萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 黑い蝙蝠 (筑摩版全集の初出表記への不審有り)
黑 い 蝙 蝠
わたしの憂鬱は羽ばたきながら
ひらひらと部屋中を飛んでゐるのです。
ああなんといふ幻覺だらう
とりとめもない怠惰な日和が さびしい淚をながしてゐる。
もう追憶の船は港をさり
やさしい戀人の捲毛もさらさらに乾いてしまつた
草場に昆蟲のひげはふるへて
季節は亡靈のやうにほの白くすぎてゆくのです。
ああ私はなにも見ない。
せめては片戀の娘たちよ
おぼろにかすむ墓場の空から 夕風のやさしい歌をうたつておくれ。
[やぶちゃん注:初出は大正一一(一九二二)年七月号『日本詩人』。以下に示す。「だろう」「ふるゑて」はママ。
*
黑い蝙蝠
わたしの憂鬱は羽ばたきながら
ひらひらと部屋中を飛んでゐるのです。
ああなんといふ幻覺だろう
とりとめもない怠惰な日和が さびしい淚をながしてゐる。
もう追憶の船は港をさり
やさしい戀人の捲毛(まきげ)もさらさらに乾いてしまつた
草場に昆蟲のひげはふるゑて
季節は亡靈のやうにほの白くすぎてゆくのです。
ああ 私はなにも見ない
私は美の酒盃(さかづき)をすて 虛無のせうぜうたる洞窟へかくれてしまつた。
せめては片戀の娘たちよ
おぼろにかすむ墓場の空から 夕風のやさしい歌をうたつておくれ。
*
以上をタイピングしながら、珍しく、最早、絶対的権威として君臨している筑摩版「萩原朔太郞全集」で示された初出形の掲載には、不審を抱いた。「せうぜうたる」である。この「ぜ」に同全集編者は誤字の傍点「・」を打っていない。ここで「私」は、巷間の燦爛たる歓楽を捨て去り――もの寂しいひっそりとした――虚無の絶対の孤独の洞窟(グロッタ)の中へと隠れてしまった、のである。この意味の「せうぜう」に真っ先に相応しいのは「蕭條」(蕭条)であろう。しかし、この「蕭條」の歴史的仮名遣は「せうでう」である(現代仮名遣は「しょうじょう」)。或いは『同じ意味の「蕭蕭」だろ?』と言われるかも知れぬが、それは違う。何故なら、「蕭蕭」の歴史的仮名遣は「せうせう」であり(現代仮名遣は「しょうじょう」)、これは「せうぜう」と濁音化することはないからである(少なくとも私は、過去、濁点を打った読みを見たことはない)。私は朔太郎は前者の「蕭條(せうでう)」を彼にありがちな誤用で「せうぜう」としてしまったものと見る(想起されるイメージと表現方法からは「蕭蕭たる洞窟」というのは、しっくりこず、朔太郎でも使わない気がするのである)。とすれば、絶対消毒規定で校訂本文を「テツテ的」に無菌化している同全集の絶対規定からは、この「ぜ」には誤字を指弾する「・」が、なくてはならないのである。]
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