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2021/12/04

伽婢子卷之十二 早梅花妖精

 

[やぶちゃん注:挿絵は岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の鮮明なものを以下に掲げた。]

 

Soubaikanoyousei

 

   ○早梅花妖精(さうばいくわのえうせい)

 

 信州伊奈郡(いなのこほり)開善寺(かいぜんじ)の早梅花は、名におふ、たぐひなき名木にて、末だ冬至の前後より咲初めて、淸香(せいきやう)、四方に薰ず。近鄕隣村の人、心ある輩は、日每に、集まり、見る。元より、信州は陰氣がちにして、寒國(かんこく)也。冬は、雪、深く、消えぬが上に、又、降り積み、嵐、烈しく吹すさびて、なべての草木は、いとゞ遲く萠出(いづ)るに、此の寺の早梅花は、げにも「花の兄(このかみ)」として、淸寒(せいかん)に堪へて、綻(ほころ)び出《いで》つゝ、更に、其の時を、違(たが)へず。誰(たれ)か誠(まこと)に賞せざらん。

 その比(ころ)、村上賴平の家人《けにん》、埴科文次(はにしなのぶんじ)といふ者、心ざま、情け深く、武を學ぶ暇(いとま)には、敷き嶋の道を慕ひ、軍陣の砌(みきり)にも、陣所(じんしよ)の風景、面白きところにては、一首を綴りて、思ひをのべ、諸軍の興を催させけり。

 斯(かか)るやさしき男子(をのこ)なりければ、人、更に惡しくも思はず。

 其の比、甲州の武田、信州の村上、兩家、爭ひを起し、陣を張り、戰ひを決す。

 或る時、出陣のついで、

「開善寺の梅、今を盛り。」

と聞えしかば、文次、夕暮れ方(かた)、中間一人、具して、陣中をしのび出て、かの寺にうかれ行つゝ、香(か)を尋ねて、花に嘯(うそふ)き、

「南枝向ㇾ暖北枝寒(なんしはだんにむかひほくしはさむし)

 一種春風有兩般(いつしゆのしゆんぷうりやうはんにあり)」

といふ古詩を吟じける。

 月、すでに、山にのぼり、花に映じて、えならず、覺えければ、

 ひゞき行鐘の聲さへ匂ふらむ

   梅さく寺の入りあひの空

と、打ち詠じをる所に、此の邊(あたり)には思ひかけず、見馴れもせぬ女性(によしやう)一人、女(め)の童(わらは)、一人、具して、出來《いできた》れり。

 年のころ、廿(はたち)ばかりと見ゆ。

 白き「こうちぎ」に紅梅の「下がさね」、匂ひ、世の常ならず、月に、えいず。

 花に向ひて、

 ながむればしらぬ昔のにほひまで

   おもかげ殘る庭の梅がえ

と、よみて、少時(しばし)、休らひ居たり。

 文次、是れを聞くに、あやしみながら、堪へかね、近く立よりて、袖を引きつゝ、

「今宵の月に、光りを爭ふは、庭の梅のみか、君が姿と、袖のかをりも、同じ心に覺え侍り。」

なんど、戯れば、女、さしも驚きたる色なく、

「梅が香にいざなはれ、月に嘯く此の夕暮れに、やさしき人に逢ひ奉るこそ、嬉しけれ。」

とて、しめやかにもてなしける氣(け)はひ、此の世の人とも、覺えず。

 文次、則ち、中間に仰(おほ)せて、酒うる家を尋ねさせ、酒、買《かひ》求め、御堂(みだう)の軒に坐して、數盃(すはい)を傾け、醉(えひ)に和(くわ)して、語らひ、よりつゝ、

