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2021/12/31

畔田翠山「水族志」 メチ (ヘダイ)

 

(一八)

メチ【熊野三老津】

 熊野海ニ多シ形狀「メダヒ」ニ似テ濶厚淡白色ニ乄背微淡黑色ヲ帶テ

 斑ナシ即「シロヂヌ」也

○やぶちゃんの書き下し文

めち【熊野三老津。】

 熊野の海に多し。形狀、「めだひ」に似て、濶〔ひろ〕く厚し。淡白色にして、背、微淡黑色を帶びて、斑、なし。即ち、「しろぢぬ」なり。

[やぶちゃん注:似ているとする「メダヒ」は「(一四)メダヒ」で私はスズキ目スズキ亜目フエフキダイ科ヨコシマクロダイ亜科メイチダイ属メイチダイ Gymnocranius griseus と比定した。而して、メダイのような斑点がなく、「淡白色」で「背が「微淡黑色を帶び」るとなると、私はスズキ目タイ科ヘダイ亜科ヘダイ属ヘダイ Rhabdosargus sarba ではないかと推定した。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のヘダイを見ると、この乏しい記載とよく一致するように見え、「地方名・市場名」には、最も私が頼りにしている宇井縫蔵の「紀州魚譜」から引いて「ヘヂヌ」「ヘジヌ」を挙げ、『和歌山県湯浅・辰ヶ浜』を採集地とし、さらに「ヒメチヌ」(徳島県阿南市)・「ヒジヌ」(愛媛県三津)がある。「紀州魚譜」の「ヘダイ」では、本書の(二二)の「マキダヒ」をヘダイに比定しているのだが、畔田は(二二)の基本名を「ヘダヒ」で出してある。畔田の記載は、精密な種分類立項にはなっておらず、今までも同一種と思われるものを、複数、別項目で掲げているから、それを以って私の比定が無効であるとは言えない。記載も乏しいので、取り敢えず、現時点では、ヘダイを第一候補としておく。因みに、宇井は「メチ」という名を同書では採用していない。但し、最後に記された「シロヂヌ」の名は、流通・地方名では、ヘダイ亜科クロダイ属キチヌ Acanthopagrus latus を指すようだが、「黄茅渟」であり、異名を「キビレ」(黄鰭)とすることからも判る通り、胸鰭・腹鰭・尻鰭が有意に黄色を呈する。畔田が採れた現物を、直に見ているとすれば、この鰭の黄色を漏らすことはないと私には思われる。

「熊野三老津」現在の和歌山県西牟婁郡すさみ町見老津(みろづ:グーグル・マップ・データ)であろう。]

只野真葛 むかしばなし (44)

 

 玄松樣は、くりあい上手なりけん、藏も、文庫藏・どぞう藏と二戶前有しを、鼻の先に有しをば、六、七間、あとへ引て、二階作(づくり)の家、たてられし。ばゞ樣は隣の地をかりること、御きらひ被ㇾ成し故、鬼門の所は、仕切(しきり)て、御かり被ㇾ成(なら)ざりしを【すまゐせし人の、仕合(しあはせ)、あしければなり。服部善藏とて。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とする。しかし、これ、「服部善藏とて、すまゐせし人の……」の誤り(誤判読)ではなかろうか?]、服部、かりて、普請をし、引こしたりし。其下心、父樣とは久しく懇意なりしが、『まさかの時、知惠をかりるに、隣なら、よい。』とて、來りしなり。

 御普請びらきには、出入のもの、弟子をはじめ、太鼓持常八・料理人藤九郞・同「たるみぶ」など、したしきものに、「ふじたに・小紋茶がへし」の羽織りに、「東屋に櫻」の紋所、

Katadori

「庵に木瓜《もつこふ》」のかたどりに思付(おもひつく)なり。かの上にても、梶原・工藤のおぼしめしの時故、さも有べきことなりし。「たるみぶ」は、其頃、はやりの料理人、昔より藤九郞がいつもせしを、この度、めづらしきかたへ被仰付しことなりし。女藝者三人、つねにきたりしへ、「紫ちりめん」、素縫(すぬひ)に、白糸にて、「つくつくしの杉菜」の模樣、下着と裏は、緋ぢりめんに金糸・銀糸にて、ものをぬへたるを被ㇾ遣し。紋所よりのおぼしめし付(つき)にて、春野のさまを、つけられし。「てんしん」と、あだな付(つけ)たる太鼓持の古物坊主にて有しには、鳶八丈の無垢を三ツ、羽織も、同じ無垢仕立の仕きせ、出(いだし)たりし。其頃、茶がへし小紋、はやりだし故なり。

 客へは引物に「いそせゝり」と、うわ書(がき)して、手まの紙・紫くじやく・ひわ茶うわ紙かさねは、みな、紅ぞめなり。中に、はまぐり貝二・あさり二・しゞみ壱、入たり。はまぐりは、銀だしと、中ねり鬢付(びんつけ)、是も河内屋【「河内や」長右衞門なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]ヘ仰付られて、香を、ことにおほくいれて、ねらせられたるなり。

「色には、ヲランダの藍で、『ベルレン』といふが、色、よし。」

とて、入られし。あさりは薰物《たきもの》二品、是も手製なり。しゞみには、

「笑藥(わらひぐすり)なりし。」

とぞ【三番は、「すゝ」と「めん」成しや。六番は玉子一箱。七番は「せう」と「かね」、八はんは、諸入用なり。】[やぶちゃん注:この原割注は底本にはなく、「日本庶民生活史料集成」にそう指示して挿入されてあるもので補填した。]。每日、包(つつみ)こしらへなど、したりし。

 櫻にそへて、諸道具、かけ物など送りし人も、おほかりし。日ごとに、進物、來りて、おもしろかりし。何人のおもひよりしことにや、吉野山のかたを書(かき)たるかけ物に、

  今ぞわがよしのゝ山の花をこそやどの物とも見るべかりける

といふ歌有しを送りしが、

「花によりて、おもひつきたるならんが、後醍醐帝の吉野の宮にて、よませられし御うた故、いわひごとには、いかゞし。」

と被ㇾ仰し。數寄屋町に、やけのこりて有し棕櫚なども、其節の致來物なりし。

 障子のほねは、目通(めどほおし)の、赤杉、めんどりなり。二階に湯殿を付て、冬は樋《とひ》にて、後へ、おとし、小用所まで付(つけ)て有し。三尺の緣より、水もくむやうな仕かけなりし。其井は、一かわ、すゑたるばかりにて、下より樋《ひ》をとほして、本井よりくみいるゝことなりし。湯殿と、はしごは、椹(さはら)の厚板にて有し。湯殿は、かやうによき木を用るにおよばねど、殊の外、「二階に湯殿つく」といふ、名、高く、世上、ひやうばん故、

「來(くる)人も心付(こころづけ)て見んを。」

とて、ゑらませられしなり。大名に召さするには、さらしの重ね付の「ゆとり」二、御用意被ㇾ成し。其模樣の注文、隣の奧樣にまかせられしを、地白にして、紺淺黃などにて、しだり櫻をつけ、下に茶色に、かうのづ、壱、付て有しが、殊の外、御氣に入りて有し。東屋櫻のかたどりなり。紺木綿・らせんしぼり五、其頃の仕出しなり。是は、平人のためなりし。花々しきことなりし。

[やぶちゃん注:底本本文中に画像で挿入されているものを読み取って入れた。この絵は家紋画像を管見するに、下にある「庵に木瓜《もつこふ》」=「庵木瓜」(いおりもっこう)で、藁葺の庵室の中に植物のボケの花をデザイン化したものを入れたものによく似ていると私には思われた。

 なお、以上は家の新普請の引き出物を語ったものであるが、私の乏しい知識では、注することがおよそ殆んど出来そうもない。以下の一つだけで、ご勘弁願いたい。悪しからず。

「ヲランダの藍で、『ベルレン』」これは当時の通称で「ベロ藍」、かのプルシアンブルーのことではないかと思われる。この顔料は葛飾北斎が「富嶽三十六景」に用いたことで非常に流行し、我々もこう記すだけで、あの鮮やかな色が想起出来るものである。「プルシアンブルーの話」PDF)によれば、「ベロ藍」という『その名前の由来は「ベルリンの藍」が訛ったものという説が有力です。和名は紺青。このほか、当時ドイツはプロセインだったのでプルシアンブルー、ベルリンで発明されたからベルリンブルー、その後中国で作られたのでチャイナブルー、北斎がつかったため北斎ブルー、鉄の化合物だからアイアンブルー、人名由来のミロリーブルーなど多くの名前があります』とあり、「ベルレン」と訛りそうな感じがするからである。]

伽婢子卷之十三 天狗塔中に棲

伽婢子卷之十三

 

   ○天狗(てんぐ)塔中(たふちう)に棲(すむ)

 

 寬正(かんしやう)五年四月に、都の東北糺(ただす)の川原にして、勸進の猿能樂あり。觀世音阿彌、同じく、其子、又三郞を太夫として、狂言師・役者、多し。

「此比《このごろ》の見物《みもの》なり。」

とて、京中の上下、足を空になし、諸人《しよにん》、蟻の如く集り、星の如くつどひて、是れを見物す。

 將軍家も三たびまで、棧敷(さんじき)、構へさせて、御覽あり。

 大名・小名、似合《にあひ》々々に、絹・小袖・金銀を出し與へらる。其の積み上ぐる事、日每に山の如し。

 或る日、將軍家には出給はず、大名がた、風流を盡す。

 若殿原達、棧敷を並べて、其前には、家々の紋、印(しる)したる幕、打たせ、芝居には、上下の諸人、堰(せき)合ひ、揉み合ひて、座を爭ふ。

 其間に、樂屋の幕、打ち上げ、「三番叟」の面箱(めんばこ)捧げ、しめやかに階(はし)がゝりをねり出てたり。

 諸人、靜まりて見居(《み》ゐ)たる所に、棧敷の東のはしより、火、燃出て、折りふし、風、烈しく吹ければ、百餘間の棧敷、一同に燒上(《もえ》あが)る。

 内に持ち運びたる屛風・簾(みす)其外、破子(わりご)・樽・臺(だい)の物、にはかの事なれば、取り退(の)くるに及ばず。

 後には、舞臺・樂屋までも同時に燃上りしかば、見物の諸人、あはてふためき、「我先に」と出んとする程に、四方嚴しく結(ゆひ)まはしたる垣なれば、鼠戶(ねづみ《ど》)一つにて、せき合ひ、揉み合ひ、踏み倒し、打轉び、女・わらべは、手足を踏み折られ、蹴りわられ、傍らには、首髮(かしらかみ)・小袖に、火、燃えつき、燒死(やけし)する者も多かりし。

 甲斐甲斐しきものありて、四方の垣を切りほどきしにぞ、やうやうに、のがるゝ人、多かりし。

 かくて、燒靜《やけしづ》まりしかば、將軍家の仰せによりて、諸大名、承り、一夜のうちに、元のごとく、舞臺・棧敷・外垣までも作り立てらる。

「まことに、大名のしわざは、はからひがたし。」

と感じながら、女・わらべ・地下の町人ばらは、きのふに懲りて、行もの、なし。

 されども、諸國の大名小名、御内《みうち》・外樣(と《ざま》)・中間・小者ばらまで、皆、行ければ、棧敷も芝居も、猶、にぎやかに込み合ひたり。

 され共、喧嘩・口論もなく、無事に仕舞せし處に、其燒けたりし夜より、都のうちに迷ひ子を尋ぬる事、十四、五人に及べり。

 或は、東山・北山・上加茂わたりの子ども、かの騷動に、方角を失ひ、逃げまどふて、足にまかせて行迷ひたる者共なれば、皆、尋ね出して歸りしに、上京今出川邊に、町人の子に次郞といふもの、年十二にして、行方《ゆきがた》なし。

 親、悲しがりて、人、多く雇ひ、諸方を尋ね、山々を巡り求むるに、是れ、なし。

 廿日ばかりの後に、東山吉田の神樂(かぐら)岡に、忙然として、立て居たるを見付て、連れて歸りしに、四、五日の程は、物をも食はず、只、湯水ばかりを飮みて、うかうかとして、物をもいはず、座し居たり。

 

Jiroutennguniau

 

[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。勧進能の桟敷の軒から不審な出火が起こる(右幅)シークエンス。左幅には橋懸かりから登場してきた、シテ役の能楽師。その前にいるのは、幕開きの別格に扱われる祝言曲である「翁(おきな)」である。それは奥にいるシテ役の「音阿彌」が面を着けていないこと、その前に三番叟の面を入れた箱を持った「面箱持ち」がいることから判る。それより、左幅下方の桟敷内(ここが大名の桟敷)に着目したい。そこに僧服を着た鼻の長い異形の人物が描かれており、その怪人の左手の伸ばされた指は、はっきりと出火している怪火を指している。そうして、その僧の前には少年次郎が座っているのである(御丁寧に次郎の前には皿状のものに載せられた菓子のようなものまで描かれてある)。則ち、この天狗が呪術で桟敷に火を放ったその瞬間がスカルプティング・イン・タイムされているのである。但し、本文では舞台の家根に天狗が次郎を抱いて飛び上がり、呪文を唱えると、発火するとあるから、ちょっと違う。

 

 其後、やうやう、人心地つきて、かたりけるやう、

「糺川原(たゞすがはら)に出たれば、五十あまりとみゆる法師の云やう、

『汝、猿樂の能を見たく思はゞ、我袖にとりつけ。』

とて、左の袂に取り付かせ、垣を飛び越えたり。

『汝、物いふな。』

とて、或る大名の棧敷に、つれてのぼられしに、大名も御内の侍も、更に見咎めず、物もいはず。かくて、

『何にても食(くふ)べきか。』

と仰られ、酒・肴・菓子まで取りて給はるを、打ち食ひけれども、人々、見もせず、咎めもせざりし處に、棧敷の並びたる家々の、幕、打ち廻し、大きに奢りたる體(てい)なりければ、此法師、

『あな、にくや。あな、見られずや。何の事もなき奴原(やつばら)の、鬚、くひそらし、「我は顏(がほ)」なる風流づくし、鼻の先、うそやきたる有樣(ありさま)かな。』

と、ひとりごとして、

『汝は、此の者共のうろたゆる躰(てい)を見たく思ふか。いで、さらば、動き亂れて、うろたふる躰、見せん。』

とて、我を、かきいだき、舞臺のやねにあがり、なにやらん、唱へられしかば、東の棧敷より、火、燃え出て、風、吹きまどひ、百餘間の棧敷、一同に燒《やけ》あがり、貴賤男女、上(うへ)を下(した)へ、もて返し、騷ぎ亂れ、うろたへまどうて、あやまちをいたし、疵をかうぶり、死する者、甚だ、おほし。

 舞臺も樂屋も燒ければ、法師、我をつれて、川原おもてに出つゝ、

『扨。見よや。』

とて、手をたゝき、大《おほき》に笑ひて、

『今は、心を慰みたり。是より、我が住(すみ)かに來よ。』

とて、法勝寺の九重《くぢゆう》の塔の上に昇り、内に入りたりければ、何もなし。只、獨古(どつこ)・錫杖・鈴(れい)を、怖ろしき繪像の佛のやうなる、羽ある者の前に置かれたるばかり也。或る日は、我を塔の中に置きながら、我ばかり出て、地にくだり、法師の姿にて、人に行逢ては、或は、腰をかゞめて、禮をなし、或は、頭(かしら)を打はりなどして通り、又は、人の容(かほ)に唾(つばき)を吐きかけ、又は、人の背(せなか)を突て打倒しなどするに、其人共、更に目にも懸けず、咎めもせず。或は、兩方より來(く)る人の、首・髮・もとゞりを摑みて、二人を一所に引寄するに、此二人、俄に、刀を拔て、打合ひ、切り合ひ、手を負ふて、朱(あけ)になるも、あり。日每にかゝる事共、いくらと、いふ數を知らず。其の外、江州勢田の橋に行て、螢を見、加茂の祭り、松尾の祭禮、「此の頃見る」といふ事あれば、つれて行きつつ、見せられたり。我、問ふやう、

『出て行給ふ道に、人に逢ふて禮をなし給ふは、誰《た》ぞ。』

といへば、

『それは、道心高く、慈悲、正直に、信心あつき人也。此人、邪慾・名利の思ひ、なし。善神、身を離れず、諸天、從ふて、守り給へれば、恐れて、禮をいたせし也。又、頭(かしら)をはりて通りしは、或は、金銀財寳、多く持ちて、貧しき人を侮(あなづ)り、生才覺(なまさいかく)ありて、愚かなる者を下(くだ)し見る、少しの藝能あれば、「是れに過《すぎ》じ」と自慢する奴原は、面(つら)の惡(にく)さに、かうべを、はりて、通る。又、脊中を突き倒しけるは、小學文(こがくもん)ある出家の、内には、道心もなく、慈悲もなく、重邪慾(ぢう《じやよく》)に餘り、外には、學文だてして、人を侮(あなづ)り、徒(いたづら)に信施(しんせ)を食ひ、旦那を貪り、非道濫行なるが憎さに、突き倒したり。又、兩方を引合せて喧嘩せさせし人は、すこしの武勇(ぶよう)を自慢して、人を「ある物か」とも思はぬ面つきの見られねば、惡(にく)さに、喧嘩させたり。又、つらおもてに、「かはすき」を吐かけしは、是れ、牛を食(くら)ひ、馬を食ひ、或は、家に飼《かひ》置ながら、其の犬・庭鳥《にはとり》を殺し、食(くら)ふ者、己(をのれ)は是れを『榮燿』と思へ共、餘りのきたなさに、唾(つばき)、吐きかけたり。「牛を食ひ、飼鳥《かひどり》を食ふものは、疫神(やくじん)、たよりを得て、疫癘(えきれい)、起こり易し。」と、いへり。總べて、何(なに)の人といふ共、正直・慈悲にして、信ある人は、恐ろしきぞ。たとひ、高位高官の人も、邪慾・非道・慢心あるは、皆、我等が一族となし、便(たよ)りを求めて、心を奪ふなり。』

とて、今より、後々の事まで、語られし。」

とて、つぶさに物語りせしか共、

『其外の事は、世を憚りて、沙汰する事、なし。かくて、今は暇(いとま)とらする。』

とて、塔の上より、つれて下り給ふ、と覺えて、其後は覺えず。」

とぞ、かたりける。

「世の中の事共、後々の有樣、物語せしに違(たが)はず。」

と、いへり。

 それより、法勝寺の塔には、「天狗のすむ」といふ事を、いひはやらかしけるに、「應仁の亂」に燒くづれたり。

[やぶちゃん注:「寬正五年四月」一四六四年。室町幕府将軍は足利義政。

「糺(ただす)の川原」下鴨神社の「糺の森」の南外れにあたる、賀茂川の分岐する辺りを「糺の河原」と呼び、古くは刑場としても利用されていたが、同時に芝居興行もここで行われ、中世には勧進猿楽その他の芸能が盛んに興行された。この辺り(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「勸進の猿能樂あり」事実、この時に勧進猿楽能がここで行われている。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『寛正五年の勧進猿楽は四月』の『五・七・十日の三日』に、『鞍馬寺修復を目的に行われ、糺河原勧進猿楽日記と異本糺河原勧進申楽記に詳しい「同五年四月五日糺川原にして勧進の猿楽あり」(本朝将軍記九・源義政・寛正五年)。』とある。二度目があるから、火災に見舞われるそれは、寬正五年四月五日か七日に限定出来る。本書の作品中、正確な日がここまで限定出来るのは特異点である。

「觀世音阿彌」猿楽能役者で三世観世大夫となった観世三郎元重音阿弥(おんあみ/おんなみ 応永五(一三九八)年~文正二(一四六七)年)。観阿弥の孫で世阿弥の甥。足利義教の絶大な支援の下、世阿弥父子を圧倒し、七十年近い生涯を第一人者として活躍した。世阿弥の女婿金春禅竹らとともに一時代を担い、他の芸能を圧倒して、猿楽能が芸界の主流となる道を作り、祖父観阿弥・伯父世阿弥が築いた観世流を発展されることに成功した著名な人物である。当該ウィキによれば、『その芸は連歌師心敬に「今の世の最一の上手といへる音阿弥」』『と評されたのを初め、同時代の諸書に「当道の名人」「希代の上手、当道に無双」などと絶賛され、役者としては世阿弥以上の達人であったと推測されている』とある。詳しい事績はリンク先を見られたい。

「其子、又三郞」音阿弥の嫡子で、四世大夫を継いでいる。正盛・政盛・松盛の諱を伝えるが、上記ウィキによれば、「観世流史参究」によると、『何れの諱も後世の創作とされる』とある。

「棧敷(さんじき)」「さじき」は、古くは「さずき」で、「假庪」「假床」などと書き、「仮の棚又は床(ゆか)」の意であった。それに「棧敷」を当て、訛って「さじき」となったものらしい。その古い「さずき」は記紀に既に見られるが、当時のそれは観覧席ではなく、神事の際の、一段高く床を張った仮設の台、つまり祭祀を行う舞台的な意味を持つものであった。観覧席としての桟敷は平安中期以降に多く造られるようになり、後、劇場・演能場・相撲小屋などに於いて、大衆席である「土間」に対して、一段高く床を張って造られた、上級の観客席を指す語に転じた。

「似合《にあひ》々々に」それぞれの分(ぶん)に相応したものとして。

「百餘間」百八十二メートル超。「新日本古典文学大系」版脚注では、『糺河原勧進猿楽日記では六十三間』(百十四・五三メートル)としつつ、『「サレバ百余間ノ桟敷」』と「太平記」巻第二十七の「田樂長講見物事」を参考引用している。

「簾(みす)」挿絵の右端に貴人の透き見用のそれが描かれてある。

「破子(わりご)」「破籠」とも書く。弁当箱の一種。檜などの白木を折り箱のように造り、中に仕切りを設けて、飯と料理を盛って、ほぼ同じ形の蓋をして携行したもの。

「樽」酒樽。

「臺(だい)の物」大きな台に載せて他者に贈る料理や進物の品。祝儀などの料理には、松竹梅などの目出度い飾り物にして盛りつけられる。

「鼠戶(ねづみ《ど》)」鼠木戸(ねづみきど)。江戸時代の芝居小屋・見世物小屋などの木戸に設けた、無料入場を防ぐための狭い戸。時代が合わないのはご愛敬。

「首髮(かしらかみ)」頭髪に同じ。

「甲斐甲斐しきもの」動作が機敏で手際がよく、自身の危険を顧みずに対処する、頼もしい者。

「御内《みうち》」「新日本古典文学大系」版脚注に『譜代の家臣』とする。

「外樣(と《ざま》)」同前で『「御内」でない家臣』とある。

「東山吉田の神樂(かぐら)岡」現在の京都市左京区南部にある吉田山の別称。標高百三メートル。

「何にても食(くふ)べきか。」「何か食いたいか?」。

「鬚、くひそらし」「髭食ひ反らす」という語がある。「髭を口に銜えたように生やし、その先の方を反らす。」の意で、威張ったさまをいう。威厳と威嚇のために鬚の両端を上にそらしている馬鹿面を軽蔑した謂い。

「我は顏(がほ)」いかにも「我こそは」と虚勢を張った面構えのこと。

「鼻の先、うそやきたる有樣(ありさま)かな」底本も元禄本もいずれも「うそやく」と清音だが、「新日本古典文学大系」版では『うそやぐ』とある。「うぞやく」とも言い、「鼻がくすぐったくなる・おかしくて笑いたくなる」の意で、鎌倉中期には既にあった語である。

「法勝寺」(ほつ(ほふ)しようじ(ほっしょうじ))は平安から室町まで平安京の東郊、白河にあった寺院。白河天皇が承保三(一〇七六)年に建立した。院政期に造られた六勝寺の一つで、六つの内で最初にして最大の寺であった。朝廷から厚く保護されたが、「応仁の乱」の最中の応仁二(一四六八)年八月の山名宗全らの西軍による岡崎攻撃によって青蓮院などとともに焼失し、更に、その再建がままならないまま、享禄四(一五三一)年二月、今度は管領の座を巡る細川高国と細川晴元の戦いに巻き込まれて、再度、焼失、再建されなかった。ここが跡地当該ウィキに拠った。

「九重《くぢゆう》の塔」八角九重塔。同寺の境内にあった八角形の九重の塔で、暦応三(一三四〇)年の記録では高さは二十七丈(約八十一メートル)あったとされる高層堂塔である。屋根は十重あるが、初重は裳階なので数えない。上記ウィキによれば、現在の『京都市動物園内の観覧車がある所に建立されていた』とあるから、ここである。同ウィキの『法勝寺九重塔模型(京都市平安京創生館)』の画像をリンクさせておく。これだけの高さがあれば、次郎が塔に残されたにも拘わらず、そこから出かけていった天狗が、市中を闊歩するさまがつぶさに見えたというのが、腑に落ちる。

「鈴(れい)」密教の法具である金剛杵(こんごうしょ:元は古代インドの投擲武器)である独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵と並ぶ金剛鈴(こんごうれい)のこと。諸尊を驚覚し、歓喜させるために鳴らすもので、その柄が五鈷・三鈷・独鈷・宝珠・塔の形をした五種がある。大壇の中央及びその四方に置く。ネットの「精選版日本国語大辞典」の「金剛鈴」の挿絵画像を参照されたい。これは三鈷鈴である。私はタイで求めた五鈷杵が、今、目の前にある。

「松尾の祭禮」京都府京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社の例祭神幸祭及び還幸祭は、現在、四月下旬から五月中旬に行われる。

「善神」「新日本古典文学大系」版脚注では、『仏法擁護の諸神、特に四天王と十二神将』とする。

「諸天」同前で『天部の仏たち』とする。前の四天王と十二神将も護法神のグループである天部に属するが、他に、梵天・帝釈天・吉祥天・弁才天・伎芸天・鬼子母神・大黒天、さらに竜王・夜叉・聖天・金剛力士・韋駄天・天龍八部衆などが含まれる。仏教のピラミッドでは如来・菩薩・明王・天の四番目のセクトとなる。

『人を「ある物か」とも思はぬ面つきの見られねば』「新日本古典文学大系」版脚注の『他の者を認めようとしない憎たらしい顔つきを見るに見かねて』は適確な訳である。

「かはすき」は「滓吐」で、名詞。「痰や唾を吐くこと・その吐かれた痰や唾」の意。

「榮燿」ここは「身分相応の当然の褒賞・贅沢」の意。

「其外の事は」「新日本古典文学大系」版脚注には、『その他政治向きにかかわる話は』とある。大天狗でさえ、高度な政治的判断で、邪まなどこぞの政府をも、忖度するたぁ、情けなや!!!――]

ブログ・アクセス1,650,000突破記念 梅崎春生 春日尾行

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年五月号「オール読物」初出で(春生は作品内で発表誌を出してサーヴィスなんぞしている)、後の昭和三〇(一九五五)年十一月近代生活社刊の作品集「春日尾行」に標題も使用されて所収された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第三巻」を用いた。

 文中に簡単な注を挿入した。不明の二箇所で情報の御提供を願ったので、どうか、よろしくお願い申し上げるものである。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本日、この年末に至って、先ほど、1,650,000アクセスを突破した記念として公開する。【20211231日 藪野直史】]

 

   春 日 尾 行

 

 夕方のことです。

 二三日来うらうらと暖かく、おだやかないい天気がつづいていました。僕は所在なく縁側にあぐらをかき、庭樹を眺めたり空ゆく雲を見上げたり、こんな夕方にはビールが好適だなどと考えてみたり、うつらうつらとしているうち、ふっと人の気配がしたので、見ると長者門の下にぼんやり立っているのは、矢木君なのでした。矢木君というのは、僕の友人で、歳は僕よりも一廻り少い。職業は画家ということになっていますが、あまり画が売れてる話も聞かないし、まあ画家の卵といったところでしょう。[やぶちゃん注:「長者門」は長屋門に同じ。但し、当時の梅崎春生は借家住まいであったから、これは洒落で、普通の門であろう。「矢木君」恐らくは梅崎春生が小説でよく登場させるエキセントリックな絵描きのモデルである画家秋野卓美(大正一一(一九二二)年~平成一三(二〇〇一)年)であろう。「立軌会」同人で、元「自由美術協会」会員。「一廻り」ではないが、春生(大正四(一九一五)年生)より七つ年下である。元は春生の妻恵津さんの知り合いであった。昭和二七(一九五二)年十月発表に「カロ三代」を参照。]

 矢木君は僕の方を見て、眼をしばしばさせ、照れたようなまぶしいような、妙な笑い方をしました。そしてしずかに口を開きました。

「今日は」

「おはいりよ」

 と僕は答えました。

 矢木君は縁側に近づいて来ました。見ると彼は右手に重そうに、ビールを半ダースほどぶら下げているではありませんか。今しがたビールのことを考えていたばかりなので、僕はもう頰がむずむずと弛(ゆる)んで、にこにこ笑いがこみ上げてくるのをどうしても止めることが出来ませんでした。矢木君はビールをどさりと縁側に置き、自分も腰をおろしながら、庭をぐるりと見廻しました。

「はあ。ここの桜も満開ですな」

「こんな暖かさだから、どこの桜だって満開だよ」

「はあ。そんなものでしたな」

 矢木君はそんな間抜けな返事をしながら、急に声を低めてひとり言のように呟(つぶや)きました。

「やはり、棒引きということにしとこうかな。いや、それでは少し――」

「何の話だね?」

 と僕は聞きとがめました。矢木君という男は、日頃からどこかトンチンカンなところがあって、話の通じないことがよくあるのです。矢木君はエヘヘと笑いながら、まぶしそうに僕の方に向き直りました。

「実はね、あなたにね、六千八百円ばかり貸してあるでしょう。その金のことですけどね――」

「僕に貸してある?」

 僕はびっくりして、さえぎりました。

「僕は君から金を借りた覚えはないよ」

「覚えがなくったって、あなたは僕に借りているのです。そいつを棒引きに――」

「棒引きにもポン引きにも――」

 と僕は呆れて、嘆息しました。

「君は時々トンチンカンになるようだね。なにか夢でも見たんじゃないのかい。季節の変り目だから、用心してしっかりすることだね」

「夢じゃないですよ。うつつのことですよ」

 矢木君はすこしも騒がず、たしなめるような口調になりました。

「自分では気がつかないでも、先様の方でそんな具合になってる。よくあり勝ちなことです。今からビールでも飲みながら、説明して上げたいと思うんですが、都合はいかがですか?」

「ビールは結構なことだが、一体――」

「はあ。話の最初は、腕時計からです」

「腕時計?」

「そうです。腕時計です」

 そう言いながら矢木君は靴を脱いで、ごそごそと縁側に這(は)い上って来ました。

 以下、ビールを酌み交しながら、矢木君がめんめんと物語った、昨日一日の彼の行動です。だから、以下の文章で、僕というのは、もちろん矢木君のことです。

 

『はあ、その腕時計というのはね、四五日前、酔っぱらった僕の友人が、僕の部屋に置き忘れて行ったものなんですよ。まだ真新しくって、何でも一万五千円出して買ったんだそうです。なかなか感じのいい、しゃれた型の時計でした。

 で、友達が取戻しに来ないもんだから、この四五日、僕が重宝(ちょうほう)して使ってたわけなんですが、さて昨日の朝のことです。昨日は日曜でしたね。朝遅く起きて、井戸端で歯をていねいにみがき、さて顔を洗おうと、掌にこてこてと石鹸を塗りつけた時、ふと気が付くと、手首にその腕時計をつけたままじゃありませんか。僕はあわてて、革をつまみ上げるようにして、それを外した。外したまではハッキリ覚えてるけど、それをどこに置いたか、それが全然ハッキリしないんですよ。きれいさっぱりと記億から拭い取られているんです。

 なぜこんな妙な記億脱落があったかと言うと、それが全部じゃないでしょうが、ちょっとした理由があったのです。と言うのは、つまり、井戸端にいたのは、僕一人じゃない。顔を洗っている僕のすぐそばに、駒井美代子嬢がつつましくしゃがんで、じゃぶじゃぶと洗濯をしていたんです。

 駒井嬢というのは、僕と同じ家に間借りしている、二十前後の女性です。もちろんまだ独身で、どこか会社にタイピストとして勤めてる。ちょっと可愛い顔をしてるし、身体つきもなかなか良い。いつかモデルになって呉れと頼んで、断られたこともあるんですけどね。なかなか気性の烈しいところもある娘(こ)なんです。その娘が、日曜だものだから、シャンソンか何か口吟(くちずさ)みながら、洗濯してたというわけです。

 で、しゃがんでいる関係上、僕の位置から、その可愛い素足の膝頭が、スカートの間からちらちらとのぞけて見える。え? 膝頭だけじゃなかろうって? ええ、ええ、そんなものが、とにかくちらちらと見える。画描きだって、そんなことはありますよ。つい頭がくらくらして、とたんに記億が脱落したんでしょうな。僕は邪念を追っぱらうために、盛大な水音を立てて、ジャブジャブと顔を洗いましたよ。

 さて僕が顔を洗ってる間に、駒井嬢はさっさと洗濯を済ませて、物干場の方に行ったらしいのです。タオルで顔を拭き上げると、彼女の姿はもうそこには見えなかった。やれやれと思いながら、さっきの腕時計はと探すと、そこらに見当らないじゃありませんか。ポンプの台の上にもないし、吊棚の上にも見当らない。僕はギョツとしましたよ。なにしろ一万五千円ですからな。急いで記億を探り廻しても、どこに置いたか、ついハッキリしない。物干場の方からは、駒井嬢が口吟む″巴里の屋根の下″か何かが、ほがらかに聞えてくるんです。[やぶちゃん注:「吊棚」井戸に屋根がついており、そこに物を置く簡易な吊り棚があるのであろう。「巴里(パリ)の屋根の下」(Sous les toits de Paris )は、一九三〇年に制作されたフランスのロマンティック・コメディ映画で、同時に一世を風靡したその主題歌の題名。監督は名匠ルネ・クレール(René Clair)。ストーリー・キャスト・スタッフは当該ウィキを参照。YouTube のこちら(ghbook氏)で冒頭と音楽が視聴出来る。]

「盗られたんじゃないかな」

 とっさにそう僕が思ったのも、無理な話じゃないでしょう。僅かの時間の間に、物体が消失する。物理的にも不可能な話ですからな。僕はいきなり嫌疑を駒井嬢にかけた。あんな虫も殺さぬ顔をして、あいつ存外のしたたか者に違いない。素足を見せびらかしたのも、色仕掛で僕の頭を輝れさせようという、そんな邪悪な魂胆だったかも知れないぞ。そんなことを頭で忙しく考えながら、僕は井戸端に棒立ちになっていました。五分間も立ちすくんでいたようですな。

 しかし、立ってただけじゃ、腕時計が出て来る筈もない。じゃ駒井嬢をつかまえて詰問するか。証拠がないんだから、そんなわけにも行かない。シラを切られりゃ、それっきりですからね。

 僕は憂鬱で腹の中が真黒になって、そこで二階の自分の部屋に、しおしおと戻って来たんです。折角のいい天気なのに、何と幸先が悪いことだろう。一万五千円もする時計を失くすなんて、何という阿呆なことか。僕はもうむしゃくしゃして、外出する気にもなれず、出窓に頰杖をついて、空を眺めたり地面を眺めたりしていたのです。そして三十分も経ったでしょうか』

 

『ふっと下を見おろすと、この下宿の玄関から、駒井嬢が出て行くところじゃありませんか。アッと僕は思って、急いで窓から離れ、机の上のスケッチブックを小脇にかかえて、大急ぎで階段をかけ降りたのです。その時の気持で言えば、どうしても放って置けないような気がしたんです。

「俺の時計を、どこか古物商にでも売りに行くんじゃないかな?」

 そんな疑いが、ちらと頭に浮んだ。靴をつっかけて表に出ると、三十米ほど先を、駒井嬢がゆうゆうと歩いて行く。ひとつ尾行してやれ。パッとそれで心が決ってしまった。古物商あたりで、売買の現場を押えて、そして時計を取戻してやろう。そんな気持だったですな。そして僕は、何食わぬ顔をして、そっと彼女のあとをつけ始めたんです。

 彼女は横丁を出て、駅の方に歩いて行きます。十米ばかり遅れて、僕がついて行く。他人を尾行するということは、へんな楽しさがありますな。やがて彼女は足を止めて、とあるミルクホールに入りました。僕はと言えば、やはり足を止めて、ちょっと考え込み、そして同じくミルクホールの扉を押しました。駒井嬢の視線が、チラと僕を突き刺したようですが、しかし僕は素知らぬ顔をして、別の卓に腰かけました。

 駒井嬢が注文したのは、牛乳とトーストです。僕もお腹が空いていたので、同じものを注文しました。

 食べ終ると、彼女は手提(さ)げから金を払って、外に出る。僕も同じく外に出る。十米の距離を保ってついて行く。彼女は妙な表情で、二度か三度か振り返って僕を見たですな。それから街角の本屋に飛び込んだ。すなわち僕も飛び込む。もう尾行すると言うより、多少は厭がらせの気分もあったようです。何しろ一万五千円ですからねえ。

 彼女はちらちらと僕を横目で見ながら、それでも″オール読物″か何かを一冊買ったようです。ぐいとそれを手提げに押し込むと、ぷんぷんしたような動作で表に出た。僕も急いで表に出たら、いきなり待伏せていたように彼女が詰めよって来ました。

「あんた、何であたしのあとをつけるのよ――」

「つけてやしないよ」

 と僕は答えました。

「あんまりいい天気だから、散歩してるんだよ」

「散歩するんだったら、あたしの歩くところと、別のとこにしたらどう?」

「そりゃ僕の勝手だよ」

 僕もつけつけと言ってやりました。

「僕が歩いて行こうとすると、前をウロチョロされて、こっちの方がよっぽど迷惑だよ」

 駒井嬢の眉根がキリリと上りました。怒ったらしいんです。尾行されて、時計が売れないもんだから、怒ったんだな。僕はそう解釈して、追い討ちをかけるように言葉をつぎました。

「それとも、つけられで困るなんて、何か後暗いところでもあるのかい?」

「そら、やっぱりつけてるんじゃないの!」

 と彼女はキンキン声を立てました。

「今朝の井戸端ででもさ、変な眼付であたしの脚を見詰めたりしてさ。あんた、少し変態じゃない――」

 僕はたちまちどぎまぎしました。なにしろ真昼間の街なかでのキンキン声です。僕がたじろいだのを見ると、彼女は鼻をつんと反(そ)らして、勝ち誇ったようにくるりと向うをむき、トットッと歩き出しました。井戸端での俺の視線に気付かれていたとは不覚だったな。しかし次の瞬間、僕は直ちに狼狽から立直って、とたんに猛然たる敵意と闘志が湧き上ってきたですな。もうこうなれば、宇宙の果てまでも、どこどこまでもくっついて歩いてやる。僕もはずみをつけて、トットッと足を踏み出しました。

 駅前まで来ると、彼女はキッと振り返った。僕ははっと電柱に身をかくしたから、気付かれなかったらしいです。それから彼女は、手提げを小脇にかかえて、傍にあるパチンコ屋にそそくさと入って行きました。電柱のかげから飛び出して、僕もパチンコ屋の前に行き、内の様子をそっとうかがいました。日曜のことですから、猛烈に混んでいましたな。僕も五十円出して玉を買い求め、人混みの中にまぎれこみました。こちらも玉を弾きながら、彼女を見張ろうという寸法です。彼女は一番奥の一台にとりついて、今やパシパシと弾いている。僕は表側の手洗い台の傍にやっと空き台を見付けて、おもむろに玉を入れ、パチンパチンと打ち始めました。彼女を見張るのが主ですから、自然と指にも熱がこもらない。邪魔になるスケッチブックを台の上に乗せ、彼女の動静と玉の動きを、かたみにうかがっていたんです。そして十分も経ったでしょうか』

 

『人混みを横柄にかき分けて、奥の方から出て来る男がいたんです。そいつは、丁度空いていた僕の傍の台に取りついて、いきなりピシンピシンと玉を打ち始めたんです。

 その打ち方が、一風変っていたですな。玉を穴に入れる。ハンドルに全力をこめ、ヤッと懸声をかけて玉を弾き上げる。玉は大速力で、台の中を七八回も回転し、それからカランコロンところがり落ちる。ふつうだと、玉をあまりぐるぐる回転させないように弾き上げるのですが、この男のはめちゃです。しかも、ヤッ、ホウ、と言ったような懸声が入るんです。とてもにぎやかなやり方でした。

 そこで僕も興味をおこして、ちらちら横目でそいつを見たりした。それは縁の太い眼鏡をかけ、チョビ鬚(ひげ)を立てた、でっぷり肥った紳士です。四十五六にもなりますかな。まあ重役風と言えば、そうも言えましょう。左掌には玉を四五十、わし摑(づか)みに摑んで、懸命に玉弾きに没入している。

 そんなやり方だから、ほとんど当り玉が出ない。やり方を教えてやろうかと思ったけれど、それも差出がましい気がして、横目で見ているだけ。時たま当り孔(あな)に入って、ジャラジャランと玉が流れ出ると、男は肥った躰(からだ)を大きくゆすって、ホッホウホウと言うような奇声を出して喜ぶ。傍若無人とも言えるし、無邪気だとも思える。僕はついその男に気をとられて、注意をそこに向けてるうちに、ふと気がついて奥の方をうかがうと、駒井嬢の姿が見えないじゃありませんか。アリャアッと思って、あわててそこらを探して見たが、彼女の姿は全然見当らない。

 僕は急いで表に飛び出した。あたりをきょろきょろ見廻した。見当らなかったですな。僕がちょっと隣りの男に気をとられてる隙に、彼女は出て行ったらしいんです。突然僕は腹が立って来ましたよ。全く地団太(じだんだ)を踏みたくなった。

「畜生め」

 と思わず僕は呟いた。そしてスケッチブックを取りにパチンコ屋に戻ると、丁度(ちょうど)隣りの男は最後の玉を弾いて、それがムダ玉だったらしく、

「ほう。ほう」

 と嘆声を洩(も)らしながら、出て来るところです。てらてらした額に、汗の玉が五つ六つふき上っている。それを見たとたん、僕は急にこの男がすこし憎らしくなって来ましたね。

 僕がスケッチブックをかかえ表に出ると、男は額の汗を拭きながら、駅舎の方に歩いてゆくところでした。僕はその後姿を見た。その瞬間、ある考えが僕の胸に浮び上って来たんです。

「駒井嬢のかわりに、今日一日、この男のあとをつけ廻してやろうか!」

 どうしてこんな奇妙な考えが浮んで来たのか、僕にもよく判らない。すこしはやけっぱちになってたんでしょうな。それともう一つ、俺の邪魔をしたこの男が、今日一日どんな行動をとるか。そんな無償の好奇心みたいなものもあったようです。

 そこで僕は、瞬間に心を定めて、スケッチブックを小脇にかかえ直した。こういうことは気合いのもんですな。男は切符を買っている。傍に寄ってうかがうと、新宿までの切符らしい。僕もつづいて新宿までの切符を買いました。時間はもう正午に近かったですな』

 

『日曜日だから、電車もめちゃくちゃに混んでいました。この男は、でくでく肥ってるくせに、人混みをうまくかき分ける才能があるらしく、満員の車輛にするりとづり込んだ。同じ車輛に乗り込むのに、僕は一苦労しましたよ。それでも、エンジンドアにスケッチブックをはさまれたまま、どうにか発車した。[やぶちゃん注:「エンジンドア」自動ドアのこと。開閉動作に際して直接作動する動力装置を「ドア・エンジン」と呼ぶ。ウィキの「自動ドア」によれば、『鉄道車両用には導入当初は空気圧作動式が多く用いられてきたが、近年は電気スクリューやリニアモーター、ラック・アンド・ピニオンといった電動式も導入され始めており、空気配管の減少に伴うメンテナンスの簡素化に寄与している』とある。]

 新宿の街がまた大にぎわいでした。うらうらといい天気だし、暖かいし、休日だしという訳で、有象無象どもが家をあけて、ぞろぞろと浮かれ出たんでしょうな。おかげで男のあとをつけるのは、大変でしたよ。刑事や探偵の苦労がしみじみと判りましたよ。もっともこちらは、刑事みたいにホシを追ってるんじゃなく、意味なく人をつけてるんですけどね。

 男はつけられているとは露知らず、すっすっと人混みを縫って歩く。こちらは無器用に人にぶっつかったりして、あとを追う。男は新宿の地理にくわしいらしく、ふっと横丁に曲り込んだ。あぶなく姿を見失うところでしたよ。

 裏街にちょっとした喫茶店みたいなのがあった。扉に金文字で″喫茶軽食ワクドウ″と書いてある。ワクドウとはまた妙な名前ですな。僕の故郷の方言では、ワクドウとはひき蛙のことですが、あまり上品な名前じゃないですな。男はこのワクドウの前に立ち止り、ちょっと腕時計を見て、扉を押して内に入ったんです。そこで僕もあとにつづいて入った。

[やぶちゃん注:「ワクドウ」方言で「ワクドウ」が「蛙」や「疣蛙」(ガマガエル)を指すのは、調べたところ、前者が宮崎、後者が福岡であった。秋野の出身は判らぬが、梅崎春生は福岡生まれである。但し、小学館「日本国語大辞典」を引くと、「わくどう」があり、『蟇蛙(ひきがえる)をいう。わくひき』とあって、記載例書籍を「日葡辞書」とするから、方言と限定することは出来ないようだ。なお、人名にはちょっとないようだ。]

 食事時だから、客も割に入っていました。隅の方の卓に、赤いトッパーコートを着た若い女が、ひとり掛けていた。男は、やっほう、というような声を立てて、その卓に近づいて行きました。女はじろりと男の顔を見ました。年は二十四五見当の、ちょっと険はありますが、なかなかの美人です。男が卓につくと、女はすぐに口をききました。

「遅かったじゃないの」

「うん、ちょっと」

「あなた、いつも約束の時間に遅れるわね。この前だって、そうだったわよ」

「すまん、すまん。ついパチンコに熱が入り過ぎたもんだから――」

「パチンコだって。あたしとパチンコと、どっちが大切なのよ」

 どうしてそんな会話が耳に入るかと言うと、運良く隣りの卓が空いていて、そこに掛けることが出来たからです。両方の卓の間には簡単な仕切りがあるのですが、声はほとんど筒抜けでした。僕は耳を立てて、その会話を聞きました。

「何にする?」

 と男が聞きました。

「あたし、お腹が空いたわ。朝食を抜いたんですもの」

 男は指を立てて給仕を呼び、カレーライスとコーヒーを二人前注文しました。僕も即座に指を立て、給仕に同じものを注文しました。さっきトーストを食べたばかりで、お腹は空いてなかったのですが、行きがかり上そういうことにしたのです。どうせ尾行するからには、相手と同じものを食べ、同じ行動をした方がいいと思ったんですな。そうした方が、相手の心理の意識が良く理解出来る。まあ言ってみれば、そんな魂胆です。ところが、同じものを注文したことが、男の注意をひいたらしく、彼はくるりと振り返って、仕切り越しに僕を見ました。そして女に向って、小さな声でささやきました。

「お隣りも、カレーとコーヒーだとよ」

 やがて注文品がそれぞれ運ばれました。白飯にどろりと黄黒いカレーがかけてある。ヮクドウという言葉を思い出して、とたんにちょっと食慾が減退したですな。しかしメニューを見ると、百円と書いてある。百円の品物を食わなきゃ勿体(もったい)ないですからな。とにかく押し込むようにして食べましたよ。耳は相変らず隣席の方にそばだてながら。

 隣りではぼそぼそと、映画を見る相談か何かをしています。男はチャンバラが見たいらしいが、女の方は洋画を主張する。しきりに押問答をしていたようですが、どういうはずみか男が、ストリップはどうだ、などと言い出して、女からぴしりと掌を叩(たた)かれた模様です。僕は思わずクスリと笑いました。

「莫迦(ばか)ね、あんたは。あんなもののどこが面白いの?」

「だって、女の裸ってものは、あれでなかなか芸術的だよ。うん」

 かすかな笑い声と共に、急に声が低くなり、何かささやき合う様子でした。それから二人は、相談がまとまったらしく、立ち上って表へ出て行った。遅れてはならじと僕も支払いを済ませ、ワクドウを出ました。二十米ばかり先を、二人はよりそいながら、ぶらぶらと歩いている。

 二人は洋品店に寄りました。僕は歩道の電桂によりかかって、しばらく待っていました。やがて二人は出て来た。女は明色の手袋をつけていました。約束の時間に遅れた罰か何かで、買わせられたんでしょうな。二人が動き出したので、僕もぶらぶらと行動を起しました。人混みは相変らずだけれど、今度は向うの速力が鈍いので、つけるのはそれほど困難じゃない。ことに女のトッパーコートは、赤くて目立つので、見失う心配がありません。それから二人は洋画専門のM座の前に足を止め、男が切符を買いました。離れたところから見ていると、二人はモギリ嬢に切符を渡し、どうやら二階に上って行く様子なんです。二階は、れいのロマンスシートというやつです。これには困りましたな。ロマンスシートというやつは、二人で買うものに決っているし、僕は一人なんですからな。[やぶちゃん注:「トッパーコート」単に「トッパー」とも呼ぶ。婦人用のショート・コートの一種で、上半身を覆う程度の軽快なデザインのものを指す。一般的にはウエストからヒップまでの丈で、裾広がりのシルエットとなったものが多い。本邦では敗戦後を始めとして、昭和三十年代も流行した(サイト「アパレル派遣なび」のこちらに拠った)。]

 よっぽどここで尾行を止して、下宿に戻ろうかと思ったんですけどね。もしここで尾行を止めたら、俺は朝から一体何したことになるんだと思いましてね、一人だったけれど、思い切ってロマンスシートの切符を買い求めました。

 ええ、ええ、バカだってことは、その時も百も承知です。尾行したって、一文の得にならないことは、初めからハッキリしてるんですからね。でも人間には、気持の行きがかりってものが、確かにあるんですよ。そういうことで、人間は時々バカなことをやる。バカをやらない人間があったら、お目にかかりたいですねえ。人間のやることったら、総じてバカですよ。僕だって、そしてあなただって、同じことですよ』

 

『ロマンスシートの料金も、なかなか僕に辛かったが、皆が二人連れなのに、僕一人で腰かけているのも、相当に辛かったですねえ。

 れいの二人は、中央から右寄りの席に、肩をすりよせて掛けていました。僕はその斜め後方の席に、ひとりぽつねんと腰をおろしました。

 スクリーンの方はろくろく見ない。うっかり映画などにひき入れられると、さっきの駒井美代子嬢を取り逃したと同じようなことになる。そう思って、もっぱら二人の後姿ばかりに注意を払っていたのです。一体この二人はどういう関係にあるんだろう?

 男の方はさっき話した通り、三等重役的タイプですが、トッパーコートの女と夫婦関係にあるとは、全然思えない。しかし、恋愛関係としては、男の方が野暮ったすぎる。妾関係でもないようだし、情婦みたいなもんかな、などと考えてもみたんですが、世間知らずの僕には、そこらがハッキリとは判らない。

 すると暫(しばら)くして、暗がりの中で二人の顔が相寄ったと思うと、いきなり接吻したらしいんです。図々しいもんですな、暗がりといえども、スクリーンの照り返しで、はっきりそれと判る。男の方が積極的で、女の方は厭がってるような風情でした。映画館の席で、背後から見られてるかも知れないのに、あのチョビ鬚(ひげ)にくすぐられるのは、あまりソッとしないんでしょうな。しかし接吻したからには、この二人はある程度とある種類の色情関係にある、と考えて僕は思わず緊張しました。思えば僕も阿呆な役割でしたな。わざわざ高い金を払って、映画はろくに見ず、二人の接吻を看視してたんですからな。

 どういうつもりか、その時僕はスケッチブックをがさごそと膝の上にひろげ、その接吻のシルエットを、簡単なスケッチとして描いたりしたのです。描いたって、どういうこともない。絵描きの本能みたいなものですかな。そのうちにお見せしますよ。

 とにかく二人は、三十分ばかりの間に、四度接吻しました。それから僕は尿意を催してトイレットに行き、大急ぎで戻って来ると、丁度(ちょうど)二人は扉から廊下に出て来るころでした。危なかったですな。映画がさほど面白くなくて、出るところだったらしいんです。もう一足おそかったら、取り逃すところだったかも知れません。

 男は眼鏡ごしに、じろりと僕の顔を見ました。そして妙な表情を浮べました。何か思い出そうとして思い出せないような、そんな奇妙な表情です。女の方はトットッと階段を降りて行く。僕も何気ないふりをよそおって、階段の方に歩いた。男はそこでグフンとせきばらいをして、急ぎ足に僕を追いこし、女と肩を並べました。階段を並んで降りながら、男は女に何かささやいている模様です。僕はわざとゆっくりした足どりで、そろそろと階段を降りました。

 映画館を出て、彼等がまっすぐに歩いて行ったのは、駅です。駅で男は切符を買い求めた。某私鉄の切符だということは判ったが、どこまで買ったのか、それはついに判らなかった。男が妙な顔をした以上、あまりあつかましく近近とくっついて歩くわけにも行かなかったんです。ええ、僕は生れつき、それほど心臓が強くないんですよ。

 僕は大急ぎでポケットを探った。もう余すところ、百円足らずしかない。ワクドウとM座の支払いで、とたんに囊中(のうちゅう)が乏しくなって来たのです。二人の後姿は、すっすっと改札の方に遠ざかって行く。どこまで切符を買ったんだろう。どこかへしけこむつもりかな。そうだとすれば、相当遠距離かも知れないぞ。僕は惑乱しましたな。追うべきか諦めるべきか。次の瞬間、朝からの得体の知れない情熱の方が、ついに勝ちを占めました。是が非でもと、僕は歯をかみ鳴らすようにして、切符をせかせかと買い求めました。今日一日は、尾行の鬼となってやる!

 買った切符は、最短距離のやつです。もちろん乗越して、乗越賃金を払う覚悟でした。二人の姿は、もう見えません。でも電車が判っているから安心です。と言っても、一足違いで発車されると一大事ですから、僕は駅の地下道を小走りに走りましたよ。

 十三時五十分発各駅停車。その電車の最後尾の車輛に、二人は乗っていました。女は座席に腰をおろしていましたが、男の方は立って、吊革にぶら下っていました。僕は気付かれないように、車掌室の真鐘(しんちゅう)棒に背をもたせ、もっぱらプラットホームの方ばかりを見るようにしていました。はたから見れば、気軽に郊外スケッチに赴く若い画家、そんな風(ふう)に見えたでしょうな。尾行者などとは誰も悟らない。間もなくベルがいっぱいに鳴り渡り、発車です。

 ところが、駅を五つ六つ過ぎる頃から、男は僕の存在に気付いたらしいのです。ちらっちらっと僕の方を見るらしい。あるいは窓ガラスを鏡の代用にして、僕の動作を見張っている様子なのです。僕の方も、駅に停る度に、彼等が下車するかどうか確かめる必要があるので、どうしても視線がそちらに行く。それまで男と女は、何か話し合ったりしていたのに、僕に気付いてからは、男はすこしずつ無口になって来たようです。妙に怒ったような、不安なような、ふくれたような顔になって来ました。

 女の傍の席が空いたので、男は腰をおろしました。僕に気付いているのは男の方だけで、女はまだのようでした。気付かれたらもう仕方がない。そう思って、僕はもう窓外を眺めるふりは止して、大っぴらに二人を眺めることに心を決めました。つまり、気持の上で居直ったんですな。居直りたくもなりますよ。朝から貴重な時間と貴重な金銭を費やして、ここまでやって来たんですからな。それともう一つ、朝から傍若無人にパチンコをやったり、きれいな女性とあいびきみたいなことをやったり、こちらは生活と芸術に苦労してるのに、愉しげに人生を享楽している。金も相当豊富に所持しているらしい。すなわち僕は、この男に、もはやかすかな嫉妬と憎悪を感じていたらしいんです。それは相手の女が、大変きれいな女だったせいもあったでしょうな。

 きれいな女だったですよ。あなたにも、一度お見せしたい位です。ちょっと険を含んだ、するどい顔付の女で、身体つきもなかなか良かった。駒井美代子の比ではありません。脚なんかカモシカみたいにすらりとしていましたね。頭には形良くベレー帽をかぶっている。

 男の方でも、駅に着くたびに、この僕が降りないか降りないかと、考えてるらしいんですな、がたりと停車すると、じろりと僕をにらみつける。僕もじろりと向うを見る。僕はもちろん向うの氏素姓(うじすじょう)は知らないのですが、向うからすれば、この僕はなおのこと気味悪い存在に違いありません。絵描きみたいな風体のくせに、どこまでもついて来るんですからな。

 そして電車は、やっとQという駅に停りました。女がすっと立ち上りました。男はじろりと僕を見てつづいて立ち上りました。扉が開く。二人は出る。別の出口から、僕も歩廊に降り立ちました。男はギョツとした風に、僕の方を見ました。

 Q訳での下車客は、相当な数でした。Q遊園地が、ここにはあるんです。子供連れの客が多かったのも、そのせいでしょう。それらがどっと改札口へ押しかける。その混雑に紛れて、僕の靴をぐいと踏みつけた奴がいます。飛び上るほど痛かったですな。見ると僕の横にいるのは、れいの男なんです。混雑にまぎれて傍に忍び寄って、わざと僕の足を踏みつけたらしいんです。

「いてて!」

 と僕は思わず悲鳴を上げました。男はにやりと快げに笑い、そのまま改札口を出て行った。この野郎、と思って僕もそのあとを追った。乗越賃金でちょっと暇どったけれども。

 Q遊園地は、ここから一粁ほど隔てた小高い丘の上にあるんです。駅前から遊園地まで、子供電車が出ている。子供電車と言ったって、トロッコに色を塗り、それにテント屋根をかぶせただけの、お粗末なしろものです。二人は年甲斐もなく、嘻々(きき)としてそれに乗込みました。僕ももちろん乗り込んだ。二人のすぐうしろの座席です。もうこうなれば意地でしたな』

 

『遊園地内も、桜が満開でしたよ。

 このQ遊園地に僕は初めて来たんですが、なかなか繁昌してるんで、おどろきましたよ。うじゃうじゃの人の波です。設備も割にととのっていました。子供自動車やウォーターシュート。野球場や動物園。子供連れで遊びにゆくには、手頃のところですな。あんまり人が多いんで、砂ぼこりが立ち、折角の桜もうすよごれて、まるで紙屑か何かをくっつけたみたいに見えましたな。

 僕はまかれないように、忠実に二人のあとにくっついて歩いた。その頃から女の方も、少し変だと思い始めたらしいです。時々不審げなまなざしで、僕の方を見る。

 二人はウォーターシュートに乗ったり、吊下げ飛行機に乗ったりする。年甲斐もなく、そんなことが楽しいらしいんです。僕はと言えば、そんなのに乗ってみたいんだけど、生憎(あいにく)懐中が乏しいんで、乗れない。うっかり乗ると、帰りの電車賃がなくなるおそれがある。仕方がないから、連中が乗っている間は、スケッチブックを開いて、そこらの写生などをして暇をつぶしていました。連中が降りて来ると、またついて歩く。無償の情熱はいいけれど、さっき踏まれた足は痛いし、そろそろくたびれては来たし、イヤになって来たですな。しかし、ひるむ心を引立て引立てして、番犬のようにつきまとって歩いた。

 それはビックリハウスというやつでしたな。窓のない小さな建物で、内に入ると何かビックリすることがあるらしいんです。男は二人前の切符を買った。一枚十円だけれど、僕には買えない。だから、どんなビックリか、僕は今でも判らないです。

 建物の入口に、係の少女が立っている。そしてその前まで行って、男は女だけを建物の中に入れました。するとそれで定員だと見えて、少女が扉をしめた。そのとたんに男はくるりとふりむき、顔をきっと緊張させて、僕の方へまっすぐつかっかと歩いてくる。ちょっとばかりこちらも緊張しましたな。

「おい。君は一体、誰から頼まれた?」

 男は僕のそばにピタリとよりそい、低い声でそう言いました。やや凄味(すごみ)を利(き)かせた口調です。僕は身構えたまま黙っていました。だって返事のしようがないですからね。すると男の声は急にやわらかく、意外にも哀願の調子さえ帯びて来たんです。

「え、誰に頼まれた。トミコからか?」

 ビックリハウスから、わあわあとけたたましい混声が流れ出ました。内部の叫声喚声を拡声器で表に流しているんです。人寄せのためでしょうね。

「え。トミコだろう。な、依頼主はトミコだろう」

 僕はわけも判らないまま、重々しくうなずきました。すると男は絶望したように頭をかきむしりました。

「そうか。やはりトミコか」

 男はうなり声を上げました。そして忙しく手を内ポケットに突込むと、ワニ皮の財布を引っぱり出しました。そして左手で僕の腕を摑(つか)みました。

「な、金ならいくらでも出す。その報告を握りつぶして呉れんか。頼む」

 予想外に事態が進展したので、面食ったのは僕です。僕は思わず目をパチパチさせました。何が何だか五里霧中ながら、とにかく僕が何かと間違えられてるらしいこと、そしてそのことでこの男が絶望して、僕に金を呉れたがっている、そのことだけはやっと了解出来ました。男はおっかぶせるように言葉をつぎました。

「え。いくら要るんだ。いくら?」

「一万五千円」

 とっさにその金額が口に出て来た。やはり無意識の裡(うち)に、あの腕時計のことを心配してたんですな。そう言ってしまって、自分でもびっくりした位です。

「なにい。一万五千円だと?」

 そして男は笛のような嘆声を発しました。

「そりゃ高い。いくらなんでも高過ぎる。少し負けて呉れ」

「イヤです」

 こうなれば僕も必死です。折角金を呉れると言うのに、ここで所定の金額を頑張らなきゃ、友達に会わせる顔がない。男の顔は赤く怒張して来ました。すこし声を荒らげて、

「負けろ!」

「イヤだ」

「考え直せ!」

「じゃ金は要らん。その腕時計を呉れ」

 男はあわてたように右の手首を引っこめました。

「無茶言うな。この時計は三万円もする」

「じゃ、金よこせ」

 そして僕は、いきなりスケッチブックを開いて、接吻のデッサンを見せてやりました。男はさっと顔色を変え、それから、へなへなと身体から力を抜いたようでした。

「そうか。それじゃ仕方がない」

 男はしぶしぶと財布から紙幣(さつ)束を出し、むこう向きになって数えてる様子でしたが、直ぐに向き直って、束を僕の眼前につきつけました。そして沈痛な声で言いました。

「ここに九千円ある」

「九千円では足りない」

「だから、あと六千円は、名剌に書くから、そこで受取って呉れ」

「大丈夫でしょうな。そこは」

「大丈夫だ。それより君の方は、大丈夫だろうな。俺からしぼって、またトミコから取ったら、承知しないぞ。いいな」

「大丈夫だ。三橋とは違う」

 男はせかせかと名刺と万年筆を引っぱり出し、裏に何か書き始めました。追っかけられるような動作です。ははあ、女がビックリハウスから出て来ないうちに、事を処理してしまいたいんだな。そう僕は気付きました。ちょっと気の毒な気持でしたよ』[やぶちゃん注:「Q遊園地」このロケーションとなる遊園地がどこなのか、私にはよく判らない。多くのアトラクションがあり、動物園もあり、何より、駅から「子供電車」があるというのは、恐らく私より年上の方(私は昭和三二(一九五七)年生まれ)なら、即座にお判りになるだろう。御教授戴けると、恩幸、これに過ぎたるはない。「三橋」不詳。詐欺事件か何かの犯人の名らしいが判らぬ。出来れば、遊園地とともに、よろしく御教授あられたい。]

 

『僕は名刺を受取り、大急ぎでビックリハウスの前を離れました。早くあっちに行け、と男が言ったせいもあるのですが、ぐずぐずしてると男の気持が変って、金を取戻されそうな気もしたからです。急ぎ足で駅の方に戻りながら、僕は名刺の表を読みました。鴨志田竜平。そう印刷してあります。あの肥っちょの名前なのでしょう。裏をかえすと。『拝啓。この名刺持参人に六千円渡してやって呉れ。そちらは忙しいか。こちらはとても忙しい。アハハ。オテル殿。竜平』

 と書いてあります。せっぱつまってこれを書いたくせに、何がアハハだと、僕はいささか軽蔑と憐憫(れんびん)を感じましたな。

 男の説明では、僕が残金を受取る先方は、神田駅近くのおでん屋だということでした。オテルというのはそこの女将らしいのです。男とオテルとはどういう関係にあるのか、急いでいたもんで、その時はつい聞きそびれてしまいました。

 さて、神田駅で降り、男が教えた道筋をたどり、そのおでん屋の表に来た時は、もうあたりはすっかり暗くなっていました。七時ちょっと過ぎていましたかな。繩のれんからそっとのぞいて見ますと、五坪か六坪程度の小ぢんまりした店構えです。お客が一人入っています。台の向うには三十前後の、白粉の濃い女が、おでん鍋の中味を箸(はし)で調整しています。これがオテルだな、と思いながら、僕はガラス扉をがらりとあけました。

「今晩は」

 と僕は言いました。オテルさんはちらと僕の風体を見て、つっけんどんに言いました。

「似顔画はお断りですよ」

 僕がスケッチブックを持っているので、間違えたらしいのです。

「似顔描きじゃないよ。飲みに来たんですよ」

 そう言って僕は台の前に腰をおろしました。一杯飲んで、それから用事にとりかかろうというつもりなんです。

「あら、そう。それはそれは」

 オテルさんは急に愛想良くなって、いそいそとおちょうしをつけました。僕は莨(たばこ)に火をつけ、ちらりちらりとオテルを観察していました。どうも水商売上りらしいな。ちょっとヒステリー気味なところもあるらしいぞ。さて、どんな具合に切出してみるかな。

 おちょうしのカンがつき、おでんを一皿注文して、僕はおもむろに飲み始めました。九千円という大金がポケットにあるし、ゆったりした気分でしたな。昼間ワクドウでカレーライスを食べたきりですから、腹はぺこぺこで、おでんも旨(うま)かったし、お酒ははらわたに沁み渡ったです。適度の運動の後の酒、これはこの世の極楽ですな。

 先客は三十五六の、ちょっといなせな請負師らしい風体の男です。オテルさんと親しげに冗談口をきき合ったり、盃をさしたりさされたり、古くからの顔馴染のように見えました。男が言いました。

「今日はオテルさん一人かい。オフサはどうした」

「ありゃ一昨日クビにしちゃったわよ」

 とオテルさんは眉をひそめて、はき出すように言いました。

「へえ。何でクビにしたんだね」

「どうもこうもないよ。あの女、見かけによらず淫乱でね、店の名にかかわるからさ」

 それから二人の間で、オフサという女の話がやりとりされました。僕は黙ってそれを聞きながら、盃(さかずき)を傾けていました。オフサというのは、この店の雇い女らしく、何か男と間違いをおこして、それで追い出されたらしいのです。しかしその件については、オテルさんはあまり口にしたくないらしく、最後に不快げに眉をひそめて、嘆息しました。

「もう、男も女も、あたしゃ全然信用しないことにしたよ」

「カモさんじゃないのかい。オフサに手をつけたのは」

 男は盃を口に持って行きながら、ズバリと言いました。オテルさんはぎょっとしたらしく、顔をこわばらせたが、直ぐに忌々しげにうなずきました。

「実はそうなんだよ。ほんとに癪(しゃく)にさわるったらありゃしない」

「そうだろうね。カモさんったら、女癖が悪いからな。イカモノ食いというやつだよ。それでどうしてオテルさんは見破ったんだね?」

「オフサの日記を調べてみたのさ。どうも様千が変だったからね。すると、ところどころに鴨(かも)の絵が書いてあるのさ。あたしゃ初めニワトリの両かと思ってさ、何でニワトリが描いてあるのかと考えてるうち、ハッと気が付いたのさ。癪にさわるじゃないの。鴨志田と寝た日の心覚えに、その画を描いたってえの」

 僕は驚きましたな。カモさんというのが鴨志田の事とは、今迄思いもしなかったからです。これは少々風向きが宜(よろ)しくない様子です。

「それで、オフサを問い詰めて白状させたのが一昨日。直ぐにクビにしてやったわ」

 オテルさんはコップに冷酒を注いで、ぐいとあおりました。眼がすこし吊上っています。

「そいじゃ、ばれたことはカモさんはまだ知らないのかい」

「そうなんだよ。やって来たらとっちめてやろうと、手ぐすね引いて待ってるのだけどね。何だい、ろくに手当も呉れない癖に、ひとかどの旦那面しやがってさ!」

 僕はと言えば、おちょうしも空になったし、皿のおでんも食い尽したし、ここらで口を入れなければ、ますます具合が悪くなる予感がしたものですから、おそるおそる口を出しました。

「じ、じつは、カモさんから頼まれて、やって来たんですが――」

「え。なに。カモ?」

 とオテルさんはきりりと僕の方に向き直りました。

「一体何を頼まれて来たのさ?」

「こ、これを」

 僕は急いで名刺を差出しました。声もいくらかかすれたようです。オテルさんは名刺をひったくるようにして、忙しくそれを読み下しました。額の静脈がもりもりと盛り上ったようです。

「何だい。六千円。よくもそんなことが言えるわね。バカにしてるわ」

「でも、僕は六千円、どうしても要るんですよ」

「あんたは一体誰なの。何者なの。鴨志田とどういう関係があるのさ!」

「関係というほどじゃないけれど、僕はあの人に六千円貸しがあるんです」

「貸し? あの人は、他人様から金を借りるような男じゃないわ」

「だって、チャンと貸してあるんですよ!」

 と僕は言葉に力をこめました。

「鴨志田さんは、明晩こちらにお伺いすると言ってましたよ。その時、色々説明するって」

 これは僕がウソをついたのです。そう言えばオテルさんの気持が和んで、金を出して呉れるかも知れないと思ったのです。するとオテルさんは、軽蔑的な口調ではき捨てるように言いました。

「六千円なんて大金は、家には今ないわよ!」

「こんな店をやってて、無いわけはない。無いとは言わせませんぞ!」

 僕も腹が立ったので、つい税務吏員みたいな口を利きました。

「ないわよ!」

 とオテルさんは怒鳴りました。

「ある!」

「ない!」

 オテルさんはヒステリックに叫んで、手を棚に伸ばし、一冊の帳面を投げつけるように僕によこしました。帳面は台の上でハラリと拡がりました。

「疑うんなら、それを見てよ。それが全部のツケの帳面よ。来る客来る客、皆ツケばっかりで、現金は一文も入りゃしない。ウソだと思ったら、金箱見せてやろうか。え?」

 そのキンキンした声を聞きながら、僕の視線はその帳面の一頁に、ひたと釘付けにされていたのです。ここまで言えば、もうお判りでしょう。その沢山の名前の中に、あなたの名前と、その下に金額、六千八百円也と、チャンと記入されてあったんです。偶然も、こうピッタリ行くと、もう言うところないですな。しかし、あなたがあんな変てこりんなおでん屋の常連だとは、ちょっと驚き入りましたな。僕はおもむろに口を開きました。

「じゃ、このツケを僕が取って来て、それを僕のものにしていいかい?」

 オテルはびっくりしたように僕の顔を見、首を伸ばして帳面をのぞきこみました。僕はあなたの名のところを指差しました』

 

『オテルさんとの談合は、それでまとまったんですがね。

 僕の貸金は六千円だし、あなたのツケは六千八百円でしょう。差額の八百円を払ってゆけと、オテルさんはしきりに主張するのです。僕は素直に払いました。それと今飲んだ分の勘定。これが二百二十円です。二十円というハシタ金がなかったので、僕はあちこちポケットを探ってると、上衣の内ポケットに何かコリッとした固いものが入っている。何だろうと思ってつまみ出して見ると、僕は思わずアッと驚愕の叫び声を上げましたよ。それは一体何だったと思います? なんと腕時計だったんですよ。今朝盗られたとばかり思っていた腕時計が、チャンと内ポケットに入っていたんです。何ともはや驚きましたな。これが内ポケットに入ってる位なら、僕は一体何のために今朝からせっせと動き廻ったか、わけが判らんじゃありませんか』

 

 矢木君はそこまで話して、ぐっとコップのビールを飲みました。もうそろそろ日暮れ時です。半ダースの瓶もほとんど空になりました。いい気持に酔っぱらって、身体の節節がとろけてゆくような感じでした。

「それは一日御苦労だったね」

 と僕はけだるく口を開きました。

「しかしまあ、時計が出て来てよかったな」

「あの洗面の時、大事なものだと思って、無意識に内ポケットにしまいこんだんでしょうな。駒井嬢の膝頭のおかげで、すっかりそれを忘却してしまったらしい」

 そして矢木君は、とろりとうるんだ眼を僕に向けました。

「それでと、つまり、僕はあなたに、六千八百円の貨しがあるわけになりますな。これは一体――」

「棒引きだよ」

 と僕はたしなめてやりました。

「その上僕から金を取ろうなんて、それはむさぼりと言うもんだよ。芸術家ともあろうものが、そんな慾張りでは、絶対に大成しないよ。棒引きにしなさい。そうすれば僕もたすかる」

「それもそうですな。では、そういうことにしますか」

 矢木君はけろりとした表情でそう答えながら、残りのビールをぐっと飲み乾しました。

萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 櫻

 

   

 

櫻のしたに人あまたつどひ居ぬ

なにをして遊ぶならむ。

われも櫻の木の下に立ちてみたれども

わがこころはつめたくして

花びらの散りておつるにも淚こぼるるのみ。

いとほしや

いま春の日のまひるどき

あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。

 

[やぶちゃん注:初出は大正二(一九一三)年五月号『朱欒』。但し、無題。以下に示す。

   *

 

 

 

櫻のしたに人あまたつどひ居ぬ。

なにをしてあそぶならむ

われも櫻の木の下に立ちてみたれども

わがこゝろはつめたくして

花びらの散ちておつるにも淚こぼるゝのみ

いとほしや

いま春の日のまひるどき

あながちに哀しきものをみつめたる我にしもあらぬを

 

   *

やはり、筑摩版全集の「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」に、本篇の草稿が載る。以下に示す。

   *

 

 さくら

 

櫻の下に人あまたつどひ居ぬ

何をしてあそぶならん

われも櫻の木の下に立ちて見たれども

わがこゝろはつめたくして

花びらの散ちて落つるにも淚こぼるゝのみ

いとほしや

いま春の日のまひるとき

あながちに哀しきものをみつめたる我にしもあらぬを

 

   *]

萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 女よ

 

   女  よ

 

うすくれなゐにくちびるはいろどられ

粉おしろいのにほひは襟脚に白くつめたし。

女よ

そのごむのごとき乳房をもて

あまりに强くわが胸を壓するなかれ

また魚のごときゆびさきもて

あまりに狡猾にわが背中をばくすぐるなかれ

女よ

ああそのかぐはしき吐息もて

あまりにちかくわが顏をみつむるなかれ

女よ

そのたはむれをやめよ

いつもかくするゆゑに

女よ 汝はかなし。

 

[やぶちゃん注:初出は大正二(一九一三)年五月号『朱欒』。以下に示す。「かくはしき」はママ。老婆心乍ら、「擽ぐる」は「くすぐる」と読む。

   *

 

 女よ

 

うすくれなゐにくちびるはいろどられ

粉おしろいのにほひは襟脚に白くつめたし

女よ

そのゴムのごとき乳房をもて

あまりに强くわが胸を壓するなかれ

また魚のごときゆびさきもて

あまりに狡猾にわが背中をば擽ぐる勿れ

女よ

ああそのかくはしき吐息をもて

あまりに近くわが顏をみつむる勿れ

女よ

そのたはむれをやめよ

いつもかくするゆゑに

女よ、汝はかなし。

 

   *

やはり、筑摩版全集の「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」に、本篇の草稿が載る。以下に示す。「くれない」「みつむこと」はママ。

   *

 

 女よ

 

うすくれないにくちびるは彩られ

粉白粉のにほひは襟脚に白くつめたし

女よ

そのゴムのごとき乳房をもて

あまりに强くわが胸を壓する勿れ

また魚のごとき指先もて

あまりに狡猾にわが背中をば擽ぐる勿れ

女よ

あゝそのかくはしき吐息をもて

あまりに近く我が顏をみつむこと勿れ

女よ

そのたはむれをやめよ

いつもかくする故に

女よ汝は悲し

          (一九二三、四、)

 

   *]

萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 こころ

 

   こ こ ろ

 

こころをばなににたとへん

こころはあぢさゐの花

ももいろに咲く日はあれど

うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

 

こころはまた夕闇の園生のふきあげ

音なき音のあゆむひびきに

こころはひとつによりて悲しめども

かなしめどもあるかひなしや

ああこのこころをばなににたとへん。

 

こころは二人の旅びと

されど道づれのたえて物言ふことなければ

わがこころはいつもかくさびしきなり。

 

[やぶちゃん注:初出は大正二(一九一三)年五月号『朱欒』。以下に示す。

   *

 

 こゝろ

 

こゝろをばなにゝたとへん

こゝろはあぢさゐの花

もゝいろに咲く日はあれど

うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

 

こゝろはまた夕やみの園生のふきあげ

音なき音のあゆむひゞきに

こゝろはひとつによりて悲しめども

かなしめどもあるかひなしや

あゝこのこゝろをばなにゝたとへん

 

こゝろは二人の旅びと

されど道づれのたえて物いふことなければ

わがこゝろはいつもかくさびしきなり

 

   *

こちらは踊り字「ヽ」「ゞ」が視覚的アクセントとして奇妙な内在律を感じさせる。しかし、因みに、私は人生の中で幼児期より「々」以外の踊り字を用いたことがなく、特に複数語の踊り字「〱」「〲」は特に激しい嫌悪を催し、「〻」も気持ちが悪いほどで、残る余生も自分の文章に用いることはない。しかし、この初出詩篇は、なんとも、踊り字がまっこと、いいではないか。

 なお、筑摩版全集の「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」に、本篇の草稿が載る。以下に示す。「あぢさい」はママ。

   *

 

 こゝろ

 

こゝろをば何にたとへん

こゝろはあぢさいの花

もゝいろに咲く日はあれど

うすむらさきのためいきばかりはせんなくて。

こゝろはまた夕やみの園生のふきあげ

砂時計の漏刻

音なき音の步むひゞきに

こゝろはひとつによりて悲しめども

悲しめどもあるかひなしや。

あゝこのこゝろをなにゝたとへん

こゝろは二人の旅びと

されどその道づれのたえて物いふことなければ

わがこゝろはいつもかく淋しきなり

 

   *]

2021/12/30

ブログ・カテゴリ「萩原朔太郎Ⅱ」創始

ブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」の記事が1000件に近づいてきた。私の加入しているニフティのブログ「ココログ」は、一カテゴリでは千件を超えると、過去記事が表示されなくなり、カウントも増えない。ブログ画面では1001以前の古い記事がリンクとして出てこなくなるため、過去記事を読者が読む際には、使い勝手が非常に悪くなる。特に向後も順調に増える予定の萩原朔太郎の記事では、それは甚だ困るため、「萩原朔太郎Ⅱ」というブログ・カテゴリを新規に作ることとした。今まで通り、よろしく。 心朽窩主人敬白

萩原朔太郎詩集 純情小曲集 正規表現版 始動 / 「珍らしいものをかくしてゐる人への序文」(室生犀星の序)・自序・「出版に際して」(萩原朔太郎)・目次・愛憐詩篇「夜汽車」

 

[やぶちゃん注:萩原朔太郎の第四詩集に当たる「純情小曲集」は大正一四(一九二五)年八月十二日に新潮社から刊行された。収録作品は「愛憐詩篇」十八篇、「鄕土望景詩」十篇で、後者には「鄕土望景詩の後に」という「鄕土望景詩」の六つの詠唱対象地についての散文詩的自解がある。

 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」にある同原本初版(萩原朔太郎署名附。リンク先は一括PDF。書誌等のタイトル・ページはここ)画像を視認した。同データの画像使用は許可制であるので、表紙その他についてヴィジュアルに見て戴きたい箇所は、底本のHTML版の当該単一画像へのリンクとした(本体を包んでいるカバーも本詩集の一部として採り上げてある)。但し、最後(「鄕土望景詩の後に」の後で、萩原恭次郎の「跋」の前)に萩原朔太郎が配したモノクローム写真「前橋市街之圖」(撮影者不詳)については、参考にした所持する昭和五一(一九七六)年筑摩書房刊「萩原朔太郞全集 第二卷」にある画像を取り込み、トリミング補正して用いる。なお、加工データとして「青空文庫」の同詩集のテキスト・ファイル・データ(二〇一八年十二月十四日最終更新版・入力・kompass氏/校正・小林繁雄氏/校正・門田裕志氏)を使用させて貰った(ここの下方にある)。ここに御礼申し上げる。

 底本原本では、読点の後に有意な間隙(一字分弱)を空けたり、逆に鍵括弧が前後とも詰っていたりする版組みであるが、再現していない。また、署名内の字空けや下方インデントなどは、ブログ・ブラウザでの不具合を考えて、これも再現していない。字のポイントも相対的な感じで変化を加えたり、加えなかったりしている。また、注では、今までの詩集正規表現版と同様に初出を示し、さらに気づいた限りの、草稿も電子化する。

 ★★★なお、ブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」の記事が一千件に近づいてきた。私の「ココログ」は一カテゴリでは千件を超えると、過去記事が表示されなくなり、カウントも増えない。萩原朔太郎の記事では、それは甚だ困るため、★「萩原朔太郎Ⅱ」★というブログ・カテゴリを新規に作ることとした。★★★20211230日始動 藪野直史】]

 

 

 

MCMXXV

 

版 出 社 潮 新

 

 

[やぶちゃん注:ここのみ実際の画像にやや似せて電子化した。本体を包んでいるカバーの表紙。地は白で、文字は赤で、背寄りに配され、全体が二重の長方形の赤罫で囲われてある。「MCMXXV」はローマ数字で刊行年の「1925」を意味する。]

 

 

純 情 小 曲 集    萩 原 朔 太 郞 著

 

[やぶちゃん注:カバー背文字。実際は縦書で詩集名は著者名よりポイントが大きい。体色が激しいが、思うに、カバー裏表紙中央の新潮社のマークも、同じく前の表紙側と同じく赤で印刷されているので、この背文字ももとは同じ赤と推定される。カバーを総て開いた画像もある。ここで先に言ってしまうが、本体の背も同じ文字列であるが、遙かに小さく、上方に布地に紙に印刷された、ゴシック体の、いかにも狭苦しく詰めたそれが、貼り付けられてある。

 

 

 純情小曲集 銅版畫入

 

         西歷一九二五年 東京版

 

[やぶちゃん注:本体表紙。縦書。詩集題名は黒い罫線で囲われてある。背から五分の一辺りまでの「平(ひら)の出」部分が、裏表紙(中央にモノクロームの新潮社のマーク)ともに、赤い布装となっている。「銅版畫入」は不審。既に注した通り、本詩集にはモノクローム写真が一葉あるだけである。或いは、詩集発行案の当初には、後の詩集「底本 靑猫」に入っているような版画を挿入する企画意図が萩原朔太郎にはあり、それがとりやめになった後、その修正(取消)が編集部に通知されず、初期原稿のままにかくなってしまったものか?

 見返しの「効き紙」も「遊び」も無地であるが、その「遊び」の右下方に萩原朔太郎の直筆サインがある。

 

 

 純 情 小 曲 集 萩 原 朔 太 郞 著

 

            新 潮 社 出 版

 

[やぶちゃん注:扉。縦書。全体が明るい水色の罫線で囲われている。

 

 

 

北原白秋氏に捧ぐ

 

[やぶちゃん注:献辞。扉の次の次であるこの左ページにある。

 以下は室生犀星による序。なお、一括版(PDF)で縦覧されたいが、本詩集の目次と詩集本文開始標題のページを除くと、総てのページの端、右ページでは右に、左ページでは左に、縦罫(上下開放)があり、その外下方につつましやかな斜体ノンブルが打たれるというお洒落な版組みとなっている。]

 

 

 珍らしいものをかくして

 ゐる人への序文

 

 萩原の今ゐる二階家から本鄕動坂あたりの町家の屋根が見え、木立を透いて赤い色の三角形の支那風な旗が、いつも行くごとに閃めいて見えた。このごろ木立の若葉が茂り合つたので風でも吹いて樹や莖が動かないとその赤色の旗が見られなかつた。

「惜しいことをしたね。」

 しかし萩原はわたしのこの言葉にも例によつて無關心な顏貌をした。

 

 或る朝、萩原は一帖の原稿紙をわたしに見せてくれた。いまから十三四年前に始めてわたしが萩原の詩をよんだときの、その原稿の綴りであつた。わたしは讀み終へてから何か言はうとしたが、それよりもわたしが受けた感銘はかなりに纖く鋭どかつたので、もう一度默つて原稿を繰りかへして讀んで見た。そしてやはり頭につうんと來る感銘が深かつた。いいフイルムを見たときにつうんとくる淚つぽい種類の快よさであつた。わたしはすぐ自分のむかしの詩を思ひ返して、萩原もいい詩をかいて永い間世に出さなかつたものだと、無關心で、無頓着げなかれの性分の中に或る奧床しさをかんじた。かれは何か絕えずもの珍らしいものを祕かにしまつてゐるやうな人がらである。

 

   五月二十一日朝   犀  星  生

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。

 以下、萩原朔太郎の「自序」。下線はママ。かなり細い右傍線(最初の部分の画像を参照されたい)である。]

 

 

 自    序

 

 やさしい純情にみちた過去の日を記念するために、このうすい葉つぱのやうな詩集を出すことにした。「愛憐詩篇」の中の詩は、すべて私の少年時代の作であつて、始めて詩といふものをかいたころのなつかしい思ひ出である。この頃の詩風はふしぎに典雅であつて、何となくあやめ香水の匂ひがする。いまの詩壇からみればよほど古風のものであらうが、その頃としては相當に珍らしいすたいるでもあつた。

 ともあれこの詩集を世に出すのは、改めてその鑑賞的評價を問ふためではなく、まつたく私自身への過去を追憶したいためである。あるひとの來歷に對するのすたるぢやとも言へるだらう。

 

 「鄕土望景詩」十篇は、比較的に最近の作である。私のながく住んでゐる田舍の小都邑と、その附近の風物を咏じ、あはせて私自身の主觀をうたひこんだ。この詩風に文語體を試みたのは、いささか心に激するところがあつて、語調の烈しきを欲したのと、一にはそれが、咏嘆的の純情詩であつたからである。ともあれこの詩篇の内容とスタイルとは、私にしては分離できない事情である。

 「愛憐詩篇」と「鄕土望景詩」とは、創作の年代が甚だしく隔たるために、詩の情操が根本的にちがつてゐる。(したがつてまたその音律もちがつてゐる。)しかしながら共に純情風のものであり、咏嘆的文語調の詩である故に、あはせて一册の本にまとめた。私の一般的な詩風からみれば、むしろ變り種の詩集であらう。

 

 私の藝術を、とにかくにも理解してゐる人は可成多い。私の人物と生活とを、常に知つてゐる人も多少は居る。けれども藝術と生活とを、兩方から見てゐる知己は殆んど居ない。ただ二人の友人だけが、詩と生活の兩方から、私に親しく往來してゐた。一人は東京の詩友室生犀星君であり、一人は鄕土の詩人萩原恭次郞君である。

 この詩集は、詩集である以外に、私の過去の生活記念でもある故に、特に書物の序と跋とを、二人の知友に賴んだのである。

 

  西曆一九二四年春

    利根川に近き田舍の小都市にて 著 者

 

[やぶちゃん注:「あやめ香水」不詳。但し、「月に吠える」の「五月の貴公子」に「あやめ白粉」というのが出現する。『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 五月の貴公子』の私の注を見られたいが、そこでは「あやめ白粉」は造語である可能性が強い。但し、そこに引用したように、『頭髪用の香油に「イリス香油(井上太兵衛商店)」』というものがあったし、現行、調べると、単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科 Iridaceae アヤメ属 Iris を用いた香水が外国では実際に製造されている(画家齋藤芽生氏のブログ「隠花微温室」の「イリスの香水」によれば(段落を総て繋げた)、『「28ラパウザ」というのはココ・シャネルの南仏の別荘の名だそうだ。シャネルは自分のアイリス畑を持っている。アイリス香料は世界一高価。どこかで読んだが一番高いとキロ一千万円するのだそうだ。そのアイリスをこれでもかとふんだんに使うのがシャネルの香水。No.19とか』。『根茎を三年土の中で育て、掘り起こして数年寝かせ、またそこから油脂に溶かしたり抽出したりを繰り返し、七年くらいかけてやっとアヤメのエッセンスが少量とれる』とあった。参考まで。嗅ぐことはあるまい。私の妻は大の香水嫌いで、私が唯一使っている男性化粧品はアフター・シェーブローションだけであるが、それもわざわざ無香料を選んでいるからである。

「あるひとの來歷に對するのすたるぢや」本篇の「愛憐詩篇」が、かの萩原朔太郎の中の永遠の聖少女「エレナ」への、死に至る病いとしてのノスタルジアの幻想産物であることを匂わせたもの。「エレナ」を御存じない方は、「ソライロノハナ 附やぶちゃん注 PDF縦書版」の私の注ごときものでもよろしければ、読まれんことを望む。

「鄕土の詩人萩原恭次郞君」大正末期の芸術革命の先頭に立ち、ダダイストから始めて、アナーキズムへ傾倒し、詩集「死刑宣告」で知られる萩原恭次郎(明治三二(一八九九)年~昭和一三(一九三八)年)は群馬県勢多郡南橘村(前橋市)生まれ。但し、彼は養子に行って萩原となったもので、本姓は金井であり、血縁関係はない。十三も年上の朔太郎との交友が始まったは大正五(一九一六)年の四月以降である(全集年譜を見るに、朔太郎が前橋の自宅で週一回開いていた「詩と音楽の研究会」がきっかけと思われる)。

 以下、萩原朔太郎の散文詩的出版事情自解。]

 

 

 出版に際して

 

 昨年の春、この詩集の稿をまとめてから、まる一年たつた今日、漸く出版する運びになつた。この一年の間に、私は住み慣れた鄕土を去つて、東京に移つてきたのである。そこで偶然にもこの詩集が、私の出鄕の記念として、意味深く出版されることになつた。

 鄕土! いま遠く鄕土を望景すれば、萬感胸に迫つてくる。かなしき鄕土よ。人人は私に情(つれ)なくして、いつも白い眼でにらんでゐた。單に私が無職であり、もしくは變人であるといふ理由をもつて、あはれな詩人を嘲辱し、私の背後(うしろ)から唾(つばき)をかけた。「あすこに白痴(ばか)が步いて行く。」さう言つて人々が舌を出した。

 少年の時から、この長い時日の間、私は環境の中に忍んでゐた。さうして世と人と自然を憎み、いつさいに叛いて行かうとする、卓拔なる超俗思想と、叛逆を好む烈しい思惟とが、いつしか私の心の隅に、鼠のやうに巢を食つていつた。

 

  いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん

 

 人の怒のさびしさを、今こそ私は知るのである。さうして故鄕の家をのがれ、ひとり都會の陸橋を渡つて行くとき、淚がゆゑ知らず流れてきた。えんえんたる鐵路の涯へ、汽車が走つて行くのである。

 鄕土! 私のなつかしい山河へ、この貧しい望景詩集を贈りたい。

 

  西曆一九二五年夏

    東京の郊外にて        著 者

 

 

  純情小曲集目次

 

[やぶちゃん注:目次標題。単立独立ページである。

 以下、目次ではリーダとページ数は省略した。標題は各パートで均等割付であるが、無視した。]

 

 

珍らしいものをかく
                室生犀星
してゐる人への序文

自序

出版に際して

 

  愛 憐 詩 篇

夜汽車

こころ

女よ

旅上

金魚

靜物

蟻地獄

利根川のほとり

濱邊

綠蔭

再會

地上

花鳥

初夏の印象

洋銀の皿

月光と海月

 

  鄕 土 望 景 詩

 中學の校庭

 波宜亭

 二子山附近

 才川町

 小出新道

 新前橋驛

 大渡橋

 廣瀨川

 利根の松原

 公園の椅子

 

   鄕土望景詩の後に

 Ⅰ前橋公園

 Ⅱ大渡橋

 Ⅲ 新前橋驛

 Ⅳ小出松林

 Ⅴ波宜亭

 Ⅵ前橋中學

跋              萩原恭次郞

 

 

   純 情 小 曲 集

 

[やぶちゃん注:本文開始標題ページ。独特の太明朝活字。]

 

 

    愛 憐 詩 篇

 

[やぶちゃん注:パート標題。]

 

 

    夜 汽 車

 

有明のうすらあかりは

硝子戶に指のあとつめたく

ほの白みゆく山の端は

みづがねのごとくにしめやかなれども

まだ旅びとのねむりさめやらねば

つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。

あまたるきにすのにほひも

そこはかとなきはまきたばこの烟さへ

夜汽車にてあれたる舌には佗しきを

いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。

まだ山科(やましな)は過ぎずや

空氣まくらの口金(くちがね)をゆるめて

そつと息をぬいてみる女ごころ

ふと二人かなしさに身をすりよせ

しののめちかき汽車の窓より外(そと)をながむれば

ところもしらぬ山里に

さも白く咲きてゐたるをだまきの花。

 

[やぶちゃん注:本文の第一詩篇。下線は右傍線。筑摩版全集によれば、初出は大正二(一九一三)年五月号『朱欒』で、標題は「みちゆき」。この雑誌名は「ザンボア」と読む。北原白秋の編集になる文芸雑誌で、明治四四(一九一一)年十一月から大正二(一九一三)年五月まで十九冊が発行され、後期浪漫派の活躍の場となった(なお、大正七年一月に改題誌『ザムボア』が発刊されているが同年九月に廃刊している)。初出形を以下に示す。誤字或いは誤植及び歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

 

 みちゆき

 

ありやけのうすらあかりは

硝子戶に指のあとつめたく

ほの白みゆく山の端は

みづがねのごとくにしめやかなれども

まだ旅人のねむりさめやらねば

つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや

あまたるきニスのにほひも

そこはかとなきはまきたばこの煙さへ

夜汽車にてあれたる舌には佗しきを

いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ

まだ山科(やましな)は過ぎずや

空氣まくらの口金(くちがね)をゆるめて

そつと息をぬいてみる女ごゝろ

ふと二人悲しさに身をすりよせ

しのゝめちかき汽車の窓より外を眺むれば

ところもしらぬ山里に

さも白く咲きてゐたるおだまきの花

 

   *

なお、筑摩版全集の「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」に、「みちゆき」の草稿が載る。以下に示す。

   *

 

 汽車のみちゆき

 

ありあけのうすらあかりは

硝子戶に指のあとつめたく

ほのしらみゆく山の端は

みづがねのごとくにしめやかなれど

まだ旅人の眠りさめやらねば

つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや

甘たるきニスのにほひも

そこはかとなきはまきたばこの煙さへ

夜汽車にてあれたる舌には佗しきを

いかばかり人妻は身にしみひきつめて嘆くらん

まだ山科(しな)はすぎずや

空氣まくらの口金をゆるめて

そつと息をぬいてみる女ごゝろ

ふと二人悲しさに身をすりよせ

しのゝめ近き窓より外を眺むれば

ところも知らぬ山里に 

さも白く咲きて居たるおだまきの花

              (一九一三、四)

 

   *

最後の「おだまき」の表記はママ。]

伽婢子卷之十二 大石相戰 / 卷之十二~了

 

   ○大石相戰(あひたゝかふ)

 

Daijyakuahiarasohu

 

[やぶちゃん注:挿絵は同じく底本からトリミング補正した。個人的には「大石」は「だいじやく」と読みたいが、「だいせき」だろうなあ。]

 

 

 越州春日山の城は、長尾《ながを》謙信の居住せられし所也。謙信、巳に死去せらるべき前(さき)かど、城の内に、大石、二つあり。

[やぶちゃん注:「長尾」の読みは底本は「ながう」、元禄版は『なかを』、「新日本古典文学大系」版は『なかう』。如何ともし難いので、正規で示した。但し、「新日本古典文学大系」版脚注には、『「ながう」の振仮名は、本書他巻にも見られる』とあるから、「ながう」とするのが、本書の電子化ではそちらが正しいとは思う。]

 或日の暮方に、かの二つの石、躍(をど)り上(あが)り、踊り上り、頻りに動きけるに、人皆、恠しみ、見侍べり。

 怱に一所にまろび寄りて、

「はた」

と打合ひ、又、立のきて、躍り動き、又、打ち合ひたり。

「大石の事なり。如何なる故とも知《しり》がたし。只、恠しき事。」

に思ひければ、人々、いかにとも、すべき樣(やう)なし。

 夜半過《すぐ》るまで戰ひて、其の石、缺け損じて、散り飛ぶ事、霰(あられ)の如し。

 終に、二つの石、諸友(もろとも)に、碎けて、扨(さて)、止みにけり。

 夜あけて見れば、其あたりに、血、流れたり。

「是れ、只事(たゞ《こと》)にあらず。」

と思ひ、恠しみける所に、謙信、病み付き給ひ、終に空しくなり給へば、兄弟(きやうだい)、跡を爭ひ、本城と、二の曲輪(くるわ)と、兩陣たてわかりて、軍(いくさ)ありける。

「これ、其しるし成るべし。」

と、後(のち)に思ひ合はせしとぞ。

 

 

伽婢子卷之十二終

[やぶちゃん注:「越州春日山の城」越後国頸城郡中屋敷春日山(現在の新潟県上越市春日山町)にあった中世の山城。主に長尾氏の居城で、戦国武将上杉謙信の城として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「謙信、巳に死去せらるべき前(さき)かど」「前かど」は「以前」の意。当該ウィキによれば、上杉謙信は天正五(一五七七)年九月二十三夜、手取川の渡河に手間取る織田軍を追撃して撃破した(「手取川の戦い」)後、十二月二十三日には、次なる遠征に向けての大動員令を発し、翌年三月十五日に遠征を開始する予定であったが、その六日前の三月九日、遠征の準備中、春日山城内の厠で倒れ、昏睡状態に陥り、その後、意識が回復しないまま天正六年三月十三日(一五七八年四月十九日)に四十九歳で没した。倒れてからの昏睡状態から、死因は脳溢血との見方が強い。遺骸には鎧を着せ、太刀を帯びさせ、甕の中へ納め、漆で密封された。この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸一角に安置され、明治維新の後になって、歴代藩主が眠る御廟へと移されている。『生涯独身で養子とした景勝・景虎のどちらを後継にするかを決めていなかった』ことから、『上杉家の家督の後継をめぐって』「御館(おたて)の乱」『が勃発、勝利した上杉景勝が、謙信の後継者として上杉家の当主となり、米沢藩の初代藩主となったが、血で血を洗う内乱によって』、『上杉家の勢力は大きく衰えることとなる』。『未遂に終わった遠征では』、『上洛して織田信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度侵攻しようとしていたとも推測されるが、詳細は不明である』とある。本篇の最後に語られる「御館の乱」については、当該ウィキを見られたい。]

伽婢子卷之十二 盲女を憐て報を得

 

   ○盲女(まうぢよ)を憐(あはれみ)て報(むくひ)を得(えたり)

 

Moujiyo

 

[やぶちゃん注:やはり底本の挿絵をトリミング補正した。]

 

 永祿戊辰(つちのえたつ)十二月に、武田信玄、軍兵(ぐんびやう)を率(そつ)して、駿州に赴き、今川氏眞(うぢざね)を脅かし、城下の民屋を燒たて、氏眞を追落して、駿府を奪ひ取り給へり。

 城下の諸民、慌(あは)てふためき、資財・雜具(ざふぐ)を取り運び、我先きにと、にげ惑ふ。

 其の間に、大軍、押來り、家々に込み入り、財物(ざいもつ)を掠(かす)め、落人《おちうど》を打ち伏せ、剝ぎ取り、手に持ちたる物、皆、奪ひ、切りたふし、追落《おひおと》し、男女《なんによ》、なき叫ぶ音《おと》、閧(とき)の聲に和(くわ)して、天地も崩(くづ)るゝばかり也。

 かくて、燒靜《やけしづ》まり、城、落ちて、氏眞は、行がたなく、信玄、勝利を得て、府中の掟《おきて》をいたされしかば、地下人《ぢげにん》ばら、家に歸る。

 かゝる所に、町家の燒跡なる溝の中に、年、七、八歲ばかりなる女子《をんなご》ありて、なき叫ぶ。

「父よ、母よ、妹よ、我を捨て、いづくに行給ふぞ、我には、食も湯も、たべぬか、あな、悲し、あな、怖ろし、飢《うゑ》て渴(かつえ)たるぞや、あな、苦し。」

とて、聲をばかりに、なき叫ぶを見れば、目のしひたる女子也。

 隣りの家に住みたる、やもめの女房、歸り來りて、いふやう、

「あな、かはゆや、此娘は、三歲の時、疱瘡(とうさう)をうれへて、眼(まなこ)に入《いり》つゝ、兩目ながら、盲(しひ)たり。二人の親、此娘の、智惠かしこきを憐み、常には「法華經」の「藥草喩品(やくさうゆほん)」、「觀音普門品《くわんのんふもんぼん》」を敎へて、誦(じゆ)せしめたり。殊更にいとほしみ育て侍べりしを、此頃、父は、三浦右衞門に惡(にく)まるゝ事ありて、非分(ひぶん)の科(とが)を被り、牢舍(らうしや)させられて、牢屋にして、死す。母、是れを恨みて、病《やみ》つきて、打續き、死す。姊、これを育て侍べりしに、今度のみだれに、流れ矢に當りて、死す。城落ちて後は、一族、散々(ちりちり)になりて、此娘の事、知る者、なし。かゝる者を、見捨て侍べらば、溝に倒れて、飢死(うゑしぬ)べし。」

とて、淚と共に、いだき起こし、元より孀(やもめ)なり、亂に逢うて、あらゆる物、皆、失ひ、此盲女を養ふべき力は、なけれ共、いとかはゆく、見捨て難く、我が背中に、舁(か)き負ひ、薦張(こもばり)の小屋に置きつゝ、粥、少しづゝ食せ、

「いかに。和御前(わごぜ)が父母は、かうかうの事にて、疾(とく)、死せり。姊は、此程のみだれに、矢に當りて、死す。みづから、かはゆく見捨てがたさに、こゝにつれて歸り、育て侍べるぞや。」

といふに、此盲女、是れを聞《きく》より、悶え焦れて、歎き悲しみ、粥をも食はず、夜晝、啼き叫び、終に、絕入《たえいり》て、死にけり。

 孀(やもめ)の女房、大《おほき》に憐み歎きて、薪(たきゞ)を拾ひ、燒殘りし燼(もえぐひ)を集めて、火葬したりければ、盲目女子の帶(おび)に、金子二兩をつけて、あり。

 孀の女房、是れを取て、僧を供養し、佛事、いとなみ、黃金(わうごん)の有(あり)限り、皆、佛道に布施したり。

 斯くて、十日ばかりの後(のち)に、我家の内にして、黃金十兩を、拾ひ得たり。

 此由、信玄、聞傅へ給ひ、

「かゝる心ざしある女房は、未だ、世に稀れ也。我身のわびしきに加へて、盲女を養ひ、又、黃金を得て、我が德分とせず、佛道に布施する事、たぐひなき廉直(れんちよく)の女也。奉行・頭人《とうにん》に是れあらば、昔の靑砥左衞門に替るべからず。天道、憐みて、黃金十兩を與へ給ふなるべし。是を公義に召し取らば、冥慮(みやうりよ)も、恐ろし。」

とて、信玄より、家を建て、孀の女房に、とらせらる。

 是故に、德付(つ)きて、ともかうも緩やかに世を渡りけると也。

 夫れ、世の人、其富、榮えて、金銀、豐かなる時は、禮法をも知り、義理をも、勤む。正直にも見ゆるもの也。

 家、衰へ、身、貧しければ、おのづから、無禮になり、義理を棄てて、德に就き、物を貪ぼるは、世の常の人の心ぞかし。

 されば、かゝる亂れに逢《あひ》て、家は燒けくずれ、資財は失ひ、我が身すがらになり、其の日だに、暮し兼ね、實(まこと)に侘しき中に、かの孀の女房、慈悲深く、盲女を育ひ、又、死したるを棄ず、薪を拾ふて、火葬し、黃金を得て、佛事を營む。

 更に我身の爲にせざる事、誠の心ざし、誰《たれ》か感ぜざらん。

 此故に、こゝに記して、敎への端(はし)とす。

 今の人、若(も)し、利を見て、義を忘れ、德によりて、邪(よこしま)をなさば、此孀の女房のため、耻(はづ)かしき罪人(ざいにん)ならずや、といふ。

[やぶちゃん注:「永祿戊辰(つちのえたつ)」武田信玄(大永元(一五二一)年~元亀四(一五七三)年:享年五十三)と徳川家康による第一次駿河侵攻。永禄十一年十二月六日(ユリウス暦一五六八年十二月二十四日/グレゴリオ暦換算一五六九年一月三日)、信玄は遠江での今川領分割を約束した三河の徳川家康と共同で、駿河侵攻を開始、薩垂山で今川軍を破り(「薩埵峠の戦い」)、今川館(後の駿府城)を、一時、占拠し、江尻城(静岡県静岡市内)も築城した。信玄は駿河侵攻に際し、相模の北条氏康にも協調を持ちかけていたが、氏康は今川氏救援のため出兵し、この侵攻の有様によって(後述)甲相同盟は解消され、北条氏は越後上杉氏との越相同盟を結び、武田領国への圧力を加えた。さらに徳川氏とは結局、遠江領有を巡って対立、翌永禄十二年五月には、家康は今川氏と和睦、家康は駿河侵攻から離脱した。以上はウィキの「武田信玄」に拠ったが、ウィキの「駿河侵攻」の「第一次駿河侵攻」の方がより詳しい。『信玄は駿河侵攻にあたって、相模の北条氏康・北条氏政父子に今川領の分割を提案していた。しかし氏政の生母で氏康の正室である瑞渓院は氏真の祖父母でもある今川氏親と寿桂尼の娘であったことから、氏政は拒絶した。このため』、『信玄は徳川家康と今川領分割の密約を結び、大井川を境にして東部を武田氏が、西部を徳川氏がそれぞれ攻め取ることにしたのである』。十二月六日、信玄は一万二千の『軍勢を率いて駿河侵攻を開始した。これに対して氏真は重臣の庵原忠胤』(いはらただたね)に一万五千の『軍勢を預けて迎撃させた。ところが武田軍が進軍を開始すると、今川軍は戦うことなく退却し始め』てしまう。これは、『三河の喪失に続いて』遠州忩劇(えんしゅうそうげき:永禄七(一五六四)年に引馬城主飯尾連龍(いのおつらたつ)が今川に反乱を起こした混乱状態)『による遠江の混乱をみた今川家臣団は』、『氏真の力量に不安を抱いていたものと考えられ、信玄はそこにつけこんで今川氏の有力家臣である瀬名信輝、朝比奈政貞』、『葛山氏元』(かつらやまうじもと)『らを調略し、結果として』二十一『人もの武将が信玄に内通して裏切ったのであ』った(「薩埵峠の戦い」)。『このため、今川軍は戦わずして敗れ』、十二月十三日、『武田軍は駿府に入った。さらに駿府城の支城である愛宕山城や八幡城も武田軍に落とされたため、氏真は遠江掛川城の朝比奈泰朝』(やすとも)『を頼って落ち延びた。このとき、氏真の正室早川殿(北条氏康の娘)や侍女らは』、『輿も用意できずに徒歩で逃げざるをえないという切迫した状況であったと伝えられて』おり、『信玄は北条氏に対し』、『「越(上杉)と駿(今川)が示し合わせて武田氏を滅亡させようとしたことが明らかになったので今川氏を討つ」と説明していたが、娘が徒歩で逃げるという屈辱的な状況になったことに激怒した北条氏康は』、『武田氏との同盟破棄を決意した』のであった。『なお、氏政は武田信玄の娘である黄梅院を正室に(その間に儲けた北条氏直が後に当主となる)していたが、氏政は離縁して妻を武田家へ送り返したと伝えられている。しかし』、これは、ごく近年、一九七〇年代になって『初めて』、突如、出現した巷説に過ぎず、『歴史的な根拠はない(黄梅院は小田原城に留め置かれてそのまま死去した)とする説が出されている』。『北条氏政は氏真の援軍要請を受けて』十二月十二日に『駿河に援軍に向かったが、時遅く』、『伊豆三島に対陣するに留まった』とある。

「今川氏眞」(天文七(一五三八)年~慶長一九(一六一五)年)については、少々、個人的に彼の後半生に興味があるので、この敗走以降について当該ウィキから引く。五月蠅い方は飛ばされたい。「薩埵峠の戦い」で大量の家臣の裏切りによって、僅か一日後の十二月十三日に今川軍は潰走、『駿府も占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城・掛川城へ逃れた。早川殿のための乗り物も用意できず、また代々の判形も途中で紛失するという逃亡であった。しかし、遠江にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧され』た。十二月二十七日には『徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝を初めとした家臣らの抵抗で半年近くの籠城戦となった』。『早川殿の父・氏康は救援軍を差し向け、薩埵峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強めたため、家康は氏真との和睦を模索』した。永禄一二(一五六九)年五月十七日、『氏真は家臣の助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に氏真・家康・氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する』が、『この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真及びその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城を以て戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている』。『同年、今川家臣の堀江城主・大沢基胤が、徳川家康の攻撃に耐えきれず降伏しているが、その際に基胤は氏真に「奮戦してきたが、最早』、『耐えきれない。城を枕に討死しても良いが、それは誠の主家への奉公にはならないでしょう」』『と、氏真に降伏を許可して貰うための書状を送っている』。『氏真は今川家の逼迫した情勢を考慮して基胤の意見を受け入れ、「随意にして構わない、これまでの忠誠には感謝している」と、家康の軍門へ下ることを許可しており、また基胤のこれまでの働きを労っている』。『基胤は家康に降伏し、堀江城主としての地位は容認され、徳川家臣となった。これにより』、『家康との主従関係が逆転し、家康の徳川家による庇護下で江戸時代を生き残ることになる』。『掛川城の開城後、氏真は妻・早川殿の実家である北条氏を頼り、蒲原を経て伊豆戸倉城に入った』。後、『小田原に移り、早川に屋敷を与えられる』。永禄十二年五月二十三日、『氏真は北条氏政の嫡男・国王丸(後の氏直)を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約した(この時点で嫡男の範以』(のりもち)『はまだ生まれていない)。しかし、実際には縁組から程なく、今川氏の家督を国王丸に譲らされ、氏真の身分は「隠居」ということにされている』。『また、武田氏への共闘を目的に上杉謙信に使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は越相同盟)。駿河では岡部正綱が』、『一時』、『駿府を奪回し、花沢城の小原鎮実』(おはらしげざね)『が武田氏への抗戦を継続するなど』、『今川勢力の活動はなお残っており、氏真を後援する北条氏による出兵も行われた。抗争中の駿河に対して』、『氏真は多くの安堵状や感状を発給している。これらの書状の実効性を疑問視する見解もあるが、氏真が駿河に若干の直轄領を持ち、国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある』。『しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も順次武田氏の軍門に降るなどしたため』。元亀二(一五七一)年『頃には大勢が決し、氏真は駿河の支配を回復することはできなかった』同年十月に『氏康が没すると、後を継いだ氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦した(甲相一和)。従来の説ではこの年の』十二『月に氏真は相模を離れ、家康の庇護下に入ったとされていた』。『しかし、近年になって』翌元亀三年五月に『今川義元の』十三『回忌が氏真夫妻によって小田原郊外の久翁寺で行われていたことが判明し』、『家康の元に向かったのはそれ以降のことであったことが確定した』。『また、この法要の主催が氏真夫妻であることや』、『既に嫡男の範以が生まれていること、北条氏側でも氏政の正室である黄梅院が死去したために北条氏を継ぐ嫡男の確定が急がれたことから、氏真と(北条)氏直との縁組はこの時点で既に解消されて』、『氏真が当主に復帰していたとする指摘もある』。『いずれにしても、掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河統治の大義名分を得るものであった』。『長谷川正一は』、天正元(一五八〇)年八月に『武田信玄の死を知った奥平氏が徳川方に帰参した際に家康が同氏が武田氏から得た今川氏の旧臣の所領の扱いについて氏真に相談していたことを指摘し、信玄の死を知った氏真が駿河奪還の好機とみて家康を頼り、氏政も表向きはともかく』、『これを阻止する対応は取らなかったのではないか、とする仮説を提示している』。天正三(一五七五)年の一月、『(恐らく浜松から)吉田・岡崎などを経て上洛の旅に出、京都到着後は社寺を参詣したり』、『三条西実澄ら旧知の公家を訪問したりしている』。「信長公記」によると、三月十六日、『家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と京都の相国寺で会見した。信長は氏真に蹴鞠を所望し、同』『二十日に相国寺において公家達と共に信長に蹴鞠を披露している』。同年四月、『武田勝頼が三河長篠に侵入したことを聞くと(長篠の戦い)京都を出立して三河に戻り』、五月十五日から、『牛久保で後詰を務めている』。『氏真に仕えていた朝比奈泰勝は、家康の許に使者に訪れた際に設楽原での戦闘に参加し、内藤昌豊を討ち取り、家康の直臣になったという』。『長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち』、五『月末からは数日間』、『旧領駿河にも進入し、各地に放火している』。七『月中旬には諏訪原城(現在の静岡県島田市)攻撃に従った』。なお、同年七月十九日に『宗誾(そうぎん)と署名した文書を発給しており、この時までに剃髪していたことが分かる』。天正四(一五七六)年三月十七日、『家康は牧野城主に氏真を置き、松平家忠・松平康親に補佐させた』が、翌年三月には『氏真は浜松に召還され』、一年足らずで城主を解任された。この時、家臣『海老江弥三郎に暇を与えて』おり、『この文書が、今川家当主として氏真が発給した現存最後の文書となる。しかし、この書状について浜松に召還されたのは海老江の方とする解釈を取る研究者もおり、この考えでは氏真は牧野城主を解任されていない可能性もある。長谷川正一は、牧野城番に任じられた松平家忠が氏真が挨拶を受けたとする』「家忠日記」天正七年十月八日条の記事があり、その後も少なくとも天正九年六月までは『家忠と「氏真衆」と表記された氏真家臣との交流が見られることから』、『氏真はこの時期までは牧野城主の地位にあり、普段は浜松で家康に近侍して、必要に応じて牧野城に通っていた可能性を指摘している』『長谷川はある時期(恐らく相遠同盟成立ごろ)まで、氏真が浜松で徳川氏の外交にも関与していたとしている』。『牧野城主解任後の動向は不明であるが』、天正一一(一五八三:以下、グレゴリオ暦)年七月、『近衛前久』(さきひさ)『が浜松を訪れ、家康が饗応した際には、氏真も陪席している』が、『この後』、暫く、消息は不明となる。天正一九(一五九一)年九月、山科言経』(ときつね)の日記「言経卿記」に『氏真は姿を現す。この頃までには京都に移り住んだと推測され』、『仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真は、言経初め冷泉為満・冷泉為将ら旧知・姻戚の公家などの文化人と往来し、冷泉家の月例和歌会や連歌の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていたことが記されている』同日記の文禄四(一五九五)年の条には『言経が氏真と共に石川家成を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかの繋がりがあることが推測される』。『京都在住時代の氏真は、豊臣秀吉あるいは家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたと推測されて』おり、後の慶長一七(一六一二)年には、『家康から近江国野洲郡長島村(現在の滋賀県野洲市長島)の「旧地」』五百『石を安堵されているが』、『この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない』。慶長三(一五九八)年には氏真の次男『品川高久が徳川秀忠に出仕している』慶長一二(一六〇七)年には『長男範以が京都で没する。慶長』十六年には、『範以の遺児・範英(直房)が徳川秀忠に出仕した』。「言経卿記」の『氏真記事は、慶長』一七(一六一二)年『正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる』。同年四月、『氏真は、郷里の駿府で大御所家康と面会している』。「寛政重修諸家譜」によれば、『氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時であり、また』、『家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。氏真はそのまま子や孫のいる江戸に移住したものと思われ、慶長』十八『年』、『長年』、『連れ添った早川殿と死別』、翌慶長一九(一六一五)年十二月二十八日、『江戸で死去。享年』七十七であった。

「掟《おきて》」「新日本古典文学大系」版脚注に『戦後処理の法令、法度』とある。

「疱瘡(とうさう)」元禄版のルビを採った。天然痘。オルトポックスウイルス属天然痘ウイルス(Poxvirus variolae )により引き起こされる強感染性疾患。死亡率は最大三十%。天然痘の症例は世界的なワクチン接種により一九七七年以来発生していない。一九八〇年の世界保健機関(WHO)の定期ワクチン接種の中止推奨により根絶宣言を出した(但し、テロリストが既存の貯蔵天然痘ウイルスを入手することによる再発の危険性はある)。免疫は経時的に低下するため、現在ではほぼ全人類に天然痘に感受性があると言ってよい。感染は直接接触及び飛沫感染による。汚染された衣服・寝具も感染源となり得る。発疹が出現後、最初の七~十日間に感染力は最大となる。皮膚病変部に瘡蓋が形成される頃には低下する。ウイルスは口腔咽頭又は気道粘膜に侵入、該当部位のリンパ節で増殖する。潜伏期間は七~十七日の範囲で、その後、発熱・頭痛・背部痛及び激しい倦怠感を伴う前駆症状が二~三日続く。前駆症状に続いて斑点状丘疹が口腔咽頭粘膜・顔面・腕を中心に発現、速やかに体幹および脚部に拡大、その一~二日後、皮膚病変が小水疱になり、次いで膿疱となる。膿疱は体幹よりも顔面及び四肢に密集する。膿疱は丸く、よく膨れ、外見上、上皮組織に深く埋没して見える。死亡率はこの二週目前後にショックと多臓器不全を引き起こす激しい炎症反応により最も高まる。その状態が八~九日間続いた後、膿疱は瘡蓋を形成して終息するが、重度の瘢痕が残る。以上を「大痘瘡」と称し、それに類似しているがはるかに軽度な症状の「小痘瘡」は発疹の範囲も狭く、死亡率は一%未満である(以上は「メルクマニュアル 日本語版」の「天然痘」を私が要約したものである。眼球へのウィルス侵入や高熱によって失明するケースが有意にあり、ウィキの「天然痘」によれば、幼少期に右目を失明した伊達政宗も、天然痘によるものであったし、十六世紀、キリスト教布教のために来日したカトリック教会イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、ヨーロッパに比して日本では全盲者が多いことを指摘しているが、後天的な失明者の大部分は、天然痘によるものだったと考えられているとある。

「藥草喩品(やくさうゆほん)」「法華経」の第五品。草木の生い繁るさまを仏の教えの喩えとして用い、仏の慈悲や済度のさまを説いた章。

「觀音普門品《くわんのんふもんぼん》」の第二十五品の「觀世音菩薩普門品」の別称。観世音菩薩の名を受持することの功徳や、この菩薩が三十三もの身に変じて衆生を救うことを説いたもの。「観音経」も同じ。

「三浦右衞門」三浦真明(さねあき ?~永禄一一(一五六八)年)は今川氏家臣。大原資良(すけよし:但し、小原鎮実(しげざね)と同一人物)の子で駿河三浦氏の傍流の一つに養子に入ったものとみられる。通称、右衛門大夫。当該ウィキによれば、『軍記物などでは、「義鎮(右衛門佐)」の名で登場するが、後になって実名入りの発給文書が発見され』、『一旦は実名は「直明」とされた(「石田文書」)。しかし、その後「真明」の誤写・誤読とする意見が出され、現在では真明が実名であったと考えられている(「真」は今川氏真からの偏諱とみられている)』(「新日本古典文学大系」版脚注では『三浦右衛門佐義鎮』となっており、出自を『上方浪人の子』とする)。「桶狭間の戦い」『以降、今川氏真の側近として急速に台頭する。初期には父である大原資良(三河国吉田城城将)と共に松平元康(徳川家康)ら三河における反今川の動きに対する対応を行っていた』。永禄五(一五六二)年に、『今川氏真が三河に出陣した際には』『参戦している。その後も氏真側近として訴訟の披露などを行っている』。永禄一一(一五六九)年の『信玄の駿河侵攻に際しては、父と共に駿河国花沢城にて抵抗していたが、遠江国高天神城に逃れた後に徳川家康と内応した小笠原氏助に父と共に殺された』(軍記物「松平記」)『と伝えられ』。「甲陽軍鑑」も『今川氏から離反しようとしたために高天神城』(たかてんじんじょう)『にて殺害されたと伝えられている。父の大原資良に関してはその後も存命したとする説もあるが、真明の死亡した場所(高天神城)が諸書で一致し、かつ妻の死も同日に死去したと伝えられていることから、真明が妻と共に殺害されたのは事実とみられる。なお、小笠原氏助は後に龍巣院(静岡県袋井市)へ真明夫妻のために寄進を行っているため、氏助がその死に関わっていた可能性も高い』。以上のような『軍記物では、今川氏真を誑かして多くの重臣を讒言して、その結果として武田・徳川の侵攻の際』、『多くの重臣が今川氏を裏切ったと伝えられているが事実関係は不明である。ただし、大原資良が他国出身でありながら』、『今川氏に重用された経緯があり、次の世代にあたる真明は筆頭重臣格の三浦氏の傍流を継いで、今川氏の重臣と同様の役割を担ったことが今川家中において反発された可能性はある』。「小田原北条記」巻六「三浦右衛門佐」では、『百姓に対し、重い労役を課し、家財まで売却させたため、反感と恨みを買い、花沢落城の際、単騎で三河国に逃げ延びた際、(元の領民から)身元が分かった上で落ち武者扱いされ、落ち武者狩りを受け、馬から引き落とされ、甲冑身ぐるみを剥がされた末、裸にされて追っ払われた。さらに高天神(現小笠郡大東町)に着き、小笠原与八郎に縛り上げられた際は、切り手の足助長久郎が近づいて、助願のためには、耳鼻は削がれてもよいかとたずねられ、「耳鼻は削がれても良いから助けてほしい」と命乞いをするも、それを聞いた小笠原は』「その心ゆえ、恥を忘れて、ここまで来たのだ。」と言い返し、即座に『斬首された』とある。この哀れな少女のために、溜飲が下がる。

「非分(ひぶん)」理に合わないこと。道理に外れること。不当であること。

「靑砥左衞門」鎌倉時代の北条時頼の家臣とされる架空の理想的武士青砥藤綱。私の「耳嚢 巻之四 靑砥左衞門加増を斷りし事」や、「北條九代記 卷之八 相摸の守時賴入道政務 付 靑砥左衞門廉直」など参照されたい。

「是を公義に召し取らば」現実的に考えれば、少女の帯の二両は両親のお守り代り、自宅で見つけた十両は拾得物であるから、本来は、お上に届け出ねばならないことを前提として、

「我が身すがらになり」「すがら」は接尾語で「そのものだけで、ほかに付属しているものがない」という意を表わす。

 

 本篇も前篇同様、最終的に教訓説教の体を成すが、話柄としては、しんみりとする話である。それは、盲目の少女の描写と、孀の女性の行動が、作り物に見えず(特に前者)、非常なリアリズムを以って訴えかけてくるからである。]

2021/12/29

伽婢子卷之十二 邪淫の罪立身せず

 

   ○邪淫の罪立身せず

 

 白石掃部正(しろいしかもんのかみ)は、鎌倉の上杉家に仕へて、足輕大將なり。その子、右衞門尉は年、巳に廿三、父にしたがひて、同じく奉公を勤めんとす。

 よりより[やぶちゃん注:「折々」に同じ。]、言上して、巳に目見えせん事を定めらる。

 その借りたる家に、娘あり。年十七、八、みめ、甚だうるはしかりければ、右衞門尉、心を掛て、さまざまつくろへども、家のあるじ、みだりなる事をば、きびしくきらひて、夜(よる)とても、物音、少し聞ゆれば、咎め、あやしみて、用心せしかば、遂に、逢ふ事、叶はず。

 右衞門尉、たゞ此女にまどひて、奉公の心ざし、傍(かたはら)になり、とかく透間(すきま)を窺ひし處に、

「明日は、上杉家の御目見え。」

とて、親も、嬉しく、取まかなふ。

 其夜しも、家のあるじ、

「一族の中に急用あり。」

とて、出行つゝ、夜ひとよ、歸らず。

 右衞門尉、

『よきひまぞ。』

と思ひ、ひそかに娘の部屋にしのびて、心ざしを遂げ、喜びに餘りけり。

 

Siroisiuemonnnojyou

 

[やぶちゃん注:底本のものをトリミング補正して用いた。「新日本古典文学大系」版脚注に、『中央、直垂(本文では狩衣)、折烏帽子を着けた俸禄の折紙を持参した男。右に立烏帽子、素襖、長袴姿の』、当該の折紙を『取り上げようとする男』とある。]

 

 かくて、我が臥戶(ふしど)に歸り、まどろみければ、靑き狩衣(ぎぬ)に、烏帽子(ゑぼうし)着たる男一人、走り來りて、一紙(《いつ》し)の折紙(をりかみ)を捧げ、

「明日、必ず、一千石の奉祿にあづかるべし。」

と云所に、赤き裝束に、立烏帽子(《たて》ゑぼし)着たる男一人、跡より、走り來り、大に怒りたる氣色にて、彼の折紙を奮(うば)ひ取り、

「右衞門尉は、まさなきよこしまの私事《わたくしごと》せし故に、天帝、大に怒り給ひ、奉祿の符を取り返し給ふなり。」

とて、夢は覺めたり。

 次の日、右衞門尉父子、うるはしく出立(《いで》だち)、遠侍(とをさふらひ)に伺公(しこう)せし所に、管領(くわんれい)、立ち出たまへば、なにとかしたりけむ、右衞門尉、深く眠りて、前後も覺えず、管領の出給ふをも、知らず。

「かゝる不覺人(ふかく《にん》)は、物の用に立べからず。」

と、諸人、かたぶきいひしかば、終に召抱へられず。

 父掃部は、是を恨みて、暇(いとま)乞ふて、發心しけり。

 右衞門尉は、一期(《いち》ご)の内(うち)、身上《しんしやう》片付(かたつ)かで、流浪・遂電の者と、なりぬ。

 されば、人の身上、かたつくべきが、片付かざるは、更に世を恨み、人を、かこつべからず。只、我身に省みて、我れすまじき事をすれば、天道、憎みて、官位・奉祿、皆、心に叶はず、といふ。

[やぶちゃん注:「白石掃部正(しろいしかもんのかみ)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注に「掃部正」は『掃部寮)』(掃部寮は本来は律令制で宮中の掃除・儀場の設営などを司った役所。無論、ここでは肩書に過ぎぬ)『のかみ(頭)は従五位下に相当』とある。

「鎌倉の上杉家」南北朝から室町時代を通じて「鎌倉公方」(所謂「関東八ヶ国」に甲斐国・伊豆国を合わせた十ヶ国を統治した鎌倉に置かれた「鎌倉府」の長官)の補佐役を「関東管領」と呼び、貞治二年/正平一八(一三六三)年に上杉憲顕が任ぜられて以降、上杉氏が世襲した。上杉氏は犬懸(いぬかけ)上杉氏・山内(やまのうち)上杉氏・扇谷(おおぎがやつ)上杉氏・詫間(たくま)上杉氏の四家があり(総て鎌倉の地名・谷戸名)、当初は犬懸上杉氏・山内上杉氏が、後に山内上杉氏が任ぜられた。但し、当初は「関東執事」と呼ばれていた。鎌倉公方の下部組織でありながら、任命権などは室町幕府将軍にあったため、ほどなく室町将軍と鎌倉公方の対立が起こり、さらに幕府側の意を汲んだ関東管領と鎌倉公方との内部抗争へと発展し、それに上杉氏内部での権力抗争も激化、関東はだらだらと騒乱状態が続くこととなった。本篇は、肝心の関東管領の名が出てこないので、年代を限定出来ないが、一番命脈を保った山内上杉氏辺りを措定すると、上限は初代関東管領が上杉憲顕(のりあき 徳治元(一三〇六)年~正平二三/応安元(一三六八)年)で、下限は天文一五(一五四六)年に山内憲政・扇谷朝定(ともさだ)が北条氏康と武蔵河越で戦って敗れ、憲政は越後に敗走して長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り、永禄元(一五五八)年に管領職と上杉の姓を景虎に譲った結果、嫡流が絶えた時までとなる。本書の他の編の時制設定からみると、後者の時制限度に比較的近い近過去の時期ととってよいように思われる。ともかくも、記載から、ロケーションは鎌倉と限定出来、もしこれが以上の山内上杉氏の家臣であるとすれば、山内上杉氏の屋敷跡は、現在の北鎌倉の明月院の入口附近の東方に比定されているから、その周辺ということになろうかと思われる。

「傍(かたはら)になり」等閑(なおざり)となって。

「折紙(をりかみ)」元禄版の清音の読みをとった。本語は「をりがみ」とも読まれるが、本来は清音である。奉書紙(楮(こうぞ:クワ科コウゾ属コウゾ雑種コウゾ Broussonetia kazinoki × Broussonetia papyrifera 。ヒメコウゾ(学名前者)とカジノキ(同後者)の雑種)を原料とする和紙。しわがなく純白で上質。色奉書・紋奉書などの変種もある。越前奉書が有名。・鳥の子紙(雁皮 (がんぴ:バラ亜綱フトモモ目ジンチョウゲ科ガンピ属ガンピ Diplomorpha sikokiana ) を主原料とした上質の和紙。鶏卵の色に似た淡黄色で、強く耐久性があり、墨の映りもよい。福井県・兵庫県産のものが知られ、「越前鳥の子」「播磨紙 (はりまがみ)」 とも呼ばれる)・檀紙 (だんし:楮を原料とし、縮緬(ちりめん)状の皺を作った上質の和紙。平安時代には陸奥から良質のものが産出されたので陸奥紙(みちのくがみ)ともいった。さらに古くは、檀(まゆみ:ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マユミ Euonymus sieboldianus var. sieboldianus )を原料としたので、「真弓 (まゆみ) 紙」とも書いた) などを横に二つに折ったもの。古くより公式文書・進物用目録・鑑定書などに用いる。

