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2021/12/15

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 散文詩 聖餐餘錄 / 致命的に不全

 

    聖 餐 餘 錄

      食して後酒盃をとりて曰けるは
      此の酒盃は爾曹の爲に流す我が
      血にして建つる所の新約なり、
             ―路加傳二二、二〇、

 

鐘鳴る。

我れの道路に菊を植え、我れの道路に霜をおき、我れの道路に琥珀をしけ。道路はめんめんたる一列供養のみち、夕日にけぶる愁ひの坂路、またその坂を昇り降らんとする聖徒勤行の路でもある。

 

鐘鳴る。

鐘鳴る。

エレナよ。今こそ哀しき夕餐の卓に就け。聖十字の銀にくちづけ、僧徒の列座を超え、雲雀料理の皿を超え、汝の香料をそのいますところより注げ。

ああ、いまし我の輝やく金屬の手に注げ、手は疾患し、醋蝕し、するどくいたみ針の如くになりて、觸るるところの酒盃をやぶり汝のくちびるをやぶるところの手だ。

 

ああ、いま聖者は疾患し、菊は疾患し、すべてを超えて我れの手は烈しく疾患する。

見よ、かがやく指を以て指さすの天、指を以て指さすの墳墓にもある。その甚痛のするどきこと菊のごときものはなく、菊よりして傷みを發すること疾患聖者の手のごときものはない。

 

愛する兄弟よ。

いまこそわが左に來れ。

汝が卓上に供ふるもの、愛餐酒盃の間、その魚の最も大なるものは正しく汝の所有である。

凡そ我れの諸弟子諸信徒のうち、汝より聖なるものはなく、汝より邪慾のものはない、乞ふ、われはわれの肉を汝にあたへ、汝を給仕せんがために暫らく汝の右に坐することを許せ。

ああ、この兄弟よ、ぷうしきんの徒よ。

爾は愛するユダである。我をあざむき賣らむとし、愛を接吻せむとする一念にさへ、汝は聯座頌榮の光輪を一人負ふところの聖徒である、「愛」である。

 

愛する兄弟よ。

而して汝は氷海に靈魚を獲んとするところの人物である。

肉親の骨肉を負ひて道路に蹌行し、肉を以て氷を割らんとするの孝子傳奇蹟人物である。

みよ汝が匍行するところに汝が蒼白の血痕はあり。

師走に及び、汝は恒に磨ける裸體である。汝が念念祈禱するときに、菓子の如きものの味覺を失ひ、自働電話機の如きさへ甚だしく憔悴に及ぶことあり。

愛する兄弟よ。まことに師走におよび爾は裸體にして氷上に匍匐し、手に金無垢の魚を抱きて慟哭するところの列傳孝子體である。

 

諸弟子。

諸信經の中、感傷品を超えて觸脫あることなし。萬有の上に我れをあがめ、我れの上に爾曹のさんちまんたるを頌榮せよ。

今宵、あほぎて見るものは天井の蜂巢蠟燭、伏して見るものは女人の指皿、魚肉、雲雀、酒盃、而して我が疾患飾金の掌、輝やく氷電の飾卓晶峯とあり。

みよ、更に光るそが絕頂にも花鳥をつけ。

ああ、各々の肩を超え、しめやかに薰郁するところの香料と抹藥と、音樂と夢みる香爐とあり。

 

諸使徒。

われと共にあるの日は恒に連座して酒盃をあげ、交歡して一念さんちまんたりずむを頌榮せよ。

蓋し、明日炎天に於て斷食苦行するものはその新發智、道心のみ、もとより十字架にかゝる所以のものは我れの涅槃に至ればなり。亞眠。

             ―人魚詩社信條―

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。歴史的仮名遣の誤りや、誤字・誤植としか思われないもの(後ろから二連目の「觸脫」(「解脫」の誤判読或いは誤植)等)等は総てママである。

「爾曹」(じさう(じそう))は二人称代名詞で、「なんじら・おまえたち」の意。対等又は下位の者に対して用いる。

「路加傳二二、二〇」これは「明治元訳新約聖書」 (明治三七(一九〇四)年刊) の「路加傳福音書」(ルカによる福音書)の訳。所謂、「最後の晩餐」の冒頭部のイエスの台詞であり、この後に『夫(そ)れわれを賣わたす者の手は我と共に案(だい)にあり。』『人の子は果して定められたる如く逝かん。然(さ)れども人の子を賣(わた)す人は禍ひなる哉(かな)』という衝撃的な言葉が続くのである。

「醋蝕」(さくしよく・そしよく)だが、一般的熟語ではない。「酸触」と同義で「浸潤して崩れ蝕まれること」の意で用いている。

ぷうしきんの徒」ロシア近代文学の嚆矢とされる大詩人アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン(Александр Сергеевич Пушкин/ラテン文字転写:Alexander Sergeyevich Pushkin 一七九九年~一八三七年)は無神論者であり、キリスト教の宗教的価値観に懐疑的であった。

「人魚詩社」は詩・宗教・音楽の研究を目的とする結社。大正三(一九一四)年六月に室生犀星と山村暮鳥の三人で設立したもの。

 本底本の「詩作品發表年譜」及び筑摩版全集の「拾遺詩篇」所収の初出によれば、それは大正四(一九一五)年一月号『地上巡禮』である。しかし、前の「遊泳」に続いて、本書の本篇も、烈しい異同と脱落(意図的省略)が複数あり、この小学館版の本篇は《激しく不全で無効なもの》と断ぜざるをえない。以下にその初出をそのままに示す。漢字表記・誤字・脱字・誤植と思われるもの等、総てママである。

   *

 

 聖餐餘錄

    食して後酒盃をとりて曰けるは此の酒盃
    は爾曹の爲に流す我が血にして建つる所
    の新約なり、
            ―路加、二二、二〇、

 