 袖のうへに落ちて匂へる梅の花

   枕に消ゆるゆめかとぞ思ふ

と、いひければ、女、返し、

 しきたへの手枕の野の梅ならば

   ねての朝(あさ)けの袖ににほはむ

と、詠(よみ)て、互ひに、わりなく契りけるが、數盃を傾けし醉ひにふして、夜、已に明方になり、東の空、橫雲、たなびきければ、夢、驚き、眠(ねふ)りさめて、起きあがりしに、文次、只、ひとり、梅の木の本《もと》に臥して、女も、めの童も、何地(いづち)行けむとも、知らず。

 明渡る空に、群鴉(むらがらす)の鳴く聲ばかり、月は西に落ちて、名殘りは我身にとゞまれり。

 昔、もろこしの崔護(さいご)と云ふ人、或る所の門の内に、桃の花、盛りに咲けるを見たりしに、諸友(もろ《とも》)に、酒のみ、歌、うたひしを、

「又、來春も、爰(ここ)にて逢はん。」

と契りしが、次の年の春、其の所に行けるに、女、更に見えざりしかば、門の戶の扉(とびら)に、

「去年今日此門中(きよねんこんにちこのもんぢう)

 人面桃花相映紅(じんめんとうかあひえいじてくれなゐなり)

 人面不ㇾ知何處去(じんめんはしらずいづれのところにかさる)

 桃花仍舊笑春風(たうくははむかしによつてしゆんぷうにえむ)」

と云ふ詩を題して書付けたり、とかや。

「夫れは、もろこしのためし。是れは、此の國の事也。又、後を、いかにとか契らむ。人ならば、又、巡りも逢ふべきに、是れは疑ひもなく、庭の梅花の妖精《えうせい》なるべし。」

と、袂(たもと)に殘る移り香(が)の、さながら、梅花の薰《かを》りに、たがはぬぞ奇特(きどく)なる。

 かくて、陣屋に歸りても、猶、其の面影の忘れ難く、夕暮になれば、そぞろに戀しく、淚の絕へる、ひま、なし。

 梅(むめ)の花にほふ袂のいかなれば

   夕ぐれごとに春さめのふる

「物ぢじきなく、世にすむかひも、有明のつきせぬ思ひに、くずをれて、こりつむ柴の歎きせむよりは。」

とて、其《その》次の日、打死《うちじに》しけり。

[やぶちゃん注:「信州伊奈郡(いなのこほり)開善寺(かいぜんじ)」長野県飯田市上川路(かみかわじ)に現存する臨済宗妙心寺派(現在)の畳秀山開善寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当該ウィキによれば、『寺伝によると、鎌倉時代に伊賀良荘に入部した四条頼基が創建し』、建武二(一三三五)年に『小笠原貞宗が清拙正澄』(せいせつしょうちょう:元の福州連江県に生まれ、鎌倉末期に来日して、北条氏の庇護を受け、南禅寺や建長寺のほか、五山派寺院の住持を歴任した。臨済宗大鑑派の祖。)『を開山として中興されたとされる』。暦応元(一三三八)年には『足利尊氏御教書により諸山に列し』、応永三(四四二七)年には『天与清啓の尽力により、室町幕府から十刹に列せられた』が、『室町時代後半になると寺は衰え』、明応八(一四九九)年には『火災による堂宇の焼失もあった。しかし』、天文一八(一五四九)年、『松尾城の小笠原信貴により復興され』、慶長六(一六〇一)年には、寺領三十五石に『なるまでに至った。この復興の頃、現在の妙心寺派に転派した』とある。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、本話の主人公の主人「村上賴平」のモデルの一人を、『信州葛尾』(かつらお)『城主(現長野県埴科』(はにしな)『郡坂城町』(さかきまち)『)村上頼衡(よりひら)』としており、調べた限りでは、頼衡なる人物は明応三(一四九四)年没である。但し、他にも別な没年や候補者を載せており、いちいち出さないが、それらの没年は永正一七(一五二〇)年、天文二(一五三三)年、天文七年とあるから、孰れも堂宇消失の後で、寺自体が最も寂れていた時期となり、二人の邂逅の背後の寺の様子は、実際には荒廃したものを想起してよいかと思われる(挿絵ではしっかりした建物が見えるけれども)。なお、岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」の脚注では、『武田信玄の菩提寺。快川和尚で有名。山門に二本の梅の木がある(『甲陽軍鑑』)』とある。