「私事《わたくしごと》」ここは不正な密通・私通を指す。

「遠侍(とをさふらひ)」武家の屋敷で、主殿から離れたところに設けられた警護の武士の詰所。「内侍(うちさぶらい)」の対語。

「かたぶきいひしかば」「かたぶく」(傾く)は「非難する」の意。

「かこつ」「託つ」「心が満たされないので不平を言う・愚痴をこぼす・嘆く」或いは「他の事や他人のせいにする」の意。ここは後者。

「我れすまじき事」自分でも、内心、悪いことと認識していること。しかし、この話、教訓説教染みた終わり方で本書では珍しく全体に平凡で面白くない。されば、脱線的にマニアックな注を施すことで溜飲を下げた。]

伽婢子卷之十二 厚狹應報

 

[やぶちゃん注:同じく挿絵は底本からトリミング補正した。]

 

Atusadanjyou

 

   ○厚狹應報(あつさようはう)

 

 陶(すゑ)尾張守晴賢は、大内義隆の家老として、不義をくはだて、主君義隆を追出し、みづから山口の城に居て、分國を押領す。其の威、やうやう强くして、大軍、靡き從ひ、今は、

『世の中、恐るゝに足らず。』

とぞ思ひける。

 周防長門の諸將・諸侍等(《しよ》しら)、弓をふせ、かぶとをぬぎて、從ひつく事、いふばかりなし。

 中に、周防の國には吉城(よしき)・大嶋、長門の國には美禰(みね)・見嶋の諸侍等、はじめは從はざりけるを、

「今は、時世にまかするぞ、よき。忠義ありとても、誰か身を安くしたる。無用の忠義に身をせばめられむより、只、降參せよ。」

とて、皆、その陶に降參す。

 その中に、長門の國の住人厚狹彈正(あつさのだんじやう)なにがしといふ者は、そのかみ、義隆に恩をかうぶれり。一旦は降參すといへ共、

「是は、當屋形(やしき)をうかがふ謀(はかりこと)なるべし。」

と讒する者あり。

 陶、

『げにも。』

と、おもひ、厚狹をからめとりて、鏁(くさり)をもつて柱に縛りつけ、四方に炭火を起し、火あぶりにす。

 陶、いでて、これを見る。

 厚狹、甚だ苦しみ、大きに聲をあげ、

「我、すでに降參す、何の罪によつて、かく、からきめ見する。死してのちも、物知る事あらば、此報(むくい)、なからめや。」

とて、燒け爛れて、死す。

 陶、うちわらひ、

 火責(ひぜめ)の厚狹(あつさ)さてこりよ

といふ秀句して、その尸(かばね)を野に棄てたり。

 半年ばかりの後、常に陶が座の右に、厚狹、來りて、見ゆ。

 陶、大きに、にくみ、きらひしが、安藝の國宮嶋の軍(いくさ)に、毛利家の爲に、打ち破られたり。その時、

「厚狹、申胃を帶し、鹿毛(かげ)の馬にのり、まつさきに進み、陶を、馬より突き落とせし。」

と、近き軍兵(ぐんびやう)共は、まのあたり、見たり。

 これより、陶、終に、合戰に利なくして、敗漬(はいせき)したりとかや。

[やぶちゃん注:「陶(すゑ)尾張守晴賢」陶晴賢(すえのはるかた 大永元(一五二一)年~天文二四(一五五五)年)は大内義隆に重臣として仕えたが、後に義隆を討ち、大友宗麟の弟晴英を迎えて大内家の後嗣とした。彼は天文二十四年九月二十一日(一五五五年十月六日)、晴賢は自ら二万から三万の大軍を率いて、安芸厳島に侵攻し、反旗を翻した毛利方の宮尾城を攻略しようとした。しかし、毛利軍の奇襲攻撃によって、本陣を襲撃されて敗れてしまう。毛利氏に味方する村上水軍によって、大内水軍が敗れ、退路も断たれてしまい、逃走途中の十月一日、自害した。享年三十五歳。辞世は「何を惜しみ何を恨みん元よりもこの有樣に定まれる身に」であった。詳しくは当該ウィキを読まれたい。

「大内義隆」(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)戦国時代の武将。大内義興の長男。周防・長門・安芸・石見・筑前・豊前の守護。大友氏・少弐(しょうに)氏と戦い、九州北部を掌握した。一方で文学・芸能を好み、明・朝鮮とも交易し、また、ザビエルに布教の許可を与えている。天文二十年、陶晴賢の謀反に遭い、九月一日、長門大寧寺で自刃した。享年四十五歳。詳しくは当該ウィキを読まれたい。

「周防の國」「吉城(よしき)・大嶋」「吉城」は現在の山口県の旧吉敷郡。郡域は当該ウィキを参照。「大嶋」は古代より瀬戸内海の海上交通の要衝として栄えた、同県の屋代島(やしろじま)を中心とした島嶼部。

「長門の國」「美禰(みね)・見嶋」「美禰」は山口県中央部にある旧美祢郡、現在の美祢市付近。郡域は当該ウィキを参照。「見嶋」は山口県萩市に属する島で、山口県最北端に位置しており、萩市沖北北西約四十五キロメートルの日本海海上にある。面積は七・七三平方キロメートルで、現在の人口は六百九十七名。古くから大陸との交易で栄え、約一千年の歴史があり、先祖には倭寇の出身者もいる。近世には一島一郡の見島郡を称し、「島酋」と称する山田氏が島を管掌し、長州藩政下でも特異な地であった。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「厚狹彈正(あつさのだんじやう)なにがし」不詳。但し、山口県には嘗て厚狭(あさ)郡(現在の宇部市・山陽小野田市一帯)があったので(現在の山陽小野田市の地名で厚狭が残る。詳しくはウィキの「厚狭」を参照)この土地の出身者という設定であろうが、当初から、後の狂句のむごい洒落に使うために、かく名づけたものと思われる。

「物知る事あらば」「新日本古典文学大系」版脚注に、『もし物ごとを知覚し判断する能力を備えていた』なら、とある。

「鹿毛(かげ)の馬」馬の毛色の一つで、鹿の毛色に似た毛色。特に鬣(たてがみ)・尾・脚の下部が黒いものを言う。

「敗漬(はいせき)」「新日本古典文学大系」版脚注に『敗績の誤刻。戦さに大敗すること』とある。「績」には「手柄・功(いさお)」の意がある。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 極光 / 詩集「蝶を夢む」~了

 

   極光

 

懺悔者の背後には美麗な極光がある。

 

 

 

蝶を夢む

 

[やぶちゃん注:詩集「蝶を夢む」の最終詩篇と、本文最終ページの柱。左ページに奥附。本詩集は新潮社の「現代詩人叢書」の第十四編で書籍本体への思い入れが私にはないので、以上のリンクで示すに留めた。

 「極光」の初出は大正四(一九一五)年二月号『詩歌』であるが、十行からなる長めの散文詩「懺悔者の姿」の三行の一部のみを抜き出して改題したアクロバットものの新作というべきものである。ブログの古い電子化を、最近、必要上(「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 懺悔者の姿」の注を附すため)、補正した「懺悔者の姿 萩原朔太郎 (正規表現版・「極光」原形)」があるので、そちらを見られたい。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 Omega の瞳

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 Omega の瞳

   Omega の瞳

 

死んでみたまへ、屍蠟の光る指先から、お前の靈がよろよろとして昇發する。その時お前は、ほんたうにおめがの靑白い瞳(め)を見ることができる。それがお前の、ほんたうの人格であつた。

 

ひとが猫のやうに見える。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。初出は大正四(一九一五)年四月発行の『卓上噴水』であるが、無題で、第二連は存在しない。以下に示す。誤字や歴史的仮名遣の誤りは総てママ。

   *

 

 

 

幼兒は眞實であり神は純一至高の感傷である。

死んでみたまへ、屍臘の光る指先からお前の至純な靈が發散する、其時お前にほんとうに OMEGA.  の瞳の靑白い感傷のひとみを見ることができる其れは汝の人格であつた。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 柳

 

   

 

放火、殺人、竊盜、夜行、姦淫、およびあらゆる兇行をして柳の樹下に行はしめよ。夜において光る柳の樹下に。

そもそも柳が電氣の良導體なることを、最初に發見せるもの先祖の中にあり。

 

手に兇器をもつて人畜の内臟を電裂せんとする兇賊がある。

かざされたるところの兇器は、その生(なま)あたたかき心臟の上におかれ、生ぐさき夜の呼吸において點火發光するところのぴすとるである。

しかしてみよ、この黑衣の曲者(くせもの)も、白夜柳の木の下に凝立する由所である。

 

[やぶちゃん注:「由所」はママ。筑摩版全集校訂本文では『所以』に強制消毒されてある。「白夜柳」は恐らく「びやくややなぎ」であろうが、特定の種名ではなく、「黑衣の曲者」に応じて幻想された造語と思われる。初出は大正四(一九一五)年二月号『詩歌』。標題は「柳に就て」。以下に示す。太字は底本(筑摩版全集)では傍点「ヽ」である。

   *

 

 柳に就て

 

放火、殺人、竊盜、夜行、姦淫、及びあらゆる兇行をして柳の樹下に行はしめよ。夜に於て、光る柳の樹下に行はしめよ。

かかる塲合に於ける、すべての兇行は必ず靈性を生ず。

そもそも、柳が動物電氣の良電體なることを、世界に於て最初に發見せるもの我々の先祖にあり。

しかも極めて不徹底に無自覺に、あまつさへ、傳說的に表現せられしところに新人の增補がある。

 

手に兇器を所持して人畜の内臟を電裂せんとする兇賊がある。

彼はその愛人の額に光る鑛石を射擊せんとして震慄し、かつ疾患するところの手を所有する。

かざされたるところの兇器は、その生あたたかき心臟の上におかれ、生ぐさき夜の靈智の呼吸に於て、點火發光するところのぴすとるである。而して見よ、この黑衣の曲者も、白夜柳の木の下に停立凝視する由所である。

 

なお、筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」に草稿がある。以下に示す。誤字・脱字及び誤字と思しいもの、歴史的仮名遣の誤りは、総てママである。三行目の数字群は朔太郎が打ったもの。「震りつ」は「震慄」に同じ。

   *

 

  

 

いまいたむべし夜に於て光る柳の葉は薄き金屬の碎片である、光る柳の木は 霜月動物心理の靈性冬幹樹心あらゆる樹木の中最も靈性を有するところの感電白金體である

およそあらゆる樹木のうち生物の微動物電氣の知感に於て鋭感すること枯霜霜かれ月の柳の如きものはない、

5兇行放火、4姦淫、3夜行、2竊盜、1殺人、云々

されば

みよ彼はつねに柳の木の下にひそみかくる、

彼は手に兇器を所持して、人類の畜の内臟を電裂せんとするところの兇賊であるがある、

彼の眼は闇夜の空に飛鳥を射殺するところの兇器である

彼の手はその愛人の額に光る礦石を射擊せんとして震りつしその兇器はかつ發光するところの手である、を所有す、

而してみよその兇器は生あたゝき心臟のうヘにおかれ

生ぐさき夜の靈智の呼吸を

墓場より掘屈せられたるところの生膽である、

さて兇器は生れたる胎兒の述走神經である、

みよその兇器は生あたゝき心臟の上におかれ生ぐさき夜の靈智の呼吸に於て點火發光するピストルである、

而してみよこの白金の黑衣の曲者も白夜、柳の下に停立する由所である、

 

殺人、强姦、詐僞、竊盜、夜行、あらゆる兇行の行はるゝところに

必ず柳をうえしめよ

あらゆる兇行はその塲合必ず靈性を生ず

かくの如きものは具體的說明は最も進步せる 學と科學哲理と科學との說明にまつ外なし、

詩人はこれを直覺すれば足れり、

他物を凝視するとこせよとの謂は自我の心靈を凝視せよの謂なり、人若し自我心靈の發光を感知するとき外物悉く我に傾斜し光輪を有するに至るべし、

ありがたや魚にも

心外無物心内有物(オイケン)

ありがたや魚にも後光(白秋)

 

・「自我心靈の」「感知するとき」は筑摩版全集初版では「自我が心靈の」「感知するごとき」となっているが、後の差し込みでかく訂正している。

・「オイケン」ドイツの哲学者でノーベル文学賞受賞者(一九〇八年受賞)であるルドルフ・クリストフ・オイケン(Rudolf Christoph Eucken 一八四六年~一九二六年)。体系的哲学者ではなかったが、生の哲学及び理想主義の立場から多くの著作をものし、日本を含め、国外にも多くの影響を与えた。但し、彼の息子でネオ・リベラリズムの代表者である経済学者ウォルター・オイケン(Walter Eucken  一八九一年~一九五〇年)の方が現行では知名度が高い。さて、この「心外無物心内有物」(「心の外には、物、無し。心の内にのみ、物、有り。」か)であるが、私は父オイケンの著作を読んだことがないので、なんとも言えぬが、これは、彼の示した思想というより、仏教の「心外無別法」(しんげむべっぽう)のことで、「認識していると信じている一切の現象世界は、総てが各自の心識から出たものに過ぎず、別にその物対象が存在するのではないということ」を指しているものと思う。

・「ありがたや魚にも後光(白秋)」不詳。朔太郎の盟友北原白秋の詩歌の一節にでもあるものか? 私は知らない。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 散文詩(パート標題)・添え書き・「吠える犬」

 

    散 文 詩 四 篇

 

[やぶちゃん注:パート標題。その裏に以下の添え書き。]

 

 

   「月に吠える」前派の作品

 

 

   吠 え る 犬

 

月夜の晚に、犬が墓地をうろついてゐる。

この遠い、地球の中心に向つて吠えるところの犬だ。

犬は透視すべからざる地下に於て、深くかくされたるところの金庫を感知することにより。

金庫には翡翠および夜光石をもつて充たされたることを感應せることにより。

吠えるところの犬は、その心靈に於てあきらかに白熱され、その心臟からは螢光線の放射のごときものを透影する。

この靑白い犬は、前足をもつて堅い地面を掘らんとして焦心する。

遠い、遠い、地下の世界において微動するものを感應することにより。

吠えるところの犬は哀傷し、狂號し、その明らかに直視するものを掘らんとして、かなしい月夜の墓地に焦心する。

 

吠えるところの犬はである。

なんぢ、忠實なる、敏感なる、しかれどもまつたく孤獨なる犬よ。

汝が吠えることにより、病兒をもつた隣人のために銃をもつて擊たれるまで。

吠えるところの犬は、靑白き月夜においてのである。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。初出は大正四(一九一五)年二月号『詩歌』。以下に示す。誤字或いは誤植と思われるものは総てママである。

   *

 

 吠える犬

 

月夜の晚に、犬が墓地を墓標をめぐつて居る。

この遠い地球の核心に向つて吠えるところの犬だ。

犬は透視すべからざる地下に於て深くかくされたるところの金庫を感知することにより、金庫には斐翠及び夜光石を以て充たされたることを感能せることにより。

吠えるところの犬は、その心靈に於て明らかに白熱され、その心臟に於て螢光線の放射の如きものを肉身に透影する。

この靑白い犬は前足を以て固き地面を堀らんとして焦心する。遠い、遠い地下の世界に於て微動せるところのものを感得することにより。

吠えるところの犬は哀傷し、疾患し、しかもその明らかに直視するところのものを堀らんとして月夜の墓地に焦心する。

 

吠えるところの言葉は『詩』である。

汝、忠實なる、敏感なる、然れども全く孤獨なる犬よ。汝が吠えることにより、洞察なき隣人のために銃をもつて擊たるるまで、名字が餓死するに及ぶまで、汝が『謎』を語ることを止めざる最後にまで。

吠えるところの犬は、靑白き月夜に於ての『詩人』である。

 

   *

初出では最後の第二連が本篇の核心である象徴の謎の解き明かしのようになっていて、面白くない。決定稿の方が遙かに詩となっている。しかし、この詩篇こそが、近代詩に突如出現した「月に吠える犬」であり、そうした意味で本邦の近代詩史に於ける重大な「疾患」のメルクマールなのである。本篇には、草稿が二種あり、その一つが筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」に載る。標題は「犬」である。以下に示す。歴史的仮名遣の誤りや誤字・衍字と思しいものはママ。

   *

 

  

月夜の晚の

犬が*柳の木を//墓場の墓標を*めぐつて居る

[やぶちゃん注:「*」「//」は私が附したもので、「柳の木を」と「墓場の墓標を」が並置残存していることを示す。]

この犬の心靈は柳の葉にふれて

この遠い地球の核心に向つて吠えるところの犬だ

犬の心靈はあきらかに飢えかがやいて居る。 そは 犬の心靈は靑く犬の述走神經はあるたしかな

彼は透徹すべからざる地下に於て深く匿かれたるところの主人の金銀貴金屬の金庫がある、祕密のを感知することにより、

而て金庫には斐翠及び夜光石を以てみたされてゐる

彼は吠えるところの犬はその心靈に於てあきらかに白熱され

その心臟に於て螢光線の放射の如きものを肉身に透影する、

この靑白き犬に於ては前足に於て固き地を掘らんとして居るして焦心する、

遠い遠い地下の世界に於ては何人も知らないところの靈がくされたる微動するところのものを明確に感知したるものは地上に於て一疋の蓄生である、ところの犬である、

犬は感傷し犬は疾患し而してその知る直視するところのものを掘らんとして月夜の晚に焦心する、

うゑたる犬は吠える、

 

  *

最後に編者注があり、『本稿の冒頭欄外に「龜について、」とある。』とある。詩集「月に吠える」に載せた「龜」を想起し、そのイメージとの関連性を自身のメモランダとしたものか。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 榛名富士

 

   榛 名 富 士

 

その絕頂(いたゞき)を光らしめ

とがれる松を光らしめ

峰に粉雪けぶる日も

松に花鳥をつけしめよ

ふるさとの山遠遠(とほどほ)に

くろずむごとく凍る日に

天景をさへぬきんでて

利根川の上(へ)に光らしめ

祈るがごとく光らしめ。

               ――鄕土風物詩――

 

[やぶちゃん注:初出は大正四(一九一五)年一月号『水甕』。以下に示す。「くろづむ」はママ。

   *

 

   榛名富士

      ――鄕土風物詩――

 

その絕頂(いたゞき)を光らしめ、

とがれる松を光らしめ、

峯に粉雪けぶる日も

松に花鳥をつけしめよ

ふるさとの山、遠遠(とほどほ)に、

くろづむごとく凍る日に、

天景をさへぬきん出て、

利根川の上(へ)に光らしめ、

いのるがごとく光らしめ。

          ――十一月作――

 

   *

本篇には草稿がある。以下に示す。行頭の数字は朔太郎自身が打ったもの。誤字はママ。

   *

 

  榛名富士

   (上野三岳ノ一、形樣富士山ニ似タルヲ

    以テコノ名アリ、)

 

1その絕頂を光らしめ

2とがれる松を光らしめ

3おも峯に粉ゆきふるときも→けぶる日も→ふれる日もけぶる日も

4松に花鳥をつけしめよ

利根 さ靑に利根をはしらせて

けぶるがごとく凍る日に

遠山脈の 消ゆる日に 凍る日に

5ふるさとかみつけの山遠々に

6くろづむごとく凍る日に

7天景をさへぬきんでゝ

8利根川のへに光らしめ

9いのるが如く光らしめ、

     ――滯鄕 詩扁 哀語――
     ――鄕土詩扁――
     ――鄕土景物詩――
     ――一九一四、一一、一五――

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 綠蔭俱樂部

 

   綠蔭俱樂部

 

都のみどりば瞳(ひとみ)にいたく

綠蔭俱樂部の行樂は

ちまたに銀をはしらしむ

五月はじめの朝まだき

街樹の下に並びたる

わがともがらの一列は

はまきたばこの魔醉より

襟脚きよき娘らをいだきしむ。

綠蔭俱樂部の行樂の

その背廣はいちやうにうす靑く

みよや都のひとびとは

手に手に白き皿を捧げもち

しづしづとはや遠近(をちこち)を行きかへり

綠蔭俱樂部の會長の

遠き畫廊を渡り行くとき。

 

[やぶちゃん注:「綠蔭俱樂部」なる怪しげにして在雑なものの実態は不詳。初出は大正三(一九一四)年六月号『詩歌』。以下に示す。二行目の誤植はママ。

   *

 

 綠蔭俱樂部

 

都のみどりば瞳(ひとみ)にいたく、

綠蔭俱榮部の行樂は、

ちまたに銀をはしらしむ、

五月上旬(はじめ)のあさまだき、

街樹の下に並びたる、

わがともがらの一列は、

はまきたばこの魔醉より、

襟脚きよき娘らをいだきしむ、

みないつしんにいだきしむ。

綠蔭俱樂部の行樂の、

その背廣はいちやうにうす靑く、

みよや都のひとびとは、

手に手に白き皿を捧げもち、

しづしづとはや遠近(をちこち)を行きかへり、

綠蔭俱樂部の會長の、

遠き𤲿廊を渡り行くとき。

 

   *

本篇のクライマックスの「襟脚きよき娘らをいだきしむ、」の後に強調の「みないつしんにいだきしむ。」の一行が挟まれてあり、これが反転のバネとなって上手く働いて、詩想のクレッシェンドが静かにデクレッシェンドへと転じており、私はこの初出形の方がよいと感じている。

 なお、筑摩版全集の『草稿詩篇 蝶を夢む』の最後には、『綠蔭俱樂部(本篇原稿一種一枚』としつつも、掲げずに、『末尾に「(大正三年五月一日)」と附記されている』とのみ記す。但し、同全集の『一九一三、九 習作集第九卷』には、以下の草稿が載る。

   *

 

 綠蔭俱樂部

都のみどりば瞳(ひとみ)にいたく

綠蔭俱榮部の行樂は

ちまたに銀をはしらしむ

五月はじめの朝まだき

街樹の下に並びたる

わが友がらの一列は

襟脚しろき娘らをいだきしむ

みないつしんにいだきしむ。

綠蔭俱樂部の行樂の

その背廣はいちようにうす靑く

みよや都のひとびとは、

手に手に白き皿を捧げもち

しづしづとはや遠近を步みいづ、

綠蔭俱樂部の會長の

遠き畫廊をすぐるときしも。

             (大正三年五月一日)

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 空に光る

 

   空 に 光 る

 

わが哀傷のはげしき日

するどく齲齒(むしば)を拔きたるに

この齲齒は昇天し

たちまち高原の上にうかびいで

ひねもす怒りに輝やけり。

みよくもり日の空にあり

わが瞳(め)にいたき

とき金色(こんじき)のちさき蟲

中空に光りくるめけり。

 

[やぶちゃん注:「齲齒」の音は正しくは「くし」と読む。「うし」と読むことが多いが、「う」は慣用音で本当は誤りである。まあ、「むしば」と読んでしまっているから、いいけれど、個人的には「むしば」という読みは本詩篇の詩想から見ると、『何だかな~』っていう感じが私はしてならないのだが。

「とき金色(こんじき)のちさき蟲」の「とき」は、前の「わが瞳(め)にいたき」を受けるから、「利き」「鋭き」で、「ちさき蟲」の形容。

初出は大正三(一九一四)年六月号『詩歌』。以下に示す。

   *

 

 空に光る

 

わが哀傷の烈しき日、

するどく齲齒を拔きたるに、

この齲齒は登天し、

たちまち高原の上に浮びいで、

ひねもす怒りに輝やけり。

みよ、くもり日の空にあり、

わが瞳(め)にいたき、

とき金色(こんじき)のちさき蟲

中空に光りくるめけり。

 

   *

本篇には筑摩版全集の『習作集題九卷』に草稿が一つある。標題は「光る齲齒」。

   *

 

  光る齲齒

 

わが哀傷の烈しき日

するどく齲齒を拔きたるに

この齲齒は登天し

たちまち高原の上に浮びいで(懸りて)

ひねもす怒りにかゞやけり

見よくもり日の空にあり

わが眼にいたき

とき金色の小さき蟲

中空に光りくるめけり。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 瞳孔のある海邊

 

   瞳孔のある海邊

 

地上に聖者あゆませたまふ

烈日のもと聖者海邊にきたればよする浪々

浪々砂をとぎさるうへを

聖者ひたひたと步行したまふ。

おん脚白く濡らし

怒りはげしきにたへざれば

足なやみひとり海邊をわたらせたまふ。

見よ 烈日の丘に燃ゆる瞳孔あり

おん手に魚あれども泳がせたまはず

聖者めんめんと淚をたれ

はてしなき砂金の道を踏み行きたまふ。

 

[やぶちゃん注:初出は大正三(一九一四)年七月号『詩歌』。標題は「みらくる」。以下に示す。

   *

 

 みらくる

 

地上に聖者あゆませたまふ、

烈日のもと、聖者うみべに來れば寄する浪浪、

浪浪、砂をとぎ去るうへを、

聖者ひたひたと步行したまふ、

おん脚しろく濡らし、

怒りはげしきにたへざれば、

足なやみひとり海邊をわたらせ給ふ、

みよ烈日の丘に燃ゆる瞳孔あり、

おん手に魚あれども泳がせたまはず、

聖者めんめんと淚たれ、

はてしなき砂金の路をふみ行き給ふ。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 遊泳

 

   遊 泳

 

浮びいづるごとくにも

その泳ぎ手はさ靑なり

みなみをむき

なみなみのながれははしる。

岬をめぐるみづのうへ

みな泳ぎ手はならびゆく。

ならびてすすむ水のうへ

みなみをむき

沖合にあるもいつさいに

祈るがごとく浪をきる。

 

[やぶちゃん注:初出は大正三(一九一四)年七月号『詩歌』。標題は「遊樂」。以下に示す。異同は少ない。

   *

 

 遊樂

 

浮びいづるごとくにも

その泳ぎ手はさあをなり

みなみをむき

なみなみのながれははしる

岬をめぐるみづのうへ

みな泳ぎ手はならびゆく。

ならびてすゝむ水のうへ

みなみをむき

沖合にあるもいつさいに

祈るがごとく浪をきる。

 

   *

 なお、筑摩版全集の「一九一三、九 習作集第九卷」に以下の草稿がある。

   *

 

 遊泳

 

ふかみに泳ぎ

しづめば肉はみどりに

浮べば瞳に島は落つ

岬をめぐり泳ぎいて

ああたましひもぬれぬれし

魚ら肌をくすぐりて

さ靑になづむ海のみづ

岬をめぐり泳ぎいで

なみなみのうへを遊泳す

 

遊樂至上のみづのうへ

沖合を見ればいつさいに

鷗さんさんとび散れり

みよ日は眞夏

うしほのみちひ音なみ遠に

われの肉生命にめざめ

地平にもろ手をさしのべて

よろこびするどく水をきる

よろこびするどく水をきる


   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 戀を戀する人

 

   戀を戀する人

 

わたしはくちびるにべにをぬつて

あたらしい白樺の幹に接吻した。

よしんば私が美男であらうとも

わたしの胸にはごむまりのやうな乳房がない

わたしの皮膚からはきめのこまかい粉おしろいの匂ひがしない

わたしはしなびきつた薄命男だ

ああなんといふいぢらしい男だ

けふのかぐはしい初夏の野原で

きらきらする木立の中で

手には空色の手ぶくろをすつぽりとはめてみた

腰にはこるせつとのやうなものをはめてみた

襟には襟おしろひのやうなものをぬりつけた

かうしてひつそりとしなをつくりながら

わたしは娘たちのするやうに

こころもちくびをかしげて

あたらしい白樺の幹に接吻した。

くちびるにばらいろのべにをぬつて

まつしろの高い樹木にすがりついた。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。十二行目の「襟おしろひ」はママ。「月に吠える」からの再録。『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 戀を戀する人』と比較されたいが、傍点部がもっと多い。私は糞前衛芝居のようないかにもな映像で、あまり好きな詩篇ではないが、「月に吠える」初版発売(大正六(一九一七)年二月十五日感情詩社・白日社出版部発行(自費出版))に際して問題を起こした詩篇で、既に印刷済みであったものの、直前に内務省警保局から発売禁止の内達を受け、本篇及び「愛憐」(そちらで削除の様子を注で記してある)の二篇を削除することで発売が許可されたいわくつきのものである(私の上記正規表現版は複数冊存在する無削除の完全本で復刻されたものを底本としている)。但し、大正一一(一九二三)年三月に発行された再版「月に吠える」(アルス刊)では、この二篇は復活して所収されてある。]

2021/12/28

伽婢子卷之十二 幽靈書を父母につかはす

[やぶちゃん注:挿絵は四枚(見開き二幅と単幅三つ)は、底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング補正して、適切と思われる位置に挿入した。]

 

 ○幽靈、書を父母(ぶも)につかはす

 

 江州東坂本に、正木のなにがしが娘龍子(たつこ)は、いとけなしくて才知あり。

 親、もとより有德(うとく)なりければ、いつくしみ育て、哥雙紙の道、敎へたるに、いつしか容貌(かほかたち)美しく、心ざま、情深し。其隣に芦崎(あしさき)なにがしが子に、數馬(かずま)といふ者は、龍子と同じ年にて、いとけなき時は、一つ所に遊びけるを、時の人、みな、戯(たはふ)れて、

「此同じ年なる子は、後、必ず、夫婦となすべし。」

といふを、幼なき心に、互に思ひしめて、

「此人ならでは。」

と、ひそかに許しけり。

 年たけゝれば、出《いで》て遊ぶ事もなし。

 數馬は、山にのぼせて、兒(ちご)となし、龍子は窓(まど)のもとに隱れすみけり。

 數馬、或時、家に歸りつゝ、哥を書きて遣(つかは)す。

 人しれず結びかはせし若草の

   花は見ながら盛りすぐらむ

 しるらめや宿の梢を吹かはす

   風にかけつゝかよふこゝろを

 龍子、是を見るに、限りなく『嬉し』と思ふ中に、又、思ひくづをれつゝ、返しとおぼしくて、

 月日のみ流れゆくゆく淀川の

   よどみ果てたる中の逢瀨に

 今はかく絕にしまゝの浦におふる

   みるめをさへに波ぞたゞよふ

 年十七になりしかば、親、

「然るべき人、聟にせん。」

と、はからひけるを、龍子、更にうけごはず、湯水をだに斷(たち)て泣き伏したるを、ひそかに問はせたりければ、

「西隣りの數馬に、約束しける事、あり。是にゆかずば、死すべし。他所には更に行べからず。」

といふ。

 親。

「この上は。」

とて、隣りになかだちを入れ、

「かうかう。」

と、いはせしか共、正木は有德(うとく)にて、蘆崎は貧しければ、

「數馬、容(かほ)かたちうるはしく、美男(びなん)にて才智ありとはいへども、いかで其緣を結ぶの相待(さうたい)ならん。」

とて、親は、しばしば辭しけれ共、

「娘の思ひかけたる所也。又、それ、有德なるを以て、緣を結ばゞ、金銀財寶を聟にする也。婚姻に財寶を論ずるは、夷慮(いりよ)のえびすの道也。」

と、いへり。

「我等、更に財寶を聟には、とらず。數馬が人がら、才智利こんなるを以て、聟にせん、と云事也。」

とて、しひて、吉日を定め、其いとなみは、娘の方《かた》より整え、其日に至りて、迎へつかはしければ、心の儘に夫婦となり、忍ぶべき關守もなく、嬉しさ、限りなし。

 龍子、

  ひとり寢のまどにさし入月かげを

   諸ともに見る夜半ぞうれしき

と、いひければ、數馬、

 夜な夜なはかこちて過し窓のもとに

   ともにながむるありあけの月

 夫婦の契り、淺からざる事、比翼の鳥の空に飛び、連理の枝の地に結びたるも、譬(たとへ)とするに、たらず。

 

Kazumatatuko1

 

 僅かに半年ばかりの後に、織田信長、江州に打ち出《いで》、山門、此の時に、たてをつきしを、元龜二年九月十二日、叡山・吉日山王《ひえさんわう》に至るまで、皆、燒《やき》滅ぼさる。

 此故に、坂本の民屋(みんをく)、亂妨・騷動して、四角八方に、皆、ちりぢりになりたり。

 龍子は信長の家臣佐久間右衞門尉信盛が手に、とりものとなりて、初めは行方《ゆきがた》を知らず。

 後に、淺井《あざい》・朝倉、ほろびて、江州、物靜かになり、人民、おのれおのれが故鄕に歸り住みて、暫く安堵したり。

 數馬は、妻の龍子が行衞を尋ねんとて、父母に別れをとり、

「もし、めぐり逢はずば、二たび、家に歸るべからず。」

と誓ひをおこし、比叡辻(ひえつじ)に出たれば、人のいふやう、

「正木が娘龍子は、佐久間に捕られて、陣中に。」

とて、聞《きき》て、河内の國高屋の城に赴きしかば、

「交野(かたの)の城、おちて、江州小谷(をたに)に行たり。」

といふ。

 又、江州に行しかば、

「京都にあり。」

と聞ゆ。

 方々《かたがた》、その所、定まらず、こゝかしこに馳せ向ひ、終に、天正八年正月に聞《きき》けるやう、

「佐久間は、大坂門跡の籠城につき、天王寺の陣に屯(たむろ)し、七ケ國の軍勢を從へ居たり。」

といふ。

 これより、攝州大坂にくだり、天王寺の陣に赴きしかば、年月《としつき》重なり、諸國を尋ねめぐりしかば、衣は破れて。鶴(つる)の氅(けごろも)の如く、かたち、おもがはりして、色黑く、瘦せつかれ、野にとまり、草に臥し、露にやどかす袖の上、淚は、更に、置き爭ふ。

 すでに天王寺の陣に行きければ、軍兵《ぐんぴやう》、そばだち、番手(ばんて)きびしく、數馬、恐ろしながら、立《たち》やすらひ、隙を窺ひて、問はんとす。

 番の足輕共、あやしみて、

「これは、いかさま、敵のはかりごとをもつて、陣中のありさま、見せつかはしぬらん。其儀ならば、一足《ひとあし》も逃すな、搦め捕りて、首をはね、見せしめのため、札《ふだ》をそへて、阿部野(あべの)にさらせや。」

とて、

「我も、我も。」

と走り出て、打ふせ、押し倒して、高手小手にいましめ、大將佐久間に、このよし、いひ入たり。

 佐久間、聞きて、

「囚人(めしうど)、こなたへ、つれて來れ。子細を尋ねて後に、ともかうも、はからふべし。」

とて、本陣に召しよせ、信盛、出向うて、

「汝は大坂籠城の者か。いかなる子細によりて、此陣に來り、うかがひける。ありの儘に白狀せずば、水火の責めに掛くべし。」

と、いはれたり。

 

Kazumatatuko2

 

 數馬、少しも恐れたる色なく、

「只今、此大事に及びて陳《ちん》じ申《まうす》には、あらず。ゆめゆめ、敵方より來りて、此の陣中をうかゝふ者には、あらず。これは江州東坂本の土民、蘆崎のなにがしが子、數馬といふ者也。叡山喪亂(さうらん)の砌(みぎ)り、一族、悉く八方に別れちりて、行方なく、此程、漸く、國中、靜かになり、地下《ぢげ》の土民、歸り住みて安堵せし所に、我《わが》妹(いもと)龍子、一人、歸り來らず。人に問へば、『君の陣中にあり』といふ。それより、諸方に尋めぐり、只今、爰に來り侍べり。願くは、一目逢せてたび給へかし。然(しか)らば、死すといふとも、何をか恨み侍べらん。」

とて、淚を、はらはらと流す。

「さて。年はいくつ許(ばか)り。」

と問へば、

「其時は十七歲、それより九年を經たれば、廿六歲になり侍り。」

といふ。

「扨は。」

とて、陣中の女房共を尋ねしかば、年も、名も、國も、所も同じく、數馬がいふに替らぬ女あり。

 歌、よく詠み、手書き、智惠、利根なりければ、信盛、これを寵愛して置きたり。

「うたがふ所なく、それなり。」

とて、繩をとき、ゆるし、廰場《ちやうば》に呼び入《いれ》て、龍子に逢はせしかば、龍子も、

「我《わが》兄《あに》也。」

と、いひて、數馬に對面し、一目見るより、

「あれは。それか。」

と、いひもはてず、淚を流し、淚より外の事、なし。

 信盛曰、

「久しく諸方を尋ねめぐり、關を越え、咎(とが)めを凌ぎ、さこそ侘しく心つかれ、力、衰へぬらん。此陣中にして、暫く休息せよ。」

とて、新らしき小袖一かさね出し、小屋の内に置きて、旅のつかれを休めらる。

 次の日、信盛、いひけるは、

「汝が妹(いもと)、よく雙紙を讀み、歌をも、つゞる。汝も、定めて、手書き、物讀むか。」

と。

 數馬、答へて、

「それがし、いとけなきより、山門にのぼり、佛經・外典(げてん)、怠りなく學(がく)し、詩文のかたはし、よろしからねども、つくり侍べり。手も亦、をかしげながら、なべての人には、劣り侍らじ。」

といふ。

 信盛、大に喜び、

「我れ、いとけなき時より武藝に心をよせ、諸方の陣中に日を送り、學文・手跡の事は、手にも取らず。此故に、今、諸方の書簡、又は、一篇の詩歌を贈られても、更に和韻・返歌の事に及ばず。手の郞從の中にも、これ、なし。今、幸ひに、汝、その道を得たり。我が陣中に居て、その事の職、勤めて得させよ。」

と也。

 數馬、嬉しくて、

「ともこうも、仰にしたがひ奉らむ。」

とて、はや、二百貫の知行につけられ、上を受け、下につたへ、書簡・飛札(ひさつ)、みな、信盛が心の如く、とゝのへたり。

 軍中の諸兵、いずれも、重き人に思ひ、かしづきて、あなづらはしき色、なし。

 されども、數馬は是を嬉しとも思はず。

 妻が行衞を尋ね求むる爲にこそ、身をも省みず、命をも惜まず、これまでも來りけれ、一たび逢ひ見て後は、重ねて見る事も叶はず、内外(うちと)、隔り、互に心ばかりを思ひ通はし、忍びの淚を袖につゝみながら、月を越ゆるほどに、卯月の衣更(《ころも》がへ)になれければ、垢付(あかづ)たる小袖をぬぎて、人を賴みて、

「妹につかはす。」

と、いはせ、歌一首、書きて、衣裏(えり)に包み入れたり。

 色見えぬこれや忍ぶのすり衣

   思ひみだるゝ袖のしら露

 龍子、これを取りて、衣裏(えり)の綻びを廣げしかば、歌、あり。大に悲しくて、聲を忍びの泪おさへ難く、返しとおぼしくて、小紙に書つけ、

「夏のかたびら、遣す。」

と、いうて、衣裏もとに、縫ふくめて、遣りける。

 いかにして行きて離れむ陸奧(みちのく)の

   思ひしのぶの衣へにけり

 數馬、此返しを見るに、胸、悶え、心、消えて、思ひ歎きしが、其つもりにや、重き病に沈み、

「今を限り。」

と聞えしかば、龍子は佐久間に申して、

「兄(あに)の病、重くして、今は限りと、聞侍べり。願くは、此世の名ごりに、今一たび、見まゐらせばや。」

とて、なきければ、許し侍べり。

 

Kazumatatuko3

 

 急ぎ、小屋の中に行たりければ、前後わきまへず、吟(によひ)ふしたり。

 龍子、枕もとに立寄り、

「如何に。みづからこそ、只今、爰に參りて侍べれ。」

といふに、數馬、

「むく」

と起きあがり、龍子が手をとり、大息(《おほ》いき)つきたるに、泪は兩の目に餘り、容(かほ)に流れかゝりつゝ、物をも得云はで、口ばかり動くやうにて、其儘、絕入《たえいり》て、空しくなる。

 佐久間、あはれがりて、天王寺のうしろの山もとに送り埋(うづ)み、僧を雇ひて吊(とふら)はせけり。

 龍子は、なくなく我が住む方に歸り、湯水をだに聞《きき》いれず、引かづきて、臥しけるが、其夜より、心地、惱みて、藥をも飮まず、只なきに泣きつゝ、空に向ひ、地に伏して、大息のみ、つきて、次の日の暮がた、佐久間にいひけるは、

「みづから、家を離れ、君にしたがひ參らせ、年を重ねて他國を巡り、親しき者とては、一人もなかりしに、只、兄のみ一人、尋ね來(き)て、これさへ、むなしくなり侍べり。此かなしさは、生《せい》を替ても、忘れ難く侍べれば、今は、命も極まれり。みづから、死なば、兄のそばに、埋みてたべ。黃泉(よみぢ)のもとにして、せめて、同じ所にめぐり逢ひ、年月の憂さ、つらさ、語り慰む事もがなと、他國にさまよふ便りを求めむ。」

とて、その息絕え、むなしく成るたり。

 佐久間は、世に痛はしく思ひて、其心ざし、望みたるに違(たが)はず、數馬が塚の左に並べて埋みつゝ、龍子が衣裝、殘らず、寺に送りつかはし、あと、よく吊ひけり。

 同じき六月に、大坂門跡の籠城、あつかひになりて、開退(あけのき)ければ、佐久間も天王寺の陣を拂ひて歸りしかば、今は、少し、物靜かになり行《ゆく》かと覺えしに、龍子が江州の家に久しく召使はれし下人彌五郞、商人と成りて、世を渡るわざとし、大坂より和泉《いづみ》の境ひにゆくとて、天王寺邊(へん)を打過ければ、東の方の山ぎはに、新しく立《たち》たる家、あり。

 數馬と、龍子と、門より、つれ立出て、

「如何に。彌五郞にてはなきか。道のたよりに立寄れかし。故鄕の事も、ゆかしきに。」

とて、呼びかけたり。

 彌五郞、立もどり、手をうちて、

「故鄕には數馬殿の御父母は、とく、むなしくならせ給ひ、その跡は、舅(おぢ)にておはする權七殿こそ、繼がせ給へ。龍子公(たつこぎみ)の二人の御親は、恙なくて、只、御人《おひと》の行衞を聞かまほしく、朝夕は、泣きしをれて、神ほとけに祈り給ふに、などや、とくとく歸り給はぬ。」

と語る。

 龍子、

「さればよ、故鄕のゆかしさ、いふばかりなければ、世につかふる身は、心のならねば、それも叶はず。」

といふ。

 彌五郞は急ぐ事のありて早く歸るべきに、

「文一つ、遣はし給へ。」

と云へば、

「まづ、今宵は、こゝにとゞまりてよ。」

とて、酒、進め、物、食はせなどして、夜もすがら、物語りしつゝ、はや、明方になりければ、彌五郞は旅立空《たびだつそら》に出《いで》てかへる。

 龍子、文、こまごまと書て、渡しぬ。

 坂本に歸りて、正木夫婦に、文を參らせ、

「かうかう。」

と語りしかば、親、かぎりなく喜び、急ぎ、文を開きて見れば、文の言葉、文字のくさり、手の書き流したる、疑ふ處もなき、娘の文なり。

 其言葉には、

「久しく年へて たまたま彌五郞 見え來たり 故鄕の事 聞につけて 嬉しきが中に 戀しさ やる方もなく侍べり 朝な夕な そなたの空に棚引く雲霞も 思ひを起こすなかだちとなり 秋來る鳫金(かり《がね》)も 便りの文は傳へぬかと侘びられ そゞろに落つる淚の袖 今は みな 朽果てて 彌五郞にまみえし嬉しさを 何に包まんとのみ思ほゆ わが身は 父のうみて 母の育てける 深き惠みは 海(うみ)の數(かず)ならず 高きいつくしみは 山も物かは 夫 いざなひ 妻 したがふは 女の身の習ひ 人の世の定め也 往日(そのかみ)は 山崩れ 麓(ふもと)傾き 日の色は煙におほはれ みづうみの波は熖(ほのほ)に燃ゆ 身を歎き 命をのがれんとて したしきが ゆき別れ 塵(ちり)の如く とび 霰(あられ)の如く わかれて 皆 ちりちりになり 互にゆくさき 知り難し みづからは 佐久間とかや恐ろしき武士にとられ 或時は

交野(かたの)の陣に肝を消し 或時は中嶋のいくさに胸を冷やし 國の數々 從ひ巡(めぐ)り なみだにのみ 浮き沈みし 恨みを心に隱し おそれを身にうけて 春の月 朧ろに 秋の風 凄(すさ)まじく 寢(ね)られぬ枕の上には 夜の衣をかへせども 夢をだに結はず 時移り 事さりて 我を尋ぬる人に逢へり 更に春を尋ぬるの遲き恨みはなしに 門の前の柳 風に折られて 二たび 枝 出《いで》つゝ 斷《たへ》たる絃(ことのを)かさねて繫ぎければ 又 君の賜(たまもの)ありて つかふる道に 立歸るべき私(わたくし)を忘れ 日 重なり 月 逝きて 今日(けふ)になりぬ 音づれ絕えたる不孝(ふけう)のとが 恩を忘るゝに似たる事をば 枉(ま)げてゆるし給へ」

など、書きて、奧に、

 田鶴(たづ)のゐるあしべの潮(しほ)のいや增に

   袖ほすひまもなくなくぞふる

 二人の親、是を見て、

「その比、別れてより、たよりのつてをだに聞かず、今は世になき人の數にや入ぬらんと、心もとなく悲しと思ひ暮せしに、生きてありとだに聞けば、まことに、日比、いのり申せし神ほとけの利生《りしやう》ぞや。」

とて、嬉しなきに、なきけり。

 父のいふやう、

「急ぎ、こゝに迎へて、年比の歎きをも慰め、見えもし、見もせむ。」

とて、彌五郞に案内せさせ、急ぎ、天王寺に赴きしに、棟門(むなかど)立《たて》たる家ありと覺えし所には、只、草、茫々と生ひ茂り、狐、はせ巡り、道のなき山の麓に、塚、二つ、並びて、あり。

 こゝかしこ見めぐらせ共、それかと覺しき家は、なし。

 一町餘りの西に寺あり。

 こゝに行て、僧に尋ねしかば、

「其塚は、佐久間信盛の陣中より葬禮したる、蘆垣數馬、正木氏龍子兄弟の塚なり。又、そのあたりに、人のすむべき家は、なきものを。」

といふ。

 父、驚き、娘の文を取出して見れば、文字もなく、墨もつかぬ白紙にてぞ、有ける。

 父、悲しさのあまり、塚のもとに打倒れ、人目をも耻《はぢ》ず、聲をばかりに泣き居たり。

 

Kazumatatuko4

 

[やぶちゃん注:龍子の父の夢中の邂逅を描いたもの。この画像では判り難いが、冥途の存在である三角頭巾(天冠(てんかん・てんがん))を二人ともつけている。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの画像を見られたい。面白いのは、右下に下男の弥五郎もその夢に登場していることである。しかし、情に於いては、接点を作った彼れが描かれていることに、私は違和感はない。]

 

「我、はるばると、これまで來《きた》る事も、一目逢はんと思ふぞ。いかに此つかに埋もれて、跡を隱しけるこそ、悲しけれ。老たる父が心を知らば、姿を見《み》みえて、此《この》物思ひを慰めよかし。」

とて、其夜は、そこにとどまりしに、夜半ばかりに、夢ともなく、數馬と龍子と現れ出て、淚をながしつつ、そのかみの事共、語り、

「跡、よく、とぶらひて給(た)べ。」

といふ。

 父、夢心地に、

「我、ここに來る事は、迎へて故鄕に歸らん爲也。よし、さらば、空しき尸(から)なりとも、つれて、故鄕に歸りなむ。」

と云ふに、

「いやとよ、此地に埋もるゝも、地府(ちふ)の定《さだめ》あり。又、物靜かにして、すむに、よろし。故鄕にうつし歸されんには、苦み、重なる事、侍べり。埋みし塚をば、二たび、餘所に移さぬものぞや。地府の定めし御とがめ、その亡者にあたりて、苦しみを受くる也。只、此まゝ置きて、とぶらひ給へ。」

とて、父にとりつき、なきけるよ、と、おぼえて、夢は、さめたり。

 なくなく、僧を雇ひて、塚の前にして、供物(くもつ)をそなへ、經、よみつゝ、跡、よく、とぶらひ、淚ともろともに立《たち》別れて、坂本の故鄕に立歸りし父が心、見る人、きく人、皆、あはれがりて、淚をながす。

 坂本に歸りても、思ひのつもりにや、夫婦の親、いくほどなく、身まかりぬ。

[やぶちゃん注:「江州東坂本」現在の滋賀県大津市坂本(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の東部。

「哥雙紙の道」この場合の「哥雙紙」は、和歌に関する書で、歌道の意。

「芦崎(あしさき)」本篇で「芦」と「蘆」が混在しているのはママである。

「人しれず結びかはせし若草の花は見ながら盛りすぐらむ」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、了意御用達の例の山科言緒(ときお 天正五(一五七七)年~元和六(一六二〇)年:公家)編の歌学書(部立アンソロジー)「和歌題林愚抄」(安土桃山から江戸前期の成立)「恋二」の「絶久恋」の藤原隆信朝臣(康治元(一一四二)年~元久二(一二〇五)年:正四位下右京大夫。建仁二(一二〇二)年に法然に従って出家した。似絵(にせえ:平安末期から鎌倉時代に流行した大和絵様式の肖像画。特に面貌を写実的に描くもの)の開祖として知られる)の歌(「千載和歌集」「恋四」)を一部変えて用いたとある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たるが出来る。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「30」コマ目の左丁の十一行目のそれで、

 人しれす結ひそめてし若草の花のさかりをすきやしぬらん

整序すると、

 人知れず結び初めてし若草の花の盛りを過ぎやしぬらむ

であろう。「草結び」は古代に於いては、道標べとするように、とりわけ呪的な行為であり、近世に至ると、ダイレクトに「男女間の約束をすること。縁結び。」の意をあからさまに指した。

「しるらめや宿の梢を吹かはす風にかけつゝかよふこゝろを」同前で同じそれの「恋二」の「恋隣女」にある藤原俊成の一首(「新続古今和歌集」の「恋」)を一部変えて用いたとある。全巻(PDFの「34」コマ目の右丁の十一行目のそれで、そこでは俊成の家集「長秋詠藻」からとある。

 しるらめややとのこすゑを吹かはす風につけてもおもふ心を

整序すると、

 知るらめや宿の梢を吹き交はす風につけて思ふ心は

龍子と数馬は実際に隣家であるから、この一首はよく調和する一首となる。

「月日のみ流れゆくゆく淀川のよどみ果てたる中の逢瀨に」同前で同書の「恋二」の「絶久恋」の為道朝臣の一首の以下を手入れをしたもの。同前の「30」コマ目の左丁の十二行目のそれで、

 月日のみなかれもゆくかなみた川よとみはてたる中のあふせに

で、整序すると、

 月日のみ流れもゆくか淚川淀み果てたる中の逢ふ瀨に

「今はかく絕にしまゝの浦におふるみるめをさへに波ぞたゞよふ」特に原拠はないか。「絕えにしままの」が以下の「浦」に掛かって「真間の浦」を引き出し、下総の市川真間の悲劇の美少女真間の手児奈が身を投げた「浦」を通わせ、そこに「生ふる」ところの海藻「みるめ」(「海松」「水松」などと漢字表記するミル緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile。古くより食用とされ、「万葉集」に既に詠まれているそれを実景として点描しつつ、「見る目」或いは「見る面」(「二人が顔を見合わすこと」がかくも永く絶えていることを)を掛けている。

「他所」「新日本古典文学大系」版脚注では、「たしよ」と読ませる注となっている。

「なかだち」仲人(なこうど)。

「相待(さうたい)」底本も元禄版も「さうたい」である。但し、ここは「さうだい(そうだい)」と読むのが正しいようで(「新日本古典文学大系」版も「さうだい」)、仏教用語で「二つの対象が、互いに相対関連して存すること。長は短と、東は西と相い対して共に存するという類い。相互の相対立の性質によって、見かけ上、存在しているように見えているに過ぎない仮象を言う。対語は「絶待」(ぜつだい)

ならん。」

とて、親は、しばしば辭しけれ共、

「夷慮(いりよ)のえびす」野蛮人。重語的で如何にも差別的で嫌な感じがするフレーズである。

「利こん」「利根」。利発に同じ。

「ひとり寢のまどにさし入月かげを諸ともに見る夜半ぞうれしき」同前で同書の「恋二」「月前逢恋」の前大納言経任(「新後撰和歌集」の「恋三」)の一首をいじったもの。全巻(PDF)の「23」コマ目の右丁の初行のそれ。

 ひとりねのとこになれにし月かけをもろともにみるよはそうれしき

整序すると、

 獨り寢の床に馴れにし月影をもろともに見る夜半ぞうれしき

「夜な夜なはかこちて過し窓のもとにともにながむるありあけの月」元歌はないか。

「織田信長、江州に打ち出《いで》、山門、此の時に、たてをつきしを、元龜二年九月十二日、叡山・吉日山王《ひえさんわう》に至るまで、皆、燒《やき》滅ぼさる」織田信長による「比叡山焼き討ち」は同年同月同日(ユリウス暦一五七一年九月三十日/グレゴリオ暦換算十月十日)。僧侶・学僧・上人・児童の首を、悉く刎ねたと言われている。織田軍は、先ず、坂本・堅田周辺に放火し、それを合図に攻撃が始まったとされる。「吉日山王」坂本にある現在の日吉大社(ひよしたいしゃ)。第二次世界大戦以前は「ひえ」と呼んでいた。延暦七(七八八)年、最澄が比叡山上に比叡山寺(後の延暦寺)一乗止観院(後の根本中堂)を建立した際、比叡山の地主神を祀る日吉社を守護神として崇敬した。而して延暦一三(七九四)年の平安京遷都により、日吉社は京の鬼門に当ったことから、鬼門除け・災難除けの社として国から崇敬されるようになり、参照したウィキの「日吉大社」によれば、『延暦寺が勢力を増してくると、やがて日吉社と神仏習合する動きが出て、日吉社の神は唐の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになり、延暦寺では山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いていくようになる。日吉社は』元慶四(八八〇)年に『西本宮の大己貴神が』、寿永二(一一八三)年に『東本宮の大山咋神が』、『それぞれ正一位の神階に叙せられた』。『こうして日吉社は延暦寺と次第に一体化していき、平安時代中期には八王子山の奥に神宮寺が建てられている。また、日吉社の参道沿いには延暦寺の里坊が立ち並ぶようになっていく。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社の山王信仰も広まって全国に日吉社が勧請・創建され、現代の天台教学が成立するまでに与えた影響は大きいとされる』とある。

「佐久間右衞門尉信盛」(大永八・享禄元(一五二八)年或いは前年とも~天正一〇(一五八二)年)は武将佐久間信晴の子として尾張に生まれた。織田信秀に仕え、信長が家督相続をする際には、これを支持し、以後、信長の信任を得たとされる。永禄一一(一五六八)年の信長の上洛に従い、京都の治安維持に努め、次いで近江永原城を預けられ、柴田勝家とともに、近江から六角承禎(しょうてい)(=義賢)の勢力を掃討するのに力があった。元亀三(一五七二)年十二月の遠江の「三方ケ原の戦い」に、徳川家康の援軍として浜松城に送られたが、この時は完敗を喫した。「長篠の戦い」・「伊勢長島一向一揆」との戦い、「越前一向一揆」との戦いなど、信長の戦闘の殆どに参陣しているが、なかでも天正四(一五七六)年から本格化した「石山本願寺包囲戦」では、特にその中心的な位置にあった。ところが、石山本願寺が降服してきた直後の天正八(一五八〇)年八月、「無為に五ヶ年間を費した」と信長から問責され、子の正勝ともども、高野山に追放されてしまう。明智光秀の讒言によるとも、事実、茶の湯に耽溺して軍務を怠ったからとも言われてはいるが、真相は不明で、信長の所謂、「捨て殺し」政策の犠牲になった一人とされる。剃髪して宗盛と号したが、紀伊国十津川の温泉で病気療養中に病死した。なお、子の正勝は、後に許されて、信長に仕え、不干斎と号して、豊臣秀吉の御咄衆となり、茶人としても名を残している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「淺井《あざい》・朝倉、ほろびて」「小谷城の戦い」で敗れ、浅井長政は天正元(一五七三)年九月一日(父の久政は既に八月二十七日に自刃)に自刃して浅井家は滅び、朝倉義景は「一乗谷城の戦い」で敗走し、従兄弟朝倉景鏡(かげあきら)の勧めで逃れていたことろ、天正元年八月二十日早朝、当の景鏡が織田信長と通じて裏切って襲撃、自刃して朝倉家は滅亡した。因みに、「新日本古典文学大系」版脚注でここに注して『浅井義景』とあるのは、朝倉義景の誤り。

「比叡辻(ひえつじ)」先の坂本の東の琵琶湖西岸の滋賀県大津市比叡辻(ひえいつじ)。「新日本古典文学大系」版脚注に、近江の『水陸交通の要地』とある。

「河内の國高屋の城」現在の大阪府羽曳野市古市にある高屋城城跡。義昭派の重臣遊佐信教が同じく反信長派であった三好康長をこの城に引き入れて籠城を敢行したが、天正三(一五七五)年に信長の猛攻を受け(この時、佐久間も城攻めに参加しているようである)、落城、その後、廃城となった。本丸は現在の安閑(あんかん)天皇陵に治定されている古墳上にあった。

「交野(かたの)の城」現在の大阪府交野市私部(きさべ)にあった。別名私部(きさべ)城。ここ

「江州小谷(をたに)」現行では小谷城(おだにじょう)と濁る。現在の滋賀県長浜市にあった。ここ。専ら、朝倉の滅亡の地、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られる城である。

「天正八年」一五八〇年。

「大坂門跡の籠城」浄土真宗本願寺派第十一世宗主・真宗大谷派第十一代門首・石山本願寺住職であった顕如(天文一二(一五四三)年~天正二〇(一五九二)年)は元亀元(一五七〇)年に彼の率いる本願寺と織田氏は交戦状態に入り、この永い反目と抗争は「石山合戦」とも呼ばれる。しかし、織田軍が次々と反対勢力を制圧したため、抗戦継続を諦め、朝廷を和平の仲介役として、この天正八(一五八〇)年に信長と和睦し、顕如自身は石山を退去し、紀伊国鷺森別院に移った。

「天王寺の陣」石山攻め(旧石山本願寺は現在の大阪城内に遺跡が比定されている)のために織田軍が天王寺に設けた陣屋。天正四(一五七六)年五月七日に摂津天王寺で発生した信長と一向一揆との戦闘「天王寺砦の戦い」では四天王寺は信長勢に火を放たれ、全焼している。無論、佐久間もここに実際に出陣している。

「七ケ國」三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊。

「氅(けごろも)」羽毛。

「そばだち」背筋を伸ばして威嚇的に立哨し。

「番手(ばんて)」陣の警固に当たる兵士。

「いかさま」「如何樣」。副詞。「いかさまにも」の略から、ここでは「自分の考えや叙述、推測などの確度が高いことを表わす語。「きっと・どう見ても・てっきり」。

「札《ふだ》」「新日本古典文学大系」版脚注に、『氏名・年齢・罪科などを記した高札。捨札』とある。

「阿部野(あべの)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『阿倍野のことか。天王寺に近い繁華の地』とある。天王寺の南に接したここ

「陳《ちん》じ申《まうす》には、あらず」「新日本古典文学大系」版脚注にある通り、『疑いをはらすために』敢えて拵えて『弁明する』ものではない、の意。

「妹(いもと)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『兄妹の関係に偽っているが、これは』龍子が『信盛の妻妾の身の上にあったことを暗示する』とある。

「廰場《ちやうば》」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「庁庭(ちやうば)」の当て字。折り調べを行う「お白洲」』とある。

「あれは。それか。」「新日本古典文学大系」版脚注に、『あの人がその人か。意外な邂逅と数馬の変わりはてた姿に驚き、思わず口をついて出た語』とされる。

「和韻」小学館「日本国語大辞典」に『他人から漢詩を詠みかけられた時などに、それにこたえて、その詩と同じ韻字を用いて詩を作ること。次韻・用韻・依韻の三体がある』とある。

「手の郞從」直属の手下の部下。

「二百貫の知行」「新日本古典文学大系」版脚注に、『年貢高が銭二百貫文の土地。田地一段を五百文と計算するのが標準的であった』とある。

「飛札(ひさつ)」飛脚に持たせて送る急ぎの手紙。急を要する手紙。「飛書」とも言う。

「あなづらはしき色、なし」「侮らはし」は動詞「侮(あなず)る」の形容詞化で、軽蔑しようとする気持ちがすること。尊敬・尊重する意志を持たないことを言う。佐久間の従者らも彼のことを一目置いていたことを言う。

「卯月の衣更(《ころも》がへ)」四月一日。

「色見えぬこれや忍ぶのすり衣思ひみだるゝ袖のしら露」同前で「和歌題林愚抄」の「恋四」の「寄衣恋」の常盤井入道の歌(「新後撰和歌集」「恋一」)を用いたとある。同じく早稲田大学図書館「古典総合データベース」ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)の「62」コマ目の右丁の後ろから五行目のそれ。

「いかにして行きて離れむ陸奧(みちのく)の思ひしのぶの衣へにけり」同前で同書の「恋四」の「寄衣恋」の従二位家隆(「玉葉和歌集」「恋一」)を転用している。同前で、ここの「62」コマ目の右丁の一番最後のそれ。

「同じき六月に、大坂門跡の籠城、あつかひになりて、開退(あけのき)ければ」「あつかひ」は講和のこと。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『実際には』もっと早く、同じ天正八(一五八〇)年『閏三月に講和が実現した』とある。

「御人」「新日本古典文学大系」版脚注に、『そのお方。目前の相手に対して名指しを遠慮した婉曲な表現。オヒト』とある。

「中嶋のいくさ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『淀川支流の神崎川と中津川に囲まれた一帯。現在の大阪市淀川区・東淀川区のあたり。元亀元年(一五七〇)九月三日、中島まで出陣した将軍義昭のもとに』、『根来、雑賀衆一万騎が馳せ参じ、信長軍との間に激戦を交えた(信長記三。大坂合戦事)』とある。この中央附近である。

「斷《たへ》たる絃(ことのを)」楽器の弦が切れることであるが、「琴瑟 (きんしつ) 」を夫婦の仲に喩えるところから、本来は「妻に死別すること」を言う。ここは逆転して夫数馬が死んだと思っていたことを言っており、豈はからんや、彼が生きていたことを転じて言っている。

「君の賜(たまもの)ありて つかふる道に 立歸るべき私(わたくし)を忘れ」主君佐久間が褒美として数馬を右筆として取り立てて呉れたことを言いつつ、そうした結果として、龍子が、自身の親に孝をなすことがないがしろにした慚愧の念を言う。

「不孝(ふけう)」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『「不孝」の呉音読み』とある。

「田鶴(たづ)のゐるあしべの潮(しほ)のいや增に袖ほすひまもなくなくぞふる」同前で、同書の「恋四」の「寄鳥恋」の国道朝臣の一首(「順徳院歌合建保二九尽」)のこの55」コマ目の右丁の後ろから五行目のそれを用いたもの。但し、リンク先では「國通」と見える。

「棟門(むなかど)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『切妻破風の屋根を載せた立派な門』とある。

「蘆垣數馬」ママ。

「地府(ちふ)」冥府。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 さびしい人格

 

   さびしい人格

 

さびしい人格が私の友を呼ぶ

わが見知らぬ友よ早くきたれ

ここの古い椅子に腰をかけて二人でしづかに話してゐやう

なにも悲しむことなく君と私でしづかな幸福な日を暮さう

遠い公園のしづかな噴水の音をきいてゐやう

しづかに しづかに 二人でかうして抱きあつてゐやう。

母にも父にも兄弟にも遠くはなれて

母にも父にも知らない孤兒の心をむすびあはさう

ありとあらゆる人間の生活の中で

おまへと私だけの生活について話しあはう

まづしいたよりない二人だけの祕密の生活について

ああその言葉は秋の落葉のやうにさうさうとして膝の上にも散つてくるではないか。

 

わたしの胸はかよわい病氣した幼な兒の胸のやうだ

わたしの心は恐れにふるへるせつないせつない熱情のうるみに燃えるやうだ。

 

ああいつかも私は高い山の上へ登つて行つた

けはしい坂路をあほぎながら蟲けらのやうにあこがれて登つて行つた

山の絕頂に立つたとき蟲けらはさびしい淚をながした。

あほげばばうばうたる草むらの山頂で大きな白つぽい雲がながれてゐた。

 

自然はどこでも私を苦しくする

そして人情は私を陰鬱にする

むしろ私はにぎやかな都會の公園を步きつかれて

とある寂しい木蔭の椅子を見つけるのが好きだ。

ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ

ああ都會の空を遠く悲しげにながれてゆく煤煙

またその都會の屋根をこえてはるかにちひさく燕の飛んで行く姿をみるのが好きだ。

 

よにもさびしい私の人格が

おほきな聲で見知らぬ友を呼んでゐる

わたしの卑屈で不思議な人格が

鴉のやうなみすぼらしい樣子をして

人氣のない冬枯れの椅子の片隅にふるへて居る。

 

[やぶちゃん注:三ヶ所の「ゐやう」、「あほぎながら」「あほげばば」はママ(歴史的仮名遣は「ゐよう」「あふぎながら」「あふげば」が正しい)。「月に吠える」からの再録。表記の異同はあるものの、大きな作り変えはない。私の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 さびしい人格』では、かなり拘った注も附してあるので、詩篇を比較されるとともに、是非、注も読まれたい。本篇は、私には、とある忘れ難き過去の記憶から、萩原朔太郎だけではない、近現代詩歌の中で、必ず、一番に想起する詩篇なのである。

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 有害なる動物

 

   有害なる動物

 

犬のごときものは吠えることにより

鵞鳥のごときものは畸形兒なることにより

狐のごときものは夜間に於て發光することにより

龜のごときものは凝晶することにより

狼のごときものは疾行することによりてさらに甚だしく

すべて此等のものは人身の健康に有害なり。

 

[やぶちゃん注:まるで、中国の古い博物誌・本草書・伝奇小説・志怪小説か、プリニウスの「博物誌」を読むようで、偏頗にして差別的・非科学的であるが、さればこそ、古典的博物学の面目の復活又は精神分析的或いは民俗学的に甚だ興味深い(正直、問題があるが面白い)一篇である。初出は大正四(一九一五)年一月号『水甕』。以下に示す。

   *

 

 有害なる動物

 

犬のごときものは吠ゆることにより、

鵞鳥のごときものは畸形兒なることにより、

狐のごときものは夜間に於て發光することにより、

龜のごときものは凝晶することにより、

狼のごときものは疾行することによりて更に甚だしく、

すべて此等のものは人身の健康に有害なり。

               ――十二月作――

 

   *

草稿も一篇ある。以下に示す。誤字や脱字と思われるものは総てママ。

   *

 

  有害なる動物

 

たとへば犬のごときものはその吠ゆることによりて

雲雀の如きものはつばさのニツケルなるを以て

魚の如きものはその泳ぐことにより

鵞鳥のごときものは遠方 綺形*その怪異なることによりて//その不具キ形兒なることより*

[やぶちゃん注:「*」「//」は私が附した。「その怪異なることによりて」と「その不具キ形兒なることより」が並列残存していることを示す。]

狐のごときものは夜間に及びその肢體の光れることによりて

疾行する狼のごときものは就中有害なり。よく疾行することによりて最も甚だし、

就中すべてこれらのもの人身われの建康に有害なり、

 

   *

 しかしだな、朔太郎よ、判っているよな? 自然界に於いて宇宙の中で最も致命的絶望的非望的に「有害なる動物」は――無論、人間だよ――]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 見えない兇賊

 

   見えない兇賊

 

兩手に兇器

ふくめんの兇賊

往來にのさばりかへつて

木の葉のやうに

ふるへてゐる奴。

 

いつしよけんめいでみつめてゐる

みつめてゐるなにものかを

だがかわいさうに

奴め 背後(うしろ)に氣がつかない、

背後には未知の犯罪

もうもうとしてゐる黑の板塀。

 

夜目にも光る

白銀(しろがね)の服を着こんだ奴

この奇體な

それでゐて

みたものもない片目の兇賊。

 

[やぶちゃん注:「かわいさう」はママ。初出は大正三(一九一四)年十二月号『地上巡禮』。標題は「片眼の兇賊」。以下に示す。歴史的仮名遣の誤り(「可愛そう」)はママ。

   *

 

 片眼の兇賊

 

兩手に兇器、

ふくめんの兇賊、

往來にのさばりかへつて、

木の葉に、

ふるへて居る奴、

 

いつしよけんめいでみつめて居る、

みつめて居るなにものかを、

だが可愛さうに、

奴め、うしろに氣が付かない、

背後(うしろ)には未知の犯罪、

はてしもない黑の板塀、

 

夜目にも光る、

白銀(しろがね)の服を着こんだ奴、

この奇體な、

それでゐて、

見たこともない片眼の兇賊。

 

   *

筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」には草稿が一つ載る。以下に示す。歴史的仮名遣の誤りや誤字と思われるものは総てママ。

   *

 

  片眼の兇賊

 

兩手に兇器、

覆面の兇賊巨漢、

往來にのさばりかへつて、

木つ葉のやうにふるへて居る奴。

 

みつめて居る何者かを、

だがかわいそうに、

奴め、背後(うしろ)に氣に付かない、

背後(うしろ)には未知の犯罪、

はてしもない黑の板塀(いたべい)。

夜目(よめ)にも光る、

白銀の服を着こんだ奴、

この奇體な、

それで居て見たこともない片眼の兇賊。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 月夜

 

   月 夜

 

へんてこの月夜の晚に

ゆがんだ建築の夢と

醉つぱらひの圓筒帽子(しるくはつと)。

 

[やぶちゃん注:初出は大正三(一九一四)年十二月号『地上巡禮』。標題は「月」。以下に示す。「ゆがんた」はママ。誤植。

   *

 

 

 

へんてこの月夜の晚に

ゆがんた建築の夢と

醉つぱらひの圓筒帽子(しるくはつと)

 

   *

筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」に『月夜(本篇原稿二種二枚)』として以下一篇が載る。太字は底本では傍点「ヽ」。

   *

  


へんてこの月夜の晚に、

歪んだ建築の夢と、

醉(よ)つぱらひの圓筒帽子(しるくはつと)、

すばらしい純銀の圓筒帽子(しるくはつと)。

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 夜の酒場

 

   夜の酒場

 

夜の酒場の

暗綠の壁に

穴がある。

かなしい聖母の額(がく)

額の裏(うら)に

穴がある。

ちつぽけな

黃金蟲のやうな

祕密の

魔術のぼたんだ。

眼(め)をあてて

そこから覗く

遠くの異樣な世界は

妙なわけだが

だれも知らない。

よしんば

醉つぱらつても

靑白い妖怪の酒盃(さかづき)は、

「未知」を語らない。

 

夜の酒場の壁に

穴がある。

 

[やぶちゃん注:初出は大正三(一九一四)年十二月号『地上巡禮』。殆んどが表記違いに過ぎないが、全体の及んでいるので、言葉で示すより、そのまま出した方が楽なので、以下に示す。五行目の「頭」はママ。「額」の誤植の可能性が強い。

   *

 

 夜の酒場

 

夜の酒場の、

暗綠の壁に、

穴がある、

哀しい聖母の額、

頭の裏に、

穴がある、

ちつぽけな、

黃金蟲(こがねむし)のやうな、

秘密の、

魔術のボタンだ、

眼をあてて、

そこからのぞく、

遠くの異樣な世界は、

妙なわけだが、

だれも知らない、

よしんば、

醉つぱらつても、

靑白い妖怪の酒盃(さかづき)は、

未知(みち)を語らない、

 

夜の酒場の壁に、

穴がある。

 

   *

筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」に『夜の酒場(本篇原稿一種一枚)』として以下が出る。明らかに二篇が載るが、同一原稿用用紙に纏めて載るから一種としているようだが、これは普通なら、二種扱いとしか思われない。不審。以下に示す。太字は底本では傍点「ヽ」。誤字(「つる」)と思しいものはママ。

   *

  酒場の壁穴


ちよつと御覽

穴のむかふに

夜の酒場の

壁に穴がある額がつる

裏の世界に

酒場の壁から

額の裏に穴がある

ちつぽけな

祕密な

魔術のボタンだ

いつも行くわたしのバアは

祕密な穴の

穴から さきの みえるその遠くの異樣な世界は

へんなわけだが

だれも知らない

ょしんば

お前が酒に醉はうとも

薄黑い靑白い妖怪の盃は

祕密あの「未知」をかたらない

わたしの夜の酒揚の

壁に穴がある。

 

  酒場の壁穴


夜の洒場の、暗綠の壁に

壁に穴がある、

哀しい聖母の、

額の裏に、

穴がある、

ちつぽけな、

黃金蟲のやうな、

祕密な、

魔術のぼたんだ、

眼をあてゝ、

そこからのぞく、

遠くの異樣な世界は、

妙なわけだが、

だれも知らない、

よしんば、

酒に醉つぱらつても、

靑白い妖怪の洒盃(さかづき)は。

  *

最後に編者注があり、『本稿の餘白に「折返し御返稿を願ます、編輯大急ぎの躰十九日か二十日には活字ニ組みかけさします」と北原白秋の筆蹟で書かれている。』とある。こんなものを添えられても、草稿は二種とする私の考えは変わらない。二番目は決定稿とは違うじゃないか!]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 懺悔

 

   懺 悔

 

あるみにうむの薄き紙片に

すべての言葉はしるされたり

ゆきぐもる空のかなたに罪びとひとり

ひねもす齒がみなし

いまはやいのち凍らんとするぞかし。

ま冬を光る松が枝に

懺悔のひとの姿あり。

 

[やぶちゃん注:初出は大正四(一九一五)年三月号『地上巡禮』。但し、標題は「姿」。以下に初出形を示す。太字は底本(筑摩版全集)では傍点「ヽ」。誤字(「扁」)はママ。

   *

 

 姿

 

あるみにうむの薄き紙片に、

すべての言葉はしるされたり、

ゆきぐもる空のかなたに罪びとひとり、

ひねもす切齒なし、

いまはや生命こほらむとするぞかし。

ま冬を光る松が枝に

懺悔のひとの姿あり。

           ――淨罪詩扁――

 

   *

「切齒」(せつし(せっし))には「歯を喰いしばること」の意がある。

 なお、同全集の「草稿詩篇 蝶に夢む」には、本篇の草稿三種の内から二種が活字化されてあるので(孰れも無題)、以下に示す。歴史的仮名遣の誤りや誤字(「寅」は同全集は「宙」の誤字とする)や脱字らしき部分はママ。太字は同前。

   *

 

  

 

あきらかなるものあらはれぬ

せる罪をしるせる紙片に

かゞやく銀→黃ろき罪のあるみにうむの光る薄き紙片に

すべてのことばはしるされたり

ああ汝のもし齒をやぶらば

齒より汝の骨をけづれば

骨は粉末して樹上にふらん

齒は寅に 光り 現じ

そもそも汝の手よりして發せるもの

幽にあらはれ

汝の骨肉をやぶらば肉にあらはれ

れきれきとして骨にもけづられ

犯せる罪のしるし四方にあはれしぞいづ

 

 

  

 

あきらかなるのあらはれぬ

あるみにうむの薄き紙片に

懺悔の姿いちぢるく

すべてのことばはしるされたり

そのひとのれきれきとして齒もあらはれ

額にあらはれ

骨にきざまれ

天にあらはれ

しるしは木々にあらはれ

 

   *

とあり、最後に編者注があって、『本稿は『月に吠える』の草稿詩篇「冬」と同じ用紙に書かれており、發想は同時で後にそれぞれ獨立したものと思われる』とあり、さらに本草稿について、『別稿には題名を「罪人姿」とし、末尾に「――淨罪詩扁〔篇〕」とある』とある。「月に吠える」の決定稿「冬」は『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 冬』を見られたい。正規表現版では草稿は電子化していないが、今回、追加する形でそちらの注に追加しておいたので、これも見られたい。]

2021/12/27

南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版)公開

今年最後の大物として、

南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版・3.7MB・89頁)

をサイト「心朽窩旧館」に公開した。

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 巢

 

   

 

竹の節はほそくなりゆき

竹の根はほそくなりゆき

竹の纖毛は地下にのびゆき

錐のごとくなりゆき

絹絲のごとくかすれゆき

けぶりのやうに消えさりゆき。

 

ああ髮の毛もみだれみだれし

暗い土壤に罪びとは

懺悔の巢をぞかけそめし。

 

[やぶちゃん注:初出は大正四(一九一五)年三月号『地上巡禮』。この初出時期に萩原朔太郎の中で起動し、多量に生み出された、私が「〈「竹」詩想〉詩篇」と呼んでいる一群の一つである。初出形を以下に示す。

   *

 

 

 

竹の節はほそくなりゆき、

竹の根はほそくなりゆき、

竹の毛先は地下にのびゆき、

錐のごとくになりゆき、

絹糸のごとくにかすれゆき、

けぶりのごとく消えさりゆき。

 

その髮もみだれみだれし、

くらき牢屋(ひとや)に罪びとは、

懺悔(ざんげ)の巢をぞかけそめし。

 

   *

本篇には、筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」に草稿が二篇(孰れも無題)載る(草稿は三種とする内の二篇)。以下に続けて示す。脱字や誤字と思われるものは総てはママ。

   *

 

  

 

はしぜんにかれ冬の日のさびしらにの節は細くなりゆき

竹の根は細くなりゆき

けむりのごとくになり

根は地面の下に垂直し

錐のごとくになるなりするどく

しぜんに糸絹糸さびしやのごとくになり

けむりのごとくに消えつみびとのひとやのひとやの奧に

 

竹の葉は

つみびの髮は 長くのびゆきて みだれ よごれて みだれて

しぜんその指さきに

①懺悔を凍る冬の日に

①つみびとの髮は垢に ちりにけがされみだれみだれてにみだれ

①ひとやのくらきひとやの奧にに巢となりぬをかけそめぬ

②その髮もみだれみだれてにみだれ

②くらき牢屋につみびとは

②懺悔の巢をぞかけそめぬ

[やぶちゃん注:①と②は私が附した。これは①群の三詩句と、②群の二詩句がそれぞれに並列されて残存していることを示す。]

 

 

  

 

竹の節はほろびそくなりゆき

竹の根はほそくなりゆき

その*先は//毛先は//纖毛は*地下にのびゆき

[やぶちゃん注:以上の「*」「//」は私が附した。ここは「その」の下、地下にのびゆきの上に、「先は」・「毛先は」・「纖毛」の三つが並置残存していることを示す。]

錐の如くになりのびゆき

絹糸の如くにもかすれゆき

けぶりの如きにきえさりゆき

 

みよいまし

その髮もみだれくに みだれし

みよいましひとやのすみにつみびとは

ああいまし

懺悔の巢をぞかけそめぬ

つみびとの髮はみだれみだれて

みよああいましみよひとやのすみに

懺悔の巢をぞかけそめし。

         ――淨罪詩扁――

 

  (巢)

 

   *

編者注に最後にある『「(巢)」は本稿の後部欄外に記入されている』とある。

   *

 萩原朔太郎の病的な「竹」シリーズはそれだけを追ってもよい彼の詩想中の巨大な核の一つであることは言うまでもない。衆人の前にその病的にして波状的な痙攣的フレーズが曝されたのがこの大正四年の初めであった。何より、「月に吠える」巻頭に配された、

「地面の底の病氣の顏」(萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 序(北原白秋・萩原朔太郎)目次その他・「地面の底の病氣の顏」

が既にその疾患の徴候を読者に示し、而して満を持して誰もが知っている、

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 竹

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 竹 (同題異篇)

の症例が、衛生博覧会よろしく、デロリと展示される。しかも、それらは、

白い朔太郎の病氣の顏 萩原朔太郎 (「地面の底の病氣の顏」初出形)

竹 萩原朔太郎 (「月に吠える」の「竹」別ヴァージョン+「竹」二篇初出形)(これは『――大正四年元旦――』のクレジットを持つ)

竹の根の先を掘るひと 萩原朔太郎 (「竹」別ヴァージョン)

また、未発表の、

(無題) 萩原朔太郎 (「竹」詩想篇)

穴 萩原朔太郎 (「竹」詩想篇)

祈禱 萩原朔太郎 (「竹」詩想篇)

(無題)・祈禱 萩原朔太郎 (未発表詩「祈禱」草稿二篇)

といった隠しカルテもある。萩原朔太郎という竹根妄想症候群(Bamboo roots delusion syndrome)は近代日本作家の病跡学の教科書的タイプ症例と言ってよい。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 白夜

 

   白 夜

 

夜霜まぢかくしのびきて

跫音(あのと)をぬすむ寒空(さむぞら)に

微光のうすものすぎさる感じ

ひそめるものら

遠見の柳をめぐり出でしが

ひたひたと出でしが

見よ 手に銀の兇器は冴え

闇に冴え

あきらかにしもかざされぬ

そのものの額(ひたひ)の上にかざされぬ。

 

[やぶちゃん注:初出は大正四(一九一五)年一月号『地上巡禮』。以下に初出形を示す。

   *

 

 白夜

 

夜霜まぢかくしのびきて、

跫音(あのと)を盜む寒ぞらに、

微光のうすものすぎ去る感じ、

ひそめるものら、

遠見(とほみ)の柳をめぐり出でしが、

ひたひたと出でしが、

みよ手に銀の兇器は冴え、

闇に冴え、

あきらかにしもかざされぬ、

そのものゝ額の上にかざされぬ。

          ――十一月作――

 

   *

なお、本篇には、筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」に草稿が一篇(無題)載る(草稿は三種とする内の一篇のみ)。以下に示す。□は底本編者の判読不能字。

   *

 

  

 

白金微光のよるきたり

夜天の□羅よるしだいにふけ

裸服の→おみなごの 靑ざめし裸體をすかす

光る→靑夜光のうすもの衣裝のすぎ行くところ

靑ざめし裸形 靈をすかす空氣のそこに

光のうすものすぎ去る ところ 感じゆくけはひし

ひたひたとよる女の女子のあゆみ いのりを感じちからを感じて

ひそめるものら

遠見の柳をめぐりいでしが、

みよ、そがかれの兇器は、あきらかに光り額にふりかざさる、

 

   *

最後に編者注があり、採用しなかった『他の草稿では』「白夜兇行」及び「柳」『と題する』とある。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 龜

 

   

 

林あり

沼あり

蒼天あり

ひとの手には重みをかんじ

しづかに純金の龜ねむる

この光る

さびしき自然のいたみにたえ

ひとの心靈(こゝろ)にまさぐりしづむ

龜は蒼天のふかみにしづむ。

 

[やぶちゃん注:七行目末の「たえ」はママ。「月に吠える」より再録。『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 龜』と対照されたいが、「たへ」は元版では正しく「たえ」で、四行目の「重みをかんじ」、七行目冒頭「さびしき」がそれぞれ、元版では「おもみを感じ」、「寂しき」となっている。再録では以上の表記換え以外に、初版にあった四行目と句点の終行を除いて打たれてあった読点が総て除去されてあるのだが、実はこの読点除去の形は「月に吠える」再版(初版刊行の五年後の大正一一(一九二二)年三月アルス刊)の表記と一致するので、実際の手入れは四行目・七行目の表記換えだけである。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 天路巡歷

 

   天路巡歷

 

おれはかんがへる

おれの長い歷史から

なにをして來たか

なにを學問したか

なにを見て來たか。

 

いつさいは祕密だ

だがなんて靑い顏をした奴らだ

おれの腕にぶらさがつて

蛇のやうにつるんでゐた奴らだ

おれは決して忘れない

おれの長い歷史から

あいつらは

死よりも恐ろしい祕密だ。

 

おれはかんがへる

そのときまるであいつらの眼が

おれの手くびにくつついてゐたことを

おれの胴體に

のぞきのがねを仕掛けた奴らだ

おれをひつぱたく

おれの力は

馬車馬のやうにひつぱたく。

 

そしてだんだんと

おれは天路を巡歷した

異樣な話だが

おれはじつさい 獨身者(ひとりみ)であつた。

 

[やぶちゃん注:「のぞきのがね」はママ。初出から「のぞきめがね」(覗き眼鏡)の誤植である。初出は大正四(一九一五)年一月号『異端』。初出形を以下に示す。

   *

 

 天路巡歷

 

おれはかんがへる、

おれの長い歷史から、

おれはなにをして來たか、

なにを學問したか、

なにを見て來たか。

 

いつさいは秘密だ、

だがなんて靑い顏をした奴らだ、

おれの腕にぶらさがつて、

蛇のやうにつるんでゐた奴らだ、

おれは决して忘れない、

おれの長い歷史から、

あいつらは、

死よりも恐ろしい秘密だ、

 

おれはかんがへる、

そのときまであいつらの眼が、

おれの手くびにくつゝいてゐたことを、

おれの胴體に、

のぞきめがねを仕掛けた奴らだ、

おれをひつぱたく、

おれの力は、

馬車馬のやうにひつぱたく。

 

そしてだんだんと、

おれは天路を巡歷した、

異樣な話だが、

おれは實際、獨身者(ひとりみ)であつた。

 

   *

各連最終行以外に総ての行末(に読点が打たれてあること最終行は途中にも打たれてある)、「秘」「决」「實際」の字体異同を除くと、第三連二行目が「そのときまであいつらの眼が、]が大きな異同で、本篇では「そのときまるであいつらの眼が」である。ここは「まで」では微妙に同連内での続き具合に躓きが起こるので、「まるで」の初出の際の原稿の脱字或いは誤植が疑われる。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 かなしい薄暮

 

   かなしい薄暮

 

かなしい薄暮になれば

勞働者にて東京市中が滿員なり

それらの憔悴した帽子のかげが

市街(まち)中いちめんにひろがり

あつちの市區でもこつちの市區でも

堅い地面を掘つくりかへす

掘り出して見るならば

煤ぐろい嗅煙草の銀紙だ

重さ五匁ほどもある

にほひ堇のひからびきつた根つ株だ

それも本所深川あたりの遠方からはじめ

おひおひ市中いつたいにおよぼしてくる。

なやましい薄暮のかげで

しなびきつた心臟がしやべるを光らす。

 

[やぶちゃん注:「月に吠える」の「かなしい遠景」の改題再録。『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 かなしい遠景』と比較対象されたい。標題変更以外には、最終行が「しなびきつた心臟がしやべるを光らしてゐる。」とある以外は有意な表現変更はない。はそちらで詳細語注もしてある。但し、「嗅煙草」(かぎたばこ)であるが、私自身、使用したことはないが、所謂、口腔内に固形煙草片を入れてニコチンを体内に吸収するもので、「噛み煙草」と同じく、燃やしたり、煙が出るタイプではない。本邦でも(見たことはないが)売っている。なお、詩集原本の当該部を見られたいが、上記の通り、十行目のスミレは「菫」ではなく、異体字の「堇」である。

2021/12/26

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 悲しい月夜

 

   悲しい月夜

 

ぬすつと犬めが

くさつた波止場の月に吠えてゐる

たましひが耳をすますと

陰氣くさい聲をして

黃色い娘たちが合唄してゐる

合唄してゐる

波止場のくらい石垣で。

 

いつも

なぜおれはこれなんだ

犬よ

靑白いふしあはせの犬よ。

 

[やぶちゃん注:「月に吠える」からの再録。「合唄」は「月に吠える」でも同じ。これではとても「合唱」とは読めないが、朔太郎は「がつしやう」と当て読みしていると考えるべきであろうか。後発の生前の詩集群では「合唱」に書き直されてある。但し、「萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「午後」(9) たそがれ Ⅵ」(私のブログ分割版。一括縦書ルビ版(PDF・1MB弱)もある)では、一首に「ある宵のオペラの序幕合唄隊(コーラス)の中に見し人わすられぬ哉」という用例があり、この二字で「コーラス」という読みも排除出来ない。因みに、この当て読みのケースは私の「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳)」でも、二度、出現しており(ここと、ここ)、後者では「合唄(コーラス)」というルビも施されてある。『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 悲しい月夜』と比較されたい。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 酢えたる菊

 

   酢えたる菊

 

その菊は酢え

その菊はいたみしたたる

あはれあれ霜月はじめ

わがぷらちなの手はしなへ

するどく指をとがらして

菊をつまんとねがふより

その菊をばつむことなかれとて

かがやく天の一方に

菊は病み

酢えたる菊はいたみたる。

 

[やぶちゃん注:「月に吠える」からの再録であるが、題名は「すえたる菊」から漢字での以上の表記に変わった。最終行以外に総て読点が打たれていること以外に、各所での「すゆ」の漢字表記が違っている以外は、詩想の変化はない。私の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 すえたる菊』と比較されたい。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 輝やける手

 

   輝やける手

 

おくつきの砂より

けちえんの手くびは光る

かがやく白きらうまちずむの死蠟の手

指くされども

らうらんと光り哀しむ。

 

ああ故鄕にあればいのち靑ざめ

手にも秋くさの香華おとろへ

靑らみ肢體に螢を點じ

ひねもす墓石にいたみ感ず。

 

みよ おくつきに銀のてぶくろ

かがやき指はひらかれ

石英の腐りたる

われが烈しき感傷に

けちえんの、らうまちずむの手は光る。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。最終行の同語には傍点はない。

「らうまちずむ」は自己免疫疾患の一つで機序がよく判っていないリウマチ(rheumatism:英語のカタカナ音写は「リュマティズム」が近い)のこと。関節・骨・筋肉の強張り・腫 れ・痛み・変形などの症状を呈する疾患の総称。古代には「悪い液が身体各部を流れていって起こる」と考えられ、名は「流れる」の意のギリシャ語に由来するほどに古い。現在は主に「慢性関節リウマチ」を指す。「リューマチ」「ロイマチス」とも表記する。

「死蠟」は「屍蠟」(「石竹と靑猫」の私の注を参照)に同じ。筑摩版校訂本文は勝手に「屍蠟」に変えてあるが、誤字でもないものを、こんなことをする権利も正当性も、全く以って、ない。殆んど、差別用語の言葉狩りの狂信的ヒート・アップと同じである。

「らうらん」は「老懶」「老爛」で 年老いて物憂いこと。また、そのさまを言う語。

 初出は大正四(一九一五)年一月号『異端』であるが、標題は「墓參」。以下に示す。歴史的仮名遣の誤りや誤字(屍臘)は総てママ。太字は同前(こちらでは最終行の「らうまちずむ」にも振られてある。

   *

 

 墓參

 

おくつきの砂の中より、

けちゑんの手くびは光る、

かゞやく白きらうまちずむの屍臘の手、

指くされども、

らうらんと光り哀しむ。

 

あゝ、故鄕(ふるさと)にあればいのち靑ざめ、

手にも秋くさの香華(かうげ)おとろへ、

靑らみ肢體に螢を點じ、

ひねもす墓石にいたみ感ず。

 

みよ、おくつきに銀のてぶくろ、

かゞやき指はひらかれ、

石英の腐りたる、

我れが烈しき感傷に

けちゑんの、らうまちずむの手は光る。

 

   *

なお、筑摩版全集の『草稿詩篇 蝶を夢む』の最後には、『輝やける手(本篇原稿一種二枚)』としつつも、掲げずに、『本篇原稿の題名は「墓參」とある』とのみ記す。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 松葉に光る

 

   松葉に光る

 

燃えあがる

燃えあがる

あるみにうむのもえあがる

雪ふるなべにもえあがる

松葉に光る

縊死の屍體のもえあがる

いみじき炎もえあがる。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。初出は大正四(一九一五)年二月発行の『遍路』。。詩篇本文に異同はないが、標題が「炎上」であるから、以下に示す。太字は同前。

   *

 

 炎上

 

もえあがる

もえあがる

あるみにうむのもえあがる

雪ふるなべにもえあがる

松葉に光る

縊死の屍體のもえあがる

いみじき炎もえあがる。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 松葉に光る 詩集後篇(標題)・自注・「狼」

 

松葉に光る    詩集後篇

 

[やぶちゃん注:パート標題。その裏に以下の自注。]

 

 

この章に集めた詩は、「月に吠える」の前半にある「天上縊死」「竹と哀傷」等の作と同時代のもので、私の詩風としては極めて初期のものに屬する。すべて「月に吠える」前派の傾向と見られたい。但し内八篇は同じ詩集から再錄した。

 

 

   

 

見よ

來る

遠くよりして疾行するものは銀の狼

その毛には電光を植ゑ

いちねん牙を硏ぎ

遠くよりしも疾行す。

ああ狼のきたるにより

われはいたく怖れかなしむ

われはわれの肉身の裂かれ鋼鐵(はがね)となる薄暮をおそる

きけ淺草寺(せんさうじ)の鐘いんいんと鳴りやまず

そぞろにわれは畜生の肢體をおそる

怖れつねにかくるるにより

なんぴとも素足をみず

されば都にわれの過ぎ來し方を知らず

かくしもおとろへしけふの姿にも

狼は飢ゑ牙をとぎて來れるなり。

ああわれはおそれかなしむ

まことに混鬧の都にありて

すさまじき金屬の

疾行する狼の跫音(あのと)をおそる。

 

[やぶちゃん注:標題の「狼」の字に限っては(本文は普通に「狼」。底本画像を参照されたい)、(つくり)「良」の一画目が点ではなく、「一」の字体。グリフウィキのこれ

「怖れつねにかくるるにより」は「そぞろにわれは畜生の肢體をおそ」れているが、その「怖れ」は「つねに」私自身が「かくるる」ように殊更に振る舞っている「により」(から)「なんぴとも素足をみず」(何人(なんぴと)も私の顫える素足を見ることはない)という意であろう。かなり捩じれた朔太郎好みの病的な表現である。

「混鬧」「こんどう」と読み、「人で溢れかえって騒々しい様子」の意。

 初出は大正四(一九一五)年一月号『詩歌』。初出形を以下に示す。歴史的仮名遣の誤り及び誤植(ルビ「はねが」や「嗚りやまず」の「嗚」)は総てママ。

   *

 

   

 

見よ、

來る、

遠くよりして疾行するものは銀の狼、

その毛には電光を植え、

いちねん牙を研ぎ

遠くよりしも疾行す、

あゝ、狼のきたるにより、

われはいたく怖れかなしむ、

われはわれの肉身の裂かれ鋼鐵(はねが)となる薄暮を怖る、

きけ、淺草寺の夕ぐれの鐘嗚りやまず、

そゞろに我は畜生の肢體をおそる

怖れつねにかくるゝにより、

なんぴとも素足を見ず、

されば都にわれの過ぎ來し方を知らず、

かくしもおとろへしけふの姿にも、

狼は飢え牙をとぎて來れるなり、

あゝわれは怖れかなしむ、

まことに混鬧の都にありて、

すさまじき金屬の、

疾行する狼の跫音(あのと)を怖る。

               ――その二――

 

   *

「その二」とあるが、筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶に夢む」に本篇の草稿として『五種七枚』とあることから、その草稿の中の「二」番目の決定稿という意味であろうか。「その一」がこれ以前に発表された形跡はない。以下にそこに挙げられている二篇(他は載らない)の草稿を以下に示す。行頭にある数字は朔太郎が打ったもの。歴史的仮名遣の誤りや誤字と思われるものは総てママ。

   *

 

 感傷→念願

 祈願

 

夕ぐれかけていつさんにきた れる るものは

1もとめきたるあくなきものは乞食→蓄生狼なり

2その毛に、はがね電光をうえ、牙を硏ぎ、

3われを喰みわれを殺す、

4もとめえざるものは乞食なりああわれはおもう

いのれしからずんば 死がいか 乞食の手より

5われはわれの肉身のはがねとなる夕をおそる

そのすぎこし方を知らず

6きけ夕の鐘鳴りやまず

きけ上野東叡山のきけ淺草の夕の寺の鐘こんこんと鳴りもやまず

7そゞろに我は蓄生の心をおそる

8そのさればわがすぎこし方を知らず

9なんぴとも素足を見ず

われはわれの天上にあり

蓄生の心を知らず

乞食の心を感ぜず

いはんや

せんちめんたるの子

合掌していんよくの路をたどる

10かくしもおとろへはてし我の心に瞳に

11狼は牙をとぎて來れるなり、

12まことにわれはおそる

13遠くより都にありてすさまじきどんよくの靈感のけものをおそる、

 

 

  

 

狼きたる

ああみよ狼きたる、

この薄暮靈感のあひだ、薄暮閉光のあひだ

遠くよりましぐらに疾行する

みよ遠くよりして疾行するものは靈感の銀の狼なり、

その毛には電光をうゑ

いちねん牙をとぎ

われを喰みわれを殺さむとす

われああ狼のちかづくにより

われはいたくおそれ哀しむ、

われはわれの肉身の裂かれ鋼鐵となる薄暮をおそる、

きけ上野淺草寺の夕べゆうぐれの鐘鳴りやまず

そゞろに我は蓄生の肢體をおそる

おそれつねにのがるかくるゝにより

なんぴとも素足をみず

されば都に我のすぎこし方を知らず

かなしみかくしもおとろへし今日の瞳にも姿にも

狼は尙牙をとぎて來れるなり

ああわれはおそれ哀しむ、

まことに雜鬧の都にありて

すさまじき靈惑のけものをおそる。

 

   *

後半の無題詩には編者注があり、『欄外に「玻璃」と附記されている。』とある。「雜鬧」は「雑踏」に同じで、決定稿の「混鬧」に同じ。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 波止場の烟

 

   波止場の烟

 

野鼠は畠にかくれ

矢車草は散り散りになつてしまつた

歌も 酒も 戀も 月も もはやこの季節のものでない

わたしは老いさらばつた鴉のやうに

よぼよぼとして遠國の旅に出かけて行かう

さうして乞食どものうろうろする

どこかの遠い港の波止場で

海草の焚けてる空のけむりでも眺めてゐやう

ああ まぼろしの乙女もなく

しをれた花束のやうな運命になつてしまつた

砂地にまみれ

礫利食(じやりくひ)がにのやうにひくい音(ね)で泣いて居やう。

 

[やぶちゃん注:「眺めてゐやう」「居やう」はママ。

「礫利食(じやりくひ)がに」種同定不能。「砂利喰蟹」の音からは、ジャリガニで、十脚(エビ)目ザリガニ下目アメリカザリガニ科アメリカザリガニ属アメリカザリガニ亜属アメリカザリガニ Procambarus(Scapulicambarus) clarkii を想起される方が多いであろうが、それはあり得ない。何故なら、アメリカザリガニは昭和二(一九二七)年五月十二日に、やはり外来種で食用目的での大正七(一九一八)年に移入されたウシガエル(ナミガエル亜目アカガエル科アカガエル亜科アカガエル属ウシガエル Rana catesbeiana )の餌として移入されたものだからである。則ち、本詩集が刊行された大正一二(一九二三)年にはアメリカザリガニはいないからである(ウシガエル移入問題とウシガエル及びアメリカザリガニが本邦に蔓延してしてしまった理由については、『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (九)』の私の『「此處ではそれをヒキガヘルと呼んで居るけれども、自分は蝦蟇だと思ふ。『ヒキガヘル』といふ語は、普通蝦蟇(ブル・フロツグ)に與へて居る名である」「ヒキガヘル」「蝦蟇」「蝦蟇(ブル・フロツグ)」』の注を読まれたい。因みに、その元凶の発生源は、私の住む鎌倉であり、私が教員時代、数年下宿していた岩瀬なのである)。本邦には在来固有種で、ザリガニ下目ザリガニ上科アジアザリガニ科 アジアザリガニ属ニホンザリガニ Cambaroides japonicus がいるが、「砂地にまみれ」という表現は同種らしくなく、私は比定し得ない。寧ろ、これは河口付近の汚らしく見える砂地や泥地に棲息している(恰も砂利を食っているようにしか見えない、砂泥に「まみれた」複数種のみすぼらしい蟹類(恐らくは小型の蟹)を漠然と指しているものと思われる。

 初出は大正一二(一九二三)年五月号『婦人公論』。初出の標題はただの「烟」である。以下に示す。歴史的仮名遣の誤りは総てママである。総ルビであるが、一部に留めた。

   *

 

 

 

野鼠は畠(はたけ)にかくれ

矢車草はちりぢりになつてしまつた

歌も、酒も、戀も、月も、もはやこの季節のものでない

わたしは老いさらばつた鴉のやうに

よぼよぼとして遠國(ゑんごく)の旅に出かけて行かう

さうして乞食どものうろうろする

どこかの遠い港の波止場で

海草の焚(や)けてる空のけむりでも眺めてゐやう。

ああまぼろしの乙女もなく

しほれた花束のやうな運命になつてしまつた

砂地にまみれ

礫利食(じやりく)ひ蟹(がに)のやうにひくい音(ね)で泣いてゐやう。

 

   *

 なお、本篇を以って詩集「蝶を夢む」の「詩集前篇」は終わっている。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 農夫

 

   農 夫

 

海牛のやうな農夫よ

田舍の家根には草が生え、夕餉(ゆふげ)の烟ほの白く空にただよふ。

耕作を忘れたか肥つた農夫よ

田舍に飢饉は迫り 冬の農家の荒壁は凍つてしまつた。

さうして洋燈(らんぷ)のうす暗い厨子のかげで

先祖の死靈がさむしげにふるへてゐる。

 

このあはれな野獸のやうに

ふしぎな宿命の恐怖に憑(つ)かれたものども

その胃袋は野菜でみたされ くもつた神經に暈(かさ)がかかる。

冬の寒ざらしの貧しい田舍で

愚鈍な 海牛のやうな農夫よ。

 

[やぶちゃん注: 「海牛」には後発詩集でもルビがない。従って、「うみうし」と読んでいるか、「かいぎう」と読んでいるか、判らぬ。現代の圧倒的一般人は「うみうし」と読んでしまうだろう。しかし、それは正当か? この農夫の形容は、「耕作を忘れたか」と見えるような「肥つた農夫」であり、それはまさに「このあはれな野獸のやうに」「ふしぎな宿命の恐怖に憑(つ)かれたものども」の表象であり、「その胃袋は野菜でみたされ くもつた神經に暈(かさ)がかか」っている奇体な生き物である。しかも、それは、「冬の寒ざらしの貧しい田舍で」の嘱目である。

 無論、これを「海牛」=ウミウシ(軟体動物門腹足綱異鰓上目 Heterobranchia に属する後鰓類(Opisthobranchia:近年はこれに階級を与えないが和名呼称としては親しい。これはラテン語の“opistho”(後ろの)+“brankhia”(鰓)である。)の中でも、貝殻が縮小するか、体内に埋没或いは完全に消失した種などに対する一般的な総称(当該体制を持つ総てを必ずしもウミウシと呼ぶ訳ではない)。特に異鰓上目裸鰓目 Nudibranchia(新分類では裸鰓亜目 Nudibranchia(同綴り))が典型的なウミウシとされることが多く、ウミウシとは裸鰓類のことであるとされることもあるが、裸鰓類以外の後鰓類にも和名にウミウシを含む種は多く、和名にカイ(貝)を含む種でも貝殻が極めて小さく、分類するに際してはウミウシに含められる種も少なくない)ととっても意味は通じるように見える(ウミウシについては、私の「生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 二 雌雄同體 ウミウシ」を見られたい。萩原朔太郎は、海辺で観察出来る海産無脊椎動物を、この時期、盛んに詩篇に読み込んでいるから、違和感はない。私の偏愛するウミウシ類は一般人から見れば、奇体である。

 だが、私はこれを、そうは読まない。これは「海牛」で「かいぎう(かいぎゅう)」と読みたい。このシチュエーションの中で、田舎の貧しいが、太った、畑中で動かない鈍重な農夫の形象――「このあはれな野獸のやうに」想起され、事実、「ふしぎな宿命の恐怖に憑(つ)かれたものども」として既に地球上から人間によって絶滅させられた巨大な優しき水棲哺乳類で、「その胃袋は野菜でみたされ くもつた神經に暈(かさ)がかか」っているような、草食性の奇体な巨大な海の野獣が――嘗ていた――からである。萩原朔太郎は、それを話しで知っていたとしても、おかしくない。而して、「海牛」という、それは、現生種では

海牛(ジュゴン)目Sirenia

 ジュゴン科Dugongidae ジュゴン属ジュゴン Dugong Dugon (一属一種)

 マナティー科 Trichechidaeマナティー属

   アマゾンマナティ Trichechus inunguis

   アメリカマナティ Trichechus manatus

   アフリカマナティ Trichechus senegalensis (一族三種)

である(但し、目の和名の狭義の「海牛」は、本来は、マナティ類を指す)。しかし、私は敢えてここでは、人魚のモデルとされるジュゴンやマナティ――ではない――としたい。私はここに出る朔太郎の言う「海牛」は、断然、

哺乳綱海牛目 Sirenia ジュゴン科 Dugongidae ステラーカイギュウ亜科 Hydrodamalinae ステラーカイギュウ属ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas

と読みたいのである。

 カイギュウ類の寒冷地適応型の一種で、体長七~九メートル、最大体重は実に九トンにも及ぶ巨大水棲獣であった。ロシアのベーリング率いる探検隊の遭難によって一七四二年(寛保二年相当)に発見された彼らは、その温和な性質や、傷ついた仲間を守るために寄ってくるという習性から、瞬く間に食用に乱獲され、一七六八年(天明六年相当)を最後に、発見報告が絶える。人間に知られて僅か二十七年の命であった。私は、こうした過去の事実を知った萩原朔太郎が、ここに、既にこの世から絶滅させられてしまった哀れな彼らを、秘かに現出させたのであると思う。環境保護が叫ばれる今でこそ、少しは知られるようになった彼らだが、反して「地球にやさしい」を嘯く僕たちは、欲望の赴くまま、容易に普段のやさしさを放擲して、不敵な笑いを浮かべながら、第二のステラダイカイギュウの悲劇を他の生物にも向けるであろう点に於いて、何等の進歩もしていない。それは、バチルス、トリパノゾーマ、いや、生物と無生物の狭間にいるウィルス以下の存在だ。ステラーカイギュウの頭骨の哀しそうに語りかけてくるそれに、僕たちは耳を傾けねばならない。最後の言葉をずっと昔に述べた、私の南方熊楠「人魚の話」もある。

「厨子」の「厨」は「廚」の俗字(「厨子」(ずし)は筑摩版全集校訂本文では「廚」に消毒されているが、後発の詩集の再録では一貫して「厨子」である。こんなこの筑摩版全集でしか見られない校訂本文にどんな意味があるのか、それが定本となって流布することにどんな絶対的正当性があるのか、私は甚だ不思議に思う)。「廚子・厨子」は日本だけで用いられる訓義で、神仏の像を入れる二枚扉の附いた堂形の箱。ここでは、ごく粗末な小さな仏壇。

 なお、本篇の初出は未詳である。]

2021/12/25

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(8)/「牛王の名義と烏の俗信」~了

 

      結 論

 

 と云ふと大層だが、こんなに長く書ては何とか締りを附けざ成らぬ。本篇牛王の事を一寸書く積りで、烏の事が以ての外長く成つた。上述の外に烏に關する俗信古話は甚だ多く、其は其は山烏の頭が白く成る迄懸つても書き悉されぬから、善い加減に果(はて)として結論めきた者を短く口上と致さう。文獻乏しき世の事が永く後(あと)へ傳はらぬは、北米の印甸人(インジアン)印度のトダ人南洋や亞非利加に其例頗る多きは先輩の定論有り。然しながら未開の民とても既に人間たる上に、多少の信念も習慣風俗も有つたに相違無いから、後日追々他方から種々と文化を輸入しても固有の習慣信念全くは滅びず、幾分か殘り留まる。斯る事物を總稱してフオークロール(俚俗)、之を硏覈[やぶちゃん注:「けんかく」。底本は「硏劒」だが、選集で訂正した。「覈」は「調べる」の意で、事実を詳しく調査し明らかにすること。「研究」に同じ。]する學をもフオークロール(俚俗學)と云ふ。舊俗の一朝にして亡び難きは、舊曆の正月祝や盆踊が何に[やぶちゃん注:「いかに」。]禁制しても跡を絕たず動(やゝ)もすれば再興せらるゝで知れる。されば、熊野烏の尊ばれたなども之に關して外國と異なる事共多きより推すと、もと熊野に烏を神視する固有の古俗有つて、其事或は外國に類例有り或はこれが無かつた。然る處へ外國から牛王の崇拜入來つたので、本來、烏を引いて誓言すると、新來、牛王を援(ひ)いて盟證すると丁度似た所から、烏像を點じて牛王寶印とし、牛王と云へば烏の畫札(ゑふだ)と解する迄因習流行した事と惟ふ[やぶちゃん注:「おもふ」。]。扨偶然の符合ながら、印度で烏と牛と親愛する事實話なども大に此融通を助成したゞらう。其牛王と云ふは、印度に牛を裁判の標識とし誓言の證據に立つる事有り、又大自在天や大威德明王如き强勢な神も、閻魔王如き冥罰を宰る[やぶちゃん注:「つかさどる」。]神も皆、牛を使物とする所から、本邦に佛法入つてより牛を誓言や冥罰の神としたので、曾我物語に牛王の渡ると見えてと有るも、祈禱が聽かれた標[やぶちゃん注:「しるし」。]に祭神(さいしん)の裁可通り、法を執行し來る神を指した者で、先は[やぶちゃん注:「まづは」。]牛頭馬頭(ごづめづ)が人の死際に火の車もて迎ひに來る樣な事と思ふ。

    (大正五年鄕土硏究第三卷第十二號)

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◦」。以下の太字も同じ。

「トダ人」インドのタミル・ナードゥ州にあるニールギリ丘陵(グーグル・マップ・データ)に居住する少数民族トダ族。

「曾我物語に牛王の渡ると見えてと有る」後の「追記」の「二」の「病氣を人に移す修法成就の際、牛王といふ神が渡ると同時に供物が自ら動き出す」とあるそれは、本篇冒頭で既出(原文も引用されてある)既注。]

 

 

追 記

、牛王に就て (鄕硏三卷六四二頁參照)牛黃(ごわう)を確かに牛王と書いた例は、川角太閤記卷四、「慶長元年遊擊(遊擊將軍沈惟敬)參る時、秀吉へ進物は、沈香のほた一かい餘り、長さ二間、間中(まんなか)高さ三寸、廻り一尺の香箱(かうばこ)に入れ申候。八疊釣の蚊帳、但し色は蟬の羽毛(蟬とはカワセミなるべし)、藥種、龍腦、麝香、人參、牛王の由、以上七色、其外、卷物、綾、羅、錦紗の類也云々」とある。此序に申す。印度の烏が水牛の爲に牛虱を除く由を述べたが(三卷六四九頁)、十八世紀の英人ギルバート、ホワイトのセルボーン博物志にも、「白種、灰色種の鶺鴒が牛の腹や鼻邊から脚邊に走り廻り、牛にとまる蠅を食ふ。又足下に踏殺された蟲をも食ふならん。造化經濟の妙、乃ち斯る不近緣の二物をして能く相利用せしむ」とある。吾邦の鶺鴒にも亦斯くの如き行爲ありや否。

      (大正五年鄕硏究第四卷第一號)

、鄕硏三卷六四二頁に曾我物語から、病氣を人に移す修法成就の際、牛王といふ神が渡ると同時に供物が自ら動き出す一條を引いた。頃日、義經記卷五「吉野法師が判官を追掛奉る事」を讀むと、義經、衆徒を追却けて後、餅を取出だして從者に頒つに「辨慶を召して是れ一つづゝと仰せければ、直垂の袖の上に置てゆづりはを折て敷き、一つをば一乘の佛に奉る。一つをば菩提の佛に奉る。一つをば道の神に奉る。一つをばさんじんごわうにとて置たりけり」。是は山神牛王で、牛王といふ特種の神が中古崇敬せられた今一つの證據と見える。或はごわうは護法の假名を誤寫したのかとも惟ふが、曾我物語に牛王と書き、印度で牛を神視する事既に述べた如くだから、多分は矢張り牛王で有らう。

 又烏で占ふ例を種々擧げたが、多くは其鳴聲に由るもので、其坐位を察て[やぶちゃん注:「みて」。]卜ふのは J. Theodore Bent,“The Cyckades,” 1885, p.394 に一つ見える。云く希臘のアンチパロス島は史書載する事無く唯海賊の巢栖(すみか)なりし。又只今も碌な者棲まず。パロス島人、此島民を蔑んで烏と呼ぶ。以前は尤も迷信深く主として烏を相(み)て占へり。例せば烏が樹に止るに北側ならば萬づ無事だが、南側ならば海賊海峽に入れる徵と斷じ、忙ぎ走つて邑の諸門を閉じたと。熊楠謂ふに烏は眼至つて明かに且つ注意深い者故、自然、海賊の來るのを怪んで其方を守り坐るのだらう。從つて此占ひなどを單に迷信と笑ふてのみ過すべきで無い。

 六四八頁に地獄で烏が罪人を食ふちう佛說を擧げたが、現世に烏に人を食はせた基督敎國の例もある。十三世紀にクーロンジユの大僧正アンリ一世は、フリデリク伯の手足、頸、脊を輾折(しきを)り、扨、餘喘あるまゝ烏に與へて倍(ますま)す苦んで死せしめた(Henri Estienne, “Apologie pour Herodote,” ed. 1879, Paris, tom.i, p.65)。次に、七三八頁に比丘尼等賤妓と烏の關係を一寸述べたが、延寶四年[やぶちゃん注:一六七六年。]板談林十百韻第十の百韻のうち、「比丘尼宿はやきぬぎぬに歸る雁、卜尺」、「かはす誓紙のからす鳴く也、一朝」、「終は是れ死尸(しかばね)さらす衆道ごと、志計」。賣色比丘尼や男色の徒が烏を畫(ゑが)いた牛王で誓ふを詠(よん)んだ物たる事勿論だが、當初、熊野比丘尼が牛王を賣りあるいたに因(ちな)んだ作意でもあらう。西鶴の好色一代女に、大阪川口の碇泊船を宛込(あてこん)で婬を鬻いだ歌(うた)比丘尼を記して、「絹の二布(ふたの)の裾短かく、とりなり一つに拵(こしら)へ、文臺に入(いれ)しは、熊野の牛王、酢貝(すがひ)、耳姦(みゝかしま)しき四つ竹、小比丘尼に定まりての一升干杓(びしやく)」と云へるが其證據だ。

      (大正五年鄕硏究第四卷第七號)

[やぶちゃん注:本文内の太字は底本では傍点「◦」。『川角太閤記卷四』「慶長元年遊擊(遊擊將軍沈惟敬)參る時、秀吉へ進物は……」「川角太閤記」は「かわすみたいこうき」(現代仮名遣)と読む。江戸初期に書かれたとされる豊臣秀吉に関する逸話を纏めたもの。全五巻。主に「本能寺の変」から「関ヶ原の戦い」までの期間が記されている。本来は単に「太閤記」といったが、後になって他の「太閤記」と区別するために著者川角三郎右衛門の名を冠して呼ぶようになった。作者は、大名で筑後国主であった田中吉政(天文一七(一五四八)年~慶長一四(一六〇九)年)に仕えた武士。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの明四二(一九〇九)年共同出版刊の共同出版株式会社編輯局編「川角太閤記 下卷」のここ(左ページ四行目以降)。

「ギルバート、ホワイトのセルボーン博物志」「南方熊楠 小兒と魔除 (5)」の私の「G. White, ‘The Natural History and Antiquities of Selborne’」の注を参照されたい。訳本を所持しているのだが、書庫の底に沈んで見当たらず、当該箇所を示せない。悪しからず。

『義經記卷五「吉野法師が判官を追掛奉る事」を讀むと、義經、衆徒を追却けて後、餅を取出だして從者に頒つに……』所持する岩波古典文学大系(東洋文庫藏本底本)で確認。

さんじんごわう」は「山神護法(さんじんごわう)」と表記し、前記の岩波の岡見正雄氏の頭注では、

   《引用開始》

 山神午王とする校注本もあるが、田中本「さんしんこほう」とある。山神護法、即ち山の神と解すべきで、護法は元来仏教を擁護する護法善神の意で、平安時代以来験徳ある僧侶には護法(乙護法)がつき仕え、その意のままに駆使された。書写の性空上人や信貴山縁起絵巻の乙(おと)護法など有名であるが、修験道でも験者の使いとなって走り廻る所謂使神、みさき神と考えたようで、山神も護法の一人と考えて、山神護法といったのだろう。なお護法は古くからゴオウと訓じたので、宮内庁書陵部、九条家旧蔵諸山縁起なる鎌倉期慶政上人筆の一冊には(熊野参詣還向ノ次第先ツ護法(コヲウ)送り次第」なる詞句が見え、ゴヲウと訓をつけるので、湯沢幸吉郎氏が指摘するように、西源院本太平記(刀江書院本)には「満山護法(コウヲウ)」(一一〇頁)、「常随宮仕之護法(・ウヲウ)」等と見える(湯沢氏、国語学論考)。「五しきにそめたる七尺のはたをさゝけて申やう、山には山神こわう、かわにはすいしん、うみにはりうしんと申て、よるひるおこたらす」(横山氏校、室町時代物語集第一、古梓堂文庫本、くまのゝ本地上)、「きさき御くしあまたゆいわけて一ゆいをは、ほんていたいしやくをはしめてよろつのほとけにまいらする、このわうし三にたり給はんまてまほり給へ、一ゆりをはこの山の山神こふうにまいらする」(同下)、「山王七社王子眷属東西満山護法聚衆」(覚一本系平家巻七、平家山門連署)、「七仏五十余代仏祖幷満山護法善神神」(相田氏、日本の古文書所引、肥後広福寺文書、菊池武茂起訓文)、「伏乞当寺の諸尊満山の護法」(勅修御伝第三十一)、「下野国宇都宮の御殿に納める。乙護法使者たり」(平治巻一、叡山物語の事)、「さりとも年月頼みをかくる大聖不動明王の威力、又は山神護法善神、殊には開山役の優婆塞」(謡曲、谷行)。→補注一六。

   《引用終了》

とある。聊か引用が長くなるのであるが、明らかに南方熊楠が牛王とする説を退ける内容であるから、補注も引いておく。

   《引用開始》

一六 山神護法[やぶちゃん注:当該ページ数を略した。] 護法については頭注の如く諸例があるが、なお宮地直一氏の熊野三山の史的研究第六編第四章、三山祭神の組織の条に、熊野の十二所以外の附属せる若干の小神ありとして[やぶちゃん注:以下の引用は変則的に改行部分の途中で一字下げとなっているが、ここでは改行して頭から示した。]、

「護法 護法とは所謂正法を護持する梵天・帝釈・四天王等の謂にして、之が中にあつて、是等善神の使者となり駆使の役に当るものを護法天童又は護法童子といひ、又略して単に護法ともいへり。而してこの種類に属せる護法は、有徳の験者に常侍してその用を勤め、又道心者に随つて之を擁護すと信ぜられて、上下の信仰頗る篤く、日本霊異記(中、打法師以現得悲病而死縁第卅五)を始め、その後の記録物語類に尠からぬ記事を留めたり。例へば伝教又は性空の使役せしと伝ふる乙護法の如きは、その一にして(平治物語叡山物語事・元亨釈書十一・太平記十一書写山行幸事・栂尾明恵伝記上)、本社にあつては、御幸を始め参詣の輩が帰途稲荷の社頭に護法を送るの習あり、その式折敷に餅を盛りて地土に安き[やぶちゃん注:「おき」。]、先達幣を収つて拝礼を行ふといへり(中右記、天仁二年十一月十目・長秋記、大治五年十二月廿二日、長承三年二月七日)。こは往還の道程余りに長途に及ぶが故に、途中の安全を祈請せんとする自然の要求より起りし風習なるべしと雖も、護法そのものゝ本体に関しては全然その所見を欠きたり。されど今さきに記しき金剛童子の性質より推考するに、かく道者の為に護身の用を勤めしは即ちこの童子にして、護法の名は之が功能の一方面を表示せし称呼なるべく、又さきに引ける御記文に、各々付払天魔云々とあるも、道中の護持を含めし意に外ならざるか。走湯山縁起(四)によるに、さきに掲げし雷電童子を南山護法五体王子之中といへり。五休の称はいかゞならんも、金剛童子を以て護法とする思想は充分に之を認むるを得べく、又太平記(五、大塔宮熊野落事)にも三所権現の下に満山護法十万眷属八万金剛童子と連記したり。かゝれば古くはさきの一万十万社以外に之を祭る社を見ざりしが、鎌倉時代に入り独立の崇拝をうけ、満山護法といはれて、別にその本地を定め、又別社として祭祀せらるゝに至りぬ(宴曲抄上、譲羽山熊野権現、康正三年注文、垂跡絵)。されど遂に十二所の数に加へらるゝに及ばざりき」(三八八頁)と書かれる。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

「J. Theodore Bent,“The Cyckades,” 1885, p.394」イギリスの探検家・考古学者で作家でもあったジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島」(エーゲ海中部に点在するギリシア領の二百二十以上の島から成る諸島。位置は当該ウィキの地図を参照されたい)。当該箇所は「Internet archive」のこちら

「クーロンジユの大僧正アンリ一世は、フリデリク伯の手足、頸、脊を輾折(しきを)り、扨、餘喘あるまゝ烏に與へて倍(ますま)す苦んで死せしめた(Henri Estienne, “Apologie pour Herodote,” ed. 1879, Paris, tom.i, p.65)」アンリ・エティエンヌ(Henri Estienne 一五二八年~一五九八年:パリ生まれの古典学者・印刷業者。ラテン語名ヘンリクス・ステファヌス(Henricus Stephanus)としても知られる。一五七八年に彼が出版した「プラトン全集」は、現在でも「ステファヌス版」として標準的底本となっている。以上は当該ウィキに拠った)の「ヘロドトスの謝罪」。当該書の当該部はここ。この二人の人物については、よく判らんのだが、以上の原記載に「Henri Ⅰ de molenark 1225-1238」とあり、ずたずたされてカラスの餌にされた「Frederic」なる人物と、その関係も私にはよく判らぬ。

「談林十百韻」(だんりんとつぴやくゐん(だんりんとっぴゃくいん))は江戸前期の俳諧撰集。延宝三(一六七五)年板行。田代松意(しょうい)編・自序・自跋。全二冊。同年夏、東下した西山宗因に発句「されば爰に談林の木あり梅の花」を請い受け、江戸神田鍛冶町の松意の草庵に集った、俳諧談林の連衆である松意・雪柴・在色(ざいしき)・一鉄・正友(せいゆう)・志斗・一朝・松臼・卜尺の九人で詠じた百韻十巻。以下の二句は、「愛知県立大学図書館 貴重書コレクション」の「古俳書」のこちら(以上は当該箇所の画像データ。同書のトップ・ページはこちら)で原本の当該句が見られる。左丁の四・五・六句目である。なお、本文で「志計」とあるのは、「志斗」に同じ。辞書により、前者で出、読みを「しけい」とする。しかし前掲原本を見るに、一貫して「志斗」と書いている。これだと「しと」と読むのが普通であるが、「計」は「ばかり」と副助詞で訓ずることが多く、その副助詞「ばかり」を「斗」の字で略して書くことが近代以前では頗る多い。さすれば、「志斗」も「しけい」と読むべきであろうか。

『西鶴の好色一代女に、大阪川口の碇泊船を宛込(あてこん)で婬を鬻いだ歌(うた)比丘尼を記して、「絹の二布(ふたの)の裾短かく、とりなり一つに拵(こしら)へ、文臺に入(いれ)しは、熊野の牛王、酢貝(すがひ)、耳姦(みゝかしま)しき四つ竹、小比丘尼に定まりての一升干杓(びしやく)」と云へる』巻三の「調謔(たはぶれ)の歌船(うたふね)」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和二(一九二七)年国民図書刊の「近代日本文学大系」第三巻所収の同作の当該部をリンクさせておく。右ページ後ろから五行目末から。所持する小学館「日本古典文学全集」の暉峻(てるおか)・東(ひがし)共校注・訳「井原西鶴集」(昭和四九(一九七四)年第二版)によれば、「歌比丘尼」は『熊野の護符を売り念仏を唱え、地獄極楽の絵解きをして米銭を乞うた尼。「もとは清浄の立て派にて熊野を信じて諸方に勧進しけるが、いつしか衣をりやくし歯をみがき頭をしさいにつみて、小哥を便りに色をうるなり」(人倫訓蒙図彙)』とある。以下、「二布」は腰巻のことで、「とりなり一つ……」は『みな一様のいでたちをして』、「文臺」は『かた箱。比丘尼が脇にはさんで持つ小箱』、「熊野の牛王」は無論、熊野牛王印でたまさかの男と起請文を交わすのに使う小道具、「酢貝」は『しただみ(栄螺』『に似た小さい貝)の蓋を酢の中に入れると旋回する。春の初め熊野に参詣して紀州の海辺で拾い、比丘尼が児女に玩具として与える』とある(これについては後述する)。「四つ竹」は『扁平な竹片を両手に二個ずつ持ち、掌を開いたり、閉じたりして鳴らす楽器』、「一升干杓」については、『比丘尼は腰に檜の柄杓(ひしゃく)を差し、米や金を受け』たとあるものを指す。「酢貝」は私の守備範囲で、腹足綱前鰓亜綱古腹足目サザエ(リュウテン(サザエ))科リュウテン亜科オオベソスガイ属スガイ Lunella correensis のサザエと同じような石灰質の蓋を指す。本邦の全域の磯の潮間帯で普通に見られるに殻径二~三センチメートルの食用にもなる巻貝であるが、例えば、当該ウィキによれば、『日本では磯で普通に見られることから、昔から磯遊びの対象として親しまれてきた。著名な例としてこの貝の蓋を半球面側を下にして酢に浸すと、酸で蓋の石灰質が溶解する際に、二酸化炭素の気泡を出しつつ、くるくると回転することから、古くから子供の遊びとなっていたという。冒頭に述べたように「酢貝」という名はこの遊びに由来し、本来は蓋のみの呼称で、本体の方にはカラクモガイ(唐雲貝)の名がある。』とあり、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のスガイにも、『フタの丸く盛り上がった方を下にして、酢に浸すと泡を出してクルクルと回る。「スガイ」はこの蓋の呼び名。貝本体はカラクモガイ(唐雲貝)とい言った』とあって、幼少時以来、海岸生物に魅せられてきた私も、小さな頃から、諸図鑑の解説でそう覚えていたのだが、実は実際に何度か、試してみたが、泡は出たが、旋回はしなかったので、六十四になっても、その運動を見たことがない。昔からそんなに知られた遊戯であるなら、ネット上の動画にあるだろうと調べたこともあるが、なかった。今回も調べたが、見当たらない。ところが、個人サイト「五島列島 福江島の博物誌 知られざる五島の海」でズバリ! 「フタは回るのか? スガイ 酢貝 (サザエ科) Turbo (Lunella) coreensis を見つけた。而して実験の結果は――『泡は確かに出てくるのですが、数時間そのままにしておいても回ることはありませんでした。今回使ったフタは直径』八ミリメートル『ほどで、小さな泡で動くには大きすぎたのかもしれません。あるいは、もっと強烈に反応するような強い酢(?)が必要なのか。インターネット上で調べてみても、有効な情報は得られませんでした。ただ、私と同じように「やってみたけど回らない」という人はいました。とりあえず、もっと小さいもので試してみようかとは思っていますが…。』(二〇一五年三月の記事)とあった。う~~ん、私も何時か、小型のもので、やってみよっ、と!]

