ブログ・アクセス1,640,000突破記念梅崎春生 十一郎会事件
[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年九月号『小説新潮』初出で、後に同年十一月近代生活社から刊行された作品集「春日尾行」に収録された。
底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第三巻」を用いた。
中間部でロケーションとなる「杉並区東田町」は現在、統合で杉並区東田町成田東(なりたひがし)地区に編入されている。「今昔マップ」の「1965~1968年」並置版で示しておく。
なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本日、つい先ほど、1,640,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021年12月13日 藪野直史】]
十一郎会事件
年少の友人早良十一郎君が、ある日の夕方、極上等のウィスキー瓶を一本ぶら下げて、ふらりと私の家を訪れてきた。早良君は職業は画家だが、画家としてはまだ無名の方だから、自宅で画塾を開いて子供たちから月謝を取ったり、キャバレーの飾りつけを手伝ったりして、ほそぼそと生計を立てている。この早良君がこんな上等のウィスキーを持って現われたから、私もすこし驚いて訊ねてみた。
「柄にもなく上等のウィスキーをたずさえているじゃないか。一体どうしたんだね。キャバレーでちょろまかしでもしたか?」
「そんなことをするものですか。正直一途の僕が」早良君はちょっとイヤな顔をした。「貰ったんですよ」
「貰ったって? 誰に?」
「それを今から、お話しようと思うんです」そして早良君は瓶を眼の高さに差し上げてコトコトと振り、中身を吟味するような眼付をした。「その前にこれをあけようと思うんだけど、大丈夫だろうなあ、これは」
「大丈夫?」
「いや、何ね、毒でも入ってるんじゃないかと、ちょっと考えたんですよ。でも大丈夫ですよ。濁ってもいないし、ちゃんと封印がしてある」
「イヤだよ。そんな怪しげなのにおつき合いするのは」私は思わず大声を出した。「それは持って帰れよ。僕のうちのを出すから、それで間に合わせよう。僕んちのはそれほど上等じゃないが」
「そうですか。それじゃお宅のを頂戴いたしましょう」早良君はけろりとして自分の瓶を風呂敷にしまった。「こいつは誰かに売りつけてやることにしよう。そうだ。田辺の奴に売りつけてやろうかな。個展にも来て手伝って呉れたし」
「あっ、そうそう。個展を開いたってねえ」と私は言った。「成績はどうだった。すこしは売れたかい?」
「ええ、それなんですよ」と早良君は困惑したような、まぶしそうな眼付をした。「話もそこから始まるんですよ」
以下が、僕の家の安ウィスキーを飲みながら、早良君が物語った話だ。
あなたは御存じないかも知れませんが、個展を開くというのは、案外金がかかるんですよ。とても貧乏画描きの僕なんかには、開けそうにはなかったのですが、Q画廊の主の山本氏ね、これがとても義俠心のある人物でね、僕が個展を開きたがっていることを人伝てに聞いたんですな、人を介して、十日間タダで画廊を貸してやろう、と言ってきて呉れた。嬉しかったですなあ。山本氏の義俠心も嬉しかったけれど、山本氏がそう申し出るからには、きっと山本氏が僕の実力を認めたからに違いない。そのことが無性に嬉しかったです。
で、その日からあれこれ金策して、ええ、会場費はタダでも、他にいろいろ金がかかることがあるんですよ。期日の前の日に、作品二十五点、すっかりまとめ上げて、Q画廊に搬入した。夜を徹して壁面にかざりつけた。並べ方によって効果がぐんと違いますからな。効果が良ければ、人も感動して、ついふらふらっと買おうという気になる。いや、何も売ることばかり考えてるわけじゃないのですが、売れないより売れた方がましですからねえ。三つでも四つでも売れたら、ケチな内職をやらずに済むし、その分だけ画業に打ち込めることになるし。
そして飾りつけ終って、僕は腕を組んで考えました。人間というものには競争心という奴がある。会場をぐるりと一廻りして、まだどれも売れていなければ、ハハア、まだどれも売れていないな、じゃあ買うのはこの次にしよう、そう思ってさっさと帰って行くかも知れない。ところが作品の一つか二つ、売約済みの赤紙が貼ってあれば、ハハア、なかなか売れ行きがいいんだな、早いとこ買わないと売り切れてしまうかも知れんぞ、てんで大あわてして売約を申し込むことになりはしないか。そう僕は考えた。よし、ニセの売約済みの赤札(ふだ)をひとつ貼っておこう。我ながら人間心理の深奥をついたアッパレな企みでした。
で、どの絵に赤札を貼ろうか?
