよう。

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 内部への月影

 

   内部への月影

 

憂鬱のかげのしげる

この暗い家屋の内部に

ひそかにしのび入り

ひそかに壁をさぐり行き

手もて風琴の鍵盤に觸れるはたれですか。

そこに宗敎のきこえて

しづかな感情は室内にあふれるやうだ。

 

洋燈(らんぷ)を消せよ

洋燈(らんぷ)を消せよ

暗く憂鬱な部屋の内部を

しづかな冥想のながれにみたさう。

書物をとりて棚におけ

あふれる情調の出水にうかばう。

洋燈を消せよ

洋燈を消せよ。

 

いま憂鬱の重たくたれた

黑いびらうどの帷幕(とばり)のかげを

さみしく音なく彷徨する

ひとつの幽(ゆか)しい幻像はなにですか。

きぬずれの音もやさしく

こよひのここにしのべる影はたれですか。

ああ内部へのさし入る月影

階段の上にもながれ ながれ。

 

[やぶちゃん注:初出は大正一一(一九二二)年四月発行の『帆船』。筑摩版全集から以下に示す。太字は底本では傍点「ヽ」。「欝」と「鬱」の混用はママ。「きぬづれ」もママ。

   *

 

 内部への月影

 

憂欝の影のしげる

この暗い家屋の内部に

ひそかに忍び入り

ひそかに壁をさぐり行き

手もて風琴の鍵盤にふれるはたれですか

そこに宗敎のきこえて

しづかな感情は室内にあふれるやうだ。

 

洋燈(らんぷ)を消せよ

洋燈(らんぷ)を消せよ

くらく憂鬱な部屋の内部を

しづかな冥想のながれにみたさう。

書物をとりて棚におけ

あふれる情調の出水にうかばう。

洋燈を消せよ

洋燈を消せよ。

 

いま憂鬱の重たくたれた

黑いびらうどの帷幕のかげを

さみしく音なく彷徨する

ひとつの幽しい幻像はなにですか。

きぬづれの音もやさしく

こよひのここにしのべる影はたれですか。

ああ内部へのさし入る月影

階段の上にもながれ、ながれ。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 群集の中を求めて步く

 

   群集の中を求めて步く

 

私はいつも都會をもとめる

都會のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる。

群集は大きな感情をもつたひとつの浪のやうなものだ

どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛慾とのぐるうぷだ。

ああ ものがなしき春のたそがれどき

都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ

大きな群集の中にもまれて行くのはどんなに樂しいことか

みよ この群集のながれてゆくありさまを

ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり

浪はかずかぎりなき日影をつくり 日影はゆるぎつつひろがりすすむ

人のひとりひとりにもつ愁ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない。

ああなんといふやすらかな心で 私はこの道をも步いてゆくことか。

ああこの大いなる愛と無心のたのしき日影

たのしき浪の彼方につれられてゆく心もちは淚ぐましくなるやうだ。

うらがなしい春の日のたそがれどき

このひとびとの群は建築と建築との軒を泳いで

どこへどうして流れゆかうとするのか

私のかなしい憂愁をつつんでゐるひとつの大きな地上の日影

ただよふ無心の浪のながれ

ああどこまでもどこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。本篇は「靑猫」所収の「月夜」の解題転載であるが、これは「靑猫」所収のコーダ部分が大きくカットされてある。私の「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 群集の中を求めて步く」と比較されたい。ただ、リンク先では、朔太郎が本詩集より後の「底本 靑猫」以降に本篇に加えた改変の方に関心が向いてしまった結果、初出形を示すのを忘れていた。ここで本篇の初出形(大正六(一九一七)年六月号『感情』)を改めて示しておくこととする。太字は同前。その「ぐるうぶ」の「ぶ」濁点はママである。歴史的仮名遣の誤りもママである。

   *

 

 群集の中を求めて步く

 

私はいつも都會をもとめる

都會のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる

群集はおほきな感情をもつたひとつの浪のやうなものだ

どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛慾とのぐるうぶだ。

ああ ものがなしき春のたそがれどき

都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ

おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに樂しいことか

みよこの群のながれてゆくありさまを

ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり

浪はかずかぎりなき日影をつくり、日影はゆるぎつつひろがりすすむ

ひとのひとりひとりにもつ憂ひと悲しみはみなそこの日影に消えてあとかたもなし

ああ なんといふやすらかな心で私はこの道をも步みすぎ行くことか

ああ このおほひなる愛と無心のたのしき日影

たのしき浪のあなたにつれられてゆく心もちは淚ぐましくなるやうだ

うらがなしい春の日のたそがれどき

このひとびとの群は建築と建築との軒をおよぎて

どこへどうして流れゆかふとするのか

私のかなしい憂愁をつつんでゐるひとつの大きな地上の日かげ

ただよふ無心の浪のながれ

ああ どこまでも、どこまでも、この群集の浪の中をもまれて行きたい

浪の行方は地平にけぶる

ただひとつの悲しい方角をもとめるために。

 

   *

個人的には、萩原朔太郎が詩人として名声を得て後に出版した詩集の中で、それらに載っている詩篇の幾つかを彼は、後発詩集や選集に載せる際に、何度も書き直しを加えた詩篇が有意に多くあるのだが、それらの過半は、私はするべきでなかった改変、はっきり言えば改悪が、有意に多く含まれているように感ずる。詩人の若き日の詩篇には、時にその当時の詩人だけに永久著作権が認められるべき詩篇がある。最早、詩想に於いて別人となってしまった老いさらばえた老詩人は、若き日の自作に手を入れるべきではない、ということを私は短詩形文学に対して甚だしく感ずるものである。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 騷擾

 

   騷 擾

 

重たい大きな翼(つばさ)をばたばたして

ああなんといふ弱々しい心臟の所有者だ

花瓦斯のやうな明るい月夜に

白くながれてゆく生物の群をみよ

そのしづかな方角をみよ

この生物のもつひとつの切なる感情をみよ

明るい花瓦斯のやうな月夜に

ああなんといふ悲しげな いぢらしい蝶類の騷擾だ。

 

[やぶちゃん注:「花瓦斯」(はなガス)は花型のシェード等で綺麗に飾り立てられたガス灯のこと。装飾兼用の広告灯として用いられた。ガス灯は石炭ガス(石炭を高温で乾留して得られる燃料ガス。主成分はメタンと水素で、他に一酸化炭素・二酸化炭素・エチレンその他の炭化水素を含む)の燃焼時に発する光を利用した街灯。「裸火」と呼ばれる赤っぽい灯火に特徴がある。イギリスの発明家ウィリアム・マードック(William MurdochMurdock) 一七五四年~一八三九年)によって実用化され、広く使われるようになり(一七四二年頃)、本邦では横浜の伊勢山下石炭蔵跡(現在の横浜市中区花咲町本町小学校)に高島嘉右衛門の「日本社中横浜瓦斯会社」が造られ、フランス人技師ペレゲレンの設計・監督で事業化が行われ、明治五(一八七二)年九月一日に第一号の試験ガス灯が点灯、同月九月二十九日に、横浜外人居留地(現在の馬車道本町通り)に設置点灯された。にかけて日本最初のガス灯が点された。明治七年には、東京の「銀座煉瓦街」の建設に伴い、京橋と金杉橋間に八十五基のガス街灯が灯り、人々を驚かせた。点火夫が、毎夕、点火し、毎朝、消灯した。文明開化の象徴とされ、見物人が多く出た。明治二四(一八九一)年ころから白熱マントル(ガスマントル(Gas mantle)は布製品に金属硝酸塩が染み込ませたもので、最初の使用で熱せられると、目が細かくて脆い金属酸化物のメッシュになる。炎の熱はこの金属酸化物によって光になり、光度が増すのである)が用いられるようになって光度も増したが、関東大震災(大正十二年九月一日)の影響と、電灯の普及で姿を消した(複数の辞書や信頼出来るネット記載を複数閲して、合成した)。思うに、既にして、この「花瓦斯」の形容イメージは、一種の近代化の中のノスタルジアの属性を附帯しつつある時間にあったように私には感ぜられるのである。

 本篇は「靑猫」所収の「月夜」の解題転載であるが、一行目の「翼(つばさ)」は「羽」(ルビ無し)から書き換えてある。「羽」を「つばさ」と読む読者はまずいないはずである。この部分の、この後の表記変遷は既に「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 月夜」で示してある。本篇の初出は大正六(一九一七)年四月刊の『詩歌』であるが、そちらでは電子化しなかったので、ここで以下に示す。題名が違い、「羽」には「つばさ」のルビがある。

   *

 

 深酷なる悲哀

 

重たい大きな羽(つばさ)をばたばたして、

ああ なんといふ弱弱しい心臟の所有者だ、

花瓦斯のやうな明るい月夜に、

白くながれてゆく生物の群をみよ、

そのしづかな方角をみよ、

この生物のもつひとつの切なる感情をみよ、

あかるい花瓦斯のやうな月夜に、

ああ なんといふ悲しげな、いぢらしい蝶類の騷擾だ。

 

   *

さらに、筑摩版全集の「草稿詩篇 靑猫」には本篇の草稿とする無題詩がある。但し、表現上の飢渇的希求がキリスト教を意識し、しかも、より剝き出しで、直截的である。以下に示す。

   *

 

 

 

重たい大きな羽をばたばたして

ああなんといふ弱々しい心臟のためいきだ。所有者だ。

神さま

あかるい花のやうな美しい月夜に

遠い村々→家々ランプの燈灯(あかし)に向いて流れ始める

いぢらしい蟲けらの感情→群幸福をどうしたものだ、

いぢらしい

あかるい花のやうな美しい月夜のしづかさに。

ああ神さま、

あかるい花のやうな月夜のしづかさをどうしたものだ、

あなたの貴い福音をどうしたものだ。

 

   *

完成形では、中途半端な宗教性が払拭されて、成功していると私は思う。]

2021/12/19

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 冬の海の光を感ず

 

   冬の海の光を感ず

 

遠くに冬の海の光をかんずる日だ

さびしい大浪(おほなみ)の音(おと)をきいて心はなみだぐむ。

けふ沖の鳴戶を過ぎてゆく舟の乘手はたれなるか

その乘手等の黑き腕(かひな)に浪の乘りてかたむく

 

ひとり凍れる浪のしぶきを眺め

海岸の砂地に生える松の木の梢を眺め

ここの日向に這ひ出づる蟲けらどもの感情さへ

あはれを求めて砂山の影に這ひ登るやうな寂しい日だ

遠くに冬の海の光をかんずる日だ

ああわたしの憂愁のたえざる日だ

かうかうと鳴るあの大きな浪の音をきけ

あの大きな浪のながれにむかつて

孤獨のなつかしい純銀の鈴をふり鳴らせよ

わたしの傷める肉と心。

 

[やぶちゃん注:初出は大正六(一九一七)年二月号『感情』。筑摩版全集で初出形を示す。表記は総てママ。

   *

 冬の海の光を感ず

 

遠くに冬の海の光を感ずる日だ

さびしいきおほなみの音をきいて心は淚ぐむ。

今日し沖の鳴戶を過ぎてゆく舟の乘手はたれなるか

その乘手らのくろき腕(かひな)に浪ののりてかたむく

ひとりこぼれる浪のしぶきを眺め

海岸の砂地に生える松の木の梢を眺め

ここの日向に這ひ出づる虫けらどもの感情さへ

あはれを求めて砂山のかげに這ひ登るやうな寂し日だ

遠くに冬の海の光をかんずる日だ

ああ わたしの憂愁のたえざる日だ

かうかうと鳴るあの大きな浪の音をきけ

あの大きな浪のながれにむかひて

孤獨のなつかしい純銀の鈴をふり鳴らせよ

わがいためる肉と心

 

   *

「今日し」の「し」は強意の副助詞であろう(「しも」の「も」の脱落ではない。以下の草稿を参照されたい)。「寂し日」は「は」の脱字か、誤植である(同前参照)。筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」に本篇の草稿「海岸に來る」が掲げられてある。以下に示す。不審な箇所は総てママである。

   *

 

  海岸に來る

 

心に→遠くに海の面遠くに冬の光を感ずる日だ、

さびしき大浪の音をきいて心は淚ぐむ、

沖を今日し今日し沖を渡りゆく舟にの嗚戶をすぎ行く舟の乘手はたれなるか、

その乘手らの笑顏に黑き腕に浪ののりてかたむく、

あはれを呼びて散らんする鷗とぶ砂原鷗の唄をきけねかし、

いま日を背にうけて我はひとりであるいているのだ、こゝに座るこゝの海岸に書物をよむ→たゝづむ→日をくらす來る、

海岸にきたる、遠く冬の海の光をかんずる日の

この海岸の砂地に 生えて 伸びて生長する松の木の 幹の太さよ、

かなしき神經の

それを眺めつつ私は

あはれ松の木の幹の太 さよ くたくましさよ、

沖より一人かへるもの

むなしき ビクをさげて

こゝの海岸の砂地に生ひて生長する松の木の幹の

さびしき海岸の砂地に生える松の木をもとめながめ

こほれる浪のしぶきをながめ

日向に這ひ出づる蟲けらどもの感情さヘ

あはれ、あはれ松の木の幹に砂山のかげに這ひのぼるやうなさびしい日だ、

遠くに冬の海の光を感ずる日だ

ああ、わたしの憂愁の絕えざる日だ、

かうかうといふあのおほきな浪の音をきけ

あのおほきな浪の流れに向ひて

孤獨の銀色の鈴をふりならせ

孤獨のおそろしいなつかしい銀色純銀の鈴をふり鳴らせよ、

わがいためる肉と心、

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 靑空に飛び行く

 

   靑空に飛び行く

 

かれは感情に飢ゑてゐる。

かれは風に帆をあげて行く舟のやうなものだ

かれを追ひかけるな

かれにちかづいて媚をおくるな

かれを走らしめろ 遠く白い浪のしぶきの上にまで。

ああ かれのかへつてゆくところに健康がある。

まつ白な 大きな幸福の寢床がある。

私をはなれて住むときには

かれにはなんの煩らひがあらう!