鐘鳴る。

我れの道路に菊を植ゑ、我れの道路に霜をおき、我れの道路に琥珀をしけ。

道路はめんめんたる一列供養のみち、夕日にけぶる愁ひの坂路、またその坂を昇り降らむとする聖徒勤行の路でもある。

 

鐘鳴る。

鐘鳴る。

エレナよ。今こそ哀しき夕餐の卓に就け。聖十字の銀にくちづけ、僧徒の列座を超え、雲雀料理の皿を超え、汝の香料をそのいますところより注げ。

ああ、いまし我の輝やく金屬の手に注げ、手は疾患し、醋蝕し、するどくいたみ針の如くになりて、觸るゝところ、この酒盃をやぶり汝のくちびるをやぶるところの手だ。

 

ああ、いま聖者は疾患し、菊は疾患し、すべてを超えて我れの手は烈しく疾患する。

見よ、かがやく指を以て指さすの天、指を以て指さすの墳墓にもある。その甚痛のするどきこと菊のごときものはなく、菊よりして傷(いた)みを發すること疾患聖者の手のごときものはない。

 

愛する兄弟よ。

いまこそわが左に來れ。

汝が卓上に供ふるもの、愛餐酒盃の間、その魚の最も大なるものは正しく汝の所有である。

爾は女の足をひきかつぎ寢(ね)ることによりて、その素足に供養し流涕することによりて、爾の魚の大をなす所上である。[やぶちゃん注:「所以」の誤りであろう。]

まことに夜陰に及び、汝が邪淫の臥床(ふしど)にさへ下馬札を建てるところの聖從である。

凡そ我れの諸弟子諸信徙のうち、汝より聖なるものはなく、汝より邪慾のものはない。乞ふ、われはわれの肉を汝にあたへ、汝を給仕せんがために暫らく汝の右に座することを許せ。

ああ、この兄弟よ、ぷうしきんの從よ、爾は愛するユダである。我をあざむき賣(う)むとし、我を接吻せんとする一念にさへ、汝は聯座頌榮の光輪を一人負ふところの聖徒である、『愛』である。

 

愛する兄弟よ。

而して汝は氷海に靈魚を獲んとするところの人物である。

肉親の骨肉を負ひて道路に蹌行し、肉を以て氷を割らんとするの孝子傳奇蹟人物である。

みよ、汝が匍行するところに汝が蒼白の血㾗はあり。

師走に及び、汝は恒に磨ける裸體てある。汝が念念祈禱するときに、菓子の如きものの味覺を失ひ、自働電話機の如きさへ甚だしく憔悴に及ぶことあり。

汝は電線を渡りてその愛人の陰部に沒人[やぶちゃん注:「入」の誤植。]に及ばんとし、反撥され、而して狂奔する。况んや爾がその肉親のために得るところの鯉魚は、必ずともに靈界天人の感能せる、或はその神秘を啓示するところにならざるべからず。

愛する兄弟よ、まことに師走におよび、爾は裸體にして氷上に匍匐し、手に金無垢の魚を抱きて慟哭するところの列傳孝子體である。

 

諸弟子。

諸信經の中、感傷品を超えて解脫あることなし。萬有の上に我れをあかめ、我れの上に爾曹のさんちまんたるを頌榮せよ。

今宵、あほぎて見るものは天井の蜂巢蠟燭、伏して見るものは女人淫行の指、皿、魚肉、雲雀、酒盃、而して我が疾患蝕金の掌と、輝やく氷雪の飾卓晶峯とあり、

みよ、更に光るそが絕頂にも花鳥をつけ。

ああ、各々の肩を超え、しめやかに薰郁するところの香料と沒藥と、音樂と夢みる香爐とあり。

 

諸使徙、

われと共にあるの日は恒に連座して酒盃をあげ、交歡淫樂して一念さんちまんたりずむを頌榮せよ。

蓋し、明日炎天に於て斷食苦行するものはその新發智、道心のみ、もとより十字架にかかる所以のものは我れの※槃に至ればなり。亞眠。[やぶちゃん注:「※」=「𣵀」の(つくり)の上部の「曰」が「臼」になった字体。無論、「涅槃」の誤り。]

            ―人魚詩社信條―

 

   *

細部を指摘すると、キリがないので、御自身で比較されたいが、本書の本篇が致命的に無効なのは、初出にある以下が意図的に除去されているからである。まず、第四連の、

   *

爾は女の足をひきかつぎ寢(ね)ることによりて、その素足に供養し流涕することによりて、爾の魚の大をなす所以である。

まことに夜陰に及び、汝が邪淫の臥床(ふしど)にさへ下馬札を建てるところの聖從である。

   *

で、次に、第五連の、

   *

汝は電線を渡りてその愛人の陰部に沒人に及ばんとし、反撥され、而して狂奔する。况んや爾がその肉親のために得るところの鯉魚は、必ずともに靈界天人の感能せる、或はその神秘を啓示するところにならざるべからず。

   *

である。これは前の「遊泳」と同様に理由が判らない。そちらと同じ繰り返しになるが、本書は戦後の昭和二二(一九四七)年十一月発行である。従って、この程度のものを危惧して自主的にカットすることはちょっと考えられないように思う。されば、あり得ることは唯一つで、昭和十八年三月から昭和十九年十月にかけて刊行された、本書と同じ小学館の「萩原朔太郎全集」に収録(推定だが、第一巻「詩集上卷」・第二巻「詩集下卷」・別冊「遺稿上卷」の孰れか)する際、時局を憚って、これらの詩句を削除して載せたものを、そのまま転写してしまった(初出誌の確認をしなかった)ということになろうか。私は小学館版全集の原本を見たことがないので断言は出来ない。

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