曲亭馬琴「兎園小説外集」第二 ふるきはんじ物の盃考 馬琴
[やぶちゃん注:本篇も前篇同様、国立国会図書館デジタルコレクションの「曲亭雜記」の巻第三上のここからにも所収する。そちらでは多くのルビが振られているので、それを参考にして(「曲亭雜記」は歴史的仮名遣の一部に誤りがある)、《 》で読みを歴史的仮名遣で附した。]
○ふるきはんじ物の盃考【盃の圖は「返魂餘紙別集」下卷に貼したり。宜く合せ見るべし。】
津藩の博士《はかせ》、鹽田《しほだ》ぬし、ふるき盃を攜へ來て、予に「鑑定せよ。」といふ。こは、「同藩なる佐伯環《さへきたまき》てふ、ぬしのものなり。」とぞ。おそらく、鹽田ぬしも、得かんがへず、『ひろき津の人々も、思ひとくよし、なきものを、いかにして、予が知るべき。』と思ひつゝ、つらつら、見るに、徑りは匠尺《かねじやく》三寸九分、盃の底、あさうして、「今やう」と、おなじからず。盃中に蒔繪あり、龍頭人身、異形のもの、冠《かんむり》をいたゞきて、束帶せず、麁服《そふく》にして、圏中《まるのなか》に六曜《ろくえう》の紋、つけたる裳を、すこし、袺(つまはさ)[やぶちゃん注:底本及び吉川弘文館随筆大成版にルビ有り。]み、酒樽ひとつ、錢五百ばかり、肩にして、挑灯を引提げたり【挑灯にも、おなじ紋あり。】。そがあとへに歌舞伎冶郞《やらう》の、皂《くろ》き羽織を着て、一刀を帶びたるが、從ひゆくさまなり【冶郞の羽織に五三の桐の紋あり。】。下のかたに、水ありて、波、たかく立てり。水中に、蓮の花、さきたると、あし[やぶちゃん注:葦。]、一もと、あり。又、流るゝ「くゝり枕」、あり。波底《なみそこ》に沈みなんなんとせし半體《はんたい》を畫《ゑが》きたり。又、盃のうらにも、まき繪あり。こゝには、机に積みのぼしたる佛經、七卷ばかり、每卷に標題あり。「綉彌勒佛《しうみろくぶつ》」と讀まるゝが如し。いと細書《さいしよ》なれば、老眼に定かならず。そが左右に、「拂子」《ほつす》と、大筆《だいひつ》あり。机のかたへに筝《さう》の琴あり。琴のほとりに、硯箱一具と、料紙あり。料紙は、銀泥《ぎんでい》をもて、まきたるが、その銀、やけて、薄ずみ色になりたり。畫《ゑ》は當時の俗畫《ぞくぐわ》なれども、蒔繪の精妙なる、金粉の佳品なる、今の細工に得がたきものなり。
[やぶちゃん注:「盃」「さかずき」と訓じておく。
「返魂餘紙別集」(「はんごんよしべっしゅう」か。現代仮名遣)文化五年編の張り交ぜの雑記集(巻物)らしい。天理図書館藏。ネットでは見当たらない。
「津藩の博士《はかせ》、鹽田《しほだ》ぬし」伊勢津藩藩士で儒者の塩田随斎(しおだずいさい 寛政一〇(一七九八)年~弘化二(一八四五)年)。古賀精里(せいり)に学び、藩校有造館の講官から、江戸藩邸の同職となった。詩を好み、猪飼敬所(いかいけいしょ)・頼山陽らと交わり、後には江戸谷中に止至善塾を開いた。
「佐伯環《さへきたまき》」ネット上で発見した佐伯家の後裔であられる佐伯朗氏の書かれた「考察・佐伯権之助家」(PDF)の中に、『『庁事類編』に幕末になると「佐伯環(タマキ)」(慶応三年に鉄砲頭、同四年に護国中隊令士、弟に正雄あり)という人物が多く顔を出す』とあり、『文政九年』以降で、石高『五百石』とあるのが、まさに、この人物であろうと思われる。
「三寸九分」十一・八センチメートル。
「麁服《そふく》」ここは単に粗い麻織の服地の意であろう。