私は私でここに止つてゐやう

まづしい女の子のやうに 海岸に出で貝でも拾つてゐやう

ねぢくれた松の木の幹でも眺めてゐやう

さうして灰色の砂丘に坐つてゐると

私は私のちひさな幸福に淚がながれる。

ああ かれをして遠く遠く沖の白浪の上にかへらしめろ

かれにはかれの幸福がある。

ああかくして、一羽の鳥は靑空に飛び行くなり。

 

[やぶちゃん注:「ゐやう」は総てママ。初出は大正六(一九一七)年二月号『感情』。これは、先日、公開した『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺珠 「靑空に飛び行く」(決定稿と初出)』で電子化してあるので、そちらを見られたい。なお、筑摩版全集の『草稿詩篇 蝶を夢む』の最後には、『靑空に飛び行く(本篇原稿一種一枚)』としつつも、掲げずに、『本篇原稿の題名は「一羽の鳥は岬の上に立てり、」とある』とのみ記す。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 腕のある寢臺

 

   腕のある寢臺

 

綺麗なびらうどで飾られたひとつの寢臺

ふつくりとしてあつたかい寢臺

ああ あこがれ こがれいくたびか夢にまで見た寢臺

私の求めてゐたただひとつの寢臺

この寢臺の上に寢るときはむつくりとしてあつたかい

この寢臺はふたつのびらうどの腕をもつて私を抱く

そこにはたのしい愛の言葉がある

あらゆる生活(らいふ)のよろこびをもつたその大きな胸の上に

私はすつぽりと疲れたからだを投げかける

ああこの寢臺の上にはじめて寢るときの悅びはどんなであらう

そのよろこびはだれも知らない祕密のよろこび

さかんに强い力をもつてひろがりゆく生命(いのち)のよろこびだ。

みよ ひとつの魂はその上にすすりなき

ひとつの魂はその上に合掌するまでにいたる

ああかくのごとき大いなる愛憐の寢臺はどこにあるか

それによつて惱めるものは慰められ 求めるものはあたへられ

みなその心は子供のやうにすやすやと眠る

ああ このひとつの寢臺 あこがれもとめ夢にみるひとつの寢臺

ああこの幻(まぼろし)の寢臺はどこにあるか。

 

[やぶちゃん注:「びらうど」はママ(歴史的仮名遣でも「びろうど」でよい)。初出は大正六(一九一七)年六月号『感情』で、標題は「まぼろしの寢臺」である。以下に示す。太字は底本(筑摩版全集)では傍点「ヽ」。歴史的仮名遣の誤り等は、総てママ。

   *

 

 まぼろしの寢臺

 

きれいなびろうどで飾られたひとつの寢臺

ふつくりとしてあつたかい寢臺

ああ あこがれ こがれ、いくたびか夢にまで見た寢臺

私の求めてゐたたつたひとつの寢臺

この寢臺の上に寢るときはむつくりとしてあつたかい

この寢臺はふたつのびろうどの腕をもつて私を抱く

そこにはたのしい愛の言葉がある

あらゆる人生の悅びをもつたその大きな胸のうへに

私はすつぽりと疲れたからだを投げかける

ああ この寢臺のうへにはじめて寢るときの悅びはどんなであらふ

その悅びはだれも知らない秘密のよろこび

さかんに强い力をもつてひろがりゆく生命のよろこびだ

みよ、ひとつのたましひはその上にすすりなき

ひとつのたましひはその上に合掌するまでにいたる

ああ かくのごとき大いなる愛戀の寢臺はどこにあるか

それによつて惱めるものはなぐさめられ、求めるものはあたへられ、その心は子供のやうにすやすやとしづかに眠る

ああ このひとつの美美しい寢臺、あらゆる生命の悅びをみつめる寢臺

それにも知らぬ遠方に見え

あとかたもなく失はれたるまぼろしの寢臺はどこにあるか

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 始動 / 「詩集の始に」・目次・「蝶を夢む」(詩集前篇の第一篇)

 

[やぶちゃん注:萩原朔太郎の第三詩集「蝶を夢む」は大正一二(一九二三)年七月十四日、正規の単行詩集としてではなく、新潮社の叢書「現代詩人叢書」の第十四巻として刊行された。収録作品は六十篇で、内、十六篇は、先行する処女詩集「月に吠える」(大正六年二月十五日発行/感情詩社・白日社出版部共刊(事実上の完全自費出版))及び第二詩集「靑猫」(大正十二年一月二十六日発行/新潮社刊)からの再録である。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの同原本初版(当該書の奥附の発行日が七月十二日となっているのは、一般刊行前に行われる国立国会図書館収蔵用献本であるからであろう)画像を視認した。但し、加工データとして「青空文庫」の同詩集のテキスト・ファイル・データ(二〇一八年十二月十四日最終更新版・入力・kompass氏/校正・小林繁雄氏/校正・門田裕志氏)を使用させて貰った(ここの下方にある)。ここに御礼申し上げる。

 下方インデントなどはブログ・ブラウザでの不具合を考えて再現していない。

 私は既にこのブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」で、先行する二詩集を正規表現版で公開しているが、再録と称している十六篇は、表記上の変更(主に歴史的仮名遣の誤りの整序)が有意に認められるので、煩を厭わず、全篇を電子化することとした。また、今までの二詩集の電子化注同様、後注で筑摩版全集に附載される初出形も掲げる。表紙その他は、以上のような仕儀であるため、前二詩集のような魅力が皆無なので、電子化はするが、画像は貼らず、底本のリンクに留めた。【二〇二一年十二月十九日始動 藪野直史】]

 

 

蝶 を 夢 む

萩 原 朔 太 郞 著

 

現代詩人叢書

14

新潮社版行

 

[やぶちゃん注:表紙。国立国会図書館デジタルコレクションの画像はモノクロームであるので、ネットの古書店のサイトに貼られた画像をみたところ(但し、翌大正十三年五月二日発行の第七版)、上記のような色付けがなされてあるのが確認出来たので、せめてもの花として、かく、した。文字列は総て右から左に書かれてある。背は国立国会図書館デジタルコレクションの画像では見られないが、こちらも同前で確認したところ、辛うじて、

   *

 蝶 を 夢 む 萩 原 朔 太 郞 現代詩人叢書14

   *

と視認するところまでは出来た。参考のために添えておく。因みに、裏表紙はこれで、中央に新潮社のマークがあるだけである。]

 

 

蝶 を 夢 む

萩 原 朔 太 郞 著

 

現代詩人叢書

14

新潮社版

 

[やぶちゃん注:とびら。この画像はネットには見当たらないので、何とも言えないが、底本のモノクローム画像でも「萩 原 朔 太 郞 著」と「14」が明らかに薄いのが判る。或いは、表紙と同じく水色なのかも知れぬが、白抜きで示しておいた。

 

 

     詩 集 の 始 に

 

 この詩集には、詩六十篇を納めてある。内十六篇を除いて、他はすべて既刊詩集にないところの、單行本として始めての新版である。

 この詩集は「前篇」と「後篇」の二部に別かれる。前篇は第二詩集「靑猫」の選にもれた詩をあつめたもの、後篇は第一詩集「月に吠える」の拾遺と見るべきである。卽ち前篇は比較的新しく後篇は最も舊作に屬する。

 要するにこの詩集は私の拾遺詩集である。しかしながらそのことは、必しも内容の無良心や低劣を意味しない。既刊詩集の「選にもれた」のは、むしろ他の別の原因――たとへば他の詩風との不調和や、同想の類似があつて重複するためや、特にその編纂に際して詩稿を失つて居た爲や――である。現に卷初の「蝶を夢む」「腕のある寢臺」「灰色の道」「その襟足は魚である」等の四篇の如きは、當然「靑猫」に入れるべくして誤つて落稿したのである。(もし忠實な讀者があつて、此等の數篇を切り拔き「靑猫」の一部に張り入れてもらへば至幸である。)とはいへ、中には私として多少の疑案を感じてゐるところの、言はば未解決の習作が混じてゐないわけでもない。むしろさういふのは、一般の讀者の鑑賞的公評にまかせたいのである。

 詩集の銘を「蝶を夢む」といふ。卷頭にある同じ題の詩から取つたのである。

 

 西曆千九百二十三年

                  著者

 

[やぶちゃん注:萩原朔太郎自身の序。太字は底本では傍点「◦」である。

 なお、以下の目次は、リーダとページ数を略した。「・」(実際には二回りほど大きい黒丸である)は萩原朔太郎自身が打ったもので、最後に彼が注記しているように、先行詩集からの再録であることを意味するマークである。]

 

 

     目  次

蝶 を 夢 む 前篇

  蝶を夢む

  腕のある寢臺

  靑空に飛び行く

  冬の海の光を感ず

 ・騷 擾

 ・群集の中を求めて步く

  内部への月影

  陸 橋

  灰色の道

 ・その手は菓子である

  その襟足は魚である

  春の芽生

  黑い蝙蝠

  石竹と靑猫

  海 鳥

  眺 望

  蟾 蜍

  家 畜

 ・夢

 ・寄生蟹のうた

 ・野 鼠

 ・閑雅な食慾

 ・馬車の中で

  野 景

  絕望の逃走

  僕等の親分

  涅 槃

  かつて信仰は地上にあつた

  商 業

  まづしき展望

  農 夫

  波止場の烟

 

松葉に光る後篇

 

  狼

  松葉に光る

  輝やける手

 ・酢えたる菊

 ・悲しい月夜

 ・かなしい薄暮

  天路巡歷

 ・龜

  白 夜

  巢

  懺悔

  夜の酒場

  月 夜

  見えない兇賊

  有害なる動物

 ・さびしい人格

 ・戀を戀する人

 ・贈物にそへて

  遊 泳

  瞳孔のある海邊

  空に光る

  綠蔭俱樂部

  榛名富士

 ・くさつた蛤

 

散 文 詩

 

  吠える犬

  柳

  Omegaの瞳

  極 光

             以上・六十篇

   目次中・印を附したものは既刊詩集からの再錄。

 

 

[やぶちゃん注:以下、パート標題。その後は、標題ページの裏側に記された当該パート内の詩群についての著者による解説。原本では二行書きであるが、行間が異様に広い。]

 

 

  蝶 を 夢 む    詩集前篇

 

 

この章に集めた詩は、「月に吠える」以後最近に至るまでの作で「靑猫」の選にもれた分である。但し内八篇は「靑猫」から再錄した。

 

 

   蝶 を 夢 む

 

座敷のなかで 大きなあつぼつたい翼(はね)をひろげる

蝶のちひさな 醜い顏とその長い觸手と

紙のやうにひろがる あつぼつたいつばさの重みと。

わたしは白い寢床のなかで眼をさましてゐる。

しづかにわたしは夢の記憶をたどらうとする

夢はあはれにさびしい秋の夕べの物語

水のほとりにしづみゆく落日と

しぜんに腐りゆく古き空家にかんずるかなしい物語。

 

夢をみながら わたしは幼な兒のやうに泣いてゐた

たよりのない幼な兒の魂が

空家の庭に生える草むらの中で しめつぽいひきがへるのやうに泣いてゐた。

もつともせつない幼な兒の感情が

とほい水邊のうすらあかりを戀するやうに思はれた

ながいながい時間のあひだ わたしは夢をみて泣いてゐたやうだ。

 

あたらしい座敷のなかで 蝶が翼(はね)をひろげてゐる

白い あつぼつたい 紙のやうな翼(はね)をふるはしてゐる。

 

[やぶちゃん注:第一連の「しぜんに腐りゆく古き空家にかんずるかなしい物語。」はママ。これは「感ずる」ではなく、「關する」で、巻頭詩としては痛い誤植である。以下に示す初出形でも、「關する」となっており、筑摩版全集の「校異 蝶を夢む」によれば、清書原稿が、

   *

しぜんに腐りゆく古き空家にかんするかなしい物語。

   *

となっており、後の「定本 靑猫」(昭和一一(一九三六)年三月二十日発行・版𤲿莊刊)でも、「かんする」となっているから、誤植確定なのである。

 初出は大正六(一九一七)年一月号『感情』であるが、標題は「蝶」だけである。以下に初出形を示す。誤植と思われるもの(例えば、初行の「ひろける」)や、歴史的仮名遣の誤り等は総てママである。

   *

 

 

 

座敷の中で、おほきなあつぼつたい羽をひろける

蝶のちいさな、みにくい顏とそのながい觸手と

紙のやうにひろがる、あつぼつたいつばさの重みと

わたしは白い寢床の中で眼をさましてゐる

しづかに私は夢の記憶をたどらふとする

夢はあはれにさびしい秋のゆうべの物語

水のほとりに沈みゆく落日と

しぜんにくさりゆく古き空家に關する悲しい物語。

 

夢をみながら私はおさな兒のやうに泣いて居た

たよりのないおさな兒のたましひが

空家の庭に生える草むらの中で、しめつぽいひきがへるのやうに泣いて居た

もつともせつない幼な兒の感情が、遠い水邊のうすらあかりを戀するやうに思はれた

ながい、ながい時間のあひだ、わたしはゆめをみて泣いてゐたやうだ。

 

あたらしい座敷の中で、蝶が羽をひろげて居る

白い、あつぼつたい、紙のやうな羽をふるはして居る。

 

   *]

2021/12/18

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(2)

 