売れそうな絵に赤札を貼ると、折角その絵が欲しい人がそれを見て、ああ売約済みか、それじゃ諦(あきら)めよう、てんで買わずに帰って行くでしょう。それじゃ困る。あんまり売れそうにない、出来の悪い地味な絵をえらぶにしくはなし。
そこで僕は二十五点の絵をあれこれ見くらべた揚句、海老を描いた六号の絵をえらび出しました。お皿の上にエビが二匹乗っている絵で、制作年月は新しいのですが、構図が月並で、二十五点の中では僕の最も気に入らない作品でした。そんな作品だから、場所も画廊のすみっこです。その絵の下に、郵便ハガキ大の売約済みの赤札をべたりと貼りつけてやりました。ニセ札とは言いながら、売約済みの赤札を眺めるのは、割にいい気分のものでしたねえ。
そして午前九時、個展の第一日を開いた。会場の入口には署名簿と、御感想うけたまわり帳というのを出しました。御感想うけたまわり帳というのは、絵全体あるいは個々の絵について感想を書き入れて貰おうという考えで、それで自分の画業の向上の資としようという僕の心算でした。
で、Q画廊は場所が場所だし、割によく人が入って呉れました。学生街に近いから、学生もよく入ってきた。学生の中には無遠慮な奴がいますねえ。僕がいるのに、友達同士大声で絵の批評したりする。批評ならいいけれども、批評じゃなくて悪口ですな。海老の絵を見てこう言った奴がいる。
「へえ。これがエビかい。俺はまた赤芋とばかり思っていた」
すると相手の奴が相槌(あいづち)を打った。
「こんな絵を買った奴の顔が見たいな。きっとそいつは鰈(かれい)みたいに眼が曲ってるんだよ」
僕はハラワタが煮えくりかえったが、じっと辛抱しました。いくら悪口雑言されても、見に来て呉れたからにはお客さまですからねえ。襟首つかまえてぶん殴るというわけには行かない。
こうして三日経ちました。僕は朝九時に画廊に出勤、午後五時までそこにいる。規則正しい、ちょいと勤め人みたいな生活です。一日中詰めていないことには、何時なんどき買い手が出てくるか判らないですからねえ。
ところが三目過ぎても、売約済みはあのエビの絵だけで、内心僕もがっかり、いささかのあせりも感じ始めました。個展のいろんな雑費も、絵の三枚や四枚売れることをあてにして、あちこちに借金したんですからね。売れて呉れないと実際に困るんですよ。
そして四日目になりました。朝からいい天気で、観覧者の入りも多く、時折感想うけたまわり帳をのぞくと、
「なかなか前途有望だ。しっかりやれ」
だの、中には女文字で、
「とても感動しましたわ。御精進をいのります」
などと言うのまであって、絵はまだ一枚も売れないが、僕はいくらか気分が浮き浮きとなり、やがて午後四時頃になりました。
その頃です。林十一郎というふしぎな男が僕の前に姿を現わしたのは。
「やあ、あなたが早良十一郎画伯ですか」
とその男は帽子を脱いで、僕にピョコンと頭を下げました。僕はその時会場の隅に仕切られた狭い控え室で、椅子にぐったり腰をおろしてうつらうつらと居眠りを始めていたのです。なにしろ慣れない朝九時出勤ですからね、午後ともなればつい眠気がさしてくるのです。僕は眠りを破られて、びっくりして立ち上りました。
「そうです。僕が早良ですが――」僕はにこにこと愛想よく笑いました。ひょっとするとこの男は絵の買い手かも知れないと思ったからです。「何か御用で?」
「僕はこういう者です」男はそそくさとポケットから真新しい名刺を出しました。「偶然表を通りかかって、あなたのお名前を拝見したものですから」
その真新しい刷り立ての名刺を見ると、林十一郎、と印刷してあり、十一郎会幹事、という肩書きがついています。僕はびっくりしてその林十一郎という男の顔を見ました。
「十一郎会? へえ、そんな会があるんですか?」
「あるんですよ」林は重々しくうなずきました。「それについてちょっと話があるのですが、そこらでつめたいお茶でもつき合って呉れませんか」
僕も居眠り最中ではあったし、何かつめたいものが欲しかったものですから、会場に隣接した絵具売場のヒロちゃんという女の子に会場のことを頼み、林と一緒に出かけることになりました。
さて、林の案内で近所の喫茶店に入ると、彼は直ぐにつめたいコーヒーを二つ注文しました。そしてハンカチを出して顔をごしごし拭いたが、ふとあわてたように指で鼻鬚(ひげ)をぐいぐい押えるようにした。林は鼻下にかなり見事なヒゲをたくわえていました。そのヒゲはいやらしいほど漆黒で、毛並の一本一本がそろっていて、なんだか林の顔にはふさわしくないような印象を受けました。林の年頃は四十五六と言ったところでしょうか。恰幅のいい、眼鏡をかけていて、そうですな、ちょいとした少壮重役とでも言ったタイプでした。ヒゲを押えながら、林は僕に静かな口調で言いました。
