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2021/12/20

「南方隨筆」版 南方熊楠「牛王の名義と烏の俗信」 オリジナル注附 「二」の(3)

 

 淵鑑類凾四二三に、俗云鴛交頸而感烏傳涎而孕。[やぶちゃん注:「俗に云ふ、『鴛(をしどり)は頸を交へて感じ、烏は涎(よだれ)を傳へて孕む。』と」。]。プリニウスの博物志にも、世に鴉は嘴(くちばし)もて交はる故に、其卵を食つた婦人は口から產すると云ふ。アリストテレス是を駁して、鴉が鳩同樣雌雄相愛して口を接するを誤認したのだと言つたと有る。熊楠屢烏の雌雄相愛して口を接するを見る。又自宅に龜を十六疋畜(かひ)有るが、發情の時雄が雌に對して啄き始めると雌も啄き返す。喙衝き到るを避けては啄き、啄かれては避ける事、取組前の力士の氣合を見る如し。交會は水中でするを、龍動(ろんどん)の動物園で一度見た。予の庭のなどは泥水故決して見えぬ。斯る處を誤認したと見えて、化書(類凾四四〇所引)に牝牡之道、龜々相顧神交也[やぶちゃん注:「牝牡(ひんぼ)の道、龜と龜の相顧みるは神交するなり。」。]と載す。又佛經に接吻を鳴と書いた處多い。例せば根本說一切有部毘奈耶三九に、鄔陀夷覩童女、顏容姿媚、遂起染心、卽摩觸彼身、嗚唼其口[やぶちゃん注:「大蔵経テキストデータベース」で確認。確かに、「嗚唼」である。「鄔陀夷(うだい)、彼(か)の童女の顏容(かんばせ)姿媚(あでや)かなるを覩(み)て、遂に染心(ぜんしん)を起こし、卽ち彼(か)の身(からだ)を摩(な)で觸(さは)り、其の口を嗚唼(おしやう)す」。「嗚唼」は「接吻」のこと。]。四分律藏四九に、時有比丘尼、在白衣家内住、見他夫主、共婦嗚口、捫摸身體、捉捺乳[やぶちゃん注:「大蔵経テキストデータベース」で確認。確かに、「嗚」である。「時に比丘尼有り、白衣(びやくえ)の家内に在りて住み、他(ほか)の夫主の、婦と共に、口を嗚(お)し、身體(からだ)を捫(な)で摸(さは)り、乳を捉みて捺(お)すを見たり。」。とある中文サイトで、この「四分律藏」の当該部分を引用し、『「嗚」字是中國人最早用來形容「接吻」的一個專門性的動詞』と記してあった。]。康煕字典、嗚の字に接吻の義を示さぬが、想ふに烏は雌雄しばしば口を接して愛を示すから、譯經者が烏と口とより成る嗚の一字で接吻を表はしたのだろ。是はさして本篇に係らぬが近來の大發明故洩し置く。扨プリニウス曰く、諸鳥の中、烏(コルニクス)ばかりが、其子飛び始めて後暫く之を哺ふ[やぶちゃん注:「やしなふ」。]。鴉(コルヴス)は子が稍や長ずれば逼つて飛去しむと。本邦の烏屬中にも稍長じた子を追ふのと哺ふのと有りや。閑多き人の精査を冀ふ[やぶちゃん注:「ねがふ」。]。甲子夜話二三に出た平戶安滿嶽の神鴉、常に雌雄一雙にて年々子に跡を讓り去るとは、鴉の本種「わたりがらす」だらう。こんな事から反哺の孝など云出したんだろ。本草に、烏、此鳥初生、母哺之六十日、長則反哺六十日、可謂慈孝矣[やぶちゃん注:「烏、此の鳥、初めて生まるるや、母、之れを哺ふこと六十日、長ずれば、則ち、反哺(はんぽ)すること、六十日、慈孝と謂ふべし。」。]、慈烏孝烏の名これより出づと有る。自分[やぶちゃん注:「おのづと」と訓じておく。]飛びうるまで羽生えたるに、依然親の臑囓(すねかぢ)りをしおるのを反哺の孝とは大間違ひだ。又思ふに和漢ともに產するコルヴス、パスチナトル(みやまがらす)は、年長ずれば顏の毛禿落ちて灰白く、其痕遠く望み得る。其が子と同棲するを見て子が親に反哺すと言出したのか。其樣な法螺話は西洋にも有つて、Southey, op. cit., 4th Ser., p.109 に、一三六〇年(正平十五年)フランシスカン僧バーテルミウ、グラントヴィルが筆した物を引いて云く、烏老いて羽毛禿落ち裸となれば、其子等自分の羽以て他を被ひ肉を集め來て哺ふ云々と。是は支那の禮記の句などを聞傳へたのか、其よりは多分北アフリカの禿鵰(ヴルチユール)の咄を聽いて、烏と同じく腐肉を食ひ熱國で掃除の大功有る物故烏と誤認したのであらう。Leo Africanus, “Descrizione dell’ Affrica” in Ramusio, “Navigationi Viaggi,” Venetia, 1588, tom. i, fol. 94D. に、禿鵰年老いて頭の羽毛落竭して剃つた如し。巢にばかり籠り居るを其子等之を哺ふと聞いたと記す。記者はグラントヴヰルより百年以上後の人だが、禿鵰反哺の話は以前から行はれた物だらう。予熱地で禿鵰を多く見たるに、鷲鷹の類ながら動作烏に似た事多し。