 扨鴉や烏が膽勇に富めるは、和漢三才圖會烏の條に、其肉味酸鹹臭、人不食、故常人不恐人、不屑鷹鷂、而恣園圃果蓏穀實、竊人家所晒魚肉餅糕等、噉郊野屍肉、是貪惡之甚者也[やぶちゃん注:私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」を参照されたい。当該部を含む原文総てと、訓読及び私のオリジナル注を附してある。]と讀むと、人が忌んで殺さぬ故不敵に成つた樣だが、ワラスの著ダーヰニズムに云つた通り、氷雪斷えぬ所に住む鳥は、多くは肉食動物に見露されぬ樣に其體が氷雪同樣白い。然るに烏だけは常に進んで他の動物を侵すのだから、卑怯千萬な擬似色を要せず、且つ群棲するもの故色が黑いと氷雪の白いに對照して反つて友を集むるに便有るのだ。烏が本來大膽なので、決して人が忌んで殺さぬ故大膽に成つたので無い。烏が明敏にして黠智[やぶちゃん注:「かつち(かっち)」。「猾智(くわつち)」に同じ。悪がしこい知恵。悪知恵。]なるは禽經に烏の烏之巨嘴者善避矰弋彈射[やぶちゃん注:「巨嘴(きよし)なるは、善く矰弋(そうよく)・彈射を避く」。「矰」・「弋」ともに狩猟用具の一つ。矢に糸や網を付けて射ち、鳥や魚に絡ませて捕る仕掛けを言う。本邦では「射包(いくる)み」と呼ぶ。「彈射」は矢などを弾いて射ること。]。Tennent, “Sketches of the Natural History of Ceylonm” 1861, pp. 254-5 に、錫蘭(せいろん)の烏が籃の蓋を留置いた栓を拔いて其中を覗いたり、人が肉を切ると、油斷するところへ付け入つて、其血塗れな庖丁を奪うたり、殊に椿事なは、犬が骨を嚙むを奪はん迚、一羽の烏が其前に下りて奇態に踊り廻れども犬油斷せぬ故、暫く飛去つて棒組一羽連れ來り二人して踊れども效無し、其時後で來た烏一計を案じ出し、一たび空中に飛騰つて忽ち直下し、其嘴の全力を竭して[やぶちゃん注:「つくして」。]太く[やぶちゃん注:「いたく」。]犬の背を啄く。犬仰天して振向く處を、最初より居つた烏輙(たやす)く[やぶちゃん注:底本では「轍」だが、特異的に私が訂した。]彼が食ひ居つた骨を奪つた等の諸例を出し居る。Romanes, Animal Intelligence,1881 にも、烏の狡智非常な例を陳べ有る。斯程智慧有る者故、上に引いた野狐が烏を智慧最第一と讃(ほ)めた印度譚や、母に叱り出された少女が情夫に急を報げんと烏に助を乞う辭に、「智慧の烏よ、鳥中の最[やぶちゃん注:「いと」。]賢き者よ」と言つたエストニア誕[やぶちゃん注:「たん」。「譚」に同じ。]がある(Kirby,“The Hero of Esthonia,” 1895, vol. i. p. 215)。Southey,“Common-Place Book,” ed. Warter, 1876, 3rd Seris, p. 638 に、英國で烏群地に小孔を喙き開け檞[やぶちゃん注:「かしわ」。]の實を埋めながら前進するを見たが後日烏が巢を架けるに足る密林と成つたと記す。眉唾な樣な咄だが、米國に穀を蒔いて收穫する蟻有り、又檞の實を大木の幹に自ら穿つた孔に塡め置き、後日實の中に生じた蟲(むし)を食ふ用意とする啄木鳥もあるというから丸啌(うそ)でも無からう。烏は朝早く起き捷く[やぶちゃん注:「すばやく」。]飛んで諸方に之き、暮に栖(すみか)に歸るから、世間雜多の事を見聞すてふ處から言つた物か、古スカンヂナヴヰアの大神オヂンの肩に留まる鴉二つ、一は考思(かんがへ)、一は記憶(おぼえ)と名く。大神每朝之を放てば世界を廻り歸つて悉皆の報告す。大神由つて洽く[やぶちゃん注:「あまねく」。]天下の事を知る故に鴉神の名有りと(Collin de Plancy, “Dictionnaire infernal,” Bruxelles, 1845, p.347)。斯く烏は飛ぶ事捷く世間を廣く知るてふより、所謂往を推して來を知る力有りとせられ、古希臘では、烏をアポロ神豫言の標識とし(“Encyclopaedia Britannnica,” 11th ed., vol. ii. Art “Apollo”)、支那でも、本草集解に古有鴉經、以占吉凶、然北人喜鴉惡鵲、南人喜鵲惡鴉、惟師曠(禽經)以白項者(乃ち燕烏)爲不祥近之[やぶちゃん注:「古へ、「鴉經」あり、以つて吉凶を占ふ。然(しか)も、北人は、鴉を喜び、鵲(かささぎ)を惡み、南人は、鵲を喜び、鴉を惡む。惟(た)だ、師曠(「禽經」)は、白き項(うなじ)なる者(乃(すなは)ち燕烏[やぶちゃん注:『「二」の(1)』で私が同定したクビワガラス。])をもつて不祥となし、これに近づかず」。]。酉陽雜俎に、世有傳陰陽局鴉經、謂東方朔所著、大略先數其聲、卽是甲聲、以十干數之、辨其急緩、以定吉凶[やぶちゃん注:「世に「陰陽局鴉經」を傳ふる有り。東方朔の著はす所と謂へり。大略は、先づ其の聲を數へ、卽ち、是れ、甲の聲ならば、十干を以つて之れを數へ、其の急緩を辨じ、以つて吉凶を定む」。]。日本でも烏鳴きは必しも皆凶ならず、例せば、巳の時は女に依つて口舌有り、卯の時は財を得、午の時は得財吉、又口舌[やぶちゃん注:「財を得ること、吉、又、口舌あり。」。]猶委細は二中歷第九を覽なさい[やぶちゃん注:「みなさい」。]。錫蘭では烏は常に家邊に在る物なればとて、今日も其行動鳴聲から棲つた樹の種類迄考へ合せて吉凶を占ふ(Tennent 上に引いた處)。又烏は善く方角を知る故、人が知らぬ地へ往く嚮導や遠地へ遣る使者とした例が多い。酉陽雜俎に、烏地上に鳴けば凶く[やぶちゃん注:「あしく」。]、人行くに臨み烏が鳴いて前引すれば喜多しと有り。八咫烏が神武帝の軍勢を導きし事日本紀に見え、古希臘テーラの貴人バツトスが未知の地に安着して殖民し得たのも實に鴉の案内に憑つたので、鴉の義に基いて其地をキレーネーと命じた(Cox, “An Introduction to Folk-Lore,” 1895, p.104)。但し宣室志には軍出るに鳶や烏が後に隨ふは敗亡の徵と有る。ヘブリウの古傳にノア大洪水に漂(たゞよ)うた時、三つの鳥を放つに三度目の鴉が陸地を見出した。三つの鳥は鴉(からす)鴿(いへばと)鴿(はと)と云ふのと鴿燕鴉と云ふのと二說有るが、チエーンは鴉が最後に陸を發見した說を正とした。北米土人の話にも似た事があれど、鴉の代りに他の鳥としておる(“Encyclopaedia Britannica,” vol.vii, p.978)。又那威[やぶちゃん注:「ノルウェー」。]のフロキ氷州(アイスランド)に航せんと出立の際、三羽の鴉を諸神に捧げ、遠く海に浮んで先づ一羽を放つと元來し方へ飛往くを見て、前途猶遙かなりと知り、進行中又一羽を放つと空を飛び廻つて船に戾つたので、鳥も通わぬ絕海に有りと了(さと)つた。三度目に飛ばした奴が仔細構はず前進す。其を蹤(あとつ)けて船を進めて到頭氷州の東濱に著いたと云ふが、其頃那威にはオヂン大神の使物たる鴉を特別に訓練して神物とし、航海中陸地の遠近を驗す[やぶちゃん注:「ためす」。]に用ひたらしい(Mallet, “Northern Antiquties,” in “Bohn's Library,”  1847, p.188)。是に同軌の例、長阿含經十六、商人、臂鷹入海、於海中放、使彼鷹飛空、東西南北、若得陸地、便卽停止、若無陸地、更還歸船。[やぶちゃん注:「大蔵経テキストデータベース」で同経の当該部を確認したところ、「還」が脱落していることが判ったので挿入した。「商人、鷹を臂(ひぢ)にして海に入り、海中(うみなか)に於いて放つ。彼(か)の鷹をして、空を飛ばし、東西南北せしむ。若(も)し、陸地を得れば、則卽(すなは[やぶちゃん注:二字でかく訓じておく。])ち、停止し、若し、陸地無ければ、更に船に還歸(かへ[やぶちゃん注:同前。])る」。]。經律異相廿六には、大富人が海邊に茂林を作り烏多く栖む。其烏、朝每に飛んで遠隔の海渚に往き、明月の珠を噉ひ暮に必ず還る。件の長者謀つて百味の食を烏に與ふると、烏飽き滿ちて珠を吐出すこと夥し。長者之を得て大富と成つたと載す。奈女耆域因緣經に、耆婆[やぶちゃん注:「ぎば」。]が勝光王に殺さるゝを免れんとて、日行八千里の象に乘つて逃げるを神足能く其象に追付くべき勇士して逐はしむる、其士の名は烏と有る。是れ印度で烏を捷く飛ぶ事他鳥に超ゆとしたのだ。續群書類從の嚴島御本地に、五色の烏が戀の使して六年懸かる路を八十五日で往著く事有り。古英國のオスワルド尊者の使者も烏だつた(Gubernatis, vol.ii, p. 257)。

[やぶちゃん注:冒頭、改行されているのに、字下げがない。誤植と断じ、一字空けた。

「ワラスの著ダーヰニズム」ダーウィンと別に独自に自然選択を発見した優れたイギリスの博物学者で進化論者であったアルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace  一八二三年~一九一三年)が、一八八九年に発表したDarwinism: An Exposition of the Theory of Natural Selection, with Some of Its Applications (「ダーウィニズム:自然淘汰の理論の解説とその幾つかの適用例」)。

「禽經」春秋時代の師曠(しこう)の撰になるとされる鳥獣事典であるが、偽書と推定されている。全七巻。

「Tennent, “Sketches of the Natural History of Ceylonm” 1861, pp. 254-5」イギリスの植民地管理者で政治家であったジェームズ・エマーソン・テナント(James Emerson Tennent 一八〇四年~一八六九年)のセイロンの自然史誌。Internet archive」のこちらで、原本の以下の当該箇所が視認出来る

「Romanes, “Animal Intelligence,” 1881」「動物の知恵」は、カナダ生まれのイギリスの進化生物学者で生理学者であったジョージ・ジョン・ロマネス(George John Romanes 一八四八年~一八九四年)が一八八一年に刊行したもの。彼及び本書については、「生物學講話 丘淺次郎 附錄 生物學に關する外國書」の本文及び私の「ロマーネス」の注を参照されたい。

「Kirby,“The Hero of Esthonia,” 」イギリスの昆虫学者でフィンランドの民族叙事詩カレワラや北欧の神話・民話の翻訳紹介も行ったウィリアム・フォーセル・カービー(William Forsell Kirby 一八四四年~一九一二年)の同年出版の著作。「エストニア」はバルト三国では最も北にある現在のエストニア共和国(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『現在のエストニアの地に元々居住していたエストニア族(ウラル語族)と、外から来た東スラヴ人、ノルマン人などとの混血の過程を経て』、十『世紀までには現在のエストニア民族が形成されていった』。十三『世紀以降、デンマークとドイツ騎士団がこの地に進出して以降、エストニアはその影響力を得て、タリンがハンザ同盟に加盟し』、『海上交易で栄えた』。但し、『その後もスウェーデン、ロシア帝国と外国勢力に支配されてきた』とある。

「Southey,“Common-Place Book,” ed. Warter, 1876, 3rd Seris, p. 638」イギリスの、ロマン派の桂冠詩人にして「湖畔詩人」の一人であったロバート・サウジー(Robert Southey 一七七四年~一八四三年)の死後に纏められた著作集。「Internet archive」のこちらで、原本の以下の当該箇所が視認出来る。冒頭に「97」とあるのがそれだ。ローズ(薔薇)城で二十五年前に目撃した語りから始まっている。

 「檞」原文ではオーク(oak)。

「大神オヂン」北欧神話の主神にして戦争と死の神。北欧神話の原典に主に用いられている古ノルド語での表記は「Óðinn」で音写すると「オージン」に近い。一般に知られる「オーディン」は現代英語などへの転写形である「Odin」が元である。詩文の神でもあり、吟遊詩人のパトロンでもある。魔術に長け、知識に対しては非常に貪欲な神であり、自らの目や命を代償に差し出すこともあった。その名は「oðr」(狂った・激怒した)と「-inn」(「~の主」)からなり、語源的には「狂気、激怒(した者)の主人」を意味すると考えられている。しかし、こうした狂気や激怒が、シャーマンのトランス状態を指していると考えれば「シャーマンの主人」という解釈可能であるという。参照した当該ウィキによれば、『愛馬は八本足のスレイプニール』で、『フギン(=思考)』と『ムニン(=記憶)という二羽のワタリガラスを世界中に飛ばし、二羽が持ち帰るさまざまな情報を得ているという。また、足元にはゲリとフレキ(貪欲なもの』『)という』二『匹の狼がおり、オーディンは』、『自分の食事は』、『これらの狼にやって』、『自分は葡萄酒だけを飲んで生きているという』とあった。

「Collin de Plancy, “Dictionnaire infernal,” Bruxelles, 1845, p.347」コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)はフランスの文筆家。当該書は「地獄の辞典」で、悪魔・オカルト・占い・迷信・俗信及びそれらに関連した人物のエピソードなどを集めた辞書形式の書籍。一八一八年に初版が発行されている。

「烏をアポロ神豫言の標識とし」これとは違うが、アポロンとカラスの神話上の関係については、chimaltovさんのブログ「ギリシャ神話あれこれ」の「カラスの失着」には、狡猾な使者でよく嘘をつき、遂には黒い羽と嗄れ声に変えられてしまったとあり、その理由が判り易く書かれている。

「本草集解」時珍の「本草綱目」の巻四十九の「禽之三」の「烏鴉」の「集解」(産地等についての注記解釈)。「漢籍リポジトリ」のこちらの[114-10b]の画像と電子化を参照されたい。なお、以下については、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」の「北人は鴉を喜びて、鵲〔(かささぎ)〕を惡〔(にく)〕む。南人は、鵲を喜びて、鴉を惡む」の私の注も参照されたい。「鵲」はスズメ目カラス科カササギ属カササギ亜種カササギ Pica pica sericea

「酉陽雜俎に、世有傳陰陽局鴉經……」不審。「酉陽雜俎」にはこの記載は見当たらない。「維基文庫」の「古今圖書集成」を調べたところ、「禽異部雜錄」の「容齋續筆」からの引用の最後に、「世有傳陰陽局鴉經。謂東方朔所著。大略言凡占烏之鳴。先數其聲。然後定其方位。假如甲日一聲、卽是甲聲。第二聲爲乙聲、以十干數之、乃辨其急緩、以定吉凶。葢不專於一說也。」とあった。「容齋續筆」は南宋の政治家で儒学者の洪邁(一一二三年~一二〇二年)の考証随筆。まず「容斎随筆」が一一八〇年に公刊されたが、時の孝宗が、その議論の内容が優れていることから、賞賛した。「続筆」は一一九三年で、後に「三筆」・「四筆」と続き、「五筆」の執筆途中で没した。参照した当該書のウィキによれば、『日本では、荻生徂徠が』「示木公達書目」『の中で、好学の士のための必読書としてこの書目を挙げている』とある。

「二中歷第九」「二中歷」(にちゅうれき)は鎌倉初期に成立したとされる事典。当該ウィキによれば、『その内容は、平安時代後期に成立した』「掌中歴」と「懐中歴」の『内容をあわせて編集したものとされている。現代では「掌中歴」の一部が現存する』だけである。『掌中歴と懐中歴は三善為康』(永承四(一〇四九)年~保延五(一一三九)年)の手になる、平安『後期のものと推定されているが』「二中歴」の『編纂が誰によるものであるかは不明である。現代には尊経閣文庫本と呼ばれる、加賀・前田家に伝わる古写本が残されているのみで、これは鎌倉時代後期から室町時代にかけての、後醍醐天皇のころに作られたと考えられている』とある。その「第九」は「医方・呪術・怪異・種族・姓尸・名字」の項が掲げられている。国立国会図書館デジタルコレクションにある写本の「恠異歷日時」のここ(左丁末の「烏鳴」)である。見ましたよ、熊楠さん。

「八咫烏が神武帝の軍勢を導きし事日本紀に見え」「日本書紀」巻第三の神武天皇即位前の戊午年(機械換算で紀元前六六三年)の「六月丁巳」(二十三日)の条に、

   *

于時、天皇適寐。忽然而寤之曰、「予何長眠若此乎。」。尋而中毒士卒、悉復醒起。既而皇師、欲趣中洲、而山中嶮絕、無復可行之路、乃棲遑不知其所跋渉。時夜夢、天照大神訓于天皇曰、「朕今遣頭八咫烏、宜以爲鄕導者。」。果有頭八咫烏、自空翔降。天皇曰、「此烏之來、自叶祥夢。大哉、赫矣。我皇祖天照大神、欲以助成基業乎。」。是時、大伴氏之遠祖日臣命、帥大來目、督將元戎、蹈山啓行、乃尋烏所向、仰視而追之。遂達于菟田下縣、因號其所至之處、曰菟田穿邑。穿邑、此云于介知能務羅。于時、勅譽日臣命曰「汝忠而且勇、加能有導之功。是以、改汝名爲道臣。」。

   *

とあるのを指す。国立国会図書館デジタルコレクション岩波文庫の黒板勝美訓読・編の「日本書紀」の「中卷」の当該部をリンクさせておく。

「古希臘テーラの貴人バツトスが未知の地に安着して殖民し得た」現在はリビア領に含まれ、キュレネ(この半島先端附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)には紀元前七世紀末に、飢饉に襲われたテラ島(現在のギリシャのサントリニ島)住民の一部がバットスBattosを植民指導者として、この沃地に入植(紀元前四世紀に再録された植民決議の碑文がキュレネのアゴラから出土している)、バットス一門の王政は紀元前五世紀半ばまで続いた。その後、プトレマイオス王朝の支配を経て,紀元前七四年にローマの属州キレナイカとなった(以上は平凡社「世界大百科事典」の「キュレネ」の記載に拠った)。