「圏中《まるのなか》に六曜《ろくえう》の紋」これ(サイト「家紋のいろは」の「丸に六曜」)。
「歌舞伎冶郞《やらう》」「冶郞」は「野郞」に同じ。底本・吉川弘文館随筆大成版では、以下で「冶郞」と「野郞」が混在するが、「冶郞」に揃えた。ここでは、まず、前髪を有意に剃り上げた、かぶいた(殊更に目立つ奇天烈な恰好をした)奴(やっこ)の下僕であろうが、文字通りの「歌舞伎野郎」=「歌舞伎子」若衆方の歌舞伎俳優見たようであることを言う。彼らは男娼も兼ねた。元祿年間頃までの呼び名で、後に出るが、別名を「色子(いろこ)」「舞台子」「歌舞伎若衆」「芝居子」などとも呼んだ。
「五三の桐の紋」これ(同前)。
「くゝり枕」「括り枕」。中に蕎麦殻や綿などを入れ、両方の端を括った円筒形の枕。
「綉」は「縫い取り・刺繍」の意。]
按ずるに、この盃は延寶・貞享の比の制作なるべし。もし、さらずとも、元祿以後のものには、あらず。いかにとなれば、當時、はんじ物の、いたく、行れたればなり【この外にも時代の考あり。下に記す。】。
[やぶちゃん注:「延寶・貞享」延宝は一六七三年から一六八一年で、天和を挟み、貞享は一六八四年から一六八八年。
「元祿」一六八八年から一七〇四年。
以下、「すべきものになん。」まで、底本では全体が一字下げ。]
因みに、いふ。四、五百年以前より、「なぞなぞ」の行れし事、無住が「沙石集《しやせきしふ》」【蟻と蟎《だに》の問答は、またく、謎に似たり。】兼好が徒然草【「うまのきつりやう」の類。】にも見えたり。さらでも、むかし、至尊のあそばしたる「何曾《なぞ》」の御集《ぎよしふ》あり。當時の流行を知るに足れば【「何曾」は收めて「群書類從」中にあり。】、かくて、近世、慶長・寬永より、元祿・寶永のころまでも、謎を畫きて、衣裳の模樣にせし事、行れ、商人の看板すら、謎にしたるが多かりしを、なべて、はんじ物と唱へたり。そが中に、酒賣る家の門《かど》に、杉の葉を建てたるは、「味酒《うまさけ》の三輪《みわ》あり」といふ謎なり【この事は、一休の歌、あれば、尤、ふるし。】。又、湯屋《ゆうや》の軒端《のきば》に、木をもて造れる、大なる箭《や》を出せしは、「いる」とい謎なり【予が總角《あげまき》のころまで、かゝる看板を出せし錢湯、甚左衞門町にありけり。この外にも、なほ、ありしを見たりき。】。酢を賣る家の看板に、水囊《すいなう》或は味噌篩《みそこし》を出せしは、「す、あり」といふ謎【「簀《す》」に「酢」をかけたり。】也。又、衣裳の模樣には、斧と琴と菊を染めたるあり。こは、『「よき」「こと」を「きく」』といふ、はんじ物なり。又、鎌と輪と「ぬ」の字を染めたるは、「かまはぬ」といふ、はんじ物なり。又、器材には、大酒家底深【池上太郞左衞門。】〕が盃に、龍と蜂と蟹を、まき繪したるは、『「のめ」(龍)・「さす(蜂)」・「はさむ」(蟹肴)[やぶちゃん注:本文への丸括弧漢字挿入はママ。「雜記」では丸括弧なしで右方にやや小さく配してある。総てで以下の「は」の下にあるが、独断で位置を動かした。]は』といふ酒語の謎なり。これらは、當時《そのかみ》の册子に遺りて、徵(あかし)[やぶちゃん注:底本・吉川弘文館随筆大成版にある読み。]にすべきものになん[やぶちゃん注:最後の部分は「曲亭雜記」では少し異なり、続く文章と圧縮されたものになっている。リンクしておいたので、御自分で見られたい。]。
[やぶちゃん注:「沙石集」鎌倉時代の仏教説話集。全十巻。無住一円著。弘安六(一二八三)年成立。