「どうですか、個展の景気は。相当に人が入っているようですね」
「おかげさまで」僕はコーヒーをすすりました。「初の個展としては大成功のようです」
「そうそう。売約済みの札なんかも貼ってありましたな」
そして林は上目使いに僕をちらりと見た。「あのエビの絵、なかなかうまく描けてますな。感心しましたよ」
「そうですか。有難うございます」
「売約済みでなかったら、僕が買いたいほどだった」林はため息をつきました。「買い手はどなたですか」
「買い手はさる貿易会社の社長さんです」ニセ札(ふだ)だと言うわけにも行かず、僕はにこにこしながら答えました。「どうですか。エビだけでなく、他にも二十四点作品がありますが」
「いや、僕が欲しいのはエビの絵なんですよ」林はまた鼻鬚を押えながら、あたりを見廻して声を低くした。「どうです、早良さん。あなたもひとつ、十一郎会に加入しませんか」
「そうですなあ」
と僕は渋った。だって十一郎会ってどんな会か、まだ全然判らないのですからねえ。すると林はたたみかけるように言いました。
「あなたの十一郎は、どの手の十一郎ですか。十一番目に生れた十一男というわけでしょうな」
「いや、僕は三男です。大正十一年生れというわけで――」
「ああ、そうですか」林は急にがっかりした声を出しました。「それじゃ会員になる資格はないな」
「十一男じゃないとダメなんですか?」僕は興味を起して訊ねてみました。「大正十一年や昭和十一年生れじゃダメ?」
「ええ。本当は十一男じゃないと資格がないんです」
そして林はしげしげと僕を眺め、何か考えている風(ふう)でしたが、やがてややはしゃいだ声になって、
「しかし、どっちの十一郎にしたって、十一郎は十一郎だ。奇しくも同じ名前を持っているということは、因縁というものでしょうね。どうですか。お近づきのしるしに、そこらで一緒に夕飯でも食いませんか」
「そうですね」
僕は時計を見た。もう五時近くです。画廊に戻ってもイミないし、また十一郎会というへんてこな会にも興味を感じたものですから、ついそのままのこのこ林十一郎のあとについて喫茶店を出ました。
林は先に立ち、そしてさっさと入って行ったところは、一軒のウナギ屋です。さっきの喫茶店でも、僕の嗜好(しこう)も聞かずいきなりコーヒーを注文したし、今度も否応(いやおう)なしにウナギ屋に案内する。この林という人物は相当身勝手で、他人の意志を無視する傾向があるな。その時僕はそう感じました。
それで僕らはトントンとウナギ屋の二階に通された。林の注文で酒も来ました。
「どうです。イケる口でしょう」
そんなことを言いながら、林は僕におちょうしをつきつける。僕も酒は嫌いでないので、遠慮なく盃(さかずき)をあけました。やがて頃合いを見はからって僕は訊ねました。
「先ほどのお話の十一郎会って、どんなんですか?」
「ああ、そうそう、十一郎会ね」林はウナギにぱくりと嚙みついた。「実は海老原(えびはら)十一郎という大金持のお爺さんがいましてね」
以下林の話をまとめてみると、その海老原十一郎という金持爺さんは、福岡県の貧農の十一男として生れ、刻苦精励して中年にして炭鉱主となり、現在は億という金を持っている立身出世の典型みたいな人物だそうです。その十一郎爺さんは、自分が十一男として生れたばかりに、学校にも行かして貰えず、大へんに苦労した。だからその同苦の人々を集めて、十一郎会というのをつくり、若くて学資のない十一郎には学資を出してやり、困っている十一郎には金を融通してやり、そんな具合にして陰徳をほどこすと同時に、自分の若い日の苦労を記念したい。そう思い立ったんだそうです。そう思い立ったのが三年前だというのですが、現在では会員も全国に散在し、数も百三十名に達しているとのことでした。林十一郎は盃を傾けながら、あわれむような眼で僕を見ました。
「あんたも十一男だとよかったんだけどねえ。海老原老は絵が大好きで、だからあんたのいいパトロンになるんだがなあ」
「そうですねえ」僕も自分が十一男でなく、三男に生れたことをひどく悔やむ気持になった。「それは残念だったなあ。海老原さんという人はそんなに絵が好きなんですか?」