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(7)

 

 烏や鴉を凶鳥とするのも最[やぶちゃん注:選集では「いと」と振る。]古いことで、五雜俎九に、「詩云、莫赤匪狐、莫黑莫烏、二物之不祥從古已忌之矣[やぶちゃん注:「「詩」に云はく、『赤くして狐に匪(あら)ざるは莫(な)く 黑くして烏に匪ざるは莫し』と。二物の不祥なるは、古へより已に之れを忌む。」。]。日本紀神代下に、天稚彥橫死の時、其父天國玉[やぶちゃん注:「あまのくにたま」。]、諸鳥を役割して、八日八夜、啼哭悲歌する。異傳に以烏爲宍人者[やぶちゃん注:「烏を以つて、宍人者(ししひと)と爲す。」。「宍人者」は獣肉を処理する屠殺業者を指す。]、古事記に翠鳥御食人(そにをみけびと)とし、と有る。宣長言く、御食人(みけびと)は殯[やぶちゃん注:「もがり」。]の間、死者に供る饌[やぶちゃん注:「むくるけ」。]を執行ふ人也、書紀に宍人者と有る是に當れりと(古事紀傳一三)。翠鳥(そに)乃ち鴗(かはせび)は能く魚を捕ふる故御食人としたちふ谷川士淸の說より推すと、吾神代には烏專ら生肉を食ひ、弱い鳥獸を捕ふるを以て著れた物で、爾後如く腐肉死屍を啖ひ田圃を荒すとて忌(いま)れなんだんだろ。然るに書紀神武卷に、更遣頭八咫烏召之(兄磯城)。時烏到其營而鳴耶、天神子召汝、恰奘過々々々(いさわいさわ)、と。兄磯城忿之曰、聞天壓神至、而吾爲慨憤時、奈烏何鳥、若此惡鳴耶、乃彎弓射之[やぶちゃん注:「更に頭八咫烏(やたのからす)を遣はして之れ(兄磯城(えしき))を召す。時に烏、其の營(いほり)[やぶちゃん注:砦。陣屋。]に到りて鳴きて曰はく、「天神(あめのかみ)の子、汝(いまし)を召す。恰奘過(いさわ)、恰奘過(いさわ)。」と。兄磯城、之れを忿(いか)りて曰はく、「天壓神(あめおすのかみ)の至ると聞きて、吾が慨憤(ねた)みつつある時に、奈何んぞ、烏鳥(からす)の此くのごとく惡しく鳴くや。」と。乃(すなは)ち、弓を彎(ひ)きて之れを射る。」。底本では清音で振るが、「いざわ」は感動詞(「いざ」は感動詞、「わ」は感動の助詞)で、相手を誘うときに発する言葉。]。次に弟磯城[やぶちゃん注:「おとしき」。]方に往き、前同樣に鳴くと、弟公、容を改め、臣聞天壓神至、旦夕畏懼、善乎烏、汝鳴若此者歟[やぶちゃん注:「臣、天壓神の至りますと聞(うけたまは)りて、旦夕(あしたゆふべ)に畏(お)ぢ懼(かしこ)まる。善きかな、烏、汝の此(か)くのごとく鳴く者か。」。]と言つて之を饗し、隨つて歸順したと見ゆ。さすれば其頃は此方の氣の持樣次第、烏鳴[やぶちゃん注:「からすなき」。]を吉とも凶とも做(し)たのだ。然るに、追々烏を忌む邦俗と成つたは、本來、腐肉死屍を啖ふ上に村里田園擴がるに伴れて烏の抄掠[やぶちゃん注:「せうりやく(しょうりゃく)」。「抄略」とも書く。かすめ奪うこと。略奪。]侵害も劇しく成つたからであらう。腐肉死屍を食うて掃除人の役を勤むる功を賞して禿鵰(ヴアルチユール)などを神とし尊んだ國も有るから、其だけなら斯く忌み嫌はるゝ筈が無い。古ハドリアのヴヱネチア人は、年々二人の欽差大臣を烏群に遣はし、油と麥粉を煉合せて贈り、圃[やぶちゃん注:「はたけ」。]を荒らさぬ樣懇願し、烏輩之を享食(うけく)へば吉相とした(Gubernatis, vol.ii, p.254)。吾邦でも初は腐屍や害虫を除き朝起きを勵しくれる等の諸點から神視した烏が、田圃開くるに及び嫌はれ出したので、今日では歐米で烏鴉が跡を絕つた地も有る。本邦も御多分に洩れない始末と成るだらうが、飛鳥盡きて良弓藏まる氣の毒の至り也。佛說にも夫長旅の留守宅に來て面白く鳴く烏に、其妻がわが夫無難に還るの日汝に金冠を與へんと誓うた所、夫果して息災に戾つたので、烏來たり金盃を眺めて好音[やぶちゃん注:「良きこゑ」。]を出す。因て妻之を烏に與へ、烏、金盃を戴いて去る。鷹、金盃を欲さに[やぶちゃん注:「ほしさに」。]烏の頭を裂いた。神之を見て偈(げ)を述ぶらく、須く[やぶちゃん注:「すべからく」。]無用の物を持つ事勿れ、黃金烏頭に上つて盜之を望むと(F. A. von Schiefner, “Tibetan Tales,” trans. Ralston, 1906, p.355)。是れ印度でも烏を時として吉鳥としたのだ。然し經律異相四四に譬喩經を引いて、昔有一極貧人、能解鳥語、爲賈客賃擔、過水邊飯、烏鳴、賈客怖、作人反笑、到家問言云々、答曰、烏向語我、賈人身上有好白珠、汝可殺之取珠、我欲食其肉、是故我笑耳[やぶちゃん注:「昔、一(ひとり)の極めて貧しき人有り。能く鳥語を解す。賈客(こかく)[やぶちゃん注:商人。]の爲に賃擔(ちんかつぎ)[やぶちゃん注:雇われて同行して物品を担い運ぶこと。]をして、水邊を過ぎ、飯(めしく)ふ。烏、鳴いて、賈客、怖るるに、作人(やとひど)、反(かへ)つて笑へり。家に到りて問ふて云はく」云々、「答へて曰はく、『烏、向(さき)に、我に語るに、「賈人の身上(しんしやう)に好き白珠あり。汝、之れを殺し、珠を取るべし。我は、其の肉を食らはんと欲す。」と。是の故に我は笑ひしのみ。』と。」。]とあれば、隨分古く既人肉を食ふ鳥として烏鳴を忌んだと知らる。今日も印度で烏を不祥とす。然してラバルの婦女にカカと名くる例あり。梵語及びラバル語で烏の義也(Balfour, “The Cyclopaedia of lndia,” vol.i, p.843)と有るが、日本で妻をカカと呼ぶは是と關係無し。斯く不祥としながら印度人は一向烏を殺さず放置するから、家邊に蕃殖すること夥しく、在留の洋人大いに困る(“Encyclopaedia Britannica,” vol.vii, p.513)。是は丁度土耳其[やぶちゃん注:「トルコ」。]で犬を罪業有る物が化つたと信じながらも、之を愍れんで蕃殖を縱にせしむると一般だ。摩訶僧祇律十六に、神に供へた食を婦人が賢烏來れと呼んで烏に施す事有り。パーシー輩が烏を殺さぬは例の太陽に緣有り、又屍肉を片付け吳るからだらう。波斯人は、鴉二つ雙(なら)ぶを見れば吉とす(Burton, “The Book of the Thousand Nights and a Night,” ed. Smithers, 1894, vol.vi, p.382, n)。囘敎國と希臘基督敎國には烏を不祥とし、カリラー、ワ、ジムナー書には、之を、罪業、纏(まと)はり、臭氣、穢(きたな)き鳥と呼べり(同書五卷八頁注)。アラブ人も鴉を朝起き最も早き鳥とし、グラブ、アル、バイン(別れの鴉)と言ふ。因て別離の兆として和合平安幸福の印相たる鳩と反對とす。主として黑白色の差(ちが)ひから想ひ付いたらしく、俗傳にマホメツト敵を避けて洞に潜んだ時、烏追手に向ひ、ガール、ガール(洞々(ほらほら))と鳴いたので、マホメツト之を恨み、以後常に、ガール、ガールと鳴いて自分の罪を白し[やぶちゃん注:「あらはし」。]、又、盡未來際[やぶちゃん注:「じんみらいざい」。]黑い喪服を著て不祥の鳥たるを示さしめたちふ事で厶る[やぶちゃん注:「ござる」。](同上卷三、一七八頁注二)。古希臘神話にも光の神アポロ、情をテツサリアの王女コローニスに通じ姙めるを、鴉して番せしむる内、王女、復[やぶちゃん注:「また」。]イスクスの戀を叶へて其妻たらんと契つたので、鴉其由を光神に告げると、何樣べた惚れ頸丈[やぶちゃん注:「くびつたけ」。]な女の不實と聞いて騰せ[やぶちゃん注:「のぼせ」。]揚げ、折角忠勤した鴉其時迄白かつたのを永世黑くした(Grote, “History of Greece,”  London, John Murray, 1869, vol.i, 174)。又女神パラス、其義兄へフアイストスの子、蛇形なるを養ふに、三侍女をして決して開き見る勿らしむ。然るに、三女好奇の餘り竊に之を見て亂心して死す。鴉其由を告げたので永くパラスに勘當されたと云ふ(Gubernatis, vol.ii, p.254;Smith, “Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology,” 1846, vol.ii, p.48)。斯く何處でも評判が惡く成つても、アラビヤ人は今も鴉を占候之父(アブ・ザジル)と呼び、右に飛べば吉、左に飛べば凶とす(Burton, vol.iii, p.178, n.)。プリニウスの博物志十卷十五章に、鴉の卵を屋根下に置くと其家の女難產すと載す。一六〇八年出板ホールのキヤラクタースに、迷信の人、隣屋に鴉鳴くを聞けば直ちに遺言を爲すと有る由(Hazlitt, vol.ii, p.508)。又古歐人は事始めに鴉鳴を聞くを大凶とした(Collin de Plancy, p.144)。ブラウンのプセウドドキシアの注者ウヰルキン言く、鴉は齅覺非常に發達せる故、人死する前に特異の臭を放つを、煙突を通じて聞知り鳴き噪ぐ。實は死の前兆を示すで無くて、死につゝ有る人有つて、而して後鳴くのぢやとは尤も千萬な論だ。爾雅に鳶烏醜其飛也翔、烏鵲醜其掌縮[やぶちゃん注:「鳶・烏は醜し。其れ、飛ぶや、翔(はばた)く。烏・鵲は醜し。其れ、掌(あし)を縮む。」。]。烏も一たび惡まれ出すと、飛ぶ時に脚を腹下に縮める事迄も御意に入らぬのぢや。埤雅に今人聞烏噪則唾、以烏見異則噪、故唾其凶也[やぶちゃん注:「今、人、烏の噪ぐを聞けば、則ち、唾(つば)す。烏は異を見れば、則ち、噪ぐを以つて、故に其の凶に唾するなり。」。]。唾吐いて凶事を厭(まじな)ふは、歐州、殊に盛んだ。水滸傳第六回、魯智深、大相國寺の菜園で破落戶共(ごろつきども)を集め遊ぶ時、楊柳上老鴉鳴噪すると、衆人有ㇾ齒シク赤口上ㇾ天白舌入ルトㇾ地、智深道フニ、儞做甚麼鳥亂、衆人道、老鴉叫、怕ラクハラン口舌[やぶちゃん注:熊楠は珍しく訓点をつけているのだが、本文に不審があり、中文サイトで確認し、特異的に修正した。『衆人、齒を扣(たた)くもの、有り、齊(ひと)しく道(い)ふ、「赤口(しやくこう)、天に上り、白舌(びやくぜつ)、地に入る。」と。智深、道ふ、「儞(なんぢ)ら、甚麼(いか)にしてか鳥亂(てうらん)を做(な)すや。」と。衆人、道ふ、「老鴉叫ぶ、怕(おそ)らくは口舌有らん。」と。』。私は「水滸伝」に興味がなく、短い余生の間にも読むことはない。されば、この部分、意味がよく判らないところが多いが、注をする気はない。悪しからず。]]。宋・元の頃は、斯(かゝ)る烏鳴の禁法(まじなひ)も有たんぢや[やぶちゃん注:「あつたんぢや」。]。習俗通に、案明帝起居注曰、帝東巡泰山、到滎陽、有烏飛鳴乘輿上、虎賁中郞將王吉射中之、作辭曰、烏烏啞啞、引弓射、洞左腋、陛下壽萬歲、臣爲二千石。帝賜錢二百萬、令亭壁悉畫爲烏也[やぶちゃん注:これも本文表記に疑問があったので、中文サイトを参考にしつつ、本文を特異的にいじって作り替えた。「「明帝起居注」を案ずるに、曰はく、『帝、東して、泰山を巡り、熒陽(けいやう)に至る。烏、飛んで、乘れる輿(こし)の上に、鳴く有り。虎賁中郞將王吉、射て、之れに中(あ)つ。辭を作(な)して曰はく、「烏々啞々(ううああ)、弓を引き、射て、左の腋を洞(つらぬ)く。」と。陛下は萬歲を壽(ことほ)ぎ、「臣は二千石と爲す。」と。帝、錢二百萬を賜ひ、亭壁に、悉く、烏を畫き爲さしむ。』と」。]又烏の爲に人民大に困つた例は、古今圖書集成邊裔典卷二十一に朝鮮史略を引いて、高麗忠烈王二十七年云々、先是朱悅子印遠爲慶尙按廉、貢二十升黃麻布、又惡烏鵲聲、令人嚇以弓矢、一聞其聲卽徵銀瓶(錢の名)、民甚苦之[やぶちゃん注:同前で、「維基文庫」の同書の当該部(「朝鮮部彙考九」の「大德元年以高麗王子謜為高麗國王仍加授王功臣號逸壽王按元史成宗本紀大德元年二月癸卯以闍里台所)の電子化を参考に本文を訂した。「『高麗の忠烈王二十七年』云々。『是れに先だちて、朱悅の子、印遠は、慶尙の按廉[やぶちゃん注:監査役か。]と爲(な)り、二十升の黃麻の布を貢(みつぎ)す。また烏鵲(うじやく)の聲を惡(にく)んで、人をして嚇(おど)すに弓矢を以つてせしむ。一聞(ひとたび)、その聲を聞けば、卽ち、銀甁を徵し、民、甚だ之れに苦しむ。』。]。Tavernier, “Travels in India,” vol.ii, p.294 に、暹羅[やぶちゃん注:シャム。タイ王国の古名。]で娼妓死すれば常の婦女通り火葬せしめず、必ず郊外に棄てゝ犬や鴉に食すと有り。吾國亦德川氏の初世迄妓家の主人死すれば藁の韁(たづな)を口にくはへ、死んだ時著た儘の衣で町を引ずり野において烏狗に餌うた[やぶちゃん注:「かうた」。餌として食わせた。]と一六一三年(慶長十八年)英艦長サリスの平戶日記に出づ(Astley, “A New General Collection of Voyages and Travels,” 1745, vol.i, p.482)。妓主長者さへ斯だから賤妓などは常に烏腹に葬られたなるべく、從つて、彼輩、烏を通じて熊野を尊び、其から熊野比丘尼が橫行するに及んだのだらう。

[やぶちゃん注:「詩云、莫赤匪狐、莫黑莫烏」「詩經」の「國風」の「邶風」(はいふう)の「北風」の一節。全体は国が乱れ、身に危険の迫ったと感じた者が、親友とともに他国へ亡命せんとするシークエンスを詠んだもので、壺齋散人氏のブログ「壺齋閑話」の「北風:亡命の歌(詩経国風:邶風)」で全体が読める。訓読・和訳有り。

「翠鳥御食人(そにをみけびと)とし」「翠鳥」翡翠(かわせみ。ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ亜種カワセミ Alcedo atthis bengalensis 。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴗(かはせび)〔カワセミ〕」を参照されたいが、思うに、何故、カワセミがそうした死者へ送る聖餐の料理人とされたのかは、以下の谷川の説なんぞよりも、恐らくは、その冠毛や羽根が著しく美しいことから、死者の霊をその美々しさで鎮魂するという呪的意味があったものと私には思われる。

「宣長言く、御食人(みけびと)は殯の間……」国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫版の当該部をリンクさせておく。右ページ最終行末から。なお、「日本書紀」の当該本文ページはここ

「谷川士淸」(たにかわことすが 宝永六(一七〇九)年~安永五(一七七六)年)は国学者・神道家。本名は昇。医者の家に生まれ、玉木正英・松岡玄達に垂加神道を学び、独学で国学を修め、本居宣長とも交わった。「日本書紀」を重んじ。その全注釈「日本書紀通証」(全三十五巻)をものし、また国語辞典の先駆とされる字書「和訓栞」(わくんのしおり(全九十三巻・本書の実際の刊行には、士清の没した翌年から明治二〇(一八八七)年、まで、実に百余年を要した)の著者としてよく知られる。「和訓栞」を調べてみたが、それらしいものを発見出来なかったので、以下の見解は「日本書紀通証」のものか。

「古ハドリア」古い「Hadria」地方で、特に現在のイタリアのヴェネト地方(Veneto)州(今の州都は「ヴヱネチア」(Venezia))に、嘗てエトルリア人が築いた都市で現在のアドリア(Adria)の古称。

「欽差大臣」本来は清朝の官職名で、特定の事柄について皇帝の全権委任を得て対処する臨時の官を欽差官というが、その中でも特に三品以上のもの指した漢語である。

「Gubernatis, vol.ii, p.254」複数回既出のイタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。Internet archive」の第二巻原本の当該部はここ。下から十五行目以下に出る。]

「F. A. von Schiefner, “Tibetan Tales,”」ドイツの言語学者にしてチベット学者であったフランツ・アントン・シーフナー(Franz Anton Schiefner 一八一七年~一八七九年)の「チベット譚」。

「經律異相四四に譬喩經を引いて、昔有一極貧人……」「中國哲學書電子化計劃」の影印本画像のここで全原文が視認出来る(中段の終りから)。標題は「賃人善解鳥語十六」で、最後に割注で「出譬喩經」(「譬喩經(ひゆきやう)」に出づ)とある。

「ラバルの婦女にカカと名くる例あり。梵語及びラバル語で烏の義也(Balfour, “The Cyclopaedia of lndia,” vol.i, p.843)」「ラバル」は以下の引用元の原本の綴りで納得。南方熊楠は頭の音を落しており、「マラバ(ー)ル」が正しく、現在のインド南部のコンカン地方からタミル地方のカンニヤークマリに至るまでの沿岸地帯であるマラバール海岸(英語:Malabar Coast)のことだ。紀元前三千年頃から既その記録が現われ、メソポタミア・アラビア・ギリシャ・ローマなどにその存在が知られていたとウィキの「マラバール海岸」にあるから、独自の言語を持っていたとしてもおかしくない。ここ英文の当該ウィキ(正確には「Malabar Coast moist forests」(マラバール海岸湿性林地帯))の地図画像)。引用元は既出既注のスコットランドの外科医で東洋学者のエドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年)の書いたインド百科全書。「Internet archive」の原本のこちらの右ページ下方。タイトル「CROWS.」。

「“Encyclopaedia Britannica,” vol.vii, p.513」「Internet archive」には同巻はなかったので、「National Library of Scotland」で発見したものの、糠喜びで、当該ページには、それらしい記載がないようだ。

「摩訶僧祇律十六に、神に供へた食を婦人が賢烏來れと呼んで烏に施す事有り」「大蔵経テキストデータベース」で確認。確かに同巻にある。

「パーシー輩」パールシー或いはパールスィー。インドに住むゾロアスター教の信者たちを指す。

「Burton, “The Book of the Thousand Nights and a Night,” ed. Smithers, 1894, vol.vi, p.382, n」原本確認不能。「Internet archive」巻六の当該ページを見たが、エディションが異なるのか、ないようである。

「カリラー、ワ、ジムナー書」不詳。

「王女コローニス」ウィキの「コローニス」(別人で複数いる)の「プレギュアースの娘」によれば、『ラピテース族の王プレギュアースの娘で、医術の神アスクレーピオスの母とされる。コローニスの物語はカラスの色が変わる変身譚とともに語られている』。『ヘーシオドスによると、コローニスはアポローンに愛されて子を身ごもったが、プレギュアースによってエラトスの子イスキュスと結婚させられた』。『しかし、多くの伝承ではコローニスが自らイスキュスと密通したとされる。ピンダロスによれば、コローニスはアポローンに愛されて子供を身ごもったにもかかわらず、アルカディアからの客人イスキュスに恋をし、父プレギュアースに隠れてイスキュスと密通した。しかし、アポローンはすぐに気づき、アルテミスを送ると、アルテミスは多くの者とともにコローニスを射殺した。しかし、コローニスが火葬されるとき、アポローンは自分の子を救い出し、ケイローンに養育させた』。『後に成長したアスクレーピオスは死者さえも蘇らせる名医になった。ピンダロスの物語ではカラスは登場しないが、多くの物語では、カラスがコローニスの密通に気付き、アポローンに知らせる。アポローンは怒って以前は白い色だったカラスを黒い色に変え、またコローニスを殺した。しかし、アポローンは後悔して自らの手で火葬し、そのさいに子アスクレーピオスをコローニスの胎内から救い出して、ケイローンに養育させた』。『アントーニーヌス・リーベラーリスでは、コローニスの密通の相手はアルキュオネウスとされる』。また、『エピダウロスの詩人イシュロスによると、コローニスはプレギュアースとムーサ』(文芸(ムーシケー)を司る女神たち)の一『人エラトーとマロスの娘クレオペマーの娘である』。『パウサニアスによると、プレギュアースがエピダウロスにやって来たとき、コローニスはすでにアポローンの子を身ごもっていた。そして、プレギュアースに同行してエピダウロスにやって来て、アスクレーピオスを出産し、ミュルティオン山に捨てた。この赤子はヤギに養われ、羊飼アレスタナスに発見されたとき、神々しく光っていた』。『なお、一説にアスクレーピオスの母はレウキッポスの娘アルシノエーともいわれ、古代でも意見が分かれていたが、アポロパネースというアルカディア人がデルポイでどちらの伝承が正しいか神に質問すると、コローニスの子であるという答えが返ってきたという』とある。

「Grote, “History of Greece,”  London, John Murray, 1869, vol.i, 174」イギリスの国会議員で歴史家でもあったジョージ・グロート(George Grote 一七九四年~一八七一年)が一八四年から十年かけてものした「ギリシャ史」。Internet archiveで探したが、エディションの合わないものばかりで、当該ページを見ても、違っていた。

「女神パラス」処女神アテーナーは『少女の頃、友達であるパラスと槍と楯を持って闘技で遊んでいたところ、間違ってパラスを殺してしまった。それを悲しんだ女神は、自分の名の前に「パラス」を置き、パラス・アテーナーと名乗ることにしたという』とウィキの「アテーナー」にある。ここはアテーナーのことである(次注参照)。

「其義兄へフアイストス」ギリシア神話の炎と鍛冶の神(本来は雷と火山の神であったと思われる)ヘーパイストスは、当該ウィキによれば、アプロディーテーと結婚するも、『相手にされなかった』彼は、『アテーナーが仕事場にやって来たときに欲情し、アテーナーと交わろうとして追いかけた。ヘーパイストスは処女神であるアテーナーから固く拒まれたが、アテーナーの足に精液を漏らした。アテーナーがそれを羊毛でふき取り、大地に投げると、そこから上半身が人間で下半身が蛇の子供エリクトニオスが誕生した。それを見つけたアテーナーは見捨てはせず、自分の神殿でエリクトニオスを育てたという』とある。なお、『軍神アテーナーは、頭痛に悩むゼウスが痛みに耐えかね、ヘーパイストスに命じて斧(ラブリュス)で頭を叩き割らせることで、ゼウスの頭から生まれたとい』われ、ヘーパイストスはゼウスとヘーラーの第一子であるし、彼の妻アプロディーテーの父もゼウスともされるから、単性生殖の処女神と姻族関係から見ると「義兄」というのは腑に落ちる。

「Gubernatis, vol.ii, p.254」本書電子化で複数回既出既注のイタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。「Internet archive」の第二巻原本の当該部はここ。左ページの七行目以下に記されてある。

「Smith, “Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology,” 1846, vol.ii, p.48」イングランドの辞書編集者ウィリアム・スミス(Sir William Smith 一八一三年~一八九三年)の「ギリシャ・ローマ伝記神話事典」。Internet archive」のこちらの「ERICHTO’NICUS」の条。

「プリニウスの博物志十卷十五章に、鴉の卵を屋根下に置くと其家の女難產すと載す」既出既注。しかし、これは、『ワタリガラスは一腹でせいぜい五つの卵しか生まない。彼らは嘴で生み、あるいは交尾する(したがって懐妊している婦人がその卵を食べると口から分娩する。そしてとにかくそれを家に持ち込むと難産する)と一般に信じられている。』の部分をざっくり纏めたもので、やや言い方が悪い。

「一六〇八年出板ホールのキヤラクタースに、迷信の人、隣屋に鴉鳴くを聞けば直ちに遺言を爲すと有る由(Hazlitt, vol.ii, p.508)」既出既注のイギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「信仰と民俗学」。「Internet archive」の当該書のこちらの左ページの中段下方に、「NATIONAL FAITHS」(「国民の信仰」)の最後に、

   *

Moresin includes the croaking of ravens among omens.  Hall, in his "Characters," 1608, tells us that if the superstitious man hears the raven croak from the next roof, he at once makes his will.

   *

この引用は、イギリスの司教で風刺作家でもあったジョセフ・ホール(Joseph Hall, Bishop of Exeter 一五七四年~一六五六年)が一六〇八年に発表した「Characters of Virtues and Vices 」(「美徳と悪徳の特性」)の一節。英文サイトで全文がここで活字化されている。「BOOK II. CHARACTERISTICS OF VICES.」の「The superstitious.」の中に以上の一節がある。

「ブラウンのプセウドドキシア」こちらに既出の人物で、その私の注「Sir Thomas Browne」で本書にも言及済み。

「ウヰルキン」不詳。

「埤雅」(ひが)は北宋の陸佃(りくでん)によって編集された辞典。全二十巻。主に動植物について説明してある。

「風俗通」後漢の応劭(おうしょう)が著した事物考証本である「風俗通義」のこと。著者は制度・典礼・故事に詳しく、後漢末の混乱期に、それらが忘れられることを恐れて「漢官儀」などを著わしているが、本書も、その博識をもとに,当時の一般人の考えの誤りを正すために書かれたもの。もとは三十巻或いは三十二巻あったとされるが、現存するのは皇覇・正史・愆礼(けんれい。「愆」は「不正」の意)・過誉・十反・声音・窮通・祀典・怪神・山沢の十巻のみである。

高麗の忠烈王二十七年」一三〇〇年。

「Tavernier, “Travels in India,” vol.ii, p.294」十七世紀のフランスの宝石商人で旅行家であったジャン=バティスト・タヴェルニエ(Jean-Baptiste Tavernier 一六〇五年~一六八九年)。一六三〇年から一六六八年の間にペルシャとインドへの六回の航海を行っており、諸所の風俗を記した。その著作は、彼が熱心な観察者であり、注目に値する文化人類学者の走りであったことを示している。彼のそれらの航海の記録はベスト・セラーとなり、ドイツ語・オランダ語・イタリア語・英語に翻訳され、現代の学者も貴重な記事として、頻繁に引用している(英文の彼のウィキに拠った)。Internet archiveで、この原本を見つけ、指示するページを見たが、載っていない。ページ数か、巻数の誤りか。

「Astley, “A New General Collection of Voyages and Travels,” 1745, vol.i, p.482「Internet archive」のこちらの左ページ左の中央附近に記載がある。但し、そこでは「Dogs and Fowls」とあり、「Fowls」は広義の鳥類を指す語で、カラスには限らない。]

 

 序でに言ふ、牛黃を祕密法に用ゐる事、佛敎に限らぬ。摩利支天は、もと梵敎の神で、唐朝に吾邦へ傳へた兩界曼陀羅には見えぬ。趙宋の朝に譯された佛說大摩里支菩薩經に牛黃をもつて眞言を書くと有るなど、明らかに梵敎から出た作法だ。馬鳴大士の大莊嚴經論十に、牛黃を額に塗つて我吉相をなすと云ふ者に佛僧が問ふと、吉相は能く死すべき者を死なざらしめ鞭繋らるべき[やぶちゃん注:「むちうちくくらるべき」。]者を解脫せしむ。此牛黃は牛の心肺の間より出づと答ふ。僧曰く、牛自身に牛黃を持ながら耕稼の苦を救ふ能はず、何ぞ能く汝をして吉ならしめんやと。又其よりずつと前に出來た根本說一切有部毘奈耶雜事一に、諸婆羅門、額に白土や白灰を點畫する事有り。又六衆(六人の惡僧每度釋尊に叱らるゝ者)入城乞食、見諸婆羅門、以牛黃點額、所有乞求、多獲美味[やぶちゃん注:「又、六衆(六人の惡僧。每度、釋尊に叱らるゝ者。)、城に入りて食を乞ふ。諸婆羅門を見るに、牛黃を以つて額に點ず。所有(いはゆる)、乞ひ求めば、多く、美味を獲(う)。」。]六衆之を眞似(まね)して佛に越法罪を科(おは)せらると有り。密敎に牛黃を眉間に點ずるは梵敎から移れるので、原(も)と佛敎徒の所作で無かつたのぢや。牛黃梵名ゴロチヤナ、支那のみならず印度でも藥用する(Balfour, vol.ii, p.547)。諸派の印度[やぶちゃん注:選集では『ヒンズー』。]敎徒が今も額に祀神の印相を點畫する樣子一斑は Dubois, “Hindu Manners, Customs and Ceremonies,” ch. ix に就いて見るべし。

[やぶちゃん注:「馬鳴大士」馬鳴(めみょう 紀元後八〇年頃~一五〇年頃)は古代インドの仏教僧。サンスクリット語の名「アシュヴァゴーシャ」の漢訳。

「大莊嚴經論十に、牛黃を額に塗つて我吉相をなすと云ふ者に佛僧が問ふと……」「大莊嚴論經卷第一CBETA中華電子佛典協會)電子版(PDF)の124コマ目(原本でも同ページ)の頭に出る。

「根本說一切有部毘奈耶雜事一に、諸婆羅門、額に白土や白灰を點畫する事有り……」「維基文庫」の同書同巻の電子化に(コンマを読点に代え、一部の漢字を正字化した)、

   *

緣處同前、時諸苾芻日初分時、執持衣鉢入城乞食、見諸婆羅門以自三指點取白土或以白灰、抹其額上以爲三畫、所有乞求多獲美好。

   *

とある。「六衆」は熊楠が添えたものか。「六衆之を眞似(まね)して佛に越法罪を科(おは)せらる」の文字列も単語で分解して検索した限りでは、同書にはない。

「Balfour, vol.ii, p.547」Internet archive」の原本ではここだが、見当たらない。

「Dubois, “Hindu Manners, Customs and Ceremonies,” ch. Ix」以前に言った通り、「Internet archive」では後代の合巻しかないので、当該部は探せない。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 まづしき展望

 

   まづしき展望

 

まづしき田舍に行きしが

かわける馬秣(まぐさ)を積みたり

雜草の道に生えて

道に蠅のむらがり

くるしき埃のにほひを感ず。

ひねもす疲れて畔(あぜ)に居しに

君はきやしやなる洋傘(かさ)の先もて

死にたる蛙を畔に指せり。

げにけふの思ひは惱みに暗く

そはおもたく沼地に渴きて苦痛なり

いづこに空虛のみつべきありや

風なき野道に遊戯をすてよ

われらの生活は失踪せり。

 

[やぶちゃん注:初出は大正一〇(一九二一)年二月新潮社刊の詩話会編「現代詩人選集」。初出形は、六行目「畔(あぜ)に居しに」の「あぜ」のルビがなく、八行目の「指せり」に「指(さ)せり」とルビする。十行目「おもたく」は「重たく」で、十二行目の「すてよ」が「捨てよ」、最終行の「われら」が「我等」であるだけで、異同は些末な表記のみなので、掲げない。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 商業

 

   商 業

 

商業は旗のやうなものである

貿易の海をこえて遠く外國からくる船舶よ

あひは綿や瑪瑙をのせ

南洋 亞細亞の島々をめぐりあるく異國のまどろすよ。

商業の旗は地球の國々にひるがへり

自由の領土のいたるところに吹かれてゐる。

商人よ

港に君の荷物は積まれ

さうして運命は出帆の汽笛を鳴らした。

荷主よ

水先案内(ぱいろつと)よ

いまおそろしい嵐のまへに むくむくと盛りあがる雲を見ないか

妖魔のあれ狂ふすがたを見ないか

たちまち帆柱は裂きくだかれ

するどく笛のさけばれ

さうして船腹の浮きあがる靑じろい死魚を見る。

ああ日はしづみゆき

かなしく沖合にさまよふ不吉の鷗はなにを歌ふぞ。

商人よ

ふたたび椰子の葉の茂る港にかへり

君のあたらしい綿と瑪瑙を積みかへせ

亞細亞のふしぎなる港々にさまよひ來り

靑空高くひるがへる商業の旗の上に

ああかのさびしげなる幽靈船のうかぶをみる。

商人よ! 君は冒險にして自由の人

君は白い雲のやうに、この解きがたくふしぎなる愁ひをしる。

商業は旗のやうなものである。

 

[やぶちゃん注:三行目「あひは」はママ。後発の二詩集への再録から、「あるひは」(ママ。歴史的仮名遣は「あるいは」でよい)の恐らくは植字の脱字である。初出未詳。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 かつて信仰は地上にあつた

 

   かつて信仰は地上にあつた

 

でうすいすらええるの野にござつて

惡しき大天狗小天狗を退治なされた。

「人は麥餠(むぎもち)だけでは生きないのぢや」

初手の天狗が出たとき

泥薄(でうす)如來の言はれた言葉ぢや

これぢやで皆樣

ひとはたましひが大事でござらう。

たましひの罪を洗ひ淨めて

よくよく昇天の仕度をなされよ。

この世の說敎も今日かぎりぢや

明日(あす)はくるすでお目にかからう。

南無童貞麻利亞(まりや)聖天 保亞羅(ぽうろ)大師

さんたまりや さんたまりや。

 

信仰のあつい人々は

いるまんの眼にうかぶ淚をかんじた

悅びの、また悲しみの、ふしぎな情感のかげをかんじた。

ひとびとは天を仰いだ

天の高いところに、かれらの眞神(しんしん)の像(かたち)を眺めた。

さんたまりや さんたまりや。

 

奇異なるひとつのいめえぢ

私の思ひをわびしくする

かつて信仰は地上にあつた。

宇宙の 無限の 悠悠とした空の下で

はるかに永生の奇蹟をのぞむ 熱したひとびとの群があつた。

ああいま群集はどこへ行つたか

かれらの幻想はどこへ散つたか。

わびしい追憶の心像(いめえぢ)は、蒼空にうかぶ雲のやうだ。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。冒頭、「いすらええる」の表記はママで、かの絶対消毒敢行主義の筑摩版全集校訂本文でもママである。しかし、「イスラエル」(ヘブライ語で「神が支配する」の意)の音写を「イスラエエル」としたものを見たことは、私は、ない。日本語の外来語音写は近代以降、掟破りに個人が勝手にいろいろな音写をしてきたから、取り立てて奇異とは言うまい。そもそも、イスラエルの公用語のヘブライ語の「アレフベート」は二十二文字であるが、元来、これらは総て子音で、伝統的に、当該語句を発音する際には、特定の決められた母音を当該子音に附帯させて発音することで、特定単語を表現するという。参照したイスラエル・ユダヤ専門の出版社「ミルトス」の「ヘブライ語 ― ヘブライ語ってどんな言葉?」によれば、七世紀頃、『聖書ヘブライ語の発音を伝えるために母音記号(ニクダー)が工夫され』たが、現在の『イスラエルでは一般にニクダーがついていない文で書かれて』おり、『これを読むときは、カンを働かせて』(!?!)『頭の中で母音をつけ』て『発音する』というちょっとびっくりすることが書かれている。しかも古代イスラエルのヘブライ語の発音は現在は既に不明となっている。されば、「いすらええる」と聴こえないでもなかったとは言い得るかも知れぬ。禁教の切支丹の内部でこの表記(口伝による変形)が生きていたかどうかは知らぬが、あっても全くおかしくはなかろうとも思う。しかし、この詩篇を書くに際して、そうした切支丹関連文書を萩原朔太郎が参考にしたとなら、研究者はそれを調べ、発見し、指示する必要があろう。私にそんな義務はない。そもそも、ここでは、隠れ切支丹が隠蔽防御のために行ったような、イエス・キリストが「でうす」(Deus:ラテン語で「神」を表わす)や「如來」に、マリアが「聖天」、パウロが「大師」の姿になって登場し、サタン・ルシファーや、その眷属諸々は「雨月物語」の「白峯」の如く「大天狗子天狗」へと自由自在に勝手に習合・混淆されている。何をかいわんや、遂にそのブッ飛んだ世界に筑摩版全集の編集者が消毒器具のバルブをさえ開くことが出来なかったのであったことが小気味が良い。

いるまん」(ポルトガル語:irmão:一般には「兄弟」、宗教的には「法兄弟」の意)十六~十七世紀頃に日本に渡来したキリスト教の宣教師の一階級。司祭職パードレ(padre=伴天連(バテレン))の下にある助修士(平修士)のこと。

 初出は大正一一(一九二二)年五月号『秦皮』(聴いたことのない雑誌だ。調べたが、判らなかった)。以下に初出形を示す。第一連一行目「は」の太字及び「ごさつて」、五行目「でいす」、十一行目「かからう」の「かか」太字(これは十字架に「架かる」に掛けた洒落か?)、第二連四行目「おほいだ」は総てママである。

   *

 

 かつて信仰は地上にあつた

 

でうすはいすらええるの野にごさつて

惡しき大天狗小天狗を退治なされた。

「人は麥餠(むぎもち)だけでは生きないのぢや」

初手の天狗が出たとき

でいす如來の言はれた言葉ぢや。

これぢやて皆樣

人はたましひが大事でござる

たましひの罪を洗ひきよめて

よくよく昇天の仕度をなされよ。

この世の說敎も今日限りぢや

くるすで明日はお目にかからう。

南無まりや聖天 ぽをろ大師

さんたまりや さんたまりや。

 

信仰のあつい人々は

いるまんの眼にうかぶ淚をかんじた

悅びのまた悲しみの ふしぎな情感の影をかんじた。

人々は天をあほいだ

天の高い所に かれらの眞神の像(かたち)を眺めた。

はれるや はれるや はれるや はれるや。

 

奇異なるひとつの心像(いめえぢ)は

私の想ひをわびしくする

かつて「信仰」は地上にあつた。

宇宙の 無限の 悠悠とした空の下で

はるかに永生の奇蹟をのぞむ 熱した人々の群があつた

ああ今 群集はどこへ散つたか

かれらの幻想はどこへ行つたか

私のわびしい心像(いめえぢ)は、蒼空にうかぶ雲のやうだ。

 

   *]

2021/12/24

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(6)

 

 烏鴉共に、膽勇智慧敏捷、鳥中に傑出し、壽命も長く、又多少の間違ひは有るにせよ、親子夫妻友儕[やぶちゃん注:「ともがら」。]間の愛情も非常に厚いちふ處より、慈孝忠信の話も出來、殊に太陽に緣有る靈鳥と仰がるゝより、或は神、或は神使として專敬された。隨つて之を吉鳥とした例も少なからず、既に上文に散見するが、猶一二を擧れば、沙漠を旅行する中、鳶や烏が見當れば必ず村落が近いと云ふから之を吉相とするは必定だ(Burton, “Pilgrimage to Al-Madinah and Meccah,” in The York Library, vol.ii, p.294)。南史に、高昌國有朝烏、旦々集王殿前、爲行列、不畏人、日出然後散去[やぶちゃん注:「高昌國に、朝、烏、有り。旦々、王の殿前に集まり、行列を爲し、人を畏れず。日、出でて、然る後に、散じ去る。」。]。是はナポレオン三世が鷲を馴して兵士の人氣を自身に集めた如く、烏が每旦參朝するを王威の徵としたのだ。類凾に、海鹽南三里、有烏夜村、晉何準所居也、一夕群烏啼噪、適生女、他日後夜啼、乃穆帝立準女爲后之日[やぶちゃん注:「海鹽の南三里に烏夜村(うやそん)あり。晉の何準(かじゆん)の居りし所なり。一夕、群烏、啼き噪ぎ、適(たまた)ま、女(むすめ)を生む。他日、後夜(ごや)に啼く。乃(すなは)ち、穆帝(ぼくてい)が準の女を立てて后(きさき)と爲せし日なり。」。]。烏啼きも此樣(こんな)に吉(よ)いのが有うとは、お釋迦さんでも氣が附くめー。又唐書曰、柳仲郢自拜諫議後、每遷官、群烏大集於昇平里第云々、凡五日而散、詔下不復集、家人爲候、惟天下除節度、烏不復集、遂卒於鎭[やぶちゃん注:「唐書に曰はく、『柳仲郢(りうちゆうえい)、諫議[やぶちゃん注:諫議大夫(かんぎたいふ)。皇帝の誤りを諌め、国家の利害得失などについて忠告する役職。秦では「諫大夫」と称していたが、後漢の光武帝が改めてより、歴代、この名で置かれた。]を拜せしより後(のち)、官を遷(うつ)る每に、群烏、大いに昇平里(しやうへいり)の第(だい)[やぶちゃん注:屋敷。邸宅。]に集まり』云々、『凡そ五日にして、散ず。詔、下れども、又は集まらず。家人、以つて、候(しるし)と爲(な)す。惟だ、天下の節度[やぶちゃん注:節度使の任官。]を除き、烏、又は集まらず。遂に鎭に卒(しゆつ)す。」]。官が昇る前每に集まつた烏が來ないのが死亡の前兆だつたんぢや。酉陽雜俎に邑中終歲無烏、有寇、郡中忽無烏者、日烏亡[やぶちゃん注:ぱっと見でも不審だった。最後の部分、底本は「曰烏亡」で、選集もそれを馬鹿正直に訓読して『烏亡という』となっているのだが、原本の影印本を「中國哲學書電子化計劃」で確認したところ、これは「曰」ではなく、「日」の誤りであることが判明したので特異的に訂した。「邑(いふ)の中(うち)、終歲、烏、無ければ、寇(こう)[やぶちゃん注:外部から侵入してくる賊。]、有り。郡の中、忽(にはか)に、烏、無ければ、日烏(ひう)、亡(ぼう)せり。」。]。婦女の不毛同樣、有るべき物が具(そな)はらぬを不吉とするので、邦俗鼠多い家は繁昌し、火事有るべき家に燕巢はぬと信ずるに同じ。古希臘等で、鴉を豫言者とせるも必ず凶事のみ告げたので無く、昔氷州(アイスランド)では鴉鳴の通事[やぶちゃん注:翻訳者。]有て吉凶を判じ、國政を鴉鳴に諮(と)うた(Collin de Plancy, p.143)。マコレーも其セント・キルダ誌に鴉が歡呼して好天氣を豫告し中つるを稱揚した。支那の鴉經(上出)も、鴉鳴が凶事ばかりで無く、吉事をも告ぐるとしたのだ。類凾二四三と二四四に邵氏聞見錄を引き云ふ、邵康節の母、山を行(あり)き、一黑猿を見、感じて娠み、娩するに臨み、烏、庭に滿ちければ、人もつて瑞とすと。是は康節先生が色餘り黑かつた言譯に作り出た言らしいが、兎に角烏を瑞鳥とした例にはなる。又、王知遠母晝寢、夢鴉集其身、因有娠、寶誌曰、生子、爲當世文士[やぶちゃん注:「王知遠が母、晝(ひる)寢(い)ねて、鴉、其の身に集まるを夢み、因つて娠(はら)めり。寶誌曰はく、「子(をとこ)を生まば、當世の文士と爲(な)らん。」と」。]。鴉に因んで文章に黑人(くろうと)と云ふ洒落かね。ブレタンでは家每に二鴉番し[やぶちゃん注:「つがひし」。]、人の生死を告ぐといふ(Collin de Plancy, p.143)。

[やぶちゃん注:「Burton, “Pilgrimage to Al-Madinah and Meccah,” in The York Library, vol.ii, p.294」十九世紀の大英帝国を代表する冒険家で、人類学者・言語学者・作家・翻訳家であり、軍人・外交官でもあったリチャード・フランシス・バートン(Richard Francis Burton  一八二一年~一八九〇年:本邦では特に「アラビアン・ナイト」の英訳「The Book of the Thousand Nights and a Night」(「千夜一夜物語」 一八八五年~一八八八年出版。本編十巻・補遺六巻)の翻訳者として知られる)の「Personal narrative of a pilgrimage to Al-Madinah and Meccah」(「アルマディナとメッカへの巡礼の私的な物語」)。一八五五~六年刊で全三巻。但し、二種の英文サイトの同巻同ページを調べたが、見当たらない。

「南史」中国の正史二十五史の一つ。本紀十巻・列伝七十巻から成る。唐の李延寿の撰。高宗(在位:六四九年~六八三年)の時に成立した。南朝の宋・斉・梁・陳四国の正史を改修した通史で、南朝・北朝の歴史が、それぞれ自国中心であるのを是正し、双方を対照し、条理を整えて編集した史書。

「高昌國」南北朝から唐代にかけて、現在の新疆ウイグル自治区トルファン市に存在したオアシス都市国家。元・明代にはウイグル語の音訳から「哈拉和卓」(カラ・ホージャ)・「火州」・「霍州」などとして記録されている。トルファン市高昌区には、城址遺跡「高昌故城」が残っている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「類凾に、海鹽南三里……」「漢籍リポジトリ」の「烏三」の[428-14a]の影印画像の二行目の「村名 弓名」に現われる。

「後夜(ごや)」夜半から朝までの時間。

「穆帝(ぼくてい)」複数いるが、この場合は東晋の第五代皇帝。司馬聃(たん)。在位は三四四年~三六一年。数え十九歳で崩御している。

「準の女」何法倪。東晋の政治家で宰相に昇りつめた何充(二九二年~三四六年)の五番目の弟である何準の娘。穆帝の皇后。

「柳仲郢(りうちゆうえい)」唐代の政治家。監察御史・戸部尚書・京兆尹を歴任し、節度使となったが、後に左遷された。

「鎭」東蜀の「町」の意か。実は「唐書」の記載は「巻十八下」の「本紀第十八下」の「宣宗」の条にあるが、かなり長い。「中國哲學書電子化計劃」のこちらの電子化がそれであるが(かなりよく正しく字が起こされているようである。影印本画像も見られる)、その最後の部分は、「會河南尹柳仲郢、鎭東蜀、辟為節度判官、檢校工部郎中。大中末、仲郢、坐專殺左遷、商隱廢罷、還鄭州、未幾病卒。」とあるのを熊楠は圧縮している。

「酉陽雜俎に邑中終歲無烏……」同書の巻十六の「廣動植之一序」の動植物の吉凶を羅列した中に出る。この時期の「邑」(ゆう)は現在の「県」に相当する。中国の「郡」は県を含む上位の行政単位である。従って、「県中(けんじゅう)から、一年中、カラスがいなくなった時は、外部からの侵攻がある凶兆であり、また、郡の中に、突如、カラスがいなくなった時は、太陽の中にいる三本足の神聖なカラスが死んでしまう宇宙的カタストロフを意味する。」ということである。これなどを見ると、私には、黒点の拡大による太陽の核融合の減衰ではなく、皆既日食を指しているように思われる。

「マコレー」これはイギリスの商人で官吏でもあった旧イギリス領シエラレオネの植民地主義者であったケネス・マカーリー(Kenneth Macaulay 一七九二年~一八二九年)であろう。

「セント・キルダ誌」選集はこれを雑誌名として二重鍵括弧で括っているが、これは、マコレーが書いた「The History of St. Kilda 」(「セント・キルダ諸島の歴史」)のことではないか?

「鴉經(上出)」『「二」の(2)』参照。

「類凾二四三と二四四に邵氏聞見錄を引き云ふ、邵康節の母、山を行(あり)き……」「漢籍リポジトリ」のこちらが「卷二四三」で(「人部二」)、ちらが「卷二四四」で(「人部三」)、確かに孰れにも「邵氏聞見錄」からの引用がある。しかし、前者には「一黑猿を見、感じて娠み、」に相当するものはない。複数の検索方法で同書全体も調べたが、見当たらなかった。後者には「生子三」の「庭滿慈烏」で[249-6b]に「邵氏聞見録邵康節母李氏臨娩有慈烏滿庭人以瑞是日康節生七嵗戯于庭蟻穴中别見天日雲氣徃来也」と、この後半に相当するものがある。

「王知遠母晝寢……」「王知遠」は唐代の人物のようである。「維基文庫」の「大清一統志」では(影印画像附帯)、「鴉」ではなく、「鳳」となっている。同「古今圖書集」のこちら(同前。但し、画像は下方)では、『「唐書王遠智傳」、王遠智、系本琅邪、後爲揚州人。父曇選、爲陳揚州刺史。母晝寢、夢鳳集其身、因有娠。浮屠寶誌謂曇選曰、「生子當爲世方士。」。』とあるんですけど? 熊楠先生?

「ブレタン」フランスのブレタン(Brétinか?]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 湼槃

 

   湼  槃

 

花ざかりなる菩提樹の下

密林の影のふかいところで

かのひとの思惟(おもひ)にうかぶ

理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神祕をおもふ。

 

涅槃は熱病の夜あけにしらむ

靑白い月の光のやうだ

憂鬱なる 憂鬱なる

あまりに憂鬱なる厭世思想の

否定の、絕望の、惱みの樹蔭にただよふ靜かな月影

哀傷の雲間にうつる合歡の花だ。

 

涅槃は熱帶の夜明けにひらく

巨大の美しい蓮華の花か

ふしぎな幻想のまらりや熱か

わたしは宗敎の祕密をおそれる

ああかの神祕なるひとつのいめえぢ――「美しき死」への誘惑。

 

涅槃は媚藥の夢にもよほす

ふしぎな淫慾の悶えのやうで

それらのなまめかしい救世(くぜ)の情緖は

春の夜に聽く笛のやうだ。

 

花ざかりなる菩提樹の下

密林の影のふかいところで

かのひとの思惟(おもひ)にうかぶ

理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神祕をおもふ。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。標題「湼槃」のみ、この字体(本文内の三ヶ所のそれは「涅槃」)。「湼」は「涅」の異体字。流石は本家新潮社! 同社の昭和一四(一九三九)年刊の新潮文庫「萩原朔太郞詩集」でも標題はちゃんと「湼槃」の表記となっている。初出は大正一一(一九二二)年九月号『太陽』。以下に示す。こちらの標題は「涅」の字体。太字は同前。

   *

 

 湼槃

 

    原始佛敎における涅槃の觀念は、
     この世に於ての最も美しい思想である。
              ショーペンハウエル

 

花ざかりなる菩提樹の下

密林の影のふかいところで

かのひとの思惟(おもひ)に浮ぶ

理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神祕をおもふ。

 

涅槃は熱病の夜あけにしらむ

靑白い月の光のやうだ

憂欝なる 憂欝なる

あまりに憂欝なる厭世思想の

否定の、絕望の、惱みの樹蔭にただよふ靜かな月影

哀傷の雲間にうつる合歡(ねむ)の花だ。

 

涅槃は熱帶の夜明けにひらく

巨大の美しい蓮華の花か

ふしぎな幻想のまらりや熱か

わたしは宗敎の祕密をおそれる

ああかの神祕なるひとつの心像(いめえぢ)――美しき死への誘惑。

 

涅槃は媚藥の夢にもよほす

ふしぎな淫慾の悶えのやうで

それらのなまめかしい救世(くぜ)の情緖は

春の夜に聽く笛のやうだ。

 

花ざかりなる菩提樹の下

密林の影のふかいところで

かのひとの思惟(おもひ)にうかぶ

理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神祕をおもふ。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 僕等の親分

 

   僕等の親分

 

剛毅な慧捷の視線でもつて

もとより不敵の彼れが合圖をした

「やい子分の奴ら!」

そこで子分は突つぱしり 四方に氣をくばり

めいめいのやつつける仕事を自覺した。

 

白晝商館に爆入し

街路に通行の婦人をひつさらつた

かれらの事業は奇蹟のやうで

まるで禮儀にさへ適つてみえる。

しづかな、電光の、抹殺する、まるで夢のやうな兇行だから

市街に自動車は平氣ではしり

どんな平和だつてみだしはしない。

もとより不敵で豪膽な奴らは

ぬけ目のない計畫から

勇敢から、快活から、押へきれない欲情から

自由に空をきる鳥のやうだ。

見ろ 見ろ 一團の襲擊するところ

意志と理性に照らされ

やくざの祕密はひつぺがされ

どこでも偶像はたたきわられる

 

剛毅な 慧捷の瞳(ひとみ)でもつて

僕等の親分が合圖をする。

僕等は卑怯でみすぼらしく 生き甲斐もない無賴漢(やくざ)であるが

僕等の親分を信ずるとき

僕等の生活は充血する

仲間のみさげはてた奴らまでが

いつぽんぶつこみ 拔きつれ

まつすぐ喧嘩の、繩ばりの、讐敵(かたき)の修羅場へたたき込む。

 

僕等の親分は自由の人で

靑空を行く鷹のやうだ。

もとより大膽不敵な奴で

計畫し、遂行し、豫言し、思考し、創見する。

かれは生活を創造する。

親分!

 

[やぶちゃん注:初出誌未詳。或いは未発表詩篇か。「慧捷」「覚えが早い上に、すばしっこい。」の意の「聡慧警捷」(そうけいけいしょう)の縮約。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 絕望の逃走

 

   絕望の逃走

 

おれらは絕望の逃走人だ

おれらは監獄やぶりだ

あの陰鬱な栅をやぶつて

いちどに街路へ突進したとき

そこらは叛逆の血みどろで

看守は木つ葉のやうにふるへてゐた。

 

あれからずつと

おれらは逃走してやつて來たのだ

あの遠い極光地方で 寒ざらしの空の下を

みんなは栗鼠のやうに這ひ𢌞つた

いつもおれたちの行くところでは

暗愁の、曇天の、吠えつきたい天氣があつた。

 

逃走の道のほとりで

おれらはさまざまの自然をみた

曠野や、海や、湖水や、山脈や、都會や、部落や、工場や、兵營や、病院や、銅山や

おれらは逃走し

どこでも不景氣な自然をみた

どこでもいまいましいめに出あつた。

 

おれらは逃走する

どうせやけくその監獄やぶりだ

規則はおれらを捕縛するだらう

おれらは正直な無賴漢で

神樣だつて信じはしない、何だつて信ずるものか

良心だつてその通り

おれらは絕望の逃走人だ。

 

逃走する

逃走する

あの荒凉とした地方から

都會から

工場から

生活から

宿命からでも逃走する

さうだ! 宿命からの逃走だ。

 

日はすでに暮れやうとし

非常線は張られてしまつた

おれらは非力の叛逆人で

厭世の、猥弱の、虛無の冒瀆を知つてるばかりだ。

ああ逃げ道はどこにもない

おれらは絕望の逃走人だ。

 

[やぶちゃん注:「暮れやうとし」の「や」はママ。初出は大正一一(一九二二)年九月号『太陽』。以下に示す。

   *

 

 絕望の逃走

     ――あるニヒリストのうた

 

おれらは絕望の逃走人だ

おれらは監獄やぶりだ

あの陰欝な栅をやぶつて

いちどに街路へ突進したとき

そこらは叛逆の血みどろで

看守は木つ葉のやうにふるへてゐた。

 

あれからずつと

おれらは逃走してやつて來たのだ

あの遠い極光地方で、寒ざらしの空の下を

みんなは栗鼠のやうに這ひ廻つた

いつもおれたちの行くところでは

暗愁の、曇天の、吠えつきたい天氣があつた。

 

逃走の道のほとりで

おれらはさまざまの自然をみた

曠野や、海や、湖水や、山脈や、都會や、部落や、工場や、兵營や、病院や、銅山や

おれらは逃走し

どこでも不景氣な自然をみた

どこでもいまいましいめに出あつた。

 

おれらは逃走する

どうせやけくその監獄やぶりだ

規則はおれらを捕縛するだらう

おれらは正直な無賴漢で

神樣だつて信じはしない、何だつて信ずるものか

良心だつてその通り

おれらは絕望の逃走人だ。

 

逃走する

逃走する

あの荒寥とした地方から

都會から

工場から

生活から

宿命からでも逃走する

さうだ! 宿命からの逃走だ。

 

日はすでに暮れようとし

非常線は張られてしまつた

おれらは非力の叛逆人で

厭世の、猥瀆の、虛無の冒瀆を知つてるばかりだ。

ああ逃げ道はどこにもない

おれらは絕望の逃走人だ!

 

   *

なお、筑摩版全集の『草稿詩篇 蝶を夢む』の最後には、『絕望の逃走(本篇原稿一種二枚)』としつつも、掲げずに、『斷片。末尾に』、(詩集 蝶を夢むヨリ)「萩原朔太郞詩集」ヨリ『と附記されている』という旨のみ記す。

2021/12/23

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(5)

 

 支那で烏を太陽の精とする。三足の烏は淮南子に最古く筆せられたと、井上哲次郞博士が大正二年五月一日の日本及び日本人で言はれた。其本文は日中有踆烏猶踆蹲也謂三足烏[やぶちゃん注:「日中に踆烏(しゆんう)有り。猶ほ踆は蹲(そん)のごときなり。『三足の烏』を謂へり。」。]だ。しかし、楚辭に羿焉彃日烏焉解羽[やぶちゃん注:底本では三字目が「畢」であるが、誤字であるので訂した。「羿(げい)は焉(いづく)んぞ日(ひ)を彃(い)たる 烏(からす)は焉んぞ羽(はね)を解(と)せる。」。]とあり、准南子に堯時十日竝出草木焦枯堯命羿仰射十日其九烏皆死堕羽翼[やぶちゃん注:「堯の時、十の日(ひ)、竝び出でて、草木、焦げ枯る。堯、羿に命じて、十の日を、仰ぎ射せしむ。その九の烏、皆、死して、羽翼を墮(お)とす。」。]と出るを見ると、三足は兎に角、烏が日に棲むちう迷信は、漢代よりはずつと古く有つて、戰國の時既に記されたのだ。明治四十五年八月一日の『日本及日本人』[やぶちゃん注:一九一二年。七月三十日に大正に改元している。但し、これは雑誌のバック・ナンバーを言ったもので、刊行物は事実、改元以前に発行されているから、これで正しいのである。]に予が言つた通り、太陽に烏有りとは日中の黑點が似たからだが、其上に烏が定つて[やぶちゃん注:「きまつて」。]曉を告げるからで有る。バツヂ曰く、古埃及人の幽冥經(ブツク・オヴ・ゼ・デツド)に、六七の狗頭猴(チノケフアルス)旭に對(むか)ひ手を擧げて呼ぶ處を畫けるは、曉の精で日が地平より上り畢れば化して狗頭猴と成ると附載した。蓋し亞非利加の林中に此猴日出前每に喧呼するを曉の精が旭日を歡迎頌讃すると心得たるに由ると。是れ頗る支那で烏を日精とするに似居る。予屢ば猴を畜(か)うたのを觀ると、日が暮れば忽ち身を屈め頭を垂れて眠り了り何度起(おこ)すも暫くも覺(さめ)居らず、扨曉近く天が白むと歡び起きて大噪(おほさは)ぎす。日吉の神が猴を使物とするは此由であらう。猴と烏は仲惡い者らしく、古今著聞集に、文覺淸瀧川の上で猴謀つて烏を捕へ使ひ殺すを見たと載せ、Tavernier, “Travels in India,” trans. Ball, 1889, vol.ii, p.294 に、ベンガルで母に乳付(ちゝづ)かぬ子を三日續けて朝から晚(くれ)迄樹間に露(さら)し、なほ乳付かねば之を鬼子(おにご)と做(な)して恒河(ガンジス)に擲入(なげい)る。斯く曝さるゝ間烏來つて眼を啄き拔く事多く、爲にこの地方に瞎(かため)又盲人(めくら)多し。然るに猴多き樹間に曝された兒は此難を免る。猴は甚だ烏を惡み、其巢を見れば必ず之を覆して卵を破る故、烏が其邊に巢ぬ[やぶちゃん注:「すくはぬ」。]からだと出づ。日吉(ひえ)と熊野と仲惡きに(嚴神鈔)、其使ひ物の猴と烏と仲惡きも面白い。但し日吉山王利生記に烏も日吉の使と有るは、例の日に緣あるからだらう。鹽尻四一、伊勢矢野の神香良洲(からす)の御前は天照大神の妹と云ふも、日と烏に因んだのか。古今圖書集成の邊裔典卷二八に、朝鮮史略曰、新羅東海濱有二人、夫曰迎烏、妻曰細烏、迎烏漂至日本國小島主、其妻細烏尋其夫、漂至其國、立爲妃、人以迎烏細烏爲日月之精[やぶちゃん注:「「朝鮮史略」に曰はく、『新羅の東海の濱に、二人、有り。夫は迎烏と曰ひ、妻は細烏と曰ふ。迎烏、漂ひて日本國の小島に至り、主と爲(な)る。其の妻細烏は、其の夫を尋ね、漂ひて其の國に至り、立ちて妃と爲る。人、迎烏・細烏を以つて、「日月の精」と爲す』と。」。]。又新羅の官制十七品の中に、大烏・小烏有り、何とか烏に關する名か知らぬ。古波斯から起つて一時大に歐州に行はれたミツラ敎で、光の神ミツラ自ら聖牛を牲する雕像に、旭日の傳令使として鴉を附した(“Encyclopaedia Britannica,” vol.xviii, p.623)。其像は予親(まのあた)り視た事有り。寫は Seyffert, “A Dictionary of Classical Antiquities,” trans., 1908, p.396 に出づ。Frobenius, “The Childhood of Man,” 1909, pp.255-6 に、鴉死人の靈を負て太陽に送り付ける所を西北米土人が刻んだ樂器の圖有り。ツリンキート人は最初火を持來り、光を人に與へしは烏と信ず(“Encyc. Brit.,” ii, 51)。西南濠州諸部土人の傳說にも烏初めて火を得て人に傳へた話が多い。例せばヤラ河北方の古傳に、カール、アク、アール、ウク女獨り火を出す法を知れど他に傳へず、薯蕷(やまのいも)を掘る棒の端に火を保存す。烏(ワウング)之を取らんとし、其の蟻の卵を嗜むを知れば、多くの蛇を作つて蟻垤(ありづか)下に置き、かの女を招く。女少しく掘るに蛇多く出づ。烏敎へて彼棒で蛇を殺さしむ。乃ち蛇を打つと棒より火墮(おつ)るを、烏拾ひ去つた。大神パンゼル、彼女を天に置き星となす。烏火を得て吝みて[やぶちゃん注:「しわみて」。]人に與へず。黑人の爲に食を煮てやるはよいが、賃として最好の肉を自ら取り食ふ。大神大いに怒り、黑人を聚めて烏に麁しく[やぶちゃん注:「あらあらしく」。]言(ものい)はしむ。烏瞋(いか)つて黑人を燒亡せんとて火を抛散らす。黑人各の[やぶちゃん注:「おのおのの」。]火を得て去り、チユルト、チユルトとヲラル[やぶちゃん注:選集ではそれぞれ『チェルト』『テラル』と表記する。]の二人、乾草もて烏を圍み火を附けて焚殺すと有つて、此烏も星と化(な)つて天に在るらしい(Smyth, “The Aborigines of Victoria,” 1878, vol.ii, pp.434, 459)。其他鷲と烏合戰物語など、西南濠州の神話に烏多く參加せり。烏が火を傳ふとは、日と火と日と烏が相係るに由つたらしく、支那にも武王紂を伐つ時、渡孟津、有火自天、止於王屋、爲赤烏(尙書中候)、惑熒火精、生朱烏(抱朴子)、「蜀徼有火鴉、能銜火(本草集解)[やぶちゃん注:『「孟津を渡る。天より、火、有り、王屋に止まり、赤烏と爲れり。」(「尙書中候」)、熒惑(けいわく)は火の精にして、朱烏を生む。」(「抱朴子」)、「蜀の徼(さかひ)に火鴉有り、能く火を銜む。」(「本草」集解)。』。]など、類凾四二三に引き居り、中山白川營中問答の講談を幼時聽きたるに、此事の起は、白烏を朝廷へ獻じたのを郊外に放つと忽ち火に化し、京師火災に及んだからと言つた。酉陽雜俎に、烏陽物也。感陰氣而翅重、故俗以此占其雨否[やぶちゃん注:「烏は陽物なり。陰氣を感ずれば、翅、重し。故に、俗、此れを以つて其の雨ふるや否やを占ふ。」。但し、この「酉陽雜俎」出典とするという記載は不審。後注参照。]。倭漢三才圖會に鴉鳴有還聲者、謂之呼婦、主晴、無還聲者、謂之逐婦、主雨[やぶちゃん注:「鴉、鳴きて、還(もど)る聲有れば、之れを『呼婦』と謂い、晴を主(つかさど)る。還る聲無ければ、之れを」『逐婦』と謂ひ、雨を主る。」。]という支那說を引き、又云く、按夏月鴉浴近雨、每試然、凡將雨氣鬱蒸、故浴翅者矣[やぶちゃん注:「按ずるに、夏月、鴉、浴すれば、雨ふること、近し。每(つね)に試むるに、然り。凡そ將に雨ならんとすれば、氣、鬱蒸(うつじよう)す。故に翅を浴する者なり。」。但し、この「倭漢三才圖會」出典とするという記載は不審。後注参照。]。こんな譯にも由るか、濠州で烏初めて雨を下した[やぶちゃん注:「ふらした」。]と信ずる土人有り(Smyth, ii, 462)。

[やぶちゃん注:「淮南子」本邦の学者間では「えなんじ」と呉音で読むことになっている。前漢の高祖の孫で淮南王の劉安(紀元前一七九年?~同一二二年)が編集させた論集。二十一篇。老荘思想を中心に儒家・法家思想などを採り入れ、治乱興亡や古代の中国人の宇宙観が具体的に記述されており、前漢初期の道家思想を知る不可欠の資料とされる。当該箇所は「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本画像の一行目で見られる。右の活字は機械翻字で、どうしようもなくひどいので参照してはダメ。

「井上哲次郞」国家主義者であった哲学者井上哲次郎(安政二(一八五六)年~昭和一九(一九四四)年)の通称。東京帝国大学で日本人初の哲学教授(明治二十三(一八九〇)~大正一二(一九二三)年)となった(“metaphysical”の訳語「形而上」は彼になるもの)。文学史では近代詩集の濫觴として必ず覚えさせられる(読んでも頗る退屈な非詩的内容なのに)「新体詩抄」を、外山正一・矢田部良吉らとともに明治一五(一八八二)年に刊行、「孝女白菊詩」などの漢詩でも有名で、当時、現役の東大教授である。

「大正二年」一九一三年。

「日本及び日本人」正しい表記は『日本及日本人』。月刊の評論雑誌。明治二一(一八八八)年四月、三宅雪嶺・井上円了・杉浦重剛ら政教社同人により創刊された『日本人』を、明治四〇(一九〇七)年に改題したもの。当初から西欧主義に反発した国粋主義を主張し、後、雪嶺の個人雑誌的色彩を濃くした(但し、大正一二(一九二三)年の大震災罹災直後に運営方針から内部で対立し、同年秋に雪嶺は去った)。昭和二〇(一九四五)年二月、終刊。戦後の昭和四一(一九六六)年一月に復刊したものの、時勢に合わず、四年後には廃刊となった。

「踆烏」太陽の中に蹲っているとされた、三本足の鴉。

「蹲」大修館書店の「廣漢和辭典」では「蹲」の意義の中で、「鷷」に同じとするので、そちらを引くと、「爾雅」に西方に棲息する雉とある。しかしこれは、何だか、「踆烏」が豆鉄砲喰らったような感じで、不服であった。そこでさらに調べると、研究者がおられた。飯塚勝重氏の論文「三足烏原像試探」(PDF・『アジア文化研究所研究年報』四十八号・二〇一四年二月発行・「東洋大学学術情報リポジトリ」のここでダウン・ロード可能。画像も豊富)である。詳しくはそちらを見られたいが、飯塚氏は「踆」を「蹲」と似ているとした記載自体を怪しいと考えておられる。「廣漢和辭典」の親分である「大漢和辞典」を引いた後に、「蹲」について「蹲鴟」(そんし)「鴟蹲」の語を掲げ、後者は本来は『うずくまるフクロウを意味する』とされる(口絵有り)。以下の「楚辞」の「烏」も考証されておられるので、是非、読まれたい。

「羿焉彃日烏焉解羽」「楚辞」の長大な詩「天問」の地上の怪異に対する疑問を挙げる段の終りにある、

   *

鯪魚何所

鬿堆焉處

羿焉彃日

烏焉解羽

 鯪魚(りようぎよ)は 何(いづ)れの所ぞ

 鬿堆(きたい)は 焉(いづ)れの處ぞ

 羿(げい)は 焉(いづ)くんぞ日を彃(い)たる

 烏(からす)は 焉くんぞ羽(はね)を解きたる

   *

である。訓読は集英社「漢詩大系 第三巻 楚辭」(藤野岩友著・昭和四二(一九六七)年)に拠った。

・「鯪魚」は清の呉任臣の「山海経広注」で、「山海経」の「海内北経」にある「陵魚、人面、手足魚身、在海中。」の注で、この屈原の「天問」の「鯪魚」をそれであるとする(「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本画像を参照)。なお、私の『毛利梅園「梅園魚譜」 人魚』でも言及され、私が相当にリキを入れた注を附してあるので、是非、読まれたい。ただそこに私が張った多くの画像を見るだけでも、人魚フリークにはすこぶる楽しいはずである。序でに、私の「大和本草附錄巻之二 魚類 海女 (人魚)」もどうぞ。

・「鬿堆」「山海経」の「東山経」に「北號之山」に、「有鳥焉、其狀如鷄而白首、鼠足而虎爪、其名曰鬿雀、亦食人。」とあるのが、それらしい。

・「羿」当該ウィキによれば、『中国神話に登場する人物』で、『弓の名手として活躍したが、妻の嫦娥(姮娥とも書かれる)に裏切られ、最後は弟子の逢蒙によって殺される、悲劇的な英雄である』。『羿の伝説は』「楚辞」のこの「天問」『篇の注などに説かれている太陽を射落とした話(射日神話、大羿射日)が知られるほか、その後の時代の活躍を伝える話』(夏の時代の別な羿のことであるが、後代のそれは、この羿の伝説の派生的なものとも考えられているようだが、ここでは省略する)『も存在している』。『日本でも古くから漢籍を通じてその話は読まれており』「将門記」の石井の夜討ちの場面や、「太平記」(巻二十二)『などに弓の名手であったことや』、『太陽を射落としたことが引用されている』。『天帝である帝夋』(しゅん)『(嚳』(こく)『ないし舜と同じとされる)には羲和』(ぎわ/ぎか)『という妻がおり、その間に太陽となる』十『人の息子(火烏)を産んだ。この』十『の太陽は交代で』、一日に一人ずつ、『地上を照らす役目を負っていた』。『ところが』、『帝堯の時代に』、十『の太陽がいっぺんに現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋は』、『その解決の助けとなるよう天から神の一人である羿をつかわした。帝夋は羿に紅色の弓(彤弓』(とうきゅう)『)と白羽の矢を与えた』。『羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが』、『効果がなかった』ため、『仕方なく』、一『つを残して』九『の太陽を射落とした。これにより』、『地上は再び元の平穏を取り戻したとされる』。『その後も羿は、各地で人々の生活をおびやかしていた数多くの悪獣』『を退治し、人々にその偉業を称えられた』。しかし、『自らの子(太陽たち)を殺された帝夋は羿を疎ましく思うようになり』、『羿と妻の嫦娥(じょうが)を神籍から外したため、彼らは不老不死ではなくなってしまった。羿は崑崙山の西に住む西王母を訪ね、不老不死の薬を』二『人分もらって帰るが、嫦娥は薬を独り占めにして飲んでしまう。嫦娥は羿を置いて逃げるが、天に行くことを躊躇して月(広寒宮)へしばらく身をひそめることにする。しかし、羿を裏切ったむくいで体はヒキガエルになってしまい、そのまま月で過ごすことに』なってしまった(嫦娥は道教で月の神となっている)。『なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「満月の晩に月に団子を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて再び夫婦として暮らすようになった」という話が付け加えられることもある』。『その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、家僕の逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば私が天下一の名人だ」と思うようになり、ついに羿を撲殺してしまった。このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」』(「逢蒙殺羿」)と言うようになった』とある。

・「烏(からす)は 焉くんぞ羽(はね)を解きたる」これは、まさに太陽の中に(三本足の奇体なかどうかは知らぬが)烏がさわにいたのに、羿が九つの太陽を射落とした結果、九割もの鴉は羽を落して消えてしまったという牽強付会をすると、何となく、意味が通ずるようなきがしてくる。そんなことを妄想しながら、検索していると、山のキノコ氏のブログ「雑想庵の破れた障子」の「人類は紀元前の大昔から、太陽黒点の消長と、温暖化との相関関係に気付いていた! (前篇)」にそれっぽい引用が出てくるのを見出した。さらに、同記事の(後篇)を読むに、『射落とした太陽からカラスの羽が落ちてくるか、あるいは太陽からカラスの群れが飛び出してあちこちに雲散霧消する。つまり、カラスがいなくなったのである。』とあった。而して、熊楠と同じく、この太陽の中の黒いカラスとは、太陽の黒点を指す、とあった。以下、『太陽黒点は英語では sunspot=太陽のそばかす、ほくろでありますが、世界各地に太陽にカラスがいるぞという伝承があるようで、東アジアでは太陽に棲むカラスとは太陽黒点のことです。そもそも太陽は』二十七『日 (地球日で) の周期で自転しているから黒点は日々移動していくし、太陽活動の活発さに応じて巨大になったり消滅したりして変幻自在であります。で、動き回るカラスに見えたのでしょう。東アジアの太陽に棲むカラスはたいていは』三『本足ですが、これは数字には陰の数字と陽の数字があり、太陽のカラスには陽の数字の』三『を当てたものだと考えられています。しかし、巨大肉眼黒点が』三『本足のカラスそっくりの形状であった可能性もありえます。現代人は目が悪い人が多いですが、古代人は視力の高い人が多かったと考えられ、肉眼黒点の形状を細かに観察したことであろうと思われます』とあって、更に、『日本がまだ縄文時代のころ』、『中国大陸では既に農耕がはじまっていて』、一『日の仕事をおえた人々が夕陽を眺めて、太陽のカラスを観察していたのが』三『本足のカラスの起源なのです。古代には』、『まだ近代的な意味での天文学も植物学も地質学もありませんが、現代人よりもはるかに身近な 「自然観察」 をしていたことは想像に難くありません』とあった。「楚辞」のこの一句を解釈するには、やや説明しきれていない気はするものの、非常に面白い考証である。是非、読まれたい。

「明治四十五年八月一日の『日本及日本人』に予が言つた」当該記事に当たることが出来ない。

「バツヂ」イギリスの考古学者エルネスト・アルフレッド・トンプソン・ウォーリス・バッジ(Ernest Alfred Thompson Wallis Budge 一八五七年~一九三四年)。古代エジプト・アッシリア研究者として大英博物館の責任者を長く務めた。既に「南方熊楠 小兒と魔除 (2)」「南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 6」に登場している。

「幽冥經(ブツク・オヴ・ゼ・デツド)」古代エジプトで冥福を祈り死者とともに埋葬された葬祭文書「死者の書」。パピルスなどに、主に絵とヒエログリフで、死者の霊魂が肉体を離れてから、死後の楽園アアルに入るまでの過程・道標を描いたもの。参照した当該ウィキによれば、『書名をラテン文字化』したものを、『日本語に直訳すると「日下出現の書」または「日のもとに出現するための呪文」となる』。「死者の書」という名称は、一八四二年に『プロイセン王国のエジプト学者、カール・リヒャルト・レプシウスがパピルス文書を』「Ägyptisches Totenbuch」(「エジプト人の死者の書」)と『名付けて出版したことで、英訳の』「Book of the Dead」などとして『知られるようになった』とある。

「狗頭猴(チノケフアルス)」漢字文字列からは、「狗の頭部を持った猿」で、エジプト神話に登場する冥界の神であるアヌビス(Anubis)の異名かと思ったが、不詳。綴りが判らん。Chinochephalus じゃ、何か学名みたいだし。以下の熊楠の言い方じゃ、アフリカにモデルになった猿がいるように書いてある。識者の御教授を乞うものである。

「古今著聞集に、文覺淸瀧川の上で猴謀つて烏を捕へ使ひ殺すを見た」巻第二十の「魚蟲禽獸」篇にある「文覺上人、高尾にて三匹の猿、烏を捕りて鵜飼を摸するを見る事」である。以下に電子化する。「新潮日本古典集成」版を参考に、恣意的に漢字を正字化した。

   *

 文覺上人、高雄興隆の比、見まはりけるに、淸瀧川のかみに、大きなる猿、兩三匹ありけるが、一つの猿、岩のうへにあふのきふして、うごかず。いま二匹は、たち退きて居たりけり。上人あやしみ思ひて、かくれて見ければ、烏一兩とびきて、この寢たる猿のかたはらに居たり。しばしばかりありて、猿の足を、つつきけり。猿、なほ、はたらかず、死にたるやうにてあれば、烏、しだいにつつきて、うへにのぼりて、目をくじらむと、しけるとき、猿、烏の足をとりて、おきあがりにけり。その時、のこりの猿二匹、いできて、ながき葛(かづら)をもちて、烏の足に、つけてけり。烏、飛びさらんとすれども、かなはず。さて、やがて河にをりて、烏をば、水になげ入れて、葛のさきをとりて、一匹は、あり、いま二匹は、河上より、魚をかりけり。人の、鵜、つかひけるをみて、魚をとらせむとしけるにや。烏を鵜につかふためし、はかなけれども、こゝろばせ、ふしぎにぞ思ひよりたりける。烏は、水になげ入られたれども、その益なくて、しにゝければ、猿どもは、うちすてて、山へいりにけり。「不思議なりし事、まのあたり見たりし。」とて、彼上人、かたりけるなり。

   *

「Tavernier, “Travels in India,” trans. Ball, 1889, vol.ii, p.294」十七世紀のフランスの宝石商人で旅行家であったジャン=バティスト・タヴェルニエ(Jean-Baptiste Tavernier 一六〇五年~一六八九年)。一六三〇年から一六六八年の間にペルシャとインドへの六回の航海を行っており、諸所の風俗を記した。その著作は、彼が熱心な観察者であり、注目に値する文化人類学者の走りであったことを示している。彼のそれらの航海の記録はベスト・セラーとなり、ドイツ語・オランダ語・イタリア語・英語に翻訳され、現代の学者も貴重な記事として、頻繁に引用している(英文の彼のウィキに拠った)。「Internet archive」で、この原本を見つけ、指示するページを見たが、載っていない。ページ数か、巻数の誤りか。

「嚴神鈔」室町時代の成立と推定される山王七社と諸末社について述べた書。「東京大学史料編纂所」公式サイト内のこちらで、「續群書類從 四十九」のそれが視認出来る。但し、写本。

「日吉山王利生記」(ひえさんのうりしょうき:現代仮名遣)は「山王絵詞」とも呼ぶが、詞書のみが伝わる。鎌倉時代、文永年間(一二六四年~一二七五年)の成立と推定される。

「鹽尻」江戸中期の国学者天野信景(さだかげ 寛文三(一六六三)年~享保一八(一七三三)年)の膨大な随筆(百七十巻以上が現存すると思われる)。元祿・宝永・正徳・享保(一六八八年~一七三六年)の約四十年間に亙って、歴史・地理・言語・文学・制度・宗教・芸術などについての見聞や感想を記したもの。国立国会図書館デジタルコレクション当該箇所が読める。ここの左丁の上段の「○伊勢國壹志郡矢野に祭る所の香良洲の……」の条で、上段その「香良洲(からす)の御前は天照大神の妹」という下りは上段後から四行目に出現する。

「古今圖書集成の邊裔典卷二八に、朝鮮史略曰、新羅東海濱有二人、夫曰迎烏、妻曰細烏、迎烏漂至日本國小島主、其妻細烏尋其夫、漂至其國、立爲妃、人以迎烏細烏爲日月之精」「古今圖書集成」(清の類書。現存する類書(百科事典)としては、中国史上最大で、巻数一万巻。正式名称は「欽定古今圖書集成」)を中國哲學書電子化計劃」の影印本で探したが、眼がチカチカしてくるばかりなので、引用ではなく、原本の「朝鮮史略(李徴朝鮮末期に成立した朝鮮穆祖から宣祖朝までの略史。作者不詳)を探したところ、「漢籍リポジトリ」のこちらにあった。[001-17b]の画像と電子化を見られたい。

「新羅の官制十七品」新羅(紀元前五七年~紀元後 九三五年)官位と職名であろう。

「ミツラ敎」ミトラ教・ミトラス教・ミスラス教とも。古代ローマで隆盛した、太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教であるが、これは、その起原は古代のインド・イランに共通するミスラ(ミトラ)神の信仰であったものが、ヘレニズムの文化交流によって地中海世界に入った後、形を変えたものと考えられることが多い。 紀元前一世紀には牡牛を屠るミトラス神が地中海世界に現われ、紀元後二世紀までには、ミトラ教としてよく知られる密儀宗教となった。ローマ帝国治下で一世紀より四世紀にかけて興隆したと考えられている。しかし、その起源や実体については不明な部分が多い(当該ウィキに拠った)。

「“Encyclopaedia Britannica,” vol.xviii, p.623Internet archive」の原本のここ

「Seyffert, “A Dictionary of Classical Antiquities,” trans., 1908, p.396」ドイツの古典哲学者でローマが専門であったオスカル・セイフェルト(Oskar Seyffert 一八四一年~一九〇六年)の著作。Internet archive」で版古いが(一八九五年)、同ページにあった。キャプションは「ミトラスの生贄」で、左上方の崖の上にカラスが確かにいる

「Frobenius, “The Childhood of Man,” 1909, pp.255-6」ドイツの在野の民族学者・考古学者で、ドイツ民族学の要人であったレオ・ヴィクトル・フロベニウス(Leo Viktor Frobenius 一八七三年~一九三八年)の英訳本「人類の幼年期」。「Internet archive」のこちらで原本の当該箇所が見られ、その下方の「241」図が「鴉死人の靈を負て太陽に送り付ける所を西北米土人が刻んだ樂器の」それだ。素敵だ! 気に入ったので、スクリーン・ショットでキャプションごと撮り、以下に掲げる。因みに、この後にも同様な魅力的なそれらの図が見られる。必見!

 

Tamasiiwookurukarasunohue

 

「ツリンキート人は最初火を持來り、光を人に與へしは烏と信ず(“Encyc. Brit.,” ii, 51)」Internet archive」の原本を確認、そこに北西アメリカの「Thlinkit indians」とあった。調べて見ると、所謂、イメージする北米インディアンよりも、アラスカに分布する人々のようである。和文記載が乏しく、よく判らない。

「ヤラ河」ヤラ川(Yarra River)はオーストラリアのビクトリア州南部を流れる川で、ヤラ・レンジズ国立公園の湿地帯に源を発し、メルボルンの中心地区を流れ、ポート・フィリップ湾のメルボルン港に注ぐ。流路延長は約二百四十二キロメートル。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。その Yarra Ranges National Park 附近のアボリジニーの伝承である。

「Smyth, “The Aborigines of Victoria,” 1878, vol.ii, pp.434, 459」オーストラリアの地質学者で、作家・社会評論家でもあったロバート・ブラフ・スミス(Robert Brough Smyth 一八三〇年~一八八九年)の作品。Internet archive」の原本の「434はここで、下方に火の伝承のことが短く記されているが、そこにはその伝説ついては、第一巻の「461」ページに指示してある(二巻の「459」ページは目録で違う)。そこで、第一巻を見ると、「458」から「火」の項があり、「459に熊楠の示した「カール、アク、アール、ウク女」(原書では「Kar-ak-ar-ook」と綴る)の名が二行目に出現する。ここだ!

「尙書中候」緯書(漢代に盛行した讖緯説を集大成した書。先秦の頃より流行していた未来を予言する讖(しん)と、陰陽五行・災異瑞祥・天人相感などの諸説によって経書を解釈しようとする緯とが結合した讖緯説は、図讖・図緯・緯候などと呼ばれて前漢末に隆盛を極めた。それが後漢の初めに至って、政権と結び付き、王莽の重んじた古文経に対抗して今文(きんぶん)学説として整理の気運が生じ、「乾鑿度」・「考霊曜」・「元命包」のように三字の編名を冠するいわゆる「緯書」が成立した。ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)の一書。散佚して、引用でしか見られない。

「蜀徼有火鴉、能銜火(本草集解)」これは李時珍の「本草綱目」の巻四十九「禽之三」の「慈烏」の「集解」の最後にある。「漢籍リポジトリ」のこちらの[114-10b]の影印画像を見られたい。

「類凾四二三」以上の三つの引用は、「漢籍リポジトリ」のこちらの「鳥部六【烏・鵲】」の「烏一」及び「烏二」にバラバラに出るものを熊楠がチョイスしてセットにしたもの。漢文を熟語の文字列でそれぞれ検索されたい。

「中山白川營中問答」「中山」は公卿議奏に任じられた中山愛親(なるちか 寛保元(一七四一)年~文化一一(一八一四)年:寛政元(一七八九)年に光格天皇が父典仁(すけひと)親王に太上(だいじょう)天皇の尊号をおくることを幕府に諮ったが、老中松平定信の反対でならなかった「尊号一件」で知られた人物。同五年に幕府の召喚を受け、一件紛糾の責任をとわれて閉門百日、議奏を解任された)で、「白川」白河公松平定信であろう。国立国会図書館デジタルコレクションに「勤王 繪本中山というのがあり(大谷信道編・明治二〇(一八八七)年広知社刊)、問答が幾つかあるが、ざっと見た限りでは、この話はないようだった。「白烏を朝廷へ獻じたのを郊外に放つと忽ち火に化し、京師火災に及んだ」というのを、幾つかの単語の組み合わせで検索したが、これもヒットしなかった。識者の御教授を乞う。

「酉陽雜俎に、烏陽物也……」この以下の文字列は、「酉陽雜俎」には見当たらない。しかし、私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」で、良安は、「三才圖會」から引用して、

   *

「三才圖會」に云はく、『鴉、異を見れば、則ち、噪(さは)ぐ。故に、人、烏の噪ぐを聞くときは、則ち唾(つばきは)く。性(せい)、樂にして空曠(くうくわう)。涎(よだれ)を傳(つた)へて孕(はら)む。烏の飛-翅(と)ぶを候(うかが)ひて、天、將に雨(あめふ)らんとするを知る。蓋し、烏は陽物なり。陰氣を感じて重(おも)し。故に、俗、此れを以つて雨を占ふ。』と。

   *

とあるのを、熊楠は勘違いしたものか?

「倭漢三才圖會に鴉鳴有還聲者……」これも「和漢三才図会」には、幾つかの項を調べたが、どこにも見当たらない。気になるのは、「鴉鳴有還聲者、謂之呼婦、主晴、無還聲者、謂之逐婦、主雨」「という支那說を引き」という熊楠の言い方が、必ずしも、引用でない点で、中文サイトの「古今圖書集成」のこちらの「論飛禽」に(活字化を参考に画像で起こした)、

   *

諺云、「鴉浴風、鵲浴雨、八八兒洗浴斷風雨。」。鳩鳴有還聲者、爲之呼婦主晴、無還聲者、爲之逐婦主雨。鵲巢低主水、高主旱。俗傳、鵲意既預知水。則云、終不使我沒殺、故意愈低、既預知旱、則云、終不使我曬殺、故意愈高。「朝野僉載」云、鵲巢近地、其年大水、海燕忽成群而來、主風雨。諺云、「烏肚雨白肚風赤、老鴉含水叫。」。雨則未晴、晴亦主雨、老鴉作此聲者亦然。鴉若叫早主雨、多人辛苦。叫晏晴、多人安閒。農作次第、夜間聽九逍遙鳥叫卜風雨。諺云、「一聲風、二聲雨、三聲四聲斷風雨。」。鸛鳥仰鳴則晴、俯鳴則雨。鵲噪早報晴明曰乾鵲。冬寒天雀群飛翅聲重必有雨雪。鬼車鳥卽是九頭蟲、夜聽其聲出入、以卜晴雨。自北而南、謂之出窠、主雨。自南而北、謂之歸窠、主晴。「古詩」云、「月黑夜深聞鬼車 吃鷦叫」。主晴。俗謂之、「賣蓑衣𪃮叫。」。諺云、「朝𪃮晴、暮𪃮雨。」。夏秋間雨陣將至、忽有白鷺飛過、雨竟不至、名曰截雨。家鷄上宿遲、主陰雨。燕巢做不乾淨、主田内草多、母鷄背負鷄鶵、謂之鷄䭾兒、主雨【𪃮字査字典不載。乃方言也。音屋字亦係俗字。】

   *

とあって、内容と対象の鳥に異同があるが、その諺に酷似する部分があることが判る。さらに、以下の「按夏月鴉浴近雨、每試然、凡將雨氣鬱蒸、故浴翅者矣」であるが、「按」は良安の自身の解説をする際の定番の謂いではあり、「自分で試してみたが、その通り。」というのも良安がよく使う謂い方なのではあるのだが、見当らないのである。調査は続行する。識者の御援助も乞いたい。

「濠州で烏初めて雨を下したと信ずる土人有り(Smyth, ii, 462)」これも第一巻の誤り。Internet archive」の原本のここ

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 野景

 

   野 景

 

弓なりにしなつた竿の先で

小魚がいつぴき ぴちぴちはねてゐる

おやぢは得意で有頂天だが

あいにく世間がしづまりかへつて

遠い牧場では

牛がよそつぽをむいてゐる。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集の「解題」の「初出形及び草稿詩篇」の「一、初出誌が判明しながら再録不能だったもの」の中に本詩集では、本篇のみが挙げられてあり、『「野景」(初出題名「晝」)(『白金帖』大正四年六月號)』とあり、初出形は載らない。しかし、同全集「草稿詩篇 蝶を夢む」には『野景(本篇原稿六種七枚)』として、一篇が挙げられている。初出形が採録出来なかったんだから、殆んど同じでも六種総てを出しゃあよかろうにと強く思うが、まあ、ともかく、それを以下に示す。標題は最初「釣竿」と書いて抹消して、「晝」である。

   *

 

  釣竿

  

 

弓のやうにまがつた竿の先で

目高が一疋ぴちぴちはねてる

おやぢはいつしよけんめいだが

(おやぢはとくいで有頂天だが)

あいにく牛でさえも界はけんがしいんとして居る→しづまりかへつてしいんとして

遠くの牧場では牛でさへも晝寢 をして居る→をしてる して居る、よそつぽをむいて居る、

 

   *

後に編者注があり(〔 〕は編者による補正)、『「幼年思慕扁〔篇〕、」「幼年詩扁〔篇〕、玩其箱ヨリ、」と附記された別稿もある。』とある。やっぱ、全部載せるべきでしょう!]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 馬車の中で

 

   馬車の中で

 

馬車の中で

私はすやすやと眠つてしまつた。

きれいな婦人よ

私をゆり起してくださるな

明るい街燈の巷をはしり

すずしい綠蔭の田舍をすぎ

いつしか海の匂ひも行手にちかくそよいでゐる。

ああ蹄の音もかつかつとして

私はうつつにうつつを追ふ

きれいな婦人よ

旅館の花ざかりなる軒にくるまで

私をゆり起してくださるな。

 

[やぶちゃん注:「靑猫」からの再録。「巷」「蹄」に「ちまた」「ひづめ」のルビがあること以外には異同はない。「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 馬車の中で」を参照されたい。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 閑雅な食慾

 

   閑雅な食慾

 

松林の中を步いて

あかるい氣分の珈琲店(かふえ)をみた

遠く市街を離れたところで

だれも訪づれてくるひとさへなく

松間の かくされた 追憶の 夢の中の珈琲店(かふえ)である。

をとめは戀々の羞をふくんで

あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組

私はゆつたりとふほくを取つて

おむれつ ふらいの類を喰べた

空には白い雲がうかんで

たいそう閑雅な食慾である。

 

[やぶちゃん注:「靑猫」からの再録。最後の三行が、

   *

おむれつ ふらいの類を喰べた。

空には白い雲がうかんで

たいさう閑雅な食慾である。

   *

と表記が異なるだけである。「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 閑雅な食慾」を見られたい。そちらで語注も施してある。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 野鼠

 

   野 鼠

 

どこに私らの幸福があるのだらう

泥土(でいど)の砂を掘れば掘るほど

悲しみはいよいよふかく湧いてくるではないか

春は幔幕のかげにゆらゆらとして

遠く俥にゆすられながら行つてしまつた。

どこに私らの戀人があるのだらう

ばうばうとした野原に立つて口笛を吹いてみても

もう永遠に空想の娘らは來やしない。

なみだによごれためるとんのづぼんをはいて

私は日傭人(ひやうとり)のやうに步いてゐる

ああもう希望もない 名譽もない 未來もない

さうしてとりかへしのつかない悔恨ばかりが

野鼠のやうに走つて行つた。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。ルビ「ひやうとり」はママ(歴史的仮名遣は「ひようとり」でよい)。「靑猫」からの再録。「坭土」を「泥土」とし、三行目及び十一行目末の句点を除去している以外に異同はない。「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 野鼠」と並べて見られたい。そちらで簡単な注を附してある。なお、私は五年前に朔太郎の個人的な半生のかなり赤裸々な告白回想である昭和一一(一九三六)年六月号『新潮』初出の「靑猫を書いた頃」を電子化注しているが、そこで本篇の一部を引用しているので、読まれんことを強くお勧めする。]

2021/12/22

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 寄生蟹のうた

 

   寄生蟹のうた

 

潮みづのつめたくながれて

貝の齒はいたみに齲ばみ酢のやうに溶けてしまつた

ああ ここにはもはや友だちもない戀もない

渚にぬれて亡靈のやうな草を見てゐる

その草の根はけむりのなかに白くかすんで

春夜のなまぬるい戀びとの吐息のやうです。

おぼろにみえる沖の方から

船びとはふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く楫の音がきこえてくる

あやしくもここの磯邊にむらがつて

むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまはる

それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹(やどかり)の幽靈ですよ。

 

[やぶちゃん注:「靑猫」から再録。「船人」が「船びと」となっている以外は異同はない。私の「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 寄生蟹のうた」でちょっと朔太郎への文句の注をしてあるので参照されたい。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 夢(とらうむ)

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 夢(とらうむ)

   (とらうむ)

 

あかるい屛風のかげにすわつて

あなたのしづかな寢息をきく。

香爐のかなしい烟のやうに

そこはかとたちまよふ

女性のやさしい匂ひをかんずる。

 

かみの毛ながきあなたのそばに

睡魔のしぜんな言葉をきく

あなたはふかい眠りにおち

わたしはあなたの夢をかんがふ

このふしぎなる情緖

影なきふかい想ひはどこへ行くのか。

 

薄暮のほの白いうれひのやうに

はるかに幽かな湖水をながめ

はるばるさみしい麓をたどつて

見しらぬ遠見の山の峠に

あなたはひとり道にまよふ 道にまよふ。

 

ああ なににあこがれもとめて

あなたはいづこへ行かうとするか

いづこへ、いづこへ、行かうとするか。

あなたの感傷は夢魔に酢えて

白菊の花のくさつたやうに

ほのかに神祕なにほひをたたふ。

 

[やぶちゃん注:「靑猫」からの再録であるが、「靑猫」では「とらうむ」のルビはなく、表記に微妙な違いがあり、さらに「靑猫」では詩篇末尾に「(とりとめもない夢の氣分とその抒情)」という添え書きがある。私の「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 夢」と別ウィンドウで並べて見られたい。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 家畜

 

   家 畜

 

花やかな月が空にのぼつた

げに大地のあかるいことは。

小さな白い羊たちよ

家の屋根の下にお這入り

しづかに淚ぐましく動物の足調子をふんで。

 

[やぶちゃん注:初出は大正七(一九一八)年一月号『詩歌』であるが、標題は「小さな行進」である。以下に示す。

   *

 

 小さな行進

 

花やかな月が空にのぼつた、

げに大地のあかるいことは、

小さな白い羊たちよ、

家の屋根の下にお這入り、

しづかに、淚ぐましく、動物の足調子をふんで。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 蟾蜍

 

   蟾 蜍

 

雨景の中で

ぽうとふくらむ蟾蜍

へんに膨大なる夢の中で

お前の思想は白くけぶる。

 

雨景の中で

ぽうと呼吸(いき)をすひこむ靈魂

妙に幽明な宇宙の中で

一つの時間は消抹され

一つの空間は擴大する。

 

[やぶちゃん注:「蟾蜍」は以下の初出でルビが振られる通り、「ひきがへる」と読む(音は「センジヨ(センジョ)」)。種や博物誌は私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」を参照されたい。

初出は大正一一(一九二二)年一月号『日本詩人』。以下に示す。「澎大」「すいこむ」はママ。

   *

 

 蟾蜍

 

雨景の中で

ぽーとふくらむ蟾蜍(ひきがへる)

へんに澎大なる夢の中で

お前の思想は白くけぶる。

 

雨景の中で

ぽーと呼吸(いき)をすいこむ靈魂

妙に幽冥な宇宙の中で

お前の時間は消抹され

お前の空間は擴大する。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 眺望

 

   眺 望

 

              旅の記念として、室生犀星に

 

さうさうたる高原である

友よ この高きに立つて眺望しやう。

僕らの人生について思惟することは

ひさしく既に轉變の憂苦をまなんだ

ここには爽快な自然があり

風は全景にながれてゐる。

瞳(め)をひらけば

瞳は追憶の情侈になづんで濡れるやうだ。

友よここに來れ

ここには高原の植物が生育し

日向に快適の思想はあたたまる。

ああ君よ

かうした情歡もひさしぶりだ。

 

[やぶちゃん注:二行目「しやう」はママ。「情侈」は「じやうし」と読むのだろうが、熟語としては「情歡」以上に見慣れない。「己の回顧感情の恣(ほしいまま)にすること」という謂いではあろう。なお、添え辞は、以下の初出から見て、前年大正一〇(一九二一)年夏七月下旬に、室生犀星に室生が避暑に馴染んでいた軽井沢から電報を寄せ、軽井沢に招かれ、ともに妙高山麓の赤倉温泉に遊んでおり、この時の遊興を指していると考えてよい。

 初出は大正十一年二月号『日本詩人』。以下に示す。

   *

 

 眺望

 

     旅の記念として、室生犀星に

 

さうさうたる高原である

友よ、この高きに立つて眺望しよう。

僕らの人生について思惟することは

ひさしく既に轉變の憂苦をまなんだ。

ここには爽快な自然があり

風は全景にこがれてゐる。

瞳(め)をひらけば

瞳(め)は追憶の情侈になづんで濡れるやうだ。

友よここに來れ

ここには高原の植物が生育し

日向な快適の思想はあたたまる。

ああ 君よ

かうした情歡もひさしぶりだ。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 海鳥 (ひょんなことから驚きの事実を発見)

 

   海 鳥

 

ある夜ふけの遠い空に

洋燈のあかり白白ともれてくるやうにしる

かなしくなりて家家の乾場をめぐり

あるひは海岸にうろつき行き

くらい夜浪のよびあげる響をきいてる。

 

しとしととふる雨にぬれて

さびしい心臟は口をひらいた

ああ かの海鳥はどこへ行つたか。

運命の暗い月夜を翔けさり

夜浪によごれた腐肉をついばみ泣きゐたりしが

ああ遠く飛翔し去つてかへらず。

 

[やぶちゃん注:「あるひは」はママ。この「乾場」は「ほしば」で、ワカメかコンブのそれであろう。私は直ちに既に友人であった北原白秋の優れた一首(第一歌集「桐の花」(大正二(一九一三)年東雲堂書店刊)の「初夏晩春」所収。白秋二十七歳。例の松下俊子との姦通罪により未決監に拘置(二週間)された翌年)、

      一九一〇暮春三崎の海邊にて

 いつしかに春の名殘となりにけり

  昆布干場(こんぶほしば)のたんぽぽの花

を想起する。因みに、北海道では昆布のそれは「干場」と書いて「かんば」と呼ぶが、朔太郎が北海道へ行ったという記憶はないので、「ほしば」でよかろう。ところが、ネットで北海道行の有無を調べていたところ、筑摩版全集の年譜にも載らない驚きの事実を見つけた。二〇一三年四月三日の「四国新聞社」の記事で、『萩原朔太郎が旧制中学卒業後の進学先として農学を志願していたことを示す資料が北海道大の文書館(札幌市)で』、三『日までに見つかった。研究者は「都会や欧州を愛し、芸術活動を志したイメージとは対照的で、非常に興味深い」と評価している』。『文書館によると、資料は』明治四〇(一九〇七)『年の東北帝国大学農科大予科(現・北海道大)の志願者名簿で、朔太郎の名前や出身中学などの記載があった。文書館の職員が昨年』二『月、保管していた過去の志願者名簿などを調べていた際に』、『偶然』、『見つけた』。『名簿には入試を欠席したことを示す印も付けられていた』とあって、小さいが、その志願者名簿の写真(北海道大文書館提供)が載り、「前橋」「萩原朔太郎」の姓名が確認出来る。当時、朔太郎は数え二十二(志願時は満二十歳)で、この年の七月に高等学校入学試験を受験したが、志望校未記入であったため、熊本の五高の合格扱いとなった(翌年七月第一学年を落第し、同月、岡山の六高を受験して合格(九月八日附で志願変更で五高を退学)したが、翌明治四十二年七月に性懲りもなく六高第一学年をまたしても落第、結局、翌明治四十三年四月に慶応義塾大学部予科一年に入学したものの、理由不明であるが、同月中に退学している。これが彼の最終学歴である。彼が一瞬なりとも、農学を志したというのは、かなり驚きである。これは当時は相応の記事になったのであろうが、私は十四年前に早期退職して以来、まず、滅多に新聞は読まないし、ネット上の新聞記事も余程のことがないと、読まない。皆さん、ご存知であれば、悪しからず。

 「一九一〇暮春三崎の海辺にて」と初出は大正一一(一九二二)年七月号『日本詩人』。以下に示す。「あるひは」「うらつき行き」(後者は原稿の誤記か誤判読か誤植)はママ。

   *

 

 海鳥

 

ある夜ふけの遠い空に

洋燈(らんぷ)のあかり白白ともれてくるやうにしる。

かなしくなりて家家の乾場をめぐり

あるひは海岸にうらつき行き

くらい夜浪のよびあげる響をきいてる。

 

しとしととふる雨にぬれて

さびしい心臟は口をひらいた

ああ かの海鳥はどこへ行つたか。

運命の暗い月夜を翔けさり

夜浪によごれた腐肉をついばみ泣きゐたりしが

ああ遠く飛翔し去つてかへらず。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 石竹と靑猫 (ちょっと筑摩版全集を批判した)

 

   石竹と靑猫

 

みどりの石竹の花のかげに ひとつの幻の屍體は眠る

その黑髮は床にながれて

手足は力なく投げだされ 寢臺の上にあほむいてゐる。

この密室の幕のかげを。

ひそかに音もなくしのんでくる ひとつの靑ざめたふしぎの情慾

そはむしかへす麝香になやみ

くるしく はづかしく なまめかしき思ひのかぎりをしる。

ああいま春の夜の灯かげにちかく

うれしくも死蠟のからだを嗅ぎてもてあそぶ

やさしいくちびるに油をぬりつけ すべすべとした白い肢體をもてあそぶ。

そはひとつのさびしい靑猫

君よ夢魔におびえて このかなしい戯れをとがめたまふな。

 

[やぶちゃん注:三行目「あほむいて」はママ。無論、筑摩版全集本文は「あふむいて」と消毒している。後の「底本 靑猫」でも「あほむいて」は頑固にママであるが、行末句点は除去している(これは再録に際して確認した朔太郎が除去したのだとすれば、偏執的な彼はあくまで「あふむいて」という自己だけの慣用表現に拘ったということを意味していると断言してよい)。

 四行目末の句点は、同本文では除去されている。同全集の「校異 蝶を夢む」を見ると、清書原稿に句点がないとあるので、こちらの方は、まず、詩篇の流れからも、その校訂本文に於いては正当な校訂行為と言えるとは言えるであろう。以下に示す初出でも句点はない。

 最終行「戯」の字体はママ。筑摩版全集は「戲」とする。「戯」は「戲」の略字であるから仕方ないと言えばそれまでだが、著者自身の編集になる「萩原朔太郞詩集」(昭和三(一九二八)年第一書房刊)及び「現代詩人全集」第九巻(昭和四年新潮社刊)では「戲」であるものの、萩原朔太郎が完全決定版と述べた「底本 靑猫」(昭和十一年版畫社刊)では、「戯」なのである。ご存知の通り、「底本 靑猫」には最後に囲み記事で「卷尾に」として、萩原朔太郎自身が(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の初版原本の当該ページに拠った。冒頭の「二つの書の」は現在、筑摩版全集では『この書の』に書き換えられている)、

   *

       卷 尾 に

 二つの書の中にある詩篇は、初版「靑猫」を始め、新潮社版の「蝶を夢む」第一書房版の「萩原朔太郞詩集」その他既刊の詩集中にも散在し、夫々少し宛詩句や組方を異にしてゐるが、この「定本」のものが本當であり、流布本に於ける誤植一切を訂正し、併せてその未熟個所を定則に改定した。よつて此等の詩篇によつて、私を批判しようとする人々や、他の選集に拔粹しようとする人々は、今後すべて必ずこの「定本」によつてもらひたい。

               著  者

   *

と述べているのを、萩原朔太郎という沃野に「テツテ」的に強力な殺菌・殺ウイルス剤を散布して平然としている筑摩版全集の編者らは、一体全体、どう考えているのであろうと、ふと、私は思うのである。

「石竹」ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensis 。初夏に紅・白色などの五弁花を咲かせる。葉が竹に似ていることが名の由来とされる。中国原産。

「麝香」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。

「死蠟」adipocere(アディパウスィア)であるが、正しくは「屍蠟」である(筑摩版全集校訂本文では「屍蠟」に強制消毒されている)。死体が水中や湿潤な土中に置かれた場合、空気が遮断された状態に於いて諸条件が揃うと生ずる異常死体現象。死蠟の内、軟らかいものは、腐ったチーズ様を、硬いものは脆い石膏様を呈し、孰れも腐敗臭ではなく、黴臭いとされる。完全に十全に変質した死蠟は、水に浮き、水に不溶で、大部分はエーテルやアルコールに溶け、加熱すると、溶解して蠟のような性状をとるため、この名称が付けられてある。通常、皮下脂肪は二、三ヶ月で死蠟化し、深部組織は四、五ヶ月、全身の死蠟化には二、三年を要する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

 初出は大正一一(一九二二)年七月号『日本詩人』であるが、標題は「屍蠟と靑猫」である。以下に示す。九行目「屍臘」はママ。

   *

 

 屍蠟と靑猫

 

みどりの石竹の花のかげに ひとつの幻の屍體は眠る

その黑髮は床にながれて

手足は力なく投げだされ 寢臺の上にあほむいてゐる。

この密室の幕のかげを

ひそかに音もなくしのんでくる ひとつの靑ざめたふしぎな情慾

そはむしかへす麝香になやみ

くるしく はづかしく なまめかしき思ひのかぎりをしる。

ああ いま春の夜の灯かげにちかく

うれしくも屍臘のからだを嗅ぎてもてあそぶ

やさしいくちびるに油をぬりつけ すべすべとした白い肢體をもてあそぶ。

そはひとつのさびしい靑猫。

君よ夢魔におびえて このかなしい戯むれをとがめたまふな。

 

   *

筑摩書房編者よ、「この」苛立たしい「かなしい戯むれを」……「とがめたまふな」……。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 黑い蝙蝠 (筑摩版全集の初出表記への不審有り)

 

   黑 い 蝙 蝠

 

わたしの憂鬱は羽ばたきながら

ひらひらと部屋中を飛んでゐるのです。

ああなんといふ幻覺だらう

とりとめもない怠惰な日和が さびしい淚をながしてゐる。

もう追憶の船は港をさり

やさしい戀人の捲毛もさらさらに乾いてしまつた

草場に昆蟲のひげはふるへて

季節は亡靈のやうにほの白くすぎてゆくのです。

ああ私はなにも見ない。

せめては片戀の娘たちよ

おぼろにかすむ墓場の空から 夕風のやさしい歌をうたつておくれ。

 

[やぶちゃん注:初出は大正一一(一九二二)年七月号『日本詩人』。以下に示す。「だろう」「ふるゑて」はママ。

   *

 

 黑い蝙蝠

 

わたしの憂鬱は羽ばたきながら

ひらひらと部屋中を飛んでゐるのです。

ああなんといふ幻覺だろう

とりとめもない怠惰な日和が さびしい淚をながしてゐる。

もう追憶の船は港をさり

やさしい戀人の捲毛(まきげ)もさらさらに乾いてしまつた

草場に昆蟲のひげはふるゑて

季節は亡靈のやうにほの白くすぎてゆくのです。

ああ 私はなにも見ない

私は美の酒盃(さかづき)をすて 虛無のせうぜうたる洞窟へかくれてしまつた。

せめては片戀の娘たちよ

おぼろにかすむ墓場の空から 夕風のやさしい歌をうたつておくれ。

 

   *

以上をタイピングしながら、珍しく、最早、絶対的権威として君臨している筑摩版「萩原朔太郞全集」で示された初出形の掲載には、不審を抱いた。「せうぜうたる」である。この「ぜ」に同全集編者は誤字の傍点「・」を打っていない。ここで「私」は、巷間の燦爛たる歓楽を捨て去り――もの寂しいひっそりとした――虚無の絶対の孤独の洞窟(グロッタ)の中へと隠れてしまった、のである。この意味の「せうぜう」に真っ先に相応しいのは「蕭條」(蕭条)であろう。しかし、この「蕭條」の歴史的仮名遣は「せうでう」である(現代仮名遣は「しょうじょう」)。或いは『同じ意味の「蕭蕭」だろ?』と言われるかも知れぬが、それは違う。何故なら、「蕭蕭」の歴史的仮名遣は「せうせう」であり(現代仮名遣は「しょうじょう」)、これは「せうぜう」と濁音化することはないからである(少なくとも私は、過去、濁点を打った読みを見たことはない)。私は朔太郎は前者の「蕭條(せうでう)」を彼にありがちな誤用で「せうぜう」としてしまったものと見る(想起されるイメージと表現方法からは「蕭蕭たる洞窟」というのは、しっくりこず、朔太郎でも使わない気がするのである)。とすれば、絶対消毒規定で校訂本文を「テツテ的」に無菌化している同全集の絶対規定からは、この「ぜ」には誤字を指弾する「・」が、なくてはならないのである。]

2021/12/21

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 春の芽生

 

   春 の 芽 生

 

私は私の腐蝕した肉體にさよならをした

そしてあたらしくできあがつた胴體からは

あたらしい手足の芽生が生えた

それらはじつにちつぽけな

あるかないかも知れないぐらゐの芽生の子供たちだ

それがこんな麗らかの春の日になり

からだ中でぴよぴよと鳴いてゐる

かはいらしい手足の芽生たちが

さよなら、さよなら、さよなら、と言つてゐる。

おおいとしげな私の新芽よ

はちきれる細胞よ

いま過去のいつさいのものに別れを告げ

ずゐぶん愉快になり

太陽のきらきらする芝生の上で

なまあたらしい人間の皮膚の上で

てんでに春のぽるかを踊るときだ。

 

[やぶちゃん注:「ぽるか」ポルカ(チェコ語:polka/英語:polka/フランス語:polka)は、十九世紀後半に流行した四分の二拍子の活発な舞曲。各小節の第三番目の八分音符が強調される。名称はチェコ語の「polska」(「ポーランド娘」の意)に由来するとされる。起源は不明だが、一八三七年にプラハで登場して以来、直ちに世界中に広まり、舞踏会やダンス・ホールに欠かせない存在となった。ヨハン・シュトラウス父子は、ワルツのほかにも多数のポルカを書いており、スメタナは、オペラ「売られた花嫁」(一八六六年初演)の他、さまざまな作品に、この舞曲のリズムを取り入れたことで知られている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

 本篇の初出は大正四(一九一五)年四月発行の『卓上噴水』で、初出では「春」と題されている。筑摩版全集で以下に示す。「ぐらひ」「子供だち」「ずいぶん」はママ。

   *

 

 

 

私は私の腐蝕した肉體にさよならをした

そして新しく出來あがつた胴體からは

あたらしい手足の芽生が生えた

それらは實にちつぽけな

あるかないかも知れないぐらひの芽生の子供だちだ

それがこんな麗らかの春の日になり

からだ中でぴよぴよと鳴いてゐる

可愛らしい手足の芽生たちが

さよなら

さよなら

さよなら

と言つてゐる

おお いとしげな私の新生よ

はぢきれる細胞よ

いまいつさいのものに別れをつげ

ずいぶん愉快になり

きらきらする芝生のうへで

生あたらしい人間の皮膚のうへで

てんでに春のポルカを踊る時だ。

          三月十七日

 

   *

同全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」には『本篇原稿六種六枚』とあり、二種が掲げられてある。同全集では四種を重要と判断せず、掲載していないことになる。以下、二種(孰れも無題)を以下に示す。二篇とも歴史的仮名遣の誤りや誤字(「健設」「らいまちす」など)・脱字はママである。

   *

 

  

 

私は私の肉體にさよならをした

ふりすてゝ顧り見ない過去の腐蝕した肉體に

そうして新らしい胴體からはく健設した胴體から

新らしい手足が生えたの芽生がはえた

新らしい指の芽生がはえた

それはほんのそれはじつにちつぽけ

あるかないかもわからないぐらいの芽生であるの子供たちだ、

それがこんな麗らかの春の日にすら

からだ中でぴよぴよ鳴いて居る

可愛らしい手足の芽生たちが

さよなら

さよなら

さよならといつて居る、

おおいとしげな私の新生よ

ちよいと空をごらん

太陽がくるりくるりとまわて居る、

からだ中が球のやうに

春の芝生を

いつさいのものに別れをつげ

うらゝかのきらきらする芝生の上で

みんな春のポルカをおどるのだ

 

[やぶちゃん注:「顧り見ない」はママ。以下の別稿も同じ。]

 

 

  

 

私は私の肉體にさよならをした、

ふりすてゝ顧り見ない 腐蝕 過去の肉體、

腐蝕した 過去の→らいまちすの 過去の肉體の上に別れは墓場の中で光つて居る、

らうまちすの羊みたいな奴に要はないのだ過去と告別した

お前は→を「時」の墓場の下で光つておいで、

そして見給へ新らしく出來あがつた胴體からは

新らしい手足の芽生がはえた

それはまだじつにちつぽけな

あるかないかわからないぐらいの芽生の子供たちだ

それがこんな麗らかの春の日になり

からだ中でぴよぴよ鳴いて居る

可愛いらしい手足の芽生たちが

さよなら

さよなら

さよならといつて居る

おおいとしげな私の肉體→細胞新生よ

はぢきれる細胞よ

いまはいつさいのものに別れをつげ

ずいぶん愉快になり

きらきらする春の芝生のうへで

私のいきいきした生あたらしい人體の皮膚の上で

てんでにみんな春のポルカを踊るのだ、

 

   *

なお、筑摩版全集第三卷の『草稿詩篇「補遺」』の「斷片」パートに、

   *

   ○

私の私の腐れきつた紳經にさよならをした、

そして新しく出

   *

とあるのは(「私の私の」のくり返し及び「紳」の誤字はママ)、本稿冒頭部分に他ならない。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(4)

 

 コランド、プランチー(上に引いた書、一四三頁[やぶちゃん注:「一四三頁」は原書のページであろう。「二」の(2)』の「Collin de Plancy, “Dictionnaire infernal,” Bruxelles, 1845, p.347」の私の注を参照。])は、古希臘の詩聖ヘシオドスの言を引いて、人の極壽は九十七歲なるに、烏は八百六十四歲、鴉は其三倍卽ち二千五百九十二歲生きると述べた。印度にも烏鴉を長壽としたは、法華文句に文珠問經を引いて八憍を八鳥に比せるに、壽命憍如烏、烏命長不死[やぶちゃん注:「壽命憍(じゆみやうきよう)は烏のごとし、烏、命長くして、死せず。」。]、烏は死なぬ物と信じたのだ。五雜俎に舊說烏性極壽、三鹿死後、能倒一松、三松死後、能倒一烏、而世反惡之何也[やぶちゃん注:「舊說に、烏の性、極めて壽(いのちなが)し。三鹿(さんろく)死して後、能く一松(いつしやう)を倒し、三松、死して後、能く一烏を倒す。而るに、世、反(かへ)つて之れを惡(にく)むは何ぞや。」。]。抱朴子に丹を牛肉に和(ま)ぜて未だ毛羽を生ぜぬ烏に呑ませると成長して毛羽皆赤し、其を殺し陰乾(かげぼし)にし擣(つき)服(の)む事百日すると五百歲の壽を得と載せたのも、烏極めて壽(いのちなが)しちう俗傳から割り出したのぢやろ。蘇格蘭(スコツトランド)の古諺にも、「犬の命三つ合せて馬の命、馬の命三つ合わせて人の命」、其から鹿鷲檞[やぶちゃん注:「かしは」。]と三倍宛で進み增す。是には烏は無いが東西共に鹿を壽(いのちなが)い物とする證には立つ。又人が馬と鹿の間にあるも面白い(John Scoffern, “Stray Leaves of Science and Folk-Lore,”  1870, p.462)。予は烏を畜(か)うた事無いが、屢ば烏を銃つた[やぶちゃん注:「うつた」。]のを見ると、頭腦に丸が入つて居ても半日や一日は生き居り、甚だしきは吾輩が獲物の雉で例の强者(つはもの)の交りを始め、玉山傾倒に臨んで烏でもいゝからモー一升などと見に行くと、苦勞墨繪(くろうすみゑ)のと洒落(しやれ)て飛び去つた跡で、折角の興も醒めた事が數囘ある。何しろ非常に生力の强いものだから、隨分長生もさしやんせう。然し八百歲の二千五百歲のなどは大法螺で、Gurney, “On the Comparative Ages to which Birds Live,” Ibis, 1899, p.19 に、鳥類の命數を實査報告せるを見ると、天鵞(はくてう)と鸚哥(いんこ)は八十歲以上、鴉と梟は八十に足らず、鷲と鷹は百年以上、駝鳥は體大きい割に夭(わかじに)で最高齡が五十歲と有る。兎に角壽命が短かゝらず妙に死人の在處へ飛んで來るより、衆望歸仰する英雄が烏と成つて永存するてふ迷信も間(まゝ)在る。英國の一部でアーサー王鴉と成つて現在すと信じ(Cox, op.cit., p.71)、獨逸の傳說フレデリク、バルバロツサ帝の山陵上を烏が飛廻る間は帝再び起きずと云ひ(Gubernatis, vol.ii, p.235)、フキニステラの民は其王グラロン娘ダフツト俱に鴉に化つて現存すと傳ふ(Collin de Plancy, p.143)。

[やぶちゃん注:「八憍」の「憍」は仏教で言う煩悩の一つである「驕」の正字。「法華文句」第六に載り、「オンライン版仏教辞典」のこちらの「憍」によれば、『心所(心のはたらき)の一つ。自己に属するものについて自らの心のおごりたかぶること。倶舎宗では、小随煩悩地法の一つ。唯識宗では、小随煩悩の一つに数える〔他に対して心のおごりたかぶるのは慢という〕。』とし、その名数として、盛壮憍(元気盛んなことの誇り)・姓憍(血統の勝れていることの誇り)・富憍・自在憍(自由の誇り)・寿命憍(長寿の誇り)・聡明憍・行善憍(善行の誇り)・色憍(容貌の誇り)を挙げている。

「John Scoffern, “Stray Leaves of Science and Folk-Lore,”  1870, p.462)」ジョン・スコッファーン(一八一四年~一八八二年)はイギリスの外科医で、ポピュラー・サイエンスの著作をものしている作家でもあった。「科学と民間伝承の落ち葉籠」(或いは「飛花落葉集」)とでも訳すか。Internet archive」で原本の当該箇所が視認出来る

「Gurney, “On the Comparative Ages to which Birds Live,” Ibis, 1899, p.19」ジョン・ヘンリー・ガーニー・ジュニア(一八四八年~一九二二年)はイギリスの鳥類学者。父も政治家であったが、鳥類学者としての方がよく知られていた。「鳥類の寿命の比較年齢について」か。

 「Cox, op.cit., p.71」『「二」の(2)』参照。熊楠の指示するのは、Internet archive」の当該原本のここ

「獨逸の傳說フレデリク、バルバロツサ帝の山陵上を烏が飛廻る間は帝再び起きずと云ひ(Gubernatis, vol.ii, p.235)本篇で既出既注のコォウト・アンジェロ・デ・グベルナティスの「動物に関する神話学」。選集もこのページ数であるが、調べたところ、どうも違う。名前の「Frederic Barbarossa(中世の神聖ローマ皇帝フリードリヒⅠ世(Friedrich I. 一一二二年~一一九〇年)でフル・テクストを検索したところ、「253」ページの誤りであることが判明した。「Internet archive」の第二巻原本の当該部はここの下部の注がそれである。]

「フキニステラ」選集では『フィキニステラ』。不詳。

「王グラロン」「娘ダフツト」不詳。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 その襟足は魚である

 

   その襟足は魚である

 

ふかい谷間からおよぎあがる魚類のやうで

いつもしつとり濡れて靑ざめてゐるながい襟足

すべすべと磨きあげた大理石の柱のやうで

まつすぐでまつ白で

それでゐて恥かしがりの襟足

このなよなよとした襟くびのみだらな曲線

いつもおしろいで塗りあげたすてきな建築

そのおしろいのねばねばと肌にねばりつく魚の感覺

またその魚類の半襟のなかでおよいでゐるありさまはどうです

ああこのなまめかしい直線のもつふしぎな誘惑

そのぬらぬらとした魚類の音樂にはたえられない

あはれ身を藻草のたぐひとなし

はやくこの奇異なる建築の柱にねばりつきたい

はやく はやく この解きがたい夢の Nymph に身をまかせて。

 

[やぶちゃん注:初出は大正六(一九一七)年十二月発行の『詩篇』で、標題は「その襟足は魚類である」である。表記上の変化が細部に見られる。以下に示す。添え辞の「てい」はママ(転倒誤植)。

   *

 

 その襟足は魚類である

    「最も美しきものの各部分に就てい」

    その二

 

ふかい谷間からおよぎあがる魚類のやうで、

いつもしつとり濡れて靑ざめてゐるながい襟足、

すべすべと磨きあげた大理石の柱のやうで、

まつすぐでまつ白で、

それでゐて恥かしがりの襟足、

このなよなよとした襟くびのみだらな曲線、

いつもおしろいで塗りあげたすてきな建築、

そのおしろいのねばねばと肌にねばりつく魚の感覺、

またその魚類の半襟の中でおよいでゐるありさまはどうです、

ああ このなまめかしい直線のもつふしぎな誘惑、

そのぬらぬらとした魚類の音樂にはたえられない、

あはれ身を藻ぐさのたぐひとなし、

はやくはやくこの奇怪なる建築の柱にねばりつきたい、

はやくはやくこの解きがたき夢の NYMPH に身をまかせて。

 

   *

また、筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」には、本篇の草稿が載る。以下に示す。太字は底本では傍点「ヽ」。歴史的仮名遣の誤りや誤字(「誘惑」の誤字と思われる「透惑」)は総てママ。□は底本の判読不能字。

   *

 

  その襟くびはその襟足は魚類である

 

その足は

その襟くび

その鼻は 音樂 宗敎である、

そこには不思議な祕密がある、

かぎりなき影

その襟足は魚である

ふかい間から浮び泳ぎあがつた魚類のやうで

くいつも靑ざめてしつとりと水にぬれてゐる その ながい襟 くび

すべすべとする

いつもしつとりとしてぬれて靑ざめてゐるながい襟足

ねばねばしてねばり

すべすべとみがきあげた大理石の柱のやうで

まつすぐで、堂々としてまつしろで、ゴーマンでそれでゐて恥かしがりの襟足

なよなよとしたえりくびの曲線みだらな曲線、

いつもおしろひで優美にぬりあげたすてきな直線→藝術建築、

そのおしろひのねばねばとねばる肌の肌にねばりつく魚のやうな音樂

またそのえりくびの→藝術魚るゐの半襟の中でおよいでゐるありさまはどうです、

そこへ吸ひつきたい

みる人の心を吸ひつける不思議な

うつむいて半襟の内へ うづくまるくすぐつたひくびすじ かくれるくすぐつたい襟筋

ああしつとりと汗や油にぬれてゐる魚の肌の

その半襟の うちぶところに 中でおよいでゐるありさまはどうだ、

ああ、なんといふこのあやしげなる女の肌の→直線の→肌の 陰影の魔術は人の心肉の魔術はみる人の心をくるしめなやます、

れからだをもぐさとなし

ああ早くその肌にねばりつきたい、

ああ早くそのきれいな皮膚にぴつたりと吸ひつきたい、

このなまめかしいもぐさ直線のもつ不思議な透惑→恐ろしい不思ギな透惑

その不思議なその靑ざめた 魚→透惑 色情ぬらぬらとした音樂のよろこび魚るゐの音樂にはたえられない

このかぎりなく 美しい→不思議なる 美しいものの透惑

かぎりなくああ早く早くもぐさのたぐひとなりこの奇怪なる建築のもつ限りなく美しい夢の中に、美しい夢の中に窓を□□めて、柱にねばりつきたい

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 その手は菓子である

 

  その手は菓子である

 

そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ

そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ

指なんかはまことにほつそりとしてしながよく

まるでちひさな靑い魚類のやうで

やさしくそよそよとうごいてゐる樣子はたまらない

ああその手の上に接吻がしたい

そつくりと口にあてて喰べてしまひたい

なんといふすつきりとした指先のまるみだらう

指と指との谷間に咲く このふしぎなる花の風情はどうだ。

その匂ひは麝香のやうで 薄く汗ばんだ桃の花のやうにみえる。

かくばかりも麗はしくみがきあげた女性の指

すつぽりとしたまつ白のほそながい指

ぴあのの鍵盤をたたく指

針をもて絹をぬふ仕事の指

愛をもとめる肩によりそひながら

わけても感じやすい皮膚の上に

かるく爪先をふれ

かるく爪でひつかき

かるくしつかりと押へつけるやうにする指のはたらき

そのぶるぶるとみぶるひをする愛のよろこび

はげしく狡猾にくすぐる指

おすましで意地惡のひとさし指

卑怯で快活な小指のいたづら

親指の肥え太つた美しさとその暴虐なる野蠻性。

ああ そのすべすべとみがきあげたいつぽんの指をおしいただき

すつぽりと口にふくんでしやぶつてゐたい いつまでたつてもしやぶつてゐたい。

その手の甲はわつぷるのふくらみで

その手の指は氷砂糖のつめたい食慾

ああ この食慾

子供のやうに意地のきたない無智の食慾。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。詩集「靑猫」からの再録。表記上の小さな変更(「親指の肌へ太つた」の誤りの修正、「しな」の傍点除去や「皮膚のうへに」の「うへ」の漢字化、「そのぶるぶるとみぶるひをする愛のよろこび はげしく狡猾にくすぐる指」の分離など)があるのみである。私の「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) その手は菓子である」と比較されたい。そちらに初出形も示してある。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 灰色の道

 

   灰 色 の 道

 

日暮れになつて散步する道

ひとり私のうなだれて行く

あまりにさびしく灰色なる空の下によこたふ道

あはれこのごろの夢の中なるまづしき乙女

その乙女のすがたを戀する心にあゆむ

その乙女は薄黃色なる長き肩掛けを身にまとひて

肩などはほつそりとやつれて哀れにみえる

ああこのさびしく灰色なる空の下で

私たちの心はまづしく語り 草ばなの露にぬれておもたく寄りそふ。

戀びとよ

あの遠い空の雷鳴をあなたは聽くか

かしこの空にひるがへる波浪の響にも耳をかたむけたまふか。

 

戀びとよ

このうす暗い冬の日の道邊に立つて

私の手には菊のすえたる匂ひがする

わびしい病鬱のにほひがする。

ああげにたへがたくもみじめなる私の過去よ

ながいながい孤獨の影よ

いまこの並木ある冬の日の街路をこえて

わたしは遠い白日の墓場をながめる

ゆうべの夢のほのかなる名殘をかぎて

さびしいありあけの山の端をみる。

戀びとよ 戀びとよ。

 

戀びとよ

物言はぬ夢のなかなるまづしい乙女よ

いつもふたりでぴつたりとかたく寄りそひながら

おまへのふしぎな麝香のにほひを感じながら

さうして霧のふかい谷間の墓をたづねて行かうね。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集によれば、初出形は大正七(一九一八)年一月号『詩歌』の「重たい書物を抱へて步む道」であるが、烈しく異なっている。以下に示す。「厭生」(まあ、「厭世」があるのだから、これもよかろうか)、「たえがたく」の「え」、「みぢめ」の「ぢ」はママ。「PAGE」は総て横書き。なお、本篇決定稿には清書原稿があるのであるが、そこでは「孤獨の道」となっており、後から題名を変更したことが判る。

   *

 

 重たい書物を抱へて步む道

 

日暮れになつて散步する道、

よく手入れをした美しい並木の道道、

ひとり私のうなだれて步いて行く、

あまりに寂しく灰色なる空の下によこたふ道。

あはれこのごろの夢の中なるまづしき少女、

その少女の姿を戀する心にあゆむ、

その少女は薄黃色なるながき肩掛を身にまとひて、

肩などはほつそりとやつれてあはれにみえる、

ああこの寂しく灰色なる空の下に、

私たち二人の心はまづしく語り、草ばなの露にぬれて重たく寄りそふ。

戀びとよ、

あの遠い空の雷鳴をあなたはきくか、

かしこの空にひるがへる浪浪のひびきにも耳をかたむけたまふか。

戀びとよ、

この薄暗い冬の日の道べにたちて、

私の手には重たい厭生の書物をかかへてゐる、

みたまへ、

ここのPAGEには菊のすえたるにほひをかぎ、

ここのPAGEには病みたる心靈の光をみる、

そしてこのうすいみどり色のPAGE,  PAGEには

風にふかれる葉つぱのやうにちつてしまつた、

ああ げにたえがたくもみぢめなる私の過去よ、

ながいながい孤獨の影よ、

いまこの美しい並木ある冬の目の街路をこえて、

私は遠い憂愁の墓塲をながめる、

ゆうべの夢のほのかなる名殘をかぎて、

さびしいありあけの山の端をみる、

戀びとよ、戀びとよ、

もの言はぬ夢の中なるまづしい少女よ、

いつも私はひとりで歩み、

ひとりでかんがへ、

ひとりでかなしみ、

私の白い墓塲のかげに座つてお前のくるのを待ちたいのだ

このごろの夢によくみる、

よにもしたしげな、そして力のない愛憐の微笑をかぎながら。

 

   *

初出形は典型的な「エレナ」詩篇の一つとして読め、朔太郎の中の幻しのエレナ喪失のトラウマは初出形の方が遙かに濃厚濃密であり、個人的には初出形を推すものである。]

2021/12/20

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(3)

 