「蟻と蟎《だに》の問答」は巻五「學生なる蟻(あり)と蟎(だに)との問答の事」(南都春日野の学僧の房の近くに棲むアリとダニの仏法問答というぶっ飛びの異類ファンタジー)の中に出る。私の「耳嚢 巻之十 龜玉子を生む奇談の事」の冒頭注で部分的に引用してある。全部を読まれたい方のために、国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫(昭和一八(一九四三)年刊)の当該部をリンクさせておく。新字体でよければ、「やたがらすナビ」のこちらに活字化された電子データもある。
「徒然草【「うまのきつりやう」の類。】」百三十五段。
*
資季(すけすゑ)の大納言入道と聞えける人、具氏(ともうぢ)の宰相中將にあひて、
「わぬしの問はれんほどのこと、なにごとなりとも、答へ申さざらんや。」
と言はれければ、具氏、
「いかがはべらん。」
と申されけるを、
「さらば、あらがひたまへ。」[やぶちゃん注:「それでは、さても、問いかけてみなされよ。」。後は「仕掛けて御覧なさい。」でもよい。]
と言はれて、
「はかばかしきことは、かたはしも學び知りはべらねば、尋ね申すまでもなし。何となきそぞろごとの中に、おぼつかなきことをこそ、問ひたてまつらめ。」
と申されけり。
「まして、ここもと[やぶちゃん注:本邦。]の淺きことは、なにごとなりともあきらめ申さん。」
と言はれければ、近習の人々、女房なども、
「興あるあらがひなり。同じくは御前にて爭はるべし。負けたらん人は供御(くご)をまうけらるべし。」
と定めて、御前にて召し合せられたりけるに、具氏、
「幼くより聞きならひはべれど、その心知らぬことはべり。
『むまのきつりやうきつにのをか中(なか)くぼれいりくれんどう』
と申すことは、いかなる心にかはべらん。うけたまはらん。」
と申されけるに、大納言入道、
「はた」
と、つまりて、
「これは。そぞろごとなれば、言ふにもたらず。」
と言はれけるを、
「もとより、深き道は知りはべらず。『そぞろごとを尋ね奉らん』と定め申しつ。」
と申されければ、大納言入道、負けになりて、所課(しよくわ)[やぶちゃん注:科料の饗宴。]、いかめしく[やぶちゃん注:たいそう大掛かりに。]、せられたりけるとぞ。
*
この源具氏の提示した「はんじもの」は未だに未詳とされている。駒澤大学総合教育研究部日本文化部門情報言語学研究室のサイト内の『「むまのきつりやうきつにのをか中くぼれいりくれんどう」のなぞ話』に判読説が紹介されているので、興味のある方は見られたい。私はこの「はんじもの」の解読自体には食指が動かぬが、そこで『鎌倉時代の古辞書(語源)である経尊著『名語記』(初稿本一二六八年・増補十巻本一二七五年に北条実時に献上)の巻六(七一四頁)に』、まさに、
『ワラハヘノアソヒニ、馬ノキツリヤウキツニノヲカナカクホトイヘルモ、馬ノキツトイヘル歟』
『と見えて、この謎の文句が「童の遊び」の歌文句で「馬退きつ了」「きつにの岡」「中窪」と世上で表現していたことを明らかにしている』とあることが、甚だ興味深く思われた。
「慶長・寬永」慶長は一五九六年から一六一五年で、元和を挟んで、寛永は一六二四年から一六四五年まで。
「元祿・寶永」一六八八年から一七一一年まで。