之に較[やぶちゃん注:「やや」。]似たは Sir Thomas Browne(十七世紀の人)の“Pseudodoxia,” bk. v. ch, I や Thomas Wright の“Popular Treatises on Science,” 1841, pp. 115-6 に、中世歐州の俗信に、鵜鶘(ペリカン)自分の胸を喙き裂いて血を出し、其愛兒に哺(くは)すと云つた。注者ウヰルキン謂く、是は此鳥頷下なる大嗉囊(おほのどぶくろ)に魚多く食蓄へ、子に哺さんとて嗉嚢を胸に押付て吐出すを、自ら胸を破ると想うた謬說ぢやと。類凾に、瑞應圖曰、烏至孝之應、異苑曰、東陽顏烏、以純孝著聞、後有群烏、銜鼓集顏所居之村、烏口皆傷、一境以爲、顏至孝、故慈烏來萃、銜鼔之異、欲令聾者遠聞、卽於鼔所立縣、而名爲烏傷、王莾改爲烏孝、以彰其行迹云[やぶちゃん注:「淵鑑類函」を調べたところ、頭の「瑞應圖曰、烏至孝之應」というのは、同書に同じ文字列はなく、熊楠が、そう言っている内容をごく短く纏めた作文であることが判ったので、以下の訓読では、それが判るように、切っておいた。最後は底本では「去」であるが、これは「云」の誤字であったので、訂しておいた。「「瑞應圖」に云はく、『烏は至孝の應なり。』と。」「『異苑』に曰はく、東陽の顏烏(がんう)は純孝を以つて著聞す。後、群烏、有りて、鼓(つづみ)を銜へ、顏の居(ゐ)る所の村に集まれり。烏の口、皆、傷つけり。一境(むらびと)、以爲(おもへら)く、『顏は至孝なれば、故に、慈烏、來たり萃(あつま)りて、鼔を銜ふるの異あり、聾者をして遠く聞かしめんと欲するなり。』と。卽ち、鼔の所に於いて縣を立て、名づけて「烏傷」と爲す。王莽、改めて「烏孝」と爲し、以つて其の行迹を彰(あらは)すと云へり。」但し、疑問に思われた方も多いと思うが、実は「鼓」は写本や翻刻される過程で生じた誤字であるようだ。後注参照。]。世間の聾迄も顏烏(がんう)ちふ者の孝行を聞知るやう、烏輩が鼓を持つて來て廣告したのだ。以色列(イスラヱル)の傳說にエリジヤがアハブの難を遁るゝ途に、餓えた時鴉之を哺(やしな)うたと云ひ、隨つて基督敎の俗人も鴉を敬する者あり(Hazlitt, “Faiths and Folklore,” 1905, vol.ii, p.508)。烏が不意の取持で貧女が國王の后と成つた譚は、貧女國王夫人經」(經律異相二十三)に出づ。グベルナチス(Gubernatis, “Zoological Mythology,” vol.ii, p.257)曰く、獨逸とスカンヂナヴヰアの俚謠に烏が美女を救ふ話多く、孰れも其女の兄弟と呼ばれ有り、又烏が身を殺して迄も人を助くる談多しと。日本にも出羽の有也無也の關[やぶちゃん注:「うやむやのせき」。]に昔鬼出て人を捉る[やぶちゃん注:「とる」。]、烏鳴いて鬼の有無を告げ往來の人を助けたといふ(和漢三才圖會、六五)。烏が能く慈に能く孝に、又、人を助くる譚、斯くの如き者有る上に、忠義譚も佛本行集經五二に出づ。善子と名くる烏王の后が孕んで、梵德王の食を得んと思ふ、一烏爲に王宮に至り、一婦女銀器に王の食を盛るを見、飛下つて其鼻を啄くと、驚いて食を地に翻(かや)す[やぶちゃん注:「ひっくり返す」或いは「こぼす」の意。]。烏取り持去つて烏后に奉る。其から味を占めて、每日宮女の鼻を啄きに來たので、王、人をして之を捕へしめると、彼烏仔細を說き王大に感じ入り、人臣たる者須く是猛健烏(たけきからす)が主の爲に食を求めて命を惜しまざるが如くなるべしとて、以後常に來て食を取らしめたと云ふ。Collin de Plancy, “Dictionnaire infernal,” p.144 に、古人婚前に烏を祝したは、烏夫婦の中何方かゞ死ぬと、存つた[やぶちゃん注:「のこつた」。]方が或定期間獨居して貞を守つたからだと見えるが、日本の烏には夫(をつと)も子も有るに姧通するのも有るなり。日本靈異記中に、信嚴禪師出家の因緣は、家の樹に棲む烏の雄が雌と子を養ふ爲に遠く食を覓(あさ)る間に、他の雄鳥が來て其雌に通じ、西東もまだ知らぬ子を捨てゝ、鳥が鳴く吾妻か不知火の筑紫かへ梅忠もどきに立退いた跡へ、雄鳥(どり)還り來り其子を抱いて鬱ぎ死んだのを見て浮世が嫌に成り、行基の弟子と成つて剃髮修行したしたので厶(ござ)ると說き居る。こんなに種々調べるとマーク・トエーンが人間には成程人情が大分(だいぶ)有ると皮肉つた通り、人も烏も心性に餘り差異が無さゝうだ。さればこそ衆經撰雜譬喩經下には、烏が常に樹下の沙門の誦經を一心に聽いて、後獵師に殺さるゝも心亂れず天上に生れたと說かれた。