 淵鑑類凾四二三に、俗云鴛交頸而感烏傳涎而孕。[やぶちゃん注:「俗に云ふ、『鴛(をしどり)は頸を交へて感じ、烏は涎(よだれ)を傳へて孕む。』と」。]。プリニウスの博物志にも、世に鴉は嘴(くちばし)もて交はる故に、其卵を食つた婦人は口から產すると云ふ。アリストテレス是を駁して、鴉が鳩同樣雌雄相愛して口を接するを誤認したのだと言つたと有る。熊楠屢烏の雌雄相愛して口を接するを見る。又自宅に龜を十六疋畜(かひ)有るが、發情の時雄が雌に對して啄き始めると雌も啄き返す。喙衝き到るを避けては啄き、啄かれては避ける事、取組前の力士の氣合を見る如し。交會は水中でするを、龍動(ろんどん)の動物園で一度見た。予の庭のなどは泥水故決して見えぬ。斯る處を誤認したと見えて、化書(類凾四四〇所引)に牝牡之道、龜々相顧神交也[やぶちゃん注:「牝牡(ひんぼ)の道、龜と龜の相顧みるは神交するなり。」。]と載す。又佛經に接吻を鳴と書いた處多い。例せば根本說一切有部毘奈耶三九に、鄔陀夷覩童女、顏容姿媚、遂起染心、卽摩觸彼身、嗚唼其口[やぶちゃん注:「大蔵経テキストデータベース」で確認。確かに、「嗚唼」である。「鄔陀夷(うだい)、彼(か)の童女の顏容(かんばせ)姿媚(あでや)かなるを覩(み)て、遂に染心(ぜんしん)を起こし、卽ち彼(か)の身(からだ)を摩(な)で觸(さは)り、其の口を嗚唼(をしやう)す」。「嗚唼」は「接吻」のこと。]。四分律藏四九に、時有比丘尼、在白衣家内住、見他夫主、共婦嗚口、捫摸身體、捉捺乳[やぶちゃん注:「大蔵経テキストデータベース」で確認。確かに、「嗚」である。「時に比丘尼有り、白衣(びやくえ)の家内に在りて住み、他(ほか)の夫主の、婦と共に、口を嗚(お)し、身體(からだ)を捫(な)で摸(さは)り、乳を捉みて捺(お)すを見たり。」。とある中文サイトで、この「四分律藏」の当該部分を引用し、『「嗚」字是中國人最早用來形容「接吻」的一個專門性的動詞』と記してあった。]。康煕字典、嗚の字に接吻の義を示さぬが、想ふに烏は雌雄しばしば口を接して愛を示すから、譯經者が烏と口とより成る嗚の一字で接吻を表はしたのだろ。是はさして本篇に係らぬが近來の大發明故洩し置く。扨プリニウス曰く、諸鳥の中、烏(コルニクス)ばかりが、其子飛び始めて後暫く之を哺ふ[やぶちゃん注:「やしなふ」。]。鴉(コルヴス)は子が稍や長ずれば逼つて飛去しむと。本邦の烏屬中にも稍長じた子を追ふのと哺ふのと有りや。閑多き人の精査を冀ふ[やぶちゃん注:「ねがふ」。]。甲子夜話二三に出た平戶安滿嶽の神鴉、常に雌雄一雙にて年々子に跡を讓り去るとは、鴉の本種「わたりがらす」だらう。こんな事から反哺の孝など云出したんだろ。本草に、烏、此鳥初生、母哺之六十日、長則反哺六十日、可謂慈孝矣[やぶちゃん注:「烏、此の鳥、初めて生まるるや、母、之れを哺ふこと六十日、長ずれば、則ち、反哺(はんぽ)すること、六十日、慈孝と謂ふべし。」。]、慈烏孝烏の名これより出づと有る。自分[やぶちゃん注:「おのづと」と訓じておく。]飛びうるまで羽生えたるに、依然親の臑囓(すねかぢ)りをしおるのを反哺の孝とは大間違ひだ。又思ふに和漢ともに產するコルヴス、パスチナトル(みやまがらす)は、年長ずれば顏の毛禿落ちて灰白く、其痕遠く望み得る。其が子と同棲するを見て子が親に反哺すと言出したのか。其樣な法螺話は西洋にも有つて、Southey, op. cit., 4th Ser., p.109 に、一三六〇年(正平十五年)フランシスカン僧バーテルミウ、グラントヴィルが筆した物を引いて云く、烏老いて羽毛禿落ち裸となれば、其子等自分の羽以て他を被ひ肉を集め來て哺ふ云々と。是は支那の禮記の句などを聞傳へたのか、其よりは多分北アフリカの禿鵰(ヴルチユール)の咄を聽いて、烏と同じく腐肉を食ひ熱國で掃除の大功有る物故烏と誤認したのであらう。Leo Africanus, “Descrizione dell’ Affrica” in Ramusio, “Navigationi Viaggi,” Venetia, 1588, tom. i, fol. 94D. に、禿鵰年老いて頭の羽毛落竭して剃つた如し。巢にばかり籠り居るを其子等之を哺ふと聞いたと記す。記者はグラントヴヰルより百年以上後の人だが、禿鵰反哺の話は以前から行はれた物だらう。予熱地で禿鵰を多く見たるに、鷲鷹の類ながら動作烏に似た事多し。之に較[やぶちゃん注:「やや」。]似たは Sir Thomas Browne(十七世紀の人)の“Pseudodoxia,” bk. v. ch, I や Thomas Wright の“Popular Treatises on Science,” 1841, pp. 115-6 に、中世歐州の俗信に、鵜鶘(ペリカン)自分の胸を喙き裂いて血を出し、其愛兒に哺(くは)すと云つた。注者ウヰルキン謂く、是は此鳥頷下なる大嗉囊(おほのどぶくろ)に魚多く食蓄へ、子に哺さんとて嗉嚢を胸に押付て吐出すを、自ら胸を破ると想うた謬說ぢやと。類凾に、瑞應圖曰、烏至孝之應、異苑曰、東陽顏烏、以純孝著聞、後有群烏、銜鼓集顏所居之村、烏口皆傷、一境以爲、顏至孝、故慈烏來萃、銜鼔之異、欲令聾者遠聞、卽於鼔所立縣、而名爲烏傷、王莾改爲烏孝、以彰其行迹云[やぶちゃん注:「淵鑑類函」を調べたところ、頭の「瑞應圖曰、烏至孝之應」というのは、同書に同じ文字列はなく、熊楠が、そう言っている内容をごく短く纏めた作文であることが判ったので、以下の訓読では、それが判るように、切っておいた。最後は底本では「去」であるが、これは「云」の誤字であったので、訂しておいた。「「瑞應圖」に云はく、『烏は至孝の應なり。』と。」「『異苑』に曰はく、東陽の顏烏(がんう)は純孝を以つて著聞す。後、群烏、有りて、鼓(つづみ)を銜へ、顏の居(ゐ)る所の村に集まれり。烏の口、皆、傷つけり。一境(むらびと)、以爲(おもへら)く、『顏は至孝なれば、故に、慈烏、來たり萃(あつま)りて、鼔を銜ふるの異あり、聾者をして遠く聞かしめんと欲するなり。』と。卽ち、鼔の所に於いて縣を立て、名づけて「烏傷」と爲す。王莽、改めて「烏孝」と爲し、以つて其の行迹を彰(あらは)すと云へり。」但し、疑問に思われた方も多いと思うが、実は「鼓」は写本や翻刻される過程で生じた誤字であるようだ。後注参照。]。世間の聾迄も顏烏(がんう)ちふ者の孝行を聞知るやう、烏輩が鼓を持つて來て廣告したのだ。以色列(イスラヱル)の傳說にエリジヤがアハブの難を遁るゝ途に、餓えた時鴉之を哺(やしな)うたと云ひ、隨つて基督敎の俗人も鴉を敬する者あり(Hazlitt, “Faiths and Folklore,” 1905, vol.ii, p.508)。烏が不意の取持で貧女が國王の后と成つた譚は、貧女國王夫人經」(經律異相二十三)に出づ。グベルナチス(Gubernatis, “Zoological Mythology,” vol.ii, p.257)曰く、獨逸とスカンヂナヴヰアの俚謠に烏が美女を救ふ話多く、孰れも其女の兄弟と呼ばれ有り、又烏が身を殺して迄も人を助くる談多しと。日本にも出羽の有也無也の關[やぶちゃん注:「うやむやのせき」。]に昔鬼出て人を捉る[やぶちゃん注:「とる」。]、烏鳴いて鬼の有無を告げ往來の人を助けたといふ(和漢三才圖會、六五)。烏が能く慈に能く孝に、又、人を助くる譚、斯くの如き者有る上に、忠義譚も佛本行集經五二に出づ。善子と名くる烏王の后が孕んで、梵德王の食を得んと思ふ、一烏爲に王宮に至り、一婦女銀器に王の食を盛るを見、飛下つて其鼻を啄くと、驚いて食を地に翻(かや)す[やぶちゃん注:「ひっくり返す」或いは「こぼす」の意。]。烏取り持去つて烏后に奉る。其から味を占めて、每日宮女の鼻を啄きに來たので、王、人をして之を捕へしめると、彼烏仔細を說き王大に感じ入り、人臣たる者須く是猛健烏(たけきからす)が主の爲に食を求めて命を惜しまざるが如くなるべしとて、以後常に來て食を取らしめたと云ふ。Collin de Plancy, “Dictionnaire infernal,” p.144 に、古人婚前に烏を祝したは、烏夫婦の中何方かゞ死ぬと、存つた[やぶちゃん注:「のこつた」。]方が或定期間獨居して貞を守つたからだと見えるが、日本の烏には夫(をつと)も子も有るに姧通するのも有るなり。日本靈異記中に、信嚴禪師出家の因緣は、家の樹に棲む烏の雄が雌と子を養ふ爲に遠く食を覓(あさ)る間に、他の雄鳥が來て其雌に通じ、西東もまだ知らぬ子を捨てゝ、鳥が鳴く吾妻か不知火の筑紫かへ梅忠もどきに立退いた跡へ、雄鳥(どり)還り來り其子を抱いて鬱ぎ死んだのを見て浮世が嫌に成り、行基の弟子と成つて剃髮修行したしたので厶(ござ)ると說き居る。こんなに種々調べるとマーク・トエーンが人間には成程人情が大分(だいぶ)有ると皮肉つた通り、人も烏も心性に餘り差異が無さゝうだ。さればこそ衆經撰雜譬喩經下には、烏が常に樹下の沙門の誦經を一心に聽いて、後獵師に殺さるゝも心亂れず天上に生れたと說かれた。

[やぶちゃん注:「淵鑑類凾」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。「漢籍リポジトリ」のこちらで、四百二十三巻の「鳥部六【烏・鵲】」の「烏一」を見られたい。その[428-2b]の影印画像の最後行に熊楠の引く一文がある。この奇体な交尾説は古くから信じられていた。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴛鴦(をしどり)」にも「本草綱目」から引かれてあり、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」では、「三才圖會」から引かれてある。

「プリニウスの博物志にも、世に鴉は嘴(くちばし)もて交はる故に、其卵を食つた婦人は口から產すると云ふ。アリストテレス是を駁して、鴉が鳩同樣雌雄相愛して口を接するを誤認したのだと言つた」この謂い方はちょっとおかしい。そもそもガイウス・プリニウス・セクンドゥスGaius Plinius Secundus 紀元後二三年~七九年)はアリストテレス(ラテン文字転写:Aristotelēs 紀元前三八四年~紀元前三二二年)よりずっと後の博物学者だからである。所持する中野定雄・中野里美 ・中野美代共訳「プリニウスの博物誌」(平成元(一九八九)年‎ 雄山閣出版刊・第三版)で見たところ、これはまさにそこに書かれた内容であって、第十巻の「ワタリガラス」の項に、

   《引用開始》

ワタリガラスは一腹でせいぜい五つの卵しか生まない。彼らは嘴で生み、あるいは交尾する(したがって懐妊している婦人がその卵を食べると口から分娩する。そしてとにかくそれを家に持ち込むと難産する)と一般に信じられている。しかし、アリストテレスは、エジプトのトキについてと同様、ワタリガラスについてもそんなことは噓だ、だが問題の接嘴(よく見かけることだが)は、ハトがよくやるように接吻の一種だ、と言っているワタリガラスは自分たちが前兆で伝えることの意味を知っている唯一の鳥であるように思える。というのは、メドゥス[やぶちゃん注:ここには訳注記号があり、後に『メディアの息子、メディア人にその名を与えたとされている。』とある。]の客が殺されたとき、ペロポンネソスとアッティカにいたワタリガラスはみんな飛び去ったから。彼らが喉がつまったかのように声を呑み込むような鳴き方をするときは、それはとくに凶兆だ。

   《引用終了》

とあるを、うっかり、かく言い換えてしまったものである。また、このアリストテレスの見解は、所持する島崎三郎訳「アリステレス全集9」(岩波書店一九六九年刊)所収の「動物発生論」を見たところ、「第六章」の「鳥類の発生」の冒頭に基づくものであることが判った。〔 〕は訳者が補足した部分を指す。

   《引用開始》

 鳥類の発生についても事態は同様である。すなわち、「オオガラスとイビスは口で交わり、四足類のイタチは口で子を産む」という人々があるからである。これらは、現にアナクサゴラスやその他の自然学者たちのうちの或る人々も述べているところであるが、あまりに単純で軽率な説である。鳥類について見ると、人々が推理〔三段論法〕によって誤った結論に達してしまうのは〔次の点が根拠になっている〕。すなわち、オオガラスの交尾はめったに見られないが、互いに嘴で交わることはしばしば見られ、これはカラスの類の鳥ならみなすることであって、飼い馴らされたコクマルガラスを見ればよく分かる。これと同じことをハトの類もするが、彼らは明らかに交尾もするので、そのためにこんな話は起こりようがなかったのである。カラスの類は少産の〔卵を少ししか産まぬ〕動物に属するから、好色ではないが、彼らも交尾するところをすでに観察されている。しかし、精液がいかにして栄養分と同じように、何でも入ってくるものを調理する胃を通って子宮に達するのか、ということを人々が推論してみないのはおかしい。しかも、これらの鳥類にも子宮があるし、卵〔巣〕は下帯〔横隔膜〕のそばに見られるのである。また、イタチにも、他の四足類と同じ様式の子宮がある。とすると、この子宮から口までどうやって胎児は進むのであろうか。しかし、イタチがその他の裂足類(これらについては後で述べるが[やぶちゃん注:ここには訳者注があるが、略す。])と同様に、まるで小さい子を産み、しばしばその子を口にくわえて運ぶということが、こんな見解を作り出した所以なのである。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

なお、訳者注では(学名が斜体になっていないので、割り込みで示した)、『オオガラスは(日本ではワタリガラス)』とされ、 Corvus corax の学名を記され、『『動物誌』第九巻第二十七章』『によると、エジプト産の鳥で、白いのと黒いのがあり、白いのは』Ibis religiosa 、『黒いのは』Ibis falcinellus (=igneus )『とされる。いずれも日本のトキに近い鳥である』とあった。前者はペリカン目トキ科トキ亜科クロトキ属アフリカクロトキ Threskiornis aethiopicus のことかと思われ(名前が「黒」だが、翼の初列風切羽先端と、次列風切り羽の先端及び三列風切り羽が変形した腰背部の飾り羽が黒い以外は、白い羽毛に包まれる。下に湾曲した嘴と長い脚は黒い。サハラ砂漠以南から南端までのアフリカ大陸・マダガスカル島・イラク南西部に棲息しており、嘗てはエジプトにも分布していた。詳しくは当該ウィキを見られたい)、後者はトキ科トキ亜科ブロンズトキ属ブロンズトキ Plegadis falcinellus の(繁殖個体は赤褐色の身体に暗緑色の翼をもつが、非繁殖個体と若年個体は暗い体色のままである。オーストラリア・東南アジア・南アジア・アフリカ・マダガスカル・ヨーロッパからアメリカ大陸大西洋岸の熱帯・温帯域にかけて棲息しているが、新大陸の個体群は比較的最近(十九世紀)になって、アフリカから自然に分布を広げたものと考えられている。ヨーロッパで繁殖した個体は、冬期、アフリカに渡り、越冬する。詳しくは当該ウィキを参照されたい)のシノニムである。なお、次の注では、「コクマルガラス」について、学名をCorvus monedula とされておられるが、これはニシコクマルガラスであって、既に注した通り、コクマルガラスは Corvus dauuricus である。但し、ニシコクマルガラスはコクマルガラスと極めて近い近縁種であり、北アフリカからヨーロッパのほぼ全域、イラン・北西インド・シベリアと、広範囲に分布している。

「自宅に龜を十六疋畜(かひ)有る」熊楠の亀好きはよく知られ、私は寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」(サイト版)の「綠毛龜(みのかめ)」でも、冒頭注で、『これは広く淡水産のカメ類(潜頸亜目リクガメ上科イシガメ科Geoemydidaeの仲間等)に藻類が付着したものであろうと思われるが、「脊骨に三稜有り」という叙述は、椎甲板と肋甲板に三対の筋状隆起(キールと呼称する)を持っているイシガメ科のクサガメ Chinemys reevesii 等を思わせる。なお、この如何にも日本人好みのウラシマタロウガメ(私の造和名・浦島太郎亀)が好きで好きで、遂に自分で拵えちゃった有名人をご存知だろうか。南方熊楠、その人なんである。今、それを読んだ確かな資料を思い出せないでいるが、南方熊楠邸保存顕彰会常任理事の中瀬喜陽氏による「南方熊楠と亀」にその事実記載があったと記憶する。熊楠の悪戯っぽい笑みが、私にはよく見える』と記した。今、再度、南方熊楠関連の諸本をひっくり返したのだが、見当たらないが、さるびん氏のブログ「サルヴィンオオニオイガメ専科~淡水熱帯魚と共に~」の『南方熊楠の亀「お花」』に、南方熊楠は『亀の飼育にも取り組んでいた人物でした』。『多い時にはイシガメやクサガメを』六十『匹以上も飼育していたとか』。『熊楠の記録には、長男の熊弥と亀のエピソード等がしばしば登場するそうです』。『熊楠は淡水藻の研究も行っており、これらの亀に』人工的に『藻を生や』さ『せて蓑亀にする実験もしていたとのこと』とあり、昭和六(一九三一)年六月七日附『上松蓊(うえまつしげる)宛書簡に「小生方のみのがめ、只今長き藻の上に短き異種の藻をふさのごとく叢生し、はなはだ見事なり」 とあったそうです』。『また、熊楠が飼っていたクサガメの「お花」は、熊楠が亡くなってから』後も六十『年も生き』、二〇〇一年七月に『老衰で死亡したという記録があり、「お花」は』一〇〇『年以上生きたのではないかともいわれているそうです』。『ちなみに、このクサガメを熊楠が亡くなった』昭和一六(一七四一)『年以降も飼育し続けたのは、熊楠の長女の文枝で、熊楠から「お前が生まれる前からいる亀だから大事に」と言われ、文枝はその言い付けを守り、生涯この「お花」を大切に育てたそうです』とあるので、間違いない。

「根本說一切有部毘奈耶三九に、鄔陀夷覩童女……」「四分律藏四九に、時有比丘尼……」これらは実は全く同じものを、南方熊楠は、既に電子化注した「四神と十二獸について」に記している。そちらで詳細に注してあるので、ここでは省略する。

「康煕字典、嗚の字に接吻の義を示さぬ」大修館書店「廣漢和辭典」には、「嗚」の意味の三番目に擬声語とし、『嗚啞(オア)は烏(からす)の鳴き声』とする(例示引用は私の偏愛する中唐の鬼才李賀の「勉愛行」だ)。

「プリニウス曰く、諸鳥の中、烏(コルニクス)ばかりが、其子飛び始めて後暫く之を哺ふ。鴉(コルヴス)は子が稍や長ずれば逼つて飛去しむと」前掲引用の「プリニウスの博物誌」の第十巻の「一四 カラス」の末尾に『自分の子供が飛べるようになっても、まだしばらくの間それを食べさせ続けるが、そんなのは』(「鳥類は」の意)『ほかにない』とあるのを受けて、「一五 ワタリガラス」の項の冒頭に、

   《引用開始》

ところが同種のすべての鳥は自分たちの子供を巣から追い出して強制的に飛ばせる。ワタリガラスなどもそうだ。このワタリガラスも自身肉食であるのみでなく、子供が丈夫になると、彼らを駆り立てて相当遠いところへ追いやる。したがって、小さな村にはワタリガラスはふた番』(つがい)『しかいない。両親は引っ込んで場所を子供に譲る。

   《引用終了》

因みに、前の注で引用した部分が、これに一節(産卵と体調変異)を挟んで続いている。

『甲子夜話二三に出た平戸安滿嶽の神鴉……』先の『「一」の(4)』のために電子化した「甲子夜話卷之二十三 11 安滿岳の烏 + 甲子夜話卷之八十七 2 安滿岳の鴉【再補】」を参照。

「本草に、烏、此鳥初生……」「本草綱目」巻四十九の「禽之三」の「慈烏」の記載。「漢籍リポジトリ」のこちら[114-10a]を見られたい。

「コルヴス、パスチナトル(みやまがらす)は、年長ずれば顏の毛禿落ちて灰白く、其痕遠く望み得る」「顏」とあるが、厳密には嘴である。同種は成鳥では、基部の皮膚が剥き出しになり、白く見える。

「Southey, op. cit., 4th Ser., p.109」既出既注のイギリスの詩人ロバート・サウジー(Robert Southey 一七七四年~一八四三年)の死後に纏められた著作集の第四巻。「Internet archive」のこちらで、原本の以下の当該箇所が視認出来る。右ページの左下にある「crowsdutiful Children.」 (「カラス族――忠実な子供たち。」)とあるのがそれ。下方に引用元の筆者名を「BARTHELMEW GLANTVILE」(詳細事績不明)とし、引用者の地位を「Franciscan Frier」(後の綴りが不審だが、フランシスコ会修道士であろう)とする。

「禮記の句」「大戴禮記」の「夏小正」にある、『豺祭獸。善其祭而後食之也。初昏南門見。南門者、星名也、及此再見矣。黑鳥浴。黑鳥者、何也、烏也。浴也者、飛乍高乍下也。時有養夜。養者、長也、若日之長也。』を指すか?

「北アフリカの禿鵰(ヴルチユール)」「禿鵰(ヴアルチユール)」vulture。音写は「ヴォルチュル」が近い。ここは旧大陸のタカ目タカ科ハゲワシ亜科 Aegypiinae のハゲワシ類を指す。

「Leo Africanus, “Descrizione dell’ Affrica” in Ramusio, “Navigationi Viaggi,” Venetia, 1588, tom. i, fol. 94D. 」レオ・アフリカヌス(Leo Africanus 一四八三年?~一五五五年?)の名前で知られる、本名をアル=ハッサン・ブン・ムハンマド・ル=ザイヤーティー・アル=ファースィー・アル=ワッザーンという、アラブの旅行家で地理学者。「レオ」はローマ教皇レオⅩ世から与えられた名で、「アフリカヌス」はニック・ネーム。以下の書籍名はイタリア語で「アフリカの解説」「旅の案内」か。

「予熱地で禿鵰を多く見たる」熊楠は北アメリカ大陸周辺にしか行っていないから、この場合は、タカ目コンドル亜目コンドル科 Cathartidae のコンドル類である。

「Sir Thomas Browne」サー・トーマス・ブラウン(一六〇五年~一六八二年)はイングランドの著作家。医学・宗教・科学・秘教など様々な知識に基づいた著作で知られる。当該ウィキによれば、『フランシス・ベーコンの自然史研究に影響を受け、自然界に深い興味を寄せた著作が多い。独自の文章の技巧で知られ、作品に古典や聖書の引用が散りばめられており、同時にブラウンの独特な個性が現れている。豊かで特異な散文で、簡単な観察記録から極めて装飾的な雄弁な作品まで様々な作風を操った』とある。「Pseudodoxia」は彼の著「プセウドドキシア・エピデミカ」(Pseudodoxia Epidemica :一六四六年~一六七二年)で、邦訳では「荒唐世説」などと訳される。怪しい巷説や迷信を採り上げて批判した書。

 「Thomas Wright」トーマス・ライト(一八一〇年~一八七七年)はイギリスの好古家で著作家。「“Popular Treatises on Science,” 1841, pp. 115-6」は「Popular Treatises on Science,Written During the Middle Ages: In Anglo-Saxon, Anglo-Norman, and English.」で「中世に書かれた科学に関する知られた論文。アングロ・サクソン語、アングロノルマン語、英語に拠るもの。」で、「Internet archive」のこちらから原本が視認出来るが、私はとてものことに読めないし、当該箇所を探す気も起らない。悪しからず。

「類凾に、瑞應圖曰……」巻四百二十三の「鳥部六【烏・鵲】」の「烏二」。本文内の注で述べた通り、冒頭に「瑞應圖」(Q$Aの回答によれば、宋代の絵巻物で、高宗の即位の祝いとして瑞祥の伝説を文章と絵で表現したもの。臣下が献上したらしい)への言及があり(「烏二」は[428-4b]から)、次の[428-5b]の四行目以下に「異苑曰……」が現われる。

「異苑」六朝時代の宋(四二〇年〜四七九年)の劉敬叔の撰になる志怪小説集。全十巻。当時の人物についての超自然的な逸話、幽霊・狐狸に纏わる民間の説話などを記したもの。但し、現存のテキストは明代の胡震亨(こしんこう)によって編集し直されたもので、原著とは異なっていると考えられている。なお、どうも烏が銜えてくるのが「鼓」というのはどうもおかしいと思って幾つかのフレーズで調べたところ、同一の話が、北魏の知られた地理書「水經注」(すいけいちゅう:全四十巻。撰注者は官僚で文人の酈道元(れきどうげん 四六九年~五二七年)で、五一五年成立と推定される)に出ており、そこに、この部分が(「維基文庫」の影印本画像と、「中國哲學書電子化計劃」の「乾隆御覽本四庫全書薈要・史部」の影印本を参考にしたが、前者で字起こしした)、

   *

後有羣烏助銜土塊爲墳【案近刻訛作後有羣烏銜鼔集顏烏所居之邨】

   *

訓読を試みると、

   *

後[やぶちゃん注:孝子である顔烏が親を亡くした、その直「後」の意であろう。]、群烏有りて、土塊(つちくれ)をもて助け、銜(くは)へて、墳を爲(な)せり【案ずるに、近刻は、訛(あやま)りて、「後、羣烏有りて、鼔を銜へて顏烏の居る所の邨(むら)に集まれり。」に作る。】。

   *

とすれば、すこぶる腑に落ちたのであった。ただの自己満足を懼れ、さらに検索したところ、ネットを始めた古くからよくお世話になっている個人サイト「元・肝冷斎日録」のこちらに、原文・訓読・現代語訳が載っているのを発見した。その訓読文と現代語訳は(分離しているので合成した。表記はママ)、

   《訓読文引用》

『東陽の顔烏、淳孝を以て著聞せり。群烏有りて、土塊を助け銜(くわ)えて墳を為せり。烏口みな一境において傷めり。おもえらく、顔烏の至孝なるが故に慈烏を致し、孝声をして遠聞せしめんと欲するならん。又、その県に名づけて「烏傷」と曰えり。』

   《現代語訳引用》

『会稽・東陽の顔烏(がん・う)というひとは、たいへんな孝行者というので有名であった。親が亡くなった後、人を雇う資力が無いため、手づから鋤鍬を取ってその墳墓を築こうとした。すると、(彼の名前と同じ)カラスたちが群れてやってきて、土のかたまりを咥えてきて、墳墓づくりを手伝ってくれた。このため、その近辺のカラスのくちばしは、みな傷ついたという。さてさて、おそらくこれは、顔烏があまりにもすごい孝行者であったので、(その徳が)優しいカラスたちに働きかけて、孝行の評判を遠いところにまで伝え聞かせようとしたのではないだろうか。また、このことから、その近辺の区域は「カラスの(くちばしの)傷ついた県」と名づけられたのである。』

   *

これで、私は胸を撫で下したのであった。当初は本文内で修正してしまおうとも思ったが、修正が一字の変更に留まらなくなり、しかも平凡社の選集では訓読となっている上に、「鼓」になってしまっていることから、注でかく示すことにした。

「王莽」(おうもう 紀元前四五年~紀元後二三年)は前漢の外戚で、新の建国者。幼少の皇帝を立てて実権を握り、紀元後八年に自らが帝位に就いた(在位:八年~二三年)。その間、儒教を重んじ、人心を治め、即位の礼式や官制の改革も、総て古典に則ったが、現実性を欠いていて失敗し、内外ともに反抗が相次ぎ、自滅した。後、光武帝により、漢朝が復興されている。

「エリジヤ」「旧約聖書」の預言者エリヤ。その名はヘブライ語で「ヤハウェは我が神なり」を意味する。

「アハブ」「旧約聖書」によれば、第六代イスラエル王オムリの子に生まれ、その死後に跡を継ぎ、二十二年の間、王位にあった。預言者エリヤは代表的な彼の反対者として描かれ、終始、エリヤとアハブ王家の敵対関係が言及されている。また、アハブはシリアの王女イゼベルを妻に迎えた。イゼベルはシリアのバアル崇拝をイスラエルに導入した。結果、それ以前から存したヤハウェ信仰や金の仔牛信仰に加えた混合宗教がイスラエルに展開されたほか、後にはアハブと婚姻関係を結んだユダ王国にも導入された。これを「旧約聖書」では偶像崇拝として非難し、さらには「ヤハウェ信仰への弾圧」と指弾している。このため、旧約聖書ではアハブは「北王国の歴代の王の中でも類を見ないほどの暴君」として扱われている(以上は当該ウィキに拠った)。

「Hazlitt, “Faiths and Folklore,” 1905, vol.ii, p.508」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「信仰と民俗学」。Internet archive」の当該書のこちらの左ページの頭の部分にある。

「烏が不意の取持で貧女が國王の后と成つた譚は、貧女國王夫人經」(經律異相二十三)に出づ」これは検索を続けること三十分、漸く、台湾サイトの「CBETA 中華電子佛典協會」の方の「經律異相卷第二十三(聲聞無學學尼僧部第十二)」で綺麗に電子化されたそれで、見出せた。そこの「孤獨母女為王所納出家悟道十一」である。冒頭を引くと、初っ端にカラスが出る(下線太字は私が附した)。『舍衛城。有孤獨母人。自生一女。年始十七。顏容端嚴衣不蔽形。母乞食自連。女貞賢明達。博讀經書守節不出門戶。居近王道而心願適王。又願事神如佛。王出行國內。見烏在貧女門上鳴。王便舉弓射烏。烏持王箭走入女家。王傍人追烏入舍。女不出面。但拔箭放烏授箭擲外。王人見指知之非凡。却後年中。王第一夫人卒。娉求夫人。無應相者。廣訪人間。左右白言。前時射烏窮獨母女。年十六七雖不見面。瞻手聞聲似是貴人。王便往視呼將俱來……』と続く。話の終りには出典として「貧女為國王夫人經」とある。本邦のサイトでは「經律異相」の、こうした整序された電子化物がないようなので、この注では甚だすこぶる助かった。

「グベルナチス(Gubernatis, “Zoological Mythology,” vol.ii, p.257)曰く、獨逸とスカンヂナヴヰアの俚謠に烏が美女を救ふ話多く、孰れも其女の兄弟と呼ばれ有り、又烏が身を殺して迄も人を助くる談多しと」これは今までも本書で何度も熊楠が引いている作品で、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」である。Internet archive」の同第二巻のここの、右ページ本文の下から七行目から。

「出羽の有也無也の關に昔鬼出て人を捉る烏鳴いて鬼の有無を告げ往來の人を助けたといふ(和漢三才圖會、六五)」所持する原本画像から訓点を除去した白文原文通りのものと、後に訓読したものを示す(これは私の同書の電子化の永年に亙る自己拘束だからである)。歴史的仮名遣の誤りはママで、〔 〕は私が推定で歴史的仮名遣で補った部分。これは地誌の前巻からの地誌の「大日本國」パートの、巻第六十五の中の「出羽」パートの終りの方(六折)である。歌は改行して引き上げ、上句・下句を分けた。

   *

牟也牟也關 良材集【引八雲御抄】云牟也牟也乃關有陸奥

出羽之交但關有出羽方草木森森然行人不栞則難

徃來

 武士の出さ入さにしるしするを

    をちをちどちのむやむやの関

△按俗謂有也無也関者訛也昔此山鬼神棲不時出捉

 人烏鳴告有無人因其聲徃來之說愈妄也或云鳥海

 山近處有此關【又俊頼歌爲伊奈牟夜】

   *

   *

牟也牟也關(むやむやのせき) 「良材集」に【「八雲御抄〔(やくもみせう)〕」を引〔(ひき)〕て。】云はく、『「牟也牟也乃(の)關」、陸奥と出羽の交(あはい)に有り。但し、關は出羽方に有り。草木、森森然〔(しんしんぜん)〕として、行人(みちゆき〔のひと〕)、栞(しおら)せざれば、則〔ち〕、徃來難し。

 武士〔(もののふ)〕の出〔(いづ)〕さ入〔(いる)〕さにしるしするを

    をちをちどちのむやむやの関

△按〔ずるに〕、俗に「有也無也(うやむや)の関」と謂ふは、訛〔(あやま)〕りなり。「昔し、此の山に、鬼神、棲(す)み、不時に出て、人を捉(と)る。烏、鳴き、有無を告ぐ。人、其の聲に因〔(より)〕て徃來す。」と云〔ふ〕。之〔(これ)〕、愈(いよいよ)、妄〔(まう)〕なり。或〔いは〕云〔(いふ)〕、「鳥海山の近處(〔ちかきところ〕)に此關、有り。」と【又、俊頼の歌に「伊奈牟夜」と爲〔(す)〕。】。

   *

恐らくは多くの人は芭蕉の「奥の細道」で知っている(私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花』の原文参照)この「牟也牟也關」は「うやむやのせき」とも呼び、「有耶無耶関」「有也無也関」などとも表記し、比定地は二つある。一つは平安後期からの歌枕で、山形県と宮城県との境界にある笹谷(ささや)峠(この峠自体は確かに最古からあった)にあった関所。出羽と陸奥の境となった。「伊奈(いなむ)の関」とも。ここ(グーグル・マップ・データ)。今一つは、 山形県と秋田県の境界、日本海に臨む三崎峠にあった関所。ここは「和漢三才図会」本文の一説にある通り、鳥海山の西麓である。「良材集」は「歌林良材集」で全二巻の歌論・歌学書。一条兼良撰。室町中期成立。「八雲御抄」は鎌倉初期の歌学書。全六巻。順徳天皇著。「承久の乱」(承久三(一二二一)年五月)の頃まで執筆していた草稿を、佐渡遷御後に纏めたもので、先行の歌学研究を集大成したもの。歌学的知識・詠歌作法・歌語の収集と解釈・名所解説・歌論の見解などが記されている。引用の歌「武士〔(もののふ)〕の出〔(いづ)〕さ入〔(いる)〕さにしるしするををちをちどちのむやむやの関」は「夫木和歌抄」の巻二十一の「雜三」に載る読人不知 の一首であるが、「日文研」の「和歌データベース」でも、

 もののふのいつさいるさにしをりする

    とやとやとほりのむやむやのせき

であり、これは、

 武士の出(い)づさ入(い)るさに枝折(しをり)する

    とやとやとほりのむやむやの關

で、上句は武士でさえ出入りのために草木を折り縛って栞とせねば迷って出られなくなってしまう迷宮(ラビリンス)の夢幻的なイメージを下句でオノマトペイアに仕立てた戯れと思うが、そのオノマトペイアが、伝説の「鬼がいるぞ!」という烏の「有也有也」(うやうや)、「無也無也」(むやむや)のそれと響き合うところを、良安は面白いと思ってここに挿入したようにも思われる。

「佛本行集經五二」以下の話は同経の「中國哲學書電子化計劃」の影印のこの辺りに出ている。活字でないと、と言う方は、簡体字交じりでよければ、「維基文庫」の同経の全文で「佛告诸比丘。我念往昔久远之时。波罗奈国有一乌王。」を検索で入れれば、その文頭に辿り着く。ぶつぶつに切れていても、ちゃんとした本邦の字体で見たければ、「大蔵経データベース」のこちらで「佛告諸比丘。我念往昔久遠之時。」を検索すればよろしい。

「日本靈異記中に、信嚴禪師出家の因緣は……」私の好きな「烏の邪婬を見て、世を厭ひ、善を修する緣第二」である。以下に角川文庫板橋倫行(ともゆき)氏の校注本(昭和五二(一九七七)年(第十八版)角川文庫刊)で示す。段落を成形した。

 

   *

 禪師信嚴(しんごん)は、和泉の國泉の郡の大領(だいりやう)血沼(ちぬ)の縣主(あがたぬし)倭麻呂(やまとまろ)なり。聖武天皇の御世の人なり。

 此の大領の家の門に、大樹有り。烏、巢を作り、兒を産み、抱(うだ)きて臥す。雄(を)の烏、遐迩(をちこち)飛び行き、食を求め、兒を抱ける妻を養ふ。

 食を求めて行ける頃、他(あだ)の烏、遞(たがひ)に來たりて婚(つる)び姧(かた)む。今の夫に婚(つる)びて、心に就きて、共に高く空にかけり、北を指して飛び、子を棄てて睠(かへり)みず。

 時に、先の夫の烏、食物を哺(ふふ)み持ち來たりて、見れば、妻の烏、無し。時に兒を慈しみ、抱きて臥し、食物を求めずして、數(あまた)の日を經たり。

 大領、見て、人を樹に登らせて、其の巣を見しむるに、兒を抱きて、死す。

 大領、見て、大(いた)く悲しび、心に愍(あはれ)み、烏の邪婬を觀て、世を厭ひ、家を出で、妻子を離れ、官位を捨て、行基大德(だいとこ)に隨ひて、善を修し、道を求む。

 名を信嚴と曰ふ。但だ、要(ちぎ)り語りて曰はく、

「大徳と倶に死に、必ず、當に同に[やぶちゃん注:「おなじきに」。]西方に往生すべし。」

といふ。

 大領の妻も亦、血沼の縣主なり。大領捨つるも、終に他(あだ)の心、無く、心に貞潔を愼む。愛(め)でし男子(をのこご)、病を得て、命、終はる時に臨みて、母に白(まを)して言はく、

「母の乳を飮まば、我が命を延ぶべし。」

といふ。

 母、子の言(こと)に隨ひ、乳を、病める子に飮ましむ。

 子、飮みて、歎きて言はく、

「ああ、母の甜(あま)き乳を捨てて、我、死なむか。」

といひて、卽ち、命、終はる。

 然して、大領の妻、死にし子に戀ひ、同共(ともども)に家を出で、善法を、修し、習ひき。

 信嚴禪師、幸、無く、緣、少なく、行基大徳より、先に、命、終りき。大徳、哭き詠(しの)び、歌を作りて曰はく、

  烏といふ大をそ鳥の言をのみ共にといひて先だち去ぬる

 夫れ、火の炬(も)えむとする時は、まづ、折松を備へ、雨降らむとする時には、兼ねて石板を潤ほす。烏の鄙(のびか)なる事を示して、領、道心を發(おこ)す。先善の方便に、苦を見(しめ)して、道を悟らしむとは、其れ、斯れを謂ふなり。欲界雜類の鄙なる行(わざ)、是(か)くの如し。厭ふ者は背き、愚なる者は貪(ふけ)る。

 贊に曰はく、可(あこし)なるかな[やぶちゃん注:「立派なことではないか!」。]、血沼の縣主の氏、烏の邪婬をみて、俗塵を厭ひ、浮花の假趣[やぶちゃん注:婀娜に華やかである仮の現象としての現世。]に背き、常に身を淨めて、修善に勤め、惠命(ゑみやう)を祈(ねが)ふ。心に、安養の期(ご)を尅(のぞ)み、この世間を解脫す。異(こと)に秀れにたる厭土の者なり。

   *

厶(ござ)る」「厶」は「私」の漢字の異体字。本邦ではこれに丁寧語・尊敬語の「御座る」の訓を当てた。

「マーク・トエーン」その当代にあって世界中で最も人気の高かった作家マーク・トウェイン(Mark Twain 本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズ(Samuel Langhorne Clemens) 一八三五年~一九一〇年)のこと。

「衆經撰雜譬喩經下には、烏が常に樹下の沙門の誦經を一心に聽いて、後獵師に殺さるゝも心亂れず天上に生れたと說かれた」発見出来ず。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 陸橋

 

   陸 橋

 

陸橋を渡つて行かう

黑くうづまく下水のやうに

もつれる軌道の高架をふんで

はるかな落日の部落へ出やう。

かしこを高く

天路を翔けさる鳥のやうに

ひとつの架橋を越えて跳躍しやう。

 

[やぶちゃん注:「出やう」「しやう」はママ。初出は大正一〇(一二二一)年十二月号『表現』。標題は「陸橋を渡つて」。以下に示す。

   *

 

 陸橋を渡つて

 

陸橋を渡つて行かう

黑くうづまく下水のやうに

もつれる軌道の高架を踏んで

はるかな落日の部落へ出よう。

かしこに高く

天路を翔(か)けさる鳥のやうに

一つの架橋を越えて跳躍しよう。

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 内部への月影

 

   内部への月影

 

憂鬱のかげのしげる

この暗い家屋の内部に

ひそかにしのび入り

ひそかに壁をさぐり行き

手もて風琴の鍵盤に觸れるはたれですか。

そこに宗敎のきこえて

しづかな感情は室内にあふれるやうだ。

 

洋燈(らんぷ)を消せよ

洋燈(らんぷ)を消せよ

暗く憂鬱な部屋の内部を

しづかな冥想のながれにみたさう。

書物をとりて棚におけ

あふれる情調の出水にうかばう。

洋燈を消せよ

洋燈を消せよ。

 

いま憂鬱の重たくたれた

黑いびらうどの帷幕(とばり)のかげを

さみしく音なく彷徨する

ひとつの幽(ゆか)しい幻像はなにですか。

きぬずれの音もやさしく

こよひのここにしのべる影はたれですか。

ああ内部へのさし入る月影

階段の上にもながれ ながれ。

 

[やぶちゃん注:初出は大正一一(一九二二)年四月発行の『帆船』。筑摩版全集から以下に示す。太字は底本では傍点「ヽ」。「欝」と「鬱」の混用はママ。「きぬづれ」もママ。

   *

 

 内部への月影

 

憂欝の影のしげる

この暗い家屋の内部に

ひそかに忍び入り

ひそかに壁をさぐり行き

手もて風琴の鍵盤にふれるはたれですか

そこに宗敎のきこえて

しづかな感情は室内にあふれるやうだ。

 

洋燈(らんぷ)を消せよ

洋燈(らんぷ)を消せよ

くらく憂鬱な部屋の内部を

しづかな冥想のながれにみたさう。

書物をとりて棚におけ

あふれる情調の出水にうかばう。

洋燈を消せよ

洋燈を消せよ。

 

いま憂鬱の重たくたれた

黑いびらうどの帷幕のかげを

さみしく音なく彷徨する

ひとつの幽しい幻像はなにですか。

きぬづれの音もやさしく

こよひのここにしのべる影はたれですか。

ああ内部へのさし入る月影

階段の上にもながれ、ながれ。

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 群集の中を求めて步く

 

   群集の中を求めて步く

 

私はいつも都會をもとめる

都會のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる。

群集は大きな感情をもつたひとつの浪のやうなものだ

どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛慾とのぐるうぷだ。

ああ ものがなしき春のたそがれどき

都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ

大きな群集の中にもまれて行くのはどんなに樂しいことか

みよ この群集のながれてゆくありさまを

ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり

浪はかずかぎりなき日影をつくり 日影はゆるぎつつひろがりすすむ

人のひとりひとりにもつ愁ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない。

ああなんといふやすらかな心で 私はこの道をも步いてゆくことか。

ああこの大いなる愛と無心のたのしき日影

たのしき浪の彼方につれられてゆく心もちは淚ぐましくなるやうだ。

うらがなしい春の日のたそがれどき

このひとびとの群は建築と建築との軒を泳いで

どこへどうして流れゆかうとするのか

私のかなしい憂愁をつつんでゐるひとつの大きな地上の日影

ただよふ無心の浪のながれ

ああどこまでもどこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。本篇は「靑猫」所収の「月夜」の解題転載であるが、これは「靑猫」所収のコーダ部分が大きくカットされてある。私の「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 群集の中を求めて步く」と比較されたい。ただ、リンク先では、朔太郎が本詩集より後の「底本 靑猫」以降に本篇に加えた改変の方に関心が向いてしまった結果、初出形を示すのを忘れていた。ここで本篇の初出形(大正六(一九一七)年六月号『感情』)を改めて示しておくこととする。太字は同前。その「ぐるうぶ」の「ぶ」濁点はママである。歴史的仮名遣の誤りもママである。

   *

 

 群集の中を求めて步く

 

私はいつも都會をもとめる

都會のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる

群集はおほきな感情をもつたひとつの浪のやうなものだ

どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛慾とのぐるうぶだ。

ああ ものがなしき春のたそがれどき

都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ

おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに樂しいことか

みよこの群のながれてゆくありさまを

ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり

浪はかずかぎりなき日影をつくり、日影はゆるぎつつひろがりすすむ

ひとのひとりひとりにもつ憂ひと悲しみはみなそこの日影に消えてあとかたもなし

ああ なんといふやすらかな心で私はこの道をも步みすぎ行くことか

ああ このおほひなる愛と無心のたのしき日影

たのしき浪のあなたにつれられてゆく心もちは淚ぐましくなるやうだ

うらがなしい春の日のたそがれどき

このひとびとの群は建築と建築との軒をおよぎて

どこへどうして流れゆかふとするのか

私のかなしい憂愁をつつんでゐるひとつの大きな地上の日かげ

ただよふ無心の浪のながれ

ああ どこまでも、どこまでも、この群集の浪の中をもまれて行きたい

浪の行方は地平にけぶる

ただひとつの悲しい方角をもとめるために。

 

   *

個人的には、萩原朔太郎が詩人として名声を得て後に出版した詩集の中で、それらに載っている詩篇の幾つかを彼は、後発詩集や選集に載せる際に、何度も書き直しを加えた詩篇が有意に多くあるのだが、それらの過半は、私はするべきでなかった改変、はっきり言えば改悪が、有意に多く含まれているように感ずる。詩人の若き日の詩篇には、時にその当時の詩人だけに永久著作権が認められるべき詩篇がある。最早、詩想に於いて別人となってしまった老いさらばえた老詩人は、若き日の自作に手を入れるべきではない、ということを私は短詩形文学に対して甚だしく感ずるものである。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 騷擾

 

   騷 擾

 

重たい大きな翼(つばさ)をばたばたして

ああなんといふ弱々しい心臟の所有者だ

花瓦斯のやうな明るい月夜に

白くながれてゆく生物の群をみよ

そのしづかな方角をみよ

この生物のもつひとつの切なる感情をみよ

明るい花瓦斯のやうな月夜に

ああなんといふ悲しげな いぢらしい蝶類の騷擾だ。

 

[やぶちゃん注:「花瓦斯」(はなガス)は花型のシェード等で綺麗に飾り立てられたガス灯のこと。装飾兼用の広告灯として用いられた。ガス灯は石炭ガス(石炭を高温で乾留して得られる燃料ガス。主成分はメタンと水素で、他に一酸化炭素・二酸化炭素・エチレンその他の炭化水素を含む)の燃焼時に発する光を利用した街灯。「裸火」と呼ばれる赤っぽい灯火に特徴がある。イギリスの発明家ウィリアム・マードック(William MurdochMurdock) 一七五四年~一八三九年)によって実用化され、広く使われるようになり(一七四二年頃)、本邦では横浜の伊勢山下石炭蔵跡(現在の横浜市中区花咲町本町小学校)に高島嘉右衛門の「日本社中横浜瓦斯会社」が造られ、フランス人技師ペレゲレンの設計・監督で事業化が行われ、明治五(一八七二)年九月一日に第一号の試験ガス灯が点灯、同月九月二十九日に、横浜外人居留地(現在の馬車道本町通り)に設置点灯された。にかけて日本最初のガス灯が点された。明治七年には、東京の「銀座煉瓦街」の建設に伴い、京橋と金杉橋間に八十五基のガス街灯が灯り、人々を驚かせた。点火夫が、毎夕、点火し、毎朝、消灯した。文明開化の象徴とされ、見物人が多く出た。明治二四(一八九一)年ころから白熱マントル(ガスマントル(Gas mantle)は布製品に金属硝酸塩が染み込ませたもので、最初の使用で熱せられると、目が細かくて脆い金属酸化物のメッシュになる。炎の熱はこの金属酸化物によって光になり、光度が増すのである)が用いられるようになって光度も増したが、関東大震災(大正十二年九月一日)の影響と、電灯の普及で姿を消した(複数の辞書や信頼出来るネット記載を複数閲して、合成した)。思うに、既にして、この「花瓦斯」の形容イメージは、一種の近代化の中のノスタルジアの属性を附帯しつつある時間にあったように私には感ぜられるのである。

 本篇は「靑猫」所収の「月夜」の解題転載であるが、一行目の「翼(つばさ)」は「羽」(ルビ無し)から書き換えてある。「羽」を「つばさ」と読む読者はまずいないはずである。この部分の、この後の表記変遷は既に「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 月夜」で示してある。本篇の初出は大正六(一九一七)年四月刊の『詩歌』であるが、そちらでは電子化しなかったので、ここで以下に示す。題名が違い、「羽」には「つばさ」のルビがある。

   *

 

 深酷なる悲哀

 

重たい大きな羽(つばさ)をばたばたして、

ああ なんといふ弱弱しい心臟の所有者だ、

花瓦斯のやうな明るい月夜に、

白くながれてゆく生物の群をみよ、

そのしづかな方角をみよ、

この生物のもつひとつの切なる感情をみよ、

あかるい花瓦斯のやうな月夜に、

ああ なんといふ悲しげな、いぢらしい蝶類の騷擾だ。

 

   *

さらに、筑摩版全集の「草稿詩篇 靑猫」には本篇の草稿とする無題詩がある。但し、表現上の飢渇的希求がキリスト教を意識し、しかも、より剝き出しで、直截的である。以下に示す。

   *

 

 

 

重たい大きな羽をばたばたして

ああなんといふ弱々しい心臟のためいきだ。所有者だ。

神さま

あかるい花のやうな美しい月夜に

遠い村々→家々ランプの燈灯(あかし)に向いて流れ始める

いぢらしい蟲けらの感情→群幸福をどうしたものだ、

いぢらしい

あかるい花のやうな美しい月夜のしづかさに。

ああ神さま、

あかるい花のやうな月夜のしづかさをどうしたものだ、

あなたの貴い福音をどうしたものだ。

 

   *

完成形では、中途半端な宗教性が払拭されて、成功していると私は思う。]

2021/12/19

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 冬の海の光を感ず

 

   冬の海の光を感ず

 

遠くに冬の海の光をかんずる日だ

さびしい大浪(おほなみ)の音(おと)をきいて心はなみだぐむ。

けふ沖の鳴戶を過ぎてゆく舟の乘手はたれなるか

その乘手等の黑き腕(かひな)に浪の乘りてかたむく

 

ひとり凍れる浪のしぶきを眺め

海岸の砂地に生える松の木の梢を眺め

ここの日向に這ひ出づる蟲けらどもの感情さへ

あはれを求めて砂山の影に這ひ登るやうな寂しい日だ

遠くに冬の海の光をかんずる日だ

ああわたしの憂愁のたえざる日だ

かうかうと鳴るあの大きな浪の音をきけ

あの大きな浪のながれにむかつて

孤獨のなつかしい純銀の鈴をふり鳴らせよ

わたしの傷める肉と心。

 

[やぶちゃん注:初出は大正六(一九一七)年二月号『感情』。筑摩版全集で初出形を示す。表記は総てママ。

   *

 冬の海の光を感ず

 

遠くに冬の海の光を感ずる日だ

さびしいきおほなみの音をきいて心は淚ぐむ。

今日し沖の鳴戶を過ぎてゆく舟の乘手はたれなるか

その乘手らのくろき腕(かひな)に浪ののりてかたむく

ひとりこぼれる浪のしぶきを眺め

海岸の砂地に生える松の木の梢を眺め

ここの日向に這ひ出づる虫けらどもの感情さへ

あはれを求めて砂山のかげに這ひ登るやうな寂し日だ

遠くに冬の海の光をかんずる日だ

ああ わたしの憂愁のたえざる日だ

かうかうと鳴るあの大きな浪の音をきけ

あの大きな浪のながれにむかひて

孤獨のなつかしい純銀の鈴をふり鳴らせよ

わがいためる肉と心

 

   *

「今日し」の「し」は強意の副助詞であろう(「しも」の「も」の脱落ではない。以下の草稿を参照されたい)。「寂し日」は「は」の脱字か、誤植である(同前参照)。筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶を夢む」に本篇の草稿「海岸に來る」が掲げられてある。以下に示す。不審な箇所は総てママである。

   *

 

  海岸に來る

 

心に→遠くに海の面遠くに冬の光を感ずる日だ、

さびしき大浪の音をきいて心は淚ぐむ、

沖を今日し今日し沖を渡りゆく舟にの嗚戶をすぎ行く舟の乘手はたれなるか、

その乘手らの笑顏に黑き腕に浪ののりてかたむく、

あはれを呼びて散らんする鷗とぶ砂原鷗の唄をきけねかし、

いま日を背にうけて我はひとりであるいているのだ、こゝに座るこゝの海岸に書物をよむ→たゝづむ→日をくらす來る、

海岸にきたる、遠く冬の海の光をかんずる日の

この海岸の砂地に 生えて 伸びて生長する松の木の 幹の太さよ、

かなしき神經の

それを眺めつつ私は

あはれ松の木の幹の太 さよ くたくましさよ、

沖より一人かへるもの

むなしき ビクをさげて

こゝの海岸の砂地に生ひて生長する松の木の幹の

さびしき海岸の砂地に生える松の木をもとめながめ

こほれる浪のしぶきをながめ

日向に這ひ出づる蟲けらどもの感情さヘ

あはれ、あはれ松の木の幹に砂山のかげに這ひのぼるやうなさびしい日だ、

遠くに冬の海の光を感ずる日だ

ああ、わたしの憂愁の絕えざる日だ、

かうかうといふあのおほきな浪の音をきけ

あのおほきな浪の流れに向ひて

孤獨の銀色の鈴をふりならせ

孤獨のおそろしいなつかしい銀色純銀の鈴をふり鳴らせよ、

わがいためる肉と心、

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 靑空に飛び行く

 

   靑空に飛び行く

 

かれは感情に飢ゑてゐる。

かれは風に帆をあげて行く舟のやうなものだ

かれを追ひかけるな

かれにちかづいて媚をおくるな

かれを走らしめろ 遠く白い浪のしぶきの上にまで。

ああ かれのかへつてゆくところに健康がある。

まつ白な 大きな幸福の寢床がある。

私をはなれて住むときには

かれにはなんの煩らひがあらう!

私は私でここに止つてゐやう

まづしい女の子のやうに 海岸に出で貝でも拾つてゐやう

ねぢくれた松の木の幹でも眺めてゐやう

さうして灰色の砂丘に坐つてゐると

私は私のちひさな幸福に淚がながれる。

ああ かれをして遠く遠く沖の白浪の上にかへらしめろ

かれにはかれの幸福がある。

ああかくして、一羽の鳥は靑空に飛び行くなり。

 

[やぶちゃん注:「ゐやう」は総てママ。初出は大正六(一九一七)年二月号『感情』。これは、先日、公開した『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺珠 「靑空に飛び行く」(決定稿と初出)』で電子化してあるので、そちらを見られたい。なお、筑摩版全集の『草稿詩篇 蝶を夢む』の最後には、『靑空に飛び行く(本篇原稿一種一枚)』としつつも、掲げずに、『本篇原稿の題名は「一羽の鳥は岬の上に立てり、」とある』とのみ記す。]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 腕のある寢臺

 

   腕のある寢臺

 

綺麗なびらうどで飾られたひとつの寢臺

ふつくりとしてあつたかい寢臺

ああ あこがれ こがれいくたびか夢にまで見た寢臺

私の求めてゐたただひとつの寢臺

この寢臺の上に寢るときはむつくりとしてあつたかい

この寢臺はふたつのびらうどの腕をもつて私を抱く

そこにはたのしい愛の言葉がある

あらゆる生活(らいふ)のよろこびをもつたその大きな胸の上に

私はすつぽりと疲れたからだを投げかける

ああこの寢臺の上にはじめて寢るときの悅びはどんなであらう

そのよろこびはだれも知らない祕密のよろこび

さかんに强い力をもつてひろがりゆく生命(いのち)のよろこびだ。

みよ ひとつの魂はその上にすすりなき

ひとつの魂はその上に合掌するまでにいたる

ああかくのごとき大いなる愛憐の寢臺はどこにあるか

それによつて惱めるものは慰められ 求めるものはあたへられ

みなその心は子供のやうにすやすやと眠る

ああ このひとつの寢臺 あこがれもとめ夢にみるひとつの寢臺

ああこの幻(まぼろし)の寢臺はどこにあるか。

 

[やぶちゃん注:「びらうど」はママ(歴史的仮名遣でも「びろうど」でよい)。初出は大正六(一九一七)年六月号『感情』で、標題は「まぼろしの寢臺」である。以下に示す。太字は底本(筑摩版全集)では傍点「ヽ」。歴史的仮名遣の誤り等は、総てママ。

   *

 

 まぼろしの寢臺

 

きれいなびろうどで飾られたひとつの寢臺

ふつくりとしてあつたかい寢臺

ああ あこがれ こがれ、いくたびか夢にまで見た寢臺

私の求めてゐたたつたひとつの寢臺

この寢臺の上に寢るときはむつくりとしてあつたかい

この寢臺はふたつのびろうどの腕をもつて私を抱く

そこにはたのしい愛の言葉がある

あらゆる人生の悅びをもつたその大きな胸のうへに

私はすつぽりと疲れたからだを投げかける

ああ この寢臺のうへにはじめて寢るときの悅びはどんなであらふ

その悅びはだれも知らない秘密のよろこび

さかんに强い力をもつてひろがりゆく生命のよろこびだ

みよ、ひとつのたましひはその上にすすりなき

ひとつのたましひはその上に合掌するまでにいたる

ああ かくのごとき大いなる愛戀の寢臺はどこにあるか

それによつて惱めるものはなぐさめられ、求めるものはあたへられ、その心は子供のやうにすやすやとしづかに眠る

ああ このひとつの美美しい寢臺、あらゆる生命の悅びをみつめる寢臺

それにも知らぬ遠方に見え

あとかたもなく失はれたるまぼろしの寢臺はどこにあるか

 

   *]

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 始動 / 「詩集の始に」・目次・「蝶を夢む」(詩集前篇の第一篇)

 

[やぶちゃん注:萩原朔太郎の第三詩集「蝶を夢む」は大正一二(一九二三)年七月十四日、正規の単行詩集としてではなく、新潮社の叢書「現代詩人叢書」の第十四巻として刊行された。収録作品は六十篇で、内、十六篇は、先行する処女詩集「月に吠える」(大正六年二月十五日発行/感情詩社・白日社出版部共刊(事実上の完全自費出版))及び第二詩集「靑猫」(大正十二年一月二十六日発行/新潮社刊)からの再録である。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの同原本初版(当該書の奥附の発行日が七月十二日となっているのは、一般刊行前に行われる国立国会図書館収蔵用献本であるからであろう)画像を視認した。但し、加工データとして「青空文庫」の同詩集のテキスト・ファイル・データ(二〇一八年十二月十四日最終更新版・入力・kompass氏/校正・小林繁雄氏/校正・門田裕志氏)を使用させて貰った(ここの下方にある)。ここに御礼申し上げる。

 下方インデントなどはブログ・ブラウザでの不具合を考えて再現していない。

 私は既にこのブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」で、先行する二詩集を正規表現版で公開しているが、再録と称している十六篇は、表記上の変更(主に歴史的仮名遣の誤りの整序)が有意に認められるので、煩を厭わず、全篇を電子化することとした。また、今までの二詩集の電子化注同様、後注で筑摩版全集に附載される初出形も掲げる。表紙その他は、以上のような仕儀であるため、前二詩集のような魅力が皆無なので、電子化はするが、画像は貼らず、底本のリンクに留めた。【二〇二一年十二月十九日始動 藪野直史】]

 

 

蝶 を 夢 む

萩 原 朔 太 郞 著

 

現代詩人叢書

14

新潮社版行

 

[やぶちゃん注:表紙。国立国会図書館デジタルコレクションの画像はモノクロームであるので、ネットの古書店のサイトに貼られた画像をみたところ(但し、翌大正十三年五月二日発行の第七版)、上記のような色付けがなされてあるのが確認出来たので、せめてもの花として、かく、した。文字列は総て右から左に書かれてある。背は国立国会図書館デジタルコレクションの画像では見られないが、こちらも同前で確認したところ、辛うじて、

   *

 蝶 を 夢 む 萩 原 朔 太 郞 現代詩人叢書14

   *

と視認するところまでは出来た。参考のために添えておく。因みに、裏表紙はこれで、中央に新潮社のマークがあるだけである。]

 

 

蝶 を 夢 む

萩 原 朔 太 郞 著

 

現代詩人叢書

14

新潮社版

 

[やぶちゃん注:とびら。この画像はネットには見当たらないので、何とも言えないが、底本のモノクローム画像でも「萩 原 朔 太 郞 著」と「14」が明らかに薄いのが判る。或いは、表紙と同じく水色なのかも知れぬが、白抜きで示しておいた。

 

 

     詩 集 の 始 に

 

 この詩集には、詩六十篇を納めてある。内十六篇を除いて、他はすべて既刊詩集にないところの、單行本として始めての新版である。

 この詩集は「前篇」と「後篇」の二部に別かれる。前篇は第二詩集「靑猫」の選にもれた詩をあつめたもの、後篇は第一詩集「月に吠える」の拾遺と見るべきである。卽ち前篇は比較的新しく後篇は最も舊作に屬する。

 要するにこの詩集は私の拾遺詩集である。しかしながらそのことは、必しも内容の無良心や低劣を意味しない。既刊詩集の「選にもれた」のは、むしろ他の別の原因――たとへば他の詩風との不調和や、同想の類似があつて重複するためや、特にその編纂に際して詩稿を失つて居た爲や――である。現に卷初の「蝶を夢む」「腕のある寢臺」「灰色の道」「その襟足は魚である」等の四篇の如きは、當然「靑猫」に入れるべくして誤つて落稿したのである。(もし忠實な讀者があつて、此等の數篇を切り拔き「靑猫」の一部に張り入れてもらへば至幸である。)とはいへ、中には私として多少の疑案を感じてゐるところの、言はば未解決の習作が混じてゐないわけでもない。むしろさういふのは、一般の讀者の鑑賞的公評にまかせたいのである。

 詩集の銘を「蝶を夢む」といふ。卷頭にある同じ題の詩から取つたのである。

 

 西曆千九百二十三年

                  著者

 

[やぶちゃん注:萩原朔太郎自身の序。太字は底本では傍点「◦」である。

 なお、以下の目次は、リーダとページ数を略した。「・」(実際には二回りほど大きい黒丸である)は萩原朔太郎自身が打ったもので、最後に彼が注記しているように、先行詩集からの再録であることを意味するマークである。]

 

 

     目  次

蝶 を 夢 む 前篇

  蝶を夢む

  腕のある寢臺

  靑空に飛び行く

  冬の海の光を感ず

 ・騷 擾

 ・群集の中を求めて步く

  内部への月影

  陸 橋

  灰色の道

 ・その手は菓子である

  その襟足は魚である

  春の芽生

  黑い蝙蝠

  石竹と靑猫

  海 鳥

  眺 望

  蟾 蜍

  家 畜

 ・夢

 ・寄生蟹のうた

 ・野 鼠

 ・閑雅な食慾

 ・馬車の中で

  野 景

  絕望の逃走

  僕等の親分

  涅 槃

  かつて信仰は地上にあつた

  商 業

  まづしき展望

  農 夫

  波止場の烟

 

松葉に光る後篇

 

  狼

  松葉に光る

  輝やける手

 ・酢えたる菊

 ・悲しい月夜

 ・かなしい薄暮

  天路巡歷

 ・龜

  白 夜

  巢

  懺悔

  夜の酒場

  月 夜

  見えない兇賊

  有害なる動物

 ・さびしい人格

 ・戀を戀する人

 ・贈物にそへて

  遊 泳

  瞳孔のある海邊

  空に光る

  綠蔭俱樂部

  榛名富士

 ・くさつた蛤

 

散 文 詩

 

  吠える犬

  柳

  Omegaの瞳

  極 光

             以上・六十篇

   目次中・印を附したものは既刊詩集からの再錄。

 

 

[やぶちゃん注:以下、パート標題。その後は、標題ページの裏側に記された当該パート内の詩群についての著者による解説。原本では二行書きであるが、行間が異様に広い。]

 

 

  蝶 を 夢 む    詩集前篇

 

 

この章に集めた詩は、「月に吠える」以後最近に至るまでの作で「靑猫」の選にもれた分である。但し内八篇は「靑猫」から再錄した。

 

 

   蝶 を 夢 む

 

座敷のなかで 大きなあつぼつたい翼(はね)をひろげる

蝶のちひさな 醜い顏とその長い觸手と

紙のやうにひろがる あつぼつたいつばさの重みと。

わたしは白い寢床のなかで眼をさましてゐる。

しづかにわたしは夢の記憶をたどらうとする

夢はあはれにさびしい秋の夕べの物語

水のほとりにしづみゆく落日と

しぜんに腐りゆく古き空家にかんずるかなしい物語。

 

夢をみながら わたしは幼な兒のやうに泣いてゐた

たよりのない幼な兒の魂が

空家の庭に生える草むらの中で しめつぽいひきがへるのやうに泣いてゐた。

もつともせつない幼な兒の感情が

とほい水邊のうすらあかりを戀するやうに思はれた

ながいながい時間のあひだ わたしは夢をみて泣いてゐたやうだ。

 

あたらしい座敷のなかで 蝶が翼(はね)をひろげてゐる

白い あつぼつたい 紙のやうな翼(はね)をふるはしてゐる。

 

[やぶちゃん注:第一連の「しぜんに腐りゆく古き空家にかんずるかなしい物語。」はママ。これは「感ずる」ではなく、「關する」で、巻頭詩としては痛い誤植である。以下に示す初出形でも、「關する」となっており、筑摩版全集の「校異 蝶を夢む」によれば、清書原稿が、

   *

しぜんに腐りゆく古き空家にかんするかなしい物語。

   *

となっており、後の「定本 靑猫」(昭和一一(一九三六)年三月二十日発行・版𤲿莊刊)でも、「かんする」となっているから、誤植確定なのである。

 初出は大正六(一九一七)年一月号『感情』であるが、標題は「蝶」だけである。以下に初出形を示す。誤植と思われるもの(例えば、初行の「ひろける」)や、歴史的仮名遣の誤り等は総てママである。

   *

 

 

 

座敷の中で、おほきなあつぼつたい羽をひろける

蝶のちいさな、みにくい顏とそのながい觸手と

紙のやうにひろがる、あつぼつたいつばさの重みと

わたしは白い寢床の中で眼をさましてゐる

しづかに私は夢の記憶をたどらふとする

夢はあはれにさびしい秋のゆうべの物語

水のほとりに沈みゆく落日と

しぜんにくさりゆく古き空家に關する悲しい物語。

 

夢をみながら私はおさな兒のやうに泣いて居た

たよりのないおさな兒のたましひが

空家の庭に生える草むらの中で、しめつぽいひきがへるのやうに泣いて居た

もつともせつない幼な兒の感情が、遠い水邊のうすらあかりを戀するやうに思はれた

ながい、ながい時間のあひだ、わたしはゆめをみて泣いてゐたやうだ。

 

あたらしい座敷の中で、蝶が羽をひろげて居る

白い、あつぼつたい、紙のやうな羽をふるはして居る。

 

   *]

2021/12/18

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(2)

 

 扨鴉や烏が膽勇に富めるは、和漢三才圖會烏の條に、其肉味酸鹹臭、人不食、故常人不恐人、不屑鷹鷂、而恣園圃果蓏穀實、竊人家所晒魚肉餅糕等、噉郊野屍肉、是貪惡之甚者也[やぶちゃん注:私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」を参照されたい。当該部を含む原文総てと、訓読及び私のオリジナル注を附してある。]と讀むと、人が忌んで殺さぬ故不敵に成つた樣だが、ワラスの著ダーヰニズムに云つた通り、氷雪斷えぬ所に住む鳥は、多くは肉食動物に見露されぬ樣に其體が氷雪同樣白い。然るに烏だけは常に進んで他の動物を侵すのだから、卑怯千萬な擬似色を要せず、且つ群棲するもの故色が黑いと氷雪の白いに對照して反つて友を集むるに便有るのだ。烏が本來大膽なので、決して人が忌んで殺さぬ故大膽に成つたので無い。烏が明敏にして黠智[やぶちゃん注:「かつち(かっち)」。「猾智(くわつち)」に同じ。悪がしこい知恵。悪知恵。]なるは禽經に烏の烏之巨嘴者善避矰弋彈射[やぶちゃん注:「巨嘴(きよし)なるは、善く矰弋(そうよく)・彈射を避く」。「矰」・「弋」ともに狩猟用具の一つ。矢に糸や網を付けて射ち、鳥や魚に絡ませて捕る仕掛けを言う。本邦では「射包(いくる)み」と呼ぶ。「彈射」は矢などを弾いて射ること。]。Tennent, “Sketches of the Natural History of Ceylonm” 1861, pp. 254-5 に、錫蘭(せいろん)の烏が籃の蓋を留置いた栓を拔いて其中を覗いたり、人が肉を切ると、油斷するところへ付け入つて、其血塗れな庖丁を奪うたり、殊に椿事なは、犬が骨を嚙むを奪はん迚、一羽の烏が其前に下りて奇態に踊り廻れども犬油斷せぬ故、暫く飛去つて棒組一羽連れ來り二人して踊れども效無し、其時後で來た烏一計を案じ出し、一たび空中に飛騰つて忽ち直下し、其嘴の全力を竭して[やぶちゃん注:「つくして」。]太く[やぶちゃん注:「いたく」。]犬の背を啄く。犬仰天して振向く處を、最初より居つた烏輙(たやす)く[やぶちゃん注:底本では「轍」だが、特異的に私が訂した。]彼が食ひ居つた骨を奪つた等の諸例を出し居る。Romanes, Animal Intelligence,1881 にも、烏の狡智非常な例を陳べ有る。斯程智慧有る者故、上に引いた野狐が烏を智慧最第一と讃(ほ)めた印度譚や、母に叱り出された少女が情夫に急を報げんと烏に助を乞う辭に、「智慧の烏よ、鳥中の最[やぶちゃん注:「いと」。]賢き者よ」と言つたエストニア誕[やぶちゃん注:「たん」。「譚」に同じ。]がある(Kirby,“The Hero of Esthonia,” 1895, vol. i. p. 215)。Southey,“Common-Place Book,” ed. Warter, 1876, 3rd Seris, p. 638 に、英國で烏群地に小孔を喙き開け檞[やぶちゃん注:「かしわ」。]の實を埋めながら前進するを見たが後日烏が巢を架けるに足る密林と成つたと記す。眉唾な樣な咄だが、米國に穀を蒔いて收穫する蟻有り、又檞の實を大木の幹に自ら穿つた孔に塡め置き、後日實の中に生じた蟲(むし)を食ふ用意とする啄木鳥もあるというから丸啌(うそ)でも無からう。烏は朝早く起き捷く[やぶちゃん注:「すばやく」。]飛んで諸方に之き、暮に栖(すみか)に歸るから、世間雜多の事を見聞すてふ處から言つた物か、古スカンヂナヴヰアの大神オヂンの肩に留まる鴉二つ、一は考思(かんがへ)、一は記憶(おぼえ)と名く。大神每朝之を放てば世界を廻り歸つて悉皆の報告す。大神由つて洽く[やぶちゃん注:「あまねく」。]天下の事を知る故に鴉神の名有りと(Collin de Plancy, “Dictionnaire infernal,” Bruxelles, 1845, p.347)。斯く烏は飛ぶ事捷く世間を廣く知るてふより、所謂往を推して來を知る力有りとせられ、古希臘では、烏をアポロ神豫言の標識とし(“Encyclopaedia Britannnica,” 11th ed., vol. ii. Art “Apollo”)、支那でも、本草集解に古有鴉經、以占吉凶、然北人喜鴉惡鵲、南人喜鵲惡鴉、惟師曠(禽經)以白項者(乃ち燕烏)爲不祥近之[やぶちゃん注:「古へ、「鴉經」あり、以つて吉凶を占ふ。然(しか)も、北人は、鴉を喜び、鵲(かささぎ)を惡み、南人は、鵲を喜び、鴉を惡む。惟(た)だ、師曠(「禽經」)は、白き項(うなじ)なる者(乃(すなは)ち燕烏[やぶちゃん注:『「二」の(1)』で私が同定したクビワガラス。])をもつて不祥となし、これに近づかず」。]。酉陽雜俎に、世有傳陰陽局鴉經、謂東方朔所著、大略先數其聲、卽是甲聲、以十干數之、辨其急緩、以定吉凶[やぶちゃん注:「世に「陰陽局鴉經」を傳ふる有り。東方朔の著はす所と謂へり。大略は、先づ其の聲を數へ、卽ち、是れ、甲の聲ならば、十干を以つて之れを數へ、其の急緩を辨じ、以つて吉凶を定む」。]。日本でも烏鳴きは必しも皆凶ならず、例せば、巳の時は女に依つて口舌有り、卯の時は財を得、午の時は得財吉、又口舌[やぶちゃん注:「財を得ること、吉、又、口舌あり。」。]猶委細は二中歷第九を覽なさい[やぶちゃん注:「みなさい」。]。錫蘭では烏は常に家邊に在る物なればとて、今日も其行動鳴聲から棲つた樹の種類迄考へ合せて吉凶を占ふ(Tennent 上に引いた處)。又烏は善く方角を知る故、人が知らぬ地へ往く嚮導や遠地へ遣る使者とした例が多い。酉陽雜俎に、烏地上に鳴けば凶く[やぶちゃん注:「あしく」。]、人行くに臨み烏が鳴いて前引すれば喜多しと有り。八咫烏が神武帝の軍勢を導きし事日本紀に見え、古希臘テーラの貴人バツトスが未知の地に安着して殖民し得たのも實に鴉の案内に憑つたので、鴉の義に基いて其地をキレーネーと命じた(Cox, “An Introduction to Folk-Lore,” 1895, p.104)。但し宣室志には軍出るに鳶や烏が後に隨ふは敗亡の徵と有る。ヘブリウの古傳にノア大洪水に漂(たゞよ)うた時、三つの鳥を放つに三度目の鴉が陸地を見出した。三つの鳥は鴉(からす)鴿(いへばと)鴿(はと)と云ふのと鴿燕鴉と云ふのと二說有るが、チエーンは鴉が最後に陸を發見した說を正とした。北米土人の話にも似た事があれど、鴉の代りに他の鳥としておる(“Encyclopaedia Britannica,” vol.vii, p.978)。又那威[やぶちゃん注:「ノルウェー」。]のフロキ氷州(アイスランド)に航せんと出立の際、三羽の鴉を諸神に捧げ、遠く海に浮んで先づ一羽を放つと元來し方へ飛往くを見て、前途猶遙かなりと知り、進行中又一羽を放つと空を飛び廻つて船に戾つたので、鳥も通わぬ絕海に有りと了(さと)つた。三度目に飛ばした奴が仔細構はず前進す。其を蹤(あとつ)けて船を進めて到頭氷州の東濱に著いたと云ふが、其頃那威にはオヂン大神の使物たる鴉を特別に訓練して神物とし、航海中陸地の遠近を驗す[やぶちゃん注:「ためす」。]に用ひたらしい(Mallet, “Northern Antiquties,” in “Bohn's Library,”  1847, p.188)。是に同軌の例、長阿含經十六、商人、臂鷹入海、於海中放、使彼鷹飛空、東西南北、若得陸地、便卽停止、若無陸地、更還歸船。[やぶちゃん注:「大蔵経テキストデータベース」で同経の当該部を確認したところ、「還」が脱落していることが判ったので挿入した。「商人、鷹を臂(ひぢ)にして海に入り、海中(うみなか)に於いて放つ。彼(か)の鷹をして、空を飛ばし、東西南北せしむ。若(も)し、陸地を得れば、則卽(すなは[やぶちゃん注:二字でかく訓じておく。])ち、停止し、若し、陸地無ければ、更に船に還歸(かへ[やぶちゃん注:同前。])る」。]。經律異相廿六には、大富人が海邊に茂林を作り烏多く栖む。其烏、朝每に飛んで遠隔の海渚に往き、明月の珠を噉ひ暮に必ず還る。件の長者謀つて百味の食を烏に與ふると、烏飽き滿ちて珠を吐出すこと夥し。長者之を得て大富と成つたと載す。奈女耆域因緣經に、耆婆[やぶちゃん注:「ぎば」。]が勝光王に殺さるゝを免れんとて、日行八千里の象に乘つて逃げるを神足能く其象に追付くべき勇士して逐はしむる、其士の名は烏と有る。是れ印度で烏を捷く飛ぶ事他鳥に超ゆとしたのだ。續群書類從の嚴島御本地に、五色の烏が戀の使して六年懸かる路を八十五日で往著く事有り。古英國のオスワルド尊者の使者も烏だつた(Gubernatis, vol.ii, p. 257)。

[やぶちゃん注:冒頭、改行されているのに、字下げがない。誤植と断じ、一字空けた。

「ワラスの著ダーヰニズム」ダーウィンと別に独自に自然選択を発見した優れたイギリスの博物学者で進化論者であったアルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace  一八二三年~一九一三年)が、一八八九年に発表したDarwinism: An Exposition of the Theory of Natural Selection, with Some of Its Applications (「ダーウィニズム:自然淘汰の理論の解説とその幾つかの適用例」)。

「禽經」春秋時代の師曠(しこう)の撰になるとされる鳥獣事典であるが、偽書と推定されている。全七巻。

「Tennent, “Sketches of the Natural History of Ceylonm” 1861, pp. 254-5」イギリスの植民地管理者で政治家であったジェームズ・エマーソン・テナント(James Emerson Tennent 一八〇四年~一八六九年)のセイロンの自然史誌。Internet archive」のこちらで、原本の以下の当該箇所が視認出来る

「Romanes, “Animal Intelligence,” 1881」「動物の知恵」は、カナダ生まれのイギリスの進化生物学者で生理学者であったジョージ・ジョン・ロマネス(George John Romanes 一八四八年~一八九四年)が一八八一年に刊行したもの。彼及び本書については、「生物學講話 丘淺次郎 附錄 生物學に關する外國書」の本文及び私の「ロマーネス」の注を参照されたい。

「Kirby,“The Hero of Esthonia,” 」イギリスの昆虫学者でフィンランドの民族叙事詩カレワラや北欧の神話・民話の翻訳紹介も行ったウィリアム・フォーセル・カービー(William Forsell Kirby 一八四四年~一九一二年)の同年出版の著作。「エストニア」はバルト三国では最も北にある現在のエストニア共和国(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『現在のエストニアの地に元々居住していたエストニア族(ウラル語族)と、外から来た東スラヴ人、ノルマン人などとの混血の過程を経て』、十『世紀までには現在のエストニア民族が形成されていった』。十三『世紀以降、デンマークとドイツ騎士団がこの地に進出して以降、エストニアはその影響力を得て、タリンがハンザ同盟に加盟し』、『海上交易で栄えた』。但し、『その後もスウェーデン、ロシア帝国と外国勢力に支配されてきた』とある。

「Southey,“Common-Place Book,” ed. Warter, 1876, 3rd Seris, p. 638」イギリスの、ロマン派の桂冠詩人にして「湖畔詩人」の一人であったロバート・サウジー(Robert Southey 一七七四年~一八四三年)の死後に纏められた著作集。「Internet archive」のこちらで、原本の以下の当該箇所が視認出来る。冒頭に「97」とあるのがそれだ。ローズ(薔薇)城で二十五年前に目撃した語りから始まっている。

 「檞」原文ではオーク(oak)。

「大神オヂン」北欧神話の主神にして戦争と死の神。北欧神話の原典に主に用いられている古ノルド語での表記は「Óðinn」で音写すると「オージン」に近い。一般に知られる「オーディン」は現代英語などへの転写形である「Odin」が元である。詩文の神でもあり、吟遊詩人のパトロンでもある。魔術に長け、知識に対しては非常に貪欲な神であり、自らの目や命を代償に差し出すこともあった。その名は「oðr」(狂った・激怒した)と「-inn」(「~の主」)からなり、語源的には「狂気、激怒(した者)の主人」を意味すると考えられている。しかし、こうした狂気や激怒が、シャーマンのトランス状態を指していると考えれば「シャーマンの主人」という解釈可能であるという。参照した当該ウィキによれば、『愛馬は八本足のスレイプニール』で、『フギン(=思考)』と『ムニン(=記憶)という二羽のワタリガラスを世界中に飛ばし、二羽が持ち帰るさまざまな情報を得ているという。また、足元にはゲリとフレキ(貪欲なもの』『)という』二『匹の狼がおり、オーディンは』、『自分の食事は』、『これらの狼にやって』、『自分は葡萄酒だけを飲んで生きているという』とあった。

「Collin de Plancy, “Dictionnaire infernal,” Bruxelles, 1845, p.347」コラン・ド・プランシー(J. Collin de Plancy 一七九四年或いは一七九三年~一八八一年或いは一八八七年)はフランスの文筆家。当該書は「地獄の辞典」で、悪魔・オカルト・占い・迷信・俗信及びそれらに関連した人物のエピソードなどを集めた辞書形式の書籍。一八一八年に初版が発行されている。

「烏をアポロ神豫言の標識とし」これとは違うが、アポロンとカラスの神話上の関係については、chimaltovさんのブログ「ギリシャ神話あれこれ」の「カラスの失着」には、狡猾な使者でよく嘘をつき、遂には黒い羽と嗄れ声に変えられてしまったとあり、その理由が判り易く書かれている。

「本草集解」時珍の「本草綱目」の巻四十九の「禽之三」の「烏鴉」の「集解」(産地等についての注記解釈)。「漢籍リポジトリ」のこちらの[114-10b]の画像と電子化を参照されたい。なお、以下については、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」の「北人は鴉を喜びて、鵲〔(かささぎ)〕を惡〔(にく)〕む。南人は、鵲を喜びて、鴉を惡む」の私の注も参照されたい。「鵲」はスズメ目カラス科カササギ属カササギ亜種カササギ Pica pica sericea

「酉陽雜俎に、世有傳陰陽局鴉經……」不審。「酉陽雜俎」にはこの記載は見当たらない。「維基文庫」の「古今圖書集成」を調べたところ、「禽異部雜錄」の「容齋續筆」からの引用の最後に、「世有傳陰陽局鴉經。謂東方朔所著。大略言凡占烏之鳴。先數其聲。然後定其方位。假如甲日一聲、卽是甲聲。第二聲爲乙聲、以十干數之、乃辨其急緩、以定吉凶。葢不專於一說也。」とあった。「容齋續筆」は南宋の政治家で儒学者の洪邁(一一二三年~一二〇二年)の考証随筆。まず「容斎随筆」が一一八〇年に公刊されたが、時の孝宗が、その議論の内容が優れていることから、賞賛した。「続筆」は一一九三年で、後に「三筆」・「四筆」と続き、「五筆」の執筆途中で没した。参照した当該書のウィキによれば、『日本では、荻生徂徠が』「示木公達書目」『の中で、好学の士のための必読書としてこの書目を挙げている』とある。

「二中歷第九」「二中歷」(にちゅうれき)は鎌倉初期に成立したとされる事典。当該ウィキによれば、『その内容は、平安時代後期に成立した』「掌中歴」と「懐中歴」の『内容をあわせて編集したものとされている。現代では「掌中歴」の一部が現存する』だけである。『掌中歴と懐中歴は三善為康』(永承四(一〇四九)年~保延五(一一三九)年)の手になる、平安『後期のものと推定されているが』「二中歴」の『編纂が誰によるものであるかは不明である。現代には尊経閣文庫本と呼ばれる、加賀・前田家に伝わる古写本が残されているのみで、これは鎌倉時代後期から室町時代にかけての、後醍醐天皇のころに作られたと考えられている』とある。その「第九」は「医方・呪術・怪異・種族・姓尸・名字」の項が掲げられている。国立国会図書館デジタルコレクションにある写本の「恠異歷日時」のここ(左丁末の「烏鳴」)である。見ましたよ、熊楠さん。

「八咫烏が神武帝の軍勢を導きし事日本紀に見え」「日本書紀」巻第三の神武天皇即位前の戊午年(機械換算で紀元前六六三年)の「六月丁巳」(二十三日)の条に、

   *

于時、天皇適寐。忽然而寤之曰、「予何長眠若此乎。」。尋而中毒士卒、悉復醒起。既而皇師、欲趣中洲、而山中嶮絕、無復可行之路、乃棲遑不知其所跋渉。時夜夢、天照大神訓于天皇曰、「朕今遣頭八咫烏、宜以爲鄕導者。」。果有頭八咫烏、自空翔降。天皇曰、「此烏之來、自叶祥夢。大哉、赫矣。我皇祖天照大神、欲以助成基業乎。」。是時、大伴氏之遠祖日臣命、帥大來目、督將元戎、蹈山啓行、乃尋烏所向、仰視而追之。遂達于菟田下縣、因號其所至之處、曰菟田穿邑。穿邑、此云于介知能務羅。于時、勅譽日臣命曰「汝忠而且勇、加能有導之功。是以、改汝名爲道臣。」。

   *

とあるのを指す。国立国会図書館デジタルコレクション岩波文庫の黒板勝美訓読・編の「日本書紀」の「中卷」の当該部をリンクさせておく。

「古希臘テーラの貴人バツトスが未知の地に安着して殖民し得た」現在はリビア領に含まれ、キュレネ(この半島先端附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)には紀元前七世紀末に、飢饉に襲われたテラ島(現在のギリシャのサントリニ島)住民の一部がバットスBattosを植民指導者として、この沃地に入植(紀元前四世紀に再録された植民決議の碑文がキュレネのアゴラから出土している)、バットス一門の王政は紀元前五世紀半ばまで続いた。その後、プトレマイオス王朝の支配を経て,紀元前七四年にローマの属州キレナイカとなった(以上は平凡社「世界大百科事典」の「キュレネ」の記載に拠った)。

「Cox, “An Introduction to Folk-Lore,” 1895, p.104)」イギリスの民俗学者で「シンデレラ型」譚の研究者として知られるマリアン・ロアルフ・コックス(Marian Roalfe Cox 一八六〇年~一九一六年:女性)の「民俗学入門」。「Internet archive」の当該原本のここ

「宣室志」唐の文語伝奇小説集。張読の著。もとは十巻あったと思われるが、散逸して現在は「稗海」や「重較説郛」(ちょうこうせっぷ)などに一部が収録されているのみである。著者は「霊怪集」を書いた張薦の孫で、礼部侍郎まで進んだ(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。因みに、私が偏愛する中島敦の「山月記」(リンク先は私の古い電子化。『中島敦「山月記」授業ノート 藪野直史』もある。私が高校教師時代、漱石の「こゝろ」とともにオリジナルな朗読に拘った作品である)は、その直接の素材を唐代伝奇の李景亮「人虎伝」に拠るが、本書に載る「李徴」も同じ内容を持つ古い譚であることが知られている。以下の凶兆については、第一巻に載る。「中國哲學書電子化計劃」の影印本で原記載が確認出来る。影印から起こしておく。

   *

柳公濟尚書、唐大和中、奉詔討李同犍。既出師、無何、麾槍忽折。客有見者、嘆曰、「夫大將軍出師、其門旌及麾槍折者、軍必敗衂。不然、上將死。」。後數月、公濟果薨。凡出軍征討、有烏鳶隨其後者、皆敗亡之徵。有曾敬雲者、嘗為北都裨將。李師道叛時、曽將行營兵士數千人、毎出軍、有烏鳶隨其後、必主敗、率以為常。後捨家爲僧、住於太原凝定寺。太和九年、羅立言為京兆尹、嘗因入朝、既冠帶、引鏡自照、不見其首。遂語於季弟約言。後果為李訓連坐、誅死。

   *

「ヘブリウ」古代イスラエルの別称ヘブライ。

「ノア大洪水に漂(たゞよ)うた時、三つの鳥を放つに三度目の鴉が陸地を見出した。三つの鳥は鴉(からす)鴿(いへばと)鴿(はと)と云ふのと鴿燕鴉と云ふのと二說有るが、チエーンは鴉が最後に陸を發見した說を正とした」ウィキの「ノアの方舟」の「ギルガメシュ叙事詩」の同説話の記述の中で、主人公を「ウバルトゥトゥの子、シュルッパクの人」「ウトナピシュティム」とし、洪水が起こって『七日目に、ウトナピシュティムはまず』、『鳩をはなした。鳩は休み場所が見あたらずにもどってきた。つぎは燕をはなしたが』、『同じ結果になった。そのつぎには』、『大烏』(おおがらす。現在は、スズメ目カラス科カラス属ワタリガラスCorvus corax に比定されている)『をはなしたところ、水がひいていたので』、『餌をあさりまわって』、『帰ってこなかった。そこで彼は山頂に神酒をそそぎ、神々に犠牲をささげた』とある。

“Encyclopaedia Britannica,” vol.vii, p.978」「Internet archive」で同巻の当該ページを見たが、違う。巻数かページが違うか?

「Mallet, “Northern Antiquties,” in “Bohn's Library,”  1847, p.188」デンマークの文学やケルト神話及びスカンジナビアの著作をものした、スイスのジュネーブの作家パウル・ヘンリ・マレット(Paul Henri Mallet 一七三〇年~一八〇七年)の「Northern antiquities, or, An historical account of the manners, customs, religion and laws, maritime expeditions and discoveries, language and literature of the ancient Scandinavians 」(「北部古代遺跡 又は 古代スカンジナビア人の習俗・習慣・宗教と法律 海上探検と発見 言語と文学の歴史的説明」)。Internet archive」のこちらで原本当該部が視認出来、その下部の注記の箇所に熊楠の言っている内容が書かれてある。

「經律異相」五十巻。梁の宝唱が五一六年に撰した仏書。「経」と「律」とに散説されている諸事項を、十四に分類して抜粋した一種の百科事典。説話文学の宝庫(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。選集では「廿六」ではなく、『三六』とする。国文学研究資料館の影印本(和刻本)を調べたところ、これは選集が正しいことが判った。この画像の「巻第三十六」「雜行長者部下」の冒頭の「迦羅越以飽食※ㇾ鳥令ㇾ出腹中珠」(※は「グリフウィキ」のこれ。「施」の異体字)である。但し、哀しいかな、一貫して原本では「烏」ではなく、「鳥」となってるんですけど? 熊楠先生? でも、まあ、海辺の林に棲みつく雑食性の鳥であれば、高い確率で、ハシボソガラスであろうからいいでしょう!

「奈女耆域因緣經」個人サイト「無料で読める現代語訳仏教」の「マンゴー娘と名医の物語 『佛説㮈女祇域因縁經』」によれば、後漢の僧安世高訳「佛說㮈女祇域因緣經」の後出し版らしい。因みに、同ページによれば、それが前の「經律異相」に所収しているらしい。流石に、ちょっと疲れたので、探す気は、ない。

「耆婆」インドの医師で、釈尊と同時代人。サンスクリット語「ジーヴァカ」の漢音写。美貌の遊女サーラバティーの私生子として生まれ、一説には、誕生後、捨てられ、ある王子が拾って養育したとされる。名医として有名であると同時に、釈尊の教えに従った人物として知られる。彼に関しては、多くの伝説が残され、釈尊の病を治療したこと、また、「釈尊の教えに従えば、彼の治療が受けられる。」と考えた一般人が、治療を受けたいばかりに、仏教に入門するのを心配して、釈尊にその対策を献案したこと等が伝えられている。その原名を漢訳して「活童子」「壽命童子」「能活」などとも呼ばれ、中国の名医扁鵲と並び称される(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)

「勝光王」紀元前六世紀頃又は同五世紀頃の古代インドに栄えたコーサラ国の王プラセーナジット(漢訳:波斯匿王(はしのくおう))の漢訳異名。当該ウィキによれば、『一説には、ヴィドゥーダバ王子は、釈迦族の指導者が召使に生ませた娘を母親として生まれた、と釈迦族の者が馬鹿にするのを聞いて、父・母・釈迦族を憎み、釈迦族を滅ぼす決意をした、とする』とあった。

「八千里」中国では周・漢の時代から、永く、一里の長さは四百メートルであった。それでも三千二百キロメートルである。

「嚴島御本地」国立国会図書館デジタルコレクションの「續群書類從」第七十五の「神祇部七十五」の冒頭に配されてある。以下の「五色の烏が戀の使して六年懸かる路を八十五日で往著く」の下りはここ

「オスワルド尊者」アングロサクソン七王国のノーサンブリア王オズワルド(King Oswald 六〇四年~六四二年)。「聖パウロ女子修道会(女子パウロ会)」公式サイト「Laudate」の 聖人カレンダー」の「8月9日 聖オズワルド(ノーサンブリア)殉教者」によれば、六一六『年に、ノーサンブリアの王であった父が、イーストアングルの王に殺されたため、オズワルドら』三『人の王子はスコットランドに逃亡し、アイオナの修道院で育てられ、そこで洗礼を受けた』。『その後』、二『人の兄弟たちが、イギリスのカドウェル王に殺されたとき、オズワルドは軍隊を率いて王と闘った。そのとき、十字架を作らせ、兵士たちとともにひざまずいて祈り、勝利を得たといわれる』。『オズワルドは、父の王座を取り戻して王位に就いた。その後アイオナの修道士を宣教師としてノーサンブリアに招き、派遣されたアイダン神父にリンディスファーンの島を与えて宣教の援助をした。しかし』、『異教徒マーシア王との戦いに破れ、戦死するが、そのとき「神よ、彼らの魂をあわれみたまえ」と言って亡くなったという』。『オズワルドはイギリスの偉大な英雄として崇められている』とある。英文の彼のウィキに、「Reginald of Durham recounts another miracle, saying that his right arm was taken by a bird (perhaps a raven) to an ash tree, which gave the tree ageless vigour; when the bird dropped the arm onto the ground, a spring emerged from the ground.」という記載があり、彼の死の秘蹟とカラスの関連性が認められる。

「Gubernatis, vol.ii, p. 257」本篇で既出のイタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。Internet archive」の第二巻原本の当該部はここ。]

2021/12/17

曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 西羗北狄牧菜穀考(その4) / 西羗北狄牧菜穀考~了

 

   苜蓿追考

 一日、屋代輪池翁、予が爲に小草一株を採しめて、その寫眞の圖一頁とともに寄せていはく、

「是は、これ、苜蓿なり。江戶中にも、墟地にあり。こは、昌平橋の邊[やぶちゃん注:「ほとり」と訓じておく。]なる堤に生たるものなり。」

と、いへり。予、これを觀るに、その草、「本草綱目」に所云[やぶちゃん注:「いふところの」。]、「苜蓿」に似ず、葉は「芳宜」のごとく、三葉、相巡[やぶちゃん注:「あひめぐ」。]りて、「いちご」の葉にも似たり。花は、さゝやかにて、其色、黃なり。實は、まろくして、やはらかき、剌、あり。おもふに、こは、「本草綱目啓蒙」に載するもの、すなはち、一種の苜蓿にて、眞の苜蓿には、あらず。しかれども、交遊の厚義・忠告、予が考索を、たすけらる。よろこぶベし、よろこぶべし。よりて、再び考るに、「本草啓蒙」【卷二十三。】に云、『苜蓿、オホヒ【「和名抄」。】、カタバミ、ウマコヤシ、マコヤシ、サバシツバ、カラクサ、アンヅル【城州一乘寺村。】、コツトイコヤシ【藝州。】、一名「連理草」【「陝西通志」。】、𦱒蓿【「品字箋」。「𦱒」は「苜」の俗字。】。

[やぶちゃん注:「墟地」ここでの場合は「荒地」というよりも、古くからあって、人の手がそれほど頻繁には入らない地所の謂いと思われる。でないと、昌平橋そばの堤(つつみ)というロケーションと一致しないからである。

「昌平橋」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「芳宜」(はうぎ)は「芳宜草(はうぎさう(ほうぎそう))」で、萩(マメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza )の別称。

「本草綱目啓蒙」本草家として知られる小野蘭山(享保一四(一七二九)年~文化七(一八一〇)年)の講義及びその講義録「本草綱目紀聞」を、彼の高弟らが、文語調に改め、出版したもの。第一版は享和三(一八〇三)年で、以後、数多く増補改訂して出版されている。明の時珍の、本邦での本草書のバイブル「本草綱目」の導入以降、わが国の本草学は急速に発展したが、その方向は次第に博物学へと発展進歩したが、そうした中でも本邦本草学の頂点に立つ著作で、体裁は「本草綱目」の解説書であるが、数多くの和漢古書を引用し、自説を加えるなど、内容は豊富である。とくに個々の薬物名(動・植・鉱物名等)に於いては、日本各地の方言名も記されており、本草書としてばかりでなく、植物学・言語学の領域でも利用価値が甚だ高い。蘭山の本書口述の理由の一つには、貝原益軒の「大和本草」に誤りが多く、それを批判的に正す目的があったとも私は聞いている。私も和書の博物書としては非常に好きなもので、しばしばお世話になっている。国立国会図書館デジタルコレクションで全巻が読め、ダウン・ロードも出来るが、一括一発でそれが出来る「人文学オープンデータ共同利用センター」のこちらを利用されるのがよい。画像が明るく明瞭で極めて読み易く(刊本自体が非常に綺麗な作りで、漢字カタカナ交りの非常に読み易い楷書であって若い方にもお薦めである)、私もそれで全巻を入手して重宝している。但し、ここでは指示が簡単な国立国会図書館デジタルコレクションで示す。「卷二十三」の「菜部」の「菜之二」のここである。馬琴の引用の版と、名称の部分が少し違うので、以下に全部を電子化しておく(「乄」は「シテ」の約物)。

   *

苜蓿

  オホヒ【「和名鈔」。】  カタバミ ムマゴヤシ

  マゴヤシ      サバ      ミツバ

  カラクサ      ヱンザヅル【城州一乘寺村。】

  コツトイゴヤシ【藝州。】

 〔一名〕連理草【「陝西通志」。】 𦱒蓿【「品字箋」。「𦱒」ハ「苜」ノ俗字。】

 原野ニ多シ。秋間、子、生ズ。長ジテ、一根ニ、叢生ス。莖、地ニ布テ[やぶちゃん注:「しきて」。匍匐して。]、蔓ノ如シ。長サ、一、二尺。葉、互生ス。形、隨軍茶ノ葉ニ似テ、小ク、五、六分ノ大サニ乄、邉ニ、細鋸齒アリ、深緑色。三月、葉間ニ、三、五、小花穗ヲナス。黃色、隨軍茶(ハギ)花ニ似テ小シ。後、莢ヲ結ブ。卷曲乄、柔刺アリ。夏月、熟シテ、苗・根、共ニ枯ル。一種、葉間ニ細莖ヲ生ジ、數花、毬ヲナス者アリ。

   *

この「隨軍茶(はぎ)」は、現行では狭義にヤマハギ Lespedeza bicolor var. japonica を指す。「一乘寺村」京都府京都市左京区の北東部に一乗寺地区。現在の、概ね左京区内の「一乗寺」を町名に冠する地区の総称。左京区の北東部に位置し、東は比叡山、南は田中、西は高野、北は修学院と接する。この附近「連理草【「陝西通志」。】」(同書は清の沈清崖の陝西の地誌)とあるが、「中國哲學書電子化計劃」の影印本で見ると、「中京雜記」出典で「連枝草」とあり、誤りである。

 以下、底本では「輪池堂の記に……と、いへり。」までが、全体が一字下げ。]

 原野に多し。秋間、子、生ず。長じて、一根に、叢生す。莖、地に布て、蔓の如し。長さ、一、二尺。葉、互生す。形、隨軍(はぎの)茶葉に似て、小く、五、六分の大さにして、邊に、細き鋸齒、あり、深綠色なり。三月、葉間に、三、五、小花穗を、なす。黃色、隨軍茶の花に似て、小し。後、莢を結ぶ。卷曲して、柔刺、あり。夏月、熟して、苗・根、共に、枯る。一種、葉間に細莖を出して、數花、毬をなすものなり。

 輪池堂の記に、『「金光明最勝王經」、「辨才天女品湯藥十五」、苜蓿、其一也』。と、いへり。

[やぶちゃん注:先に示した「大蔵経テキストデータベース」で示した「金光明最勝王經」のそれは「大辯才天女品第十五」の文中にある。ここでは、中文サイト「福智全球資訊網」の電子化されたものをリンクさせる。二段落目にある。]

 

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[やぶちゃん注:苜蓿の第一図である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。]

 

 愚、按ずるに、「西京雜記」に載する所の漢の苜蓿園、風、その間に在れは、蕭々然たり。よりて「懷風」と名づく。又、光風と名づく、とあるに據るときは、その高さ、三、四尺にして、「芳宜」のごときものならん、と思はる。しかるに、「啓蒙」には、『莖は地に布て、蔓の如し。長、一、二尺。』といへば、無下に小草なり。この土[やぶちゃん注:「ど」。本邦の意。]の苜蓿は、形のごとくの小草なる故に、常に刈とりても、牛馬に飼ふにて、足らず。まいて、荒年の夫食にするに足るものならねば、むかしより、植るもの、なきななるべし。すべて草木・藥品は、和漢のたがひありて、形の小大も、おなじからず。その効能も、互に異にして、且、優劣あり。かゝれば、この土の苜蓿は、西羗の苜蓿と、おなじからず。縱[やぶちゃん注:「たとひ」。]、牛馬に飼ふとも、牛馬を肥す効能の有無、はかりがたし。況や、苜蓿に似たるものをや。只、名によりて、その物を擇むことの疎[やぶちゃん注:「おろそか」。]ならば、亦、何の益あらん。さて、和品の苜蓿は、、かばかりの小草にては、牛馬に飼ふに足るべくも、あらず。しかれども、皇國にても、西國・北國・蝦夷地などには、彼[やぶちゃん注:「かの」。]西羗のものにひとしく、いと大きなる苜蓿あらんか。これも亦、しるべからず。今、江戶にある苜蓿は、その葉こそ相似たれ、花は穗をなさずして、子も亦、圓扁たることなし。卷曲もせず、圓く、小さし。名のおなじきに泥まずして[やぶちゃん注:「なじまずして」。]、採るもの、よろしく辨ずべし[やぶちゃん注:「ず」の濁点は吉川弘文館随筆大成版で補った。]。

 

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[やぶちゃん注:苜蓿の図のその二。引用は同前。右上に「子」(たね)、左上に「花」とある。]

 

[やぶちゃん注:以上、蘭山の言っている黄色い花で、相対的に大きいとするのは、やはり現在のマメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ連ウマゴヤシ属ウマゴヤシ Medicago polymorpha を指していることが、明白である。なお、ウマゴヤシの原産はヨーロッパで(私は「うまごやし」というと、偏愛するルナールの「にんじん」を思い出す。私の二〇〇八年の古いサイト電子化「ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」の「苜蓿」を見られたい)であるが、江戸時代には日本に入ってきている、当時は新しい帰化植物であった(思うに、南蛮貿易の割れ物のクッションにウマゴヤシの葉が使用されたのではないかと私は考えており、本来は意図的に持ち込まれた外来種ではないと思う)。現在でも、しっかり全草を肥料・牧草にするので、「馬肥(うまごやし)」の他、「特牛肥(こっといご)やし」(「こつとい」は古くは「こというじ」とも呼んだ。頭が大きく、強健で、重荷を負うことの出来る牡牛。「ことい」「こってい」「こといのうし」とも呼んだ)の名がある。以上の馬琴の「馬の飼料にはならない」と貶して言っている方は、まさしく、現在も民間通称として生きている噓の「うまごやし」、私の愛するマメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens であると断じてよい。

「夫食」(ふじき)と読む。平時でも農民の食料一般を指したが、特に米以外の雑穀を指すことが多く、地方によっては芋や蒟蒻を主食とし、それを意味する場合もあった。幕府・諸藩は凶作に備えて、救荒備蓄としてそうした穀類や蔬菜の貯留を奨励したり、凶作・飢饉時には救済のため、貸付(夫食貸) も行なったが、現在の政府と同じで、その貸付・返済をめぐっては、農民闘争の原因となることが多かった。

以下、「草案なり。」までは、底本では全体が一字下げ。]

 松前老候の懇によりて、前日、「牧馬菜穀考」一編を綴りて、まゐらせしに、輪池翁の好意によりて、一種の苜蓿を得たりしかば、又、この追考の編をも、まゐらせて、件の草をも見せまゐらせき。こは、その折の草案なり。

 乙酉六月廿五日      瀧 澤 解 識

未見の人、紀藩の源珪甫、その著す所の「禹鑿堂漫錄」五卷を、予に寄せて、その書の校正及び序文を請へり。きのふ、友人文寶亭、その書を屆け來りしかば、燈下に繙閱する程に、「第三卷 本草」と題せし條に、苜蓿の事、有。その辨論、愚意と暗合したるをもて、こゝに錄して、遺忘に備ふ。

『「禹鑿堂漫錄」に云、『「前漢書」、『樓護通本草。』』。古の本草は簡約なるべし。今は衆口雜駁、日を逐て、臆說を累に[やぶちゃん注:「かさぬるに」。]、派別・支流して、其眞を失へり。夫、物は一種にして、名に方言の違ひあり。蒹葭・蘆荻・藋葦・菼薍・薕虇は、みな、一種にして異ならず。難波の蘆は伊勢の濱荻の如し。强て辨別せば、却[やぶちゃん注:「かへつて」。]、魯魚の惑をなさん。今、所謂、苜蓿は三葉の水草、暮春、黃花を開く。近年、京師の某、苜蓿九名を著す。カタバミ・馬肥シ・サバヱンドウ・マコヤシ・コツトヰコヤシ・ヱンツル・カラクサ。ケンケ、如ㇾ此。「蓬窓續錄」に【馮可時。】」云、『古稱蓼杖、卽苜蓿也。』。一書曰、「苜蓿、根粉を剪て塗る時は、辷り、能して不ㇾ用人手而行。」とあり。此は葛粉の如き者なり。「西京雜記」曰、『苜蓿一名懷風。又或謂之光風。風在其間、常に蕭々然たり。日照其花光采。故名苜蓿愼風。茂陵人謂之連枝草。』。按ずるに、苜蓿は山葛の類、藿葉也。馬に飼べし。水草にあらざること可ㇾ知。又、菰といふもの、今以ㇾ蒲當ㇾ之誤也。「周禮」に、『六穀の菰』、註に『彫胡』とあり。美濃國、土俗、所謂、「花がつみ」、卽、「彫胡」なるべし。水面に浮て、白花を開く。實は蕎麥に似て、味、甘美也。粉にして食ㇾ之。杜詩に『波漂菰米沈魚黑』。由ㇾ是、觀ㇾ之、浮萍之類なる事、明し[やぶちゃん注:「あきらけし」。]矣。

[やぶちゃん注:「松前老候」ここでやっと明示された。正編でもしばしば登場した先代の第八代松前藩藩主松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)である。彼は文化四(一八〇七)年五十四の時、藩主在任中の海防への取り組みの不全や、吉原の遊女を妾にするなどの素行の悪さ(遊興費が嵩み、商人からの借金が嵩み、藩の財政も窮乏していた)を咎められ、幕府から謹慎(永蟄居)を命ぜられていた(後の文政五(一八二一)年には謹慎は解かれた)。馬琴の長男琴嶺舎滝沢興継は松前藩の医員であったため、馬琴が最も親しい大名であったのである。]

「牧馬菜穀考」馬琴が個人的に献じたものらしい。活字では残っていない模様である。

「乙酉」文政八(一八二五)年。

『紀藩の源珪甫、その著す所の「禹鑿堂漫錄」』高牧實氏の論文「滝沢馬琴 書籍の蒐集・抄録・借覧 ㈣完」PDF)の「追補」(PDF54コマ目・ページでは58ページ)に、

   《引用開始》

 「禹鑿堂漫録」 天保十三年九月二十六日篠斎宛書翰(『馬琴書翰集成』第六巻 六一・六二頁)に、全五巻を、下谷御徒歩衆で走書の名人に筆料金一両一分で写させたことがみえる。紀州の学士某弥学の随筆、友人文宝亭の紹介で序文と校訂を頼まれたが、潤筆料の件で破談して原本返送を催促されたので、急いで写させて返本した、といゝ、篠斎に売り渡すべく見本一巻を送本した。近来の随筆の第一の好書、年来の愛書、是迄、誰にも見せていない、と申し送っている。写させた時期については詳らかでない。

   《引用終了》

とあるのが本書である。渡辺竜門及び源珪甫の名で、こちらの書誌に「龍門漫録」全五巻・附録一巻とし、「タイトル別名」に「禹鑿堂漫録」「龍門廢語」「龍門廢話」とある。他に調べて見ると、源珪甫の名で「類聚伊勢誌」という地誌らしきものも書いているようである。但し、同書はネット上では閲覧出来ない模様である。にしても、高牧氏の以上の記載には、あきれるほど、憮然とするではないか! 馬琴は自分が考証して口述したものを、一説として、勝手に自分の作品に書き記した中神梅龍園を恨んでいる(『曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 江戶地名考小識』を見よ)くせに、ここでは――仕事料が安過ぎて破約となり、返本を要求されたため、急いでその写本を作らせ、それを別な人物に売り渡そうとした――というトンデモない詐欺行為を働こうとしてるじゃないか! クソ馬糞、基! 馬琴がッツ!

「萬堅堂漫錄」不詳。

「樓護通本草」「漢書」の「傳」の中にある「游俠傳」の一節に、

   *

樓護、字君卿、齊人。父世醫也。護少隨父爲醫長安、出入貴戚家。護誦醫經・本草・方術、數十萬言、長者咸愛重之。共謂曰、「以君卿之材、何不宦學乎。」。繇是辭其父、學經傳、爲京兆吏數年、甚得名譽。

(樓護、字(あざな)は君卿、齊(せい)の人。父は世醫なり。護、少(わか)くして、父に隨ひ、醫を長安にて爲(な)し、貴戚の家に出入せり。護、醫經・本草・方術を誦(そらん)ずること、數十萬言、長者は咸(みな)、之れを愛し重じたり。共に謂ひて曰はく、「君卿の材を以つて、何ぞ宦學(くわんがく)せざらんか。」[やぶちゃん注:「仕官の道を選ばぬのか?」]と。是れに繇(したが)ひて、其の父に辭して、經傳(けいでん)[やぶちゃん注:儒教の経書とその注釈書。]を學び、京兆の吏と爲(な)りて、數年、甚だ名譽を得。)

   *

とある。実は「本草」という言葉が漢籍に出現するのは、現存書では「漢書」が最初なのである。ここはただその濫觴を言ったに過ぎない。

「蒹葭・蘆荻・藋葦・菼薍・薕虇」恐らく総てヨシ(イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis )の類を指すものと考える。

「魯魚の惑」「魯魚(烏焉(うえん)・亥豕(がいし))の誤り」のこと。「魯」と「魚」、「烏」と「焉」、「亥」と「豕」とは、孰れも字形が似通っていて誤りやすいところから、 文字の誤り。但し、ここでは、文字の違いで、異物と判断する誤謬を言っている。

「水草」これは湿地或いは潤いのある地面を好む草の謂いであろう。

「サバヱンドウ」意味不明。

「ヱンツル」同前。

「カラクサ」「唐草」。中国渡来由来。

「ケンケ」紫雲英(げんげ)。マメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ属ゲンゲ Astragalus sinicus 。マメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens とは別種であるが、葉がちょっと似て見える。シロツメクサとゲンゲを同じものと思っている人は、案外、多い。

「蓬窓續錄」「【馮可時。】」明の政治家馮時可の誤り。一六六一年成立の随筆。

『「西京雜記」曰……』(その3)で当該部も含めて既注済み。

「山葛」マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ変種クズ Pueraria montana var. lobata ? ぜんぜん、ちゃいまんねん! なお、「山葛羅」で、ヒカゲノカズラ植物門ヒカゲノカズラ綱ヒカゲノカズラ目ヒカゲノカズラ科ヒカゲノカズラ属ヒカゲノカズラLycopodium clavatum の異名もあるけんど、あれは、ごっつう大きいスギゴケにしか見えへんから、それもちゃうわ!