「酒賣る家の門に、杉の葉を建たるは、「味酒の三輪あり」といふ謎なり」サイト「酒(さか)みづき」のこちらに、新酒出来を知らせる『最初の内の杉玉は茶色ではなく』、『本来の緑色をしています。そして季節が過ぎ』、『夏頃には緑が薄くなり、秋ごろには枯れて茶色くなります。茶色のイメージが強いかもしれませんが、実は杉玉の色から』、『旬の日本酒が何なのかを知ることができるのです』。『緑色』(二月から六月頃)『は新酒の季節、薄い緑(初夏~夏ごろ)は夏酒、枯れた茶色(秋ごろ)は』「ひやおろし」の『季節というように、日本酒造りの時期と杉玉の色は同調しているといえます。季節の移り変わりとともに変化していく杉玉の色を見て、日本酒の熟成度合いの変化にも気づ』かせる小見がそこには隠れているのである。
「この事は、一休の歌、あれば、尤、ふるし」これは一休宗純の一首とされる
極樂をいづくのほどと思ひしに杉葉立てたる又六が門
「又六」は酒屋の屋号らしい。これは、歌自体の「はんじもの」ではなく、そうした「はんじもの」としての杉玉が既に、当時、あったことを指して「最も古い」と馬琴は言っているのである。
「湯屋《ゆうや》」この読みは私の好みで特異的に附した。
「大酒家底深【池上太郞左衞門。】」江戸前期の大酒家(「曲亭雜記」では『大酒官』となっている)で「大蛇丸底深」(だいじゃまるそこぶか)という酒号を持っていた人物らしい。
『「のめ」(龍)』は「吞龍」であろうか。龍は幻獣のチャンピオンであるから、酒飲みの皇帝と言える(龍は中国古代より総てに於いて皇帝のシンボルであり、皇帝の顔は「龍顔」と呼ぶ。一般には眉上隆起が著しい鋭い眼が窪んだ面構えを指す)。八岐大蛇を始めとして、古今の龍は酒がお好き。しかし、この場合の龍は以下で述べる通り、倨傲の「大臣」止まりで、「だいじん」から「大盡」に転じて、ただのたまさかの小金持ちレベルまで堕してメタモルフォーゼする。さればこそ、以下で馬琴は「一寸先は闇」をも引き出すのである。
「さす(蜂)」盃・酒を「さす」を掛ける。
「はさむ(蟹肴)」カニの「裂け」た螯(はさみ)を「酒」に、「肴」を酒の合間に「挾み」喰らうに掛けたか。
以下は底本で改行している。]
よりて、おもふに、この盃に、まき繪したるも、當世の流行にしたがへる、はんじ物とは見ゆれども、定かには解《と》きがたかり。試みに、そのこゝろをいはゞ、
[やぶちゃん注:底本、ここでも改行。]
「龍頭の人はのむ」といふはんじ物、これに冠をいたゞかせしは、「大臣」といふはんじ物なるべし。凡、遊興に耽る黃金家(かねもち)を、「大じん」といふ事、今なほ、しかなり【物には「大臣」、又、「大盡」とも書きたり。】。そが肩にしたる「樽」は、「酒」といふ事、「錢」は「買ふ」といふはんじ物なり。又、ひさげたる挑灯は、「一寸先は、やみの夜」といふ世話のはんじ物なるべし【挑灯のかたちも、ふるし。元祿中の印本に、かくのごとき挑灯、所見あり。】又、「冶郞」は、「いろ」といふ、はんじ物なるべし。「治郞」は「いろ子」と、いへばなり【この冶郞、革足袋を、はきたり。これも當時の一證とすべし。】。又、蓮《はちす》は「さす」といふ、はんじ物ならん。蓮の和名を「はちす」といふも、その實《み》の蜂房《はちす》に似たればなり。よりて、「はちす」を「蜂巢」にかけて、「さす」と解せん爲なるべし。又、「蒹葭《よし》」は「管《くだ》」といふ、はんじ物歟。「よし・あし」は、多く「管」に造るものなり【筆のさや・花火・シヤボンなどの筒、みな、菅《くだ》なり。】。又、「まくら」の半體を畫きしは、「まく」といふ、はんじ物ならん【「まくら」を下略すれば、「まく」なり。】。「水」「波」は、只、蓮と「あし」のとり合せまでにて、させるこゝろなからんを、强ひて、說をなすときは、「すいちう」といふはんじ物ぞと、いはんも、由あり【「水」・「粹」、同音、嫖客《へうかく》を「粹《すい》」といふ事ども、しかなり。】。かく、はんじつゝ、連續して、これを、とけば、
