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2021/12/10

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(ちつぽけな)

 

   

 

ちつぽけな

とげの生えた魚の子が

ちよろちよろと木にのぼつた

その木にさくらは銀いろの花をつけ

海はまつさをに光つて居た

この光る風景にひるがへり

魚はぴちぴちと鳴きそめ。

 

[やぶちゃん注:「ちつぽけな/とげの生えた魚の子が/ちよろちよろと木にのぼつた」というのは、「木登り魚」で、朔太郎は何かの怪しげな本で、アジアの南方に棲息する木に登ることが出来る魚がいるという記事を読み、朔太郎好みの格好のキャラクターとして登場させたものと推定される。タイプ種は条鰭綱スズキ目キノボリウオ亜目キノボリウオ科キノボリウオ(アナバス)属キノボリウオ Anabas testudineus であるが、私でさえも、小学校の低学年時から、ずっと成人した直後まで信じ込んでいた(今も最初に見たマングローブっぽい樹の根の上にデンと鎮座ましました彼らの想像の挿絵が鮮やかに甦る。いやいや! 例えば、あなたは『キノボリウオは本当に木に登るんだ』と今も信じているのでは?)木に登る稀有の魚「キノボリウオ」はこのアナバス属Anabasの複数の熱帯淡水魚類の総称である。中国南部から東南アジアに広く分布し、湖沼・河川にすむ。メコン川などでは、内陸の奥深くまで分布し、食用にされている。「木に登る魚」とまことしやかに言われているが、これは大噓で、高い木に登ることはなく、実際には、単に「一時的に地面を這う」行動をすることがあるに過ぎない。スコールや水位が有意に増大している状況下、十全に体表の水分が確保される場合に、一つの水溜まりから、他の水溜まりまで、胸鰭と鰓蓋(さいがい)を広げて体を支え、尾をくねらせながら、地面や樹木の枝などを移動する。また、雨期から乾期に変わって、水が引いてしまったあとの、僅かに残った水溜まりのような場所でも、有意に長く居残って生存することが出来るから、凡そ、乾季の川流れのなくなった孤立した樹林などのそれにいるのを見れば、「陸や木に登る魚」と誤認されたことは、判らぬではない。このような魚類としてはやや例外的な行動(肺魚などはもっと凄い)が出来るのは、空気呼吸を可能にする上鰓(じょうさい)器官(labyrinth organ)を持っていることに由来する。この器官は鰓腔(さいこう)の上方にある上鰓腔に於いて、第一鰓弓(さいきゅう)の上部が延長し、三枚、又は、それ以上の花弁状の粘膜に変形したもので、その表面には、毛細血管が多量に分布し、水ではなく、口から吸い込んだ空気を呼吸することが出来るのである。キノボリウオ亜目Anabantoideiの魚類は、総てがこの上鰓器官を持ち、左右の鼻骨が大きく、相互に、また、前頭骨とも、縫合していて、全体として中篩骨(ちゅうしこつ)を覆っている点でも共通している。現在、キノボリウオ亜目は十五属約七十種が、アフリカ南西部・インド・東南アジア・中国南部・朝鮮半島に分布する。本邦には分布しない(以上は主文を小学館「日本大百科全書」他に拠った)。また、当該ウィキによれば、『野生では体長』二十五センチメートル『程になるが、水槽内では』二十センチメートル『以上にはならない』。『キノボリウオという名が付いているが、実際は木に登ることはなく、実際には、雨天時などに地面を這い回る程度である。このような名が付いたのは、鳥に捕まって』、『木の上まで運ばれ、生きているのを目撃した人が、木に登ったと勘違いしたためである。このように地上に進出できるのは、同じ仲間のベタやグラミーと同様に、エラブタの中に上鰓器官(ラビリンス器官)を持ち、これを利用して空気呼吸ができることと、他の仲間と異なり、這い回りやすい体型のためである』。『現地では食用にもされている他、観賞魚としても流通している。 ベトナムでは』『米粉麺の料理の具』や出し汁として『利用される』とある。まだ、「いや! 木に登る!」と反論する方のために、平坂寛氏の記事「キノボリウオは本当に木に登るのか? 捕獲・実験・試食レポート(タイ王国・バンコク)」をリンクさせておく。キノボリウオの画像も豊富にある。冒頭の――恰もな写真――はフェィクであることを後で平坂氏は述べておられる。「木登り魚」は木に登らない、のである。