「藿葉」不詳。「藿」(音「カク」)は「豆」の意だから、豆のような葉の意か。「藿香」で「かはみどり」と読めば、薄荷の匂いのするシソ目シソ科カワミドリ属カワミドリAgastache rugosa があるが、ウマゴヤシとは似ても似つかぬもので、違う。単なる感じだが、馬はカワミドリは食わんと思うね。

「菰」前に出したマコモのこと。

「花がつみ」は美濃に限定せず、全国的にマコモの異名として知られる。清音「はなかつみ」とも呼び、漢字は「花勝見」「花勝美」などを当てる。但し、もとは万葉以来の古語(序詞の末に置いて、「かつ」を引き出すために用いられることが多い)で、マコモに限定は出来ず、広義に水辺に生える花や穂を出す草花の総称と思われ、「まこも」以外の「花あやめ」「よし」「かたばみ」などの諸説がある。さらに、この記者は最後に「浮萍之類なる事、明し」なんて言っているところは、不審で、これはじぇんじぇん違う、菱(フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica )を想定しているようにしか思えない。

「杜詩に『波漂菰米沈魚黑』」「魚」は「雲」の誤り。「波は菰米(こべい)を漂はして 沈雲 黑く」。所持する一九六六年岩波文庫刊「杜詩」(鈴木虎雄・黒川洋一訳注・全八冊。本篇は第六冊所収)で確認した。七六六年杜甫五十五歳の時の作。「秋興 八首」の「七」の七言律詩の第五句。訳では、『そうして黒くみのった菰米は波にただよわされてその影が沈める雲の黒きが如くみえ、』とある。語注には『菰米 彫蔀米というものである、まこもに似ている植物にみのる一種の米である。』とあるが、中文ウィキの「菰」を見ると、食用部の異名の一つに「彫胡米」が記されてあるので、やはりマコモでよい。全詩は、紀頌之氏の「杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会」のこちらを見られたい。

 以下、底本では全体が一字下げ。]

 解云、皇國の苜蓿を水草とする事、これも亦、非なり。

ブースカの夢

ブースカが好きだった亡くなった女友だちの夢を見た――最後にブースカと彼女が一緒に野原に佇んでいた――涙が――出た…………

2021/12/16

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 俳句 / 「萩原朔太郎詩集 遺珠」(小學館刊)~了

 

    俳  句

 

[やぶちゃん注:パート標題。]

 

 

     (我が齢すでに知命を過ぎぬ)

 枯菊や日々にさめゆく憤り

 

 

     (若き日の希望(のぞみ)すべて皆空しくなりぬ)

 秋さびし皿みな割れて納屋の隅

 

 

     (鳴呼すでに衰へ、わが心また新しく泣かむとす)

 冬日くれぬ思ひ起せや岩に牡蠣

 

 

     (故鄕に歸れる日、利根の河原をひとり步きて)

 磊落と河原を行けば草雲雀

 

 

     (わが幻想の都市は空にあり)

 虹立つや人馬賑ふ空の上

 

 

     (隱遁の情止みがたく、芭蕉を思ふこと切なり)

 籔蔭や蔦もからまぬ唐辛子

 

 

     (晩秋の日、湘南の或る侘しき海水浴場にて)

 コスモスや海少し見ゆる邸道

 

[やぶちゃん注:「知命」数え五十歳のこと。萩原朔太郎(明治一九(一八八六)十一月一日生まれ)は昭和一七(一九四二)年五月十一日、満五十五(数え五十七)歳で感冒をこじらせて肺炎で亡くなった。以上は、現在、筑摩版全集の「短歌・俳句・美文」の「俳句」パートで見られる。編者による仮標題は「『遺稿』より」で、当該全集の下段の原稿版では、「牡蠣」に「かき」とルビがあり、最終句の前書については、

   *

   晩秋の日、相南の或る侘しき海水浴塲にて

   *

の表記となっている。また、同全集では先行する類句(初期形と言ってよい)への参考指示が「枯菊や」・「秋さびし」・「冬日くれぬ」・「虹立つや」の句に附されてあり、また、最後に編者注があって、この『遺稿の七句は、一括して雜誌發表の意圖があったらしく、自筆で割付指定がしてあった。』とあるから、まさに本書「遺珠」の掉尾に配するに相応しいものであったと言えるのである。なお、私は非常に古く、十七年前の二〇〇七年十月にオリジナルな「やぶちゃん版萩原朔太郎全句集」横書版と、同縦書版を公開してある。但し、作成がユニコード以前であるため、正字表記は不全である(ずっと直したいとは思っているのだが、朔太郎の俳句は御世辞にも上手くないので、今一つ、食指が動かないのが本音である。但し、以上の内、「枯菊や」と「秋さびし」及び「冬日くれぬ」の三句は朔太郎の代表句として評価できる出来栄えであると感じてはいる)のは、お許しあれかし。

 さて。以下、「詩作品發表年譜」及び『「遺珠」小解』と本シリーズの「萩原朔太郞詩集(小學館刊)收錄内容」と奥附が続くが、『「遺珠」小解』は重要なので、既に本電子化注の冒頭に特異的に電子化済みであり、その他は敢えて電子化する価値を認めないので、以上のリンクに留めた。

 最後に、投稿の都度、いつも、ツイッターで「いいね」をして下さった「みかげ」さんに心から謝意を表する。――ありがとう! みかげさん!――]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 ADVENTURE OF THE MYSTERY

 

    ADVENTURE OF THE MYSTERY

 

 巧みな演奏者によつて奏された美しい音樂をきくとき、その旋律の高潮に達したとき、私共のしばしば味ふことのできるあの一種の快よい感覺と、その瞬間の誘惑にみちた世界の敍景に就いて。

 凡そ音樂の展開する世界の眺望はたぐひなきものである。それは現實の世界では到底想像することもできない、一種の異樣な香氣とかがやきに充ちた世界である。

 そこではあるひとつの不思議な情緖が、魔術のやうな魅惑を以て、私共の精神の全面を支配するやうに思はれる。

 そのむず痒いやうな感覺。何ともいへない樂しい世界へ、今少しのことで手が屆きさうに思はれるときの快よい焦燥と、そのぞくぞくするやうな心臟のよろこび、そのほつとする心もち、甘つたるい悲しさ、しぜんと淚ぐむやうになる情緖の昂進。

 凡そ音樂の見せてくれる世界ほど、不可思議な誘惑と魅力に富んだものはない。かうした世界のよろこびを傳へるためには「搔きむしられる樂しさ」といふ言葉より外の言葉はないのである。何となればそれは人間の常住する世界ではない。そこには何かしら、人間以外のある限りなく美しい者が住んでゐる祕密の世界である。この世界の實景實情を語るためには、人閒の言葉はあまりに粗野であまりに感情に缺けすぎてゐる。

 音樂をきくとき、私は時々考へる。

 一體そこには何物が居るのか。何物がどんな魔術を使つて、かうまでに私共の心を誘惑するのか。

 實際それは恐ろしい誘惑である。

 昔は多くの夢みる詩人が居た。

 ある時、彼等の中でも最も勇敢な騎士たちが、この祕密の世界へ向つて探險旅行を試みた。

 彼等は美しい月夜に船の帆を張りあげて進んだ。この不可思議な「見えない島」と「見えない魔術師」の正體を發見するために。彼等の船は長いあひだ月光の下をただよつた。そしてしまいにたうとうあるひとつの怪しげな島を發見した。その島の上には、一人の言ひやうもない美しい魔女が立つてゐるやうに思はれた。しかも花のやうな裸體のままで、琴を手にかかへて。

 夢みる勇敢な騎士たちが、よろこび叫んで突進した。彼等は皆若くそして健康で美しかつた。彼等の生活は酒と戀と音樂であつた。就中その切に求めて居るものは戀と冒險であつた。

 まもなく、島が彼等のすぐ眼の前に現れた、そして不思議な音樂のメロヂイが、手にとるやうにはつきりと聞えはじめた。

 騎士たちの心は希望と幸福に充ちあふれた。長い長い年月のあひだ、彼等の求めてゐたその夢の中の不思議な世界、その空想で描いた妖魔の女性。かつてそれらのものは、手にも取られぬ幻影の幸福であつた。

 然るに今は、夢でもなく空想でもない。事實は彼等のすぐ眼の前に裸體で突つ立つて居る。しかもいま一分閒の後には、凡てそれらの謎の祕密と幸福の實體とは、疑ひもなく彼等自身の手の中に握ることができるのである。永久に、しかも確實な事實として。僅か一分間の後に。

 「ああ、何といふ仕合せのよいことだ。」

 さう言つて彼等は樂しさに身を悶えた。實際それは彼等にとつては、信ずることもできないほどの幸福であつたにちがひない。

 けれども、ここにひとつの不思議な事實があつた。しかも悅びで有頂天になつてゐる騎士たちは、だれ一人としてその事實に氣のついた者はなかつた。

 島が目的物が、彼等のすぐ近くに見えはじめてから、少なくとも彼等は數時間以上も船を漕いで居た。しかも彼等が最初に島を發見したのは、ものの半時間とはかからない近距離に於てであつた。

 實際、島は最初から彼等の頭のまん上に見えて居た。そして船は矢のやうな速さで突き進んだ。

 「もう一息、もう一分間。」さつきから彼等は、何度心の中でそう繰返したか分らない。

 あまつさへ、船は次第に速力を增してきた。始は數學的の加速度で、併しいつのまにか魔術めいた運動律となつて、遂には眩惑するやうな勢でまつしぐらに島の方へ飛び込んだ。それは丁度大きな磁石が鐵の碎片を吸ひつける作用のやうに思はれた。

 この思ひがけない幸運に氣のついたとき、船の人々は思つた。疑ひもなくそれは、島が自分たちを牽きつけるのである。一秒間の後に、我我はそこの岸に打ちあげられてゐるに違ひないと。人々の心臟は熱し、その眼は希望にくらめいた。

 一秒間は過ぎた。けれども、そこには何事も起らなかつた。

 舟は相變らずの速力で疾風のやうに走りつづけて居た。そして夢みるやうな月光の海に、眞黑の島は音もなく眠つて居た。ただ高潮に達した音樂のメロヂイばかりが、あたりの靜寂を破つて手にとるやうに聞えた。

 「まてよ。」

 しばらくして乘組員の一人が、心の中で思ひ惑つた。

 實際、彼等はさつきから數時間漕いだ。そして今、船は狂氣のやうに疾走して居る。それにもかかはらず、彼等は最初の位置から、一尺でも島に近づいては居なかつたのである。島と船との間には、いつも氣味の惡い、同じ距離の間隔が保たれて居た。

 「まてよ。」

 殆んど同時に、他の二、三人の男がつぶやいた。

 「どうしたといふのだ、おれたちは。」

 彼等はぼんやりして顏を見合せた。そして手から櫓をはなした。

 「氣をつけろ。」

 その時、だしぬけに仲間の一人が叫んだ。その聲は不安と恐怖にみちて、鋭どく甲ばしつて居た。

 「みんな氣をつけろ。おれたちは何か恐ろしい間違へをしてゐるのかも知れない。さもなければ……。」

 その言葉の終らない中に、人々は不意に足の裏から、大きな棒で突きあげられるやうな氣持がした。

 ちよつとの間、どこかで烈しく布を引きさくやうな音が聞えた。

 そして、一人殘らず、まつくらな海の底へたたき込まれた。

 かうして、不幸な騎士たちの計畫は、見事に破壞されてしまつた。彼等の美しいロマンチツクの船と一所に。とこしなへに歸らぬ海の底に。

 ほんとに彼等は氣の毒な人たちであつた。

 何故かといふに、彼等が今少しの間この恐ろしい事實、卽ち彼等の船が「うづまき」の中に卷き込まれて居たことに氣が付かずに居たならば、彼等はその幸福を夢みて居る狀態に於て、やすらかに眠ることができたかも知れなかつたのである。

 私が音樂を聽くとき、わけてもその高潮に達した一刹那の悅びを味ふとき、いつも思ひ出すのはこのあはれに悲しげな昔の騎士の夢物語である。

 手にとられぬ「神祕の島へ」の、悲しくやるせない冒險の夢物語である。

 

[やぶちゃん注:標題「ADVENTURE OF THE MYSTERY」は詩篇の内容から、私は「神秘の冒険」或いは「秘蹟の冒険」とでも訳したい。「秘法」「奥義」でも構わないだろう。「しまいに」はママ。「まん上」は「まんまへ」「まんなか」と同じく「まんうへ」と読むしかないか。「併し」は「しかし」と読む。本書「詩作品發表年譜」及び筑摩版全集の「拾遺詩篇」にある通り、本篇は大正六(一九一五)年七月号『感情』に発表された詩篇である。その初出とは表記上の違いが幾つかあるが、初出自体に歴史的仮名遣の誤りが複数あり、漢字表記の異体字も多い。比較したところでは、句読点の一部脱落や、「々」を用いないなどの相違もあるが、私には躓くところも特にない(「まん上」の読み以外は、である)。ただ、本書の本篇には四箇所の看過出来ない誤りがある

・初出にはある標題の添え辞『(散文詩)』がない。

・「實際、島は最初から彼等の頭のまん上に見えて居た。そして船は矢のやうな速さで突き進んだ。」の「まん上」に初出では傍点「ヽ」が打たれている。

・「舟は相變らずの速力で疾風のやうに走りつづけて居た。そして夢みるやうな月光の海に、眞黑の島は音もなく眠つて居た。ただ高潮に達した音樂のメロヂイばかりが、あたりの靜寂を破つて手にとるやうに聞えた。」の末尾で、これは初出では、「手にとるやうに聞えて居た。」となっている。

・コーダ部分の「そして、一人殘らず、まつくらな海の底へたたき込まれた。」と「かうして、不幸な騎士たちの計畫は、見事に破壞されてしまつた。彼等の美しいロマンチツクの船と一所に。とこしなへに歸らぬ海の底に。」の間に初出にはある行空けがない。ここは丁度、見開きの改ページに当たっている。しかし、行数を数えると、最終ページには余裕があり、一行空けをすることは出来たことが判る。ミスの可能性が高い。この行空けはコーダの肝になるもので、かなり痛い誤りである。

しかし、この前の三箇所は、全体や部分の詩想に影響を与えるような誤りではないからして、長詩であることもあり、かく指摘するに留め、初出形は示さない。

 最後に一言言うならば、この萩原朔太郎の音楽的幻覚の背後には、ギリシャ神話のセイレーン(半身が女性で、半身が鳥(後に魚とされた)の三人の姉妹。鳥の翼を持ち、美しい歌声で船乗りたちを魅了するが、その歌声を聞いた者は、彼女たちに食い殺されるか、海の藻屑となるとされた)や、ファタ・モルガナ(Fata Morgana。イタリアのシャルルマーニュの伝説の妖精・女神。フランス語はモルガン・ル・フェイ(Morgan Le Fay)。英語「ファタ」「ル・フェイ」は英語の「フェアリー」の意。シチリア島とイタリア本土(カラブリア州)の間にあるメッシーナ海峡(Stretto di Messina)に出現する蜃気楼を彼女が魔法で出現させたものとする、幻想の島の名でもある(一説には、真に絶望した人間にのみ見ることが出来るともされているようである。少なくとも偏愛する漫画家星野之宣の名作シリーズ「妖女伝説」中の「蜃気楼――ファタ・モルガーナ――」ではそうした設定になっていた)があるように思われる。無論、私の愛する梶井基次郎の「器樂的幻覺」(昭和三(一九二八)年五月・『近代風景』発表)も強い親和性を持つ名品である。常々、私は梶井基次郎の多くの作品は、一種の散文詩だと思っている人種である。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 鼠と病人の巢

 

   鼠と病人の巢  密 房 通 信

 

しだいに春がなやましくなり、病人の息づかひが苦しくなり、そうしてこの密房の天井はいちめんに鼠の巢となつてしまつた。

 

鼠、巢をかけ、鼠、巢をかけ。

うすぐらい天井の裏には、あの灰色の家鼠がいつぱいになつて巢をかけてしまつた。

巢がかかる、巢がかかる、ああ、天井板をはがして見れば、どこもかしこも鼠の巢にてべたいちめんである。

 

みよ、ひねもす、この重たい密房の扉から、私の靑白い病氣の肉體が、影のやうに出入し、幽靈のやうに消滅する。

 

祈りをあげ、祈りをあげ、さくらはな咲けども終日いのりて出でず。

ときに私の心靈のうへを、血まみれになつた生物の尻尾が、かすめて行く。それだけをみとめる。しんに奇蹟とは一刹那の光である。

 

いよいよ微かになり、いよいよ細くなり、いよいよ鋭くなり、いよいよ哀しみふかくなりゆくものを、いまこそ私はしんじつ接吻する。指にふれ得ずして、指さきの纎毛に觸れうるものの感覺に、私の心靈は光をとぎ、私のせんちめんたるは錐のごとくなる。

ああ、しかし、いまは一本のかみの毛にさへ、全身の重量をささえうることの出來るまでに、あはれな病人の身體は憔悴してしまつた。

 

私はいまそれを知らない。

何故にこの部屋の天井が、いちめんにねずみの巢となつたかを知らない。

ただ、私は私の左の手の食指から、絹絲のやうなものが、いつもたれさがつて居るのをいつしんふらんにみつめて居る。

いちにち、瓦斯すとほぶの火は靑ざめて燃えあがり、密房の壁には、しだいしだいに怖ろしいものの形容を加へてくる。

今こそ、私は祈らねばならぬ。

齒をくひしめ、くちびるを紫にしていのらねばならぬ。

ああ、ねずみ巢をかけ。密房の家根裏はまつくらになつてしまつた。

私の病氣はますます靑くなり。おとろへ。

海のあなたを夢みるやうに、うらうら櫻の花が咲きそめ。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。歴史的仮名遣の誤りはママ。本書「詩作品發表年譜」及び筑摩版全集の「拾遺詩篇」にある通り、本篇は大正四(一九一五)年五月発行の『卓上噴水』に発表された詩篇であるが、初出とは五点の表記上の問題がある。

・第二連冒頭の一行目「巢をかけ、」は読点ではなく、句点であること。

・第二連冒頭の三行目にある「べた」にある傍点「ヽ」がないこと。

・底本では「私はいまそれを知らない。」で始まる第六連が、「219」ページへの改ページになっているが、右の版組み上の空きは、物理的に一行分を空けていないと思われること(これは次の空行脱落と考え合わせると、ページ数を節約するために、小学館編者が不当にも詰めた可能性が濃厚である。但し、ここの箇所は改ページであり、それで読者の多くはブレイクが起こって一行空けと同じ効果は示したとは思うが。こうした不当な仕儀は嘗ての多くの出版物でしばしば行われた、哀しく、さもしい仕儀である(或いは現在でも))。

・独立している最終連(「ああ、ねずみ巢をかけ。密房の家根裏はまつくらになつてしまつた。」以下の三行)が連とならず、第六連に続いてしまっていること。

・末尾にあるべき「―四月三日―」のクレジットがないこと。まあ、これは編集上の確信犯ではあろうが。

である。一見、大した違い(詩想上での)ではないと思われるかも知れぬが、これはやはり正当な正規詩篇とは、到底、言えない。煩を厭わず、以下に示す。太字は底本では傍点「ヽ」。表記字や歴史的仮名遣の誤りは総てママ。

   *

 

 鼠と病人の巢

      密房通信

 

しだいに春がなやましくなり、病人の息づかひが苦しくなり、そうしてこの密房の天井はいちめんに鼠の巢となつてしまつた。

 

鼠、巢をかけ。鼠、巢をかけ。

うすぐらい天井の裏には、あの灰色の家鼠がいつぱいになつて巢をかけてしまつた。

巢がかかる、巢がかかる、ああ、天井板をはがして見れば、どこもかしこも鼠の巢にてべたいちめんである。

 

みよ、ひねもす、この重たい密房の扉から、私の靑白い病氣の肉體が、影のやうに出入し、幽靈のやうに消滅する。

 

祈りをあげ、祈りをあげ、さくらはな咲けども終日いのりて出でず。

ときに私の心靈のうへを、血まみれになつた生物の尻尾が、かすめて行く。それだけをみとめる。しんに奇蹟とは一刹那の光である。

 

いよいよ微かになり、いよいよ細くなり、いよいよ鋭くなり、いよいよ哀しみふかくなりゆくものを、いまこそ私はしんじつ接吻する。指にふれ得ずして、指さきの纎毛に觸れうるものの感覺に、私の心靈は光をとぎ、私のせんちめんたるは錐のごとくなる。

ああ、しかし、いまは一本のかみの毛にさへ、全身の重量をささえうることの出來るまでに、あはれな病人の身體は憔悴してしまつた。

 

私はいまそれを知らない。

何故にこの部屋の天井が、いちめんにねずみの巢となつたかを知らない。

ただ、私は私の左の手の食指から、絹絲のやうなものが、いつもたれさがつて居るのをいつしんふらんにみつめて居る。

いちにち、瓦斯すとほぶの火は靑ざめて燃えあがり、密房の壁には、しだいしだいに怖ろしいものの形容を加へてくる。

今こそ、私は祈らねばならぬ。

齒をくひしめ、くちびるを紫にしていのらねばならぬ。

 

ああ、ねずみ巢をかけ。密房の家根裏はまつくらになつてしまつた。

私の病氣はますます靑くなり。おとろへ。

海のあなたを夢みるやうに、うらうら櫻の花が咲きそめ。

              ―四月三日―

 

   *

なお、筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』には、本篇の草稿(無題)が載るので、以下に示しておく。表記・誤字・脱字その他は同前である。

   *

 

  ○

 

むらさきふかくなりゆ

だんしだいに春がなやましくなり、病人の呼吸づかくがくるしくなり、そうして私のこの密房の天井はいちめんに鼠の巣となつてしまつた、

ああなんといふ重くるしい密房の扉だ、 朝の一時に 朝はやくそこから私が這入り、夜おそくそこから病人の私が出る、そうして

一つの長い祈禱が始まるあひだ、

ああひねもす、このおぐらき一室密房の扉より私の青い肉體は影のやうに出入し、幽靈のやうに消滅する、

 

祈るとき私の心靈の上を、血まみれになつた生物の尻尾がかすめて行く、それだけであるを認める。しんに奇蹟とは一切刹の光である。

 

いよいよ徴かになり、いよいよ細くなり、いよいよ細くなり、いよいよ哀しみふかくなりゆくものを、いまこそ私はしんじつ接吻する、指にふれえずして指先の纖毛にふれうるもの感覺に、私の心靈は光りをとぎ、私のせんちめんたるは錐のごとくなる、

ああ思ふしかし私自身いまは一本の髮の毛でさへ、身體のその人の全重心をささえることができるまでに哀れな病人の五體は憔悴してしまつた、

 

私はいまそれを知らない

何故にこの部屋の天井がいちめんの鼠の巢となつたかを知らない

ただ私は私の指先左の手の食指から、絹糸のやうなものがいつもたれさがつて居るのを一心不亂に凝めて見る、

瓦斯ストーブの火は尙靑ざめつつもえて居るあがり密房の壁にはしだいしだいに怖ろしいものゝ形容を加へてくる、

私は祈らねばならぬ

齒をくひしめ、くちびるをむらさきにして祈らねばならぬ、

今こそ……私のものある

しんに「力」は私自身のものである、

 

  *

決定稿で比喩を頭敍式に変えた結果、本篇にホラー的イメージは格段に上がっている。但し、その好き嫌いは恐らく極めて個人的な趣味の問題と拘わり、一定量の相似対象を与えられると、そこで厭になる人間も多いであろう。幸いにして私はそうではなかったが。この年になって(六十四歳)こうした詩篇推敲の比較をすると、ふと、そんなことを考えたのであった。詩には読者の側の賞味期限があるということである。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 懺悔者の姿

 

 懺悔者の姿

 

懺悔するものの姿は冬に於て最も鮮明である。

暗黑の世界に於ても、彼の姿のみはくつきりと浮彫のごとく宇宙に光つて見える。

見よ、合掌せる懺悔者の背後には美麗なる極光がある。

地平を超えて永遠の闇夜が眠つて居る。

恐るべき氷山の流出がある。

見よ、祈る、懺悔者の姿。

むざんや口角より血をしたたらし、合掌し、瞑目し、むざんや天上に縊れたるものの、光る松が枝に靈魂はかけられ、霜夜の空に、凍れる、凍れる。

見よ、祈る罪人の姿をば。

想へ、流失する時劫と、闇黑と、物言はざる刹那との宇宙にありて、只一人吊されたる單位の恐怖をば、光の心靈の屍體をば。

ああ、懺悔の淚、我にありて血のごとし、肢體をしぼる血のごとし。

 

   編註 『蝶を夢む』の「極光」は、本篇のこの部分をとり獨立せしめたものである。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。本書「詩作品發表年譜」及び筑摩版全集の「拾遺詩篇」にある通り、大正四(一九一五)年二月号に『詩歌』に発表された詩篇であるが、初出とは四点の表記上の問題がある。全体は二〇一三年に電子化した私の「懺悔者の姿 萩原朔太郎 (正規表現版・「極光」原形)」を参照されたいが、異同を指摘しておくと、

・五行目「氷山の流出」は「氷山の流失」が、

・六行目「懺悔者の姿」は「懺悔の姿」が、

・八行目「見よ」は「みよ」が、

・九行目「宇宙」は「宙宇」が、

それぞれ正しい。これは小学館編者の注意力の散漫としか言いようがない。残念である。]

2021/12/15

曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 西羗北狄牧菜穀考(その3)

 

苜蓿【「別錄」。上品。】、一名は木粟【「綱目」。】、一名は光風草。

 「本草綱目」李時珍が曰、苜蓿を郭璞は「牧宿」に作る。其宿根より、おのづから生じて、牛馬に飼牧すべきゆゑなり。又、羅願が「爾雅翼」に「木粟」に作る。其米、炊ぎて飯となすべきの故なり。葛洪が「西京雜記」に云、『樂遊苑に、苜蓿、多し。風、その間に在れば、常に蕭々然たり。日、その花を照らせば、光采あり。故に「懷風」と名づく。又、「光風」と名づく。茂陵の人、これを「連枝草」といふ。「金光明經」に、これを「塞鼻力迦(さいびりききや)」といふ。

[やぶちゃん注:既に注した通り、「苜蓿」(もくしゆ(もくしゅ)/むまごやし)は、現在はマメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ連ウマゴヤシ属ウマゴヤシ Medicago polymorpha を指す。但し、民間ではマメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens の俗称としても知られる。個人的には、両種を射程に入れて読んだ方がよいと思う。この前後は「本草綱目」の巻二十七の「菜之二」に拠っている。「漢籍リポジトリ」の同巻の、[069-9a]・[069-9b] ・[069-10a]の影印本と電子化と対照されて読まれるのがよい。

「郭璞」(くわくはく(かくはく) 二七六年~三二四年)は西晉末から東晉にかけての学者(道家研究家)・詩人。卜筮術に長じた。元帝に仕え、のち、王敦(おうとん)の部下となったが、その謀反を占って、「凶」と断じたため、殺された。「爾雅」「楚辞」「山海経」などの注でよく知られる。

「羅願」(一一三六年~一一八四年)は南宋の地方官で終わったが、優れた学者であった。

「爾雅翼」中国古代の字書「爾雅」(現在伝わっているものは全十九篇。著者・著作年代ともに未詳。伝承では周公旦或いは孔子又は孔子の弟子の作とされるが、権威づけの範囲を出ない)の一部を成す草 ・木 ・鳥 ・獣 ・虫 ・魚の篇目を選んで釈義を加えたもので、博物学的な観点から分類・解説されたものとして、優れている。全三十二巻 。一一七四年の序がある。

「葛洪」(かつこう 二八三年~三四三年)は晋の道士で道教研究家。詳しくは私の「都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之五 千載の斑狐一條太閤を試むる事」の「抱朴子」の注を参照。彼の「抱朴子」は神仙の書として有名だが、そもそもが抱朴子は彼の号である。

「西京雜記」(せいけいざつき)は、前漢の出来事に関する逸話を集めた書物。当該ウィキによれば、『著者は葛洪ともされるが、明らかでない。その内容の多くは史実とは考えにくく、小説と呼んだほうが近い』。『「西京」とは前漢の首都であった長安』(現在の西安)『のこと』。伝本によって異なるが、百三十『条前後からなり、前漢の逸話のほか、宮廷の文物や年中行事を詳しく記す』とある。「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここの二行目に出る。

「樂遊苑」長安城内の東南部一帯の古くから知られた広大な人気の景勝地。

「茂陵」現在の陝西省咸陽市興平市茂陵。本来は前漢の武帝の墓を指す。長安の北西、渭水を隔てた丘陵上にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「金光明經」(こんこうみょうきょう:現代仮名遣)はサンスクリット語「スヴァルナ・プラバーサ・スートラ」と言い、四世紀頃に成立したと見られる大乗経典の一つ。原題は「スヴァルナ」が「黄金」、「プラバーサ」が「輝き」、「スートラ」が「経」で、「黄金に輝く教え」の意である。但し、時珍は確かに「塞鼻力迦」と記しているが、「大蔵経テキストデータベース」で調べると、「金光明最勝王經」のここには『苜蓿【塞畢力迦】』とある。これだと、読みは「さいひつりきか」であろう。]

 陶弘景が曰、『長安の中、乃ち、苜蓿園あり。北人、甚、重ㇾ之。江南にては、甚、これを、食はず。味ひ、なきをもつての故なり。外國に、又、苜蓿といふ草あり。これをもて、目を療治す。この類ひには、あらず。異草也。』。

[やぶちゃん注:「陶弘景」(四五六年~五三六年)は「本草綱目」に頻繁に引用される六朝時代の医師にして博物学者。道教茅山派の開祖でもあった。『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 老狸の書畫譚餘』の私の注の同人を参照。]

 寇宗奭が曰、『陝西には、甚、多し。用て、牛馬に飼ふ。鍬き時、人もこれを食ふ。宿根より刈とれば、復、生ず。』。

[やぶちゃん注:「寇宗奭」(こうそうせき)は宋代の本草学者。(その2)で既出既注。]

 時珍が曰、『「雜記」にいふ。苜蓿は、原[やぶちゃん注:「もと」。]、大宛國より出たり。漢の使、張商、帶(たづさへ)て中國に歸れり。然りしより、今、處の田野に、是、有。陝・隴の人は、亦、種る[やぶちゃん注:「ううる」。「植うる」。]者あり。年々に自生す。苗を刈て、蔬とす。一年に、三たび、刈るべし。二月、苗を生ず。一科[やぶちゃん注:一つの株の意か。]に數十莖、莖は、頗、灰藋に似たり。一枝に三葉なり。葉は決明に似て、小きこと、指頂の如し。綠色にして碧艷、夏より秋に人て、細黃花を開き、小き莢を結ぶ。圓扁旋轉して、刺あり。數莢、累々たり。老れば、則、黑色なり。内に米あり。穄子[やぶちゃん注:「きびのみ」と訓じておく。]の如し。飯になすべし。亦、酒に釀すべし。羅願は、これをもて、「鶴頂草なり」と、いひしは、誤なり。鶴頂は紅心灰藋なり。氣味、苦く、平らにして、濇る[やぶちゃん注:「とどこほる」と訓じておく。]毒、なし。宗奭が曰、『微、甘く、淡し。』。孟洗が曰、『凉なり。少し食へば、好し。多く食へば、冷氣をして、筋の中に入れしむ。卽ち、人を疫せしむ。』。李廷飛が曰、『蜜とおなじく、食へば、人をして、下痢せしむ。』。主治は「別錄」に云、『中を安んず。久しく食ふべし。』。孟洗が曰、『五臟を利し、身を輕くし、肺胃の間の邪熱氣を、洗ひ去る。小腸の諸惡・熱毒を通ず。煮て、醬油に和して食ふ。又、羹[やぶちゃん注:「あつもの」。]となすべし。』。蘇頌が云、『乾して食へば、人に益あり。苜蓿の根は、氣味、寒にして、毒、なし。』。』。

[やぶちゃん注:「雜記」不詳。先に出た「西京雑記」かと思ったが、同書には見当たらない。

「大宛」(だいおん/たいえん:現代仮名遣)は、紀元前二世紀頃から中央アジアのフェルガナ地方に存在したアーリア系民族の国家。「大宛」とは、固有名詞を漢字に転写したものではなく、「広大なオアシス」という意味であるらしい。位置は参照したウィキの「大宛」にある地図を見られたい。

「張商」不詳。

「陝・隴」現在の陝西省附近と、「隴」は、その東に接する現在の甘粛省の略称。

「鶴頂草」「紅心灰藋」ナデシコ目ヒユ科 Chenopodioideae 亜科Chenopodieae連アカザ属シロザ Chenopodium album 、及び、その変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum のこと。山口裕文・久保輝幸・池内早紀子・魯元学氏の共同論文「漢名にみる雑草“あかざ”の生物文化史」(PDF・『雑草研究』第六十四巻・二〇一九年発行)に、中国では(コンマを読点に代えた)、『“あかざ”は、雑草(非有害)や食用(蔬または羮,穀物)、杖、灰の素材として認識され、三国時代までに萊、藜、藋、釐、拝、蔏および茟などの文字で表され,唐宋代には灰條、灰藋』(☜)、『白藋、青藜、金鎖夭、紅灰藋、鶴頂草』(☜)『など』の『文字でも表記されるようになり、明代には紅心』(☜)『の藜(および丹藜、藜菜、臙脂菜、舜芒穀、観音粟など)と葉に白粉をつける灰藋(および灰條、灰条、灰菜。灰條莧など)との 』二『 群で認識され,清代には地膚や絡帚、薇、苜蓿などとの混同が修正され、藜または灰藋に集約されていた』というところで確認出来た。

「決明」マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科センナ属エビスグサ Senna obtusifolia の漢名。当該ウィキによれば、『北アメリカ大陸原産』、『または、熱帯アメリカの原産と言われている』。『それが、熱帯アジアから中国南部に伝わり、日本には江戸時代の享保年間に渡来した』。『日本では本州から沖縄にかけて、帰化植物として分布する』とある。草体もそちらで確認されたい。

「孟洗」孟詵(六二一年~七一三年)の誤り。初唐の官人で医師。「食療本草」・「必効方」・「保養方」の著作があり(原本は散佚)、「本草綱目」でも、よく引かれる。

「李廷飛」不詳だが、漢籍の本草書にはよく引用される。「延壽書」という著作がある。]

主治は、蘇恭が云、『熱病、煩滿、目、黃に赤し、小便、黃み、酒疸等の症にて、擣て[やぶちゃん注:「つきて」。]、一升を服すれば、吐痢して、卽ち、癒ゆ。』。時珍が云、『摘て、汁を飮めば、沙石淋疾の痛みを治す。』。

[やぶちゃん注:「煩満」(はんまん)胃部や胸腹部が膨満して、不快感がある状態を指す。

「酒疸」アルコールの過飲による総合的な慢性的内臓疾患のようである。]

「大和本草」【卷七。】に云、『苜蓿は、疑らくは、「仙臺はぎ」なるべし。「仙臺はぎ」は、花も葉も、「はぎ」に似て、やわらかに、花、黃なり。又、大豆の花に似たり。わかき時、食すべし。一度、うゆれば、根、茂りて、繁昌す。「本草綱目」、柔滑菜類に載たり。』。貝原の說、よりどころとすべし。しかれども、只、その花を、いふて、實を、いはず。「仙臺はぎ」が苜蓿の如く、子の、あまたの莢ありて、莢の中に、穄子のごとき米、出來る者か。もし、その實、かくのごとくならば、苜蓿ならんも、似るべからず。まづ、よく「仙臺はぎ」を植て、ためして見たきものに侍り。しかれども、はぎの葉は、左の如く、細し。「仙臺はぎ」も葉は、はぎの如しといヘば、亦、かくのごとくなるべし。

[やぶちゃん注:以上の「大和本草」は「中村学園大学」公式サイト内の中村学園大学図書館蔵本の当該巻PDF)「大和本草卷之七」「草之三」の「花草類」の19コマ目にある。完全に引用している。

「仙臺はぎ」和名の漢字表記は「先代萩」(中文名「野决明」)が正しく、所謂、「萩」(マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza )とは縁の遠い、マメ目マメ科マメ亜科ソフォラ族Sophoreae センダイハギ属センダイハギ Thermopsis lupinoides のことを指す。近年、学名をThermopsis fabacea とする提案がなされている。Katou氏のサイト「三河の植物観察」の同種のページ(写真有り)を参照されたい。]

 

Hagimokusyuku

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。以下同じ。キャプションは右が「はぎの葉」、左が「苜蓿の葉」。比較のために、葉脈がくっきり見える吉川弘文館随筆大成版も以下に示しておく。

 

Hagimokusyukuyosikou

 

但し、これは後の挿絵で――吉川弘文館随筆大成版が――実はだ挿絵を誤っているのではないか?――と私が深く疑っていることへの伏線的仕儀である。

 

 こののち、植木屋より求めて、一とせ、「仙臺萩」といふものを植て見しに、花は黃にして、胡枝(はぎ)花には似ざるものなり。かゝれば、「大和本草」の說も亦、うけがたかり。

 「苜蓿の葉は、決明に似て、指頂のごとし。」といへば、はぎの葉より、まろくして、上のごとくなるべし(圖略)。且、「葉のいろ、綠にして、碧に艷なり。」といへば、その葉、「るりこん」[やぶちゃん注:「瑠璃紺」。、瑠璃色がかった紺色。深い紫味の強い青色のこと。]のごとく、うるはしきもの、と、おもはる。又、「その花は。細にして、黃なり。」とのみあれば、詳ならねども、「本草圖經」によりておもふに、藤豆の花の如く、

 

Mokusyuku1

 

[やぶちゃん注:底本から。これを「挿絵A」と呼んでおく。なお、ここには吉川弘文館随筆大成版はとんでもない図が入っている。後で掲げる。

 

かやうなるものにや、あらん。又、「その子は、數莢、累々たり。」といへば、これも又、ふぢ豆の實の、ちひさき如き、莢、あまた、つくものにて、

 

Mokusyuku2

 

[やぶちゃん注:キャプションは、

○さやに、少(ちひ)さき刺、あり。實、「あかざ」のごとし。

とある。これを「挿絵B」と呼んでおく。なお、この挿絵は吉川弘文館随筆大成版では、逆に掲げてある。以下に参考に示す。

 


Yosikounomakomonomitosuru

 

藤の種子みたようだと本文にあるから、この方が判りはいい。

 

かやうに、ちひさき「さや」、圓扁とて、まろ長く、「くしがた」のやうに、實のなるものなるべし。此莢の内に、穄子のごとき米は、あるなり。よく熟すれば、莢は黑くなる、といふ。

「御在所に、かやうの草、これあり候哉。よくよく御穿鑿のうへ、この注文に、よくあはざれば、「苜蓿」とは申がたく候。「仙臺はぎ」は江戶になく候故、よくも見ず候得ども、必、「苜蓿」ならんとは、おもはれず候。なれども、「仙臺はぎ」も、江戸御屋敷のうちに御植被ㇾ成候て、一とせ、御ためし御覽被ㇾ遊候はゞ、これらの疑ひは、とけ可ㇾ申と奉ㇾ存候。」

[やぶちゃん注:ここで再び、(その1)の時のように、突如、手紙文となっており、やはりこれは先の第八代藩主松前道広であることが次回の(その3)で明らかとなる。]

○「昔年、『苜蓿なり』とて、御もらひ被ㇾ成候は、その實のかたちは、

 

Makomonomi

 

[やぶちゃん注:底本ではここに配されているのが、「この図」である。ただ、「この図」については底本の画像が不鮮明なので、吉川弘文館随筆大成版を用いた。但し、ここが大問題で、「この図」は、吉川弘文館随筆大成版では、実は前の「挿絵A」の箇所に置かれてあるのである。その代わりにここに入っている図は実は「挿絵A」を倒立させた、

 

Mokusyukuyosikou_20211215173101

 

なのである。挿絵A」と「挿絵B」は非常によく似ているのだが、所謂、藤の花のように下がった先端部は「挿絵A」ではスマートであるのに対して、「挿絵B」はでっぷりと太っている、という点で識別出来るのである。しかし、ここでその絵は正しいとは思われない。トウモロコシのようにブツブツの凝縮したような描き方は違和感があるが、これはまず、本文にある通り、黒穂菌(くろぼきん:真正担子菌綱クロボキン目Ustilaginales)の一種である Ustilago esculenta に寄生されて異様に太く肥大化した新芽であるマコモダケ(真菰筍・茭白)以外には考えられないからである。則ち、吉川弘文館随筆大成版は判り易くしようと、二枚をひっくり返したのは親切だったかも知れないが、うっかりそれを「挿絵A」と入れ替えて挿入してしまったのである。

 

かやうのものゝやうに承り候。これは苜蓿には無ㇾ之候。その穗によりて推量仕候へば、『黍蓬』とまうすものゝ如可ㇾ有ㇾ之奉ㇾ存候。この『黍蓬』も、羗人の食といたし候ものにて、一名は「靑科」と申候。葉は「もち黍」のごとく、「玉蜀」の葉にも似より候よし。しかれども、馬を飼ひ候よしは、「本草」にしるし不ㇾ申候。さりながら、西羗の食にいたし候へば、その葉をば、馬に飼候はんと奉ㇾ存候。馬の好み候物に候は、尺馬の爲に藥とならん事、勿論の儀と奉ㇾ存候。よりて、「本草綱目」二十三卷、「茭米」の條中に見え候を、左に抄し申候。

 『「黍蓬」は、乃ち、「旱蓬」にて、「靑科」は是なり。實を結ぶこと、黍のごとし。羗人、是を食ふ。今、松州に、これ、あり【楊愼が說。】。又、云、鄭樵が「通志」に云、「彫蓬」は、卽ち、「米茭」なり。飯となして、食ふべし。故に是を「齧(けん)」といふ。又。「黍蓬」は、卽ち、菱之實を結ばざるもの、惟、薦となすに堪たり。故に、これを「薦」といふ【この說はわろし。】。楊愼が「巵言」に云、『「蓬」に水・陸の二種あり。「彫蓬」は、すなはち、「水蓬」にて、「彫苽」、是なり【上に出せし「彫胡」の事なり。】。「黍蓬」は、すなはち、「旱蓬」にて、「靑科」、是也。時珍が云、鄭氏・楊氏の二說、おなじからず。しかれども、皆、理あり。葢、蓬類は一種にあらざる故なればなり。』と、いへり。

[やぶちゃん注:「本草綱目」巻二十三の「穀之二」の「茭米」は「漢籍リポジトリ」のここの、[061-16b] [061-17a] [061-17b]の影印本画像を電子化本文と一緒に見られるのがよい。

「松州」(しようしう)は現在の湖北省宜都市一帯にあった非常に古い州のことか。他にも二箇所ある。

「楊愼」(一四八八年~一五五九年)は明中期の文学者。一五一一年に科挙に首席で登第し、翰林修撰を授けられたが、一五二四年、桂萼(けいがく)・張璁(ちょうそう)らが起用されたとき、同志三十六人と反対意見を皇帝に具申し、月俸を停止されたが、さらに同志と意見を具申し続けた結果、平民に落とされ、雲南に流謫された。以後は詩酒を楽しみ、放逸な所行で韜晦したが、経学・詩文とも卓出していた。博学の評判が高く、著書に「丹鉛総録」・「升菴集」やここの出た「楊子巵言」(ようししげん)などがある(以上は小学館「日本大百科全書」)。特に雲南に関する見聞・研究は貴重な資料とされている。

「鄭樵」(ていしょう 一一〇四年~一一六二年)は南宋の歴史家。一一四九年、高宗に、「通志」の中でも名高い「二十略」に通ずる内容の著を提出した。それを機縁として、高宗に謁見を許され、断代史(単一の王朝についてのみ記録すること)を否定する史論を上奏した。礼部に任官を果たしたが、宰相秦檜による強権政治の被害者となり、地方官に左遷されてしまった。しかしその間も「通志」に繋がる著述活動を中断することなく、後、枢密院編修官として中央への復帰を果たした。南宋にとって外患であった金の官制調査を企てようと、秘書省に蔵された書物の閲読を願い出たこともあった。これは、当時における彼の現代史への強い興味を意味している。一一六一年、開封に遷都を果たしていた金は、南宋と対立を激化させ、高宗自らが出陣するほどの情勢となった。鄭樵は行宮留守幹弁公事として都の臨安の留守となり、勅命によって完成していた「通志」二百巻の献上を命ぜられたが、間もなく、病没した。他に「爾雅注」三巻などがある(以上は当該ウィキに拠った)。

「通志」構成や簡単な内容は当該ウィキを見られたい。

 以下は底本では全体が一字下げ。]

 解云、今、楊愼が說に從ふときは、「彫蓬」は水草なり。又、「靑科」は「旱蓬」にて、陸草なり。しかれども、蓬類は、あまたあれば、實を結ばぬもの、あるなり。この陸に生じて、黍のごとき實を結ぶものは、「旱蓬」にして、「靑科」、これなり。

「昔歲、御在所へ御植させ被ㇾ成候は、旱蓬・靑科にて有ㇾ之べくやと奉ㇾ存候。是も亦、甚、得がたきものに御座候。只今も、そのたね、殘り候て、御在所に生じ候はゞ、よろしき物に御座候。」。

「東廧も、この旱蓬に葉は似候ものに可ㇾ有ㇾ之奉ㇾ存候。これらの趣をもつて、追々に御尋させ被ㇾ成候はゞ、存の外、御在所の野山に有ㇾ之候歟も、はかりがたく奉ㇾ存候。愚按の趣、あらましを認め候て、奉ㇾ入尊覽候。誠惶々々頓首再拜。

 文政八年乙酉夏六月十八日 瀧澤 解 謹記

[やぶちゃん注:最初に言っておくが――まだ――終わりじゃないんだな、これが!――「苜蓿再考」という記事が延々続くんだわ!

 なお、以上の内、どうしてもケリをつけておきたいのは、水草だの、陸草だの、ごちゃごちゃ言って、底無しの如き異名を連発して、まさに煙(けむ)に捲かれている「菰」、「マコモ」のことである。実は既に私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 菰(こも) (マコモ)」でも紹介してあるのであるが、澁澤尚氏の論文『「菰」の本草学―陸游詩所詠菰草考序説―』PDF・『福島大学研究年報』創刊号・二〇〇五年十二月発行)という恐るべき労作がある。そこでは最終的には(「三 植物学上の菰」を参照)やはり、本邦のマコモと中国の本草学上の「菰米」を実らす「菰」を別種とはしない立場を採っておられる(但し、澁澤氏は『実際に結実しない菰が存在したことは確かなようで、『採薬便記』申奥州(『古事類苑』植物部巻十四引)に「紀州熊野本宮ニモ菰米アリ、地所ノ菰ニ米穂ヲ生ルコトナシ」などとある。現代においてもこれらの事実を重視し、またしばしば結実しない菰が観察される報告があることから、菰に二種ありとして別個に学名つける研究者もある』と述べておられる。困っていた人、これで一件落着である。別な種があったというのは誤りだったのである!

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 危險なる新光線

 

   危險なる新光線

 

疾患せる植物及び動物の脊髓より發光するところの螢光又はラジウム性放射線が、如何に我々の健康に有害なるかを想へ、斯くの如き光線は人身をして糜爛せしめ、侵蝕せしめずんば止まず。新らしき人類をして悲慘なる破滅より救助せしめんがため、科學者は新らたに發見を要す。

 

[やぶちゃん注:初出は底本の「詩作品發表年譜」及び筑摩版全集の「拾遺詩篇」にある通り、大正四(一九一五)年二月号『詩歌』である。初出は奇体な表記(誤字と言うよりも萩原朔太郎の思い込みの誤用である可能性が高いように思われる)が異様に多いが、一応、示しておく。

   *

 

 危嶮なる新光線

 

疾惡せる植物及び動物の背髓より發光するところの螢光又はラジウム性放射線が、如何に我々の健康に有害なるかを想へ、斯くの如き光線は人身をして靡爛せしめ、浸蝕せしめずんば止まず。新らしき人類をして悲慘なる破滅より救助せしめんがため、科學者は新らたに發見を要す。

 

   *]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 手の幻影

 

   手 の 幻 影

 

白晝或は夜間に於て幻現するところの手は必ず一個である。である。

而してそは何ぴとにも語ることを禁ぜられるところのあるものの手である。

手は突如として空間に現出する。

時として壁或は樹木の幹にためいきの如き姿を幻影する。

手は歷歷として發光する。

手はしんしんとして疾患する。

手は酸蝕されたる石英の如くにして傷みもつとも烈しくなる。

手は白き金屬のごときものを以て製造され透明性を有す。

われの手より來るところの恐怖は、しばしばその手の背後に於て幽靈をさへ感知する。

微笑したるところの幻影であり、沈默せる遠きけちえんの顏面であることを明らかに知覺するとき我は卒倒せんとする。

我はつねに『先祖』を怖る。

 

   編註 本篇は、本卷「蝶を夢む」拾遺中の「手」の原型である。

 

[やぶちゃん注:下線「」は底本では右傍点「◦」、太字「あるもの」「ためいき」「けちえん」は傍点「ヽ」。「編註」にあるそれは、これを指す。そちらの注を参照されたい。そちらで電子化したものと比べると、「左」の傍点が「◎」であったり、「手は突如として空間に現出する。時として壁或は樹木の幹にためいきの如き姿を幻影する。」と、改行されていなかったりする異同があるが、これは原稿の判読の誤りととれば、納得出来る。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 聖餐餘錄 / 致命的に不全

 

    聖 餐 餘 錄

      食して後酒盃をとりて曰けるは
      此の酒盃は爾曹の爲に流す我が
      血にして建つる所の新約なり、
             ―路加傳二二、二〇、

 

鐘鳴る。

我れの道路に菊を植え、我れの道路に霜をおき、我れの道路に琥珀をしけ。道路はめんめんたる一列供養のみち、夕日にけぶる愁ひの坂路、またその坂を昇り降らんとする聖徒勤行の路でもある。

 

鐘鳴る。

鐘鳴る。

エレナよ。今こそ哀しき夕餐の卓に就け。聖十字の銀にくちづけ、僧徒の列座を超え、雲雀料理の皿を超え、汝の香料をそのいますところより注げ。

ああ、いまし我の輝やく金屬の手に注げ、手は疾患し、醋蝕し、するどくいたみ針の如くになりて、觸るるところの酒盃をやぶり汝のくちびるをやぶるところの手だ。

 

ああ、いま聖者は疾患し、菊は疾患し、すべてを超えて我れの手は烈しく疾患する。

見よ、かがやく指を以て指さすの天、指を以て指さすの墳墓にもある。その甚痛のするどきこと菊のごときものはなく、菊よりして傷みを發すること疾患聖者の手のごときものはない。

 

愛する兄弟よ。

いまこそわが左に來れ。

汝が卓上に供ふるもの、愛餐酒盃の間、その魚の最も大なるものは正しく汝の所有である。

凡そ我れの諸弟子諸信徒のうち、汝より聖なるものはなく、汝より邪慾のものはない、乞ふ、われはわれの肉を汝にあたへ、汝を給仕せんがために暫らく汝の右に坐することを許せ。

ああ、この兄弟よ、ぷうしきんの徒よ。

爾は愛するユダである。我をあざむき賣らむとし、愛を接吻せむとする一念にさへ、汝は聯座頌榮の光輪を一人負ふところの聖徒である、「愛」である。

 

愛する兄弟よ。

而して汝は氷海に靈魚を獲んとするところの人物である。

肉親の骨肉を負ひて道路に蹌行し、肉を以て氷を割らんとするの孝子傳奇蹟人物である。

みよ汝が匍行するところに汝が蒼白の血痕はあり。

師走に及び、汝は恒に磨ける裸體である。汝が念念祈禱するときに、菓子の如きものの味覺を失ひ、自働電話機の如きさへ甚だしく憔悴に及ぶことあり。

愛する兄弟よ。まことに師走におよび爾は裸體にして氷上に匍匐し、手に金無垢の魚を抱きて慟哭するところの列傳孝子體である。

 

諸弟子。

諸信經の中、感傷品を超えて觸脫あることなし。萬有の上に我れをあがめ、我れの上に爾曹のさんちまんたるを頌榮せよ。

今宵、あほぎて見るものは天井の蜂巢蠟燭、伏して見るものは女人の指皿、魚肉、雲雀、酒盃、而して我が疾患飾金の掌、輝やく氷電の飾卓晶峯とあり。

みよ、更に光るそが絕頂にも花鳥をつけ。

ああ、各々の肩を超え、しめやかに薰郁するところの香料と抹藥と、音樂と夢みる香爐とあり。

 

諸使徒。

われと共にあるの日は恒に連座して酒盃をあげ、交歡して一念さんちまんたりずむを頌榮せよ。

蓋し、明日炎天に於て斷食苦行するものはその新發智、道心のみ、もとより十字架にかゝる所以のものは我れの涅槃に至ればなり。亞眠。

             ―人魚詩社信條―

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。歴史的仮名遣の誤りや、誤字・誤植としか思われないもの(後ろから二連目の「觸脫」(「解脫」の誤判読或いは誤植)等)等は総てママである。

「爾曹」(じさう(じそう))は二人称代名詞で、「なんじら・おまえたち」の意。対等又は下位の者に対して用いる。

「路加傳二二、二〇」これは「明治元訳新約聖書」 (明治三七(一九〇四)年刊) の「路加傳福音書」(ルカによる福音書)の訳。所謂、「最後の晩餐」の冒頭部のイエスの台詞であり、この後に『夫(そ)れわれを賣わたす者の手は我と共に案(だい)にあり。』『人の子は果して定められたる如く逝かん。然(さ)れども人の子を賣(わた)す人は禍ひなる哉(かな)』という衝撃的な言葉が続くのである。

「醋蝕」(さくしよく・そしよく)だが、一般的熟語ではない。「酸触」と同義で「浸潤して崩れ蝕まれること」の意で用いている。

ぷうしきんの徒」ロシア近代文学の嚆矢とされる大詩人アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン(Александр Сергеевич Пушкин/ラテン文字転写:Alexander Sergeyevich Pushkin 一七九九年~一八三七年)は無神論者であり、キリスト教の宗教的価値観に懐疑的であった。

「人魚詩社」は詩・宗教・音楽の研究を目的とする結社。大正三(一九一四)年六月に室生犀星と山村暮鳥の三人で設立したもの。

 本底本の「詩作品發表年譜」及び筑摩版全集の「拾遺詩篇」所収の初出によれば、それは大正四(一九一五)年一月号『地上巡禮』である。しかし、前の「遊泳」に続いて、本書の本篇も、烈しい異同と脱落(意図的省略)が複数あり、この小学館版の本篇は《激しく不全で無効なもの》と断ぜざるをえない。以下にその初出をそのままに示す。漢字表記・誤字・脱字・誤植と思われるもの等、総てママである。

   *

 

 聖餐餘錄

    食して後酒盃をとりて曰けるは此の酒盃
    は爾曹の爲に流す我が血にして建つる所
    の新約なり、
            ―路加、二二、二〇、

 

鐘鳴る。

我れの道路に菊を植ゑ、我れの道路に霜をおき、我れの道路に琥珀をしけ。

道路はめんめんたる一列供養のみち、夕日にけぶる愁ひの坂路、またその坂を昇り降らむとする聖徒勤行の路でもある。

 

鐘鳴る。

鐘鳴る。

エレナよ。今こそ哀しき夕餐の卓に就け。聖十字の銀にくちづけ、僧徒の列座を超え、雲雀料理の皿を超え、汝の香料をそのいますところより注げ。

ああ、いまし我の輝やく金屬の手に注げ、手は疾患し、醋蝕し、するどくいたみ針の如くになりて、觸るゝところ、この酒盃をやぶり汝のくちびるをやぶるところの手だ。

 

ああ、いま聖者は疾患し、菊は疾患し、すべてを超えて我れの手は烈しく疾患する。

見よ、かがやく指を以て指さすの天、指を以て指さすの墳墓にもある。その甚痛のするどきこと菊のごときものはなく、菊よりして傷(いた)みを發すること疾患聖者の手のごときものはない。

 

愛する兄弟よ。

いまこそわが左に來れ。

汝が卓上に供ふるもの、愛餐酒盃の間、その魚の最も大なるものは正しく汝の所有である。

爾は女の足をひきかつぎ寢(ね)ることによりて、その素足に供養し流涕することによりて、爾の魚の大をなす所上である。[やぶちゃん注:「所以」の誤りであろう。]

まことに夜陰に及び、汝が邪淫の臥床(ふしど)にさへ下馬札を建てるところの聖從である。

凡そ我れの諸弟子諸信徙のうち、汝より聖なるものはなく、汝より邪慾のものはない。乞ふ、われはわれの肉を汝にあたへ、汝を給仕せんがために暫らく汝の右に座することを許せ。

ああ、この兄弟よ、ぷうしきんの從よ、爾は愛するユダである。我をあざむき賣(う)むとし、我を接吻せんとする一念にさへ、汝は聯座頌榮の光輪を一人負ふところの聖徒である、『愛』である。

 

愛する兄弟よ。

而して汝は氷海に靈魚を獲んとするところの人物である。

肉親の骨肉を負ひて道路に蹌行し、肉を以て氷を割らんとするの孝子傳奇蹟人物である。

みよ、汝が匍行するところに汝が蒼白の血㾗はあり。

師走に及び、汝は恒に磨ける裸體てある。汝が念念祈禱するときに、菓子の如きものの味覺を失ひ、自働電話機の如きさへ甚だしく憔悴に及ぶことあり。

汝は電線を渡りてその愛人の陰部に沒人[やぶちゃん注:「入」の誤植。]に及ばんとし、反撥され、而して狂奔する。况んや爾がその肉親のために得るところの鯉魚は、必ずともに靈界天人の感能せる、或はその神秘を啓示するところにならざるべからず。

愛する兄弟よ、まことに師走におよび、爾は裸體にして氷上に匍匐し、手に金無垢の魚を抱きて慟哭するところの列傳孝子體である。

 

諸弟子。

諸信經の中、感傷品を超えて解脫あることなし。萬有の上に我れをあかめ、我れの上に爾曹のさんちまんたるを頌榮せよ。

今宵、あほぎて見るものは天井の蜂巢蠟燭、伏して見るものは女人淫行の指、皿、魚肉、雲雀、酒盃、而して我が疾患蝕金の掌と、輝やく氷雪の飾卓晶峯とあり、

みよ、更に光るそが絕頂にも花鳥をつけ。

ああ、各々の肩を超え、しめやかに薰郁するところの香料と沒藥と、音樂と夢みる香爐とあり。

 

諸使徙、

われと共にあるの日は恒に連座して酒盃をあげ、交歡淫樂して一念さんちまんたりずむを頌榮せよ。

蓋し、明日炎天に於て斷食苦行するものはその新發智、道心のみ、もとより十字架にかかる所以のものは我れの※槃に至ればなり。亞眠。[やぶちゃん注:「※」=「𣵀」の(つくり)の上部の「曰」が「臼」になった字体。無論、「涅槃」の誤り。]

            ―人魚詩社信條―

 

   *

細部を指摘すると、キリがないので、御自身で比較されたいが、本書の本篇が致命的に無効なのは、初出にある以下が意図的に除去されているからである。まず、第四連の、

   *

爾は女の足をひきかつぎ寢(ね)ることによりて、その素足に供養し流涕することによりて、爾の魚の大をなす所以である。

まことに夜陰に及び、汝が邪淫の臥床(ふしど)にさへ下馬札を建てるところの聖從である。

   *

で、次に、第五連の、

   *

汝は電線を渡りてその愛人の陰部に沒人に及ばんとし、反撥され、而して狂奔する。况んや爾がその肉親のために得るところの鯉魚は、必ずともに靈界天人の感能せる、或はその神秘を啓示するところにならざるべからず。

   *

である。これは前の「遊泳」と同様に理由が判らない。そちらと同じ繰り返しになるが、本書は戦後の昭和二二(一九四七)年十一月発行である。従って、この程度のものを危惧して自主的にカットすることはちょっと考えられないように思う。されば、あり得ることは唯一つで、昭和十八年三月から昭和十九年十月にかけて刊行された、本書と同じ小学館の「萩原朔太郎全集」に収録(推定だが、第一巻「詩集上卷」・第二巻「詩集下卷」・別冊「遺稿上卷」の孰れか)する際、時局を憚って、これらの詩句を削除して載せたものを、そのまま転写してしまった(初出誌の確認をしなかった)ということになろうか。私は小学館版全集の原本を見たことがないので断言は出来ない。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 遊泳 / 致命的に不全

 

    遊  泳

 

白日のもと、わが肉體は遊樂し、沒落し、浮びかつ浪を切る。

 

けふわが生くるは、わが遊戲をして、光り、かつ眞實あらしめんためなり。

わが輝やく城の肢體をしてみがき、したしく魚らと淫樂せしめてよ。

 

 奇蹟金銀

 祈禱晶玉

 海底詠嘆

 海上光明

 

しんしんたる浪路のうへ、祈れば我が手につながれ、あきらかに珊瑚の母體は昇天す。

 

母體は昇天す、このときみなそこに魚介はしづみ、いつせいに哀しみの瞳(ひとみ)をあげて合唱し、あなや合讃したてまつる。

 

 さんたくるす

 さんたくるす

 

遊樂至上のうみのうへ、岬をめぐる浪のうたかた、浪とほれば鳥禽の眼にも見えず、況んや白日の幽靈は、いと遙かなる地平にかげをけしゆくごとし。

 

ああ、まぼろしのかもめどり、渚はとほく砂丘はさんらん、十字の上に耶蘇はさんらん、女(をみな)の胴は砂金に硏がれ、光り光りてあきらかに眞珠をはらむ。

 

白日のもと、わが肉體は遊樂し、沒落し、浮びかつ浪を切る。

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩版全集の「拾遺詩篇」に載り、大正三(一九一四)年十一月号『地上巡禮』初出とされるのであるが(これは本底本の巻末にある「詩作品發表年譜」にもそうなっている)、それとは重大な異同が複数あり、この小学館版の本篇は《不全で無効なもの》と私は考える。以下にその初出をそのままに示す。漢字表記・誤植と思われるもの等、総てママである。

   *

 

 遊泳

 

 白日のもと、わが肉體は遊樂し、沒落し、浮びかつ浪を切る。

 

 けふわが生くるは、わが遊戯をして、光り、かつ眞實あらしめんためなり。わが輝やく城の肢體をしてみがきしたしく魚らと淫樂せしめてよ。

 

 奇蹟金銀

 祈禱晶玉

 海底詠嘆

 海上光明

 

 しんしんたる浪路のうへ、祈れば我が手につながれ、あきらかに珊瑚の母體は昇天す。

 

 母體は昇天す、このときみなそこに魚介はしづみ、いつさいに哀しみの瞳(ひとみ)をあげて合唄し、あなや合讃したてまつる。

 

 さんたくるす

 さんたくるす

 

 遊樂至上のうみのうへ、岬をめぐる浪のうたかた、浪とほれば鳥禽の眼にも見えず、况んや白日の幽靈は、いと遙かなる地平にかげをけちゆくごとし。

 

 ああ、まぼろしのかめりどり、渚はとほく砂丘はさんらん、十字の上に耶蘇はさんらん、女(をみな)の胴は砂金に硏がれ、その陰部もさんらん、光り光りてあきらかに眞珠をはらむ。

 

 白日のもと、わが肉體は遊樂し、沒落し、浮びかつ浪を切る。

 

   *

本篇の相違点を、逐一、箇条で指示する。「・」は軽微の、「●」は重い誤り、而して「✕」は致命的に無効な誤謬であることを示す。

・特殊な第三連と第六連を除いて、各段落の冒頭一字下げがない。

但し、萩原朔太郎は、散文詩の場合、冒頭の一字下げを一切行っていない別な詩篇もあり、特にそれを問題にするには当たらないとも言える。ただ、個人的には、私は散文詩は一字下げをするのが普通と考えており、ぱっと見でも、違いとして際立って違和感を抱かせはする。但し、後に掲げる本篇の草稿詩篇(無題)を見るに、字下げは行われていないので、元の詩稿はこうなっていたと考えることも出来よう。

・第二連「戯」が「戲」。

●第二連が二つの段落から成っている。

これは或いは初出誌の版組みで「わが輝やく」が行頭にきていたために、編者が勘違いしたものとも思われる(この場合、本書の編者ではなく、同社の先行する「萩原朔太郎全集」の編者となる。その意味は以下の『第七連』以下を参照)。他の連では連内での改行はないことから、筑摩版全集のものが正しいと推定される。

●第五連の「いつさい」が「いつせい」となっている。

この「いつさい」は萩原朔太郎が極めてよくやる書き癖であり、これが原稿でもそうなっているはず、則ち、「いつさい」が正しいものと推定する。小学館編者は違和感を感じたか、誤植と採ったかで、手入れしてしまったものであろうが、不当である。

・第五連「合唄」が「合唱」。

・第七連「况」が「況」。

●第七連「けちゆく」が「けしゆく」。

古語の「消(け)つ」は他動詞タ行四段活用で「消(け)ち」は正当な用法である。本篇全体は擬古文であると言っても違和感はない(細部の言い切りは口語的臭気は含むが)から、これを修正するのは不当である。かの渡し個人の中で評判の悪い消毒主義の筑摩版全集の校訂本文でさえも訂していない。

・第八連「かめりどり」が「かもめどり」

これは明らかな誤植であり、問題ない。

第七連の「その陰部もさんらん、」が存在しない。

これは理由が判らない。本書は戦後の昭和二二(一九四七)年十一月発行である。従って、この程度のものを危惧して自主的にカットすることはちょっと考えられないように思う。されば、あり得ることは唯一つで、昭和十八年三月から昭和十九年十月にかけて刊行された、本書と同じ小学館の「萩原朔太郎全集」に収録(推定だが、第一巻「詩集上卷」・第二巻「詩集下卷」・別冊「遺稿上卷」の孰れか)する際、時局を憚って、この詩句を削除して載せたものを、そのまま転写してしまった(初出誌の確認をしなかった)ということになろうか。私は小学館版全集の原本を見たことがないので断言は出来ない。

 なお、筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』には、本篇の無題草稿が『本篇原稿一種一枚』として載る。以下に示す。かなり、推敲に悩んでいるものである。表記の誤りは総てママである。「×」「○」は萩原朔太郎によるもの、□は判読不能字。

   *

 

  

 

ああ、わが淫慾は淚たれ、怒りふんすいす、

┃ああ、まぼろしのかもめどり、沖合をみしかればいつさいにさんさん銀のたましひは  青らみぬるゝうみのうみ

白銀のつばささんらん、渚に砂金をついばむさんらん、渚は遠くああまぼろしのかもめどり、砂丘はさんらん、十字の上に耶蘇もさんらん、

[やぶちゃん注:「┃」と「↕」は私が附したもので、前の「┃」のある二行(実際には抹消しているから一行)部分と、後の一行部分が並置残存していることを示す。]

×奇蹟金銀、祈禱晶玉、海底詠嘆、遊樂光明、

○しんしんたる浪路のうへ、いのれば我が手つなかれて

はやかの このはや魚の女體は昇天す、素裸のおみなぞ歩む

みなみな このときみよ純金の女母體ぞ昇天す、はや肉はやみどりをおひこのときみなそこふかに魚介はしずみ、いつさいに哀しみの瞳(ひとみ)をあ*ぐる、さんた、くるす。//げて合唄し、さんた、くるす。//あはや合唄したてまつる*

[やぶちゃん注:「*」と「//」は私が附したもので、「ぐる、さんた、くるす。」と、「げて合唄すし、さんた、くるす。」と、「あはや合唄したてまつる」の三つの詩句が残存並置されていることを示す。以下も同じ。]

海底詠讀

海上光明

□だかる泳げは肉みどりを一身におび、たましひはつや靑らみぬるゝ海の底

はや唄す遊樂至上のうみのうヘ

岬をめぐる浪のうたかた、浪遠ければ鳥禽の眼にも見えず、況んや白日の幽靈はいとはるかなるところ地平より來りまた去り行くごとし、

ああはや、みよおんみらわが泳、四體より血を流し、血をもつて金屬の女をとげるこの*あゝみよ□□砂丘の上この女は砂金にまみれ//渚は遠くみよ女は素裸、その胴體□はも砂金にとかれ*この陰部光り光りてあきらかに眞珠をはらむ

 

白日のもと、わが淫樂は祈禱し、肉體は遊樂し、没落し、

浮びかつ浪をきる。

 

   *]

2021/12/14

曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 西羗北狄牧菜穀考(その2)

 

 彫胡は、前に見えたる相如が賦に、「東廧・彫胡」と、ならべいへるもの、是なり。この彫胡の實は菰米なり。一名は茭米(こうべい)、一名は彫蓬、一名は彫苽、茭草(こもくさ)なり。この菰米をも、むかしの人は、飯となして、珍重せしよしなれど、元來、水草なれば、牛馬に飼ふものには、あらず。

[やぶちゃん注:既に述べた通り、「雕胡」(てうこ(ちょうこ))は単子葉植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae イネ族マコモ属マコモ Zizania latifolia の草体全体を指し、「茭米」(かうべい(こうべい))「彫蓬」(てうはう(ちょうほう))「彫苽」(てうこ(ちょうこ))「茭草(こもくさ)」は、その実のことである。私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 菰(こも) (マコモ)」を参照されたい。]

 

 蒴藋(さくちやう/くさたづ[やぶちゃん注:右/左ルビ。])【「朔」・「弔」の二音。貝原は「クサタヅ」と和訓し、若水は和名を「ソクズ」と、いへり。】、貝原篤信が「筑前續風土記」、「土產」の條下に云、

『蒴藋、馬にかへば、馬の病を治す云々。』。「大和本草」を檢するに、卷の九に、篤信、亦、云、『蒴藋(くさたづ/さくちやう)、一名は陸英、又、接骨草・菫草。接骨(たづの)木と、葉は同じ。只、草と木と、同じからざるのみ。故にクサタヅといふ。「本草」に云々。』、『風ホロセに、身の痒きに、煎じて、洗ふ。又、煎浴湯に、酒、少し加へて、浴す。「本草」に出づ。又、和方にも、功能、多し【こゝには、馬のくすりなるよしを、いはず。「大和本草」を著せし後に、馬のくすりなるよしを、知りたるか。もし、しからずば、「大和本草」は、人の食藥を旨とするゆゑに、わざと、馬のことは、いはぬなるべし。】。』。是によれば、蒴藋は、能[やぶちゃん注:「よく」。]、接骨木(にはとこ[やぶちゃん注:底本は「にはこと」。吉川弘文館随筆大成版で訂した。])に似たる草なり。ニハトコをタヅといへるは、筑前の方言なるべし。江戶人の爲には、ニハトコ草といはゞ、こゝろ得やすかるべし。又、「本草綱目」卷の十六、「隰草の部」に云、『蒴藋【音、「朔・弔」。○「刷錄」[やぶちゃん注:「別錄」の誤字。]。】、稻若水、和名ソクズ[やぶちゃん注:太字下線部は底本では全体が囲み字。吉川弘文館随筆大成版では傍点「ヽ」。]、一名菫草、一名、茇、一名、接骨草、○「本草別錄」に曰、『蒴藋は田野に生ず。春・夏に葉を採る。秋・冬は莖根を採る。』。陶弘景が曰、『田野・墟村に、甚、多し。』。蘇恭が曰、『これ、陸英なり。』。宗奭が曰、『蒴藋は、花、白し。子[やぶちゃん注:「み」。]は、初は、靑し。綠豆の顆の如し。朶[やぶちゃん注:「えだ」と訓じておく。]每に、盞の面の大さ[やぶちゃん注:「さかづきのおもてのおおいさ」と訓じておく。]の如し。又、平生、一、二百の子あり。十月に至て、方に熟す。』。時珍が曰、『枝每、五葉なり。春、苗を生ず。莖に節あり。節の間に、枝を生ず。葉は水芹に似たり。古人、誤て[やぶちゃん注:「あやまりて」。]、陸英・蒴藋を二物とす。是、おのづから、一草なり。說、詳[やぶちゃん注:「つまびらか」。]に「陸英」の條に見えたり。今、略ㇾ之。

[やぶちゃん注:前に述べた通り、「蒴藋」(そくづ(そくず))は、現在では、マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属ソクズ Sambucus javanica を指す。

「貝原」「養生訓」で知られる福岡藩医師で本草家の貝原益軒篤信(あつのぶ 寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)。

「若水」」本草学者稲若水(とうじゃくすい 明暦元(一六五五)年~正徳五(一七一五)年) 初名は稲生(いのう)若水。名は稲生正治、或いは、宣義で、号を若水としたが、後に唐風に稲若水を名乗りとした。父は淀藩の御典医稲生恒軒で、江戸の淀藩の屋敷で生まれた。医学を父に学び、本草を福山徳順に学んだ。元禄六(一六九三)年に金沢藩に儒者役として召し出され、壮大な本草書「庶物類纂」の編纂を命ぜられた。同書は三百六十二巻で未刊に終ったが、後に丹羽正伯が引き継ぎ、一千巻とした。著書はほかに「食物伝信纂」・「炮灸全書」・「詩経小識」・「本草綱目新校正」などがある。

『貝原が「筑前續風土記」』福岡藩が編纂した地誌。貝原益軒に命じ、甥の貝原好古(よしふる/こうこ)や高弟竹田定直らとともに編纂した筑前国の地誌。元禄元(一六八八)年に下命を受け、元禄十六年に編纂が完了し、福岡藩四代藩主黒田綱政に上呈されたが、その後も改定が加えられ、宝永六(一七〇九)年に改訂版が完成した。筑前国内の村々を廻り、実地調査や実証に基づいて編纂が行われた。後に、江戸幕府が諸藩に地誌の編纂を奨励したが、「筑前国続風土記」の和文の遣い方や、本文の記載方法が手本になったとされる。以下は最終の第三十巻の「土產考 下」にある。「中村学園大学」公式サイト内の中村学園大学図書館蔵本の当該巻PDF)の26コマ目に、

   *

【蒴藋(くさだつ)】 處々にあり。馬にかへば馬の病を治す。接骨(たづ)木の葉に能似たる故に名づく。

   *

とある。

「大和本草」宝永五(一七〇八)年、益軒七十九歳の時に完成させ、翌年に刊行された博物学的本草書。「本草綱目」の収載品の内、本邦に産しない対象及び薬効的に疑わしいものを除いて、七百七十二種を採用し、さらに他書からの引用や、日本特産品及び西洋渡来の品なども加え、千三百六十二種の薬物を収載している。因みに、海産生物フリークの私はブログ・カテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部』の電子化注を今年の六月に完成している。「中村学園大学」公式サイト内の中村学園大学図書館蔵本の当該巻PDF)「大和本草卷之九」「草之五」の「雜草類」の27コマ目に(カタカナをひらがなに代え、約物は元に戻し、一部に推定で送り仮名を附し、記号を追加し、漢文読みの箇所は訓読した)、

   *

蒴藋(くさたづ/さくてう) 一名「陸英」、又、「接骨草」・「菫草」。接骨木(たづのき)と、葉は同じ。只だ、草と木と、同じからざるのみ。故に「くさたつ」といふ。「本草」、『蒴藋と、陸英と、別物なり。』と云ふ說あり、故に陸英を別にのせたり。時珍は諸說を引きて『一物なり。』とす。「風ホロセ」、身の痒きに、煎じて、洗ふ。又、煎浴湯に、酒、少し、加へて、浴す。「本草」に出づ。又、和方にも、功能、多し。

   *

この「風ホロセ」というのは、恐らく「風疿子(ふうほろせ)」で、「皮膚に小さくできる、つぶつぶした発疹・蕁麻疹」のことであり(「日国友の会」のこちらで確認)、広く蕁麻疹や風疹のことを指すようである。

「接骨木(にはとこ)」マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属ニワトコ亜種ニワトコ Sambucus racemosa subsp. sieboldiana 。当該ウィキによれば、『地方により、ヤマダズ(山たづ)』・『タズノキ』・『タヅノキ』・『ダイノコンゴウ(関東地方)』『などの方言名があ』り、『「山たづ」は』「万葉集」にも『詠まれた呼び名で、対生の羽状複葉をツルの羽を広げた姿に見立てたもので、ツルの古名「たづ」からきているとする説が』あるとある。葉や枝が、打撲・捻挫・あせも・湿疹・神経痛等の民間薬として古くから使われてきた。

『「本草綱目」卷の十六、「隰草の部」に云……』「漢籍レポジトリ」の同巻の、ガイド・ナンバー[045-74a] [045-74b] [045-75a]を見られたい(画像選択で影印本画像も見られる)。「蒴藋」があり、その前に「陸英」が立項されているのが判る。

『「刷錄」[やぶちゃん注:「別錄」の誤字。]。】』「本草別錄」書名であるが、不詳。「本草綱目」がよく引用する、梁の道士にして本草家(特に薬物学に精通していた)の陶弘景(四五六年~五三六年)が、数種の旧「神農本草経」四巻を校訂し、「名医別録」三巻の記載を合編して「神農本草経」三巻を作成した、と学術論文にあった。これらか。

「墟村」(きよそん(きょそん))で、「荒れ果てた村・辺境の村」の意か。

「蘇恭」蘇敬(五九九年~六七四年)の別称。初唐の官人で本草家。

「宗奭」宋代の本草学者寇宗奭(こうそうせき)。彼の著になる「本草衍義」は本草書の名著の一つとされ(一一一九年頃成立)、時珍は「本草綱目」でしばしば当該書を引いている。

「綠豆」マメ目マメ科マメ亜科ササゲ属ヤエナリ Vigna radiata

「水芹」日本原産の双子葉植物綱セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica 。]

氣味。苦く、寒にして、毒、なし。一に云、酸・溫にして、毒、あり。大明、曰、「苦凉にして、毒、なし。」。

主治は、骨間の諸痺、四肢拘攣・疼酸、膝痛、陰痿、短氣不足、脚腫【これ、「上本經」に見えたり。】。能く風毒を治し、脚氣上衝、心煩悶絕、水氣虛腫、風瘙皮肌、惡痒に煎湯に、少し、酒を入れて、浴すれば、妙なり【甄權が說、已上、陸英の主治なり。陸英・蒴藋、同物なるときは、主治も亦、同じかるべし。】。風瘙癮疹、身、癢く[やぶちゃん注:「かゆく」。「痒」と同義。]、濕痺には、浴湯となすべし【「別錄」】。瘑癩・風痺にも浴すべし【大明。】。

[やぶちゃん注:「瘙」は音「サウ(ソウ)」。「瘡」と同義。

「甄權」(しんけん)は唐代の医師。

「陸英の主治なり」先に示した「本草綱目」の「陸英」の最後に載っている。

「瘑癩」(くわらい(からい))はハンセン病による激しい皮膚炎のことか。

「風痺」中風。]

〇蒴藋の牛馬の病に宜きよしは、只、「筑前續風土記」に出るの外、本草に、絕て、いはず。しかれども、篤信は純篤博雅の人なり。必、經驗なき事をしるすべくも、あらず。本草によるときは、馬の、あし氣・馬瘡などには、必、效あるべし。この外にも、さまざま、病症に用ひて、ためして見たきものにこそ侍れ【陸英圖、略。】。

 

Rikueisakkaku

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミング補正した。キャプションは、

陸英蒴藋

であるが、陸英の図は略したと本文割注で言ってある。同一物だから、描く必要を感じなかったということであろう。因みに、探してみたら、「維基文庫」の「植物名實圖考(道光刻本)の第十一巻に「陸英」の図を見つけた。しかし、これ、――全然、違う! 少なくとも、この絵のそれは、同一物ではないぞ! 以下、

和名、俗にいふ「にはとこ草」、筑前方言「くさだつ」、山城方言「そくず」。此圖は、「本草圖經」乾の卷に見えたり。

とある。「本草圖經」は「その1」で既注。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 編註・「遊獵手記」

 

   散 文 詩

 

[やぶちゃん注:パート標題。]

 

 

編註 詩集『蝶を夢む』には卷末に「散文詩」として「吠える犬」以下四篇の作品が收めてある。(既刊『月に吠える』參照)これらの作品は萩原朔太郞の詩として比較的初期に屬するもので、四篇中の「吠える犬」「柳」「極光」の三篇は大正四年二月號の雜誌『詩歌』に掲載され、「Omega の瞳」は大正三年十月號の『詩歌』に掲載された。しかし『蝶を夢む』の作品は「吠える犬」一篇を除き、他は長文に散文詩として發表されたものを、部分的に抽出して一個の作品に獨立せしめたものであつた。(本篇中の「懺悔者の姿」參照)當時に於ける萩原朔太郞は「散文詩」として十數篇の作品を作つてゐるので、ここにはその代表的なものを收錄し、作品收錄に完璧を期することとした。其中「ADVENTURE OF THE MYSTERY」のみは大正七年の作品で、そのため他の作品と情操を異にするが、これも「散文詩」として發表されたのでここに收めた。

なほ「Omega の瞳」を含む「SENTIMENTALISM」「光の說」等の作品はいくぶん評論めいたものなので、ここには採らぬこととした。

 

[やぶちゃん注:「既刊『月に吠える』」本底本の同シリーズの「萩原朔太郎詩集Ⅰ 月に吠える」のここから「吠える犬」・「Omega の瞳」・「極光」の三篇が収録されてある。

「吠える犬」ここに私の古い電子化がある(古い仕儀で正字表現が不全であったので先ほど修正しておいた)

「柳」ここに私の古い電子化がある(同前)。

「極光」次注のリンク先の私の注を参照。

『本篇中の「懺悔者の姿」參照』以下の本底本のこれ。古くに「懺悔者の姿 萩原朔太郎 (「極光」原形)」として電子化してあるので見られたい(同前で修正した)。

SENTIMENTALISM」「光の說」二篇とも「青空文庫」の「散文詩・詩的散文」で読める。]

 

 

 

   遊 獵 手 記

 

銃口を放るるとき彈丸はその最も遲*なるスピードを有す。我は樹上の鴨をねらふ。鴨はその心臟に靈氣を感ずるとき電光のごとく疾落すれども、いまだ銃口を放れんれんとし、放れざるとき、彈丸は些の加速度を有せず。哀しい哉、感傷の人は常に裝藥せる銃を擬して樹上の鴨をねらふ。

 

林中に小池あり。龜と魚介と住めり、龜は最も少なるものと雖も、なほよく沼中の祕事を知る。而して悠々たり、われ試みに龜を量りしにその重さ同額の純金と等しかりき。

 

たちまちにして疾行する兎あり。これを追ふこと久しくして得ず。落葉樹の間、犬の吠ゆることやや久し、兄弟よ、我は手に銃を擬せどもいまだ一樹の針葉だにおとさざる也。

愛するものよ。

しばらく我れは汝をはなれこれらのめづらしき魚介と遊ばんとす。

ああすべて聖者は疾患し、菊は疾患し、而して宙宇のあひだわれと遊べるものただこの林間一個の生物のみ。

みよ。龜はかくして地上に這ひわれの視界の及ばぬ方にかくれ默禱し、而してつねに默思す。龜は魚介にあらざるもなほ靈性を有する魚介なり。龜は宙宇にありて最小なるものと雖もよく純金の重量を有しその時に凝縮することをもつて哀傷最も深し。彼はその安住一所をはなれず、常に悠々たるも常に金性の凝氣を發し心最もいたむ。

この故に龜よ、汝の葡行するところにより我の靈智をそめむ。

 

いま龜をして卓上を這はしむる者はたれぞ。戲奴よ、我はこれ等のたはむれよりしてわが聖餐を穢さしむるに忍(しの)びず。ああすべて聖なるものは終れり。我をして二度言語を勞せしむる勿れ。戲奴よ、爾の名は人間なり、最も賢しこき思想家也。

 

[やぶちゃん注:「*」は判読不能或いは以下の筑摩版全集のものと同じく一字分の空きであろう。珍しく編者注記がない。本篇は筑摩版全集の「未發表詩篇」に以下のように載る。表記は総てママである。「葡行」はママ。「匍行」の誤字であろう。「戲奴」は「ジョーカー」と読んでおく。

   *

 

 遊獵手記

 

銃口を放るるとき彈丸はその最も遲 なるスピートを有す、我は樹上の鴨をねらふ、鳥は鴨はその心臟に靈氣を感ずるとき電光の如く疾落すれども、いまだ銃口を放るゝとき我のれんとし、放れざる時、彈丸は些の加速度を有せず、哀しい哉、感傷の人は常に裝藥せる銃を擬して樹上の鴨をねらふ。

 

林中に小沼あり。龜と魚介と住めり、龜は最も小なるものと雖も尙よく沼中の祕事を知る。而して悠々たり、われ試みに龜を量りしにその重さ同額の純金と等しかりき

 

たちまちにして疾行する兎あり。之を追ふものこと久しくして得ず。落葉樹の間、殘雪の光れるを見て 山脈の犬の吠ゆることやゝ久し、兄弟よ、我は手に銃を擬せどもいまだ一樹の針葉だにおとさざる也。

 

愛するものよ

しばらく我れは汝等の上に此のをはなれ此等のめづらしき魚介と遊ばんとす、

ああすべて聖者は疾患し菊は疾患し、而して宙宇のあひたわれと遊べるものたゞこの林間一個の玩具生物のみ、

われはいま掌よりみよ。龜と→をはかくして地上に這ひわれの視界の及ばぬ方にかくれ默禱し而してつねに默思す、龜は魚介にあざるも尙靈性を有する魚介なり。來りすみかに龜は宙宇にありて最小なるものと雖もよく純金の重量を有しその時に凝縮するを以て哀傷最も甚だし、深し、彼は悠々たるも彼はその安住一所をはなれず。常に悠々たるも常に金性の凝氣を發し心最もいたむ。

この故に龜よ、汝と一所の小匣に汝の葡行するところにより我の靈智をひそめむ。

 

咄、いま龜をして卓上を這はしむる者はたれぞ。戲奴よ、我は此等のたはむれよりしてわが聖餐を穢さしむるに忍ひす。ああすべて聖なるものは終れり。戲奴よ、我をして二度言語を勞せしむる勿れ。戲奴よ、爾の名は人間なり。最も賢しこき思想家也。

 

愛するものよ、

 

   *

とあって、筑摩版全集初版は編者注で、『一行目の「最も遲 なる」の一字分空きは原文のまま。』とあるだけだが、後に差し込みで、校訂本文を『遲緩』と字を当て、注を『一行目の「最も遲 なる」の一字分空きは原文のままであるが、ノート別稿』(全集には収録されていない資料)『に「遲カン」とあるので』校訂本文を修正した旨の追記がある。確かに「遲緩」は腑には落ちる。また、「咄」は「トツ」で「舌打ち」の音からの激しくしかる際に発するオノマトペイアである。

 さて。本篇と比較してみると、細部に夥しい異同があり、最終行の「愛するものよ、」もないのであるが、第一行の「遲」の後の「*」或いは空白の一致から、私は最終的に同一の原稿であると判断する。抹消の多さや、散文詩であるために、文字が錯綜し、原稿が相当に判じにくいものである可能性が高いと考えたからである。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺珠 (「動物園にて」の後に配された「詩篇編註」及び「斷片追註」)

 

詩篇編註 散文詩と付記したものを除く萩原朔太郞の詩篇は、既刊『月に吠える』『靑猫』『氷島』『遺稿詩集』收錄の分と本卷の分とを合し、ほぼその全部を盡したといふことができる。編集の都合によつて意識的に除外した作品と、またノオト、紙片などに書きつけたまま判讀しがたい作品も若干あるが、それらを一先づ別としていへば、以上の諸篇をもちてその全業績と初期詩篇から晩年に至るまでの途筋も知られる譯である。

 

斷片追註 本卷一四〇頁に收錄した「穴をもとむ」は、その註に「これは完成してゐたと思はれる」旨をしるしおいたが、その續稿かと思はれるのが、一四一頁上段の「堇きんぽうげ……」の斷片である。しかしこの二篇は全く別個にさぐり出したので、編集者としては、これを一つの作品として結びつけることを遠慮した。そのため近接した頁に二篇を配置し、二篇聯結の手がかりともした。

 

[やぶちゃん注:底本のこの左ページである。この二つの註は、小学館の編者がいかに誠実であるかを物語るものである。いわば、編集作業に於いて行った仕儀の内で、読者に知らせておきたい作業内容を丁寧に語ったもので、最早、萩原朔太郎の全集の権威となった筑摩版全集などでは、想像も出来ない心の籠った注記であると言える。感動した。

「散文詩と付記したもの」国立国会図書館デジタルコレクションの小学館の同コンパクト版の、

「萩原朔太郎詩集Ⅳ 散文詩」

に収録されている。

「既刊『月に吠える』『靑猫』『氷島』『遺稿詩集』收錄の分」それぞれ、国立国会図書館デジタルコレクションの、同じく小学館の同コンパクト版の、

「萩原朔太郎詩集Ⅰ 月に吠える」

「萩原朔太郎詩集Ⅱ 靑猫」

「萩原朔太郎詩集Ⅲ 氷島」

「萩原朔太郎詩集Ⅴ 遺稿詩集」

を指す。最後の「遺稿詩集」は既に本ブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」で、所持する再版本で全電子化注を終えている。

「穴をもとむ」私の『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 穴をもとむ / 筑摩版全集の「穴をもとむ」の完成原稿を誤認した断片(前半)』を指す。

「堇きんぽうげ……」私の『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(堇、きんぽうげ) / 筑摩版全集の「穴をもとむ」の完成原稿を誤認した断片(後半)』を指す。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺珠 「動物園にて」(決定稿と初出)

 

   動 物 園 に て

      『氷島』收載

 

灼きつく如く寂しさ迫り

ひとり來りて園内の木立を行けば

枯葉みな地に落ち

猛獸は檻の中に憂ひ眠れり。

彼等みな忍從して

人の投げあたへる肉を食らひ

本能の蒼き瞳孔に

鐵鎖のつながれたる惱みをたえたり。

暗鬱なる日かな!

わがこの園内に來れることは

彼等の動物を見るに非ず

われは心の檻に閉ぢられたる

飢餓の苦しみを忍び怒れり。

百たびも牙を鳴らして

われの欲情するものを嚙みつきつつ

さびしき復讐を戰ひしかな!

いま秋の日は暮れ行かむとし

風は人氣なき小徑に散らばひ吹けど

ああ我れは尙鳥の如く

無限の寂寥をも飛ばざるべし。

 

[「たえたり」はママ(以下の初出の「耐えん」も同じ)。若干、問題がある。私の「萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 動物園にて」を参照されたいが、「瞳孔」にあるルビ「ひとみ」がなく、「暗鬱」は「暗欝」である。後者は筑摩版全集では「暗鬱」に消毒されているが、「国文学研究資料館」の「電子資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」の原本本篇を見て戴ければ判る通り、「暗欝」が正しい。]

 

 

 

  動 物 園 に て

     『ニヒル』昭和五年二月號(「動物園にて」原型)。

 

灼きつく如く寂しさ迫り

一人來りて園内の木立を行けり。

枯葉みな地に落ち

猛獸は檻の中に憂ひ眠れり。

彼等みな忍從して

人の投げあたへる肉を喰らひ

本能の蒼き瞳(ひとみ)に

鐵鎖のつながれたる惱みをたへたり。

暗鬱なる日かな

わがこの園内に來れることは

彼等の動物を見るに非ず

いかんぞこの悲しきものを見るに耐へん。

われは心の檻に閉ぢられたる

飢餓の苦しみを忍び怒れり

いかんぞこの悲しきものを見るに耐へん。

百たびも牙を鳴らして

われの欲情するものを嚙み付きつつ

さびしき復讐を戰ひしかな。

今秋の日は暮れ行かんとし

風は人氣なき小徑に散りばひ吹けり。

ああその思惟を斷絕せよ

われは尙鳥の如く

無限の寂寥をも飛ばざるべし。

 

[やぶちゃん注:これは致命的な誤りがある。私の「萩原朔太郎 氷島 初版本原拠版 附・初出形 動物園にて」を参照されたいが、「飢餓の苦しみを忍び怒れり」の次行の「いかんぞこの悲しきものを見るに耐へん。」は一行分全部が衍字句である。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺珠 「靑空に飛び行く」(決定稿と初出)

 

  靑空に飛び行く

      『蝶を夢む』收載

 

かれは感情に飢ゑてゐる。

かれは風に帆をあげて行く舟のやうなものだ

かれを追ひかけるな

かれにちかづいて媚をおくるな

かれを走らしめろ 遠く白い浪のしぶきの上にまで。

ああかれのかへつてゆくところに健康がある。

まつ白な大きな幸福の寢床がある。

私をはなれて住むときには

かれにはなんの煩らひがあらう!

私は私でここに止つてゐよう

まづしい女の子のやうに 海岸に出て貝でも拾つてゐやう

ねぢくれた松の木の幹でも眺めてゐやう

さうして灰色の砂丘に坐つてゐると

私は私のちひさな幸福に淚がながれる。

ああ かれをして遠く遠く沖の白浪の上にかへらしめろ

かれにはかれの幸福がある。

ああかくして、一羽の鳥は靑空に飛び行くなり。

 

[やぶちゃん注:「『蝶を夢む』收載」は編者による附記。詩集「蝶を夢む」は大正一二(一九二三)年七月に新潮社の「現代詩人叢書」の第十四巻として刊行された萩原朔太郎の第三詩集に相当するもの(但し、「月に吠える」「靑猫」からの再録十六篇を含み、全六十篇所収)。以上はしかし、一ヶ所、問題がある。以下に原本を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認して示す。

   *

 

   靑空に飛び行く

 

かれは感情に飢ゑてゐる。

かれは風に帆をあげて行く舟のやうなものだ

かれを追ひかけるな

かれにちかづいて媚をおくるな

かれを走らしめろ 遠く白い浪のしぶきの上にまで。

ああ かれのかへつてゆくところに健康がある。

まつ白な 大きな幸福の寢床がある。

私をはなれて住むときには

かれにはなんの煩らひがあらう!

私は私でここに止つてゐやう

まづしい女の子のやうに 海岸に出で貝でも拾つてゐやう

ねぢくれた松の木の幹でも眺めてゐやう

さうして灰色の砂丘に坐つてゐると

私は私のちひさな幸福に淚がながれる。

ああ かれをして遠く遠く沖の白浪の上にかへらしめろ

かれにはかれの幸福がある。

ああかくして、一羽の鳥は靑空に飛び行くなり。

 

   *

六行目の字空けである。]

 

 

 

   靑空に飛び行く

    『感情』大正六年二月號(『靑空に飛び行く』原型)

 

おほきな、まつくろの巖の上に立つて居るのはだれだ

ここの岬の上で

はりつめた勇猛の聲で叫んでゐるのはだれだ

かれは感情に飢えてゐる

かれは風に向つて帆をあげて行く舟のやうなものだ

かれを追ひかけるな

かれに近づいて媚をおくるな

かれを走らしめる、遠く白い浪のしぶきの上にまで

ああ かれのかへり行くところに健康がある

まつ白な、おほきな幸福の寢床がある

私をはなれて住むときには

かれにはなんのわづらひがあらう

私は私でここに止つて居やう

まづしい女の子のやうに、海岸に出て貝でも拾つて居やう

ねぢくれた松の木の幹でも眺めて居やう

さうして灰色の砂丘に座つてゐると

私は私のちいさい幸福に淚がながれる

ああ かれをして遠く遠く沖の白浪の上にかへらしめる

かれにはかれの故鄕(ふるさと)がある

かれは美しい少年の感情に飢えて居るのだ

私とは緣もゆかりもないところで

かれにはかれの張りつめた勇猛の聲に伸びあがつて居るのだ

ああかくして一羽の鳥は靑空にとび行くなり。

 

[やぶちゃん注:「飢え」「居やう」「ちいさい」はママ。筑摩版全集の同初出を示す。歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

 

 靑空に飛び行く

 

おほきな、まつくろの巖(いはほ)の上に立つて居るのはだれだ

ここの岬の上で

はりつめた勇猛の聲で呌んでゐるのはだれだ

かれは感情に飢えてゐる

かれは風に向つて帆をあげて行く舟のやうなものだ

かれを追ひかけるな

かれに近づいて媚をおくるな

かれを走らしめる、遠く白い浪のしぶきの上にまで

ああ かれのかへり行くところに健康がある

まつ白な、おほきな幸福の寢床がある

私をはなれて住むときには

かれにはなんのわづらひがあらふ

私は私でここに止つて居やう

まづしい女の子のやうに、海岸に出で貝でも拾つて居やう

ねぢくれた松の木の幹でも眺めて居やう

そうして灰色の砂丘に座つてゐると

私は私のちいさい幸福に淚がながれる

ああ かれをして遠く遠く沖の白浪の上にかへらしめる

かれにはかれの故鄕(ふるさと)がある

かれは美しい少年の感情に飢えて居るのだ

私とは緣(ゑん)もゆかりもないところで

かれにはかれの張りつめた勇猛の聲に伸びあがつて居るのだ

ああかくして一羽の鳥は靑空にとび行くなり

 

   *

本篇は一部の歴史的仮名遣が不全に修正されており、不快である。やるか、やらないか、そのどちらかでしかない。而して、その場合、筑摩版全集校訂本文の消毒のように「ちいさい」を「ちひさい」としてよいかどうか? しかし、小学館編者の致命的な一点は、「まづしい女の子のやうに、海岸に出で貝でも拾つて居やう」の「出て」の改変である。「いで」では、どこが、まずいのだ? まあ、「でて」の方が韻律的には躓きはないが、しかし、絶対に許されぬ改変である。決定稿でも「出で」だからである! 後発の収録詩集類でも、この決定稿詩篇の「出で」は「出で」で、「出て」と後に朔太郎が修正した痕跡は――全くない――のだ!

曲亭馬琴「兎園小説別集」始動 / 「兎園小説別集」目録・上巻 「西羗北狄牧菜穀考」(その1)

 

[やぶちゃん注:「兎園小説別集」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。所持する吉川弘文館随筆大成版の「日本随筆大成」第二期第四巻所収の丸山季夫氏の解説によれば、この時期の『馬琴は戯作の筆に多忙であった頃で』あったが、『なおこの文業を残している事が、馬琴自身の楽』し『みも、ここにあったかと思われる』とある。なお、本書中巻には、「耽奇会」の文政八(一八二五)年三月十三日発会の席上、薬種商であった文宝堂亀屋九右衛門(後に二代目蜀山人の号を名乗った)が発表した「大名慳貪之匣」(だいみょうけんどんのはこ)の名義及び、その「けんどん」に当てるべき文字に関して、山崎美成と激しい論争(通称「けんどん争い」などと呼ばれる)となって、両者が決定的に絶交することになった一件に関わる「けんどん名義」が所収されている。

 なお、本書の冒頭にある馬琴に「ひやうし考」は、「兎園小説」正編の第一集に収録された「ひやうし考」の再録であり、表記に若干の相違があるものの、全く同じものであるので、省略した。

 底本は上巻と下巻は、

国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら

から載る正字正仮名版を用いる。しかし、実は同底本には中巻がない。しかし、これは、同シリーズの別な巻に同じ内容のものが載るために省略したもので、それぞれ、「けんどん爭ひ」(「兎園小説別集」では「けんどん名義」)と「元吉原の記」として分離して掲載されているための省略であるから、この中巻の二編は、

国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第一

を底本とすることにした。

 挿絵は画像が、今一つ、ぼんやりしているが、底本の画像をトリミング補正して使用することとした。また、本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない。稀に底本の誤判読或いは誤植と思われるものがあり、そこは特に注記して吉川弘文館版で特異的に訂した)。但し、以上のような変則分離が底本ではなされていることから、「目錄」の中巻の部分については、吉川弘文館随筆大成版の「目次」にあるものを正字化して示すこととした。諸凡例は先行する「兎園小説」(正編)に準じて、字下げその他は必ずしも底本に従わない(ブログのブラウザ上の不具合を防ぐため)。【 】は二行割注。今まで通り、句読点は現在の読者に判り易いように、底本には従わず、自由に打った。鍵括弧や「・」も私が挿入した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。【二〇二一年十二月十三日始動 藪野直史】]

 

 

  兎園小說別集

 

 

兎園小說別集目錄

     上 卷

ひやうし考【この一編は、兎園小說第一集に收めたるものなり。こは、淨書したるを、類に從て、こゝにも、載るのみ。】

西羗北狄牧菜穀考

内浦駒嶽神馬紀事【駒嶽圖、附圖は別にあり。】

[やぶちゃん注:この割注は吉川弘文館随筆大成版にはない。]

松前家走馬の記

騎馬砲考

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では「砲」は『筒』。]

柳川藩水馬の記

松前家牧士遠馬の記【この卷は祕すべき事なきにあらず、みだりに人の見る事をゆるしがたきものなり。】

追錄剿入三ヶ條

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版には以上の注記的項立てはない。「剿入」は「さうにふ」で「挿入」に同じ。]

文忌寸禰麿骨龕所掘圖說

烏丸光廣卿戲墨鳴神三絃紀事

髷の侍【自是卷下、余所獨撰也。是故雖社友、未ㇾ有錄之。兒孫宜祕藏。】

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版の「目次」では、順序に異同があり、標題のみ表記のまま並べると、

   *

ひやうし考

西羗北狄牧菜穀考

内浦駒岳神馬紀事

松前家走馬の記

騎馬筒考

文忌寸禰麿骨龕所掘図説

烏丸光広卿戯墨鳴神三絃紀事

柳川藩水馬の記

松前家牧士遠馬の記

髷の侍

   *

である。吉川弘文館随筆大成版には杜撰なことに底本注記がないのだが、どうも本書には異なった稿本があるようである。

 以下、冒頭注で述べた通り、吉川弘文館随筆大成版の「目次」の項目のみを正字化して掲げた。]

     中 卷

けんどん名義

 同批考 同批考問辨 同約言

 同釋詰 同勸解

 同勸解囘語

元吉原の記

     下 卷

帶掛考【追記、信天緣。】

三十六町一里幷一里塚權輿考【追記、簞笥・瑞稻・白烏。】

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版には割注自体がない。但し、底本のこの目次は不全で、本文にある「東大寺造立供養記」がなく、しかもそこに「瑞稻」と「白烏」の追記はある。]

問答三條【乞素壓狀・地口・八分。輪池、問、馬琴、答。】

問目三條【鳩有三枝之禮・鹿獨・肝煎。著作堂、問、答、なし。追記、雀戰。】

墨水賞月詩歌【追記、淸國荒飢亂。】

天狗孔平傳

異年號辨

高野大師色葉

永錢考【小出、問、山崎、答。】

正八幡考【小出、問、山崎、答。】

加賀金澤出村屋紀事【追錄、越後船石。】

下野赤岩庚申山記

[やぶちゃん注:同前で吉川弘文館随筆大成版と異同がある。同じ仕儀で示す。

   *

帯掛考

三十六町一里幷一里塚権輿考

簞笥のはじまりの事

東大寺造立供養記

問答三条

問目三条

墨水賞月詩歌

天狗孔平伝

異年号弁

高野大師色葉

永銭考

正八幡考

加賀金沢出村屋紀事

下野赤岩庚申山記

   *]

 

 

兎園小說別集上卷

 

   ○ひやうし考      著作堂手稿

[やぶちゃん注:省略。冒頭注参照。底本ではここから。くどいが、図を含めて、内容はほぼ同一である。]

 

   ○西羗北狄牧菜穀考  瀧澤 解 稿

[やぶちゃん注:標題「西羗北狄牧菜穀考」(せいきやうほくてきぼくさいこくこはう(せいきょうほくてきぼくさいこくこう))は、「西羗北狄」が、古代からの中国人の漢人選民思想である中華思想に基づく差別を意味する「東夷西戎南蛮北狄」という中国以外の四方外の人間は総て野蛮人とする考えに拠った方位の呼称。東は海で陸続きがなく、南は時期によって中国が有意に南進していたから外したものであろう。但し、この場合の「西羌」は、西でも北西部に住んだチベット系民族を漢代に呼んだ語で、四世紀には五胡の一つとして華北に侵入して後秦を建国した。多くの部族に分かれ、西夏を建国したタングート族も、その一つであった。南船北馬を出すまでもなく、北は馬が重要で、「牧菜穀」は「牧」が家畜(特にここでは、その馬)で、その飼料となる広義の秣(まぐさ)が「菜」であり、その種を合わせて「菜穀」と言ったものである。

 少し長いので、段落を成形し、一部で行を空けた。但し、馬琴は冒頭に以下のような整然とした目録を立てているものの、実際にはそこに出る植物名が、読むうちに、ごちゃごちゃになって出現するので、整序して読み解くことは、かなり困難である。馬琴はかなり頑張って市井の一般人にも判るように丁寧に考証してはいるのだが、彼は南方熊楠に似ていて、思いついたものは、脱線に脱線を重ねてでも、謂わずにはいられない、天才にありがちな、整理・整序を心がけて記述することがやや苦手な性質(たち)であることが判る。さらに馬琴は、今までの彼の記事から見ても、博物学的な動植物についての知識は、実は、それほど深くない。また、その混迷に拍車をかけたのは、以下の冒頭で私が注した通り、「本草綱目」等の漢籍が、同一植物に対して、全く異なる異名を与えていたこと、或いは、別種、或いは、そうであるかのように記載していること、さらに、そこに出る植物の漢語名と本邦の漢字が、必ずしも同一の植物を指していないにも拘わらず、馬琴はそこで立ち止まって考察することがおろそかになっている箇所が多いこと、に由来するものであると考える。また、注に時間がかかるので、本篇は分割公開することとした。]

 

   目 錄

△東廧考、△同圖【新製。】。△蒴藋、△同圖【「本草圖經」。】。△苜蓿、△同略圖【依「本草圖經」、以加愚案者。】。△茭米・雕胡。△黍蓬【一名、旱蓬。一名、靑科。】。已上[やぶちゃん注:「旱蓬」は底本では「早蓬」であるが、不審で、吉川弘文館随筆大成版ではここは正しく「旱蓬」となっていたので、訂した。しかし、同版も後で同じ誤字(誤植?)をやらかしている(底本も同じ)。そこも訂した。これは五月蠅くなるだけなので、そこは指示していない。正直、致命的に重篤な誤字である。]。

 右、引用する所の本草等の本文、すべて漢文なるを、今、和解して、悉、國字をもて、しるしたり。且、和訓なければ、こゝろ得がたきものには、傍訓を施して、披閱の便りとす。いまだ、一種も、これらの草を見ざれば、只、古人の說に愚按を加へて、蛇足の辨をなすにすぎず。もし、命と黃金と、ふたつながら、心にまかする時に逢ふ事あらば、親しく蝦夷地に赴きて、採藥せまほしくこそ、ねがひ侍るなり。あなかしこ。

[やぶちゃん注:「東廧」「廧」は音は「シヤウ(ショウ)・ザウ(ゾウ)」である。「とうしやう(とうしょう)」と読んでおく。中文サイトを、複数、調べて、やっと学名を見出せた。少なくとも現在は双子葉植物綱ナデシコ目ヒユ科Corispermoideae 亜科Agriophyllum squarrosum を指す。現代中国では「沙蓬」(サーミ)と書くようである。本邦には植生せず、英文サイト「Flora of China 」のこちらによれば、中国及びカザフスタン・モンゴル・ロシア・アゼルバイジャンに砂漠・砂地地帯に自生する。民間薬に用いられてもいるようである。中文サイト「狗捜百科」の「沙蓬」草体の画像。「維基文庫」の「欽定古今圖書集成」の「博物彙編 草木典」の第四十巻の最後にある「東廧部彙考」も参照。「郭義恭廣志」と「本草綱目」の引用と挿絵がある。

「新製」馬琴がオリジナルに描いたものの意。当該の挿絵のキャプションを読むと判然とする。

「蒴藋」(そくづ(そくず))は現在ではマツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属ソクズ Sambucus javanica を指す。近年の新分類では、スイカズラ科 Caprifoliaceae からレンプクソウ科 Adoxaceae に移されている。

「本草圖經」北宋の科学者で宰相でもあった蘇頌(そしょう 一〇二〇年~一一〇一年)によって一〇六一年に整理・加筆された本草書。全二十巻・目録一巻であったが、散逸し、現在は引用だけが残る。

「苜蓿」(もくしゆ(もくしゅ)/むまごやし)は、現在はマメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ連ウマゴヤシ属ウマゴヤシ Medicago polymorpha を指す。但し、民間ではマメ科シャジクソウ属 Trifolium 亜属Trifoliastrum 節シロツメクサ Trifolium repens の俗称としても知られる。

「茭米・雕胡」(かうべい(こうべい)・てうこ(ちょうこ))は孰れも単子葉植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae イネ族マコモ属マコモ Zizania latifolia の草体全体或いはその実のことである。私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 菰(こも) (マコモ)」を参照されたい。

「黍蓬【一名、旱蓬。一名、靑科。】」馬琴は独立別項としているが、私の考証では、これらもマコモである。前のリンク先を見られたい。]

 

   東廧

 「大明一統志」卷九十、「韃靼土產」の條下に云、『東轖は蓬草に似て、實は穄子(せいし/きみのみ[やぶちゃん注:右/左のルビ。])の如し。十月始、熟。

[やぶちゃん注:「大明一統志」明の全域と朝貢国について記述した地理書。全九十巻。李賢らの奉勅撰。明代の地理書には先の一四五六年に陳循らが編纂した「寰宇(かんう)通志」があったが、天順帝は命じて重編させ、一四六一年に本書が完成した。但し、記載は、必ずしも正確でなく、誤りも多い。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで当該部の影印が見られるが、そこでは「東牆」となっている。

「きみのみ」のルビの「きみ」は「きび」。「穄子」は中日辞典で、「粘りの少ないきび」(黍。単子葉植物イネ目イネ科キビ属 或いはキビ Panicum miliaceum )の一種とある。但し、後で「もちきみ」ともルビしているところからは、逆に、粘りの強いキビを指している可能性もある。]

 東廧は【音「墻」。○解云、「東轖」「東嗇」、相おなじ。】、陳藏器が曰、『東廧は河西に生ず。苗は蓬に似て、子は葵に似たり。九月・十月に熟す。飯と爲て、食ふべし。』。河西の人の語に云、「貸我東廧。償爾田粱。」【こは、河西の俗のことわざなり。】といへり。「廣志」に云、『東廧は、子粒、葵に似たり。靑黑色、幷・凉【州名。】の間に有ㇾ之【幷州・凉州は、もろこし、蜀のかたにあたる、西北邊塞のところなり。】。』。

[やぶちゃん注:「貸我東廧。償爾田粱。」実は底本「田梁」で吉川弘文館随筆大成版も同じ。「本草綱目」に拠って訂した。「我れに東廧(とうしやう)を貸さば、爾(なんぢ)に田粱(でんりやう)を償(つぐな)はん。」。「田粱」(「田」は中国語では「田圃」ではなく、「畑地」を指す)は「粟」(単子葉植物綱イネ目イネ科エノコログサ属アワ Setaria italica )を指す。

「廣志」明の董斯張撰の「廣博物志」か。

「子粒」「みのつぶ」と訓じておく。]

 李時珍が曰、『司馬相如が賦に「東廧彫胡」とは、卽ち、此れなり【解云、「彫胡」も亦、草の名、つぶさに下に見えたり。】。』。『「魏書」に云、『烏丸の地【烏丸は夷國の名なり。】、東廧に宜し【「宜し」とは「よく出來る」をいふなり。】。穄(きみ)に似たり。白酒に作るべし。【「其葉は蓬に似たり」といふ。「蓬」は「旱蓬」をいふか。しからば、葉は唐黍の葉に似たるものなるべし。】。』。

[やぶちゃん注:「司馬相如が賦に「東廧彫胡」「文選」に載る司馬相如「子虛賦」。「漢文リポジトリ」のここの(「欽定四庫全書」の中の「文選卷七」(梁の蕭統編・唐の李善註)、[007-24a] の影印画像を開いて見るのがよい。なお、「中國哲學書電子化計劃」の機械翻字の目も当てられないひどい誤翻字とはうって変わって、ここの電子化はかなりハイ・レベルで、ミスも少ない。そこには「東蘠彫胡」とあることが判る。

「烏丸」(うぐわん(うがん))は漢と北魏間の中国北方に居住していたアルタイ語系遊牧民族。「烏桓」とも書く。先祖は「東胡」と呼ばれ、東胡が紀元前三世紀末に匈奴に撃破されると、残った者たちが二つに分かれ、北方のシラムレン川流域を根拠地とした集団が「鮮卑」、南方のラオハ川流域に根拠地を置いた集団が「烏丸」と呼ばれるようになった。中国の正史では、狩猟・交易のほか、季節的農耕を行なっていた痕跡もあるとする。シャーマニズムを信仰し、初め、統一勢力はなく、非世襲の大人(たいじん)に統率されて、地域ごとに分立し、匈奴に服属していたが、後には、漢にも朝貢し、漢の匈奴抑制策の一翼を担い、両者に属するようになった。後漢末に至り、大人が世襲化し、蹋頓(とうとん)が柳城を拠点として大部分を統一する勢力を形成したが、河北を平定した魏の曹操によって壊滅させられた。その残った者たちは、多く鮮卑に従い、後、四世紀にかけて、鮮卑とともに中国内地に移入して農耕民化し、北魏以降は、漢民族と融合の度合いを深めていった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 又、「廣志」にいへるは、『梁禾、蔓生す【「いねの穗のやうにて、つる草なり」といふ也。】。其子(み)は、葵の子の如し。其米粉、白くして、麵の如し。饘粥(しらがゆ)に作べし。六月に種て、九月に收む。牛馬【一本に「馬」の字、なし。】、食ㇾ之、尤、肥。』といふ。これも亦、穀【穀草なり。】にて、東廧に似たるものなり【已上、李時珍が說なり。】

[やぶちゃん注:「廣子」底本も吉川弘文館随筆大成版も「廣子」「広子」。ちょっと考えりゃ前に出てるんだから、判るだろうに! 処置なしだね。訂した。]

『東廧の子は、甘く平らかにして、毒、なし。○主治は益ㇾ氣輕ㇾ身、久服不ㇾ饑、堅筋骨能步行【陳藏器が說なり。】。』と、いへり。

[やぶちゃん注:ここまでは、馬琴の言うように、「本草綱目」の巻二十三の「穀之二」にある「東廧」から引用・訓読して示している。「漢文リポジトリ」のここの、[061-16a]の影印画像を見られたい。]

 解、按ずるに、東廧は、元來、北狄の穀草なり。「大明一統志」に東轖に作るものは、轖と廧と同音なればなり。其苗は蓬草に似たりといへど、蓬は種類多き草なれば、いづれの蓬に似たるや詳ならず。按ずるに、「本綱」、「蓬草子」の註に、李時珍が云、『蓬に黃蓬草・飛蓬草あり。黃蓬草は湖澤の中に生ず【水草なり。】葉は菰蒲の如く、秋月に實を結びて穗を成すなり。餓る年には、人、その米を采て食ㇾ之。浸し洗ふて曝し、舂(つけ)ば、乃ち、苦澁ならず。又、「飛蓬草」は藜蒿の類にて、末は大きく、本は小さし。風にあへば、拔け易き草なる故に、「飛蓬」と號。子は灰藋菜子(あかざのみ)の如し。亦、荒を濟ふべしと、いへり。且、東廧の子は、穄子(もちきみ)の如しといひ、或は葵子の如しといへば、これも亦、一定ならず。畢竟、記者の、こゝろこゞろにて、譬を取るのおなじからぬのみ。東廧に二種あるにはあらず。いまだ此草を見ざれば、只、舊記のまゝにしるして、後の考をまち侍るなり。

 前書に、東廧は苜蓿の種類にもや侍らんと、まうせしは、ふかく考ざりし故なり。東廧と苜蓿は、おなじからず。「綱目」にも「東廧」は「穀の部」にあり、「苜蓿」は「菜疏の部」にあり。且、その草のかたちも、いたく異るものなり。

 「本綱」には、東廧を馬に飼ふて宜きよしを、いはず。只、東廧に似たる穀草の、牛馬に飼ふよしをのみ、いヘり。しかれども、東廧の主治を按ずるに、氣を益し、身をかろくし、筋骨を堅くして、よく步行すとあれば、馬にも、よろしきこと、疑ひなかるべし。

[やぶちゃん注:「飼ふ」馬に食用の秣(まぐさ:かいば)として与えるの意。]

「葉は蓬草に似たり、といふ。この「蓬」を「旱蓬」の事とすれば、かやうなるものにても可ㇾ有ㇾ之候。旱蓬、飛蓬、みな、唐黍に似たるものなり。

 昔年、苜蓿のよしにて、御在所へ御種被ㇾ成候は、旱蓬・靑科か。さらずば、東廧にて可ㇾ有ㇾ之候。旱蓬・靑科は、くはしく末に註し申候。」

[やぶちゃん注:「かやうなるものにても可ㇾ有ㇾ之候。」「御在所へ……」というのは、本篇がさる貴人のためにものした記事が元であることを示す。而して、「秣」で馬のことが出てくるところから、私は息子興継が医員をしていた馬好きの松前老侯、先代の第八代藩主松前道広が相手ではないかと踏んだ。最後にの方でそれが明らかになる。

「昔年」「そのかみ」と訓じておく。]

 

Tousyou

 

[やぶちゃん注:底本よりトリミング補正した。キャプションは、上が、

東廧

「子(み)は葵に似たり」といふ說に從がへば、かやうのものにても可ㇾ有ㇾ之哉。こゝに圖し候は、水あふひの實の形也。葵は此稃(みのかは)をわれば、内に[やぶちゃん注:ここに実の絵が挿入。]やうなる子の粒有ㇾ之候。

下が、

又、「子は穄子(もちきみのこ)の如し」といふ說に從へば、かやうのものにても可ㇾ有ㇾ之哉。但、實の稃は、葵の如く、内なる子粒は穄の子の如きか。未詳。

とある。キャプション部分の植字制限と、それにルビを植字するに、これ以上のポイントの極く小さい活字がないためであろう、「もちきみのこ」のルビが異様に上にまではみ出ているが、以上のように採った。最後に言っておくと、このキャプションから、判る通り、馬琴は漢籍に出る解説を無批判に和名のそれに相当させた上で、概ね、全くの想像からこの二図を描いていることに注意しなくてはならない。これは結果して馬琴の幻想植物図なのである。事実、先に示した、現在「」に同定比定されているAgriophyllum squarrosum とは、全く異なっている。

我古き記事「柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 酒虫」大繁盛の語(こと)或いはコピペは「危険がアブナい」語


 過去最短の十六日で一万アクセスがきた。ここのところ、一日のアクセスが500を有意に越える。

のアクセスが上位にあるのは納得なのだが、一つの不審が、夏以来の特異点として、

が、実は、四、五ヶ月、ほぼ毎日、単独アクセス最多を維持し続けている点である。一記事としては、今までにない、かなり異様な事態だ。既に単独1000回アクセスを超えている。

 思うに、大学の漢文或いは近代文学の芥川龍之介の「酒虫」の原拠比較の宿題か? 私には、

もある(サイトのアクセス・カウントは一切行っていない)。

 高校教師時代、漢文の実力試験用に使ったことはあったが、内容的に今は教科書には載り難いから、やはり、大学の課題か、予備校の受験用の出題かとも思われる。後者はスマホでのアクセスが有意に多いことからの推測である。

 古くに、知られたQ&Aサイトの回答で私の上記ブログのリンクが紹介されており、検索しても、「柴田天馬訳 酒虫」で以上の私のブログ記事がトップに出てくる。

 予備校はどうでもいいが、後者の私のを、大学の課題でコピペすると、すぐ、バレるぜ。「危険がアブナいよ――」

2021/12/13

ブログ・アクセス1,640,000突破記念梅崎春生 十一郎会事件

 

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年九月号『小説新潮』初出で、後に同年十一月近代生活社から刊行された作品集「春日尾行」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第三巻」を用いた。

 中間部でロケーションとなる「杉並区東田町」は現在、統合で杉並区東田町成田東(なりたひがし)地区に編入されている。「今昔マップ」の「1965~1968年」並置版で示しておく。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本日、つい先ほど、1,640,000アクセスを突破した記念として公開する。【202112月13日 藪野直史】]

 

   十一郎会事件

 

 年少の友人早良十一郎君が、ある日の夕方、極上等のウィスキー瓶を一本ぶら下げて、ふらりと私の家を訪れてきた。早良君は職業は画家だが、画家としてはまだ無名の方だから、自宅で画塾を開いて子供たちから月謝を取ったり、キャバレーの飾りつけを手伝ったりして、ほそぼそと生計を立てている。この早良君がこんな上等のウィスキーを持って現われたから、私もすこし驚いて訊ねてみた。

「柄にもなく上等のウィスキーをたずさえているじゃないか。一体どうしたんだね。キャバレーでちょろまかしでもしたか?」

「そんなことをするものですか。正直一途の僕が」早良君はちょっとイヤな顔をした。「貰ったんですよ」

「貰ったって? 誰に?」

「それを今から、お話しようと思うんです」そして早良君は瓶を眼の高さに差し上げてコトコトと振り、中身を吟味するような眼付をした。「その前にこれをあけようと思うんだけど、大丈夫だろうなあ、これは」

「大丈夫?」

「いや、何ね、毒でも入ってるんじゃないかと、ちょっと考えたんですよ。でも大丈夫ですよ。濁ってもいないし、ちゃんと封印がしてある」

「イヤだよ。そんな怪しげなのにおつき合いするのは」私は思わず大声を出した。「それは持って帰れよ。僕のうちのを出すから、それで間に合わせよう。僕んちのはそれほど上等じゃないが」

「そうですか。それじゃお宅のを頂戴いたしましょう」早良君はけろりとして自分の瓶を風呂敷にしまった。「こいつは誰かに売りつけてやることにしよう。そうだ。田辺の奴に売りつけてやろうかな。個展にも来て手伝って呉れたし」

「あっ、そうそう。個展を開いたってねえ」と私は言った。「成績はどうだった。すこしは売れたかい?」

「ええ、それなんですよ」と早良君は困惑したような、まぶしそうな眼付をした。「話もそこから始まるんですよ」

 以下が、僕の家の安ウィスキーを飲みながら、早良君が物語った話だ。

 

 あなたは御存じないかも知れませんが、個展を開くというのは、案外金がかかるんですよ。とても貧乏画描きの僕なんかには、開けそうにはなかったのですが、Q画廊の主の山本氏ね、これがとても義俠心のある人物でね、僕が個展を開きたがっていることを人伝てに聞いたんですな、人を介して、十日間タダで画廊を貸してやろう、と言ってきて呉れた。嬉しかったですなあ。山本氏の義俠心も嬉しかったけれど、山本氏がそう申し出るからには、きっと山本氏が僕の実力を認めたからに違いない。そのことが無性に嬉しかったです。

 で、その日からあれこれ金策して、ええ、会場費はタダでも、他にいろいろ金がかかることがあるんですよ。期日の前の日に、作品二十五点、すっかりまとめ上げて、Q画廊に搬入した。夜を徹して壁面にかざりつけた。並べ方によって効果がぐんと違いますからな。効果が良ければ、人も感動して、ついふらふらっと買おうという気になる。いや、何も売ることばかり考えてるわけじゃないのですが、売れないより売れた方がましですからねえ。三つでも四つでも売れたら、ケチな内職をやらずに済むし、その分だけ画業に打ち込めることになるし。

 そして飾りつけ終って、僕は腕を組んで考えました。人間というものには競争心という奴がある。会場をぐるりと一廻りして、まだどれも売れていなければ、ハハア、まだどれも売れていないな、じゃあ買うのはこの次にしよう、そう思ってさっさと帰って行くかも知れない。ところが作品の一つか二つ、売約済みの赤紙が貼ってあれば、ハハア、なかなか売れ行きがいいんだな、早いとこ買わないと売り切れてしまうかも知れんぞ、てんで大あわてして売約を申し込むことになりはしないか。そう僕は考えた。よし、ニセの売約済みの赤札(ふだ)をひとつ貼っておこう。我ながら人間心理の深奥をついたアッパレな企みでした。

 で、どの絵に赤札を貼ろうか?

 売れそうな絵に赤札を貼ると、折角その絵が欲しい人がそれを見て、ああ売約済みか、それじゃ諦(あきら)めよう、てんで買わずに帰って行くでしょう。それじゃ困る。あんまり売れそうにない、出来の悪い地味な絵をえらぶにしくはなし。

 そこで僕は二十五点の絵をあれこれ見くらべた揚句、海老を描いた六号の絵をえらび出しました。お皿の上にエビが二匹乗っている絵で、制作年月は新しいのですが、構図が月並で、二十五点の中では僕の最も気に入らない作品でした。そんな作品だから、場所も画廊のすみっこです。その絵の下に、郵便ハガキ大の売約済みの赤札をべたりと貼りつけてやりました。ニセ札とは言いながら、売約済みの赤札を眺めるのは、割にいい気分のものでしたねえ。

 そして午前九時、個展の第一日を開いた。会場の入口には署名簿と、御感想うけたまわり帳というのを出しました。御感想うけたまわり帳というのは、絵全体あるいは個々の絵について感想を書き入れて貰おうという考えで、それで自分の画業の向上の資としようという僕の心算でした。

 で、Q画廊は場所が場所だし、割によく人が入って呉れました。学生街に近いから、学生もよく入ってきた。学生の中には無遠慮な奴がいますねえ。僕がいるのに、友達同士大声で絵の批評したりする。批評ならいいけれども、批評じゃなくて悪口ですな。海老の絵を見てこう言った奴がいる。

「へえ。これがエビかい。俺はまた赤芋とばかり思っていた」

 すると相手の奴が相槌(あいづち)を打った。

「こんな絵を買った奴の顔が見たいな。きっとそいつは鰈(かれい)みたいに眼が曲ってるんだよ」

 僕はハラワタが煮えくりかえったが、じっと辛抱しました。いくら悪口雑言されても、見に来て呉れたからにはお客さまですからねえ。襟首つかまえてぶん殴るというわけには行かない。

 こうして三日経ちました。僕は朝九時に画廊に出勤、午後五時までそこにいる。規則正しい、ちょいと勤め人みたいな生活です。一日中詰めていないことには、何時なんどき買い手が出てくるか判らないですからねえ。

 ところが三目過ぎても、売約済みはあのエビの絵だけで、内心僕もがっかり、いささかのあせりも感じ始めました。個展のいろんな雑費も、絵の三枚や四枚売れることをあてにして、あちこちに借金したんですからね。売れて呉れないと実際に困るんですよ。

 そして四日目になりました。朝からいい天気で、観覧者の入りも多く、時折感想うけたまわり帳をのぞくと、

「なかなか前途有望だ。しっかりやれ」

 だの、中には女文字で、

「とても感動しましたわ。御精進をいのります」

 などと言うのまであって、絵はまだ一枚も売れないが、僕はいくらか気分が浮き浮きとなり、やがて午後四時頃になりました。

 その頃です。林十一郎というふしぎな男が僕の前に姿を現わしたのは。

「やあ、あなたが早良十一郎画伯ですか」

とその男は帽子を脱いで、僕にピョコンと頭を下げました。僕はその時会場の隅に仕切られた狭い控え室で、椅子にぐったり腰をおろしてうつらうつらと居眠りを始めていたのです。なにしろ慣れない朝九時出勤ですからね、午後ともなればつい眠気がさしてくるのです。僕は眠りを破られて、びっくりして立ち上りました。

「そうです。僕が早良ですが――」僕はにこにこと愛想よく笑いました。ひょっとするとこの男は絵の買い手かも知れないと思ったからです。「何か御用で?」

「僕はこういう者です」男はそそくさとポケットから真新しい名刺を出しました。「偶然表を通りかかって、あなたのお名前を拝見したものですから」

 その真新しい刷り立ての名刺を見ると、林十一郎、と印刷してあり、十一郎会幹事、という肩書きがついています。僕はびっくりしてその林十一郎という男の顔を見ました。

「十一郎会? へえ、そんな会があるんですか?」

「あるんですよ」林は重々しくうなずきました。「それについてちょっと話があるのですが、そこらでつめたいお茶でもつき合って呉れませんか」

 僕も居眠り最中ではあったし、何かつめたいものが欲しかったものですから、会場に隣接した絵具売場のヒロちゃんという女の子に会場のことを頼み、林と一緒に出かけることになりました。

 さて、林の案内で近所の喫茶店に入ると、彼は直ぐにつめたいコーヒーを二つ注文しました。そしてハンカチを出して顔をごしごし拭いたが、ふとあわてたように指で鼻鬚(ひげ)をぐいぐい押えるようにした。林は鼻下にかなり見事なヒゲをたくわえていました。そのヒゲはいやらしいほど漆黒で、毛並の一本一本がそろっていて、なんだか林の顔にはふさわしくないような印象を受けました。林の年頃は四十五六と言ったところでしょうか。恰幅のいい、眼鏡をかけていて、そうですな、ちょいとした少壮重役とでも言ったタイプでした。ヒゲを押えながら、林は僕に静かな口調で言いました。

「どうですか、個展の景気は。相当に人が入っているようですね」

「おかげさまで」僕はコーヒーをすすりました。「初の個展としては大成功のようです」

「そうそう。売約済みの札なんかも貼ってありましたな」

そして林は上目使いに僕をちらりと見た。「あのエビの絵、なかなかうまく描けてますな。感心しましたよ」

「そうですか。有難うございます」

「売約済みでなかったら、僕が買いたいほどだった」林はため息をつきました。「買い手はどなたですか」

「買い手はさる貿易会社の社長さんです」ニセ札(ふだ)だと言うわけにも行かず、僕はにこにこしながら答えました。「どうですか。エビだけでなく、他にも二十四点作品がありますが」

「いや、僕が欲しいのはエビの絵なんですよ」林はまた鼻鬚を押えながら、あたりを見廻して声を低くした。「どうです、早良さん。あなたもひとつ、十一郎会に加入しませんか」

「そうですなあ」

 と僕は渋った。だって十一郎会ってどんな会か、まだ全然判らないのですからねえ。すると林はたたみかけるように言いました。

「あなたの十一郎は、どの手の十一郎ですか。十一番目に生れた十一男というわけでしょうな」

「いや、僕は三男です。大正十一年生れというわけで――」

「ああ、そうですか」林は急にがっかりした声を出しました。「それじゃ会員になる資格はないな」

「十一男じゃないとダメなんですか?」僕は興味を起して訊ねてみました。「大正十一年や昭和十一年生れじゃダメ?」

「ええ。本当は十一男じゃないと資格がないんです」

 そして林はしげしげと僕を眺め、何か考えている風(ふう)でしたが、やがてややはしゃいだ声になって、

「しかし、どっちの十一郎にしたって、十一郎は十一郎だ。奇しくも同じ名前を持っているということは、因縁というものでしょうね。どうですか。お近づきのしるしに、そこらで一緒に夕飯でも食いませんか」

「そうですね」

 僕は時計を見た。もう五時近くです。画廊に戻ってもイミないし、また十一郎会というへんてこな会にも興味を感じたものですから、ついそのままのこのこ林十一郎のあとについて喫茶店を出ました。

 林は先に立ち、そしてさっさと入って行ったところは、一軒のウナギ屋です。さっきの喫茶店でも、僕の嗜好(しこう)も聞かずいきなりコーヒーを注文したし、今度も否応(いやおう)なしにウナギ屋に案内する。この林という人物は相当身勝手で、他人の意志を無視する傾向があるな。その時僕はそう感じました。

 それで僕らはトントンとウナギ屋の二階に通された。林の注文で酒も来ました。

「どうです。イケる口でしょう」

 そんなことを言いながら、林は僕におちょうしをつきつける。僕も酒は嫌いでないので、遠慮なく盃(さかずき)をあけました。やがて頃合いを見はからって僕は訊ねました。

「先ほどのお話の十一郎会って、どんなんですか?」

「ああ、そうそう、十一郎会ね」林はウナギにぱくりと嚙みついた。「実は海老原(えびはら)十一郎という大金持のお爺さんがいましてね」

 以下林の話をまとめてみると、その海老原十一郎という金持爺さんは、福岡県の貧農の十一男として生れ、刻苦精励して中年にして炭鉱主となり、現在は億という金を持っている立身出世の典型みたいな人物だそうです。その十一郎爺さんは、自分が十一男として生れたばかりに、学校にも行かして貰えず、大へんに苦労した。だからその同苦の人々を集めて、十一郎会というのをつくり、若くて学資のない十一郎には学資を出してやり、困っている十一郎には金を融通してやり、そんな具合にして陰徳をほどこすと同時に、自分の若い日の苦労を記念したい。そう思い立ったんだそうです。そう思い立ったのが三年前だというのですが、現在では会員も全国に散在し、数も百三十名に達しているとのことでした。林十一郎は盃を傾けながら、あわれむような眼で僕を見ました。

「あんたも十一男だとよかったんだけどねえ。海老原老は絵が大好きで、だからあんたのいいパトロンになるんだがなあ」

「そうですねえ」僕も自分が十一男でなく、三男に生れたことをひどく悔やむ気持になった。「それは残念だったなあ。海老原さんという人はそんなに絵が好きなんですか?」

「うん、海老原老は自分の名にちなんで、エビの絵が大好きで、蒐集(しゅうしゅう)してるんですよ」林は鬚を押えながら言った。「だからさっきも偶然あんたのエビの絵を見てね、あなたも名前が十一郎だし、そのエビの絵だし、これは海老原老に知らせたら喜んで、直ぐ買おうと言うだろうと思ってね。でも、大正十一年生れの十一郎だとちょっと困るなあ」

「困ることはないでしょ」と僕もあわてて頑張った。「海老原老はエビの絵が好きなんでしょう。描き手が十一郎であろうとなかろうと、それは関係ないじゃありませんか」

「それもそうだねえ」林はすこし酔いが廻ったらしく、とろんとした眼で僕を見ました。

「でも十一男の十一郎画伯だと、高く買って貰えると思ってさ。それにあのエビの絵はもう売約済みなんでしょう」

「それはそうですが」僕はよっぽどあれはニセの売約済みだと告白しようとして、やっと踏み止まった。ニセの売約札をつけていたなんて、芸術家としての心根のほどを疑われますからねえ。「しかし、エビの絵なら僕はまだまだいくつも描きたいと思っているんですよ。エビというやつは僕も大好きだし、実際あの優美な姿態は何度描いても描き飽きませんからねえ。フライにして食べてもおいしいし――」

「そうだねえ。十一郎の好みにおいて、紹介状を書いて上げようか」林は眼をしばしばさせながら僕を見ました。

「一度訪ねてみますか?」

「ええ」僕は喜んでうなずいた。「個展でも終ったらお訪ねしてみます」

「ああ、それじゃまずい」林は掌を振りました。「海老原翁はね、明日の夕方、福岡の方にお帰りになるんですよ。今度の上京は今年の秋の末になると言ってたっけ」

「じゃ明日の午前中にでもお伺いしてもいいですよ」

「明日の午前? それはずいぶん性急だなあ」林は濁った声を出して笑いました。「そうですか。それじゃここで紹介状を書きましょう。くわしく書いた方がいいな。ええと、あなたの住所は?」

 僕は住所を教えるかわりに、僕の名刺を一枚渡しました。そして僕は便所に立ち、やがて戻ってくると、林は女中を呼んで封筒を持って来させたところでした。そして便箋をその封筒の中に入れ、糊をつけ、表にさらさらと万年筆で海老原十一郎様、早良十一郎持参、林十一郎拝、としたためました。僕はその十一郎づくしの紹介状を有難く押しいただき、大切に内ポケットにしまいました。それから林はポンポンと掌をたたき、女中を呼び寄せて言いました。

「お勘定を願います」

「あら。もうこちらから」女中は掌を僕に向けた。「いただきましたんですのよ」

「なんだ。トイレかと思ってたら、そんな心遺いまで」と林は僕にぺこりと頭を下げ、あわてて鼻鬚を押えました。

 今考えるとこの林十一郎のヒゲは、どうも付けヒゲだったらしいんです。インチキな奴ですな。

「ひょんなことでお近付きになれて、それに御馳走にまでなって――」

「いえいえ。こちらこそ、十一男でなくて失礼しました」と僕も頭を下げました。「で、海老原翁の東京のおすまいは、どちらですか?」

 そして林から地図を書いて貰い、ウナギ屋を出ました。もうあたりはそろそろ暗くなり、空には星が二つ三つチラチラとまたたいている。林十一郎とはウナギ屋の表で別れました。別れぎわに林は僕の手を握って、

「海老原翁に会ったら、僕のことづてとして、れいの仕事の方は着々進んでいると、そう中し上げてくれたまえ」

 と頼みました。僕は承知して、それから画廊に戻っても仕方がないから、ぶらぶらと駅に歩き、電車で家に戻ってきました。今日はひょんないきさつでひょんなことになったが、あるいはこんなことから運が開けるのかも知れないぞなどと考え、いい気持のまま寝床に入り、そのままぐうぐう眠ってしまいました。

 明けるとまた翌朝もいい天気で、見上げても一天雲ひとつありません。僕は一張羅の夏服を取出し、プレスをして着用、白いハンカチを胸のポケットにさしはさみ、家を出たのが午前九時です。いくら芸術家とは言え、身なりは大切ですからねえ。林の地図によると、海老原翁の邸宅というのは杉並区東田町というところで、そこらに着いたのが大体十時半頃でした。ところがそこらのどこを探しても海老原という家がない。大金持というからには小さな家に住んでいるわけがない。億という金を持っているくらいだから、邸宅も少くとも一町四方ぐらいはあるだろう。ところがそんな大邸宅はどこにも見当らないのです。僕は歩き疲れ、またきちんとエチケット正しく夏服を着用に及んでいるものですから、暑くて汗もたらたら流れてくるし、とうとうそこらの氷店に飛び込んで、氷イチゴを食べながら、そこのおかみさんに訊ねてみた。

「ここらに海老原さんというお宅を知りませんか。さっきからぐるぐる廻って探しているんだけれど」

「海老原さん」おかみさんは氷をガシガシかく手を休めて、いぶかしげに振り返りました。「さあ、知りませんね」

「じゃあ、十一郎会というのは?」

「十一郎会? それも初耳ですよ」

「海老原さんというのは、大金持だから、お邸も小さくない筈ですよ。それを地元の人が知らないなんておかしいなあ」

「大金持ですって? ここらにゃ大金持なんてあまり住んでませんよ。貧乏人ばかりですよ。何かの間違いじゃないんですか」

 どうも話がハッキリしないものですから、僕は氷イチゴの代金を払って店を飛び出し、折よくそこに通りかかった郵便配達夫にも訊ねてみたが、海老原なんて家はないと言う。そこで林の地図を取出して(この地図の書き方も不正確でいい加減のものでしたが)配達夫と二人で検討してみますと、その海老原邸に相当するのはヤナギ湯という銭湯で、そのヤナギ湯の主人も海老原姓ではないとのことです。まさか海老原翁ほどの大富豪が、銭湯如きに居侯している筈はないし、何だか狐につままれたような気持で配達夫にお礼を言い、それ以上探し廻る気力も尽きて、僕はとぼとぼと引っ返した。さっき食べた氷イチゴをこぼしたらしく、僕の一張羅の白ズボンの膝のところが、うす赤くシミになっている。何だかむしゃむしゃした気分で電車に乗り、そして正午頃Q画廊に着きました。

 Q画廊に着くと絵具売場からヒロちゃんが顔を出して言いました。

「やあ、いらっしゃい。今日は遅かったのねえ。朝寝でもしたの?」

「朝寝なんかするものか」僕はやや不機嫌に答えました。

「人を訪問してたんだ」

「あら、そう言えばこんな暑いのに、パリッとした服を着てるのねえ。でも早良さんにはその服は似合わないわ。やはりあなたは、よれよれのワイシャツに、コールテンのズボンなんかがよく似合うわよ。それじゃあまるで狼が衣裳を着けたみたいでおかしいわ」

 そしてヒロちゃんは掌を口にあてて、さも可笑しそうにコロコロと笑いました。ヒロちゃんというのは、ちょいとソバカスのある可愛い子なのですが、それでいて、なかなか口が悪いのです。

「今日の午前中はどうだった? 何も変ったことはなかった?」話題を変えるために僕は質間しました。「たくさん見に来て呉れたかね?」

「そうね。いつもと同じぐらいよ」そしてヒロちゃんは身体を乗り出すようにして画廊の一隅を指差した。「あのエビの絵、持って行ったわよ」

「持って行ったって?」びっくりして僕がその方を見ると、絵の列がそこだけスポッと空白になって、エビの絵が見えなくなっているじゃありませんか。「持って行ったって、誰が?」

「あら、誰がって、あなたは知らなかったの?」

「知るにも知らないにも」僕はわけも判らないまま、じりじりと腹が立ってきて、ヒロちゃんに詰め寄った。「絵を持って行くったって、黙って持って行く筈がない。君が渡したのか?」

「そうよ」事態険悪と見てヒロちゃんは少々しょげたようでした。「だって貴方の名刺を持ってるし、自分が購入主だなんて言うんですもの」

「名刺? 僕の名刺?」僕はびっくりしました。「どこにその名刺はある?」

 ヒロちゃんはポケットの中から名刺を取出しました。見ると紛れもなく僕の名剌で、裏を返すと『この名刺持参の方にエビの絵をお渡し下さい。Q画廊カントク殿。早良十一郎』と、なかなか達者な字で書いてある。もちろん僕の字ではありません。その名刺の達筆を眺めている中に、どこかで見かけたような字の型だと気がついたとたん、僕はあわてて内ポケットからあの十一郎尽くしの紹介状を引張り出していた。二つをつき並べて調べてみますと、字の太さと言いくずし方と言い、まさしくあの林十一郎の筆跡で、僕が昨夜彼に渡した名刺に相違ありません。

 僕はエビの絵のかかっていた場所に飛んで行き、またヒロちゃんのところに走って戻って来た。そしてヒロちゃんの肩を、ふくよかな肩をつかんでゆさぶった。

「この名刺を持って絵を取りに来たのは、どんな男だった? 四十五六の、眼鏡をかけた、鼻ヒゲを生やした奴かい?」

「いいえ、ヒゲなんて立てていなかったわ。それに眼鏡も」ヒロちゃんは痛そうに肩をくねくねさせながら答えました。「ああ、そうそう名刺を呉れたわ。自分はこういう者だって」

 ヒロちゃんが別のポケットから取出した名刺を見ると、まさしくあの十一郎会幹事の『林十一郎』の名刺です。僕はそれをひったくり、ヒロちゃんの肩から手を離し、まあヒロちゃんをいくら責めたって仕方がないわけなので、最後の訓戒を垂れてやりました。

「名刺なんかをウカウカと信用するやつがあるものか。責任問題になってくるんだぞ。代償に接吻の一つや二つでは追っ付かないんだよ」

「イイだ」ヒロちゃんは口をとがらせて反撃しました。「誰があんたなどに接吻なんかさせるもんか。ほんとに、イイだ」

 僕は朝からてくてく歩き廻り、またわけの判らない事件にくたくたとなり、腹も空いてきたものですから、そのままぷいと画廊を飛び出してソバ屋に行った。そしてモリソバをつるつる食べながら、昨夜から今日にかけてのことを考えました。あの林十一郎という男は昨日、あきらかに僕をだます目的をもって近づいた。僕をだまして今日の午前中、ありもしない十一郎会本部におもむかせ、そのすきをねらってエビの絵を盗み出した。そこまでは鈍感な僕もはっきり判るのですが、どういうわけでそんな手数をかけて、エビの絵を持って行ったのか。それが僕にはよく判らないのです。あのエビの絵は、僕の作品としてはそれほど上出来のものでないし、盗むなら他の作品を持って行きそうなものですからねえ。

 モリソバを三つツルッルと平らげて、四つ目に取りかかろうとした時、僕はハッとあの紹介状のことを思い出した。一体居るか居ないか判らない海老原という老人に対して、林十一郎は僕をどういう紹介の仕方をしたのか。僕は箸を置き、おもむろに紹介状を取出して封を切りました。『早良十一郎画伯』と便箋の最初はそんな呼びかけの文句から始まっていました。『貴下がこの文面を読むのは、すでにカンカンに怒っておられる時だと思いますが、あのエビの絵は決して盗んだのではない。お借りしたのである。本来ならば買うべきところを、すでに他に売約済みのこととて、こういう余儀なき手段をとった。個展の最終日までには必ずお返し致します故、決してジタバタ騒ぎ立てることなく、不問に付せられよ。もしジタバタ騒ぎ立てる節には、エビの絵は永久に返却せられざるものと心得られたし。以上。林十一郎拝』とあり、二伸として『林十一郎も余の偽名なる故、探索するはムダなり』と記してある。僕が思わず、

「やりやがったな!」

 と大声で叫んだので、ソバ屋のお客が皆箸を止めて僕の方を見た。僕は恥かしくなってこそこそと身体を縮め、ふたたびツルツルとモリソバを食べ始めた。林の奴は、昨日僕がウナギ屋の席を外した時に、すでにエビの絵の持ち出しの成功を確信して、こんな文章を書き綴ったに違いありません。そんな大それた奴のウナギの勘定まで、わざわざ自発的にこちらで支払ったなんて、なんという僕はお人好しなのでしょう。腹が立ってきたからまた箸を置いて、僕は左右の拳固(げんこ)で自分の顔をゴツゴツと殴りつけたら、またソバ屋中のお客が面白そうにまた気味悪そうな眼付で僕を見た。狂人かと思ったのかも知れません。そこで僕も自分を殴るのは中止し、それにもう食慾もなくなって来たものですから、四つ目のモリソバは半分ぐらい食い残し、こそこそと勘定を済ませてQ画廊に戻ってきた。控え室に入って腕を組み、ふうと大きな溜息をついた。今日で五日になるというのに絵は一枚も売れないし、囮(おとり)戦術の売約済みのエビの絵は、巧妙にたくらまれたペテンにひっかかって、何処かへ持ちさられてしまった。くさらざるを得ないではありませんか。

 あのエビの絵は、先ほど申しました通り僕としては上出来でなく、持って行かれても大した損害ではないのですが、だまし取られたということが面白くない。よし、警察に届けてやろうかとも思ったのですが、まあまあ事を荒立てず、しばらく様子を見て、絵が無事に戻ってくるかどうか、あわよくば僕の手で林十一郎の頸(くび)根っこをギュウと押えてやりたい、などと考えているうちに、翌日になりました。すなわち六日目です。その六日目の午後一時頃、乗用車でQ画廊にぐいと乗りつけて、そしてつかつかと入ってきた若い女性がいる。乗用車で乗りつけてくるようなのは初めてですから、僕もびっくりして控え室からのぞくと、しゃれた洋装の美人で、帽子からネットを顔に垂らしている。歳は二十四五くらいでしょうか。その女性が乗用車を乗り捨ててさっそうと会場に入ってきたから、田辺がびっくりしたらしく僕の脇腹を小突いてささやきました。

 「おい、おい。すごいのがお前の絵を見に来たぞ」

 田辺というのは僕の画の仲間で、丁度(ちょうど)その時画廊に遊びに来ていて、控え室で僕と世間話をしていたのです。僕も思わず、おお、すごいな、と口から出そうになったが、なにしろ田辺は画の仲間であると同時に競争相手でもあるのですから、ここぞとばかり丹田に力を入れて、平然たる声で、

「うん。俺の絵は割かた若い女性に人気があるんでね、あんなの、毎日三人や五人はやって来るんだよ」

 と言ってやりました。件(くだん)の女性は僕の絵を一枚一枚、気に入ったらしく首をかしげたり、近づいて絵具の効果をしらべたり、次々丹念に鑑賞して行く風でしたが、れいのエビの絵のあったコーナーまで行くと、ふっと立ち止って不審そうに両側の絵を見くらべています。配列上どうしてもそこにはもう一枚かけられてあるべきところですから、いぶかしく思ったに違いありません。あまりしげしげとそこらを見廻しているものですから、個展主としても僕は説明の義務を感じ、立ち上ってつかつかとその女性に近付いて行きました。僕の足音でその女性はふり返った。

「僕が早良十一郎です」

 と僕は名乗りました。昨日みたいな夏服の正装でなく、よれよれワイシャツの腕まくり姿だったことは、少からず残念なことでした。

「ここにはね、も一枚絵がかかってる筈なんですけれどね。事情があって取り外(はず)してあるのです」

「ああ、あなたが早良先生でいらっしゃいますか」女性は涼しげな声で言いました。「そうでしょうねえ。ここだけ壁面がポッカリあいていますものねえ。あたし、室内装飾の方をやってるもんですから、ちょっとこの壁面の空きが気になったんですのよ。で、その絵は売れたんですの?」

「いいえ。売れたならいいんですが、複雑な事情がありまして――」立ち話もなんですから、と僕は彼女を誘った。「さあ、ちょっと控え室にお立ち寄りになりませんか。貴女みたいな室内装飾の専門家に見てもらえるのは、僕としても光栄です」

 すると彼女は誘いに応じて、トコトコと控え室の中へ入って来ました。そこで僕は控え室に頑張っている田辺に、

「おい、君。そこらの喫茶店からつめたい飲物を二人前、至急運んで来て呉れ」

 もちろんこれは田辺を控え室から追い出すための発言です。田辺は僕から書生あつかいされて、頰をぶうとふくらまして、しぶしぶ控え室を出て行きました。

 彼女は僕に対して椅子に腰をおろし、暑そうに顔のネットをかき上げました。

 「実はねえ」と僕はものものしく声をひそめました。「あの絵は盗まれたんですよ」

 「盗まれた?」彼女はすっかりおどろいた様子でした。

 「ええ。そうなんですよ。それが実に大胆不敵な、細心綿密な、まるでルパンか何かのような怪盗で」

 それから僕はあの林十一郎の出現、ウナギ屋の件、十一郎会の件、杉並区東田町の件、ソバ屋において紹介状を開いた件などを、彼女にくわしく話してやりました。彼女は美しい眉をひそめたり、低声で相槌(あいづち)を打ったり、うなずいてみたり、実に熱心に僕の話を聞いて呉れました。

 僕がこんな美しい女性とじっくり話し込んでいるものですから、絵具売場の方からヒロちゃんが気にして、ちょくちょくのぞいては僕をにらんだりしています。ざまあ見ろと思って、たいへんいい気持でした。

「ツケヒゲなんかして現われたところは、全く計画的なのねえ」僕が話し終ると、彼女は嘆息するように言いました。

「でも、よくツケヒゲをお見破りになれたのねえ」

「そりゃ僕は画描きだから、物を見る眼は常人以上にするどいですよ」

「そうでしょうねえ」

 彼女はうれわしげに眉をひそめて、僕を斜めに見上げるようにした。僕は美女から感嘆されたような気がして、いい気持だったですな。

「で、この事件、警察にお届けになったの?」

「いや、警察になんか届けませんよ」と僕はしずかに煙草をくゆらした。「まるまる盗まれたとしても被害は僅少ですしね。それに相手が今後どう出て来るか、絵を戻すか戻さないか興味を持って眺めているんですよ。それに現在の警察なんか、あんまりあてになりませんからねえ」

 そう言って僕が平然と煙草をくゆらしているものですから、彼女はますます感服した風でしたが、ちらと小型の腕時計を見て、

「あら、時間だわ」と小さく叫んだ。「室内装飾の会が二時から開かれるので、今日はこれで失礼しますわ。見残した分はこの次見に来ることにするわ」

「そうですか。またどうぞ」

 彼女はネットをおろし、トコトコと画廊を出て行こうとしたが、ふと思い直したように立ち止って、感想うけたまわり帳の前に行き、何かすらすらと書きつけたようでした。そして待たせて置いた乗用車に打ち乗り、さあっと午後の街を彼方に消えて行きました。僕は直ぐ入口のところまで小走りに走り、うけたまわり帳をのぞいて見ると、

『先生の寛大にして広漠たる心境が、それぞれの絵によくあらわれていて、たいへん感心いたしました、ますます御精進のほどを。一女性』

 そう書いてあった。寛大にして広漠、とは、僕の性格をよく言い当てていて、僕の方も彼女の眼のするどさに少からず感心しましたな。

 

「それで、そのエビの絵、戻って来たのかね」と僕は訊ねた。

 我が家の安ウィスキーを、二人でほとんど一本あけたから、早良十一郎君の額や頰ももうすっかりあかくなって、言葉つきも舌たるくなっている。

「ええ戻って来ましたよ。個展の最終の日にね」

「当人が持って来たのか?」

「いや、当人じゃないです」早良君は掌をふった。

「アルバイト学生のメッセンジャーボーイだったですな。そいつがエビの絵と、化粧箱入りのウィスキー一本を運んできた。誰から頼まれたんだと訊ねたら、それが全然判らないんです。通りがかりの紳士に託されたとか何とか言うんですがね。ウィスキーについていた手紙を読んでいるうちに、そのメッセンジャーボーイはふっと画廊から姿を消してしまってね、気がついたらもう何処にもいないんですよ」

「へえ。それは早良画伯に似合わぬ不手際だったな。それでその手紙には何と書いてあった?」

「あんまり面白くないので、破って捨てましたけどね」早良君はまたグラスを口に持って行った。「まあその手紙の文言が本当かどうか判らないんですがね、実業家仲間の素人の絵の会があって、それに課題としてエビの絵というのが出たんだそうです。何だかずいぶん多額の賞金がかかっていて、その林十一郎なる人物は、その賞金が欲しかったと言うんですな。ところが自分で描くには自分の力量に自信がないし、それで偶然見た僕の個展のエビの絵を利用することを考えたが、すでに売約済みの赤札が貼ってある。そこであんな手段を弄して持ち出した。まことに済まなかったという文言でしたがね」

「へえ。たかが素人の画会に出品するために、なかなか手のこんだことをしたもんだね」と僕は疑わしく言った。「その林十一郎という奴は、実業家か重役か知らないが、そんなインチキまでして賞金が欲しかったのかな」

「そうでしょうね。今は極端なデフレで、実業家と言えども現ナマを手にしたがっていますよ」

「実際にその画会に出品したのかな。そしえその賞金は?」

「出品したことは出品したらしいです。僕のサインが消してあったから。サインを消して自分のサインを描き込み、そしてまたそれを消して送り返してきたらしいのです」

 そして早良君は面白くなさそうに舌打ちをした。

「賞金は取れなかったらしいですな。その手紙の最後に、貴下の作品はあまり上出来ならざりし為、賞金は逸したるも、絵の借用料ならびに警察に届けざりし御好意を謝して、ウィスキー一本をお届けする、なんて書いてありましたよ。全くバカにしてやがる。玄人(くろうと)の僕の絵が、素人の画会で入賞しないなんて」

「それはきっと、選者の目が利かなかったんだろう」と僕は早良君をなぐさめた。「それで林十一郎は、どうして君が警察に届けなかったことを知っているんだろう」

「それですよ」早良君は膝を乗り出した。「どうもあの翌日やって来た美人が径しいと思うんです。あの女はきっと林十一郎に頼まれて、様子を見に来たんじゃないか。警察に届けたかどうか、探りに来たんじゃないかと思うんですよ。その翌日また見に来ると言って置きながら、それきり姿を全然あらわさなかったし、前後の事情を考えると、どうもあの美女はスパイだったらしい。あんな美しい女がそんなことをするなんて、僕も考えたくないんだけれど、僕の最終的な推理としてはそうですな。全くもって油断もすきもない世の中だ」

 そして早良君は瓶に手を伸ばしたが、もうそれは空になっていたので、ちょっと眼を宙に据(す)え、そばの風呂敷からごそごそと自分のウィスキーを取出した。

「ついでにこれもあけますか。毒なんかは入っていないと思うけど」

「それがそのウィスキーか。それはしまって置きなさいよ。これ以上飲むと二日酔をするよ」と僕はさし止めた。

「それで十日間個展をやって、絵は何枚売れた?」

「一枚も売れませんでしたよ。収入としてはこのウィスキーが一本だけです。現在の不景気は予想以上に深刻らしいですな」

 早良君は憮然(ぶぜん)としてそう嘆いた。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺珠 「冬」・「貘」

 

  

     『月に吠える』收載

 

つみとがのしるし天にあらはれ

ふりつむ雪のうへにあらはれ

木木の梢にかがやきいで

ま冬をこえて光るがに

おかせる罪のしるしよもに現はれぬ。

みよや眠れる

くらき土壤にいきものは

懴悔の家をぞ建てそめし。

 

[やぶちゃん注:「『月に吠える』收載」の添え辞は編者によるもの。但し、これは表記上大きな問題がある。まず、致命的なのは、「おかせる罪のしるしよもに現はれぬ。」の後、「みよや眠れる」の前に一行空けがないことである。また、感情詩社・白日社出版部共刊になる自費出版の「月に吠える」初版では、一行目から四行目及び六・七行目末に読点が打たれている点でも異なる(但し、大正一一(一九二二)年三月アルス刊の「月に吠える」の再版・昭和三(一九二八)年三月第一書房刊の「萩原朔太郞詩集」・昭和四(一九二九)年十月新潮社刊の「現代詩人全集」第九巻「萩原朔太郞集」・昭和一一(一九三六)年新潮社(同文庫収載)刊の「萩原朔太郞集」では、以上の読点が総て除去されてはいる)。私の「萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 冬」を見られたい。]

 

 

 

  

    『地上巡禮』大正四年三月號(「冬」原型)

 

あきらかなるもの現れぬ

つみとがのしるし天にあらはれ

懺悔のひとの肩にあらはれ

骨に現はれ

木木の梢に現はれいで

眞冬をこえて凍るがに

犯せる罪のしるしよもにあらはれぬ。

               (淨罪詩篇)

 

[やぶちゃん注:「『地上巡禮』大正四年三月號(「冬」原型)」の添え辞は編者によるもの。但し、これも読点排除以外に致命的な大きな誤り――一行脱落――がある。前掲正規表現版に電子化しているが、以下に示す。

   *

 

  

 

あきらかなるもの現れぬ、

つみとがのしるし天にあらはれ、

懺悔のひとの肩にあらはれ、

齒に現はれ、

骨に現はれ、

木木の梢に現はれ出で、

眞冬をこえて凍るがに、

犯せる罪のしるしよもにあらはれぬ。

             ――淨罪詩扁――

 

   *

「扁」は朔太郎の、この時期の偏執的な「篇」の誤字。読点除去は目を瞑っても、「齒に現はれ、」の脱落はひどい。極めて残念である。

 なお、本篇には、他に三種の草稿(無題一篇・「所現」・「家」)とが存在する。筑摩版全集の「草稿詩篇 月に吠える」より引用する。

   *

 

  

 

つみとがのしるし天にあらはれ

みよ懺悔のいのれるひとの姿にあらはれ

つみとがのしるし天にあらはれ

樹々の梢にあらはれ

光れる雪

れきれきとしてその齒にあらはれきざまれ

骨にあらはれきざまれ

樹にきざまれ

しるしは天にあらはれぬ

樹々の梢にあらはれいで

ま冬めぢのかぎり

さもしろしろを雪ふりつもり

ま冬を越えていちめんに

犯せる罪のしるし四方にあらはれぬ、

 

[やぶちゃん注:「さもしろしろを雪ふりつもり」の「を」はママ。「と」の誤記であろう。]

 

   *

 

  罪罰

  所現

 

あきらかなるもの現れぬ

つみとがのしるし天にあらはれ

懺悔のひとの肩にあらはれ

幽にあらはれ

骨にあらはれ

木々のゆきふるなべにしらしらと

木々の梢にあらはれいで

あるみにうむの薄き紙片に

すべての言葉はしるされたり

ま冬をこゑていちめ雪ぞらに凍るがに

犯せる罪のしるしよもにあらはれぬ

              ――淨罪詩扁

 

[やぶちゃん注:「ま冬をこゑていちめ雪ぞらに凍るがに」の「こゑて」の「ゑ」、「いちめ」はママ。後者は「いちめん」の脱字であろう。「扁」はママ。]

 

   *

 

  

 

つみとがのしるし空にあらはれ

ふりつむゆきのうへにあらはれ

凍れる魚の淮にもあらはれ

木木の梢にあらはれかがやきいで

ま冬をこえて光るがに

犯せる罪のしるしよもにあらはれぬ。

 

みよや眠れる

くらき土壞にいきものは

懺悔の家をぞ建てそめし。

 

[やぶちゃん注:「土壞」はママ。「土壤」の誤字であろう。この最後詩篇には、編者注があり、『「家」は雜誌發表(題名「貘」)から詩集刊行までの間に書かれた淸書原稿と推定される。』とある。]

2021/12/12

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 峨嵋山下橋 南無仏庵 / 「兎園小説外集」~了

 

   ○峨嵋山下橋

 

Kitainaryuboku

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四よりトリミング補正した。キャプションは、右に(吉川弘文館随筆大成版では上部に右から左へ書かれており、これが原本としては正しいようである)、

長さ一丈二尺餘[やぶちゃん注:約三メートル六十四センチメートル。]

丸み四尺餘[やぶちゃん注:円周か。約一メートル二十二センチメートル。]

左に(吉川弘文館随筆大成版では下部に同前)、

木の根の方に倒

にほり有ㇾ之

とある。ちょっと意味が分からぬが、図からは、「木の根の方(かた)に」向って「倒」(さかしま)「に」、「ほり」(彫)込まれた文字列が、「之れ、有り。」の謂いであろうか。

図のその本体には、

峨嵋下※

と彫られており、「※」は(上に「木」+下に「喬」)で、「橋」の異体字であろう。しかし、さらによく図を見て戴きたい。実は左下方に異形の顔のようなものが「彫り」込まれているのである。前のキャプションのそれは、この顔のような彫り物を指していると採るのが自然なようだ。

 

文政十丁亥春三月、堀近江守殿領分、越後椎谷の磯へ、右の木、流來りしを、漁獵のもの、薪の用にせん爲に揚げ置しを、宿の大庄屋、右の文字の形の奇なるを見て、郡代豐島某へ、申出、夫より、豐島氏、信州高井郡六川村陣屋へ、人足にて運び來り、夫より、江戶、堀候の邸へ出せしよし也。

 外に書解あり。略ㇾ之。

    六月十二日 下野佐野  靑山百太郞所持

        佛庵老先生 格下

右、六川村陣屋に有ㇾ之候節摺せ候。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

解云、この摺本を見ておもふに、こは朝鮮人歟。さらずば、淸人の好事のものゝ、假山(つきやま)の下なる池邊などへ立し、榜示などにて、打水に、おしながされしものなるべし。さらねば、「峨嵋山下の橋」といふこと、あるベくも、あらずかし。

 

 

兎園小說外集第二

[やぶちゃん注:発表者の南仏庵は書家の中村仏庵(宝暦元(一七五一)年~天保五(一八三四)年)であろう。名は蓮・連。号に南無仏庵がある。参照した国文学研究資料館の「電子資料館」内の「蔵書印データベース」のこちらによれば、『身分は町人だったが』、『旗本格の待遇を受け、昌平坂学問所で学んだ。書に堪能で、特に梵字に才能を発揮し、仏教学の見識』で『広く知られていた。菊池五山・大窪詩仏など』、『当代一流の文人たちと交流があった。著書に』「崑岡炎余」・「仏庵雑記」・「梵天考証」『などがある』とある。

「文政十丁亥」一八二七年。

「越後椎谷の磯」現在の新潟県柏崎市椎谷(しいや:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。越後椎谷藩が陣屋を構え、周辺を領有していた。当時は第十一代藩主堀近江守直哉(なおちか 寛政一〇(一七九八)年~文政一三(一八三〇)年)の治世。元は肥前唐津藩主水野忠光の五男で、かの水野忠邦は異母兄である。

「薪」「たきぎ」と訓じておく。後掲する「北越雪譜」を参照。

「信州高井郡六川村陣屋」「六川」は「ろくがは」と読むらしい。現在の長野県上高井郡小布施町(おぶせまち)都住(つすみ)に椎谷藩六川(ろくがわ)陣屋跡がある。椎谷藩は高井郡に七村の飛地を領有していた。

「書解」「しよげ(しょげ)」と読むか。書きつけた解説附文のことであろう。

「摺せ」「すらせ」。「拓本をとらせ」たの意。

「立し」「たてし」。

「榜示」(ばうじ)で、「牓示」「牓爾」とも書く。ものを書きつけて示す札。目印として書き記した札。立て札。馬琴はあくまで、朝鮮か中国の沿海に住む趣味人が川流れを庭園に引き、そこに作った築山の流れに人口の橋を拵え、洒落て、かく名づけた記銘の杭であると考えている。

   *

 さて。この木杭――ネットで調べて見たら――何んと!