[やぶちゃん注:「蒹葭《よし》」のルビは二字に対して(「曲亭雜記」に拠る)。「蒹」も、ここではヨシ(=アシ)のこと。但し、「蒹」は「萩」の意もある。
「嫖客」(ひょうかく:現代仮名遣)は「飄客」とも書き、花柳界に遊ぶ男の客や、芸者買いをする男を指す。
以下、底本、改行。]
色と【冶郞。】、酒樽買ふ錢、すいちうの【水中。粹中。】大臣は冠、のんだり【龍頭。】、さしたり【蓮、蜂巢。】、くだを【蒹葭。】まく【枕の半體。】。一寸先はやみの夜《よ》【挑燈。】。
[やぶちゃん注:底本・吉川弘文館随筆大成版は続くが、「馬琴雑記」に従い、ここで改行した。]
かくのごとくなるべきか。いまだ、當否をしらねども、當時の「はやりうた」を、はんじ物にせしものなるべし。
[やぶちゃん注:改行は同前。但し、「雜記」では割注なので(割注である仕儀はない)、以下【 】内全体が一字下げとなっている。]
【當時、「五三の桐」の「もん」つけたる冶郞を考るに、寬文中に杉本六彌《すぎもとろくや》、是なり。かゝれば、この冶郞は、六彌か。さらずば、そのながれをくむ、色子《いろこ》にても、あらんかし。龍頭《りうづ》の人の衣に、六曜の「もん」あるは、この盃を造らしたる主《ぬし》の定紋にてもあるべし。】。
[やぶちゃん注:「寬文」一六六一年~一六七三年。
「杉本六彌」不詳。]
又、盃のうらなるはんじ物、佛經に「大筆」を添へたるは、「ひつきやう」といふ事歟【「畢竟」を「筆經」にかけたり。】。「拂子」は「欲《ほつ》す」といふ、はんじ物ならん。机は、この三くさを載たるとり合せのみならで、「倚《よ》る」といふ、はんじ物なるべし。又、料紙・硯箱は「書《しよ》」也。筝《さう》は「琴《きん》」なり。これを連續して、とく。そのこゝろは、
[やぶちゃん注:「雜記」に従い、改行した。]
「ひつきやう」【「畢竟」、「筆經」。】、琴筝、書【硯箱・料紙。】、酒に【酒は、盃の中に、こもれり。】倚らんと机ほつす【「拂子」、「欲す」。】といふ、はんじ物なるべし。唐の白居易は、琴《きん》・酒《しゆ》・詩《し》をもて「三友」とす、といふ事あるを、思ひよせたるならん。只、「綉彌勒佛」は、いまだ詳ならず。「こは『綉佛』の故事なるべし。」と、鹽田ぬし、いへり。かかれば、亦、是、酒に緣あり。この說、まことに、さなるべき歟。袂を分かつの日、はじめて、これを、聞ければ、聊か、こゝにしるすのみ。なほよく考察して、かさねて[やぶちゃん注:底本・吉川弘文館随筆大成版は『かねて』。「雜記」で訂した。]、ものすべきになん。
[やぶちゃん注:「こは『綉佛』の故事なるべし」「かかれば、亦、是、酒に緣あり」最後の「追考」で示されてある。
以下は、底本では「文政」以下のクレジットまで全体が一字下げ。]