[やぶちゃん注:「淵鑑類凾」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。「漢籍リポジトリ」のこちらで、四百二十三巻の「鳥部六【烏・鵲】」の「烏一」を見られたい。その[428-2b]の影印画像の最後行に熊楠の引く一文がある。この奇体な交尾説は古くから信じられていた。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴛鴦(をしどり)」にも「本草綱目」から引かれてあり、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 慈烏(からす) (ハシボソガラス)」では、「三才圖會」から引かれてある。

「プリニウスの博物志にも、世に鴉は嘴(くちばし)もて交はる故に、其卵を食つた婦人は口から產すると云ふ。アリストテレス是を駁して、鴉が鳩同樣雌雄相愛して口を接するを誤認したのだと言つた」この謂い方はちょっとおかしい。そもそもガイウス・プリニウス・セクンドゥスGaius Plinius Secundus 紀元後二三年~七九年)はアリストテレス(ラテン文字転写:Aristotelēs 紀元前三八四年~紀元前三二二年)よりずっと後の博物学者だからである。所持する中野定雄・中野里美 ・中野美代共訳「プリニウスの博物誌」(平成元(一九八九)年‎ 雄山閣出版刊・第三版)で見たところ、これはまさにそこに書かれた内容であって、第十巻の「ワタリガラス」の項に、

   《引用開始》

ワタリガラスは一腹でせいぜい五つの卵しか生まない。彼らは嘴で生み、あるいは交尾する(したがって懐妊している婦人がその卵を食べると口から分娩する。そしてとにかくそれを家に持ち込むと難産する)と一般に信じられている。しかし、アリストテレスは、エジプトのトキについてと同様、ワタリガラスについてもそんなことは噓だ、だが問題の接嘴(よく見かけることだが)は、ハトがよくやるように接吻の一種だ、と言っているワタリガラスは自分たちが前兆で伝えることの意味を知っている唯一の鳥であるように思える。というのは、メドゥス[やぶちゃん注:ここには訳注記号があり、後に『メディアの息子、メディア人にその名を与えたとされている。』とある。]の客が殺されたとき、ペロポンネソスとアッティカにいたワタリガラスはみんな飛び去ったから。彼らが喉がつまったかのように声を呑み込むような鳴き方をするときは、それはとくに凶兆だ。

   《引用終了》

とあるを、うっかり、かく言い換えてしまったものである。また、このアリストテレスの見解は、所持する島崎三郎訳「アリステレス全集9」(岩波書店一九六九年刊)所収の「動物発生論」を見たところ、「第六章」の「鳥類の発生」の冒頭に基づくものであることが判った。〔 〕は訳者が補足した部分を指す。

   《引用開始》

 鳥類の発生についても事態は同様である。すなわち、「オオガラスとイビスは口で交わり、四足類のイタチは口で子を産む」という人々があるからである。これらは、現にアナクサゴラスやその他の自然学者たちのうちの或る人々も述べているところであるが、あまりに単純で軽率な説である。鳥類について見ると、人々が推理〔三段論法〕によって誤った結論に達してしまうのは〔次の点が根拠になっている〕。すなわち、オオガラスの交尾はめったに見られないが、互いに嘴で交わることはしばしば見られ、これはカラスの類の鳥ならみなすることであって、飼い馴らされたコクマルガラスを見ればよく分かる。これと同じことをハトの類もするが、彼らは明らかに交尾もするので、そのためにこんな話は起こりようがなかったのである。カラスの類は少産の〔卵を少ししか産まぬ〕動物に属するから、好色ではないが、彼らも交尾するところをすでに観察されている。しかし、精液がいかにして栄養分と同じように、何でも入ってくるものを調理する胃を通って子宮に達するのか、ということを人々が推論してみないのはおかしい。しかも、これらの鳥類にも子宮があるし、卵〔巣〕は下帯〔横隔膜〕のそばに見られるのである。また、イタチにも、他の四足類と同じ様式の子宮がある。とすると、この子宮から口までどうやって胎児は進むのであろうか。しかし、イタチがその他の裂足類(これらについては後で述べるが[やぶちゃん注:ここには訳者注があるが、略す。])と同様に、まるで小さい子を産み、しばしばその子を口にくわえて運ぶということが、こんな見解を作り出した所以なのである。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