「うん、海老原老は自分の名にちなんで、エビの絵が大好きで、蒐集(しゅうしゅう)してるんですよ」林は鬚を押えながら言った。「だからさっきも偶然あんたのエビの絵を見てね、あなたも名前が十一郎だし、そのエビの絵だし、これは海老原老に知らせたら喜んで、直ぐ買おうと言うだろうと思ってね。でも、大正十一年生れの十一郎だとちょっと困るなあ」
「困ることはないでしょ」と僕もあわてて頑張った。「海老原老はエビの絵が好きなんでしょう。描き手が十一郎であろうとなかろうと、それは関係ないじゃありませんか」
「それもそうだねえ」林はすこし酔いが廻ったらしく、とろんとした眼で僕を見ました。
「でも十一男の十一郎画伯だと、高く買って貰えると思ってさ。それにあのエビの絵はもう売約済みなんでしょう」
「それはそうですが」僕はよっぽどあれはニセの売約済みだと告白しようとして、やっと踏み止まった。ニセの売約札をつけていたなんて、芸術家としての心根のほどを疑われますからねえ。「しかし、エビの絵なら僕はまだまだいくつも描きたいと思っているんですよ。エビというやつは僕も大好きだし、実際あの優美な姿態は何度描いても描き飽きませんからねえ。フライにして食べてもおいしいし――」
「そうだねえ。十一郎の好みにおいて、紹介状を書いて上げようか」林は眼をしばしばさせながら僕を見ました。
「一度訪ねてみますか?」
「ええ」僕は喜んでうなずいた。「個展でも終ったらお訪ねしてみます」
「ああ、それじゃまずい」林は掌を振りました。「海老原翁はね、明日の夕方、福岡の方にお帰りになるんですよ。今度の上京は今年の秋の末になると言ってたっけ」
「じゃ明日の午前中にでもお伺いしてもいいですよ」
「明日の午前? それはずいぶん性急だなあ」林は濁った声を出して笑いました。「そうですか。それじゃここで紹介状を書きましょう。くわしく書いた方がいいな。ええと、あなたの住所は?」
僕は住所を教えるかわりに、僕の名刺を一枚渡しました。そして僕は便所に立ち、やがて戻ってくると、林は女中を呼んで封筒を持って来させたところでした。そして便箋をその封筒の中に入れ、糊をつけ、表にさらさらと万年筆で海老原十一郎様、早良十一郎持参、林十一郎拝、としたためました。僕はその十一郎づくしの紹介状を有難く押しいただき、大切に内ポケットにしまいました。それから林はポンポンと掌をたたき、女中を呼び寄せて言いました。
「お勘定を願います」
「あら。もうこちらから」女中は掌を僕に向けた。「いただきましたんですのよ」
「なんだ。トイレかと思ってたら、そんな心遺いまで」と林は僕にぺこりと頭を下げ、あわてて鼻鬚を押えました。
今考えるとこの林十一郎のヒゲは、どうも付けヒゲだったらしいんです。インチキな奴ですな。
「ひょんなことでお近付きになれて、それに御馳走にまでなって――」
「いえいえ。こちらこそ、十一男でなくて失礼しました」と僕も頭を下げました。「で、海老原翁の東京のおすまいは、どちらですか?」
そして林から地図を書いて貰い、ウナギ屋を出ました。もうあたりはそろそろ暗くなり、空には星が二つ三つチラチラとまたたいている。林十一郎とはウナギ屋の表で別れました。別れぎわに林は僕の手を握って、
「海老原翁に会ったら、僕のことづてとして、れいの仕事の方は着々進んでいると、そう中し上げてくれたまえ」
と頼みました。僕は承知して、それから画廊に戻っても仕方がないから、ぶらぶらと駅に歩き、電車で家に戻ってきました。今日はひょんないきさつでひょんなことになったが、あるいはこんなことから運が開けるのかも知れないぞなどと考え、いい気持のまま寝床に入り、そのままぐうぐう眠ってしまいました。
明けるとまた翌朝もいい天気で、見上げても一天雲ひとつありません。僕は一張羅の夏服を取出し、プレスをして着用、白いハンカチを胸のポケットにさしはさみ、家を出たのが午前九時です。いくら芸術家とは言え、身なりは大切ですからねえ。林の地図によると、海老原翁の邸宅というのは杉並区東田町というところで、そこらに着いたのが大体十時半頃でした。ところがそこらのどこを探しても海老原という家がない。大金持というからには小さな家に住んでいるわけがない。億という金を持っているくらいだから、邸宅も少くとも一町四方ぐらいはあるだろう。ところがそんな大邸宅はどこにも見当らないのです。僕は歩き疲れ、またきちんとエチケット正しく夏服を着用に及んでいるものですから、暑くて汗もたらたら流れてくるし、とうとうそこらの氷店に飛び込んで、氷イチゴを食べながら、そこのおかみさんに訊ねてみた。