「Cox, “An Introduction to Folk-Lore,” 1895, p.104)」イギリスの民俗学者で「シンデレラ型」譚の研究者として知られるマリアン・ロアルフ・コックス(Marian Roalfe Cox 一八六〇年~一九一六年:女性)の「民俗学入門」。「Internet archive」の当該原本のここ

「宣室志」唐の文語伝奇小説集。張読の著。もとは十巻あったと思われるが、散逸して現在は「稗海」や「重較説郛」(ちょうこうせっぷ)などに一部が収録されているのみである。著者は「霊怪集」を書いた張薦の孫で、礼部侍郎まで進んだ(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。因みに、私が偏愛する中島敦の「山月記」(リンク先は私の古い電子化。『中島敦「山月記」授業ノート 藪野直史』もある。私が高校教師時代、漱石の「こゝろ」とともにオリジナルな朗読に拘った作品である)は、その直接の素材を唐代伝奇の李景亮「人虎伝」に拠るが、本書に載る「李徴」も同じ内容を持つ古い譚であることが知られている。以下の凶兆については、第一巻に載る。「中國哲學書電子化計劃」の影印本で原記載が確認出来る。影印から起こしておく。

   *

柳公濟尚書、唐大和中、奉詔討李同犍。既出師、無何、麾槍忽折。客有見者、嘆曰、「夫大將軍出師、其門旌及麾槍折者、軍必敗衂。不然、上將死。」。後數月、公濟果薨。凡出軍征討、有烏鳶隨其後者、皆敗亡之徵。有曾敬雲者、嘗為北都裨將。李師道叛時、曽將行營兵士數千人、毎出軍、有烏鳶隨其後、必主敗、率以為常。後捨家爲僧、住於太原凝定寺。太和九年、羅立言為京兆尹、嘗因入朝、既冠帶、引鏡自照、不見其首。遂語於季弟約言。後果為李訓連坐、誅死。

   *

「ヘブリウ」古代イスラエルの別称ヘブライ。

「ノア大洪水に漂(たゞよ)うた時、三つの鳥を放つに三度目の鴉が陸地を見出した。三つの鳥は鴉(からす)鴿(いへばと)鴿(はと)と云ふのと鴿燕鴉と云ふのと二說有るが、チエーンは鴉が最後に陸を發見した說を正とした」ウィキの「ノアの方舟」の「ギルガメシュ叙事詩」の同説話の記述の中で、主人公を「ウバルトゥトゥの子、シュルッパクの人」「ウトナピシュティム」とし、洪水が起こって『七日目に、ウトナピシュティムはまず』、『鳩をはなした。鳩は休み場所が見あたらずにもどってきた。つぎは燕をはなしたが』、『同じ結果になった。そのつぎには』、『大烏』(おおがらす。現在は、スズメ目カラス科カラス属ワタリガラスCorvus corax に比定されている)『をはなしたところ、水がひいていたので』、『餌をあさりまわって』、『帰ってこなかった。そこで彼は山頂に神酒をそそぎ、神々に犠牲をささげた』とある。

“Encyclopaedia Britannica,” vol.vii, p.978」「Internet archive」で同巻の当該ページを見たが、違う。巻数かページが違うか?

「Mallet, “Northern Antiquties,” in “Bohn's Library,”  1847, p.188」デンマークの文学やケルト神話及びスカンジナビアの著作をものした、スイスのジュネーブの作家パウル・ヘンリ・マレット(Paul Henri Mallet 一七三〇年~一八〇七年)の「Northern antiquities, or, An historical account of the manners, customs, religion and laws, maritime expeditions and discoveries, language and literature of the ancient Scandinavians 」(「北部古代遺跡 又は 古代スカンジナビア人の習俗・習慣・宗教と法律 海上探検と発見 言語と文学の歴史的説明」)。Internet archive」のこちらで原本当該部が視認出来、その下部の注記の箇所に熊楠の言っている内容が書かれてある。

「經律異相」五十巻。梁の宝唱が五一六年に撰した仏書。「経」と「律」とに散説されている諸事項を、十四に分類して抜粋した一種の百科事典。説話文学の宝庫(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。選集では「廿六」ではなく、『三六』とする。国文学研究資料館の影印本(和刻本)を調べたところ、これは選集が正しいことが判った。この画像の「巻第三十六」「雜行長者部下」の冒頭の「迦羅越以飽食※ㇾ鳥令ㇾ出腹中珠」(※は「グリフウィキ」のこれ。「施」の異体字)である。但し、哀しいかな、一貫して原本では「烏」ではなく、「鳥」となってるんですけど? 熊楠先生? でも、まあ、海辺の林に棲みつく雑食性の鳥であれば、高い確率で、ハシボソガラスであろうからいいでしょう!

「奈女耆域因緣經」個人サイト「無料で読める現代語訳仏教」の「マンゴー娘と名医の物語 『佛説㮈女祇域因縁經』」によれば、後漢の僧安世高訳「佛說㮈女祇域因緣經」の後出し版らしい。因みに、同ページによれば、それが前の「經律異相」に所収しているらしい。流石に、ちょっと疲れたので、探す気は、ない。

「耆婆」インドの医師で、釈尊と同時代人。サンスクリット語「ジーヴァカ」の漢音写。美貌の遊女サーラバティーの私生子として生まれ、一説には、誕生後、捨てられ、ある王子が拾って養育したとされる。名医として有名であると同時に、釈尊の教えに従った人物として知られる。彼に関しては、多くの伝説が残され、釈尊の病を治療したこと、また、「釈尊の教えに従えば、彼の治療が受けられる。」と考えた一般人が、治療を受けたいばかりに、仏教に入門するのを心配して、釈尊にその対策を献案したこと等が伝えられている。その原名を漢訳して「活童子」「壽命童子」「能活」などとも呼ばれ、中国の名医扁鵲と並び称される(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)

「勝光王」紀元前六世紀頃又は同五世紀頃の古代インドに栄えたコーサラ国の王プラセーナジット(漢訳:波斯匿王(はしのくおう))の漢訳異名。当該ウィキによれば、『一説には、ヴィドゥーダバ王子は、釈迦族の指導者が召使に生ませた娘を母親として生まれた、と釈迦族の者が馬鹿にするのを聞いて、父・母・釈迦族を憎み、釈迦族を滅ぼす決意をした、とする』とあった。

「八千里」中国では周・漢の時代から、永く、一里の長さは四百メートルであった。それでも三千二百キロメートルである。

「嚴島御本地」国立国会図書館デジタルコレクションの「續群書類從」第七十五の「神祇部七十五」の冒頭に配されてある。以下の「五色の烏が戀の使して六年懸かる路を八十五日で往著く」の下りはここ

「オスワルド尊者」アングロサクソン七王国のノーサンブリア王オズワルド(King Oswald 六〇四年~六四二年)。「聖パウロ女子修道会(女子パウロ会)」公式サイト「Laudate」の 聖人カレンダー」の「8月9日 聖オズワルド(ノーサンブリア)殉教者」によれば、六一六『年に、ノーサンブリアの王であった父が、イーストアングルの王に殺されたため、オズワルドら』三『人の王子はスコットランドに逃亡し、アイオナの修道院で育てられ、そこで洗礼を受けた』。『その後』、二『人の兄弟たちが、イギリスのカドウェル王に殺されたとき、オズワルドは軍隊を率いて王と闘った。そのとき、十字架を作らせ、兵士たちとともにひざまずいて祈り、勝利を得たといわれる』。『オズワルドは、父の王座を取り戻して王位に就いた。その後アイオナの修道士を宣教師としてノーサンブリアに招き、派遣されたアイダン神父にリンディスファーンの島を与えて宣教の援助をした。しかし』、『異教徒マーシア王との戦いに破れ、戦死するが、そのとき「神よ、彼らの魂をあわれみたまえ」と言って亡くなったという』。『オズワルドはイギリスの偉大な英雄として崇められている』とある。英文の彼のウィキに、「Reginald of Durham recounts another miracle, saying that his right arm was taken by a bird (perhaps a raven) to an ash tree, which gave the tree ageless vigour; when the bird dropped the arm onto the ground, a spring emerged from the ground.」という記載があり、彼の死の秘蹟とカラスの関連性が認められる。

「Gubernatis, vol.ii, p. 257」本篇で既出のイタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。Internet archive」の第二巻原本の当該部はここ。]

2021/12/17

曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 西羗北狄牧菜穀考(その4) / 西羗北狄牧菜穀考~了

 

   苜蓿追考

 一日、屋代輪池翁、予が爲に小草一株を採しめて、その寫眞の圖一頁とともに寄せていはく、

「是は、これ、苜蓿なり。江戶中にも、墟地にあり。こは、昌平橋の邊[やぶちゃん注:「ほとり」と訓じておく。]なる堤に生たるものなり。」

と、いへり。予、これを觀るに、その草、「本草綱目」に所云[やぶちゃん注:「いふところの」。]、「苜蓿」に似ず、葉は「芳宜」のごとく、三葉、相巡[やぶちゃん注:「あひめぐ」。]りて、「いちご」の葉にも似たり。花は、さゝやかにて、其色、黃なり。實は、まろくして、やはらかき、剌、あり。おもふに、こは、「本草綱目啓蒙」に載するもの、すなはち、一種の苜蓿にて、眞の苜蓿には、あらず。しかれども、交遊の厚義・忠告、予が考索を、たすけらる。よろこぶベし、よろこぶべし。よりて、再び考るに、「本草啓蒙」【卷二十三。】に云、『苜蓿、オホヒ【「和名抄」。】、カタバミ、ウマコヤシ、マコヤシ、サバシツバ、カラクサ、アンヅル【城州一乘寺村。】、コツトイコヤシ【藝州。】、一名「連理草」【「陝西通志」。】、𦱒蓿【「品字箋」。「𦱒」は「苜」の俗字。】。

[やぶちゃん注:「墟地」ここでの場合は「荒地」というよりも、古くからあって、人の手がそれほど頻繁には入らない地所の謂いと思われる。でないと、昌平橋そばの堤(つつみ)というロケーションと一致しないからである。

「昌平橋」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「芳宜」(はうぎ)は「芳宜草(はうぎさう(ほうぎそう))」で、萩(マメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza )の別称。

「本草綱目啓蒙」本草家として知られる小野蘭山(享保一四(一七二九)年~文化七(一八一〇)年)の講義及びその講義録「本草綱目紀聞」を、彼の高弟らが、文語調に改め、出版したもの。第一版は享和三(一八〇三)年で、以後、数多く増補改訂して出版されている。明の時珍の、本邦での本草書のバイブル「本草綱目」の導入以降、わが国の本草学は急速に発展したが、その方向は次第に博物学へと発展進歩したが、そうした中でも本邦本草学の頂点に立つ著作で、体裁は「本草綱目」の解説書であるが、数多くの和漢古書を引用し、自説を加えるなど、内容は豊富である。とくに個々の薬物名(動・植・鉱物名等)に於いては、日本各地の方言名も記されており、本草書としてばかりでなく、植物学・言語学の領域でも利用価値が甚だ高い。蘭山の本書口述の理由の一つには、貝原益軒の「大和本草」に誤りが多く、それを批判的に正す目的があったとも私は聞いている。私も和書の博物書としては非常に好きなもので、しばしばお世話になっている。国立国会図書館デジタルコレクションで全巻が読め、ダウン・ロードも出来るが、一括一発でそれが出来る「人文学オープンデータ共同利用センター」のこちらを利用されるのがよい。画像が明るく明瞭で極めて読み易く(刊本自体が非常に綺麗な作りで、漢字カタカナ交りの非常に読み易い楷書であって若い方にもお薦めである)、私もそれで全巻を入手して重宝している。但し、ここでは指示が簡単な国立国会図書館デジタルコレクションで示す。「卷二十三」の「菜部」の「菜之二」のここである。馬琴の引用の版と、名称の部分が少し違うので、以下に全部を電子化しておく(「乄」は「シテ」の約物)。

   *

苜蓿

  オホヒ【「和名鈔」。】  カタバミ ムマゴヤシ

  マゴヤシ      サバ      ミツバ

  カラクサ      ヱンザヅル【城州一乘寺村。】

  コツトイゴヤシ【藝州。】

 〔一名〕連理草【「陝西通志」。】 𦱒蓿【「品字箋」。「𦱒」ハ「苜」ノ俗字。】

 原野ニ多シ。秋間、子、生ズ。長ジテ、一根ニ、叢生ス。莖、地ニ布テ[やぶちゃん注:「しきて」。匍匐して。]、蔓ノ如シ。長サ、一、二尺。葉、互生ス。形、隨軍茶ノ葉ニ似テ、小ク、五、六分ノ大サニ乄、邉ニ、細鋸齒アリ、深緑色。三月、葉間ニ、三、五、小花穗ヲナス。黃色、隨軍茶(ハギ)花ニ似テ小シ。後、莢ヲ結ブ。卷曲乄、柔刺アリ。夏月、熟シテ、苗・根、共ニ枯ル。一種、葉間ニ細莖ヲ生ジ、數花、毬ヲナス者アリ。

   *

この「隨軍茶(はぎ)」は、現行では狭義にヤマハギ Lespedeza bicolor var. japonica を指す。「一乘寺村」京都府京都市左京区の北東部に一乗寺地区。現在の、概ね左京区内の「一乗寺」を町名に冠する地区の総称。左京区の北東部に位置し、東は比叡山、南は田中、西は高野、北は修学院と接する。この附近「連理草【「陝西通志」。】」(同書は清の沈清崖の陝西の地誌)とあるが、「中國哲學書電子化計劃」の影印本で見ると、「中京雜記」出典で「連枝草」とあり、誤りである。

 以下、底本では「輪池堂の記に……と、いへり。」までが、全体が一字下げ。]

 原野に多し。秋間、子、生ず。長じて、一根に、叢生す。莖、地に布て、蔓の如し。長さ、一、二尺。葉、互生す。形、隨軍(はぎの)茶葉に似て、小く、五、六分の大さにして、邊に、細き鋸齒、あり、深綠色なり。三月、葉間に、三、五、小花穗を、なす。黃色、隨軍茶の花に似て、小し。後、莢を結ぶ。卷曲して、柔刺、あり。夏月、熟して、苗・根、共に、枯る。一種、葉間に細莖を出して、數花、毬をなすものなり。

 輪池堂の記に、『「金光明最勝王經」、「辨才天女品湯藥十五」、苜蓿、其一也』。と、いへり。

[やぶちゃん注:先に示した「大蔵経テキストデータベース」で示した「金光明最勝王經」のそれは「大辯才天女品第十五」の文中にある。ここでは、中文サイト「福智全球資訊網」の電子化されたものをリンクさせる。二段落目にある。]

 

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[やぶちゃん注:苜蓿の第一図である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。]

 