「花の兄(このかみ)」「このかみ」は「子の上」で「兄」となる。同前の高田氏の脚注に、『梅の異名。「梅花を花の兄ともいへり」(謡曲『難波』)』とある。

「淸寒(せいかん)」澄みきって切れるような厳しい寒さを指す。

「埴科文次(はにしなのぶんじ)」不詳。群名を名にに負うているので、土着の武家である。

「甲州の武田、信州の村上、兩家、爭ひを起し、陣を張り、戰ひを決す」「新日本古典文学大系」版脚注に、『村上家は、武田信虎と大永二年(一五二二)年頃より佐久郡を中心に戦った。とくに天文十七年(一五二二)、村上義清と武田信玄は信州上田原(現長野県上田市)で合戦に及び、義清が勝利した』とある。

「出陣のついで」「新日本古典文学大系」版脚注では、『信玄の伊奈侵攻が念頭に置かれたか。侵攻は天文十三年(一五四四)頃より開始され、上伊那は早く勢力下に置かれたが、下伊那は遅れ、天文末』(~一五五五年)『頃まで合戦が続いた』とある。

「南枝向ㇾ暖北枝寒(なんしはだんにむかひほくしはさむし) 一種春風有二兩般一(いつしゆのしゆんぷうりやうはんにあり)」宋の祝穆(しゅくぼく)編になる類書「古今事文類聚」(全百七十巻。一二四六年成立。先行する「芸文類聚」の体裁に倣って、古典の事物・詩文などを分類したもの)に、後に元の富大用が新集三十六巻・外集十五巻を、祝淵が遺集十五巻を追加し、総計二百三十六巻としたが、その「後集」の第二十八巻の「梅花」の「詩話」の「紅梅下婦人」の以下の一節。「中國哲學書電子化計劃」の影印本を視認しつつ(右手の機械翻字は致命的な誤りが甚だしいので参照すべからず)、「新日本古典文学大系」版脚注の書き下し文を参考に本文を確定した。後の訓読は後者を参考にした。

   *

蜀州有紅梅數本。郡侯建閣扄鑰。游人莫得見。一日有兩婦。髙髻大袖、凭欄語笑。郡侯啟鑰閣不見人。惟東壁有詩日、

「南枝向暖北枝寒

 一種春風有兩般

 憑仗髙樓莫吹笛

 大家留取倚欄干」。【摭遺。】

   *

 蜀州に、紅梅、數本、有り。郡侯、閣を建て、扄鑰(しやうやく)す[やぶちゃん注:門扉に鍵を掛けた。]。游人、得て見ること、莫し。一日、兩婦、有り。髙髻・大袖、欄に凭れて語り笑ふ。郡侯、鑰(かぎ)を啟(ひら)くも、閣に人を見ず。惟だ、東壁に、詩、有りて日はく、

 南枝は暖に向ひて 北枝 寒し

 一種の春風 兩般 有り

 髙樓に憑仗(ひようぢやう)して 笛吹くこと 莫かれ

 大家(たいか) 留取(りうしゆ)して 欄干に倚らん

と。【摭遺。[やぶちゃん注:「拾遺」に同じ。]】

   *

詩の意味は、

   *

 陽射しの当たる暖かな南の方の枝に対して、北の方の枝は、未だ、寒い。

 一つの春風は、それぞれの樹に結果としては等しく訪れるものの、二通りの至り方がある。

 高楼を頼りとして、その高みから、傲慢に笛を吹くことは、するな。

 真(まこと)を知る者は、それをよく悟って、静かに欄干に倚るであろう。

   *

といった感じか? 調べてみると、最初の二句は、しばしば禅の公案に出現する。

「ひゞき行鐘の聲さへ匂ふらむ梅さく寺の入りあひの空」「新日本古典文学大系」版脚注では、類歌として、藤原定家の「拾遺愚草」所収の(建暦二年十二月院よりめされし二十首)、