「ここらに海老原さんというお宅を知りませんか。さっきからぐるぐる廻って探しているんだけれど」
「海老原さん」おかみさんは氷をガシガシかく手を休めて、いぶかしげに振り返りました。「さあ、知りませんね」
「じゃあ、十一郎会というのは?」
「十一郎会? それも初耳ですよ」
「海老原さんというのは、大金持だから、お邸も小さくない筈ですよ。それを地元の人が知らないなんておかしいなあ」
「大金持ですって? ここらにゃ大金持なんてあまり住んでませんよ。貧乏人ばかりですよ。何かの間違いじゃないんですか」
どうも話がハッキリしないものですから、僕は氷イチゴの代金を払って店を飛び出し、折よくそこに通りかかった郵便配達夫にも訊ねてみたが、海老原なんて家はないと言う。そこで林の地図を取出して(この地図の書き方も不正確でいい加減のものでしたが)配達夫と二人で検討してみますと、その海老原邸に相当するのはヤナギ湯という銭湯で、そのヤナギ湯の主人も海老原姓ではないとのことです。まさか海老原翁ほどの大富豪が、銭湯如きに居侯している筈はないし、何だか狐につままれたような気持で配達夫にお礼を言い、それ以上探し廻る気力も尽きて、僕はとぼとぼと引っ返した。さっき食べた氷イチゴをこぼしたらしく、僕の一張羅の白ズボンの膝のところが、うす赤くシミになっている。何だかむしゃむしゃした気分で電車に乗り、そして正午頃Q画廊に着きました。
Q画廊に着くと絵具売場からヒロちゃんが顔を出して言いました。
「やあ、いらっしゃい。今日は遅かったのねえ。朝寝でもしたの?」
「朝寝なんかするものか」僕はやや不機嫌に答えました。
「人を訪問してたんだ」
「あら、そう言えばこんな暑いのに、パリッとした服を着てるのねえ。でも早良さんにはその服は似合わないわ。やはりあなたは、よれよれのワイシャツに、コールテンのズボンなんかがよく似合うわよ。それじゃあまるで狼が衣裳を着けたみたいでおかしいわ」
そしてヒロちゃんは掌を口にあてて、さも可笑しそうにコロコロと笑いました。ヒロちゃんというのは、ちょいとソバカスのある可愛い子なのですが、それでいて、なかなか口が悪いのです。
「今日の午前中はどうだった? 何も変ったことはなかった?」話題を変えるために僕は質間しました。「たくさん見に来て呉れたかね?」
「そうね。いつもと同じぐらいよ」そしてヒロちゃんは身体を乗り出すようにして画廊の一隅を指差した。「あのエビの絵、持って行ったわよ」
「持って行ったって?」びっくりして僕がその方を見ると、絵の列がそこだけスポッと空白になって、エビの絵が見えなくなっているじゃありませんか。「持って行ったって、誰が?」
「あら、誰がって、あなたは知らなかったの?」
「知るにも知らないにも」僕はわけも判らないまま、じりじりと腹が立ってきて、ヒロちゃんに詰め寄った。「絵を持って行くったって、黙って持って行く筈がない。君が渡したのか?」
「そうよ」事態険悪と見てヒロちゃんは少々しょげたようでした。「だって貴方の名刺を持ってるし、自分が購入主だなんて言うんですもの」
「名刺? 僕の名刺?」僕はびっくりしました。「どこにその名刺はある?」
ヒロちゃんはポケットの中から名刺を取出しました。見ると紛れもなく僕の名剌で、裏を返すと『この名刺持参の方にエビの絵をお渡し下さい。Q画廊カントク殿。早良十一郎』と、なかなか達者な字で書いてある。もちろん僕の字ではありません。その名刺の達筆を眺めている中に、どこかで見かけたような字の型だと気がついたとたん、僕はあわてて内ポケットからあの十一郎尽くしの紹介状を引張り出していた。二つをつき並べて調べてみますと、字の太さと言いくずし方と言い、まさしくあの林十一郎の筆跡で、僕が昨夜彼に渡した名刺に相違ありません。
僕はエビの絵のかかっていた場所に飛んで行き、またヒロちゃんのところに走って戻って来た。そしてヒロちゃんの肩を、ふくよかな肩をつかんでゆさぶった。
「この名刺を持って絵を取りに来たのは、どんな男だった? 四十五六の、眼鏡をかけた、鼻ヒゲを生やした奴かい?」
「いいえ、ヒゲなんて立てていなかったわ。それに眼鏡も」ヒロちゃんは痛そうに肩をくねくねさせながら答えました。「ああ、そうそう名刺を呉れたわ。自分はこういう者だって」