 愚、按ずるに、「西京雜記」に載する所の漢の苜蓿園、風、その間に在れは、蕭々然たり。よりて「懷風」と名づく。又、光風と名づく、とあるに據るときは、その高さ、三、四尺にして、「芳宜」のごときものならん、と思はる。しかるに、「啓蒙」には、『莖は地に布て、蔓の如し。長、一、二尺。』といへば、無下に小草なり。この土[やぶちゃん注:「ど」。本邦の意。]の苜蓿は、形のごとくの小草なる故に、常に刈とりても、牛馬に飼ふにて、足らず。まいて、荒年の夫食にするに足るものならねば、むかしより、植るもの、なきななるべし。すべて草木・藥品は、和漢のたがひありて、形の小大も、おなじからず。その効能も、互に異にして、且、優劣あり。かゝれば、この土の苜蓿は、西羗の苜蓿と、おなじからず。縱[やぶちゃん注:「たとひ」。]、牛馬に飼ふとも、牛馬を肥す効能の有無、はかりがたし。況や、苜蓿に似たるものをや。只、名によりて、その物を擇むことの疎[やぶちゃん注:「おろそか」。]ならば、亦、何の益あらん。さて、和品の苜蓿は、、かばかりの小草にては、牛馬に飼ふに足るべくも、あらず。しかれども、皇國にても、西國・北國・蝦夷地などには、彼[やぶちゃん注:「かの」。]西羗のものにひとしく、いと大きなる苜蓿あらんか。これも亦、しるべからず。今、江戶にある苜蓿は、その葉こそ相似たれ、花は穗をなさずして、子も亦、圓扁たることなし。卷曲もせず、圓く、小さし。名のおなじきに泥まずして[やぶちゃん注:「なじまずして」。]、採るもの、よろしく辨ずべし[やぶちゃん注:「ず」の濁点は吉川弘文館随筆大成版で補った。]。

 

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[やぶちゃん注:苜蓿の図のその二。引用は同前。右上に「子」(たね)、左上に「花」とある。]

 

[やぶちゃん注:以上、蘭山の言っている黄色い花で、相対的に大きいとするのは、やはり現在のマメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ連ウマゴヤシ属ウマゴヤシ Medicago polymorpha を指していることが、明白である。なお、ウマゴヤシの原産はヨーロッパで(私は「うまごやし」というと、偏愛するルナールの「にんじん」を思い出す。私の二〇〇八年の古いサイト電子化「ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」の「苜蓿」を見られたい)であるが、江戸時代には日本に入ってきている、当時は新しい帰化植物であった(思うに、南蛮貿易の割れ物のクッションにウマゴヤシの葉が使用されたのではないかと私は考えており、本来は意図的に持ち込まれた外来種ではないと思う)。現在でも、しっかり全草を肥料・牧草にするので、「馬肥(うまごやし)」の他、「特牛肥(こっといご)やし」(「こつとい」は古くは「こというじ」とも呼んだ。頭が大きく、強健で、重荷を負うことの出来る牡牛。「ことい」「こってい」「こといのうし」とも呼んだ)の名がある。以上の馬琴の「馬の飼料にはならない」と貶して言っている方は、まさしく、現在も民間通称として生きている噓の「うまごやし」、私の愛するマメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens であると断じてよい。

「夫食」(ふじき)と読む。平時でも農民の食料一般を指したが、特に米以外の雑穀を指すことが多く、地方によっては芋や蒟蒻を主食とし、それを意味する場合もあった。幕府・諸藩は凶作に備えて、救荒備蓄としてそうした穀類や蔬菜の貯留を奨励したり、凶作・飢饉時には救済のため、貸付(夫食貸) も行なったが、現在の政府と同じで、その貸付・返済をめぐっては、農民闘争の原因となることが多かった。

以下、「草案なり。」までは、底本では全体が一字下げ。]

 松前老候の懇によりて、前日、「牧馬菜穀考」一編を綴りて、まゐらせしに、輪池翁の好意によりて、一種の苜蓿を得たりしかば、又、この追考の編をも、まゐらせて、件の草をも見せまゐらせき。こは、その折の草案なり。

 乙酉六月廿五日      瀧 澤 解 識

未見の人、紀藩の源珪甫、その著す所の「禹鑿堂漫錄」五卷を、予に寄せて、その書の校正及び序文を請へり。きのふ、友人文寶亭、その書を屆け來りしかば、燈下に繙閱する程に、「第三卷 本草」と題せし條に、苜蓿の事、有。その辨論、愚意と暗合したるをもて、こゝに錄して、遺忘に備ふ。

『「禹鑿堂漫錄」に云、『「前漢書」、『樓護通本草。』』。古の本草は簡約なるべし。今は衆口雜駁、日を逐て、臆說を累に[やぶちゃん注:「かさぬるに」。]、派別・支流して、其眞を失へり。夫、物は一種にして、名に方言の違ひあり。蒹葭・蘆荻・藋葦・菼薍・薕虇は、みな、一種にして異ならず。難波の蘆は伊勢の濱荻の如し。强て辨別せば、却[やぶちゃん注:「かへつて」。]、魯魚の惑をなさん。今、所謂、苜蓿は三葉の水草、暮春、黃花を開く。近年、京師の某、苜蓿九名を著す。カタバミ・馬肥シ・サバヱンドウ・マコヤシ・コツトヰコヤシ・ヱンツル・カラクサ。ケンケ、如ㇾ此。「蓬窓續錄」に【馮可時。】」云、『古稱蓼杖、卽苜蓿也。』。一書曰、「苜蓿、根粉を剪て塗る時は、辷り、能して不ㇾ用人手而行。」とあり。此は葛粉の如き者なり。「西京雜記」曰、『苜蓿一名懷風。又或謂之光風。風在其間、常に蕭々然たり。日照其花光采。故名苜蓿愼風。茂陵人謂之連枝草。』。按ずるに、苜蓿は山葛の類、藿葉也。馬に飼べし。水草にあらざること可ㇾ知。又、菰といふもの、今以ㇾ蒲當ㇾ之誤也。「周禮」に、『六穀の菰』、註に『彫胡』とあり。美濃國、土俗、所謂、「花がつみ」、卽、「彫胡」なるべし。水面に浮て、白花を開く。實は蕎麥に似て、味、甘美也。粉にして食ㇾ之。杜詩に『波漂菰米沈魚黑』。由ㇾ是、觀ㇾ之、浮萍之類なる事、明し[やぶちゃん注:「あきらけし」。]矣。

[やぶちゃん注:「松前老候」ここでやっと明示された。正編でもしばしば登場した先代の第八代松前藩藩主松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)である。彼は文化四(一八〇七)年五十四の時、藩主在任中の海防への取り組みの不全や、吉原の遊女を妾にするなどの素行の悪さ(遊興費が嵩み、商人からの借金が嵩み、藩の財政も窮乏していた)を咎められ、幕府から謹慎(永蟄居)を命ぜられていた(後の文政五(一八二一)年には謹慎は解かれた)。馬琴の長男琴嶺舎滝沢興継は松前藩の医員であったため、馬琴が最も親しい大名であったのである。]

「牧馬菜穀考」馬琴が個人的に献じたものらしい。活字では残っていない模様である。

「乙酉」文政八(一八二五)年。

『紀藩の源珪甫、その著す所の「禹鑿堂漫錄」』高牧實氏の論文「滝沢馬琴 書籍の蒐集・抄録・借覧 ㈣完」PDF)の「追補」(PDF54コマ目・ページでは58ページ)に、

   《引用開始》

 「禹鑿堂漫録」 天保十三年九月二十六日篠斎宛書翰(『馬琴書翰集成』第六巻 六一・六二頁)に、全五巻を、下谷御徒歩衆で走書の名人に筆料金一両一分で写させたことがみえる。紀州の学士某弥学の随筆、友人文宝亭の紹介で序文と校訂を頼まれたが、潤筆料の件で破談して原本返送を催促されたので、急いで写させて返本した、といゝ、篠斎に売り渡すべく見本一巻を送本した。近来の随筆の第一の好書、年来の愛書、是迄、誰にも見せていない、と申し送っている。写させた時期については詳らかでない。

   《引用終了》

とあるのが本書である。渡辺竜門及び源珪甫の名で、こちらの書誌に「龍門漫録」全五巻・附録一巻とし、「タイトル別名」に「禹鑿堂漫録」「龍門廢語」「龍門廢話」とある。他に調べて見ると、源珪甫の名で「類聚伊勢誌」という地誌らしきものも書いているようである。但し、同書はネット上では閲覧出来ない模様である。にしても、高牧氏の以上の記載には、あきれるほど、憮然とするではないか! 馬琴は自分が考証して口述したものを、一説として、勝手に自分の作品に書き記した中神梅龍園を恨んでいる(『曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 江戶地名考小識』を見よ)くせに、ここでは――仕事料が安過ぎて破約となり、返本を要求されたため、急いでその写本を作らせ、それを別な人物に売り渡そうとした――というトンデモない詐欺行為を働こうとしてるじゃないか! クソ馬糞、基! 馬琴がッツ!

「萬堅堂漫錄」不詳。

「樓護通本草」「漢書」の「傳」の中にある「游俠傳」の一節に、

   *

樓護、字君卿、齊人。父世醫也。護少隨父爲醫長安、出入貴戚家。護誦醫經・本草・方術、數十萬言、長者咸愛重之。共謂曰、「以君卿之材、何不宦學乎。」。繇是辭其父、學經傳、爲京兆吏數年、甚得名譽。

(樓護、字(あざな)は君卿、齊(せい)の人。父は世醫なり。護、少(わか)くして、父に隨ひ、醫を長安にて爲(な)し、貴戚の家に出入せり。護、醫經・本草・方術を誦(そらん)ずること、數十萬言、長者は咸(みな)、之れを愛し重じたり。共に謂ひて曰はく、「君卿の材を以つて、何ぞ宦學(くわんがく)せざらんか。」[やぶちゃん注:「仕官の道を選ばぬのか?」]と。是れに繇(したが)ひて、其の父に辭して、經傳(けいでん)[やぶちゃん注:儒教の経書とその注釈書。]を學び、京兆の吏と爲(な)りて、數年、甚だ名譽を得。)

   *

とある。実は「本草」という言葉が漢籍に出現するのは、現存書では「漢書」が最初なのである。ここはただその濫觴を言ったに過ぎない。

「蒹葭・蘆荻・藋葦・菼薍・薕虇」恐らく総てヨシ(イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis )の類を指すものと考える。

「魯魚の惑」「魯魚(烏焉(うえん)・亥豕(がいし))の誤り」のこと。「魯」と「魚」、「烏」と「焉」、「亥」と「豕」とは、孰れも字形が似通っていて誤りやすいところから、 文字の誤り。但し、ここでは、文字の違いで、異物と判断する誤謬を言っている。

「水草」これは湿地或いは潤いのある地面を好む草の謂いであろう。

「サバヱンドウ」意味不明。

「ヱンツル」同前。

「カラクサ」「唐草」。中国渡来由来。

「ケンケ」紫雲英(げんげ)。マメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ属ゲンゲ Astragalus sinicus 。マメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens とは別種であるが、葉がちょっと似て見える。シロツメクサとゲンゲを同じものと思っている人は、案外、多い。

「蓬窓續錄」「【馮可時。】」明の政治家馮時可の誤り。一六六一年成立の随筆。

『「西京雜記」曰……』(その3)で当該部も含めて既注済み。

「山葛」マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ変種クズ Pueraria montana var. lobata ? ぜんぜん、ちゃいまんねん! なお、「山葛羅」で、ヒカゲノカズラ植物門ヒカゲノカズラ綱ヒカゲノカズラ目ヒカゲノカズラ科ヒカゲノカズラ属ヒカゲノカズラLycopodium clavatum の異名もあるけんど、あれは、ごっつう大きいスギゴケにしか見えへんから、それもちゃうわ!

「藿葉」不詳。「藿」(音「カク」)は「豆」の意だから、豆のような葉の意か。「藿香」で「かはみどり」と読めば、薄荷の匂いのするシソ目シソ科カワミドリ属カワミドリAgastache rugosa があるが、ウマゴヤシとは似ても似つかぬもので、違う。単なる感じだが、馬はカワミドリは食わんと思うね。

「菰」前に出したマコモのこと。

「花がつみ」は美濃に限定せず、全国的にマコモの異名として知られる。清音「はなかつみ」とも呼び、漢字は「花勝見」「花勝美」などを当てる。但し、もとは万葉以来の古語(序詞の末に置いて、「かつ」を引き出すために用いられることが多い)で、マコモに限定は出来ず、広義に水辺に生える花や穂を出す草花の総称と思われ、「まこも」以外の「花あやめ」「よし」「かたばみ」などの諸説がある。さらに、この記者は最後に「浮萍之類なる事、明し」なんて言っているところは、不審で、これはじぇんじぇん違う、菱(フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica )を想定しているようにしか思えない。

「杜詩に『波漂菰米沈魚黑』」「魚」は「雲」の誤り。「波は菰米(こべい)を漂はして 沈雲 黑く」。所持する一九六六年岩波文庫刊「杜詩」(鈴木虎雄・黒川洋一訳注・全八冊。本篇は第六冊所収)で確認した。七六六年杜甫五十五歳の時の作。「秋興 八首」の「七」の七言律詩の第五句。訳では、『そうして黒くみのった菰米は波にただよわされてその影が沈める雲の黒きが如くみえ、』とある。語注には『菰米 彫蔀米というものである、まこもに似ている植物にみのる一種の米である。』とあるが、中文ウィキの「菰」を見ると、食用部の異名の一つに「彫胡米」が記されてあるので、やはりマコモでよい。全詩は、紀頌之氏の「杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会」のこちらを見られたい。

 以下、底本では全体が一字下げ。]

 解云、皇國の苜蓿を水草とする事、これも亦、非なり。

ブースカの夢

ブースカが好きだった亡くなった女友だちの夢を見た――最後にブースカと彼女が一緒に野原に佇んでいた――涙が――出た…………

2021/12/16

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 俳句 / 「萩原朔太郎詩集 遺珠」(小學館刊)~了

 

    俳  句

 

[やぶちゃん注:パート標題。]

 

 

     (我が齢すでに知命を過ぎぬ)

 枯菊や日々にさめゆく憤り

 

 

     (若き日の希望(のぞみ)すべて皆空しくなりぬ)

 秋さびし皿みな割れて納屋の隅

 

 

     (鳴呼すでに衰へ、わが心また新しく泣かむとす)

 冬日くれぬ思ひ起せや岩に牡蠣

 

 

     (故鄕に歸れる日、利根の河原をひとり步きて)

 磊落と河原を行けば草雲雀

 

 

     (わが幻想の都市は空にあり)

 虹立つや人馬賑ふ空の上

 

 

     (隱遁の情止みがたく、芭蕉を思ふこと切なり)

 籔蔭や蔦もからまぬ唐辛子

 

 

     (晩秋の日、湘南の或る侘しき海水浴場にて)

 コスモスや海少し見ゆる邸道

 

[やぶちゃん注:「知命」数え五十歳のこと。萩原朔太郎(明治一九(一八八六)十一月一日生まれ)は昭和一七(一九四二)年五月十一日、満五十五(数え五十七)歳で感冒をこじらせて肺炎で亡くなった。以上は、現在、筑摩版全集の「短歌・俳句・美文」の「俳句」パートで見られる。編者による仮標題は「『遺稿』より」で、当該全集の下段の原稿版では、「牡蠣」に「かき」とルビがあり、最終句の前書については、