 さて、筑摩版全集の「未發表詩篇」に無題で以下がある。

   *

 

 

 

ちつぽけな

とげの生えた魚の子が

ちよろちよろと木にのぼつた

その木にさくらは銀いろの花をつけ

海はまつさをに光つて居た

この光る炎天の風景にひるがへる

浪々の穗の白き見 ゆる丘の上 の→を に太陽

遠き太陽をこえて

浪々の穗は白日の丘の上 をこえ

魚は いつぴきの魚がひつそりとすぎゆくパンのけはひし

魚はするどくさけびはじめた、ぴちぴちと鳴いて居たきそめ。

 

   *

以上に編者注が附され、『用紙の下方にやや離れて「陣□魚」[やぶちゃん注:「□」は判読不能字。]「つめた貝」と書かれている。』とある。整序してみる。

   *

 

 

 

ちつぽけな

とげの生えた魚の子が

ちよろちよろと木にのぼつた

その木にさくらは銀いろの花をつけ

海はまつさをに光つて居た

この光る風景にひるがへる

遠き太陽をこえて

浪々の穗は白日の丘の上に

魚はぴちぴちと鳴きそめ。

 

   *

後半に異同があるが、以上を見ても、推敲跡が激しく、次に示す別草稿では、筑摩版の編者が校訂した詩篇にさえ、珍しく『順序がはっきりしない』と音を上げているぐらいだから、本篇は以上と同じ原稿であると推定してよいのではないかと私は考えている。無論、以上のものでも、以下に示す別草稿でもない、別稿であると言えぬことはないが。

 また、筑摩版全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』には、この無題詩の別草稿が以下のように載る。歴史的仮名遣の誤りや衍字と思われるものや、誤字・脱字は総てママ。

   *

 

  

 

ちつぽけな

するどい

とげの生えた魚の子が

ちよろちよろと木にのぼつた

その木にさくらは銀いろの花をつけ

海はまつさをに光つて居た

この光る炎天にてらされて

まつぴるまに

木の上の魚は

するどく泣 いたのである、いて居た、

ああはるはると聲をあげて 空にくるめきつゝ

しみじみと淚をながして

風景は

この 南洋のまつぴるまに

しみじみと淚をながして

魚は にんげんは

太陽

とうとうとうたる遠瀨の音ばかり もたえ

ゆめみる赤道の そのときこのあたりの砂原をこの光る風景砂の上を

ひつそりとすぎゆくPANのけはひ

まつぴるの風景の中に

魚はするどくまつすぐに立ちあがつた

 

   *

「PAN」は縦組みである。これはギリシア神話に登場する牧羊神・半獣神のパーンの幻視であろう。ロケーションに合わないから、削除したのは腑に落ちる。以上には編者注があって、まず、『抹消部分、插入部分が多く、順序がはっきりしない。また、用紙の冒頭下方に、次の數行が記されている。

 この光る炎天にさらされて

 遠い風景

 ゆく舟見える舟の帆みゆる遠海に

 いつぴきの魚の子が

 樹上にするどくたつて泣いて居た』とあり、さらに『用紙の左上方離れた所に、「つめた貝」と書かれている。』ともある。これも一応、整序してみよう。

   *

 

  

 

ちつぽけな

とげの生えた魚の子が

ちよろちよろと木にのぼつた

その木にさくらは銀いろの花をつけ

海はまつさをに光つて居た

この光る炎天にてらされて

木の上の魚は

するどく泣いて居た、

ああはるはるとくるめきつゝ

太陽

この光る砂の上を

まつぴるの風景の中に

魚はまつすぐに立ちあがつた

 

   *

萩原朔太郎にしてまず見ない「太陽」の独立熟語単独一行は、前後からも孤立してしまっており、削除忘れの可能性が高い。]

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