ヒロちゃんが別のポケットから取出した名刺を見ると、まさしくあの十一郎会幹事の『林十一郎』の名刺です。僕はそれをひったくり、ヒロちゃんの肩から手を離し、まあヒロちゃんをいくら責めたって仕方がないわけなので、最後の訓戒を垂れてやりました。
「名刺なんかをウカウカと信用するやつがあるものか。責任問題になってくるんだぞ。代償に接吻の一つや二つでは追っ付かないんだよ」
「イイだ」ヒロちゃんは口をとがらせて反撃しました。「誰があんたなどに接吻なんかさせるもんか。ほんとに、イイだ」
僕は朝からてくてく歩き廻り、またわけの判らない事件にくたくたとなり、腹も空いてきたものですから、そのままぷいと画廊を飛び出してソバ屋に行った。そしてモリソバをつるつる食べながら、昨夜から今日にかけてのことを考えました。あの林十一郎という男は昨日、あきらかに僕をだます目的をもって近づいた。僕をだまして今日の午前中、ありもしない十一郎会本部におもむかせ、そのすきをねらってエビの絵を盗み出した。そこまでは鈍感な僕もはっきり判るのですが、どういうわけでそんな手数をかけて、エビの絵を持って行ったのか。それが僕にはよく判らないのです。あのエビの絵は、僕の作品としてはそれほど上出来のものでないし、盗むなら他の作品を持って行きそうなものですからねえ。
モリソバを三つツルッルと平らげて、四つ目に取りかかろうとした時、僕はハッとあの紹介状のことを思い出した。一体居るか居ないか判らない海老原という老人に対して、林十一郎は僕をどういう紹介の仕方をしたのか。僕は箸を置き、おもむろに紹介状を取出して封を切りました。『早良十一郎画伯』と便箋の最初はそんな呼びかけの文句から始まっていました。『貴下がこの文面を読むのは、すでにカンカンに怒っておられる時だと思いますが、あのエビの絵は決して盗んだのではない。お借りしたのである。本来ならば買うべきところを、すでに他に売約済みのこととて、こういう余儀なき手段をとった。個展の最終日までには必ずお返し致します故、決してジタバタ騒ぎ立てることなく、不問に付せられよ。もしジタバタ騒ぎ立てる節には、エビの絵は永久に返却せられざるものと心得られたし。以上。林十一郎拝』とあり、二伸として『林十一郎も余の偽名なる故、探索するはムダなり』と記してある。僕が思わず、
「やりやがったな!」
と大声で叫んだので、ソバ屋のお客が皆箸を止めて僕の方を見た。僕は恥かしくなってこそこそと身体を縮め、ふたたびツルツルとモリソバを食べ始めた。林の奴は、昨日僕がウナギ屋の席を外した時に、すでにエビの絵の持ち出しの成功を確信して、こんな文章を書き綴ったに違いありません。そんな大それた奴のウナギの勘定まで、わざわざ自発的にこちらで支払ったなんて、なんという僕はお人好しなのでしょう。腹が立ってきたからまた箸を置いて、僕は左右の拳固(げんこ)で自分の顔をゴツゴツと殴りつけたら、またソバ屋中のお客が面白そうにまた気味悪そうな眼付で僕を見た。狂人かと思ったのかも知れません。そこで僕も自分を殴るのは中止し、それにもう食慾もなくなって来たものですから、四つ目のモリソバは半分ぐらい食い残し、こそこそと勘定を済ませてQ画廊に戻ってきた。控え室に入って腕を組み、ふうと大きな溜息をついた。今日で五日になるというのに絵は一枚も売れないし、囮(おとり)戦術の売約済みのエビの絵は、巧妙にたくらまれたペテンにひっかかって、何処かへ持ちさられてしまった。くさらざるを得ないではありませんか。
あのエビの絵は、先ほど申しました通り僕としては上出来でなく、持って行かれても大した損害ではないのですが、だまし取られたということが面白くない。よし、警察に届けてやろうかとも思ったのですが、まあまあ事を荒立てず、しばらく様子を見て、絵が無事に戻ってくるかどうか、あわよくば僕の手で林十一郎の頸(くび)根っこをギュウと押えてやりたい、などと考えているうちに、翌日になりました。すなわち六日目です。その六日目の午後一時頃、乗用車でQ画廊にぐいと乗りつけて、そしてつかつかと入ってきた若い女性がいる。乗用車で乗りつけてくるようなのは初めてですから、僕もびっくりして控え室からのぞくと、しゃれた洋装の美人で、帽子からネットを顔に垂らしている。歳は二十四五くらいでしょうか。その女性が乗用車を乗り捨ててさっそうと会場に入ってきたから、田辺がびっくりしたらしく僕の脇腹を小突いてささやきました。
「おい、おい。すごいのがお前の絵を見に来たぞ」
