萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 湼槃
湼 槃
花ざかりなる菩提樹の下
密林の影のふかいところで
かのひとの思惟(おもひ)にうかぶ
理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神祕をおもふ。
涅槃は熱病の夜あけにしらむ
靑白い月の光のやうだ
憂鬱なる 憂鬱なる
あまりに憂鬱なる厭世思想の
否定の、絕望の、惱みの樹蔭にただよふ靜かな月影
哀傷の雲間にうつる合歡の花だ。
涅槃は熱帶の夜明けにひらく
巨大の美しい蓮華の花か
ふしぎな幻想のまらりや熱か
わたしは宗敎の祕密をおそれる
ああかの神祕なるひとつのいめえぢ――「美しき死」への誘惑。
涅槃は媚藥の夢にもよほす
ふしぎな淫慾の悶えのやうで
それらのなまめかしい救世(くぜ)の情緖は
春の夜に聽く笛のやうだ。
花ざかりなる菩提樹の下
密林の影のふかいところで
かのひとの思惟(おもひ)にうかぶ
理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神祕をおもふ。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。標題「湼槃」のみ、この字体(本文内の三ヶ所のそれは「涅槃」)。「湼」は「涅」の異体字。流石は本家新潮社! 同社の昭和一四(一九三九)年刊の新潮文庫「萩原朔太郞詩集」でも標題はちゃんと「湼槃」の表記となっている。初出は大正一一(一九二二)年九月号『太陽』。以下に示す。こちらの標題は「涅」の字体。太字は同前。
*
湼槃
原始佛敎における涅槃の觀念は、
この世に於ての最も美しい思想である。
ショーペンハウエル
花ざかりなる菩提樹の下
密林の影のふかいところで
かのひとの思惟(おもひ)に浮ぶ
理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神祕をおもふ。
涅槃は熱病の夜あけにしらむ
靑白い月の光のやうだ
憂欝なる 憂欝なる
あまりに憂欝なる厭世思想の
否定の、絕望の、惱みの樹蔭にただよふ靜かな月影
哀傷の雲間にうつる合歡(ねむ)の花だ。
涅槃は熱帶の夜明けにひらく
巨大の美しい蓮華の花か
ふしぎな幻想のまらりや熱か
わたしは宗敎の祕密をおそれる
ああかの神祕なるひとつの心像(いめえぢ)――美しき死への誘惑。
涅槃は媚藥の夢にもよほす
ふしぎな淫慾の悶えのやうで
それらのなまめかしい救世(くぜ)の情緖は
春の夜に聽く笛のやうだ。
花ざかりなる菩提樹の下
密林の影のふかいところで
かのひとの思惟(おもひ)にうかぶ
理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神祕をおもふ。
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