予が老邁、四十年來、筆硯の疲勞《つかれ》を覺ゆる事、月に日に、彌《いや》、ましたり。さりけれども、著述は世わたりの爲なれば、いかゞはせん。この他、交遊の請求たるも、考る事、物かく事は、つやつや、うけも引ざりしを、この盃を見るに及びて、好事《こうず》の痴癖《ちへき》、みづから禁ぜず、たゞちに筆を走らせしこと葉さへ、いと、ながくなりぬ。恐らく僻言《ひがごと》なるべきに、『再思《さいし》せばや』とおもふものから、鹽田ぬしが、この盃を見する事の、いと遲くて、既に歸期に及ぶといへば、暇あらで、さて、やみにき。もし拙考の如くならば、古人、「泉壤《せんじやう》百年の後、知己あり。」と、いはまくのみ。終《つひ》に鄙歌《ひか》をもて、賛すること、左の如し。
池上が蜂龍《はちりう》よりもたくみにて
どうりはふかきなぞの盃
文政十年丁亥春三月下旬 六十一翁簑笠漁隱稿
[やぶちゃん注:「歸期」底本・吉川弘文館随筆大成版は『迫期』。これでも判らなくはないが、躓かない「雜記」の方を採用した。
「泉壤」死者を埋葬する場所。黄泉の国。ここは単にその「はんじ物」を作った人の死後の意。
「文政十年」一八二七年。
「簑笠漁隱」「さりつぎよいん」は馬琴の号の一つ。]
追 考
「古文前集」、『杜甫が「飮中八仙歌」云、「蘇晉長齋繡佛前 醉中往々愛二逃禪一」。注蘇晉學二浮屠術一。甞得二胡僧慧澄綉彌勒佛一本一。晉寶ㇾ之。甞曰。「是佛好ㇾ飮二米汁一。正與二吾性一合。吾願事ㇾ之。他佛不ㇾ愛也。」。』。まへの盃の、まき繪なる「綉彌勒佛」は、またく、これより出たり。
[やぶちゃん注:漢文様の部分を訓読しておく。
*
杜甫が「飮中八仙歌」に云はく、
「蘇晉は長齋(ちやうさい)す 繡佛(しうぶつ)の前(まへ)
醉中(すいちゆう) 往々 逃禪(たうぜん)を愛す」
と。注して、「蘇晉、浮屠(ふと)の術を學ぶ。甞つて胡僧慧澄が「綉彌勒佛」一本を得たり。晉、之れを寶とす。甞つて曰はく、「是の佛、米汁を飮むを好めり。正(まさ)に吾性と合(がつ)せり。吾れ、願ふに、之れを事とし、他佛は愛せざるなり。」と。
*
「蘇晉」は文章に長じ、吏部及び戸部侍郎を経て、玄宗の詔勅などを起草し、太子左庶子の師となった。七三四年没。「逃禪」というのは、恐らく、刺繍で描いた仏画の前で酒を飲んでいるうち、酔っぱらって居眠りをし始め、しかし、それがあたかも泥酔の夢中に、繍仏に対座してまことに座禅を組んでいるかのように見えるというさまを描出したものであろう。「浮屠の術」は仏教の教え。
「古文前集」「古文眞寶前集」の略。「古文眞寶」は漢代から宋代までの代表的な古詩や文辞を収めた書物で、宋末か元初の成立とされる。黄堅の編と言われるものの、編者の事績は不詳である。前集十巻に詩を、後集十巻に文章を収録する。各時代の様々な文体の古詩や名文を収めており、手軽な俯瞰的学習が可能なため、初学者必読の書とされてきた。私も大学時代はよくお世話になった。国立国会図書館デジタルコレクションにある明治一六(一八八三)年風月堂刊「古文真宝校本 前集 下」のここで視認出来る(詩題は「飮中八僊歌」となっている)。左ページの八~九行目。但し、摩耗が激しく、かなり読みづらい。
『杜甫が「飮中八仙歌」』彼の作品中では、「唐詩選」にも採られ、結構、有名な面白い一篇(七言古詩)で、同時代の知人八人の酒豪詩人賀知章・汝陽王李璡(りしん)・李適之(せきし)・崔宗之(さいそうし)・蘇晋・李白・張旭・焦遂(しょうすい)らを謳ったもの。七四五~七四六年頃の作とされる。なお、全篇はサイト「詩詞世界 碇豊長の漢詩」のこちらをお勧めする。]
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