田辺というのは僕の画の仲間で、丁度(ちょうど)その時画廊に遊びに来ていて、控え室で僕と世間話をしていたのです。僕も思わず、おお、すごいな、と口から出そうになったが、なにしろ田辺は画の仲間であると同時に競争相手でもあるのですから、ここぞとばかり丹田に力を入れて、平然たる声で、
「うん。俺の絵は割かた若い女性に人気があるんでね、あんなの、毎日三人や五人はやって来るんだよ」
と言ってやりました。件(くだん)の女性は僕の絵を一枚一枚、気に入ったらしく首をかしげたり、近づいて絵具の効果をしらべたり、次々丹念に鑑賞して行く風でしたが、れいのエビの絵のあったコーナーまで行くと、ふっと立ち止って不審そうに両側の絵を見くらべています。配列上どうしてもそこにはもう一枚かけられてあるべきところですから、いぶかしく思ったに違いありません。あまりしげしげとそこらを見廻しているものですから、個展主としても僕は説明の義務を感じ、立ち上ってつかつかとその女性に近付いて行きました。僕の足音でその女性はふり返った。
「僕が早良十一郎です」
と僕は名乗りました。昨日みたいな夏服の正装でなく、よれよれワイシャツの腕まくり姿だったことは、少からず残念なことでした。
「ここにはね、も一枚絵がかかってる筈なんですけれどね。事情があって取り外(はず)してあるのです」
「ああ、あなたが早良先生でいらっしゃいますか」女性は涼しげな声で言いました。「そうでしょうねえ。ここだけ壁面がポッカリあいていますものねえ。あたし、室内装飾の方をやってるもんですから、ちょっとこの壁面の空きが気になったんですのよ。で、その絵は売れたんですの?」
「いいえ。売れたならいいんですが、複雑な事情がありまして――」立ち話もなんですから、と僕は彼女を誘った。「さあ、ちょっと控え室にお立ち寄りになりませんか。貴女みたいな室内装飾の専門家に見てもらえるのは、僕としても光栄です」
すると彼女は誘いに応じて、トコトコと控え室の中へ入って来ました。そこで僕は控え室に頑張っている田辺に、
「おい、君。そこらの喫茶店からつめたい飲物を二人前、至急運んで来て呉れ」
もちろんこれは田辺を控え室から追い出すための発言です。田辺は僕から書生あつかいされて、頰をぶうとふくらまして、しぶしぶ控え室を出て行きました。
彼女は僕に対して椅子に腰をおろし、暑そうに顔のネットをかき上げました。
「実はねえ」と僕はものものしく声をひそめました。「あの絵は盗まれたんですよ」
「盗まれた?」彼女はすっかりおどろいた様子でした。
「ええ。そうなんですよ。それが実に大胆不敵な、細心綿密な、まるでルパンか何かのような怪盗で」
それから僕はあの林十一郎の出現、ウナギ屋の件、十一郎会の件、杉並区東田町の件、ソバ屋において紹介状を開いた件などを、彼女にくわしく話してやりました。彼女は美しい眉をひそめたり、低声で相槌(あいづち)を打ったり、うなずいてみたり、実に熱心に僕の話を聞いて呉れました。
僕がこんな美しい女性とじっくり話し込んでいるものですから、絵具売場の方からヒロちゃんが気にして、ちょくちょくのぞいては僕をにらんだりしています。ざまあ見ろと思って、たいへんいい気持でした。
「ツケヒゲなんかして現われたところは、全く計画的なのねえ」僕が話し終ると、彼女は嘆息するように言いました。
「でも、よくツケヒゲをお見破りになれたのねえ」
「そりゃ僕は画描きだから、物を見る眼は常人以上にするどいですよ」
「そうでしょうねえ」
彼女はうれわしげに眉をひそめて、僕を斜めに見上げるようにした。僕は美女から感嘆されたような気がして、いい気持だったですな。
「で、この事件、警察にお届けになったの?」
「いや、警察になんか届けませんよ」と僕はしずかに煙草をくゆらした。「まるまる盗まれたとしても被害は僅少ですしね。それに相手が今後どう出て来るか、絵を戻すか戻さないか興味を持って眺めているんですよ。それに現在の警察なんか、あんまりあてになりませんからねえ」
そう言って僕が平然と煙草をくゆらしているものですから、彼女はますます感服した風でしたが、ちらと小型の腕時計を見て、
「あら、時間だわ」と小さく叫んだ。「室内装飾の会が二時から開かれるので、今日はこれで失礼しますわ。見残した分はこの次見に来ることにするわ」
「そうですか。またどうぞ」
彼女はネットをおろし、トコトコと画廊を出て行こうとしたが、ふと思い直したように立ち止って、感想うけたまわり帳の前に行き、何かすらすらと書きつけたようでした。そして待たせて置いた乗用車に打ち乗り、さあっと午後の街を彼方に消えて行きました。僕は直ぐ入口のところまで小走りに走り、うけたまわり帳をのぞいて見ると、