なお、訳者注では(学名が斜体になっていないので、割り込みで示した)、『オオガラスは(日本ではワタリガラス)』とされ、 Corvus corax の学名を記され、『『動物誌』第九巻第二十七章』『によると、エジプト産の鳥で、白いのと黒いのがあり、白いのは』Ibis religiosa 、『黒いのは』Ibis falcinellus (=igneus )『とされる。いずれも日本のトキに近い鳥である』とあった。前者はペリカン目トキ科トキ亜科クロトキ属アフリカクロトキ Threskiornis aethiopicus のことかと思われ(名前が「黒」だが、翼の初列風切羽先端と、次列風切り羽の先端及び三列風切り羽が変形した腰背部の飾り羽が黒い以外は、白い羽毛に包まれる。下に湾曲した嘴と長い脚は黒い。サハラ砂漠以南から南端までのアフリカ大陸・マダガスカル島・イラク南西部に棲息しており、嘗てはエジプトにも分布していた。詳しくは当該ウィキを見られたい)、後者はトキ科トキ亜科ブロンズトキ属ブロンズトキ Plegadis falcinellus の(繁殖個体は赤褐色の身体に暗緑色の翼をもつが、非繁殖個体と若年個体は暗い体色のままである。オーストラリア・東南アジア・南アジア・アフリカ・マダガスカル・ヨーロッパからアメリカ大陸大西洋岸の熱帯・温帯域にかけて棲息しているが、新大陸の個体群は比較的最近(十九世紀)になって、アフリカから自然に分布を広げたものと考えられている。ヨーロッパで繁殖した個体は、冬期、アフリカに渡り、越冬する。詳しくは当該ウィキを参照されたい)のシノニムである。なお、次の注では、「コクマルガラス」について、学名をCorvus monedula とされておられるが、これはニシコクマルガラスであって、既に注した通り、コクマルガラスは Corvus dauuricus である。但し、ニシコクマルガラスはコクマルガラスと極めて近い近縁種であり、北アフリカからヨーロッパのほぼ全域、イラン・北西インド・シベリアと、広範囲に分布している。

「自宅に龜を十六疋畜(かひ)有る」熊楠の亀好きはよく知られ、私は寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」(サイト版)の「綠毛龜(みのかめ)」でも、冒頭注で、『これは広く淡水産のカメ類(潜頸亜目リクガメ上科イシガメ科Geoemydidaeの仲間等)に藻類が付着したものであろうと思われるが、「脊骨に三稜有り」という叙述は、椎甲板と肋甲板に三対の筋状隆起(キールと呼称する)を持っているイシガメ科のクサガメ Chinemys reevesii 等を思わせる。なお、この如何にも日本人好みのウラシマタロウガメ(私の造和名・浦島太郎亀)が好きで好きで、遂に自分で拵えちゃった有名人をご存知だろうか。南方熊楠、その人なんである。今、それを読んだ確かな資料を思い出せないでいるが、南方熊楠邸保存顕彰会常任理事の中瀬喜陽氏による「南方熊楠と亀」にその事実記載があったと記憶する。熊楠の悪戯っぽい笑みが、私にはよく見える』と記した。今、再度、南方熊楠関連の諸本をひっくり返したのだが、見当たらないが、さるびん氏のブログ「サルヴィンオオニオイガメ専科~淡水熱帯魚と共に~」の『南方熊楠の亀「お花」』に、南方熊楠は『亀の飼育にも取り組んでいた人物でした』。『多い時にはイシガメやクサガメを』六十『匹以上も飼育していたとか』。『熊楠の記録には、長男の熊弥と亀のエピソード等がしばしば登場するそうです』。『熊楠は淡水藻の研究も行っており、これらの亀に』人工的に『藻を生や』さ『せて蓑亀にする実験もしていたとのこと』とあり、昭和六(一九三一)年六月七日附『上松蓊(うえまつしげる)宛書簡に「小生方のみのがめ、只今長き藻の上に短き異種の藻をふさのごとく叢生し、はなはだ見事なり」 とあったそうです』。『また、熊楠が飼っていたクサガメの「お花」は、熊楠が亡くなってから』後も六十『年も生き』、二〇〇一年七月に『老衰で死亡したという記録があり、「お花」は』一〇〇『年以上生きたのではないかともいわれているそうです』。『ちなみに、このクサガメを熊楠が亡くなった』昭和一六(一七四一)『年以降も飼育し続けたのは、熊楠の長女の文枝で、熊楠から「お前が生まれる前からいる亀だから大事に」と言われ、文枝はその言い付けを守り、生涯この「お花」を大切に育てたそうです』とあるので、間違いない。

「根本說一切有部毘奈耶三九に、鄔陀夷覩童女……」「四分律藏四九に、時有比丘尼……」これらは実は全く同じものを、南方熊楠は、既に電子化注した「四神と十二獸について」に記している。そちらで詳細に注してあるので、ここでは省略する。

「康煕字典、嗚の字に接吻の義を示さぬ」大修館書店「廣漢和辭典」には、「嗚」の意味の三番目に擬声語とし、『嗚啞(オア)は烏(からす)の鳴き声』とする(例示引用は私の偏愛する中唐の鬼才李賀の「勉愛行」だ)。

「プリニウス曰く、諸鳥の中、烏(コルニクス)ばかりが、其子飛び始めて後暫く之を哺ふ。鴉(コルヴス)は子が稍や長ずれば逼つて飛去しむと」前掲引用の「プリニウスの博物誌」の第十巻の「一四 カラス」の末尾に『自分の子供が飛べるようになっても、まだしばらくの間それを食べさせ続けるが、そんなのは』(「鳥類は」の意)『ほかにない』とあるのを受けて、「一五 ワタリガラス」の項の冒頭に、