――現存する!

――しかも! それに讃したかの良寛さんの漢詩(「題蛾眉山下橋杭」)もあるのだ! これだ。

   *

  題蛾眉山下橋杭

 不知落成何年代

 書法遒美且淸新

 分明我眉山下橋

 流寄日本宮川濱

       沙門良寬

   *

  「蛾眉山下の橋杭」に題す

 知らず 落成 何れの年代ぞ

 書法 遒美(しうび) 且つ 淸新

 分明なり 我眉山下の橋

 流れ寄る 日本宮川の濱

       沙門(しやもん)良寬

   *

 サイト「按針亭」の「蛾眉山下橋杭に題す」を見られたい。現物の画像もある。

 但し、そこでは漂着(漁師が発見して引き揚げた日であろう)年月を文政八年十二月(一八二六年一月)とし、場所も、現在の新潟県柏崎市宮川浜(ここ。但し、椎谷の南方直近である)とする。

 しかし、以下で、『拾った漁民が乾かして薪にしようとしました。偶々、文字が読める好事家が通りかかって、この木柱を見ると』、『大きな五文字「娥眉山下橋」が刻まれていたので、漁民に薪を与え』、『木柱を譲り受けました』。これは『良寛の晩年で』、『乙子』(おとご)『神社草庵』(新潟県燕市国上のここ)『居住末期に当たる頃です』。『刻された字の「橋」は、「木偏」が「冠」となった通常使われない異体字で、「峨」は「女偏」に「我」の字体でした。(左の「北越雪譜」に載る「橋杭図」を参照)』(見られたい)。『この木柱は椎谷藩主に献上されましたが、明治以降は現在の柏崎市高柳町にある村山家・貞観園が所蔵するところとなり、今日に至っています』とあることから、本篇のそれと全くの同一物である。しかも! かの異形の顔が、はっきり確認出来るのである!

 ここで、以上の引用に出る偏愛(私は夏のスペインのコスタ・デ・ソルの灼熱の砂浜で本書を黙々と読み続けた程度にフリークである)する作品、鈴木牧之(ぼくし 明和七(一七七〇)年~天保一三(一八四二)年:現在の新潟県南魚沼市塩沢で縮仲買商・質屋を営んだ町人で随筆家)が越後魚沼の生活を詳細に綴った博物誌的民俗誌「北越雪譜」(天保八(一八三七)年秋頃に初編各巻が江戸で発行され、天保十二年十一月に二編四巻が出た)の当該部を以下に電子化する。幼底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの、「二編 冬」PDF)の当該部、11コマ目からを使用した。表記はそれに従ったが、正字か略字か判読できなかった箇所は正字で示した。読みは必要と思われる一部に限った。読み易くするために句読点を私が振った。踊り字「〱」「〲」は正字化した。読み易さを考えて、段落を成形した。疑問箇所は、所持する岩波文庫版(一九七八年改版)及び野島出版の優れた平成五(一九九三)年改版「校注 北越雪譜」(監修・宮栄二/校註・井上慶隆・高橋実)を用い、挿絵は後者からトリミング補正した。【 】は二行割注。歴史的仮名遣の誤りや不審な表記は総てママである。尊敬のための字空けが二箇所にあるが、詰めた。注を中に入れたが、多くは後者「校注 北越雪譜」を参考にさせて貰った。

   *

       ○蛾眉山下橋柱(がびさんかのはしばしら)

 文政八年乙酉十二月、苅羽郡(かりはこほり)【越後。】椎谷(しひや)の漁人(ぎよじん)【椎谷は堀侯の御封内なり。】、ある日、椎谷の海上に漁(すなどり)して、一木の、流れ漂ふを見て、

「薪にせばや。」[やぶちゃん注:「薪」はここにルビはないが、後で「たきゞ」と振ってある。]

とて、拾ひ取て、家にかへり、

「水を乾(かはか)さん。」

とて、庇(ひさし)に立寄おきしを、椎谷の好事家、通りかゝり、是を見て、

『たゞならぬ木。』

と、おもひ、熟視(よくよくみる)に、

「蛾眉山下※」[やぶちゃん注:「※」=(上)「木」+(下)「喬」。]

といふ五大字、刻しありしをもつて、

『かの國の物。』

と、おもひ、漁人には薪(たきゞ)を与へて、乞ひうけける、とぞ。

 さて、余が舊友觀勵(くわんれい)上人は【椎谷ざい。田澤村、淨土宗祐光寺。】、强學(きやうがく)の聞えあり、甞て好事の癖(へき)あるを以て、かの橋柱(はしばしら)の文字を、双鈎刊刻(さうこうかんこく/カゴジホル[やぶちゃん注:右/左(意味)ルビ。以下同じ。])して、同好におくり、且、橋柱に題する吟詠を、こひ、是も又、梓(あづさ)にして、世に布(し)かんとせられしが、故ありて、いまだ不果(はたさず)。

[やぶちゃん注:「觀勵上人」現在の新潟県新潟市秋葉(あきは)区小戸(こと)の出身の浄土真宗(百樹の割注は誤り)の僧。「椎谷ざい」(在)とあるのは、彼が継いだ「祐光寺」がここで、椎谷の東の内陸の領内であったからである(観励は安政二(一八五五)年に六十二で示寂している)。まさに、ここにある通り、彼がこの「橋柱に題する吟詠を」乞うた一人が、彼と交友のあった曹洞宗の僧で文人として知られた良寛(宝暦八(一七五八)年~天保二(一八三一)年)であったのである。]

 かの橋柱は、後(のち)に御領主の御藏(ごぞう)となりしとぞ。

 椎谷は、余が同国(どうこく)なれども、幾里を隔(へだて)たれば、其眞物(しんぶつ)を不見(みず)、今に遺憾とす。姑(しばらく)、傳寫の圖を以て、こゝに載(のせ)つ。【百樹曰、「牧之翁が此草稿にのせたる圖を見るに、少しく、おもふ所、有しゆゑ、其實說を詳究せし事、左の如し。】

[やぶちゃん注:「余」作者鈴木牧之。

「同国(どうこく)なれども、幾里を隔(へだて)たれば、其眞物(しんぶつ)を不見(みず)、今に遺憾とす」地図上で見ると、そんなに行くのが困難な地でもなさそうに見える。実は本書の初編刊行の天保八(一八三六)年に中風を患って体が不自由になっていたのであった。

「百樹」「ももき」で本書の校訂を請け負った京山人百樹、則ち、戯作者山東京山の別号(というか、岩瀬百樹が本名であった)である。

 以下、底本では「稀世(きせい)の珍物(ちんぶつ)なり。」(図の前まで)が、全体が二字下げ。]

 百樹(もゝき)曰、了阿(れうあ)上人が和哥の友相場氏は椎谷侯の殿人(とのびと)ときゝて、上人の紹介をもつて、相場氏に對面して件(くだん)の橋柱の事を尋ねしに、余に謂(いはれ)しは、

「橋柱には、あらず、標準(みちしるべ)なり。」

とて、俗に書翰帋(しよかんぶくろ)といふ物に作りたるを出して、其圖を示さる。余が友の畫人、千春(ちはる)子が眞物を傍(かたはら)におきて、縮圖なし、「蛾眉山下」といふ五字は、相場氏、みづから、心を深めて、うつされしとぞ。【下に圖する、これなり。】

「彫(きざみ)たる人の頭(かしら)を左りに顧(むか)せ、その下(しも)に五字を彫(ほり)つけしは、『是より、左り、蛾眉山下橋なり。』と、人に、をしゆる標準(みちしるべ)なり。」

と、かたられき。

 是にて、義理、渙然(くわんぜん/ワカル)たり。

 今、俗に、指(ゆびさす)を、ゑがきて、そのしたに、をしゆる所を記(しる)したるを、間(まゝ)みる事、あり。和漢の俗情、おなじ事なり。

○[やぶちゃん注:記号「○」はママ。改行はない。]さて、此標準(へうじゆん)を得たる實事をきゝしに、

「北海は、いづれの所も、冬にいたれば、常に、北風、烈しく礒(いそ)へ物をうちよする、椎谷は、たきものにとぼしき所ゆゑ、貧民、拾ひ取りて薪となす事、常なり。しかるに、文政八酉の十二月、例の如く、薪を拾ひに出しに、物ありて、柱のごとく、浪に漂ふをみれば、人の頭(かしら)と、みゆる物にて、甚、兇惡なり。貧民等(ら)、惧れて、たちさり、ものゝかげより、見居たるに、此もの、竟に礒にうちあげられしを見て、人々、立より、みたるに、文字はあれども、讀者(よむもの)なく、

『是は、何ものならん。』

と、さまざま評し居(ゐ)たる、をりしも、こゝに近き西禪院(さいぜんゐん)の童僧(どうそう)、通りかゝり、「唐詩選」にて、おぼえたる「蛾眉山」の文字を讀(よみ)、

『これは、唐土(から)の物なり。』

と、きゝて、貧民、拾ひて持かへり、さすがに、「唐土の物」ときゝて、薪にもせざりしに、此事、閧傳(こうでん/マチノウハサ)して、竟に主君の藏(ざう)となりし。」

と、語られき。

○[やぶちゃん注:同前。]按ずるに、蛾眉山は、唐土の北に在ある峻嶽(じゆんがく[やぶちゃん注:ママ。])にて、冨士にも、くらぶべき髙山なり。絕頂の峯、双立(ならびたち)て、八字をなすゆゑ、「蛾眉山」といふなり。此山の標準(みちしるべ)、日本(ひのもと)の北海へ、ながれきたりたる、其水路を詳究(しやうきゆう/ツマヒラカニキハムル)せんとて、「唐土(もろこし)歷代州郡沿革地圖」に據(より)て清国國(いまのから)の道程(みちのり)、圖中を撿(けん/アラタムル)するに、蛾眉山は清朝(いまのから)の都(みやこ)を距つこと、日本道四百里許(ばかり)の北に在り。此山に、遠からずして、一條(ひとすぢ)の大河、東に流(ながる)。蛾眉山の麓の河々、皆、此大河に入る。此大河、瀘州(ろじう[やぶちゃん注:ママ。])を流れ、三峽(けふ)のふもとを過ぎ、江漢に至り、荊州(けいじう)に入り、◦[やぶちゃん注:「◦」の記号は以下総てママ。]洞庭湖(とうていこ)◦赤壁◦潯陽江(じんやうこう)◦楊子江の四大江(こう)に通じて、江南を流*(ながれめぐ)りて[やぶちゃん注:「*」=「氵」+「靣」。]、東海に入る。是(この)水路、日本道五百里ばかりなり。さて、件の標準(みちしるべ)、洪水にてや、水に入りけん、◦洞庭(とうてい)◦赤壁◦潯陽◦楊子(やうし)の、海の如き四大江(だいこう)を、蕩漾周流(たうやうしうりう/ナガレシダイ メグリナガレ)して、朽沈(くちしづま)ず、滔々たる水路、五百餘里よりを、流れて、東海に入り、巨濤(こたう/オホナミ)に千倒(たう)し、風波に万顛(てん)すれども、断折碎粉(だんせつさいふん/ヲレル クダケル)せず、直身挺然(ちよくしんていぜん/ソノミ ソノマヽ)として、我國の洋中(おきなか)に漂ひ、北海の地方に近より、椎谷の貧民に拾(ひろは)れて、始(はじめ)て、水を辭(はな)れ、既に一燼の薪となるべきを、幸に、字(じ)を識る者に遇ひて、死灰(しくわい)をのがれ、韻客(ゐんかく)の爲に題詠の美言をうけたるのみならず、竟には、椎谷侯の愛を奉じて、身を寶庫に安んじ、万古(ばんこ)不朽の洪福(こうふく)を保つ叓[やぶちゃん注:「こと」の異体字。]、奇妙不思議の天幸なれば、實(じつ)に稀世(きせい)の珍物(ちんぶつ)なり。

[やぶちゃん注:ここまでが百樹のかなりディグした考証部。

「了阿(れうあ)上人」村田了阿。煙管商人であったが、和漢の学や仏典に通じ、江戸浅草寺の地内に隠棲した。天保一四(一八四二)年没。享年七十二。

「相場氏」椎谷藩勘定奉行であった相場長昭。

「書翰帋(しよかんぶくろ)」「帋」は「紙」の異体字。書簡用紙用の裁断していないものを指すか。

「千春(ちはる)子」高島千春。土佐派の絵師。安政六(一八五九)年没。享年八十三。

「渙然」氷のとけるように、疑惑や迷いがなくなる様子。杜預の「春秋左氏伝序」が元。

「西禪院」「校注 北越雪譜」には、『椎谷の真言宗西禅寺』とあるが、見当たらない。

『「唐詩選」にて、おぼえたる「蛾眉山」の文字』私の好きな李白の「峨眉山月歌」。

   *

  峨眉山月歌

 峨眉山月半輪秋

 影入平羌江水流

 夜發淸溪向三峽

 思君不見下渝州

   *

  峨眉山月の歌

 峨眉山月 半輪の秋

 影は 平羌江(へいきやうかう)の水に入りて 流る

 夜 淸溪を發して 三峽に向ふ

 君を思へども 見えず 渝州(ゆしふ)に下る

   *

「閧傳(こうでん/マチノウハサ)」「閧」は「村里の路」「巷」の意。本字は「鬨」(「ときを挙げる」の「とき」)と誤用された。

「唐土(もろこし)歷代州郡沿革地圖」通常は頭は「たうど」と読む。長久保赤水の手になる寛政元(一七八九)年序の着彩歴史地図帖。中国の歴代地図十二葉に「亞細亞小東洋圖」を添える。このシリーズは人気を博した。

「清朝(いまのから)の都(みやこ)」北京。

「北に在り」峨眉山からの北京の位置と勘違いしたか。北京からは南西に当たる。

「瀘州(ろじう)」四川省瀘州(ろしゅう)市。同省楽山市の峨眉山の東南奥直線で約二百キロメートル位置。以下の地名は注さない。

「蕩漾」「ナガレシダイ」の左ルビは、よく意味が判らない。「次第次第に流れ流れて」か。しかし、この熟語(たうやう(とうよう))は「漂い動くこと・静かに揺れ動くさま」の意である。「流れに任せてそれに勝手次第に漂って」の謂いか。

 以下の一行は行頭から。]

縮圖、左のごとし。

[やぶちゃん注:以下にキャプションの附いた図。キャプションは「縮圖、左のごとし。」の少し下方に縦に並んでいるが、引き上げて個別に電子化する。]

 

Kabisan

 

[やぶちゃん注:キャプション。

丈、一丈餘。

周(めぐり)、二尺五寸餘。

木(きは)、質弁名(なにともなづく)べからず。

という漢文に変な和訓をしたものである。柱に、大きく、

娥眉山下※

(「※」=(上)「木」+(下)「喬」。以下も同じ)とある。先の実際の杭の画像の載るページを見ても、確かに上部の二字は「峨嵋」でも「峨眉」でもなく、「娥眉」であることが確認出来る。

  以下、最後まで全体が二字下げ。底本PDFでは、別な無関係の後の条の挿絵が挟まって15コマ目になるので、注意されたい。]

按ずるに、「蛾」・「蛾」、同韻【「五」・「何」、反。】)なれば、相通じて、往々、書見(しよけん)す。橋(きやう)を「※(きやう)」に作る、頗る異体(ゐてい)なり。依(よつ)て、明人(みんひと)黃元立(くわうげんりつ)が「字考正誤」、淸人(せいひと)顧炎武が「亭林遺書」中に在る金石文字記」、あるひは、「碑文摘奇(ひぶんさくき)」【「藤花亭十種」之一。】、あるひは、楊霖竹菴(やうりんちくあん)が「古今釋疑」中の「字躰(じてい)の部」など、通卷一遍、搜索(さうさく/サガス)したれども、「※(きやう)」の字、なし。蛾眉山のある蜀の地は、都を去る事、遠き僻境なり。推量するに、田舍の標準(みちしるべ)なれば、學者の書(かき)しにも、あるべからず、俗子(ぞくし)の筆なるべし。されば、我(わが)今の俗(ぞく)、竹を「#」[やぶちゃん注:「竹」の(へん)を「亻」にした字体。]と「亻(にんべん)」に誤(あやまる)の類(るゐ)か。猶、博識の說を俟つ。

[やぶちゃん注:以上の段落の書名その他の前には書名や記事名を示すための、縦書では下が開いた括弧が示されてあるが、鍵括弧で示したので、除去した。書名注も附さない。要は中国の複数の字書にも、この奇体な「※」の字は見当たらないことが判ればよいからである。]

   *

 さて。最後に――では、これは一体――どこから来た――何ものであるのだろうか?

 私は先の画像で実際の頭部を見、「北越雪譜」の挿絵を見た時、嘗て、朝鮮民族の民俗誌関連の古い写真を見た際、村落の入り口に辟邪のための人面を彫った「天下大將軍」「地下女將軍」と記したかなり高いポール状の呪具を見た記憶があって、直ちにそれを想起した。大体、実測で六千キロメートルは離れた中国内陸部四川省の山深い高山峨眉山から、これほどの大きさの木製道標が損壊も汚損もせずに流れ下って、東シナ海を渡り、日本海へ流れ込み、遂には越後の海岸に流れ着くというのは、これ、尋常に考えても、あり得ないことのように感じられたのである。

 而して、調べたところ、真相を真摯に探った論文が存在した。

韓泰植(普光)氏の論文「娥眉山下橋木柱と韓国の長栍について」PDF・『印度學佛教學研究』第四十四巻第一号・平成七(一九九五)年十二月発行)

である。詳しくは本文を読まれたいが、まず、韓氏は中国に人面・神面を彫り込んだ道標があるかどうかを調べ、そうしたものが見当たらなかったことを挙げ、次に朝鮮に古くから見られる辟邪のポール状の呪具や、人面様の神面を彫ったものなどが、複数、異なった目的や様態を持ったものとして存在したことを示されておられる。その中で、ある時期、朝鮮で「峨眉山」という名前が山名として画期的に増えた時期存在する事実を掲げ、それが疱瘡(天然痘)の流行期とリンクすることが提起され、それに中国の峨眉山の神人が疱瘡から人々を守ったという伝承を明示されているのである。則ち、この漂着した奇体な木杭はそうした、天然痘などの辟邪を目的とした朝鮮半島で成された呪的な銘文杭であったものと推定されておられるのである。そうして、流出した場所として江原道(カンウォンド:大韓民国実効統治範囲の北東部にある行政区画で日本海に面している。ここは軍事境界線を挟んで、北の朝鮮民主主義人民共和国側にも同名の行政区画が存在する。ここは真東に約八百六十キロメートル位置に本杭の漂着地があるのである)を有力候補地として挙げてもおられる。これはもう、要保存必読である。

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 六足狗 輪池堂

 

   ○六足狗

山城州宇治郡山科鄕花山村、博勞渡世いたし候庄右衞門方に、廿日程以前、出生いたし候飼犬の子、

[やぶちゃん注:「花山村」現在の京都市山科区北花山山田町(かざんやまだちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)附近か。

 以下、「陰莖、貳。」までは、底本では、全体が一字下げ。]

毛色白黑【但、頭に茶色の毛、交り有ㇾ之。】、向足、貳本。跡足、四本。尾、壹、肛門、貳【但、尾之兩脇に有ㇾ之。】。陰莖、貳。

右、犬の子、追て、「見世もの」にいだし候積りにて、買取り、當時、宮川筋松原上る町、丸屋五兵衞方に飼罷在候趣に御座候事。

 文政十丁亥三月十一日

[やぶちゃん注:「宮川筋松原上る町」この附近。]

○この狀に、廿日程以前とあるは、今玆春二月廿日前後の事なるべし。この圖、屋代輪池堂の寫本を借りて、うつしとゞめつ。時に丁亥[やぶちゃん注:文政一〇(一八二七)年。]夏四月八日也。

   異狗圖

 

Rokusokunoinu

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第四よりトリミング補正した。]

 

後足四ツのうち、二足は短くて、地につかず、さがりて、踏むこと、なきものなり。尾も、ふたつあり。黑白のぶちにて、頭のかたに、茶色の雜毛、なし。この餘は圖說の如し。

丁亥の春、土岐村元祐、京師にあり、「親しく目擊したり。」とて、予が爲に、いふこと、右の如し。

[やぶちゃん注:「土岐村元祐」(ときむらげんいう:歴史的仮名遣)は紀州藩家老三浦長門守の医師土岐村元立(げんりゅう)の長男。生没年や詳細事績は不詳。同じく医師であったか? 因みに、この元立の次女岐村路(みち 文化三(一八〇六)年~安政五(一八五八)年)は曲亭馬琴の長男興継(本書では琴嶺舎を名乗る。)の妻で、馬琴の義理の娘にして、晩年に馬琴が失明後は、彼の筆記助手や代作社となったことから、馬琴を語る上では、非常に重要な女性である。彼女のウィキによれば、『神田佐久間町に生まれる。はじめ』、『鉄と名づけられ、手習い』・『三絃を学ぶが』、『三絃を好まず』、『舞踊を学ぶ。姉とともに松平忠誨』(ただのり:摂津国尼崎藩第五代藩主)『邸に仕える。その後』、『江戸城に勤め』、二十一歳の時には『父の許にあ』ったが、文政一〇(一八二七)年、二十二歳の時、『馬琴の嫡子滝沢宗伯興継に嫁し、みちと改名』した。『嫡男太郎興邦のほか』、『二女を儲け』たが、天保六(一八三五)年に宗伯が病いで急逝し、翌七年、『神田信濃町で馬琴夫婦と同居』を始めた。天保一〇(一八三九)年『前後より馬琴の眼疾が進み遂に明を失うに至るが、路はその口述筆記を行い時に琴童の名で代作も行』った。「南総里見八犬伝」の後半、「玉石童子訓」(ぎょくせきどうじくん)などは、実は、路の手になるもので、『難しい漢字を学び』、『馬琴独特のふりがなに苦心』したという。嘉永元(一八四八)年に馬琴が亡くなり、翌年には太郎も逝去してしまう。この嘉永元年の『馬琴最後の年』からは、『路自ら』、『日記を記し』たが、近年、『木村三四吾により』、「路女日記」として刊行されている。『路女の筆記者としての苦難は明治期よりよく知られ、貞女として賞賛され、鏑木清方がその画材とするほか、馬琴を描く際に欠かせない人物となっている』。『なお』、『森田誠吾「滝沢路女のこと」以来』、「滝沢路」と記されるが、『江戸時代は夫婦別姓であるから』、『土岐村路とするのが正しい』とある。なお、管見したネット記事では、「路女日記」で兄元祐とは絶交していたとある(理由は不詳)。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 ふるきはんじ物の盃考 馬琴

 

[やぶちゃん注:本篇も前篇同様、国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記」の巻第三上のここからにも所収する。そちらでは多くのルビが振られているので、それを参考にして(「曲亭雜記」は歴史的仮名遣の一部に誤りがある)、《 》で読みを歴史的仮名遣で附した。]

 

   ○ふるきはんじ物の盃考【盃の圖は「返魂餘紙別集」下卷に貼したり。宜く合せ見るべし。】

津藩の博士《はかせ》、鹽田《しほだ》ぬし、ふるき盃を攜へ來て、予に「鑑定せよ。」といふ。こは、「同藩なる佐伯環《さへきたまき》てふ、ぬしのものなり。」とぞ。おそらく、鹽田ぬしも、得かんがへず、『ひろき津の人々も、思ひとくよし、なきものを、いかにして、予が知るべき。』と思ひつゝ、つらつら、見るに、徑りは匠尺《かねじやく》三寸九分、盃の底、あさうして、「今やう」と、おなじからず。盃中に蒔繪あり、龍頭人身、異形のもの、冠《かんむり》をいたゞきて、束帶せず、麁服《そふく》にして、圏中《まるのなか》に六曜《ろくえう》の紋、つけたる裳を、すこし、袺(つまはさ)[やぶちゃん注:底本及び吉川弘文館随筆大成版にルビ有り。]み、酒樽ひとつ、錢五百ばかり、肩にして、挑灯を引提げたり【挑灯にも、おなじ紋あり。】。そがあとへに歌舞伎冶郞《やらう》の、皂《くろ》き羽織を着て、一刀を帶びたるが、從ひゆくさまなり【冶郞の羽織に五三の桐の紋あり。】。下のかたに、水ありて、波、たかく立てり。水中に、蓮の花、さきたると、あし[やぶちゃん注:葦。]、一もと、あり。又、流るゝ「くゝり枕」、あり。波底《なみそこ》に沈みなんなんとせし半體《はんたい》を畫《ゑが》きたり。又、盃のうらにも、まき繪あり。こゝには、机に積みのぼしたる佛經、七卷ばかり、每卷に標題あり。「綉彌勒佛《しうみろくぶつ》」と讀まるゝが如し。いと細書《さいしよ》なれば、老眼に定かならず。そが左右に、「拂子」《ほつす》と、大筆《だいひつ》あり。机のかたへに筝《さう》の琴あり。琴のほとりに、硯箱一具と、料紙あり。料紙は、銀泥《ぎんでい》をもて、まきたるが、その銀、やけて、薄ずみ色になりたり。畫《ゑ》は當時の俗畫《ぞくぐわ》なれども、蒔繪の精妙なる、金粉の佳品なる、今の細工に得がたきものなり。

[やぶちゃん注:「盃」「さかずき」と訓じておく。

「返魂餘紙別集」(「はんごんよしべっしゅう」か。現代仮名遣)文化五年編の張り交ぜの雑記集(巻物)らしい。天理図書館藏。ネットでは見当たらない。

「津藩の博士《はかせ》、鹽田《しほだ》ぬし」伊勢津藩藩士で儒者の塩田随斎(しおだずいさい 寛政一〇(一七九八)年~弘化二(一八四五)年)。古賀精里(せいり)に学び、藩校有造館の講官から、江戸藩邸の同職となった。詩を好み、猪飼敬所(いかいけいしょ)・頼山陽らと交わり、後には江戸谷中に止至善塾を開いた。

「佐伯環《さへきたまき》」ネット上で発見した佐伯家の後裔であられる佐伯朗氏の書かれた「考察・佐伯権之助家」PDF)の中に、『『庁事類編』に幕末になると「佐伯環(タマキ)」(慶応三年に鉄砲頭、同四年に護国中隊令士、弟に正雄あり)という人物が多く顔を出す』とあり、『文政九年』以降で、石高『五百石』とあるのが、まさに、この人物であろうと思われる。

「三寸九分」十一・八センチメートル。

「麁服《そふく》」ここは単に粗い麻織の服地の意であろう。

「圏中《まるのなか》に六曜《ろくえう》の紋」これ(サイト「家紋のいろは」の「丸に六曜」)。

「歌舞伎冶郞《やらう》」「冶郞」は「野郞」に同じ。底本・吉川弘文館随筆大成版では、以下で「冶郞」と「野郞」が混在するが、「冶郞」に揃えた。ここでは、まず、前髪を有意に剃り上げた、かぶいた(殊更に目立つ奇天烈な恰好をした)奴(やっこ)の下僕であろうが、文字通りの「歌舞伎野郎」=「歌舞伎子」若衆方の歌舞伎俳優見たようであることを言う。彼らは男娼も兼ねた。元祿年間頃までの呼び名で、後に出るが、別名を「色子(いろこ)」「舞台子」「歌舞伎若衆」「芝居子」などとも呼んだ。

「五三の桐の紋」これ(同前)。

「くゝり枕」「括り枕」。中に蕎麦殻や綿などを入れ、両方の端を括った円筒形の枕。

「綉」は「縫い取り・刺繍」の意。]

按ずるに、この盃は延寶・貞享の比の制作なるべし。もし、さらずとも、元祿以後のものには、あらず。いかにとなれば、當時、はんじ物の、いたく、行れたればなり【この外にも時代の考あり。下に記す。】。

[やぶちゃん注:「延寶・貞享」延宝は一六七三年から一六八一年で、天和を挟み、貞享は一六八四年から一六八八年。

「元祿」一六八八年から一七〇四年。

 以下、「すべきものになん。」まで、底本では全体が一字下げ。]

因みに、いふ。四、五百年以前より、「なぞなぞ」の行れし事、無住が「沙石集《しやせきしふ》」【蟻と蟎《だに》の問答は、またく、謎に似たり。】兼好が徒然草【「うまのきつりやう」の類。】にも見えたり。さらでも、むかし、至尊のあそばしたる「何曾《なぞ》」の御集《ぎよしふ》あり。當時の流行を知るに足れば【「何曾」は收めて「群書類從」中にあり。】、かくて、近世、慶長・寬永より、元祿・寶永のころまでも、謎を畫きて、衣裳の模樣にせし事、行れ、商人の看板すら、謎にしたるが多かりしを、なべて、はんじ物と唱へたり。そが中に、酒賣る家の門《かど》に、杉の葉を建てたるは、「味酒《うまさけ》の三輪《みわ》あり」といふ謎なり【この事は、一休の歌、あれば、尤、ふるし。】。又、湯屋《ゆうや》の軒端《のきば》に、木をもて造れる、大なる箭《や》を出せしは、「いる」とい謎なり【予が總角《あげまき》のころまで、かゝる看板を出せし錢湯、甚左衞門町にありけり。この外にも、なほ、ありしを見たりき。】。酢を賣る家の看板に、水囊《すいなう》或は味噌篩《みそこし》を出せしは、「す、あり」といふ謎【「簀《す》」に「酢」をかけたり。】也。又、衣裳の模樣には、斧と琴と菊を染めたるあり。こは、『「よき」「こと」を「きく」』といふ、はんじ物なり。又、鎌と輪と「ぬ」の字を染めたるは、「かまはぬ」といふ、はんじ物なり。又、器材には、大酒家底深【池上太郞左衞門。】〕が盃に、龍と蜂と蟹を、まき繪したるは、『「のめ」(龍)・「さす(蜂)」・「はさむ」(蟹肴)[やぶちゃん注:本文への丸括弧漢字挿入はママ。「雜記」では丸括弧なしで右方にやや小さく配してある。総てで以下の「は」の下にあるが、独断で位置を動かした。]は』といふ酒語の謎なり。これらは、當時《そのかみ》の册子に遺りて、徵(あかし)[やぶちゃん注:底本・吉川弘文館随筆大成版にある読み。]にすべきものになん[やぶちゃん注:最後の部分は「曲亭雜記」では少し異なり、続く文章と圧縮されたものになっている。リンクしておいたので、御自分で見られたい。]。

[やぶちゃん注:「沙石集」鎌倉時代の仏教説話集。全十巻。無住一円著。弘安六(一二八三)年成立。

「蟻と蟎《だに》の問答」は巻五「學生なる蟻(あり)と蟎(だに)との問答の事」(南都春日野の学僧の房の近くに棲むアリとダニの仏法問答というぶっ飛びの異類ファンタジー)の中に出る。私の「耳嚢 巻之十 龜玉子を生む奇談の事」の冒頭注で部分的に引用してある。全部を読まれたい方のために、国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫(昭和一八(一九四三)年刊)の当該部をリンクさせておく。新字体でよければ、「やたがらすナビ」のこちらに活字化された電子データもある。

「徒然草【「うまのきつりやう」の類。】」百三十五段。

   *

 資季(すけすゑ)の大納言入道と聞えける人、具氏(ともうぢ)の宰相中將にあひて、

「わぬしの問はれんほどのこと、なにごとなりとも、答へ申さざらんや。」

と言はれければ、具氏、

「いかがはべらん。」

と申されけるを、

「さらば、あらがひたまへ。」[やぶちゃん注:「それでは、さても、問いかけてみなされよ。」。後は「仕掛けて御覧なさい。」でもよい。]

と言はれて、

「はかばかしきことは、かたはしも學び知りはべらねば、尋ね申すまでもなし。何となきそぞろごとの中に、おぼつかなきことをこそ、問ひたてまつらめ。」

と申されけり。

「まして、ここもと[やぶちゃん注:本邦。]の淺きことは、なにごとなりともあきらめ申さん。」

と言はれければ、近習の人々、女房なども、

「興あるあらがひなり。同じくは御前にて爭はるべし。負けたらん人は供御(くご)をまうけらるべし。」

と定めて、御前にて召し合せられたりけるに、具氏、

「幼くより聞きならひはべれど、その心知らぬことはべり。

『むまのきつりやうきつにのをか中(なか)くぼれいりくれんどう』

と申すことは、いかなる心にかはべらん。うけたまはらん。」

と申されけるに、大納言入道、

「はた」

と、つまりて、

「これは。そぞろごとなれば、言ふにもたらず。」

と言はれけるを、

「もとより、深き道は知りはべらず。『そぞろごとを尋ね奉らん』と定め申しつ。」

と申されければ、大納言入道、負けになりて、所課(しよくわ)[やぶちゃん注:科料の饗宴。]、いかめしく[やぶちゃん注:たいそう大掛かりに。]、せられたりけるとぞ。

   *

この源具氏の提示した「はんじもの」は未だに未詳とされている。駒澤大学総合教育研究部日本文化部門情報言語学研究室のサイト内の『「むまのきつりやうきつにのをか中くぼれいりくれんどう」のなぞ話』に判読説が紹介されているので、興味のある方は見られたい。私はこの「はんじもの」の解読自体には食指が動かぬが、そこで『鎌倉時代の古辞書(語源)である経尊著『名語記』(初稿本一二六八年・増補十巻本一二七五年に北条実時に献上)の巻六(七一四頁)に』、まさに、

『ワラハヘノアソヒニ、馬ノキツリヤウキツニノヲカナカクホトイヘルモ、馬ノキツトイヘル歟』

『と見えて、この謎の文句が「童の遊び」の歌文句で「馬退きつ了」「きつにの岡」「中窪」と世上で表現していたことを明らかにしている』とあることが、甚だ興味深く思われた。

「慶長・寬永」慶長は一五九六年から一六一五年で、元和を挟んで、寛永は一六二四年から一六四五年まで。

「元祿・寶永」一六八八年から一七一一年まで。

「酒賣る家の門に、杉の葉を建たるは、「味酒の三輪あり」といふ謎なり」サイト「酒(さか)みづき」のこちらに、新酒出来を知らせる『最初の内の杉玉は茶色ではなく』、『本来の緑色をしています。そして季節が過ぎ』、『夏頃には緑が薄くなり、秋ごろには枯れて茶色くなります。茶色のイメージが強いかもしれませんが、実は杉玉の色から』、『旬の日本酒が何なのかを知ることができるのです』。『緑色』(二月から六月頃)『は新酒の季節、薄い緑(初夏~夏ごろ)は夏酒、枯れた茶色(秋ごろ)は』「ひやおろし」の『季節というように、日本酒造りの時期と杉玉の色は同調しているといえます。季節の移り変わりとともに変化していく杉玉の色を見て、日本酒の熟成度合いの変化にも気づ』かせる小見がそこには隠れているのである。

「この事は、一休の歌、あれば、尤、ふるし」これは一休宗純の一首とされる

 極樂をいづくのほどと思ひしに杉葉立てたる又六が門

「又六」は酒屋の屋号らしい。これは、歌自体の「はんじもの」ではなく、そうした「はんじもの」としての杉玉が既に、当時、あったことを指して「最も古い」と馬琴は言っているのである。

「湯屋《ゆうや》」この読みは私の好みで特異的に附した。

「大酒家底深【池上太郞左衞門。】」江戸前期の大酒家(「曲亭雜記」では『大酒官』となっている)で「大蛇丸底深」(だいじゃまるそこぶか)という酒号を持っていた人物らしい。

『「のめ」(龍)』は「吞龍」であろうか。龍は幻獣のチャンピオンであるから、酒飲みの皇帝と言える(龍は中国古代より総てに於いて皇帝のシンボルであり、皇帝の顔は「龍顔」と呼ぶ。一般には眉上隆起が著しい鋭い眼が窪んだ面構えを指す)。八岐大蛇を始めとして、古今の龍は酒がお好き。しかし、この場合の龍は以下で述べる通り、倨傲の「大臣」止まりで、「だいじん」から「大盡」に転じて、ただのたまさかの小金持ちレベルまで堕してメタモルフォーゼする。さればこそ、以下で馬琴は「一寸先は闇」をも引き出すのである。

「さす(蜂)」盃・酒を「さす」を掛ける。

「はさむ(蟹肴)」カニの「裂け」た螯(はさみ)を「酒」に、「肴」を酒の合間に「挾み」喰らうに掛けたか。

 以下は底本で改行している。]

よりて、おもふに、この盃に、まき繪したるも、當世の流行にしたがへる、はんじ物とは見ゆれども、定かには解《と》きがたかり。試みに、そのこゝろをいはゞ、

[やぶちゃん注:底本、ここでも改行。]

「龍頭の人はのむ」といふはんじ物、これに冠をいたゞかせしは、「大臣」といふはんじ物なるべし。凡、遊興に耽る黃金家(かねもち)を、「大じん」といふ事、今なほ、しかなり【物には「大臣」、又、「大盡」とも書きたり。】。そが肩にしたる「樽」は、「酒」といふ事、「錢」は「買ふ」といふはんじ物なり。又、ひさげたる挑灯は、「一寸先は、やみの夜」といふ世話のはんじ物なるべし【挑灯のかたちも、ふるし。元祿中の印本に、かくのごとき挑灯、所見あり。】又、「冶郞」は、「いろ」といふ、はんじ物なるべし。「治郞」は「いろ子」と、いへばなり【この冶郞、革足袋を、はきたり。これも當時の一證とすべし。】。又、蓮《はちす》は「さす」といふ、はんじ物ならん。蓮の和名を「はちす」といふも、その實《み》の蜂房《はちす》に似たればなり。よりて、「はちす」を「蜂巢」にかけて、「さす」と解せん爲なるべし。又、「蒹葭《よし》」は「管《くだ》」といふ、はんじ物歟。「よし・あし」は、多く「管」に造るものなり【筆のさや・花火・シヤボンなどの筒、みな、菅《くだ》なり。】。又、「まくら」の半體を畫きしは、「まく」といふ、はんじ物ならん【「まくら」を下略すれば、「まく」なり。】。「水」「波」は、只、蓮と「あし」のとり合せまでにて、させるこゝろなからんを、强ひて、說をなすときは、「すいちう」といふはんじ物ぞと、いはんも、由あり【「水」・「粹」、同音、嫖客《へうかく》を「粹《すい》」といふ事ども、しかなり。】。かく、はんじつゝ、連續して、これを、とけば、

[やぶちゃん注:「蒹葭《よし》」のルビは二字に対して(「曲亭雜記」に拠る)。「蒹」も、ここではヨシ(=アシ)のこと。但し、「蒹」は「萩」の意もある。

「嫖客」(ひょうかく:現代仮名遣)は「飄客」とも書き、花柳界に遊ぶ男の客や、芸者買いをする男を指す。

 以下、底本、改行。]

色と【冶郞。】、酒買ふ、すいちうの【水中。粹中。】大臣は、のんだり【龍頭。】、さしたり【蓮、蜂巢。】、くだを【蒹葭。】まく【枕の半體。】。一寸先はやみの夜《よ》【挑燈。】。

[やぶちゃん注:底本・吉川弘文館随筆大成版は続くが、「馬琴雑記」に従い、ここで改行した。]

かくのごとくなるべきか。いまだ、當否をしらねども、當時の「はやりうた」を、はんじ物にせしものなるべし。

[やぶちゃん注:改行は同前。但し、「雜記」では割注なので(割注である仕儀はない)、以下【 】内全体が一字下げとなっている。]

【當時、「五三の桐」の「もん」つけたる冶郞を考るに、寬文中に杉本六彌《すぎもとろくや》、是なり。かゝれば、この冶郞は、六彌か。さらずば、そのながれをくむ、色子《いろこ》にても、あらんかし。龍頭《りうづ》の人の衣に、六曜の「もん」あるは、この盃を造らしたる主《ぬし》の定紋にてもあるべし。】。

[やぶちゃん注:「寬文」一六六一年~一六七三年。

「杉本六彌」不詳。]

又、盃のうらなるはんじ物、佛經に「大筆」を添へたるは、「ひつきやう」といふ事歟【「畢竟」を「筆經」にかけたり。】。「拂子」は「欲《ほつ》す」といふ、はんじ物ならん。机は、この三くさを載たるとり合せのみならで、「倚《よ》る」といふ、はんじ物なるべし。又、料紙・硯箱は「書《しよ》」也。筝《さう》は「琴《きん》」なり。これを連續して、とく。そのこゝろは、

[やぶちゃん注:「雜記」に従い、改行した。]

「ひつきやう」【「畢竟」、「筆經」。】、琴、書【硯箱・料紙。】、酒に【酒は、盃の中に、こもれり。】倚らんとほつす【「拂子」、「欲す」。】といふ、はんじ物なるべし。唐の白居易は、琴《きん》・酒《しゆ》・詩《し》をもて「三友」とす、といふ事あるを、思ひよせたるならん。只、「綉彌勒佛」は、いまだ詳ならず。「こは『綉佛』の故事なるべし。」と、鹽田ぬし、いへり。かかれば、亦、是、酒に緣あり。この說、まことに、さなるべき歟。袂を分かつの日、はじめて、これを、聞ければ、聊か、こゝにしるすのみ。なほよく考察して、かさねて[やぶちゃん注:底本・吉川弘文館随筆大成版は『かねて』。「雜記」で訂した。]、ものすべきになん。

[やぶちゃん注:「こは『綉佛』の故事なるべし」「かかれば、亦、是、酒に緣あり」最後の「追考」で示されてある。

 以下は、底本では「文政」以下のクレジットまで全体が一字下げ。]

予が老邁、四十年來、筆硯の疲勞《つかれ》を覺ゆる事、月に日に、彌《いや》、ましたり。さりけれども、著述は世わたりの爲なれば、いかゞはせん。この他、交遊の請求たるも、考る事、物かく事は、つやつや、うけも引ざりしを、この盃を見るに及びて、好事《こうず》の痴癖《ちへき》、みづから禁ぜず、たゞちに筆を走らせしこと葉さへ、いと、ながくなりぬ。恐らく僻言《ひがごと》なるべきに、『再思《さいし》せばや』とおもふものから、鹽田ぬしが、この盃を見する事の、いと遲くて、既に歸期に及ぶといへば、暇あらで、さて、やみにき。もし拙考の如くならば、古人、「泉壤《せんじやう》百年の後、知己あり。」と、いはまくのみ。終《つひ》に鄙歌《ひか》をもて、賛すること、左の如し。

 池上が蜂龍《はちりう》よりもたくみにて

      どうりはふかきなぞの盃

文政十年丁亥春三月下旬 六十一翁簑笠漁隱稿

[やぶちゃん注:「歸期」底本・吉川弘文館随筆大成版は『迫期』。これでも判らなくはないが、躓かない「雜記」の方を採用した。

「泉壤」死者を埋葬する場所。黄泉の国。ここは単にその「はんじ物」を作った人の死後の意。

「文政十年」一八二七年。

「簑笠漁隱」「さりつぎよいん」は馬琴の号の一つ。]

   追 考

「古文前集」、『杜甫が「飮中八仙歌」云、「蘇晉長齋繡佛前 醉中往々愛逃禪」。注蘇晉學浮屠術。甞得胡僧慧澄綉彌勒佛一本。晉寶ㇾ之。甞曰。「是佛好ㇾ飮米汁。正與吾性合。吾願事ㇾ之。他佛不ㇾ愛也。」。』。まへの盃の、まき繪なる「綉彌勒佛」は、またく、これより出たり。

[やぶちゃん注:漢文様の部分を訓読しておく。

   *

杜甫が「飮中八仙歌」に云はく、

「蘇晉は長齋(ちやうさい)す 繡佛(しうぶつ)の前(まへ)

 醉中(すいちゆう) 往々 逃禪(たうぜん)を愛す」

と。注して、「蘇晉、浮屠(ふと)の術を學ぶ。甞つて胡僧慧澄が「綉彌勒佛」一本を得たり。晉、之れを寶とす。甞つて曰はく、「是の佛、米汁を飮むを好めり。正(まさ)に吾性と合(がつ)せり。吾れ、願ふに、之れを事とし、他佛は愛せざるなり。」と。

   *

「蘇晉」は文章に長じ、吏部及び戸部侍郎を経て、玄宗の詔勅などを起草し、太子左庶子の師となった。七三四年没。「逃禪」というのは、恐らく、刺繍で描いた仏画の前で酒を飲んでいるうち、酔っぱらって居眠りをし始め、しかし、それがあたかも泥酔の夢中に、繍仏に対座してまことに座禅を組んでいるかのように見えるというさまを描出したものであろう。「浮屠の術」は仏教の教え。

「古文前集」「古文眞寶前集」の略。「古文眞寶」は漢代から宋代までの代表的な古詩や文辞を収めた書物で、宋末か元初の成立とされる。黄堅の編と言われるものの、編者の事績は不詳である。前集十巻に詩を、後集十巻に文章を収録する。各時代の様々な文体の古詩や名文を収めており、手軽な俯瞰的学習が可能なため、初学者必読の書とされてきた。私も大学時代はよくお世話になった。国立国会図書館デジタルコレクションにある明治一六(一八八三)年風月堂刊「古文真宝校本 前集 下」のここで視認出来る(詩題は「飮中八僊歌」となっている)。左ページの八~九行目。但し、摩耗が激しく、かなり読みづらい。

『杜甫が「飮中八仙歌」』彼の作品中では、「唐詩選」にも採られ、結構、有名な面白い一篇(七言古詩)で、同時代の知人八人の酒豪詩人賀知章・汝陽王李璡(りしん)・李適之(せきし)・崔宗之(さいそうし)・蘇晋・李白・張旭・焦遂(しょうすい)らを謳ったもの。七四五~七四六年頃の作とされる。なお、全篇はサイト「詩詞世界 碇豊長の漢詩」のこちらをお勧めする。]

2021/12/11

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 江戶地名考小識

 

[やぶちゃん注:本篇は国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記」の巻第一下ここからにも所収する。そちらでは多くのルビが振られているので、それを参考にして(「曲亭雜記」は歴史的仮名遣の一部に誤りがある)、《 》で読みを歴史的仮名遣で附し、また、「馬琴雑記」は地名が項立てされて、読み易いので、それにも倣った。本文自体は、まず一度、総てを底本である国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種 第四巻」(国書刊行会編大正二(一九一三)年)の当該部(リンク先は当該本篇の開始ページ。左上段終りから三行目)で確認し、それから、「曲亭雜記」で操作を加えるという方法を採った。その場合、読みの一部を送り仮名で送って読みを附さないという変更も行った。

 

   ○江戶地名考小識

    ○竹橋《たけばし》

「紫一本」、その他の古記に、『竹橋は初め、竹をあみて、わたせしよりの名。』と、いへるは、大かたのことにて、まさしき證文、なし。亡友榕窓《ようさう》主人の筆記に云、『會津藩士に在竹《ありたけ》五郞右衞門隆尹《たかただ》といふものあり。その先祖は相州小田原の家士、荒木・在竹・多米《ため》・大道寺・荒川とて、四家の一なり。在竹は伊勢の在名平氏《ざいめいへいし》也。應仁の頃、在竹兵衞門尉、その子攝津守、その子も亦、攝津守に任ず。永祿七子年正月廿八日、江戶渡候而、於鴻臺《こうのだい》北條氏康・同氏政父子、二萬五千騎にて、房州里見義弘、加勢の佐竹義重、兩敵を受《うけ》、合戰の刻《きざみ》、攝津守、手勢六十三騎、召連、「ハタハ鳥居」にて、正月八日、討死なり。その子彥四郞、父攝津守、軍忠《ぐんちゆう》に依りて、上總國椎津城《しひつのしろ》を賜る。その身は江戶二の曲輪に被ㇾ置《おかれ》、常陸若出陣之節は、先を可相勤由也。彥四郞家中のものども、神田竹橋に披差置候。依ㇾ之、「在竹橋」と唱候處、今は申し能きまゝに、「竹橋」と唱ふ、といふ。彥四郞は小田原沒落の節、於椎津城討死也。定紋、「幕の紋」、「釘貫に一文字」也。』【これは、その家の說なりとぞ。】。この說によれば、「竹橋」は、元來、「在竹橋」の略稱也。かの、「竹をあみて、橋とせし。」といへるは、牽强附會の說なるべし。

[やぶちゃん注:以下、「うらみなりき。」まで、底本では全体が一字下げ。]

文化中、梅龍園《ばいりやうゑん》【中神氏。】來訪の日、不圖《ふと》、この事を物がたりしかば、やがて、ふところがみに錄して、もてゆかれたり。そののち、かの人、「慶長江戶圖考」をあらはせし時、右の說を載せて、ある說に云々と、かゝれしは、うらみなりき。

[やぶちゃん注:「竹橋」現在の東京都千代田区北の丸公園にある竹橋(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「紫一本」(むらさきのひともと)は歌学者戸田茂睡(もすい 寛永六(一六二九)年~宝永三(一七〇六)年)による江戸地誌。天和二(一六八二)年成立。侍の陶々斎と遁世者の遺佚が訪ね歩く物語という趣向で、江戸の名所旧跡を紹介したもの。戸田は岡崎藩本多家に出仕した武士であったが、晩年に致仕し、浅草金龍山の辺りに住んだ。元禄五(一六九二)年頃から、中世以来の「制禁の詞」(歌に使用が禁じられていた言葉)や「古今伝授」を非難した「百人一首雑談」・「僻言調(ひがごとしらべ)」など、多くの著述を世に示した。江戸前中期のかの元禄期に、こうした言説を成したことは、歌学史上、特筆されるものである(後半は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「榕窓主人」不詳。ああっつ! 検索掛けたら、私の記事が! それにしても、本篇に先行する南町奉行として名高い根岸鎮衛(元文二(一七三七)年~文化一二(一八一五)年)が逝去の前年まで書き続けた随筆「耳囊」の「卷之八 竹橋起立の事」(リンク先は私の古い電子化訳注)にこの引用と全く同じ文字列が出現するからには、ちゃんとした榕窓主人の記録が存在するはずなんだがなぁ?

「在竹五郞右衞門隆尹」底本も吉川弘文館随筆大成版も、以下、総て『佐竹』であるが、「曲亭雜記」で訂した。次注参照。不詳。但し、会津藩に藩士に在竹氏は実在していることが江戸初期の同藩の分限帳で確認は出来た。

「その先祖は相州小田原の家士、荒木・在竹・多米・大道寺・荒川とて、四家の一なり」五家を挙げているようにしか見えないのはママ。さて、後北条氏に仕えた重臣は四でも五でもなく、「御由緒六家」(ごゆいしょろっけ)と呼んだ。それは、荒木・在竹・多目(ため:「多米」とも書いた)・大道寺・荒川・山中の六家であった。

「應仁」一四六七年~一四六九年。

「永祿七子年」一五六四年。

「鴻臺」現在の千葉県市川市国府台にあった国府台城(こうのだいじょう)。以下は第二次国府台合戦で、里見方が退却した。

「北條氏康」底本も吉川弘文館随筆大成版も「康」がない。「曲亭雜記」で補った。

「ハタハ鳥居」不詳。これは単なる直感だが、国府台城からそう遠くない南東の、千葉県市川市八幡に、かの魔所「八幡の藪知らず」がある。何時から鳥居と社殿があったかは知らぬが、今もある。「ハタハ」は「八幡」の原記者榕窓主人の記載を写した人物が判読を誤ったのではあるまいか?

「上總國椎津城」千葉県市原市椎津にあった。

「常陸若」ママ。「雜記」では三字に『ひたちのくに』とルビするが、「若」を「くに」とは読めない。

『定紋、「幕の紋」、「釘貫に一文字」』「耳囊」の「卷之八 竹橋起立の事」の私の注を参照。図有り。

「文化中」一八〇四年~一八一八年。

「梅龍園【中神氏。】」幕臣で国学者の中神守節(もりとき/しゅせつ 明和三(一七六六)年~文政七(一八二四)年)の号。湯島聖堂に入り、「寛政重修諸家譜」の編集に携わった。文化三年、学問所勤番組頭となった。「慶長江戶圖考」「慶長年間江戸図考」「江戸古地図考」など。

「ある說に云々と、かゝれしは、うらみなりき」亡友であった榕窓の言説を出典も示さずに手軽に横取りされたからだろう。]

  ○丸山

丸山は「丸塚」の轉訛なるべし。「鎌倉大草紙《かまくらおほざうし》」その他の舊記に、豐島《としま》左衞門尉平信盛の一族、練馬【平左衞門、是は舍弟なり。】・平塚・丸塚《まるづか》[やぶちゃん注:「雜記」では『圓塚(まるつか)』とする。]と見えたり。平塚は、今、駒込《こまごみ》と西ケ原の間に、平塚明神あり、此わたりなるべし。圓塚《まるづか[やぶちゃん注:こちらには濁点がある。]》といふところ、今、なし。こは、今の本鄕丸山なるべし。豐島より、平塚、丸山と、連綿せる地方をもて考れば、むかし、圓塚といひしを、いつの頃よりか、丸山と唱來れること、疑ひなし、と、おぼゆ。

[やぶちゃん注:以下、「しるしがたし。」まで、底本では全体が一字下げ。]

圓塚の古城迹は、今、加州候の邸中にあらんとおもふ事、去歲傳聞の寄るによりて、愚按と、暗合せし事あり。しかれども、憚るよしあれば、こゝには、しるしがたし。

[やぶちゃん注:「鎌倉大草紙」「太平後記」の異名もある。史書。三巻。作者・成立年未詳。天授五/康暦元 (一三七九) 年から文明一一(一四七九) 年の間に於ける、鎌倉公方・関東管領を中心に、関東の政治的事件を編年体で記したもの。君臣父子の秩序を説く道徳的な意図を持つ。

「豐島左衞門尉平信盛」不詳。馬琴の「南総里見八犬伝」には出てくるが。

「平塚は、今、駒込《こまごみ》と西ケ原の間に、平塚明神有り」現在の東京都北区上中里にある平塚神社。南に駒込、西に西ケ原の地名が残っている。

「本鄕丸山」現在の文京区本郷の一部。

「豐島」現在の豊島区附近。]

   ○四谷

四谷は、此の邊に、谷、四つある故に【千日谷・茜荷谷・千駄ケ谷《せんだがや》・大上谷《おほかみだに》。】名づくといへるは、普通の說なり。然れども、茜荷谷は大久保なり【小石川にも同名の谷あり。】。大上谷は高井戶なり。これらは、四谷へ遠かり。予、これを疑ひ思ふこと、久しかりしに、近ごろ、「增補改正江戶志」を閱《けみ》して、一說を得たり。「江戶志」に云、『四谷名主勘四郞に尋ねしに、云、「往古は、只、むさし野につゞきたる曠野《ひろの》にして、させる家居もなし。わづかに家四軒あり。梅屋・木屋【今、保久屋といふ。】茶屋・布屋、これなり。甲州往來の旅人の休所《きうしよ》なり。よりて、『四ツ家《や》』と呼びなせしを、今は『四ツ家』の名さへ、うせて、『四谷』と書くなり。されども、右四軒の内、梅屋、保久屋は、子孫、今に、この地に有り。其の頃の高札をもてる。」よし、勘四郞、物語なり。並に、「當處の故老抔は、これらのわけをしりたるも、候はん。」と、いへり。この說、しかるべからん歟。又、或る說に、市谷《いちがや》は四谷までに、谷、四ツあり。第一を「一ケ谷」といひ、第四を「四谷」といふ、といへり。いづれも、證文なき事なれば、詳かならず。猶ほ、考ふべし。

[やぶちゃん注:「四谷」東京都新宿区東部の地名。甲州街道に沿ってあり、江戸城の四谷見付や四谷大木戸が配されて、江戸城西方の要衝であった。現在は新宿に連なるビジネス街・商店街となっている。

「千日谷」現在の東京都新宿区南元町附近の、単に地形上、低くなった一帯の旧地名。「千日坂」の名が残る。

「茜荷谷」この附近

「千駄ケ谷」この附近

「大上谷」「狼谷」とも表記するが、元は「大上谷」。現在の西原二丁目から大山町にかけての谷で、宇田川の水源であった。この中央附近

「增補改正江戶志」近藤義休(よしやす/ぎきゅう:生没年や事績は不詳)が原作で、旗本で故実家の瀬名貞雄(享保元(一七一六)年~寛政八(一七九六)年)が寛政年間に補訂した江戸地誌の増補改訂版らしい。

「保久屋」「曲亭雜記」では「久保屋」とする。

「市谷」現在の新宿区市谷(いちがや)。この附近。]

   ○市谷

 市谷は「江戶志」に、『むかしは「市買《いちがひ》」と書きたり。この處にて、六齋《ろくさい》の市《いち》たちたればなり。尾州の御屋敷にては、今も「市買」と書く。』と、いへり。この說も穩當ならんとは思はれず。しかれども、「伊皿子《いさらご》」を、「鎌倉大草紙」に「五十子《いさらご》」に作り、「池上」を「鎌倉管領九代記」に、「池龜《いけがめ》」と書たれば、市谷も、二百年以前は「市買」と書たる歟。證文なくては、おぼつかなき事なり。

[やぶちゃん注:底本や吉川弘文館随筆大成版では、以上は前の「四谷」の後に馬琴が全体を一字下げで追記した記事となっているが、「曲亭雜記」に従って独立項として立てた。

「六齋の市」中世から近世に、月の内で定期に開かれた市(いち)のこと。「六斎市」の呼称は当初、仏教関係行事と関連して市が開かれたことに由来するものと考えられるが、後には、交換経済の発達や、戦国大名の市(いち)振興政策などに基づいて開かれるようになった。市の開催日は、月の上・中・下旬に、各二回で、六回、開かれた。史料上では南北朝初期と推定される常陸国国府(現在の茨城県石岡市)の六斎市、室町時代の応仁・文明年間(一四六七年~一四八七年)の美濃国大屋田(おおやだ)(岐阜県美濃市)の紙市(かみいち)、山城国宇治郷(うじごう)(京都府宇治市)の市が早い例で、戦国時代には諸大名の城下町や新宿の建設、市町(いちまち)振興などの目的で、多くの六斎市が開かれ、保護された。江戸時代には畿内・西国地方では、地方城下町や在郷町に交換機能を奪われて衰退したが、東国地方では農村商業の中心として存続したものも見られる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「伊皿子」不詳。東京都港区三田四丁目と高輪二丁目の間にある「伊皿子坂(いさらござか)」に名を残す、旧町名かと思った(当該ウィキによれば、『泉岳寺から上り坂に入り、頂上で魚籃坂に繋がる。江戸時代には、この坂から江戸湾が一望に見渡せた』。凡そ一六〇〇年(慶長五年)頃に、『来日した明人が当地に帰化し、当時の外国人の呼称「エビス」「イベス」から自らを「伊皿子」(いびす)と名乗ったという。この帰化人の名が「伊皿子」という町名の由来とされる』とある)が、「鎌倉大草紙」の話では、慶長五年と合わない。]

   ○波切不動

波切不動、舊說も、まちまちにて、定かならず。近ごろ、梅龍園の說に、「並木の不動」なるを、訛れるにや、といはれしかども、未ㇾ詳おぼゆ。愚、按ずるに、やはり、「波切」なるべし【再按、「遺老物語」所載「三河の記」に、「波切主稅」あり。この宅、なほ、あるべし。】。「三河後風土記」、「一向亂《いつかうらん》」【「大樹寺御難」。】」の條に、波切孫四郞といふ御家臣、見えたり。當時、宗徒にて、御敵對の張本なりしかば、斷絕せしよし同書にいへり。しかれども、波切氏は孫四郞一人にも限るべからず【この他の舊記にも、波切氏の人、見えたるを抄錄せしやに覺たれども、急には、たづねわぶるゆゑ、こゝに略す。】。かゝれば、波切不動は、波切氏の持佛などにてありしにや、さらずば、波切氏の屋、そのほとりにありしによりて、波切不動と唱來れるにても、あらんかし。

[やぶちゃん注:「波切不動」波切不動尊。日蓮宗。現在の東京都文京区大塚の三丁目交差点の北角にあった(ポイントは後述の本傳寺)。国立国会図書館デジタルコレクションの「江戸名所図会」の「卷之四 天權之部」に「波切不動尊」として出、挿絵もある。現在は直ぐ東隣りの同宗の本傳寺に移築されてある。本件については、文京区茗荷谷界隈のタウン・ガイド・サイト「坂と歴史の町」の中の七会静氏の「『江戸名所図会』の大塚・雑司ヶ谷を歩く」の中の「波切不動尊」が詳細を極める。上記の位置もこちらの記載に従った。語源説も馬琴なんぞより信頼がおけ、『波切不動尊の由来については諸説あり、寛延』四(一七五一)年の「南向茶話」は、『大塚と巣鴨の双方から霧が並び』(「立つ」或いは「昇る」か)『ことから竝霧(なみきり)というようになり、これが波切になったといいます』。『また、本傳寺の縁起書によれば、建長年間』(一二四九年~一二五六年)、『宗祖が伊勢国の小幡川(現在の宮川)に水が溢れて渡れずにいたところ、老翁が現れて宗祖を導いて渡してくれたといいます。小幡の山寺に来ると』、『不動尊が水に濡れていて、川を渡してくれた老翁が』、その『霊験』(示現)『であったことを知ります。山寺の僧は不動尊を背負って宗祖の跡を追い』、『東国に赴き、富士見塚(現在の大塚)の農家に宿泊しますが、翌朝、尊像が重くて動かせなくなり、ここに安置したといいます。これが波切不動尊です。 宗祖について』、「江戸名所図会」は日蓮と『しています』(先のリンク先で読める)。『また、後年、江戸城主の太田某がこの不動尊を篤く信仰していましたが、三浦から海を渡る際、嵐に遭遇しました。祈念したところ、不動尊が舳に現れて波を切ってくれたことから、波切不動といわれるようになったともいいます』。『ほかに、火災があった時に関口の川(江戸川、現在の神田川)に入って本尊を火から守ったことから』、『波切不動尊といわれるようになったという説もあります』とある。どうです? 少なくとも、馬琴の辛気臭い退屈な語源説より、ずっと面白い!

「遺老物語」幕臣で、国学者・医者の朝倉景衡(かげひら:本姓は日下部)の編纂になる近世前・中期の見聞記・随筆・実録を集めた叢書(古老の語り話を記したというのが書名の由来)。享保一八(一七三四)年成立。「三河の記」は巻二。愛知県図書館のデジタルライブラリーのこちらで写本で視認出来るが、御覧になれば判るが、んなもん、探す気は百二十%、ない。悪しからず。

「三河後風土記」(みかわごふどき)は近世に書かれた徳川氏創業期に関する歴史書。著者不詳。全四十五巻(巻数の異なるものが他に二種ある)。一部の伝本には偽書説がある。徳川氏が祖と称している清和源氏から徳川家康将軍就任までの七百余年間を年代順に記述している。著者・成立年代については、慶長一五(一六一〇)年五月成立の平岩親吉著と序にあるものの、正保年間(一六四五年~一六四八年)以後の成立と考証され、著者も不明とされる。後に改編を行った幕府儒官成島司直(なるしまもとなお)は沢田源内(元和五(一六一九)年~元禄元(一六八八)年:江戸前期の偽書・偽系図の製作者としてよく知られる問題人物である)としている(以上は当該ウィキに拠った)。

「一向亂《いつかうらん》」「大樹寺御難」戦国時代、三河国の西三河全域で永禄六(一五六三年)から翌七年にかけて、半年ほど発生した「三河一向一揆」のこと。「大樹寺」は愛知県岡崎市にある浄土宗の寺院で、一向一揆とは関係がなく、寺自体が一揆との戦場になったに過ぎない。ここ。この「御難」というのは、当時の徳川家康にとってこの「三河一向一揆」が彼の人生の中の最大の危機の一つだったからであろう。当該ウィキによれば、この「三河一向一揆」は、「三方ヶ原の戦い」・「伊賀越え」と『並び、徳川家康の三大危機とされる。敵からも「犬のように忠実」と半ば揶揄される形で評価された三河家臣団の半数が、門徒方に与するなど、家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつける事となった』自体だったと書かれてある。

 以下は底本・吉川弘文館随筆大成版ともに連続しているが、「曲亭雜記」に従い、独立させた。]

   ○吾妻橋 ○花川戶

吾妻橋は、吾妻の杜のかたに、わたせし橋なれば、この名なり。猶、麻布コフガヘ橋は、國府の方にゆく橋なれば、やがて「國府方橋」といふがごとし。「方」を「へ」とよむ事、古訓なり。「萬葉集」に、「往方」と書て、「ユクヘ」とよめるが如し。さるを、「笄」と書て、附會の說をなすものは、うけがたし。又、花川戶も、ふるくは、「船川戶」と書たるもあれど、やはり、花川戶なるべし。「竹町のわたし」を、ふるくは、「花方のわたし」といへり。「花方」を訛りて「花川」といひ、或は訛りて「船川」とも、いへりしにや。むかし、かしこに、さくらの並木ありしによりて、花方戶と、いひしなるべし。

[やぶちゃん注:「吾妻橋」隅田川に掛かる橋当該ウィキによれば、創架は安永三(一七七四)年十月の『ことで、それまでは「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所であった。徳川家康の入府から江戸時代にかけて隅田川に架橋された』五基の『橋のうち最後の橋であり』、明和六(一七六九)年四月に『浅草花川戸』(吾妻橋西詰から北に広がる浅草寺の東の隅田川右岸一帯)『の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後』五『年で完成した』。長さ八十四間(約百五十メートル)、幅三間半(約六・五メートル)の『橋で、武士以外の全ての通行者から』二『文ずつ通行料を取ったと記録に残る』天明六(一七八六)年七月十八日の『洪水の際』、『永代橋、新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中』、『無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったという。その後』、『幾度かの架け替えが行われたようである』。『橋名は』、当初は、『「大川橋」と呼ばれた』。『これは近辺で隅田川が「大川」と呼称されていたことにちなむ。しかしながら、俗に江戸の東にあるため』、『町民たちには「東橋」と呼ばれており、後に慶賀名として「吾妻」とされた説と、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」』(あずまじんじゃ)『へと通ずる道であったことから』、『転じて「吾妻」となった説がある』。『明治九(一八七六)年六月十七日、『木橋として』は『最後の架け替えが行われた際』、『正式に現在の橋名である「吾妻橋」と命名された』とある。

「吾妻の杜」前注に示した東京都墨田区立花にある吾嬬神社(ここ)。橋の直近ではない。当該ウィキに載る「吾嬬の森連理の樟」の浮世絵が往時の森の面影を伝える。

「麻布コフガヘ橋」東京都港区西麻布に「笄橋跡」が残る。国立国会図書館デジタルコレクションの「江戸名所図会」の「卷之三 天璣之部」の「笄橋」はここから本文が始まり、後注で馬琴より詳細な地名由来が記載されている挿絵は離れたこちら

「國府の方」先の笄橋のある西麻布交差点付近は嘗ては「麻布笄町」と称したが、その「笄町」はこの附近の古名である「国府方(こうがた)村」の転訛と言う。]

   ○カニハ

王子より半道ばかり、千住と川口の渡との間の河端《かはばた》を「かには」といへり。今は「神谷」と書きて、「カニハ」と唱ふ。こは、舊名「梶原新田」なり。長享・長祿の江戶地圖に見えたり。扨、「かぢはら新田」を略して、「かぢはら」といひ、又。略して「カヂハ」といひしを、やがて訛りて「カニハ」といふなるべし。

[やぶちゃん注:「神谷」これは現在の足立区にある新神谷橋附近ではないかと推測する。ここに嘗て、江戸の隅田川最上流の渡しが存在し、「神谷の渡し」或いは「宮堀の渡し」と称された。江戸時代は、主に西新井大師への参拝客や、荒川堤への花見客などを乗せていたらしい。

「梶原新田」だから、何? 梶原一族かい?

「長享・長祿」順序が逆。長禄は一四五七年から一四六年まで。長享はずっと後の一四八七年から一四八九年まで。ちょっと思ったのは、江戸の地図で「長祿」は、ちょっと、古過ぎう気がするので、「長享・享祿」(後者は一五二八年から一五三二年まで)の誤りのような気がしないでもない。]

   ○「續江戶砂子」正訛《せいくわ》

「續江戶砂子四」、「地藏靈場」の中《うち》、「身代り地藏・善龍山常德寺」【淨土宗。駒込。土物店《つちもののだな》。】、「靈驗利益《れいげんりやく》」の條に云、『本鄕丸山、眞中氏息《そく》、彌八《やはち》、七歲にして兩眼、盲《しひ》たりしが、享保十四酉八月三日、瑞夢ありて、兩眼《りやうがん》、ひらく【廿三丁の左、廿四丁の右。】。』。按ずるに、右の眞中氏は、予が大父《おほぢ》淨頓居士《じやうとんこじ》實家の兄、眞中理左衞門【一名は治助。】、藤藏[やぶちゃん注:「雜記」では『藤原』。]恆直の事也。壯年より御代官の手附《てつき》をつとめて、はじめは本鄕に住居し、寶曆中には小石川傳通院門前にも住居せし事、舊記によりて、しらる。この理左衞門ぬしは、小字《をさなな》を彌八といへり。享保十四年は、件《くだん》のぬし、三十五歲の時に當れり。子、數人あり。長男繼之助《つぎのすけ》、【七、八歲にて早世す。】、その次は女子【早世。】、二男眞中祐藏【一子[やぶちゃん注:「雜記」は『一字』で、以下の「は」は、ない。この場合は「一字」は「今一つの名」となる。]は勝野右衞門。安永五年に歿す。】、三男眞中萬五郞【早世。】、その次は女子【名を「でん」といふ。松田長玄、妻。天明中、六十四歲にして歿す。】、四男眞中林藏【晚年、剃髮して忠山と號す。文化十一年[やぶちゃん注:一八一四年。]七十餘歲にして歿す。】、五男眞中右金吾《うきんご》【四歲にして早世。】、家記《かき》に載する所、かくの如くにして、「彌八」といふ子、なし。おもふに、「續江戶砂子」に『眞中氏の息彌八』と記せしは、沾凉《せんりやう》が傳聞のあやまりにて、父理左衞門の小字を、その子の名なりと、おもヘるにや、あらん。しかれども、此地藏の靈驗の事を、忠山に問はざりければ、繼《つぐ》[やぶちゃん注:先と異なるが、「雜記」のママ。]之助か、祐藏か、定かならず【大かたは繼之助なるべし。】。理左衞門ぬしは、寶曆六丙子年[やぶちゃん注:一七五六年。]、越後州頸城郡宮島村御代官所にて歿したり。享年六十二歲なりき。

 文政九丙戌年[やぶちゃん注:一八二六年。]菊月念六燈下識  瀧澤 解

右の考は、とし來、雜記中に、その見出しばかりを、しるしおきて、いまだ、考證の足らざるも多かれど、こたみ、冠山老候の懇望によりて、抄錄して、まゐらせたる。こは、その副本也。

[やぶちゃん注:以上では、馬琴の祖父の親族が登場するため、特にそれを正そうとして細述している。

「續江戶砂子」著者は俳人菊岡沾涼(せんりょう)。最初に享保一七(一七三二)年に刊行された彼の手になる正編の江戸地誌「江戸砂子(えどすなご)」は発売後、好評を得て、後に著者自身により、続篇のこれが、享保二〇(一七三五)年に同人作の「新板江戸分間絵図」ともに出版された。なお、私はブログ・カテゴリ「怪奇談集」で沾凉の「諸國里人談」の全電子化注を終っている。

『「地藏靈場」の中《うち》、「身代り地藏・善龍山常德寺」【淨土宗。駒込。土物店《つちもののだな》。】、「靈驗利益《れいげんりやく》」の條』底本や吉川弘文館随筆大成版では、寺の名が『常□寺』と判読不能になっているが、「曲亭雜記」で訂した。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本のここPDF)の25コマ目で(右丁の最終行から左丁にかけて)視認出来る(但し、かなり読み難い)。「善龍山常德寺」は東京都文京区本駒込のここに現存する浄土宗寺院。当該ウィキによれば、寛永七(一六三〇)年に『立誉善達によって開山された。元々は湯島天神切通に位置していた日蓮宗寺院「善正寺」を浄土宗に転宗させて成立したものだが、天和の大火で焼失した。再建しようとしたところ、幕府より御用地として接収されたため』天和三(一六八三)年に『現在地に移転した』。『当寺は「身代わり地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩像で知られている。江戸時代の地図には「身代地蔵常徳寺」と地蔵名の方が大きく記載されるほどの知名度であった。ある時、当寺第』二『世転誉上人が病床に伏し、右目が失明しそうになった。そこで、この地蔵に祈ったところ、転誉上人は全快し、代わりに地蔵の右目が腫れていたという。そのことから「身代わり地蔵」として崇められるようになった』。但し、昭和二〇(一九四五)年の東京大空襲の際、大き過ぎたため、『運び出すことができずに焼失し』てしまった。五十七年も経った二〇〇二年に、二『代目の身代わり地蔵像が再建された』とある。「土物店」とは、「土物」=青物市場のこと。「駒込土物店」は江戸時代、神田・千住と並んで、三大青果市場として知られた。「文京区」公式サイト内の「駒込土物店跡」によれば、その起原は元和年間(一六一五年~一六二四年)と言われ、『当初は近隣の農民が野菜を担いで江戸に出る途中、この地で休むのが毎朝の例となり、付近の住民が新鮮な野菜を求めたのが起こり』とあり、『また、近くの富士神社の裏手は駒込ナスの生産地として有名であり、大根、にんじん、ごぼうなどの』、『土のついたままの野菜(土物)が取り引きされた』とあり、『現在』、『駒込土物店縁起の碑がある。(天栄寺境内)』とある。碑は、ここで、常德寺の南西直近である。

「菊月」九月の異名。

「念六」前にも注したが、「二十(廿)」の変化した音「ネム」が「念」の音に通じるところから、年月日などの「二十」の意に用いる。従ってここは二十六日のこと。

「冠山老候」因幡国若桜(わかさ)藩の老公池田(松平)定常(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)の号。当該ウィキによれば、『定常は政治家としても有能であ』『ったが、『どちらかというと文学者として高く評価されている』とあり、彼の著作「論語説」・「周易管穂」・「武蔵名所考」・「浅草寺志」等は、『当時の儒学や古典、地理などを知る上で貴重な史料と』して『高い評価を受けて』おり、文政六年には、『自らの前世を語った勝五郎という農民の少年の元を訪れ』、「児子再生前世話(「勝五郎再生前生話」)を記した」ことでも知られる。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺珠 「竹」(「月に吠える」版)・「月光と祈禱」(「竹」の初出形)

 

      『月に吠える』收載

光る地面に竹が生え

靑竹が生え

地下には竹の根が生え

根がしだいにほそらみ

根の先より纎毛が生え

かすかにけぶる纎毛が生え

かすかにふるへ。

 

かたき地面に竹が生え

地上にするどく竹が生え

凍れる節々りんりんと

靑空のもとに竹が生え

竹 竹 竹が生え。

 

[やぶちゃん注:「『月に吠える』收載」の位置はママ。編者注。しかし、この萩原朔太郎の詩篇中、最も知られた名篇の引用は、これ、正確ではない。既に私は『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 竹 (同題異篇)』で示しているが(この前に配されてある同題の「竹」は『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 竹』を見られたい)、由々しき問題なので、以下に示す。

   *

 

  

 

光る地面に竹が生え、

靑竹が生え、

地下には竹の根が生え、

根がしだいにほそらみ、

根の先より纎毛が生え、

かすかにけぶる纎毛が生え、

かすかにふるえ。

 

かたき地面に竹が生え、

地上にするどく竹が生え、

まつしぐらに竹が生え、

凍れる節節りんりんと、

靑空のもとに竹が生え、

竹、竹、竹が生え。

 

   *]

 

 

 

  

     『詩歌』大正四年二月號(「竹」原型)

 

新光あらはれ、

新光ひろごり。

 

光る地面に竹が生え

靑竹が生え

地下には竹の根が生え

根がしだいにほそらみ

根の先より纎毛が生え

かすかにけぶる纎毛が生え

かすかにふるゑ。

 

かたき地面に竹が生え

地上にするどく竹が生え

まつしぐらに竹が生え

凍れる節節りんりんと

靑空のもとに竹が生え

竹、竹、竹が生え。

 

祈らば祈らば空に生え

罪びとの肩に竹が生え。

 

[やぶちゃん注:「『詩歌』大正四年二月號(「竹」原型)」は編者注。この引用も多量の読点と「節節」のルビを除去しており、不全で気に入らない。やはり『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 竹 (同題異篇)』で示しているが、煩を厭わず示す。歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

 

  

 

新光あらはれ、

新光ひろごり。

 

光る地面に竹が生え、

靑竹が生え、

地下には竹の根が生え、

根がしだいにほそらみ、

根の先より纎毛が生え、

かすかにけぶる纎毛が生え、

かすかにふるゑ。

 

かたき地面に竹が生え、

地上にするどく竹が生え、

まつしぐらに竹が生え、

凍れる節節(ふしぶし)りんりんと、

靑空のもとに竹が生え、

竹、竹、竹が生え。

 

祈らば祈らば空に生え、

罪びとの肩に竹が生え。

          ――大正四年元旦――

 

   *

なお、私の二〇一三年の古い仕儀の「竹 萩原朔太郎 (「月に吠える」の「竹」別ヴァージョン+「竹」二篇初出形)」がある。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺珠 「月光と海月」・「月光と祈禱」

 

  月光と海月

    『純情小曲集』中の「愛憐詩篇」收載

 

月光の中を泳ぎいで

むらがるくらげを捉へんとす

手はからだをはなれてのびゆき

しきりに遠きにさしのべらる

もぐさにまつはり

月光の水にひたりて

わが身は玻璃のたぐひとなりはてしか

つめたくして透きとほるもの流れてやまざるに

たましひは凍えんとし

ふかみにしづみ

溺るるごとくなりて祈りあぐ。

 

かしこにここにむらがり

さ靑にふるへつつ

くらげは月光のなかを泳ぎいづ。

 

 

 

 月 光 と 祈 禱

     『詩歌』大正三年五月號(『月光と海月』原型)

 

月光の中を泳ぎいで

群がるくらげを捉へんとす

手は身體を放れてのびゆき

しきりに遠きにさしのべらる

藻ぐさにまつはり

月光の水にひたりて

わが身は玻璃のたぐひとなりはてしか

つめたくして透きとほるもの流れてやまざるに

たましひは凍えんとし

ふかみにしづみ

溺るるごとくなりて祈りあぐ。

『マリヤよ

 はやはやわが信願を聽き屆け

 翡翠のくらげを與へしめよ』

 

かしこにここに群がり

さあをにふるへつつ

くらげは月光のなかを泳ぎいづ。

 

[やぶちゃん注:「『詩歌』大正三年五月號(『月光と海月』原型)」は編者注。前掲の決定稿「月光と海月」の初出で大正三(一九一四)年五月号『詩歌』であるが、題名は「月光と祈禱」であった。但し、本引用にはかなり問題があり、正確ではない。筑摩版全集のものを以下に示す。漢字「届」はママ。

   *

 

 月光と祈禱

 

月光の中を泳ぎいで、

群がるくらげを捉へんとす、

手は身體(からだ)を放なれてのびゆき、

しきりに遠きにさしのべらる、

藻ぐさにまつはり、

月光の水にひたりて、

わが身は玻璃のたぐひとなりはてしか、

つめたくして透きとほるもの流れてやまざるに、

たましひは凍えんとし、

ふかみにしづみ、

溺るゝ如くなりて祈りあぐ。

『マリヤよ、

はやはやわが信願を聽き届け、

翡翠(ひすゐ)のくらげを與へしめてよ、』

 ……………………………

かしこにこゝに群がり、

さあをにふるへつつ、

くらげは月光のなかを泳ぎいづ。

 

   *

読点やリーダやルビの除去・字下げ等に加えて、最も致命的なのは、マリヤへの祈りの「翡翠(ひすゐ)のくらげを與へしめてよ、」の「て」の脱落である。厳密な推敲過程を比較させることが目的である以上、これらの恣意的な変更は大きな誤謬として決定的に無効であると言わざるを得ない。残念である。なお、既に述べたが、ここで「月光と海月」の標題ポイントが小さく、後者の「月光と祈禱」のポイントのみが大きいのはママである。

 なお、筑摩版全集の「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」に、「月光と海月」と題した草稿がある。以下に示す。

   *

 

 月光と海月

 

月光の中を泳ぎいで

むらがる海月を捕へんとす

手は身體(からだ)を放れてのび行き

しきりに遠きにさしのべらる。

藻ぐさにまつはり

月光の水にひたりて

わが身は玻璃のたぐひとなりはてしか

つめたくして透きとほるもの流れてやまざるに

たましひは凍えんとし

ふかみにしづみ

溺るゝごとくなりて祀りあぐ。

………

マリヤよ

はやはやわが信願をきゝ屆け

翡翠のくらげを與へしめてよ

………

かしこにこゝにむらがり

さ靑にふるへつゝ

くらげは月光の中を泳ぎいづ。

              (一九一四、三、)

 

   *

マリヤへの祈りが鍵括弧による特異化をせずに残存しているところは、何とも言えないが、標題が決定稿の方であり、上記の初出の、直前の別草稿、或いは、直後の改稿草稿、或いは、並置残存草稿と考えられる。なお、私は二〇一三年に以上の初出と決定稿を電子化しているが、漢字表記が不全である。しかし、そこに添えた『私は個人的に朔太郎の初出に現われる執拗な読点を偏愛する。それは彼の精液のように粘着的な「舌の内在律」を確かに伝えていると感じるからである。』という感懐は句読点を消毒しえなかったことにして平然としている数多の編集者への指弾として今も変わらない。

2021/12/10

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺珠 編註 「地上」・「(無題)(うちみれば低地にひろごりつづく)」 / 後者の無題詩は既に原稿が失われて現存しない

 

    遺  珠

 

[やぶちゃん注:以上はパート標題。その裏に以下の編註がある。]

 

 

編註 既刊詩集に收錄された萩原朔太郎の作品は、それが完成するまでに甚だしい場合は十回ほども改訂補修され、その推敲にどれほど苦心したかを如實に示してゐる。ここに「遺珠」として收めた七篇はその推敲過程の一端をうかがふために採つたものであるが、しかしこれらの原型作品も、ほぼこれにひとしく何回か補修改訂してをり、こおの七篇は部分的な例事に過ぎない。

 

[やぶちゃん注:今でこそ、一般向けの鑑賞本などでも見られる、決定稿と推敲過程の一草稿の比較であるが、「萩原朔太郎詩集」と名打ったコンパクト版萩原朔太郎の詩の集成シリーズの中で、こうしたパートを作って示すというのは、なかなかに画期的ではある。但し、それは、知られた詩篇に限って、しかも草稿を一点に限って行っても、有にそれだけで数十冊にも亙るものとなってしまうであろう。しかし、これは、インキ臭い学者のだらだらの草稿羅列より、遙かに魅力的で面白い企画と言える。さればこそ、編者はこの底本全体の書名に「遺珠」を選んだのだと今にして納得出来た。なお、本パートでは詩の題名のポイントが有意に小さかったり、大きかったりするのはママである。]

 

 

  地  上

     『純情小曲集』中の「愛憐詩篇」收載。

 

地上にありて

愛するものの伸長する日なり。

かの深空にあるも

しづかに解けてなごみ

燐光は樹上にかすかなり。

いま遙かなる傾斜にもたれ

愛物どもの上にしも

わが輝やく手を伸べなんとす

うち見れば低き地上につらなり

はてしなく耕地ぞひるがへる。

そこはかと愛するものは伸長し

ばんぶつは一所にあつまりて

わが指さすところを凝視せり。

あはれかかる日のありさまをも

太陽は高き眞空にありておだやかに觀望す。

 

[やぶちゃん注:言わずもがなだが、添え辞『『純情小曲集』中の「愛憐詩篇」收載。』は編者が附したもの。詩集「純情小曲集」は大正一四(一九二五)年八月に新潮社から出版された。私は未だ同詩集の全電子化注は行っていない(本書が終わったら、開始しようと考えてはいる)。以上は、確かに、その詩集に載せた決定稿である。但し、一ヶ所、問題があって、同初版を見ると(早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちら(PDF)の34コマ目)、「ばんぶつは一所にあつまりて」の「一所」には「いつしよ」とルビが振られている。初出は大正三(一九一四)年六月号『創作』である。以下に初出形を示す。かなり異なる。

   *

 

 地上

 

地上にありて、

愛するものゝ伸長する日なり、

われは友を呼び、

友は遠き靜物を呼ぶ、

りんりんと光る空氣に、

ものみな音なくめざめ、

わが行くところに鋭く銀透す、

かの深空にあるも、

しづかに解けてなごみ、

燐光は樹上にかすかなり。

いま遙かなる傾斜にもたれ、

愛物どもの上にしも、

わが輝やく手を伸べなんとす、

うち見れば低き地上につらなり、

はてしなく耕地ぞひるがへる。

そこはかと愛するものは伸長し、

ばんぶつは一所(いつしよ)にあつまりて、

わが指さすところを凝視せり。

あはれかゝる日のありさまをも、

太陽は高き眞空にありておだやかに觀望す。

           ――一九一四、四、二〇――

 

   *

因みに、最終行の「おだやかに」の「お」は筑摩版全集では「於」の崩し字で印刷されてある。「銀透す」(「ぎんとうす」?)は萩原朔太郎の造語であろう。以下の草稿でも「透銀す」(「とうぎんす」?)とある。レントゲン線のように如何なる内部にまでもそれは透き通ってすべてを見通す霊的なものであることを言っているようには見える。まあ、そこまで言わずとも、決定稿の「凝視」と同義としても別に構わない。

 さて、同じく筑摩版全集の「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」には、本詩篇の草稿が載る。以下に示す。

   *

 

 地上

 

地上にありて

愛するものゝ伸長する日なり

われは友を呼び

友は遠き靜物をよぶ

りんりんと光る空氣に

ものみなは音なくめざめ

わが行くところに鋭く透銀す

かの深空にあるも

しづかに解けてなごみ

燐光は樹上にかすかなり。

われはいま遙かなる傾斜に立ちもたれ

かの

愛物どものうへにしも、わが白き輝がく手を伸べ*なん//ん*とす[やぶちゃん注:「*」「//」の記号は私が附した。ここは「なん」と「ん」が並置残存していることを示す。]

うち見れば低き地上につらなり

はてしなく耕地ぞひるがへる

いとみよそこはかとしんしんと愛する者は伸長し

ぱんぶつは一所にあつまりて

わが指さすところを凝視せり、

あはれかゝる日のありさまをも

太陽は高き眞空にありてつねに眺望す。

 

   *]

 

 

 

  

       ――ノオトより。(「地上」原型)

うちみれば低地にひろごりつづく

日の下に耕地ぞ

はてしなく光る耕地なり

うちみればはてしなき地上に燃えて

えいえんに光れる耕地ぞつづく

いま愛するものは伸長し

ばんぶつは一所にあがりつつ

わが指さす方を凝視せり

かかる日のありさまを

太陽は高きにありてつねに観望す。

 

[やぶちゃん注:「――ノオトより。(「地上」原型)」は言うまでもないが、本書の編者が附したものである。「えいえん」はママ。筑摩版全集の『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』の最後には、『純情小曲集草稿(地上)』と仮題して同じ無題詩が載る。しかしこれは同じなのは当たり前で、実は本底本の元版である小学館版「萩原朔太郞全集」に収録されているものを転載したことが後注され、この『元原稿は現存していない』とあるのである。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(あけぼのの遠い地平線で)

 

  

 

あけぼのゝ遠い地平線で

幽かな幽かな、赤ん坊(ぼ)の泣聲がきこゑる

見給ヘ

黎明のそうびいろの空に

くつきりと、

純金の母體が映つてゐる

それは歡喜と苦痛にふるへながら

第一の奇蹟の扉のまへに合掌して居る

おお、私のいぢらしい

ほんとうの、センチメンタリズムの姿だ

 

[やぶちゃん注:「ほんとう」はママ。これは既に「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 センチメンタリズムの黎明 / 筑摩版全集所収の同題の詩の別稿」の私の注で電子化した筑摩版全集の「未發表詩篇」に載る「センチメンタリズムの黎明」の最後の部分と酷似する。相同ではない。全体はリンク先を見て貰いたい。その最後の部分のみを転写する。

   *

いまきけ

いま、あけぼのゝ遠い地平線で

幽かな幽かな、赤ん坊(ぼ)の泣聲合唄がきこゑる

 

おゝ見給ヘ

黎明のそうびいろの空に

感傷の純金の母體がうつ映つて居る

それは歡喜と苦痛にふるへながら

第一の奇蹟の扉のまへに合掌して居る

私の、おお、私のほんとういぢらしい

ほんとうの、センチメンタリズムの姿だ。

       ――八月十六日ノ日記ヨリ――

 

   *

思うに、同一の原稿ではないかと推定される。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(ぬすびとといへども)

 

  

 

ぬすびとといへども

ともだちにはあたへてぱんをたべ

ぬすびとといへども

ともだちとは仲よくしてくらしてゐるものを

われらはなみだの價をしらず

ちゝはゝのおんあいにうらぎりして

ともだちの手に蛇をあたへたる大惡人

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集の「未發表詩篇」に無題詩で以下がある。

   *

 

 

 

ぬすびとといへども

ともだちには味のよいぱん肉をあたへてぱんをたべ

ぬすびとといへども

捕吏ともだちとは仲よくしてくらして居るものを

われらはなみだの價をしらず

ともだちちちゝはゝのおんあいにうらぎりして

ともだちの手に蛇をあたへたる大惡人

 

   *

とあり、異同があるが、本篇はこれと同一原稿であると推定する。なお、最後に示した詩篇には全集の編者注があり、『本稿は未發表詩篇「詩的散文」の「女に」と同一用紙の右半分に書かれている』とあるが、いくら探しても、同全集には「女に」という詩的散文なんぞは、ないだがね?

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(ちつぽけな)

 

   

 

ちつぽけな

とげの生えた魚の子が

ちよろちよろと木にのぼつた

その木にさくらは銀いろの花をつけ

海はまつさをに光つて居た

この光る風景にひるがへり

魚はぴちぴちと鳴きそめ。

 

[やぶちゃん注:「ちつぽけな/とげの生えた魚の子が/ちよろちよろと木にのぼつた」というのは、「木登り魚」で、朔太郎は何かの怪しげな本で、アジアの南方に棲息する木に登ることが出来る魚がいるという記事を読み、朔太郎好みの格好のキャラクターとして登場させたものと推定される。タイプ種は条鰭綱スズキ目キノボリウオ亜目キノボリウオ科キノボリウオ(アナバス)属キノボリウオ Anabas testudineus であるが、私でさえも、小学校の低学年時から、ずっと成人した直後まで信じ込んでいた(今も最初に見たマングローブっぽい樹の根の上にデンと鎮座ましました彼らの想像の挿絵が鮮やかに甦る。いやいや! 例えば、あなたは『キノボリウオは本当に木に登るんだ』と今も信じているのでは?)木に登る稀有の魚「キノボリウオ」はこのアナバス属Anabasの複数の熱帯淡水魚類の総称である。中国南部から東南アジアに広く分布し、湖沼・河川にすむ。メコン川などでは、内陸の奥深くまで分布し、食用にされている。「木に登る魚」とまことしやかに言われているが、これは大噓で、高い木に登ることはなく、実際には、単に「一時的に地面を這う」行動をすることがあるに過ぎない。スコールや水位が有意に増大している状況下、十全に体表の水分が確保される場合に、一つの水溜まりから、他の水溜まりまで、胸鰭と鰓蓋(さいがい)を広げて体を支え、尾をくねらせながら、地面や樹木の枝などを移動する。また、雨期から乾期に変わって、水が引いてしまったあとの、僅かに残った水溜まりのような場所でも、有意に長く居残って生存することが出来るから、凡そ、乾季の川流れのなくなった孤立した樹林などのそれにいるのを見れば、「陸や木に登る魚」と誤認されたことは、判らぬではない。このような魚類としてはやや例外的な行動(肺魚などはもっと凄い)が出来るのは、空気呼吸を可能にする上鰓(じょうさい)器官(labyrinth organ)を持っていることに由来する。この器官は鰓腔(さいこう)の上方にある上鰓腔に於いて、第一鰓弓(さいきゅう)の上部が延長し、三枚、又は、それ以上の花弁状の粘膜に変形したもので、その表面には、毛細血管が多量に分布し、水ではなく、口から吸い込んだ空気を呼吸することが出来るのである。キノボリウオ亜目Anabantoideiの魚類は、総てがこの上鰓器官を持ち、左右の鼻骨が大きく、相互に、また、前頭骨とも、縫合していて、全体として中篩骨(ちゅうしこつ)を覆っている点でも共通している。現在、キノボリウオ亜目は十五属約七十種が、アフリカ南西部・インド・東南アジア・中国南部・朝鮮半島に分布する。本邦には分布しない(以上は主文を小学館「日本大百科全書」他に拠った)。また、当該ウィキによれば、『野生では体長』二十五センチメートル『程になるが、水槽内では』二十センチメートル『以上にはならない』。『キノボリウオという名が付いているが、実際は木に登ることはなく、実際には、雨天時などに地面を這い回る程度である。このような名が付いたのは、鳥に捕まって』、『木の上まで運ばれ、生きているのを目撃した人が、木に登ったと勘違いしたためである。このように地上に進出できるのは、同じ仲間のベタやグラミーと同様に、エラブタの中に上鰓器官(ラビリンス器官)を持ち、これを利用して空気呼吸ができることと、他の仲間と異なり、這い回りやすい体型のためである』。『現地では食用にもされている他、観賞魚としても流通している。 ベトナムでは』『米粉麺の料理の具』や出し汁として『利用される』とある。まだ、「いや! 木に登る!」と反論する方のために、平坂寛氏の記事「キノボリウオは本当に木に登るのか? 捕獲・実験・試食レポート(タイ王国・バンコク)」をリンクさせておく。キノボリウオの画像も豊富にある。冒頭の――恰もな写真――はフェィクであることを後で平坂氏は述べておられる。「木登り魚」は木に登らない、のである。

 さて、筑摩版全集の「未發表詩篇」に無題で以下がある。

   *

 

 

 

ちつぽけな

とげの生えた魚の子が

ちよろちよろと木にのぼつた

その木にさくらは銀いろの花をつけ

海はまつさをに光つて居た

この光る炎天の風景にひるがへる

浪々の穗の白き見 ゆる丘の上 の→を に太陽

遠き太陽をこえて

浪々の穗は白日の丘の上 をこえ

魚は いつぴきの魚がひつそりとすぎゆくパンのけはひし

魚はするどくさけびはじめた、ぴちぴちと鳴いて居たきそめ。

 

   *

以上に編者注が附され、『用紙の下方にやや離れて「陣□魚」[やぶちゃん注:「□」は判読不能字。]「つめた貝」と書かれている。』とある。整序してみる。

   *

 

 

 

ちつぽけな

とげの生えた魚の子が

ちよろちよろと木にのぼつた

その木にさくらは銀いろの花をつけ

海はまつさをに光つて居た

この光る風景にひるがへる

遠き太陽をこえて

浪々の穗は白日の丘の上に

魚はぴちぴちと鳴きそめ。

 

   *

後半に異同があるが、以上を見ても、推敲跡が激しく、次に示す別草稿では、筑摩版の編者が校訂した詩篇にさえ、珍しく『順序がはっきりしない』と音を上げているぐらいだから、本篇は以上と同じ原稿であると推定してよいのではないかと私は考えている。無論、以上のものでも、以下に示す別草稿でもない、別稿であると言えぬことはないが。

 また、筑摩版全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』には、この無題詩の別草稿が以下のように載る。歴史的仮名遣の誤りや衍字と思われるものや、誤字・脱字は総てママ。

   *

 

  

 

ちつぽけな

するどい

とげの生えた魚の子が

ちよろちよろと木にのぼつた

その木にさくらは銀いろの花をつけ

海はまつさをに光つて居た

この光る炎天にてらされて

まつぴるまに

木の上の魚は

するどく泣 いたのである、いて居た、

ああはるはると聲をあげて 空にくるめきつゝ

しみじみと淚をながして

風景は

この 南洋のまつぴるまに

しみじみと淚をながして

魚は にんげんは

太陽

とうとうとうたる遠瀨の音ばかり もたえ

ゆめみる赤道の そのときこのあたりの砂原をこの光る風景砂の上を

ひつそりとすぎゆくPANのけはひ

まつぴるの風景の中に

魚はするどくまつすぐに立ちあがつた

 

   *

「PAN」は縦組みである。これはギリシア神話に登場する牧羊神・半獣神のパーンの幻視であろう。ロケーションに合わないから、削除したのは腑に落ちる。以上には編者注があって、まず、『抹消部分、插入部分が多く、順序がはっきりしない。また、用紙の冒頭下方に、次の數行が記されている。

 この光る炎天にさらされて

 遠い風景

 ゆく舟見える舟の帆みゆる遠海に

 いつぴきの魚の子が

 樹上にするどくたつて泣いて居た』とあり、さらに『用紙の左上方離れた所に、「つめた貝」と書かれている。』ともある。これも一応、整序してみよう。

   *

 

  

 

ちつぽけな

とげの生えた魚の子が

ちよろちよろと木にのぼつた

その木にさくらは銀いろの花をつけ

海はまつさをに光つて居た

この光る炎天にてらされて

木の上の魚は

するどく泣いて居た、

ああはるはるとくるめきつゝ

太陽

この光る砂の上を

まつぴるの風景の中に

魚はまつすぐに立ちあがつた

 

   *

萩原朔太郎にしてまず見ない「太陽」の独立熟語単独一行は、前後からも孤立してしまっており、削除忘れの可能性が高い。]

2021/12/09

夏目漱石の「こゝろ」を芥川龍之介はどのように受容したのか?――迂遠なる予告――

私は夏目漱石の「こゝろ」についての考証に於いて、「人後に落ちない」という自信は相応に、ある。それはサイト版の各章にマニアックな「やぶちゃんの摑み」を附したサイト版の「心」初出版で、一つの見解を示したつもりではある。

先生の遺書(一)~(三十六) ―― (単行本「こゝろ」「上 先生と私」相当パート)

先生の遺書(三十七)~(五十四) ―― (単行本「こゝろ」「中 兩親と私」相当パート)

先生の遺書(五十五)~(百十) ―― (単行本「こゝろ」「上 先生と遺書」相当パート)

他にも、それ以前に、サイト版の、

「こゝろ」マニアックス

や、

ブログ・カテゴリ『夏目漱石「こゝろ」』

でも、探究を続けてきたし、さらに古くは、

藪野唯至作「こゝろ佚文」

などというトンデモ贋作も、ものしている。

しかし、それでも私の憂鬱は完成されていないのだ。

それは何故か? それはとりもなおさず、強力な親和性のある自死を選んだ、夏目漱石の最晩年の弟子である芥川龍之介が、その「こゝろ」をどう受容し、且つ、どのような差別化の中で、芥川龍之介が敢えて自死を選んだのかという、芥川龍之介に特化した謎が解明されていないからである。

言及した論文などは、正直、私は全く以って満足していない。それは概ね、漱石「こゝろ」サイドからの、インキ臭い総合的受容史に過ぎないからである。

私は――その禁足地に足を踏み入れずには――最早――居られないのである。

ここでは、詳細は語らないけれも、

「そのヒントは芥川龍之介の書簡と、それに対する年譜的事実が、一つの突破口になるのでなはないか?」

と考えている。

私は、

『それを、もうそろそろ、やらねばならぬ!』

という瀬戸際に来ていることに、数年前から、気づいていた。

何時になるかは、分らぬ。

しかし、これは私の「こゝろ」の集大成として、唯一、やり残しているものであると考えていることを、ここに告白しておく。――――

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 御坊主伊東久勝忰宗勝橫死之話

 

   ○武藏州尾久村利右衞門養子文次郞、

    親の仇、次郞右衞門を討留候御吟味

    濟口聞書

                  蘐園

 この一通は、寫し、別に有ㇾ之。

[やぶちゃん注:発会記録なので、こうした「何だかな?」って感じの記載があるのである。]

 

 

   ○丙戌八月二日夜、本所石原駒留橋邊

    住居、御坊主伊東久勝忰、宗勝、

    橫死の話

[やぶちゃん注:「丙戌」文政九(一八二六)年。

「御坊主」江戸幕府で茶礼や茶器を取り扱う役の数寄屋(すきや)坊主のこと。同朋頭(どうぼうがしら:若年寄支配)の配下で、茶室を管理し、将軍・大名・諸役人に茶を進めることを職務とする奥坊主組頭(五十俵持扶持高・役扶持二人扶持・役金二十七両・御目見以下)の下位。二十俵二人扶持高で・役扶持二人扶持、役金二十三両、御目見以下で、百人前後いた。因みに、芥川龍之介の実母の実兄で養父となった道章は、この出身であった。

「本所石原駒留橋」ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

            伊東久勝忰

             伊 東 宗 勝

            同人僕

             新 助【戌二十九歲。】

            宗勝妹

             そ で【戌二十二歲。】

            同妹

             み ち【戌十八歲。】

右新助事、かねて、主人娘「そで」と密通いたし罷在候處、宗勝、知り候て、暇遣し度存候得共、自分の所存にも任せがたき儀、有ㇾ之、依りて新助より暇願候て、退身いたし候樣に致度存、度々、叱り、或は、打擲致し候事有ㇾ之【宗勝、雪踏[やぶちゃん注:「せつた」。「雪駄」に同じ。]を以て、新助を打し事ありしといふ。】、新助、是を遺恨に存込、八月二日夜中、宗勝、寢間へしのび入、刄を以、宗勝を殺し【最初に、口中を劈て、ものいはざるやうにいたし、なぶり殺しにせしとぞ。この夜、久勝は泊り番にて在宿せざりし也。】、其身の臥所へ退候迄、家内のもの、是を不ㇾ知。程過て、宗勝、橫死の樣子を知り、驚くこと、大かたならず。久勝は親子勤に付、新助が外に僕一人あり【その名を知らず。】。宗勝妹「みち」、窃に[やぶちゃん注:「ひそかに」。]新助を疑ひ候に付、其曉、使に出たがり候を、方便を以、引留置、外一人の僕をはしらして、地請人、幷、隣家等へ、告しらせ候に付、人々、走り集り、吟味致し候處、新助、紙帳に、血つき、有ㇾ之、且、所持の葛籠[やぶちゃん注:「つづら」。]の内に、血刀、有ㇾ之に付、卽座に新助を綁り[やぶちゃん注:「しばり」。]置、及公訴。同月四日、檢使、相濟、新助は入牢の上、御吟味、有ㇾ之、主人の娘「そで」と密通の事迄、悉、及白狀。然る所、「そで」は逐電いたし【所親[やぶちゃん注:父母か。]、窃に逃させしとぞ。】、鎌倉の尼寺[やぶちゃん注:東慶寺であろう。]にかけ込罷在候處【いまだ、剃髮に及ばず。】、寺奉行へ被召捕、是亦、入牢の上、御吟味、有ㇾ之。同年十月、新助は日本橋に於て、さらしの上、磔罪に行れ、「そで」は遠島へ流されしと云【丁亥[やぶちゃん注:文政十年。]三月、出船とぞ。】。一老翁の話なり。

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 丙戌秋八月十一日著作堂小集展覽目錄 馬琴

 

   ○丙戌秋八月十一日著作堂小集展覽目錄

一魯國聖廟圖【寫本。】       文寶堂

一本田忠勝蜻蛉切鎗圖【寫本。】    同

一神功皇后兜圖          海棠庵

一明の劉氏の爵          輪池堂

一僧風外自畫【鎌田平藏所藏。】    同

一朝鮮石の手水鉢【「東」・「吳」二字刻之者。】

                 同

一明珍宗國作冑鉢         同客品

一年中風俗畫屛風一帖       同

一甲斐州巨摩郡韭崎合戰圖【寫本。】乾齋

一甲斐州巨摩郡新府中城圖【同。】   同

一信州小縣海野手合戰圖【寫本。】   同

一上野州郡馬郡靑木莊簑輪城圖【同。】

                 同

一信州佐久郡崎田村之口穴原村圖【同。】

                 同

一三河州設樂郡長篠合戰圖【同。】   同

一信濃州更級郡川中嶋合戰圖【同。】  同

一相生の竹鞭【同。】         同

一武田流釆配【同。】         同

一中根求馬組同心内藤源右衞門家持渡候圖

                 同

一享保十一年宇佐美金五郞【惠助、事。】

 荻生祖徠へ若黨に被ㇾ抱候時之請狀一通

 【原本。】             同

一「ゑんき長者物語」三册【印本。これらは、

 めづらしげ、なし。】        同

一「ほう明童子物語」三册【同。これも、世

 にあり。】             同

一「猿源氏」三册【同。これも世間に、まゝあり。】

                 同

一「竹齋物がたり」一册【同。これも、世に多くあり。】

                 同

一大坂夏御陣合戰圖【寫本二幅。】   著作堂

   通計二十六種

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

今日、家兄羅文居士、祥月逮夜也。因於像前展覽。聊以表追薦之意已。

[やぶちゃん注:ただの羅列で、面白くも可笑しくもないので注はしない。

「家兄羅文居士」馬琴の早逝した長兄の興旨(おきむね:俳号は東岡舎羅文)のこと。

「追薦」(ついせん)で「追善」に同じ。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 近藤氏紀事 海棠庵

 

   ○近藤氏紀事

文政九丙戌年五月十八日暮六時頃[やぶちゃん注:不定時法で午後七時頃か。]、小普請組太[やぶちゃん注:ママ。後で判るが、「太田」の略か脱字。]内藏頭支配、近藤重藏總領、冨藏儀、武州荏原郡三田村百姓半之助妻子初、一類の者、及切害候。右疵所左之通り。

     中村八太夫御代官所

      武州荏原郡三田村百姓

    卽死     半 之 助【歲、五十九歲。】

左鬂頭[やぶちゃん注:「びんがしら」。]より脇へ懸、七寸程、切候疵、一ケ所。襟首、半分程、切込、疵一ケ所。脊中筋違。都合、三ケ所。

 右近藤重藏抱鼠敷地面而に倒居候。

         右半之助妻

    卽死     よ も【歲、五十八歲。】

天窓鉢[やぶちゃん注:「あたまのはち」と訓じておく。]、七寸程、そぎ落有ㇾ之。

 右半之助宅勝手口に倒居候。

         右半之助惣領

           林 太 郞【歲、二十九歲。】

左鬂先、五寸程、橫、切疵一ケ所。左鬂頭、二寸程、一ケ所。左股、五寸程、切疵一ケ所。都合、三ケ所。

 右半之助、居間に倒居候。

         右林太郞妻

    卽死     ま す【歲、二十九歲。】

脊中、橫六寸程、切疵一ケ所。

 右同斷、倒居申候。

        葺手町與兵衞店

         林太郞弟

    卽死     忠 兵 衞【歲、二十五歲。】

左鬂先、四寸程、切疵一ケ所。首、半分程、切疵一ケ所。襟首、耳へ懸、七寸程、切疵二ケ所。左手首、切落し、手指、二本切落し、左鬂先、二、程、切疵一ケ所。都合、七ケ所。

         右半之助召仕

    別條無ㇾ之。 金 次 郞【歲、二十一歲。】

        武州多摩郡野崎村

         百姓卯兵衞弟

         右半之助方同居

    疵受不ㇾ死候。 文藏【五十二歲。】

右鬂先、三寸程、切疵一ケ所。

        兼房町五人組持店

    疵受不ㇾ死候。 藤助【四十歲。】

右鬂上より、耳へ懸け、そぎ疵一ケ所。

 但、療養、廿一針縫候由。

同年十月六日裁許

    遠島      近 藤 富 藏

         富藏父

    分領左京亮へ御預け

         重藏三男

            近 藤 重 藏

    改易   重藏三男

            近 藤 吉 藏【歲、五歲。】

    改易   同四男

            近藤 熊造【歲、三歲。】

右兩人、十五歲迄、親類、御疊奉行三浦義十郞へ被預置條、其筋へ可申達旨被申渡候。

    申渡の覺

            近 藤 富 藏

其方儀、武州三田村、父重藏、抱屋敷地境に住居候百姓半之助と、地境の儀に付、先達て重藏より吟味相願候一件、半之助、心得違の趣、相詫候に付、願下致し、其砌より、境え、出、及惡口、村役人より異見差加へ候へども、不相用、剩[やぶちゃん注:「あまつさへ」。]、狼藉にも可ㇾ及、取沙汰有ㇾ之、重藏、引移候上にては、何樣の儀、可仕出儀難ㇾ計、心痛之餘り、彌、及不法候はゞ、可打捨など、重藏へ咄候處、成丈、堪忍致し、若、難捨置不法に及候はゞ、搦可ㇾ申、萬一、手に餘り討捨候時宜に及候ても、忰は意恨含可ㇾ申候間、三人共、討果候、方に可ㇾ有之恨、と申聞候に付、何れ、和熟の取計可ㇾ致と存、以來、不法の儀、無ㇾ之樣、證文差出候はゞ、竹矢來、可ㇾ爲取拂旨、半之助次男忠兵衞之書面差遣、再應、申談候得共、承知不ㇾ致、當五月十八日、忠兵衞、矢來、取拂度段申聞候に付、辿も和熟は致間敷、矢來、爲取拂候上、手詰の談に可ㇾ及と存、勝手次第に可ㇾ致旨、及挨拶追々取崩し懸候に付、半之助父子三人、呼寄、只今、證文差出候樣中聞候處、矢米不ㇾ殘取崩候上ならでは、難差出旨申候間、是迄の不法、猶、我意の條、難捨置旨、乍ㇾ申、拔打に、半之助へ切付、直に林太郞へ切懸、忠兵衞、迎出候に付、家來高井庄五郞に爲討留、林太郞を追懸候途中、闇夜、誰共、難見極、文藏、藤助へ爲手負、半之助宅へ踏込、林太郞夫婦、幷、半之助妻をも切殺候上、重藏へは半之助親子、屋敷奧深く亂入、狼籍・惡口致し、棒を以、手向候に付、無餘儀始末候段、取繕申聞候儀、假令、父の爲を存る共、如何樣にも取計方可ㇾ有ㇾ之所、事を設、罪もなき女子共迄、數人令殺害候段、殘忍の所行、其上、見分の節、有合の棒を死骸の脇へ差置、半之助持參の趣、家來に爲申立候段、彼是、取繕候仕形[やぶちゃん注:「しかた」。]、御旗本の忰に有ㇾ之間敷不屆之至に候。依ㇾ之、遠島被抑付者也。

 十月

   申渡の覺

              近 藤 重 藏

其方儀、武州三田村抱屋敷地續に住居候百姓半之助と地境の儀に付、先達て相願候處、半之助心得違の趣、相詫候に付願下致し、其砌より、境へ竹矢來を補理候處[やぶちゃん注:「おぎなふのことはりまうしさふらふところ」。]、其後も、同人、每度、境へ出及惡口、剩、狼籍にも可ㇾ及取沙汰有ㇾ之、其方引移候上にては、何樣の儀、可仕出儀難ㇾ計と、忰富藏、心痛の餘り、彌及不法候はゞ、可打捨など申聞候に付、成丈、堪忍致し、若、難捨置不法に及候はゞ、搦可ㇾ申、萬一、手に餘り討捨候時宜に及候はゞ、忰、其意恨含可ㇾ申間、三人共、討果候。方に可ㇾ之恨申候故、富藏儀、心得違、手向も不ㇾ致半之助父子を始、罪もなき女子共迄、數人令殺害、其方へも竹矢來等、取崩、亂人狼藉の趣、申聞候を、不都合の次第、全、申僞候儀と乍ㇾ存、忰儀、無事に相濟候樣致度存、其儘、相違の屆書、差出候段、御後闇[やぶちゃん注:「御」は不審だが、「うしろぐらし」。]致し方、不屆の至に候。依ㇾ之、分部左京亮之御預け被仰付者也。

 十月

          分部左京亮家來

              宍戶大次郞

                外二人

小普請組太田内藏頭支配近藤重藏儀、不屆の品、有ㇾ之、主人左京亮へ御預け被仰付候。依ㇾ之、引渡遣間、其旨、主人へ可中聞

         小普請組

          太田内藏頭支配

           重藏三男

              近藤吉藏【戌五歲。】

           同人四男

              近藤熊藏【戌三歲。】

父重藏儀、不屆の品、有ㇾ之に付、分部左京亮之御預け被仰付候。依ㇾ之、兩人儀、改易被仰付候。尤、十五歲迄、親類へ預置。

           右親類

            御疊奉行

               三浦義十郞

右之通申渡、十五歲迄、預遣、其旨、其筋へ可申達、大久保加賀守殿、御差圖。

 於評定所落着。近藤重藏一件、申渡書、寫。

  文政九丙戊年十月六日

[やぶちゃん注:こういう地下文書は面白いが、実際の原本の判読となると、困難を極める。私は大学生の時に図書館司書資格も取得しているが、その中の「資料特論」での地下文書判読の夏の宿題を思い出す。乱心した武士が(恐らくは精神疾患で犯意は不明だったと記憶する)、一家中を惨殺した事件の現場を報告した文書であった。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 近藤氏紀事 海棠庵

 

   ○近藤氏紀事

文政九丙戌年五月十八日暮六時頃[やぶちゃん注:不定時法で午後七時頃か。]、小普請組太[やぶちゃん注:ママ。後で判るが、「太田」の略か脱字。]内藏頭支配、近藤重藏總領、冨藏儀、武州荏原郡三田村百姓半之助妻子初、一類の者、及切害候。右疵所左之通り。

     中村八太夫御代官所

      武州荏原郡三田村百姓

    卽死     半 之 助【歲、五十九歲。】

左鬂頭[やぶちゃん注:「びんがしら」。]より脇へ懸、七寸程、切候疵、一ケ所。襟首、半分程、切込、疵一ケ所。脊中筋違。都合、三ケ所。

 右近藤重藏抱鼠敷地面而に倒居候。

         右半之助妻

    卽死     よ も【歲、五十八歲。】

天窓鉢[やぶちゃん注:「あたまのはち」と訓じておく。]、七寸程、そぎ落有ㇾ之。

 右半之助宅勝手口に倒居候。

       右半之助惣領

         林 太 郞【歲、二十九歲。】

左鬂先、五寸程、橫、切疵一ケ所。左鬂頭、二寸程、一ケ所。左股、五寸程、切疵一ケ所。都合、三ケ所。

 右半之助、居間に倒居候。

         右林太郞妻

    卽死     ま す【歲、二十九歲。】

脊中、橫六寸程、切疵一ケ所。

 右同斷、倒居申候。

        葺手町與兵衞店

         林太郞弟

    卽死     忠 兵 衞【歲、二十五歲。】

左鬂先、四寸程、切疵一ケ所。首、半分程、切疵一ケ所。襟首、耳へ懸、七寸程、切疵二ケ所。左手首、切落し、手指、二本切落し、左鬂先、二、程、切疵一ケ所。都合、七ケ所。

        右半之助召仕

   別條無ㇾ之。 金 次 郞【歲、二十一歲。】

        武州多摩郡野崎村

         百姓卯兵衞弟

         右半之助方同居

    疵受不ㇾ死候。 文藏【五十二歲。】

右鬂先、三寸程、切疵一ケ所。

       兼房町五人組持店

    疵受不ㇾ死候。 藤助【四十歲。】

右鬂上より、耳へ懸け、そぎ疵一ケ所。

 但、療養、廿一針縫候由。

同年十月六日裁許

    遠島      近 藤 富 藏

         富藏父

    分領左京亮へ御預け

         重藏三男

            近 藤 重 藏

    改易   重藏三男

            近 藤 吉 藏【歲、五歲。】

    改易   同四男

            近藤 熊造【歲、三歲。】

右兩人、十五歲迄、親類、御疊奉行三浦義十郞へ被預置條、其筋へ可申達旨被申渡候。

    申渡の覺

            近 藤 富 藏

其方儀、武州三田村、父重藏、抱屋敷地境に住居候百姓半之助と、地境の儀に付、先達て重藏より吟味相願候一件、半之助、心得違の趣、相詫候に付、願下致し、其砌より、境え、出、及惡口、村役人より異見差加へ候へども、不相用、剩[やぶちゃん注:「あまつさへ」。]、狼藉にも可ㇾ及、取沙汰有ㇾ之、重藏、引移候上にては、何樣の儀、可仕出儀難ㇾ計、心痛之餘り、彌、及不法候はゞ、可打捨など、重藏へ咄候處、成丈、堪忍致し、若、難捨置不法に及候はゞ、搦可ㇾ申、萬一、手に餘り討捨候時宜に及候ても、忰は意恨含可ㇾ申候間、三人共、討果候、方に可ㇾ有之恨、と申聞候に付、何れ、和熟の取計可ㇾ致と存、以來、不法の儀、無ㇾ之樣、證文差出候はゞ、竹矢來、可ㇾ爲取拂旨、半之助次男忠兵衞之書面差遣、再應、申談候得共、承知不ㇾ致、當五月十八日、忠兵衞、矢來、取拂度段申聞候に付、辿も和熟は致間敷、矢來、爲取拂候上、手詰の談に可ㇾ及と存、勝手次第に可ㇾ致旨、及挨拶追々取崩し懸候に付、半之助父子三人、呼寄、只今、證文差出候樣中聞候處、矢米不ㇾ殘取崩候上ならでは、難差出旨申候間、是迄の不法、猶、我意の條、難捨置旨、乍ㇾ申、拔打に、半之助へ切付、直に林太郞へ切懸、忠兵衞、迎出候に付、家來高井庄五郞に爲討留、林太郞を追懸候途中、闇夜、誰共、難見極、文藏、藤助へ爲手負、半之助宅へ踏込、林太郞夫婦、幷、半之助妻をも切殺候上、重藏へは半之助親子、屋敷奧深く亂入、狼籍・惡口致し、棒を以、手向候に付、無餘儀始末候段、取繕申聞候儀、假令、父の爲を存る共、如何樣にも取計方可ㇾ有ㇾ之所、事を設、罪もなき女子共迄、數人令殺害候段、殘忍の所行、其上、見分の節、有合の棒を死骸の脇へ差置、半之助持參の趣、家來に爲申立候段、彼是、取繕候仕形[やぶちゃん注:「しかた」。]、御旗本の忰に有ㇾ之間敷不屆之至に候。依ㇾ之、遠島被抑付者也。

 十月

   申渡の覺

              近 藤 重 藏

其方儀、武州三田村抱屋敷地續に住居候百姓半之助と地境の儀に付、先達て相願候處、半之助心得違の趣、相詫候に付願下致し、其砌より、境へ竹矢來を補理候處[やぶちゃん注:「おぎなふのことはりまうしさふらふところ」。]、其後も、同人、每度、境へ出及惡口、剩、狼籍にも可ㇾ及取沙汰有ㇾ之、其方引移候上にては、何樣の儀、可仕出儀難ㇾ計と、忰富藏、心痛の餘り、彌及不法候はゞ、可打捨など申聞候に付、成丈、堪忍致し、若、難捨置不法に及候はゞ、搦可ㇾ申、萬一、手に餘り討捨候時宜に及候はゞ、忰、其意恨含可ㇾ申間、三人共、討果候。方に可ㇾ之恨申候故、富藏儀、心得違、手向も不ㇾ致半之助父子を始、罪もなき女子共迄、數人令殺害、其方へも竹矢來等、取崩、亂人狼藉の趣、申聞候を、不都合の次第、全、申僞候儀と乍ㇾ存、忰儀、無事に相濟候樣致度存、其儘、相違の屆書、差出候段、御後闇[やぶちゃん注:「御」は不審だが、「うしろぐらし」。]致し方、不屆の至に候。依ㇾ之、分部左京亮之御預け被仰付者也。

 十月

          分部左京亮家來

              宍戶大次郞

                外二人

小普請組太田内藏頭支配近藤重藏儀、不屆の品、有ㇾ之、主人左京亮へ御預け被仰付候。依ㇾ之、引渡遣間、其旨、主人へ可中聞

         小普請組

          太田内藏頭支配

           重藏三男

              近藤吉藏【戌五歲。】

           同人四男

              近藤熊藏【戌三歲。】

父重藏儀、不屆の品、有ㇾ之に付、分部左京亮之御預け被仰付候。依ㇾ之、兩人儀、改易被仰付候。尤、十五歲迄、親類へ預置。

           右親類

            御疊奉行

               三浦義十郞

右之通申渡、十五歲迄、預遣、其旨、其筋へ可申達、大久保加賀守殿、御差圖。

 於評定所落着。近藤重藏一件、申渡書、寫。

  文政九丙戊年十月六日

[やぶちゃん注:こういう地下文書は面白いが、実際の原本の判読となると、困難を極める。私は大学生の時に図書館司書資格も取得しているが、その中の「資料特論」での地下文書判読の夏の宿題を思い出す。乱心した武士が(恐らくは精神疾患で犯意は不明だったと記憶する)、一家中を惨殺した事件の現場を報告した文書であった。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 異形小兒圖 輪池堂 / 異形小兒圖 文宝堂

 

[やぶちゃん注:以上の通り、別々に異なった人物の発表であるが、親和性が頗る強いので、特異的に二本を纏めた。図も底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を二条のそれを一緒にトリミング補正した。一番左のそれが文宝堂の挿絵。]

 

Jyuugokimei

 

[やぶちゃん注:本文に品川沖で拾い得たというのが一番右であろう。頭部が一つで首から下が完全な二体である。松前というのが、その左の二図(上にそれぞれ「表」(右)、「背」とある)であろう。こちらは頭部が二つ重合しており、頭髪らしきものも描かれてあり、或いは首から下の体部も毛深いものとして描かれているか。]

 

   ○異形小兒圖

一、品川沖にて拾得たる異兒文化九年[やぶちゃん注:一八二六年。]夏、出。實は作りもののよしなり。

一、松前にて魴魚の網より出、越後の船頭得ㇾ之。惣丈け、八寸五分[やぶちゃん注:二十六センチメートル弱。]、文化九年の夏、出。疑しきものなり。

 【これ、傳聞のたがへるにて、前の物と

  同じものなるべし。是等の事、松前に

  ては、知るもの、なし。虛談ならんか。】

[やぶちゃん注:「魴魚」これは鰤で、条鰭綱スズキ目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata と思われる。

「松前にては、知るもの、なし」これは馬琴の割注であろう。何故、はっきりこう言えるかと言えば、息子の滝沢興継が松前藩の医員だったからである。]

 

 

   ○異形小兒圖【又、一本。】

一、文政八乙酉二月十七日、本所柳島十軒川え、漂流したる、異形の嬰兒の圖。

丈一尺位、產毛、色、濃く、頰の邊まで生、臍は、四ツ股の眞中にあり。尤、女にて、陰門、兩方にあり。

予が伯父なるもの、本所淸水橋にあり、此伯父、召仕ひ林右衞門といふ者、近所の事なれば、十軒川へゆきて、見たるまゝを、うつし來りしなり。此小兒は、柳島のほとりなる一寺に葬りし、と、いヘり。

曲亭主人のしるされし、「雙生合體」と、いさゝかも、違はず。それは文化の酉の年、これは、文政酉の年[やぶちゃん注:文化十年癸酉。一八一三年。]、年はかはれど、一廻の同支にあたりて、同物の異形あらはれしは、尤、奇と云べし。依て、こゝに抄錄す。

[やぶちゃん注:江東区を流れる横十間川の柳島橋附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「本所淸水橋」同じ橫十間川の柳島橋の南方。ここ

『曲亭主人のしるされし、「雙生合體」』本編のこれだが、図は、これ、はっきり言って、クリソツに過ぎて、怪しい感じがする。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 カピタン獻上目次 輪池堂

 

   ○カピタン獻上目次【文政九年丙戌[やぶちゃん注:一八二六年。]三月廿五日。】

かひたん。よはん、うゐるへるむて、すてゆるれる、五十二。

役人。へんでれき、びゆるげる、二十二。

外科。びいとるひりつと、ふるんすはん、しいぼると、二十二。

         大通詞  末永甚左衞門

         小通詞  岩瀨 彌十郞

猩々緋     二端   十六間程宛

黑大らしや   二    十六間程宛

靑茶いろ    二    同

花色同     二    同

茶色同     二    同

桔梗色     二    同

白同      一    十三間程

黃同      一    十六間程

濃鼠色同    一    同

緋小らしや   一    同

黑同      一    同

花色      一    同

桔梗色     一    同

緋フラタ    二    十三間程づゝ

黑同      二    同

靑茶色     二    同

緋ゴロフクレン 二    十五間程づゝ

黑同      二    同

千種色     二    同

新織奧縞    十    三丈五六尺づゝ

上奧縞     十    同

色大海黃    三十五  三丈二、三尺づゝ

蠟引尺長上更紗 廿五   八丈二、三尺づゝ

同皿紗     八十三  一丈五、六尺づゝ

   以 上

添獻上、

一ヲルゴル附火燈 一對【油注機硝子筒燈心。】

一本國織     二卷  一銀もふる 三卷

目錄【中奉書紙。】

添獻上、

一ヲルゴル附火燈 一對【油注機硝子筒燈心壹箱添。】

一本國織     二卷  一銀もふる 三卷

   以 上

 文政九年三月廿五日

カピタンの獻上ものは例の事にて、めづらしげなけれど、カピタンの印章あるが、おかしきなり。その印は別にうつしたり。

[やぶちゃん注:「かひたん。よはん、うゐるへるむて、すてゆるれる、五十二」一八二三年十一月二十日から一八二六年八月五日まで出島商館長を務めたヨハン・ウィレム・デ・スチュルレル(Johan Willem de Sturler 一七七六年〜一八五五年)。但し、年齢は数えでも五十一である。

「役人。へんでれき、びゆるげる、二十二」以下に記される知られたドイツ人医師で博物学者のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold 一七九六年~一八六六年):「シーボルト」は正確な音転写では「ズィーボルト」)である)に随伴した助手にビュルケル(Bürckel か)という人物がいたことが各種論文で確認出来る。

「外科。びいとるひりつと、ふるんすはん、しいぼると、二十二」当該ウィキによれば、彼は一八二三年八月(旧暦文政六年六月末から七月相当)に来日し、『鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となる。本来はドイツ人であるシーボルトの話すオランダ語は、日本人通辞よりも発音が不正確であり、怪しまれたが、「自分はオランダ山地出身の高地オランダ人なので訛りがある」「山オランダ人」と偽って』、『その場を切り抜けた。本来は干拓によってできた国であるオランダに山地は無いが、そのような事情を知らない日本人にはこの言い訳で通用した。エンゲルベルト・ケンペルとカール・ツンベルグとの』三『人を「出島三学者」などと呼ぶことがあるが、全員オランダ人ではなかった』。『出島内において開業の後』。『出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義した。代表として高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいる。塾生は、後に医者や学者として活躍している。そしてシーボルトは、日本の文化を探索・研究した。また、特別に長崎の町で診察することを』、『唯一』、『許され、感謝された』。後には『出島に植物園を作り、日本を退去するまでに』千四百『種以上の植物を栽培した』。『また、日本茶の種子をジャワに送ったことにより同島で茶栽培が始まった』。『日本へ来たのは、プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説もある。シーボルトが江戸で多くの蘭学者らと面会したときに「あなたの仕事は何ですか」と問われて、「コンデンスポンデーヴォルデ」(内情探索官)と答えたと渡辺崋山が書いている』(但し、ここには要出典要請がかけられてある)。さらに、『オランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行、道中を利用して日本の自然を研究することに没頭』し、『地理や植生、気候や天文などを調査』し、後には『将軍徳川家斉に』も謁見し、『江戸においても学者らと交友し、将軍御典医桂川甫賢、蘭学者宇田川榕庵、元薩摩藩主島津重豪、中津藩主奥平昌高、蝦夷探検家最上徳内、天文方高橋景保らと交友した』。『来日まもなく一緒になった日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネを』もうけ、『アジサイを新種記載した際にHydrangea otaksa と命名(のちにシノニムと判明して有効ではなくなった)しているが、これは滝の名前をつけ』たものともされる。文政一一(一八二八)年に『帰国する際、先発した船が難破し、積荷の多くが海中に流出して一部は日本の浜に流れ着いたが、その積荷の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、地図返却を要請されたが』、『それを拒否したため、出国停止処分を受けた』後、『国外追放処分と』なった『(シーボルト事件)。当初の予定では帰国』から三『年後に再来日する予定だった』とある。但し、年齢は文政九年当時は、三十一歳である。

「フラタ」不詳。

「ゴロフクレン」オランダ語「grof grein」。江戸時代に舶来し、明治まで使われた荒い粗末な毛織物。

「千種色」「ちぐさいろ」。わずかに緑みを帯びた明るい青色。

「奧縞」「おくじま」。紺色に赤三筋の立て縞の入った唐桟(とうざん)織。将軍家がこれを袴にして大奥で着用したのでこの名があるという。別な辞書では、「奥」は「遠い国」の意で、インドを指すとし、サントメ縞(インドのマドラス(現在のチェンナイ)の港から渡来した縞織りの綿布。紺地に赤又は浅葱の細い縦縞の入ったものが多い。後に日本でも織られたが、舶来のものを「唐(とう)サントメ」、略して「唐サン」といった)の一つで、紺地に赤色入りの縦縞の綿織物とある。

「色大海黃」これは「色」「大淺黃」の誤記ではあるまいか?

