萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 松葉に光る 詩集後篇(標題)・自注・「狼」
松葉に光る 詩集後篇
[やぶちゃん注:パート標題。その裏に以下の自注。]
この章に集めた詩は、「月に吠える」の前半にある「天上縊死」「竹と哀傷」等の作と同時代のもので、私の詩風としては極めて初期のものに屬する。すべて「月に吠える」前派の傾向と見られたい。但し内八篇は同じ詩集から再錄した。
狼
見よ
來る
遠くよりして疾行するものは銀の狼
その毛には電光を植ゑ
いちねん牙を硏ぎ
遠くよりしも疾行す。
ああ狼のきたるにより
われはいたく怖れかなしむ
われはわれの肉身の裂かれ鋼鐵(はがね)となる薄暮をおそる
きけ淺草寺(せんさうじ)の鐘いんいんと鳴りやまず
そぞろにわれは畜生の肢體をおそる
怖れつねにかくるるにより
なんぴとも素足をみず
されば都にわれの過ぎ來し方を知らず
かくしもおとろへしけふの姿にも
狼は飢ゑ牙をとぎて來れるなり。
ああわれはおそれかなしむ
まことに混鬧の都にありて
すさまじき金屬の
疾行する狼の跫音(あのと)をおそる。
[やぶちゃん注:標題の「狼」の字に限っては(本文は普通に「狼」。底本画像を参照されたい)、(つくり)「良」の一画目が点ではなく、「一」の字体。グリフウィキのこれ。
「怖れつねにかくるるにより」は「そぞろにわれは畜生の肢體をおそ」れているが、その「怖れ」は「つねに」私自身が「かくるる」ように殊更に振る舞っている「により」(から)「なんぴとも素足をみず」(何人(なんぴと)も私の顫える素足を見ることはない)という意であろう。かなり捩じれた朔太郎好みの病的な表現である。
「混鬧」「こんどう」と読み、「人で溢れかえって騒々しい様子」の意。
初出は大正四(一九一五)年一月号『詩歌』。初出形を以下に示す。歴史的仮名遣の誤り及び誤植(ルビ「はねが」や「嗚りやまず」の「嗚」)は総てママ。
*
狼
見よ、
來る、
遠くよりして疾行するものは銀の狼、
その毛には電光を植え、
いちねん牙を研ぎ
遠くよりしも疾行す、
あゝ、狼のきたるにより、
われはいたく怖れかなしむ、
われはわれの肉身の裂かれ鋼鐵(はねが)となる薄暮を怖る、
きけ、淺草寺の夕ぐれの鐘嗚りやまず、
そゞろに我は畜生の肢體をおそる
怖れつねにかくるゝにより、
なんぴとも素足を見ず、
されば都にわれの過ぎ來し方を知らず、
かくしもおとろへしけふの姿にも、
狼は飢え牙をとぎて來れるなり、
あゝわれは怖れかなしむ、
まことに混鬧の都にありて、
すさまじき金屬の、
疾行する狼の跫音(あのと)を怖る。
――その二――
*
「その二」とあるが、筑摩版全集の「草稿詩篇 蝶に夢む」に本篇の草稿として『五種七枚』とあることから、その草稿の中の「二」番目の決定稿という意味であろうか。「その一」がこれ以前に発表された形跡はない。以下にそこに挙げられている二篇(他は載らない)の草稿を以下に示す。行頭にある数字は朔太郎が打ったもの。歴史的仮名遣の誤りや誤字と思われるものは総てママ。
*
感傷→念願
祈願
夕ぐれかけていつさんにきた れる るものは
1もとめきたるあくなきものは乞食→蓄生狼なり
2その毛に、はがね電光をうえ、牙を硏ぎ、
3われを喰みわれを殺す、
4もとめえざるものは乞食なりああわれはおもう
いのれしからずんば 死がいか 乞食の手より
5われはわれの肉身のはがねとなる夕をおそる
そのすぎこし方を知らず
6きけ夕の鐘鳴りやまず
きけ上野東叡山のきけ淺草の夕の寺の鐘こんこんと鳴りもやまず
7そゞろに我は蓄生の心をおそる
8そのさればわがすぎこし方を知らず
9なんぴとも素足を見ず
われはわれの天上にあり
蓄生の心を知らず
乞食の心を感ぜず
いはんや
せんちめんたるの子
合掌していんよくの路をたどる
10かくしもおとろへはてし我の心に瞳に
11狼は牙をとぎて來れるなり、
12まことにわれはおそる
13遠くより都にありてすさまじきどんよくの靈感のけものをおそる、
○
狼きたる
ああみよ狼きたる、
この薄暮靈感のあひだ、薄暮閉光のあひだ
遠くよりましぐらに疾行する
みよ遠くよりして疾行するものは靈感の銀の狼なり、
その毛には電光をうゑ
いちねん牙をとぎ
われを喰みわれを殺さむとす
われああ狼のちかづくにより
われはいたくおそれ哀しむ、
われはわれの肉身の裂かれ鋼鐵となる薄暮をおそる、
きけ上野淺草寺の夕べゆうぐれの鐘鳴りやまず
そゞろに我は狼蓄生の肢體をおそる
おそれつねにのがるかくるゝにより
なんぴとも素足をみず
されば都に我のすぎこし方を知らず
かなしみかくしもおとろへし今日の瞳にも姿にも
狼は尙牙をとぎて來れるなり
ああわれはおそれ哀しむ、
まことに雜鬧の都にありて
すさまじき靈惑のけものをおそる。
*
後半の無題詩には編者注があり、『欄外に「玻璃」と附記されている。』とある。「雜鬧」は「雑踏」に同じで、決定稿の「混鬧」に同じ。]
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