   《引用開始》

ところが同種のすべての鳥は自分たちの子供を巣から追い出して強制的に飛ばせる。ワタリガラスなどもそうだ。このワタリガラスも自身肉食であるのみでなく、子供が丈夫になると、彼らを駆り立てて相当遠いところへ追いやる。したがって、小さな村にはワタリガラスはふた番』(つがい)『しかいない。両親は引っ込んで場所を子供に譲る。

   《引用終了》

因みに、前の注で引用した部分が、これに一節(産卵と体調変異)を挟んで続いている。

『甲子夜話二三に出た平戸安滿嶽の神鴉……』先の『「一」の(4)』のために電子化した「甲子夜話卷之二十三 11 安滿岳の烏 + 甲子夜話卷之八十七 2 安滿岳の鴉【再補】」を参照。

「本草に、烏、此鳥初生……」「本草綱目」巻四十九の「禽之三」の「慈烏」の記載。「漢籍リポジトリ」のこちら[114-10a]を見られたい。

「コルヴス、パスチナトル(みやまがらす)は、年長ずれば顏の毛禿落ちて灰白く、其痕遠く望み得る」「顏」とあるが、厳密には嘴である。同種は成鳥では、基部の皮膚が剥き出しになり、白く見える。

「Southey, op. cit., 4th Ser., p.109」既出既注のイギリスの詩人ロバート・サウジー(Robert Southey 一七七四年~一八四三年)の死後に纏められた著作集の第四巻。「Internet archive」のこちらで、原本の以下の当該箇所が視認出来る。右ページの左下にある「crowsdutiful Children.」 (「カラス族――忠実な子供たち。」)とあるのがそれ。下方に引用元の筆者名を「BARTHELMEW GLANTVILE」(詳細事績不明)とし、引用者の地位を「Franciscan Frier」(後の綴りが不審だが、フランシスコ会修道士であろう)とする。

「禮記の句」「大戴禮記」の「夏小正」にある、『豺祭獸。善其祭而後食之也。初昏南門見。南門者、星名也、及此再見矣。黑鳥浴。黑鳥者、何也、烏也。浴也者、飛乍高乍下也。時有養夜。養者、長也、若日之長也。』を指すか?

「北アフリカの禿鵰(ヴルチユール)」「禿鵰(ヴアルチユール)」vulture。音写は「ヴォルチュル」が近い。ここは旧大陸のタカ目タカ科ハゲワシ亜科 Aegypiinae のハゲワシ類を指す。

「Leo Africanus, “Descrizione dell’ Affrica” in Ramusio, “Navigationi Viaggi,” Venetia, 1588, tom. i, fol. 94D. 」レオ・アフリカヌス(Leo Africanus 一四八三年?~一五五五年?)の名前で知られる、本名をアル=ハッサン・ブン・ムハンマド・ル=ザイヤーティー・アル=ファースィー・アル=ワッザーンという、アラブの旅行家で地理学者。「レオ」はローマ教皇レオⅩ世から与えられた名で、「アフリカヌス」はニック・ネーム。以下の書籍名はイタリア語で「アフリカの解説」「旅の案内」か。

「予熱地で禿鵰を多く見たる」熊楠は北アメリカ大陸周辺にしか行っていないから、この場合は、タカ目コンドル亜目コンドル科 Cathartidae のコンドル類である。

「Sir Thomas Browne」サー・トーマス・ブラウン(一六〇五年~一六八二年)はイングランドの著作家。医学・宗教・科学・秘教など様々な知識に基づいた著作で知られる。当該ウィキによれば、『フランシス・ベーコンの自然史研究に影響を受け、自然界に深い興味を寄せた著作が多い。独自の文章の技巧で知られ、作品に古典や聖書の引用が散りばめられており、同時にブラウンの独特な個性が現れている。豊かで特異な散文で、簡単な観察記録から極めて装飾的な雄弁な作品まで様々な作風を操った』とある。「Pseudodoxia」は彼の著「プセウドドキシア・エピデミカ」(Pseudodoxia Epidemica :一六四六年~一六七二年)で、邦訳では「荒唐世説」などと訳される。怪しい巷説や迷信を採り上げて批判した書。

 「Thomas Wright」トーマス・ライト(一八一〇年~一八七七年)はイギリスの好古家で著作家。「“Popular Treatises on Science,” 1841, pp. 115-6」は「Popular Treatises on Science,Written During the Middle Ages: In Anglo-Saxon, Anglo-Norman, and English.」で「中世に書かれた科学に関する知られた論文。アングロ・サクソン語、アングロノルマン語、英語に拠るもの。」で、「Internet archive」のこちらから原本が視認出来るが、私はとてものことに読めないし、当該箇所を探す気も起らない。悪しからず。

「類凾に、瑞應圖曰……」巻四百二十三の「鳥部六【烏・鵲】」の「烏二」。本文内の注で述べた通り、冒頭に「瑞應圖」(Q$Aの回答によれば、宋代の絵巻物で、高宗の即位の祝いとして瑞祥の伝説を文章と絵で表現したもの。臣下が献上したらしい)への言及があり(「烏二」は[428-4b]から)、次の[428-5b]の四行目以下に「異苑曰……」が現われる。