「その印は別にうつしたり」印影は底本にも吉川弘文館随筆大成版にも、ない。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 瓶

 

  

 

あるこーるづけの蛙

あるこーるづけの鼠

あるこーるづけの心臟

あるこーるづけの貝

ぢつと透して居ると

ぽんやりした玻璃光線の中に

いろいろなものがみえる

白つぽけた人間の耳

ゆがんだ病氣の手

 

うすあかりの床にこごまつて

おれは胎兒のやうに泣きはじめた

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集では「未發表詩篇」に、以下のようにある。表記は総てママ。二箇所の「栅」は校訂本文では「棚」に消毒されている。

   *

 

 

 

  うすぐらい床の隅で

  長い長い栅の隅に

  いろいろな甁が見える竝んで居る

 

あるこーるづけの蛙

あるこーるづけの鼠

あるこーるづけの心臟

あるこーるづけの貝

ぢつと甁を透してみると居ると

ぽんやりした硝子玻璃光線の中にみえる、

いろいろなものがみえる、

白つぽけた人間の耳がある

ゆがんだ病氣の手がある

┃……………

┃うすあかりの床の 上で 隅で栅のまへで

┃おれは胎兒のやうにこごまつて泣き出した、

┃……………

┃……………

┃ぼんやりした光線の中で

┃うすあかりの床にこごまつて

┃おれは胎兒のやうにこゝまつて いて居た、出した、はぢめた、

[やぶちゃん注:「┃」は編者の附したもので、前と後では実際にはそれぞれ連続している。「↕」は私が附した。則ち、前の三行と後の五行の二つのパートを並置残存していることを意味する。]

 

   *

なお、以上の後には編者注で、『冒頭三行は、あとから書き加えられたとみられ、下方に記されている。』とある。まず、本篇は、この同一原稿か、或いは、この原稿を、一度、別に清書した稿ともとれる。

 なお、筑摩版全集では、『草稿詩篇「未發表詩篇」』に、この「甁」の別草稿(無題)がある。以下の示す。表記は総てママ。

   *

 

  

 

あるこーるづけにしたの蛙

あるこーるづけにしたの鼠

あるこーるづけの心臟→耳→蛙 心臟

あるーるの貝

あるこーるづけの手

この長い長い栅の上に

いつさいの ものがくさらないために→ものをあるこーるにつけた ものがくさらないやうに

なにもかもなにもかもくさらないやうに

なにもかもあるこーるあるこーるにつけである

見給へおれはおれの耳をちよんぎつて

このうすぼんやりした光線の中

あるこーるづけの甁が 竝んで居る 行列して居る

白つぽけたおれの耳がつけてある、

いつばんぢつと透してみると

このぼんやりした光線の中  

いろいろの甁がならんで居る

そしてみよ、このそしてぼんやりした甁の中 では 透してごらん光線で

白つぽけた人間の耳がある

ゆがんだ 人の病氣の手があ

ああぼんやり光線の中で

おれは わたしは胎兒のやうに

ああ哀し

ぢつと透して 見給へ→ごらん

うすらあかりの床の上に

ああ、その ああ哀しみたえがたく

おれは胎兒のやうにかぢかんでこごまつて泣き出した、

 

かすしれぬ甁が竝んで居る行列して居る、

そしてみよ

ごらんごらん、こゝには おれの

このぼんやりした光線の中

甁の中に

わたし人間の肢體がつけてあるあります、

 

   *

以上には編者注があり、『末尾六行は1112の間に』(「このぼんやりした光線の中   」と「いろいろの甁がならんで居る」の間のことと思われる)『插入記號を附して用紙下方に記されているが、12行目以下と重複するところがあり、それの別稿とみられる。』とある。

 なお、個人的には、この独特の――あの理科室の標本棚の饐えた臭いのする詩篇が――頗る好き――である。]

2021/12/08

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(くひくやみ)

 

  ○

 

くひくやみ

ひとまを出でず哀しめる心のうへにあらに

またもや光るゆうれいのしぬびてあらはれ

うすしら菊のためいきの

犯せる菊のためいきのうつれるものを

くちづけのおもひでもほのぼのと光るゆうれいの

またしみじみといぢらしげにもなりゆき

しなえたる小指の文字を

白きゆうれひのしろじろと淚をぞにじましむ

 

[やぶちゃん注:冒頭の「くひ」(悔(く)い)はママ。筑摩版全集では、同じ無題で以下が「未發表詩篇」に載る。表記の誤りは総てママ。「たのいき」は「ためいき」の誤記であろう(筑摩版校訂本文も「ためいき」とする)。

   *

 

 

 

光るゆうれいの、

くひくやみ

ひとまを出です哀しめるわれの心のうえにあらはれ

あゝまたもや光るゆうれいの生→いき のしなりあらはれしぬびあらはれまねきて//またもや光る光るゆうれひのしなりぬびあらはれ*

[やぶちゃん注:「*」と「//」は私が附したもので、「あゝまた心や光るゆうれいの生→いき のしなりあらはれしぬびあらはれまねきて」と「またもや光る光るゆうれひのしなりぬびあらはれ」が並置残存していることを示す。]

光るうすしら菊のたのつきの

┃犯せる菊のためいきのうつれるものを

§

かのくちづけのおもひでも

うすほのぼのとしら菊のたのいきの、

┃犯せる菊のためいきのうつ映れるものを

[やぶちゃん注:以上の「┃」はこれは編者の附したもので、前二行と後三行では実際には切れずに続いている。「§」は私は附したもの。前者二行はワン・セットであること意味し、それが後の三行のワン・セットと並置残存していることを示す。]

光るゆうれいの

またしんにしみじみといぢらしげにもなりゆき

しなえたる小指のうえへに文字を

光る白きゆうれひのさめざめとしろじろと淚をぞしみじみとにじましむ。

 

   *

整序すると(私の記号のはそのまま移した)流石に「たのつき」は意味が判らぬので、「ためいき」に代えた)、

   *

 

 

 

くひくやみ

ひとまを出です哀しめる心のうえにあらはれ

*またもや光るゆうれいのしぬびまねきて//光るゆうれひのしぬびあらはれ*

┃うすしら菊のためいきの

┃犯せる菊のためいきのうつれるものを

§

┃くちづけのおもひでも

┃ほのぼのとしら菊の

┃犯せる菊のためいきの映れるものを

光るゆうれいの

またしみじみといぢらしげにもなりゆき

しなえたる小指の文字を

白きゆうれひしろじろと淚をぞにじましむ。

 

   *

本篇とかなり似ている。小学館編者に対して好意的に考えるなら、筑摩版の以上の草稿以を新たに書き直した後の別稿ととることも出来るが、う~ん、何とも言えない。私は本底本のパート名の「斷片」という項立て自体に、やや不審(忠実に断片原稿を適正確実に活字化したかどうかという点で)を抱き始めているからである。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 われのみひとり立ちて ――病人の歌――

 

  われのみひとり立ちて

        ―― 病 人 の 歌 ――

 

心臟より出づるところの手

なやみ、はがみ、

ふぢのほの貝の口より出づるところの手

それさへわれは見た

もつと明らかにくるしみの形を見た

それは光るほど

遠き夜あけの空にいきづく

あへぎ なやめる病氣の人の影のうすあかり

みな顏より

つらつら淚ながしてこほらんとす

ああ遠き山里のあなた

悲しき建物の窓をみれば

われがいとしき戀びともかたくかぢまりて死にはてんとみゆ

いきものいきをひきとり

冬の日すでにたましひのはりつめし上べに

くるしみ

*はすべてその手をいづべきところにのばしたのに

ああわれのみひとりここに立ちつくして

 

  *ここのところ一字不明。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集では、「未發表詩篇」に同題で以下のように載る。不審な箇所や歴史的仮名遣の誤りなどは総てママ。

   *

 

 われのみひとり立ちて

      ――病人の歌――

 

なやめるものゝ救ひと

心臟より出づるところの手

なやみ、はがみ、

ふぢつほの貝の口より出づるところ手

それさへわれは見た

ああもつとも明らかにくるしみの形を見た

それは光るほど

遠き夜あけの空にいきづく

あへぎなやめる疾患の病氣の人の影のうすあかり

悲しき建物の窓

みなみな顏よりつらつら淚ながしてこほらんとす

うす あかね あかりさす冬の日の夕ぐれがた

ああ遠き山里のあなたをみれば

悲しき建物の窓 にはをしみれば

れがいとしき戀びとも床に上に

かたくかぢまりて死にはてんとすんとみゆ

いきものいきをひきとり

いきもたえ

夕ぐれ冬の日すでにたましひをたましひの氷をあつくはりつめ しにし上べに

くるしみ

たにしはすべてその手をいづべきところにさしのばしたるに

けふ

あああゝわれのみひとり立ちつくし。こゝに立ちつくして、

 

   *

整序してみる。

   *

 

 われのみひとり立ちて

      ――病人の歌――

 

心臟より出づるところの手

なやみ、はがみ、

ふぢつほの貝の口より出づるところ手

それさへわれは見た

もつとも明らかにくるしみの形を見た

それは光るほど

遠き夜あけの空にいきづく

あへぎなやめる病氣の人の影のうすあかり

みな顏よりつらつら淚ながしてこほらんとす

ああ遠き山里のあなた

悲しき建物の窓をしみれば

われがいとしき戀びとも

かたくかぢまりて死にはてんとみゆ

いきものいきをひきとり

冬の日すでにたましひの氷をはりつめし上べに

くるしみ

たにしはすべてその手をいづべきところにのばしたるに

あゝわれのみひとりこゝに立ちつくして、

 

   *

この内、「ふぢつほ」は「ふじつぼ」誤記と考えてよい(筑摩版全集校訂本文でもそうなっている)。無論、蔓脚類の代表的一種であるフジツボ類(節足動物門甲殻亜門六幼生綱鞘甲(フジツボ)亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目無柄目フジツボ亜目 Balanomorpha)は軟体動物(軟体動物門 Mollusca)の広義の貝類とは全く無縁で、判り易く乱暴にドンブリでぶっちゃければ、エビ・カニの仲間で、固着定在性の自律的移動はしない、あの殼の内部で、子どもらに判り易く言うなら、エビのようなものが逆立ちしているのだ、と言ってよいが、朔太郎があれを貝と呼ぶのは、別段、異様ではない。大人でも、未だに、海産無脊椎動物に詳しくない大方は、フジツボと同類の岩礁固着性のカメノテ(完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ属カメノテ Capitulum mitella )や、ビーチコーミングで漂流木片などに付着しているエボシガイ(有柄目エボシガイ亜目エボシガイ科エボシガイ属エボシガイ Lepas anatifera )をも、十把一絡げに、貝の一種だと思い込んでいる者は未だに甚だ多い。脊椎の原型である脊索を幼生時に保有することから、脊椎動物の直ぐ下位に位置附けされている高等生物の脊索動物門尾索動物亜門ホヤ綱 Ascidiacea のホヤなどは、ごくごく最近まで、プロであるはずの海産類業者や魚屋でさえ、「ホヤガイ」と呼び、貝類だと思い込んでいたのだから。懇切丁寧に、「ホヤの幼生はオタマジャクシ型をしており、目も口もあるが、口器で対象物に吸着すると、そこから仮根(かこん)が生え、尾部が頭部に吸収されてあの革のような皮殼に変容する。」と発生機序を細かに絵に描いて説明してやっても、これ、却って、『人が知らないのをいいことに、いい加減なことを言いやがって!』と胡散臭い顔をされ、蔑まれるのがオチである。嘗て二十代の始めに酒場でその話をしたら、著名大学の歴史学教室の助手であった親友は、せせら笑って、「あれは、貝でしょう?」と全く信じず、不審極まり、彼の友人の生物学の専攻者に、彼が、その場で電話をし、やっと私の言っていることが総て正しいことをしぶしぶ認めたほどである。伝統的な博物学がすたれ、文理ともに専門性が特化してしまい、門外の知識には黙っているのが礼儀といった非学問的な致命的習慣が蔓延ってしまった。教師時代、とある高校で生物学を馬鹿にしていた物理教師が(理科の教師間では物理の教師が最も自尊心が強く、生物学を学問的に下に見る傾向が、残念ながら、今も広く見受けられる)、たまたま、生物を教えなければならなくなったのだったが、彼はミトコンドリアが♀由来のDNAしか持たないことをさえ知らずに教壇に立っていたことを、ある時、たまたま知って、私は開いた口が閉まらなかったのを思い出す。だから、フジツボを貝と言う朔太郎は、却って可愛い少年のように見え、私は優しく微笑みたくなるぐらいなのである。

 閑話休題。整序すると、本篇とはかなり違う箇所があるが、しかし、肝心の表現・表記上に特異ポイント(「ふじつほ」はまさにその特異点と言える)に於いては、著しく酷似しており、私は、筑摩版と同じ削除だらけの、読み難い草稿原稿を小学館の編者も見たのだと感じている。判読に疲れてくると、恐らくはどんなにストイックで責任感の強い編者であっても、知らず知らず、不審な箇所を無意識に自身が納得出来るように錯覚判読することを避けられぬように、私は、思うからである。一律、劇薬消毒校訂本文である筑摩版全集より――遙かに――まし――だと思うからでもある。

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 冷泉左衞門督爲金詠歌 輪池堂

 

   ○冷泉左衞門督爲金詠歌

 故鄕を立出しより東路の

      なかばは越しさ夜の中山

 蔦楓みどりの春に分いれば

      霞おくあるうつのやまみち

 ゆたけしと霞の空に仰みる

      かげいや高き春のふじのね

 かち人の賑ふ聲も大井河

      わたる瀨廣き水の白波

 ふじの雪はるゝ光のゆたけさを

      ひとつにうつす田子のうら浪

 のどけしな水の綠も春の色に

      かすむ光の浮しまのはら

   三月二日旅館當座霞中春月

               司  直

 いく里のかげのどかにも立こめて

      霞にもるゝ春のよの月

               司  直

 秋よりもまして哀は深きよの

      おのへにかすむ春の月かげ

               中川九同

[やぶちゃん注:底本では「中川九同」の「同」の字の右に『マヽ』傍注がある。]

 東路の名にや立らん春の月

      かすみの關にかげをへたてゝ

               淸  董【中川造酒】

 梅櫻花にかすみに匂ふよの

      かげのどかなるむさしのゝ月

               維  尹【森川中務】

 かすむこそなかく深き哀なれ

      世ははな鳥の春のよの月

               靜  齋

 比ひなきあはれをこめて春のよに

      かすめる月の長閑なるかげ

右詠歌は、文政九年丙戌春三月上旬、關東下行のときの事とぞ聞えし。

[やぶちゃん注:「冷泉左衞門督爲金」不詳。一つ、同時代の上冷泉家に公卿の冷泉為全(ためたけ  享和二(一八〇二)年〜弘化二(一八四五)年)がおり、彼は正三位参議左衛門督に至っている。彼の誤字か?

「司直」冷泉為全だとしたら、不審。彼は参議でもあったが、参議も左衞門督も司直職ではない。

「おのへ」「をのへ」(尾の上)の誤字であろう。山や丘の頂・峰の意。

「中川九同」不詳。

「淸董【中川造酒】」不詳。「淸董」は「せいとう」、「造酒」は「みき」ではあろう。

「維尹【森川中務】」不詳。「維尹」は「これただ」か。「中務」は「なかつかさ」。

「比ひなき」「たぐひなき」。

「文政九年丙戌」一八二六年。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 祈禱

 

  祈  禱

 

ぴんと光つた靑竹

そこらいちめん

ずばずば生えた竹藪の中へ

おれはすつぱだかでとびこんで

死にものぐるひの祈禱をした

まつかの地面の上で

ぎりぎり狂氣の齒がみをした。

 

みれば笹の葉の隙間から

まつぴるまの天が光つてゐる

おれは指をとんがらして

まうかうかうからすつぱりと。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集の「未發表詩篇」にある「祈禱」と句読点の違いと、「藪」・「籔」の字体を除いて相同である。以下に示す。

   *

 

  祈禱

 

ぴんと光つた靑竹、

そこらいちめん、

ずばずば生えた竹籔の中へ、

おれはすつぱだかでとびこんで、

死にものぐるひの祈禱をした、

まつかの地面の上で、

ぎりぎり狂氣の齒がみをした。

 

みれば笹の葉の隙間から、

まつぴるまの天が光つてゐる、

おれは指をとんがらして、

まうかうかうからすつぱりと。

 

   *

同一原稿と断ずる。なお、筑摩版では、編者注があり、『草稿詩篇の「穴」と關係あり』とある。但し、この注記の「草稿詩篇」というのは同じ「未發表詩篇」の後に載る「草稿」の誤りである。以下に示す。歴史的仮名遣の誤りや誤字(と思われるもの。例えば「血みどれ」は「血みどろ」の誤記であろう)は総てママ。

   *

 

 穴

 

かたい地面を掘つくり返して

そつくり くさ あんずのきを植えつけた

穴の中に 風あり かぢこんでゐる

の中に風あり

ぐんぐんつきや

 

おれはまつ 四角 さきに きり ふみこんだぎりぎり齒ぎりしをした

おれのあたまの上にかさなつた天

ぐんぐんふみつける

あの おれは 死を 血みどれの死體からどこまでも逃げてゆくのだ生きて居るのだ

みろああみろ、おれはいのちがけのおれの懺悔をするのだ

おれは血を吐きくちびるから

くさつた地べたへ血を吐きつけて

力いつぱいにのびあがつたふみつけた

おれのそのとき肩の上から

ぴんと光つた靑竹が生えた

おれは人さし指をとがらして

眞額からすつぱりと

[やぶちゃん注:以下の最終行一行は複数の下方に枝割れした並置残存がある(三ヶ所で、都合、全部で四種が並存していることになる)ので、特異的に煩を厭わず、全部のケースを以下に並べた。前後を「※」で挟んだ。]

※するどい光線の反流をすかした書いた、※

※するどい光線の脈をすかした書いた、※

※するどい靑竹の脈をきりつけた、※

※靑竹の線脈をきりつけた、※

 

   *

整序すると(最終行の並置残存分は削除を除いてそのまま示した)、

   *

 

 穴

 

おれはぎりぎり齒ぎりしをした

おれのあたまの上にかさなつた天

どこまでも生きて居るのだ

ああみろ、おれはいのちがけの懺悔をするのだ

くさつた地べたへ血を吐きつけて

力いつぱいにふみつけた

そのとき肩の上から

ぴんと光つた靑竹が生えた

おれは人さし指をとがらして

眞額からすつぱりと

※するどい光線の反流を書いた、※

※するどい光線の脈を書いた、※

※するどい靑竹の脈をきりつけた、※

※靑竹の線脈をきりつけた、※

 

   *

確かに本篇は「祈禱」別稿と読める。なお、「眞額」を筑摩版全集は「眞向」の誤字とするが、こんなことは許されない。「眞額」は「まびたひ」或いは当て読み「まつかう」で同じ意味で通る。こういう過剰で無用な知ったかぶった官僚的強制消毒(特定の漢字を唯一の正字体として表記を統一してあるのも最下劣である。先行する「(無題)(狐がきたので)」の私の最後の指弾と鬱憤を参照されたい)が大嫌いなのである。

 さて、調べると、筑摩版全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』には、『祈禱』として『(本篇原稿三種三枚)』と標題する無題詩を含む二篇が掲げられてある。以下に示す。歴史的仮名遣や誤字等は総てママ。丸括弧表記は萩原朔太郎自身によるもの。□は底本の判読不能字。

   *

 

  

 

すつぱり すつきり  とがつた 光つて→直立して 靑竹

ぴんと光つた靑竹

眼のそこいらいちめん(そこでもこゝでも)

ずばすば生えたヤブの中 でも

おれはぐんぐんつき おれはぐんぐんつきやぶつてすゝんだ

ひつそりして立とまると

*ぴいぴい鳥がないてゐる//いちめんにかさなつた笹の隙間から//いちにち鳥が鳴いて居る//笹葉の隙間から*

[やぶちゃん注:以上の「*」と「//」の記号は私が附した。これは「ぴいぴい鳥がないてゐる」・「いちめんにかさなつた笹の隙間から」・「いちにち鳥が鳴いて居る」・「笹葉の隙間から」の四つのフレーズが並置残存していることを示したものである。]

天がまつさをに光つてみえた

 

 

  祈禱

ぴんと光つた靑竹

そこいらいちめん

ずばすば生えたやぶの中

おれはぎりぎりはぎしりをした

おれはすつぱたかでつつ立つて

おれはいのちかげ死にものくるひの懺悔キトーをするのだした

笹のすきまからみえる

まつかの太陽地面の下で の下で上で

おれぎりぎり齒ぎしりをし て祈つた、 きちがひの 狂氣の齒はがみをした

みろすつぱだかで立つて居る

みろ笹のすきまから、

天がまつ さほに ぴるまのやうに光つてみえる

まひまつぴるまの天が光が光つてみえる、

おれは指をとがらして

眞額からすつぱりと

靑竹の□□幹を切りつけた、

 

   *

試みに、この後者の方を整序してみよう。

   *

 

  祈禱

ぴんと光つた靑竹

そこいらいちめん

ずばすば生えたやぶの中ヘ

おれはすつぱたかでつつ立つて

死にものくるひのキトーをした

まつかの地面の上で

ぎりぎり狂氣の齒はがみをした

みろ笹のすきまから、

まつぴるまの天が光が光つてみえる、

おれは指をとがらして

眞額からすつぱりと

靑竹の幹を切りつけた、

 

   *

これこそ、本篇及び最初に掲げた筑摩版全集「未發表詩篇」所収の「祈禱」の直前の草稿形とするに相応しいではないか。]

2021/12/07

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(1)

 

         

 人間は勝手極まる者で、烏が定刻に鳴いて晨[やぶちゃん注:「あした」。朝。]を告げると、露宿する者は寒夜の過ぐるを欣び流連[やぶちゃん注:「りうれん」でもよいが、「ゐつづけ」とも当て訓する。遊興に耽って家に帰るのを忘れることを言う。]する者は飽かぬ別れの近づくを哀しむ。「柹食ひにくるは烏の道理かな」で、實は烏の知つた事で無い。謝在杭の言に、鴉鳴俗云主有凶事、故女子小人聞其聲必唾之、卽縉紳中亦有忌之者矣、夫使人預知有凶、而愼言謹動、思患預防、不亦吾之忠臣哉。時鳥なども、初音を厠で聞けば禍有り、芋畑で聞けば福有り。故に其鳴く頃高貴の厠には芋の鉢植を入れて置くと夏山雜談に出る由(嬉遊笑覽八に引く、予の藏本には此事見えず)。グリムの獨逸鬼神誌(一八四四年ギヨツチンゲン板、六三七頁)に、最初烏は後世程惡鳥と謂れなんだと有ると同時に、氏の獨逸童話に、水汲みに出て歸り遲い子供を、其父が烏に成れと詛ふと忽ち皆烏に成つた譚有るを見ると、歐州でもいと古くより烏を機會(をり)と相場(さうば)に依つて、或は吉祥或は凶鳥としたらしい。エンサイクロペヂア・ブリタンニカ十一板廿二卷に、鴉は鳥類中最も高く發育した者で、膽勇明敏智慧三つながら他鳥に傑出すと有る。

[やぶちゃん注:「柹食ひにくるは烏の道理かな」ブログ「日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~」のこちらによれば、不確定ながら、日本人の僧として初めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師としてよく知られる円覚寺管長の釈宗演(安政六(一八六〇)年~大正八(一九一九)年)の句とする。

「謝在杭の言に……」明朝の文人・官人であった謝肇淛(ちょうせい 一五六七年~一六二四年)の字(あざな)。歴史考証を含む随筆「五雑組」全十六巻の作者として知られ、他に「文海披沙」・「文海披沙摘録」等を著している。以下の引用は、その「五雑組」の巻七にある。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで影印本の当該箇所が視認出来る。以下、訓読しておく。

   *

 鴉(からす)鳴くを、俗に「凶事有るを主(つかさど)る」と云ふ。故に女子・小人は、其の聲を聞けば、必ず、之れに唾す。卽ち、縉紳の中にも、亦、之れを忌む者有り。夫れ、人をして、預(あらか)じめ、凶あるを知りて、言を愼しみ、動を謹(いま)しめ、患(わざはひ)を思ひて、預じめ、防がしむれば、亦、吾れの忠臣ならずや。

   *

なお、私の寺島良安の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」でも、この一部が引かれてあるので、参照されたい。

「夏山雜談」(なつやまざうだん)は幕臣で国学者の小野高尚(たかひさ 寛政一一(一八〇〇)年~享保五(一七二〇)年)の随筆。幸いにして、国立国会図書館デジタルコレクションの写本があり、偶然に開いた場所に当該部があった。ここの左丁の四~五行目である。

「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。思うに、熊楠は同巻の冒頭の「卷八」の「忌避」のパートのみを探したものと思われる(実は私も先ほどはそこばかり見ていた)。実はその後の「方術」のパートにあった(所持する岩波文庫版で確認)。国立国会図書館デジタルコレクションの「嬉遊笑覧 下」(成光館出版部昭和七(一九三二)年刊行)のここから次のページかけて編者による頭書き「厠にて郭公を聞く」とする中にあり、当該部は次のページの二~三行目である。

「グリムの獨逸鬼神誌」不詳。発行年と出版地からは「Deutsche Mythologie」(「ドイツ伝説集」)か?

「氏の獨逸童話に、水汲みに出て歸り遲い子供を、其父が烏に成れと詛ふと忽ち皆烏に成つた譚」『「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (8)』で注したが、再掲しておく。「七羽のカラス」である。多言語の対訳が載る「グリム童話」の卓抜なサイト「grimmstories.com」のこちらで読める。]

 爰にいふ鴉は英語でラヴエン吾邦で從來「はしぶとがらす」に宛てゝ居る。實は「わたりがらす」、學名コルヴス、コラクスがラヴヱンに正當する。「わたりがらす」は北亞細亞(吾が千島にも有り)と全歐州、西半球では北氷洋[やぶちゃん注:底本では「北米洋」であるが、同種の分布範囲から選集の「北氷洋」を採った。]よりガテマラ國まで棲み、烏屬中尤も分布廣い物だ。又此篇に烏と書くは英語でクロウ本邦で普通に「はしぼそがらす」に宛てゝ居る。英國でもクロウと呼だは成る程「はしぼそ」だが、今日は正名ルク、學名コルヴス、フルギレグスたるべき者(吾國の「みやまがらす」に近い)をクロウと云ひ居る。本草綱目に烏鴉を四種に分つ。O.F.von Mollendorff, “The Vertebrata of the Province of Chihli with Notes on Chinese Zoological Nomenclature,” in The Journal of the North China Branch of the Royal Asiatic Society, New Series XI, Shanghai, 1877, pp. 88-89 に、その四種を釋して、紅嘴鴉又山烏又鷁(げき)とは英語で chough 是は嘴細長くて鉤(まが)り脚と嘴が紅い。英語で紅脚烏(レツド・レグド・クロウ)ともいふ。學名ピロコラクス、グラクルス、次の燕烏又鬼雀は學名コルヴス、トルクワツス、此二種は日本に無いらしい。次に慈烏又慈鴉又寒鴉又孝烏は英名ブラツク・ジヤクドー、學名コルヴス、ネグレクツスだろと有る。故小川氏の日本鳥類目錄に大阪長崎產と有るが、和名を擧げぬを見ると日本に少ない者歟。次に鴉烏又烏鴉又大嘴鴉は「はしぼそ」とルクと「わたりがらす」を併稱するらしいと云ふ。扨本草には見えぬが、カルガ地方で老鴰(ラヲクワ)と呼ぶのが日本の「はしぶとがらす」と同物らしい。廣韻に、鴉は烏の別名、格物論に烏は鴉の別名にて、種類又繁、有小而多羣、腹下白者、爲鴉鳥、有小嘴而白、比他鳥微小長、而反哺其母者、爲慈烏、大喙及白頸、而不能反哺者、南人謂之鬼雀、又謂之老鴉、鳴則有凶咎。是とモレンドルフの釋と合せ攷ふるに、支那で專ら其鳴くを忌む烏は日本に無い燕烏で、反哺の孝で名高い慈烏は、大阪長崎等に有るも今に日本名も付かぬ程尋常見られぬ者、從つて自分の孝行は口ばかりで、偶々四十九歲迄飮み續けて孝を勵む吾輩を見るも徒らに嘲笑する者世間皆然りだ。其から鴉烏又烏鴉は大嘴とも云はるゝから、訓蒙圖彙や倭漢三才圖會や須川氏譯の具氏博物學等に烏を「はしぼそ」、鴉[やぶちゃん注:底本は「烏」だが、選集で訂した。]を「はしぶと」とし居るが、其實支那の鴉烏又烏鴉は、主として本邦の「はしぼそ」に當る。本邦の「はしぶと」は支那の大嘴鴉乃ち「はしぼそ」より一層嘴が太い。比較上附られた名で、學名を、ボナパルト親王がコルヴス、ヤポネンシスと附けたは日本に專ら固有ながら、又ワグレルがコルヴス、マクロリンクスと附けたは「はしぶと」を其儘直譯したのだろ。斯く本家本元の支那で烏と鴉を通用したり、烏鴉とか寒鴉とか老鴉とか種別も多きに、普通の書史には一々何種の烏と判つて書かず、本邦にも地方により「はしぶと」多く又「はしぼそ」が多い。此二つの外に、烏の一類で日本で「からす」と名の附く鳥が、小川氏の目錄を一瞥しても十一種有る。本草啓蒙に熊野烏は一名那智烏、大さ白頭鳥(ひよどり)の如く全身黑く頂毛立つて白頭鳥の如しと有るから、牛王に印した烏は「はしぼそ」でも「はしぶと」でも無い特種と見える。一八五一年板モニヤー、ウヰリアムスの英梵字典に、クロウの梵名三十ばかり、ラヴヱンのを十三出せるが、是又支那同樣多種に涉つた名で混雜も少なからじと察する。印度の家邊に多き烏(クロウ)は學名コルヴス、スプレンデンス、是は其羽が特に光るからで、經律異相二十一に引いた野狐經に、野狐が烏を讃めて、唯尊在樹上、智慧最第一、明照十方、如積紫磨金と有るも過譽[やぶちゃん注:「ほめすぎ」。]で無い。水牛と仲善い烏の事は、上に述べた。鴉(ラヴヱン)に相當する印度種は、先づ「わたりがらす」の多少變つた者らしい。其から濠州や阿非利加南北亞米利加の烏や烏と通稱さるゝ物は、又それぞれ異つて居る。一口に烏又鴉、クロウ又ラヴヱンと云ふ物の實際斯く込入つて居る所へ、佛經を漢譯する輩はクロウ(梵名カーカ)ラヴヱン(梵名カーカーラ)の區別もせず、烏鴉通用で遣つて除けたらしく、飜譯名義集などに烏鴉の梵名の沙汰一向見えぬ。こんな次第だから、本篇には本邦のはしぼそは素より支那の本文の譯經の烏又英文でクロウ及びルクと有るからすを一切烏と書き本邦のはしぼそと支那の本文や譯經の鴉又英文でラヴヱンと有るからすを凡て鴉と書いて置く。動物學上の議論で無く、要は口碑や風俗に關する語を書くのだから、たゞ烏(クロウ)と鴉(ラヴヱン)が別物とさへ判れば足るんぢや。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。また、複数の「ラヴヱン」は実は出てくるつど、かなり表記が異なっているのだが(「ン」が「」だったり、「ヱ」が「エ」だったりとグチャグチャである)総て「ラヴヱン」で統一にした(因みに選集では総て『ラヴェン』である)。

『爰にいふ鴉は英語でラヴエンわが邦で從來「はしぶとがらす」に宛てゝ居る。實は「わたりがらす」、學名コルヴス、コラクスがラヴヱンに正當する。「わたりがらす」は北亞細亞(吾が千島にも有り)』「raven」(音写すると「レェイヴェン」が近い)は熊楠の言うように、鳥綱スズメ目カラス科カラス属ワタリガラス Corvus corax でを指し、現在の千島を失っている状態では、本邦には分布しない種である。以下の分布域は当該ウィキにある世界の分布地図を参照されたい。

「ガテマラ國」メキシコの南にある中米の現在のグアテマラ共和国(スペイン語:República de Guatemala)のこと。

『此篇に烏と書くは英語でクロウ本邦で普通に「はしぼそがらす」に宛てゝ居る』「crow」はカラスの総称。英和辞書によれば、大型のものは「raven」、中型を「crow」、小型を 「jackdaw」或いは「rook」と一般に呼んでいるとする。さて、日本で「カラス」といえば、通常は「carrion crow」=ハシボソガラスを指すが、実はスズメ目カラス科カラス属ハシボソガラス Corvus corone(嘴細烏。ユーラシア大陸の東部と西部のみに分布)もハシブトガラススズメ目カラス科カラス属ハシブトガラス Corvus macrorhynchos(嘴太烏。本邦で単に「カラス」と言ったユーラシア大陸東部のみに分布)もアジアにしか棲息せず、イギリスやアメリカには棲息していない。博物誌は私の和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)、及び、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 大觜烏(はしぶと) (ハシブトガラス)」を参照されたい。

『英國でもクロウと呼だは成る程「はしぼそ」だが、今日は正名ルク、學名コルヴス、フルギレグスたるべき者(吾國の「みやまがらす」に近い)をクロウと云ひ居る』ある英語辞書では確かにイギリスではイギリスの棲息しないハシボソガラスを「crow」と呼ぶともあったが、現行では、英語「rook」は、熊楠は近縁種みたようなことを言っているが、本邦にも分布する、ずばり、カラス属ミヤマガラス Corvus frugilegus を指す。「和漢三才圖會第四十三 林禽類 山烏(やまがらす) (ミヤマガラス)」も参照されたい。

「本草綱目に烏鴉を四種に分つ」幸い寺島が和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)で引いているので、和訳しておくと、

①「慈烏」(じう)。小型で純黒。嘴が小さく、反哺(はんぽ:伝説で、成体になると、自分にして呉れたように親に給餌するをことを言う)する。

②「鴉烏」(あう)。「慈烏」に似るが、大きく、觜や腹下が白い。反哺をしない。

③「燕烏」(えんう)。「鴉烏」に似て、大きく、項(うなじ)が白い。

④「山烏」(さんう)。「鴉烏」に似て、小さく、嘴が赤い。穴居する。

となる。中国という条件と後の熊楠の解説から、これは、

①「慈烏」=カラス属コクマルガラス Corvus dauuricus(種小名はダウーリア地方(ダウール族の根拠地とされる。バイカル湖の東に相当する)に由来し、朝鮮半島・中国・台湾・日本・モンゴル人民共和国・ロシア東部に分布する。本邦には越冬のため、本州西部、特に九州に飛来する冬鳥で、稀に北海道・本州東部・四国にも飛来することがある。全長三十三センチメートルで、本邦に飛来するカラス属では最小種である。全身は黒い羽毛で覆われ、側頭部に灰色の羽毛が混じる。頸部から腹部の羽毛が白い淡色型と、全身の羽毛が黒い黒色型がいる。嘴は細く短い。)

②「鴉烏」=ハシボソガラス・ハシブトガラス・カラス属ワタリガラス Corvus corax(ユーラシア大陸全域・北米大陸に分布する。本邦では北海道に於いて冬の渡り鳥として、例年。観察される。ハシブトガラスよりも一回り大きく、全長六十センチメートル。)

③「燕烏」=カラス属クビワガラスCorvus torquatus (英名も文字通り「Collared crow」である。中国・台湾に分布(本邦には棲息しない)。英文の当該種のウィキの写真を見られたい)

④「山烏」=カラス科ベニハシガラス属ベニハシガラスPica pyrrhocorax(中国東北部ではやや標高の低い草原に群れで見られる。本邦には棲息しない。全身の羽衣は光沢のある黒色で、嘴が赤く、細長く、しかも下方に湾曲して先が尖る。足も赤色である。)

に比定してよいと私は思う。

「O.F.von Mollendorff」ドイツの動物学者(専門は有肺類(カタツムリ類))オットー・フランツ・フォン・メレンドルフ(Otto Franz von Möllendorff 一八四八年~一九〇三年)。

 「The Vertebrata of the Province of Chihli with Notes on Chinese Zoological Nomenclature」「河北省の脊椎動物と中国の『動物命名規約』に関する注記」。当該資料をネット上に見出すことは出来なかった。

「紅嘴鴉又山烏鷁(げき)とは英語で chough」ベニハシガラス。英語では事実、単に「chough」(チャフ)或いは「Red-billed Chough」(「赤い嘴を持ったチャフ」)と呼ぶ。因みに、学名の「pyrrhocorax 」(ピュロコラックス)もギリシア語で「炎色のカラス」の意である。「學名ピロコラクス、グラクルス」とあるが、これはリンネが最初に同種に命名したシノニムであるCorvus graculus L. を指す(英文学術論文で確認済み)。但し、この熊楠の言う通りのそれ、Pyrrhocorax graculusは、調べたところ、現在、同じベニハシガラス属の別種キバシガラス(黄嘴烏)Pyrrhocorax graculus L.  に与えられてしまっているので、混乱を生ずるので、まずい。

「燕烏又鬼雀は學名コルヴス、トルクワツス」先に示したクビワガラス。

「慈烏又慈鴉又寒鴉又孝烏は英名ブラツク・ジヤクドー、學名コルヴス、ネグレクツス」これが困った。まず、英語の「black jackdaw」では種同定が出来ない。ただ、「jackdaw」は通常はカラス属コクマルガラス Corvus dauuricus を指す。先に注した通り、同種には全身が黒い黒色型がいるので、それを指すと考えればいいのだが、この「コルヴス、ネグレクツス」というのが、見当たらない。コクマルガラスのシノニムであれば、それで終わるのだが、いっかな見当たらない。一つ気になったのは、この「ネグレクツス」という種小名で、これは真っ黒な「jackdaw」で、「negro」由来なではないか? という疑問であった。もし、だとすれば、これには差別的なニュアンスが感じられる。しかし、如何に差別的であっても、命名規約上、それらは資料として必ず残さねばならないから、見つからないのは、そもそもが、おかしいのだ。差別学名だから、抹消してなかったことにするわけには行かないのである。絶対的「言葉狩り」が生物の種同定を混乱させることがあってはならないのである。そうしたことが差別撤廃の普遍的な正当性だなどと主張するなら、バカガイ(「馬鹿」とは違うという語源説など問題にならぬ。「馬鹿」を連想させる以上、それは差別語となる)や「~モドキ」という当該生物の冤罪的偽物扱いの和名群も、これ、ごっそり、総て、変えねば、おかしいだろがッツ!?!

「故小川氏の日本鳥類目錄」鳥類学者小川三紀(みのり 明治九(一八七六)年~明治四一(一九〇八)年:静岡市生まれ。旧制中学四年で処女論文を発表し、一高・東京帝大医科大在学以降、飯島魁(いさお:動物学者。特に鳥類・魚類や海綿・寄生虫に関する研究で知られ、黎明期の本邦の動物学の近代化に大きな役割を果たした)東京帝大教授を助けて、剥製標本や鳥卵標本を集め、日本鳥類学の礎を築いた。奄美・琉球産鳥類の研究で知られるほか、五百二種を記載した主著「日本産鳥類目録」(明治四一(一九〇八)年刊)は鳥類研究者の座右の書となった。精力的で発想の豊かな人物であったが、京都帝大福岡医科大(現在の九大医学部の前身)在職中に数え三十四の若さで病没した。その名はリ(スズメ目スズメ亜目ヒタキ科 Luscinia (ルスキニア)属オガワコマドリ Luscinia svecica の和名に残っている。

「カルガ地方」(Калуга/ラテン文字転写:Kaluga)は現在のロシア連邦西部のカルーガ州。モスクワの南西約百九十キロメートル、オカ川沿いに位置し、モスクワとウクライナのキエフを結ぶ鉄道や高速道路が通る。十四世紀半ばにモスクワ大公国の時代に要塞が築かれたのを始まりとする。旧ソ連時代は軍需産業、ソ連崩壊後は自動車工業が盛ん。ロケット工学の先駆者ツィオルコフスキー所縁の地として知られ、彼の業績を称えた博物館がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「老鴰(ラヲクワ)」(lǎoguā)中国の北方方言で「カラス」のこと。熊楠は『「はしぶとがらす」と同物らしい』とするが、多分、違う。ワタリガラスのことと思われる。にしても、東欧に近いロシアの鳥を示すのに、これはないだろうと思うんだがねぇ?……

「廣韻」(くわうゐん(こういん))は韻書「大宋重修広韻」。北宋の陳彭年や丘雍 (きゅうよう) などによる奉勅撰。一〇〇八年に完成した。「切韻」「唐韻」の音系と反切を継承し、平声(上・下)・上声・去声・入声の全五巻から成り、二万六千百九十四字を収め、平・上・去・入の二百六韻に分けてある。古代の字音を知る上で、極めて重要な資料とされる。

「格物論」不詳だが、調べたところ、熊楠の引用する文字列と合致するものが、清の陳元龍が一七三五年刊行した博物学書「格致鏡原」にあることが判った。「漢籍リポジトリ」の「欽定四庫全書」の「格致鏡原卷七十九」の「鳥類三」の「079-2b」の四行目を見られたい。熊楠はここを「格物總論烏鴉别名種𩔖亦繁……」から、頭をちょっと訳して引いたのであろう(表字の一部が異なるが、意味は変わらない)。あたかも熊楠自身が「格物總論」という原書を読んだかのようにしているのは鼻白む。そこを暴いて、訓読しておく。

   *

「格物總論」に、『「烏(う)」は「鴉(あ)」の別名なり。烏、種類、又、繁(おほ)し。小(しやう)にして、多く羣がり、腹下の白き者、有り、「鴉鳥(あてう)」と爲(な)す。小さき嘴にして白く、他鳥に比し、微(かす)かに小(すこ)し長くして、其の母に反哺する者、有り、「慈烏」と爲す。大きなる喙(くちばし)及び白き頸にして、反哺する能はざる者は、南人、之れを「鬼雀」と謂ひ、又、之れを「老鴉」と謂ふ。鳴けば、則ち、凶咎(きようきう(現代仮名遣:きょうきゅう))あり。』と。

   *

「訓蒙圖彙」(きんもうずい:現代仮名遣)は儒者・本草学者中村惕斎(てきさい:京の呉服屋に生まれた町人であったが、当代の知られた思想家伊藤仁斎と並び称された碩学であった)によって寛文六(一六六六)年に著された図入りの類書(百科事典)。全二十巻。

「須川氏譯の具氏」(ぐし)「博物學」アメリカ人編集者で作家(児童文学を主とした)でもあったサミュエル・グリスウォルド・グッドリッチ(Samuel Griswold Goodrich 一七九三年〜一八六〇年)が一八七三年に出版した「A pictorial Natural History」(「図説博物学」)を、明治八(一八七五)年に、須川賢久の訳、田中芳男の校閲で翻訳され、翌年に刊行、明治十年代の小学生の博物教科書として大いに使用されたそれを指す。本書は博物学の説明を中心に、宇宙や物理に関する記述も含まれている。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで訳本全十巻を視認することが出来る。

私は――六十四にもなった私は――一見して魅了された。小学生時代に、「微生物を追う人々」に魅了された如くに……。明治初期の日本では、今日のような教科書は未だ存在せず、欧米で刊行された書籍を翻訳・翻案して教科書としていた。「具氏博物学」は、こうした明治初期に使われた翻訳教科書の一つである。

「ボナパルト親王がコルヴス、ヤポネンシスと附けた」ハシブトガラス亜種ハシブトガラスに、Corvus macrorhynchos japonensis Bonaparte, 1850 がある。

「ワグレルがコルヴス、マクロリンクスと附けた」Corvus macrorhynchos Wagler, 1827。ハシブトガラスのタイプ種。

『「本草啓蒙」に熊野烏は一名那智烏、大さ白頭鳥(ひよどり)の如く全身黑く頂毛立つて白頭鳥の如しと有る』小野蘭山述「重訂本草綱目啓蒙」の「慈烏」のここの右丁十行目に出る(立項標題は前丁である)。

「一八五一年板モニヤー、ウヰリアムスの英梵字典」イギリスの東洋学者・インドでオックスフォード大学の第二代サンスクリット教授であったモニエル・モニエル=ウィリアムズ(Monier Monier-Williams 一八一九年~一八九九年)のサンスクリット辞典は現在も広く使われている。

「印度の家邊に多き烏(クロウ)は學名コルヴス、スプレンデンス」カラス属イエガラスCorvus splendens 。インド及び中国南東部が本来の分布域。本邦にはいない。

「經律異相二十一に引いた野狐經」「大蔵経テキストデータベース」のこちらの「T2121_.53.0114b28」を参照されたい。当該部である。訓読する。

   *

 唯(ひと)り尊(たつと)くして 樹上に在り

 智慧 最も第一にして 明らかに十方を照らし

 紫磨金(しまごん)を 積むがごとし

   *

「紫磨金」「ごん」は「金」の呉音。紫色を帯びた純粋の黄金。最上質の黄金を指す語。

「飜譯名義集」(ほんやくみやうぎしふ)は南宋で一一四三年に成立した梵漢辞典。七巻或いは二十巻。法雲編。漢訳仏典の重要梵語二千余を六十四目に分類し、各語について、訳語・出典を記したもの。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 駿州沼津の近村香靈山寺に相傳小松内大臣重盛公寶塔の圖幷搨本 海棠庵

 

   ○駿州沼津の近村香靈山寺に相傳

    小松内大臣重盛公寶塔の圖幷搨本

 

Sigemorihaka

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正した。サイズ表示がある。五輪塔の水輪に、

径(わたり)、二尺。

直径六十一センチメートル弱。地輪の高さが、

一尺二寸

三十六センチメートル強。地輪の横幅が、

二尺七寸五分

八十三センチメートル強。]

 

 正面 雲山寺殿證空大居士

 兩脇 □□三戊亥八月朔日

   彌兵衞宗淸建之

右の年號、磨滅して讀がたし。土人は「建久三年に、彌兵衞宗淸が建る所なり。」といひ、支干[やぶちゃん注:底本は「干」が「幹」。吉川弘文館随筆大成版で訂した。以下も同じ。]は「戊亥」といはれる如く、隱然と見ゆれども、戊亥は、古より無き支干なり。重盛公の薨年は治承三年己亥なれば、もしくは治承ならん歟。只、「戊」の如く見ゆる字、不審。「三年己亥」なれば、必、磨滅せるは、「治承」なるべし。重盛公の法號を「靈山寺殿」と稱せし事、いまだ搜索に暇あらず。姑く土俗の口碑のまゝに記しつ。猶、他日、審訂せんのみ。

 文政九年丙戌春三月廿五日    海棠庵

[やぶちゃん注:以下、最後まで底本では全体が一字下げ。]

著作堂言、治承のむかしは、いまだ何居士などと唱る法號あること、なし。曾我兄弟の法號なども、皆、後世、浮屠のつけしものなれば、この小松殿の墓表も、當時のものには、あらじ。甚、疑しき事にこそ。

又云、宗淸は彌平兵衞と諸書にみえたり。こゝに彌兵衞とあるも、いぶかし。

[やぶちゃん注:「建久三年」一一九二年。この七月十二日に源頼朝は征夷大将軍に任ぜられた(今日からの飛脚によって頼朝に伝えられたのは同月二十日)。頼朝の同職任官に反対していた後白河法皇の死去から四ヶ月後のことであった。

「彌兵衞宗淸」平宗清(生没年未詳)。通称は馬琴の指摘する通り、弥平兵衛。平頼盛(長承二(一一三三)年~文治二(一一八六)年:平忠盛の五男。母はかの池禅尼。清盛の異母弟。清盛の男兄弟の中で「壇ノ浦の戦い後」も唯一生き残り、頼朝の厚遇を受けて京に住んだ。死因は病死である)に仕えた家人(けにん)。頼盛が尾張守であったことから、その目代となった。永暦元(一一六〇)年二月、「平治の乱」に敗れ、落ちのびた源頼朝(数え十四歳)を、美濃国内で捕縛し、六波羅に送ったが、この際、頼盛の母である池禅尼を通じて、頼朝の助命を求め、結果、伊豆配流とされた(頼盛の厚遇はそれによる)。仁安元(一一六六)年、正六位上で右衛門少尉となり、同三(一一六九)年に左衛門権少尉となった。また、後白河院の北面武士ともなっており、院領大和国藤井庄(現在の奈良県山辺郡山添村付近)の預りを務めたりもしていた。「治承・寿永の乱」で平家が都落ちした後の元暦元(一一八四)年六月、頼朝は宗清を恩人として頼盛とともに鎌倉へ招いたが、これを「武士の恥である」として断り、平家一門のいる屋島へ向かった。頼朝は頼盛から宗清が病で遅れると聞き、引出物を用意していたが、現れなかったことから、落胆さえしている。その後の行方は不詳である。なお、子の家清は、出家して都落ちには同行せず、元暦元(一一八四)年七月には本拠の伊勢国で「三日平氏の乱」を起こしたが、鎌倉方に討ち取られている。

「重盛公の薨年は治承三年己亥」平清盛の嫡男平重盛(保延四(一一三八)年~治承三(一一七九)年)は享年四十二で病没した(胃潰瘍或いは腫瘍や脚気説などがある)。

「治承ならん歟」治承三(一一七九)年は己亥。同年十一月には「治承三年の政変」所謂、平清盛のクーデターが発生し、後白河法皇が幽閉されている。

 最後に。この五輪塔は平重盛の墓でも供養塔でもない。静岡県沼津市本郷町に現存する霊山寺(りょうぜんじ:グーグル・マップ・データ)に今もある。綾氏の記事「東海・北陸地方の石造物⑭:霊山寺五輪塔(伝・平重盛の墓)・宝篋五輪群」に大きな写真もあり、そこに『沼津市の霊山寺(りょうぜんじ)は地元では「れいざんじ」と呼び習わされ、はっきりした創建年代は不明であるが、鎌倉時代中期にはその前身となる寺院が造られていたと考えられる』。『霊山寺の歴史を物語る鎌倉時代の石塔群が境内墓地には残っており、中でも二メートルを超える巨大な五輪塔が中央に建つ三基の五輪塔は、鎌倉時代後期の作で、凝灰岩製で古様を示し、重量感と安定感のある優作である』。『中央塔(二枚目)は古くから平重盛の墓と伝承されていたが』、昭和三一(一九五六)年の『発掘調査の際に蔵骨器が発見され、そこに元亨三年』(一三二三年:鎌倉幕府滅亡の十年前)『の銘文があったことから、鎌倉時代後期の西大寺系の律宗の僧・成真大徳のものであることが判明し、五輪塔も彼の墓であろうと考えられる』。『左右の小ぶりな五輪塔も、中央塔よりも造立年代は下るだろうが、鎌倉時代後期の作である』。『なお、写真は数年前に撮影したものであり、現在は修復の際に落剥を防ぐために薬品が表面に塗られたために、少し石の色が変わってしまっている』とある。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(TANGOおどれ、)

 

   

 

TANGOおどれ、

廣間の壁は眞鑄張りだ

みつめる酒場の床に*素の粉末を光らす

空いちめんの蜂巢蠟燭が眩惑する

爾の圓筒帽をしてまつぴるまのやうに輝やかしむる夜の世界だ

精靈電氣の淺草だ

見ろ、光る金屬の手は血だらけだ。

 

兄弟、

もつと、もつと、しつかり抱きついてくれ

抱きついてくれ

ああ、この哀しい、哀しい、むらさきの、醉ひどれの路を忘れるな

疾患いるみねえしよんの遠い遠い淺草の路を忘れるな。

 

[やぶちゃん注:「TANGO」は各字右横転横書き。「眞鑄」「おどれ」はママ。「圓筒帽」は若き日の萩原朔太郎が好んで被ったトルコ帽であろう。筑摩版全集の「未發表詩篇」に同じく無題で以下のようにある。歴史的仮名遣の誤りや誤字は総てママ。二行目・三行目の空字は漢字を忘れたための漢字表記を記した意識的欠字。前者は「眞鍮」の「鍮」のであろう。後者は筑摩版全集の校訂本文では「砒素」とする。妥当ではある。

   *

 

 

 

TANGOおどれ、

廣間の壁は眞 張りだ、

みつめる酒場の床に 素の粉末を光らす、

空いちめんの蜂巢臘燭が俺をが眩惑する、

爾の圓筒帽をしてまつぴるまのやうに輝やかしむる夜の世界だ、

淺草だ精宵電氣の淺草だ、

見ろ、光る人間金屬の手は血だらけだ。

 

兄弟、

もつと、もつと、しつかり抱きついて吳れ、いつまでも

抱きついてくれ

ああ、この哀しい、哀しい、むらさきの、醉ひどれの路を忘れるな、

疾患いるみねえしよんの遠い遠い淺草の路を忘れるな。

 

   *

なお、本篇は筑摩版全集の「未發表詩篇」では冒頭から四篇目に置かれてある。同パートは大正三(一九一四)年頃の制作と推定される『月に吠える』時代の草稿から、昭和一七(一九三二)年の萩原朔太郎の没後に発見された未定稿に至る、百五十九篇(他に「散文詩・詩的散文」十三篇がある)で、同定資料が乏しいものの、一応、制作年代を推定して編年で組まれてあるから、詩人としての出発直前の早期のものの一篇と考えてよい。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(堇、きんぽうげ) / 筑摩版全集の「穴をもとむ」の完成原稿を誤認した断片(後半)

 

  

 

堇、きんぽうげ

うどんげの芽ばへのたぐひ

いつせいにほなみをそろへてしんしんたりしが

このときくらき屋内には罪びと住みて

あつき壁のかたへに座しつつ

きはめてかすかなる『良心』の穴をもとめんとして焦心せり。

 

[やぶちゃん注:先行する「穴をもとむ」を参照。読点以外に「いつせい」が筑摩版全集の「未發表詩篇」では「いつさいに」となっているが、これは両編集者の孰れかの誤判読に過ぎない。「さ」と「そ」は、「左」と「楚」及び「散」と「所」の崩し字が、非常によく似ており、誤読しやすい。個人的には本「いつせいに」の方がいいが、「いつさい」は萩原朔太郎が断定強調で好んだ表現でもある。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 手の肖像

 

  手 の 肖 像

 

手の肖像をかけしめよ

壁の四方にかけしめよ

生ぬるき血はめんめんと

黑き窓よりながれたり。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集の「未發表詩篇」に同題で以下のようにある。

   *

 

 手の肖像

 

手の肖像をかけしめよ

壁の四方にかけしめよ

生ぬるき血はめんめんと

家根

額 家の

黑き家根の 家をば窓よりながれたり、

 

   *

 なお、同全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』には本篇の草稿(無題)が載る。以下に示す。歴史的仮名遣の誤りや誤字・脱字・削除は総てママである。

   *

   

 

手には手の肖像

足には足の肖像

しんしんめんめんと雪ふりつもり、

罪びとの姿しらたヘ

喰べたくなりぬ

ああ喰べたくなりぬ

不可思議なる かな

われの かつは手をして磨かしめ

いよいよ光 れば

樹上

そのわが胃袋はいよいよ靑く

手は身もたましひはふるへながらに乞食に透見せり

きらびやかなる

空屋の

懺悔の淚にくるゝとき

恐ろしきものゝ來れるまヘ

なにかしらねど

細くして

 

   *]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 穴をもとむ / 筑摩版全集の「穴をもとむ」の完成原稿を誤認した断片(前半)

 

   穴 を も と む

 

はれわたる空のおくふかく

いたちのごときもの住み居て

祈るがごとき形をせり、

いましまたひくき地上には

 

  *本篇は完成してゐたと思はれるが、これ以下は原稿散逸のため知る術もない。

 

[やぶちゃん注:編者はかく述べているのだが、筑摩版全集の「未發表詩篇」に載る「穴をもとむ」では、以上に続く後半部が続けて存在し、しかも、それは、本底本では、次の次に出る無題詩「(堇、きんぽうげ、)」なのである。ばらばらの草稿を見た際、不幸にして、小学館の編者は、それぞれを独立した断片と見誤ったものらしい。以下に全体を示す。歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

 

 穴をもとむ

 

はれわたる空のおくふかく、

いたちのごときもの住み居て、

祈るがごとき形をせり、

いましまたひくき地上には、

菫、きんぽうげ、

うどんげの芽ばへのたぐひ、

いつさいにほなみをそろへてしんしんたりしが、

このときくらき屋内には罪びと住みて、

あつき壁のかたへに座しつつ、

きはめてかすかなる『良心』の穴をもとめんとして焦心せり。

 

   *

「うどんげの芽ばへ」言わずもがな、植物ではない。有翅昆虫亜綱脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae のクサカゲロウ類(本邦にはクリソトロピア属ヤマトクサカゲロウChrysoperla nipponensis やクサカゲロウ属ヨツボシクサカゲロウChrysopa pallens の他、約四十種が棲息)の卵(卵塊)である。長い卵柄を持ち、一個ずつ産みつけられる場合が多いが、種によっては卵柄をコヨリ状に絡ませた卵塊として葉や家屋の内外などに産みつけられる。先端の楕円状の卵が光に光るさま、それがぎゅっと固まってあるのは、不思議なものである(私は幼少の頃、風呂場の窓の木枠で初めて見たが、その感動は今も鮮明である)。この卵は俗に「うどんげの花」(「うどんげ」の漢字表記は「憂曇華」「優曇華」)の花と呼ばれる。これは「法華経」に出る、三千年に一度の如来の来迎とともに咲くとされる伝説上の花に由来するものである。なお、後の『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺珠 (「動物園にて」の後に配された「詩篇編註」及び「斷片追註」)』の「斷片追註」を参照のこと。]

2021/12/06

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 筑後柳川風流祭再考圖說 海棠庵

   ○筑後柳川風流祭再考圖說

筑後

  流祭所用獅子頭

梁川

風流祭の紀事は、予、嚮に「兎園小說」中に出せしに、今春、又、この獅子頭を得たれば、ふたゝび諸賢の淸鑒に具ふ。幷「西國諸家盛衰記」に載する所の事、この祭の起原にやとおもふによりて、抄寫して、かの闕を補ふもの、左の如し。

「西國諸家盛衰記」第九

      宗麟風流躍見物事

 

Huryuumaturisisigasira

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正して示した。指示線が含まれているので、キャプションも総て採った。キャプションは、上部に、

獅子の頭も、すべて、紅・白・靑・黃の紙を、細かに切りて、作りしもの也。但、眼は銀紙をもて、つくれり。

とあり、判読が厳しいが、両の耳の表面には、それぞれ、

銀紙

と書かれてあり、中央の折り紙(これが獅子の上下の顎)の間から覗いている、円形の前部に、

舌。紅紙。

と右から左に書かれてある。また、右下方に指示線が真横に伸びて(底本は非常に薄い。吉川弘文館随筆大成版を参考に細く直線を加えた)、

すべて、靑・黃・赤・白の紙を、網のごとくに切りしもの也。

とあって、中央より右手下方にも、斜めの指示線を添えて、

このひもハ、紅・靑、結交ニ。

とある。「結交ニ」は「ゆひかへに」或いは「むすびまじへに」で、二色の紐を綯ってあることを言っているのであろう。因みに、この獅子頭、今なら、「チョー! 可愛いイイ!」とか、勘違いされて、大受けしそうなキャラ的感じさえするわい。]

 

同七月【天正二年[やぶちゃん注:一五七五年。]。】大友入道宗麟、六人の老臣に、「風流の躍見物すべし。」と宣ひければ、六人の輩、思ひ思ひに、風流を盡し、其用意をなしけるが、同き二十七日、丹生島[やぶちゃん注:「にうじま」。現在の大分県臼杵市臼杵丹生島(グーグル・マップ・データ)。現在は干拓によって完全に陸地となっているが、元は臼杵川河口右岸にあった阿蘇山の溶岩流によって形成された陸繋島で、最高地点は十七メートル。永禄年間(一五五八年~一五七〇年)に宗麟が築城した。]の城中にて、見物ある。一番は佐伯紀伊介維敎。風流は「小原木」[やぶちゃん注:「おはらぎ」か。京近郊の大原で産出し、大原女が京都に売りに来た、黒く蒸した薪(たきぎ)が原義。]と號し、躍子共、一樣に、女の出立にて、肌には朽葉の練を着し、上の小袖を脫かけ、白きくゝり帽子の端を、長く下げ、金欄の前垂をし、「小原木」を金にして、櫻の作り花の枝に、眞紅の繩にて結付け、是を持。其謠、一曲を聞けば、

 〽小原木々々々、召せや、召せ、召せ、小原靜原芹生の里、朧の淸水の陰は、八瀨の里しらず、櫻の匂ふや、此里の春風、

 〽松がさき散る花までも、雪は殘りて春寒し、小原木召れよ、小原木召れ候へ、

と、聲、面白く、謠、躍る。中躍[やぶちゃん注:「なかをどり」。]も、金の「小原木」を戴き、又は、荷ひ、躍、舞ふ。傘鉾の内にては、笛・鼓・鐘・太鼓にて、是を囃

す。二番は田原近江入道紹忍、躍は「芭蕉躍」と號し、躍子共、箔の小袖を着、金熨斗付の大脇指を指、萠黃の片色の緖にて、芭蕉を作り、切り破りて、持躍る。中躍は、芭蕉の葉を、萠黃の段子[やぶちゃん注:「どんす」。]を以、まきて、是を作り持てり。三番は田北相摸守鎭周[やぶちゃん注:「しげかね」。]、風流は「碇かつぎ」と名づけ、一番に船を作り、金欄にてつゝみ、車に乘せて引出る。次に躍子共、箔の小袖に、紅の糸の腰簑し、碇を金欄にてつゝみて、是を持つ。中躍も碇を持、其小謠にm

 〽綠樹陰、しづかにて、しづかにて、魚、木に登る風情あり、月、海上に浮んでは、兎も波を走るなり、面白の春ベや、荒、面白の浦の氣色や、

と、聲を揃て、躍、謠ふ。四番は朽網三河守鑑康、躍は「斑女」[やぶちゃん注:「はんじよ」。]と號して、躍子共、女の出立にて、箔の小袖を着、上を脫かけて、くゝり帽子を戴き、竹の純金を以、つゝみ、傘扇を付る。中躍も是に同じ。五番は吉岡鑑直[やぶちゃん注:「あきなほ」。]、躍は「葛城」と名づけ、躍子共、箔の小袖を着、扇笠の上に雪を作り、戴き、躍る。中躍も、大なる作り雪を持出て、雪を打破り、金銀の箔を散して、舞ひ、謠ふ。六番は志賀伊豫入道道輝、風流は「井筒」と號して、井筒を作り、柱を立、桔樟(はねつるべ)をしかけ、桶をば、金欄にて、つゝみ、眞紅の繩にて、是を下げ、一方の重りの沈[やぶちゃん注:沈香木か。]の榾を付け、側に火鉢を置、沈を刻て[やぶちゃん注:「きざみて」。]、是を燒、躍子は、くゝり帽子を着、桶を金欄にてつゝみ、金の棹にて是を持。中躍も斯のごとし。上下、心も空にうかれ、感聲、暫も、止み間、なし。宗麟、悅喜、甚しく、「其返し。」として「吉野靜」の能、一番あり。太夫は金春太夫なり。警固の士、五、六十人、甲冑を帶し、長の鞘を、金欄の折形にて、是をつゝみ、能の間、警固せり。御曹司新太郞義統[やぶちゃん注:「よしむね」。]より、返しは、「三輪」の躍りなり。眞中に三間ばかりの金幣[やぶちゃん注:「こがねのぬさ」と訓じておく。]を立、躍子共も金幣を持、躍て、其日の遊興は終りけり。

 これによれば、今の風流躍も、この遣風の、田間にのこれるなるべし。

[やぶちゃん注:庵点は鍵括弧を私の趣味で代えたもの。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 池笠問答 馬琴

 

   ○池笠問答

一、「七十一番職人盡」の内、繪詞、

「たかうれ」     此詞、いかゞ。

「さしちがへのさい」 いかゞ。

「ぼろ」       何業いたし候や。

「ちくの」      いかゞ。

「てうさい」    「調菜」歟。

「地しや」      何業いたし候や。

「あすしきかき哉」  「アヽスシ」歟。いかゞ。

「もうしやく」    いかゞ。

右付紙の處、御覽、承度奉ㇾ存候。頓首。

 三月廿八日【文政九。】     輪  池

    笠 翁 樣

[やぶちゃん注:附箋を附した疑問の語句が上段で、下段が疑問文。]

   答

一、貴問、「職人合」の内、

「浦人、この繩、はや、きるゝは、たかうれ、」

「たかうれ」の詞は、「たく」といふにおなじく、「この繩は、きるゝ故、はやく、手ぐれ。」といふ事なるべし。「カ」・「ク」、音通にて、「カ」を音便にて「かう」といへるなり。

「さいずり、さしちがへのさいも云々、」

「さしちがへ」の節、未得考候。

 「暮露、」

「ぼろぼろ」の討果せし事、「つれづれ草」に見えたり。「暮露」、正[やぶちゃん注:「せい」。正漢字(漢字表記)の意。]には「梵字」「漢字」といふよし、『後世の菰僧やうのもの』と、古人、註し候。愚、按に、「募露」は、をさをさ、梵聲を唱るものなるべし。梵聲は尺八をふかねば、よくしがたし、とぞ。智證大師は尺八をふかせられしよし、物に見えたれば、梵聲、すたれて、尺八ばかり吹くにや。よりて、「菰僧[やぶちゃん注:「こもそう」。虚無僧(こうむそう)。]やうのもの」といふなるべし。

 「矢細工、これは、ちくのとて、あつらへられて候、」

「ちく」は「竹」なるべし。この右の箙[やぶちゃん注:「えびら」。]細工の詞に、「さかつらが[やぶちゃん注:底本は清音「か」。吉川弘文館随筆大成版で訂した。]なくて、柳ゑびらにする」といふに、むかへて、「ちくのとて」云々といふなるべし。矢は、元來、やなぎもて作れば、楊柳をヤノキといふ。「矢木」なり。さるを、竹もて作るは、後の事なり。○「箙」は、「かつら」もて作るものなるに、「柳ゑびら」は後の事なり。されば、彼此、その物を、とりちがへたるが、左右の滑稽なるべし。

 「てうさい、さたうまんぢう、さいまんぢう、いづれも、よく、むして候、」

「てうさい」は御考の如く、「調菜」なるべく候。「さいまんぢう」は「菜饅頭」にて、菓子には「砂糖まんぢう」、又、あつものなどに用るを、「さいまんぢう」と、いひしなるべし。これ、今の「はんぺん」・「つみ入れ」やうのものにて、料理饅頭なり。料理饅頭の事、宋の石林が「避暑錄話」にも見えたれば、和漢同物たるべし【本書に別に「まんぢううり」を出したれば、その義、あきらかなり。】

 「地しや、」

「をんな山伏」を「地しや」といふにや。今も、なにはわたりには、女の輪袈裟をかけて、錫杖を、ふり鳴らし、「さんげ、さんげ、」とて、市人の門に、たつ、あり。「地しや」のなごりなるべし。「地しや」の「地」は「山」に對する意にて、峯入せぬものなればにや。この六十一番左、『先だちの さんげさむけは 我やせん』とあるにて、「女山伏」と聞え候歟。「先だち」は「先達」也。「さんけさむけ」は「懺悔々々」なればなり。

 「酢造、あ、すし、きかき哉、」

「あすし」は御考の如く、アは嘆美の詞にて、「書紀」に「大」を、アと、よませしに、おなじかるべし。「きかき」は「空搔」なり。

 「心ふとうり、いふとめせ、ちうしやくも、入て候、」

「ちうしやく」は「酎酢」なり。醬油は、もちろん、酢をさして、くらふ事も相同じ【「酢」、又、「醋」。「さく」、又、「しやく」とも。】。

右、愚衷、卒爾ながら備御笑候。尙、又、御考御えらみ被ㇾ成候樣奉ㇾ存候。頓首。

 三月廿九日           笠 翁

    輪池先醒

[やぶちゃん注:これは、立項されている当代に頒布されている「職人尽(づく)し」「職人合わせ」に出てくる、当時の市中や職能集団内で新たに生じた聴き馴れない新語や符牒或いは口語表現・滑稽の言い回しについて、「笠」翁(りつをう(りつおう))瀧澤解(とく)著作堂馬琴に、輪「池」屋代弘賢が質問し、それに答えたもので、それで標題が「池翁問答」となっている。終りの方の一部の語句で、意味のよく判らない箇所があるが、興味もないので、特に挙げなかった。悪しからず。

『「ぼろぼろ」の討果せし事、「つれづれ草」に見えたり』百十五段。「ぼろぼろ」或いは「ぼろ」は後の虚無僧の古称。「梵論」「暮露」「梵字」とも書き、「ぼんじ」「ぼろんじ」とも呼んだ。半僧半俗の物乞いの一種で、鎌倉末期に発生した。当初の実態は無宿渡世の賤民であった。

   *

 宿河原(しゆくがはら)[やぶちゃん注:摂津国三島郡。現在の大阪府茨木市宿川原町(ちょう)附近(グーグル・マップ・データ)。]といふ所にて、「ぼろぼろ」、多く集まりて、九品(くほん)の念佛を申しけるに、外より入り來たるぼろぼろの、

「もし。この御中(おんなか)に、『いろをし房(ばう)』と申すぼろや、おはします。」

と、尋ねければ、その中(なか)より、

「いろをし、こゝに候ふ。かくのたまふは、誰(た)ぞ。」

と、答ふれば、

「『しら梵字(ぼんじ)』と申す者なり。己(おの)れが師、なにがしと申しし人、東國にて、『いろをし』と申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり。」

と、言ふ。

 いろをし、

「ゆゝしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。こゝにて對面し奉らば、道場を汚し侍るべし、前の河原へ參りあはん。あなかしこ、わきざしたち、[やぶちゃん注:「傍輩衆よ!」。]いづ方をも、みつぎ[やぶちゃん注:助勢。]給ふな。あまたのわづらひにならば、佛事の妨げに侍るべし。」

と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫(つらぬ)き合ひて、ともに死ににけり。

 「ぼろぼろ」といふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、「ぼろんじ」「梵字」「漢字」など言ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て、我執(がしふ)、深く、佛道を願ふに似て、鬪諍(とうじやう)を、事とす。放逸無慙(はういつむざん)[やぶちゃん注:勝手気儘にやり放題し、罪を作って、何ら恥じない人非人。]の有樣なれども、死を輕くして、少しもなづまざるかたの[やぶちゃん注:少しも生に執着しない様子に。]、いさぎよく覺えて、人の語りしまゝに書き附け侍るなり。

   *

「さかつら」「さかつらえびら」「逆頰箙」の略。箙の一種。腰に対する当たりを和らげる目的に加え、装飾を兼ねて、矢の根を差す箱(方立(ほうだて))を猪の毛皮で包んだもの。一枚の皮で包むため、毛並みが背面は下に、他の三面は逆に上に向くところからかく呼んだ。主将以下が軍陣に用い、公卿の随身も用いた。

「石林」北宋末から南宋初の政治家で文学者の葉夢得(しょうぼうとく 一〇七七年~一一四八年)。石林は号。一一〇八年、翰林学士となったが、権力者蔡京と対立し、左遷された。「靖康の変」の後、戸部尚書となり,金に対抗する策を上疏し、その後も、しばしば建策を重ねたが、人と合わず、崇信軍節度使で辞職した。詩文ともに高雅で、宋の南渡後、陳与義に次いで文名が高かった文人であった。主著は本書の他に「石林詩話」・「石林燕語」・「石林居士建康集」などがある。

「酎」はここでは濃い酒。酢の準備段階でのアルコール発酵を含んだ意味か。

「愚衷」(ぐちゆう(ぐちゅう))自分の本心を遜って言う語。

「先醒」(せんせい)自分より先に人としての道を知っている人。先覚。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(ひとりぼんやり) / 筑摩版全集の「未發表詩篇」にある(無題)(頭痛の原因をしらべるために)の別稿断片と推定

 

  

 

ひとりぼんやり

病人はつくづくと考へこんだ

ああわたしの疾患の柱のありかを

あの靑空のおくふかくに

海の上をゆく船のやうに

とほくとほくゆく手に見ることができる

またこし方をかへりみるときはうらがへる草葉のうれを

 

[やぶちゃん注:「うれ」は「末(うれ)」で、草の葉や茎及び木の枝の先端。梢。うら。これは筑摩版全集の「未發表詩篇」にある、無題の以下の一部とほぼ一致する。表記の誤りは総てママ。「𣐙」は恐らくは「核」の誤字。□は底本の判読不能字。

   *

 

 

 

僕の頭痛の原因をしらべるために

わたしはあるとき草むらの中をあるいてゐた

さむしい十月の野原のなか に病人の姿が浮んでみえたきらきらする夏の野原をだんだんととぼとぼとたどりながら

そうと→はれ→ひつそり→ひとりぼんやり 春空をあほいで

病人はつくづくと考へて、 思ひ、ためいきをついた考へこんだ

ああわたしの 頭痛疾患のありかをば→𣐙 いまはしい𣐙𣐙のありかを

わたしはあきらかに天から□

あの靑空のおくふかにふかくよりしたゝりお

海の上をゆく船のやうに

とほくにとほくゆく手に見ることができる

またふりかへるまたこし方をかへりみるときさヘ→るときは

うらがへる草葉のうれを

わたしのなやましい足音の

はてしもなくつゞいて居る のをみる 小路の末を

わたしは草の實をつんでかみしめながら

風しん花のやうにとびあるいた→くものをてゐる

 

   *

編者注があり、『最終行の「風しん花」は原文のまま』とあるが、「風信花」で、ヒヤシンスの異名である。整序してみる(「𣐙」は「核」に代え、最後の「あるてゐる」は「あるいてゐる」の脱字と断じて、孰れも特異的に挿入した。底本の校訂本文もそうなっている)。

   *

 

 

 

頭痛の原因をしらべるために

あるとき草むらの中をあるいてゐた

さむしいきらきらする夏の野原をとぼとぼとたどりながら

病人はつくづくと考へこんだ

ああわたしの疾患の核のありかを

あの靑空のおくふかくに

海の上をゆく船のやうに

とほくにとほくゆく手に見ることができる

またこし方をかへりみる

うらがへる草葉のうれを

風しん花のやうにとびあるいてゐる

 

   *

御覧の通り、草稿の削除前の部分を生かすと、ほぼ一致することが判るので、筑摩版の別草稿断片であろう。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「一」の(4) /「一」~了

 

[やぶちゃん注:以下の一段落は追加注記っぽい内容であるためか、底本では段落全体が一字下げとなっている。]

 

 畠山箕山の色道大鏡六に、「起請文を書く料紙は、先づ熊野牛王をもつて本とす、中村屋の鳳子小藤は、白紙なしに二月堂の牛王七枚張りにして細字にこれを書く、上林家の二世薰(かほる)[やぶちゃん注:読みはママ。]儉子も白紙なしに三山の牛王九枚綴にして書けり云々。明曆の頃中京の何某傾城に起請書かする爲に怖ろしき鬼形の牛王を新たに彫せて之を用ゆ、尤も作意働きて面白し故ありと覺ゆ」と有り。是等牛王は、もと起請を背かば牛形の鬼に罰せらるべしと云ふ意から起こつた證たるべきにや。

[やぶちゃん注:「畠山箕山の色道大鏡」畠山箕山(きざん 寛永三(一六二六)年~宝永元(一七〇四)年)は俳人・鑑定家。本姓は藤本。箕山は号。京の裕福な紅屋に生まれ、松永貞徳に俳諧を学び、古筆目利きを嗜んだ。二十歳の頃。京坂の廓をはじめとして、諸国の遊里の見聞を一書にすることを志し、承応三(一六五四)年頃に本宅を処分したのを機に、「深秘決談抄」の編集に着手し、「色道の大祖」を以って任じた。これが延宝六(一六七八)年に成稿をみた「色道大鏡」で、自己の見聞をもとに、疑わしい事柄は、古老や、その道の達人に質して執筆された、他に類を見ない遊里百科事典として知られる。他に「顕伝明名録」などの著がある(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。以上の起請文の話は、国立国会図書館デジタルコレクションの同書の写本の同巻の「第二 起詞文 付 血書」ここの四行目から載るが、熊楠は途中を各所で省略している。

「明曆」一六五五年~一六五八年。]

 烏を神鳥とする事本邦に限らず、希臘に神アポロ烏に化(な)る話有り。女神ジユノは烏を使者とし次に孔雀に改めた。印度にはラマヤナムに、神軍鬼軍と戰ふて敗走する時烏來つて閻魔(ヤマ)を助く。其報酬に葬饌を烏の得分とし、烏之を享る時死人の靈樂土[やぶちゃん注:原文は「藥土」。選集で訂した。]に往き得と定む。希臘の古諺に、死ぬ事を烏の許に往くと言つた。今日も波斯[やぶちゃん注:「ペルシヤ」。]や孟買(ボンベー[やぶちゃん注:インドのボンベイのこと。])のパーシー人や西藏[やぶちゃん注:チベット。]人は、死屍を支解し又全體のまま禿鵰(ヴアルチユール)に食はす(衞藏圖識卷下、又 Sven Hedin, “Trans-Himalaya,”1909, pp. 371-372;Encyc. Brit. 11th ed., vol. xx. p. 867)。必ず烏腹に葬るを期せずとも、熱地で死屍や半死の人畜が鳥獸に食はれ終るに任す事多きは、予も親ら賭た[やぶちゃん注:「みづから、みた」。]。殊に惡疫流行して埋葬に人手乏しき時然り。雍州府志に、京都紫野古阿彌谷に林葬行はれ、死人を石上に置去り、狐狸の食ふに任せし由を載せ、元亨釋書に某皇后遺命して五體を野に棄しめ給ひしと見え、發心集には、死せしと思ひて野に棄てたる病女の兩眼を烏が食ふた譚有り。是等よりもずつと古く、埋葬の法簡略に過ぎた地方には、烏等に人屍を食るゝ事珍しからず。烏亦人の將に死なんとするを能く知つて其邊を飛廻り、或は鳴いて群を集むるより、之を死を予告する鳥又死を司る神使など言ふに及んだのであらう。十五年前予熊野の勝浦に在りし時、平見(ひらみ)と云ふ所の一松に烏來り鳴くと、必ず近き内に死人有りて少しも錯(あやま)り無しと。斯る事に一向無頓着な老人の經驗譚を聞いた。されば、本邦で烏を使ひ物とするは必しも熊野の神達に限らず、信州諏訪の宮(諏訪大明神繪詞上)、江州日吉山王(山王利生記一)、隱岐の燒火山(隱州視聽合記二)、越後の伊夜彥明神(東洋口碑大全一〇一〇頁)、肥前の安滿嶽(甲子夜話二三及八七)、其他例多かるべきが、熊野は伊奘册尊御陵の有る地で古くより死に緣有り、中世本宮を現世の淨土としたる樣子は源平盛衰記等に見え、今も妙法山を近郡の死人の靈が枕飯(まくらめし)出來る間に必ず一たび詣るべき所とするなど、佛法渡來前より死靈に大關係有る地としたなるべく、固より其地烏鵜[やぶちゃん注:選集は『烏鴉』とするが、採らない。鵜は黒く、古えは同類と考えた可能性を否定出来ないからである。]多かつたので、前述閻魔と烏との關係、また佛說に冥界後生の事を記するに必ず烏の事有る(例せば正法念處經七に、邊地夷人其國法の儘に姉妹と婬する者、死して合地獄に生じ、烏丘山(うきうせん)の鐵烏に苦められ、沙門にして梵行しながら涅槃行を笑ふ者、命終つて大紅蓮獄に墮ち、烏に眼と舌根を拔き耳を割き身を分散さる。大勇菩薩分別業報略經に强顏少羞恥、無節多言說、隨業獲果報、後受烏鳥身)等より、佛典渡來後熊野の烏は一層死と死後の裁判に關係厚く信ぜらるゝに及んだゞらう。支那にも、洞庭有神鴉、客帆過、必飛噪求食、人以肉擲空中哺之、不敢捕也(五雜俎九)と有る。

[やぶちゃん注:「女神ジユノ」ローマ神話最大の女神で、女性の結婚生活を守護し、主に結婚・出産を司るとされたユーノー(ラテン語:Juno)の英語読み。主神ユーピテルの妻。女性の守護神であることから、月とも関係する。神権を象徴する美しい冠を被った荘厳な姿で描かれる。ギリシア神話のヘーラーと同一視される。

「ラマヤナム」古代インドの大長編叙事詩「ラーマーヤナ」。ヒンドゥー教の聖典の一つであり、「マハーバーラタ」と並ぶインド二大叙事詩の一つである。サンスクリットで書かれ、全七巻、総行数は聖書にも並ぶ四万八千行にも及ぶ。成立は紀元後三世紀頃で、詩人ヴァールミーキがヒンドゥー教の神話と古代の英雄であるコーサラ国のラーマ王子の伝説を編纂したものとされる。ここで言及される鴉については、既に「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(10:烏)」で注しておいたので、そちらを参照されたい。

「支解」「肢解」とも書く。人体の両手・両足を切り離すこと。実際の刑罰としてもこの語があるが、ここは、速やかに鳥獣に食されてあの世に行けるようにするための処理である。

「衞藏圖識」清の馬掲(少雲)と盛縄祖(梅渓)が著わしたもので、乾隆五七(一七九二)年の序がある。上巻には成都からチベットに至る道程が、下巻にはチベット地誌が、地図や住民を描いた図とともに記されてある。熊楠は「下卷」とするが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここの、同書の「識略上卷」のここPDF)の「26」コマ目の「喪葬」の中に、「塲縛於柱剖其肉喂犬為地葬其骨以石臼搗成粉和麪搓團亦喂犬或飼諸鷹謂之天葬居以為大幸」の文字列が見出せる。「喂」は「家畜に餌を与える」の意である。ここが熊楠の指す内容と思われる。

「禿鵰(ヴアルチユール)」vulture。ここは旧大陸のタカ目タカ科ハゲワシ亜科 Aegypiinae のハゲワシ類を指す。

「Sven Hedin, “Trans-Himalaya,”1909, pp. 371-372」中央アジア探検で知られたスウェーデンの地理学者スヴェン・アンデシュ・ヘディン(Sven Anders Hedin 一八六五年~一九五二年)の一九〇九年刊の「トランス・ヒマラヤ――チベットでの発見と冒険」(Trans-Himalaya :Discoveries and Adventures in Tibet)。書名は、彼が、発見したヒマラヤ山脈の北にあってこれと平行し、カラコルム山脈に連なる山脈の名。「Internet archive」で二〇一〇年版他を見たところ、当該ページが‘DISPOSAL OF THE DEAD’(「遺体の廃棄」)の章で文字通りの内容が記されてある

「Encyc. Brit. 11th ed., vol. xx. p. 867」Internet archive」で当該部を見ると、前の866から始まる「Parsee(パルシー教徒:イスラム教徒の迫害を避けてインドに逃げたゾロアスター教の人々を指す)の項の記載の中に、鳥葬の場として知られる“ tower of silence ”(「沈黙の塔」)で粉砕された遺体を「vultures」(ヴァルチュール:ハゲワシ。この場合は鳥綱タカ目タカ科シロエリハゲワシ属インドハゲワシ Gyps indicus )が喰らうシーンが記されてある。私は小学校四年生の時に図書室にあった「世界の謎」(という書名だったように記憶する)の中で、この「沈黙の塔」のモノクローム写真を見た時の驚愕を今も鮮明に思い出す。誰もいない冬の昼休みの陽射しの中だった……。

「雍州府志」(ようしゅうふし:現代仮名遣)は医師で歴史家でもあった黒川道祐(どうゆう 元和九(一六二三)年~元禄四(一六九一)年)によって天和二(一六八二)年から貞享三(一六八六)年にかけて書かれた、山城国(現在の京都府南部)に関する本邦初の総合的体系的地誌。全十巻。以下の「京都紫野古阿彌谷」のそれは、「卷九」の「補遺」の「古蹟門 愛宕郡」の冒頭も「古阿彌ガ谷」として出る。「国文学研究資料館」の「電子史料館」のこちらで原本画像が見られる。訓点附きで読み易い。ここは、京の三大風葬地として化野(あだしの)・鳥部野・蓮台野が知られ、上記ンリンク先でも現在の北区紫野東蓮台野町や、その南東直近に大徳寺が記されてあるから、大内裏北方外に当たるこの附近である(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「元亨釋書」(げんこうしゃくしょ)は漢文体で記された日本初の本格仏教通史で、臨済僧虎関師錬(弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年)が鎌倉末期の元亨二(一三二二)年に完成させ、朝廷に上呈された。全三十巻。「某皇后遺命して五體を野に棄しめ給ひし」は、「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(10:烏)」でもそうだったが、今回、また、かなり頑張って探したが、どこにあるのか不詳。

「發心集には、死せしと思ひて野に棄てたる病女の兩眼を烏が食ふた譚有り」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(10:烏)」の私の注で電子化してある。

「平見(ひらみ)」和歌山県東牟婁郡太地町太地のこの附近であろう。この半島の根っこから陸側が現在の東牟婁郡那智勝浦町である。

「隱岐の燒火山」「たくひやま」。西ノ島のここにある。

「隱州視聽合記」(いん(或いは「おん」)しゅうしちょうがっき:現代仮名遣)は寛文七(一六六七)年に記された隠岐国地誌。全四巻・地図一葉。かなり読み難い写本であるが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」にあるそれPDF)の「67」コマ目最終行から次にかけての「知夫郡燒火山緣起」の中に、山中に二羽のみ栖んでいる鴉が神使であることが載っている。個人ブログ「ハッシー27のブログ」の「焼火神社」の記事中に、『この焼火神社のお使は二羽の烏だとされていて、二十四日と二十八日(この方は山神のお祭)には、山神の木にいるという二羽の烏のためにお供えを鍋の蓋の上に載せて供えておくと、いつの間にか烏が食べてしまうといわれている。この烏がいつも二羽で、こどもが生まれると』、『もとの親はどこかへ行ってしまうと伝えていることも、紀州や薩摩の伝承と全く一致しているところである。この烏のことは漢文で書かれた縁起書にも出ている』とある。

「越後の伊夜彥明神」「いやひこみやうじん」。現在の正式名称は彌彦(いやひこ)神社。新潟県西蒲原郡弥彦(やひこ)村弥彦(地名は差別化して読み方が違う)にある。主祭神は天香山命 (あめのかごやまのみこと)であるが、地名から「伊夜日古大神」とも呼ぶ。

「東洋口碑大全一〇一〇頁」「大全」は「たいぜん」と読む。巌谷小波編で大正二(一九一三)年博文館刊。国立国会図書館デジタルコレクションで全篇が読める。当該箇所はここ(標題は前ページで「八一二 烏の使者」)。但し、大上段に振りかぶって興味をそそらせる題名の割には、各篇の内容がちょっと軽量に過ぎ、恐らく私だったら、買って損したと感ずるタイプの全書である。

「肥前の安滿嶽(甲子夜話二三及八七)」本注のために、急遽、二篇カップリングでブログで電子化しておいたので、参照されたい。

「妙法山」那智勝浦町にある妙法山。那智山の一角を占める。山腹に妙法山阿弥陀寺があ「枕飯(まくらめし)」死者の枕元に供える盛り切りの飯。人の死後直ちに、お椀の蓋すり切りの米を、研がずに、古式では日常の竃とは別に臨時の竃を設け、鍋・釜に蓋をせずに炊き、炊いただけを茶碗に盛るなどの作法がある。茶碗は死者が生前に常用したものを使い、箸を一本か二本、飯の上に突き立てたり、一本を立て、一本を横に挿す例もある。飯の一部を小さな握り飯にして上にのせ、「散飯(さば)」と呼ぶ地方もある。日常の食事で、一膳飯や箸を立てることを忌むのは、この枕飯を連想するためである。枕飯は祭壇に移し、葬列ではお膳に乗せて相続人の妻が持つ。墓前に供えるのが一般で、埋葬した上に霊屋(たまや)を設ける場合は、その中に入れる。枕団子を伴うことが多い。

「正法念處經七に、邊地夷人其國法の儘に姉妹と婬する者、死して合地獄に生じ、烏丘山(うきうせん)の鐵烏に苦められ、沙門にして梵行しながら涅槃行を笑ふ者、命終つて大紅蓮獄に墮ち、烏に眼と舌根を拔き耳を割き身を分散さる」これは原文から抜粋して、コンパクトに纏めたもの。「大蔵経テキストデータベース」の「正法念處經」のガイド・ナンバー「T0721_.17.0035b27」以下のかなり長いパートに相当する。

「强顏少羞恥、無節多言說、隨業獲果報、後受烏鳥身」訓読する。「强顏(きやうがん)にして、羞恥、少なく、無節にして、言說、多ければ、業(がふ)に隨ひて果報を得て、後に烏鳥(うてう)の身を受く。」。

「洞庭有神鴉、客帆過、必飛噪求食、人以肉擲空中哺之、不敢捕也」同前。「洞庭に神鴉(しんあ)あり。客帆、過(す)ぐれば、必ず、飛び噪(さは)ぎて、食を求む。人、肉を以つて擲(なげう)てば、空中に之れを哺(くら)ふ。敢へて捕えざるなり。」

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。]

 且つ夫れ梵土に在ては烏と牛との間に深緣有り。バルフヲールの印度事彙(上出、卷一、頁八四四)に、印度の大黑烏(學名コルヴス、クルミナツス)は水牛有る處に必ず有つて其背に駐(と)まり、小ミナ烏と協力して牛蝨を除くと見ゆ。アリストテレスの動物志九卷六章に、埃及ニル河に小蛭多くて鱷[やぶちゃん注:「わに」。「鰐」に同じ。]の喉に入り之を苦しむ。トロキルスてふ小鳥、鱷口に入つて其蛭を食ふ。鱷之を德とし每に[やぶちゃん注:「つねに」。]口を滿開して烏の入るに便にすと有るは、今日も目擊し得る事實で、印度の烏と牛との關係に似て居る。古波斯のミツラ敎は日神ミツラを祀り牛と鴉を聖禽とした。烏と牛は本邦では雙[やぶちゃん注:「ふたつ」。]ながら主として著しく黑く人里離れぬ動物たる所へ、印度にも斯く二者親密の關係有るを傳承して、烏形を點じて牛王寶印を作成したのであらう。而して、烏を援(ひ)いて誓言する事は古雅典[やぶちゃん注:「古アテネ」。]にも有つた由、グベルナチスがアリストフアネスの詩を引いて言はれた(Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ vol. ii. p. 252)。

[やぶちゃん注:「バルフヲールの印度事彙(上出、卷一、頁八四四)」スコットランドの外科医で東洋学者エドワード・グリーン・バルフォア(Edward Green Balfour 一八一三年~一八八九年:インドに於ける先駆的な環境保護論者で、マドラスとバンガロールに博物館を設立し、マドラスには動物園も創設し、インドの森林保護及び公衆衛生に寄与した)が書いたインドに関するCyclopaedia(百科全書)の幾つかの版は一八五七年以降に出版されている。Internet archive」のThe Cyclopaedia of India (一八八五年刊第一巻)の原本のこちらの左ページ左欄に当該内容が出る。

「印度の大黑烏(學名コルヴス、クルミナツス)」上記原本では、「Corvues culminates」(当時は学名を斜体にする習慣はなかった)とある。これは、スズメ目カラス科カラス属インディアンジャングルクロウ(和名はないようなので、英名「Indian Jungle Crow」をカタカナ音写で示した。南方熊楠の命名が最初なら「インド(ノ)オオクロガラス」となろうか)Corvus culminatus である。英文の同種のウィキを参照した。

「小ミナ烏」原本では「the small minah (Acridotheres tristis)」とある。これは、アジア産鳥類の一種のスズメ目ムクドリ科ハッカチョウ属インドハッカ(印度八哥)Acridotheres tristis である。当該ウィキによれば、『開けた疎林にいる雑食性の鳥で、強い縄張りの習性を持つインドハッカは、都市の環境にも非常によく適応している』。『インドハッカの分布域は急速に拡大しており』、「IUCN(国際自然保護連合)種の保存委員会(Species Survival Commission: SSC)」は、二〇〇〇年に、本種について、「非常に侵略的な外来種の一つであり、地球上において、その上位百種の中でも、わずか上位三種の鳥類の内の一種」として『発表したように、インドハッカは生物多様性ならびに農業や人的利益に対して影響を与えて』おり、『特に、本種はオーストラリアの生態系に深刻な脅威をもたらして』いて、『それは「最重大有害種/問題」(The Most Significant Pest/Problem) などと名付けられている』とある。一方で『インドハッカ(英: Common Myna)は、インド文化の重要なモチーフとして』、『サンスクリットおよびプラークリットの文学の双方に見られる』とあるほどに古代からの共生者である。

「牛蝨」「うしじらみ」。ウシジラミ類は、例えば本邦では発生時には農林水産省に届け出が必要な種として、昆虫綱咀顎目シラミ亜目 ケモノジラミ科 ヘマトピナス属ヘマトピナス・ユーリステルナス Haematopinus eurysternus ・ヘマトピナス・クォードリペルターサス Haematopinus quadripertusus などが挙げられている。

「アリストテレスの動物志九卷六章に、埃及ニル河に小蛭多くて鱷の喉に入り之を苦しむ。トロキルスてふ小鳥、鱷口に入つて其蛭を食ふ。鱷之を德とし每に口を滿開して烏の入るに便にす」「ニル河」はナイル川であろう。しかし、所持する一九六九年岩波書店刊島崎三郎訳「アリストテレス全集」第八巻の当該部を見るに、「蛭」などとは言っていない(吸着性寄生生物がいるであろうことは間違いないが、海産魚類のような節足動物である可能性や小型の魚類がいてもおかしくない)し、微妙に対象様態の表現も違う。引用しておく。〔 〕は訳者の補足。

   《引用開始》

 ワニが口を大きく開けると、チドリ〔ワニドリ〕は口の中へとび込んで歯をきれいにする。チドリは〔口の中で〕餌を取り、ワニはそのお蔭をこうむっていることを知っているので、チドリを害せず、チドリを外で出したいと思うと、頸を動かして警告し、かまないようにするのである。

   《引用終了》

「ミツラ敎」ミトラ教(英語:Mithraism)は古代ローマで隆盛した太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教。古代のインド・イランに共通するミスラ(ミトラ)神の信仰であったものが、ヘレニズムの文化交流によって、地中海世界に入った後、形を変えたものと考えられることが多い。 紀元前一世紀には、牡牛を屠るミトラス神が地中海世界に現われ、紀元後二世紀までには、ミトラ教として、よく知られる密儀宗教となっていた。ローマ帝国治下で一世紀から四世紀にかけて興隆したと考えられている。しかし、その起源や実体については不明な部分が多い(以上は当該ウィキに拠った)。

「牛と鴉を聖禽とした」同前のウィキに、ミトラス神による聖牛供儀の場面を描く場合、種々のアイテムが付随するが、その一つに『カラス』『のシンボルを伴う』ものがあるとあり、また、ミトラ教では信者組織は七つの位階を持つとしてその筆頭を「大烏」と呼んだとある。

「グベルナチスがアリストフアネスの詩を引いて言はれた(Gubernatis, ‘Zoological Mythology,’ vol. ii. p. 252)」本書電子化で複数回既出既注だが、再掲しておくと、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」。Internet archive」の第二巻原本の当該部はここ。]

 追記 長門本平家物語五に藤原成經硫黃が島に流されしを其情婦で淸盛に仕えた伯耆局慕うて止まず。豫ねて心懸け居た鳩脇八幡宮中の馬場執印淸道奇貨置くべしと考へ、成經方へ伴ひやるべしとして彼婦人同道で大隅に下り說けども三年間隨はぬ内成經と再會した譚有り。此女童名牛王殿と有る。是は佛典に牛王蟻王烏王馬王など有る、牛群中の王を指す名で、起請の牛王とは關せぬだらう。俊寬の侍童有王の外に蟻王てふ名の少年も有つたと記憶する。類聚名物考卅九に、徒然草上太秦殿に侍りける女房の名ひさゝち・ことつち・はふはら・おとうし、同考にひさゝちは膝幸、ことつちは如槌の意、はふはらは腹の大く垂て地を匍ふ如くに見ゆる故云ふならん、乙牛は字の如く小さきを云歟と記す。是等は單に下女共を牛の健牛の健[やぶちゃん注:「すこやか」。]にして能く働くに比べて號けた者だらう。(大正五年鄕土硏究三卷十一號)

[やぶちゃん注:「牛王殿」国立国会図書館デジタルコレクションの明治三六(一九〇六)年国書刊行会編の長門本「平家物語」のこちらの左ページ上段十一行目に出る。

「俊寬の侍童有王の外に蟻王てふ名の少年も有つたと記憶する」いる。複数の作品で確認出来る。

「類聚名物考」江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で同刊本を視認したところ、ここに発見した。左ページ下段後方から次のページにかけてである。]

甲子夜話卷之二十三 11 安滿岳の烏 + 甲子夜話卷之八十七 2 安滿岳の鴉【再補】 (ともにフライング)

 

[やぶちゃん注:本二件は、現在、ブログ・カテゴリ「南方熊楠」で進行中の『「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」』の中の『「一」の(4)』の注に必要となったために、同対象であるので二記事をセットで、急遽、フライングして電子化する。]

 

23―11 安滿岳の烏

封内平戶の中に安滿嶽と云る森山あり。山上に神祠あり久く靈場と稱す。又寺院あり頗大宇なり。密樹屋を繞る後山に雙鴉棲めり。予も登山のときこれを視るに、翅下に一圓白あり。又寺前に一盤を設け、日々神供の食を盤上に置けば、鴉食して殘すことなし。從來この如しと云。この鴉たゞ一双にして餘鴉と混ぜず。又蕃生せずして年々產するもの雌雄のみにして其餘あることなし。年每に父鳥雛の成長を待て十月廿日を以て必ず去る。その夜月出の前に悲鳴良久く、別を惜むの狀あり而遠く飛去る。歲日違ふことなし。父鴉これよりして黑髮山に往て棲むと云。靈奇とも云べきことなり。

■やぶちゃんの呟き

「安滿岳」「安滿嶽」長崎県平戸市の平戸島北西部にある標高五百三十メートルの安満岳(やすまんだけ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。平戸市及び平戸島の最高峰。当該ウィキによれば、『安満岳は古代より島南部の志々伎山と並び平戸地域における山岳信仰の中心として崇敬を受けた』。『山頂近くには社伝によれば』養老二(七一八)年に『加賀国より分霊されたとされる白山神社が鎮座するほか、明治初期に廃寺となるまで』、『在地仏教勢力の中心的存在として』、『キリスト教布教を図る宣教師』ら『と対抗する』など『した西禅寺があった』(ここで静山が言っている「大宇」の「寺院」というのはそれだが、恐らくは廃仏毀釈によって、現存しない)。『江戸時代に入り』、『キリスト教が日本国内で禁教政策により地下潜伏(隠れキリシタン)する中、安満岳の山頂にある石塔(「薩摩塔」)と自然石による石祠が「安満岳の奥の院様」と呼ばれ』て、秘かに「隠れキリシタン」の『信仰対象とされた』とある。二〇一八年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産登録されている。

「頗」「すこぶる」。

「密樹屋を繞る」「みつじゆ、をくをめぐる」。

「雙鴉」「さうあ」。番いのカラス。

「翅下に一圓白あり」「はねしたに、いちゑんぱく、あり」。二羽ともに主翼の下方に白い円紋がある。

「この鴉たゞ一双にして餘鴉と混ぜず。又蕃生せずして年々產するもの雌雄のみにして其餘あることなし。年每に父鳥雛の成長を待て十月廿日を以て必ず去る」日付は別として、これは隠岐の西ノ島にある焼火山の焼火神社の神使とする番いの鴉の伝承と合致する。詳しくは、後に上げる『「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「一」の(4)』の私の注を参照。

「黑髮山」安満岳の南東約四十二・五キロメートルの佐賀県西松浦郡有田町広瀬山甲にある黒髪山であろう。

 

 

87-2 安滿岳の鴉【再補】

第廿三卷に、領内安漫岳双鴉のことを記せり。後「寬政東行筆記」【予作。】を見れば小異あり。廼擧ぐ。

この雙鴉、生來を知る者なし。山の住持憲明曰。反哺の頃に及べば、必ず神祠の前、石華表の邊に集り相啼。その聲別を惜が如し。𩚵を與るに神佛供の餕、若くは鬼に薦めし者を雜れば、喰はずして去る。登山の人これを呼に、小石を取て叩けば必ず飛來て樹間に鳴く。又「市井雜談集」を見るに、紀州高野奧院に御供の餘を與る一双の鴉あり。もし一山に凶事あれば來らず。寬永元年この鴉來らざることあり。其とき來迎院の良昌法印。

 蔭ふかきねぐらにかへれ山鴉

      聲をしるべの朝な夕ばみ

この詠に依て鴉飛歸て𩚵を喰しより、今も鴉來らざるときは、この詠を誦すれば須臾にして來ると。

 迫記す。この歌少く解しがたし。何にして感能ありしや。

■やぶちゃんの呟き

「寬政東行筆記【予作。】」静山自身の作とするのだが、詳細不詳。

「廼」「すなはち」。

「生來」「しやうらい」。生まれ来たる様態。

「山の住持」先の注に示した西禅寺。

「反哺」「はんぽ」。ここは単に成体の雌雄となること。鴉は、成長の後、自分がそうされたように、親鳥の口に餌を含ませて養育の恩に報いるという。宋代の「事文類聚」などの故事によるが、無論、こんな習性はない。

「石華表」「いしとりゐ」と訓じておく。石の鳥居。

「相啼」「あいなく」。

「別を惜が如し」「わかれををしむがごとし」。

「𩚵」「餌」に同じ。「ゑさ」と訓じておく。

「與るに」「あたふるに」。

「餕」神饌や仏菩薩への供物の残り物。

「鬼」単なる「死者」の意。人間の死者への供物。

「雜れば」「まづれば」。

「市井雜談集」林自見(元禄九(一六九六)年頃~天明七(一七八七)年:現在の愛知県豊橋市吉田呉服町の町人の長男。名は正森、自見(じけん)は号。二十五歳の時、吉田町年寄役並びに利(とぎ)町・世古町庄屋を兼ねた。元文二(一七三七)年、吉田宿問屋役となり、宝暦五(一七五五)年まで務めた。この間、杉江常翁に師事して和漢の学を修めた)の随筆。宝暦一四(一七六四)年刊。著書に「三州吉田記」・「雑説彙話」・「三河刪補松」・「世諺弁略」・「戯言胡蘆集」・「技術蠡海録」・「雑戯栄」などがある。「市井雜談集」は翻刻されていない模様。

「寬永元年」一六四二年。

「來迎院」不詳。現在の高野山にはない。

「良昌法印」権大僧都法印威盛院良昌(りょうしょう)。

2021/12/05

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 病氣した魚介 / 筑摩版全集の「病氣した海底」或いは「病氣した魚介」(標題並存)の筑摩版が決定稿とするものの失われた別稿

 

  病氣した魚介

 

魚の耳

さざえの手

ぐにやぐにやにただれたうにの肉と

くさつた海綿のはらわたから

おまへの赤い椿がべつとりと咲き

ひもくらげのうすらあかりで

らうまちすのたこが足をたべたり

靑貝の肉をたべるいやな光景

またここの淺洲には

ながいしんけいのいたむ根をくふつめた貝

光る波のあなたに

いそぎんちやくの毛はたえずうごめいてゐる。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集の「未發表詩篇」に「病氣した海底」或いは「病氣した魚介」(後部並存。以下で私が打った「*」及び「//」で挟んだ部分はその並存を示す。)という題で、以下が載る。濁点落ち(「さゝえ」)や誤打ちと脱字(抹消部「らうまず」は「らうまちす」)は総てママ。

   *

 

 病氣した*海底//魚介*

 

ひとでの口

魚の耳

さゝえの手

ぐにやぐにやにただれたうにの肉と

くさつた海綿のはらわたから

なまこの赤い椿がさきべつとりと咲き

ひもくらげのうすらあかりで

病氣のらうまちすのたこが足をたべて くひきりたべたり

らうまず靑貝の肉をたべるいやな光景

またこゝの淺洲には

わがいたむわがしんけいのいたむ根をくふつめた貝

ほの光るささ浪の遠見にあなたに

いそぎんちやくの毛はたえずうごめいてゐる、

 

   *

また、更に同じ第三巻の『草稿詩篇「未發表詩篇」』の方に、上記の詩篇の草稿として『(本篇原稿二種二枚)』無題の以下がある。歴史的仮名遣はママ。

   *

 

  

 

うにのぐにやぐにやにただれたうにの肉

くさつた海綿のはらはたから

なまこの赤い花がさき

┃ひもくらげのうすらあかりで

病氣のたこが手をくひ

いそぎんちやくが手がしなりしなり

また遠い海岸の岬では

┃いそぎんちやくの纖毛が

くらげの ひとでのまるい口

┃魚の耳

┃ひとでの口

いそぎんちやくの 纖毛

┃さゞえの耳

┃いそぎんちやくの手

[やぶちゃん注:「┃」は底本では前後で連続している。これは編者の附したもので、ソリッドなものを示す記号。「↕」は私が附したもので、前後の「┃」(本来は連続)詩句群二つが並置残存していることを示す。]

足をたべる病氣のたこのたぐひが足をたべる光景

また水のしたには わがふむ水の底には

靑貝をたべる光景

またこゝの淺洲には

わがくさ れたるもの つた肉をくふ

わがしんけいの根をくふつめた貝

 

   *

なお、以上の倉庫には編者注があり、『本稿は未發表詩篇「晩景」と同一用紙に書かれている。』とある。「晩景」は本底本シリーズの「遺稿詩集」で電子化済みである。

 さて、本篇は、筑摩版全集の決定稿扱いの前者に近い。但し、相同ではない。されば、失われた別稿ととるべきであろう。

 因みに、私が萩原朔太郎を偏愛するようになったのは、この「月に吠える」時代の詩篇に私のフリークである海産無脊椎動物がワンサカ出ることにも起因している。]

2021/12/04

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(わが肱かけ椅子は木製にして)

 

  

 

わが肱かけ椅子は木製にして

するどきくるぶしのいたみを加ふ

今日しも

われは椅子をはなれず

手に捧ぐるは重たきくるうすの書物

ここに醫學のことばあり

「あまつさへ病毒は炎症」

 

[やぶちゃん注:「くるうす」は「くるす」で、キリスト教の書物か、と一読思わせるが、以下から「クロース」(cloth)装(布装)の書物の意である。筑摩版全集の「未發表詩篇」に以下がある。誤字(「レウマリス」「おとづゝる」)はママ。□は判読不能字。

   *

 

 

 

わが肱かけ椅子は木製にして

するどきくるぶしのいたみを加ふ

今日しもわれは椅子をはなれず

手に捧ぐるは重たき厚き油繪くろうすの書物

そこ

こゝに醫學のことばあり

疾患性「あまつさへ病毒は潛伏の發シンは旬日は炎症」

「麻□性疾患及びレウマリスの療法について記されるもの」

ここに祈禱のことばあり

然れども

今扉にひねもす

おとづゝるものはたれぞや

しきりに落葉するころほひ

日くれほのかにその瞳 とのもをうかゞへば扉のすきまより

 

 * 本稿には以下がない。

 

   *

小学館版は、この同一の原稿の後半の「麻□性疾患及びレウマリスの療法について記されるもの」以下が付属しない同一原稿の前半をもとに判読したものと推定してよい。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 大河内藤藏紀事 文宝堂

 

   ○大河内藤藏紀事【丙戊[やぶちゃん注:文政九(一八二六)年。]三月九日異聞。】

    口上書

私儀、生國甲斐國山梨郡藤木村[やぶちゃん注:現在の甲州市塩山藤木(えんざんふじき)(グーグル・マップ・データ)。]、御代官小野田三郞右衞門樣御支配、百姓甚左衞門忰にて、去々申年中、御當地へ罷出、知人深川八幡前佃町家主、彥兵衞、世話にて、去酉年八月中、一橋樣御小姓組頭取、瀧川主水方へ侍奉公に罷出、相勤罷在候處、傍輩中間三平と申者、常々、手荒成者にて、口論等仕、其上、博奕致候に付、當三月五日、主人より暇差出候處、「衣類等にも差支候間、外へ奉公濟[やぶちゃん注:「ほうこうずみ」で「奉公住み」か。或いは、仲介する口入れ屋を通じての「奉公替え」の仕儀を言うか。]も仕兼候間、差置吳候樣。」取計の義、相賴候に付、主人方へ取繕いたし遣し、差置候處、主人用向、相辨兼[やぶちゃん注:「あひわきまへかね」。]候に付、「右體の義にては難差置候間、其趣、當人へ申聞候樣。」、一昨七日、主人申付候間、其段、三平へ申聞候處、取用不ㇾ申、其上、今朝、明番[やぶちゃん注:「あけばん」。一晩二交代の勤務で夜半から明け方にかけての勤務で、三平がその後半に当たっていたことを指す。]に付、爲ㇾ迎[やぶちゃん注:「むかへんがため」。]に罷出候節、三平儀、昨日罷出候て、今朝歸り不ㇾ申候に付、奧方へ其段申聞候へば、先、私、幷、挾箱持市助に草履を爲ㇾ持[やぶちゃん注:「もたせ」。]、「兩人計、迎に罷越候樣。」申付候に付、則、同道仕、神田橋中屋敷へ罷越、主人退散を相待候處、三平罷越候に付、「何方へ罷越候哉。」と承候處、「一旦、暇出候身分の儀に付、何ㇾ罷越候共、勝手次第。」の儀に有ㇾ之旨申、主人始、私儀を惡口雜言等、申掛候へ共、平日、手荒成者故、取敢[やぶちゃん注:「とりあへず」。]不ㇾ申、程能、及挨拶候處、猶々、聲高に申募り候故、種々、理解[やぶちゃん注:「ことわり、とき」。]申聞候へ共、聞入不ㇾ申、「若年者。」と侮り、理不盡に打掛り、打擲[やぶちゃん注:「ちやうちやく」。]に逢、殊に主人外聞にも相拘り候に付、餘り殘念に存、不ㇾ得已事、刀、拔放し候處、猶又、罵り打掛候故、腕切落し候得ば、門外へ欠出し[やぶちゃん注:「かけいでし」。]候間、追懸罷出候處、又候[やぶちゃん注:「またぞろ」。]。私へ打掛り、其上、御屋敷前、構の下水へ、蹴込候に付、旁[やぶちゃん注:「かたがた」。]、心外に存、起上り、無是非打果申候。此外可申上儀無御座候。以上。

 三月九日  瀧川主水家來

           大河内藤藏【戌十七歲。】

   御從士目付

       依田源十郞殿

       神谷昇太夫殿

       瀧川主水草履取

           三   平【戌四十四歲】

   疵 所

左り二の腕臂際より切落。

面部左りの方、竪に三寸程、切下げ、同所橫三寸程一ケ所、胸に突疵二ケ所、右の腕中指の間より竪三寸程切割。止め、咽一ケ所。

   同人懷中物

半紙・鼻紙、少々。簺[やぶちゃん注:音「サイ」。骰子のことか。]、二ツ祇紙に包。

右死骸、三河町一丁目「地藏番屋」西の方にて見分、相濟、同十二日朝、瀧川主水家來某へ引渡。依ㇾ之、主人より、番組人宿[やぶちゃん注:「ばんぐみひとやど」。雇人などの周旋をする口入宿(くちいれやど)を「人宿」と言い、それを管理・統制するために複数(初期は三十単位で)で強制的に組合を作らせ、それを「番組人宿」とそうした。人宿は組合への加入が必須とされ、町奉行所はそれを通じて人宿運営についての指示や指導を行った。]神田多町中村屋茂助へ、引渡し。

            瀧川主水中小姓

            大河内藤藏【戌十七歲】

酒井左衞門尉、辻番所にて、見分者の口上差出、同十日暮六ツ時頃[やぶちゃん注:不定時法で午後六時前頃。]、町奉行筒井伊賀守役宅え、召連、相渡候處、翌十一日、一橋殿小人目付[やぶちゃん注:「こびとめつけ」。目付の支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変事発生の場合は現場に出張して、拷問・刑の執行などに立ち会った職。]、町奉行所へ御呼出、「右藤藏儀、吟味中、預け遣す。」旨、被二申渡候。同十二日、右藤藏幷に一橋殿裏門番三人、酒井左衞門尉辻番人四人、町奉行所へ呼出さる云々。裁許不ㇾ及ㇾ聞、追てたづぬべし。

一、藤藏、みづから、いふ。「享保九子年[やぶちゃん注:不審。享保九(一七二四)年は甲辰。子年は享保五年。]以前は、松平美濃守吉保、同伊勢守吉里、甲州府中領主の節迄、藤藏先祖は、二百五十石にて、家來なりし。」よし。「柳澤國替以來、鄕士に被ㇾ成候。今は百姓になりし。」とぞ。

一、三平は、八日に外へ奉公濟いたし、同日夕方、取替金をうける[やぶちゃん注:斡旋で仲介料を得た口入れ屋から出る当人への奉公替え用の支度給付金か。]。九日朝、三河町一丁目河岸の居酒屋にて、酒を飮居たりし故、主人の迎、遲刻に及びしとて、口論の節、主人の草履を以、藤藏を打擲し、腕を切落されても、猶、打かゝりし故、藤藏、全身、血に塗れし、といふ【大河内藤藏は、爾後、一橋樣の御徒士に召出されしと言。】。

一、當時の落咄に、「三平、切られて叫て言、『ヤレ人殺し、人殺し、庄内に、人は、ないか。【これは酒井公の辻番人をさすなりとぞ。絕倒。】[やぶちゃん注:この最後の落とし咄し、どこがどう面白いのか、さっぱり判らぬ。どなたか、御教授願えれば、幸いである。]。

    文政九年三月記

伽婢子卷之十二 早梅花妖精

 

[やぶちゃん注:挿絵は岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の鮮明なものを以下に掲げた。]

 

Soubaikanoyousei

 

   ○早梅花妖精(さうばいくわのえうせい)

 

 信州伊奈郡(いなのこほり)開善寺(かいぜんじ)の早梅花は、名におふ、たぐひなき名木にて、末だ冬至の前後より咲初めて、淸香(せいきやう)、四方に薰ず。近鄕隣村の人、心ある輩は、日每に、集まり、見る。元より、信州は陰氣がちにして、寒國(かんこく)也。冬は、雪、深く、消えぬが上に、又、降り積み、嵐、烈しく吹すさびて、なべての草木は、いとゞ遲く萠出(いづ)るに、此の寺の早梅花は、げにも「花の兄(このかみ)」として、淸寒(せいかん)に堪へて、綻(ほころ)び出《いで》つゝ、更に、其の時を、違(たが)へず。誰(たれ)か誠(まこと)に賞せざらん。

 その比(ころ)、村上賴平の家人《けにん》、埴科文次(はにしなのぶんじ)といふ者、心ざま、情け深く、武を學ぶ暇(いとま)には、敷き嶋の道を慕ひ、軍陣の砌(みきり)にも、陣所(じんしよ)の風景、面白きところにては、一首を綴りて、思ひをのべ、諸軍の興を催させけり。