   *

   晩秋の日、相南の或る侘しき海水浴塲にて

   *

の表記となっている。また、同全集では先行する類句(初期形と言ってよい)への参考指示が「枯菊や」・「秋さびし」・「冬日くれぬ」・「虹立つや」の句に附されてあり、また、最後に編者注があって、この『遺稿の七句は、一括して雜誌發表の意圖があったらしく、自筆で割付指定がしてあった。』とあるから、まさに本書「遺珠」の掉尾に配するに相応しいものであったと言えるのである。なお、私は非常に古く、十七年前の二〇〇七年十月にオリジナルな「やぶちゃん版萩原朔太郎全句集」横書版と、同縦書版を公開してある。但し、作成がユニコード以前であるため、正字表記は不全である(ずっと直したいとは思っているのだが、朔太郎の俳句は御世辞にも上手くないので、今一つ、食指が動かないのが本音である。但し、以上の内、「枯菊や」と「秋さびし」及び「冬日くれぬ」の三句は朔太郎の代表句として評価できる出来栄えであると感じてはいる)のは、お許しあれかし。

 さて。以下、「詩作品發表年譜」及び『「遺珠」小解』と本シリーズの「萩原朔太郞詩集(小學館刊)收錄内容」と奥附が続くが、『「遺珠」小解』は重要なので、既に本電子化注の冒頭に特異的に電子化済みであり、その他は敢えて電子化する価値を認めないので、以上のリンクに留めた。

 最後に、投稿の都度、いつも、ツイッターで「いいね」をして下さった「みかげ」さんに心から謝意を表する。――ありがとう! みかげさん!――]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 ADVENTURE OF THE MYSTERY

 

    ADVENTURE OF THE MYSTERY

 

 巧みな演奏者によつて奏された美しい音樂をきくとき、その旋律の高潮に達したとき、私共のしばしば味ふことのできるあの一種の快よい感覺と、その瞬間の誘惑にみちた世界の敍景に就いて。

 凡そ音樂の展開する世界の眺望はたぐひなきものである。それは現實の世界では到底想像することもできない、一種の異樣な香氣とかがやきに充ちた世界である。

 そこではあるひとつの不思議な情緖が、魔術のやうな魅惑を以て、私共の精神の全面を支配するやうに思はれる。

 そのむず痒いやうな感覺。何ともいへない樂しい世界へ、今少しのことで手が屆きさうに思はれるときの快よい焦燥と、そのぞくぞくするやうな心臟のよろこび、そのほつとする心もち、甘つたるい悲しさ、しぜんと淚ぐむやうになる情緖の昂進。

 凡そ音樂の見せてくれる世界ほど、不可思議な誘惑と魅力に富んだものはない。かうした世界のよろこびを傳へるためには「搔きむしられる樂しさ」といふ言葉より外の言葉はないのである。何となればそれは人間の常住する世界ではない。そこには何かしら、人間以外のある限りなく美しい者が住んでゐる祕密の世界である。この世界の實景實情を語るためには、人閒の言葉はあまりに粗野であまりに感情に缺けすぎてゐる。

 音樂をきくとき、私は時々考へる。

 一體そこには何物が居るのか。何物がどんな魔術を使つて、かうまでに私共の心を誘惑するのか。

 實際それは恐ろしい誘惑である。

 昔は多くの夢みる詩人が居た。

 ある時、彼等の中でも最も勇敢な騎士たちが、この祕密の世界へ向つて探險旅行を試みた。

 彼等は美しい月夜に船の帆を張りあげて進んだ。この不可思議な「見えない島」と「見えない魔術師」の正體を發見するために。彼等の船は長いあひだ月光の下をただよつた。そしてしまいにたうとうあるひとつの怪しげな島を發見した。その島の上には、一人の言ひやうもない美しい魔女が立つてゐるやうに思はれた。しかも花のやうな裸體のままで、琴を手にかかへて。

 夢みる勇敢な騎士たちが、よろこび叫んで突進した。彼等は皆若くそして健康で美しかつた。彼等の生活は酒と戀と音樂であつた。就中その切に求めて居るものは戀と冒險であつた。

 まもなく、島が彼等のすぐ眼の前に現れた、そして不思議な音樂のメロヂイが、手にとるやうにはつきりと聞えはじめた。

 騎士たちの心は希望と幸福に充ちあふれた。長い長い年月のあひだ、彼等の求めてゐたその夢の中の不思議な世界、その空想で描いた妖魔の女性。かつてそれらのものは、手にも取られぬ幻影の幸福であつた。

 然るに今は、夢でもなく空想でもない。事實は彼等のすぐ眼の前に裸體で突つ立つて居る。しかもいま一分閒の後には、凡てそれらの謎の祕密と幸福の實體とは、疑ひもなく彼等自身の手の中に握ることができるのである。永久に、しかも確實な事實として。僅か一分間の後に。

 「ああ、何といふ仕合せのよいことだ。」

 さう言つて彼等は樂しさに身を悶えた。實際それは彼等にとつては、信ずることもできないほどの幸福であつたにちがひない。

 けれども、ここにひとつの不思議な事實があつた。しかも悅びで有頂天になつてゐる騎士たちは、だれ一人としてその事實に氣のついた者はなかつた。

 島が目的物が、彼等のすぐ近くに見えはじめてから、少なくとも彼等は數時間以上も船を漕いで居た。しかも彼等が最初に島を發見したのは、ものの半時間とはかからない近距離に於てであつた。

 實際、島は最初から彼等の頭のまん上に見えて居た。そして船は矢のやうな速さで突き進んだ。

 「もう一息、もう一分間。」さつきから彼等は、何度心の中でそう繰返したか分らない。

 あまつさへ、船は次第に速力を增してきた。始は數學的の加速度で、併しいつのまにか魔術めいた運動律となつて、遂には眩惑するやうな勢でまつしぐらに島の方へ飛び込んだ。それは丁度大きな磁石が鐵の碎片を吸ひつける作用のやうに思はれた。

 この思ひがけない幸運に氣のついたとき、船の人々は思つた。疑ひもなくそれは、島が自分たちを牽きつけるのである。一秒間の後に、我我はそこの岸に打ちあげられてゐるに違ひないと。人々の心臟は熱し、その眼は希望にくらめいた。

 一秒間は過ぎた。けれども、そこには何事も起らなかつた。

 舟は相變らずの速力で疾風のやうに走りつづけて居た。そして夢みるやうな月光の海に、眞黑の島は音もなく眠つて居た。ただ高潮に達した音樂のメロヂイばかりが、あたりの靜寂を破つて手にとるやうに聞えた。

 「まてよ。」

 しばらくして乘組員の一人が、心の中で思ひ惑つた。

 實際、彼等はさつきから數時間漕いだ。そして今、船は狂氣のやうに疾走して居る。それにもかかはらず、彼等は最初の位置から、一尺でも島に近づいては居なかつたのである。島と船との間には、いつも氣味の惡い、同じ距離の間隔が保たれて居た。

 「まてよ。」

 殆んど同時に、他の二、三人の男がつぶやいた。

 「どうしたといふのだ、おれたちは。」

 彼等はぼんやりして顏を見合せた。そして手から櫓をはなした。

 「氣をつけろ。」

 その時、だしぬけに仲間の一人が叫んだ。その聲は不安と恐怖にみちて、鋭どく甲ばしつて居た。

 「みんな氣をつけろ。おれたちは何か恐ろしい間違へをしてゐるのかも知れない。さもなければ……。」

 その言葉の終らない中に、人々は不意に足の裏から、大きな棒で突きあげられるやうな氣持がした。

 ちよつとの間、どこかで烈しく布を引きさくやうな音が聞えた。

 そして、一人殘らず、まつくらな海の底へたたき込まれた。

 かうして、不幸な騎士たちの計畫は、見事に破壞されてしまつた。彼等の美しいロマンチツクの船と一所に。とこしなへに歸らぬ海の底に。

 ほんとに彼等は氣の毒な人たちであつた。

 何故かといふに、彼等が今少しの間この恐ろしい事實、卽ち彼等の船が「うづまき」の中に卷き込まれて居たことに氣が付かずに居たならば、彼等はその幸福を夢みて居る狀態に於て、やすらかに眠ることができたかも知れなかつたのである。

 私が音樂を聽くとき、わけてもその高潮に達した一刹那の悅びを味ふとき、いつも思ひ出すのはこのあはれに悲しげな昔の騎士の夢物語である。

 手にとられぬ「神祕の島へ」の、悲しくやるせない冒險の夢物語である。

 

[やぶちゃん注:標題「ADVENTURE OF THE MYSTERY」は詩篇の内容から、私は「神秘の冒険」或いは「秘蹟の冒険」とでも訳したい。「秘法」「奥義」でも構わないだろう。「しまいに」はママ。「まん上」は「まんまへ」「まんなか」と同じく「まんうへ」と読むしかないか。「併し」は「しかし」と読む。本書「詩作品發表年譜」及び筑摩版全集の「拾遺詩篇」にある通り、本篇は大正六(一九一五)年七月号『感情』に発表された詩篇である。その初出とは表記上の違いが幾つかあるが、初出自体に歴史的仮名遣の誤りが複数あり、漢字表記の異体字も多い。比較したところでは、句読点の一部脱落や、「々」を用いないなどの相違もあるが、私には躓くところも特にない(「まん上」の読み以外は、である)。ただ、本書の本篇には四箇所の看過出来ない誤りがある

・初出にはある標題の添え辞『(散文詩)』がない。

・「實際、島は最初から彼等の頭のまん上に見えて居た。そして船は矢のやうな速さで突き進んだ。」の「まん上」に初出では傍点「ヽ」が打たれている。

・「舟は相變らずの速力で疾風のやうに走りつづけて居た。そして夢みるやうな月光の海に、眞黑の島は音もなく眠つて居た。ただ高潮に達した音樂のメロヂイばかりが、あたりの靜寂を破つて手にとるやうに聞えた。」の末尾で、これは初出では、「手にとるやうに聞えて居た。」となっている。

・コーダ部分の「そして、一人殘らず、まつくらな海の底へたたき込まれた。」と「かうして、不幸な騎士たちの計畫は、見事に破壞されてしまつた。彼等の美しいロマンチツクの船と一所に。とこしなへに歸らぬ海の底に。」の間に初出にはある行空けがない。ここは丁度、見開きの改ページに当たっている。しかし、行数を数えると、最終ページには余裕があり、一行空けをすることは出来たことが判る。ミスの可能性が高い。この行空けはコーダの肝になるもので、かなり痛い誤りである。

しかし、この前の三箇所は、全体や部分の詩想に影響を与えるような誤りではないからして、長詩であることもあり、かく指摘するに留め、初出形は示さない。

 最後に一言言うならば、この萩原朔太郎の音楽的幻覚の背後には、ギリシャ神話のセイレーン(半身が女性で、半身が鳥(後に魚とされた)の三人の姉妹。鳥の翼を持ち、美しい歌声で船乗りたちを魅了するが、その歌声を聞いた者は、彼女たちに食い殺されるか、海の藻屑となるとされた)や、ファタ・モルガナ(Fata Morgana。イタリアのシャルルマーニュの伝説の妖精・女神。フランス語はモルガン・ル・フェイ(Morgan Le Fay)。英語「ファタ」「ル・フェイ」は英語の「フェアリー」の意。シチリア島とイタリア本土(カラブリア州)の間にあるメッシーナ海峡(Stretto di Messina)に出現する蜃気楼を彼女が魔法で出現させたものとする、幻想の島の名でもある(一説には、真に絶望した人間にのみ見ることが出来るともされているようである。少なくとも偏愛する漫画家星野之宣の名作シリーズ「妖女伝説」中の「蜃気楼――ファタ・モルガーナ――」ではそうした設定になっていた)があるように思われる。無論、私の愛する梶井基次郎の「器樂的幻覺」(昭和三(一九二八)年五月・『近代風景』発表)も強い親和性を持つ名品である。常々、私は梶井基次郎の多くの作品は、一種の散文詩だと思っている人種である。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 鼠と病人の巢

 

   鼠と病人の巢  密 房 通 信

 

しだいに春がなやましくなり、病人の息づかひが苦しくなり、そうしてこの密房の天井はいちめんに鼠の巢となつてしまつた。

 

鼠、巢をかけ、鼠、巢をかけ。

うすぐらい天井の裏には、あの灰色の家鼠がいつぱいになつて巢をかけてしまつた。

巢がかかる、巢がかかる、ああ、天井板をはがして見れば、どこもかしこも鼠の巢にてべたいちめんである。

 

みよ、ひねもす、この重たい密房の扉から、私の靑白い病氣の肉體が、影のやうに出入し、幽靈のやうに消滅する。

 

祈りをあげ、祈りをあげ、さくらはな咲けども終日いのりて出でず。

ときに私の心靈のうへを、血まみれになつた生物の尻尾が、かすめて行く。それだけをみとめる。しんに奇蹟とは一刹那の光である。

 

いよいよ微かになり、いよいよ細くなり、いよいよ鋭くなり、いよいよ哀しみふかくなりゆくものを、いまこそ私はしんじつ接吻する。指にふれ得ずして、指さきの纎毛に觸れうるものの感覺に、私の心靈は光をとぎ、私のせんちめんたるは錐のごとくなる。

ああ、しかし、いまは一本のかみの毛にさへ、全身の重量をささえうることの出來るまでに、あはれな病人の身體は憔悴してしまつた。

 

私はいまそれを知らない。

何故にこの部屋の天井が、いちめんにねずみの巢となつたかを知らない。

ただ、私は私の左の手の食指から、絹絲のやうなものが、いつもたれさがつて居るのをいつしんふらんにみつめて居る。

いちにち、瓦斯すとほぶの火は靑ざめて燃えあがり、密房の壁には、しだいしだいに怖ろしいものの形容を加へてくる。

今こそ、私は祈らねばならぬ。

齒をくひしめ、くちびるを紫にしていのらねばならぬ。

ああ、ねずみ巢をかけ。密房の家根裏はまつくらになつてしまつた。

私の病氣はますます靑くなり。おとろへ。

海のあなたを夢みるやうに、うらうら櫻の花が咲きそめ。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。歴史的仮名遣の誤りはママ。本書「詩作品發表年譜」及び筑摩版全集の「拾遺詩篇」にある通り、本篇は大正四(一九一五)年五月発行の『卓上噴水』に発表された詩篇であるが、初出とは五点の表記上の問題がある。

・第二連冒頭の一行目「巢をかけ、」は読点ではなく、句点であること。

・第二連冒頭の三行目にある「べた」にある傍点「ヽ」がないこと。

・底本では「私はいまそれを知らない。」で始まる第六連が、「219」ページへの改ページになっているが、右の版組み上の空きは、物理的に一行分を空けていないと思われること(これは次の空行脱落と考え合わせると、ページ数を節約するために、小学館編者が不当にも詰めた可能性が濃厚である。但し、ここの箇所は改ページであり、それで読者の多くはブレイクが起こって一行空けと同じ効果は示したとは思うが。こうした不当な仕儀は嘗ての多くの出版物でしばしば行われた、哀しく、さもしい仕儀である(或いは現在でも))。

・独立している最終連(「ああ、ねずみ巢をかけ。密房の家根裏はまつくらになつてしまつた。」以下の三行)が連とならず、第六連に続いてしまっていること。

・末尾にあるべき「―四月三日―」のクレジットがないこと。まあ、これは編集上の確信犯ではあろうが。

である。一見、大した違い(詩想上での)ではないと思われるかも知れぬが、これはやはり正当な正規詩篇とは、到底、言えない。煩を厭わず、以下に示す。太字は底本では傍点「ヽ」。表記字や歴史的仮名遣の誤りは総てママ。