 雲路ゆくかりのは風も匂ふらん梅さく山の在明の月

を挙げる。私などは、本書よりも後代であるが、芭蕉の、

 鐘消えて花の香は撞く夕哉

の名句の方が遙かに好ましく想起される。現在、本句は天和・貞享(一六八一年~一六八八年)頃の作と考えられており、当時の芭蕉は数えで三十八から四十五歳である。

「ながむればしらぬ昔のにほひまでおもかげ殘る庭の梅がえ」「新日本古典文学大系」版脚注では、類歌として、「夫木和歌抄」の「春三」の「梅」にある式子内親王の一首、

 ながむればみぬいにしへの春までも面かげかをるやどの梅が枝

を掲げる。

「袖のうへに落ちて匂へる梅の花枕に消ゆるゆめかとぞ思ふ」「新日本古典文学大系」版脚注では、類歌として、「夫木和歌抄」の「春三」の「梅」にある式子内親王の一首(「新後拾遺和歌集」の「春上」では二句目が「垣ねの梅は」で載る)、

 袖の上に軒ばの梅はおとづれて枕にきゆるうたた寢の夢

を挙げる。

「しきたへの手枕の野の梅ならばねての朝(あさ)けの袖ににほはむ」「新日本古典文学大系」版脚注では、類歌として、同じ「夫木和歌抄」の「春三」の「梅」にある光俊の一首、

 しきたへの手枕の野の梅の花ねての朝けの袖ににほふらし

を挙げる。

「崔護(さいご)」唐の博陵(現在の河北省定県)出身。貞元一二(七九六)年に進士に登第した。引用される詩篇「題都城南莊」(都城の南莊に題す)と人面桃花の説話で知られる。昔からお世話になっている素晴らしい漢詩サイト「碇豊長の漢詩」の「題都城南莊」に詳しいので、是非、読まれたい。

「梅(むめ)の花にほふ袂のいかなれば夕ぐれごとに春さめのふる」「春さめ」は文次の涙であることは言うまでもない。「新日本古典文学大系」版脚注では、類歌として、やはり「夫木和歌抄」の「春三」の「梅」にある為兼の一首、

 梅の花紅にほふ夕暮に柳なびきて春雨ぞふる

を挙げる。

「物あぢきなく」「もの」は、「急に訳もなく(訳は判っているのだが)なんとも言えず、全くもって~(となる)」の意で(心的にして霊的なものである)、「つまらない」から「はかない・世は無常である」と思うことを指す。

「世にすむかひも、有明のつきせぬ思ひ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「かひもあり」「有明の月」「つきせぬ」を掛詞的に連続』させた『表現』とされ、「新古今和歌集」の「雜下」の慈円の一首(一七八三番)、

 いかにしてもいままで世には在曙(ありあけ)のつきせぬ物をいとふ心は

を元にするものとして掲げておられる。

「こりつむ柴の歎きせむ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「樵る」「嘆き」(「投げ木」と掛詞)は歌語。柴の木を切って積み上げる。転じて思いが募ること』とされた上で、『金葉和歌集・恋下・読人知らず』の一首(四九四番)、

 こり積むるなげきをいかにせよとてか君にあふごの一筋(ひとすぢ)もなし

を掲げておられる。「あふご」は「おうご」(古くは清音で「あふこ」)で「㭷・柺」などと書き、天秤棒のこと。伐り集めた薪を荷うためのそれであるが、同時に「逢(あ)ふ期(ご)」が掛けてある。

「其《その》次の日、打死《うちじに》しけり」このエンディングはショッキングであるが、私には清新に感ぜられた。それはあたかもセイレーンに魅入られた若き舟人が命を落とすように、慄然とした恍惚(エクスタシー)であるから――。]

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