「異苑」六朝時代の宋(四二〇年〜四七九年)の劉敬叔の撰になる志怪小説集。全十巻。当時の人物についての超自然的な逸話、幽霊・狐狸に纏わる民間の説話などを記したもの。但し、現存のテキストは明代の胡震亨(こしんこう)によって編集し直されたもので、原著とは異なっていると考えられている。なお、どうも烏が銜えてくるのが「鼓」というのはどうもおかしいと思って幾つかのフレーズで調べたところ、同一の話が、北魏の知られた地理書「水經注」(すいけいちゅう:全四十巻。撰注者は官僚で文人の酈道元(れきどうげん 四六九年~五二七年)で、五一五年成立と推定される)に出ており、そこに、この部分が(「維基文庫」の影印本画像と、「中國哲學書電子化計劃」の「乾隆御覽本四庫全書薈要・史部」の影印本を参考にしたが、前者で字起こしした)、

   *

後有羣烏助銜土塊爲墳【案近刻訛作後有羣烏銜鼔集顏烏所居之邨】

   *

訓読を試みると、

   *

後[やぶちゃん注:孝子である顔烏が親を亡くした、その直「後」の意であろう。]、群烏有りて、土塊(つちくれ)をもて助け、銜(くは)へて、墳を爲(な)せり【案ずるに、近刻は、訛(あやま)りて、「後、羣烏有りて、鼔を銜へて顏烏の居る所の邨(むら)に集まれり。」に作る。】。

   *

とすれば、すこぶる腑に落ちたのであった。ただの自己満足を懼れ、さらに検索したところ、ネットを始めた古くからよくお世話になっている個人サイト「元・肝冷斎日録」のこちらに、原文・訓読・現代語訳が載っているのを発見した。その訓読文と現代語訳は(分離しているので合成した。表記はママ)、

   《訓読文引用》

『東陽の顔烏、淳孝を以て著聞せり。群烏有りて、土塊を助け銜(くわ)えて墳を為せり。烏口みな一境において傷めり。おもえらく、顔烏の至孝なるが故に慈烏を致し、孝声をして遠聞せしめんと欲するならん。又、その県に名づけて「烏傷」と曰えり。』

   《現代語訳引用》

『会稽・東陽の顔烏(がん・う)というひとは、たいへんな孝行者というので有名であった。親が亡くなった後、人を雇う資力が無いため、手づから鋤鍬を取ってその墳墓を築こうとした。すると、(彼の名前と同じ)カラスたちが群れてやってきて、土のかたまりを咥えてきて、墳墓づくりを手伝ってくれた。このため、その近辺のカラスのくちばしは、みな傷ついたという。さてさて、おそらくこれは、顔烏があまりにもすごい孝行者であったので、(その徳が)優しいカラスたちに働きかけて、孝行の評判を遠いところにまで伝え聞かせようとしたのではないだろうか。また、このことから、その近辺の区域は「カラスの(くちばしの)傷ついた県」と名づけられたのである。』

   *

これで、私は胸を撫で下したのであった。当初は本文内で修正してしまおうとも思ったが、修正が一字の変更に留まらなくなり、しかも平凡社の選集では訓読となっている上に、「鼓」になってしまっていることから、注でかく示すことにした。

「王莽」(おうもう 紀元前四五年~紀元後二三年)は前漢の外戚で、新の建国者。幼少の皇帝を立てて実権を握り、紀元後八年に自らが帝位に就いた(在位:八年~二三年)。その間、儒教を重んじ、人心を治め、即位の礼式や官制の改革も、総て古典に則ったが、現実性を欠いていて失敗し、内外ともに反抗が相次ぎ、自滅した。後、光武帝により、漢朝が復興されている。

「エリジヤ」「旧約聖書」の預言者エリヤ。その名はヘブライ語で「ヤハウェは我が神なり」を意味する。

「アハブ」「旧約聖書」によれば、第六代イスラエル王オムリの子に生まれ、その死後に跡を継ぎ、二十二年の間、王位にあった。預言者エリヤは代表的な彼の反対者として描かれ、終始、エリヤとアハブ王家の敵対関係が言及されている。また、アハブはシリアの王女イゼベルを妻に迎えた。イゼベルはシリアのバアル崇拝をイスラエルに導入した。結果、それ以前から存したヤハウェ信仰や金の仔牛信仰に加えた混合宗教がイスラエルに展開されたほか、後にはアハブと婚姻関係を結んだユダ王国にも導入された。これを「旧約聖書」では偶像崇拝として非難し、さらには「ヤハウェ信仰への弾圧」と指弾している。このため、旧約聖書ではアハブは「北王国の歴代の王の中でも類を見ないほどの暴君」として扱われている(以上は当該ウィキに拠った)。

「Hazlitt, “Faiths and Folklore,” 1905, vol.ii, p.508」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「信仰と民俗学」。Internet archive」の当該書のこちらの左ページの頭の部分にある。