   *

 

 鼠と病人の巢

      密房通信

 

しだいに春がなやましくなり、病人の息づかひが苦しくなり、そうしてこの密房の天井はいちめんに鼠の巢となつてしまつた。

 

鼠、巢をかけ。鼠、巢をかけ。

うすぐらい天井の裏には、あの灰色の家鼠がいつぱいになつて巢をかけてしまつた。

巢がかかる、巢がかかる、ああ、天井板をはがして見れば、どこもかしこも鼠の巢にてべたいちめんである。

 

みよ、ひねもす、この重たい密房の扉から、私の靑白い病氣の肉體が、影のやうに出入し、幽靈のやうに消滅する。

 

祈りをあげ、祈りをあげ、さくらはな咲けども終日いのりて出でず。

ときに私の心靈のうへを、血まみれになつた生物の尻尾が、かすめて行く。それだけをみとめる。しんに奇蹟とは一刹那の光である。

 

いよいよ微かになり、いよいよ細くなり、いよいよ鋭くなり、いよいよ哀しみふかくなりゆくものを、いまこそ私はしんじつ接吻する。指にふれ得ずして、指さきの纎毛に觸れうるものの感覺に、私の心靈は光をとぎ、私のせんちめんたるは錐のごとくなる。

ああ、しかし、いまは一本のかみの毛にさへ、全身の重量をささえうることの出來るまでに、あはれな病人の身體は憔悴してしまつた。

 

私はいまそれを知らない。

何故にこの部屋の天井が、いちめんにねずみの巢となつたかを知らない。

ただ、私は私の左の手の食指から、絹絲のやうなものが、いつもたれさがつて居るのをいつしんふらんにみつめて居る。

いちにち、瓦斯すとほぶの火は靑ざめて燃えあがり、密房の壁には、しだいしだいに怖ろしいものの形容を加へてくる。

今こそ、私は祈らねばならぬ。

齒をくひしめ、くちびるを紫にしていのらねばならぬ。

 

ああ、ねずみ巢をかけ。密房の家根裏はまつくらになつてしまつた。

私の病氣はますます靑くなり。おとろへ。

海のあなたを夢みるやうに、うらうら櫻の花が咲きそめ。

              ―四月三日―

 

   *

なお、筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』には、本篇の草稿(無題)が載るので、以下に示しておく。表記・誤字・脱字その他は同前である。

   *

 

  ○

 

むらさきふかくなりゆ

だんしだいに春がなやましくなり、病人の呼吸づかくがくるしくなり、そうして私のこの密房の天井はいちめんに鼠の巣となつてしまつた、

ああなんといふ重くるしい密房の扉だ、 朝の一時に 朝はやくそこから私が這入り、夜おそくそこから病人の私が出る、そうして

一つの長い祈禱が始まるあひだ、

ああひねもす、このおぐらき一室密房の扉より私の青い肉體は影のやうに出入し、幽靈のやうに消滅する、

 

祈るとき私の心靈の上を、血まみれになつた生物の尻尾がかすめて行く、それだけであるを認める。しんに奇蹟とは一切刹の光である。

 

いよいよ徴かになり、いよいよ細くなり、いよいよ細くなり、いよいよ哀しみふかくなりゆくものを、いまこそ私はしんじつ接吻する、指にふれえずして指先の纖毛にふれうるもの感覺に、私の心靈は光りをとぎ、私のせんちめんたるは錐のごとくなる、

ああ思ふしかし私自身いまは一本の髮の毛でさへ、身體のその人の全重心をささえることができるまでに哀れな病人の五體は憔悴してしまつた、

 

私はいまそれを知らない

何故にこの部屋の天井がいちめんの鼠の巢となつたかを知らない

ただ私は私の指先左の手の食指から、絹糸のやうなものがいつもたれさがつて居るのを一心不亂に凝めて見る、

瓦斯ストーブの火は尙靑ざめつつもえて居るあがり密房の壁にはしだいしだいに怖ろしいものゝ形容を加へてくる、

私は祈らねばならぬ

齒をくひしめ、くちびるをむらさきにして祈らねばならぬ、

今こそ……私のものある

しんに「力」は私自身のものである、

 

  *

決定稿で比喩を頭敍式に変えた結果、本篇にホラー的イメージは格段に上がっている。但し、その好き嫌いは恐らく極めて個人的な趣味の問題と拘わり、一定量の相似対象を与えられると、そこで厭になる人間も多いであろう。幸いにして私はそうではなかったが。この年になって(六十四歳)こうした詩篇推敲の比較をすると、ふと、そんなことを考えたのであった。詩には読者の側の賞味期限があるということである。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 懺悔者の姿

 

 懺悔者の姿

 

懺悔するものの姿は冬に於て最も鮮明である。

暗黑の世界に於ても、彼の姿のみはくつきりと浮彫のごとく宇宙に光つて見える。

見よ、合掌せる懺悔者の背後には美麗なる極光がある。

地平を超えて永遠の闇夜が眠つて居る。

恐るべき氷山の流出がある。

見よ、祈る、懺悔者の姿。

むざんや口角より血をしたたらし、合掌し、瞑目し、むざんや天上に縊れたるものの、光る松が枝に靈魂はかけられ、霜夜の空に、凍れる、凍れる。

見よ、祈る罪人の姿をば。

想へ、流失する時劫と、闇黑と、物言はざる刹那との宇宙にありて、只一人吊されたる單位の恐怖をば、光の心靈の屍體をば。

ああ、懺悔の淚、我にありて血のごとし、肢體をしぼる血のごとし。

 

   編註 『蝶を夢む』の「極光」は、本篇のこの部分をとり獨立せしめたものである。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。本書「詩作品發表年譜」及び筑摩版全集の「拾遺詩篇」にある通り、大正四(一九一五)年二月号に『詩歌』に発表された詩篇であるが、初出とは四点の表記上の問題がある。全体は二〇一三年に電子化した私の「懺悔者の姿 萩原朔太郎 (正規表現版・「極光」原形)」を参照されたいが、異同を指摘しておくと、

・五行目「氷山の流出」は「氷山の流失」が、

・六行目「懺悔者の姿」は「懺悔の姿」が、

・八行目「見よ」は「みよ」が、

・九行目「宇宙」は「宙宇」が、

それぞれ正しい。これは小学館編者の注意力の散漫としか言いようがない。残念である。]

2021/12/15

曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 西羗北狄牧菜穀考(その3)

 

苜蓿【「別錄」。上品。】、一名は木粟【「綱目」。】、一名は光風草。

 「本草綱目」李時珍が曰、苜蓿を郭璞は「牧宿」に作る。其宿根より、おのづから生じて、牛馬に飼牧すべきゆゑなり。又、羅願が「爾雅翼」に「木粟」に作る。其米、炊ぎて飯となすべきの故なり。葛洪が「西京雜記」に云、『樂遊苑に、苜蓿、多し。風、その間に在れば、常に蕭々然たり。日、その花を照らせば、光采あり。故に「懷風」と名づく。又、「光風」と名づく。茂陵の人、これを「連枝草」といふ。「金光明經」に、これを「塞鼻力迦(さいびりききや)」といふ。

[やぶちゃん注:既に注した通り、「苜蓿」(もくしゆ(もくしゅ)/むまごやし)は、現在はマメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ連ウマゴヤシ属ウマゴヤシ Medicago polymorpha を指す。但し、民間ではマメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens の俗称としても知られる。個人的には、両種を射程に入れて読んだ方がよいと思う。この前後は「本草綱目」の巻二十七の「菜之二」に拠っている。「漢籍リポジトリ」の同巻の、[069-9a]・[069-9b] ・[069-10a]の影印本と電子化と対照されて読まれるのがよい。

「郭璞」(くわくはく(かくはく) 二七六年~三二四年)は西晉末から東晉にかけての学者(道家研究家)・詩人。卜筮術に長じた。元帝に仕え、のち、王敦(おうとん)の部下となったが、その謀反を占って、「凶」と断じたため、殺された。「爾雅」「楚辞」「山海経」などの注でよく知られる。

「羅願」(一一三六年~一一八四年)は南宋の地方官で終わったが、優れた学者であった。

「爾雅翼」中国古代の字書「爾雅」(現在伝わっているものは全十九篇。著者・著作年代ともに未詳。伝承では周公旦或いは孔子又は孔子の弟子の作とされるが、権威づけの範囲を出ない)の一部を成す草 ・木 ・鳥 ・獣 ・虫 ・魚の篇目を選んで釈義を加えたもので、博物学的な観点から分類・解説されたものとして、優れている。全三十二巻 。一一七四年の序がある。

「葛洪」(かつこう 二八三年~三四三年)は晋の道士で道教研究家。詳しくは私の「都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之五 千載の斑狐一條太閤を試むる事」の「抱朴子」の注を参照。彼の「抱朴子」は神仙の書として有名だが、そもそもが抱朴子は彼の号である。

「西京雜記」(せいけいざつき)は、前漢の出来事に関する逸話を集めた書物。当該ウィキによれば、『著者は葛洪ともされるが、明らかでない。その内容の多くは史実とは考えにくく、小説と呼んだほうが近い』。『「西京」とは前漢の首都であった長安』(現在の西安)『のこと』。伝本によって異なるが、百三十『条前後からなり、前漢の逸話のほか、宮廷の文物や年中行事を詳しく記す』とある。「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここの二行目に出る。

「樂遊苑」長安城内の東南部一帯の古くから知られた広大な人気の景勝地。

「茂陵」現在の陝西省咸陽市興平市茂陵。本来は前漢の武帝の墓を指す。長安の北西、渭水を隔てた丘陵上にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「金光明經」(こんこうみょうきょう:現代仮名遣)はサンスクリット語「スヴァルナ・プラバーサ・スートラ」と言い、四世紀頃に成立したと見られる大乗経典の一つ。原題は「スヴァルナ」が「黄金」、「プラバーサ」が「輝き」、「スートラ」が「経」で、「黄金に輝く教え」の意である。但し、時珍は確かに「塞鼻力迦」と記しているが、「大蔵経テキストデータベース」で調べると、「金光明最勝王經」のここには『苜蓿【塞畢力迦】』とある。これだと、読みは「さいひつりきか」であろう。]

 陶弘景が曰、『長安の中、乃ち、苜蓿園あり。北人、甚、重ㇾ之。江南にては、甚、これを、食はず。味ひ、なきをもつての故なり。外國に、又、苜蓿といふ草あり。これをもて、目を療治す。この類ひには、あらず。異草也。』。

[やぶちゃん注:「陶弘景」(四五六年~五三六年)は「本草綱目」に頻繁に引用される六朝時代の医師にして博物学者。道教茅山派の開祖でもあった。『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 老狸の書畫譚餘』の私の注の同人を参照。]

 寇宗奭が曰、『陝西には、甚、多し。用て、牛馬に飼ふ。鍬き時、人もこれを食ふ。宿根より刈とれば、復、生ず。』。

[やぶちゃん注:「寇宗奭」(こうそうせき)は宋代の本草学者。(その2)で既出既注。]

 時珍が曰、『「雜記」にいふ。苜蓿は、原[やぶちゃん注:「もと」。]、大宛國より出たり。漢の使、張商、帶(たづさへ)て中國に歸れり。然りしより、今、處の田野に、是、有。陝・隴の人は、亦、種る[やぶちゃん注:「ううる」。「植うる」。]者あり。年々に自生す。苗を刈て、蔬とす。一年に、三たび、刈るべし。二月、苗を生ず。一科[やぶちゃん注:一つの株の意か。]に數十莖、莖は、頗、灰藋に似たり。一枝に三葉なり。葉は決明に似て、小きこと、指頂の如し。綠色にして碧艷、夏より秋に人て、細黃花を開き、小き莢を結ぶ。圓扁旋轉して、刺あり。數莢、累々たり。老れば、則、黑色なり。内に米あり。穄子[やぶちゃん注:「きびのみ」と訓じておく。]の如し。飯になすべし。亦、酒に釀すべし。羅願は、これをもて、「鶴頂草なり」と、いひしは、誤なり。鶴頂は紅心灰藋なり。氣味、苦く、平らにして、濇る[やぶちゃん注:「とどこほる」と訓じておく。]毒、なし。宗奭が曰、『微、甘く、淡し。』。孟洗が曰、『凉なり。少し食へば、好し。多く食へば、冷氣をして、筋の中に入れしむ。卽ち、人を疫せしむ。』。李廷飛が曰、『蜜とおなじく、食へば、人をして、下痢せしむ。』。主治は「別錄」に云、『中を安んず。久しく食ふべし。』。孟洗が曰、『五臟を利し、身を輕くし、肺胃の間の邪熱氣を、洗ひ去る。小腸の諸惡・熱毒を通ず。煮て、醬油に和して食ふ。又、羹[やぶちゃん注:「あつもの」。]となすべし。』。蘇頌が云、『乾して食へば、人に益あり。苜蓿の根は、氣味、寒にして、毒、なし。』。』。

[やぶちゃん注:「雜記」不詳。先に出た「西京雑記」かと思ったが、同書には見当たらない。

「大宛」(だいおん/たいえん:現代仮名遣)は、紀元前二世紀頃から中央アジアのフェルガナ地方に存在したアーリア系民族の国家。「大宛」とは、固有名詞を漢字に転写したものではなく、「広大なオアシス」という意味であるらしい。位置は参照したウィキの「大宛」にある地図を見られたい。

「張商」不詳。

「陝・隴」現在の陝西省附近と、「隴」は、その東に接する現在の甘粛省の略称。

「鶴頂草」「紅心灰藋」ナデシコ目ヒユ科 Chenopodioideae 亜科Chenopodieae連アカザ属シロザ Chenopodium album 、及び、その変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum のこと。山口裕文・久保輝幸・池内早紀子・魯元学氏の共同論文「漢名にみる雑草“あかざ”の生物文化史」(PDF・『雑草研究』第六十四巻・二〇一九年発行)に、中国では(コンマを読点に代えた)、『“あかざ”は、雑草(非有害)や食用(蔬または羮,穀物)、杖、灰の素材として認識され、三国時代までに萊、藜、藋、釐、拝、蔏および茟などの文字で表され,唐宋代には灰條、灰藋』(☜)、『白藋、青藜、金鎖夭、紅灰藋、鶴頂草』(☜)『など』の『文字でも表記されるようになり、明代には紅心』(☜)『の藜(および丹藜、藜菜、臙脂菜、舜芒穀、観音粟など)と葉に白粉をつける灰藋(および灰條、灰条、灰菜。灰條莧など)との 』二『 群で認識され,清代には地膚や絡帚、薇、苜蓿などとの混同が修正され、藜または灰藋に集約されていた』というところで確認出来た。

「決明」マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科センナ属エビスグサ Senna obtusifolia の漢名。当該ウィキによれば、『北アメリカ大陸原産』、『または、熱帯アメリカの原産と言われている』。『それが、熱帯アジアから中国南部に伝わり、日本には江戸時代の享保年間に渡来した』。『日本では本州から沖縄にかけて、帰化植物として分布する』とある。草体もそちらで確認されたい。

「孟洗」孟詵(六二一年~七一三年)の誤り。初唐の官人で医師。「食療本草」・「必効方」・「保養方」の著作があり(原本は散佚)、「本草綱目」でも、よく引かれる。

「李廷飛」不詳だが、漢籍の本草書にはよく引用される。「延壽書」という著作がある。]