 斯(かか)るやさしき男子(をのこ)なりければ、人、更に惡しくも思はず。

 其の比、甲州の武田、信州の村上、兩家、爭ひを起し、陣を張り、戰ひを決す。

 或る時、出陣のついで、

「開善寺の梅、今を盛り。」

と聞えしかば、文次、夕暮れ方(かた)、中間一人、具して、陣中をしのび出て、かの寺にうかれ行つゝ、香(か)を尋ねて、花に嘯(うそふ)き、

「南枝向ㇾ暖北枝寒(なんしはだんにむかひほくしはさむし)

 一種春風有兩般(いつしゆのしゆんぷうりやうはんにあり)」

といふ古詩を吟じける。

 月、すでに、山にのぼり、花に映じて、えならず、覺えければ、

 ひゞき行鐘の聲さへ匂ふらむ

   梅さく寺の入りあひの空

と、打ち詠じをる所に、此の邊(あたり)には思ひかけず、見馴れもせぬ女性(によしやう)一人、女(め)の童(わらは)、一人、具して、出來《いできた》れり。

 年のころ、廿(はたち)ばかりと見ゆ。

 白き「こうちぎ」に紅梅の「下がさね」、匂ひ、世の常ならず、月に、えいず。

 花に向ひて、

 ながむればしらぬ昔のにほひまで

   おもかげ殘る庭の梅がえ

と、よみて、少時(しばし)、休らひ居たり。

 文次、是れを聞くに、あやしみながら、堪へかね、近く立よりて、袖を引きつゝ、

「今宵の月に、光りを爭ふは、庭の梅のみか、君が姿と、袖のかをりも、同じ心に覺え侍り。」

なんど、戯れば、女、さしも驚きたる色なく、

「梅が香にいざなはれ、月に嘯く此の夕暮れに、やさしき人に逢ひ奉るこそ、嬉しけれ。」

とて、しめやかにもてなしける氣(け)はひ、此の世の人とも、覺えず。

 文次、則ち、中間に仰(おほ)せて、酒うる家を尋ねさせ、酒、買《かひ》求め、御堂(みだう)の軒に坐して、數盃(すはい)を傾け、醉(えひ)に和(くわ)して、語らひ、よりつゝ、

 袖のうへに落ちて匂へる梅の花

   枕に消ゆるゆめかとぞ思ふ

と、いひければ、女、返し、

 しきたへの手枕の野の梅ならば

   ねての朝(あさ)けの袖ににほはむ

と、詠(よみ)て、互ひに、わりなく契りけるが、數盃を傾けし醉ひにふして、夜、已に明方になり、東の空、橫雲、たなびきければ、夢、驚き、眠(ねふ)りさめて、起きあがりしに、文次、只、ひとり、梅の木の本《もと》に臥して、女も、めの童も、何地(いづち)行けむとも、知らず。

 明渡る空に、群鴉(むらがらす)の鳴く聲ばかり、月は西に落ちて、名殘りは我身にとゞまれり。

 昔、もろこしの崔護(さいご)と云ふ人、或る所の門の内に、桃の花、盛りに咲けるを見たりしに、諸友(もろ《とも》)に、酒のみ、歌、うたひしを、

「又、來春も、爰(ここ)にて逢はん。」

と契りしが、次の年の春、其の所に行けるに、女、更に見えざりしかば、門の戶の扉(とびら)に、

「去年今日此門中(きよねんこんにちこのもんぢう)

 人面桃花相映紅(じんめんとうかあひえいじてくれなゐなり)

 人面不ㇾ知何處去(じんめんはしらずいづれのところにかさる)

 桃花仍舊笑春風(たうくははむかしによつてしゆんぷうにえむ)」

と云ふ詩を題して書付けたり、とかや。

「夫れは、もろこしのためし。是れは、此の國の事也。又、後を、いかにとか契らむ。人ならば、又、巡りも逢ふべきに、是れは疑ひもなく、庭の梅花の妖精《えうせい》なるべし。」

と、袂(たもと)に殘る移り香(が)の、さながら、梅花の薰《かを》りに、たがはぬぞ奇特(きどく)なる。

 かくて、陣屋に歸りても、猶、其の面影の忘れ難く、夕暮になれば、そぞろに戀しく、淚の絕へる、ひま、なし。

 梅(むめ)の花にほふ袂のいかなれば

   夕ぐれごとに春さめのふる

「物ぢじきなく、世にすむかひも、有明のつきせぬ思ひに、くずをれて、こりつむ柴の歎きせむよりは。」

とて、其《その》次の日、打死《うちじに》しけり。

[やぶちゃん注:「信州伊奈郡(いなのこほり)開善寺(かいぜんじ)」長野県飯田市上川路(かみかわじ)に現存する臨済宗妙心寺派(現在)の畳秀山開善寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当該ウィキによれば、『寺伝によると、鎌倉時代に伊賀良荘に入部した四条頼基が創建し』、建武二(一三三五)年に『小笠原貞宗が清拙正澄』(せいせつしょうちょう:元の福州連江県に生まれ、鎌倉末期に来日して、北条氏の庇護を受け、南禅寺や建長寺のほか、五山派寺院の住持を歴任した。臨済宗大鑑派の祖。)『を開山として中興されたとされる』。暦応元(一三三八)年には『足利尊氏御教書により諸山に列し』、応永三(四四二七)年には『天与清啓の尽力により、室町幕府から十刹に列せられた』が、『室町時代後半になると寺は衰え』、明応八(一四九九)年には『火災による堂宇の焼失もあった。しかし』、天文一八(一五四九)年、『松尾城の小笠原信貴により復興され』、慶長六(一六〇一)年には、寺領三十五石に『なるまでに至った。この復興の頃、現在の妙心寺派に転派した』とある。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、本話の主人公の主人「村上賴平」のモデルの一人を、『信州葛尾』(かつらお)『城主(現長野県埴科』(はにしな)『郡坂城町』(さかきまち)『)村上頼衡(よりひら)』としており、調べた限りでは、頼衡なる人物は明応三(一四九四)年没である。但し、他にも別な没年や候補者を載せており、いちいち出さないが、それらの没年は永正一七(一五二〇)年、天文二(一五三三)年、天文七年とあるから、孰れも堂宇消失の後で、寺自体が最も寂れていた時期となり、二人の邂逅の背後の寺の様子は、実際には荒廃したものを想起してよいかと思われる(挿絵ではしっかりした建物が見えるけれども)。なお、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」の脚注では、『武田信玄の菩提寺。快川和尚で有名。山門に二本の梅の木がある(『甲陽軍鑑』)』とある。

「花の兄(このかみ)」「このかみ」は「子の上」で「兄」となる。同前の高田氏の脚注に、『梅の異名。「梅花を花の兄ともいへり」(謡曲『難波』)』とある。

「淸寒(せいかん)」澄みきって切れるような厳しい寒さを指す。

「埴科文次(はにしなのぶんじ)」不詳。群名を名にに負うているので、土着の武家である。

「甲州の武田、信州の村上、兩家、爭ひを起し、陣を張り、戰ひを決す」「新日本古典文学大系」版脚注に、『村上家は、武田信虎と大永二年(一五二二)年頃より佐久郡を中心に戦った。とくに天文十七年(一五二二)、村上義清と武田信玄は信州上田原(現長野県上田市)で合戦に及び、義清が勝利した』とある。

「出陣のついで」「新日本古典文学大系」版脚注では、『信玄の伊奈侵攻が念頭に置かれたか。侵攻は天文十三年(一五四四)頃より開始され、上伊那は早く勢力下に置かれたが、下伊那は遅れ、天文末』(~一五五五年)『頃まで合戦が続いた』とある。

「南枝向ㇾ暖北枝寒(なんしはだんにむかひほくしはさむし) 一種春風有二兩般一(いつしゆのしゆんぷうりやうはんにあり)」宋の祝穆(しゅくぼく)編になる類書「古今事文類聚」(全百七十巻。一二四六年成立。先行する「芸文類聚」の体裁に倣って、古典の事物・詩文などを分類したもの)に、後に元の富大用が新集三十六巻・外集十五巻を、祝淵が遺集十五巻を追加し、総計二百三十六巻としたが、その「後集」の第二十八巻の「梅花」の「詩話」の「紅梅下婦人」の以下の一節。「中國哲學書電子化計劃」の影印本を視認しつつ(右手の機械翻字は致命的な誤りが甚だしいので参照すべからず)、「新日本古典文学大系」版脚注の書き下し文を参考に本文を確定した。後の訓読は後者を参考にした。

   *

蜀州有紅梅數本。郡侯建閣扄鑰。游人莫得見。一日有兩婦。髙髻大袖、凭欄語笑。郡侯啟鑰閣不見人。惟東壁有詩日、

「南枝向暖北枝寒

 一種春風有兩般

 憑仗髙樓莫吹笛

 大家留取倚欄干」。【摭遺。】

   *

 蜀州に、紅梅、數本、有り。郡侯、閣を建て、扄鑰(しやうやく)す[やぶちゃん注:門扉に鍵を掛けた。]。游人、得て見ること、莫し。一日、兩婦、有り。髙髻・大袖、欄に凭れて語り笑ふ。郡侯、鑰(かぎ)を啟(ひら)くも、閣に人を見ず。惟だ、東壁に、詩、有りて日はく、

 南枝は暖に向ひて 北枝 寒し

 一種の春風 兩般 有り

 髙樓に憑仗(ひようぢやう)して 笛吹くこと 莫かれ

 大家(たいか) 留取(りうしゆ)して 欄干に倚らん

と。【摭遺。[やぶちゃん注:「拾遺」に同じ。]】

   *

詩の意味は、

   *

 陽射しの当たる暖かな南の方の枝に対して、北の方の枝は、未だ、寒い。

 一つの春風は、それぞれの樹に結果としては等しく訪れるものの、二通りの至り方がある。

 高楼を頼りとして、その高みから、傲慢に笛を吹くことは、するな。

 真(まこと)を知る者は、それをよく悟って、静かに欄干に倚るであろう。

   *

といった感じか? 調べてみると、最初の二句は、しばしば禅の公案に出現する。

「ひゞき行鐘の聲さへ匂ふらむ梅さく寺の入りあひの空」「新日本古典文学大系」版脚注では、類歌として、藤原定家の「拾遺愚草」所収の(建暦二年十二月院よりめされし二十首)、

 雲路ゆくかりのは風も匂ふらん梅さく山の在明の月

を挙げる。私などは、本書よりも後代であるが、芭蕉の、

 鐘消えて花の香は撞く夕哉

の名句の方が遙かに好ましく想起される。現在、本句は天和・貞享(一六八一年~一六八八年)頃の作と考えられており、当時の芭蕉は数えで三十八から四十五歳である。

「ながむればしらぬ昔のにほひまでおもかげ殘る庭の梅がえ」「新日本古典文学大系」版脚注では、類歌として、「夫木和歌抄」の「春三」の「梅」にある式子内親王の一首、

 ながむればみぬいにしへの春までも面かげかをるやどの梅が枝

を掲げる。

「袖のうへに落ちて匂へる梅の花枕に消ゆるゆめかとぞ思ふ」「新日本古典文学大系」版脚注では、類歌として、「夫木和歌抄」の「春三」の「梅」にある式子内親王の一首(「新後拾遺和歌集」の「春上」では二句目が「垣ねの梅は」で載る)、

 袖の上に軒ばの梅はおとづれて枕にきゆるうたた寢の夢

を挙げる。

「しきたへの手枕の野の梅ならばねての朝(あさ)けの袖ににほはむ」「新日本古典文学大系」版脚注では、類歌として、同じ「夫木和歌抄」の「春三」の「梅」にある光俊の一首、

 しきたへの手枕の野の梅の花ねての朝けの袖ににほふらし

を挙げる。

「崔護(さいご)」唐の博陵(現在の河北省定県)出身。貞元一二(七九六)年に進士に登第した。引用される詩篇「題都城南莊」(都城の南莊に題す)と人面桃花の説話で知られる。昔からお世話になっている素晴らしい漢詩サイト「碇豊長の漢詩」の「題都城南莊」に詳しいので、是非、読まれたい。

「梅(むめ)の花にほふ袂のいかなれば夕ぐれごとに春さめのふる」「春さめ」は文次の涙であることは言うまでもない。「新日本古典文学大系」版脚注では、類歌として、やはり「夫木和歌抄」の「春三」の「梅」にある為兼の一首、

 梅の花紅にほふ夕暮に柳なびきて春雨ぞふる

を挙げる。

「物あぢきなく」「もの」は、「急に訳もなく(訳は判っているのだが)なんとも言えず、全くもって~(となる)」の意で(心的にして霊的なものである)、「つまらない」から「はかない・世は無常である」と思うことを指す。

「世にすむかひも、有明のつきせぬ思ひ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「かひもあり」「有明の月」「つきせぬ」を掛詞的に連続』させた『表現』とされ、「新古今和歌集」の「雜下」の慈円の一首(一七八三番)、

 いかにしてもいままで世には在曙(ありあけ)のつきせぬ物をいとふ心は

を元にするものとして掲げておられる。

「こりつむ柴の歎きせむ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「樵る」「嘆き」(「投げ木」と掛詞)は歌語。柴の木を切って積み上げる。転じて思いが募ること』とされた上で、『金葉和歌集・恋下・読人知らず』の一首(四九四番)、

 こり積むるなげきをいかにせよとてか君にあふごの一筋(ひとすぢ)もなし

を掲げておられる。「あふご」は「おうご」(古くは清音で「あふこ」)で「㭷・柺」などと書き、天秤棒のこと。伐り集めた薪を荷うためのそれであるが、同時に「逢(あ)ふ期(ご)」が掛けてある。

「其《その》次の日、打死《うちじに》しけり」このエンディングはショッキングであるが、私には清新に感ぜられた。それはあたかもセイレーンに魅入られた若き舟人が命を落とすように、慄然とした恍惚(エクスタシー)であるから――。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(食卓の上の白い皿が) / 筑摩版全集『草稿詩篇「未發表詩篇」』の「未發表詩篇」の決定稿「家」の草稿の後半と同一原稿と推定

 

  

 

食卓の上の白い皿が

しぜんに𢌞轉をはじめました

 

まつ白の肉皿が

食卓のへりを旋轉する

しづかに

物哀しく

なんの音もなく

光る薄手の皿が

食卓のへりをめぐつて居る

さて窓の外では

ちらちら雪のふつて居る光景ですが

それもしづかに

まるで音もなく

淚ぐましい朝餉のあとでは

ひつそりとあなたを待つてゐる

 いつも寂しげに待つてゐるのに

夫人よ

雪の山路をはるばるとこえて

夫人よ

今朝のおとづれを待つてゐるあひだ

食卓の

 

[やぶちゃん注:これは、筑摩版全集の「未發表詩篇」にある「家」という詩篇の、その草稿の一つと一致することが判った。かなり面倒だが、まず、「未發表詩篇」パートにある「家」を示す。「永却」(「永劫」の誤記であろう)・「施囘」はママ。詩篇の後に編者注があり、以下の三項が箇条されてある。

   ◆

* 「ノート」より。

* 本篇の題名は「家」「空家」とも抹消されていないが、「家」は「○」で圍んであるので決定稿は「家」とした。

* 本稿右下欄に「カルヴアリの丘(キリスト磔刑の丘)」と記されている。

   *

 

 永却

 

 

 

 

まつ白の肉皿が、

食卓のへりを施囘するめぐつて居る、

しづかに

物哀しく、

なんの音もなく

光る薄手の皿が

食卓のへりをめぐつて居る

さて窓の外では

ちらちら雪のふつてる光景ですが

それもしづかに

まるで音もなく

くれてゆく一間の隅で

この人氣のな い屋敷の 庭では 中で

どこかの廣間にそつとかくれて居て

白いたましひが祈つて居る樣子です

 

   *

整序すると(題名は並置して残した。「空家」の方が私はいいと思うからである)、

   *

 

 

 空家

 

まつ白の肉皿が、

食卓のへりをめぐつて居る、

しづかに

物哀しく、

なんの音もなく

光る薄手の皿が

食卓のへりをめぐつて居る

さて窓の外では

ちらちら雪のふつてる光景ですが

それもしづかに

まるで音もなく

どこかの廣間にかくれて居て

白いたましひが祈つて居る

 

   *

となる。さて、次に『草稿詩篇「未發表詩篇」』の仮題して『家』『(本原稿三種四枚)』とあるものを、煩を厭わず、総て示す。歴史的仮名遣誤りや誤字は総てママ。□は判読不能字。

   *

 

  別れ

 

寒い冬の日のある朝のこと

光る銀の鐵砲は

光る白い鴨を擊つために

雪白の薄い 皿が 料理皿が

食卓の上で𢌞轉 する を始めていました

食卓の上の白い皿が

しぜんに𢌞轉を始めました

しづかに

しかも物悲しく

□□□なんの音もなく

┏光る雪白の皿が 薄いあまたの皿が

┗光るまつ白の光る肉皿が

[やぶちゃん注:最後の「┏」及び「┗」は私が附したもので、この二行は並置残存であることを示す。]

食卓の上をへりを𢌞轉しためぐり始めたつて居る光況です

それをばだれ も知らずしづかにもうら哀しく

さて窓の外にはをながむればちらちら雪がふつて居ますが

この けしき ときの

この 今朝も

なん といふこのしんに淚ぐましい//心もちで//朝餉のあとで//

[やぶちゃん注:「//」は私が附したもので、「心もちで」と「朝餉のあとで」が並置残存されてあることを示す。]

この日ひつそりとあなたをたづねてきした

夫人よ

永久のお別れをつげ

お別れを いたし つげに

夢のうちにて

の小路 ふる路をばはるばると

だれも知ら 夢の 遠い世界からない山路をこえ

夢にも知らぬ その夫人よ

夫人よ

とこしなへの今朝お別れを告げにまゐりましたきました

夫人よ、

さよならとこしなへにさよなら

   *「ノート」より。[やぶちゃん注:全集の編者注。]

 

 

  

食卓の上の白い皿が

しぜんに𢌞轉をはじめました

――――

光るまつ白の肉皿が

食卓の上でヘリを運轉施轉して居るする

しづかに

物哀しく

なんの音もなく

光る薄手の皿が

食卓のへりをめぐつて居 ます

さて窓の外では

ちらちら雪のふつて居る光景ですが

それもしづかに

なんまるで音もなく

この淚ぐましい朝餉のあとではでは

ひつそりとあなたをまつて居るのに

今朝もいつも寂しげに待つて居るのに

夫人よ

だれも知らない山路をこえ

雪の山路をはるばるこえて

夫人よ夫人よ

あなた

今朝のおとづれを待つて居るあひだ

食卓の

  *この原稿には、以下がない。

 

   *

以上を総て整序すると(編者注は除去)、

   *

 

  別れ

 

冬の日のある朝

食卓の上の白い皿が

しぜんに𢌞轉を始めました

しづかに

物悲しく

なんの音もなく

┏光る雪白のあまたの皿が

┗光るまつ白の肉皿が

食卓のへりをめぐつて居る光況です[やぶちゃん注:「光景」の誤字。]

しづかにもうら哀しく

さて窓の外をながむればちらちら雪がふつて居ますが

このしんに淚ぐましい//心もちで//朝餉のあとで//

ひつそりとあなたをたづねてきした

だれも知らない山路をこえ

夫人よ

今朝お別れを告げにきました

夫人よ、

とこしなへにさよなら

 

  

食卓の上の白い皿が

しぜんに𢌞轉をはじめました

――――

まつ白の肉皿が

食卓のヘリを施轉する[やぶちゃん注:「旋轉」の誤字。]

しづかに

物哀しく

なんの音もなく

光る薄手の皿が

食卓のへりをめぐつて居る

さて窓の外では

ちらちら雪のふつて居る光景ですが

それもしづかに

まるで音もなく

淚ぐましい朝餉のあとでは

ひつそりとあなたをまつて居る

いつも寂しげに待つて居るのに

夫人よ

雪の山路をはるばるこえて

夫人よ

今朝のおとづれを待つて居るあひだ

食卓の

 

   *

「いつも寂しげに待つて居るのに」の字下げを除けば、本篇は以上の筑摩版全集の草稿の後の方と相同と言って問題ない。不審な字下げは(こうした仕儀はオノマトペイア以外では通常、萩原朔太郎は採らない形式である)、或いは、前行の「ひつそりとあなたをまつて居る」との多重性が見られることから、或いは「ひつそりとあなたをまつて居る」と「いつも寂しげに待つて居るのに」を候補として並置残存させただけのものである可能性が高いように感じられる。

 因みに……この詩篇……私は読みながら……図らずも……芥川龍之介が最後に愛した片山廣子を秘かに呼んだ――「越し人」――という名を想起していた。無論、未発表詩であり、龍之介が、この詩篇を見た可能性は、まず、ない、と言えるのではあるが……。

2021/12/03

本「萩原朔太郎詩集 遺珠」の注の改稿について

今までに公開したものの内、今日、一つ、「筑摩版全集不載」とした詩篇が、未発表の詩篇の決定稿とその複数の草稿詩篇の、一見、ハイブリッド重合であるということに気がついた。以下で、注を大幅に追加し、題名も以下の通り、改訂した。

『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 (無題)(狐がきたので) / 筑摩版全集の「未發表詩篇」収録の(無題)(にはとり鳴くと思ひきや)の草稿(複数有り)のそれら総てとハイブリッドに重合して酷似する失われた別稿と推定される』

「遺稿詩集」の時から、多分、こうしたケースがあるであろうとは既に予測していた。していたが、まさか、こんなに複雑なケースがあるとは、思っていなかった。筑摩版でバラバラに独立した決定稿と草稿三種が、順列を変えて、ここに新たに重合して、あたかも完成された誰も見たことがないソリッドな一篇として出現しているのである。

向後も、こうした訂正は、判り次第、改稿するが、言っておくと、この見落としは、主に、筑摩版全集の「未發表詩篇」の草稿詩篇が、決定稿とした題名を仮題として纏めて載せ、それらの草稿・断片を、索引には全く載せていないという不親切に由来するものである。

私には、流石に筑摩版全集の第一・第二・第三巻の総ての詩篇を記憶・暗記することは不可能である。悪しからず。

伽婢子卷之十一 魚膾(ぎよかい)の恠 / 伽婢子卷之十一~了

 

[やぶちゃん注:挿絵は岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の鮮明なものをトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。「魚膾」は「うをなます」とも訓じ、魚を生のままに細かく刻んだ料理(酢漬けではない。塩を振りはする)。]

 

  ○魚膾(ぎよかい)の恠(かい)

 

 大嶋藤五郞盛貞といふ者、應仁のころ、牢浪して、能登の國珠洲(すず)の御(み)崎に住居して、時を待《まち》けり。

 其性(しよう)、常に生魚(なまうを)の膾(なます)を好み、是なき日は、食、進まず。

 人に語りけるやう、

「浮世にありて、山海の珍味多しといへ共、膾の味に過たる物、なし。終《つひ》に又、腹に、飽かず。」

と云ひしが、或日、若き友達、五、六人、入來り、濱邊にいざなひ出《いで》て遊びしに、風もなく、浪、靜かなりければ、浦人、出て、網を引くに、種々(しゆじゆ)の魚、多く漁(すなどり)得て、岸に漕ぎ歸る。

 大嶋、是れを見て、

「いざ。買ひ取りて、膾、つくり、料理、調へ、今日の思出《おもひで》せん。」

とて、五籠(かご)、六籠、買取り、浦人の家に立寄り、料理の具、かりよせ、濱おもてに、むしろ、敷(しき)、膾、作り、大なる桶と鉢とに、堆(うづ)たかく入《いれ》て、其の外、魚共、種種に、とゝのへ、五、六人、なみ居て、飯、食けひるに、大嶋、箸を取り、膾を食ふ事、一鉢ばかり、忽ちに、喉(のんど)に物の障るやうに覺えしかば、喝(かつ)して、吐き出して見れば、大《おほい》さ、豆ばかりなる、骨(ほね)也。

 其色、薄(うす)色に赤くして、珠《たま》の如し。

 茶碗の中に入《いれ》て、皿を以て、蓋とし、傍(そば)に打おき、又、箸をとりて、膾を食せるに、未だ、座中、食し終らざるに、かの茶碗、打ち倒(たふ)れ、蓋も共(とも)に、轉(まろ)びけるを見れば、中に入おきたる骨の珠(たま)、一尺ばかりになり、人の形と化(け)して、動き立《たち》たり。

 

Namasukai

 

[やぶちゃん注:大嶋が魚の妖怪の右腕を斬り落としたシーン。切断された腕は鰭型に変じている。しかし、この魚の妖怪は大不服!(後述する)]

 

 五、六人の友達、驚き、怪しみ、目をすまして見ゐたれば、目の前に、俄かに、五尺ばかりの男となり、赤裸(あかはだか)にして、大嶋藤五郞に、取りかゝる。

 大嶋、側(そば)なる太刀を拔き持ちて、切《きり》つくれば、いなづまの如く、閃(ひらめ)き、蜻蛉(とんぼう)の如く、飛びめぐり、隙間を狙ひ、拳(こぶし)を握り、大嶋が首(かしら)を、

「礑(はた)」

と、撲つ。

 又、しばし、戰ふては、背(せなか)を、

「丁《ちやう》」

と、撲(う)つに、血、流れて、砂(いさご)を染めたり。

 大嶋、終に、太刀を打入《うちいれ》て、

「はた」

と、切付《きりつけ》しかば、腕・首(くび)、切落《きりお》とされ、かきけすやうに、失せたり。

 人々、

「助太刀せん。」

と、犇(ひし)めきけれ共、雲霧(《くも》きり)、ふさがりて、見え分かず、戰ふ音のみ聞えて、霧、已に霽(は)れて後、大嶋は、朱(あけ)になりつゝ、

「人々、是れ、見給へ、敵(かたき)の腕首(うでくび)、切落したり。ばけものは、行方(《ゆく》がた)なく、失(うせ)侍べり。」

と云を見れば、大《おほい》なる魚の鰭(ひれ)を切落したる也。

 大嶋、其儘、絕入(ぜつじゆ)したりけるを、さまざま、藥を與へしかば、生(いき)出たりしか共(ども)、人心地もなく、夢中の如くなりしが、疵、癒(いえ)てのち、漸(やうや)く、元の如く、正念(しやうねん)[やぶちゃん注:底本は「性念」。元禄版を採った。]、つきたり。

 さて、其の時の事を問ふに、

「露(つゆ)ばかりも、覺えず。」

といふ。

 當座に語りけるにぞ、子細は聞えし。

 これ、魚の精、現はれ集まりて、此恠異、ありけるにこそ。

 

伽婢子卷之十一終

[やぶちゃん注:これは了意にも絵師にも文句がある。了意はその妖怪の様態を子細に記していないのが不服、さればこそであろうが、絵師が困って、長い黒い(本文に即すなら、珠の色の薄い赤色のつもりかも知れぬ)尾鰭みたようなものを描き込んだこと、及び、頭をモロに鯰にしてしまったことへの激しい不満である。こんな頭部を持った海水魚はいない。敢えて同定するなら、本邦の純海産ナマズ類である硬骨魚綱ナマズ目ゴンズイ科ゴンズイ属ゴンズイ Plotosus japonicus となるが、ゴンズイは大きくなっても二十センチメートル止まりで、著しく迫力に欠く(但し、同種は背鰭と胸鰭の第一棘条が毒棘で、これに刺されると、激痛に襲われるから、そこは面付きと禍々しさを補いはするし、私は経験がないが、調べて見ると、ゴンズイは刺身にしても美味いらしい)。ただ、ナマズ類(ナマズ目 Siluriformes)は河口・汽水域でも塩分耐性を持つ種もいることはいる。しかし、沖に出た漁師が採ったもので、しかも生食出来る魚類の総代表としては、如何にも番外である。オニカサゴやミノカサゴ、巨大なマハタ、或いはヘラヤガラなど、幾らも異形の刺身で食える海水魚はワンサカいる。了意も絵師も、惜しむらくは、海産魚には詳しくなかったようである。

「大嶋藤五郞盛貞」不詳。

「應仁のころ」一四六七年から一四六九年まで。「応仁の乱」は応仁元年に始まり、文明91477)年まで、実に約十一年間に亙って継続した。

「能登の國珠洲(すず)の御(み)崎」能登半島先端の南側の石川県珠洲市三崎町付近(グーグル・マップ・データ)。高校二年の時、友人ら四人でテントを担いで能登半島を一周したのを思い出す。テントを買うのに、友人と二人で大学生と偽って、土方仕事を一週間ほどやった。忘れらない遠い懐かしい思い出である。

「時を待《まち》けり」孰れかに仕官が叶うのを待った。

「喝(かつ)して」「ゲエッツ!」という吐瀉のオノマトペイア。禅宗で悟らせる一喝のそれを表記としたのは、異常な魚の生喰らいの殺生の罰(ばち)に当たるのを伏線とするものであろう。

「目をすまして」凝(じっ)と見つめて。

「五尺ばかりの男」一・五一五メートル。本邦の中世の身長の標準よりも低い。縄文以来、最も平均身長が低かった江戸時代でも平均は百五十五センチメートルである。

「礑(はた)」副詞。唐突に物を打ったり、ぶつけたりするさまであるが、私は、やはり、その際のオノマトペイアと考える。

「當座に語りけるにぞ、子細は聞えし。」作者了意の台詞か。「さしあたってある人の語ったのを聴いたのであるが、凡その事件の子細は判った。」ということか。]

伽婢子卷之十一 魂蛻吟

 

[やぶちゃん注:挿絵は二枚あるが、一枚目は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」のものを、二枚目は岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の鮮明なものを、それぞれトリミング補正して適切と思われる箇所に挿入した。後者には一枚目の挿絵が所収されていないためである。]

 

  ○魂蛻吟(たましひ、もぬけて、さまよふ)

 

 河内の國弓削(ゆげ)と云所に、友勝(ともかつ)とて、鍛冶(かぢ)の侍べり。

 用の事ありて、大和の郡山に行て、日暮方に立歸りしに、あまりに草臥(くたびれ)侍べりしまゝ、山の傍らに休み居(ゐ)たり。

 かゝる所へ、或る人、馬に乘りて、又、一疋の馬には、鞍、置ながら、追ひ立て、打過《うちすぐ》る。

 友勝、いふやう、

「是れは、河内の方へ、おはするやらん。さもあらば、御馬一疋、借(か)し給へ。殊の外に道に勞れ侍べり。とても、乘る人もなき馬なれば、我を乘せてたびてむや。」

と云へば、馬の主《あるじ》、

「それこそ、いと易き事なれ。川の向ひの岸にて下りて給はらんには、それ迄は、乘り給へ。」

といふに、友勝、大に喜び、打のりてゆく。

 川をのり渡して、岸に着き、馬より、くだり、

「御なさけの程、喜び奉る。」

と、いうて、馬を返しければ、馬主、鞭(むち)うち、追立《おひたて》て、行く方(がた)なく歸ぬ[やぶちゃん注:「新日本古典文学大系」版もこう(『帰りぬ』)なっているが、元禄版では『行がたなくなりぬ』となっている。そもそも「行く方」も判らないものを「歸りぬ」と言うのはおかしい。私は元禄版を支持する。]。

 友勝は、日、已に暮て後に、家に立歸へりて、見れば、妻の女房も、子供、其外、兄弟一族、悉く集り、膳を調へ、食《じき》[やぶちゃん注:底本は『しき』。元禄版は読みなし。「新日本古典文学大系」版に従った。]を設け、さまざま、もてなし、遊び居たり。

 

Syoutokutaisi1

 

[やぶちゃん注:自宅に帰った友勝が思い余って妻を打つシーン。左下に膳を前に座っているのが、友勝の娘であろう。その斜め右前にいる女は片口(かたくち)をのみ前に置いているから、家の女中でお酌をするために控えているのである。他の三名が友勝の兄弟姉妹である。]

 

 友勝、歸りしかども、人々、見向きもせず。

 友勝、我が子供の名を呼び、我が弟妹(おとと・いもと)の名をよべども、耳にも聞きいれず、物語し、酒、飮み、笑ひ、慰む事、もとの如し。

 友勝、大きに腹立て、大聲を揚げ、どよみ、めぐれ共、更に知る人、なし。

 餘りに、腹を立て、拳(こぶし)を握りて、妻子を打擲《ちやうちやく》すれ共、『それか』と思ひたる色もなく、

「友勝、内におはしたらば、いよいよ賑やかに侍らんものを。」

など、いふて、酒、飮みければ、友勝、思ふやう、

『扨は。我、忽ちに空(むな)しくなりて、魂《たましひ》ばかり、こゝに歸り、妻子も、一族も、我をば、見ざるらん。』

と、泪を流して、只、泣きになきけれ共、いよいよ、見る人もなかりければ、詮方なく、家を出《いで》て、村の外に出つゝ、立休(《たち》やす)らひければ、さしも氣高き人、驪(くろ)の馬にめされ、冠(かふり)を戴き、紫の直衣(なほし)・大紋の指貫(さしぬき)、着(ちやく)し給ひ、人、あまた、めし連れ、鞭を以て、友勝をさして、の給はく、

「あれは、未だ死ぬまじき者の魂なり。思はざる外の事に、さまよひ步(あり)く者かな。」

と、のたまふ。

 こゝに、赤き裝束に、鳥帽子、着たる人、來りて、

「弓削友勝は、未だ、定業《ぢやうごふ》來らざる者なるを、大和川の水神(すいじん)、現はれ出たるに、馬を借りたり。水神、戯れて、魂を引出し侍べり。只今、本(もと)の身に返し納むべき爲(ため)に、我、これまで參りたり。」

とて、馬の前に跪きけり。

貴人(きにん)、少し笑ひ給ひ、

「水神、まことに、道理もなき事に、人の命を誑(たぶら)かして、己《おのれ》が戯れとするこそ、安からね。明日、必ず、刑罸、行ふべし。」

と、の給ふに、此者、恐れたる氣色にて、急ぎ、立寄りて、友勝を招きて、いふやう、

「馬上の貴人は、是、聖德太子也。常に科長(しなが)の陵(みさゝぎ)より出て、國中を巡り、惡神(あくじん)を治(しづ)め、惡鬼(あくき)を戒(いまし)め、人民を護り給へり。我は、これ、水神の眷族として、こゝに來れり。汝を、二たび、人間に返すべし。暫く、目を、ふさげ。」

とて、うしろに廻り、推(お)す、と覺えて、大和川の西の岸に、夢の覺めたる如くにして、甦(よみがへ)り、起き上りて、家に歸りければ、妻子は、待うけて、大きに喜び、

「今日は、一門、集りて、遊びし侍べり。如何に、夜更けては、歸り給ふぞ。」

といふ。

 

Syoutokutaisi2

 

[やぶちゃん注:友勝が馬上の聖徳太子の霊に逢い、馬前に両手を揃えて跪くのは、水神の眷属で、太子に詫びに来て釈明しているところ。画面の左端下方に膝をついて、足先を爪先立てて聖徳太子を見上げているのが、友勝。右端は太子の傘持ちの布衣(ほい)の舎人(とねり)。]

 

  友勝、聞きて、

「我は、かうかうの事、ありけり。」

と語るに、皆人(みな《ひと》)、聞て、驚き、怪しみ侍べり。

[やぶちゃん注:「河内の國弓削(ゆげ)」大阪府八尾(やお)市弓削町(ゆげちょう)附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。聖徳太子と後に敵対することになる豪族物部守屋の父尾輿(おこし)の母は、弓削連(ゆげのむらじ)の祖倭古連(やまとこのむらじ)の娘の阿佐姫であった。その弓削連の本拠地が旧若江郡弓削郷であった。

「鍛冶(かぢ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『聖徳太子の従者の宮地鍛冶師丸という人物名』があるとされ、それを通わせたものか、とされる。

「とても」副詞で「結局のところ~(であるのだから)」の意。

「驪(くろ)」黒毛の馬。

「科長(しなが)の陵(みさゝぎ)」推古天皇二〇(六二二)年二月二十二日に斑鳩宮で病死した聖徳太子が葬られた磯長(しなが)陵。特異的に考古学的にも彼の墓の可能性が高いとされる古墳である。

「大和川」弓削町の南を流れる。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 炎天 / 筑摩版全集の「未發表詩篇」所収の「炎天」の別稿

 

  炎  天

 

ひとり樹木によりて

あふげぱ

しげる梢の葉うらから

天がまつさをに光つて居た

足をあげて强くふめぱ

土壤にふかく根がひろごり

わたのやうにもつくりとふくらんでゐた

八月下旬の炎天

ひとり樹木にすがりついて

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集の「未發表詩篇」に以下が載る。歴史的仮名遣の誤りは総てママ。□は判読不能字。

   *

 

 炎天

 

ひつそり ひとり樹 下に立ち 木により そひ

あほげぱ

しげる梢の葉うらから

天がまつさをに光つて居

樹の□下に足をあげて地を强くふめぱ

土壤にふかく根がひろごり

地面の下がもつくりとして、

地がわたのやうにもつくりとふくらんで居

八月下旬の炎天

ひとり樹木にすがりついて

おれは年も二十八。

女を知ら抱かぬ寂しさに

春の日ひねもす 一人生くる にたえ 日の寂しさに

八月下旬の炎天を

身うちの熱に たえかね こらへかね

七月中旬

┏樹木にすがり 抱きすがりついて泣いて居た、居る

┗炎えあがる樹木に抱きついた

 

   *

最後の「┏」及び「┗」は私が附したもので、この二行は並置残存であることを示す。整序して見る。

   *

 

 炎天

 

あほげぱ

しげる梢の葉うらから

天がまつさをに光つて居た

足をあげて强くふめぱ

土壤にふかく根がひろごり

わたのやうにもつくりとふくらんで居た

おれは年も二十八。

女を抱かぬ寂しさに

┏樹木にすがりついて泣いて居た、

┗炎えあがる樹木に抱きついた

 

   *

筑摩版の草稿で削除されたものが本篇では生きていること、表記に微妙な違いがあることから、思うに、筑摩版以前の同一の詩篇の別稿草稿と考えてよかろう。]

伽婢子卷之十一 七步虵の妖

 

[やぶちゃん注:挿絵は、今回は岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の鮮明なものをトリミング補正して冒頭に挿入した。

 さて、「七步虵」の読みであるが、底本には「虵」に「じや」ルビするのみで、元禄版を見たところ、標題には「步虵」に「ぶじや」の読みが振られてあったのだが、その元禄版の最後の方では「ふじや」と振ってあった。「新日本古典文学大系」版でも「七」に振らず、「ふじや」とルビしてある。「ぶ」は、少なくとも本邦では、長さの短い単位を想起させてしまい、咬まれたら、七歩(しちほ)歩くうちに必ず死ぬ猛毒の蛇の意に、如何にも相応しくない。因みに、古典籍の版本や近代の出版物では、所謂、「総ルビ」を謳っていても、数字には読みを振らないのが常識である(知らなかった人が多いかと思うが、現代の出版物でも、その仕来たりは意外に生き残っている)。しかし「七」は実は厄介で、現代の有意に多くの人は「ひち」と発音し、実際に発音通り、「ひち」と表記する傾向が若い人に多い。しかし、「七」の音は「シチ」(呉音。漢音は「シツ」であるが、これは「七珍」(しっちん)や「七宝」(しっぽう)等で、使用例はそう多くない)であって、「ヒチ」ではない。則ち、「ひち」は「しち」の発音上の転訛であり、表記はあくまで「しち」である(若い人の中には意外に思う人がいるはずである)。

 されば、校合の結果でも、本篇では「《しち》ふじや」と振らざるを得なかったが、個人的には一貫して私は「しちほだ」と読みたい。

 さて、当該の蛇の正体だが、当該ウィキでは、愚かにも冒頭から、『浅井了意の怪異小説集』「伽婢子」『の中で、京都東山に出現したとされる奇怪な蛇の一種』などと、まことしやかに、了意のオリジナル妖蛇のように記しているが、大嘘である(因みに私はつい先日、ウィキペデイアの記者をやめた。それは、幾つかの記載で致命的な誤りをいくら指摘しても、それを原記者や他のウィキペデイアンが放置し続け、直そうともせず、それどころか、面倒になって誰かが私の指摘した誤りの部分をごっそり削除して知らんふりしているのを見出し、完全にキレたからである。永久に記者に戻ることは、ない。但し、まず正しいと判断されるものは向後も引用はする)

 まず、最も古い記載は多くの仏典であるが、「新日本古典文学大系」版脚注も引いているその中の一つである「阿毘達磨大毘婆沙論」(あびだつまだいびばしゃろん:全二百巻。五百大阿羅漢らの原作を玄奘が訳したもの)の「四十六」の一節を引くと(比喩部分)、

   *

如人爲七步蛇所螫。大種力故能行七歩。毒勢力故不至第八。

(人の、七步蛇(しちほだ)に螫(さ)されたるがごとし。大種力(だいしゆりき)の故(ゆゑ)、能く行くこと、七步せるも、毒の勢力の故、第八には至らず。)

   *

などである。因みに、私は「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 赤翅蜂」の注で、この「七歩蛇」を以下のように現存するモデル種としては「ヒャッポダ」(百歩蛇)に同定している(但し、以下に記す通り、本邦には棲息せず、毒自体は猛毒ではない)。「褰鼻蛇〔(けんびだ)〕」の注である。

   *

東洋文庫版では『白花蛇。中国南方山中にいる』と割注するが、これは有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ上科クサリヘビ科マムシ亜科ヒャッポダ属ヒャッポダ Deinagkistrodon acutus のことである。「百歩蛇」でこれは、咬まれると百歩歩くうちに死ぬとされる伝説的な実在する毒蛇である(但し、後で引用するが、毒性そのものは強くはない)。ウィキの「ヒャッポダ」によれば、特に台湾で「百歩蛇」と呼ばれ、『日本名、英名もこれに準ずる。中国では』「白花蛇」「百花蛇」「五歩蛇」「七歩蛇」』(☜)『とも、また、その独特の頭部の形状から「尖吻蝮」(音なら「センフンフク」)とも呼ぶ。分布は『中国(南東部、海南島)、台湾、ベトナム』で全長は八〇~一二〇センチメートル、『ニホンマムシと同じく、全長に比して胴が太く体形は太短い。体色は濃褐色で、暗褐色の三角形に縁取られた明色の斑紋が入る。この斑紋は落ち葉の中では保護色になる。鱗には隆起(キール)が入る』。『頭部は三角形で吻端は尖り、上方に反り返っている。目は金色で細い縦長の瞳を持つ』。『毒自体の強さは高くないが、毒の量が多く』、咬まれた場合は危険である。『山地の森林に住み、特に水辺を好む。動きは緩怠』。『食性は動物食で、ネズミ、鳥類、カエル等を食べ』、『繁殖形態は卵生で』、一回で二十~三十個を産卵する。『数が少なく、蛇取りもなかなかお目に掛かることがないため、幻の蛇と呼ばれている』。

   *

ヒャッポダは個人的に面構えと模様が好きな蛇である。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。私は蛇好きである。練馬の大泉学園にいた幼稚園児の頃は、弁天池の周辺の水田で、友だちとアオダイショウを捕まえては、首に巻いて「僕の方が長い」などと競い合ったものだった。懐かしい遠い思い出だ……]

 

   ○七步虵(《しちほ》じや)の妖(えう)

 

Hitihoda

 

 京の東山の西の麓、岡崎より南の方、いにしへ、岡崎中納言の山庄(さんさう)あり。久しく荒れはてゝ、すむ人もなく、草のみ、生茂りて、茫々たる地なりけるを、浦井なにがし、此地を買ひ求めて、家を作る。

 或人、いふよう、

「此地は、本より、妖虵(えうじや)の怪しみ有りて、人、更に住む事、かなはず。」

といふ。

 浦井、是を信ぜず、家たち[やぶちゃん注:「家建ち」。新築。]、をはりければ、始《はじめ》て、移り入《いり》たりければ、虵(くちなは)の、三、四尺ばかりなる、五つ、六つ出《いで》て、天井の間に這ひめぐる。

 則ち、下部に仰せて、取り捨てんとするに、此へびども、鱗(うろこ)だち、頭(かしら)をそばだて、眼(まなこ)きらめきければ、僕共、すさまじく思ひて、退(しりぞ)く。

 浦井、大に怪しみて、杖をとり、突き落とし、桶に入て、賀茂川に流す。

 次の日、又、虵、十四、五、出たり。

 又、皆、取りすてければ、其の次の日は、三十あまり、出たり。

 取捨つるに隨ひて、益(ますます)、多く出《いで》て、後には、二、三百に及ぶ。

 其大さ、五、七尺あまり、白き、黑き、或は、靑(あお)き、斑なる、兩の耳、そばたち、口は紅(くれなゐ)の如く、間(まゝ)、又、足ある虵(へび)、其の形(かたち)、龍の如くなるもの、日每に倍々して、取れ共、捨れども、更に絕ゆる事、なし。

 浦井、不思議の事に思ひ、自(みづか)ら、香を焚き、幣(へい)を立てゝ、地祭(《ぢ》まつり)をいたす。

「某(それがし)、此の地を求め、金、若干(そこばく)兩を出して、買ひ得たり。是れより、此地は、某が、すむべき所なり。虵(へび)、何(なに)によりて障(さはり)をなし、恠(あや)しみを現はすや。凡《およそ》、地の神には、五帝龍王あり。其の司どる所、各(おのおの)、職、あり。如何でか、其の地に有りて、濫(みだ)りに、地の主《あるじ》を苦しましむる。龍王、物知る事あらば、此の虵(じや)の恠異(けい)を、はやく禳(はら)ひ給へ。然(しか)らずば、神職(しんしよく)の不敏(ふびん)[やぶちゃん注:「不憫」に同じ。]ならん。然らば、天帝の戒め、のがるゝに、道、あるべからず。」

と、書きて、讀み上げたり。

 其の夜、地の底に、物の騷ぐ音して、凄(すさ)まじき事、限りなし。

 夜あけて、みれば、草むら、悉く、一夜の程に枯れはてて、大なる石、ありて、碎け、傾ふきたり。

 家人等《けにんら》、怪しみて、靑草の枯れとまり、石の傾ふきたる所を、掘り返し、石を取り退(の)けしかば、長、四、五寸許の虵、はしり出《いで》て行く。

 其行く所の靑草、目の前に、枯れ焦(こが)るゝ。

 家人等、追ひ詰めて、打ち殺しければ、虵のたけ、僅かに四寸、色は紅(べに)の如く、兩の耳、四《よつ》の足、あり、鱗の間(あひだ)は金色(こんじき)にして、小龍の形に似たり。

 人に見するに、

「更にかゝる虵(へび)は聞及ばず。」

といふに、南禪寺の僧、來りて、曰はく、

「是れは『七步虵(《しち》ふじや)』と名づく。もし、人、是れにさゝるれば、其儘、死す。毒力(どくりき)、烈しくて、七(なな)足、步む。此事は佛經に見えたり。」

とぞ、語られける。

 是れより、後は、虵(へび)、再び來らず。

「案ずるに、多く沸き出たる虵共(へびども)は、是れ、『七步虵』の精(せい)なるべし。」と、いへり。

[やぶちゃん注:「岡崎」京都市左京区岡崎附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、ここの『南側は東山区粟田口』に当たり(ここ)、『古来、貴族の別業地であった。』とある。

「岡崎中納言」「新日本古典文学大系」版脚注は『未詳』とするが、越後国国府(現在の新潟県上越市)に流罪になっていた親鸞に赦免状を齎した(但し、当時は既に出家しており、実際の赦免官は藤原光親であった)公卿藤原範光(仁平四(一一五四)年~建暦三(一二一三)年)は権中納言で「岡崎中納言」と呼ばれた。但し、本書の時代設定からは、平安末期から鎌倉初期の彼の山荘を云々言い出すのは、いささか不自然であるから、不詳でよかろうか。

「地祭(《ぢ》まつり)をいたす」彼は崇敬が薄いのか(以下の台詞で何より金のことを言い出している辺りはそれらしい現実主義者である)、地鎮祭を行わずに家を建てたのかも知れない。

「五帝龍王」ウィキの「龍王」によれば、本邦の陰陽道の書「簠簋内伝金烏玉兎集」(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう:かの安倍晴明が編纂したと伝承される占術の専門・実用書。実際は晴明死後の仮託作)の『巻二は、中国の盤古神話や仏教の教義を借りて、宇宙開闢の巨人神である盤牛王から十干十二支といった暦世界の構成要素が展開していくという創世神話を説いている』。『この中に五行神として登場するのが五帝五龍王で』盤牛王なる神が五人の『妻に』、『それぞれ』、『青帝青龍王、赤帝赤龍王、白帝白龍王、黒帝黒龍王、黄帝黄龍王を生ませ、その五帝五龍王の各々が十干・十二支といった王子をもうけたと物語っている』。『版本によっては黄帝黄龍王に異説』が『あり、それによると』、『盤牛王の』五『人目の子である天門玉女妃は』四十八『人の王子を生んだ後、男子に変じて黄帝黄龍王となり、王子たちとともに四龍王に戦いを挑んだ結果、四季土用の』七十二『日を領することになったという』とある。単にこの如何にも怪しげなそれを手軽に口に出しただけの話のようだ。「新日本古典文学大系」版脚注も以上と同じ内容を示しつつも、冒頭から『未詳』とする。

「南禪寺」岡崎の東直近。ここ。]

2021/12/02

伽婢子卷之十一 易生契

 

[やぶちゃん注:かなり長く、回想の展開部がやや変則的な構造になっているため、そこでは、特異的に行空け・ダッシュ・リーダを用いた。挿絵(二枚)は、今回は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」のものをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。]

 

    ○易生契(しやうをかへてちぎる)

 

 肥前の國松浦郡(まつらのこほり)松浦の里に、豐田(とよだの)孫吉といふ者あり。

[やぶちゃん注:「松浦の里」旧肥前国松浦(まつら)郡は現在の佐賀県と長崎県に跨った広域の古称。その郡域は当該ウィキの地図を見られたい。現在は郡や町は「まつうら」と読んでいる。現行では狭義には、佐賀県伊万里市松浦町(まつうらちょう)となるが、ここに限定する根拠はない。「新日本古典文学大系」版脚注でも、『「松浦の里」とは、佐賀県東松浦郡浜玉町で松浦潟に注ぐ玉島川(古称松浦川)』(現在は唐津市浜玉町。この附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『や、同県唐津市で海に注ぐ松浦(まつうら)川流域』(玉島川の西方。この附近)『を指すか』とされる。]

 未だ若くして父母におくれ、妻もなくて、獨り住《すみ》けり。其家、貧しからず、いとけなき時より、耕作・商賣の營みをも、えさせず、元より、たゞ、ひとり子也ければ、親、こと更に、いとほしみて、儒學のかたはしに、心を傾け、講席(かうせき)にもつらなるを以て、所作(しよさ)とし、侍べらしむ。

 

Katiko1

 

[やぶちゃん注:二人の邂逅シーン。右手の娘の小袖の柄は蔦。下方中央にいるのは、犬か猫か区別がつかぬが(この絵では犬っぽいけれdど)、二枚目の挿絵の庭での仕草からは、猫であり、二枚ともに首輪をつけており、ぶち猫と断じてよい。本文には犬も猫も出てこないから、絵師に拘りがあったようである。右手上空に、夕方、巣に戻るのか、二羽の鳥が描かれている。或いは、絵師は、秘かに比翼鳥を匂わせたつもりだったのかも知れない。]

 

 或夕暮に、門に出て見ゐたれば、かたち、賤しからぬ女子《をなご》一人、南の方より、出來《いできた》る。年の程、十六、七と見ゆ。

 色よき小袖を重ねたるにはあらねど、姿かたちは、人に勝れて見ゆ。

 豐田、はしり出て、袖をひかへ、とかく語らひければ、女は岩木ならぬ身の、「いな」とはいはじ、「いな舟」の、さすがにかゝる浪枕、ならぶる袖を、かたしきつゝ、夜もすがら、語らひ、わりなく契りて、明方になりければ、名殘(なごり)盡きせず、女は、起き、別れて、歸りぬ。

 日、暮ければ、女、又、來れり。

[やぶちゃん注:「いな舟」「稻舟」。刈り取った稲を積んだ舟。歌語。

「浪枕」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「稲舟」の縁語である「波枕」に「枕」を掛け、「枕並ぶる」「並ぶる袖」と続く』とあり、さらにその「袖」を「かたしきつつ」(「片敷く」は本来は、男女が共寝をする際に互いの衣服を敷き交わして寝たことに対して、自分の衣服だけを敷いて「独り寂しく寝る」の意であるが、ここは「片」=それぞれが敷いてともに寝ると転じたもの)となりゆくのである。

「みづから」今までにも何度も出た、自称の一人称代名詞。「新日本古典文学大系」版脚注には、『多く高貴な女性が使う』とある。]

 豐田、

「其の家は、いづくぞ。親は、誰(たれ)人ぞ。」

と問ふに、更に、さだかにも、答へず。

 强て、たずぬれば、

「みづから、常に褐色(かちいろ)の衣に、蔦(つた)の唐草、染《そめ》たる小袖なれば、『褐子(かちこ)』とも、『蔦子(つたこ)』とも、名をば、呼び給へかし。」

とて、打笑へば、豐田、

『扨は。これ、由(よし)ある家に召し使はるゝ女の、暮(ゆふ)な暮(ゆふ)な、ひそかに出《いで》て、來《きた》るならん。此事、もし、顯はれ侍べらば、ゆゝしき咎(とが)めも如何(いか)なるべしや。』

と思ひて、更にも尋ね認(とめ)ず。

[やぶちゃん注:「唐草」(専ら「唐」が使われるが、これは実は当て字で、「絡草(からみぐさ)」の略とされる)蔓草の蔓や葉が絡み合って延びている様子を図案化した模様。古くエジプトやメソポタミアに始まり、本邦にはシルク・ロードから中国を経て、伝わった。]

 いよいよ睦(むつま)しく、比翼連理の契り、あさからず。

 或夜、豐田、酒に醉(ゑ)ひて、戯(たはふ)れて、いふやう、

「有の儘に、其すみどころを、語り給はざらんには、心、まだ、とけず、とぞ思はん。我は、かくこそ、思ひ侍べれ。」

とて、

 手枕のうへにみだるゝ朝寢髮

   下には人のこゝろとけずも

と、いひければ、女、限りなく恨みたる氣色にて、かくぞ、返しける、

 手枕をかはすちぎりに下紐の

   とけずと君がむすぼゝれつゝ

「今は、何をか隱し侍らん。君と、みづからは、古へより、よく知る事、侍べり。然らずば、如何に、かく、情深く契り侍らむ。まことは、我は、今の世の人には、あらず。君がため、更にたぶろかし參らする者にも、侍べらず。宿世(すくせ)の緣(えん)、深き故ぞや。昔、この松浦の里に、大友左衞門佐(すけ)なにがしとて、ゆゝしき武勇の大名、おはしき。みづからは杵島郡(きしまのこほり)の者にて、よく、歌、うたひ、碁、うつ事を得て、人、更に、みずからに勝つ者、なし。此故に、十七歲のころ、召されて、左衞門佐殿に仕へ參らせ、朝な夕な、側(そば)を離れず、寵愛、淺からず。其時は、君、まだ、其家の小姓(こせう)にて、近く召使はれ給ひしに、容貌(かほかたち)うるはしかりければ、自(みづか)ら、思ひを懸け、心を通はし侍べり。かくて、自ら、餘りに堪へ兼つゝ、或日の暮方、燈火(ともしび)、未だ取らざる闇(くら)まぎれに、

 よそながら目には懸(かか)れど雨雲の

   へだつる中にふるなみだかな

と、かきて、君が袂に投入れしかば、其次の日の夕暮に、君、また、

 よそにのみ嶺の白雲きへかへり

   たえずこゝろにふるなみだ哉

と、かきて、自らが袖に投入給ひしより、年も同じ年、所も同じ所に、人目を中の關守になして、互に、心ばかりを思ひ通はせ共、家の内外、嚴しき掟の、つらさのみ、恨みられて、契るべき便りも、なし。後に、傍輩の童に(わらは)、此《この》心ざしを顯はされ、左衞門佐殿に讒(ざん)せられしかば、則ち、大に怒りて、君と我と、高手(たかて)の繩をかけ、松浦川のはたに引出し、首(くび)を刎られ侍べり。君は今、已に、又、人間に生れ給ひ、みづからは、それより此方(かた)、猶、今までも、冥土(めいど)にあり。思ひひそめたる心の末、百餘年の後も朽ちず、空しき靈(たま)の現はれ來て、割りなき契を結ぶなり。昔を思へば、今も悲しき憂目(うきめ)見たりける事の、いとど、つらさは、勝るぞや。」

とて、淚を流す事、雨の如し。

[やぶちゃん注:「手枕のうへにみだるゝ朝寢髮下には人のこゝろとけずも」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、山科言緒(ときお 天正五(一五七七)年~元和六(一六二〇)年:公家)編の歌学書(部立アンソロジー)「和歌題林愚抄」(安土桃山から江戸前期の成立)「恋一」の「乍臥無実恋」の西住法師(俗名は源季正(或いは季政)。西行の弟子)の一首(引用は「千載和歌集」の恋二)を参考にしたらしい注が出る。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たるが出来た。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「20」コマ目の左頁の終わり(「戀一」の終り)から三行目である。起こす。

   *

 手枕のうへにみたるあさねかみしたにとけすと人はしらしな

   *

本編のインスパイアと比較するために整序すると、

   *

 手枕の上に亂るる朝寢髮(あさねがみ)下に解けずと人は知らじな

   *

である。了意の改変の方が妙なひねりがなくて、すんなり腑に落ちる。

「手枕をかはすちぎりに下紐のとけずと君がむすぼゝれつゝ」同じく「新日本古典文学大系」版脚注では、やはり「和歌題林愚抄」の「恋一」の「来不遇恋」の藤原道経(康平三(一〇六〇)年頃~?:平安後期の歌人。藤原顕綱の子。長治元(一一〇四)年から保延四(一一三八)年にかけて、多くの歌合に参加した。「藤原忠通家歌合」の主要歌人の一人。保延四年以後に出家し、その数年後に八十歳近くで没したとされる)の一首(引用は「続拾遺和歌集」)を類歌として挙げる。同前で、当該巻(PDF)の「20」コマ目の右頁の最終行である。起こす。

   *

 手枕をかはす斗のちきりにもなおとけかたきよはのした紐

   *

整序すると、

   *

 手枕を交はすばかりの契りにも猶(な)ほ解けがたき夜半(よは)の下紐(したひも)

   *

「たぶろかし」「誑(たぶら)かす」の訛ったもの。騙(だま)す。

「大友左衞門佐」不詳。「大友」と言えば、戦国時代の北九州東部を平定し、安土桃山時代まで生きた大友義鎮(よししげ)/宗麟(享禄三(一五三〇)年~天正一五(一五八七)年)がいるが、彼を真正モデルとしてしまうと、話柄内時制が本書全体の時代設定の下限を遙かにはみ出てしまうことになるので、あり得ない。大友宗麟から単に名を用いただけのことか。

「杵島郡(きしまのこほり)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『肥前国。佐賀県南西部の杵島郡白石町』(しろいしちょう)・『江北町』(こうほくまち)・『有明町』(現在は合併して先の杵島郡白石町となった)『等の地域。有明海に面した水田地帯』とある。有明海湾奥の北西部。ここ

「よそながら目には懸(かか)れど雨雲のへだつる中にふるなみだかな」「新日本古典文学大系」版脚注では、やはり「和歌題林愚抄」の「恋一」の「見恋」の前内大臣公忠(南北朝時代の三条公忠(元亨四(一三二四)年~永徳三/弘和三(一三八四)年)の一首(引用は「永徳御百首」)を類歌として挙げる。同前で、当該巻(PDF)の「12」コマ目の右頁の二行目である。起こす。

   *

 よそなからめにはかゝれとあま雲のへたつる中にゆく月日かな

   *

整序すると、

   *

 よそながら目にはかかれど雨雲隔つる中に行く月日かな

   *

了意の改変に軍配。

「よそにのみ嶺の白雲きへかへりたえずこゝろにふるなみだ哉」新日本古典文学大系」版脚注では、やはり「和歌題林愚抄」の「恋一」の「見恋」の十楽院宮の一首(引用は「永徳御百首」)を類歌として挙げる。同前で、当該巻(PDF)の「12」コマ目の右頁の四行目である。起こす。

   *

 よそにのみ峯の白雲きえかへりたへす心になにかゝるらん

   *

整序すると、

   *

 よそながら峯の白雲消え返り絕えず心に何掛かるらん

   *

了意の改変は男の返歌としては、よく出来ている。

「高手(たかて)の繩」「高手小手」(たかてこて)。「小手」は手首から肘(ひじ)までを指す語。両手を背の後ろに回し、首から肘・手首にかけて、厳重に縛り上げること。]

 豐田、此事を聞《きく》に、又、悲しさ、限りなし。

 されば、

「今、是を聞くに、まことに二世の緣なれば、ますます、わり無く語らひて、昔の思ひを、はらさん。誰《たれ》をか忍びて、暮(ゆふべ)にこし、朝(あした)に歸らん。只、是れに住《すみ》て、もろ友《とも》に夫婦とならん。」

とて、豐田が家に留(とど)めて、猶、睦しき、なからひ也。

 幽靈とは見ながら、宿世(すくせ)の緣、わりなくて、恐ろしとも、思ひ侍べらず。

 豐田は、更に、碁、うつ事、知らざりしに、女、ことごとく、其の祕妙(ひめう)を敎へしかば、此比(《この》ころ)、あたりに名を得し者、豐田にむかひて、碁に敵する人、なし。

 女、つねづねは、左衞門佐の事を語る。

 

――……まのあたり、今、見るやうに覺えたり。……左衞門佐、或時、女房達を召つれて、川の邊(ほとり)に遊びし所に、うるはしき男、二人、きらびやかに出たち、川の向ひを、遙《はるか》に行過《ゆきすぐ》る。

 女房達の中に、一人、云ふやう、

「男ならば、是れ程、美(うる)はしきをぞ、我が思ふ人とも、思はまし物を。」

といふ。

 左衞門佐、聞て、

「此男の妻と、成らまほしきか。」

と云ふ。

 其の女房、打ち笑ひ、顏、赤めて、物も、いはず。

 暫くありて、新しき桶に、蓋覆(ふたおほ)ひして、女房達の中に、出《いだ》す。

「是れ、先の男の許に、遣すべき祝ひの物。見よ。」

と、あり。

 開きて見れば、男をほめし女房の首(くび)、打ち切《きり》て、見せ侍べり。

 女房達、手足、ふるひ、目、くらみて、絕入《たえい》りけるも、多かりし。

……又、或時、鹽燒く浦に仰せて、私(わたくし)には售(うら)せず、我が領分の鹽を、皆、下直(げぢき)に買ひ取り、京方の商人に賣りけるを、何者か、したりけむ、左衞門佐の門に、落書(らくしよ)しける、

 さなきだに辛きおきめを左衞門が

   國の鹽やきにがりはてけり

左衞門、是れを聞て、

「いかさまにも。鹽燒どもの所爲(しわざ)なるべし。」

とて、鹽燒司(つかさ)三人を捕へて、濱おもてに礫(はりつけ)に懸けたり。

……又、年每(ごと)の春になれば、錢米《せんまい》を出し、國中の民百姓に借(か)し渡し、身上《しんしやう》宜しき者には、殊更に、多く借して、秋に至りて、大分の利を掛けて、元にそへて、取歸す。もし、返すべき力なき者は、其所の有德(うとく)人にかけて、辨(わきま)へさせ、或は、妻子を他所に售(うり)つかはし、資材・家屋敷、みな、沽却(こきやく)せしめ、年年《としどし》に、虐(はた)り、取りもぎとる故に、國中、大に衰微に及べり。何者か、詠みたりけむ、

 無理にかす利錢(りせん)の米の數よりも

   こぼす淚はいとゞおほとも

左衞門佐、是を聞て、

「賤しき百姓共は、是れ程の事も、よも、つらねまじ。有德人(うとく《じん》)ばらの所爲(しわざ)にこそ。」

とて、城下に住みける有德人、十餘人、闕所(けつしよ)して追出し、其の財寶ども、皆、奪ひとりぬ。

……或時、左衞門佐、父の年忌にあたり、國中の僧を集めて齋(とき)を行ひしに、一人の僧、遲く來れり。破れたる袈裟かけて、衣、甚だ、古し。

 諸人、あなづりて、奧にも請(しやう)せず、門の傍(かたはら)に居(すゑ)て、齋を食はせたれば、齋、過《すぎ》て、其鉢を、膳の上に覆(うつぶけ)て、彼僧は、去(いに)けり。

 跡にて、鉢を取上げんとするに、少も、動かず。

 諸人、奇特(きどく)の事に思ひて、集まりて、

「えいや、えいや。」

と引動かせ共、太山《たいざん》の如くに重くして、上らず。

 左衞門佐に、

「かく。」

といふに、自ら行て、これを上げられしかば、輕くあがりて、其下に、哥、二首、あり、

 花ちりて梢につけるくだ物の

   今幾(いく)かありて落ちんとすらむ

 我人につらき恨みをおほ友の

   家の風こそ吹きよはりけれ

 左衞門佐、これを見るに、驚く心もなく、いよいよ、國民をむさぼり、人を殺す事、草を薙(なぐ)かとも思はず、恣(ほしいまま)に惡行を致せしかば、それより、二年を待たずして、禍(わざはひ)、來り、身を失ひ、家を亡ぼしぬ。……――

 

……何事も、皆、天道より定まる事と云ひながら、法(ほふ)[やぶちゃん注:仏法。]に過《すぎ》たる科(とが)を犯せば、禍ひ、必ず、近く來《きた》る。然(さ)れば、みづから、昔の心ざしにひかれて、今、かく、契りを、なし侍べり。今より、一年にして、迷塗(めいど)の暇(いとま)、すでに、きはまるべし。」

と語りしが、月日程なく「くれ羽鳥」、あやなく過ぐる光陰、はや、一とせに、なりにけり。

[やぶちゃん注:「私(わたくし)には售(うら)せず」「新日本古典文学大系」版脚注に、『中世期』の『京都・奈良では既に塩座(しおざ)が設置され、汐の専売権を掌握し』ていたとある。

「下直(げぢき)」安値。

「さなぎだに辛きおきめを左衞門が國の鹽やきにがりはてけり」「辛き」「おきめ」は塩の縁語。「おきめ」は「沖布」(おきめ)で、「沖で穫れる海藻」を指し、所謂、「藻塩」(焼き)と強く連関する。ここでは、さらに「置目」(おきめ)で、「掟書」(おきてがき:主に中世後期から用いられた、幕府や領主が公布した「法度(はっと)」の一形式。元来は限られた集団・階層の中の取決め・仕来たりなどを記すものであったが、室町以降、法の発布者が、従来は規制の対象とされていた在地領主・土豪層にも広がると、その公布する法の形式として採用され、次第に法令と同様の意味を持った。室町幕府発布の「徳政令」などは幕府奉行人連署の下知状形式、その他は下文形式など、さまざまな形式をとるが、はじめに「掟」「御掟」「掟事」「定」「定申」などの語を記し、次いで法令の条文が「事(こと)」書きで記されるのが通例とされた)に掛けてある。下句では「塩焼き」の職人らの「苦り」切った顔と、塩の「ニガリ」が掛けてある。狂歌としては文字通り辛辣で、よく出来ている。

「鹽燒司(つかさ)」造塩業者の頭(かしら)。

「錢米《せんまい》」「新日本古典文学大系」版脚注に、『銭と米。ここでは、領主自らが年貢などのために貸しつけたもの』とある。

「身上《しんしやう》宜しき者」暮らし向きのよい者。

「有德(うとく)人にかけて」裕福な者に課税して。

「辨(わきま)へさせ」「新日本古典文学大系」版脚注には、『「ワキマユル 本人が支払い得ないものを他人が弁済する」(日葡)』とある。強制的な不当な連帯責任を負わせているのである。

「虐(はた)り」「はたる」(徴る・債る)とは、「請求する・強く求める・取り立てる・徴収する」の意。

「無理にかす利錢(りせん)の米の數よりもこぼす淚はいとゞおほとも」「おほとも」は「多(い)とも」と悪逆の領主の姓「大友」に掛けた皮肉。

左衞門佐、是を聞て、

「ばら」「輩・原・儕」で、人を表す語に付いて、複数の意を表わす接尾語。「殿ばら」などを除けば、多くは、同輩以下に対して敬意を欠いた表現として用いられる。

「闕所(けつしよ)」中世に於いて、「所領・諸職を没収すること」を言う。

「齋(とき)」ここは法要に際して僧侶に食事を供することを指す。

を行ひしに、一人の僧、遲く來れり。破れたる袈裟かけて、衣、甚だ、古し。

「あなづりて」「侮(あなど)りて」の古い言い方。

「太山《たいざん》」山東省中部にある中国五岳の一つである名山泰山(標高千五百二十四メートル。「太山」「岱山」とも書く)を指すが、ここは一般名詞で「高く大きな山」の意。

「花ちりて梢につけるくだ物の今幾(いく)かありて落ちんとすらむ」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、本話の原拠である「剪燈新話」の「四」の「五」の「綠衣人傳」にある『詩句を狂歌に翻案したもの』とする。原拠考証はしない約束なので、これ以上は注さない。

「我人につらき恨みをおほ友の家の風こそ吹きよはりけれ」「新日本古典文学大系」版では、「我」に『われ』、「人」に『ひと』と編者ルビが振られてあり、通釈では『皆』(この場合、「自他」であるが、自分を除いたでないとおかしいが、結局、それが最後に致命的な禍いとして降りかかってくるわけで、仏教的には自他と区別すル必要はないのでいいか)とある。「おほ」は「大友」に「多(おほ)」を掛けているのは言うまでもない。「風」は「かぜ」と訓じていよう。「家風」で、ここでは「権門家の威勢」の意。

 左衞門佐、これを見るに、驚く心もなく、いよいよ、國民をむさぼり、人を殺す事、草を薙(なぐ)かとも思はず、恣(ほしいまま)に惡行を致せしかば、それより、二年を待たずして、禍(わざはひ)、來り、身を失ひ、家を亡ぼしぬ。……――

「くれ羽鳥」「新日本古典文学大系」版では、『くれはどり』で、注では、『呉織。呉の国から伝来した職工や織物』とし、『「暮れ」の意で月日から続き、織物に綾があることや漢織(あやはどり)の併称から「あや」に掛かる』とある。辞書に枕詞とし、美しい綾のあるところから、「あや」「あやに」「あやし」に掛かる、とある。]

 

Katiko2

 [やぶちゃん注:二人の離別のシーン。ともに泣いている。但し、本文にはこうした位置関係でのシーンは描かれていない。猫は伏せているというより、ともに別れを惜しんで臥せっているようにも見える。]

 

 女、心地、煩ひければ、醫師(くすし)を賴み、藥を與ふれども、飮まずして、豐田が手をとりて、

「昔の語らひ、君と、緣、深く、夫婦の情(なさけ)は、こゝにして、盡き侍べり。自ら、幽冥陰氣(ゆうみやういんき)の形(かたち)を現はし、君に契り參らせ、いとほしみの恩を、受けたり。思へば、昔、一念の愛執(あいしう)を起して、思はざる外の禍ひに、おち入りたり。たとひ、なんぢは干潟(ひがた)となり、岩(いはほ)は、湯(ゆ)に沸(わ)くとも、此の恨みは、更に、消(けし)がたし。天、傾(かたふ)き、地、崩(くづ)るとも、此情(なさけ)は、忘れじ。今、已に、宿世のよしみを續けて、後の世の緣を契る。是より、我は、黃泉(よみぢ)に歸るべし。其のかみ、殺されてより、百餘年、此たび、重ねて契る事、一年、久くして、又、逢《あひ》奉れり。思ひの雲は、はれゆきたり。更に、戀《こひ》、悲しみ給ふな。」

とて、打ちなきけるを、豐田は、淚の中より、

「今、暫し、留(とどま)り給へ。飽かぬ別れに後《おく》れて、殘る身を、いかにとか、思ひ給はん。」

と云へば、女、なくなく、

 名ごりをも惜しまでいそぐ心こそ

   別れにまさるつらさ成りけれ

と、詠じて、壁に向ふて、臥しけるを、

「いかに、いかに。」

と呼べども、呼べども、はや、事切れ果てゝ、空しき「から」のみ、床に殘れり。

 豐田、悶え焦(こが)れ、泣き悲しめども、甲斐、なし。

 床に空しき衣をとりて、

 移り香になにしみにけん小夜衣(さよごろも)

   忘れぬつまと思ひしものを

 さて、棺(くわん)に納め、野邊に送くらんとするに、棺、甚だ、輕(かろ)かりければ、開きて見るに、只、衣のみ、殘りて、尸(かばね)は、なし。

 空しき棺を、寺に埋(うづ)み、佛事、いとなみ、懇ろに、跡、弔(とふら)ひ、二たび、妻を求めず。

 出家して、四國・九國を巡り、それより、唐土(もろこし)の商人舟に便船して、入唐(につたう)しつゝ、その終はる所を、知らず。

[やぶちゃん注:「たとひ、なんぢは干潟(ひがた)となり、岩(いはほ)は、湯(ゆ)に沸(わ)くとも」私は『なんだか、変わった喩えだなあ?』と思ったが、「新日本古典文学大系」版脚注に、原拠の『原話に「海枯レ石爛ルトモ」』とあるとされ、『「なんぢ(汝)」は草書体の類似から「海」を読み誤ったものか』とあって、納得した。なお、ここは続く以下の台詞から、「長恨歌」のコーダを確信犯で意識した形をとっている。

「殺されてより、百餘年」先に時代が下るのが問題だと私が言ったのは、この表現に基づく。

「名ごりをも惜しまでいそぐ心こそ別れにまさるつらさ成りけれ」同じく「和歌題林愚抄」の「恋二」の「恨別恋」の二条(藤原)為世(建長二(一二五〇)年~延元三/暦応(一三三八)年:鎌倉末期の歌人。藤原為氏の嫡子で為家の孫。彼に始まる二条家の平淡美を重んじる歌風は、中世全期を通じ、歌壇の主流となった。頓阿や吉田兼好らも門人であった)の一首(引用は「元亨後宇多十首」)を元歌として挙げる。同前で、当該巻(PDF)の「24」コマ目の右頁の十一行目。起こす。

   *

 なこりをもおしまていそく心こそわかれにまさるつらさ成けれ

   *

「から」ここは単なる骸(むころ)・亡骸(なきがら)の意。

「移り香になにしみにけん小夜衣(さよごろも)忘れぬつまと思ひしものを」同前で、「和歌題林愚抄」の「恋二」の「移香増恋」の権中納言経房(建長二(一二五〇)年~延元三/暦応(一三三八)年:鎌倉末期の歌人。藤原為氏の嫡子で為家の孫。彼に始まる二条家の平淡美を重んじる歌風は、中世全期を通じ、歌壇の主流となった。頓阿や吉田兼好らも門人であった)の一首(引用は「千載和歌集」の「恋四」)を類歌として挙げる。同前で、当該巻(PDF)の「25」コマ目の右頁の八行目。起こす。

   *

 うつりかになにしみにけんさよ衣わすれぬつまと成(なり)にし物を

   *

「つま」は「衣」の縁語で「褄」、さらに「妻」を掛けた。

「唐土(もろこし)の商人舟に便船して、入唐(につたう)し」「新日本古典文学大系」版脚注では、ここで、本話の今一つの当地ロケーションの伝承を示して(冒頭注でも出ている)、『入唐については、古代からの松浦佐用姫伝承の影響があるか』と注されておられる。佐用姫については、「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 無足の蛇 七手の蛸」の私の「松原姫(まつらひめ)」の注を参照されたい。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 尾藩秦鼎手筒 輪池堂

 

[やぶちゃん注:「尾藩秦鼎手筒」は尾張藩秦鼎(はたかなえ)からの書簡の意。今までの「兎園小説」に何度も登場し、注記もしたが、再掲すると、秦鼎は儒者で尾張名古屋藩に仕えた秦滄浪(そうろう 宝暦一一(一七六一)年~天保二(一八三一)年)。美濃出身。鼎は名。寛政二(一七九〇)年に同藩に入り、翌年、藩校「明倫堂」典籍となり、後に教授となったが、驕慢で失脚したという。古書の校定を好み、「国語定本」・「春秋左氏伝校本」などをものしており、また三巻三冊から成る随筆「一宵話」(ひとよはなし)がよく知られる。本文でも言及されている通り、この直前の「唐船漂着の記 輪池堂」にも書簡を寄せている。謂わば、これは、まさに、その書簡に関わって、当該書簡を改めて全文で示した、書簡送付証明を期した追記増補記事の趣きを持つものである。後半は、文政八年十二月(グレゴリオ暦では既に一八二六年一月)に信濃国松本藩で発生した世直し一揆(打ちこわし)「赤蓑騒動」の記事である。当該ウィキによれば、「赤蓑」とは、『一揆勢がシナノキ』(アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属シナノキ Tilia japonica )『の皮の赤蓑を着ていたことに由来する。また発生地から』、「四ヶ庄(しかじょう)騒動」(佐野村・沢度村の広域通称。現在の白馬村神城(かみしろ)附近(グーグル・マップ・データ))とも『呼称される。一連の騒動は大町に滞在していた諏訪藩士の六角鬼洞により』、「赤蓑談」として纏められた。文政八年十二月十四日(一八二六年一月二十一日)、『信濃国安曇郡大町組に属する四ヶ庄地方』『から発生し』、十二月十七日の『朝にかけて、千国街道(糸魚川街道)沿道の村々の大半を巻き込んで、大町宿(大町市)、池田宿(池田町)、穂高宿・成相新田宿(安曇野市)の宿場の特権的問屋や、各組の大庄屋や在郷商人など』、約八十七軒を、約三万人もの『農民が打ちこわしした事件である。成相新田宿で松本藩兵に鎮圧され、城下への侵入は阻止された』。『この年は凶作であったが、四ヶ庄地方には米穀商がなく、農民たちは貯蔵米のある上層農民に借用・売却を申し入れたが』、『拒絶され、宿場町の米穀商は』、『米の買占めと』、『売り惜しみに走り、米不足にも関わらず』、『酒屋が酒造を始めたことが、一揆の発端となった』とある大規模な一揆である。]

 

   ○尾藩秦鼎手筒

   鈴木右平樣         秦 鼎

百一歲老人へ御傳言。此も正月廿一日に來遊。明五日、歸鄕申候。步行も二里は樂に出來、目がね、なし。小茶碗に、飯も、四、五盃づゝ、學堂[やぶちゃん注:底本では右にママ注記があるが、藩校明倫堂のことであろう。]にて、田樂豆腐、拙生は七本、百歲老人は十五本、たべ申候。誰か作工にや、今度、堀川傳馬橋[やぶちゃん注:現在の愛知県名古屋市中村区名駅にある古くより物流の重要な橋であった伝馬橋(てんまはし)。]、新規に御懸替、新造なれば、先例により、老人渡り初[やぶちゃん注:「わたりぞめ」。]、可ㇾ被仰付候處、御家中にも、名子屋[やぶちゃん注:ママ。]にも、其人なく、御手支御吟味の處、幸、美濃高田にて、百一歲老人、來合たれば、「此翁を。」といふに、「世に、事かいた樣似に、他國人をやとひ上げは、苦々し、これは、尾張には智多郡に萬歲あれば、これをよびよせ可ㇾ然。」との評定になりし所、「萬歲位の小兒輩を召るゝ事かは。我等が鄰には、「七億【質置。】親仁」[やぶちゃん注:「質置」は質屋のこと。「しちおく」で言祝ぎに「七億」の漢字を当てたものであろう。]あり。扨、遠州へ唐船漂着大騷動、遠州は稻佐風の海賊日本一の名所、大晦日夜、海中幽靈の出現日、殊に薄暮より風雨つよきに、丑滿比、漂流破船、押來りし樣子にて、海賊ども、「天のあたへ、よい正月せん。」と、我一に小舟こぎ出し、仰上れば[やぶちゃん注:「あふぎあぐれば」。]、船の異體なるに驚き、しばしためらふほどに、松明・燈火の光に、鬚の長き、異類異形の物、見ゆれば、「ヤレ、幽靈よ。」と、にげ歸る。曉天になれば、金鼓にて、大船、こぎ來る【これは元朝の祝の樂なり。】。これにて、遠州諸候大騷動、これから御察しあㇾば、相分るゝ事なり。此圖書ども、はや、御通覽かは難ㇾ測候得共、齋藤泰正、櫻井へ被ㇾ遣可ㇾ被ㇾ下候。櫻井介三郞子は、塙次郞へ被ㇾ參候故、塙へ送り度く、善、御取計可ㇾ被ㇾ下候。例の筆屋、玄書堂、御連可ㇾ被ㇾ下候。

舊臘[やぶちゃん注:底本は「舊獵」であるが、前年十二月の意であるから、吉川弘文館随筆大成版で訂した。]十二、三日比より、信州松本、民亂、此は加賀・越後界[やぶちゃん注:「さかひ」。「境」に同じ。]なり。四ケ庄などゝ言、北方深山僻地の山民、蜂起し、南へ南へ、と、村々の富民の居宅を打崩して、城下近く攻來り、小廿里計の間にて、七十五、六軒も潰し、信濃川の新橋にて防れ[やぶちゃん注:「ふせがれ」。]、同心・足輕の輩、亂民と同じ形になり、交り入、頭取たる者を、生捕中に[やぶちゃん注:「いけどるうちに」。]、亂民中に、馬上にて進退指揮する者を、大番頭の稻村小源太、「あれぞ、くせ者。」と、小筒[やぶちゃん注:「こづつ」。小筒鉄砲。]を以、此も、馬上にて馳向ふに、此前に、てつぽう百挺、虛空に向て、亂放する高聲に、亂民ども、恐愕せしや、小源太に恐れ、にげ走るを、逐かけ[やぶちゃん注:「おひかけ」。「追ひ驅け」。]、逐かけ、石路・溪間を、二里計も、逐かけ、逐かく、遂に、「小筒、放たん。」とせしに、「此こそ、生捕にすべき者なれ。」と心付、遂に、生捕しは、大功、「頭立し[やぶちゃん注:「かしらだてし」と訓じておく。]惡黨は、大略[やぶちゃん注:「おほよそ」]、越後高田の者なり。」と聞ゆ。ナタリ邑[やぶちゃん注:白馬村東北に接する長野県北安曇郡小谷村(おたにむら)のことか? 訛りかも知れない。]より、城下迄は、小廿里、其間の、富民も、田地も、踏潰されし大亂は、聞も苦々しき事、去年は、越前の勝山と松本の二侯、國、騷々敷[やぶちゃん注:「さうざうしく」。]候ひき。百歲老人、餞宴にて、今日は多忙、草々頓首。

 文政九年二月四日

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(この、なんて靑い顏をした人たちだ) / 筑摩版全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』所収の「○(このなんて納まり返つた人たちだ)」の草稿とするものと同一原稿と推定

 

  

 

この、なんて靑い顏をした人たちだ

なんて意地の惡い眼付をした人たちだ

長い單調な行列から

舌をたらしてゆく

尻尾にさきをひきづつて居るあるもののごとき實に

いやらしいらうまちずむの薄い肉體

それをびくびくさせて

手の光る

光る

光る

光る

白臘の模型先祖ら

みんな私は知つて居る

君たち一代のいやらしい秘密から

遠い世界の墓穴から

その長たらしいぷらつとほうむから

出てくる 出てくる

君たちのいんきな足音から

あなた方の腐蝕した靈魂の所在から

なにもかも私は知つて居る

それを永遠の子孫につたへるために

あなた方の疾患原理をつたへるために

お氣の毒だが私は生きてゐるのだ

やい、ひつこめ

白い先祖たち

馬鹿らしい行列をやめてくれ

 

[やぶちゃん注:「白臘」はママ(「白蠟」の誤記)。本篇は断片ではあるが、相当にソリッドな草稿(完全草稿の前方三分の二)である。しかも、この無題詩の完全草稿「(このなんで納まり返つた人たちだ)」は、実は、私が既に、先行する「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 『蝶を夢む』拾遺 先祖」の注で筑摩版全集の「未發表詩篇」から引用して電子化している。そちらを参照されたいが、筑摩版全集には、別に『草稿詩篇「未發表詩篇」』の中に、その「(このなんで納まり返つた人たちだ)」の草稿とする『(本篇原稿二種四枚)』とするものがあり、それが見事に本篇とほぼ完全に一致するのである。以下に示す。「ぶらつとほうむ」を始めとして表記は総てママ。

   *

 

  

 

この、なんて靑い顏をした人たちだ

この、なんて意地の惡い眼付をした人たちだ

長い單調な行列から

舌をたしてらしてゆく

尻尾のさきをしきづりながらつ居る

あるものゝごとき實に白いいやらしいらうまぢずむの薄い肉體

それをびくびくさせて

手の光るそれでも

光る

光る

光る手のかげに顏を出す先祖ら

白臘人形のの模型先祖ら

みんなおれ私は知つて居る

君たち一代の祕密いやらしい祕密から

なんでも君たちの遠い世界の歷史墓穴から

一切のその長たらしいぶらつとほうむから

出てくる、出てくる、

またきみたちの額に刻まれた 晴衣の一件から、いんきな足音から

その 疾患の怖ろしい 陰氣くさい

あなた方の腐蝕した靈魂の所在までから

なにもかも私は明らかに知つて居る、

それを永遠の子孫につたへるために

あなた方の疾患原理をつたへるために

そのためにお氣の毒だが私は生きて居るのだ、

やいひつこめ先祖ら

白い御先祖の顏たち

犬のやうな

馬鹿らしい行列をやめてくれ

 

  *原稿用紙が破れているので、このあとは不明。

 

   *

削除部分の「晴衣の一件から、」というのは意味不明である。以下に、整序したものを示す。「ぶらつとほうむ」は流石に訂正した。

   *

 

  

 

この、なんて靑い顏をした人たちだ

この、なんて意地の惡い眼付をした人たちだ

長い單調な行列から

舌をたらしてゆく

尻尾のさきをしきづつ居る[やぶちゃん注:「ひきづつて」の訛りと脱字。]

あるものゝごとき實にいやらしいらうまぢずむの薄い肉體

それをびくびくさせて

手の光る

光る

光る

光る

白臘の模型先祖ら

みんな私は知つて居る

君たち一代のいやらしい祕密から

遠い世界の墓穴から

その長たらしいぷらつとほうむから

出てくる、出てくる、

きみたちのいんきな足音から

あなた方の腐蝕した靈魂の所在から

なにもかも私は知つて居る、

それを永遠の子孫につたへるために

あなた方の疾患原理をつたへるために

お氣の毒だが私は生きて居るのだ、

やいひつこめ

白い御先祖たち

馬鹿らしい行列をやめてくれ

 

   *

細部に異同がありはするが、重要な特異的なメルクマールの箇所が、これ、ほぼ完全に一致していることから、最早、同一原稿としか思われない。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(憂愁は影をひきます)

 

  

 

憂愁は影をひきます

走れ、走れ

靑い影法師よ、子供よ、小猫よ

走れ、走れ

小さな瀧のながれてゐるところで

幽邃なる谷の底まで

走れ

走れ

ああ神經は自然につかれてくる

つかれてくる、しづかな櫻月夜の圓窓

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(すべて憂鬱なる森の中に。) / 詩集「靑猫」所収の「恐ろしく憂鬱なる」の初期稿の標題を含む断片

 

  

 

すべて恐ろしく憂鬱なる森の中に。

 

ああこの恐ろしいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげを見る

 

[やぶちゃん注:本断片と同一のものは筑摩版全集には見当たらないものの、これは明らかに詩集「靑猫」の「恐ろしく憂鬱なる」の極小の草稿断片と考えてよい。私の「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 恐ろしく憂鬱なる」を見られたいが、冒頭は、

   *

こんもりとした森の木立のなかで

   *

というロケーションの共時性があり、而して詩篇の最終行は、

   *

あまりに恐ろしく憂鬱なる。

   *

とあって、これは「あまりに恐ろしく憂鬱なる」「こんもりとした森の木立のなか」が仮想の詩想空間という点で極めて強いフレーズの親和性が認められ、しかも、そもそもが、本編の続く二行と酷似したフレーズが、コーダ部分に出現するのである(太字は私が附した)。

   *

ああこの恐ろしい地上の陰影

このなまめかしいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみつめる

その私の心はばたばたと羽ばたきして

小鳥の死ぬるときの醜いすがたのやうだ

ああこのたへがたく惱ましい性の感覺

あまりに恐ろしく憂鬱なる。

   *

これで充分だとおもうのだが、ダメ押しで決定打を言っておくと、

実はこれは、間違いなく「恐ろしく憂鬱なる」の草稿断片であり、恐らくは、その最初期形の一つの断片であることは、はっきりしている

のである。

 筑摩版全集第一巻には『草稿詩篇 靑猫』が付随し、そこの仮題して『恐ろしく憂鬱なる(本篇原稿二種五枚)』として、二種の草稿が示されているが、その第一草稿が以下なのである。「みぶひる」「きつついた」「やなましく」は「みぶるひ」「きずついた」「なやましく」の誤記。「羽ははき」「羽はばき」は衍字・濁点欠損(前者)・脱字。

   *

 

  すべてを恐ろしく憂鬱なる森の中に

 

ああこの恐ろしいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみつめる

私の心はみぶひるをして

醜くきつついた小鳥やうに

私の心はやなましく→いたましく 羽ばたきをして→みぶるひをして→びくびくとぢたばたと羽ははきをして

醜い小鳥のやうに 死ぬるやうに羽はばきするぬるときんでゆくときのやうだ

 

   *

これを整序してみる。以上の誤記その他は、ここでは極めて特異的に、優等生然とした筑摩版全集校訂本文よろしく「消毒」しておいた。

   *

 

  すべてを恐ろしく憂鬱なる森の中に

 

ああこの恐ろしいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみる

私の心はぢたばたと羽ばたきをして

醜い小鳥の死んでゆくときのやうだ

 

   *

さて。本篇断片と比較されたい。

 この初期形の題名と冒頭二行を抜き出し、題名の末尾に句点を附し、詩篇二行目の「みる」を「見る」と書き変えれば、本篇に早変わりする。

 本篇は、思うに、この初期形断片を清書しようとした残骸ででも、あるのかも知れない。

2021/12/01

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(この景色のよい海岸の別莊はだれの家か)

 

  

 

この景色のよい海岸の別莊はだれの家か

浪の音さやかに垣根をこえ

まがりくねつた松の木の幹はなにの夢を夢みるか

ほのかにひびく琴の音はいかに美しき調べぞ

ああ 明日の空に澄みて 澄みわたりて

靑き木々の葉も砂山の上にしつとりと眠

 

[やぶちゃん注:立ち切れたように終わっているのはママ。筑摩版全集では、「未發表詩篇」に以下のように載る。「桓根」「澄りわたりて」はママ。後の「*」以下は編者注。

   *

 

  ○

 

この景色のよい海岸の別莊はだれの家か、

浪の音さやかに桓根をこえ、

まがりくねつた松の木の幹はなにの夢を夢みるか、

ほのかにひびく琴の音はいかに美しき調べぞ、

ああ 明月の空に澄みて澄りわたりて、

靑き木々の葉も砂山の上にしつとりと眠

 

  * 本稿には以下がない。

 

   *

異同があるが、まず、同一原稿であろう。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(私たちは舟を浮べる) / 筑摩版全集不載の一篇

 

  

 

われは空より雪のふりくるけしきをながめんとして

やうやく窓硝子のほとりにあゆみしに

たちまちにしてうつくしき

つつましやかに夫人の影ににたるもの

かうばしき

夕餉の皿をもちはこばんとしたりしが

わが窓の扉のにおとなひ

 

  *ここ一字不明

 

[やぶちゃん注:注に句点がないのはママ。本篇は筑摩版全集には所収しない。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(私たちは舟を浮べる)

 

  

 

私たちは舟を浮べる

浪まに浪をのりこえて海のしぶきにのりゆく舟を

舟、舟、舟、

するどき細きますとをもてるひとつの小舟

ろがいの音もゆたかにのりゆく浪路のうへ

こげよ、こげよ、こげよ、人々

いま私たちの心は悲しむ

どこに寂しむ、潮鳴りの千鳥を聲聲

ながるるものは水なるか

頰につめたき流星の

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。筑摩版全集では、「未發表詩篇」に、以下のように出る。「ま白つな」「千鳥を」はママ。太字部分はこちらでは傍点「◦」である。

   *

 

 ○

 

私たちは舟を浮べる、

浪また浪をのりこえて海のしぶきにのりゆく舟を、

舟、舟、舟、

ま白つな白帆するどき細きますとをはりあげたもてる ひとつの小舟

ろがいの音もゆたかにのりゆく浪路のうへ、

こげよ、こげよ、こげよ、人々、

いま私たちの心は悲しむ、

どこに寂しむ、海の鳴潮鳴の千鳥を聲々

ながるるものは水なるか、

みよや 孤獨の月は空に、

頰につめたき流星の

 

   *

後に編者注があって、『本稿には以下がない。五行目「ろがい」の横の〇印は原文のまま。』とある。まず、同じ草稿であろう。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(のるうゑあたりをながれゆく氷山のいただきに)

 

  

 

のるうゑあたりをながれゆく氷山のいただきに

けふもまたうらがなしげの太陽がなげいてゐる

寒い寒い北國の冬の物語である

雪は遠い牧場の小川のうへにもふつてゐた

雪は遠い森の梢のうへにもふつてゐた

どこもかしこも雪にうもれてほの白く光つてゐた

雪はまたお寺の家根の上にもふりしきつてゐた

雪はまたあばらやの煙突の上にもふつてゐた

煙突の窓からまつ白い煙がむくむくともりあがつてゐた

そのときお上人はひもぢかつた

たよりない旅人のこころの上にも

おほゆきはいちどに落ちかかつたのである

 

[やぶちゃん注:「のるうゑ」(言わずもがなだが、ノルウェー王国(ノルウェー語:Kongeriket Norge/Noreg)のこと)、「ひもぢかつた」はママ。本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(このごろは低い木の枝などで)

 

  

 

このごろは低い木の枝などで

干からびた木の***がひらひらしてゐる

どこかの高原地方をあるいてゆきたい

はてしもなくひろい野原で

きれいな月夜の景色をながめてゐたい

途中でふしあはせの人にあふ

 

   *ここのところ三字不明。

 

[やぶちゃん注:底本では「*」は一字分であるが、示した注に従い、かく処理した。本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。]

曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 唐船漂着の記 輪池堂

 

   〇唐船漂着の記

 文政九戌年正月七日     榊原越中守

當月二日、異國船一艘相見候段御屆申候旨、昨朝申越候處、猶又同三日、久能山一の御門より及ㇾ見候處、遠州大井川下沖合に、異形の船一艘掛り居候樣子に相見候段、在所家來より申越候に付、御用番へ御屆申上候。

[やぶちゃん注:「文政九戌年正月」「二日」グレゴリオ暦一八二六年二月八日。正月早々、スッタモンダの大騒ぎだった。]

 同日            同   人

羽倉外記支配所、遠州榛原郡飯淵村沖合に、異國船と相見候船一艘相見候に付、當月二日爲見分外記致出立候趣、駿府町奉行牧野采女より通達有ㇾ之候間、久能山御備向、幷御山下領分海邊手當の儀、如先格申付置候段、在所家來の者より申越候に付、御用番へ御屆申上候旨、昨日申越候。

           大目付 石谷備後守

[やぶちゃん注:「榛原」(はいばら)「郡飯淵」(はぶち)「村」現在の静岡県焼津市飯淵(はぶち)(グーグル・マップ・データ。以下ただの地名のリンクは同じ)。まさに大井川河口東端(左岸の先頭の地区)。]

 同日            本多遠江守

羽倉外記御代官所、遠州榛原郡飯淵村沖合に、異國船相見候船一艘相見申候旨、當月二日夜、領分村方より屆出候處、同夜牧野采女よりも、外記出役の旨、申來候に付、早速、領分海邊手當の人數、差出候段、在所家來の者より申越候段、御用番へ御屆申上候。

           大目付 岩瀨伊豫守

 正月八日          田沼玄蕃頭

遠州榛原郡兵部卿殿御領分、川崎湊より東字三森[やぶちゃん注:「ひなたGPS」で飯淵周辺(戦前の地図)を探したが、見当たらない。]と申沖の邊へ、怪敷[やぶちゃん注:「あやしき」。]船、一艘相見候間、拙者領分同郡村役人より、當月朔日晝八時[やぶちゃん注:定時法で午後二時頃。]頃、申出候に付、彼地、諸家來罷越見受候處、領分より東南の方に一里半程隔り、長、凡二十五、六間[やぶちゃん注:約四十五・五から四十七・二七メートル。]程と相見、異國船一艘掛り居申候。尤、兵部卿殿御領分、同郡吉田村[やぶちゃん注:「ひなたGPS」で確認出来。大井川右岸の河口南西直近。]濱陸より六、七町[やぶちゃん注:六百五十四・五から七百六十三・六メートル。]沖合に、碇を卸居候樣子に付、右場所之人數差出候旨、同二日、中泉御代官竹垣庄藏より、在所家來共迄、申來候間、兼て手當申付、人數、早速、差出申候。尤、拙者領分相良・福岡[やぶちゃん注:同じく「吉田村」のかなり南西。]濱續の儀にも候間、人數手配等、申付置候段、彼地家來共より申越候。御用番え、御屆申上候旨、昨七日申越候。

 同日            太田攝津守

去二日、大井川邊、川尻村[やぶちゃん注:「ひなたGPS」で確認出来。大井川河口先端右岸。]境、海上に、異國船相見候旨、領分吉宗[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版に『(永カ)』と編者注があり、これで納得。「吉永」は飯淵の北に接する村で「ひなたGPS」で確認出来。]村より注進申出候間、早速、見分の者差出候處、海上、凡、五、六丁餘、隔、三十間餘も可ㇾ有ㇾ之相見候。船、帆柱三本立、碇、卸し、人數、四、五十人も乘候樣子にて、白き旗、又、赤き旗にて、磯の方に向招候得共、高浪にて難相分、多分、唐人商船に可ㇾ有ㇾ之趣に御座候。依ㇾ之惣人數、差出候旨、在所より申越候間、此段、御用番に御屆申上候旨、昨七日申越候。

   尾藩秦鼎手筒【二月四日、所郵附全文は、下に見えたり。】

扨、遠州へ唐船漂着、大騷動、遠州は稻佐風の海賊、日本一の名所、大晦日夜は、海中、幽靈の出現日、殊に、薄暮より、風雨つよき丑滿頃、漂流破船、押來之樣子にて、海賊ども、「天のあたへ、よい正月せん。」と、我一に小舟こぎ出し、仰みれば、船の異體なるに驚き、しばしタメラフほどに、松明・燈炎[やぶちゃん注:「ともしび」と訓じておく。]の光に、鬚の長き、異類・異形の物、見ゆれば、「ヤレ、幽靈よ。」と、にげ歸る。曉天になれば、金鼓、コキ、來る【これは元朝の祝の樂なり。】これにて、遠州諸侯、大騷動、此から御察しあれば相分るゝ事也。此圖書どもは、はや御通覽か、難ㇾ測候へ共云々。

[やぶちゃん注:「秦鼎」(はたかなえ)は儒者で尾張名古屋藩に仕えた秦滄浪(そうろう 宝暦一一(一七六一)年~天保二(一八三一)年)。美濃出身。鼎は名。寛政二(一七九〇)年に同藩に入り、翌年、藩校「明倫堂」典籍となり、後に教授となったが、驕慢で失脚したという。古書の校定を好み、「国語定本」・「春秋左氏伝校本」などをものしており、また三巻三冊から成る随筆「一宵話」(ひとよはなし)がよく知られる。

「稻佐風」(いなさかぜ)辰巳(南東)の風であるが、特に台風期の「強風」を指して言う。ここは、「特に荒っぽい」という形容であろう。

「元朝の祝の樂」は旧習。言わずもがな、当時の中国は清代。]

貴船唐山耶。將外夷耶。洋中不ㇾ辨ㇾ何。是暴風所ㇾ漂。想有損壞、鐵錨之類有ㇾ失否。柴米水菜之類有ㇾ乏否。貴國所ㇾ發之地。及船主之姓名。開駕漂著之月日。通船人名數行年州里。且船中帶品物。請審筆示ㇾ焉。[やぶちゃん注:「開駕」(かいが)「駕」は他者の往来を敬って言う語で、ここは「御出航月日」の意。]

 文政九年丙戌正月朔 日本遠州榛原縣

              海 岸 邑 正

 呈漂流船主

[やぶちゃん注:「海 岸 邑 正」海辺附近の村(「邑」)を管理監督する「正」規の役人・町役人の意であろう。以下が難破船からの返答であろう。中国語でよく判らない箇所があるが、以下読み進めると、どうも、この清の難破船には、ずっと昔に邦人の漂流者複数名を救助しており、その連中が、たまたま、同船していたらしいことが判ってくる。]

 本船在ㇾ唐。于十一月廿四日乍浦開行。

 往長崎貿易幷護送。

貴國漂流商民三人。本船共計已百十六人。因風不順。今于正月初一日漂收。

貴地 口前寄ㇾ掟。但風浪甚大。恐ㇾ有不測。伏乞俯念。遠商在ㇾ洋日。久苦楚異常。速卽禀明[やぶちゃん注:「りんめいせり」で、「詳しく説明する」の意か。]。

大頭目大人。餝備小船。將大船進内山嶴中。暫爲寄碇。再行縴送長崎。幷給附柴米各物。萬勿遲延是憾。[やぶちゃん注:「縴進」で、「縴」(音「ケン」)は「綱を以って引きつつ進む」の意。前の部分から「附属装備する小船を以ってタグ・ボート風に」という意であろう。「内山嶴中」「ないざんおうちゆう」と読んでおくが、よく意味が判らない。「嶴」は後に出る「岙」も同字で、名詞で、浙江省・福建省などの沿海地方で多くは陸の地名に用いて山間の平地を指すが、どうも馬琴の言っている「奥州」の誤りのような気がする。]

 計開、[やぶちゃん注:意味不明。「因みに当方の所持する対象物の数値を示すと、」といった謂いか?]

 一小船一百艘。[やぶちゃん注:小船は百艘もあるというのか? よく判らぬ。]

  文政九年正月初一日 寧波船主揚啓堂

 竹筒内有呈一張

貴國漂流民人長吉等十二人。于庚辰年十二月初九日。左岙州島船。𪳾魚油等物出口。往來國貨賣。過東北大風損傷。大桅隨ㇾ風漂流。于次年正月二十日暹羅沿海地方。搭數上岸。上年六月初三日。附搭金福全船。至七月十八日門口。二十九日起身。至八月初九日福州。九月十四日起身。十月十五日到乍浦。原船出口共計十二人。右暹羅亡遇五人。現存七人。兩扁「得泰」[やぶちゃん注:本船の名前。]全勝二艘。護送到長崎。「得泰」護送三人【解按、左「岙」之「岙」、恐「仚」之誤。「仚」與ㇾ「仙」同。左「仚」、卽、「仙臺地方」云歟。再按、「岙」此「嶴」之誤。當ㇾ作「奥州」。「左」、亦、「在」字之誤耳。】。

  計開、[やぶちゃん注:以下の「一」の後は恣意的に一字空けた。]

一 長吉。

一 鶴松。

一 喜太。

 「全勝」船、護送、四人。

  計開、

一 蒼(くら)松。

一 淸祐(すけ)。

一 米祉(よねじ)。

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版は『米社』。あり得ない名で、誤判読か誤植である。]

一 榮祐。       船名   得 泰

上書。護送貴國人名册。 船主   揚啓堂

         南部大膳大夫領分

          奧州閉伊郡

           山田村百姓

                 長 吉【歲三十六歲。】

           そけい村百姓

                 喜太郞【歲二十五歲。】

           同村百姓

      筒   松 歲二十八歲

      右中口

私共儀、唐船え、乘込、遠州へ漂着の上、當湊え、御引入に相成、此度於二元船。始末御糺に御座候。

此度私共儀、大法大領船越浦、黑澤屋六之助船、仲船頭平之丞等、水主倉松、淸助、龜之肋、久米兵衞、伊勢松、米次、私共【此乘組十二人の内、久助といふものあるべし。下に見えり。脫字ならん。右久助を加て、十二人也。この餘、本文の内、誤脫、少からず。聊、意をもて、補ひつゝうつしとりぬ。】二人、幷、炊[やぶちゃん注:「まかなひ」か。]榮助共、都合、十二人乘組、右六之助、商荷物・粕油・大豆・鹽・肴、幷、大つち村々より御領主へ納候干肴類之由、樽詰莚菰包、幷、江戶御屋敷え、差出候分、書面・荷物共、江戶問屋へ相屆候分、一同積入、七ケ年以前、去る辰年十一月廿六日[やぶちゃん注:文政三年。グレゴリオ暦では一九二〇年十二月三十一日。]、大つち領[やぶちゃん注:岩手県上閉伊郡大槌町か。幕府領。新巻の塩鮭を始めとして海産物を江戸・上方・長崎などに送った場所として栄えた。]、出帆、順風にて、十二月七日、仙臺領「とりなん湊」へ入津、滯船。同九日、同所出帆、同十二日、雨雪にて、地方[やぶちゃん注:「ぢかた」。陸。]を見失ひ、房州沖に漂。同夜、戌亥[やぶちゃん注:北西。]の强く、洋中へ被吹流。同十五日晝、あかの道付候間[やぶちゃん注:「あか」は水の智眼的な浸水で、それを「防ぐ術(すべ)が完全に尽きてしまったので」の意であろう。]、無ㇾ據打荷いたし、同十四日、大時化にて、帆柱も切捨候處、方角を取失ひ、いづ方より吹候風共、不相辨、被押流。同十五日、風少し靜り、あかの道を塞ぎ、同十六日、桁[やぶちゃん注:「けた」。船本体の内側の支えとしている材。]を帆柱に致し、陸の方を心差、走參候處、又候、同十九日、戊亥の風强く、被吹流、雨雪にて時化に相成、同廿二日、大あれにて、又候、打荷致し、同夜、揖を折、船中の者共、力を落し、一同、神社を祈、綱を揖に致し、流次第に相成、翌巳年正月六日、丑寅にて彼押流候處、洋中、至て暖氣に相成、奧州邊、六、七月頃の時候同樣にて、然處、追々船中呑水無ㇾ之難儀致し候處、同十九日より雨降、漸、呑水を取、尙又、廿日、大時化に相成、同夜、俄に波音聞付候間、地方へ着候儀と心付、碇を入候得共、保兼、磯ヘトモを當候間、一同上陸之支度致し、船頭平之丞は、浦賀御番所御切手・海上通手形持參、てんま船を卸し、乘移、一同乘込候處、磯、惡敷[やぶちゃん注:「いそ、あしく」。]、元船、破船、粮米共外、打捨、てんま船も水船に相成、乘組十二人の者共の内、平之丞・龜之助は溺死いたし、殘十人の者共、漸、一命を助り、上陸致し候處、兩人、死骸成[やぶちゃん注:「なり」。]とも見付度[やぶちゃん注:「みつけたく」。]、海邊、種々、相尋候得共、何分、見當[やぶちゃん注:「みあたり」。]兼候内、間もなく、夜明、廿一日も同樣、相尋候得共、見當不ㇾ申、人家も不ㇾ見候間、其夜は無是非、草木有ㇾ之山に相臥、廿二日、山へ登り見候處、遠方に小屋相見候に付、尋參候處、木の葉にて、厚さ三寸位に家根を葺、四壁共、同樣にて圍設[やぶちゃん注:「かこみまうけ」。]、丸竹を敷置候小屋にて、男は丸裸、女は木の皮樣の物を卷、男は手首より指先迄、腰より下、兩足黑節迄、入墨致し、女は、腕より爪先迄、竪筋に入墨致し、男女共、顏へ赤土樣の物を塗り、鬼形のごとく怖敷[やぶちゃん注:「おそろしき」。]姿にて、大勢、駈集、何角[やぶちゃん注:「なにかと」。]、私語・奔走致候處、間もなく役人體の者にも可ㇾ有ㇾ之哉、一人、罷越、差圖致し、食用として、私共へ、芋根樣の物を爲ㇾ給[やぶちゃん注:「たべさせ」。]、一軒に一人宛、引取、被養[やぶちゃん注:底本に『マヽ』傍注有り。]臥候節は、小屋一軒、兼て、請取置、十人一所に臥、夫[やぶちゃん注:「それ」。]、食は前書の品、朝夕、一つ、二つ宛、宛行候に付、當座は給足[やぶちゃん注:「たべたり」。]不ㇾ申候得共、追々、腹中、馴、飢にも及不ㇾ申、衣類も、追々、着破れ候得共、寒暑の差別もなく、凡四ケ年程も右場所に罷在、尤、何事にても不ㇾ仕、扶助而已[やぶちゃん注:「のみ」。]請罷在候内、久米兵衞・久助、相果候間、木の葉にて編候蓙に包、土中に埋置申候。且、言語の儀、一向不相分候得共、ハラヲとか申樣にも相聞候島にて[やぶちゃん注:「ハラヲ」フィリピン東方の「パラオ」か。]、夫より、未年七月中頃にも可ㇾ有ㇾ哉、影以馴・不二見馴一大船罷越、滯船、翌申年[やぶちゃん注:文政八(一八二五)年。]八月始比にも可ㇾ有ㇾ之、右船、出帆の體に付、手眞似等致し相願、右船へ爲ㇾ乘貰ひ、出帆の節、右島、形、海中より及ㇾ見候處、凡、竪二十四、五里程も可ㇾ有ㇾ之島に相見申候。夫より、八日程も西の方へ走り、ノレラン[やぶちゃん注:不詳だが、石川榮吉氏の論文「接触と変容の諸相 江戸時代漂流民によるオセアニア関係史料」(『国立民族学博物館研究報告別冊』(一九八九年二月発行)所収。国立民族学博物館学術情報リポジトリ「みんぱくリポジトリ」のこちらからPDFでダウン・ロード出来る)に本篇の日本人の漂流の方の事実が紹介されており、それによれば、パラオからはナマコ集荷に来た外国船に乗せて貰い、ヴェトナムに行き、マカオに移り、さらに転々とした後、浙江省乍浦(さほ:現在の浙江省嘉興市平湖市乍浦鎮)に至ったとあるので、ヴェトナムのどこかであろう。]と申候處の湊へ着船致、上陸間もなく、唐人體の者、罷越候間、乘組の内より、「日本人」の由、書付遣候處、人家へ引入、大切にいたはり吳申候。右場所の儀、家居の樣子、瓦葺にて、四壁とも、石にて疊上げ、相應の人家有ㇾ之、去酉六月三日、唐船參候間、爲ㇾ乘貰ひ、其節、八人の者へ、丸金四十枚、貰請、夫より出帆、同月十七日、船中にて、伊勢松、病死致し候節、「船には難差置」旨に付、無ㇾ據、海中へ捨、七月十八日、鴈門と申所へ着船いたし、同所、取扱を請。右場所の儀も、家居、瓦葺、四壁、漆食[やぶちゃん注:「しつくひ」。「漆喰」。]にて、又、家も相應に有ㇾ之、同廿九日、竹にて編候かご樣の物に被乘せ[やぶちゃん注:ママ。]、役人、差添、繼送[やぶちゃん注:「つぎおくる」。]。其節も、丸金にて、人々、二枚づゝ貰ひ受、八月七日、福州と申所へ着、同所、取扱を受、古衣類等、貰ひ請罷在。九月十四日、同所出立、同所にても役人、付添、或は陸路を步行[やぶちゃん注:「ありき」。]、或は川船にて下り、道中いたし、十月十五日、乍浦へ着、同所、取扱を受、衣類・羽織等迄も、日本風に致し貰ひ受候儀にて、同所に罷在候内、長崎商船出候間、倉松・淸助・米次・榮助、右四人は、十一月十九日、別船に乘、出帆致し、私共三人は當船へ乘船いたし參候内、洋中にて難風に逢ひ、此度、漂着仕候儀に御座候。尤、丸金貰受候分、彼地にて兩替いたし、追々、遣拂[やぶちゃん注:「つかひはらひ」。]、當時の着用衣類、幷、遣殘り錢等而已、所持罷在候儀に御座候。但、私共三人の内、長吉・鶴松は、女房、有ㇾ之、喜太郞は獨身に御座候。右御糺に付、相違不申上候以上。

 戌正月廿一日       長 吉左大指爪印

              喜太郞右同斷

              鶴 松左同斷

    羽 倉 外 記 樣

    竹 垣 庄 藏 樣

通船人數計開、

船主劉景筠【在留長崎。】   五十四歲 杭州人

[やぶちゃん注:「船主」唐船の荷主に代わって貿易業務の一切を主宰する人物を指す。]

同 揚啓堂        二十七歲 平湖人

財副朱柳橋        四十八歲 同

同 劉聖字        三十一歲 杭州人

[やぶちゃん注:「財副」積荷管理を担当し、船主を補佐する要職。]

顆長洪廷機        五十二歲 侯官人

[やぶちゃん注:「顆長」航海に於ける技術面を担当する現在の航海士の最高責任者。]

總官鄭資淳        四十一歲 長樂人

[やぶちゃん注:「總官」:船主の事務を処理して、船員を統率する事務長相当職。]

舵工郭光柱        四十歲  閩縣人

[やぶちゃん注:操舵の監督・責任者。]

同 傅照使        四十六歲 同安人

目侶曹發生        三十歲  長樂人

[やぶちゃん注:「目侶」(もくりよ(もくりょ))は一般船員。]

  傅分使        三十六歲 同安人

  陳忠信        四十八歲 寧波人

  游來文        三十歲  侯官人

  傅藏使        二十四歲 同安人

  鄭友波        三十六歲 閩縣人

  嚴五枝        四十歲  侯官人

  徐愈使        三十四歲 同安人

  傅忠使        三十五歲 同

  洪文科        三十一歲 同

  玉亭進        四十一歲 閩縣人

  曹用弟        四十二歲 同

  黃國文        三十六歲 侯官人

  傅騰霧        二十九歲 同安人

  呂疊使        四十三歲 同

  曹敍林        二十七歲 平湖人

  洪繼倫        三十五歲 侯官人

  高畑弟        三十九歲 同

  吳志就        三十六歲 同

  慮志揚        三十八歲 侯官人

  洪三捷        三十五歲 同

  林子暇        三十六歲 同

  劉鏡弟        四十四歲 長樂人

  洪仁聲        二十七歲 侯官人

  陳雲漳        四十三歲 閩縣人

  鄭法第        二十四歲 同

  鴆在彩        四十二歲 福州人

  高享泰        四十六歲 侯官人

  林德揚        四十歲  閩縣人

  林文光        三十八歲 長樂人

  林永暢        三十五歲 同

  鄭照鳳        四十歲  同

  鄧朗弟        二十五歲 同

  高煒弟        二十三歲 同

  陳克奕        四十二歲 同

  王家榮        二十八歲 同

  鄭國禎        二十七歲 長樂人

  盧玉琳        四十歲  寧波人

  周有利        三十歲  同安人

  林克新        三十歲  侯官人

  黃杏使        三十八歲 同安人

  强 六        □□歲  同

[やぶちゃん注:年齢はママ。]

  載大椿        三十二歲 平湖人

  張 湧        五十二歲 同

  陳福使        三十三歲 蘇州人

  葉留度        三十五歲 同安人

  揚習奎        四十歲  平湖人

  曹住弟        二十八歲 同

  董老大        二十六歲 長樂人

  王神童        三十六歲 閩縣人

  傅交使        三十歲  同安人

  王湓使        二十三歲 同

[やぶちゃん注:「湓」は「ほん」と読む。]

  周守使        三十四歲 同

  陳九使        三十一歲 同

  李墜使        二十八歲 同

  王溫使        二十一歲 同

  林阿取        三十三歲 同

  謝阿小        三十三歲 同

  姜江鎭        二十三歲 同

  傅祖癊        三十歲  同安人

[やぶちゃん注:「癊」は心臓の病名。或いは「痕跡・傷痕・血痕」の意で人名としてはおかしい。吉川弘文館随筆大成版は「蔭」とする。松浦章氏の論文「江戸時代における漂着唐船に関する一・二の資料――得泰船筆語を中心に――」(一九八〇年三月発行『関西大学東西学術研究所紀要』所収・ネット上でPDFファイルでダウン・ロード可能)の「通航一覧続輯」巻三六所引の「唐船漂着之記」の乗組員名簿を見たところ、「傅祖廕」となっており、これが正しいか。

  許安使        二十二歲 同

  邱君使        三十八歲 鄞縣人

[やぶちゃん注:「鄞」は「ぎん」と読む。]

  陶阿曹        四十七歲 同安人

  陳川使        二十八歲 同

  張純使        二十八歲 同

  陳尙德        三十歲  閩縣人

  陳道筆        三十二歲 龍溪人

  鄭攘使        三十歲  平湖人

  陳家相        四十八歲 同安人

  陳城弟        五十歲  惠安人

  黃振聲        三十七歲 福州人

  張淸興        三十八歲 同

  黃驥弟        三十八歲 同安人

  黃攘使        三十五歲 福州人

  王燕使        三十二歲 長樂人

  陳琳第        三十七歲 同

  鄭義盛        三十五歲 閩縣人

  何素文        四十五歲 同安人

  劉老使        三十六歲 同

  傅意使        二十二歲 長樂人

  博爾使        三十七歲 同

  王井使        三十一歲 福州人

  蘇錫連        四十二歲 同安人

  胡起龍        四十歲  同安人

  張慶元        三十二歲 同

  潘四觀        三十五歲 同

附搭黃國通        三十六歲 平湖人

[やぶちゃん注:船舶による貿易実務の担当者。]

  傅仙使        三十歲  同

  姜倫第        六十歲  同

  杜相第        二十九歲 同

  林奕弟        三十二歲 侯官人

  雛仁文        四十二歲 長樂人

隨便薛長生        三十二歲 同

[やぶちゃん注:「隨便」意味不明。現代中国語では、よい意味ではない。]

  錢 順        三十九歲 侯官人

  張得利        二十九歲 閩縣人

  袁 貴        三十五歲 侯官人

  吳四貴        三十二歲 同

  薛 渭        四十五歲 蘇州人

  張雙福        三十五歲 同

  頎順祥        二十一歲 蘇州人

[やぶちゃん注:「頎」は「き」と読む。]

  鄔 三        四十二歲 同

[やぶちゃん注:「鄔」は「う」と読む。]

  康福生        二十四歲 杭州人

  姜 全        三十一歲 蘇州人

  載言寶【護送通事】  三十一歲

   以上其計一百十六人

 文政八年        船主  劉 景 筠

             同   揚 啓 堂

             財副  朱 柳 橋

             同   劉 聖 字

             總 官 鄭 資 淳

 浦湊、酉十一月廿四日、出帆。

 寧波船【長四十間[やぶちゃん注:七十二・七二メートル。朱印船を一回り小さくしたかなりの大船である。]、巾八間[やぶちゃん注:十四・五四メートル。]。】

 帆檣【長十七丈二尺[やぶちゃん注:五十二・一二メートル。]、𢌞り二丈四尺[やぶちゃん注:七・二七メートル]。】

 船、水際より下、一丈八尺[やぶちゃん注:五・四五メートル。]。水上見上げ迄、二丈八尺[やぶちゃん注:八・二四メートル。]。總、高さ四丈六尺[やぶちゃん注:約十三・九四メートル。]。

 椗[やぶちゃん注:「いかり」。「碇・錨」に同じ。]三挺、長六間[やぶちゃん注:十・九四メートル。]、一挺目方、五百貫目[やぶちゃん注:一・八七五トン。]。

 綱𢌞り、凡、二尺餘。シユロ繩。

正月二日に、四斗樽一つ、船より、陸へ、流來る。右樽の上に、「竹筒内、有書翰。」と、札、付あり。

 米・薪水・玉子・豆腐・鮮魚。

 雛・木・ロハ【「ロハ」は「豆」之誤歟。】・大豆・刀豆、一斗。

 「得泰」船貨數。

 大呢【「呢」は泥。】・㕷吱【「㕷吱」は喎吧。[やぶちゃん注:㕷吱」(「かくし」か)も「喎吧」(「かは」か)も読みも意味も不明。識者の御教授を乞う。先の松浦章氏の同引用の荷物を見ると、「呷吱」「二箱」とあるが、やはりこの熟語でも正体が判らない。]】・藥材・糠・貸材。

 大淸福州寧波、船主、程氏揚啓堂。

百十六人乘。

 外【「外」、當ㇾ作ㇾ「内」。】に三人、日本、大土浦、黑澤屋六之助船、十二人乘、船頭、平之丞。是は奧州南部、宮古之人。

文政三辰年十一月廿六日、房州沖より被吹流、十二人の内、五人、死、七人、殘。

大淸國へ上陸の節、右七人の内、四人は外船へ、三人は此船へ乘。戌正月朔日、遠州住吉へ漂流着。六之助船水主[やぶちゃん注:「かこ」。]の者中[やぶちゃん注:「もののうち」。]、天竺「バラキ」と申島[やぶちゃん注:不詳。インドネシアのバリ島か?]へ、被吹流、「リス」[やぶちゃん注:不詳。イギリスか?]と申國の船、來り、此船を賴み、「メㇾラン」[やぶちゃん注:先の「ノレラン」と同じであろう。]と申國へ參り、同所より、大淸へ送る。

「バラキ」と申島は、芝と蘆の住居にて、蔀[やぶちゃん注:「しとみ」。]、なし。男女とも、丸裸。男は兩手・兩股に入墨あり。女は、なし。但し、バラキえ、巳正月廿日、漂流着。

[やぶちゃん注:以下二段落は底本では全体が一字下げ。]

右、唐船を長崎まで送り遣さるゝとき、林家より、筆談の爲、學問所の諸生二人を、遠州までつかはして、同船せしめらるゝといふ。この諸生等、歸府の後、必、異聞あらん、たづぬべし。

右、唐船紀事二本を、輪池翁の見せられしかば、二本を合して、その誤脫を補寫し卒[やぶちゃん注:「をはんぬ」。]。

  丙戊[やぶちゃん注:文政九](一八二六)年。]春三月廿九日

 

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 消息

 

  消  息

 

山は山の上に重つてゐる

ふかい谷の底では

瀧が流れてゐる

白い人間のむれが峯から峯をあるいてゐる

いちいちそんな愁をかんじてゐる

  *

おれは仙術をまなびたい

  *

見あげても見あげてもいただきの見えない山だ

その山をよぢのぼらうとして

おれの手はふるえた

まだらにゆるる手

 

  *これらは同じ紙片に書かれ、それぞれ獨立したものか、聯關するものかは定かでない。

 

[やぶちゃん注:筑摩版全集の「未發表詩篇」にソリッドに纏めて載っている酷似するものがある。□は筑摩版編者の判読不能字。誤字(「及はぬ」「ふるえた」)・脱字らしきもの(「ねこんで」(「ねころんで」か)・「よぢのぼう」「ふるえた」)はママ。

   ◆

 消息

 

山は山の上に重つてゐる

ふかい谷の底では

ゆめのやうないちにちほそい瀧が流れてゐる

白い人間の足が山の頂上 山のいたゞき峯から峯をあるいてゐる

いちいちそれをんな愁をかんじてゐる。

さびしい

靑い 靑い疊の上に ねこんで 座りこんで、

  *

 □□をみる

虫けらでさへ□きあるものを

おれは仙術をまなんでみたびたい、

 

山の頂は

眼にも及はぬ

見あげも見あげてもいたゞきの見えない山だ、

その山をよぢのぼうとして

おれの手はふるえた

まだらにゆるる手

 

   ◆

削除された「□□をみる」については、編者注があり、この『行は、他の行より少し下げて書かれており、題名かともみられるがはっきりしない。』とある。ともかくも整序して見る。なお、流石に「よぢのぼう」は「ら」を補った。

   ◆

 

 消息

 

山は山の上に重つてゐる

ふかい谷の底では

瀧が流れてゐる

白い人間の足が峯から峯をあるいてゐる

いちいちそんな愁をかんじてゐる。

  *

おれは仙術をまなびたい、

 

山の頂は

見あげも見あげてもいたゞきの見えない山だ、

その山をよぢのぼらうとして

おれの手はふるえた

まだらにゆるる手

 

  ◆

以下の有意な異同がある。

(本篇)「白い人間のむれ」→(筑摩)「白い人間の足が」

(本篇)〈第三連の頭〉✕→(筑摩)「山の頂」

しかし、「むれ」のひらがなを圧縮して書くと「足」と誤判読する可能性がないとは言えない。「山の頂は」次行とのジョイントが悪いから、例えば私ならカットする。されば、これは同一原稿である可能性が高いように思われる。]

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(ふかい路を下つてゆくと) / 筑摩版全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』に載る草稿を整序したものと酷似する(恐らくは同一)詩篇

 

  

ふかい路を下つてゆくと

たうたうといふ水の音がきこえた

どこかでおほきな瀧が流れてゐる

どこかに夢のやうな神が眠つてゐる

山みちをこえる旅びとは

 

[やぶちゃん注:「」は本底本では判読不能字を示す。筑摩版全集では、まず、前部が強い相似を示す詩篇が「未發表詩篇」に以下のように載る。「とうとうと」「みやまりんどう」の表記はママ。「どこかに夢のやうな橋がながれてゐる」はちょっと不審なフレーズだが、ママ。

   *

 

 

 

ふかい山みちを步いてゐる

とうとうといふ水の音がきこえるやうだ

どこかに夢のやうな橋がながれてゐる

 

高い山みちにはのいたゞきには

みやまりんどうの花が咲いてゐた

 

   *

ところが、後に筑摩版編者によって、『本稿は『月に吠える』の「海水旅館」』(決定稿はこれ。リンク先は私のブログの正規表現版)『の草稿と同一用紙の左上方に書かれている。別稿にもとづき一行目末尾に「と」を補った(本卷四九一頁參照)』(これは筑摩版編者の分をはみ出た不当な捏造であるから、上記の電子化では除去した。何より、せめても、その別稿を総て活字化すべきであろう)。『また三行目の「橋」は草稿では瀧となっている。』とある。そこで、その参照指示のある、同全集同三巻の『草稿詩篇「未發表詩篇」』の方を以下に示す。仮題は『○(ふかい山みちを步いてゐると』で、『(本稿原稿二種二枚)』とあるものである。

   *

 

 

 

ふかい 山路を下つてゆくと

たうたうといふ水の音がきこえた

どこかで 夢のやうな建築がある

しぜんに谷の底から

溫泉のどこかでおほきな瀧が流れてゐる

どこかに夢のやうな建築が眠つてゐる

山みちを 建築 たよりない旅びとの心が つかれた旅びとの心に

山みちのくらい竹やぶ のかげから にそふて

山みちをこえる旅びとは眼をあげてみると

まるい山の上にまた山が重なつてゐた、

 

   *

而して、以上の後に、ポイント落ち全体が二字下げで以下の注記がある。

   ◆

*同じ用紙の前半に次の一行及び四行が書かれている。

 

 ながるるごとき風の海濱の砂丘の上に

 

 高い丘を風がながれていゐる

 風はながれるや

  風にふかれてたゝずむ

 草をの花

 

*また同じ用紙裏面には「(ふかい山みちを步いてゐると)」本文と、『月に吠える』の「海水旅館」草稿とが書かれている。

   ◆

とある。しかし、先に掲げた筑摩版の二種の草稿の後者を整序してみると、

   *

 

 

 

ふかい山路を下つてゆくと

たうたうといふ水の音がきこえた

どこかでおほきな瀧が流れてゐる

どこかに夢のやうな建築が眠つてゐる

山みちをこえる旅びとは

 

   *

となって、本篇と酷似することが判る。一行目の「ふかい 山路を下つてゆくと」の抹消線が下方の山の最終画に触れていれば、それも削除対象と判読してもおかしくなく、「建築」も、見えない大きな瀧の瀑布音がする、山越えをせねばならぬ奥深い山中に、幻想の「建築」があるとは普通は思わないから、朔太郎のひどい崩し字の「建築」を「建築」とは読めず、それらしい「神*」と誤って読んだとしても、これまた、おかしくない。小学館編者の見たのは、まさしく、この筑摩版に載る後者の原稿であったと私は断言するものである。

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(さびしい夢から眼がさめると)

 

  

 

さびしい夢から眼がさめると

わたしはふかい谷の底にねむつてゐた

どうどうといふ瀧の音がきこえる

この人里はなれた山の奧で

いましづかに夢をみてゐたのだ

 

[やぶちゃん注:本篇は筑摩書房版全集では『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』にあるが、小学館版「萩原朔太郞全集」元版の「別册 遺稿上卷」からの転載であり、既に原稿が失われていることが判る。さらに、実は、不審がある。この筑摩版の『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』は以上の通りの転載であることが、既出の「利根川の松林」を巻頭としてあるのだが、その「利根川の松林」の最後には、『利根川の松林」以下』「路次について」(既出)『までの三十二篇は小學館版『萩原朔太郞全集遺稿上』より轉載。』とあるだけで、順序を入れ替えているという記載はないから、筑摩書房版全集『草稿詩篇「原稿散逸詩篇」』の同転載詩篇の順序は親本のそのままと考えるのが普通である。ところが、少なくとも本コンパクト版底本では、本篇の次にある「(無題)(ひとのからだといふものは不思議なものだ)」が、前に置かれているのである。これは何を意味するか? それは唯一つだ。本底本コンパクト版「萩原朔太郎詩集」叢書は、やはり、元版である小學館版『萩原朔太郞全集遺稿上』(昭和一九(一九四四)年十月刊。下巻も同時刊行)からのただの抄出転載ではなく、独自のコンセプトで新編集されたものだということである(本底本「遺珠」は昭和二二(一九四七)年刊)。そこでは私は新たな遺稿(元版「遺稿」では未発見だった詩篇・遺稿・草稿・断片等々)が追加されたと考えるべきで、その過程で、詩篇の原稿用紙の連続性その他から、元版の詩篇の配置順列に変更をすべき事由が見つかったことなどもあったのではないか? でなくて、このような順序変更が生ずるはずがない、と私は思うのである。

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