「烏が不意の取持で貧女が國王の后と成つた譚は、貧女國王夫人經」(經律異相二十三)に出づ」これは検索を続けること三十分、漸く、台湾サイトの「CBETA 中華電子佛典協會」の方の「經律異相卷第二十三(聲聞無學學尼僧部第十二)」で綺麗に電子化されたそれで、見出せた。そこの「孤獨母女為王所納出家悟道十一」である。冒頭を引くと、初っ端にカラスが出る(下線太字は私が附した)。『舍衛城。有孤獨母人。自生一女。年始十七。顏容端嚴衣不蔽形。母乞食自連。女貞賢明達。博讀經書守節不出門戶。居近王道而心願適王。又願事神如佛。王出行國內。見烏在貧女門上鳴。王便舉弓射烏。烏持王箭走入女家。王傍人追烏入舍。女不出面。但拔箭放烏授箭擲外。王人見指知之非凡。却後年中。王第一夫人卒。娉求夫人。無應相者。廣訪人間。左右白言。前時射烏窮獨母女。年十六七雖不見面。瞻手聞聲似是貴人。王便往視呼將俱來……』と続く。話の終りには出典として「貧女為國王夫人經」とある。本邦のサイトでは「經律異相」の、こうした整序された電子化物がないようなので、この注では甚だすこぶる助かった。

「グベルナチス(Gubernatis, “Zoological Mythology,” vol.ii, p.257)曰く、獨逸とスカンヂナヴヰアの俚謠に烏が美女を救ふ話多く、孰れも其女の兄弟と呼ばれ有り、又烏が身を殺して迄も人を助くる談多しと」これは今までも本書で何度も熊楠が引いている作品で、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「動物に関する神話学」である。Internet archive」の同第二巻のここの、右ページ本文の下から七行目から。

「出羽の有也無也の關に昔鬼出て人を捉る烏鳴いて鬼の有無を告げ往來の人を助けたといふ(和漢三才圖會、六五)」所持する原本画像から訓点を除去した白文原文通りのものと、後に訓読したものを示す(これは私の同書の電子化の永年に亙る自己拘束だからである)。歴史的仮名遣の誤りはママで、〔 〕は私が推定で歴史的仮名遣で補った部分。これは地誌の前巻からの地誌の「大日本國」パートの、巻第六十五の中の「出羽」パートの終りの方(六折)である。歌は改行して引き上げ、上句・下句を分けた。

   *

牟也牟也關 良材集【引八雲御抄】云牟也牟也乃關有陸奥

出羽之交但關有出羽方草木森森然行人不栞則難

徃來

 武士の出さ入さにしるしするを

    をちをちどちのむやむやの関

△按俗謂有也無也関者訛也昔此山鬼神棲不時出捉

 人烏鳴告有無人因其聲徃來之說愈妄也或云鳥海

 山近處有此關【又俊頼歌爲伊奈牟夜】

   *

   *

牟也牟也關(むやむやのせき) 「良材集」に【「八雲御抄〔(やくもみせう)〕」を引〔(ひき)〕て。】云はく、『「牟也牟也乃(の)關」、陸奥と出羽の交(あはい)に有り。但し、關は出羽方に有り。草木、森森然〔(しんしんぜん)〕として、行人(みちゆき〔のひと〕)、栞(しおら)せざれば、則〔ち〕、徃來難し。

 武士〔(もののふ)〕の出〔(いづ)〕さ入〔(いる)〕さにしるしするを

    をちをちどちのむやむやの関

△按〔ずるに〕、俗に「有也無也(うやむや)の関」と謂ふは、訛〔(あやま)〕りなり。「昔し、此の山に、鬼神、棲(す)み、不時に出て、人を捉(と)る。烏、鳴き、有無を告ぐ。人、其の聲に因〔(より)〕て徃來す。」と云〔ふ〕。之〔(これ)〕、愈(いよいよ)、妄〔(まう)〕なり。或〔いは〕云〔(いふ)〕、「鳥海山の近處(〔ちかきところ〕)に此關、有り。」と【又、俊頼の歌に「伊奈牟夜」と爲〔(す)〕。】。

   *

恐らくは多くの人は芭蕉の「奥の細道」で知っている(私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花』の原文参照)この「牟也牟也關」は「うやむやのせき」とも呼び、「有耶無耶関」「有也無也関」などとも表記し、比定地は二つある。一つは平安後期からの歌枕で、山形県と宮城県との境界にある笹谷(ささや)峠(この峠自体は確かに最古からあった)にあった関所。出羽と陸奥の境となった。「伊奈(いなむ)の関」とも。ここ(グーグル・マップ・データ)。今一つは、 山形県と秋田県の境界、日本海に臨む三崎峠にあった関所。ここは「和漢三才図会」本文の一説にある通り、鳥海山の西麓である。「良材集」は「歌林良材集」で全二巻の歌論・歌学書。一条兼良撰。室町中期成立。「八雲御抄」は鎌倉初期の歌学書。全六巻。順徳天皇著。「承久の乱」(承久三(一二二一)年五月)の頃まで執筆していた草稿を、佐渡遷御後に纏めたもので、先行の歌学研究を集大成したもの。歌学的知識・詠歌作法・歌語の収集と解釈・名所解説・歌論の見解などが記されている。引用の歌「武士〔(もののふ)〕の出〔(いづ)〕さ入〔(いる)〕さにしるしするををちをちどちのむやむやの関」は「夫木和歌抄」の巻二十一の「雜三」に載る読人不知 の一首であるが、「日文研」の「和歌データベース」でも、