『先生の寛大にして広漠たる心境が、それぞれの絵によくあらわれていて、たいへん感心いたしました、ますます御精進のほどを。一女性』
そう書いてあった。寛大にして広漠、とは、僕の性格をよく言い当てていて、僕の方も彼女の眼のするどさに少からず感心しましたな。
「それで、そのエビの絵、戻って来たのかね」と僕は訊ねた。
我が家の安ウィスキーを、二人でほとんど一本あけたから、早良十一郎君の額や頰ももうすっかりあかくなって、言葉つきも舌たるくなっている。
「ええ戻って来ましたよ。個展の最終の日にね」
「当人が持って来たのか?」
「いや、当人じゃないです」早良君は掌をふった。
「アルバイト学生のメッセンジャーボーイだったですな。そいつがエビの絵と、化粧箱入りのウィスキー一本を運んできた。誰から頼まれたんだと訊ねたら、それが全然判らないんです。通りがかりの紳士に託されたとか何とか言うんですがね。ウィスキーについていた手紙を読んでいるうちに、そのメッセンジャーボーイはふっと画廊から姿を消してしまってね、気がついたらもう何処にもいないんですよ」
「へえ。それは早良画伯に似合わぬ不手際だったな。それでその手紙には何と書いてあった?」
「あんまり面白くないので、破って捨てましたけどね」早良君はまたグラスを口に持って行った。「まあその手紙の文言が本当かどうか判らないんですがね、実業家仲間の素人の絵の会があって、それに課題としてエビの絵というのが出たんだそうです。何だかずいぶん多額の賞金がかかっていて、その林十一郎なる人物は、その賞金が欲しかったと言うんですな。ところが自分で描くには自分の力量に自信がないし、それで偶然見た僕の個展のエビの絵を利用することを考えたが、すでに売約済みの赤札が貼ってある。そこであんな手段を弄して持ち出した。まことに済まなかったという文言でしたがね」
「へえ。たかが素人の画会に出品するために、なかなか手のこんだことをしたもんだね」と僕は疑わしく言った。「その林十一郎という奴は、実業家か重役か知らないが、そんなインチキまでして賞金が欲しかったのかな」
「そうでしょうね。今は極端なデフレで、実業家と言えども現ナマを手にしたがっていますよ」
「実際にその画会に出品したのかな。そしえその賞金は?」
「出品したことは出品したらしいです。僕のサインが消してあったから。サインを消して自分のサインを描き込み、そしてまたそれを消して送り返してきたらしいのです」
そして早良君は面白くなさそうに舌打ちをした。
「賞金は取れなかったらしいですな。その手紙の最後に、貴下の作品はあまり上出来ならざりし為、賞金は逸したるも、絵の借用料ならびに警察に届けざりし御好意を謝して、ウィスキー一本をお届けする、なんて書いてありましたよ。全くバカにしてやがる。玄人(くろうと)の僕の絵が、素人の画会で入賞しないなんて」
「それはきっと、選者の目が利かなかったんだろう」と僕は早良君をなぐさめた。「それで林十一郎は、どうして君が警察に届けなかったことを知っているんだろう」
「それですよ」早良君は膝を乗り出した。「どうもあの翌日やって来た美人が径しいと思うんです。あの女はきっと林十一郎に頼まれて、様子を見に来たんじゃないか。警察に届けたかどうか、探りに来たんじゃないかと思うんですよ。その翌日また見に来ると言って置きながら、それきり姿を全然あらわさなかったし、前後の事情を考えると、どうもあの美女はスパイだったらしい。あんな美しい女がそんなことをするなんて、僕も考えたくないんだけれど、僕の最終的な推理としてはそうですな。全くもって油断もすきもない世の中だ」
そして早良君は瓶に手を伸ばしたが、もうそれは空になっていたので、ちょっと眼を宙に据(す)え、そばの風呂敷からごそごそと自分のウィスキーを取出した。
「ついでにこれもあけますか。毒なんかは入っていないと思うけど」
「それがそのウィスキーか。それはしまって置きなさいよ。これ以上飲むと二日酔をするよ」と僕はさし止めた。
「それで十日間個展をやって、絵は何枚売れた?」
「一枚も売れませんでしたよ。収入としてはこのウィスキーが一本だけです。現在の不景気は予想以上に深刻らしいですな」
早良君は憮然(ぶぜん)としてそう嘆いた。
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