主治は、蘇恭が云、『熱病、煩滿、目、黃に赤し、小便、黃み、酒疸等の症にて、擣て[やぶちゃん注:「つきて」。]、一升を服すれば、吐痢して、卽ち、癒ゆ。』。時珍が云、『摘て、汁を飮めば、沙石淋疾の痛みを治す。』。

[やぶちゃん注:「煩満」(はんまん)胃部や胸腹部が膨満して、不快感がある状態を指す。

「酒疸」アルコールの過飲による総合的な慢性的内臓疾患のようである。]

「大和本草」【卷七。】に云、『苜蓿は、疑らくは、「仙臺はぎ」なるべし。「仙臺はぎ」は、花も葉も、「はぎ」に似て、やわらかに、花、黃なり。又、大豆の花に似たり。わかき時、食すべし。一度、うゆれば、根、茂りて、繁昌す。「本草綱目」、柔滑菜類に載たり。』。貝原の說、よりどころとすべし。しかれども、只、その花を、いふて、實を、いはず。「仙臺はぎ」が苜蓿の如く、子の、あまたの莢ありて、莢の中に、穄子のごとき米、出來る者か。もし、その實、かくのごとくならば、苜蓿ならんも、似るべからず。まづ、よく「仙臺はぎ」を植て、ためして見たきものに侍り。しかれども、はぎの葉は、左の如く、細し。「仙臺はぎ」も葉は、はぎの如しといヘば、亦、かくのごとくなるべし。

[やぶちゃん注:以上の「大和本草」は「中村学園大学」公式サイト内の中村学園大学図書館蔵本の当該巻PDF)「大和本草卷之七」「草之三」の「花草類」の19コマ目にある。完全に引用している。

「仙臺はぎ」和名の漢字表記は「先代萩」(中文名「野决明」)が正しく、所謂、「萩」(マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza )とは縁の遠い、マメ目マメ科マメ亜科ソフォラ族Sophoreae センダイハギ属センダイハギ Thermopsis lupinoides のことを指す。近年、学名をThermopsis fabacea とする提案がなされている。Katou氏のサイト「三河の植物観察」の同種のページ(写真有り)を参照されたい。]

 

Hagimokusyuku

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。以下同じ。キャプションは右が「はぎの葉」、左が「苜蓿の葉」。比較のために、葉脈がくっきり見える吉川弘文館随筆大成版も以下に示しておく。

 

Hagimokusyukuyosikou

 

但し、これは後の挿絵で――吉川弘文館随筆大成版が――実はだ挿絵を誤っているのではないか?――と私が深く疑っていることへの伏線的仕儀である。

 

 こののち、植木屋より求めて、一とせ、「仙臺萩」といふものを植て見しに、花は黃にして、胡枝(はぎ)花には似ざるものなり。かゝれば、「大和本草」の說も亦、うけがたかり。

 「苜蓿の葉は、決明に似て、指頂のごとし。」といへば、はぎの葉より、まろくして、上のごとくなるべし(圖略)。且、「葉のいろ、綠にして、碧に艷なり。」といへば、その葉、「るりこん」[やぶちゃん注:「瑠璃紺」。、瑠璃色がかった紺色。深い紫味の強い青色のこと。]のごとく、うるはしきもの、と、おもはる。又、「その花は。細にして、黃なり。」とのみあれば、詳ならねども、「本草圖經」によりておもふに、藤豆の花の如く、

 

Mokusyuku1

 

[やぶちゃん注:底本から。これを「挿絵A」と呼んでおく。なお、ここには吉川弘文館随筆大成版はとんでもない図が入っている。後で掲げる。

 

かやうなるものにや、あらん。又、「その子は、數莢、累々たり。」といへば、これも又、ふぢ豆の實の、ちひさき如き、莢、あまた、つくものにて、

 

Mokusyuku2

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

○さやに、少(ちひ)さき刺、あり。實、「あかざ」のごとし。

とある。これを「挿絵B」と呼んでおく。なお、この挿絵は吉川弘文館随筆大成版では、逆に掲げてある。以下に参考に示す。

 


Yosikounomakomonomitosuru

 

藤の種子みたようだと本文にあるから、この方が判りはいい。

 

かやうに、ちひさき「さや」、圓扁とて、まろ長く、「くしがた」のやうに、實のなるものなるべし。此莢の内に、穄子のごとき米は、あるなり。よく熟すれば、莢は黑くなる、といふ。

「御在所に、かやうの草、これあり候哉。よくよく御穿鑿のうへ、この注文に、よくあはざれば、「苜蓿」とは申がたく候。「仙臺はぎ」は江戶になく候故、よくも見ず候得ども、必、「苜蓿」ならんとは、おもはれず候。なれども、「仙臺はぎ」も、江戸御屋敷のうちに御植被ㇾ成候て、一とせ、御ためし御覽被ㇾ遊候はゞ、これらの疑ひは、とけ可ㇾ申と奉ㇾ存候。」

[やぶちゃん注:ここで再び、(その1)の時のように、突如、手紙文となっており、やはりこれは先の第八代藩主松前道広であることが次回の(その3)で明らかとなる。]

○「昔年、『苜蓿なり』とて、御もらひ被ㇾ成候は、その實のかたちは、

 

Makomonomi

 

[やぶちゃん注:底本ではここに配されているのが、「この図」である。ただ、「この図」については底本の画像が不鮮明なので、吉川弘文館随筆大成版を用いた。但し、ここが大問題で、「この図」は、吉川弘文館随筆大成版では、実は前の「挿絵A」の箇所に置かれてあるのである。その代わりにここに入っている図は実は「挿絵A」を倒立させた、

 

Mokusyukuyosikou_20211215173101

 

なのである。挿絵A」と「挿絵B」は非常によく似ているのだが、所謂、藤の花のように下がった先端部は「挿絵A」ではスマートであるのに対して、「挿絵B」はでっぷりと太っている、という点で識別出来るのである。しかし、ここでその絵は正しいとは思われない。トウモロコシのようにブツブツの凝縮したような描き方は違和感があるが、これはまず、本文にある通り、黒穂菌(くろぼきん:真正担子菌綱クロボキン目Ustilaginales)の一種である Ustilago esculenta に寄生されて異様に太く肥大化した新芽であるマコモダケ(真菰筍・茭白)以外には考えられないからである。則ち、吉川弘文館随筆大成版は判り易くしようと、二枚をひっくり返したのは親切だったかも知れないが、うっかりそれを「挿絵A」と入れ替えて挿入してしまったのである。

 

かやうのものゝやうに承り候。これは苜蓿には無ㇾ之候。その穗によりて推量仕候へば、『黍蓬』とまうすものゝ如可ㇾ有ㇾ之奉ㇾ存候。この『黍蓬』も、羗人の食といたし候ものにて、一名は「靑科」と申候。葉は「もち黍」のごとく、「玉蜀」の葉にも似より候よし。しかれども、馬を飼ひ候よしは、「本草」にしるし不ㇾ申候。さりながら、西羗の食にいたし候へば、その葉をば、馬に飼候はんと奉ㇾ存候。馬の好み候物に候は、尺馬の爲に藥とならん事、勿論の儀と奉ㇾ存候。よりて、「本草綱目」二十三卷、「茭米」の條中に見え候を、左に抄し申候。

 『「黍蓬」は、乃ち、「旱蓬」にて、「靑科」は是なり。實を結ぶこと、黍のごとし。羗人、是を食ふ。今、松州に、これ、あり【楊愼が說。】。又、云、鄭樵が「通志」に云、「彫蓬」は、卽ち、「米茭」なり。飯となして、食ふべし。故に是を「齧(けん)」といふ。又。「黍蓬」は、卽ち、菱之實を結ばざるもの、惟、薦となすに堪たり。故に、これを「薦」といふ【この說はわろし。】。楊愼が「巵言」に云、『「蓬」に水・陸の二種あり。「彫蓬」は、すなはち、「水蓬」にて、「彫苽」、是なり【上に出せし「彫胡」の事なり。】。「黍蓬」は、すなはち、「旱蓬」にて、「靑科」、是也。時珍が云、鄭氏・楊氏の二說、おなじからず。しかれども、皆、理あり。葢、蓬類は一種にあらざる故なればなり。』と、いへり。

[やぶちゃん注:「本草綱目」巻二十三の「穀之二」の「茭米」は「漢籍リポジトリ」のここの、[061-16b] [061-17a] [061-17b]の影印本画像を電子化本文と一緒に見られるのがよい。

「松州」(しようしう)は現在の湖北省宜都市一帯にあった非常に古い州のことか。他にも二箇所ある。

「楊愼」(一四八八年~一五五九年)は明中期の文学者。一五一一年に科挙に首席で登第し、翰林修撰を授けられたが、一五二四年、桂萼(けいがく)・張璁(ちょうそう)らが起用されたとき、同志三十六人と反対意見を皇帝に具申し、月俸を停止されたが、さらに同志と意見を具申し続けた結果、平民に落とされ、雲南に流謫された。以後は詩酒を楽しみ、放逸な所行で韜晦したが、経学・詩文とも卓出していた。博学の評判が高く、著書に「丹鉛総録」・「升菴集」やここの出た「楊子巵言」(ようししげん)などがある(以上は小学館「日本大百科全書」)。特に雲南に関する見聞・研究は貴重な資料とされている。

「鄭樵」(ていしょう 一一〇四年~一一六二年)は南宋の歴史家。一一四九年、高宗に、「通志」の中でも名高い「二十略」に通ずる内容の著を提出した。それを機縁として、高宗に謁見を許され、断代史(単一の王朝についてのみ記録すること)を否定する史論を上奏した。礼部に任官を果たしたが、宰相秦檜による強権政治の被害者となり、地方官に左遷されてしまった。しかしその間も「通志」に繋がる著述活動を中断することなく、後、枢密院編修官として中央への復帰を果たした。南宋にとって外患であった金の官制調査を企てようと、秘書省に蔵された書物の閲読を願い出たこともあった。これは、当時における彼の現代史への強い興味を意味している。一一六一年、開封に遷都を果たしていた金は、南宋と対立を激化させ、高宗自らが出陣するほどの情勢となった。鄭樵は行宮留守幹弁公事として都の臨安の留守となり、勅命によって完成していた「通志」二百巻の献上を命ぜられたが、間もなく、病没した。他に「爾雅注」三巻などがある(以上は当該ウィキに拠った)。

「通志」構成や簡単な内容は当該ウィキを見られたい。

 以下は底本では全体が一字下げ。]

 解云、今、楊愼が說に從ふときは、「彫蓬」は水草なり。又、「靑科」は「旱蓬」にて、陸草なり。しかれども、蓬類は、あまたあれば、實を結ばぬもの、あるなり。この陸に生じて、黍のごとき實を結ぶものは、「旱蓬」にして、「靑科」、これなり。

「昔歲、御在所へ御植させ被ㇾ成候は、旱蓬・靑科にて有ㇾ之べくやと奉ㇾ存候。是も亦、甚、得がたきものに御座候。只今も、そのたね、殘り候て、御在所に生じ候はゞ、よろしき物に御座候。」。

「東廧も、この旱蓬に葉は似候ものに可ㇾ有ㇾ之奉ㇾ存候。これらの趣をもつて、追々に御尋させ被ㇾ成候はゞ、存の外、御在所の野山に有ㇾ之候歟も、はかりがたく奉ㇾ存候。愚按の趣、あらましを認め候て、奉ㇾ入尊覽候。誠惶々々頓首再拜。

 文政八年乙酉夏六月十八日 瀧澤 解 謹記

[やぶちゃん注:最初に言っておくが――まだ――終わりじゃないんだな、これが!――「苜蓿再考」という記事が延々続くんだわ!

 なお、以上の内、どうしてもケリをつけておきたいのは、水草だの、陸草だの、ごちゃごちゃ言って、底無しの如き異名を連発して、まさに煙(けむ)に捲かれている「菰」、「マコモ」のことである。実は既に私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 菰(こも) (マコモ)」でも紹介してあるのであるが、澁澤尚氏の論文『「菰」の本草学―陸游詩所詠菰草考序説―』PDF・『福島大学研究年報』創刊号・二〇〇五年十二月発行)という恐るべき労作がある。そこでは最終的には(「三 植物学上の菰」を参照)やはり、本邦のマコモと中国の本草学上の「菰米」を実らす「菰」を別種とはしない立場を採っておられる(但し、澁澤氏は『実際に結実しない菰が存在したことは確かなようで、『採薬便記』申奥州(『古事類苑』植物部巻十四引)に「紀州熊野本宮ニモ菰米アリ、地所ノ菰ニ米穂ヲ生ルコトナシ」などとある。現代においてもこれらの事実を重視し、またしばしば結実しない菰が観察される報告があることから、菰に二種ありとして別個に学名つける研究者もある』と述べておられる。困っていた人、これで一件落着である。別な種があったというのは誤りだったのである!

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 危險なる新光線

 

   危險なる新光線

 

疾患せる植物及び動物の脊髓より發光するところの螢光又はラジウム性放射線が、如何に我々の健康に有害なるかを想へ、斯くの如き光線は人身をして糜爛せしめ、侵蝕せしめずんば止まず。新らしき人類をして悲慘なる破滅より救助せしめんがため、科學者は新らたに發見を要す。

 

[やぶちゃん注:初出は底本の「詩作品發表年譜」及び筑摩版全集の「拾遺詩篇」にある通り、大正四(一九一五)年二月号『詩歌』である。初出は奇体な表記(誤字と言うよりも萩原朔太郎の思い込みの誤用である可能性が高いように思われる)が異様に多いが、一応、示しておく。

   *

 

 危嶮なる新光線

 

疾惡せる植物及び動物の背髓より發光するところの螢光又はラジウム性放射線が、如何に我々の健康に有害なるかを想へ、斯くの如き光線は人身をして靡爛せしめ、浸蝕せしめずんば止まず。新らしき人類をして悲慘なる破滅より救助せしめんがため、科學者は新らたに發見を要す。

 

   *]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 手の幻影

 

   手 の 幻 影

 

白晝或は夜間に於て幻現するところの手は必ず一個である。である。

而してそは何ぴとにも語ることを禁ぜられるところのあるものの手である。

手は突如として空間に現出する。

時として壁或は樹木の幹にためいきの如き姿を幻影する。

手は歷歷として發光する。

手はしんしんとして疾患する。

手は酸蝕されたる石英の如くにして傷みもつとも烈しくなる。

手は白き金屬のごときものを以て製造され透明性を有す。

われの手より來るところの恐怖は、しばしばその手の背後に於て幽靈をさへ感知する。

微笑したるところの幻影であり、沈默せる遠きけちえんの顏面であることを明らかに知覺するとき我は卒倒せんとする。

我はつねに『先祖』を怖る。

 

   編註 本篇は、本卷「蝶を夢む」拾遺中の「手」の原型である。

 

[やぶちゃん注:下線「」は底本では右傍点「◦」、太字「あるもの」「ためいき」「けちえん」は傍点「ヽ」。「編註」にあるそれは、これを指す。そちらの注を参照されたい。そちらで電子化したものと比べると、「左」の傍点が「◎」であったり、「手は突如として空間に現出する。時として壁或は樹木の幹にためいきの如き姿を幻影する。」と、改行されていなかったりする異同があるが、これは原稿の判読の誤りととれば、納得出来る。]

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