 もののふのいつさいるさにしをりする

    とやとやとほりのむやむやのせき

であり、これは、

 武士の出(い)づさ入(い)るさに枝折(しをり)する

    とやとやとほりのむやむやの關

で、上句は武士でさえ出入りのために草木を折り縛って栞とせねば迷って出られなくなってしまう迷宮(ラビリンス)の夢幻的なイメージを下句でオノマトペイアに仕立てた戯れと思うが、そのオノマトペイアが、伝説の「鬼がいるぞ!」という烏の「有也有也」(うやうや)、「無也無也」(むやむや)のそれと響き合うところを、良安は面白いと思ってここに挿入したようにも思われる。

「佛本行集經五二」以下の話は同経の「中國哲學書電子化計劃」の影印のこの辺りに出ている。活字でないと、と言う方は、簡体字交じりでよければ、「維基文庫」の同経の全文で「佛告诸比丘。我念往昔久远之时。波罗奈国有一乌王。」を検索で入れれば、その文頭に辿り着く。ぶつぶつに切れていても、ちゃんとした本邦の字体で見たければ、「大蔵経データベース」のこちらで「佛告諸比丘。我念往昔久遠之時。」を検索すればよろしい。

「日本靈異記中に、信嚴禪師出家の因緣は……」私の好きな「烏の邪婬を見て、世を厭ひ、善を修する緣第二」である。以下に角川文庫板橋倫行(ともゆき)氏の校注本(昭和五二(一九七七)年(第十八版)角川文庫刊)で示す。段落を成形した。

 

   *

 禪師信嚴(しんごん)は、和泉の國泉の郡の大領(だいりやう)血沼(ちぬ)の縣主(あがたぬし)倭麻呂(やまとまろ)なり。聖武天皇の御世の人なり。

 此の大領の家の門に、大樹有り。烏、巢を作り、兒を産み、抱(うだ)きて臥す。雄(を)の烏、遐迩(をちこち)飛び行き、食を求め、兒を抱ける妻を養ふ。

 食を求めて行ける頃、他(あだ)の烏、遞(たがひ)に來たりて婚(つる)び姧(かた)む。今の夫に婚(つる)びて、心に就きて、共に高く空にかけり、北を指して飛び、子を棄てて睠(かへり)みず。

 時に、先の夫の烏、食物を哺(ふふ)み持ち來たりて、見れば、妻の烏、無し。時に兒を慈しみ、抱きて臥し、食物を求めずして、數(あまた)の日を經たり。

 大領、見て、人を樹に登らせて、其の巣を見しむるに、兒を抱きて、死す。

 大領、見て、大(いた)く悲しび、心に愍(あはれ)み、烏の邪婬を觀て、世を厭ひ、家を出で、妻子を離れ、官位を捨て、行基大德(だいとこ)に隨ひて、善を修し、道を求む。

 名を信嚴と曰ふ。但だ、要(ちぎ)り語りて曰はく、

「大徳と倶に死に、必ず、當に同に[やぶちゃん注:「おなじきに」。]西方に往生すべし。」

といふ。

 大領の妻も亦、血沼の縣主なり。大領捨つるも、終に他(あだ)の心、無く、心に貞潔を愼む。愛(め)でし男子(をのこご)、病を得て、命、終はる時に臨みて、母に白(まを)して言はく、

「母の乳を飮まば、我が命を延ぶべし。」

といふ。

 母、子の言(こと)に隨ひ、乳を、病める子に飮ましむ。

 子、飮みて、歎きて言はく、

「ああ、母の甜(あま)き乳を捨てて、我、死なむか。」

といひて、卽ち、命、終はる。

 然して、大領の妻、死にし子に戀ひ、同共(ともども)に家を出で、善法を、修し、習ひき。

 信嚴禪師、幸、無く、緣、少なく、行基大徳より、先に、命、終りき。大徳、哭き詠(しの)び、歌を作りて曰はく、

  烏といふ大をそ鳥の言をのみ共にといひて先だち去ぬる

 夫れ、火の炬(も)えむとする時は、まづ、折松を備へ、雨降らむとする時には、兼ねて石板を潤ほす。烏の鄙(のびか)なる事を示して、領、道心を發(おこ)す。先善の方便に、苦を見(しめ)して、道を悟らしむとは、其れ、斯れを謂ふなり。欲界雜類の鄙なる行(わざ)、是(か)くの如し。厭ふ者は背き、愚なる者は貪(ふけ)る。

 贊に曰はく、可(あこし)なるかな[やぶちゃん注:「立派なことではないか!」。]、血沼の縣主の氏、烏の邪婬をみて、俗塵を厭ひ、浮花の假趣[やぶちゃん注:婀娜に華やかである仮の現象としての現世。]に背き、常に身を淨めて、修善に勤め、惠命(ゑみやう)を祈(ねが)ふ。心に、安養の期(ご)を尅(のぞ)み、この世間を解脫す。異(こと)に秀れにたる厭土の者なり。

   *

厶(ござ)る」「厶」は「私」の漢字の異体字。本邦ではこれに丁寧語・尊敬語の「御座る」の訓を当てた。

「マーク・トエーン」その当代にあって世界中で最も人気の高かった作家マーク・トウェイン(Mark Twain 本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズ(Samuel Langhorne Clemens) 一八三五年~一九一〇年)のこと。

「衆經撰雜譬喩經下には、烏が常に樹下の沙門の誦經を一心に聽いて、後獵師に殺さるゝも心亂れず天上に生れたと說かれた」発見出来ず。]

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